大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第160回

2020年06月29日 22時35分50秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第160回



翌朝八時ちょうど。 引き戸がノックされた。

引き戸を開けて紫揺が出てきた。 大きなスポーツバッグを持っている。 戸を閉め、しっかり鍵をかけ振り返ると、七人の男たちと領主、此之葉が低頭していた。

「でぇ・・・」

意味のない声を発し、誰かに見られていないかすかさず辺りに目を這わした。
一番に頭を上げたのは領主である。

「唯々、有難うございます」

再度深く頭を下げた。

「あ・・・えっと、あの・・・」

これではどこかの姉御の迎えのようではないか。 頭を上げてくださいと言いたかったが、それは領主だけにではなく、全員に言いたかった。 だが今までのことを考えると、言ったところで誰が耳を傾けるだろうかとも思う。

「はい、行きます。 さっさと行きます。 どこに行くんですか? とっとと、行きます。 教えてください。 右ですか、左ですか?」

足を踏み出した。

阿秀が交通の都合があると言っていたのは頭の片隅にあったが、そんなことは今はどうでもいい。 こんな所でこんな風に低頭されては紫揺もどうしていいものか分からない。

「車にお乗りください」

阿秀が言った。

前を見ると確かに車があった。 全く気付かなかった。
悠蓮が後部座席のドアを開けた。

「お荷物はお預かりいたします。 どうぞ」

阿秀が言うと、梁湶が手を出してきた。

(なにこれ? ・・・わざとらしい)

思いながらも梁湶に鞄を渡し、とっとと車に乗り込んだ。 この時間だと、遅刻小学生が親にお尻を叩かれて家から飛び出てくる可能性が高い。 こんな所をご近所さんに見られたくない。

運転席に湖彩が乗り込み助手席に悠蓮が座った。

後部座席から辺りを見回す。 遅刻小学生も居なければ、玄関の外を掃きに出て来たご近所さんも見当たらない。 ホッと一息つくと背もたれにもたれた。

「出発します」

僅かに振り返ってそう言ったのは助手席の悠蓮だ。

湖彩の運転する車の後に醍十がハンドルを握る車が出た。 助手席に阿秀、後部座席に領主と此之葉が座っている。 その車の後ろから野夜がハンドルを握り、助手席に若冲、後部座席に梁湶が紫揺のバッグと共に座った。

車中、後部座席にたった一人の紫揺。 助手席に座る悠蓮の顔は下げられていたとは言えど、何となくは分かるし、声を覚えている。

「家の鍵を渡してくれた人ですよね?」

「はい」

「私は東っていう所に行くと言いました」

「うかがっております」

「東って所はどこにあるんですか?」

「まずは空港に向かい、飛行機で沖縄に行きます。 そちらからまた飛行機で移動し、車に乗って頂き一旦、休憩を入れて頂いて、領土には徒歩で入っていただきます」

僅かに後ろを見るように首を回してはいるが、その顔は伏せられている。

「そんなに遠いんですか?」

「少々お時間はかかりますが、極力お待ちのお時間のないように考えております」

すべて阿秀が段取った。

「そうですか・・・」

「お具合が悪くなされれば、いつでも仰ってください」

「・・・はい」

具合が悪いのは今まさにそうだ、と言いたいが、そうとは言えない。 いま悪いのは具合ではなく気分なのだから。

(取り敢えず、言われるままにしてみようか)

気分はスコブル悪い。 どうしてこれだけの人間に、ましてやどう見ても全員紫揺より年上ではないか、それなのに低頭、慇懃されなくてはいけないのか。
縦社会の部活生活をしてきた紫揺には無性に気分が悪いことである。 だが行く所に行かなければ何も分からないのだろう。
マツリに頼みごとをしなければいけないかもしれないということが解決できないのだろう。

車の窓から外を眺めた。 家から空港になど行ったことなどない。 試合や遠征は全て電車、遠ければ新幹線での移動だった。 初めての風景に視線を送った。

車を降りると悠蓮に誘導されながら移動し、最後には紫揺を含め四人で飛行機に乗った。
沖縄に着くと次の飛行機に乗る。 そこから車に乗る。 そう聞いていた。


飛び立った飛行機が沖縄に着き、那覇空港では待ち時間があったので、何か食べるものでも用意しようかと阿秀に訊かれたがお断りした。
ただ座っているだけで腹が減ることはなかったし、食欲もなかった。 反対に座りっぱなしということで身体は疲れた。 どちらかといえばこの広い空港を走り回りたい気分だ。

阿秀は誰から見ても落ち着き払ったように見えているが、紫揺の後ろに立ちあちらこちらに目を動かしている。

上手く紫揺が食事を断ってくれたから良かったものの、もしここで襲われでもすれば、領主と此之葉を置いて紫揺を追いかけていかなくてはならない。 だがそれには二の足を踏んでしまう。 領主と紫揺を天秤にかけるということになるのだから。

(失敗したか・・・此之葉を船に乗せれば良かったか・・・)

分ってはいたが、実際になると考えが甘かったと思わずにはいられない。
だが此之葉にそんなことを言ったところで、此之葉は納得をしなかっただろう。 そして領主も此之葉と同じことを言うだろう。

『五色様と “古の力を持つ者” が共に居なくてどうする』 と。

(とにかく、ここさえしのげれば・・・)

阿秀の神経がピリピリと音をたてるが、辺りの喧騒に消されていく。


「あと少しで着きます」 そう言ったのは那覇空港を飛び立ち、この島に下りた後、運転席に座った阿秀だった。
島に着いた途端、阿秀の上がっていた肩が下がっていた。 見知らぬ人間はどこにもいなかったからだ。

助手席には此之葉、後部座席に領主と紫揺が座っている。

悠蓮たちは紫揺を空港で見送ったあと、船着き場まで車で走り船に乗り換えていた。

紫揺の気分はスコブル良くない。 それは九州を旅立った時から付いているのが阿秀だったからだ。
阿秀に対しての紫揺の印象は、決して良いものではなかった。
あれだけの逃走劇をした挙句、目の前に涼しい顔で立たれたのだから。

「お疲れになったでしょう。 休憩を入れ、領土に向かうのはそれからに致しましょう」

隣りに座る領主が言う。

(ああ、あの人が言ってた休憩ってこのあたりだったのか)

悠蓮が言っていたことを思い出した。

(休憩の後は徒歩って言ってたっけ)

ふと、考えた。
やっぱり一人だ。 車の中に四人いるのに、自分だけが浮いている。 飛行機の中でも一人だったが、仮に四人で座ったとしても同じだっただろう。

阿秀が言うには、前日でのチケット購入だったので、バラバラの座席となってしまった。 一番近くに此之葉を座らせるので、何かあれば此之葉に言うようにということであった。

(どこに行っても一緒なのかな・・・)

別に一人が寂しいわけではないつもりだ。 でも夕べ高校時代のことや、シノ機械の社員の顔を思い出して、ちょっと里心がついてしまっただけだ。 そこに戻ろうとは思わなかったのだから。

「どうぞ」

いつの間にか阿秀がドアを開けていた。 すでに助手席のドアも領主側のドアも開けていたようで、此之葉と領主がゆっくりと降りている。

「さ、こちらへ」

そう言って歩き出したのは、領主だった。 ここまで来れば領主も阿秀の手を借りずとも自分で動ける。

阿秀がトランクから紫揺のスポーツバッグを下ろして後につく。

沖縄から小さな島にやって来た。 だが、北の屋敷のあった島と比べると随分と大きい島である。 車中、島民が歩いているのを見たのだから。

どうしてその人が東の者ではなく、島民と分かったかというと、元々速度を落として走っていた車だったが、更に徐行をしだした。 そして領主側の窓を運転席から阿秀が開け、車を止めた。

『あれま丹我(たんが)さん。 島から出ておられたみたいやけど、帰ってきなすったか』

腰を曲げ、背中に野菜の入った籠を担いでいる。

『ええ、暫く家を空けておりました。 ハルさんは、お変わりなく?』

『はいな。 これから物々交換じゃて』

そう言うと抜けた歯の間からヒャッヒャと笑い声を立てた。
ハルさんに挨拶を終えた様子を見て、阿秀が車を発進させると領主が話した。

『この島にずっと住んでおられる方です。 当時ここに来た時には、ハルさんのご祖父母さまには大変お世話になったそうです。 右も左も分からない時に、あれこれとお世話をしていただいたと聞いています』

そう言っていたからだ。 それにハルさんは、物々交換と言っていた。 他にも島民がいることが容易に知れる。
そして続けて言ったこともあった。

『そのご祖父母さまが、先の紫さまが此の地を出られ、本土へ移ったということを教えてくださいました。 ハルさんご一家には足など向けて寝ることなど出来ません。 お元気そうにされていて何よりです』

(あのお婆さんの祖父母が、お婆様を知っていたかもしれない?)

後ろを振り向くと過ぎていくハルさんの姿を追った。


石畳を歩く。 けっこう長い。 その奥に古い平屋の一軒家が見えるが、古くはあるがぼろっちいのではなく堂々としている。 広縁もあり、まさに日本家屋といった風だ。

石畳はその家の玄関まで続いている。 その玄関に小柄な青年が低頭して待っていた。

「お帰りなさいませ」

低頭のまま言う。

「何事もなかったか?」

「後ほど・・・」

何事かがあったということだ。

「・・・分かった。 用意は出来ておるか?」

「広間にご用意をしております」

「此之葉、紫さ・・・藤滝さんを広間にお連れしてくれ」

「承知いたしました。 こちらへ」

紫揺の後ろを歩いていた此之葉が紫揺の先に出ると、小柄な青年、塔弥がずっと低頭したまま玄関の戸を開けた。

「中に葉月がいる」

此之葉だけに聞こえるように言う。 此之葉の妹、葉月が昼の御膳の用意をしているということだ。 此之葉がコクリと頷く。

此之葉、紫揺、阿秀の順に家の中に入った。 阿秀が玄関の戸を閉めると、紫揺を見送っていた領主が塔弥に向き直った。

「何があった?」

「今は安定されましたが、独唱様が一度お倒れになりました」

「なんとっ!?」

「一時はご回復されたのですが、また伏せられてその時に立ち上がろうとされて倒れられたと」

“られたと”?

「塔弥がいない時にということか?」

「あまりに状態がよく見えないものでしたから、医者を呼び玄関に迎えに出た時でした」

「では? 葉月が見ていたということか?」

「はい、葉月の気落ちもかなり」

「で? 医者はなんと?」

「立ち上がろうとされたのは、無意識だったのだろうと。 そして年齢的に弱ってきているというだけで、点滴をして下さいましたが、一旦は本島での入院をされるよう勧められました」

「今は何処におられる」

「独唱様がどうしても領土に帰りたいと仰られて、領土にお連れ致しました」

この小柄な体で、独唱を背負って領土まで帰ったのか、と思う。 以前は反対に、領土の一番端からここまで背負ってきたこともあったが。

「それで今はどうしておられる?」

「つい先ほどまでついていましたが、安定されていると思います。 起き上がってお座りになられるまでにはご回復されました」

塔弥は一旦、紫揺や領主を迎えるために領土から出てきたのだろう。 葉月に携帯を渡しておいて、阿秀からの連絡の橋渡し役にしていたのだろう。

「これから領土に帰るのか?」

「宜しいでしょうか?」

「ああ。 独唱様に付いてくれ」

「有難うございます」

“承知” でも “御意” でもない。 今この時間さえ、独唱のことが心配なのだろう。 紫揺のことも気になるだろうに。

一つ頭を下げ、そのまま洞窟に走って行った。

塔弥の助けも、あとの六人の助けもないが、それが此の地以外のところであったのなら、紫揺を連れた領主は此之葉と一緒に阿秀にしがみつくしかないであろう。 だが此処から領土へは、阿秀が居ずとも誰が居ずとも案内できる。

家に入ると広間へ足を向けた。

「まだ召し上がっておられなかったのですか?」

先に広間に入った紫揺たちは既に食事を始めていると思っていた。

「お勧めしたのですが、紫さまが領主をお待ちになると仰って」

言ったのは葉月だ。

「葉月、紫さまとお呼びせず、藤滝さんとお呼びするように」

領主が言う。

葉月が首をかしげるが、理由が分からないというだけで承知はしている。

「紫揺でいいです」

葉月を見てすかさず紫揺が言った。
どうしたものかと、葉月が領主を見る。

「此之葉さんも。 女の子に苗字で呼ばれるのはくすぐったいです」

葉月と此之葉が目を合わせ、そのまま領主にその目を流す。

女の子と言われた姉妹。 たしかに葉月は紫揺より年下だが、年齢を聞かねば分からない程、葉月の方がずっと歳上に見える。 それに背は葉月の方が紫揺よりうんと高い。 自由に育ったせいか、姉の此之葉よりも高いのだから。

「では、そうさせて頂きなさい」

領主が言うが、かなり笑いを堪えているのが分かる。 阿秀など横を向いてこちらに顔を見せない肩が揺れている。

「じゃ、領主さんも来られたことだし、いただきます」

元気よく言ったが食欲薄し。 とはいっても、座りっぱなしだというだけで、北の領土の時のように、スプリングも無ければゴムでもない木のタイヤの馬車に乗って胃が踊りまくったわけではない。 せっかく作ってくれたのだから、詰め込むくらい出来る。

「葉月さん一人で作ったんですか?」

仕出し屋が作ったような品揃えだし、飾り切りも素晴らしい。

「はい。 お口に合うといいのですが」

一品一品を少しづつ口に運ぶ。

「美味しいです、どれも。 お料理上手なんですね」

自分なんて、母親が居なくなって初めて台所に立つようになったのに。

「有難うございます」

「こういうことは此之葉より、葉月の方が数段上だな」

葉月が恥ずかしそうに下を向き、此之葉は我が妹が褒められたことに微笑んでいる。

ちらりとセノギモドキ、本名、阿秀を見た。 背筋を伸ばし優雅に食べている。

(あのひとって、何者なんだろう)

セノギは一緒に食事などとらなかった。 でもよく考えれば此之葉も今一緒に食事をとっている。 仮に此之葉がニョゼ的立場と考えると、ニョゼとも一度も食事を一緒にしたことなどない。

(やっぱりこの人達は東の領土っていう人たちなのかな。 そして北と東とではルールが違うのかな)

まだどこかで疑っているところがあった。

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虚空の辰刻(とき)  第159回

2020年06月26日 22時43分41秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第159回



『あ、ちがうちがう。 彩(いろどり)って書いて “さい” って読むの』

そのことがあってから、偶然会った中学時代の友達にクラス名を聞かれた時には 『彩って書いて “さい” って読んで “彩組” 』 と説明したものだ。

ちなみに、歴代彩組は心のなかで “サイ組” とカタカナで呼ぶ輩には食って掛かっていた。 サイさんゾウさんキリンさん、と言われようがクラスの誰もが “彩組” の漢字が気に入っていたからだ。

金翅組も心の中で “禁止組” と呼ぶ輩には足蹴りを食わせていたし、黎明組も “命令組” と揶揄する輩には肘鉄をくらわし、玲瓏組は老齢組と言われ、新緑組は何故か虫さん組と言われ、この二クラスには柔道部が多かったせいか寝技にものを言わせていた。

どれもスポーツ科が実行犯だが、芸術科はスポーツ科の後ろに隠れて 「やれやれ」 と後方援軍だった。
玲瓏組は画数が多すぎると不服を言いながらも、そのクラス名を気に入っていたし、他のクラスにしてもそうだった。 進学科は気に入るもいらないも、クラス名などどうでもいいと思っていたようだったが。

「懐かしいな・・・」

もう戻ってはこない。 だがそれは紫揺だけのことではない。

「体力が余り過ぎてるのかなぁ。 ストレスが溜まってるのかなぁ」

だからゴロゴロしているのだろうか。 自分で自分が分からない。
もう一度時計を見た。 午後九時五十分。

「もう誰もいないよね。 行ってみようか」


玄関の灯りが点き、すぐに玄関の戸が開いた。 紫揺の手には鍵が持たれている。

「若冲を呼びます」

阿秀が頷く。

紫揺が自転車に跨り道路に出た。 駆け付けた若冲が梁湶を見ると、梁湶が紫揺の出た方向を指さした。 その先に紫揺を追う阿秀の背中が見えた。 手を上げて応えると、先に紫揺を追っている阿秀を追って走り出した。

紫揺の向かった先は、近くの児童公園から離れた大きな公園だった。 そこは児童公園より遊具が揃っているし、かなり広い。
自転車を降りた紫揺。

「やっぱ、誰もいない」

こんな時間にこの公園に居るとすれば、ちょっと困ったお人か若者か、ラブを語り合う恋人同士だろう。
公園の中まで自転車で入りスタンドを立てる。 すると、

「あ“あ”あ“―――」

と大声を出した。

ここは住宅街の中ではない。 誰に聞きとがめられはしないだろう。

「ストレスが溜まっておられるようですね」

既に追いついていた若冲が口に拳を当てながら、笑いを堪えて横に立つ阿秀に言った。

「あれで発散して下さればいいんだがな」

鉄棒の前まで歩くと鉄棒に足をかけ、ストレッチを始めた。 最後に肩入れ。
紫揺が鉄棒を握った。 スウィングを出して蹴上がりで上がる。 そのまま撥ねて倒立をする。 いったん止まって背中方向に倒しながら手を持ち替える。 そのまままたスウィングを出して次に続けたいところだが、段違い平行棒とは握りと揺れが違う。

平行棒は鉄芯の周りに木があり、しなりがある。 プロテクターもしていない。 そのままの勢いで手が離れて尻もちを着きたくない。 ゆっくりと着地をした。

「腹打ちしたいなぁ」

腹打ちとは段違い平行棒の上段を持って、足の付け根付近で下段を巻き、そのまま撥ね上げるといったものだ。 体操選手の試合を見ていると、太腿に炭酸マグネシウムが付いているが、それは下段を巻いたり当てたりした時に付いたものである。

腹打ちなど出来るところもなく、諦めて閉脚の飛行機飛びで鉄棒の前に降りると今度は地面の上で、ハンドスプリングや屈伸の抱え込み前方宙返り(前宙)、側転からの後方転回(バク転)や後方伸身宙返り(伸身バク宙)などをしだした。 もともと後方系は抱え込みは好きではなかったから、屈伸か伸身で後方宙返りをしていた。

高度なものは地面の上でする勇気はない。 地面はあまりにもマットや床と違いすぎる。 せいぜい、伸身の一回ひねりくらいだが、広い敷地、床からはみ出ることなど考えなくてもいい。 連続技で遊べることこの上なく楽しい。

時折、高く宙に頭を下に足を上にしている。 その姿が下弦の月をすぎた猫の目のような月に影を現す。

「・・・梁湶たちの言ってたことが何となく分かりました」

梁湶一人ではない、梁湶たちだ。

「なんて言ってたんだ?」

「小さくていらっしゃるからちょこまかと、ネズミみたいとか、サルとか、ナマケモノではないのは確かとか、コロコロ転がる仔パンダでもないと」

「誰が何を言ったか、メモったか?」

「いえ、ですが仔パンダのことは醍十でしたが」

「仔パンダは転がってばかり、紫さまはちゃんと着地をしておられる。 醍十が言ったことは誉め言葉だろう。 そうか、メモを取らなかったのは残念だ」

「阿秀・・・」

「冗談だ」

声に抑揚もなく、前にいる紫揺を見つめながら言われても冗談には聞こえない。

今度は小さな平均台に上がった。 ターンやバランス、ジャンプ。 倒立をし、手を移動させてゆっくりと片足ずつ下ろす。 ここまでは梁湶も遠目に見られていたが、紫揺が側宙をしだした。

「阿秀、万が一のことがあります。 お怪我をされては。 お止めしますか?」

次にハンドスプリング。

「ア”ア”―――」

「あんなものではなかったからな。 それより、声は抑えろ」

阿秀が言っているのは、紫揺が船を下りて醍十を先頭に追いかけられた時のことを言っている。
だがその姿を若冲は見ていない。 何と言われようが一度は見て慣れた阿秀と違って紫揺のすること為すことに声が出る。
側転から片足で着地をするバク転。

「ダァ―――」

つい出る声を手で抑えながらも、今にも目が飛び出そうになっている。

伸身の前宙。

「ガァ―――」

阿秀が一瞬、若冲に視線を流した。
そんな二人の、と言うか、若冲のことなど意とせず、前方抱え込み後方宙返りで平均台を下りた。
若冲が今にも泡を吹きそうになっている。

紫揺が一瞬、躊躇した。
滑り台や、ジャングルジムに行こうかと思ったからだ。 だが、そんな時には友達がいて欲しいと思った。 一緒に滑り台を滑って、ジャングルジムの中を追いかけっこして・・・。
その友達が今は居ない。

「・・・当たり前だ」

居るはずない。 それもこんな時間に。

だから。
先ほどと違う所にあった一番高い鉄棒に向かった。 三段階の高さのある鉄棒。 一番低いものは紫揺がジャンプすれば届くが、あとの二段階の高さはジャンプをしても届かない。

一番高い鉄棒の支柱を、登り棒のように上がっていく。 手を伸ばして鉄棒を掴む。 握りを移動させ、中央まで移動すると、身体をあふり蹴上がりから中抜きをして、鉄棒の上に座った。

「あ・・・阿秀」

さすがの阿秀も、あの高さから落ちられてはと、身体に緊張が走る。

真上ではなく、傾いた月を目に映す。

「三日月かなぁ」

違います。

「お月さんの真ん中には空洞があるって聞いたことがあるけど、それって現実的じゃない。 やっぱりウサギのお餅つきだよね」

認識が逆だ。

「でもウサギのお餅つきは満月の時に見えるって言うし・・・。 三日月の時は・・・三日月に誰かが座ってる?」

どこかでそんな絵を見た覚えがある。

もう一度言います。 三日月ではありません。 三日月はもっと細い形である。

「どうして座るのかなぁ。 座らなくていいんじゃないの? 立っててもいいんじゃない?」

紫揺の独り言をこの後の紫揺の行動を目にしながら若冲が聞いたら、泡を吹いて卒倒するだろう。

紫揺が両腕に力を籠め尻を浮かした。 足を揃えて前に出す。 そのまま屈伸状態で後ろに倒れると両腕の間から足を鉄棒から抜いて、スウィングなしでもう一度蹴上がりをした。 身体が上がった途端に、太腿で鉄棒を撥ね腰を上げた。 鉄棒の上に足の裏を乗せる。 両手を離すと鉄棒の上に立ち上がった。

「あああああ、ああ、あ、あ、阿秀・・・」

紫揺が鉄棒の上を歩き出した。

「お月さんを歩けてるかな?」

紫揺の今の友達は月。 一方的な片思いだが。

ここで身体に緊張を走らせていても、何かあった時に紫揺を受けとめることなど出来ない。 阿秀が地を蹴ろうとした時だった。

紫揺がバランスを崩した。

それはそうだろう。 紫揺は綱渡りなどしたことがなければ、サーカス団にも入門したことなどないのだから。

「おっと・・・」

紫揺が上半身を折ると鉄棒を掴み、そのまま飛行機飛びで鉄棒を下りた。

数歩出ていた阿秀の足が止まった。
若冲は今にも倒れそうになって座り込んでいる。


「お疲れ様です」

「異常は?」

「ありません。 そっちは?」

「あった」

「え!?」

阿秀が親指で後ろを指した。 梁湶が見てみると、ヨロヨロになり今にも倒れそうな若冲がトボトボと歩いている影が見える。

「何があったんですか!」

「紫さまにではないから安心しろ。 ここは俺が見ておく。 若冲に茶でも買ってきてやってくれ」


自転車を止め、家に入ると和室に入った紫揺。 どこかスッキリとした顔をしている。

「あー、気持ちよかった」

両方の指を絡ませて伸びをする。 

若冲に聞かせてやりたい、見せてやりたい。

「お風呂はいろ」

寒さ限界になるまで風呂に湯は張らない。 水道代もガス代も倹約したい。 でも、今日は湯に浸かりたかった。
湯の用意をした。

ちゃぷん。

手は伸ばせるが、足を伸ばせるほどに大きくはない湯舟。
正方形深型のステンレス製の湯船である。 ホテルにしろ屋敷にしろ手足が伸ばせて大きな湯舟だった。 もちろんステンレス製ではない。

北の領土に行った時、初めて入った時には風呂屋のように大きかったし、ましてや天然の温泉だった。 その後にも変わった風呂に入ったが、深型で足を伸ばせないにしても、全てが天然温泉だった。

「ここに居てもどこに居ても・・・一人」

高校時代、中学や小学校時代の友達。 その友達も今の紫揺の状態を知ってくれたら心配をしてくれるだろう。
だが言う気はない。
今の状態で新しく友達を作る気も、昔の友達と会う気もない。

杢木の父親が言っていた

『紫揺ちゃんのことを心配している人は、いなくなんてないんだよ』 と。

佐川も心配していてくれた。 何故かあの坂谷という警察の人間も。

「心配ばっかりかけてるのかなぁ・・・」

昔の友達ではなくあの時に知り合った人達に。
春樹にしてもニョゼにしてもそうだ。 ガザンなど身体を張って協力してくれた。

「中途半端ばっかりしてるからかなぁ」

学校時代は母親に心配をかけていたが、それでも自分のやりたいことを貫いていた。 だから父親の協力を得ていたが、母親も笑ってくれていた。

「シノ機械の人たちが私の身を案じてくれてるって言ってた」

此之葉が言っていた。

あの時は、両親のことを悲しんでばかりいた。 なにも楽しいことなど無かった。 多分、暗かった。
だから今も気にかけてくれているのかもしれない。

「やりたいことをするのが一番ってことかな・・・」

今やりたいことは、反して言ういいかたになるが、今一番されたくない事。
湯船に鼻の下まで浸かる。 口から息を吐く。 ブクブクブクと音をたてて泡が躍り出てくる。

(今やりたいことは・・・)

――― されたくないからする。


「東の人っていう人いますか?」

湯気があがった身体で玄関に出ると、相変わらず回りくどい言い方で呼ぶ。

「御用でしょうか」

闇の中から出てきたのは阿秀であった。

「あ・・・」

セノギモドキ。

「えっと、先日は失礼しました」

「こちらの方こそ礼を欠いてしまい、申し訳ありませんでした」

目を合わすことなく頭を軽く下げている。

「えっと・・・」

前の人だったら言いやすそうだったのに、と思う相手は悠蓮だ。 だが、ここまできて言いやすいもへったくれもない。 呼ぶだけ呼んで引っ込むわけにもいかない。

「急に明日、東ってとこに行くって言っても行けますか?」


梁湶が一人で表を固めている。 阿秀がホテルに戻ったからだ。
ホテルに戻った阿秀は事の次第を急ぎ領主に伝え、阿秀の代わりに野夜を紫揺の家に走らせた。 その後もちろん領主の了解を得た阿秀がパソコンを操作した。 飛行機の予約が取れたが、ギリギリ四名の席だけだった。
紫揺、領主、此之葉と阿秀になる。 他の者は置いておけない船で領主の屋敷に帰ってもらうしかない。 空港から島にある領主の家まで、阿秀一人で紫揺を護衛しなくてはならなくなった。

野夜に連絡を入れた。

「明日の朝、八時にお迎えに上がると伝えてくれ」

阿秀が紫揺から 『急に明日・・・』 と言われた後に

『有難うございます。 交通の確認が御座いますので、少々お時間を頂けますでしょうか』

そう言って紫揺を留めておいた。

野夜が引き戸をノックする。 その後ろ姿を陰から梁湶が見守っている。

戸を開けた紫揺の前に野夜がいた。

「へっ?」

てっきりセノギモドキがノックをしたと思っていた。

「明日の朝、八時にお迎えにあがります」

元々下げていた頭を更に深々と下げた。

「あ・・・分かりました」

後ろ手に戸を閉める。 八時の迎え、では遅くとも七時には起きなくてはならないな、と思った。 その時間は不規則な生活時間となっている今はちょっと悲しい。 早朝過ぎるだろう。 そう思ったが、この何日、何か月、アラームに起こされることもなく、惰眠をむさぼっていたことか。

アマフウに『いい加減になさい』 と怒られた日もあったが、それは例外だ。 あの馬車に揺られていたし、夜な夜な狼たちを待ち構えていたのだから。

「目覚ましセットしとこ」

家の電気が消え梁湶、若冲、野夜が上がっていた肩を下ろした。 醍十は相変わらずゆっくりと構えている。

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虚空の辰刻(とき)  第158回

2020年06月22日 22時39分25秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第158回



「ということでな、なんとか治めていただいたんだが」

「マツリ様に対してそのような仰りようというのは・・・。 お会いになったというだけでも驚きましたのに、何があったんでしょうか」

「ああ、全く分からん」

「それにリツソ様は、まだ本領からお出になっておられないはずでは?」

阿秀が言うように、リツソの姿など各領土の誰も見たことなどない。 それに領主が本領でリツソのことを聞き、それを阿秀に話したことがあるからリツソの名前を知っているが、単なる領土の民であるならリツソの名前など知ることもない。 

「ああ。 祭の日にもお顔を出されなかったんだ。 まだ領土を回ることはされておられない筈だ」

「では、紫さまが本領に行かれたということでしょうか?」

「いや、それはないだろう。 本領と聞いただけでマツリ様と思われたということは、四方様とは会われておられないはずだ。 本領に紫さまがお入りになられたのならば、必ず四方様とお会になるだろうからな」

「なにがあられたのやら・・・。 ですが、それで少々納得がいきました」

「納得とは、なんだ?」

「いえ、ご自分のお考えはしっかりと持っていらっしゃる方のようでしたので、そう簡単にこちらの申し出を受けられるとは思っておりませんでしたので」

「ああ、阿秀が紫さまと顔を合わせた時に、かなりお怒りのご様子だったんだからな。 それを思ってもだが、先の紫さまのことでの謝罪は受けてもらえなかった」

「・・・」

やはり、とは言えない。

「先の紫さまはもう亡くなられた、謝っても聞こえないと仰られた。 何度も足を運んででも、一度だけは領土に来て頂こうと思っていた・・・。 今だから言えるが、謝罪を受けてもらえなかった時には私も足を運ぶことに諦めの方が大きくなっていた。 だがまぁ、予期せぬ方向に話が飛んで結果が吉と出たというわけだがな」

それには笑いをかみ殺すようにして応えた。

「領土へ行くのは、落ち着かれたらお知らせ下さるようにと言ってきた。 だからいつになるかは分からんが。 あの後、紫さまにおいては何か変化があられたか?」

「悠蓮から連絡がありまして・・・」

今の体制では紫揺が出掛けた時に北が襲ってきては、阻むことが出来ないということを言っていた。

「紫さまがいつ領土に行かれるのをご決心なさるかが問題か」

「夜だけの守りを考えますと、私が夜に付いて四人体制にすればいい話ですが、夜だけとも限りませんし」

「昼日中に紫さまを攫ったくらいだからな」

腕組みをする。

「・・・腹が減っては何も考えられんか。 取り敢えず食べに行くとするか」

レストランのボーイが眉間に皺を寄せている。

「あの男は誰だ?」

隣のボーイに訊く。 昨日一緒に此之葉を見ていたボーイだ。
阿秀は今までレストランに食べに来ることはなかった。 ゆっくり物を食べる時間を惜しんで、コンビニで何かを買い込んで部屋で食べていた。 よってボーイが阿秀を見ることなど無かった。

「あの人、昨日の女の子のお爺さんだろ? ってことは、あの女の子の・・・父親?」

阿秀が此之葉の父親・・・。 見た目からしてそれはどうかと思うし、実際に阿秀と此之葉は九歳違いである。 いくら何でも九歳の時に父親になったということは無いだろう。

「父親って、それじゃあ若すぎるだろう。 それに、祖父と孫の二人旅じゃなかったってことか?」

「いや・・・もしかして、父親じゃなくて仕事関係の人間と偶然出会ったとか。 それにしても・・・」

「いい男」

二人が口を揃えて言った。

すると食事をしながら話している二人の前に一人の男が現れた。 何やら指示を受けている様子だ。

「了解。 では、行って参ります」

領主に頭を下げて歩き去った姿が目に入る。

「あのお爺さん、どっかのエライさんか?」

「んじゃ、あの女の子はどっかのご令嬢?」

「あ、待て、ってことはだな。 あの女の子とあの男の人は政略結婚させられるとか。 そしたら、あの年齢差だってあり得るだろ」

阿秀は父親ではなく今度は此之葉の結婚相手になったようだ。 ましてや政略結婚のお相手に。

「政略結婚!?」

まだあどけない女の子、お爺さん思いの女の子がそんなことをさせられるのか?

「あ、いや待てよ。 どっかのご令嬢なら、もっといい所に泊まる―――」

バン! バン! 盛大な音が二回響いた。 二人の頭がトレーで叩かれたのだ。

「くっちゃべってないで大皿を下げてこい!」

人の想像というものは、何の根拠もなくいくらでも膨らんでいくものらしい。


若冲(じゃくちゅう)、醍十(だいじゅう)、梁湶(りょうせん)と交代した悠蓮(ゆうれん)、湖彩(こさい)、野夜(のや)が引き揚げてきた。 その三人が集まっている部屋に阿秀が入った。

「飯は」

「適当に済ませました」

誰かがコンビニにでも買いに走って紫揺を見ながら食べたのだろう。
それを確認すると、紫揺が領土に行くことになったことを説明した。
だがそれは、紫揺の気持ちが固まり次第。

それがいつになるかは分からないが、今日までに北の領土の姿が見えない事から、昼間に紫揺が出掛けても一人が付く。 北の領土が知っているであろう家の守りの方を強固に固めるということだった。

だが夜に対しては、闇の中なにがあるか分からない。 夜だけは阿秀が入って、阿秀ともう一人が紫揺に付く。 残りの二人が家を固める。 その方法を当分取るということだった。

腹を満たしたにもかかわらず、どう考えてもそれ以外考えつかなかった。 阿秀の提案を領主がのんだということだった。

「梁湶たちには伝えた」

ボーイたちが領主のことをどこかのエライさんと勘違いしていた時に話したことだ。

「了解」

「阿秀」

阿秀が湖彩に顔を向ける。

「領主との話はどうなったんですか? その、結果ではなくて内容です。 野夜と裏を見ている時に紫さまのお怒りの声が聞こえました。 領主が辛い思いをしたんでしょうか」

「聞こえたのか?」

「はい」

「表には聞こえてこなかったですけど、奥の部屋で話してらしたから、裏を見張る湖彩たちには聞こえたみたいです」

阿秀と共に表を見張っていた悠蓮だが、ホテルに帰る道々このことを湖彩から聞かされて驚いたという。

「まず、謝罪は受けられなかったそうだ」

三人が頭を垂れる。

「だが湖彩の聞いたそれは、領主に対する紫さまのお怒りの声ではない。 声を荒げられたのは―――」

本領に頼むと聞き、マツリに頼みごとをするのかと声を荒げたという。 そんなことをするくらいなら舌を噛んだ方がマシだとか、頼みごとをするくらいなら、東の領土に行くなどと領主から聞いたことを話した。

「は?」

三人が短くハモった。

「そういうことらしい」

これは阿秀がお喋りなわけではない。 紫揺とマツリの間に何があったのかは分からないが、それだけにこれから東の領土に帰り、何があるか分からない。 万が一にでもマツリが現れた時、極力紫揺と会わせないように、又は紫揺がマツリを敵視した時のことを考えて、迅速に動けるよう知っておくべき事として話した。

これは領土に帰ってから話そうと思っていたが、質問を受けたのだ、濁すくらいなら少々早く話しても何が変わるわけでもないだろう。

「北に行かれただけの紫さまが、マツリ様のことをご存知だった。 それは何故なのかは分からないが、いつ何がどうなるか分からん。 この事は心しておいてくれ。 此之葉が言うには、その時、僅かだが紫さまのお力が発せられたということだ。
紫さまのお力に関して領主の受けた感じでは、紫さまはお力のことを北から聞いてお知りになったようだったということだ。 北から聞いてお知りになったということは、紫さまご自身、北に行くまでは身をもってのお力はご存知なかったということだろう。
此之葉が言ったお力が発せられたというのは・・・我々には分からん。
だが先代紫さまのことを思うと、お力のことを知りこれから徐々にお力を発せられるかもしれん。 それは我々の分からない範疇だ。
だが少なくとも紫さまのお心を平静にしていただかなくてはならない。 決して紫さまにマツリ様を会わせないように、マツリ様のことを言わないように気を配ってくれ」

領主と此之葉が激昂する紫揺からマツリのことを聞いた時、部屋の電気が点滅した。 それは電球の具合が悪かったのではない。 紫揺が持つ紫の力がそうさせた。
それを阿秀が運転する帰路の車の中で此之葉が領主に報告していた。 “古の力を持つ者” にしか分からないことである。


夜になり、阿秀が紫揺の家に向かった。

「阿秀」

表を固めていたのは梁湶だった。

「異常は?」

「ありません」

事前に阿秀から連絡を受けていた梁湶は野夜たちの様に驚くことはなかった。

この日、紫揺は銀行と買い物に出ただけだった。 銀行へは出金にスーパーへは三食の買い出しであった。

「言っていたように、これから私が一緒に表に付く。 紫さまが出掛けられたら、私と誰か一人が付いてくれ。 あとの二人が家を固めるように」

「了解」

梁湶が阿秀が来たことを若冲に連絡する。 そして若冲から醍十に回る。

悠蓮たち三人と、梁湶たち三人は細かく連絡を取っている。 阿秀がホテルを出たことも阿秀の連絡よりも前に悠蓮たちから聞いていた。

スマホを収めた梁湶。

「紫さまがマツリ様と会われたと。 それに紫さまがお力を発っせられたと聞きましたが」

阿秀は梁湶にそんな話などしていないが、驚くこともない。 悠蓮たちに言ったことが梁湶たちに回ったのだろう。 二度手間が省けるに越したことはない。

「ああ。 マツリ様とお会いされたようだ。 どうしてだか分からないがそういう事だ。 お力のことは此之葉が言ったことでそれは結果だ。 紫さまが意志あってそうされたのか、怒りに任せてそうなってしまったのかも分からん。 だが聞いているだろうが、領土に帰って万が一にもマツリ様とお会いさせるようなことはないように。 紫さまのお怒りのお力は我が領土に必要ないものだからな」

「分かりました」


ゴロン、ゴロンと音がしそうなくらい、邪魔になる和室の机を立て畳の上を蓑虫(みのむし)のようになって転がっている。

「・・・タイクツ」

友達に電話でもすればいいのだろうが、その気になれない。 きっと楽しい話を聞かせてくれるだろう。 でも今はその話が毒薬にしか感じない。 一滴でも口に含むと全身に広がって痺れてきそうだ。

羨ましいわけではないし、妬む気持ちがあるわけでもない。 ただそんな話を聞かされると、この一年の間に別世界にいたように思えるからだ。 決して歓迎など出来ない世界に。

「電話かぁ」

春樹を思い出した。

「あっちに行っちゃったら返せない。 どうしようか・・・」

メモを失くした。 現段階で春樹の電話番号が分からない。
数枚の万札と千円札。 合わせて六万三千円。 今日銀行に行って下ろしてきた。 いつでも返せるように封筒に入れた。

「学校に問い合わせたらわかるかなぁ。 たしかF組って言ってた」

紫揺が一年の時の三年F組、邑岬春樹。
葵高校は普通科、特進科、芸術科、スポーツ科と四科あった。

特進科は主に国立、府・県立大学を目指す。
クラス名は宇宙(そら)、大地(だいち)、蒼穹(そうきゅう)組だ。 ちなみに蒼穹組が文系で、宇宙組と大地組が理系である。

芸術科とスポーツ科は言わずとしれるその道でトップを目指す。 
芸術科とスポーツ科は一括りにされており、混在するクラスである。 クラス名は、新緑(しんりょく)、金翅(きんし)、黎明(れいめい)、玲瓏(れいろう)、そして紫揺の居た彩(さい)組である。 ちなみに玲瓏組は、試験の度に画数が多すぎると不服を言っていた。

そして普通科のクラス名は、A~F組まで。 最初は他の科と同じようなクラス名だったらしいが、何期か上の先輩が 「普通科は普通でいい」 と生徒会に申し出、それが職員会議にかかり、校長に打診され許可を得たということであったが、校長はかなり渋々と許可を出したらしい。 クラス名は創立者の願いが込められていたのだから。

『葵高校は、葵、つまりタチアオイの意味を込めて付けた校名であります。 タチアオイは背筋を伸ばすように上に伸びて行き、そして花は大きく色とりどり。 その様に生徒の諸君にもなってほしい。 諸君一人一人が色んな色を持ち、学び跳び、羽ばたいて欲しいと願いを込めて付けた校名であります』

入学式と卒業式の時に聞かされる創立者の校長の決まり文句であったが、それは毎回、力を込めて言っていた。 だからして、クラス名も歩んでいく生徒たちへの形を変えた応援でもあった。

「って、個人情報がなんとかって教えてくれないのかなぁ・・・」

『こっちで気に病んでることがあるなら、それの報告も出来るから』 春樹がそう言っていた。

「あんなに心配もしてくれてたのに、完全な裏切り行為」

ゴロゴロゴロ・・・。
うつ伏せになった状態から顔を上げ時計を見た。 午後9時半。

「・・・」

バタンと一度顔を畳につけた。 大きく息を吐くと今度は仰向けになった。

「彩組かぁ・・・」

高校に入ってすぐ、通学中に何度か中学時代の友達と会った。 紫揺はクラブ帰り、友達は遊びからの帰りだったり、バイトの帰りだったり。

『あ! シユ!』

シユというのは当時の紫揺の呼び名だった。 友達回りは紫揺が引き抜きで葵高校に入ったことを知っている。

『クラブの帰り?』

紫揺の隣に座る。

『うん。 アユちゃんは?』

『遊びの帰り。 ね、葵高校でしょ? 同じクラスになった友達のお姉さんも葵高校なんだって。 シユのこと言っとく。 何組?』

『彩(さい)組』

『サイ組?』

『うん』

『それってなに? あとのクラスはキリンさんとかゾウさんとか?』

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虚空の辰刻(とき)  第157回

2020年06月19日 22時30分05秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第157回



裏を固める野夜と湖彩が目を合わせた。
「長いな」 と湖彩が言った時 「ああ、こじれているんだろうか」 と野夜が返した途端に、紫揺の怒声が聞こえたからだった。
目を合わせて固まったまま動けなくなってしまった。

「阿秀、長過ぎませんか?」

こちらは表を固める阿秀と悠蓮。

「まあな・・・。 かなりお怒りのようだったからな」

「でもそれって、北のしたことでしょう。 あ、それとも俺たちが追いかけたことですか?」

「さぁ、どっちだろうか」

顔を傾けると口元を上げ、怪しげな横目を流してくる。

「わ、阿秀って根性ワル」

「嘘だよ。 お前たちのことは何も言っておられなかった」

そして表情を変えた。

「だが・・・お怒りはご尤もだが、ご自分のお考えはしっかりと持っていらっしゃる方のようだった。 簡単に領主の謝罪や申し出を受けられるかどうか・・・」


ガラガラと引き戸が開いた。 最初に出てきたのは此之葉であった。 続いて領主が出てくる。 振り返り二人が再度頭を下げ、此之葉の手によって戸が閉められた。
数歩歩いたところで阿秀が駆け寄ってきた。

「疲れた、少し休みたい」

「車を回してきます。 ここでお待ちください」

此之葉にも目で言った。


「では」 

領主の部屋のドアが阿秀によって閉められた。

「此之葉も疲れただろう。 休んでおいで」

阿秀と共に部屋を出てきた此之葉に言うと、コクリと頷いた此之葉が自分の部屋に足を向けた。

フーっと深い溜息をつくと、梁湶たちの部屋に向かいしばらく休むと言い残し、自分の部屋に戻ると倒れ込むようにベッドに仰向けになった。

車の中で聞いた限りでは、紫揺が東の領土に行くということであった。 領主が時間をかけて紫揺を説得したのだろうか、いやあの憤りを持った紫揺が説得をされたくらいで動くようには思えなかった。 いったいあの時間に何があったのだろうか・・・。
頭の中で考えるが、気疲れした精神はいつしか暗闇の中に身をゆだねてしまっていた。


「しまった・・・箱の中を見せるのを忘れてた」

本領と聞いて、あのマツリに頼みごとをするのかと思った。 だから・・・

『あのマツリに頼みごとなんてっ! 舌を噛んで死んだほうがよっぽどマシです! 行きます! 東の領土ってとこに行きます!!』

と叫んだ。

どうしてあのマツリに頼みごとをしなければいけないのか。
領主に何度もなだめられ、まずは一度ということに落ち着いたが。

『長い間こちらを空けていらしたのですから、片付けも御座いましょう。 落ち着かれたらお知らせください。 すぐお迎えに参ります』 東の領主がそう言い残した。

「片付けもなにも・・・」

冷蔵庫の中には腐ったものは入っていない。
たしか卵があったはずだし、残り物もあったはずなのに全て始末されている。 こまめに整理をしに来てくれたのだろう。 それに埃一つもない。 いつ帰ってくるか分からないのに、掃除もしてくれていたのだろう。

醍十がこれを聞いたら
“此之葉が仕事をしている間は退屈だったからな” と言うであろう。

「でもあと一日くらいはここに居たい、か」

何日も離れていたのだから少なくとも明日一日は。

『藤滝さんが一度我が領土に来てくださった後も、たとえ来て下さらなかったとしても本領に今回のことを報告いたします。 そうなれば北はもう藤滝さんを追ってはこられないはずです。 それまではどうか、身の回りにお気を付けください』

東の領主がそう言っていた。

「それって私が今回だけ東の領土に行くとか、東の領土に行かなかった時の話よね。 東の領土に連れて帰らなくとも、私のことを一応案じてはくれてるんだ」

大の字に寝ころんだ。 なぜか急に何もかもがイヤになった。 何も考えたくなくなった。 両親の遺影の前でなんて格好をしているのだろう、そんな思いさえ頭の片隅に押しやった。

ちらりと時計を見る。 二十分後と言って、丁度その二十分後にやって来たのは何時だっただろうか。

「十一時十五分だったっけ」

今は十五時をゆうに過ぎている。

「四時間以上、喋ってたんだ。 ・・・疲れるよ」

ましてや最後の最後にマツリが出てきたのだから。 いや、マツリという固有名詞を出したのは紫揺だが。
ボーっとしていると思い出したことがあった。

『よいか、我の居る本領は東西南北の領土を統治し、東西南北の領土はその本領の元にある。 ここ北の領土は四つの領土の内の一つである』
リツソの言っていたことを思い出した。 ボーっとしているつもりが、本領と言われいつしかリツソやいけ好かないマツリのことを考えていたようだ。

「あ・・・」

リツソは東西何北の領土と言っていた。

「すっかり忘れてた」

マツリと言われてカッとなり、東の領土に行くとは言ったものの、それまでは東の領土という存在さえ疑っていた。 だがリツソが東西南北の領土があると教えてくれていたではないか。

「でも・・・」

それでも北が策を変えたのかもしれないと思う。 ましてやマツリの名前を出してまで。

ここで訂正しておこう。
東の領主は一言もマツリとは言っていない、それどころか、紫揺が本領と言って、その後に本領と言っただけだ。
本領はマツリの父親である四方(しほう)が預かるところであり、今はまだマツリが預かるところではない。 本領と言えば各領土は普通、四方を頭に浮かべる。 決してマツリではない。
紫揺が一人でマツリと叫んでいただけである。

あれやこれやと考えるつもりはなかったのに、頭の中では色んなことが錯綜し、会話の疲れからか、いつしか寝てしまった。
再び目が覚めたのは、夜の十時をこしていた。

「お腹空いた」

若干の水分は摂っていたが、固形物は朝に三十%引きのパンを二つ食べただけであった。 それも前日は杢木親子ととった朝食だけであった。
ホテルや屋敷にいた時もそうであったが、北の領土に行った時も必ず誰かが食の用意をしてくれていた。
大の字からゴロリと横を向いた。

「誰もいないんだ」

――― 一人なんだ。

それは決して、食を用意してくれる者がいないという意味ではなかった。
此の地で働きに出れば新しい友達が出来るだろう。 学校時代の友達に連絡したら、一緒に遊べるだろう。

――― それがナニ。

リツソに言った。 友達は宝物だと。 でも今はそれの意味が分からない。 今は友達など周りにいないのだから。 勝手に友達との縁を切ったのは自分なのに。

「我儘だな」

誰かが聞くと、よく分かっておいでで、と言っただろうか。

「こんな時間からって・・・コンビニしかないか」

スーパーよりも高いコンビニは避けたかったが、時間的に開いているのはコンビニしかない。 スーパーの特価品も勿論だが、期限ぎりぎりになっての安売りは有難かった。 そんな生活をしていた。

「それにお供えも買わなくっちゃ」

米は丁度切らしていたことを覚えていた。 だから戻って来てからご飯は供えられず水と玄米茶しか供えていなかった。 コンビニだからというのもあるが、たとえスーパーであっても今はまだ米を買う気にはなれない。 どっしりと座ってご飯を食べたいとは思えなかった。

玄関の戸が開いた。

悠蓮が身構える。

自転車に乗る様子を見せる紫揺。

即座に悠蓮が湖彩に連絡を入れる。

「了解。 野夜に行ってもらう」

「おい、なんで俺なんだよ」

横で聞いていた野夜が言う。

悠蓮は尾骶骨をやられていて走るに走れない。 だから湖彩に代走を頼んだのだが、今回も野夜が推薦されたようだ。

「早く行かないと紫さまを見失うぞ」

「覚えとけよ」

捨て台詞を吐いて野夜が駆けだした。
悠蓮と湖彩は紫揺の居ない間の家を守っている。

「野夜一人でどうにかなるか?」

紫揺と野夜を見送った悠蓮が再度、湖彩に連絡を入れた。

『何かあったら、どうにもならんだろうな』

だが今は家の周りを固める方が先だ。 北はこの場所を知っているかもしれないのだから。

「おい、それって」

『こんなに夜遅くに紫さまが出られるとは俺たちも思わなかったし、阿秀もそうだろう。 阿秀に連絡が必要かもしれんな』

「俺からしておく」


暗闇に身をゆだねていた阿秀のスマホがなった。
重い身体ではあったが、それに甘んじていてはいけない。 身体を叱咤しベッドから起き上がるとテーブルに置いていたスマホを手に取る。

「紫さまが? ・・・分かった。 野夜から何か連絡があったらすぐにこちらに連絡を入れてくれ。 新たなことは考える。 明日にでも連絡をする」

スマホを切った。
今すぐにでも、控えている三人を出せばいいのだろうが、そうなると交代も無しでの、全員での二十四時間体制が幾日も続くことになるかもしれない。 幾日も続かなくとも、たった一日でも集中力に欠けるだろう。 北からの事を思うと、それが必要なのかもしれないが、六人が身を壊すかもしれない。

「領主ともう少し話ができていれば・・・」 

紫揺が領土に帰ると言ったことしか聞けなかった。 それがいつなのかは分からなかった。 紫揺との話で疲れた領主は明日まで眠りにつくだろう。 明日訊くしかない。


結局そのあと一睡もできず夜を過ごした阿秀が、領主を訪ねようと廊下を歩いていた。 そこに此之葉の姿を見た。

「此之葉、起きたのか? 疲れはないか?」

まるで領主の言葉のようだが、偶然廊下で会った阿秀の声であった。

コクリと此之葉が頷く。

「領主を訪ねたか?」

「まだです。 今から訪ねます」

「そうか。 ・・・此之葉、昨日なにがあった?」

「領主からお聞き下さい」

もっともだ。 領主が何も言っていないのに、此之葉に話せることなどない。

「そうだな、悪かった。 領主のお疲れが取れているようなら呼んでくれ。 外で待っている」

コクリと頷く此之葉。

二人で領主の部屋の前に行くと此之葉だけ領主の部屋に入り、阿秀がドアの外で待っていた。
どれほどの間をあけることなく此之葉が阿秀を呼んだ。

「お疲れはございませんか?」

「ああ。 ぐっすり寝て取れたわ」

「昨日は昼食も夕食も摂られませんでした。 ルームサービスを頼みましょうか?」

「いや、あとで此之葉と食べに行く。 此之葉それでいいだろ?」

此之葉がコクリと頷く。 同じく此之葉もなにも食していなかった。
夕べ醍十が此之葉に夕飯を食べさそうとしたのを阿秀が止めた。 まだ紫揺と話した疲れが取れていないだろうということであった。

「それでだが―――」

領主が話し始めようとすると、ドアが大きな音でノックされた。
此之葉がドアを開けに出ると、バンと勢い良くドアが開けられ醍十が飛び込んできた。

「阿秀、やっぱりここにいた! 阿秀だけか?!」

辺りに目をやるが、目的のモノは見つからないようだ。 血相を変えた醍十。

「阿秀! 此之葉が! 此之葉がいない! 此之葉が部屋にいない!!」

領主の部屋だというのにズカズカと入ってくる。
勢い良く開けられたドアがゆっくりと戻っていく。 領主と阿秀がそれを見ている。

「阿秀! 聞いてるのか!?」

戻っていくドアの影から、両掌を顔の前に向けている此之葉の姿が浮き出てきた。

「・・・後ろ」

「あん?」

此之葉がヘナヘナと崩れていく。

「後ろを見ろ」

振り向いた醍十。

「此之葉!」

すぐに此之葉に走り寄ったはいいが、自分がしでかしたことを分かっていないようだ。

「こんな所で何やってんだ? ああ、そうか。 腹が減って動けないのか。 晩飯も食わないで寝てるからだぞ」

此之葉の手を取る。

「阿秀、此之葉に朝飯を食わせてくる」

阿秀が片手を上げてそれに応じるのを見たのか見なかったのか、さっさと此之葉を連れて出て行った。

「朝食のお相手は私でもよろしいでしょうか」 

領主が笑いながら首肯すると、コホンと句点を打ったという白々しい咳払いをして表情を引き締めた。

「昨日のことはどこから話せばいいものか・・・。 まぁ、とにかく何もご存じなかったが、北で紫さまのお力のことはお聞きになられたようだ」

阿秀は頷きこそすれ、黙って聞いている。

「私の知っている限りの先の紫さまのことをお話した。 その時には先の紫さまに対してのお言葉は何もなかった。 先の紫さまのことをどう感じられたかは分からん。 それと紫さまが北の領土に入られたときは、洞窟を通られたと仰っていた」

阿秀の眉が撥ねた。

「ああ、どこかほかの場所で洞窟を見つけたのかもしれんが、どちらかと言えば私たちと近しい所に見つけたと考えるのが無難だろう」

阿秀が口に手をやりながら頷く。

「で、これからのことだが、一度だけでもいいから民にお顔を見せて欲しいと願い出たら、その後はどうするのかと尋ねられた。 だから新たな紫さまをお迎えすると言ったんだが、紫さまが激昂されてな」

「え?」

最後まで何も言わずに聞いているつもりだったのに、思わず声が漏れてしまった。

「激昂とは、何がお気に障ったのでしょうか」

開き直って訊ねる。

「新しく紫さまをお迎えするにあたって、本領にお願いせねばならんだろう。 そこにだ」

「本領に願い出ることに対してですか?」

「ああ。 紫さまはマツリ様と会われたみたいだ」

「マツリ様と!?」


『本領? 本領!? あのマツリに頼み事をするというんですか!?』

『あのマツリ・・・とは・・・?』

『あのマツリに頼みごとなんてっ! 舌を切って死んだほうがよっぽどマシです! 行きます! 東の領土ってとこに行きます!!』

『お、お待ちください。 来て頂けるのはこれ程にない喜びです。 ですが一度来ていただいて、民にお会いしていただいたあとには、これ以上紫さま不在を通すことはできません。 ですから本領に―――』

『だから! ずっとそっちにいるって言ってるんです! あんなマツリに頼みごとをするくらいなら、北でも東でもどこにでも行きます!』

『藤滝さん! どうか落ち着き下さい』

声を荒げ、東はどこ!? と今にも飛び出していきそうな勢いの紫揺を宥めようと、膝立ちになって言うが、耳を貸すつもりがあるのかどうかわからない。 それでも話の筋を修正せねばならない。

『本領にお頼みするのは私です。 決して藤滝さんではありませんし、東西南北の領土も本領も統括なさっておられるのは、マツリ様ではなく四方様です!』

『それって、リツソ君の父上様ですかっ?!』

『はい。 マツリ様、リツソ様のお父上でいらっしゃいます』

マツリだけではなくリツソも知っていたのか。 北でどういう生活をしていたのだろうか。

『マツリじゃなかったらいいってもんじゃないし、いずれにしてもあの顔で嫌味を言うのに決まってる』

ブツブツと独り言を始めた。

『は? 藤滝さんなんと?』

紫揺が東の領主を睨んだ。

『何と言われても、私は行きます。 たとえ、領主さんが頼みに行くだけだって言っても、こっちに聞こえてこようがこまいが、あのマツリになにか言われてるって思うだけで気分が悪くなります。 とにかく行きます! 悪いですかっ!』 

最後の言葉はどうなんだろうか。

『いえ、決して悪いなどとは・・・。 ですが一度民に会いに来て頂き、その後のことはゆっくりとお考えになりませんか? こちらでの、その、日本でのことをそう簡単に放ってしまっては。 それに藤滝さんのお考えがお固まりになるまで、本領にはお頼みに行きません。 どうぞご安心ください』

ご安心くださいと言った東の領主にとって思いもしなかった展開であった。

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虚空の辰刻(とき)  第156回

2020年06月15日 22時20分22秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第156回



領主が一つ頷いて話を進める。

「北の領土では本領より、それなりの制裁があったようです」

頭の中になかった話であっても、話についていかねば。

「それなりの?」

「どういう制裁かは、聞かされておりませんので分かりかねます。 ただその昔、東西南北の領土が本領から独立するにあたって、各々の領土に干渉せぬこと、各々の領土に足を踏み入れぬこと、それを確約していたのですから、北はそれを破ったということになります」

「え? ・・・え? 分かりません」

何なりとご質問くださいというように、領主が首肯する。

「その、その紫と呼ばれる人が仮にお婆様として、制裁があったんですよね? なのに、どうして私が攫われたんですか?」

「本領より事後報告はたった一つありました。 制裁を加えたが、北の領土を無くすわけにはいかない。 北には新しい領主を置かねばならない。 前領主の遠縁を置くと。 その者は時の領主がしたことを知らない領主と聞かされておったようでしたが、人の口に戸は立てられなかったのでしょう」

「それって・・・」

「はい、今の北の領主が紫さま・・・を領土に迎えようとしたのだと思います。 紫さまは・・・紫さまとは、一筋の血で繋がっておられます。 北の今の領主然り、その前の領主も、時の領主と同じことを考えたのでしょう」

「・・・」

此之葉という女の子は “藤滝さん” と紫揺の名字で呼んでいた。 だが、この東の領主という者は “紫揺” ではなく言いにくそうにではあったが “紫” と呼んだ。
“一筋の血” それがそう呼ばせるヒントなのだろうか。

「北に対して過去の事を問う気は御座いません。 問うたところで・・・先(せん)の紫さまは帰ってこられません。
ですが今代紫さまを北に攫われたのは私の落度としか申せません。 それなのに、こうしてお話を聞いて頂くことが出来ました」

領主が一つ頭を下げると続けて己の考えを言う。

「・・・先の紫さまにとっては、此の地が足固めであったのかもしれません」

今までは紫という名が祖母のことだったのだろう。 だが話が進むにつれ、先の紫と言うのが祖母のことになったようだ。 そして今代紫が・・・紫揺。

攫われたのは紫揺。 紫揺が紫だと、北の領土の者たちだけでなく、この東の領主も言っている。 どういうことだろうか。 “一筋の血” それはどういうことなのだろうか。 血の繋がりと言うならば、紫揺の前に紫揺の母、早季がいる。
だが話から外れる自分の疑問は二の次。 話を続けなければ。

「足固め?」

「はい、我が地への」

「分かりません」

「あのまま崖で紫さまをお助けできても、時の領主が何をどう判断を下したかということは、私には分かりませんが、もしやするとまた北に襲われていたやもしれません」

「それは、お婆様が東という所に帰らず、此処で生きるということを選んだということですか?」

「はい」

「・・・それは無いと思います。 少なくともお婆様はそう考えていらっしゃらなかった」

「と、仰いますと?」

「母の日記に書いてありました。 お婆様がお郷に帰りたいと仰っていたと」

≪お母様とお父様を早くお郷へ帰らせてあげたい。 どれ程お郷に帰りたいと願われていたか。 すぐにでもお帰りになりたいでしょうに≫
祖父母の命日にいつも書かれていたことだった。 それはもう亡くなった祖父母のお骨を郷に帰してあげたいということだったのだろう。

あっ、と思い出した。 そう言えば会話もした。

「それに母からも聞きました。 お婆様が郷に帰りたいと思ってらしたって。 でも、その道が分からなかったと」

「では、帰ることが出来なかったと?」

「はっきりとは聞けませんでしたが、帰る道が分からなかったとしか聞いていません。 それがどこなのかも聞いていませんから」

どこなのか聞いていない、それは紫揺が東の領主を暗に信じていないと言っている。
東の領主もそれは分かる。 簡単に信じてもらえるはずなどないのだから。

「承知しております。 私たちの領土が、先の紫さまのお帰りになられたいと思われた郷とは限らないということで御座いますね」

「はい」

ここは言い切らなければならない。 情に流されてはどこで嘘をつかれているか分からないのだから。

「先程、崖の下をお探ししたと申しました。 かなり経ってからだと聞いておりますが、その時に穿(うが)たれたところを目にしたそうです」

崖の途中に穴が開いていたという。 そこに行くには簡単に行けるものではなかった。 深い谷の崖の途中なのだから。
谷は雨が長く続けば、それなりの水量を持ってそのまま海に流れ出るが、当時は長雨など無かった。 谷底の川の水は谷の中央にだけ流れていて、崖沿いは歩くことが出来た。

そこで崖下には海から回って先の紫の捜索をしていた。

崖はデコボコとしており、飛び出すような横木が幾本もあった。 崖下から穿たれた穴に上ることも、崖上から降りることも容易ではなかった。 崖下からやっと登れるようになった時には、長い時がかかってしまっていた。

そして当時、紫に付いていた男たちの内、三名がその穴の中に入った。
崖に穿たれていた穴は大きくはなかったものの、入ってすぐに男が並んで三人立てる巾に広がっており、高さも身を屈める必要はなくなっていた。
そして暗く長い穴を抜けると此の地があった。

男たちは何らかの形でこの穴に紫が入ったと思った。 下まで落ちず、横木に引っかかったのかもしれない。 だから崖下で見つけることが出来なかった。 此の地に紫が居ると確信した。
何よりも逃げなければならないと紫は思ったのだろう、奥に奥に入り、此の地に出たに違いないと思った。

それから何度も男達が洞に入ったのだが、ある日、洞に入っていた男たちが引き上げようと、洞に戻るとやって来た風景がなくなっていた。 正面に崖も見えなければ上ってきた梯子さえも見えない。 そこはごつごつした岩肌の行き止まりになっていた。 男たちが互いを見交わし呆然とした。

後になって分かったのは、その穴は領土から一度入ってしまえば振り返り穴の向こうを見ることが出来なくなっていた。 ごつごつした岩肌があり行き止まりとしてしか見えない。 だが行き止まりとなっている岩壁を触ると、その岩壁がなくなり領土が見えるようになっていた。

この時は領土に居た者が入り込んでいた枝を取った途端、洞がなくなったのに気付き慌ててあちこちを触って、呆然としていた男達の前から行き止まりに見えていた岩肌がなくなり、洞から領土が見え、声も聞こえたということだった。 それは人だけでなく、木であっても葉であっても、洞に身を入れれば同じことということだった。

この洞を見つけた時には偶然にも崖にあった木の枝が洞に入り込んでいて洞を見つけることが出来たようだった。


一つに、崖から落ちたのに、遺体が見つからない。
という疑問はそういうことだったのか。 そして
一つに、どうして自分が存在するのか。
それは洞に入った祖母が生きていれば十分に有り得ること。
最後に残る疑問はまだ解決されていない。


「その洞を潜られ此の地で落ち着かれて郷にお帰りになろうとされた時には、岩肌しか見えなかったのでしょう」

「・・・」

そんなことを簡単に信じられない

「戻ってきた者の話を聞いて、我らは此の地で紫さまをお探しすることを決めました。 そこで紫さまに付いていた者達が、此の地に足を踏み入れました。 ですが我らの領土と何もかもがあまりにも違いすぎ、簡単に紫さまをお探しすることが出来ませんでした」

東の領主が言う “あまりにも違い過ぎる” それに心当たりがなくはない。 電話も無ければ連絡方法は狼煙(のろし)、電気もLEDどころか領主の家以外は角灯、暖をとるには囲炉裏、移動手段は馬か馬車。

「北の領土に行きました。 北と東が同じかどうかは知りませんが、たしかに此処とは違いました」

あ、とまた思い出したことがあった。 北の領土に行った時、洞窟が終わろうとしていた時だ。 陽の光がチラチラと見えていた。 陽の光がまばらに洞窟に入ってきているのは、木の枝か何かが邪魔をしているのだろうかと思った。

(あそこは、領土の中の木の枝か何かが洞窟に入り込んでいた? だから岩壁ではなく陽の光が見えていた?)
もし、この領主の言うことを信じるのならば、だが。

「その穴って、北の領土にもあるんですか?」

「我らが先の紫さまをお探ししている時、北も崖下に下りて先の紫さまをお探ししておりました。 同じく崖にあったとすれば、その時に見つけたやもしれませんし、他の場所に何某かがあったやもしれません。 北の人間が此処、日本に現れたのは間違いありませんので」

「・・・たしかにそうですね。 北の領土に行った時、洞窟を抜けました」

洞窟と聞いて口惜しいのか、僅かに領主が顔と視線を下げた。

「北の人たちから紫と言われる人物には “力” というものがあると聞きました」

「然(さ)に」

洞窟のことは何気に分かった。 だが先程の領主の話で納得出来ないものがある。

「北の人たちが襲って来た時、祖母は、紫は・・・どうしてその力を使わなかったのですか?」

北の五色達の力を見た。 セイハの力も驚くものがあったが、日本に生きている限り、アマフウとトウオウの力は想像を絶するものだった。

「先の紫さまは御幼少の頃より大きな力を持っておいででした。 まだ訳も分からず、力の使い方もお分かりにならないお歳の頃よりで御座います。 先の紫さまの母は紫さまが二の歳の時にお亡くなりになられましたが、お亡くなりになる前に紫さまのお力を案じ “古の力を持つ者” に十の歳を迎える日までそのお力を封じるように願われました」

五色(ごしき)とは、人心に添い、天災や予期せぬことから民を守る者。 紫とはその五色。
万が一にでも、それまでに天災や予期せぬことが舞い降りてきたとしても、それは万が一のことである。 当時の幼い紫は有り余る力で毎日何度も予期せぬことを無意識のままにしていたのだから、万が一を選ばない方が賢明と判断したのだろう。

「十歳? それじゃあ、その日は、襲われた日はちょうど十歳のお誕生日だったんですよね? だったら力を使えるんじゃないんですか?」

「この日から徐々にでございます。 急に使えるとなると先の紫さまのお身体に差し障りが出るやもしれませんので」

微妙に納得できる。 自分は大怪我を負ったのだから。 それにトウオウにも負わせてしまった。

「紫という人は・・・仮にお婆様として、お婆様は、ご自分のお力のことをご存じなかったのですか?」

「忌まわしいことがあった日の朝、先の紫さまのお誕生の日の朝に、床に臥せっていた “古の力を持つ者” から今日までの事、今日からのことの話を聞かれました」

どうして力が封じられたのか。 重傷者も数人出ていたが、そこは軽傷者という言い方をし、建物を壊したことや、森林を焼いたことや、地割れを起こしたことなどもよくよく噛んで含めるように言いきかせた。

『よいですか、先ほど施しました古の力により、今日の日からお力が徐々に現れてきますが、驚くことなどありません。 お認めになられればそれで宜しいのです。 ただ、怒ってはなりません。 赤子のように泣いてはなりません。 妬んではなりません。 お喜びになられる、お笑いになる、お幸せを感じられる、それは一向に構いません。 ですが、常は心に平静をお持ちください』

「怒ってはならない。 泣いてもいけない。 妬んでもいけない・・・認めればそれでいい」

反芻するように何度も小声で言うと、気を改めて質問する。

「古の力って何ですか?」

「一言では申せませんが、一つに、今申し上げましたように、心の奥底に記憶や力を封じ込める事が出来ます。 そして気を感じ追うことも出来ます。 我らが紫さまをお探しできたのは、古の力があったからでございます」

「その古の力っていうのを使って私を探したと?」

「はい。 紫さまの気を今も記憶しておりますのは、その時の幼少の頃の “古の力を持つ者” だけでございます。 幼少の頃は先の紫さまによく遊んでいただいたと申しております。 その時に紫さまの気をしかりと覚えておったそうです」

「待って下さい。 その幼少の古の人のお師匠さんは? たしかさっきのお話では、その日は臥せっていたと仰いましたが、その後に元気になってどうしてお婆様を探されなかったんですか? 気が追えるのでしょ?」

“古の力を持つ者” を、かなり短縮して “古の人” と言った。 意味が違ってくるではないか。

「此処の地をまだよく把握できていなかったということが大きいのですが “古の力を持つ者” が臥せったままになってしまったこともあります。 そして近くにいるならまだしも 気を追うには、それなりに気を発していただかなくては追うことがままなりません。
先の紫さまは “古の力を持つ者” から言われたことをお守りになり、気を大きく発することがあられなかったのでしょう。
先の紫さまが領土から居られなくなった時には、古の力の後を継ぐ者がまだ僅かに三の歳でございました。 その者が物が分かるようになるまで “古の力を持つ者” の先代は臥せった中で教えておりました。 先代はご自分には気を追う力がもう残っていないと思われたのでしょう。 あとの者に任せるのが先と、教える方に集中されました」

「お婆様が十歳の時に三歳だった人・・・。 その人が私の気を追ったというのですか? 私はその人に逢ったことなど無いのに?」

「藤滝さんがお持ちの、紫さまの気でございます」

紫さまの気・・・散々、北の人間に紫と言われてきた。 それがこういう事なのだろうか。

「じゃ、お母さんは?」

「 “古の力を持つ者” は長く気を感じようとしておりました。 そして藤滝さんがお生まれになった時に気を感じました。 それまでは一切気を感じることが御座いませんでした。 お母上は紫さまのお力をお持ちではなかったかと」

紫揺が両手で顔を覆い、その中から長く大きな息が漏れた。
母親に紫の力がなかった、簡単に言ってくれるが簡単に納得できるものではない。 その上、自分にはその力があるなどと。

「さっきから気になってたんですけど “先の紫” 仰ってましたよね。 お婆様の名前は確かに紫ですけど “先の” とはどういう意味ですか?」

声がくぐもっている。 顔を覆ったまま訊いたからだ。

「紫さまのお力を継がれた方は・・・その方のお名前は “紫さま” と代々名を継がれます。 先代紫さまの前の代は先代紫さまの曾祖母様で御座いました」

一つに、祖母は北とか東とかいう者たちの紫であったとして、どうして自分が祖母の名で呼ばれたのか。
疑問が解決された。

「藤滝さんは紫さまのお力を引き継がれておられます。 ですので今代紫さまとは藤滝さんのことで御座います」

・・・そういうことか。

北の領土が紫という名を代々継ぐということを知っていたのかどうかは分からないが、当時の北の領主は “紫” と呼ばれていた五色を攫いに行った。 その名がムロイ達にも引き継がれたのだろう。 だから紫揺のことを紫と呼んだのだろう。

長いと思われる静寂があった。 だがそれは感覚的なもの。 実際はほんの五分でしかなかったのかもしれない。

「藤滝さんには、藤滝さんのお暮しになってこられた道が御座います。 それを歪めてまで領土に戻って頂くなどと考えておりません。 ですが、領土のことをどうかご理解いただきたい」

「理解って、どういうことですか」

まだ手は離していない。 まだくぐもった声だ。

「先の紫さまの郷である領土は、藤滝さんの郷でもあると。 民は紫さまが帰ってこられる日をずっと何十年も待っているということを」

先の紫というのは祖母の事、そして民が待っている紫というのは紫揺の事。

「・・・」

泣き落としか、と怒鳴りたかったが、ムロイならともかく、こんなお爺さんを怒鳴るなど出来るものではなかった。

「一度でいいのです。 民に紫さまのお顔を見せてやってくださいませんでしょうか」

今度は先程の叩頭ではなく、足の上に手を置いて頭を下げた。 それに倣った此之葉は畳に手を着き、四十五度ほど腰を曲げた。

「一度? その後はどうするんですか?」

まだ声がくぐもっている。

「新たな紫さまをお迎え出来るよう、本領にお頼みいたします」

――― ?

「本領からは、当時より声を掛けて頂いておりました」

――― は? いま何と言った?

「民はすぐには納得などしないでしょうが」

――― 本領と言わなかったか?

「ですが民を納得させるのも領主の責で御座います」

――― 待て、話を進めるな。

「藤滝さんにおいては何もお気にされず―――」

「ちょっと待って下さい!」

やっと手を解いた。 見ると二人とも低頭していた。

「あ・・・。 頭を上げてください」

ゆっくりと二人の頭が上がった。

「さっき、本領って仰いました?」

「はい・・・」

「本領? 本領!?」

「・・・はい」

「本領って! 本領に頼みごとをするって言うんですか!?」

「は、はい・・・」

「あの、あの、あの! あの! あのマツリに頼み事をするというんですか!?」

え!? っと驚いた二人。 ずっと表情を崩さず座していた領主と此之葉だったが、ここにきて驚愕の面差しになった。

点けていた部屋の電気が点滅した。

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虚空の辰刻(とき)  第155回

2020年06月12日 22時16分14秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第155回



それは紫揺の祖母、紫が十歳だったころに遡った。

花を愛でにお付きの者達と領土の端に出かけた。 そこは周りが緑一面で、その中に十年に一度しか咲かない花が見られるという場所だった。

開花を知らせにきた民は是非に紫に見て欲しいと言ってきたが、生憎とその時、早朝から具合の良くなかった “古(いにしえ)の力を持つ者” が朝から力を出し臥せっていた。

“古の力を持つ者” それは紫が寝ている時以外はずっと傍についている者である。 古の力を受け継ぐ者はまだ幼く、師匠の代わりになどなれるはずもなかった。

どこかに不穏な動きがあったわけではなかった。 その昔、本領から初代紫がこの領土にやって来てからは民は徐々に落ち着き、不穏分子が残っていることもなかった。
本領から各領土が独立するにあたって、他の領土との交流は無くなり、互いに干渉しあわない、領土に立ち入らないと確約していたので軋轢なども一切なかった。

時の領主はそれらのことを鑑みて、紫にどうしたいかを訊ねた。 すると 

『民が知らせてくれたのです。 是非にとも見に行きたいです』

この日、まだ十歳になったばかりだというのに、民の心に添った心根の優しい紫だった。

“古の力を持つ者” が臥せっていてついて行けないと時の領主が言うと

『私にはいつも付いて下さっている方々がいます』 そう言った。

代々紫という名を受け継いでいく者の周りにはいつも数人の青年や、成人したお付きと呼ばれる男たちが周りを固めていた。 だがそれも必要のないぐらいに平和であった。 そしてその男たちを信用していると言うのである。

そうして、紫はお付きの男たちと身の回りの世話をする女たちとともに、民に案内され花を愛でに出かけた。
高台になる領土の端は少々肌寒かったが、そんなことも気にならないくらい、十年に一度咲く花は可憐だった。
あちらこちらに、ポンポンと一塊に咲き、互いに身を寄せていた。

そしてどうしても民が見て欲しいと言った理由が分かった。 その可憐な花は柔らかい紫色をしていたのだ。 そして

『お誕生の日、御目出とう御座います。 これから、十年ごとにこの花たちが紫さまのお祝いをしてくれるでしょう』

民が零れんばかりの笑みで紫に言うのを男たちは聞いていた。

『まぁ、私の誕生の日と知って知らせてくれたのですか? とても嬉しいわ。 連れて来て下さってありがとう。 ね、一緒に茶を飲みましょう。 用意してくれているの』

この日が紫の誕生日であったが、春の祭りの月と重なるため領土での紫の誕生の祝いは翌月に設けられていた。

女たちが布を敷き場の用意をしていた。

『紫さま、どうぞお座りください』

『ありがとう。 ね、どうぞ、座って。 一緒に愛でましょう?』

紫と民に茶が渡された。

『本当になんて可愛らしいんでしょ』

片手でチョンチョンと花をつついたりしている。

民もその姿を誇らしげに見ていた。

『何日くらい咲いているのですか?』 『どうして十年に一度なんですか?』 『この塊は広くなってきているのですか?』 矢継ぎ早に民に質問をする。 民もそれに答えるが、十歳になったばかりの少女に、分かりやすい言葉を選びながらのものであった。 紫を孫と言っても可笑しくない年齢の者だったのだから。

『まぁ、紫さま、あまり次々と訊かれては・・・ほら、困っておりますよ』

『あ、ごめんなさい』

『いいえ。 嬉しいばかりです』

女たちも腰を下ろし花を愛で茶を楽しんでいる。 一人の女が、優雅に踊り出すと、二人三人とそれに続いた。 腰を下ろしたままの女が踊りに合わせた歌を歌い出す。

女たちが座るところから離れていたお付きの者達も、その声に姿に耳や目を傾けていた。

ここに居る誰もが幸せを感じていた時だった。 東の領土の民は今代紫が幸せに笑っているだけで幸せなのだから。 紫が心を悼めた時にはそれだけで心が沈むものだった。

だがそれは長くは続かなかった。

喊声(かんせい)が聞こえた。

紫と民が振り返った時には、見たこともない服を着た男たちがこちら目がけて走ってきていた。

『紫さまをお守りしろ!』

お付きを束ねていた者が紫の一番近くにいた者に指示を出す。

お付きの男たちが指示を出された一名を除き、一斉にその男たちに対峙したが、こちらの方の人数が少ないのは明らかであった。

『紫さま! お逃げになって下さい!』

民が言うと男たちの加勢に走った。
民にとっても、女たちにとっても、もちろんお付きの男たちにとっても初めてのことであったが、紫を守らなければと本能で感じた。

女たちが紫を逃がそうと誘導するが、その足は速いものではなかった。
民の男とすれ違いに一人のお付きの青年が紫の元に走って来た。 束ねていた者にお守りしろと言われた青年だった。

『紫さま! お逃げ下さい! さぁ!』

女たちの中に入り、手を伸ばし紫の手をとる。

『でも皆が』

女たちを残していくことなど選べない。

『お逃げ下さい! 私たちも後を追います』 女たちが紫の背を押す。



「狙われていたのは紫さまただお一人でした。 他の者には目もくれなかったそうです。 お付きの者は紫さまをお守りする為、襲ってきた者を相手にし、女たちは逃げまどっていて、その後の紫さまのご様子を誰も見ておりませんでしたが、女たちは自分たちが狙われていなことを知ると、紫さまを探しだしましたが、女たちの目に映ったのは、襲われかけた紫さまが崖から落ちていかれる姿でした。 そう伝え聞いております」

崖から落ちた・・・、それがどういうことなのかは分かる。 だが今はそんな感傷に浸っている時ではない。 感傷は・・・あとでいい。

「で? それが領主の責任だというのですか?」

和室に入って開口一番の謝罪に対してのことだ。

玄関で東の領主と言った。 領主というのは、東西南北があっての東の領主であれば、日本でいうところの・・・知事だろう。 総理大臣でもなければ天皇でもないであろう。

「断を下したのは領主です」

花を愛でに行くということを了解したのは当時の領主。

「どこに居ても襲われたんじゃないですか?」

花を愛でに行こうが、家の中に居ようが、襲われる時には襲われる。 攫(さら)われる時には攫われる。 自分がそうだったのだから。 お遣いに出たところで攫われたのだから。

「後に聞いた話から、それは充分に考えられますが、どこに居られても紫さまをお守りできなかったのは領主の責で御座います」

下を見るように頭を下げた。



このままここで何を言っていても始まらない。 女たちに心配をかけるだけだと思った紫が青年の手をギュッと握った。
二人で逃げようとした時、襲ってきた男たちがあの可憐な花を踏んだ。

『なにをするのですか!』

青年の手を振りほどき、花の元に戻ろうとするのを青年が後ろから抱き上げそのまま走り出した。

『離しなさい! 離しなさい! 花が!』

『お許しください!』

そこへお付き達から足止めを食らわなかった男が一人踊り出てきた。 前を塞がれた。 目が尋常ではなかった。

『おさがり下さい』 紫を下ろすと背に守った。

『ムラサキ・・・』 口の端からヨダレを垂らしている。

『どこの者だ!』

『ムラサキ・・・』

青年の横をすり抜けて紫の手を掴もうとした。 その手を弾く。

『下がれ!』

尋常でなかった目が今度は虚ろな目で青年を捉える。

『・・・邪魔をするな』

言ったが早いか、青年に襲い掛かってきた。

『お逃げ下さい!』

そう言うと男ともつれ合って坂を転がった。

後ろを振り返ると女たちを過ぎ、何人もの男たちがこちらに向かって走って来るのが見えた。 狙われているのは紫だけ、ようやく紫にそれが分かった。

――― 逃げなくては!

坂をかけおりるが、男たちの足にかなうはずはない。 まだ十歳なのだから。
腕を掴まれた。

『離しなさい!』

手を大きく振ろうとするが、それさえもできない。 みるみる細く白い腕が赤くなっていく。

『ムラサキ・・・』

先ほどの男と同じようにヨダレを垂れ、異常な目をしている。 力の加減も出来ないようだ。 今にも紫の腕が握り潰されようとしている。

『離せ!』

男の腕を捻じ曲げたのは先程の青年だ。 ともにもつれ合って坂を下って行った男は坂の下で横たわっていた。

青年に捻じられた痛みで男が手を離した。 その隙に紫を引き寄せる。 追いついてきた他の男たちも加わってジリジリと囲まれる。 一斉に手が伸びてきた。 その手はどれも紫を捉えようとしている。 青年が紫の腹に手を入れるとそのまま抱え上げ、僅かにできた隙間を走り抜けた。

全員やられたのか・・・、そう思いながらも逃げるしかないが、紫を抱えていてはすぐに追いつかれる。

――― どうしたらいい。

その途端また一人が前に回ってきた。 逃げる方向を変えようとするがすぐに囲まれてしまった。 四人、さっきより人数が減っている。 殴り合う音が聞こえる。 全員がやられたわけではなかったようだ。 希望が見える。

『前の男を蹴ります。 その隙に逃げてください。 あとの男たちは何とか食い止めます』

紫の耳元で言った。 紫をそっと下ろした途端、男の腹を正面から蹴った。 男は身体を二つに折ると、さらに身体三つ分後ろに飛び、そのまま背中から地に落ちた。 

『今のうちに!』

青年の声が合図となって紫は走り出した。 後ろなど振り向いていてはすぐに捕まってしまう。 少しでも自分の力で逃げなければ。 
青年が一人で三人の相手をして、目先が明るい結果など見られるものではない。
と、紫の前に先程の四人とは違う男が現れた。 息を切らしながら止まった。

『ムラサキ・・・』

この男も他の男と同じだった。

『おどきなさい!』

凛として言うが、男はそれに従う気など毛頭ない。 紫に手を伸ばした。 その手をかわすと方向を変え、領土の端の端、崖の方に向かった。 男が追ってくる。 それも余裕の笑みを見せて。
たとえ大の男であろうと、これだけ走っていれば息も荒くなるはずなのに、そんな様子は微塵も見せない。

――― 人じゃない。

そう思った途端、腕を掴まれた。

『ムラサキ・・・』

――― この者達は呪われているのか、それとも狂っているのか・・・。

『離しなさい!』

腕を振るが、男にしてみれば小さな抵抗。

二人を地に伏せた。 あと一人。 青年がそう思った時、紫の声が聞こえた。 見ると、崖の際で紫が男に腕を掴まれている。

『紫さま!!』

一人の男を置いて紫の元に走る。

『離しなさいと言っているでしょう!』

『ムラサキぃ・・・』

男の目が段々と違うものになってきた。 “邪” だけを感じる。

男が紫を抱えようと、もう一方の手を紫の身体に伸ばした。

『触れるでない!』

捕まれていた手から男の手に絡むように閃光が走った。

ギャッ! と叫ぶと男が手を離し倒れかけたが、足を踏ん張り回避した。

紫が走り出す。 男が追う。 それを青年が追う。

すぐに紫が追いつかれた。 男が紫の前に回り込んで腕を掴もうとするのを、紫が腕を引っ込めかわした。

青年がすぐそこまで来ている。 あと七歩。 男が紫の腕ではなく身体を抱えようとした。 紫がそれから逃げようと身体を捻ろうとして・・・足を踏み外した。

『紫さま!』

紫の身が崖に舞った。



「紫さまは、我が領土からお姿を消されました」

「・・・」

感傷は後でと考えていたが、崖から落ちた、姿を消した、それがお婆様の経験なら、どれだけ怖い目に遭われたのだろう。

「崖をおりて紫さまをお探ししましたが、どこにもおられませんでした」

(ハッキリ言って、遺体捜索っていうことじゃない。 ・・・ん? え? あれ? 遺体捜索? それってオカシイ。 お婆様が十歳の時にお亡くなりになっていれば、私はここに居ない筈じゃない)

「我らは紫さまが亡くなられたとは思いませんでした。 お姿が見当たらないのですから。 民もそれに希望を持ちました。 時の領主はあまりの出来事に我を失ってしまい、後を継いだまだ歳の若かった私の父が領主となり、紫さまをお探しすると言明いたしました。 民も異存はないと。 我らの紫さまはお一人だと」

「・・・」

“我らの紫さまはお一人だと” それは祖母のことと言いたいのだろう。 言いたいことは分かった、だが整理しきれないことがある。

一つに、崖から落ちたのに、遺体が見つからない。
一つに、どうして自分が存在するのか。
一つに、祖母は北とか東とかいう者たちの間で紫であったとして、どうして自分が祖母の名で呼ばれるのか。

「襲ってきたのは北の領土の者と分かりました」

「え?」

紫揺の頭の中には無かったことを言われた。

「そのことを・・・本領はご存知でしょうか?」

紫揺が本領と言った、東の領主は本領のことなど話していないのに。 北の領土に行って本領の話も聞かされたということなのだろうか。

「本領のことを御存知なのですか?」

「は・・・い。 何となくは」

リツソが言っていた。
『ここは本領であって、東西南北の領土を統治している。 東西南北の領土はこの本領の元にある』 と。

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虚空の辰刻(とき)  第154回

2020年06月08日 22時52分49秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第154回



思いもしない問いだった。

「季節と言うか、はっきり言って、東っていう所の服がどんなものかお訊きしたいんです」

此之葉の思考が止まりそうになるが止めてはならない。 今のこの状態でフルに動かすことは出来なくとも、それなりに動かさなくては。

「季節は御座います。 特に春が長く、冬は此の地より随分と暖かく感じます」

「そこは・・・そこの服装ってどんなのなんですか? ここと違うんですか?」

北の領土では季節がらなのか、布を何枚も巻いていた。

此之葉が紫揺を見る。 紫揺はTシャツにジャージを穿いている。

「違います」

「どんな風なものを着てるんですか?」

「基本として民は上衣と下衣を着ますが、下衣は男は筒ズボン、女の下衣はこちらで言う巻きスカートのようなもので御座います」

巻きスカートという言葉を知らなかったが、新しく此之葉の後任になった女性が巻きスカートを穿いていた。
領土の衣と似ているなと思い尋ねると、巻きスカートだと教えてくれた。

「先ほども申しましたように、冬はこちらほど寒くはないのですが、それなりに着こむことがあります。 ですがそれはさほど長い期間ではありません。 それ以外の季節では民の主な服装は薄い綿です。 それを春夏秋で、袖や裾が短くなったり長くなったりとする程度です」

「綿? 綿なんですか?」

「民は綿です。 それが動きやすくあり洗い替えも簡単ですので」

「民は綿って・・・じゃ、それ以外の人って?」

「それは・・・」

言い淀んでしまう。

「教えてください」

「・・・それは」

紫揺が待つ。

「・・・紫さまです」

「紫ね・・・」

散々北の領土で呼ばれた名前。

「その紫ってひとは、何を着るんですか?」

「絹で御座います」

「それって、どんな手触りのものですか?」

絹などと言われても知らない。 ・・・つもりだが、ホテルで着ていたし屋敷でも着ていた。 ただその認識がなかった。

「冬以外は温暖なのですが、紫さまには不快を感じられないように、汗をかかれてもサラリとした手触りのものです」

「そうですか・・・」

生地のことはクリアできたかもしれない。

「それも巻きスカートですか?」

「いいえ違います。 こちらに着物というものがありますが、衿のところはそれとよく似ております。 季節によってですが、何枚も重ねて着ていただくことも御座いますので、こちらの着物の衿とよく似たものとなります。 帯も同じようにしますが、こちらの帯ほど幅は御座いません。 そして裾は着物と違い広がっています」

此之葉はこちらに来るにあたって振袖を着ていた。 着物の存在を知っている。
そして此之葉の生まれる前から紫が不在であっても、あの忌まわしい言い伝えがあった日に着ていた服だけは無くなってしまったが、紫の服が全て無くなったというわけではない。 紫がどのような服を着ていたのかは目にしている。

紫揺が一つ視線を落とした。
つい先ほど手に取ったものと似ている。
ほんの一瞬考えるようにすると、すぐに視線を戻して新しい問いを投げかけた。

「アクセサリーなんてものは着けるんですか?」

「民はつけません。 紫さまは普段は腕輪や髪飾りくらいしかお着けになられなかったそうですが、祭りやお出かけの際には首飾りもお着けになられていたそうです」

「それはどんな・・・素材っていうか、何で出来ているんですか?」

「私たちは飾り石と呼んでいますが、こちらでは・・・。 たしかお店には・・・」

此之葉が少し眉根を寄せて考えるようにしている。
醍十が此之葉をあちらこちらに連れて行った中にショッピングモールがあった。 そこでストーンを見た。 飾り石とよく似ていると思って注視していたことがあった。

「・・・パワーストーンと書かれておりました。 腕輪や首飾りと似たものが店先にあるのを見ました。 髪飾りは金細工で出来ております。 そこに飾り石が付いているもの、付いていないものもあります」

―――箱の中にあったものと同じ。

「そしてアクセサリーではないのですが、紫さまは常に紫珠(しじゅ)をお持ちだったと聞いております」

「シジュ? それってなんですか?」

「見たことはありませんが、涙型をしていて紫さまのお名に等しく美しい紫色の飾り石だと伝えられております」

――― あのストラップのようなもの。

「・・・」

頭を垂れ、正座した足に拳を握りしめた。

「藤滝さん?」

「・・・」

どうされましたか、と訊きたいが、紫揺が顔を上げるまで待とう。

平日の午前、子供たちは学校に行っている。 子供たちの声は聞こえない。 近所で井戸端会議をする主婦の声も聞こえない。 きっと借家を出て家を買うために、共働きで働きに出ているのだろう。
柱時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。

「・・・領主って人から」

紫揺の頭はまだ垂れている。

「お話を聞くことはできますか」

領主から話を聞いて欲しいと言ったのは此之葉の方だ、阿秀だ。

「お聞きくださるのですか?」

「・・・はい」

紫揺の歯切れが悪い。 それにまだ頭を垂れている。 自分の話し方が悪かったのだろうか。

「お気を悪くされたか、どこか具合を悪くされておられませんか? 領主は近くに控えております。 すぐにでも呼んで参りますが、ご気分がすぐれないようでしたら明日にでも」

本当は今すぐにでもと言いたいが、何よりも紫揺のことを考えるのが先だ。

「・・・本当は、聞きたくなんてありません」

「藤滝さん・・・」

「このまま北のことも何もかも知らなくて過ごしたかったです」

「・・・」

ゆっくりと紫揺が顔を上げた。

「でも、北の領土に行くと言ったのは私です。 自分が選んでそう決めました。 そして今、此之葉さんと話をしたいと決めたのも私です。 それなのに中途半端で、何も知らなくて過ごすなんてこと・・・。 時間を戻すことなんて出来ないのは分かっています」

戻せるのなら、父と母の旅行計画を立てる前に戻りたい。

「北の領土を知ってしまいました。 五色と呼ばれる人たちとも話しました。 北の領主という人は、北の領土にお婆様や私が行く筈だったと言っていました」

「・・・」

「でも、少なくとも私はあそこに行きたいとは思いませんでした。 お婆様がご健在なら同じことを思われたに違いありません」

相槌を打つように此之葉が頷く。 北には “行く” かもしれないが、東には “帰っていただく” のだから。

「此之葉さんのところの領主って人が何を仰るかは分かりませんが、お話をお聞きしたい理由が出来てしまいました」

「理由、でございますか?」

さっきまでの紫揺と違ってしっかりとした口調で話している。 気分を害していたのではなかったのだろうか。

「はい。 さっき、此之葉さんに訊いたことです。 此之葉さんが違う答えをされていたなら、お話する理由はありませんでした」

服や宝飾の話がどうして、と戸惑う此之葉だが、そんなことは二の次であることは分かっている。

「今すぐに呼んで参りましょうか? それとも一度ご休憩をされますか?」

話し疲れは多少なりともあるだろう。

「そうですね・・・それじゃあ、ちょっと間をおいてから」

時計を見て少し考えてから続けて言う。

「二十分後ぐらいでもいいですか?」

三十分では時間が迫ってくるのをドキドキして待ちそうだし、十分では短すぎる。

「承知いたしました」

手を着いて叩頭すると、その場を辞した。

玄関の戸が閉められると台所に立ち茶を淹れた。 さっきスーパーで買って帰ってきた玄米茶である。 ペットボトルの茶はまだ残っていたが、今は暖かいものを飲みたい。

「頭の中がショートしそう・・・」

テーブルに伏せた身体を起こし、ゆっくりと湯呑を手で包みそっと一口飲んだ。 両親との時を思い出させる味が広がる。 もう一口飲んで湯呑を置いた。
視線をテーブルの端に移す。 そこには紫揺が書いたレポート用紙があった。 視線を戻すと立ち上がり和室に入った。 母親の遺影の横に置かれている大学ノート、それは母親の日記である。

「お母さん・・・いいよね?」

指先で日記を撫でるようにさする。 そして頭を下げると隅に置かれた箱を見た。 箱の前に座り込む。

「お婆様でしょ? このお洋服もアクセサリーもお婆様のものなんですよね?」

箱を何度もさする。 返事はない。 分かっていることだ。 諒承の言葉は聞けなかったが、それでもいい。 ただ、そう言いたかっただけなのだから。 立ち上がり台所に戻ると残りの茶を飲み、接客の為の準備を始めた。

和室の紫揺の座る横に盆を置いた。 盆にはポットとお茶のセットが置かれている。
さっきは此之葉も喉が渇いただろう。 お茶も出さず失礼なことをしたと思ったのもあるが、領主と言われる人が来る。 ムロイの様な慇懃無礼な輩かもしれないが、それでも少なくとも年上だ。 それにムロイも最初はああではなかった。

「藤滝さん」

玄関で此之葉の声がした。 硝子戸には大きな影が映っている。
台所まで行き「どうぞ」 と声を掛ける。 時計を振り返るとピッタリと二十分が経っていた。

「失礼いたします」

此之葉の声がし、引き戸が開けられた。
此之葉が身体をずらし、後ろに立つ領主の全身が紫揺の目に映るようにして「領主でございます」 と言った。

一瞬驚いた。 想像とはあまりに違い過ぎた。 ムロイと違って恰幅がよく、年齢もムロイの倍ほど生きているのではないかと思わせる。 それにスーツではなく和服姿。

此之葉もそうだが、当初予定の羽織袴は諦めたようだった。 今の紫揺を思うとそんなものを着てくれば逆撫でにしかならないであろう。

「東の領主、丹我(たんが)と申します」 深々と頭を下げる。

「・・・藤滝紫揺です」

今更自己紹介など必要ないであろうが、泰然自若のその様につい引き寄せられてしまった。

「此度は領土の者たちが多大なるご無礼を働きましたこと、深くお詫びいたします」

名乗ってからまだ一度も頭を上げていない。 それに横で此之葉も頭を下げていた。

「あの! 頭はあげてください。 中に入って下さい。 その、ご近所さんの目もありますから」

どこにも人がいないのは分かっているが、郵便配達でも来るかもしれないし、頭を上げて欲しいだけの言い訳でもある。

「では、失礼をいたします」

此之葉が退き、領主が一歩を出した。

「此之葉さんも来てくださいね」

「え?」 自分はここまでのつもりだった。 領主を見る。

「そう仰っておられる」

コクリと頷くと領主の後に続いた。

「奥にどうぞ」

先ほどまで此之葉は居たのだ、待っていなくとも中に入って来るだろう。 二人を置いて素早く茶の用意を始めた。
領主の草履と自分の靴を揃え、領主に続いて和室に入ってきた此之葉が慌てて紫揺の手を止めるように言った。

「藤滝さん、その様なことは私が」

「ここは私の家ですから。 どうぞ座って下さい」

湯呑を茶托に載せると二人の座る予定の席の前に置いた。

「失礼をいたします」

領主が座布団を横に避けると、畳の上に端座し、紫揺に目を合わせると手を着き叩頭した。 此之葉もそれに倣う。

「・・・あの」

恰幅のいいからだの背中が見える。

「先(せん)の紫さまをお守りしきれなかったのは、領主の責でございます。 深謝申し上げます」

「あの、とにかく頭を上げてください」

領主の身体はビクとも動かない。

「謝ってもらっても・・・紫さま? それって、北の人が言うにはお婆様のことだったみたいですけど、東の領主さんが仰るのもお婆様のことでしたら、お婆様は私の生まれる前に亡くなりました。 謝ってもらってもお婆様には聞こえません」

領主の叩頭がより一層、畳に額を埋めるようにする。

「とにかく、私は言いたいことを訊きたいことを言わせて頂きます。 そちらも仰りたいことを仰って下さい。 その為にはまず頭を上げてください。 話しも出来ません」

僅かに身じろいだかと思うと、ゆっくりと頭を上げた領主。 此之葉はまだ頭を下げている

「此之葉さんも頭を上げてください」

言われ、此之葉もゆっくりと頭を上げる。 先程の紫揺の言った言葉 『謝ってもらっても先の紫には聞こえない』 どれほどの気持ちで領主が聞いたのか。 それを考えると頭を上げることが出来なかったが、紫揺に言われてしまえば逆らうことも出来ない。

座布団に座るように勧める気がしなかった。 だから勧めることなくそのまま話だした。

「母は亡くなりました。 父も。 両親は旅行先で亡くなりました。 母は旅行から帰った後に、私に話をしたいことがあると言っていました。 ですから母からどんな話をされるのかも、何も分かっていませんでした。
母が何を言いたかったのかを知りたくて、母の日記を読んで色んな疑問が出来ました。 意味の分からないことが書かれていました。
そんな時に攫われました。 北の屋敷や、領土ですか? そこで色々と話を聞きましたが、何も納得出来ませんでした。
ですが昨日、此之葉さんが話された言葉には北には無いものがありました。 日記に書かれているのと同じ言葉を此之葉さんから聞きました。 それが始まりで疑問が解けてはいきましたが、単に偶然の一致、若しくは勘違いかもしれません。 ですから東とかって言われても、他に何を言われても簡単に信じることはできません」

箱の中のことは今は置いておこう。

真っ直ぐに紫揺の目を見て話しを聞いていた領主。

「ご両親様からは全くなにも聞かれていないということですか?」

「はい」

「では、事の起こり。 わたしから東と北の領土の関係、そして先の紫さまのお話をさせて頂きます」

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虚空の辰刻(とき)  第153回

2020年06月05日 22時19分17秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第150回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第153回



グスリと鼻水を吸い上げる。 もう一度家の中に入ってティッシュで鼻をかむ。 山ほど出た。

「全部・・・自分が選んだんだ」

北やら東やらという輩は置いておいても、それ以外は自分が選んだ。
進学はしない。 スタントマンになる。 東京に行く。 両親に旅行をプレゼントしたのも自分だ。 決して、両親を死に追いやろうと思ってやったことではないが、全部自分で決めて自分がやったことだ。

母親の早季の日記を読んで、どれ程早季が紫揺に怪我をさせたくないのかを知った。 自分のやってきたことは母親不幸だったと思う。 でも、それでも、早季がどれほど反対しても、自分のしたかった事を貫いた。 父親の十郎の助けがあったことは早季の日記で知った。

「私のしたこと・・・お父さんとお母さんにプレゼントしたかった旅行で、お父さんもお母さんも亡くなった」

それは事実。
泣いても後悔しても取り戻せない。
以前の紫揺なら、取り戻せない事にただただ自分を責めていただけだった。
だが今は違う。 母親である早季の言葉を聞いた。

「・・・お父さん、お母さんに言ってくれてるかなぁ」

早季の日記を思い返した。

≪あと十日で紫揺さんが遠くに行ってしまう。 本当にこれでよかったのかしら。
十郎さんに何度も問うけれども、紫揺さんの自由にさせてあげましょう。 私たちは紫揺さんを守る人間でもあるけれど、紫揺さんの親でもあるんですよ。
親が守るという事はずっとベッタリついていることじゃないんですよ。 紫揺さんはもう子供じゃないんですから。
いつも同じ答えが返ってくる。 そして紫揺さんがプレゼントしてくれた旅行をあり難く受け取って早季さんも心を休めましょう。 と≫
そう書かれていた。

十郎が言うように早季に休んで欲しかった。 もちろん十郎にもだ。 早季に休んで欲しかったということを、十郎は再度天国で言ってくれているだろうか。

グゥ~とまたもや腹が鳴った。
玄関に鍵を掛けると自転車に乗った。

その後を野夜が追った。 紫揺が家にいる間ずっとストレッチをしていた。 筋肉痛も少しはましになっている。

スーパーから帰ってきた紫揺。 コンビニには行かない。 スーパーで前日の売れ残りのパン三十%引き二つと、冷えた五百ミリリットルの茶と玄米茶の茶葉を袋に入れている。 自転車を止めると辺りを見た。 昨日、鍵を渡してくれた男の姿がない。

「居ないのかなぁ・・・」

思いながらも、今は空腹を訴える胃を満足させたい。
家に入ると洗濯機はまだ動いていた。 台所の椅子に座ると袋からパンと茶を出した。 冷えた茶が汗をかいて袋を濡らしている。

一人台所で食べるには淋しい。 パンと茶を持ち和室に移ってテレビを点ける。 ワイドショーではタレントの誰が誰と付き合っているだの、誰が別れただのと言っている。

「放っといてあげればいいのに」

そうは言ってもファンは許せる話と許せない話があるし、芸能ネタを肴に主婦の会話が増える。
チャンネルを変える。 今度はテレビショッピングが映し出された。

「高級羽毛です」 と、言うと鳥の映像が出た。

「その鳥の羽をむしってるのを宣伝してるって気分が悪い」
またチャンネルを変える。

今度は再放送のドラマ。 刑事役の誰かが犯人を追い詰めている。
プチっと電源を切った。
パンを口に運ぶ。

「テレビなんか見て何が楽しいんだろ」

いや、テレビを点けたのはアナタですが? と、どこからか聞こえてきそうだ。

洗濯機がピーピーピーと、紫揺を呼ぶ。 すぐに動く気にはなれなかった。 買って来たパン二つを食べ終えてから洗濯機の蓋を開けた。 中にある洗濯物を洗濯籠に入れると、決して大きくはない二階のベランダに足を運んだ。
階段を上がると部屋の隅に紫揺が使っていたカーテンが綺麗にたたまれて置かれていた。 一瞬止まった足を再び動かす。
洗濯物を一枚づつ干す。 下着とタオル、メーカーもののTシャツとジャージの上下。 このジャージの上着のポケットには世話になった。

「何枚も揃えてくれた」

屋敷のクローゼットの中にあるものなど、紫揺にしてみれば着られたものではなかった。 あとでそれはトウオウが選んだものだと聞いて、言葉に詰まったが。
セノギにジャージが欲しいと言ったら、ジャージどころかそれ以上のものも用意をしてくれた。

干したジャージがゆらゆらと風に揺れる。

「ベンチコートなんて三着も用意してくれて・・・」

あれは何日前だった? いや、何月だった? もう一年も二年も前に思える反面、昨日の出来事のように思える。
そろそろベンチコートを脱ぐ季節だと思った。 だからその日を最後にと思って手に持った。 そしてその日に北の領土に行った。 ベンチコートが無ければ寒さに凍えたかもしれない。 それにセイハが言っていた。

『殆ど寒冷地で春と夏は短いけどね。 それなりにあるよ』

「あ・・・」

ある物が頭に浮かんだ。 ベランダから部屋に入ると両親の部屋に入った。 ここにも隅にカーテンが畳んで置かれてあった。 押入れに身を入れると天袋を開けた。

以前ここを開けた時に見た小さな段ボールが一番手前に置かれている。 それは普段使わない土鍋や、ホットプレートなどが入っていた天袋の一番奥にあったものだ。

箱の中を確認し、天袋に戻した時に一番手前に置いていた。 その段ボール箱を下ろすと紐をほどき、中に入っていた風呂敷を広げた。

以前見た時と何も変わっていない。 今までに見こともないデザインで破れて汚れの付いた二セットの服と、傷のついたアクセサリーが入っているだけである。

子供の服が一着。 着物に似ているがどこか違うそれだ。
それは着物の形に似ているが生地が違い、長さや裾広がりという所も違う。 柔らかい生地で出来ていた。
素肌の汗を吸い取って涼しく過ごせる生地、シルクであった。 そして帯は日本の着物のように幅があるわけではなかった。

そしてもう一つは今の紫揺が着るには大きめな、上下対であったであろう甚平か柔道着のような形をした服。 帯らしき物も入っていた。 この両方にも破れがあり汚れがついていた。

アクセサリーは何かのストーンらしきもの。 紐に涙型をした紫色のストーンがついている。 そして水色をした首飾りに同じくストーンの付いたブレスレットらしき物が二つ。 バレッタではなかったが髪飾り。 それらは全て子供サイズであり、傷がついていた。

ストーンの付いた紐を手に取る。

「紫色・・・」

ストーンに知識のない紫揺は何のストーンかは分からない。 だが、紫。

「これって・・・」

もう片方の手で服を手に取る。

「この服は日本の服じゃない?」

サラリとしている。 そしてこの日本では見たことの無いデザイン。

――― もしかして

「これを北の領土で着ようと思ったら」

再度セイハの言葉が頭に浮かんだ。

『殆ど寒冷地で春と夏は短いけどね。 それなりにあるよ』 そう言っていた。

「北の領土では短い間しか着られない」

そして単純に東西南北で考える。

「東なら・・・東の地なら、この服を着られる時が長いはず」

だが、たった一日でもこの服を着られる日があるのなら着るだろう。

「お祭りかなにかで着る服かもしれない」

北の領土で見た服はこういうデザインでも生地でもなかったが、季節が違えば生地も変わるだろうし、お祭りともなれば違ったデザインを着るかもしれない。
手に持っていたものを箱に戻すと、洗濯籠と共にそれを抱えて階段を降りた。

確かめる手は一つある。

洗濯籠を片付け和室の隅に箱を置くと玄関を出た。 数歩歩いて辺りを見回すがやはり誰もいない。

「あの・・・東の人っていう人、いませんか?」

回りくどい言い方である。

「御用でしょうか」

紫揺の後ろから声が掛かった。 振り向くと昨日家の鍵を受け取った男が、昨日と同じように俯き加減に立っていた。

「あ・・・昨日の人、ですよね?」

顔を見ることは出来ないが声に記憶がある。

「はい」

「あの、昨日はすみませんでした。 とっても失礼なことをしてしまいました」

軽く頭を下げる。 ヨシ、ちゃんと謝った。 あとで悔いなどしない。

「いえ、とんでもありません」

平静を装って返答をしたが、昨日の紫揺の様子からしても、少し前の紫揺の姿からにしても混乱が走る。

「あの、昨日家に来てくださった・・・お名前を忘れてしまいましたが、女の子。 その子を知りませんか?」

「此之葉でしょうか」

紫揺の家を訪ねたのは此之葉だ。 此之葉以外の誰も家を訪ねていない筈だ。 阿秀からはなんの報告も聞いていない。
だが此之葉より見た目小さく幼い紫揺に子供扱いされ、女の子と聞かされて疑問を持ってしまった。 もしかして誰か子供が紫揺を訪ねたのだろうかと。

「あ! そう、そう言ってらっしゃいました」

(此之葉か・・・)

複雑なものが頭の中をグルグルと回った。

「近くに控えております」

「来てもらえることは出来るでしょうか? その、お訊きしたいことがあって」

「すぐに呼んで参ります」

紫揺の声を聞いて控えていた野夜に目で合図を送る。 野夜がスマホを耳に充てた。

「すぐに参りますので家の中でお待ちください」

「・・・はい」

玄関の戸は開けておいた方がいいのだろうかと迷いながら、結局戸を閉めた。 サンダルを脱ぐと玄関から入ってすぐの台所に入り椅子に座った。

「イヤなやり方だけど・・・」

コレしかない。 それで違いが出るようなら東とかいうのは信じない。


『阿秀、紫さまが此之葉をお呼びです』

既に醍十は帰って阿秀も仮眠を終え、領主と此之葉と同じ車の中に居た。

「分かった」

スマホを切ると後部座席に振り返った。

「紫さまが此之葉をお呼びになられているそうです」

此之葉に言ったのではない、領主に向けて言った。
此之葉が身を強張らせた。

「頼むぞ、此之葉。 ある程度のことまでは言っていいからな」

念を押して言うが、それは既に車中で話していたことだ。

コクリと頷く。

既に車から降りていた阿秀がドアを開ける。 此之葉が車から降りると小さく息を吐き歩き出した。 窓ガラス越しに領主に目礼をすると此之葉の後に阿秀が続く。 数十秒で紫揺の家の前に着いた。

「阿秀」

悠蓮が阿秀に駆け寄ってきた。 此之葉が足を止める。

「何か変わったことはあったか?」

「いえ、何もありません」

「そうか」

そう言うと此之葉に目を向けた。

「では、此之葉、頼む」

領主に返したようにコクリと此之葉が頷く。 顔が強張っているのが見てとれる。 ここに醍十が居れば、アレヤコレヤと此之葉の気をほぐす何かを言うのだろうが、残念ながら醍十は居ない。

戸をノックする音が聞こえた。 すぐにサンダルを履き戸を開けた。

紫揺を見止めると此之葉が深くお辞儀をしたまま言う。

「此之葉にございます」

「あ・・・えっと」

固過ぎる。 でもそれに応えなければいけないか、呼んだのは自分なのだから。

「その、まずは私から謝らせてください。 頭を上げてください」

どういうことだろうかと、此之葉が頭を上げた。

「昨日は意地悪な言い方をしました。 ごめんなさい」

いつものように腰を大きく曲げて低頭する。
陰で見ていた阿秀がこれでもかというほど目を見開いた。 悠蓮は頤が外れそうになるくらい口を開けている。

「む! 紫さま・・・、藤滝さん! そのようなことは!」

「言い訳はしません」

低頭したまま言う。

「お、お願いでございます! お顔をお上げください!」

「外に居る人にも失礼なことをしてしまいました」

固すぎる相手にはこれくらい必要だと思った。

思わず悠蓮が出かけたのを阿秀が止めた。

「そんなことは御座いません。 どうか、お顔をお上げ下さい」

紫揺がゆっくりと頭を上げる。 でもそれは此之葉に言われたからではない。 自分の気が済んだからだ。 トウオウの言うところの “強情” がこれかもしれない。

「昨日あんなことを言っておいて勝手だと思われるでしょけど、お訊きしたいことがあります」

「はい。 私にお答えできることをお答え致します」

まだ心臓が爆発しそうだ。

「入って下さい」

紫揺が奥の部屋、和室まで歩いた。
玄関に立っていた此之葉はこれは入るだけではなく、家の中に上がるということだと理解した。

「お邪魔をいたします」

戸を閉めると靴を脱ぎ板間に上がる。 振り返って靴を揃える。 そこで息を整える。

「こちらにどうぞ」

座布団が用意されていた。

「失礼いたします」

台所を抜け和室に入ると座布団の横に座った。

「座布団を充ててください」

「有難うございます」

素直に座布団の上に座った。 今は必要以上の遠慮は邪魔をするだろう。

「お訊きしたいことは一つです」

「はい」

「東って、東の者って言ってらっしゃいましたよね?」

最初はそう言った。 だが紫揺がそれを嫌がったというのが分かって、それからは私たちと言っていた。

「はい」

「そこって、春夏秋冬はあるんですか?」

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