大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第75回

2022年06月28日 21時53分56秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第75回



少し前、他出着に着替えたシキが、従者が見えなくなったところで回廊を下りるとロセイに言った。

「ロセイお願い」

「ですが今は」

「ロセイ、ロセイはわたくしの考えていることを分かってくれているわね?」

「・・・はい」

「お願い」

一度頭を下げたロセイが意を決したように、大きくなり翼を広げシキの前に出した。

「ありがとう」

その翼に座すとロセイが翼を納める。 シキがロセイの背に座す。
シキを乗せたロセイが翼を広げ空を舞った。

「久しいわ。 気持ちがいい」

「それはよう御座いました。 ですが今頃、昌耶は腰を抜かしておりましょう」

「ふふ、あとでお説教が待っているわね」

「その時にはご一緒に」

先に岩山が見える。

シキの姿をとらえた見張番。

「え? シキ様?」

婚姻の儀を上げたシキがロセイに乗って飛ぶことはもう無いはず。 すぐに剛度を呼んだ。
剛度と今居る見張番全員が見守る中、ロセイに乗るシキが洞に入って行った。

「どういうことだ・・・」

剛度が言う。
何かあったのだろうか。 東の五色である紫揺が本領の地下に入ったことを知っている。 己も間接的に手を貸したのだから。 己たちの知らないところで何か起こっているのだろうか。
剛度が振り向き百藻と瑞樹を見た。

「シキ様が洞を潜られたと宮にお知らせしろ」

他の者がすぐに馬を出してきた。 百藻と瑞樹が騎乗する。

「一刻も早くお知らせしろ」

剛度の切羽詰まった気が伝わったのか、百藻と瑞樹が頷くと常は歩かせる岩山なのに速歩(はやあし)で降りて行った。

「宮で何が起きているのか・・・」

剛度の心配を嘲るようだがシキが飛んだ元の元はぶっちゃけ “恋” が原因である。

百藻と瑞樹が馬を走らせ宮の門前に着いた。
客人があるわけではない。 門番から下問される。

「領土のお人もいないのに何用か」

この門番はあからさまに見張番を見下していた。 それを知っている百藻と瑞樹。 そして百藻と瑞樹は知らないが、北の領土の狼たちのことも見下していて、狼たちハクロとシグロはこの門番のことを気に入っていない。

「ほぉー、門番はシキ様が飛ばれたことをご存じないと仰るか?」

百藻が言う。

「シキ様が? ・・・だからと言って見張番がしゃしゃり出る話ではないだろう。 見張番は領土のお人を警護するだけだろう」

「御冗談を」

瑞樹が言い、にこやかにしていた顔を真顔にかえる。

「我らは洞の出入りを見ている。 門番と同じだ。 その意味が分からんか」

美丈夫な瑞樹だがその目を据わらせると何とも言いようのない迫力がある。 据わった目の瑞樹に睨み据えられ門番が怯んだ。 だが門番としての矜持がある。 簡単に通すわけにはいかない。

「だからどうと言う」

「シキ様が洞を抜けられたことは大きい。 それが分からんか? 我らを通す通さないの話ではない。 シキ様のことをご報告せねばどうなるかくらい門番にも分かるだろう」

「見張番風情に言われなくとも分かっているわ!」

「ではすぐに門を開けていただきたい」

見張番に言われたから口を動かすみたいで腹立たしいが、内門の門番にシキのことを伝える。 内門の門番が走った。

百藻と瑞樹が目を合わせる。 出来ることならマツリの権限でこの門番をかえて欲しいと。
だが今の問題はそういうことではない。 内門の門番が走ったのだから四方の耳に届くはずである、もう用はない。 百藻と瑞樹が馬首を回して岩山に向かって馬を走らせた。 その後ろ姿を見ていた門番が舌打ちをした音は百藻にも瑞樹にも聞こえはしなかった。

内門番が走り回り、やっとのことで四方の従者を見つけることが出来、見張番から聞いたシキのことを話すことが出来た。

この従者は四方から離れてはいたが、四方の居所を知っている。 門番は回廊に上がることは許されていないが為、庭や渡廊の下を走っていたが、従者は回廊に上がっている。 回廊をどたばたとは走れない。 足早に歩くと小階段を降り履き物を履いて走り出す。 宮内の門をくぐると財貨省へ急いだ。

まだ武官長が揃っていなく、財貨省長も人選びで困っているのだろう。 一度顔を出して武官長がまだだと知るとまた引っ込んでいった。

四方とマツリが茶を飲みながら話している。

「で? 杠はなんと?」

「面合わせと聞いて一瞬顔を強張らせましたが、父上もいらっしゃるからと言っておきました。 体術はそれまでに一度我と手を合わせたいと言っておりました」

そこに従者が息を切らせてやって来た。 尾能が従者から話を聞く。 一つ頷くと四方に歩み寄った。

「見張番からで御座います。 シキ様が洞を潜られたそうです」

え? と四方とマツリが目を見開く。

「まことか」

「見張番からの報告で御座います」

逡巡を見せた四方。

「承知した」

尾能に言うと続けてマツリに言う。

「夜までに帰って来なければ飛んでくれ。 ・・・東の領土だろう」

夜行性のキョウゲンと違うロセイのことを考えると陽が落ちる前に戻ってくるはずだ。 戻って来なければ東の領土のどこかに泊まるつもりだろうが、今のシキはあくまでもお役御免となった身だ、領土に飛ぶことすら許されないというのに、更にその様な勝手は許されない。

どうしてそこまで紫揺に固執するのか、と考える四方の横でマツリが肘をつくとその手の中に額を置いた。
思い当たる節がある。 夕べの酒の席でのことを波葉がシキに言ったのならば、泣いた紫揺を気にしてシキが東に飛ぶことは十分にあり得る。
波葉に話したことは失敗か。

泣かせたことは悪いとは思っているが、それでもそこまで心配せねばならないか、もう童女ではないのに。 それにシキはもうお役御免となっているのに。

武官長が揃って部屋に入ってきた。

「お待たせして申し訳ありません」

武官長四人が頭を下げ席に着くと、その後を財貨省長と三名の文官がついて入ってきた。 三か所で押さえなくてはいけない。 一ケ所に一人ということか。

一人の武官長が立ち上がりマツリの方を見て言う。

「造幣所でお手を煩わせたそうで、申し訳ございません」

マツリが捕らえ引き渡した武官の武官長である。 報告はちゃんとしているようだ。

「あれしき何ということもない」

マツリの返事を聞くと四方が話を進める。 立っていた武官長が座る。

「人数は集められたか」

「可能な限り」

「造幣所の話を聞く限りは、先に分かっていた者しか咎人はおらんかったということだ。 そこから考えるに、多数の武官が要るかどうかは分からんが、万が一ということがある。 一人残らず捕らえる」

武官長四人が頷く。

「では説明をする」

白木から聞いた事を先に話し、次に杠が城家主の屋敷から持って帰った紙を広げ前に座る武官長に見せる。 見終わった武官長が財貨省長に紙を回す。

「省長、光石の採石場と加工所の人数は調べたか」

「ここに」 懐から紙を出すとそれぞれの人数と名が書かれていた。

「では、段取りを組もう」



「あれ?」

やっと泡だて器の代わりになる物を見つけた葉月。 もう使わなくなった調理道具が置かれている小屋から出て空を見上げると、上空にロセイに乗るシキの姿が目に入った。
すぐに領主に知らせようと領主の家に走る。 と、紫揺の家を過ぎたあたりで塔弥を見かけた。

部屋に戻ると待ち構えられているのは分かっている。 いつ紫揺が出て来ても分かるように紫揺の家の辺りをウロウロとしていた。

「塔弥! シキ様が来られたみたい」

塔弥が上空を見る。 かなり近くまでロセイが飛んできている。
すぐに領主の家に走り領主に知らせる。
湖彩がホッとした顔で長卓に項垂れた。

ロセイが領主の家の向こう、緑がたくさん生えている所にそっと降り立つ。 ロセイの翼に乗ってシキがロセイから下りた。

領主より先に駆け付けた秋我がロセイに近寄った時にはロセイは身を小さくしていた。

「シキ様、何か御座いましたでしょうか」

お役御免となったシキが東の領土に飛んでくることなど有り得ないはずだ。

「少し紫とお話がしたいのだけれど、いいかしら?」

秋我が後ろについていた塔弥を見ると、塔弥が紫揺を呼びに走った。

「こんな所では、どうぞ家にお入りください」

「気にしないでちょうだい。 紫とお話をするだけだから」

マツリが来た時もそう言っていた。 いったい本領が紫揺に何の話があると言うのだろうか。
遅れてやって来た領主。 離れた所に葉月もいる。

「領主、婚姻の儀の折には来て頂いてありがとう」

「お招きを有難うございました」

シキが紫揺と話がしたいと言っていると秋我が領主に耳打ちをする。

「どうぞ、家の方に」

「秋我にも言いましたが気にしないでちょうだい。 少しお話をするだけだから。 領土の方はどうかしら?」

マツリからは聞いているが紫揺が来るまでの時間潰しに訊く。

「お陰様で紫さまのお力は存在だけで民を幸せにして下さっております」

「まあ、あの時とは比べ物にならないわね」

あの時、まだ紫揺が見つからず民が悲しみに暮れていた。 シキはその時に東の領土を見ていた。 民に添い、民の悲しみを拭うようにしていたが、どうしても民の悲しみを拭うことは出来なかった。

「いいえ、そのようなことは。 紫さまがこの領土に来て下さるまで、シキ様が民を励まして下さったことが大きいかと」

本当にそうだった。 この東の領土のあちこちに飛び、民の嘆きにずっと耳を傾け黙って聞き続け、そして背中をさすり 『必ず紫は戻ってきますよ』 と言いながら涙を拭ってくれていた。

「少しでもお役に立てたのなら嬉しいけれど、やはり紫の存在は大きいわね」

紫揺を本領に招けばまたこの領土が悲しみに暮れてしまうのだろうか。 代わりの五色では力不足になるのだろうか。

「シキ様!」

シキが憂いていると紫揺の声が聞こえた。
声をする方に顔を向けると紫揺が走ってきている。

「紫さま、走ってはいけません!」

塔弥の叱責が飛ぶが聞く耳など持っていない。

「紫」

シキが両手を広げる。 その腕の中に入る紫揺。

「どうしたんですか? 急な用ですか? あ、まさかまた?」

リツソに何かあったのだろうか。

塔弥に遅れてお付き、さらに遅れて此之葉がやって来た。

「いいえ、そうじゃないわ。 紫に謝りたくて来たの」

「え?」

シキが領主を見る。

「二人だけにしてもらえるかしら?」

領主が頷き秋我と塔弥を促しその場をあとにする。 他の者もそれに続く。 それを見届けたシキ。

「マツリが御免なさいね」

「え?」

「紫を泣かせてしまって」

紫揺がシキを見上げていた顔を下げた。

「シキ様が謝るなんて・・・」

シキが紫揺の首に気付いた。 赤くなっている。 紫揺の首に手を当てる。 紫揺が少し顔を歪めた。

「これは?」

「あ・・・その。 痒くて、こすり過ぎました」

波葉からは首に口付けたと聞いている。 痒いのではないだろう。

「紫? 紫の手をここに当てて」

「え?」

「ここに手を」

シキに言われるがまま左の掌を首に当てると、入れ替わりにシキの手が紫揺の首から離れる。

「五色の色の力のことは覚えている?」

「はい」

「青の力は雷や風であるけれど春の力でもあるわ。 春は木々や草花が芽吹くもの。 青の力、春の力を紫の手をあてている場所に送ってみて。 いい? 間違って雷や風の力を送ってはいけなくてよ。 芽吹くのは緑。 新緑よ。 緑というのは最初を現すことでもあるの」

「最初?」

「ええ。 元に戻すということ。 慌てなくてもいいから掌から春の力を送ってみて」

青の力は使ったことがある。 それで花を咲かせてきたのだから。 それは春の力を使っていたということか。 心に思っただけで花を咲かせていた。 だがそうならば、同じように思うと首から花が咲いてくるのではないだろうか。

「首からお花が咲きませんか?」

「まぁ、可愛らしいことを考えるのね。 お花ではなくて緑を心に浮かべてちょうだい」

そうだった。 緑と言われていたのだった。

紫揺の瞳が青色になっていく。 その下には黒色の瞳がある。 一人で五色を持つ者の濃い青色。
シキは何も言わず紫揺を見ている。

何をしているのだろうかと、遠目からシキと紫揺を幾つもの瞳が見ている。

手で触ると痛かった首、触らなくともヒリヒリとしていた。 そのヒリヒリが遠のいていく。
手で首を押してみても痛くない。 首から手を外す。
シキが紫揺の首を覗き込んでニコリとする。

「治ったわ。 もう痛くないでしょ? 上手く力を使えているようね」

「こんな使い方もあるんですね」

シキが微笑む。

「マツリのことを許してもらえないかしら」

紫揺の顔が固まった。 たとえシキが言おうと許せるはずなどない。 口を一文字に引き結ぶ。

「紫を泣かせたことはわたくしも許せないわ。 でもマツリは紫のことを想っているの」

「そんなことありません」

有り得るわけない。

「マツリ自身がやっと気づいたの。 もっと柔らかく紫に向き合えばよかったものを紫を泣かせてしまって・・・。 マツリに言葉が足りないのは常なることですけれど、このような時には言葉が足りないでは済まされません。 それは分かっているわ」

柔らかく暖かく優しい声。
シキを見上げあの時のことを思い出す。
下ろしてと言ったのに反対に持ち上げられた。 耳元でマツリの声が聞こえた。 目の端にマツリの銀髪が映った。
そして・・・。
シキを見上げている瞳にジワリと涙が浮かんでくる。

「紫、ごめんなさい」

紫揺がシキに抱きついて声を殺して泣く。
シキが紫揺の頭を抱いてやる。

「ごめんなさい、心細かったわね」

遠目に見ていた秋我と領主が目を合わせる。 お付きたちもそうだ。

「此之葉ちゃん、紫さまに何かあったの?」

「何かあったことはあったみたいなんだけど言ってくださらなくて」

「シキ様はご存知だってことね」

此之葉と葉月の会話を耳にした領主。

「そう言えばシキ様は謝りに来たと仰ったか」

「ええ、たしかにそう聞きました」

秋我が答える。

「本領でマツリ様と何かあったということか」

「マツリ様の代わりにシキ様が謝りに来られたということですか?」

「それ以外考えられんだろう」

紫揺に助言をしたのはマツリだ。 二人が話していたことは分かっている。 あの二人が穏便になど話せるはずがない。

「ではシキ様が紫さまの憂いを取って下さるのでしょうか」

此之葉が領主に問う。

「取って下さると良いが」

是非とも取って頂きたい。 誰よりも塔弥が思いながら話を聞いている。

どれくらいの時が流れたのだろうか。
紫揺がシキから離れた。 手はまだシキの腕を握っているが頭は下げている。 紫揺の表情が見えない。

「ごめんなさいシキ様。 シキ様が悪いわけじゃないのに謝らせてばかりで」

「紫が謝ることではないわ」

「シキ様は大好きです。 でも・・・マツリのことはキライです。 だから許すも許さないもありません」

「紫・・・」

「伝えておいてください。 東の領土に来ても私の目の前に現れるなって」

シキが息をついた。

「・・・伝えておくわ」

紫揺が顔を上げる。 また涙が頬を伝う。

「紫・・・」

シキが指で涙を拭いてやる。

「もう泣かないで、大丈夫だから。 わたくしが紫の心を分ちあうわ。 ね、一人じゃないから」

紫揺が自分の手巾を出すとゴシゴシと目をこする。

「まぁ、そんなに乱暴にしては。 おかしなさいな」

シキが手巾を受け取る。 片手を頬にあてまだ流れてくる涙をそっと押さえてやる。

「杠が言っていたわ」

紫揺が驚いた目をする。 ここで杠の名前が出るとは思ってもいなかった。

「紫と杠が父上の前に出た時、紫はそこに居ないマツリのことを父上に尋ねたと」

「え?」

「どうしてかしら」

紫揺が首を傾げる。
記憶にないのであろう。 シキも杠から言われて思い出したほどだ。

「さっきも言いました。 わたくしは紫と心を分ちあうわ。 紫は一人ではないのですからね。 いつでもお話しに来てね」

「シキ様」

「さ、皆が心配しているわ。 安心させてあげて」

紫揺が振り向くとずっと向こうで領主やお付き、此之葉や葉月までもがこちらの様子を窺っている。

ロセイが身体を大きくした。
それを合図に領主と秋我、此之葉が歩いて来る。 そしてその横を塔弥が走って来た。

「紫さま!」

「まぁ、塔弥が心配して」

まで言うと紫揺を見た。
紫揺がシキを振り返り微笑み返す。

「心配性なんです」

走って来た塔弥。 紫揺の顔に泣いたあとが目にとれる。

「シキ様、紫さまは・・・」

普通に考えると一介のお付きからシキに話しかけるなど有り得ない。 だがそんなことを考える余裕もなく塔弥が紫揺の様子を案じている。

「泣かせてしまったわ。 ごめんなさいね」

塔弥に言うが紫揺がそれに答える。

「シキ様のせいじゃありません」

紫揺を見て微笑み、次に塔弥に目先を転じる。

「塔弥、暫くは心配をかけるでしょうが頼みます。 紫の憂いはわたくしが知っています。 紫にも言いましたが紫の心はわたくしが分ちあいます。 皆が憂うことの無いよう頼みますね」

塔弥が厳しい顔をして頷く。

やっと領主がやって来た。

「シキ様」

「領主、邪魔をしました。 紫とお話が出来ました」

領主が紫揺を見ると完全に泣いたあとと分かる。

「紫、忘れないで。 いつでもいらっしゃいな」

紫揺がコクリと頷く。

ロセイが羽を広げシキが座る。 羽を畳むとシキがロセイの背に乗った。

領主と秋我が頭を下げる中、ロセイが羽ばたいて空に飛んだ。
空を見て見送るお付きたちと此之葉と葉月。
ロセイの姿が見えなくなった。

「紫さま・・・」

塔弥が紫揺の名を呼ぶ。

「大丈夫。 何でもないから」

俯いた紫揺の顔に異変を感じた。 先ほどまでそんなことは無かったのに。

「紫さま? お顔を上げてください」

「ん?」

紫揺が顔を上げる。 熱っぽさを感じる顔。
塔弥がすぐに紫揺の額に手をあてる。 熱い。

「紫さまお熱が」

「え?」

自分で自分の額を触るが熱さなど感じない。 掌にも熱を持っているのだから分かるはずもない。
紫揺の身体がぐらりと傾ぐと塔弥がすぐに支えた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第74回

2022年06月24日 22時28分56秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第74回



帰ってきた紫揺とお付き。

お転婆に水を飲ませ、汗を流してやりブラシをかけるとガザンと共に家に戻った。
すぐに此之葉がやってきて紫揺に茶を用意する。 ガザンには水を。 ガブガブと水を飲んでいるガザンを見ながら茶をすする。

「阿秀さん、ちゃんと言いました?」

唐突な質問。

「え?」

「此之葉さん、阿秀さんに応えました?」

「あ・・・」

「此之葉さんには幸せになってもらいたいと思っています。 OKですよね?」

僅かの時だが此之葉は紫揺に代わって日本で働いていた。 その中でOKの言葉を聞いている。 意味は分かる。

「・・・はい」

頬を染め、俯いたまま答える。

「良かった! あとは葉月ちゃんか」

「え? 葉月?」

己のことなど忘れたかのように顔を上げ、紫揺を見るその目がキョトンとしている。

水を飲み終えたガザンが紫揺の横に伏せる。 ガザンの身体を撫でながら紫揺が話を進める。

「あれ? 気付かなかったんですか?」

なんのことかと此之葉が首を振る。

「葉月ちゃん、想い人がいますよ」

「え?」

「その人も葉月ちゃんのことを想っています。 けしかけときました」

「・・・え?」

「上手くいけばいいですね」

自分のことを探すことだけに時を取られていた皆に幸せになってもらいたい。
心寄せている相手が居るのなら、そして相手も心寄せているのなら、それ以上のことはない。

お互いに好いているのなら・・・。

紫揺の笑顔がかげった。 それは僅かなことだったが此之葉は紫揺の様子がおかしいことに気付いている。 見逃すはずはない。

「私のこともそうですが、どうして急に?」

「皆さん一人の人としての時間を割いて紫を探してくれていました。 好きな人が居て相手も好きでいてくれるのなら皆さんに幸せになってもらいたいから。 ちょっと余裕が出来たのかな。 それに耶緒さんは一人・・・あ、秋我さんがいるけど、頑張ってきていたのを敢えて知って、私も・・・私にはお付きのみんなが居てくれるし、此之葉さんも葉月ちゃんも沢山の人が支えてくれてるって、今更ながら実感したってところもあるかな」

そうなのだろうか。 本当にそれだけなのだろうか。 それで様子がおかしいというのは有り得ないだろう。 それに秋我は悲しそうな顔をしていたと言っていた。 今もそうだ、笑顔がかげった。

「私たちの幸せは紫さまのお幸せです・・・民もそうです」

何を言いたいのだろうかと紫揺が小首をかしげる。

「紫さまが心痛めておいででは、私たちにも民にも幸せは訪れません」

シキも同じようなことを言っていた。 どうしてそんなことを急に言うのかと訝しながらも「はい」と答えておく。 此之葉が紫揺の憂いを知っているとは思いもしなかったのだから。 それに此之葉が知る知らない以前に紫揺自身が憂いていることさえ分かっていない。 ただ腹が立ってムカついて・・・涙が出るだけだ。

「私の幸せは民が幸せでいてくれること。 此之葉さんやお付きの人が幸せでいてくれること。 それに心なんて痛めていませんよ? ちょっと腹立つことがあるけど、そんなの無視したらいいだけから」

本領であったことだろうか。

「本領で何か御座いましたか?」

あったのは本領ではない。 この東の領土に入ってからだ。 ましてや本領では身体を動かして楽しく過ごした記憶の方が多い。
この領土であんなことをすれば塔弥からどれだけお説教をされるか。

「本領は楽しかったですよ。 勉強にもなったし。 ・・・お兄ちゃんって想える人との出会いもあったし」

「お兄ちゃん? その様な方が本領に?」

「はい。 あれって何て言うのかなぁ・・・赤い糸? それは違うか。 なんだろ。 分からないけど、もしお兄ちゃんが居てくれたらこの人しかいないって思える人」

「その方は紫さまのことを何と?」

「妹って思ってくれてます。 弟でもいいみたいだけど」

あの時の会話を思い出す。

幸せそうに紫揺が柔らかく笑む。
一抹にホッと安堵する此之葉だが憂いが取れたわけではない。 ではどうして紫揺の様子がおかしいのだろうか。

「その方とお会いできないのはお寂しいですか?」

「まぁ・・・会えるに越したことは無いけど本領と東の領土だもん。 会えないのは分かってることだし、領土に帰る時には見守ってるって言ってくれたからそれで十分」

ニコリとして紫揺が言う。
寂しさを感じない笑顔。 この事ではないようだ。 紫揺から話してくれるのを待つしかないのだろうか。

紫揺のことは此之葉に任せ、厩舎の中では男五人が塔弥を取り囲んでいた。
これが地下道か高架下ならチンピラが予備校生をいたぶっているような図だ。

「そんなはずないだろーよー」

「言えよー」

「いや、だから・・・おやつ? その話を聞いてただけで。 紫さまが甘い物がお好きとか・・・」

「それだけであの雰囲気はないだろうよー」

「らしいな塔弥。 かなりいい雰囲気だったって聞いたんだがー?」

「いい雰囲気って・・・。 それは勝手に思ったことだろ」

「ふーん・・・。 で、阿秀の名が出たらしいが、なんで出た? どうして塔弥と紫さまの間の話しで、それもおやつの話しでなんで阿秀の名が出るー?」

「あ・・・」

全員の目が光った。 思い当たることがあるらしい。

「隠すなよ」

「言え」

「吐け」

「いや・・・その」

厩舎の入り口から声が掛かった。

「おーい、塔弥ぁ。 領主がお呼びだぁ」

領主が家の外に居ると醍十と目があった。 そのまま醍十を家の中に入れ他の者と同じ質問をすると「此之葉が嫁に出るまでは考えられません」ときっぱりと言った。
その時はそう遠くない時だと思われる。 領主が醍十も野夜と同じく保留組とした。
だが此之葉と言われれば塔弥も気になる。 塔弥も此之葉もずっと誰とも接触がなかったのだから。

『塔弥を呼んできてくれ』

領主が醍十に言ったが、塔弥からしてみれば今は天の助けであった。 それがすぐにぶち壊されることになるとは知らなかったが。

「ってことで」

にこやかに五人を後にしかけたが振り返った。

「忘れてた。 お転婆で走っても泉で泳いでもスッキリとはされなかったようだ。 此之葉一人では飛び出されたらどうにもならないと思う」

「はっ!?」

五人が目を合わせ塔弥の後を追うように厩を出た。

今のところ紫揺は大人しくしているようで、紫揺の部屋から紫揺と此之葉の声が聞こえる。
醍十もいれた六人がお付きの部屋に戻った。

部屋に戻ると野夜と悠蓮が馬のことを話し出した。 若い馬でないと到底お転婆にはついて行けないと。

「そろそろ牝にフケ(発情)がくるだろ。 増やすか」

お付きの馬は必要以上に増やしていない。

「今から種を付けて産まれた仔が大きくなるのを待つまでには、紫さまも大人しくなってるだろうよ。 いや、そういう意味じゃなくて、余っている馬でいいからそっちを乗っていいか?」

「余ってる馬って・・・鈍足じゃないか」

「言えてるな」

「野夜、悠蓮、馬を言い訳にお転婆から戦線離脱を謀ってるんじゃないだろうな」

野夜と悠蓮が明後日を見る。
目を眇めた梁湶。

「お前らの乗る馬はまだ歳とは言えん」

「そこそこお歳だ。 お転婆にはついて行けん」

「これからのことを考えて繁殖はさせよう。 阿秀には俺から言っておく。 その周期に来ていることは確かだからな。 だが馬を言い訳に戦線離脱は認めんからな」

野夜と悠蓮が目を合わせる。 作戦は失敗に終わったようだ。

それから暫くしてグッタリとした顔の塔弥が部屋に入ってくると六人の目が注がれた。

「次、誰か。 梁湶と醍十と野夜以外」

残りの者たちが突き合う。 お前が行け、と。 もう全員が何の話かは知っている。

「後でも先でも一緒だろうが。 塔弥、指名してやれ」

「んじゃ、湖彩」

「なんでだよー!」

湖彩が塔弥に突っかかる前に早く行けと、部屋から蹴り出された。

塔弥が湖彩に続いて部屋を出ようとすると、話の続きがあると止められたが「ちょっと紫さまのことで出る」と言われた。 そう言われれば止めることは出来ない。

塔弥が玄関を出て行った音を聞くと醍十以外の四人がニヤリと笑った。

「かなり絞られたみたいだな」

「ってことは、相手がいるってことか」

「誰だと思う?」

「塔弥が今まで話したことのある女って限られてるだろ?」

「話したことは無くても見かけたとか? 一目惚れってやつとか?」

「一目惚れって言えば・・・」

野夜が悠蓮を見る。

「なに? なんだ?」

事情を知らない若冲と梁湶。

「悠蓮、吐け」

恋バナは女の特権ではなさそうだ。

家を出た塔弥が大きなため息を吐く。 ほんの少し前ならこんなことで溜息などつかなくてもよかったはずなのに。
どうしてこんなことになったんだ、と少し前を回顧するがまた溜息が出るだけである。

己に気付かぬふりをして、紫揺に言われたことは聞かなかったことにして遣り過ごすしかない。 己に出来ることはその程度しかないのだから。
己の溜息など二の次だ。
足を進め目的の人物を探しに出た。

領主の家では領主がニンマリとしながら湖彩に訊き返した。

「で? 紫さまに付いて行った時に知ったその女人は辺境の者か」

「気になるくらいです」

「他には居らんのか?」

「領主、我々お付きといえど、それぞれ己のことは考えています」

「考えておらんから言っておる」

「そんなことはありません」

「では、紫さまが今も見つかっていなければ湖彩はどうしていた」

「女人どころではありません。 ですが実際、紫さまは我らの前におられます」

「で? 紫さまがおられる。 湖彩は湖彩の想い人に心を寄せるのか?」

「いや・・・。 それは。 ・・・あの紫さまです。 今そんな余裕などは・・・」

「だからそれを言っておる」

塔弥の探していた人物が目の前で女たちと話しながら歩いてきた。
ゴクリと息を飲む。 目を閉じ己の精神を落ち着かせる。 再び目を開けると回顧したものは無かった事としてその人物を呼んだ。

「葉月」

女達と山の恵みを手にしながら話していた葉月が顔を巡らせ塔弥を見た。

「なに?」

「訊きたいことがある」

女達と葉月が眉を上げる。

「紫さまのことで」

それだけで葉月が分かった。 もちろん女たちも。

「あとで行くね、先に準備を始めといて。 今日の夕餉は楽しみね」

各家で料理をすることもあれば共同で料理をすることもある。 今日の山の恵は女たちが楽しく会話をしながら共同台所で料理をする予定だ。
女達が葉月の持っている籠を受け取ると葉月を残して塔弥の横を通り過ぎた。

「紫さまがどうかしたの?」

心に決めたはずなのに葉月と目があってドキリとする。 だがそれを押しのける。

「ちょこれーと、ぱふぇ、けーき、ぷりん・・・それと・・・しゅーくりーむ、そういうものを知っているか?」

「日本の物ね。 知ってる。 それがなに?」

日本で暮らしていた時、料理本を買って島の子供達に作ってあげていたし、タイミングが良ければ塔弥を除くお付きたちも口にしていた。

「作れるか?」

作れるかと、唐突に訊かれても。 何のことだろうかと思ってしまう。
それにそれらは日本で食べられているスイーツである。 塔弥が知らないメニューを言うはずはない。 ということは、紫揺が欲しているのだろうか。

「・・・材料が領土にないかな。 それにケーキとかシュ-クリームを作ろうと思うとオーブンもないし・・・。 あ、窯でいけるのかな」

「その中のどれか一つでいい。 似たものでもいいから作れないか?」

葉月が考えるようにこめかみを押さえ顔を下げる。
暫しの時のあと。

「パフェとプリンなら似た物が作れる」

塔弥の顔に明るさが差す。

「作ってくれないか?」

「日本のようなお砂糖がないからなぁ・・・。 お砂糖の甘味が足りなくなるけどいい?」

パフェ・・・もし紫揺がフルーツパフェと思い描いていたのならばなんとかなるが、チョコレートと言っていたくらいだ、きっとチョコレートパフェだろう。
そのチョコレートパフェとなればバナナが必須となってくる。 そのバナナがこの領土には無いのは痛いが、パフェに決められた果物があるわけではい。 この領土の果物でも何とかなるだろう。
だが一番痛いところはチョコレートがこの領土にはないということだ。
チョコレートは厳しいところがあるが、砂糖がなくともプリンのカラメルならなんとかモドキで作ることが出来なくもないはず。

「紫さまは甘い物がお好きと仰ってた」

紫揺の話しと聞かされたのに、何の振りもなく甘い物の名を出されてなんのことだろうとは思ったが、やはりそういうことか。
もう一度、葉月がこめかみを押さえる。

「うーん。 乳製品で誤魔化そうか。 甘味じゃなくてコクで。 それと・・・蜂蜜、えっとどの蜜が一番濃い色をして甘かったっけ・・・。 あ、そこに苦みも・・・」

独り言をつぶやくと塔弥を見た。
塔弥が再度ドキリとする。

「濃い乳の出る牛。 明日の早朝その乳を取ってきてくれる? それで試してみる。 その行き帰りにでも甘い果物があったらもぎってきて。 他のものは私が用意する」

蒸し器はあるが生クリームもどきを作るに、泡だて器の代わりになる物を探さなくてはいけない。 それに濃い卵もだ。
プリンは焼きプリンではなく蒸しプリンにしよう。 今の状態ではそれが無難だ。

「あ、ああ。 それでは頼む」

塔弥が踵を返しかけると葉月が止めた。

「紫さま、どうかしたの?」

「・・・そのような物を食べたいと仰ったから」

「日本を恋しがっていらっしゃるの?」

「いや、そうではなさそうだが」

泣いていたことなど言えない。

「塔弥、私に出来ることは何でもする。 何でも言って。 オーブンがなくてもケーキもシュークリームもなんとか作ってみる。 チョコレートに見合うものを探す。 そしたらフルーツパフェだけじゃなくて、チョコレートパフェも出来るかもしれない」

何を言われているのか塔弥はチンプンカンプンだ。 だが紫揺に懸命なのが分かる。

「今はそれだけだ。 明日朝すぐに濃い乳を出す牛の所に行く」

「うん。 お願いね、準備して待ってるから」

―――待ってるから

塔弥の心に響く。 だがそれは塔弥を待っているのではない。 葉月が待っているのは濃い乳と甘い果物だ。 分かっている。 だがどこかでその言葉を鮮明に感じ喜んでいる。
紫揺が泣いていたのに・・・。
鮮明に感じたことが罪に思える。

「ああ。 頼む。 明日持ってくる」

塔弥がその場を去った。

「・・・塔弥」

葉月の声は踵を返した塔弥には聞こえなかった。



「シキ様?」

『昌耶、喉が痛いの。 薬湯を作ってきてくれる?』

シキに言われ薬湯を作り戻ってきた昌耶。 襖戸を開け部屋に入ったがシキが居ない。

「シキ様?」

部屋中を探すが姿がない。 シキだけではないロセイも。
襖戸を勢いよく開けると仁王立ちで回廊に座していた従者に問う。

「シキ様は!?」

「ちょっと待っているように仰られお房を出て行かれました」

「誰もお付きしなかったのですかっ!」

「お付きしようとしましたら、止められまして・・・」

「なっ、何ということをっ!」

目を吊り上げ従者に向かって言うと、回廊に走り出て勾欄に手をつき回廊から見える空を見上げ、口をわなつかせる。

「シキ様―――!!」

大声を上げて膝をついた。

何故か他出着を着たシキに待っているようにと言われ、回廊で座していたシキの従者が目を丸くしている。

昌耶にはシキがどこに行ったか分かっている。 追いかけることなど出来ない。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第73回

2022年06月21日 11時30分55秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第73回



マツリが一人づつの聴取まがいをしている間に、文官と所長は金貨が流されていなかったかの確認をしている。
地下の者のやることだ、本職が見ればどこか抜けている所はすぐに分かるだろう。

昼餉時を過ぎた頃にはマツリの方は終わっていたが、文官の方はそうはいかなかったようだ。

「金貨十枚や二十枚くらいではなさそうです。 改めて数人で調べなおします」

「手落ちもよいところだな・・・」

所長が小さくなっている。

「残っている者は信用に値する。 今の段階ではということだがな。 昼餉をとらせ仕事を始めよ」

所長が頭を下げる。

「咎人はもう居らんようだ。 引く」

マツリの声が響いた。
なんのことかと話し終えた男たちがマツリを見ると、陰から武官が躍り出てきたのを見て情けない声を上げていた。

毎日きちんと決まった時間に食事をとっている文官が腹をグーグー鳴らしながら馬車に乗り込んだ。
マツリもだが武官も決まった時間に食事などとれない。 大きな身体は腹が減っているだろうに、素知らぬ顔をして慣れたものである。

咎人を入れた馬車が文官の乗った馬車の後につく。 その左右後方を武官の馬四頭が固める。

今日の捕り物は終わったがたった三人とは言え、刑部省はまた人が増え辟易するだろう。 明日もまた増えるが。

宮に戻り咎人の事は武官に任せ、金貨の調べ直しのことを財貨省長に報告する文官の横に立った。
財貨省長が驚いた目をしたかと思うと、すぐにマツリに頭を下げた。

「管理不行き届きで御座いました」

「地下の者の屋敷から金貨を没収しておる。 流れた金貨はそこに入っていよう。 全部かも分からんが、流れた金貨はそこから戻すように計らうよう。 残れば地下に戻す。 早急に間違いのない確実な数を調べるよう」

一枚でも間違えられれば困る。 誰にも分からないと言えど地下の金貨を財貨省が取ったことになる。
再度財貨省長が頭を下げる。 それを見ると文官に目を移した。

「苦労であった。 遅くなったが昼餉をとり仕事に戻るよう」

「あ、あの!」

「なんだ」

「あの、あの時には有難うございました」

「あの時?」

「所長とわたしがその、咎人に・・・」

情けない声を出して所長と抱き合った時のことだ。

「ああ、恐い思いをさせて悪かった。 大事は無いか」

「御座いません。 誠に有難うございました」

文官が頭を下げる。
なんのことかと見ていた財貨省長を見たマツリ。

「向こうで恐い思いをさせてしまった。 少々休憩も入れてやってくれ」

再再度、財貨省長が頭を下げる。

次に四方に報告に行かねばならない。 踵を返して省長の部屋を出た。

「さて、父上は何処におられるか」

取り敢えず執務室に足を向けた。



ブルルン。
お転婆が柔らかい唇をふるわせた。

「・・・ん」

声を漏らすと紫揺がゆっくりと目を開けた。
目の先にはキラキラと光る水面が見え、目の前の一番近くにはガザンの毛が見える。 目を動かすとガザンの頭が見えた。

・・・思い出した。

体を起こすと掛けられていたものがスルリと落ちた。
クシュン、とくしゃみが出る。
それに気付いた塔弥が立ち上がった。

「お目覚めですか?」

岩を回りこむと掛け物を手にし畳み始めた。

「いつの間にか寝てたんだ」

ガザンから手を離し体を起こす。

「いつの間にかと言うか、結構すぐにです。 泳ぎ疲れたんじゃありませんか?」

ガザンがやっと動ける、というように伸びをする。

「綺麗に泳がれるんですね」

「そう? 自分では見えないから分からないかな」

「髪が十分に乾かないまま寝られたので寒気は御座いませんか?」

くしゃみをしていたのが気になる。

「ガザンが居てくれたから、さほどで・・・」

ブルンと身体が震えた。

「ちょっと寒いかもしれない」

せっかく畳んだ掛け物を広げて紫揺の肩にかけた。

「温まってから動きましょう」

ガザンが紫揺の横を塔弥に任せるように岩から跳び下りる。

塔弥が岩を回りこんで上がり、ガザンの座っていたところに腰を下ろすと前を向いたまま話し出した。

様子を見ていた湖彩、梁湶、若冲が顔を見合わせる。
まだ帰らないようだ。

「無理にとは言いませんがご心配事があるのなら仰ってください」

「・・・ない」

「・・・そうですか。 さっきは何と仰られておりましたか、甘い物」

泉を見ていた顔を紫揺に向ける。 紫揺も塔弥を見る。

「チョコレートのこと?」

「ちょこれーと。 変わった名前で。 それと他にも」

「パフェとケーキ」

「ぱふぇ、けーき。 うん・・・覚えました」

「なんで?」

「秘密です」

紫揺の顔を見て言うとまた泉を見た。 つられて紫揺も泉を見る。

「日本が恋しいですか?」

塔弥を見るが塔弥はまだ前を向いたままだ。 顔を戻す。

「恋しい・・・。 恋しいと言われたら恋しくはないかな。 でも・・・」

「はい」

「・・・食べ物。 食じゃなくて、日本で言うオヤツとかは恋しいかな。 ここにないチョコレートやケーキやパフェ。 シュークリームも食べたいな、あ、プリンも。
・・・それと言葉の違いをまだ感じる。 結婚じゃなくて婚姻って言うんだね。 胃じゃなくて胃の腑とか。 だから言葉を選ばなくていいお付きの人と話すのはすごく楽って感じてしまってる」

その中に己は入っていないな、と、塔弥が思う。

「己も他の者に日本の言葉を教えてもらいます」

「え?」

塔弥が紫揺を見る。

「ちょこれーとも、ぱふぇも、けーきも知りませんでしたし、あと・・・しゅー?」

「シュークリームとプリン」

「しゅーくりーむとぷりん。 それも甘いんですか?」

「うん。 甘くて美味しい」

二人の様子を離れた所から見ていた三人。

「おい、紫さまと塔弥って雰囲気良くないか?」

「いや、それはいかんだろう」

「まぁ、いいっちゃ、いいけど。 禁断だろ」

「だけど、紫さまのお爺様は・・・」

元お付きだ。 塔弥の曾祖伯父だ。 そして先(せん)の紫の伴侶となった。

「それは致し方なかったからだろ」

日本に居て東の領土の人間は、先の紫と塔弥の曾祖伯父だけだったのだから。
だがそれだけが理由だろうか。

紫揺の話では曾祖伯父は会社の同僚を何人も先の紫に紹介していたということだった。 だがどれだけ紹介されても先の紫は首を縦に振らなかった。
それはどれだけ紹介されても相手が東の領土の人間ではなかったからなのか、それとも先の紫が曾祖伯父に心を寄せていたからなのか。

今となっては誰も知るところではない。
だが一つだけ分かっているのは、お付きは紫と結ばれてはならない。 それは鉄則である。 曾祖伯父も先の紫もそれを破ったということである。
先の紫も今代紫である紫揺も特殊な環境にある。 鉄則を破ってしまっても致し方がない、例外というのはいつの世もあるではないか。 そう考えても良いのではないだろうか。

「・・・あとで何の話をしていたか締め上げるか」

「当たり前だ」

この三人、どれだけ興味があるのかは知らないが、紫揺と塔弥が話しているのはオヤツの話しである。

「ねぇ、さっき気になることがあったら何でも訊いていいって言ったよね? 可能な限り答えてくれるって」

「はい」

「葉月ちゃんのことをどう思ってるの?」

「はい!?」

「答えるの可能だよね?」

「えぁ! そっ、それは別問題でっ!」

「別じゃないよ。 葉月ちゃんのことも気になるけど塔弥さんのことが気になるし。 あの堅物がちゃんと話できてるんだから、塔弥さんだってそれなりの話、葉月ちゃんにできるでしょ?」

「堅物?」

「阿秀さん」

「え? あ! 阿秀!?」

「うん。 上手くいきそう。 塔弥さんも葉月ちゃんのことを・・・えっと、想い人? なら掴まえとかないと誰かに取られちゃうよ。 あれだけ料理が上手なんだから」

「や、あ・・・」

泉など見ていられない。

塔弥がついうっかり大声で言ったしまった阿秀の名が、見守っている三人のところまで届いていた。

「うん? なんの話だ?」

「阿秀の話をしてるのか?」

「まさか・・・。 紫さまと阿秀ということは無いだろうな・・・」

三人が目を合わせる。
極上の禁断だ。



執務室に四方はいなかった。 結局、探し回って刑部省(ぎょうぶしょう)にいた。 その四方に尾能がついていた。
マツリが出て行ったあと四方が一番にしたことは尾能を連れて刑部省に行き、尾能の疑いを晴らすことだった。

いつもならそんな早い刻限に刑部省の面々が揃ってはいないが七十名以上の咎人がいる。 いつもより早く参内し書類上の仕事をしていた。 そこに四方が現れたということだった。

牢屋に入っている数名の咎人から聞きだし、尾能の母親を手にかけていた者を選び出すと聴取に入った。 そこに立ち会いの武官は居ず四方自らが立ち会った。

牢屋から出るにあたって武官二人はついていたが、他に武官は脱走を阻むために戸の外に立っているだけであった。

戸内の文官は三人。 一人が咎人の聴取に当たり、二人は補佐役であり、その内の一人は聴取の内容を書きとっている。

文官から訊かれとぼけたことを言うと四方が恫喝し、暴れ出すと四方が取り押さえ一発を入れる。 一発で足らない時には二発三発と。
戸の外に立つ武官が戸内から聞こえてくる音に目を合わせていた。
本領領主にあるまじき行為だが、それを見て見ぬふりをする聴取の文官。 書きとらない文官。 ただ三人とも顔はかなり引きつらせていた。

あくまでも、のらりくらりとする咎人にとうとう文官から指揮を取った。

『この者を知っておるか』

咎人の腕を締め上げながら同席させた尾能を見せる。

『っつ! 誰だよ、そいつっ!』

『お前はこの者の母御に手をかけた一人と聞いたが?』

『ふざけんな! 一人じゃねぇ―! 俺があのババァを任されたんだ! 小者どもと一緒にすんな!!』

男の言いように尾能がこぶしを握る。

『それで? この者を脅したのか』

『できるわけがないだろうよ! あのババァ、何にも吐きゃしねーんだからな!』

『嘘を申すとこの腕をへし折る』

『痛ってーんだよっ! 嘘なんかじゃねー! 俺があのババァを任されてたんだからっ!』

ボキっと音がした。

『グワッ!』

咎人の腕の骨を折ったようだ。
三人の文官が今にも泣きそうな顔をしている。

痛い痛いと叫ぶ男のもう一方の腕を四方がとる。

『再度訊く。 この者に接触はしておらんのだな』

『してないっ・・・顔も知らねー、離せ』

四方が男の手を離した。 折られた腕を抱えてうずくまっている。

『疑いは無いか?』

四方が文官に訊く。
四方の声に泣きそうだった顔を引きつらせ答える。

『ま、まま、全く以って』

『では尾能は被害者の家の者であるということだけでよいのだな』

『は、はい』

文官の応えに外に立つ武官に男のことを任せ四方と尾能が部屋を出た。

『気分の悪いことを聞かせてしまったな』

『そのようなことは・・・』

『わしも腹が立って・・・折ってしまったわ』 腕を。 

もう使っていない二つ名の死法。 現役でこの名を使っている時はこんなものではなかった。 死法としている時、罪人に対してもっと冷酷だった。
腹が立ったとはいえ、昔の死法にまでは戻っていない。 まだ優しい方であった。

『母御が心配だと思うが戻れるか?』

四方の側付きに。

『四方様のお気遣いで母はいま落ち着いております』

『いま落ち着いておられるのではないだろう。 紫も言っておった。 毅然とした母御だと。 素晴らしい母御だ』

『・・・有難うございます。 今ここより、四方様のお赦しがあればすぐにでも』

『わしの赦しなど元よりない。 明日も忙しい。 頼む』

尾能が深々と頭を下げた。


尾能を見てマツリが頷いた。 尾能が頭を下げる。

「無事に運んだか」

四方が問う。

「白木の言っていたように三人で御座いました。 全員を視ましたが禍つものを持つ者は他におりませんでした。 金貨は流れていたようです。 早急にその数を調べるようにと言っておきました」

「・・・流れておったか」

流れていたことに落胆を隠せないが、己が目にしていた書類が嘘偽りであったことにも溜息が出る。

「造幣所長に管理をしかりとするよう言っておきましたが・・・」

「ああ、飛ばさなくてはならんな」

それは財貨省長が決めるだろうが、財貨省長自身も考えなくてはならないことが明日は待っている。

「紫の持って帰った零れ金・・・。 大きかったか」

紫と聞いて忙しさにかまけ忘れていたことを思い出す。

―――泣かせてしまった。

キョウゲンがくりくりとした目を瞬かせる。

「明日は横流しと加工場と採石場、全てを一度に押えなくてはならん。 これから武官長と財貨省長と顔を揃えて明日のことを話すが昼餉は食べたのか?」

光石の管理も財貨省である。 さっき顔を合わせたばかりだ。 今日明日のことを考えると立ってはいられないのではないだろうか。

「まだですが同席させて頂きます。 昼餉はその後で」

「その時には夕餉になっておろうな」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第72回

2022年06月17日 22時55分49秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第72回



お付きといっても塔弥はまともに日本に足を踏み入れていない。

「そっか。 塔弥さんは知らないんだ。 他のお付きの人たちは知ってると思う。 チョコレート。 甘くて美味しいの。 お母さんがお誕生日の時に作ってくれてたパフェもケーキも食べたい」

もしかして日本を恋しくなってきているのか? いや、本領で何かあったのは確実だろう。 本領で何かあって、食べ慣れたものを食べたくなった?
ナンダソレ。
自分の考えが無茶苦茶だ。

「それも甘いものですか?」

「うん。 しっかり太れる」

「紫さまは甘いものがお好みですか?」

「うん。 好き」

「その割にはお太りになっていませんね」

一瞬見た紫揺の薄物の姿を思い出してしまった。 顔を下げる。

「お婆様もお爺様もお母さんもお父さんも太ってなかったから家系かな。 塔弥さんも太ってないもんね。 塔弥さんのお父さんとお爺さんはどうだったの?」

「父も祖父も小柄でした。 曾祖父も兄弟の中で一番小柄だったと聞いていますが、曾祖伯父は背が高く細身だったと聞いています」

「うん。 私も写真でしか知らないけど背が高くて細かったな」

よっ、と聞こえて上を見ると岩の上に紫揺が立っていた。

「お待たせ」

塔弥が立ち上がってパンパンと尻に付いた砂をはたく。 紫揺の足元には絞った薄物と手拭いが畳まれて置かれている。

「皆さん退屈かな?」

馬の横に立っているお付き達を横目に見る。

「なんでしょう?」

お付きが退屈になるような何かがあるというのだろうか。

「もうちょっとここに居たいから」

そういうことか。

「紫さまのお気のすむまで」

杠が言う『紫揺のしたいように』 と似ている。
塔弥に笑顔を向けると紫揺が岩の上に座った。 隣りにはガザンが居る。 ガザンの首に腕をまわすとガザンにもたれた。

「お気になることが御座いましたら何なりとお聞かせください」

「答えてくれるの?」

「可能な限り」

『紫揺が何か疑問に思ったら何でも解決してくれる人』 杠が言っていた。
塔弥は可能な限りというが東の領土では・・・お付きは分からないことを何でも教えてくれる、答えてくれる。

だが・・・。

「そっか・・・」

それっきり口を閉ざした。

「まだ帰らないみたいだな」

退屈だと言った風に若冲が言う。

「そうみたいだな」 

「そう言えば梁湶、領主に呼ばれたんだろ? なんの話だったんだ?」

湖彩が梁湶を見て問う。

「紫さまが見つかったのだから俺らのことも考えていけってさ」

「どういう意味だ?」

「子々孫々、紫さまにお付きすると言うことだ。 気になる女人はおらんのかと訊かれた」

若冲と湖彩の目が光る。

「で?」

「どうなんだ?」

「言うか。 野夜は興味が無いと言ったそうだ」

「へぇー、野夜がねぇ。 で? 野夜のことを言っておいて自分のことは言わないのかよ」

「そんなことはどうでもいい。 阿秀は上手くいっていると聞いたんだが何か知ってるか?」

「阿秀が!?」

「嘘だろ!?」

「だよな。 いつの間にだよ」

三人が話している時に林の中でも同じ会話がされていた。

「は? 気になる女人?」

「で、何と答えたんだぁ?」

「興味はない、そう言った。 実際そうだからな。 悠蓮はどうなんだ?」

「ま、まぁ・・・」

「いるのか?」

「おい、野夜。 どうして俺に訊かない」

「どうせお前は此之葉が嫁に出るまでそんな気はないんだろう」

「どうして知っている」

「みんな知ってる。 でも此之葉もだいぶ料理が作れるようになった。 そろそろいい男が出来てもいいんじゃないのか? 此之葉は何も言ってないのか?」

「聞かんなぁ」

「そうか。 で、悠蓮はどこのどの女人だ。 教えろ」

「まぁ、その内な」

「吐けよー」

「悠蓮は一目惚れって言ってたぞぉ」

「わっ! 馬鹿!」

「吐け」

「吐くか!」

林の中で待ったままの三人と三頭。 泉に行く気はないようだ。

ガザンの背中に乗せた顔が泉を見る。 海のように波があるわけではないが、ときおり吹く風に柔らかい曲線を描いている。 所々泉の周りに生えている木々の葉が揺れる。

(悔しい。 ・・・悔しい)

ポロリと涙が出た。 簡単に頬を伝ってガザンの背に落ちる。 塔弥からは紫揺の後頭部しか見えない。 今は慌てて拭くこともない。 声さえつまらさなければいい。
そう思った途端、次々と流れ出る。 泉であれほど流してきたのに・・・。

ガザンが紫揺の頬を舐めてやりたいと思うが首を回して舐めてやることが出来ない。 紫揺が首に腕を回しているし、紫揺の顔は己の背の上にある。

「ブフ」

気に食わぬと言いたいのか息を吐き唇を震わせる。

風が長く吹いた。 かさかさと葉擦れの音が子守歌のように聞こえる。 涙を誘う悲しい子守歌。

ずっと動かなければ何も言わない紫揺。 塔弥が不審に思い声を掛けたが返事がない。 回りこんで紫揺を見てみれば目を瞑っている。 その閉じられた目からは涙のあとが見える。
ガザンの背中が濡れている。
一度下を向いた塔弥がそっとその場を離れると湖彩たちの方に足を向けた。

「うん? どうした?」

女のことを話していた三人。 こちらに向かってくる塔弥を見て湖彩が言うと梁湶と若冲も塔弥を見た。

「お疲れなのだろう。 眠られた」

「は!?」

「ドンダケ自由だよ」

「塔弥が甘やかしすぎてんじゃないのか?」

「そんなことはない。 それより掛けものは誰が持っていたか?」

「醍十だ」

この場にはいない。

「林の中で止まって待ってんだろ。 行ってくる」

塔弥が甘やかしていると言ったわりにすぐに動く若冲である。

紫揺のことを言おうかどうか迷う塔弥。 お付きも此之葉も紫揺のことは共有しなければならない。
何か変化があったり様子がおかしければすぐに全員に報告する。 でなければ紫揺を守り切れないからだ。

塔弥が振り返り紫揺を見る。 ガザンにもたれその背に頭を置いているのが見える。 己に顔を見せず泣いていた。 それに気付かなかった。
気になることがあったら訊いて下さいと言った。 答えてくれるの? と問い返してきたのに、そっか、と言って口を閉ざしてしまった。

可能な限り、と言ったのがいけなかったのだろうか。 それとも誰にも言えない事なのだろうか。 もし此之葉に言っていたのなら此之葉から報告があったはずだ。 それどころか此之葉からは紫揺の様子がおかしいと聞いている。

若冲が掛け物を入れた袋を手に戻ってきた。 塔弥が受け取ると袋だけを若冲に返し紫揺の元に戻った。

やはりまだ報告は出来ない。

ガザンに眉があったなら片眉を上げて塔弥の姿を見たように見えただろう。
そっと紫揺にかけてやる。

塔弥が元の位置に戻って腰を下ろす。 紫揺を見ていなくとも何かあればガザンが動いてくれるだろう。



造幣所(ぞうへいどころ)に向かったマツリたち。 

単にマツリの視察のような形にしている。 そこに造幣所を管轄している文官が付いてきているという体だ。

財貨省長までくると仰々しくなるため、財貨省長は来なくていいこととなり、ホッと肩を下していたのを恨めし気に横目で見ていた文官が造幣所の鍵を持ち戸を開ける。 まだ誰も来ていない刻限だ。

武官を見て逃げ出す者がいるかもしれない。 武官が中に入り陰に隠れる。 武官の乗ってきていた馬と咎者を入れる馬車は造幣所の建物の裏の見えないところに繋いでいる。 万が一、嘶(いなな)いても、堂々と置いてある文官の乗って来た馬車の馬かマツリの乗って来た馬だと思うだろう。

「もうそろそろ造幣所長が来ると思います」

現場で鍵を持っているのは造幣所長だけである。 必然的に一番に来なくてはいけないが、ちょいちょい遅刻をしていることを文官は知らない。 タイムスタンプなど無いのだから、離れていては気付くことなどない。 造幣所長の出欠、遅刻早退などの報告書はあくまでも自己申告である。

仕事を始める前と仕事終わりに掃除がある。 ずっと現場の者全員でしていたが、しばらく前から掃除担当が入れられ、その者たちが仕事前の掃除をしているということだった。 報告書にそう書いてあったという。

「まずは造幣所長か。 その者を視てから話をする」

「はい。 あの、マツリ様に全てお任せ致します。 財貨省長も言っておりましたが、わたしらは争いごとや血は・・・」

「分かっておる。 我に分からんところを教えてもらうだけで良い。 武官が出て来て巻き込まれそうになればすぐにその場から離れるよう」

「はい」

緊張した面持ちの文官を置いて、久しぶりに来た造幣所を歩いて見回っていると戸が開いた。

「あ?」

「ああ、所長(ところちょう)お久しぶりで御座います」

所長も文官である。 この文官の上役だったのか顔見知りのようだ。

「ああ、誰かと思えば」

マツリの乗ってきていた馬もいれば馬車もある。 財貨省長の者が来ていたと分かっていたのだろう。

「マツリ様」

文官がマツリを呼ぶ。
所長が驚いて目を開ける。

「これは、マツリ様」

向こうから歩いて来るマツリを見た所長が頭を下げる。 下げたまま文官にだけ聞こえるように言う。

「何かあったのか?」

「あ、いえ、そのような・・・」

文官がしどろもどろしている間にマツリが所長の前に来た。

「所長、久しいな」

「マツリ様におかれましてはお元気そうで何よりで御座います」

「頭を上げよ」

所長が腰を伸ばし顔を伏せ気味にしている。 それは当たり前のことなのだが今はそうでは困る。

「我の目を見よ」

なんのことかと所長が顔を上げマツリを見る。 まさか魔釣られるなどと考えてもいない。

「問いたいことがある」

「何なりと」

「掃除番として三人の者が入ったと聞いたが、どのような者だ」

「あの者達で御座いますか。 急に言われ、どうしたことかと思いましたがよく働きます。 仕事終わりにはまだ汚れていると残って掃除をするほどで御座います」

この所長に禍つものは視えない。

マツリは知らないが、この所長、時折、遅刻をしてきていることに後ろめたさを感じてはいないようだ。 もし遅刻を気にかけていたのならばマツリの目にそれが禍つものと映ったはずである。

禍つものが視えなかった所長に迂遠な話をする必要はないと判断する。

「その者たちは地下の者だ」

「・・・は?」

マツリが懐から名をかいた紙を出して所長に差し出す。

「この者たちに間違いはないか」

所長が紙を広げると間違いなく掃除番の三人の名前が書かれていた。

「間違いありません・・・」

「地下に金を流しているやもしれん、心当たりは」

驚きながらも所長が首を振る。

「地下から零れ金が見つかった」

「え?」

聞かされていなかった文官も驚いている。

金貨が城家主の屋敷の屋根裏から見つかっただけでは何とも言えない。 だが零れ金が見つかったということは、造幣所の計量ミスが指摘されたということになる。

「・・・管理不行き届きかもしれません」

外から声が聞こえてきた。

「その者たちか」

マツリが所長の手にしている紙を目で示す。

「はい」

「いつも通りせよ。 あとはこちらでする」

武官が隠れていることを知っている引きつっていた顔の文官が更に顔を引きつらせる。

「あれ? 所長だけじゃない?」

入ってきた一人が言う。 示し合わせていた文官が声を上ずらせながら視察のことを告げた。

「あ、ああ。 初めて見るな。 しゅ、しゅうねん、ゴホン、数年に一度の宮の視察である」

三人全員が入ってきた。
訝し気に辺りを見回している。

「柳杜(りゅうと)、碁蝉(ごぜん)、笙舎(しょうしゃ)か」

呼ばれた三人がマツリを見て驚きに目を見開いた。

「間違いなくあの者達です」

所長が小声でマツリに言った。

「捕らえろ」

マツリの静かに、だが言い切った声に陰に隠れていた七人の武官が躍り出た。 武官の存在を知らなかった所長が驚いた目をしている。

逃げようとした三人だが、戸のすぐ横に隠れていた武官が行く手を阻む。 建物の中を逃げ回り道具を投げつけたりと暴れる三人。

端に逃げ身を寄せていた所長と文官。 その二人を人質にとろうと思ったのか、手を伸ばした一人の男。
「ひいぃぃー」 と二人が情けない声を出し抱き合った。
横からマツリが腕を伸ばし男の手を引くと同時に足を払い、うつ伏せさせた上を膝で押さえ込み腕を固める。
すぐにやってきた武官に渡す。 

「お手を煩わせました」 と言い、素早く縄をかけた。

マツリが動いたと同時にマツリの肩から飛び立っていたキョウゲンがマツリの肩に戻ってきた。 残りの二人も捕らえられた。

縄で縛られ歩かせようとするのに反抗する姿を見ながら所長が「申し訳ありません」と言う。

「どういう意味だ」

「管理がいい加減になっておりました」

「そのようだな。 以後、管理を徹底するよう改めよ。 他の者たちも視る」

咎人は馬車に入れられ猿轡でも噛まされたのか、叫んでいた声が止んだ。 戻ってきた武官四人がすぐに身を隠す。 三人が咎人を見張っているようだ。

何人かがやって来ると、再度文官がマツリの視察だと声を上ずらせながら説明をし、マツリに言われた通りに今回は一人一人とマツリが話すということも付け加えた。

次々とやって来た者と話をする体を見せてその目の奥を視たマツリ。 たった一人を除けば怪しむ者はいなかった。
そのたった一人が言う。

「所長は宮から言われたことを信じていたようですが、新しく入った三人は怪しい動きをしています」

この者は三人が捕らわれたことを知らない。 そして宮から言われたこととは白木のことだろう。

「あの三人が所長に計量を任せてくれといいました」

「計量を? 掃除担当がか」

「はい。 言ってはなりませんが、計量は面倒臭いものでして誰もが嫌がります。 そこに手を上げれば皆が首を縦に振ります。 それに押されて所長があの三人に任せました」

「何故そのようなことを我に言う」

言ってみれば上司に対する造反だ。

「・・・俺は汚いことが嫌いです。 あの三人からは汚いことしか感じません」

「だがそれは所長の判断に反することだ」

「所長が間違っていないと誰が言い切れます?」

僅かに視えた禍つものはそういうことか。 所長への不信感、というところか。

「ここに居て長いのか」

どういうことだろう、話の流れがおかしい。 眉間に皺を入れながらも答える。

「三年です」

見たところ、二四、五歳だろうか。

「どうしてここで働いておる」

「以前、父親がここで働いていました。 目を悪くしたんで父親の後釜として入りました」

「ここに居たいか」

「ここにこだわってはいません。 飯さえ食えればいいです」

「食わせねばならん者がおるのか」

「独り身です。 せいぜい目を悪くした父親が気になるくらいですが、目を悪くしたと言っても見えないわけじゃありません、父親も別のところで働いていますし母親も弟もいますんで」

マツリを前にして臆することもなくここまでいう者はそうはいない。

―――度胸がいい。

「我からの呼び出しがあれば宮に来るよう」

「え?」

「来る気が無ければ来ずともよい」

かなり灰汁が強い。 杠とやっていけるかどうかは分からないが杠が上手く動かしてくれるだろう。 この者は杠の配下に置ける。

「名はなんという」

「巴央(ともお)」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第71回

2022年06月13日 21時24分21秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第70回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第71回



此之葉と二人、領主の家を出ると紫揺の家に戻った。

朝餉を食べながら考える。
紫の目に視えるのはあくまでもイメージだろう。 これは経験の中で理解していくしかないのか。

シキから聞いた話ではマツリは手を添わせると、対象者の体調が分かると言っていた。 どこを害しているか、そこから体調不良の原因が分かると言っていた。
こんなことになる前にどんな風に視えるのか、若しくは感じるのか、それともそれ以外に何かあるのか、詳しく教えてもらっておけばよかった。 今更後悔しても遅い。

―――あんなこと。

急に紫揺が頭を下げて唇を噛んだ。
それを見ていた此之葉。 本領から戻って来て時折、紫揺の様子がおかしく感じられる。 それに秋我が言っていた。 埃が入ったと言って手巾で目を押さえていたと。 だが埃など立っていないはずだし、その前に紫揺が俯いた時、悲しげな顔をしていたと言っていた。
此之葉が声を掛けようとするとその前に紫揺が口を開いた。

「此之葉さん、歴代紫さま自身が書き残した物ってあるんですか?」

“紫さまの書” はあくまでも、他から見て紫がどうだったと、人間性のようなことや、どこに行ったなどといったことしか書かれていない。

「聞いたことは御座いませんが梁湶(りょうせん)に訊いてみます」

立ち上がりかけた此之葉を止める。

「あ、いいです。 自分で訊きますから」

そしてこの流れで阿秀とのことを訊きたいが今はまだ早いだろうか。

「葉月ちゃんはどうしてます?」

「今日は山菜を採りに皆で山に入ると言っていました」

「葉月ちゃんって、本当にお料理を作るのが好きなんですね」

「そのようです。 日本にいた時もあちらでしか作れない物も沢山作っていたみたいです。 私とは全然違います」

さっきチョコレートを思い出した。 ふとそれを思い出し、ときおり母親の早季が作ってくれたホットケーキや誕生日の時に作ってくれたケーキやパフェを芋づる式に思い出す。
この地にはそんなものはない。 無いと思うと余計に食べたくなる。

食事を終え、此之葉が膳を下げている間に梁湶を訪ねた。

「その様な物は御座いませんし、覚書や日記といった物もありません」

さすがに話が早い。 梁湶に限らず日本で暮らしていた者達には言葉のチョイスに苦しまなくていいし、ちょっと言っただけですぐに通じてくれる。

「そうですか・・・」

「お役に立てなく申し訳ありません」

他のことならまだしも五色のこととなるとこの領土に知るものは居ない。

「いいえ、気にしないで下さい。 失敗したな、本領に行く前にこの疑問に気づいていたらシキ様か本領の五色に訊けたのに」

マツリになど訊かない。

「紫さま、そう慌てなくてもいいんじゃないですか?」

「え?」

「領土で生まれ育てば五色様のお力は徐々に分かってくると聞きますが、紫さまがお力の事を知られたのはほんの二年足らず前です。 紫さま歴二年。 言ってみれば二歳です。 ヨチヨチ歩きではありませんか」

表現の仕方も日本的だ。 気持ちが落ち着く。

「そっか」

「はい」

「なんだか気が楽になりました。 有難うございます。 そうだ、今日はどこも回りません。 着替えたら気晴らしにお転婆で走ります」

「え・・・」

と、そこにうんざりした顔の野夜が入ってきた。

「次、梁湶」

と言って親指だけ立て肩越しに上げた。

「なんの話だった?」

「聞いたら分かる」

なんだよ、話せよ。 という顔を送りながら玄関に下りる。

「紫さまが着替えられたらお転婆で走られる。 今日はどこにも回られないそうだ。 頼むぞ」

「え?」

梁湶が家を出て行き、野夜が紫揺を見た。

「ガザンを探してきます」

正しく言うと塔弥に探させます。
先ほど塔弥とすれ違っていた。 飼葉を持っていたから厩(うまや)にいるはずだ。


この領土に来て最初の内、紫揺はガザンを家の中に入れ早朝と夕暮れのお散歩以外は出さなかったが、何故か子供たちがガザンになつき、紫揺が出ている時にはガザンを訪ねに来たりしていたらしい。
ある意味ガザンは子守りをしていたという。

ガザンに限って噛むことは無いだろうが、ついウッカリというだけで座ろうとして子供が下敷きになる可能性が無きにしも非ずだ。
危険性は隠せないが半年が経った頃、ガザンが自ら戸を開け外でのんびりとしだした。 もともと外飼いだったガザンだ。 外の方がいいのだろう。
首輪もリードもなく自由にしている。

それにお付きが言うにはガザンは単に外をブラブラしているのではなく、不審者がいないかを見て回っているようだという。
その不審者とは紫揺に害を及ぼす者。

ガザンは紫揺を守ることしか考えていない。 ガザン自身もそう思っているがセキとの約束もある。 だがガザンがここまで想っていることは誰も知らない話である。


野夜が出ていくのを見ると部屋に戻り着替えを始めた。
お転婆に乗って嫌なことは全部吹っ飛ばす。 嫌なことは風にさらってもらう。

―――あんなこと。

それでダメだったら・・・。
薄物を取り出すと一番下に着た。


「いや・・・そんなこと急に言われましても」

「言ってはおらん。 訊いておるだけだ」

「ま、まぁ・・・。 気になる女人くらいは」

「おっ、おるのか。 野夜なんぞ興味も無いと言っておった」

ああ、それであの顔か。 納得。

「紫さまはもう見つかった。 今度はお前たち自身のことを考えねばならん。 お前たちも子々孫々、紫さまにお付きせねばならんのだからな」

「それでしたら順を考えれば阿秀でしょう」

「ああ、阿秀は上手くいっておる」

「は? いつの間に?」

「阿秀のことはいい。 その女人が気になるのなら他の者に取られる前に己が女房としろ」

「阿秀の相手って誰ですか!?」

「お前たちに言うと野次が飛ぶかもしれんからな。 次、野夜以外、誰か呼んできてくれ」

「これから紫さまがお転婆で出られます。 皆ついて行きます」

「そうか、では仕方ないか」

「で? 阿秀のお相手は?」

「言わん」


広い野原を襲歩(しゅうほ)で走り出したお転婆。 紫揺の命に添っただけである。
お付きたちが慌てて追おうとするが領土一早く走るお転婆だ。 ましてや乗り手もこの中で一番軽い。 追いつけるはずなどない。 かろうじて食らいついているのが塔弥だが徐々に離されてしまっている。

馬で出掛けた紫揺とお付きの後ろについていたガザンなど素知らぬ顔でゆっくりと散歩を楽しんでいる。

「このままぶっちぎられて離れてしまっては、阿秀に何を言われるか分からん! 目を離すなよ!」

若冲が叫ぶ。
だがその若冲の馬は段々と引き離されていっている。 若冲のみならず梁湶と醍十もだ。 やはり乗り手の重さが大きく影響しているのだろうか。

「くっそ、何処まで走るんだよ!」

塔弥の後ろを走る湖彩が叫ぶが、後ろを走る野夜と悠蓮の馬は相当に疲れてきたようで戦線離脱状態になってきた。

「やっぱりもう歳かー」

悠蓮が言ったが、悠蓮の乗っている馬だけではなく野夜の乗る馬もそこそこのお歳である。

「湖彩! 塔弥! 頼むぞ!」

野夜の声が湖彩と塔弥の耳に届いたのかどうかは分からない。 二人は前だけを見て必死に馬を走らせているだけだ。
塔弥と紫揺の馬の間がかなり離れてしまった。 それ以上に離れてしまったのが湖彩だ。
乗り手の腕というより馬の問題であろう。 やはりお転婆はかなり早い。

塔弥の目に林に入って行った紫揺の背が映っていたが、木々に阻まれてその先を見失ってしまった。
いったいどこに行く気なのだろうか。

林の向こうは山になっている。 そんなに高い山ではないし、緩やかで危険のない山道がある。 馬で山に登るつもりなのだろうか。
スピードを緩め林の中で辺りを見回すが紫揺の姿が見えない。 一旦馬を止める。 耳をすますが蹄の音が聞こえない。 どこかで止まったのか、それともゆっくりと歩かせているのか。

林の中を見て回ったが姿は見えない。 下を見ても素人目に分かる蹄のあとが残るような地ではない。
遅疑(ちぎ)する様子を見せたが林を抜け山に出ることにした。 緩い傾斜の道を歩かせていると蹄のあとを見つけた。
塔弥とは随分違ったところから林を抜け山に入った馬がいたようだ。 この蹄のあとがお転婆のものとは限らないが蹄のあとを追っていく。

すると泉の方でジャバジャバと音が聞こえる。 蹄のあとも泉に向かっているようだ。 すぐに泉に向かった。

泉の畔ではお転婆が砂浴びをしていた。 そして泉の中で紫揺が泳いでいる。 最初っからそのつもりだったのか着替えまでして。 というか、乗馬服の下に着ていたのだろう。 着替えなど持っていなかったのだから。

今までも自由奔放にしていた紫揺だったが、さすがにここまで好き勝手をしたことは無い。 どうしたのだろうか、と塔弥が首を捻る。

ふと見ると、泉の畔にある岩の上にガザンが伏せている。 どこをどうやって近回りしてきたのだろう。 それに紫揺がここに来ることを分っていたというのだろうか。

砂浴びを終えたお転婆が立ち上がり辺りをフラフラしようとしたのを見止めたガザン。 すぐに岩を降りるとお転婆に近寄りそれ以上動かないようにさせている。

感心して見ていた塔弥だが蹄の音に気付いた。 誰かが林の中を走っているのだろう。 馬を引き返させ再び林の中に入った。

「ここだ!」

大声を出すと湖彩と若冲と梁湶が現れた。 遅れて醍十も。 野夜と悠蓮の馬は今ごろとぼとぼと歩いているのだろう。

「泉におられるが、ちょっとご様子を見ている方がいいと思う」

「泉に生息する生き物もいる。 何かあっては大変だ。 行こう」

湖彩がすぐに馬首をまわすと続いて若冲が醍十に言う。

「醍十、ここに残って野夜と悠蓮を頼む」

「はいなぁ」

塔弥を先頭に湖彩、若冲、梁湶と続く。

「あまり紫さまを刺激したくない」

「何かあったのか?」

塔弥の馬の横に湖彩が付ける。

「何も分からないがいつもの紫さまと違うようで・・・」

「そうか・・・」

紫揺のことは塔弥が一番分かっていると皆が思っている。 塔弥がそう言うのならそうなのかもしれない。

馬を歩かせ先ほどまで塔弥の居たところに馬を進める。

「え!? ガザン?」

「ああ、俺が来た時にはもう居た」

ガザンに行く手を阻まれてすることがないのだろう。 お転婆がまた砂浴びをしている。 その横でガザンが砂浴びが終わるのを待っている。

「どこをどうやって、ってか、紫さまが此処にくるって知ってたのか?」

「俺に訊かないでくれよ。 そんなことわかるわけないだろう」

言うと馬を降り手綱を湖彩に渡した。
砂浴びに満足したのかお転婆が立ち上がる。 ガザンが塔弥を見止めた。

「おい、紫さまはどこだ」

若冲と梁湶が辺りを見回すが紫揺の姿がない。
その時、ザバンと音をたてて泉の中から紫揺が出てきた。

「紫さまは水浴び、お転婆は砂浴びか・・・」

若冲と梁湶が溜息をついてそのまま紫揺を見続けた。

塔弥がお転婆の手綱を手に取る。 お転婆が塔弥を噛まないようにガザンが上手くやってくれている。
塔弥がお転婆を曳いて腰に持っていた綱を木に括り付けるとそれに手綱を繋いだ。

「ガザン、お手柄だな」

ガザンの頭を撫でてやるが、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに元居た岩に戻っていった。 そこから紫揺を見ているのだろう。

潜っては浮かんできて息を吸い、また潜る。 それを繰り返している。

「何をされたいのか・・・」

湖彩が言う。

「最初は泳がれていたんだが」

湖彩から手綱を受け取ると、自分の馬の手綱も木に括り付け、岩に座るガザンの右横に座った。 ふと岩の下を見ると紫揺の乗馬服が畳まれて置かれていた。
一応、この岩陰に隠れて服を脱いだようだ。

プカリと浮いてきた紫揺。 疲れたのだろうかそのまま仰向けに浮いている。

「おい、そろそろお身体が冷えてくるだろう」

「そうだな」

いくら温暖な東の領土とはいえ、やっと三月が終わろうとしている頃だ。
紫揺が身体を捻ってまた潜っていく。

湖彩が馬に乗ったまま塔弥に近づく。

「もうお身体が冷えるだろう」

「・・・冷えて熱を出されても、紫さまはこの時を選ばれるだろう。 もう少し待ってくれ。 それでも上がって来られなければお止めする。 あっちに戻っていてくれ」

岩の上で膝を立て足を覆うように両手をまわし、指先で顎を撫で紫揺の残した波紋をじっと見ながら言う。

「・・・分かった」

湖彩からの話を聞いた若冲と梁湶が目を合わせる。 塔弥の言った紫揺の様子のことも気になるところだが、戻れということは離れていろということだ。
サッと見た限りでは目で判断できる危険生物は見えない。

「塔弥が言うんだから任せる、か」

湖彩に言われ若冲と梁湶が渋々納得すると下馬する。

再び浮かんできた紫揺。 今度はクロールで泳ぎだした。

「へぇー、上手いもんだ」

「上手い以上に綺麗なフォームだ」

「子供らと水遊びだけじゃないんだな」

途中で向きを変え背泳ぎをし、またクロールで泳ぐ。 クルクルと何度も向きをかえたりもしている。
気が済むまで泳ぐと、平泳ぎで足のつくところまでやって来て歩いて泉から上がってきた。 まだ膝下は泉に浸かっている。

薄物が身体にピッタリとくっ付いている。 馬を下りて手綱を持っている三人と塔弥が目を逸らす。

岩の上にいるガザンを見ようとして顔を上げた紫揺。 ガザンの隣に塔弥が居るのが目に入った。 その塔弥は横を向いている。

「あれ、塔弥さん」

当の本人はレオタードを着ていたのだ、気にする様子も見せないし、レオタードのように太腿は出ていない。 膝まで薄物はあるのだから。

「あれじゃありません。 最初っから泉にくるなら来ると教えて下さればよかったものを」

横を向いたまま話している。

「うーん、お転婆で走ってスッキリしたらそれで良かったんだけど・・・」

「手拭いは持って来られたんですか?」

「あ・・・考えてなかった」

「そのままでは冷えます。 お待ちください」

お付きたちはそれぞれ紫揺に関する何やらを持っている。 いつ何時何をするか分からないからだ。 塔弥は先程の縄。 そして湖彩は手拭いを持っている。
湖彩から数枚の手拭いを受け取ると紫揺を見ないように手渡す。

「しっかり拭いて下さい。 こちらの岩陰にいますので、あちらで」

紫揺の着替えの置いてあったところで着替えろと言っている。 岩を挟んで反対側に塔弥が座る。
髪の毛をがしがしと拭いている音がする。 その音が止むと身体を拭いているのだろう。 乱暴な音は聞こえてこない。

「お身体は冷えていませんか?」

「ちょっと冷えたかな」

岩越しに応えが返ってくる。

「それで、泳いでスッキリされたんですか?」

「・・・どうかな」

「何かあったんですか?」

「・・・」

紫揺の手が止まる。

「紫さま?」

「何もない」

完全に何かあったようだ。

「梁湶が言っておりましたがお力の事は焦らずゆっくりと」

「うん。 梁湶さんの話し方は分かりやすかった。 紫歴二年、二歳だって。 言われてみればそうだもんね」

しっかりと話す。 五色の力の事ではなさそうだ。

「本領はいかがでした?」

「・・・」

本領と言われたのにあのことが頭に浮かぶ。 もう東の領土の山に入っていたのに。

「紫さま?」

「あ、うん。 勉強になった」

本領で何かあったのか。

「チョコレートが食べたい」

「はい?」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第70回

2022年06月10日 21時23分02秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第70回



大声こそ出さなかった杠もかなりショックを受けている。 だがそれは波葉とは違った意味である。

「泣かせたとは、どういうことで御座いましょうか」

杠の目が厳しい。 それほど気になるのなら杠の女房にすればいいのに、とさえ考えてしまう。

「どういうことだと思う?」

「紫揺を泣かせるなどと・・・」

「泣かせてはいかんか? それでは杠が紫を大切に己の元に置いておけばいいのではないか?」

「その様なお話では御座いません。 なぜ紫揺が泣いたのですか」

先ほどまでの浮かれた空気はどこへやら。 波葉は二人をオロオロとしながら見ているだけだ。
マツリが酒杯に手を伸ばそうとしかけたのを止め、改めて視線を杠に転じる

「我から問う。 杠は紫のことを何と考えておる」

「何度も申し上げました。 守りたいそれだけで御座います」

「守るというには色んな意味がある」

「それも何度も申し上げました。 我のたった一人の妹と思っております。 紫揺も然りで御座います」

「では杠の元に大切に置いておけばいいのではないか」

再度同じことを言った。

「守ると言うのは何もさせない事では御座いません」

「此度は大きな傷なく済んだが、手元に置いていなく、それが為に傷を負ってもいいということか」

「それが紫揺の望んだことの結果なのならば」

「それで死しても良いと?」

「マツリ様!」

暫くの静寂が流れた。
波葉の目が宙を踊る。
口を開いたのは杠だった。

「己は紫揺を守りたい、そして紫揺には幸せになってもらいたい。 ・・・どうして紫揺が泣いたのですか」

“紫揺にはマツリ様と幸せになってもらいたい” 喉まで出て言えなかった。 マツリがどうして紫揺を泣かせたのかが分からないから。 今のマツリが何を考えているのかが分からない。 紫揺の事をマツリの肩に背負わせるのは重すぎたのだろうか。

「・・・幸せにか。 それは・・・俺が杠のことを想っているものと同じということか」

「己が紫揺のことを想っていると同じにマツリ様が己に想って下さっているのならば、これ以上の幸せは御座いません」

「俺は杠が幸せになってくれればそれでいいと言った」

「己も紫揺にその様に思っております」

マツリが息を吐いた。
反対に息をのんで見ていた波葉。 ピンと張りつめていた空気が緩んだように感じた。

「悪かった」

酒のせいか、と言いながら今度こそ酒杯に手を伸ばし口にする。
どこか緩んだ空気に波葉も少しは落ち着いたのか、マツリに続いて酒杯に手を伸ばす。

「紫が誰かの手になどということは考えたくもない。 杠の言った通りだった、なにもかも。 だからちょっと杠を虐めたくなった」

重荷ではなかったようだ。 だがどうしてそんな理由で己を虐めたくなったのか、それを追求したいが今は紫揺の方が気になる。

「それで、どうして紫揺が泣かなくてはいけないのですか」

まだ目は厳しい。

「俺の許嫁になるように言った」

口にした酒杯を今にも噴き出しそうになった波葉が咳き込んでいる。

「義兄上、大丈夫で御座いますか?」

「それは、それはあまりにも早急で御座いましょう」

咳き込みながらも波葉が言う。
だが杠は違った。

「それくらいで紫揺が泣くはずはないのですが」

紫揺のことをよく分かっているようだ。
マツリが両の眉を上げると酒杯を口にする。 ゴクリと飲むと言った。

「紫の首に唇を重ねた。 泣かれて頬を打たれた。 許嫁のことは納得しないと言われた」

思いっきり振られたということだ。
間があった。 しんと静まり返る部屋の中。 マツリが手酌で酒杯に酒を注ぐ音しかしない。

クッと杠が笑いを漏らした。

「紫揺らしいと言うか。 見事にやられたということですか」

緊張していた目元も身体も緩み “御座います” も取れて、残っていた酒杯の酒を呑むと改めて身を正す。

「失礼をいたしました」

マツリの名を大声で叫んでしまっていたし、厳しい目を送ってしまっていた。 端座すると手をついて頭を下げる。

「やめてくれ。 俺が先に仕掛けたことだ。 それにしても見事なほどに嫌われた」

頭を上げた杠が「足を崩せ」 とマツリに言われ胡坐をかく。

「時が解決してくれましょう」

「時があればいいがな。 男に目星をつけて領主に言うと言っておった」

「その様な者は現れはいたしません」

「杠から言われていることは分かっていると言った上で、そこそこならなどと言っておったぞ」

杠が顔を歪める。

とんでもないことを聞かされたがとにかく二人の剣呑な雰囲気が無くなった。 波葉が胸を撫で下す。
だが今のマツリの言葉は気にかかる。 東に戻ってしまった紫揺にはシキも杠も何も出来ないし、見事に嫌われたマツリには口も利かないだろうが、まぁ、そこまでの心配は波葉が受けた指令には無い。 ホクホクした手土産を持ってシキの部屋に入ることが出来る。
それにひと段落ついたのだ。 明日には安心してシキも帰るだろう。 また新婚生活が始められる。


翌早朝、少し酒が残ってしまった顔を洗い、水を一気に飲んだ波葉がシキの部屋に足を向けた。

「シキ様はもう起きていらっしゃるだろうか」

ニコニコと独り言をいいながら部屋の前まで来ると、回廊にシキの従者と昌耶がまだ座っている。
まだシキは起きていないようだ。 だが波葉はシキの伴侶である。 シキがまだ寝ていても部屋に入ることが出来る。

波葉の姿を見とめると従者と昌耶が手をついて頭を下げる。

「シキ様はまだお起きでないご様子ですか?」

「気配が感じられませんので」

どうぞ、と言って昌耶が襖戸を開ける。
波葉が入るとそっと襖戸が閉められた。 奥の部屋を見ようとしたが襖が閉まっている。 そっと襖を開けシキの様子を窺い見る。
布団の中からシキがこちらを見ていることが分かった。 襖を閉めると波葉が横になっているシキの元に歩み寄り膝を着いた。

「お起こししてしまいましたか?」

「いいえ、起きておりました。 少し気分が優れなかったもので・・・」

「え? いかがなされました。 すぐに医者を呼びましょう」

立ち上がりかけた波葉の袖をシキが引っ張った。

「大事は御座いません。 昌耶も知っておりますので」

昌耶はシキが小さな頃から付いていると聞いている。 その昌耶が知っているのならば昌耶に預けるのが一番だろう。

「ご無理をされないように。 今日には邸に戻りましょう。 そこでゆっくりとお過ごしください」

「・・・はい」

歯切れが悪い。 どうしたのだろうか。

「マツリのことはどうでした?」

そう訊かれて昨日のことをゆっくりと話した。 気分が優れない中で波葉の言うことに耳を傾けている。
それにしても、と波葉が思う。 昨日はあんなに元気だったのに、どうして・・・。
シキの母親である澪引は身体が弱い。 それを思うと不安を感じることは消せない。

「マツリ様の事はこれで宜しいかと。 シキ様はゆるりとされて下さい」

シキが身体を起こす。 波葉がシキの背中に手をまわす。

「随分と良くなりました。 マツリのことも杠のことも安心できましたが、紫のことが気がかりです」

シキの言いたいことは分かる。

「はい。 もう少し順をお踏みになられれば良ろしかったものを・・・」

何も知らない紫揺にどうして首などに口付けたのか。
後になって杠から問われ、マツリが話してはいたが。

『木から跳び下りてきたのを後ろから抱きとめたのでな。 そこしかなかった』 と。

杠は笑っていたが、いったいどういう状況なのだろうか。

「極端にもほどがありますわ。 かわいそうな紫」

紫揺は男女の理を何も知らないと “最高か” と “庭の世話か” から聞かされている。
杠が話している時にとんでもないことを言いかけ、思わず紫揺の耳を塞いだ。 “最高か” と “庭の世話か” などは目や口まで塞いでいた。

その時には紫揺が何も知らないなどとは知らなかったが、そうせずにはいられなかった。
きっと日本でも周りがそうしていたのだろう。 何も知らない紫揺。 今も泣いているのではないだろうか。

「今日、マツリは東に飛べそうですか?」

「それは出来かねます。 今日だけでなく明日もです。 きっとそれ以降も。 当分マツリ様はお忙しくされます」

「ではいつ、誰が紫の様子を見に行くのです?」

「シキ様、マツリ様はマツリ様の背負われていることが御座います。 伴侶は二の次で御座居ます。 マツリ様が心寄せられている紫さまと添われるに越したことは御座いません。 ですがいま宮は動かなければならない時で御座います。 マツリ様もそれを重々分かっておられます」

シキが唇を噛む。

―――美しい。

シキが紫揺の事で心穏やかでないというのに、そうと分かっていても我が伴侶はいつ何時でも何と美しいのだ。 そう思いながらシキに見惚れる波葉だが、シキが今何を考えているなどとは考えもしなかった。

「では、わたくしが東に飛びます」

己の気分が優れないというのに、それを押してまで紫揺の様子を見に行くというのか。 荒げそうになる声を抑えて諭すように言う。

「何を仰られますか。 ご気分も優れられないというのに」

「ご尤もで御座います」

え? とシキが顔の向きを変え波葉が後ろを振り返った。 襖は閉められている。

「シキ様、お身体をお考え下さいませ」

声が続いた。
波葉が襖を開けると襖の向こうに手をついている昌耶が居た。

「シキ様が飛ばれると仰せられれば、この昌耶、身を捨ててお止めいたします」


いつもより随分と早い四方とマツリの朝餉が終わった。
従者が厨に手配をしていた。 しっかりと四方に言われたからなのだが。

「酒は残ってないか」

「はい」

「杠は何と申しておった」

「父上の褒美を受けると」

四方が口の端を上げる。

「段取らねばならんな。 杠の体術はいかほどのものか」

「我が教えました」

それは知っている。 だから勝算があるのだから。
だがここで少しでもマツリが口ごもれば、マツリから見て杠の体術には不安があるということになる。 そうなれば勝算も怪しいものになったがマツリは言い切った。

「それでは充分か。 ではこの一件が落ち着けば執り行う」

マツリに体術を教えたのは四方だ。 己の教えには自信がある。 それをマツリが杠に教えたのだから間違いはない。

「はい」

そろそろ武官長と財貨省長に従った文官が来るはずだ。 四方が立つとマツリもその後に続いた。

武官長と財貨省長との段取りはついた。 四方は現場にはいかない。 行くのはマツリだ。

造幣所が動き出す随分と前に宮を出た武官と文官を従えたマツリ。
文官は馬には乗れないので馬車である。 そしてマツリはキョウゲンを飛ばすことなく馬に跨っている。
キョウゲンは宮で留守番ということにしたかったが、それをキョウゲンが撥ねた。 マツリの言うことに忠実だったキョウゲンが。

「飛ぶことはいたしませんがマツリ様の肩においてくださいませ」 と。

だから馬に乗るマツリの肩にキョウゲンがとまっている。
キョウゲンはマツリのことを知ろうとしている。 洞であまりに突然マツリから大きな感情が流れてきて更に毎日流れてくる。 収拾がつかない状態がまだ続いていた。

「では行く」

先頭は武官に任せその後をマツリの乗っている馬が走る。 その後を武官が御する文官を乗せた馬車と咎人を乗せるための馬車が走り、またその後に武官の馬四頭が続く。
目指すは造幣所。



「紫さま?」

此之葉に揺り動かされてやっと紫揺の目が開いた。

「ずっと目を閉じられたままかと思いました」

心底安堵したように此之葉が言う。
何度声を掛けても返事もない。 とうとう戸を開けると着替えもしていない紫揺が掛布団の上に横たわっていた。 息があるかとさえ確認したほどだった。

「え? そんなに爆睡してました?」

「ばくすい?」

「あ、思いっきり寝てました?」

未だに言葉のチョイスに困る。

「何度お声がけをしてもお起きにならなかったので」

「そうなんだ。 うん、寝不足だったから。 しっかり寝られたみたいです」

身体を伸ばす。

「本領であまり寝られなかったのですか? 何かあったのでしょうか?」

「あ、そういう意味じゃなくて」

充分そういう意味だが。

「それより昨日、阿秀さんとお話されました?」

「え・・・」

此之葉が頬を染める。
話したんだ。
あの堅物が何を言ったかは分からないが進展はあったようだ。

「お付きの人たちもそうですけど、此之葉さんもご自分の自由に足を踏み出してください。 もう紫は東の領土に居るんですから」

「紫さま・・・」

「遅く起きて偉そうなことを言っちゃいました。 耶緒さんの話は聞かれました?」

寝起きにかかわらず気にかかることを訊く。

「はい。 紫さまに言われたように湯呑一杯を耶緒に飲ませたと。 耶緒がまだ喉が渇いたというので、もう一杯飲ませたということでした。 今も秋我が耶緒に付いております」

紫揺が口角を上げた。 いい方向にいっているようだ。

「耶緒さんの状態を視に行きます」

「朝餉は・・・」

「あとで頂きます」

此之葉と阿秀がどんな話をしたかは気になるが今は耶緒のことが第一だろう。 着替える必要もない。 昨日あのまま寝てしまったのだから。 顔を洗って歯を磨く。
肩の凝りは残っているが昨日より随分とましだ。 しっかり寝られたのだろう。
領主の家に足を運びながら首の痛みにムカつくことを思い出してしまった。
ヒリヒリとしている首筋に左手をあてる。 こすり過ぎた首筋が触るなと訴える。

(思い出したくもないのに)

手を下すとどうすれば記憶というものがなくなるのだろうかと模索するが、学者でもなければ、日本にいれば選挙権があるだけの単なる一般市民だ。 記憶をどうやって消せばいいかなどという知識は持っていない。

(あのマツリ・・・腹立つ! 腹立つ!)

記憶を消したいのに記憶は増幅するばかり。 それも悪いように。

耶緒を見ると昨日とは随分と違っていた。 布団の中ではあるが座っていても平気なようだ。 とは言え秋我が耶緒の背中を支えてはいるが。

「ご気分はどうですか?」

「お陰様で随分と良いです。 久しぶりに深く眠られましたし、白湯を飲んでも吐き戻すようなことはありませんでした。 秋我から聞きました。 昨日は随分と長く手を添えて下さったようで、有難うございます」

「気にしないで下さい」

「なんでしょう・・・。 身体が楽になったのもありますが何よりも心が楽になったような気が」

「心、ですか?」

「はい。 紫さまがお話しくださったことが心に響きました。 特に頑張っているつもりはありませんでしたが、やらねばならぬとは思っていました。 無意識に早くここの場所に慣れねばと、余裕がなくなっていたのかもしれません」

(・・・あれは、あの塊は食物じゃなくてストレス? でもストレスがお白湯を飲むことで溶けるなんて有り得ないし)

「少しでも楽になったのなら良かったです。 それと領主さんにも秋我さんにも訊いたんですけど、耶緒さんの気分が悪くなる前に何か今までに食べたことの無いものを食べました?」

「秋我に聞かれました。 それでよく考えたんですけど、シュリを食べました」

「シュリ? シュリなら辺境でも食べていたじゃないか」

耶緒の背に手をまわしていた秋我がどういうことだと訊く。

「ええでも、辺境のシュリとこちらのシュリでは随分と調理法も味も違いましたもの」

「あ・・・そういえば。 こちらに来て懐かしいと思って食べたんだったか・・・」

辺境のシュリは毒性がほとんど見られなく灰汁抜きも軽いもので良いし、シュリ自体にそんなに味はしない。 ほんのりと爽やかな味がするだけである。 だから辺境では薄味で煮て爽やかな味を楽しむだけで子供も食べるが、ここのシュリはそうではない。

繊維が多いだけでなく毒性が高くしっかりと灰汁抜きをしなければいけない。 シュリ自体の味もかなり苦いもので濃い味付けで少しでも苦みを消し、酒のアテなどに出されることも多く、身体の弱っている時には繊維を消化できず、胃がもたれるからと食べることは少ない。 そして子供たちはその苦さに食べることなどない。

「あ、シュリって、ああ、あの苦いやつですよね。 あの苦いのを食べたんですか?」

苦さを思い出しただけでチョコレートを食べたくなる。

「食としてはとりませんでしたが、味付けのほどが分かりませんでしたので料理をしながらいくつか口に運びました」

「繊維が消化しきれなかったのかな・・・」

あくまでも紫揺の目に映るのは実際のものではないと紫揺自身そう理解している。 だがどう考えても分からない。 仮に実際のものとしても、食物の繊維が白湯で溶けるはずなどないし、さっき考えたストレスもだ。
どういうイメージであんな風に視えたのだろうか。

「取り敢えず一度視させてください」

夕べからの変化をみたい。

耶緒を横にさせ紫の目で視る。
灰色に茶色を混ぜたような色の塊はほんの少し残っているだけで驚くほどなくなっている。 心配な下腹には光り輝くものがしっかりと視える。

秋我が耶緒から目を外してふと紫揺を見た。 紫揺の瞳が紫色になっている。 ゴクリと息を飲む。 初めて見る五色の瞳。 美しい紫の瞳。

紫揺が目を閉じた。 再び開いた時には瞳の色は黒に戻っていた。

「まだ胃・・・胃の腑? に視えるものは有りますけど夕べとは比べ物にならないほど小さいです。 このまま暫くはゆっくりとして可能な限り胃の腑に負担の無い食事を・・・食をとって下さい。 お茶はまだやめた方がいいかもしれません。 お白湯をしっかりと飲んでください」

耶緒が頷き、秋我が「有難うございます」と言った。

「赤ちゃ・・・赤子も元気なようです。 命が輝いて視えます」

夫婦が目を合わせて微笑み合った。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第69回

2022年06月06日 22時19分31秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第69回



「これ全部、此之葉さんが作ったんですか?」

目を丸くして此之葉を見る。

「お口に合いますとよろしいのですけれど」

「先に頂いて申しわけなかったのですが、美味かったですよ。 冷や奴しか作れなかったのが信じられないくらいです」

冷や奴を作るというのもなんだが。

「本当に。 阿秀の言う通りです。 さ、紫さま召し上がって下さい」

「へぇ~」

横目で阿秀を見ると次に此之葉を見た。 此之葉が真っ赤になっている。

「じゃ、いただきます」

まず喉が渇いている。 汁物を手にするとゴクリと飲んだ。

「美味しい」

此之葉を見て言うと更に此之葉の顔に赤みが増す。
食べる度に言うと此之葉の顔から火が噴くかもしれない。 あとでまとめて言おう。
残念ながら冷えた白ご飯だが、それを口に入れおかずを口に運ぶ。 ついウッカリ「美味しい」と出てしまうのは仕方がない。
前の席では秋我も「美味い美味い」と言って食べている。

「あ、そうだ。 此之葉さん、申し訳ないんですけど耶緒さんが気になります。 無理矢理、体の中にお白湯を入れちゃったし。 吐いちゃったら大変ですから秋我さんが食べ終わるまで見ていてもらえませんか?」

普通なら “無理矢理、体の中に白湯を入れた” と聞けば何のことだろうかとか、不穏なものを感じたりするだろうが、その話は秋我が二度目に白湯を入れに来たときに聞いていた。

「秋我、いいですか?」

「はい、お願いします」

「あ、耶緒さんの手を取ってあげていて下さい。 もし冷たくなっていくようでしたら教えてください」

「承知しました」

此之葉がいなくなると一つ置いた隣に座っている阿秀を見る。

「阿秀さん、結婚しないんですか?」

塔弥を除くお付きと葉月、完ぺきとはいかないが領主と此之葉は日本の言葉を知ってくれている。 言葉選びがなくて楽だ。

「は?」

唐突な質問。 というか、反対に紫揺のことを尋ねようと領主と話していたほどなのに。

「もういい歳ですよね」

「そう言われればそうか。 すっかり忘れておった。 阿秀、いくつになるのだったか?」

「・・・三十四です」

領主まで乗ってどうする。

「結婚とは?」

秋我がそっと領主に訊くと婚姻のことだと答えるのが聞こえた。
秋我が納得したように言う。

「そう言われればお付きの者達は誰も女房がいないんですよね。 ・・・塔弥が一番若いのだったかな」

「はい・・・」

阿秀が答えるが話の方向が違うだろうと心の中で思っているのは消せない。

「父さん、これは考えものですよ。 早々に考えなくては絶えてしまいます」

五色である紫もそうだが、お付き達も脈々とその血は受け継がれている。

「阿秀たちの先代もみな、紫さまを探すことに懸命になって遅かったからなぁ。 気にもしてなかったが・・・どうだ阿秀、気になる女人はおらんのか?」

「おりません」

キッパリというが、そんなキッパリに騙される紫揺ではない。

「阿秀さんは歳の差なんて気になるんですか?」

「はい?」

「これだけ美味しいご飯を作ってくれるんです。 阿秀さんも美味しいって言ってたでしょ?」

「は?」

「此之葉さんです」

「紫さま、それは年が離れ過ぎていますでしょう。 えーっと、此之葉はいくつになるんでしょうか?」

見た目だけで十分に歳の差が分かるのだろうが、この阿秀、日本の行けば年齢関係なくモテモテである。

「二十五歳って聞いてます」

「二十五? そんなになるのか。 此之葉もうっかりしておった」

「二十五歳と三十四歳ならギリOKじゃないですか?」

紫揺の言葉がすべて理解できない秋我であるが何となく分かる気がする。 その気が合っているのかどうかは分からないが。

「紫さま、此之葉は “古の力を持つ者” です。 何の才もない私などと」

「え? 以外。 そんなことを考えてたんですか? それでずっと告白できなかったってことですか?」

「え・・・」

「領主さん “古の力を持つ者” の結婚相手の条件ってあるんですか?」

「そんなものは御座いません。 ですが何より “古の力を持つ者” の力を削がぬ者とは考えられております」

「お付きの人でもいいんですね?」

「もちろんで御座いますが・・・。 阿秀どうなんだ?」

「どうだと言われましても」

紫揺のお相手の話はどこに飛んだ。

「一度此之葉さんとちゃんと話をして下さい」

「そういう問題では―――」

「そういう問題です」

紫揺が言い切った。
ここに他のお付きたちがいれば、どれほどニヤついて阿秀の顔を覗いていただろうか。
だが他のお付きも人ごとではない。 これから領主に責めていかれるだろう。

「まぁ、阿秀はそうとして、紫さまはいかがなのですか?」

「はい?」

箸を口に入れたまま秋我を見る。

「この二年足らず領土に居られて辺境にも行かれ、どなたか良い方が見つかりましたか?」

「残念ながらです。 紫としてのことばかりが頭にあってそんなことを考えているヒマもなかったんですけど、本領でシキ様に言われました。 私が何十年も東の領土を見ていくわけにはいかないって。
それに同じようなことを南の五色からも聞いてたんですけど、ピンときてなかったみたいです。 シキ様に言われて初めて気付きました。 紫の血を残さなくちゃいけないって。 だからこれからは気にしていこうと思っています」

「そうですか。 気にしなければいけない程、心にくる者は今まで居りませんでしたか」

「みたいです」

領主と阿秀が訊きたかったことをあっさりと秋我が訊いた。 そして紫揺があっさりと答えた。
紫揺にはこちらの構えは必要ないようだが・・・いや、構えてしまう内容だろう。 構えない秋我がおかしい。 まぁ、構えてしまっているこちら二人の代弁者として秋我が訊いてくれたのだからそれでいいのだが・・・。
なんだか肩の凝りが一気に引いたような、反対に一気に凝ったような気分だ。

領主と阿秀が首をぐるりと回している間に秋我が話を締めくくっている。

「気になる者がおりましたらすぐにお知らせください。 言いにくければ此之葉でも塔弥でも」

「はい。 何人か候補を見つけたら言います」

此之葉と違って恥ずかしげもなく返事をする。

紫揺がどう考えているのかは分からないが、あまりのアッケラカンとした言いように分かっているのだろうかと、どこか不安な目を三人が合わせた。

マツリの言ったことなど無視するに限る。 いいや、無視以前だ。 無かった。 何も無かったんだ。

食事を済ませた秋我が此之葉と交代して此之葉が戻ってきた。

「どうでした?」

「はい、ぐっすりお休みでお手も温かいままでした」

「良かった。 御馳走様でした、どれもみんなすごく美味しかったです」

「あ・・・お口にあったようで良かったです」

先程よりは顔を赤くはしていないが、これ以上言うのもなんだろう、二コリと笑顔で応える。

「じゃ、今日はこれまでで戻って寝ます」

席を立った紫揺に此之葉もついて行こうとしかけたのを紫揺が止めた。

「領主さん、この場所をお借りしてもいいですか?」

「え? あ、ああ。 はいはい。 阿秀、私は部屋に戻っておるから」

「は?」

「んじゃ、此之葉さん、私は戻って寝ていますから気にしないで下さい」

紫揺と領主がどこか白々しくもそそくさと部屋から出て行った。

残された阿秀と此之葉。

紫揺の背中を見ていた此之葉、振り返る勇気がない。
はぁー、と阿秀の溜息が聞こえる。 少しして「此之葉」と呼ばれた。
此之葉の背中がピクリと動く。

「・・・はい」

「茶を淹れてくれるか」

「はい・・・」

阿秀を見ないように台所に入って行った。

部屋に戻った紫揺。 すでに布団が敷かれていた。 もういい時間だ。
ボテンと掛布団の上にうつ伏せに転がる。 寝不足もあるしかなり楽しく暴れられた。 仕上げに紫の力だ。 何も考えることなく眠りに落ちていった。



「考えはまとまったか?」

波葉の居る部屋を訪ねると、シキが言ったように杠もいた。 二人で先にやっていたようだ。
胡坐をかいていた二人がマツリが入ってくるとすぐに足を正そうとしたが、マツリがそれを止めた。
マツリの前に置かれた酒杯に波葉が酒を注ぐ。

「お伺いしたいことが御座います」

マツリに止められた足を正す。
何か改めて訊きたいことがあるのだろう、正した足の事には触れずマツリが頷く。

「マツリ様は己がマツリ様の前に現れる前から己のことをご存知だったのですか?」

きっとシキが言ったのだろうし、誤魔化すつもりはない。
マツリが相好を崩した。

「黙っていて悪かったな。 ああ、ずっと様子は見に行っておった。 だから杠が来た時にはすぐに分かった」

「どうしてで御座いますか?」

「・・・」

「マツリ様?」

「酒の席では “御座います” は止めんか?」

「はい?」

「堅苦しすぎる」

決してシキに『マツリのように堅苦しくばかりいても』 と言われたからではない。 杠とはそんな間柄になれたらと思っていた、それが酒の席でなくとも。 だがそんなことを言っても杠は “とんでもない” と言うだけだっただろう、とんでも御座いませんと。

この席は千載一遇のチャンスになるかもしれない。 北の領土の薬草師と同じように・・・いや、こうして口に出して言うと少し違うと感じる。 杠とはもっと深く。 それこそ四方と尾能のように、それ以上になれたら、その切っ掛けとなったら。

そんなことを急に言われて、はいそうですか、などとは言えない。

「とんでも御座いません」

やはりな。

「そうか。 では我が頭を下げるとよいか?」

一瞬苦い顔を作った杠、マツリが本気だということが分かったのだろう。

「それこそとんでも御座いません。 ですが、努力はいたします、が・・・」

「マツリ様、急には無理で御座いましょう」

ゴクリと酒を一口呑むと波葉が言った。 波葉なりに杠に助け舟を出したのだろう。

「義兄上にもお願いいたします」

とんでもない、と波葉が顔の前で手を振る。
努力をお願い致しますと波葉に言うと杠を見る。 そして思い出させるようで悪いが、と、おもむろにマツリが話し出した。

八歳の時より一人でキョウゲンと共に本領の中を飛んでいた。 まだ子供である。 何が出来るということでもなかったが、宮都を出て色んなところを見て回るのも一つの勉強と思って飛んでいた。
とは言え、キョウゲンのことを考えると夕刻からしか出られない。 さほど長い間飛んでいるわけでは無かった。

そして九歳になった時、叫んでいる杠を見た。 マツリにとって死を見たのは初めてではなかったが、あの様な場面に出くわしたのは初めてのことだった。

杠の声がずっと耳に残っていた。 普通なら泣いているだけだろうに、己が殺したと叫んでいた。 まだ五つやそこらでそんな風に感じ取ってしまい、この先立ち直れるのだろうか。 それにあの時の己の判断は間違っていなかっただろうか。

「だから気になってな、郡司に居所を訊いて時々見に行っておった。 養い親が我が息子を働かせず杠にばかり用をさせていた時には、宮に童として迎えたいと何度父上にお願いしたか。 その度に郡司が決めたことに宮が口を出してはならんと言われてしまっていた」

「どうして・・・では、どうして己がマツリ様の前に現れた時、名を訊かれたのですか? 知っておられたのでしょう?」

「我が覚えていると言えば当時のことを杠が思い出すと思ったからだ。 忘れてはいないだろうが必要以上に思い出すこともない」

「ではどうしてすぐに使って頂けなかったのですか?」

何日も何日も門前に通い、ようやく首を縦に振ってもらった。

「杠の父御と母御が守った命。 杠を危険な目に遭わせたくなかった。 養い親の元をいつかは出るとは思っていたが、まさか宮にくるとは思ってもいなかった。 それに何度か見ている内に父御と母御のこととは別に杠が幸せになってくれればそれでいい、そう思うようになった。 今もそうだ」

「使って頂きたいと申し上げながらこんなことをお訊きするのはおかしいのですが、危険な目に遭わせたくないとお考えでしたのに、どうして使って頂けたのでしょう」

「疑う相手ではないことが分かっていたというところは大きいが、一番に杠の真剣な目に負けた。 懸命な目にな。 杠は俺の手足となりたい、それしか考えていないのだろう、これ以上突っぱねても杠は門の外で雨に打たれても座しているだけだと思った。 きっとそれだけで終るのだろうとな」

そういうことだったのか。

「己は・・・己の命はマツリ様に救われた命です。 あの時マツリ様が居られなかったら父と母を追って流されていたでしょう。 己はあの時も今もマツリ様にこの命をお預けする気でいます」

「俺は杠が幸せになってくれればそれでいいと言った。 杠の命は預かれん、それは杠の命だ。 誰が預かるものでもない。 杠は間違いなく俺の欲しい情報を入れてくれた。 だから危険だと思いながらも地下に入ってもらった。 だが杠が城家主に捕まったと聞いて居てもたってもいられなかった。 もう杠を危険な所に入れたくはない」

マツリと杠の口が止まった。 マツリがそっと酒杯を口にする。 杠は下を向いている。 空になったマツリの酒杯に波葉が酒を注ぐ。

「杠、どうです? マツリ様のお気持ちが分かって。 お受けいたしませんか?」

頃合いを見た波葉が杠に訊く。

少しの間があった。 杠が顔を上げる。

「マツリ様のお役に立てるのなら」

マツリが満面の笑みで杠を見る。

波葉が酒杯を持ち上げると二人を急かす。

「杠の宮入りに」

波葉が言うと三人で酒杯を合わせた。

これで波葉の一つの使命が終わった。 だが司令塔からの司令はまだある。 波葉が次のことを話している二人の様子を窺う。

「ですが形だけの試験だけで官吏になるというのも・・・」

杠が試験を受けなく官吏になるという褒美を気にしているというのならば、形式だけの試験でもしようかと四方が言ったことを伝えるとこの返事だ。

「杠がそう考えるだろうと父上が仰っていた。 他の官吏の目もあるということで実技と面合わせをしようということになった」

本来の官吏の試験はそれだけではない。 筆記がある。
官吏の試験には最初に筆記があるが、それはある程度の学があれば合格するものである。 その後、文官を目指す者には二次の筆記試験がある。 この筆記に合格することが困難とされている。
武官を目指す者は二次の筆記を受けることはないが実技がある。 この実技が困難とされている。

その実技を杠が受けるということであるが四方には勝算があるのだろう。

そして文官も武官も最後に面合わせという面接を受ける。 その面接で人としてどうなのかが問われる。

「・・・面合わせ、ですか」

実技と言われればだいたいの想像が出来るが、今まで生きてきて面接などというものを受けたことがない。 いったいどんなものなのだろう。

「気に病むな。 実技は体術。 体術は武官相手だが杠ならいけるだろう。 そこでガツンと見せておけば誰も何も言わんだろうし、面合わせは文官だが父上も同席する。 この案を出されたのは父上なのだから、下手に文官に話す隙をお与えにならないだろう」

四方に体術の勝算があるようにマツリもそうだった。
養い親に用事を言い渡されていたのが功を奏したのか、辺境で足腰は充分に鍛えられていて体幹がいい。 身体のブレが無いことは体術を教えた時にすぐに分かった。 目もそうだった。 鳥を射て来い、魚を捕ってこい、そんなことばかりを言われていて動体視力、洞察力も養われていた。
あの時には “皮肉なものだな” とさえ思った。
杠自身にも持って生まれた才があったのだろう、すぐに体術を自分のものとした。

「では面合わせは四方様に御頼りさせていただきます。 ですが武官相手に試験を受けられるほど己は身体を動かしてはおりません。 その日までにマツリ様にお手合わせ願いたいのですが」

「時が空けばいつでも。 俺も随分と身体が鈍ってはいるが。 そうだな、これからはいつでも杠が居てくれるのだ。 時が空けば互いに鍛えようではないか」

マツリと杠の会話を聞いていた波葉。
マツリの気分がかなりよさそうだ。 これで杠が気付いてくれればいいのだが、なかなかそうもいかないようだ。
一人で話を切り出すしかないか・・・。

「・・・時にマツリ様」

「はい」

「あ、えっと、明日もお忙しいようで?」
(ああ、こんなことを訊いてどうする・・・)

「はい。 明日、明後日と忙しくなりそうです」

「そうですか・・・。 あの・・・ええっと・・・」

「義兄上、どうかされましたか?」

マツリが空になっている波葉の酒杯に酒を注ぐ。
それを勢いよく呑んだ波葉。
おお、これはなかなか、と言いながらマツリが再度注ぐ。

(えーい、やけくそだ。 これを訊かねば房に入れてもらえない)

再度注がれた酒杯を口にし勢いをつける。 ゴクリと飲んだところで杠の声が聞こえた。

「紫揺は無事東に帰りましたか?」

杠が波葉の様子に気付いたのか杠の考えで訊いたのかは分からないが、波葉的にその質問は大歓迎である。

「ああ、東の者が迎えに来ていたので渡した。 今日は色々とあったからな、領主には後日顔を出す」

「そうですか。 道中、紫揺とお話はされましたか?」

杠から目を外して酒杯を口にする。

「・・・あれは。 接吻すると子が生まれると思っているようだが」

波葉の目が点になった。

(あ? え? どういう、いや、なんのことだ? え? いや・・・ん? え?)

「そのようです」

「そうでは無いことを教えなかったのか?」

波葉が息を吹き返して目の前の二人が話す度、右に左に首を振って二人を見る。

「紫揺を壊したくないと申しました」

「それで俺に壊せというのか」

「他に誰が居りましょうか」

マツリが大きく息を吐く。

「泣かせた」

黙って聞いていた波葉が大声を上げた。

「ええ!? まさかっ! まさかマツリ様!! どどどど、道中でその様なことを!!」

何ということを・・・司令塔にどう報告すればいいと言うのだ。

「義兄上、考え過ぎで御座います」

「あ? え?」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第68回

2022年06月03日 21時07分03秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第60回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第68回



紫揺が耶緒の下腹から手を離し自分の膝の上に置いた。
かなり疲れた。 目を瞑り一つ大きな深呼吸をする。
布団をめくって耶緒の手を取る。 ぽかぽかと温かくなっている。

(良かった。 血流が良くなった)

真っ白だった耶緒の顔色もほんのりと赤みがさしているように見える。
秋我が紫揺を覗き込んできたのが見えた。 今は話してはいけないと思っているのだろう。 何か言いたそうな目をしている。

「なにか?」

紫揺から声を掛けると、ほっとしたような顔を見せ口を開いた。

「耶緒の手が暖かくなってきました。 顔色も随分と変わりました。 紫さま、これで一旦終わりませんか? 紫さまのご体調もあります」

疲れた顔をしていたのかもしれない。 実際かなり疲れているが。

『これ以降、限界を超えるような使い方をするんじゃない。 己の力を分かっていくよう』

マツリの声が頭に響く。
鼻の奥がツンとする。

マツリの言うことを聞くようで悔しいが、リツソの時のようにここで自分が倒れてはなんにもならない。
顔をうつ伏せると置いてあった手巾に手を伸ばし目にグリグリと押しつける。
落ちてきてもらっては困るものに手巾を押し付ける。 そんな顔を秋我に見せるわけにはいかないし落としてなんてなるもんか。 流してなんてなるもんか。

「紫さま?」

「埃が入ったみたいです。 休憩を入れてきます」

耶緒はすやすやと眠っている。 横になっていたとはいえ、きっとまともに寝ていられなかったのだろう。

いつも通される部屋に戻ると領主と阿秀が居た。 此之葉が見当たらない。

「此之葉さんは?」

「夕餉の準備をしております。 もう出来上がるでしょう」

もうそんな時間になっていたのか。 三時間は耶緒の部屋にいたのだろう。 秋我が止めてくれてよかった。

「耶緒の具合はどうでしょうか」

「冷えていた身体は温かくなりました」

阿秀が立ち上がり領主と真正面になる自分の座っていた席を紫揺に譲る。 そして一つ置いた椅子にかけ直した。

「秋我さんにも聞いたんですけど、耶緒さんが具合を悪くする前に領主さんや秋我さん、なにか今までに食べたことの無いものを食べた記憶はありませんか?」

領主が首を捻る。
記憶にないようだ。

「少しでも体調を崩したことは?」

耶緒はいま身重であり体調を崩しやすいだろう。 領主は七十前だ。 まだまだ元気にしているし恰幅もいいが、年齢的に考えて秋我より敏感にはなっているだろう。

「いいえ、ありませんな」

内臓もまだまだお元気らしい。

「そうですか。 紫の目で耶緒さんの身体を視ましたが悪阻だけではなさそうです。 この辺りに嫌なものが視えます。 灰色に茶色を混ぜたような塊です。 そこに手をかざすとピリピリしたものを感じます」

そう言って秋我に見せたように鳩尾の辺りに手を当てる。

紫の目と言われてそれが紫揺の目ということを言っているのではなく、五色である紫の力ということなのだと分かった。

阿秀は初めて聞いたことだった。 北の屋敷の海岸で影の姿は見ていたが、紫揺が北の領土の影を紫の力で治したのを知らないのだから。

領主にしても本領から帰って来た報告にその言葉を初めて耳にしたが、まさかその力を出せるとは露とも思わなかった。

紫の力、それは東の領土の五色の名前に由来する。
そしてこの東の領土において、紫の力を出せる五色は初代を除いて未だ一人も現れていなかった。

「紫さま・・・その、紫さまの目、紫さまのお力というのは・・・五色(ごしき)様の五色(ごしょく)だけではなく?」

念を押して訊いてみたくもなる。

「はい、紫も」

元気に答えてくれた。

五色の力、赤・青・黒・白・黄。 それ以外に一人で五色(ごしょく)を持つ五色(ごしき)には紫の力がある。

「でも使い方っていうか、理解の仕方が今一つ分からないんですよね」

「ど、どうぞご無理はされませんように」

マツリから力の限界を知るようにと言われたと聞いたところである。
これまでとんでもない今代紫だったが、これは別の意味でとんでもない今代紫である。

「分かってます、もうおなじ・・・」

おっと、要らないことを言いかけた。

「はい?」

「紫の力のことは徐々に理解していくつもりです。 今は耶緒さんのことを」

「くれぐれも・・・」

「はい、任せて下さい」

任せられるの、か?

「で、ここ」

もう一度、鳩尾あたりに掌を置く。

「・・・胃の腑ということでしょうか?」

紫揺が紫の力を持っているということは追々理解していこう。 でなければ今にも口から泡を吹き出しそうだ。

自分の体から手を離した紫揺。 胃のことを胃の腑というのか。 現代の日本の言葉とそんなに違いが無かった。 これからは言葉に出して言える。

「はい」

「灰色に茶色を混ぜたような色の食べ物ということですか?」

「そうでは無いと思います。 私の目・・・紫の目にそう映るだけだと思います。 もっと紫の力を理解すれば色によって何か分かるのかもしれませんが経験不足です」

「紫さま、二辰刻近くは紫さまのお力を出しておられたということですか?」

「いいえ。 最初は耶緒さんにお話を聞いて頂いていたので、それほど長くは使っていません」

まだ時間勘定がすぐには出来ないが、一辰刻が二時間というのは覚えた。 二辰刻と言われれば四時間になるが四時間も経っていないだろう。

「耶緒のことを想って下さるのは嬉しい限りで御座いますが、くれぐれもマツリ様から言われたことをお忘れになられませんように」

本領での報告でマツリから力の限界を知るようにと言われたと領主に話した。 領主はそのことを言っているのだろう。
また鼻の奥がツンとしてくる。 要らないことを思い出させてくれる。 これは喋って紛らわすしかない。

「分かっています。 ついウッカリあのまま続けるところでしたが、秋我さんが声を掛けてくれてこうして休憩に来ました」

阿秀が席を立ち台所に向かっていく。

「ひと休憩したらもう一度耶緒さんを視てみます。 身体が温かくなったので何か変化があるかもしれません」

「くれぐれもご無理をされませんよう」

何度言えば気が済むのだろうか、けっこう心外だ。

「・・・はい」

鼻の奥が少し落ち着いた。

「塔弥さんがお転婆のことをよく見てくれているそうですね」

「ガザンが居なければそう簡単にはいかないでしょうが」

答えたのは領主ではなく盆を手に乗せている阿秀だ。 紫揺が休憩と言ったから茶を淹れてくれたようだ。 紫揺と領主の前に湯呑を置く。

「ガザンは私の敵だと思うとかかっていくみたいですけど、そうでなければ大人しいです。 でもいつから塔弥さんとそんなに仲が良くなったのかな」

湯呑に手を伸ばすとごくごくと半分ほどを飲んだ。 自覚は無かったが喉が渇いていたようだ。

「結構前ですよ。 紫さまが居られる時ガザンは紫さまに寄っていますから気がつかれなかったのでしょう」

「そう思えば・・・紫さまが特に心を開かれている者にはガザンも心を許しているのかもしれませんな」

「え?」

「ああ、そうかもしれません。 ガザンは他の馬には見向きもしませんが、紫さまが本領に行かれている間お転婆と初めて会った時に打ち解けていましたから。 塔弥にしてもそうです」

「塔弥さん? どいう意味ですか?」

「ご自分で気付いておられませんか? 紫さまは塔弥と話す時には随分と気楽にされておられます。 まあ、塔弥も紫さまのお蔭であの堅苦しさが無くなって随分と柔らかくなりましたし、最近では塔弥は口うるさいでしょう?」

「はい。 でもそれも楽しいですけど」

悪趣味だ。 塔弥が居ればそう言うだろう。

「紫さまと塔弥が気心を知るようになったからでしょう。 まあ、塔弥が口うるさく言うのは紫さまに女人らしくいていただき、良きお相手にめぐり合うようにと考えているのかもしれませんが」

紫揺が現れるまでに領主とそんな話をしていた。 紫揺には想い人が居るのだろうか、辺境にも何度も行っている、少しは心傾いた者がいるのだろうかと。 だから今がチャンスとばかりに塔弥を口実に阿秀が口にしたのだ。

「女人らしくって・・・十分女人です」

女経験二十三年だ。

阿秀の訊きたかった答えは返ってこなかった。

紫揺が手を上に上げ「うー」 と言いながら伸びをする。

「さ、休憩が出来ました。 耶緒さんの様子を視てきます」

「もう夕餉が出来上がります。 それからにされてはいかがですか?」

「耶緒さんのことが気になってはせっかくの此之葉さんのお料理を味わえませんから」

残っていた茶を飲み干すとサッサと耶緒の居る部屋に向かった。
部屋ではまだ秋我が耶緒の手を握っていた。

耶緒の横に座る。

「もう少しで夕餉だそうです。 食べてきてください」

「紫さまは?」

「あとで頂きます」

「ではその時にご一緒させてください」

紫揺が頷くと上に掛けてあった布団をめくる。 胃のあたりを視ると、というかはっきりと胃だ。
あの塊の縁がぐちゃりと溶けたようになっている。
どういうことだろう。 血流が関係しているのだろうか。 下に掛けてある布団をめくり下腹を視る。 光り輝くものは視える。 赤ちゃんの命に異常はないようだ。 布団を戻す。

指を口に当て考える。 このまま自然に溶けていくのだろうか。 どれくらいの時を要するのだろうか。 その間、耶緒は苦しい目に遭わなければいけないのだろうか。 もしそうなら待ってなどいられない。 無駄かもしれないがやれることはやってみるしかない。

「お白湯を持ってきてもらえますか?」

俯いたまま言う。

「あ、はい」

耶緒の手をそっと置き部屋を出て行った。

日本と違ってガスや電気などは通っていない。 だが今は料理を作っている。 もう出来上がったかもしれないが、それでもすぐに白湯くらい用意出来るだろう。

耶緒の手を取る。 変わらず温かい。 血流は安定しているようだ。 布団の中にそっと戻す。
胃の上に掌をかざす。 暫くするとあのピリピリした感触を感じる。
やはりこのまま放っておく気にはなれない。

秋我が盆の上に白湯の入った湯呑を持って戻って来た。 それを紫揺の横に置く。

「お手伝いすることがありますでしょうか」

「耶緒さんの手を握っていて下さい。 少しでも温度に変化があれば教えてください。 特に冷たくなっていくようなら気のせいだと思わず教えてください」

頷くと元の位置に座り耶緒の手を取る。

紫揺が目を瞑って気を集中させる。 子供たちと川で遊んでいて紫の力で水を飛ばすなどというガサツなことではない。 水を操る力は黒の瞳。 もともと黒い瞳が変わるわけではないので力を使っていることは子供たちにバレていない。

深い深呼吸を一つした紫揺が目を開けた。 指を耶緒の顎に添える。 少し力を入れると僅かに開いていた耶緒の口がもう少し開いた。

紫揺の瞳が動いた。 湯呑を見たのだ。 湯呑から一筋の白湯がゆらりと上ってきた。 その行き先を案内するように紫揺の瞳が動く。 気管に入れてしまっては肺炎を起こさせてしまうかもしれない。 慎重に白湯を導く。

口の中に白湯が入ると揺れる白湯が色を成して視える。 白いが透明、それでいて命を育む輝きを持っている。

顎に添えていた指を離しゆっくりとゆっくりと胃まで運ぶ。

灰色に茶色を混ぜたような色の塊の横まで来た。 ここにきて逡巡する。 塊に白湯をかけるつもりでいた。 だがこのまま胃に溶け込ます方がいいのだろうか。 人体だ、一か八かの賭けなど出来ない。
予定を変更して塊の横に白湯を流す。 流すといってもほんの僅か。 塊までも届かないだろう。

ほんの僅かの白湯が胃液に乗って塊の端まで流れる。 塊が僅かに煙となって溶けるのが目に入った。 煙は充満する様子を見せずそのまま霞のように消えた。

(分かった・・・)

同じ作業を何度も続けるが、二度目からは胃の中に入れた白湯は塊の上に落とした。
どれだけの時を要したのだろう。 やっと湯呑の半分が終わった。 もう白湯ではなくなっているだろう。

胃に落とす白湯はほんの僅かずつだった。 塊も僅かしか溶けていない。 だが身体を温める前よりは随分と溶けている。
ここで一度、耶緒を起こして白湯を飲ませる方が早いだろうか。 いや、まだ気分はよくしていないだろう。

「手は冷めてきていませんか?」

「はい、大丈夫です」

気丈に答えるが白湯が触れてもいないのに空中を飛んだりしたところを何度も見ている。 声が上ずりそうになる。

「お白湯が冷めたと思いますので入れ替えてきてもらえますか。 もう一度今のようなことをします。 出来るだけ冷めないような工夫をして頂けますか」

「はい」

秋我を待つ間、休憩をしよう。

かなり神経を使った。 ドテッと横になる。

(肩凝った・・・)

肩を動かせば少しでも楽になるかもしれないが今は横になっていたい。 あと湯呑半分を胃に送れば、それで湯呑一杯は飲んだことになる。 そして時を置いて耶緒を起こし、口から湯呑一杯分を飲んでもらうだけで随分と違ってくるだろう。

目を瞑るとウトウトとしてくる。 そう言えばまともに寝ていなかった。
秋我の足音でハッとなった。 一瞬だが寝ていたようだ。 それでも随分と身体が楽になった。

「遅くなって申し訳ありません」

遅くなったのか。 それなら一瞬ではなく少しは寝ていたのだろうか。

「いいえ。 いい休憩になりました」

「領主が無理をされているようなら、お止めするようにと言っておりましたが」

「大丈夫です。 今日はこれで終わりにしますから」

盆を見ると大きな鉢に湯を溜め、その中に白湯の入った湯呑が入っている。 工夫をしてくれたようだ。
中央に載っていた鉢を盆の隅に移動する。 少しでも距離を短くしたい。

長い息を吐く。 目を瞑り気を集中させる。
目を開けると指を耶緒の顎に当て口を開けさす。 湯呑を見る。 先程より少し多めの白湯を浮かせる。 無茶はしたくなかったがこちらの体調もある。 少し多くすることで一回でも回数を減らしたい。

白湯を耶緒の口に運び、特に気管に流れないよう注意して胃に運ぶ。 灰色に茶色を混ぜたような色の塊の上にかける。 煙を上げて塊が僅かに溶ける。 煙が四散し霞となって消える。 それを見届けてから同じことを何度も繰り返す。

湯呑の半分が終わった。 塊も半分ほどは溶けてなくなった。

(半分か・・・)

半分では耶緒はスッキリと感じないであろう。
残り半分、湯呑一杯分はしよう。
大きく深呼吸をして湯呑の残りを同じようにして減らしていく。

湯呑が空になった。

「手はまだ温かいですか?」

「はい。 どちらかというと先程から更に温かくなってきたように感じます」

紫揺も耶緒の手を取る。
確かにさっきより温かく感じる。
いい方向には向かっていると思う。 このまま体を温かくして時を置こう。 自然と塊が溶けていくかもしれない。

明日もう一度視て何の変化もなければまた同じことを繰り返せばいいし、元に戻ってしまっていれば他の方法を考えればいい。

「じゃ、今日はこれくらいにします。 秋我さん付き合って下さって有難うございました」

「礼を言うのはこちらです。 腹が減りましたでしょう。 もう冷めてしまっていますが此之葉が夕餉を作って待ってくれています」

二人で耶緒の部屋から出ていつもの部屋に戻る。
心配だったのか領主と阿秀がまだ待っていた。

「紫さま、このような刻限までご無理は御座いませんでしたでしょうか」

「大丈夫です。 耶緒さんに視えていた塊は半分ちょっとはなくなりました。 明日元に戻ってしまっているか、より一層減っているか、変化がないのか分かりません。 また明日視てみます。 元に戻ってしまっていたら別の方法を考えます」

そして秋我を見て、夜中までに湯呑一杯分の白湯を耶緒に飲ませておいてくれと頼む。 耶緒が飲みたければそれ以上でも構わないと付け加えた。

椅子に座ると此之葉が奥から出て来て、温め直せるものは温め直してくれたのだろう。 残念ながら白飯と焼き魚、卵料理は冷めていたが、湯気の立っている汁物と煮物が置かれた。 他にも和え物やホクホクと仕上がって見える芋類もある。

素材は日本とは違うし、調理方法には似た所はあるが味付けが全く違う。 調味料が違うのだろう。 そう思うと本領の料理は素材も味付けも日本とよく似ていた。

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