大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第169回

2020年07月31日 22時28分23秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第169回



「紫さま、こちらへ」 此之葉が言う。

爆弾投下をしたあとに、それはもう色んな話、質問があった。 どんな疑問を投げかけられようが、事実は事実なのだから、それまでと言った。 そして、一番の証拠だろうと、母親の早季から聞いていた祖母が祖父にプロポーズをした時の話をした。

六人がアングリと口を開け、領主が倒れそうになったのを阿秀が支え、塔弥がまた涙に暮れ、此之葉もまた静かな涙を流していた。


先の紫も当時の塔弥もあの地のことは全く分からなかった。
たまたま洞窟に入ってきた島民が大怪我をしている二人を抱え、島の医者に診せた。 その後、沖縄本島で治療することとなり、治療を終えると本土に移され、記憶喪失としてあの地に受け入れられた。

数年して あの地のことを知りつくした塔弥が施設に入っていた先の紫を引き取った。
紫揺の祖母である紫に幸せな時を送ることが出来る様にと、働いていた会社の心根の良い同僚を伴侶候補として何人も紹介した。 そしてし尽くした。 祖母である紫の返事は全て “否” だった。 当時の塔弥がどうしたものかと、手をこまねいていた時にとうとう祖母が言った。

『どうして塔弥ではないのですか? 私には塔弥以外おりません。 他の誰でもありません』 そう言ったのだと聞いている。

話が丸く収まったつもりの紫揺と、お付きが紫と結ばれることを禁止されていることから、どこにどんな感情を持って行けばいいのか分からない六人と領主と阿秀であった。
塔弥はただひたすら涙を流していた。


領主たちの質問から解放され、昼ご飯を食べた後、民への顔見せが始まった。

此之葉に導かれながら紫揺が移動する。 僅かな紫揺の姿を見つけた民が声を上げる。 それに釣られて紫揺を見ようと民が押し寄せる。 遠方からも民がこの場所に集まって来たと聞いている。 一目でも紫を見たいと。
大群衆の前に紫揺が壇上に上がった。 悲しくもGパン姿で。
一度でもアイドルやスターの経験があれば、手の一つも振れただろうが、そんな経験などない。

「此之葉さん・・・」 助けを此之葉に向けるが「笑顔でいて下さればそれだけで」 と、紫揺にとって超難関の提案を出してくれた。 だが今はその提案に応えるしかない。 引きつった笑いを振りまく。

「紫さま、自然でよろしいので」

まるでヒキガエルのような顔になっている紫揺に此之葉が言うが、紫揺にはもう何も聞こえない。

悲しきヒキガエル。

だが、民はそんな紫揺や此之葉の心の内など知らないし、ヒキガエルの紫揺の顔を見てもそんなことはどうでもいい、何十年と待った代々から聞く紫の姿がそこにあるのだから、歓声を上げるだけであった。

紫揺が姿を消した後は盛大な祭が行われた。 特に急ではあったが、領主からの宣言があったにもかかわらず、紫揺が倒れてしまってそれが伸びたのだ。 東の領土は何十年と忘れられていたこれまでにない祭となった。


「お疲れになられましたでしょう」

あ、と言って紫揺が飛び起きた。 お行儀悪く大の字に転がっていた。
此之葉の手には夕飯を載せた盆があった。 此之葉はちゃんと声を掛けて戸を開けたのだったが、ほぼ放心状態の紫揺は気付かなかった。

「あはは・・・」

むなしい笑いでお行儀の悪さを誤魔化す。

「祭は明け方まで続きますので、今夜は少々お眠りの妨げになるかと思います」

そう言いながら盆から二人分の夕飯の皿を一つずつ机に置いていく。

「え? そんなにですか?」

この家から離れた所で祭をしているのにもかかわらず、今も尚、音楽や楽し気な声が聞こえてきている。

「明け方まで続いて、ひと眠りしたあとは、また昼過ぎから祭が行われます。 それが三日続きます」

「は? 三日? 三日ですか?」

「民はそれでは足りないと思っています」

いや、意味分りませんけど? そう言いたかったが、言葉を変えた。

「どうしてそんなにお祭をするんですか?」

「民は・・・民が何十年と・・代々から聞いていた紫さまがお姿を現されたのです。 民が幸せに包まれた祭ですので」

「紫って・・・」

あとの言葉が続かなかった。
此之葉が察したのか一つ頷いた。

「この領土にとっての、民にとっての紫さまを想い慕う気持ちです」

この領土に来てつい数時間前に想像も出来ない事、思いもしないことを感じた。 だが当初、どうしてもこの領土が北ではないのか、北が策謀して再度北の地に来たのではないかと思っていたが、今はそれが全く取り払われている。

塔弥の涙を見たことに始まり、民といわれる人たち、それが北とはまるで違っていたのだから。 これがテレビでいうところのドッキリであれば有り得るかもしれないが、あれほど多数のエキストラを雇われる程の有名人ではない。

「・・・」

自分の気持ちを固めなければいけない。 分かっている。 フラフラしていてはいけない、と。

「いただきます」

両手を合わせて目の前に置かれた夕飯に手を合わせると、紫揺に遅れて此之葉が自分の為に置いた夕飯にお辞儀をした。


翌朝、朝食前に此之葉が紫揺の部屋を訪ねた。 戸の前で声を掛けるが、昨日夕飯を持ってきた時と同じように返事がない。 昨日の疲れからまだ寝ているのだろうかと、そっと中の様子に耳をそばだてた。
すると紫揺がなにやらブツブツと言っているのが聞こえる。 寝言ではないだろう。

「芦生・・・うーん、違う」

芦生は “あしゅう” と読めるがどちらかと言えば “あしう” と読んでしまう。
他に浮かんだのが世界地図で言うところの “亜州”。 次に阿波の国の異称である “阿州”。 だがどちらもピンとこない。

「亜種・・・って、これじゃ “う” が抜けてる」

亜種とは生物の分類区分。 さすが元飼育係。

「あーあ、北の時にはすぐに浮かんだのになぁ」

名前覚えの悪い紫揺が名前を覚える時に使う手であった。

ムロイは “室井” セノギは “瀬ノ木” 友達の中にいた苗字と同じだったからすぐに思い浮かんだ。 そしてニョゼは “如是” ウダは “宇陀” 友達から聞いたことのある地名で、印象が強かったので覚えていた。 ガザンにおいてはすぐに閃いた “我山” と。

人の名前をなかなか覚えられない紫揺は漢字で覚えるようにしていた。 漢字で覚えると漢字からイメージが広がってすぐに覚えられるからだった。
セキは残念ながら何も浮かばなかったが、カタカナで十分だった。 それにカタカナが一番可愛かった。

「それに此之葉さんも葉月ちゃんも」

昨日、ついウッカリ阿秀のことを “セノギモドキ” と言いかけたのだから、しっかりと覚えなければいけない。
此之葉が紫揺の声が途切れたところでもう一度声を掛けた。

「紫さま」

「あ、はい」

飛び起きた。 またもや寝そべっていたのだ。

「此之葉に御座います」

分かっていますとは言えない。 「どうぞ」 と応える。

部屋に入ってきた此之葉が領主から話があると伝えるが、その時間を紫揺に決めて欲しいということであった。

「いつでもいいです」

退屈しているくらいなのだ。 なんの予定もない。

「では、朝食後ということでよろしいでしょうか」 と訊かれ 「はい」 と応えたが、その後に此之葉から質問が飛んできた。

「何かお困りごとがおありでしょうか?」

「え? どうしてですか?」

「先程何か仰っておられたようですので」

一人でブツブツ言っていたのがバレたのだと分かった。 よし、ここは正面切って訊こう。

「此之葉さんってどんな字を書くんですか?」

そう訊くと、此之葉が指で書きながら説明をする。

「此れや此処といった字と、之と書いて最後は葉です」

(当たってた)

「じゃ、葉月ちゃんは此之葉さんと同じく、葉っぱの葉にお月さんの月?」

「そうです」

「思っていた字と同じです」

「まぁ、嬉しい。 ですが、どうして急に?」

「昨日、男の人たちのお名前を聞いたけど、なかなか覚えられなくて。 それで漢字で覚えようとしたんですけど、上手く浮かばないんです。 あ、塔弥さんは分かっていますよ。 祖父と同じですから」

「そうでございましたか。 それでは紙に書いてお持ちします」

心の内で、お付きの者達の名前を覚えようとして下さっているのだ、と感慨深いものを感じながら退室した。

他の女たちもいる一室に入ると、墨と筆と紙を卓に置いた。 何をするのかと女たちが寄ってきた。

「此之葉、何を書くの?」

此之葉が紫揺に付いていることは誰もが知っている。 此之葉が何かするということは、それは紫揺に繋がると考えている。

「昨日、一度にお付きの者の名前を聞かれたのだけれど、なかなか覚えられなくていらっしゃるようで、漢字でなら覚えられるそうなので」

女たちが目を合わせた。 女たちも昨日の壇上に立った紫揺を見ている。 民はそれだけで良い。 お付きたちのように自分の名を名乗らないといけないなどといったことは必要ない。

此之葉が阿秀たち七人の名前を書く。 塔弥は必要ない。
片付けを始めようとすると、女たちが片付けておくと言ったので、まかせることにし、再度紫揺を訪ね紙を渡し戻ってきた。 すると女たち全員が自分の名を書いた紙を持って、あることを懇願してきた。 此之葉は苦笑するしかなかった。

此之葉が紫揺に名前を書いた紙を渡した時「昨日、名を名乗った順に書いております」 と言っていた。 それは大助かりであった。 名前と顔が一致しているのは阿秀と悠蓮だけだったのだから。

阿秀を先頭に紫揺から見て左から右に名を名乗っていた。 顔は覚えている。 おぼろ気にだが。

「阿秀ってこんな字を書くんだ。 ふーん、頭よさそうだったもんね。 その次が鍵を渡してくれた人。 へぇー、悠蓮ってこんな漢字を書くんだ。 優しそうだったから似合ってるかも」

そして湖彩、野夜、若冲、梁湶、醍十と読んでいく。

「絶対にだれの漢字を考えてもハズレだったな」

一人として当たらなかっただろう。

「梁湶さんなんて、身体の大きさからして “稜線” くらいしか思いうかばないもん。 それに “醍醐” 天皇が居るくらいだから醍十があってもおかしくないとは思うけど “醍五” 天皇とは書かないし。 ああ、余計なことを考えたら覚えられなくなる」

要らないことを考えて頭が混乱しそうになってくる。
ゴロゴロとしながら紙とにらめっこを始めた。 どれだけ経った頃だろうか、仰向けに寝転び紙を持つ手を横に置き、目をつぶると頭におぼろ気な顔と体格を思い浮かべて名前を呼ぶ。 それを何回も繰り返して、パチリと目を開けた。

「よし、完璧」

後転倒立で起き上がる。

開け放していた窓。 何かが動いたと思い湖彩と野夜が窓から見たのは、逆さまになった紫揺の下半身。 それが片足ずつゆっくり下り、上半身が定位置についた。
二人が目を合わせる。

「お部屋の中でもじっとはしておられないご性格のようだな」

「だな」

此之葉が紫揺の部屋に来た。 てっきり朝食も一緒に持ってきたのかと思ったら、その手には何も持たれていなかった。

「・・・その」

と、何か言いにくそうにしている。

「なんでしょうか?」

「申し上げにくいのですが・・・」

「はい?」

「その、女たちが・・・。 女たちが、紫さまと共に食をとりたいと申しておりまして」

「・・・」

人見知りの紫揺の充電が切れたように止まった。

「あ、あ。 申し訳ありません。 すぐにこちらにお持ちします」

「・・・」

「紫さま? 大丈夫でございますか・・・?」

「あ・・・はい」

復活したか?

「ではお持ちします」

「あ・・・いいです。 うん。 はい」

接触不良を起こしているようだ。

「あの?」

返事の意味が分からない。

「あ。 えと」

壊れたか?

「紫さま?」

「あの!」

ボリューム最大、最後の灯火か?
此之葉が驚いた。

「あ、ごめんなさい。 大きな声出して。 あの、皆さんと食べます」

完全復活したようだ。

「ご無理なさらなくてもよろしいのですが」

「いえ。 ここに居る間は出来るだけのことをします」

此之葉が一つ口を引き結んだ。 紫揺が頑張ろうとしてくれているのが分かったからだ。

「では、こちらへ」

先ほどの女たちの居た部屋に案内する。 戸が開けられるとそこには長い卓が置かれ、既に数人分の朝食が乗っていた。 部屋の隅では女たちが座して低頭している。

座布団の数は九枚。 長い側面に四枚ずつ、短い側面に一枚。 此之葉がその短い側面に紫揺を案内する。 此之葉は紫揺の左手に当たる長い側面に置かれている座布団に座る。 すぐに女たちも席についた。

その女たちの胸元に目がいった。 前合わせのお仕着せ。 その胸元に紙がはさんであり、そこから文字がのぞいている。

「あれは?」

「あちらで言うところの名札でございます」

此之葉もシノ機械に入って名札をつけていた。

「紫さまにお名前を憶えて頂きたくて名札を胸に置いているようで御座います。 お気になさらず、冷めないうちにどうぞ」

「あ・・・はい。 じゃ、いただきます」

手を合わせた後に箸を持つと、一人ずつの名札を見た。

「気楽になさってください」

此之葉が紫揺に言うと、女達が互いを見あう。

「はい。 えっと、皆さんは何をされているんですか?」

気を使って訊いたのではない。 単に疑問が生じたからだ。 北で言うところの使用人などと言われれば気分のいいものではないが。

「きゃぁ」 と言う抑えた答えが返ってきた。
喜び合いながら互いを見ている。 手を繋いでブンブン振っている者さえいる。 紫揺の声が聞けたことに対しての反応だった。

「えっと・・・」

どうしたものかと此之葉を見た。

「紫さまのお声が聞けただけで喜んでおります。 ですが・・・」

歎息を吐きながら女たちを見た。

「紫さまの重荷になっては・・・」

「重荷なんてことは無いです」

もうここにきて分かっている。 自分は紫だということは。 その責がどれ程のものかは分からないが。

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虚空の辰刻(とき)  第168回

2020年07月27日 22時01分15秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第168回



(あの安堵は、そういう事だったのか)

一つ溜飲が下がった。

(ああ、そうだ。 そうだったのか)

分らぬ男たちから追いかけられた時、ずっと付いてくれていたのは塔弥だ。 捕まりそうになっては塔弥が守ってくれていた。 そう、あの時も。

急に紫揺が話し出した。

「分かりました、今分かりました。
祖母が安堵したのは、祖母を助けて血だらけになって動かなくなった塔弥さんが目を開けたから。 お婆様は何度も塔弥さんの名前を呼んだのに返事がなかった。
塔弥さんは瀕死の状態だった、でも穴をあけたお婆様を引き上げてくれた。 そして目を開けてくれた、お婆様に大丈夫かって話しかけてくれた。 だからお婆様は安堵した」

どこか一点を見ながら言っているが、それが何処なのかここに居る者には分からない。

「逃げていた塔弥さんと祖母が四人に取り囲まれました。 それまでにも取り囲まれていましたが、その時は塔弥さんが一人を蹴って道を開け、祖母に逃げるように言いました。 祖母は自分が逃げるしかないのだと思い、走ったのですが、すぐに他の人に捕まりました。
さっき言いました力を使ったのはこの時です。 祖母が腕を掴まれ相手の腕に閃光を走らせましたが、その力はまだ弱かった。 だから相手の致命傷にはならなかった。
祖母の声を聞いて塔弥さんが祖母の元に走ってきていました。 あと数歩という所で、閃光を受けた相手は咄嗟に手を離したものの、逃げようとした祖母の肩を掴みました。 その時に祖母が足を踏み外して崖から落ちたんです。
塔弥さんが祖母を追って崖を跳び下りました。 落ちていく祖母を捉えると、祖母を抱えながら途中に生えていた木や岩に当たりながらも、あの穴の横に出っ張っていた岩につかまりあの穴に入ることが出来ました」

祖母が安堵を覚えたことからここまでを、一気に話した。

「すみません、お話が前後して」

と、一般庶民的な声音で言うが、それはさっきまで滔々(とうとう)と話していたものとは全く違うものだった。
塔弥が目を瞠って聞いている。

「最初に話したのは、私の断片的な記憶に塔弥さんの名前が入り込んで、理解できたという形でしたけど、お婆様が追われた・・・。 ああ、十年に一度咲くお花を見に行かれたんですね。
お婆様はとてもそのお花が気に入られたようです。 可憐で柔らかい紫色。  お婆様はこの紫色のお花を、お婆様の名にちなんで民が見せたかったのだとすぐに分かったようです。
あ、すいませんお話が脱線して。 そう、今のようにお婆様の感情が流れてくるんです。 追われていた時のことも全部わかりました」

塔弥を除く誰もが悄悄(しょうしょう)とし、反対に紫の持つ力に感得さえしていた。

紫揺が前に居る八人を見回し、まるでそこに祖母が居るようにコクリと頷く。

「祖母をお守りしていただき、有り難うございました。 祖母も皆さんのご先祖様に感謝をしています」

深く頭を下げた。
そしてもれなくついてくる異音。

ゴン。

「紫さま!」

此之葉が悲鳴に似た声を出す。

思いっきり机に額を打ちつけてしまった。
今の紫揺の言葉への感情を持つ暇さえなく、領主と八人が間の抜けた顔をする。

(どうして・・・こんな時に・・どうして・・・)

ゴンと言わせたままの格好で止まっている紫揺。 これは簡単に顔を上げられない。 どんな顔をしてあげろというのか。 そう思ったが、今の話を考えると気付いたところがあった。

(あ・・・ちょっと待って・・・ってことは)

顔を上げた。 それも平気な顔をして。

「お婆様は一人じゃなかった?」

唐突に顔を上げた紫揺を見て、阿秀が顔を引き締め、塔弥が思わず上げていた顔を僅かに下げ元の位置に戻し、他の六人はそれぞれに明後日を向いた。 そして領主は顔を左右に振り、今耳にした音は無かった事にし、大きく頷いた。

「そのようです。 紫さまにその昔にあったことをお話した事でございますが、私は先の紫さまのことしか申しませんでした。 ですが、あの場所からもう一人居なくなった者がおりました。 それがこの塔弥の曾祖叔父です。 ですから、塔弥の曾祖叔父の代で直系が途切れました。 この塔弥は曾祖叔父の弟の血筋に当たります」

「あ!」

そう言われれば、自分は祖母のことばかり考えていた。 だが、そうでないものがあったではないか。

「ちょっと荷物を取ってきます」

立ち上がった紫揺を止めたのは領主だった。

「お荷物とは?」

「領主さんの家から葉月ちゃんに持ってきてもらった風呂敷です」

「阿秀」

呼ばれた阿秀が頷きその場をたった。

「阿秀に取りに行かせますのでお座りになってお待ちください」

紫揺に言うと、次に此之葉を呼んだ。

「此之葉、塔弥に茶を淹れてやってくれ」

此之葉が頷くと茶を淹れに場を退いた。
領主が塔弥に目を移す。

「塔弥、曾祖叔父の行方が分かったな。 最後まで紫さまをお守りしていたのは曾祖叔父だったんだ」

塔弥が深く頷いて応える。 もちろん異音はしない。

紫揺はまだ言っていないことがあった。 祖母から感じたことではない。 紫揺が気付いたことだが、それを言うにはまだ何の確証も確信もなかった。

「塔弥は曾祖叔父に、もちろん会ったことなどありませんが、ずっと胸に引っかかっておったのです。 当時は何よりも紫さまでありましたから、塔弥の曾祖叔父を探すのは二の次になっておりました。 ですが紫さまをお探しするのが終わらなければ、二などありません」

そう指示をしたのは時の領主であった。 阿秀の曾祖父は異を唱えることが出来なかった。 仲間を探す時を紫探しの時から裂くことが出来なかったからだ。 この話しを阿秀に聞かせたくなかった、だから阿秀に席をはずさせた。

「阿秀は祖が紫さまをお守りできなかったことも、塔弥の曾祖叔父を探すのは二の次だということに異を唱えられなかった事もずっと気にしておりました。 これで塔弥はもちろんのこと阿秀の胸のつかえも取れたことでしょう」

それは良かったと、紫揺が頷いてみせたがまだある。

此之葉がそっと塔弥の前に湯呑を置き、座るように促した。

「今、アシュウさんに取りに行ってもらっているものを皆さんにもですけど、塔弥さんにも見て欲しいんです」

領主への返事ではなく、次へのことを紫揺が言う。 紫揺も知りたいのだから。 確信が欲しいのだから。
塔弥が顔を上げると、どうして? と言わんばかりに首を傾げ椅子に腰を下ろした。

「合っているといいんですけど」 と一言いい、残っていた茶を飲み干した。

ほんの僅かな時を誰もが無言で湯呑を持ったり、下を向いたりしていた。 そこへ阿秀が風呂敷を持って戻ってきた。

「有難うございます」

受け取ると立ち上がり、風呂敷を置いた。
全員の目が風呂敷に注がれる。 席についた阿秀は見た目ほどではないその軽さを知っていた。
紫揺が結び目を解き風呂敷を広げた。

「え?」

誰もが言った。

一番上に置かれていたのはアクセサリーだった。 そのアクセサリーとストラップを一つずつ並べる。 次に着物に似た破れて汚れている服と帯。 それを広げる。

「これは!」

領主と此之葉が同時に言い、それらから目が離せない。
返事をすることなく紫揺は次の物を手に取った。 今度は広げることなく、テーブルを挟んで塔弥の前に立ち、それを手の届く限り前に押した。

「塔弥さんに見て頂きたいのはこれです」

塔弥が手を伸ばしてそれを手に取るとゆっくりと広げた。 こちらも破れて汚れている。 紫揺は気付かなかったが、その汚れが血であることが分かる。 何度洗っても落ちなかったのだろう。

「・・・これは」

服を見ていた目で紫揺を見た。

「家にありました。 さっき領主さんが、塔弥さんは曾祖叔父さんにお会いしたことがないと仰っていましたけど、この服をご存じありませんか?」

「・・・この服はその昔、紫さまにお付きする者の服でした」 

領主の手が震えている。

「塔弥、確認を」

言ったのは、塔弥の横にやって来た阿秀であった。
塔弥が片手に持っていた帯を阿秀が手にすると、帯の端に目をやった。 言われた塔弥もすぐに服を広げ、上着の前合わせ部分の裾を見る。

「あった」

阿秀が塔弥に帯の端を見せた。
塔弥が思わず口を押えた。 嗚咽を漏らさないように。 止めることも出来ない程に一瞬にして涙が溢れ出てきた。

「こっちもあった」

梁湶が下穿きの方を見ていた。
塔弥の目は今は使い物にならない。 阿秀が上着の合わせの部分の裾を見るが、汚れがひどくどこにあるのか判別がつかない。

「俺に任せろ」 と、塔弥の横に居た醍十が阿秀から上着を取り上げると「ん―――」 と言いながら目を皿にしてみている。 両サイドに梁湶と若冲もやってきて目を細めながら見ている。
野夜、湖彩、悠蓮は既に確認されていた帯と下穿きを見て 「間違いない」 と言っている。

領主は先の紫のアクセサリーを手に持ち、此之葉は机に広げられた服のすみを持ちながら醍十を見ている。
その様子を見守っていた紫揺に阿秀が説明をする。

「私達にはそれぞれ紋があります。 向こうで言うところの家紋のようなものです。 私達の服にはそれぞれの紋が印されています。 帯と下穿きの紋は間違いなく塔弥の紋です」

「あったぁー」

醍十が阿秀の説明に覆いかぶさるように言う。

「どこだ?」

若冲と梁湶が顔を寄せて覗き込む。

「ここ、ここに塔弥の紋が見えるだろぉ」

醍十が指さすところを見るが、なかなか紋には見えない。

「目が腐ってんじゃないか? ほら、ここにこうして」

太い指で紋の形をなぞるが、太い指がピクピクしているだけにしか見えない。
此之葉が小筆を持ってきた。 それを受け取ると、汚れた血の後がほんのうっすらとしている所に筆をおき、紋の形を筆でなぞった。

「あ! 見えた!」

梁湶と若冲が同時に言った。

「間違いない! 塔弥の紋だ!」

ズレもなくデュオを完成させた。

「塔弥の曾祖叔父は、紋のところを一生懸命洗ったんだな。 だからここだけが血の汚れが薄れてたんだろうな。 紋って大事だもんなー」

何の確証もないが、塔弥の曾祖叔父がしたことを醍十が代弁する。

「塔弥、見つかったな」

阿秀が滂沱の涙を流す塔弥の背を何度も撫でる。

先ほどの紫揺の話を疑っているわけではないが、それでもこうして証拠となるものが目の前に出されると違ったものがある。 

席についた紫揺が空になっていた湯呑をそっと手で包む。

(絶対に間違いない・・・)

「先程の紫さまのお話では、塔弥の曾祖叔父は瀕死状態であったということでしたが、無事だったかもしれないということでしょうか?」

藁をもつかむように領主が問うが、紫揺は領主を見ない。 塔弥を見ている。 その塔弥はまだ下を見て手で顔を覆っている。

「塔弥さん、塔弥さんが落ち着かれたらお話があります」

領主に返事をせず、話を別方向に進めようとしている。
まだなにがあるのだ、と領主と阿秀が目を合わせ、六人もそれぞれに目を見遣った。

塔弥が分かった、と言う風に頭を上下させるが、積もり積もった涙。 当分は引きそうになかった。

「このアクセサリーと、服はお婆様の物で間違いありませんか?」

顔を左右に振り、領主と此之葉を順番に見る。

「間違いありません」

答えたのは此之葉だった。

「こちらの衣は、あの日の季節に紫さまが着られる衣です。 腕輪も首飾りも髪飾りも同じようなものが残っています。 そしてこちらは、あちらでお話した紫珠(しじゅ)だと思います」

紫珠には触れていない。
紫珠を見たことはないと言っていた。 聞いただけだと言っていたが、これだけ証拠が揃えば間違いないであろう。

「紫さまの衣も裂けて・・・これは汚れではなく血・・・」

此之葉が悼むように服を撫でた。
その此之葉の様子を見て領主は言葉がないといった具合だ。 塔弥の曾祖叔父の服についている血は、それは先の紫を守った証でもある。 だが、先の紫がこれほどまでに傷を負っていたとは。

男たち六人は自分自身を整理しきれなかった。
塔弥の曾祖叔父のことが分かった、それは塔弥のことを思うと愁眉を開くことができるが、それとは別に服に残っていた破れたあとと血痕。 これ程の血を流していたのかと思うと慨歎(がいたん)し、先の紫の服を見ては哀惜し悲憤する。 そして北の領土への陋劣(ろうれつ)怨嗟の思いが沸き起こる。

無言の時が流れた。 此之葉が茶を入れ替えるために席を立つ。 

「領主さん」

「はい」

「お婆様が仰ったんです。 ・・・東の領土を頼みます、と」

「・・・それは」

「領主さんは、今日を限りに私がここに来ないと思ってらっしゃいますよね。 ・・・そうかもしれんせん。
あの時、怒りに任せて此の地に居ると言いました。 領主さんが宥めて下さって、まずは一度この領土の方に顔合わせをして、ゆっくりと考えるようにということを言っていただきました。 そこには乗ります。
一度、こんな顔ですが、顔合わせを終わらせてから家に帰りたいと思っています。 でも領主さんの考えておられるように、今日が最後とは今は考えていません。 ・・・祖母の言葉がありますから」

「・・・紫さま」

「でもまだ、グラグラと心が動いていますから、なに一つ言い切ることは出来ませんけど」

領主に今できることは立ち上がり、頭を垂れるだけしかなかった。

此之葉が一人ずつの前に新しく淹れた茶を置き、先に出していた湯呑を下げる。 最後に塔弥の前に茶を置いた。

「塔弥、落ち着いた?」

顔を覆っていた手を下げていた塔弥が、何度か上下に頭を振る。 だがまだ静かな涙が頬を伝っている。

「紫さまのお話を聞ける?」

一度、頭を上下に振った。

此之葉が紫揺を見ると紫揺が頷いた。 持っていた湯呑を口に運ぶと一口飲んでテーブルに戻す。
此之葉の声は紫揺だけにではなく、この場にいる全員に聞こえている。 その全員が紫揺を見ていた。

「塔弥さん大丈夫ですか?」

紫揺が問うと塔弥が顔を上げ頷いた。 まだその顔の一筋には、目から流れるものが皮膚を潤している。
紫揺も頷き返した。
一つ深く呼吸する。
塔弥を見つめて言う。

「私の祖母の名前は紫。 そして祖父の名前は、塔弥でした」

一瞬にして部屋の中の時が止まった。
紫揺を除くこの場に居る誰しもの時が止まった。

爆弾投下だった。

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虚空の辰刻(とき)  第167回

2020年07月24日 22時10分59秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第167回



独唱、紫揺ともに挨拶も終わり、互いに伝えあいたいことも伝えられただろう。 機を見計らって領主が紫揺と独唱に声を掛け部屋を辞した。
廊下に先ほどの青年、塔弥が頭を垂れて立っている。 玄関に向かって歩き出そうとした領主に声を掛ける。

「独唱様のご様子を見てから参ります」

「分かった。 頼む」 そう言い残すと領主が歩き始めた。

今度はどこに行くのだろうかと思いながら後ろを歩く紫揺。 独唱の家を出ると、すぐ近くに建っていた、これまた漆喰の洋風な家の前に立った。 随分と広そうだ。 家の前には頭を垂れた男たちが並んでいた。 移動してきたようだ。

玄関を開けたセノギモドキ。 領主が入りながら「どうぞ」 と言う。 領主に続いて紫揺も入る。 ここでも玄関で靴を抜ぎ、スリッパのようなものに履き替えた。 洋風仕立てだが、こういう所は和風なのだなと思う。

玄関から入ってホールを抜けると、大きなリビングが広がっていた。 カーペットが敷かれ、何人座れるんだ、というほどの大きな木製のテーブルとイスがある。

あとからついて入ってきた紫揺の中での通称 “鍵を渡してくれた人” が、こちらへ、と言いながら椅子を引いた。 そこは入り口側ではない向かいに見える窓側の一番真ん中の席だった。
男たちは入口の壁に沿ってテーブルの前に並んで立っている。

(合計、七人か。 ん? あれ? あの時五人の足音を聞いて、最後にセノギモドキが来たんだから六人だったはず。 いつの間に一人増えたんだろう)

逃走劇のあった時のことだ。 まだ船に残っていた若冲はその中に入っていなかったし、紫揺の家を出る時にも、領主の家を出る時にも、ここでも男たちは並んでいたが、人数の確認などしていなかった。

領主が紫揺の隣りに立ち軽く一礼する。 思わず紫揺が立ち上がろうとしたのを制する。

「どうぞ、お座りください。 固いことはもう終わりですから、お気楽に」

はあ、と答えながら座り直す。

「先程の独唱様とのお話でお伺いしたい所は御座いますが、その前にこの者達に名乗らせて頂けますでしょうか」

「・・・はい」

どうぞご勝手ご自由に、とまでは言わなかった。

一番最初に一歩前に進み出たのはセノギモドキだった。

「阿秀に御座います」

目を合わさず下向き加減で名乗ると顎を引くように、四五度ほど下を向き礼の形を取った。 そしてその形のまま続ける。

「我が祖が先の紫さまをお守りできませんでしたことを、深くお詫びいたします」

「え?」

何のことだ?

「この者達は、先祖代々紫さまに付いておる者達です。 継ぐにあたって先代からの名も継いでおります。 忌まわしいことがあった日に、この者達の祖が紫さまにお付きしておりました。 一人を除き直系で継いでおります。 今この阿秀が、他の者達を束ねておりますが、あの日この者達の祖を束ねておったのも阿秀の祖でありました」

領主が補足する。

(お婆様を守り切れなかったことを謝ったっていう事か)

気にくわない相手ではあるが、それなりに返事をせねばなるまい。 謝ってきた者を無視できるほど鬼ではないつもりなのだから。

「ご先祖さんも悔やまれたと思いますが、過ぎたことです」

けっこうな鬼の台詞だ。

阿秀が下げたままの顔で、口を引き結んだ。

(あ、じゃない)

さっきの独唱の言葉を思い出す。 祖母からの伝言を伝えた時に独唱は 『お言葉、お受けいたしました』 と言っていた。 その返答は心に沁みた。 それなのに今の自分の返答はキツイだけである。 だが言ってしまった。 これからどう言い足せばいいのか・・・。 考えても答えは出ないし、長く時間をとっても余計と取って付けたようになる。

よし。 開き直ろう。

「でも、セノギモド・・・」

コホンと、咳払いをして誤魔化し言い直した。

「アシュウさんからのお言葉は、ちゃんとお受けしました」

阿秀が腰を折って頭を下げた。

(そんなにイヤな人じゃないのかなぁ) と、紫揺の中で五を数えたが、阿秀の頭がまだ上がってこない。

「あの・・・」

助けを求めるように、領主を見る。

「阿秀、紫さまがお困りだ」

もう一つ深く頭を下げると顔を上げ紫揺の目を見て 「有難うございます」 と言い、一歩下がった。

左隣に立っていた、通称 “鍵を渡してくれた人” が一歩前に出た。

「悠蓮に御座います」

下向き加減で名を名乗ると顎を引いて頭を下げる。 それからはテンポよくいった。 湖彩、野夜、若冲、梁湶、醍十と続き、だれも阿秀のように何かを言うことは無かった。

全員が下向き加減で一歩前に出て名を名乗り、顎を引き頭を下げて礼の形を取っては、一歩引く。 阿秀を除いて名を名乗った順番は、決して五十音順でもなければ、生まれた順でもない。 この六人は順番などにこだわっていない。 言ってしまえばこの部屋に入ってきた順番であった。

「あと一人おりますが、まだ独唱様に付いております」

「さっきの?」

独唱の部屋の前で見た青年?

「はい。 すぐに来るでしょうが、それまで茶でも飲んで待ちましょう。 きちんと名乗りが出来なければ、次にはなかなか進めませんので」

そう言うと一つ空けた紫揺の横に座った。

「次?」

「民にお顔を見せて頂くにあたり、紫さまにはこの者達が付きます。 名を名乗っていなければ、その時に何かありましても、紫さまにお声を掛けられませんので。 本来なら、今までも名乗っておりませんでしたから、紫さまの前に出るなどと有り得んことでした。 ですが仕方なくということでご理解いただければと」

名乗らなければ、前に出ることも出来ず、話すことも出来なかったということか。 自分の前にいる時に誰もがいつも俯き加減だった意味が分かった。

だがそう思うと、あのセノギモドキ、もとい、アシュウは初っ端から涼しげな顔を見せていたし、話しかけても来たな、と心の中で思ったが、今領主が言ったように “仕方なく” だったのだろう。 まぁ、あの逃走劇を思うと仕方ないかと思えるし、それに昨夜もだ。 足に怪我などさせたら、この人達が責任を感じるのだろう。

「そこまで固く考えなくても良かったんですけど」

「そうは参りません。 こういうことは、守るべきところは守らなくてはなりませんので」

「はぁ・・・」

気の抜けた返事をする。
そこへ此之葉が茶を淹れてきた。

紫揺、領主の前に茶を置くと、続いて前の席に七人分の茶を並べた。 そして最後の一つを紫揺を挟んで領主の反対側におき、此之葉がそこに座った。

「お疲れになられましたでしょう、どうぞお飲みになって下さい。 お前たちも座るといい」

先に紫揺を見て言ったあと男たちに声を掛けると、阿秀が最初に椅子に掛け次々に男たちが座った。

(座った順でいけば会社で言うところの、領主さんが社長で、今はいないけど独唱様が部長、此之葉さんが課長でセノギモドキが・・・係長? で、あとの人たちがヒラ? 学校だと、校長、副校長、教頭、学年主任、教師ってとこなのかなぁ)

建設的でないことを考えながら、カップを手に取った。
勧められて飲んだ茶は、なにかのハーブティのようだった。 淡いピンク色をして甘酸っぱい。 甘さが喉を潤し、酸っぱさが身体に水分を広げるように感じる。

「少しお訊きしてもよろしいですか?」

領主がカップを置いた紫揺を軽く覗き込んで訊いてきた。

「はい」

「先程の独唱様に仰っておられたことですが」

ああ、さっき訊きたいと言っていたな、と思い出す。

「先の紫さまがお力を出されたことを仰いました」

前に座る七人のうち何人かが手に持っていたカップを置いた。

「はい、言いました」

「それは・・・その、何とお訊きしていいのやら・・・」

「私の勘違いかもしれませんが」 と、前置きして話し始めた。

あの岩壁を触った時に、先の紫である祖母がそこにいた感覚を体験した。 祖母が泣いている、叫んでいるのを感じた。 いや、耳ではなく脳裏で聞いた。 そしてその後にガクンと下に落ちた感覚があった。 すぐに力で足元の岩を壊したのだと分かった。 同時に膝の痛みも感じた。 それが二度目に出した力だと説明した。

そして一度目に出した力のことと、祖母からの伝言をどう知ったか。

「領主さんは私があの岩壁を触ってほんの数秒で倒れたと仰っていましたから、見たのはたぶん運ばれてからだと思います。 夢を見ました」

夢だから真実かどうかは分からないが、それでも自分は信じていると言って話した。

それは何度も何度も繰り返した夢。 紫と呼ばれる祖母が断崖から落ちる前、男に腕を掴まれ力を出した、逃げようとして崖から落ちて洞に入った夢であった。
何度も繰り返し見た最後のその夢の後、祖母の声が聞こえた。

『“古の力を持つ者” から言われていたことがあります。 それは “怒ってはなりません。 赤子のように泣いてはなりません。 妬んではなりません。 常は心に平静をお持ちください” そう言われました。 ですが私は二度も破ってしまいました。 謝りたいのです。 無かった事になど出来ないのです。 “古の力を持つ者” に謝りたいのです』 そう言っていた。 だから伝言として伝えた。 そう言って締め括った。

此之葉は既に紫揺が目を覚ました時にある程度聞いていた話であったが、初めて聞く話に領主と阿秀以下六人が目を瞠っている。

「そんなことが・・・」

領主が考えてもいなかったことに一瞬息を飲みそうになりながらも呟いたが、あとの言葉が出ない。

「夢ですから、あんなに言う程のことでもなかったのかもしれませんけど、でも私は信じて独唱様にお伝えしました。 でも夢で見たことでまだ分からない所があるんです」

「と、仰いますと?」

先の紫の想いに焦点を合わたかった領主が、なんとかまともな息をして紫揺に問う。

「理解できない所があるんです」

「それは?」

「お婆様の怒りのお心、怖れるお心、そして “古の力を持つ者” に伝えたいお気持ちは分かったんです。 ですが、どうしても怖れた後の安堵が理解できないんです」

「安堵・・・」

洞に入ってからの怖れる心が大きかったのに、その後の安堵が理解しきれない。

「はい。 お婆様はあそこに大きな穴をあけられた後、誰かに引っぱられました。 その時に先の尖った木の破片を感じました。 その意味が全く分かりません。 それが誰なのか、木の破片が何なのか。 お婆様が安堵を覚えられたあとに、島の方に助けられたんです。 発見されたんです。 どうして発見される前に安堵なさったのか」

紫揺は感じていないかもしれないが、話を聞いた紫揺以外が皆思ったことがある。

夢などではない、これが紫の力なのだ、と。

そしてこれも紫揺の無意識なのだが、紫揺が先端恐怖症なのはこれの木の破片が切っ掛けだということ。 ちなみに言ってしまえば、崖から落ちた事での高所恐怖症も、洞での閉所恐怖症もこの時のことがあってのことだった。

「気のせいかもしれませんけど」

最後に付け加えられた軽い紫揺の言葉に、全員が重々しく頭を垂れた。

戸が開いた。

「遅れて申し訳ありません」 そう言って入ってきたのは、独唱に付いていた青年だった。

部屋の空気が一転した。 紫の力に驚嘆しながらも、紫揺の口から発せられた背景を想像すると複雑な思いがある。 集団沈没しかけた海に一石が投じられたようだった。 当の本人はそんな気などいたって無いが。

「独唱様は?」

沈みかけていた海から、顔を出し息が出来た領主が問うと「お休みになられました」 青年が領主に向かって言う。 青年の頭は下げられている。

「そうか。 こちらへ」

領主がこちらへ来るように呼ぶと、青年がテーブルの方に歩いてきて、座っている醍十から少し離れたところに立った。

「皆、名を聞いて頂いた」

領主の言葉に青年が頷き、俯き加減に紫揺の方向に身を変える。

「塔弥にございます」 と、他の七人と同じように顎を引いた。

「え?」

領主が言っていた 『この者達は、代々紫さまに付いておる者達です。 継ぐにあたって先代からの名も継いでおります』 と。

「トウヤ・・・?」

「はい、塔弥にございます」 もう一度塔弥が言う。

「先ほど申しましたが、この塔弥だけは直系ではありません」

「・・・え?」

え、という紫揺自身の声が理解できなかったことを解きほぐす笛の音となった。

数日前に感じたことを回想する。


『――――― !』
(これは?) 誰かの声が聞こえる。

『――――― !』
(紫・・・お婆様の声) 何と言っているかは分からない。 でも泣いている。 叫んでいる。

『・・・あ』

見えはしないが、紫がお婆様がガクンと下に落ちた感じがした。

『力だ・・・叫んだから力で足元に大きな穴が開いてしまったんだ』

それは分かっていた。 膝に痛みを感じた。

『だれ?』

紫を誰かが穴から引き揚げている。
先の尖った木の破片を感じる。


「あれは、お婆様が言っておられたのは・・・」

「紫さま?」

領主が此の地での紫揺の名を呼ぶ


『塔弥!』
『塔弥!』

(あの場所でお婆様が呼んでいらしたのは・・・塔弥、そうだ)

塔弥の身を案じた祖母が、塔弥の名を呼んだ、何度も呼んだ。 だが返事がない。 塔弥の息がなくなったと思った祖母が、絶叫のように塔弥の名を呼んだ。 そして無意識のまま使った紫の力で足元に大きな穴をあけた。 咄嗟に穴に落ちた祖母を引き上げたのが瀕死状態の塔弥だった。

塔弥の腕に大きな木の破片が刺さっている。 塔弥は穴に落ちた祖母がまた崖に落ちたのかと思い、血を流しながら祖母を引き上げた。

『・・・大、丈夫・・です、か?』 塔弥が祖母に言った。

祖母が目を開けた塔弥を見て安堵した。

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虚空の辰刻(とき)  第166回

2020年07月20日 22時17分00秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第166回



「あ・・・」

気の済んだ紫揺が戻ってくると、目の先に阿秀が立っていた。 他の者は阿秀に指示をされて、家などの陰に身を隠している。 あまりぞろぞろと居ると紫揺が気を悪くするだろうということであった。
阿秀が頭を垂れたまま紫揺の前に進み出て足元に靴を置いた。

「お怪我をなさいます」

片膝をついて言うと、すぐに紫揺の後ろに回り身を下げるようにした。
紫揺が振り返る。

「ずっとついてきてたんですか」

「まだこちらには慣れておられませんので」

(また!) 答えになっていない。

阿秀に背を向ける。 ポケットから靴下を出してパンパンと埃を払う。 靴下と靴を履くとすぐに歩き始めた。

「お帰りは玄関からどうぞ」

(やっぱり! やっぱり! いけ好かない!!)

ちゃんと玄関から家に入ると、台所で手足を洗いすぐに部屋に向かった。 汚れた靴下を袋に詰める。
領土には日帰りのつもりで風呂敷以外何も持ってこなかったが、と言っても取りに行った葉月が誰かに渡したのだろう、風呂敷さえ紫揺は持たなかったのだが。

今は部屋の隅に領主の家まで持ってきていたスポーツバッグが置かれている。 紫揺がうなされている間に着替えが必要と誰かが判断したのだろう。 多分此之葉だろうが。 そして誰かが領主の家まで取りに行ってくれたのだろう。 目覚めた時にはここに置かれていた。

スポーツバッグなどこの領土に無いのだろうが、さすがに中にあるものを勝手に出すことはしなかったようだ。

東の領土に行くと言った時、阿秀が 『交通の都合がありますので、少々お時間を頂けますでしょうか』 そう言っていた。 万が一にも家を出た日に家に帰ることが出来ないかもしれないと思って、数枚の着替えをバッグに詰めてきていた。

パジャマ替わりであるジャージに着替えると、いつの間にか敷かれていた布団に潜り込んだがなかなか寝付けない。

「う“う”う“―――、セノギモドキめー!」


「紫さま?」

朝食を食べる紫揺の様子が少し変だ。 阿秀から昨夜のことは聞いていたが、それと直結するようなものではない。 足の裏を怪我しているような気配ではないのだから。

「如何されました?」

「何でもありません」

またも欠伸(あくび)が出かけて噛み殺す。
此之葉の思う “様子が変” は、欠伸を噛み殺している紫揺の表情だった。

「ずっと寝てたからでしょうね。 夕べはなかなか寝付けなくて、今頃になって眠気がきたみたいなんです」

とうとう、ふわっ、と言って大欠伸をしてしまった。 ちゃんと口は手で覆っている。

夕べはこの部屋に戻って来てからあれやこれやと考えてしまった。 もちろん、阿秀に対しての腹立たしさもあったが、独唱に会うのだ、それなりのことを考え言わなければと。 それに祖母からの伝言もある。

「これから独唱様にお会いしていただき、その後にも民にお顔を見せて頂く予定ですが、ご無理でしたら」

「いえ、大丈夫です。 それに、身体を動かしたら・・・」

夕べの阿秀の顔が浮かんだ。 言い直す。

「もうちょっとしたら、しっかりと身体も起きるでしょうから」

独唱には会わなければならない。 年齢や、具合を悪くしていると聞いては、いつどうなってもおかしくないのだから。 そんなことになる前に伝えたいことがあるのだから。

それに民に顔を見せると領主と約束をした。 領主の家に行った日の翌日、領主は民に紫揺が来ることを知らせに行ったと葉月から聞いている。 その日に意識を無くしてしまって、今日で四日目だ。 これ以上、自分のせいで領主の顔を潰すわけにはいかない。

「ごちそうさまでした」 箸をおき、手を合わせる。

此之葉が戸の向こうに控える女を呼んだ。 お下げしてください、と。 女が戸を開けて入ってくる。 紫揺と目が合った。

「ごちそうさまでした」

女が照れ臭そうにお辞儀をする。 盆を下げ部屋を出て行くと、何やら数名の女たちの声が聞こえる。

「何かあったんでしょうか?」

「喜んでおります」

「何にですか?」

「紫さまのお声を聞けたことと、紫さまがご快癒されたことにです」

なんとも言えない複雑な表情を返した紫揺だった。 北の領土でのことがある。 紫揺の前に立つだけで指を震わせていた者たちがいたのだから。

――― ここは本当に東の領土なのだろうか。

ここは北の領土なのか、東の領土なのか、疑いが行ったり来たりしている。 夕べは北の領土ではなかろうかと、夜な夜な風景を見に外に出た。 なのについさっきは、独唱に会って話さなければならないと思ったところだ。 それはここを東の領土と認めての事だからだ。 そして今また考えている。

「大丈夫でございますか?」

いつの間にか難しい顔をしていたようだ。

「あ、はい。 何ともないです。 今日は昨日と違う服なんですね」

此之葉の服のことを言っている。 昨日は男たちと同じような作務衣に似た服を着ていたが、今日はワンピース姿だ。 紫揺の持ってきた風呂敷の中に入っているものと少し似ている。

「昨日までは、動きやすい恰好をしておりましたが、今日は独唱様や民の前に出ますので」

動きやすい恰好、それは看病しやすい恰好ということになるのだろう。 此之葉には世話をかけてしまった。

「えっと・・・私はどうしたら」

Gパンに薄手の長Tシャツだ。 下着や長Tシャツの替えは持ってきていたが、スカートなど持ってきていないし、根本的に持っていない。 家に帰って数あるのはジャージである。 それに今着ている長Tシャツが暑い。 素直に半袖のTシャツを持ってくればよかったと後悔している。

「領主とも話したのですが、紫さまは今日でお帰りになられます。 領土の服に着替えて頂いて民に希望を持たせるのは苦しいということになりました。 独唱様にはそのままの紫さまを見て頂きたくありますので、このままのお姿で」

此の地に留まると言った。 あのマツリに頼み事などしたくはないのだから。 勢いで言ったのは確かだったが、それに嘘はない。 それに、ここに来ようと決心したのは、今やりたいこと、それはされたくないからする。 あのマツリに何も言われたくない。 言わせない。 それがあの時考えた結果だった。

領主に宥められて、一度ここにきて民といわれる人たちと会ってから、その後のことをゆっくりと考える。 そう言われたが、領主はそんなつもりはないらしい。 今日が最初で最後のつもりなのだろう。

(短気はいけない・・・か)

祖母とのこともあるが、落ち着いてみるとまだ自分自身決めかねている。 次に来るも来ないも今は考えないでおこう。

「分かりました」

「では、独唱様の所に」

此之葉が先に歩き、向かった方向は昨日紫揺が歩いて行った方角だった。 家の並びの少ない方向。

家の中もそうだったが、家を出ても人っ子一人居ない。 どこかからの話し声すら聞こえない。 いや、人っ子一人というのは訂正しよう。 家を出る時には男たちが頭を下げ並んでいた。 だが民といわれる人たちが居ない。 どういう事だろうかと、此之葉に尋ねた。

「誰もいないんですね」

「避けられない用がある以外は・・・先程のように盆を下げたりということですが、それ以外では独唱様がお会いになる前に民は姿を見せません。 本来なら私もなのですが」

そう言って頭を軽く下げた。

「そういうことですか」

何となく分かりました。 年功序列というか、役職序列? そんなものなのかなと考える。

朝、外の風景を見ようとちゃんと玄関から家を出ようとした時に、外に出るのを男に止められた。 ちなみにそれより前に窓から出ようとしたら他の男が居たので諦めた。
『今しばらくお待ちください』 と。 紫揺の認識では、鍵を渡してくれ、空港内をついてくれていた男だった。 早い話、悠蓮であった。

(あの時にはまだ領土の人がうろついてたのか。 だからあの時、止められたのか)

抜き打ちで紫揺が家を出るようなものだったのかもしれない。

「こちらでございます」

案内された家は、漆喰で塗られた平屋のどちらかといえば洋風の建物だった。 白さが眩しく、築何年もしていないのだろうという感じがする。 お年寄りが住んでいる家ということで、無意識に純和風を想像していた。
そう思えば目に見える家もみんな洋風の建物だった。 完全洋風ではないからか、夕べは暗がりの中で気付かなかったようだ。

戸を開けると「紫さまがお越しです」 と此之葉が声を掛けた。 中から領主が出て来て深く頭を下げ「こちらです」 と案内を始める。 今まで先を歩いていた此之葉が紫揺の後ろについた。

(良かった、ついてきてくれるんだ)

到底一人になどなりたくはない。

玄関を上がるとスリッパのようなものに履き替える。 戸を開けるとリビングらしき所があった。 そこを抜け廊下に出ると一つの戸の横に青年が立っていた。 頭を垂れている。 その戸を領主が押し開ける。 スリッパのようなものを脱いだ領主が中に入ると 「どうぞ」 といって紫揺を誘う。

スリッパのような物を脱いで中に入ってみるとそこは和室であった。 そこに低頭している老女が座っていた。
領主が 「お座りください」 というが、どこに座っていいものやら分からない。

「こちらへ」

紫揺の後ろから入ってきた此之葉が敷かれていた座布団の一つを示した。

「失礼します」

一言いってそこに座る。 そこは独唱の前であった。 二人の間を遮るものは何もない。 机も何も無いということだ。 あとの座布団は紫揺の座った後ろ、少し離れたところに敷いてあった。

「わざわざお足をお運びくださり、恐縮至極に存じます」 

老女は手をついて更に深々と低頭した。

「独唱にございます。 お探しにこれ程の時を重ねてしまったのは、我が力の弱さからで御座います。 深く詫び言を申し上げます」

そんなことないですぅー、と言いたかったが、取り敢えず言いたいことを全部喋ってもらおう。

「紫さまにおかれましては、お健やかにお育ち戴きましたことに、ご両親様へ感謝の信しか御座いません。 ご両親様へお伝えしたく思っておりましたが、ご両親様のことはただただ残念でございます」

そしてあれやこれやと言い、最後に紫揺がここに来てからの本復を目出度く思うと、締め括った。 が、それが締め括りなのかどうか紫揺には分からない。 独唱はまだ頭を下げているのだから。 そして領主も此之葉もだ。 此之葉を見ると僅かに頭を上げて紫揺を見ると頷いてみせた。

終わりだということであろうと判断した。

「どうぞ、頭を上げてください」

独唱がゆっくりと頭を上げる。 それに遅れて領主と此之葉も。
ここの礼儀作法が分からない。 まぁ、日本の礼儀作法もよく知らないが。 深く考えてもなにも出てこないのなら、思ったようにやるしかない。

「藤滝紫揺と申します。 先の紫と呼ばれていた孫に当たります」

手をついて慣れないお辞儀をした。
部屋の中にいる誰もが驚いた。 此之葉が止めようと立ち上がりかけたが、独唱が無言で止めた。
それが今代紫である紫揺のすることなのだから。

だが五色が、紫が頭を下げるなど根本的には有り得ない。

紫揺が頭を上げる。 自己紹介の時にお辞儀をすればいいだろう、と考えていただけなのだから。

「独唱様が紫の気を追っていらっしゃったとうかがっていますが、いま目の前にいる私で間違いないでしょうか」

先程、先の紫の孫にあたると言ったのに、可笑しなことを言うとは誰も思わなかった。 反対に、先の紫の孫だと認めて言ったことの方が驚きであった。

「寸分の差異も御座いません」

瞑目し頭(こうべ)を垂れた。

「そうですか」

頭を戻した独唱を見て気付いたことがあったが、それは今は関係のないこと。

「二つ申し上げたいことがあります」

「なんなりとお申し下さい」

「一つは祖母からの伝言です」

「先の紫さまからの?」

独唱だけでなく誰しもが目を瞠った。
紫揺が生まれる前に紫揺の祖母である先の紫は亡くなっていると聞いていた。 それなのにどういうことだろうか。

「お婆様は、十歳を迎えられたあのことがあった後は、古の力を持つ方から言われたことをお守りになりました。 ですが、あのことがあった時には二度お破りになりました。 襲われ、手を掴まれ、次に肩を掴まれようとした時に怒りのあまりに相手の腕に閃光を走らせました。 それが一度目。 そして驚いた相手が手を離しましたが、再度襲い掛かろうとしてそれをかわしたお婆様が崖から落ちました。 もう一度は」

振り返り領主の方を見る。

「領主さん、私が倒れた時のあの場所に敷かれてあった石がありますよね」

「はい」

「あそこはお婆様が落ちた直後には穴はあいていませんでした」

領主が僅かに首を捻る。

顔を独唱に戻す。

「崖から落ちたお婆様が洞窟に入った後、訳がわからず泣かれたんです。 そしてあの穴、大きな穴をあけてしまいました。 これが二度目に使った力です」

先ほどからまるで見てきたかのように話す紫揺に、驚きの目しか送れない領主。

「 『怒ってはなりません。 赤子のように泣いてはなりません。 妬んではなりません。 常は心に平静をお持ちください』 私は領主さんから聞きましたが、祖母もあんなことがありましたがしっかりと覚えていました。 独唱様の先代様がお婆様に仰ったことです。 それを破ってしまいましたと、先代を継ぐ今の古の力を持つ方に謝ってほしいということでした」

手をつくと深々と頭を下げた。

「祖母に代わりましてお詫びを申し上げます。 申し訳ありませんでした」

今度は此之葉も頭を下げるのを止める様子が無かった。 それどころか領主も此之葉も言葉がなかった。

―――これが紫なのだろうか。

今、この東の領土で生きている者の中で先の紫の存在を知っているのは独唱だけ。
その独唱がゆっくりと頷くと、口を開いた。

「お言葉、お受けいたしました」

手をついて応える。
紫揺が心の中で五つ数えた。 そして頭を上げる。 独唱も気配を察したのか、ゆっくりと頭を上げた。

「もう一つの申し上げたいことは・・・」

一旦言葉を切ると下を向いた。 そして意を決したかのように顔を上げる。

「領主さんからうかがいました。 独唱様の人生の全てを、祖母と私の為に使われました。 祖母がもっと早くに気付いていれば、私がもっと早くに気付いていれば、独唱様の人生が変わっていたと思います。 お辛い年月でいらしたと思います。 気付くことが無かった事に謝罪を申し上げ、探して下さったことに感謝を申し上げます」

有難うございます。 と再度手をつき頭を下げた。
謝辞であった。

―――報われた。

戸の向こうで端座していた青年、塔弥の目から涙が落ちた。
それは詫びる言葉にではない。 感謝の言葉に対してであった。

「勿体ないお言葉でございます」

独唱が止めることの出来ない静かな涙を流しながら頭を下げた。

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虚空の辰刻(とき)  第165回

2020年07月17日 22時06分39秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第165回



正座をしていた足を投げ出して前屈をする。 足を開いて前後左右に開脚。 腰は・・お休み願おう。 肩入れをして、脱臼のあとの痛みがないことを再確認する。

「やっぱりちゃんと治療した方がまともに動くな」

腰は何の治療も受けていない。 肩の脱臼のように、どうにもいかなくなったわけではないのだから。 それに使い痛みだ。
柱の縁を胸の高さに持って、ゆっくりと上半身を屈め腰の骨を引っ張る。 腰の骨が楽になっていくのが分かる。

「さて、退屈だ」

だが、まだ陽は明るい。

敢えて先の紫である紫揺の祖母のことを考える必要などない。 祖母の言いたいことが分かったのだから、祖母がどんな風に感じていたのかが分かったのだから。

やらなければいけないことはただ一つ。 独唱に祖母の謝罪を伝える。
そして選ばなければならないのもただ一つ。 祖母の言葉からは一つしか選べない。 だがそれを選ぶかどうかはまだ決めてはいない。 自分は紫ではあるが、紫揺でもあるのだから。

ただ心残りなことはある。 現状では春樹に借金を返せない事だ。 金の苦労をしていた両親を見てきているのだ。 そして借金とはどんなものかを身を持って分かっている。 借りたものは返す。 ただ残念ながらその方法が見つからない。

「やっぱり、学校に頼むしか・・・あ・・・」

思い出した。
個人情報が何とかと言われなくても、アテがあったではないか。 春樹は軟弱柔道部に入っていたと言っていた。 顧問の堂上に調べてもらえばいいだけじゃないか。

紫揺のことを忘れたなどと言うことはないはず。 堂上とは知らぬ仲ではないのだから。 知らぬどころか、必要以上に心配をさせ、手を煩わせていたのだから。

「堂上先生、まだ学校にいるよね」

公立ではないし、姉妹校もなかったはずだ。 転任などないであろうが、退職ということが考えられなくもない。 でもそこには蓋をしよう。

「帰ったら、即行学校」

憂いは取り払われた。 気持ちよく倒立をする。


夜になるとそっと窓を開けた。

何度か手洗いに立ったが、ここは一軒の家のようだった。 先日泊まった東の領土の領主の家ほども大きくはなさそうだ。 紫揺の寝ていた部屋が一番奥で、他に三部屋と台所があるのは確認した。 だが、どの部屋からも話し声が聞こえ誰かが居るのが知れた。

「玄関なんかから出られないもんね」

玄関から出ようとすると、どの部屋の前も通らなくてはいけない。 窓に足をかけた。 だがどこかの部屋の話し声に耳を傾けていれば良かったかもしれない。

「阿秀、紫さまが大人しく・・・あ、いえ・・・」

「はっきり言っていい」

「はい。 大人しくされると思いますか?」

三部屋あるうちの一室には男たちが控えていた。 その男たちには此之葉に向けて紫揺が言った言葉が寸分の違いもなく伝えられていた。
いわゆる情報の共有だ。

『私はここで大人しくしていますから』 と。

「強調されていたな」

その文言から考えると、紫揺が何をしようとしているのかが窺い知れる。

『此之葉さんは休んできてください。 私はここで大人しくしていますから』 そう言っていたと聞いた。
言ってみれば『此之葉さんは休んできてください』 それだけでいいはずだ。 付け加えても『私は部屋に居ますから』 で良い筈だ。

「阿秀、俺、守り切れないです」

阿秀が声の主である若冲を見た。

「可能性はあるな」

「だから俺には無理です。 今度は完全に意識を失います」

開き直って若冲が言う。

その会話の意味が分からない五人が、どういうことだという目を送る。

若冲は夜遅くに紫揺が自由奔放に、公園であれやこれやしたのを目にし、今にも泡を吹いて倒れそうになった。 今度は絶対に倒れる、そう言っているのだ。

「何かをされる前にお止めしたいが・・・」

紫を、紫揺を危険から守るのが代々から伝わる阿秀たちの役目であった。 それは、心からのお役である。 万が一にも領主に紫を守らなくてもいいと言われても「否」 と答えるほどに。

「何だぁ?」

醍十が尋ねる。

「うなされて体力を消耗されていた紫さまだが、今晩、ここを抜け出られるかもしれないということだ」

若冲がとぼけた醍十の声に答える。

「ここ? ここってどういう意味だ?」

口調が醍十ではない。

「あくまでもお部屋ということだ」

「抜け出られるとは?」

質問者も他の四人も眉間に皺を寄せる。

「多分・・・退屈しておられる」

若冲に代わって阿秀が答えた。

「は?」 短いカルテット。 一拍遅れて 「んん?」 こちらはソロ。

「此之葉からの話だと、うなされ体力の消耗は見られたが、夜が明けてからは落ち着いておられたようだ」

「だからと言って?」

「お心のご回復をされている可能性は高い」

「ですが、お身体が」

「紫さまはお若い。 二,三日食を摂られなくとも、お心に芯があられればお身体も回復するだろう。 それにさっきも言った。 夜が明けてからは落ち着いておられたんだ。 十分にとは言えないかもしれないが、お身体はご回復されているだろう。 昼からずっと一人でお部屋でお過ごしだ。 退屈もされよう」

テレビもなければ何もないのだから。

「紫さまなら有り得る」

言ったのは若冲だった。
阿秀と若冲、醍十を除く四人が目を合わせた。 逃走劇が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

「んー? 何があるんだぁ?」

完全に醍十である。


窓を跳び越え地に足を着いた。
さて、どこに行こうか。

北の領土と違う風景を見たかった。
先の紫である祖母の想いを感じた。 祖母が何を感じ、紫揺に何を頼んだのかも分かっている。
だがそれは東の領土にということだ。 祖母から感じたことは間違いない。 だからここは東の領土だとは分かっているが、今までの自分の置かれた状況を考えると、ここが本当にあの北の領土ではないのか、東の領土なのか、それを自分の目で確かめたかった。

北の領主、ムロイの家からは北の領土の中心と言われる所が一望できた。
ここがムロイの家ではないことは分かっている。 全く間取りが違うのだから。 だがここが北の領土の中心であるのなら、あの風景がここと一致すれば、ここは北の領土。 上手いこと騙されてきただけの話ということになる。

だがそう思うことに矛盾は感じていた。
それは葉月の存在であった。 北の領土の民といわれるもの達は、みな紫揺を恐れていた。 だが東の領土の人間と自称する此之葉の妹である葉月は、紫揺を恐れるどころか、どちらかというとくっ付いてきていた。 北の領土の民には演じれられるものではないであろう。

それに・・・寒くない。

辺りを見回した。

「ここは北の領土ではない・・・?」

目の前には北の領土で見られた風景が全く見られなかった。
そして北の領土でみた建物とここは大きく違っていた。 同じ木造ではあるが、その様相は全く違うものであった。

北の領土の中心と言われていたところは、領主であるムロイの家を除いては、民と言われる者達が住んでいたのは密集する長屋状態であった。
だがここは一軒一軒が自由に建っている。 その家々からは木漏れ日のような灯りが漏れている。 優しい灯りだ。

「・・・電気」

北の領土では最小限の電気しか使っていないと言っていた。  少なくとも紫揺の寝起きしていた離れでは、蛍光灯やLEDほどに明るくはないが、電気を使うことが出来ていたが、あの長屋で夜になると家に電気が灯されていたのかどうかは、確認していなかった。

口を歪めると、気を取り直して辺りの様子を探る。

灯りの点いている家からは、談笑が聞こえる。 この様子も北の領土ではどんなものだったかは紫揺の知るところではなかったが、たった一度ではあるが、ムロイの家でムロイ達が領土の火を消したり水を抑えたりするために、家を出て帰ってくるという日に、使用人と呼ばれる者達が楽しそうな会話をしているのを聞いている。 それはウダと孫であるミノモと初めて会った日でもあった。

紫揺がここで壁に耳をつけ会話の内容を聞くと、明らかに北の領土ではありえなかった内容を耳にしただろうが、家族の会話を盗み聞きする趣味はない。 まぁ、慌てずとも明日には分かることだが。

辺りをもう一度眺めた。 どこを見ても自由に家が建っているだけ。 ただ、今出てきた家は他の家から離れた所に建っているのは分かる。 足元を見ると北の領土と同じくアスファルトは敷かれていない。
そして裸足である。

「あ・・・」

そう遠くない日に北の領土で過ごしていた。 北の領土で裸足などあり得ないことを思い出した。
だがセイハの言っていたこともある。 『殆ど寒冷地で春と夏は短いけどね。 それなりにあるよ』 そう言っていた。 今がその短い春なのかもしれない。
どこまでも疑わなければ安心できない。

このまま家が建つ方に行っても同じようなものだろう。 クルリと方向を変えると、家の並びの少ない反対側を歩き始めた。

「どうします?」

「・・・」

阿秀にしては珍しく即答がない。 腕を組んで紫揺の後姿を見ている。

「裸足ですよ」

「絶対に怪我をされますよ」

「靴の生活をされていたんですから、足の裏の皮は柔いはずですよ」

「んん? 靴下を履かれるみたいだぞぉ」

醍十であろう。

やはり足の裏が痛いのだろうか、ポケットに入れていた靴下を履いている。

「取り敢えず俺はここで留守番してます」

生き生きと言ったのは若冲である。
阿秀と醍十を除く四人の冷たい視線が若冲を刺す。

「いや、ここは領土だぞ? 北の者がいるわけでもないんだから、そんな全員でゾロゾロと―――」

阿秀が声を被せ最後まで言うことが出来なかった。

「先の紫さまはこの領土で襲われた」

紫揺から目を離さず阿秀が言う。

「悠蓮、紫さまの靴を取ってきてくれ」

言い終わるのが早いか足を出すのが早いか、阿秀が目の前を通っていった紫揺の後を追って歩き始めた。

「了解」

若冲のお尻を思いっきり叩いて玄関に向かった。

家からの灯りがなくなり今は月明かりだけ。

「特に何もなさそう」

北の領土のように藪が見えるわけではない。 ただずっと平地が続いているようだ。 北の領主の家は坂の上に建っていた。 あのような坂も見られないが、今はあたりが暗い、陽が登ればまた違った風景が見えるのかもしれない。

「ん?」

足元を見る。
いつの間にか土の道ではなく、まるで芝生のように五センチほどの草が生えているではないか。
草の汁がついても困る。 あれはなかなか落ちない。 すぐに靴下を脱いだ。

「屋敷の庭みたい」

ガーデンライトもなにもないが緑がそう思わせる。

「セキちゃん読んでくれたかなぁ」

あの庭でセキとガザンと散歩をした。

「ま、帰って学校に行けば先輩と連絡が取れるから、その時に聞けるか」

ちゃんとセキに渡してくれていれば、読んでくれているのだろうから。

相変わらず辺りは薄暗い。 この先に進んでも特に何もないのだろう。 やはり明るくなってからでないと、景色を見ることは出来なさそうだ。

「諦めるか・・・」

でも、この緑のある広い場所は諦めきれない。

「よっ、と」

足を前に上げて脹脛を持つ。 脛が額に当たる。

「だあぁぁぁー」

この先に何があるのか知っている若冲の声である。

「安心しろ。 ここには鉄棒もなにもない」

この先を知っているもう一人、阿秀である。
そして何となく想像がついた四人が目を合わす。

「うん? なんだぁ?」

全員を見回す醍十。

そして始まった。

あの公園で見たのと同じことが。 ただ阿秀が言ったようにここはだだっ広いだけで、遊具もなければ器具もない。

「わっ、スゴ・・・あれじゃ、逃げられるはずだ。 小さくていらっしゃるからなんて関係ないな」

「ああ、捕まえることなんかできないな。 前言を撤回する。 ネズミではないな。 モモンガか?」

「ああ俺も撤回する。 サルではないな。 サルがあんなに美しくは出来ないだろうからな」

「じゃ、俺も。 ナマケモノどころかフィギアスケーターとでも言っておこうか」

「きれいだなぁ・・・」

話の流れから、紫揺が最初はタンブリングをしていたが、途中で演技に変えたのが分かる。
若冲がメモっていなくとも、これで誰が何を言っていたのか阿秀には分かった。 五人が阿秀の前に出て、紫揺の演技をかぶりつきで見ている。

「俺の考え過ぎだったみたいですね」

阿秀の隣に立つ若冲。

「まぁ、気持ちが分からなくはないがな。 最後の鉄棒の時には私も肝が上がった」

「・・・思い出したくもないです」

「ああ、そうだ、メモる必要はなかったな」

「え?」

阿秀が悠蓮の持っていた紫揺の靴を手に取った。
パコパコパコパコ、音が四回鳴った。 悠蓮、湖彩、野夜、梁湶の頭が紫揺の靴によってはたかれたのだ。 主犯であり実行犯は阿秀。

「ッテ、なんですか!」

「口を謹め」

「何の音だぁ?」

叩かれていない醍十が空を見上げた。

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虚空の辰刻(とき)  第164回

2020年07月13日 22時13分24秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第164回



夢を見ていた。 その夢は・・・自分が先(せん)の紫になった夢だった。 あの忌まわしい日のことを、忌まわしいことを繰り返し繰り返し見た。
領主から聞いただけの話なのに、細かなところは聞いていないはずなのに、腕の振り方ひとつ、走ったルートさえも見た。

逃げて逃げて・・・摑まりそうになった。 それを避けたら・・・。 落ちていく。 木が草が、頬を切り服を裂く。
長い時間に思えた。 このまま下まで落ちる。 飛び出した岩に当たっても、もう痛ささえ感じない。

木の先端が尖っている。 それが腕に刺さっている。 血が流れて・・・。
叫んだ、名を呼んだ。 何度も何度も名を呼んだ。 だが・・・返事がない。
ここはどこ。 どうしてこんなに暗いの。 どうしてこんなに狭いの・・・。
どうして、どうして・・・。 気が触れそうになった。 ひざに痛みを覚えた。 誰かに引っ張られた。

『誰かおるんか?』
灯り。 灯りが揺れている。 誰かの声がする。


うわごとのように声を漏らしては、顔をしかめる。 何度も何度も。 それなのに、最後には安堵の表情をみせる。 その一連を何度も繰り返している。 付いている此之葉の方が、どうにかなってしまいそうになる。

「此之葉」

襖の向こうから領主の声がする。 後ろに控える女に場所を譲ると此之葉が部屋を出た。

「身体を休めなさい。 此之葉でなくてはいけないことなどないのだから」

此之葉が首を振る。

「紫さまがお目覚めになられた時に、知らぬ顔しかなければ戸惑われます」

「では、葉月を呼んでこさせよう」

また此之葉が首を振った。

「葉月には耐えられないと思います」

たしかに。 此之葉の後ろに控えていた女たちは、紫揺の苦しむ声に耐えられず、次々と代わっていた。

「だが此之葉が身体を害しては次に結びつかん」

「お付きさせてください。 これは私のお役目です。 紫さまにお仕えするのは “古の力を持つ者” のお役でございます」

深く頭を下げると領主の返事を聞くこともなく、また紫揺の元に戻っていった。

領主が口を一文字にした。 まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。 ただ先の紫が落ちたであろう場所に案内しただけだった。 紫揺が先の紫を偲べるだろうと思って。

紫揺はあの状態でもう二日目が終わろうとしていた。
夜が明けた。

紫揺の夢が終わったのだろうか、夜が明けてからはうなされるようなことはなくなった。 寝息を立てて、安らかに眠っているようにも見える。
ただ一度、微笑んだことがあった。
此之葉がやっと心穏やかになれたのはこの頃だろうか。 だが紫揺の目覚める気配はない。
諸手を挙げて安心することなど出来ない。 だからと言って無理矢理に揺すって起こすなどということはしない。 紫揺にとって何もかもが必要なことなのだから。 ・・・なのだろうから。

ここがまだ、此之葉自身が未熟というところだった。 迷いがある。 師匠である独唱には迷いなど見られないのに。
紫揺の瞼がうっすらと上がった。

「紫さま?」

本当は紫さまとは呼びたくなかった。 紫揺さまなり、藤滝さんと呼べば少しでも気付いてもらえるはずだろうに。
此之葉の声に紫揺が気付いたのだろうか、ゆっくりと眼球を動かす。

「お気がつかれましたか?」

極力、紫という名を出さないようにする。

「・・・此之葉、さん」

此之葉の後ろに控えていた女が垂れていた頭を上げた。

(紫さまのお声・・・)

枯れてはいるが、うなされ苦しんでいる聞きたくない声ではない声。

「お身体の具合はいかがですか?」

「あ・・・」

「どこか具合の悪い所がございますか?」

「いえ・・・。 どっちかって言うとスッキリしてます。 ちょっと喉が痛いくらいかな」

控えている女にしてみれば、重々しさのない言葉。 だがそれさえも気にならない程、紫揺の声音を聞こうとしている。
身体を起こしかけた紫揺に此之葉が制止をかける。

「お倒れになって今日で三日目です。 急にお身体を動かされませんように」

「え?」

「すぐに、食事の用意をいたします。 お身体を考えて薬膳になりますが。 それまでは今しばらく、お身体をお安め下さい」

そう紫揺に言うと後ろに控える女に、紫さまが目覚められたと領主に伝えるようにと、薬膳の用意をするようにと言った。

「えっと・・・ここは?」

頭と目を見回して周りを見ると、どこかの部屋のように思えた。 だが自分はそんな所に来た記憶はない。
そうだ、洞窟で、あの岩壁に触って・・・。
ガバッと身を起こした。

「・・・った!」

長い時間、身体を横たえていたからだろう、急に伸ばしている状態から曲げられて腰が悲鳴を上げた。

「紫さま!」

此之葉が悲鳴に似た声を出した。

「あ、ゴメンなさい。 大丈夫です。 ちょっと前屈したらそれで」

そう言った途端、眩暈(めまい)がした。

「ふわ・・・」

前後も左右も上下さえも分からない。 ドテンと仰向けに転がってしまった。 言ってしまえば、元の形に戻ったということだ。

「紫さま!」

「あっと・・・なんか、雲の上を歩いているみたいな。 フワフワした感じで・・・」

まだ身体が眠りから完全には覚めていないのだろうか。

「紫さま、ご説明はあとで申し上げますので、今しばらくはこのままでお身体をお安め下さい」 

「・・・はい」

見たこともない天井を見上げながら、身体が脱力していくのを感じる。 それと同時に意識なく夢が回想する。

「・・・紫さま」

思わず此之葉の口から洩れた。 紫揺の目から一筋の涙が流れだしたのだ。 滂沱ではなく、ただ静かに最初に流した一筋の道が途絶えることなく。

此之葉が涙の道を拭きとることはなかった。 これがニョゼなら、すぐにでも拭ったであろう。 だが此之葉は紫揺の涙は、終わった試練を流しているのだと受け取っている。 だから・・・手を出してはいけない。

この地に生まれ育っていない紫揺の道は、紫としての紫揺の道は、甘いものではないのだから。 先の紫も代々の紫も想像もできなかった道を紫揺は乗り越えなければいけないのだから。
紫揺が瞼を閉じた。 閉じられた目からは、もう涙は流れてはこなかった。

「紫さま?」

紫と呼ばれた。 そうだった。 そう呼ぶと言われていた。

「・・・大丈夫です。 起きてます」

何もかもとは言えないが、少なくとも分かったことがあった。

「・・・お婆様のお気持ちが少しわかりました」

ゆっくりと目を開けながら言う。

「先の紫さまの・・・」

「お婆様は、十の歳を迎えられたあのことがあった後 “古の力を持つ者” から言われたことをお守りになりました」

「え?」

「二度、お破りになったから、それをとても後悔されました。 だからそれからはずっと、守っておられました」

『怒ってはなりません。 赤子のように泣いてはなりません。 妬んではなりません。 常は心に平静をお持ちください』 それを守ったという。

「先の紫さまが・・・」


腕を掴まれた・・・激してしまった。
暗い狭い、尖ったものが刺さっている。 返事をしてくれない・・・赤子のように泣いてしまった、
“古の力を持つ者” から言われたことだったのに、言われたばかりだったのに守れなかった。
謝りたい・・・謝れない・・・。
二度と破らない。
帰ることが出来ない、戻ることが出来ない。 道が分からない。
紫として守れなかった東の地。


「私は間違いなく、紫です」

天井を見ていた首を動かした。 此之葉を見る。

「夢かもしれません。 夢だと笑ってもいいです。 でも写真でしか知らないお婆様が動いて私に仰ったんです。 東の地を頼みます、と」

写真の祖母が微笑んでそう言った。

「紫さま・・・」

『夢だと笑ってもいい』 その台詞は二度目だ。 一度目は佐川に言った。 母である早季の声が聞こえたと。 どちらも誰に何と言われようが、紫揺にとっての真実だ。
顔を戻して天井を見る。

「写真のお婆様はお優しいお顔をされていましたけど、小さい頃は可愛かったんですね」

枯れていた涙の筋がまた水分で満たされた。 小さい頃の先の紫。 それはあの忌まわしいことがあった日の幼い祖母の顔だった。 紫揺が夢で見たのは、自分が先の紫になっていた夢だったが、客観的に先の紫を見ることも出来ていた。

もうここが北の領土ではないと確信している。 祖母が守りたかった東の領土であると。

此之葉が何も言えず紫揺に背を向けた。 もう紫揺は大丈夫だ。 だが今の自分の情けない姿は見せられない。 次々と涙が溢れてくるのだから。


「良薬口に苦し・・・」

紫揺が憎々しく箸を口に入れ、薬膳を睨んだ。

「丸二日以上、なにもお口にされなかったのですから」

そう言う此之葉の前にも薬膳が並んでいるし、此之葉の手には箸が握られている。

「どうして此之葉さんまで付き合ってくれるんですか?」

「此之葉はずっと紫さまに付いておりましたから」

襖が開いたと思ったら、領主が入って来た。

「ご平癒、お喜び申し上げます」

領主が手をついて頭(こうべ)を垂れた。

「え?」

「私の浅慮でございました。 この様なことになるとは思ってもいませんでした。 深く深く、お詫びを申し上げます」

叩頭するが、訊きたいのはそこではない。 いや、後にその話は聞きたいが。

「領主さん、頭を上げてください。 あの、此之葉さんがずっと付いててくださったというのは?」

「はい、紫さまがここに来られた時から此之葉が付いておりました」

「えっと、ここに来た記憶がないんですけど?」

もっともだろう、気を失っていたのだから。

「その時より、此之葉が付いておりました」

『紫さま、お倒れになって今日で三日目です』 その言葉が浮かんだ。 領主を見ていた目を此之葉に移す。

「ずっと付いていてくださっていたんですか?」

倒れている間ずっと。

「未熟者ながら、それが私のお役ですので」

此之葉は “古の力を持つ者” として言っている。 だが紫揺にはそんなことなど分からない。

「ごめんなさ・・・」

言いかけて、謝るのではないと思った。

「有難うございます」

此之葉が恥ずかし気に微笑み俯いた。

口に苦しの薬膳を食べ終わると、領主から紫揺の倒れた時の説明を受けたが、それは短いものであった。 実際長く語れるものではなかったのだから。 岩壁を触ったかと思うと倒れた、それだけだったのだから。

それに同じて紫揺が口を開いた。
紫揺が記憶に残していたのは、岩壁に手を当てようとすると当たった感覚がなく、風景が見えた。 そのずっとずっと遥か先に岩壁が見え、洞窟の中とは違う空気を感じた。

そして洞窟で起きたであろう先の紫の記憶を感じ、何を言っているかは分からなかったが、叫んでいるような声が聞こえてきた。 誰かが助けてくれたことも先の紫の記憶に残っていた。

「そこまでなんです。 だから身体的には岩壁に手をつけた時から記憶がないんです」

紫揺の話した先の紫の話に悼むように視線を下げていた領主が顔を上げた。
領主は紫揺が先の紫を偲べるだろうと思い、先の紫が落ちた場所へ案内したと言い、再度、自分の浅慮を詫びそして続けた。

「紫さまは岩壁に手をお触れになって、ほんの数秒でそのまま後ろに倒れられました。 後ろに控えていた者がすぐにお抱え致しましたので、お怪我などはされておりません。 そしてそのまま領土に入り、床(とこ)で仰臥されておられました」

前半は先ほど言ったことを重ねて言った。

「・・・そうだったんですか。 飛んだんじゃなくて、後ろに倒れたんだ」

最初のフレーズは領主にも聞こえる声量だったが、その後のフレーズは口の中で言っただけであった。

「今日一日、ゆっくりとされて、明日、独唱様と民にお会いしていただけますでしょうか」

「・・・どうしようかな。 もう元気は元気なんですけど」

ちらりと此之葉を見た。
自分が動けば此之葉もついてくるのだろう。 寝ずの看病をしてくれていたのだ。 まずは此之葉を休ませるのが先決だろう。

「えっと。 じゃあ、そうします。 此之葉さんは休んでください。 私はここで大人しくしていますから」

此之葉が領主を見た。

「そうさせて頂きなさい」

此之葉が眉尻を垂れ、紫揺に目を移す。

「その代わりっていったらなんですけど、明日宜しくお願いします。 此之葉さんが一緒に居てくれないと、どうしていいか分からないですから」

日本の領主の家を出る時には、葉月の助けがあった。 あれがなければ、まだ領主の家を出られていないかもしれない。 まだ正座をしていたかもしれない。

(そうだったら私の足、死んでるな・・・)

高校一年の時に礼儀作法の授業が一時限だけあった。 和室での正座で授業を受けた。 襖の開け方から立ち方座り方、お辞儀の仕方からお茶の出し方まで、一時限中ずっと正座のまま聞かされた。 教師が手本を見せるのを見るだけだった。
授業が終わった後はクラス全員が悲惨な目に遭った。 立ち上がるに立ち上がれなく、歩くにまともに歩けなかったのだから。 よくも誰一人として捻挫をしなかったものだったと思う。

「では、一人お付きの者をつけますので」

そう言った領主に紫揺が首を振った。

「大丈夫です。 ここに一人でいます」

「ですが」

「何か用がある時には誰かを呼びます」

「領主、その方がよろしいかと」

口を添えてくれたのは此之葉だ。
知らない女に同じ空間でじっと座られていては、紫揺の気も休まらないだろう、と。

「・・・そうでございましたら。 部屋の外に控えさせておきますので何か御座いましたら、すぐにお声をおかけください」

「はい」

心の中は “はい” ではなく “ヨシ” であった。

「では、私はこれで。 なにも御座いませんが、ごゆっくりとお寛ぎください」

「有難うございます。 此之葉さんも、どうぞ休んできてください」

此之葉に辞することを促す。 少しでも早く休みを取ってほしい。
頭を下げた領主に続いて、此之葉も手をついて頭を下げると部屋を出て行った。

「ほぼ三日寝ていたというわけか。 身体が鈍っていても仕方がないな」

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虚空の辰刻(とき)  第163回

2020年07月10日 22時36分01秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第163回



葉月の後ろに続いて広間を覗くと、男たちがだらしなく寝ころんでいた。

「紫揺さまが来られました」

葉月の声に、男たちが飛び上がり身を正して顔を俯き加減にして端座をした。 紫揺を家まで迎えに来、そして紫揺が逃走劇を演じた時には、耳で確認した五つの足音の持ち主達と若冲の姿がそこにあった。

「お早うございます」

それぞれが頭を下げバラバラに言うが、それほど乱れてもいない。
ここで全員がスーツでも着ていようものなら、どこかの姐さんになった気分だが、作務衣のようなものを着ている。

「お早うございます」

家を出て来た時に近所の目を気にしていた理由、あの時も姐さんモドキになっていたのを思い出した。
皿を並べ終えた葉月が 「紫揺さまはこちらに」 と座るように促すが、紫揺が廊下に引っ込んでしまった。

「紫揺さま?」

葉月が廊下に出てくる。

「私が居ちゃ皆さんリラックスできないみたいだから、お部屋で食べます。 自分の分は持って行きますから」

「そんなことないですよ。 まぁ、たしかに緊張はしているみたいですけど、みんな紫揺さまにお会いしたかったんですから」

「いい、いいです。 お台所はどこですか?」

「・・・じゃ、こっちです」

案内する前に、男たちに食べているようにと告げた葉月だった。

結局、葉月もこれから朝食だということで、台所で二人で食べた。
葉月の朝食が遅くなったのは、四人分の朝食を作り終えた時に男たちがやって来て、大急ぎで六人分の朝食を作り、葉月は食べ損ねたのだということだった。

「領主さんは?」

「今は表に出ているんじゃないでしょうか」

「お散歩ですか?」

「そんなものです。 朝早くに領土に行って来られてましたが、すぐに帰って来られましたし。 ちなみに阿秀と此之葉ちゃんは領土に行ったきりです」

昨日も何度も聞いた “アシュウ” という人名。 セノギモドキの名前だと認識している。 そう言えば、領主も此之葉も名乗ったし、葉月は此之葉から紹介された時に名乗っていたが、葉月が言うところの男たちは誰も名乗っていなかった。

「え?」

「領主は今日のことを民に話しに行ったんだと思います。 阿秀と此之葉ちゃんはその準備でしょうね。 それに阿秀や此之葉ちゃんが居ては、こんな所で紫揺さまと食事なんて出来ませんし」

台所の中、今日も葉月は前に座らず紫揺の横に座っている。 結局、紫揺の部屋に戻らず台所のテーブルで葉月と食べることにした。

「紫揺さま? 夕べコッテリ此之葉ちゃんに怒られたんですけど、紫揺さまって東の領土のことをご存じなかったんですか?」

「此之葉さんがそう言ってたんですか?」

「うーん、まぁ、そんな感じで。 だからって言うか、紫揺さまに紫さまのお話をしちゃいけないって。 紫揺さまが気を良くはされないだろうからって」

「そうなんだ。 此之葉さんそんな風に思ってくれてたんだ」

「やっぱりそうなんですか?」

「よく分からなくなってきた。 たしかに最初はそうだったけど」

だからと言って、誰もから紫さまと呼ばれれば、また気を悪くするかもしれない。

「ね、葉月ちゃんって、昔の紫って人のことを知らないんでしょ? なのにどうしてその人ではない私を歓迎するの?」

紫と呼ばれる紫揺の祖母を葉月は知らない筈だ、それなのに何故。

「昔も今もありませんよ。 紫さまは紫さま」

祖母の名は紫。 そして北も然りだが、東の者たちも紫揺のことを紫と考えている気配が見える。 紫さまは紫さま、それは紫揺の中に巡る紫の気のこと。

「じゃ・・・薬缶の代わりは薬缶ってこと?」

領主から説明は聞いた。 言葉上であるならば頭では理解できた。 だが心底、と考えれば理解を出来たわけではない。 祖母も紫揺も一個人なのだから。

だが紫揺がそう考えるのに反して東の領土というところは、祖母と紫揺を紫という名で一括りに考えているということなのだろうか。

「やですよ、薬缶と紫さまを一緒にしないでください。 それに薬缶じゃなくて、薬缶が変わっても移された中の麦茶は麦茶って言いたいんじゃないですか?」

そうなのだろうか・・・。 分からなくなってきた。
首をかしげている紫揺を見てから、前に顔を戻して箸を持った手を顎の下に置いた。

「うーん、なんて言ったらいいのかなぁ。 ・・・紫さまは・・・慈愛でしょうか」

「慈愛? 私、そんなもの持ち合わせていませんよ?」

「それは紫揺さまが気付いていらっしゃらないだけです」

「そんなことない、子供だってあんまり得意じゃないし」

慈愛と言われて一番に子を思う心と思った。
自分がまだニョゼ離れが出来ていないというのに。 子を思うことなど出来ない。

「ふふふ、歴代の紫さま方も個性がおありでした。 先の紫さまのことはほんの数年しか書に残っていませんけど、紫さまが微笑まれれば民が微笑み、悼みを抱かれれば民が心沈むと書かれています」

「え? 書って?」

「領土史の中の “紫さまの書” です」

「紫さまの書?」

「はい。 領土史があるんです。 その中の ‘紫さまの書‘ です」

具体的に何を言われているのか分からない。 だが気になる。 そこに何かが書かれているということだろう。 それを読めば何かが分かるのだろうか。

「それって、私も見られるんですか?」

「もちろんです」

北の領土を想像すると歴史書などありそうになかったが、知らない所にあったのだろうか。 そうだとしたら、それを読まなかったことは失敗だったか。 女たちに案内をしてもらっていれば何かが変わっていたかもしれなかった。
今更思っても仕方のないことだが。

「それじゃあ、そろそろ食器を下げてきます」

葉月が腰を上げる。
自分たちはもう食べ終わった。 男たちももう食べ終わっただろう。

「手伝います」

葉月に続いて紫揺が腰を上げかけたが、葉月がそれを許さなかった。

「お願いですからそれはやめてください。 って、こんな所に紫揺さまが居らっしゃったことがバレたら、今度は此之葉ちゃんだけじゃなく、阿秀にまでコッテリ絞られそうです。 一旦、お部屋で待っていてください。 片付けたらお呼びしますので」

そう言うと、立ち上がった紫揺の背を押して廊下に出したが、そんな所を阿秀に見られればそれこそコッテリだ。


広間に領主と紫揺が長卓を挟んで向き合って座っている。 紫揺から見た左手広縁には、掃き出しの窓を背に男たちが頭を下げ座している。 阿秀も戻って来ていた。
手をつき深くお辞儀をした領主が口上を述べる。 男達も同じように手をついて頭を下げた。

(・・・重すぎる)

何人もの男たちが自分に頭を下げる姿など見たくもない。 それに聞いているだけで、お尻がムズムズしてくる。 だが、これが終わらないと先には進めないのだろうから、我慢するしかなかった。
口上が終わった領主が頭を上げる。 男たちもそれに倣って腰を伸ばしたが、頭は下げたままである。
やっとお尻のムズムズが取れた。

「一つ、藤滝さんにはお辛く感じられますことを、お願いせねばなりません」

口上を述べている時には “紫さま” と言っていたが、ここにきて “藤滝さん” に戻している。

「なんでしょう」

「領土に帰りましたら、民が藤滝さんを “紫さま” とお呼びいたします。 我らも領土に帰って “藤滝さん” とはお呼びできません。 民ともども “紫さま” とお呼びすることをお赦しください」

再度頭を下げると、またもや男たちがそれに倣う。
口上の時に何度も “紫さま” と言われたのだから今更だ。

「分かりました」

「有難うございます。 では、参りましょう」

そう言うわりには領主が立ちあがらない。 男達もだ。

(ん? 領主さん痺れでもきれてるのかな?)

どうしたものかと思っていると、左目の端に動くものが映った。
そろっと眼球を動かして掃き出しの窓を見てみると、男たちの後ろで葉月が大きく手を広げて両腕を振っている。
こちらを見ろということだろうか。 首をひねって葉月を見ると、今度は両腕を伸ばして前に揃えて持ってきたと思ったら、掌を上に向けその腕を上に上げた。 下ろしてはまた上げる。
それを数回繰り返したのを見てもしかして、とそろりと立ち上がった。 すると領主も立ちあがり、それとともに男たちが動き出した。

掃き出しの窓の向こうでは、葉月が腕を軽く曲げると両手を重ねて頭上より高くに持ち上げた。 〇を作っている。 OKということらしい。 そしてその場から居なくなった。

そう言えばここに入って来た時には男達が先に広縁に座ってはいたものの、領主は紫揺の後ろから入り、紫揺に座るよう促してから領主が座っていた。 立つも去るも、入るも座るも全て紫が先なようだ。
改めて紫という立場を感じた。

「あ、忘れ物。 領主さん先に行っててください」

廊下を歩いていると思い出した。

「お部屋にですか?」

紫揺が頷くと陰に隠れていた葉月を呼んだ。

「藤滝さんのお忘れ物を取ってきてくれ」

「はい、どのようなものですか?」

ひそんでいた葉月が白々しく紫揺の前に姿を現した。

「バッグの上に置いてある紙袋です」

自分で取りに行くと言いたかったが、雰囲気がそうさせてはくれなかった。

「紙袋・・・」

領主が僅かに眉をひそめた。

「紙袋の中にはどのような物が・・・あ、いえ、バラバラとなるようでしたら―――」

「風呂敷です。 風呂敷で包んであります」

「申し訳ありません、領土には紙袋なる物は御座いませんでして、中の風呂敷を出しても宜しい御座いましょうか」

北の領土のことを考える。 北と東でどれ程違うのかは分からないが、少なくとも紙袋がないというのだから、東の領土も日本とは文明が違うのだろう。 領土に無い物を持ち入るのは歓迎しがたい事なのだろう。
だが、風呂敷の中のものを訊かないということは、見えなければそれでいいのだろうか。 いずれにしても紙袋が必要なのではない。

「はい」

領主が謝罪するように頭を下げる。

(仰々しい・・・)

「すぐに葉月が持ってまいります。 さ、行きましょう」 

領主に促され足を進める。 玄関を出ると既に男たちが低頭していた。 違うルートから玄関に出たのだろう。

領主が先を歩き向かった先は洞窟だった。 玄関を出て左に曲がれば道路。 それを左に曲がらず右に曲がり、更に右に湾曲している道とも言えない道を歩いたところにそれはあった。 その入り口には、葉月が言っていた物置に見える掘っ立て小屋があった。

「ここからは薄暗くなりますので、足元にお気を付けください」

洞窟に足を一歩踏み入れると、裸電球がぽつぽつと吊り下げられてあった。 岩と土で出来ているだけの洞穴。 北の領土に向かう時に歩いた洞窟とよく似ている。 こちらも蝙蝠の姿を見ることもなければ、蜘蛛の巣に引っかかることもない。 まぁ、人の出入りをする洞窟とはどこも同じようなものなのだろうが。

五分ほど歩くと広い場所に出た。 左手は岩壁だが、右手に広い空間が広がっている。 奥には几案(きあん)が置かれているのが見えた。

「ここは?」

「独唱様がずっとこちらで、紫さまの気を追っておられた場所でございます」

「ここで?」

葉月から聞いた独唱。 “古の力を持つ者” であり此之葉のお師匠さんと聞いていた。

「何度か家に来られるようお勧めしたのですが、こちらがいいと仰いまして」

「独唱様って、おいくつなんですか?」

此之葉の師匠であり、多分、この領主に匙を投げたであろう師匠ならそこそこのお歳のはずだ。 それに領主が家に来た時に歳の話をしていた。 祖母が幾つの時に “古の力を持つ者” が幾つと言っていただろうか。

「こんど、八十におなりになります」

「え? じゃ、そのお歳でこんな場所にずっと?」

「独唱様が先代師匠から教えを乞われ、先代師匠がお亡くなりになった後からずっとですから、ざっと、七十年ほどでしょうか」

「な、な、七十年も此処に!?」

「おおよそ十年、と言いましても、歳浅い時を差し引きますと、独唱様は十年も先代から教えを乞うておられません。 聡いお子であったのでしょう。 独唱様のお力なくして、藤滝さんをお探しすることはできませんでした」

此之葉が『まだまだ未熟者』 と言っていた。 謙遜ではあろうが、それを考えると信じられない。

「十歳の頃からここに一人で?」

「此之葉が教えを乞うのにこちらに通っておりましたし、私も幾年かは通いましたから、七十年間ずっとお一人ではありませんでしたし、二十数年前から独唱様に付いている者もおりました」

「それにしても・・・」

「藤滝さんにはどうしても独唱様にお会いしていただきたく思っております」

独唱様と呼ばれるお婆さんの、何十年とかけた集大成が自分だというのか、だから会わせたいのか。 そう思いはしたが口には出せない。 それはあまりに浮薄で愚昧だ。 独唱の人生を考えた時に悲しさだけしか感じない。

「進みましょうか」

領主が言うと、その先に見える洞に向かって歩き始めた。
歩き進めると、北の領土に向かった時のような何かを感じた。

「え?」

思わず口に出た。 同じ感じがする。

「お気づきですか?」

領主が振り返って紫揺を見た。

「この辺りから少し歪んだ感覚が致します」

言われて気付いた。 そうだ、空気が歪むような、そんな感じがするのだ。

「これを感じ取れるのは力のある者だけです」

後ろを振り向くと、たしかに男たちは何の話をしているのかといった様子をしている。 俯いているからどんな顔をしているのかは見えないが。

「領主さんは・・・」

「師匠から匙は投げられましたが、この程度なら分かります。 慣れないうちは気分のいいものではありませんが、今しばらくお堪えください。 それと此処からは電気がありませんので」 

阿秀が領主と紫揺に懐中電灯を渡す。 阿秀が紫揺の足元を照らせばいいのだろうが、紫揺もただ歩くだけではなく、単なる洞だがそれでも辺りを見たいだろうと思い用意をしていた。
ほんの数日だが紫揺を見ていて紫揺がそう考える人物だと思ったからだった。

後ろを歩く者もそれぞれ懐中電灯を手にしているようだ。
領主が進行方向に向き直り歩き出した。

(たしか、北の領土に行った時は、この感覚があって暫くしたら、足元が濡れてきたはず。 岩壁も)

そう思って懐中電灯で岩壁を照らして見てみたが、濡れた感じは見受けられなかった。 北の領土に行った時と同じようなら、騙されて北の領土に戻ってきたかもしれないと思ったからだが、そんな様子はなかった。 それに洞窟の中という程度にはひんやりとしているが、北の領土の時のように寒さに手を縮こまらせるほどではない。

「前をご覧ください」

どれだけ歩いただろうか、歩き続けていると領主の声が響いた。
壁や足元を懐中電灯で照らしながらキョロキョロと見ていた紫揺が、一瞬領主を見てから目を凝らして前を見た。 領主が懐中電灯で二メートル程先を照らしているが、ご覧くださいと言われても、特に何もないような気がする。

紫揺が首をかしげるのを見て領主が続けた。

「もし、先の紫さまがここまで来られたとすると、このようにあったはずの穴をお見つけになられなかったと思います」

「では、ここのどこかに穴が開いてるんですか?」

領主から聞かされていた話を思い出した。 何かが触れないと、または触れていないと、領土を見ることが出来ない。 岩壁があるようにしか見えないと。

「どうぞ」

どうぞというのは、壁に手を当てろということだろう。 二歩進むと足の下で音がした。 見てみると、拳くらいの大きさの石が敷き詰められてあった。

「ここに大きな穴のようなものがあったので、先の紫さまは壁まで手を伸ばされなかったのでしょう」

「これは、領主さんたちが敷いたということですか?」

「最初はずっとそのままだったと聞いています。 私の父の代で敷いたと聞きました。 どうぞ」

領主に促され、もう三歩進みそっと手を伸ばす。 壁に掌をつけると、ひんやりとした岩壁の感覚があるはずだった。 だがそんな感覚など無く、紫揺の手を当てたところを中心に、まるで波紋のように風景が広がっていった。
目を大きく広げる。 掌に岩壁を触った感覚はなく、今までと違う空気を感じる。 一陣の風が短い紫揺の髪を撫で、頬を撫で、ヒューっと優しく耳に囁いた。

「お気を付けください」

いつの間にか領主の手が前に倒れないよう、紫揺をいつでも抱えられるように腹の辺りに差し出されていた。



『――――― !』

(これは?)

誰かの声が聞こえる。

『――――― !』

(紫・・・お婆様の声?)

どうしてそう思ったのだろうか、だがすぐにそうだと感じた。 何と言っているのかは分からない。 でも泣いている。 叫んでいる。

(・・・あ)

見えはしないが、紫が、お婆様がガクンと下に落ちた感じがした。

(力だ・・・叫んだから力で足元に大きな穴が開いてしまったんだ)

膝に痛みを感じた。

(・・・く)

だが同時に。

(だれ?)

紫を誰かが穴から引き上げている。
先の尖(とが)った木の破片を感じる。 そこから血が滴っている。

(・・・恐い)

頭の中がジンジンする。 こめかみに電気がピリピリと走る。 脳をかき回されているような気がする。

(いやだ・・・恐い)

木の破片が鋭利な刃物のように思える。
意識が遠くに飛んで行きそうになる。
・・・それでいい。 飛んで行きたい。 ここは嫌だ。

――― 飛べる。

『東の地を頼みます』

遠くに聞こえた。 だがしっかりと耳に心に聞いた。

身体が後ろに揺れた。



「紫さま、お気がつかれましたか」

目に光が入ってきた。

「紫さま」

――― 誰かが呼んでる。

「お気をたしかに」

――― だれ。

再度、紫揺の瞼が伏せられた。

悲しげな息を吐くと、後ろを振り返った。

「領主に伝えてください。 一度目覚められましたけれど、またすぐに目を閉じられたと」

控えていた女が頷くと襖を開け出て行った。
此之葉が紫揺の額の上に乗せていた手拭いを取ると、よく冷えた水が入れてある桶に漬け、ぎゅっと一絞りし再度、紫揺の額にのせた。

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虚空の辰刻(とき)  第162回

2020年07月06日 22時47分26秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第162回



ハルの家に着くと既に此之葉が家を囲む塀の外に居た。

「此之葉」

此之葉の後ろから声を掛けると振り返った此之葉が阿秀を見た。

「中に紫さまと葉月が居ます」

覗いてみると縁側にハルが座り、その横に紫揺が座っている。 葉月はハルの斜め前に立っていた。

「・・・と訊かれてもなぁ。 わしは、爺さんと婆さんから話を聞いただけで見てはおらんからな、爺さんと婆さんもそうじゃ」

「そうですか・・・」

「じゃがな、話に聞くと男どもが切羽詰まったように、紫という名の女の子を探しておったようじゃ。 爺さんも婆さんも、探してやるから落ち着きなされと言ったと聞いとる」

「・・・」

「爺さんと婆さんは見てはおらんかったが、傷を負った女の子がいたという話があると聞いた。 その女の子のあとを婆さんの息子に、わしの父親やの、探すように言ったが、九州本土に行ったことしか分からなんだ。 施設に入ったとな」

「・・・施設?」

「まだ子供じゃったから。 どこの施設かまでは分からんかったらしい」

紫揺が両手で顔を覆った。

「紫揺さま・・・」

思わず葉月から声が漏れる。 ここで終ろう。

「ハルさん。 有難うございました。 物々交換は上手くいきましたか?」

「ああ、今晩にでもおすそ分けを持って行くからの、楽しみにしてるんじゃな。 それより・・・」

紫揺に視線を流す。

「この子は?」

紫と呼ばれていた女の子の話を聞きに来たこの子は?

「紫さんの遠縁にあたるんです。 ハルさんが何か知っていればと思って尋ねちゃいました」

紫の孫とは言わず、遠縁と言っておく。

「そうかの。 何も知らんで悪かったの」

紫揺が首を振る。

「気を落とすでないで。 あの子は立派に生きとるで、もう相当な歳じゃろうが、きっとな」

紫揺が何度も頷く。

「有難いことじゃ。 歳を経ても探してもらえるなんとな」

「あら、ハルさんが居なくなったら、私は寿命が尽きるまでハルさんを探しますよ」

「こりゃ、有難いことじゃ」

ヒャッヒャと、ハル特有な笑い声をたてた。

「葉月は此の地をよく分かっているようだな」

日本のことは阿秀もよくよく分かっている。 日本で働き生活も立てていたのだから。 その時に知った日本は東の領土と似たところもあるが、荒(すさ)んだところもあるということだった。

だがここは、この島は、特に人情というところで東の領土とは変わらなく荒んだところも無い。 だからと言って東の領土と同じように振舞っていくには無理があるだろう。 自分たちはこの地の者では無いのだから。

だから相手のことを重んじたことを口にし、行動に移すということは容易なことではない。 それなのに、それを葉月がしている。
コクリと此之葉が頷いた。


「阿秀」

ハルの家から出てきた葉月が阿秀の姿を見た。

「ね、このまま紫揺さまを海にお連れしたいの。 いい?」

葉月の後ろで頭を垂れている紫揺の姿が見える。 ハルから思ったことを聞けず気落ちしているのだろう。

「いかがなさいますか?」

阿秀が紫揺に尋ねた。

「阿秀、そんなこと訊かないの」

「え?」 

葉月が思いもしないことを発した。

「行くに決まってるでしょ、ね、紫揺さま。 さ、行きましょう」

紫揺の手を取ると走り出した。 紫揺も手を取られていては足を動かすしかない。

「阿秀! 夕方頃に帰るから。 心配しないでいいからね。 此之葉ちゃん、夕食を作っておいてね!」

阿秀と此之葉が呆気に取られた。

紫揺が気落ちしているのは明らかだ。 葉月がその紫揺を元気づけたいと思っているのだろうが、あまりにも畏れ多い。 多すぎる。

だが阿秀の口から出たのは別のことだった。 今はそう言う以外に思いつく言葉がなかったのだから。

「此之葉・・・料理は出来るのか」

夢遊病者のように口だけが動いた。

「・・・冷や奴でしたら」

こちらも意識が薄いが、最上級の料理の腕を的確に、そして真実を答えた。

「・・・」

二人の無言はハルが声を掛けるまで続いた。


「えっと・・・ごめんなさい。 こんなに遅くまで」

「いえ」

葉月は夕方ごろに帰ると言っていたが、もう月明かりが出ている

「あの、私から今日領土に行くって言ったのに」

「阿秀、紫揺さまが悪いんじゃありません。 遊び過ぎた私が悪いんです」

殊勝に頭を垂れる葉月。

「いえ」

“いえ” と二度繰り返された。 玄関先に立つ俯き加減な阿秀の言葉が重い。

「えっと・・・明日に延期していただいてもよろしいですか?」

「領主がそれを望んでおりましたので丁度宜しいかと」

あくまでも冷たい物言い。

「怒ってますよね」

「その様なことは御座いません」

「絶対怒ってる」

これは葉月。

「葉月! 紫さまが今どんな状況におられるか分かっていないとはいえ、勝手に紫さまをお連れするなどと、許されることではないのですよ! 何事もなかったから良かったものの!」

いつ北の領土の者が攫いに来るか分からないのだ、いつも静かな此之葉が声を荒げた。

「ごめんなさい」

正直に謝る葉月だが、それ以前に声を荒げた此之葉に驚いた阿秀だった。

「でも、それじゃあ、あの時に阿秀がついて来ればよかったんじゃない」

ポソリと言い返す葉月にそう言われてしまっては阿秀も此之葉も返す言葉がない。

ハルに声をかけられてようやく我に戻った阿秀が紫揺と葉月の後を追ったが、時すでに遅かったのだろう、どこを探しても見当たらなかった。

きっとこの地をよく知っている葉月の秘密基地にでも連れて行ったのかもしれないと、諦めて戻って来ていた。 少なくとも北の領土者より阿秀の方がこの島をよく分かっているのだから、その阿秀に見つけられなかったということは、北の領土の者も見つけられないと思ったのと、下手に屋敷を空けてしまうと、屋敷に戻ってきた紫揺たちとすれ違ってしまう時のことを考えてのことだった。
今現在、屋敷には塔弥もいないのだから、何かあっては誰も紫揺を守ることが出来ない。

「あ、私が悪いのは分かっています。 領主さんからも気を付けるように言われていたのに、勝手なことをしてしまいました」

「紫揺さまがお謝りになることなんてありません。 私が紫揺さまをお連れしたんですから」

「葉月ちゃんが私を励ますために海に連れて行ってくれたんだもの、葉月ちゃんが謝ることなんてないよ。 それにスッキリした。 ありがとう」

葉月と紫揺の間ではそれでいいだろう。 遊んでいる時に、葉月が自分より年下と聞いたのだろう “ちゃん” 呼びを始めたくらいなのだから。

「紫揺さま・・・」

「怒るなら、私を怒って下さい」

阿秀を見て言うが、阿秀に怒れるはずなどないであろう。 阿秀自身の落度もあるし、葉月と紫揺の会話を聞いていても。
それに何もなく終わってくれた。 それが何よりだ。

「先程も申し上げましたが、領主が領土に行くのは明日に伸ばしてほしいと言っておりましたので、それで宜しかと」

答えになっていませんけど? そう言いたかったが今はその言葉を飲んだ。 自分が悪いのにケンカを売ってどうする。

「では、明日お願いします」

「承りました。 こちらからは、時間をかけなくとも領土に入ることができます。 お疲れでしょうから、藤滝さんの起床に合わせて領土に向かいたいと思います」

「分かりました」

―――絶対に朝早くに起きてやる。

紫揺と阿秀との間で話は治まったようだ。

「紫揺さま、お部屋にご案内します。 一人で寝られるのが恐かったら、私が一緒に―――」

「葉月!」

本日、最大音量の此之葉の叱責が飛んだ。


部屋まで葉月に案内され、その後、風呂に入った紫揺が部屋に戻ってくると、すでに布団が敷かれていた。
ちなみに、夕飯は冷や奴でもなければ、湯豆腐でもなかった。

ハルが物々交換の品を持って訪ねてきた時に、台所で無意味に鍋をひっくり返して大きな音をたてて尻もちをついている此之葉に代わって、ハルが作ってくれた品が並んでいた。 米粒も飯に変えてくれていた。

「葉月ちゃんが敷いてくれたのかなぁ」

ニョゼが切ってくれた髪の毛は少し伸びてきていたが、まだ簡単にドライヤーで乾かすことができた。

脱いだ下着や服を鞄に詰め、代わりにバッグの中に入っていた紙袋を出した。 紙袋の中には風呂敷が入っている。 天袋の中にあった箱の中の物を持ってきていた。 紫揺のお婆様であり、紫が着ていたと思われる服や装飾品。

「誰に見てもらえばいいんだろ」

それにどんなタイミングで。

「領土ってとこに行く前の方がいいのかなぁ」

明日の朝、ここを出る前の方がいいのだろうか。
バッグのファスナーを閉めると、紙袋をバッグの上に置いた。 ゴロンと布団に転がる。 六畳分の畳が敷かれているが、紫揺の家の六畳とは全然違う。 紫揺の家からすれば八畳くらいの広さがありそうだ。

ガラガラと玄関の戸を開ける音がした。

「ん?」

起き上がりソロリと足音を忍ばせて玄関の方に歩いて行くと、阿秀らしき影が戸を閉めたのが目に映った。 見送っていたのは此之葉だ。

「こんな時間にどこに行くんだろ」

もう夜の十時を過ぎている。

「あれ? 紫揺さま?」 

後ろから声が掛かり振り向くと葉月が居た。

「あ・・・」

盗み見をしていたのがバレた。
葉月が紫揺ごしに玄関を覗くと、此之葉の後姿が見える。

「此之葉ちゃん、お見送りしてたんですね」

「お見送りって・・・?」

「阿秀が家に帰ったんです。 っていうか、男たちの家です。 掘っ立て小屋ですけどね。 私や、独唱様はここに泊まりますけど、男たちはそちらで寝起きしてるんです」

「ドクショウ様?」

紫揺が小首をかしげる。

「 “古の力を持つ者” です。 此之葉ちゃんのお師匠さん。 ちなみに、うーんと・・・斉唱の反対の独唱って字を書きます」

「斉唱の反対・・・独唱様・・・。 “古の力を持つ者” で此之葉さんのお師匠さん」

「はい。 で、その独唱様は此処に居る時は領主の家で寝起きをしますけど、男たちは掘っ立て小屋。 阿秀は領主の家でもいいんですけど、男たちが気になるんでしょうね」

領主を除く男女別に寝所があるということか?

「掘っ立て小屋ってどうして? 家じゃないの?」

「家にしちゃうと島の人からおかしく思われますから。 万が一見られたら、男が何人も一つの家に住んでるなんて変でしょ? だから、ここの敷地内に外から見たら物置みたいに見えるようにって建てたんです。 えっと・・・今の男たちの、お爺さん? お父さん? どっちだったかな? ま、今の男たちじゃないんですけど。 それに一応ここでは、男たちはいないことになっていますから」

「どういう意味ですか?」

「男たちの中で島民に顔を知られているのは阿秀と・・・紫揺さまがここに来られた時に居た男が居たでしょ? その二人だけです。 でないと領土に帰っている間に、ここから男たちが一人も居なくなるのはおかしいでしょ? 阿秀は何かの研究をしてるってことで、しょっちゅう本土に行ってるってことになっていますし、領主もそれに同行しているってことになっていて、ここを空けながら領土に帰っています。 男達もたまに見られますけど、その時には阿秀の手伝いの本土の者ってことになってます」

「そうなんだ」

北の屋敷には、他の目と言っても事情を知らない働く者が数人しかいなかったから、そこまで配慮する必要はなかった。

「葉月ちゃんは、ずっとここに居るの? 領土には行かないの?」

「帰ります。 時々ですけど。 その為に出来るだけここに居る時には、居ますよアピールをしてます」

「ハルさんの所に行ったり?」

「それもありますけど、ハルさんにも、ハルさんのご両親にも、祖父母さんにも、我が領土代々がお世話になったんです。 少しでもご恩返しをしたくて。 話し相手になってるだけですけど。 でも、お話をすることで色々教えてもらっています。 お料理もハルさんから教わりました。 最初は領土と素材が全然違うから全く分からなくて」

「そうなんだ。 味が似てると思った。 すごく優しい味」

「あ、ちゃんと教えてもらった通りに出来てたかな。 この島はみんな濃い味らしいんですけど、ハルさんはそれが苦手らしくて。 でもその方が私たちにはいいんです」

「うん、美味しかったし、同じ味がした」

「有難うございます。 嬉しい。 やっぱり、紫揺さまは紫さまですよね」

「え?」

どういう意味だろう。

「揺れちゃわなくていいです。 紫さ・・・あわわ」

葉月の様子に何事だろうかと、葉月の視線の先である後方を振り返った。 するとそこに此之葉がいた。

「葉月、お料理のことならまだしも、紫さまのことをお話するんじゃありません」 

そう言うと、一瞬紫揺に視線を合わせ、腰を折った。

「要らないことを申しました。 お許しください」

「いえ・・・そんなことは。 って、あの、紫・・・のことを話してもらうのが要らない事なんですか?」

「葉月は事情を分かっておりません。 紫揺さまがどうお考えになっておられるかということを。 その事につきましては明日の朝、領主からご説明があると思います」

ではお休みなさいませ、と言って葉月を連れ去って行った。

ポツネン。

廊下に一人佇む紫揺。

「ニョゼさんだったら部屋まで連れて行ってくれるのにな・・・」

この後、葉月が此之葉からコンコンと叱られることを知らない紫揺から無意識に本音が出た。

「あ・・・私ったら、そんなことを考えてたんだ」

ニョゼ離れがまだ出来ていないようだった。 学校時代の友達に会うとか、シノ機械に顔を出すとかということはしようとも思わなかったのに、もしどこかでニョゼに会えるとするとすっ飛んでいくだろう。

「結局甘えてるだけなのかな・・・」

とぼとぼと廊下を歩いた。


「・・・ん」

人の行きかう足音で目が覚めた。

「何時・・・」

枕元に置いていた腕時計を手に取ると十時を指していた。

「ウソ!!」

飛び起きるとすぐにジャージからGパンに履き替えた。 上は薄手の長Tシャツ。
布団をたたみ部屋の隅に置くと、襖を開け廊下を歩いた。

「あ、お早うございます」

葉月が盆に料理を載せて足早に歩いていた。

「お早うございます」

心の中では、遅ようございまして申し訳ありません、と言っている。

「すぐに紫揺さまのお料理も持って上がります。 広間でみんなと一緒にお召し上がりください」

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虚空の辰刻(とき)  第161回

2020年07月03日 22時23分04秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第160回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第161回



「葉月さんは食べないんですか?」

食べ始めた時からずっと横に座る葉月に尋ねた。

「お味見でお腹がいっぱいです」

とても無邪気な笑みを送ってくる。

「これ、葉月。 すこしは藤滝さんから離れなさい。 食べ辛くていらっしゃるだろう」

塔弥からは葉月が気落ちしていると聞いたがいつもの葉月だ、塔弥が思うほどでもなさそうか、と胸を撫でた。

(代弁有難う御座います。 全くもってそうです)

ピッタリと隣に座られ食べにくいことこの上なかった紫揺が心の中でささやいた。

プクッと頬を膨らますと、紫揺から離れた。 ・・・数センチ。
阿秀が握った手を口に当て横を向いた。

(絶対に笑ってる)

紫揺が横目で阿秀を見る。

(って、いっつもすました顔をしてるのに、あんな顔して笑うんだ。 へぇ~)

変な所に焦点を置いたものだが、セノギモドキと思っているだけに、セノギにはもう少し人間味が見られた。 このセノギモドキには今までそれが見られなかったからだった。

「お茶をお淹れします」

やっと紫揺の横から立って茶を淹れると一人一人の前に置いた。 そして何故かまた紫揺の横に座る。

「葉月」

領主にとがめられた葉月が紫揺から離れる。 やっぱり僅かに。

「・・・葉月」

今度は此之葉の声であった。

「あら、此之葉ちゃんはずっと紫さま・・・えっと、シユラ様とご一緒だったからいいけど、私は今日が初めてなんです。 ちょっとくらいいいでしょ」

「姉の言うことに従わなくてどうする」

「あら、領主。 領主だってそうです。 紫さ、シユラ様の一人占めはいけません」

「あの、今、姉って?」

紫揺がキョトンとした顔で領主に訊いたが、誰が返事をするよりも先に葉月が答えた。 この会話を誰にも横取りされたくない。 紫揺の顔は領主に向いているのだが、そんなことを考えていてはせっかくの会話を取られてしまう。

「はい。 此之葉ちゃんは私の姉です」

そこでやっと葉月を見た。

「え? 姉妹?」

初めての展開だ。 こんなことは北ではなかった。
それに妹という葉月の方が背が高いのか? そしてそして棒っきれのような此之葉と違って豊かな肉体。 でもそう言われれば、葉月の方は溌剌(はつらつ)としているが、此之葉の方は落ち着いた感じがする。

「此之葉は、先日お話しました “古の力を持つ者” です。 幼いころから先代と共に生活をし、教えを乞うていましたが、葉月はまぁ・・・自由に育ったと言いましょうか」

「え?」

“古の力を持つ者” と聞いて此之葉を見ると、此之葉が軽く頭を下げた。

「此之葉の持つ力で、藤滝さんの会社での後任を任すことが出来ました」

「それは、いったい・・・どういう風に?」

「はい。 私は人が触ったものから、その方のご様子を知ることができます。 藤滝さんが―――」

「紫揺でお願いします」

「あ、はい。 紫揺さまの座っていらっしゃったお椅子に座るだけで、どういうお仕事をされていたのかが分かります。 電話に触れれば、どういう会話をしていらっしゃったのかも」

「物から思念を読むようなもので御座います。 私には到底できませんが」

領主が言う。

「そんなことが?」

領主に向けていた顔を此之葉に戻す。

「まだ未熟でございます」

此之葉が言った。

置いてきぼりを食ってプクプクと左右の頬を膨らませていた葉月がここで入ってきた。

「領主も “古の力” があるんですよ」

「え?」

「これ葉月」

「そうなんですか?」

「お恥ずかしい程度です。 師匠からは匙を投げられましたから。 それに本来の “古の力” は男は持ちえませんので、此之葉の小指の先ほどしかございません」

四人が話している横で阿秀が知らぬ顔で茶をすすっている。
紫揺と領主も既に食べ終わっている。 時計を見る。 十四時五十分より少し前。

(腹を休めて・・・十五時三十分ぐらいか)

湯呑を置くと 「外を見て参ります」 と阿秀が場を辞した。

那覇空港からの飛行機に怪しげな姿を見なかったし、空港を下りてから車でも尾けられている様子はなかったが、万が一を考えるとじっとはしていられなかった。

北は紫揺の居所を掴んだのだから。 こちらは “古の力を持つ者” である独唱が幼い頃に記憶をしていた紫の気で追ってこられたが、北には紫の気を知る者などいない。 それなのに場所を特定してきた。 まぐれとは思えない。 領主はかなり力のある者が北にいるのかもしれないと言っていた。 それだけに油断はできない。

一通り家の周りをまわったが、変わったことなど見られなかった。 家の裏は岩がボコボコしていて歩き辛いが、逆に言えば身を隠すにはちょうどいい大きさの岩も点在している。 その裏も見て回った。 石畳を歩いて道路に出る。 車が行き買う様子もなければ、不審に感じるところもない。

(それにしても、塔弥はどこに行ったんだ)

本来ならこの役は塔弥のはずだったが、外に出てみると塔弥の姿が見られなかった。

「阿秀」

振り向くと葉月が居た。

「ん? 紫さまにくっついているんじゃないのか?」

「意地悪な言い方。 でもまぁ、そうしたいのは山々だけど領主から伝言」

そう言い始めると、独唱の具合を話し始めた。

「だから塔弥は領土に帰りました」

ここが領主からの伝言だった。

「そうか。 独唱様も無理を強いておられたようだからな。 塔弥もさぞ心配しているだろう」

「でもね、独唱様がお倒れになられた時、塔弥が付いていれば、そんなことはなかったと思うの」

「何を言ってるんだ。 そんなことはない、葉月らしくない」

そう言うと葉月の頭をポンポンと二回たたいた。

「紫さまはどうされている?」

これ以上の慰めは葉月を落ち込ませるだけかもしれない。 話を変えよう。

「此之葉ちゃんと話してる」

少し不貞腐れたように言っているが、紫揺を此之葉に取られたというわけではないであろう。 まだ独唱のことを気にしているのだ。

「いいのか? 此之葉に紫さまを取られるぞ」

「なに? 追い返したいの?」

「そんなこと思っているはずないだろう」

口をちょっと歪めると、目を左右に動かした。 納得できない時や、訊きたいことがある時の葉月の癖だ。

「ね、どうして紫さまって呼んじゃ駄目なの?」

「ああ。 そうだな、紫さまがご自分のことを、まだ紫さまと認めていらっしゃらないから、というところかな」

「ふーん。 シユラ様ってどんな字を書くの?」

「紫が揺れる」

「ふーん、紫揺さまか。 ふふ、紫揺さまそのものね」

「ん? どうしてだ?」

「紫さまになるにはまだお認めになっていらっしゃらないということは、お心が揺れていらっしゃるってことでしょ?」

阿秀が両方の眉を上げた。

「そうかもしれんな。 ほら、戻って紫さまと話しておいで」

葉月の肩を持つと回れ右をさせて、背中をポンと叩いた。
葉月が顔だけ阿秀に向けると、べーっと、舌を出して石畳を走って行った。

「そうか・・・」

それで塔弥が居なかったのか。

「無理を強いられた独唱様には是非にとも、紫さまにお会いしていただかなくては」

いや、是非になどと言うものでは無い、必ず。 でなければ、独唱の人生が報われない。
家の周りをもう一歩きすると、やっと家の中に引き上げた。
広間では紫揺と此之葉がシノ機械のことを話していた。 領主と葉月が居ない。 卓を見ると御膳は片付けられていたから、葉月は片付け物をしているのかもしれない。

台所に行ってみると一人あくせくしながら葉月が洗い物をしていた。

「葉月、領主は?」

「あ、お疲れになったようで・・・っていうか、腰がやられたようで、お部屋で横になってる」

一瞬振り返ったが、また顔を戻して洗い物の手を忙(せわ)しなく動かす。

「腰か・・・」

車や飛行機と乗り物に乗りっぱなしだったからだろう。 紫揺のことを考えて無駄な時間を取らないように運んだが、もう少し体を伸ばせる休憩を挟んだ方が良かったのかもしれない。

「かなりのご様子か?」

「けっこうきてそう」

振り返ることなく手を動かしている葉月の後姿を見て、背中を壁に預けると親指と中指でこめかみを一度押さえてから上を向いた。

(洞の中を歩けそうにない、か・・・)

一度様子を見ておいた方がいいだろう。
領主の部屋に向かうと襖が閉められていた。 正座をして襖の外から声を掛ける。

「領主」

「ああ、阿秀か。 入って構わん」

襖を開けると座布団を並べて領主が横になっていた。

「葉月から聞きましたが」

中に入ると襖を閉じた。

「ああ、無理がここできたみたいだな」

今日の飛行機に車と乗り慣れないここまでの移動はもちろんのこと、その前に金沢からも移動してきていた。 それも長い間電車に乗っていたのだった。

「配慮が足りませんでした」

手を着いて頭を下げる。

「阿秀のせいではない。 もうちっと、我慢してくれればいいものを。 この腰が・・・。 紫さまをお連れせねばならんというのに」

「領土へは伸ばして頂けるようお願いしてみます。 領主の具合はいかがでしょうか?」

「ああ、一日置けばどうにかなると思う」

「では、その様にお願いしてまいります」

領主の部屋を辞し、襖を閉めると広間へと足を運んだ。
途中、声を掛けられた。

「阿秀!」

振り返ると此之葉だった。

「此之葉、紫さまは?」

「それが・・・」

此之葉が言うには、葉月が洗い物をする前に、この島を紫揺に案内したいと申し出ていたようだった。 紫揺もそれに乗り 『是非とも』 と言っていたそうだ。
そして洗い物を終えた葉月が紫揺とともに屋敷を出たという。

「それで・・・」

葉月が洗い物を急いでいたのか。

「どこに行くと言っていたか聞いたか?」

「葉月は海を見せたいと言っていました。 紫さまはハルさんのところに案内してほしいと仰っておられました。 止めることが出来なく申し訳ありません」

「気にするな。 此之葉のせいではない」

踵を返した阿秀。

「阿秀」

走りかけだした阿秀を止める。

「私にも指示を下さい。 どこに行けば宜しいですか?」

今までに出したことの無いほどの声量だった。 今は自分以外誰もいない。 自分しか手伝う人間はいないのだから、知らぬうちに力が入る。

「ではハルさんの家を訪ねてくれ。 私は海沿いを見てくる」

「はい」

ハル家族への感謝の念は誰もが持っている。 それだけにずっと師の独唱に教えを乞うていた此之葉といえどもハルの家だけは知っていた。

阿秀が海岸沿いに出たが、紫揺の姿も葉月の姿も見えない。

「こりゃ、阿秀ちゃん。 久しぶりだの」

漁師のカクさんだ。

「お久しぶりです」

焦ってはいるがそれを見せることはない。

「何しとった?」

「ええ、魚の研究を追っていました」

「何かの発表会があったんか?」

「え?」

「背広を着とるから」

「あ・・・これは本土から帰ってきただけです」

「そうか。 阿秀ちゃんは勉強家だが、ワシらには分からんことをしとるからなぁ」

「そんなことはありません。 カクさんに沢山教えて頂きました。 カクさん、この辺りで葉月を見ませんでしたか?」

「ああ、葉月ちゃんか。 見とらんなぁ」

「そうですか。 葉月を探しているもので」

「あの撥ねっかえりは、そうそう見つからんだろうて。 その辺で子供たちにプロレスの技をかけとるかもしれんし・・・」

プロレスの技・・・葉月がここでどんなことをしているのだろうかと、阿秀の気が萎えそうになる。 その阿秀の顔を読み取ったのか、カクさんがその憂いを取ってやる。

「あ、気にせんでいい、子供たちとは戯れとるだけやから。 わしは真剣にかけられるけどな」

浮上しかけた阿秀の気が再び萎えた。

「そうだ、ハルさんのところを見てみーや」

「え?」

「葉月ちゃん、ちょくちょくハルさんの所に行ってくれとるから。 阿秀ちゃん、もうちっと、妹のことを見てやらんと。 寂しいんやないか?」

「あ・・・はい」

このカクさんは、葉月のことを阿秀の歳の離れた妹と思っている。

「ハルさんの所に行ってみます」

「ああ。 何があったか知らんが、怒んじゃねーぞ。 葉月ちゃんはようよう、ハルさんのことを見てくれとるんやからな」

「もちろんです」

そう言うと、すぐに走り出した。

(葉月が・・・ハルさんのことを・・・)

「おー、おー、青春やのう」

と言ったのはカクさんだった。

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