大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第102回

2022年09月30日 21時15分35秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第100回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第102回



マツリは四人のその働きに気づいている。 思い通りにとはいかなかったが、リツソに知られなかったからこそ邪魔が入らず、紫揺をなんとか石に向き合わせることが出来た。
そう、もう紫揺は石と向き合った。 初代紫からの声を聞いたのだ。 もう邪魔者のリツソが居ても何の支障もない。
だが・・・どうしてもすぐに諾とは言えない。

(・・・狭量な)

天井を仰ぎ見ると目を瞑った。 五つほど数えて目を開けると顔を戻す。

「先に姉上にご挨拶に行くよう」

「それくらい分かってる」

「世和歌、丹和歌、リツソの房に行ってリツソが居なければ探してくれ。 紫が房に来ると言えばすぐに戻って来よう」

“最高か” とて “庭の世話か” とて、リツソと過ごす時があるのならば、マツリと過ごしていてほしいと思っている。 だが言われてしまっては仕方がない。

「畏まりました・・・」

いつもの元気なく “庭の世話か” が部屋を出て行く。 途端小声で話し出す。

「どうすれば紫さまとの時を持っていただけるかしら」

「マツリ様もだけど、シキ様のお話をうかがった限りでは、紫さまはマツリ様を避けていらっしゃるでしょうし」

「今宵は車座ね」

円陣を組んでの作戦会議。

「ええ、彩楓と紅香が上手くシキ様にお話ししてくれれば少しでも進めるでしょうね」

「彩楓と紅香なら抜かりはないでしょう」

二人が目を合わせた。 その時に目の端に光ったものが見えた気がしたのは勘違いだろうか。

「あら?」

世和歌が振り返った。

「どうしたの?」

同じ様に丹和歌が振り返る。

「リツソ様の師よ」

キョロキョロと辺りを見回している。 リツソを探しているのが丸分かりだ。
二人が目を合わせ追いかけた。


「それと・・・悪いんだけど、使いっぱをして欲しい」

「・・・つかいっぱ?」

「あ・・・東の領土に行って欲しい」

「ああ、東の領土も心配していよう。 何か伝えることがあるか」

「この本は絶対読みたいし、あとのも気になるから・・・。 ちょっと分かんないけど、あと数日は帰らないからって。 でも元気だって」

ついうっかり “この本” と言った紫揺だったが、マツリにしてみれば “この本” と言ったのは “この書” のことだろうとすぐに分かった。 前後を考えるとそれくらいは通じる。

「承知した。 夕刻に飛ぶ。 それまで我は宮には居らん。 書で分からぬところがあれば姉上にお訊きすればよい。 リツソの房に師が居るからと師には問わぬよう」

「なんで?」

「五色の書は五色と領主に関係する者しか読むことが許されておらん。 他の者たちに口で伝えることも漏らすことも許されておらん。 読むのも五色のいる房と領主と関係する者の房だけにしか許されておらん。 心しておくよう」

「あ・・・分かった」

「彩楓、紅香、あとは頼んだ」

「畏まりまして御座います」

踵を返したマツリが部屋を出て行った。

「マツリ、どこに行くんだろ?」

「どこかは存じ上げませんが、特別なことがない限りは夕刻まで馬で出ておいでです。 これから馬でお出になるのでしょう」

「へぇー、そうなんだ」

夜行性のキョウゲンのことを考えて夕刻以前は馬で出ているのだろう。 そして特別なこととは、朝っぱらから、昼日中からキョウゲンで飛ぶことを言っているのだろう。

「キョウゲンで飛んでるのだけかと思ってました」

「そのようなことは御座いませんわ」

「ええ、そうでしたら民のことを分かりきれませんもの。 民は朝から働いておりますから」

そう言われればそうか。 夜に飛び回っても何も分からないか、と納得する。

「申し訳ありませんが、その書はわたくしがお持ちすることが出来ず」

五色に関係する書なのだから当然である。

「これくらい自分で持てます」

申しわけなさげに紅香が頭を下げる。

「シキ様のお房にご案内いたします」

彩楓が先を歩き、シキの部屋の前に並ぶ従者に紫揺のおとないを告げた。


シキの部屋に入ると、晒布でグルグル巻きにされている紫揺の掌が目に入った。
驚いた顔をしたシキ。

「どうしたの?!」

「ちょっと転んじゃいました」

“最高か” から木登りのことは言ってはならないと言われている。
太鼓橋で歩いていたのを見た時でさえ倒れかけていたのに、木登りなどと言うと、ましてやそれで怪我をしたなどと言うと、赤ん坊やシキの体調に障りが出てしまうかもしれないからと。

「まぁ・・・」

と言いながら、充分にシキに労わりの言葉をかけてもらった。
そしてマツリは今回のことをシキに言っていなかった様だったが、何かを感じているだろう。 ましてや泣いているところを抱きしめてもらったのだから。

シキにはあったことを全て話した。
東の領土で倒れた時のことはかなり軽めに伝えた。 でなければ必要以上に心配をするだろうから。
マツリの体勢などと要らないことは話してはいない。 マツリも見られたくない体勢だろうが、紫揺自身もそうだ。 たとえシキにでも胸を張って言えることではない。

「まあ、そうだったの・・・。 マツリったら何も言わないから」

プイッと顔をそむけると「今回のことに関してだけはマツリには感謝してます」とシキの言葉に添えた。

「ちゃんとそのことを伝えたの?」

尻上がりに優しく問うてくる。

「はい。 でも五色のことは任だからとか、先の紫のことの責だからとかって言ってましたけど」

「まぁ・・・素直じゃないこと」

ドタバタと回廊を走ってくる音がする。
チッと舌打ちをしたのは回廊に座る “最高か” そして何故か襖内に座る昌耶。

「シキ様との時を」

昌耶が憎々し気に口の中で呪詛のように唱えた。 案の定、回廊で「リツソ様!」と声がする。
バン! と襖が開けられた。
ほぼ同時に昌耶の前を伸び縮みする毛玉が走る。

え? と思ったのも束の間。 リツソが止める間もなく現れた。 開けたリツソより先に、自力で襖を開けることの出来なかった伸び縮みする毛玉が一気に走る。 衝立は避けられてある。

「シユラー!!」

リツソが叫ぶより先にカルネラが叫び、すぐに紫揺の身体を上り肩に止まったかと思うと、紫揺の首に手を回した。

「カルネラちゃん、元気だった?」

カルネラの頭を人差し指で撫でてやる。

「こら! カルネラ! 我より先にシユラの名を呼ぶのではない!!」

握りこぶしを振り回して部屋に入ってきた。

「まぁ、リツソ、お行儀が悪いわよ」

「姉上、我は今からシユラと勉学します故、シユラを我の房に連れ参ります」

「紫から聞いたわ。 でもその前に、母上にご挨拶をしたいそうよ」

「え? あ、では! では!! 我も一緒に―――」

「リツソ君は先に勉学を始めててくれる? 必ず後で行くから」

四方に挨拶をしなければいけないことは分かっているが今は仕事中。 それに領土のことで来たわけではない、そこを割って入ってまではと思う。 だから先に澪引に挨拶をと思った次第であった。

「あ・・・でも」

「ね、必ず行くから。 あれから勉学が進んだんでしょ? 沢山漢字が書けるようになった? それと・・・約分も分かった?」

開けっ放しの襖、回廊から “庭の世話か” が昌耶に頭を下げている。

「申し訳御座いません、お止めすることが出ませんでした」

そこにやっと師が息を切らせてやってきた。
師と “庭の世話か” が一緒になりリツソを探し始めた。 師から逃げていたリツソは “庭の世話か” も探しているとは思ってもいなかった。 その “庭の世話か” に捕まった。
するとマツリに言われた通り、すぐに紫揺が来ると言った途端リツソが走り出したのだ。 紫揺がシキの部屋に居ると思ったのだろう。 ビンゴだったが。

「あ・・・えっと・・・」

ヤバイの塊が水干を着ている状態だ。 誕生日を迎えるとこの水干が直衣や狩衣に変わるのだが、かなり無理があるだろう。 身長的にもおつむ的にも。
クルリと百八十度向きを変える。

「ま、待っておるからな! カルネラ行くぞ!」

「カルネラちゃんも一緒にお勉強してきてね」

「カルネラ、イッショにオベンキョウ、キテシテネ」

若干の間違いは指摘しないでおこう。 カルネラがスルスルと紫揺から下りるとリツソの後を追った。
急いで師に仰がなくては! ヤクブンとは何であっただろうか。 それに漢字。 走って部屋を出て行ったが、付け焼刃などリツソのおつむでは到底無理な話である。


シキの部屋で昌耶がいそいそと用意をしていたが、澪引の部屋を訪ねると同じ様に茶菓子が用意された。
いつ来ても澪引の部屋はゆっくりと時が流れるようだ。

「まぁ、マツリが紫を連れてきたの?」

部屋に入るなり紫揺の掌に巻かれていた晒布を見た澪引。 驚いた目を紫揺に向けたが

「こけたらしいですわ」 と、紫揺に代わってシキが言ってくれたので、「こけちゃいました」 と紫揺が重ねて言った。
絶対に木登りのことは言えない。

澪引は力の事を知らないとマツリが言っていた。 力の事に触れる必要はない。

「その、気を失っていて何も分からないんですけど、キョウゲンの力は借りていないみたいです」

「・・・と言うことは」

澪引がシキを見た。

「ええ、一つしかありませんわ」

馬に乗ってきたということだ。 それも二人乗りで。
澪引とシキの目と口が三日月のようになったのを紫揺は見ていない。 出された菓子に手を伸ばしている。

「進んでいそうなのかしら?」

「それは何とも・・・。 彩楓たちからは・・・その、申し上げにくいのですけれど」

「あら、なに? 言ってちょうだい?」

「二度目に眠りから覚めた紫がマツリをひっぱたいたと・・・」

「あら・・・紫がマツリをひっぱたいたのはこれで二度目ね」

「それが・・・今回は拳だったようですわ」

シキはその顔を見ている。

「・・・」

澪引とシキが話してくれていれば存分に菓子が食べられる。 シキの部屋でも菓子を出されていたが、シキと話すので精いっぱいで菓子に手を伸ばすことが出来なかった。 ここぞとばかりに次々と食べていく。

「それって・・・かなりということかしら」

「ええ、腹立てているのでしょう」

澪引とシキが紫揺を見る。 幸せそうに菓子を食べている。

「何とかならないの?」

「はい、その後の暮夜にマツリと紫の間でちょっとしたことがありまして」

紫揺が澪引に敢えて力の話をしていないことはシキも気付いていた。 シキもそのつもりである。

「暮夜!? 暮夜に何があったというの? まさか・・・マツリが!」

澪引の瞳が揺れている。 心配に波打っていると言ってもいいほどに。 マツリがとんでもないことをしかけたのかと問うている。 また紫揺を泣かせるようなことを。

「母上、その様なご心配は無用です」

「・・・え?」

「マツリと紫の間で・・・何と言いましょうか。 二人の関係以外のお話、紫が東の領土で気を失ったことのお話があったようです。 そのお話が終わるとマツリが紫を見守った・・・とでも言いましょうか」

力の話があったとは澪引に言えない。 これは領主の血を引く者の暗黙の了解である。 だがそれを肌で感じている澪引のことを、四方もシキもマツリも知らない。

「良かった・・・。 マツリは紫を・・・紫に、その・・・無いのね?」

「ええ、ご心配はいりませんわ。 わたくしとしては、それを切っ掛けにとは思っていたのですが、残念ですわ・・・」

「え・・・」

我が娘、なんということを考えているのか・・・。
だがこれが宮で育った者の考え方なのだろうか。 宮の女官たちも結構、武官や文官たちと、あんなことやこんなことを囁き合っているようだが、辺境で育った澪引には考えられない事だった。

「お茶のお替わりをしてもいいですか?」

唐突に紫揺の声がした。
菓子を食べ過ぎて喉が渇いたようだ。

「あ、ええ。 お替わりね。 同じものでいいかしら?」

「はい」

元気よく答える二十三歳。 『うん』 と言わないだけマシだろうが、菓子に対してはほぼほぼ小学校低学年の域であろうか。

ふと菓子の置いてあった大皿を見るとかなり減っている。

「紫は菓子が好きなのね」

「そう言えば築山で初めて紫とお話していた時も菓子を食べていたわね」

懐かしそうにシキが微笑む。
築山では大皿ではなく小皿に菓子が置かれていた。 小皿の菓子を紫揺が食べ干すから、シキの小皿を紫揺の前に置いた。 話が長くなりお替わりの茶と菓子を出される度に紫揺が菓子の皿を空にするから、シキに出されていた菓子が入った皿を紫揺の前に置いていた。

「えっと・・・東の領土ではあんまりお菓子がないんです。 それに此処のお菓子は日本のお菓子と似ていて・・・あっと、別に日本が恋しいわけじゃないんです。 ただ好きなだけです。
此之葉ちゃんが・・・東の領土で日本のことを知っていてくれている人が、頑張って私の食べたいものを作ってくれているんですけど、ここのお菓子はそれと違って・・・なんて言えばいいのかな。 えっと特に食べたいんじゃなくてただ美味しいっていうか・・・」

高校時代、体重管理が必要だった。 だけれど菓子が食べたい年齢でもある。
クラスメイトが風紀の教師に見つからないように、鞄に忍ばせて美味しいものを持ち寄っていた。
それをちょくちょく頂いていた。

『昨日、駅前で買って来たの』 それは甘いお手製のクッキー店のものだった。
『近所のお土産でもらった。 食べきれないから』 サブレであった。
『いや、これ神。 いい店見つけた』 絶品な金平糖だった。
此処で、宮で出される菓子はそれらの味に似ている。

「・・・紫」

シキではなく澪引が零した。

「辛いわね」

「え? そんなこと全然。 あの、大丈夫です」

「紫は・・・心の内を分かっている?」

「え・・・」

澪引が口の端を上げた。 悲しい目をして。

「四方様から紫が遠い所に居たことは聞いているわ。 それがニホンという所なのね?」

澪引は具体的に紫揺がどう生活していたのかを知らないようだった。 それは四方も然り、マツリもシキもだろう。
だが澪引は漠然としか四方から聞かされなかったのだろう。 どうして紫揺が日本に居たのか、そんなことまで知らないのだろう。

「あ・・・はい」

シキが目を眇(すが)める。

「生まれ育った所・・・そこの生活が当たり前だと、皆がそうだと思っているわ。 何もかもを。 ええ、菓子もそうよ」

そこまで言うと澪引がフッと笑む。

「わたくしは菓子を食べて驚いたの。 こんなに美味しいものがあるなんて、と。 わたくしが育った辺境にはこのような甘い物はなかったから」

「澪引様・・・」

「紫は逆なようね。 いつでもいらっしゃい、菓子を食べに」

「澪引様?」

澪引が言った『心の内』 それは菓子に対してでは無い。 澪引は『辛い』 と言った。

(母上・・・)

「澪引様・・・はい、えっと・・・心の内。 ・・・分かってないかもしれません」

澪引とシキが紫揺を見る。

「東の領土にいてみんなが優しくて、心配してくれて。 それでも自由にさせてくれて。 ・・・私の心の内はきっと・・・言われて気付きました。 まだ日本にあるのだと思います。 多分」

あの日、紫揺の育った家を出る日、日本を離れるに際して電話をした。 それはたった三人だった。 自分の歴史はそんなものかと思った。
思い出は限りなくある。 沢山ある。 それらは全て言葉を選ぶ必要のない会話。 それが心の内にある。
立場や場所がどう変わろうとも。

「でも日本に居たら、これ程に人と接することは無かったと思います。 日本への想いは欠片となってきています。 日本であったことを忘れたくない、欠片にしたくないと思うのに、それがいけない事と分かっているのに・・・いけない事なのかなって思ってしまったり。 自分の心の内が分からなくなります。 澪引様が仰ったように辛くなる時があるのかもしれません。 東の領土のみんなに感謝してるのに、日本でのことが無意識に頭をかすめるし・・・だからチョコレートとか言ったりしてしまうし」

「紫・・・」

澪引ではなくシキがポツンと言った。 チョコレートの意味が分かったのではないが、紫揺が言わんとすることが分かる。

「そう・・・そうなのね。 紫も頑張っているのね」

(紫も?)

どういうことだ?

「母上?」

澪引が静かに首を振る。

「わたくしも紫を見習うわ」

「え? 澪引様?」

「紫はまだ東の領土の五色として迎えられて年が浅いというのに、わたくしよりもずっと辛苦を飲んだのね。 わたくしは・・・四方様に甘え過ぎていたのかもしれないわ」

「母上?」

辺境から宮に輿入れをした。 生活は一変した。 その中で三人の子を産んだ。 上の二人は手を掛けずとも育った。 澪引がしたことはせいぜい乳をやるくらいだった。 その二人が澪引の手を離れ四方と話をする。 全く分からない話だった。 それが辛かった。

「心の内にあるものは温かな思い出。 それを礎にして今があるのよね。 辛いなんて我儘でしかなかったのかしら」

「・・・そうかもしれません」

澪引に言っているのではない。 自分自身に。 東の領土のことを想う。

「いえ、きっとそうです。 あんなにみんなに大事にしてもらってるのに」

澪引が微笑んだ。

「わたくしは何十年我儘だったのかしら」

「母上・・・」

「紫、ありがとう」

「澪引様・・・」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第101回

2022年09月26日 21時23分49秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第101回



「まだお目覚めになられそうにない?」

「ええ」

「お茶をお飲みになられたのかしら」

襖に耳を寄せていた世和歌が丹和歌に答える。

「でも、それにしても・・・」

今日も紫揺が起きるまで起こさないようにとマツリに言われていたが、昨日に引き続き昼時を十分に過ぎている。
そこに “最高か” が戻ってきた。

「どうでした?」

「ええ、まだご存じないご様子だったわ。 今も師から逃げられていただけだったわ」

「シキ様がご協力して下さっているのが大きいのかしら」

「そうね。 でなければ紫さまの匂いがするとか何とか仰られて、探されているかもしれなかったわ」

「とにかくリツソ様に紫さまのことが分からないようにしなければね」

マツリが特に言ったわけではない。 だがマツリが思ったようにこの四人は紫揺に関することをよく知り、マツリが言わずとも誠に良く動いている。

今の紫揺の状態にとってリツソが邪魔になるのは分かっている。 いや、ハッキリスッキリ言って、今の状態でなくともリツソが居れば何事もややこしくなるだけだ。 だから以前に紫揺が来た時も、リツソに気取られないように紫揺を東の領土に返した。

「では、わたくしはあちらの角に、あちら側は紅香が見ていて」

「ええ、お任せを」

“最高か” が二手に分かれて角の見張に立つ。 女官が来ればすぐに “庭の世話か” とともに部屋の前に座す。
女官にはマツリの客を接待しているように見せなくてはならない。 マツリの手伝いとしての顔をして。 上司である真丈(しんじょう)にそう言ってあるのだから。

『あら、またマツリ様のお手伝いですか?』

『はい。 女官としてのお仕事を―――』

『全くお気になさらずっ、ええ! マツリ様のお手伝いをなさいませ。 それもしっかりとっ!』
最後まで言わせずに真丈が言った。

真丈がマツリに女官の従者を付けたがっているのは知っている。
前回、紫揺が倒れた時にマツリに付くという形で紫揺に付いていたが、その時にもどちらかと言うと『頑張りなさいませ、しっかり女官がどれ程役に立つかを見ていただくのですよ』 と言っていた程だった。

ここは客の部屋になるのだから普通に女官として “最高か” と “庭の世話か” が客の世話として回廊に座していても可笑しくはないが、リツソの目から少しでも逃れるためには少しの噂も立てられたくない。 誰にも疑いの目が向けられないよう、部屋の前に座している時は極力人目を忍んでいる。
だから女官以外の者がくると、見張に立っていた者が大慌てで戻って来て四人で隣の部屋に隠れている。

バサリ。

部屋の中から布団をめくる音がした。 けっこう荒々しく。

“庭の世話か” が “最高か” に手招きをする。 “最高か” が “庭の世話か” の隣に座する。

「お目覚めで御座いましょうか」

・・・え? 襖の外からの声に、口の中で薄く声がしただけ。 外に漏れることは無かった。

返事はないが起きたのは間違いない。 しっかりと布団をめくる音がしたのだから。 まだしっかりと目覚めていないのだろうかと思いながらも「失礼をいたします」と言って四人が部屋に入り、衝立の左右に楚々と座し手をつく。
ひぃ、ふぅ、みぃ。 それぞれが心の中でカウントする。 そして同時にバッと顔を上げた。 勢いよく紫揺がいるであろう寝台に駆け寄ろうと。

「あ・・・」 と二重奏。
「え・・・」 とこちらも二重奏。

カルテットが割れてしまった。

寝台の上には紫揺ではなく、括られていない髪の毛をかき上げたマツリが上体を起こし四人を見ていた。

「し! 失礼をいたしました!!」

「あ! おい、待て!」

ピシャリと襖が閉められた。

「まさか・・・こんなこと」

「ええ、まさか、あんなこと」

「いいえ、まさか、そんなこと」

「ええ、拳で殴られたのよ」

それがつい先日のことではないか。

「それに紫さまは」

「ええ、何もご存じないわ」

「それではもしかして・・・」

「押し倒され、た・・・?」

四人が恐ろしいものでも見るかのように、手を取り合って襖をかえり見る。
だがあの一房の三つ編みは何だろう・・・。

寝台の上ではマツリが膝に肘を置き額に手をあてている。 銀髪がサラリと前に落ちてくる。 それと共に一房の三つ編みも。

「迂闊(うかつ)だった・・・」


「ああ、ようやっとお会いできました」

明るい声が回廊を曲がってきた。

「お探ししておりました」

「・・・杠殿」

どうしよう、という目を四人が合わせる。

杠によると、ここに座しているはずの四人が居なく、早朝から四人を探していたが見つからなかった。 始業の太鼓がなり仕方なく仕事に就いたが、遅くなった昼休憩にもう一度ここに来てやっと会えたという。

それはそうだろう。 人目を忍んでいる四人だ。 杠だけなら隠れることもないが、朝の内は誰かと回廊を通る。 運悪く身を隠していた時に杠が見に来ていたのだろう。

「あ、あの、紫さまは・・・」

この部屋の奥でマツリ様と一緒に寝台に居られてございます、などと言えたものではない。

「ええ、紫揺・・・紫さまでございますが」

「や! あの! どーぞ、その! お気になさらず!」

「え? ・・・気にしなくてはならないと思うので御座いますが?」

「いえ! いいえ!! お気になどっ! そんなっ!」

「その、夜衣が破れてしまいましたので」

首を傾げながら杠が言う。

「や! 破れた!?」

一瞬にして顔色を青くした四人が目を合わせる。
マツリが紫揺を押し倒したあと・・・。 やっぱり、まさか・・・。 無理矢理に・・・。 あんなことやこんなことや・・・。

「騒々しい」

襖が開いたと思ったら狩衣姿のマツリが部屋から出てきた。
下してあった髪の毛は高く結ばれている。 跡形もなく三つ編みの姿は消えていた。
茶器の横に昨日結んでいた丸紐が置かれてあった。 寝てしまったマツリの髪の毛から紫揺が外したのだろう。 そして三つ編みの犯人は紫揺だろう。 手近にあったのだろう細い紐で括られていた。

あっ! 小さく四人の声が漏れた。

「今までお休みで御座いましたか。 お顔の色が随分とよろしくなられたようで」

(お顔の色が随分とよろしい・・・それは・・・ああなって、こうなったから)

四人の心の内は同じことを考えている。

「そんなに悪かったか?」

「ええ、何度か申し上げましたのに聞いていただけず。 よく寝られましたでしょう」

(よく寝られた・・・やることやって、あ、お下品な。 とにかく疲れたからよく寝られたということ。 ・・・疲れたから・・・)

一語一句狂わず四人が同じことを考えている。

「紫は?」

「我の部屋に休ませました。 ご心配なく、我は従者の休憩房で寝ましたので」

(は? なんのこと?)

「心配などしておらん。 そうか、杠がゆっくりと休めておらんか」

「いいえ、そんなことは。 月を見ておりましたら偶然に紫揺と会いまして、ゆっくりと話が出来ました」

「そうか、それは良かった。 昨日会わせた時にはずっと泣いておっただけと言っていたからな」

「まさか紫揺がマツリ様に茶を淹れるなどとは。 ですがそのお蔭で休んでいただくことが出来たかとおもうと、何がどう転ぶか分からないものです」

(茶? 茶? 紫さまがお茶を淹れられた? マツリ様に? どういうこと・・・?)

杠の言う紫揺というのは紫であるということを四人は知っている。

「迂闊だった。 己で言っておきながらすっかり忘れておった。 その上、やはり疲れておったのだろうな。 すぐに効いたようだ」

「宜しいでは御座いませんか」

「あ、あの? お茶をマツリ様が飲まれたと?」

「ああ、紫が淹れてくれると言うので、うっかり飲んでしまった」

「あの眠り薬の入ったお茶を・・・で御座いますか?」

紫揺をこの部屋で眠らせる随分と前にキョウゲンにあの石、紫水晶を取りに行かせていた。 キョウゲンが戻って来次第、あの石を持って紫揺のいる部屋を訪ねる。

紫揺が冷静に石に向き合えるか、それともまた泣いて終わるか、それが分からなかった。 それにそれ以外のどんな状況になるかも、身体の具合も想像できなかった。 だから興奮するようなら、茶を飲まそうと思っていた。 その茶に眠り薬を入れるよう四人に言っていた。

「ああ、よく効くものだな」

へなへなと四人がその場に崩れ落ちた。

「どうした?」

あっと杠が気付いた。

「そのような心配をされておられたのですか?」

コクリと四人が頷く。

くっくっと笑いながら杠が続ける。

「マツリ様が眠られた後、紫さまが木登りをされて松の木肌で夜衣を破かれてしまいました。 今もそのままのお姿です。 我の房に居られますので替えの衣装をお願いできますでしょうか」

「まあ! 木登りなどと! お怪我は!?」

四人が飛び起きる。

「掌を擦りむいておられます。 夜衣のままでしたので、朝になっても医者房にお連れ出来ず、綺麗に洗い流し手巾を巻いたままでございます、着替えられてから医者か薬草師に診ていただいた方が良いか・・・と」

杠の言葉を最後まで聞かず四人が走って行った。
その姿をマツリと杠が目で追う。

「あれらは・・・」

「はい?」

「段々と紫に似てきたか?」

女官が走るなどと。

「言われてみればそうかもしれません」

二人が目を合わせると、どちらともなくフッと笑いを漏らした。

走り去る四人を見送ると勾欄に手をかけてマツリが言う。

「今日は久しぶりに思い切って鍛練が出来そうだ」

マツリが言うように毎夜の鍛練はマツリの顔色の悪さから杠は思い切ってできず、マツリ自身も不調は感じていた。

「紫揺を放っておいてよいのですか?」

「これから東に戻ると言えば戻す。 まだ居ると言うなら好きにすればよい」

「五色の力の事をもっと知りたいと言っておりました」

月夜の下での会話を思い出す。


『危ない、降りておいで』

『なんともないよ。 こっちの方がお月さんに近いし』

紫揺の足が丸見えでブラブラとしている。
宮の者からすれば考えられない事だったが生憎と杠は辺境育ち。 辺境では今紫揺がしているように、着ているものをたくし上げて川や井戸で洗濯をしている。 それにもう、坊でなくなりマツリの手足となってからは、地下に入る前にあちこちで色んな女を見てきた。 宮都から遠い他の都に行けば、足に限らず乳すら出して赤子に乳を飲ませていた。
足など今更である。

『怪我をしたらどうする』

『怪我ならもうした』

驚いてすぐに杠も木を登った。
見せられた掌は松の木肌でこすれた痕があり、真っ赤になったり血が出ているところもある。 血が出ているところに木肌の欠片が刺さっている。

『すぐに洗い流さねば』

『いいよ、これくらい。 ね、それより此処に猩々朱鷺が飛んで来るの?』

『此処に? ・・・ここでは見たことが無いが・・・どうして?』

『え? そうなんだ。 マツリが赤トキっていったから、猩々朱鷺のことかと思って』

元飼育係。 図鑑でしか見たことがなかった。 本物が飛んでいるのなら是非とも見たかった。

『あかとき?』

『うん』

少し考えて紫揺の言いたいことが分かった。

『それは・・・明時とはこのような刻限からそうだな、払暁迄のことを言う。 残念ながら鳥の朱鷺のことではないな』

『ふつぎょう?』

『分かりやすく言うと明け方だ』

『なんだ。 猩々朱鷺のことじゃなかったんだ』

『とにかく下りよう。 傷のあとが残っては大変だ』

『残らないよ、これくらい』

段違い平行棒で破けてしまった大きなマメは、当時、まるで魚の目のような形で残っていたが、今は見事に痕形を残していない。

『ではその血が衣裳に付いたらどうする?』

『あ・・・』

杠はしっかりと狙い所を知っている。

『血は簡単に落ちんぞ?』

『そっか』

立ち上がった紫揺だったが、その時にたくし上げ尻に敷いていた裾部分が木肌に引っかかって破れた。

『血、程度ではおさまらなくなったようだな』

『借り物なのにぃ・・・』

『これに凝りて木登りは止める方がいいだろうな』

それから木を跳び下りると水で手を洗い、掌に刺さってしまっていた木肌の欠片を丁寧に取り除いた。
その後、杠の部屋に戻り色んな話をした。

(あの塀を跳び下りるくらいなんだから、あの高さの木も平気だったか)

地下の城家主の屋敷の周りに有る塀を跳び下りた紫揺だったが、松の木の枝はそれより少し高かった。
先に跳び下り、下で紫揺を受けとめようと思っていたが、しっかりと断られた。
『平気、一人で下りられるから』 と。


「出来ることなら書を読みたいと言っておりました」

「書?」

「マツリ様が何度か口にされたという書で御座います」

「ああ、あれか。 ふむ、分かった。 杠はこれから昼餉か?」

回廊でそう説明しているのを耳にしていた。

「はい」

「では我もそうしようか。 腹が減った」

同じ部屋で食べるわけではないが途中まで二人で回廊を歩いた。 杠が一歩下がって歩いているのは言うまでもないし、それを気に食わないという顔をしているマツリの様子も言うまでもない。
そのマツリの頬にあった痣はすっかりなくなっていた。

杠の部屋で着替え、すぐに医者部屋に連れて行かれた。 医者が手巾を取ると傷が入り掌は真っ赤になっていた。
ここでも “最高か” と “庭の世話か” が驚き泣きだしたのは言うまでもない。
湿っぽい中、遅くなった昼餉を終わらせると、紫揺の目の前にドンと何冊もの書が置かれた。

「我が言っていたのは一番上の書。 他は・・・読んでおく方が良いだろう。 その気があればだが」

「こんなに沢山読みきれない・・・」

これを全部読んでいたら東の領土に帰るのが遅れてしまう。

「無理にとは言っておらん。 それに・・・一度に読まずともよい」

「どういうこと?」

「時折宮に来ればよいことだ。 言ったはずだ本領は五色の郷である、と。 宮が五色のことを教えるのは任であると」

「・・・」

複雑だ。 マツリとのことを考えると此処になど来たくない。 けれど読んでおく方がいいと言われれば気になる。
東の領土の山での、あの時のことを忘れたわけではない。
でも、あの夜マツリが来てくれてどれ程心が支えられたか、マツリの手が身体が温かかったか。 それも忘れてはいない。

あの夜、自分があんな風になったのは、別の見方をすればマツリのせい。
マツリが紫水晶を持ってきたからだ。 だから不安ばかりで自分の身体が思うようにならなかったのはマツリのせい。
マツリが現れたからといって、マツリが頼らせてくれたからといって、言ってみれば当然のことである。

だが・・・初代紫と話をさせてくれたのはマツリ。 これから民に降りかかるであろう厄災があると教えてくれたのはマツリ。 

「・・・借りは返す」

マツリが小首を傾げた。

「借り?」

紫揺が一番上の本を手に取ると立ち上がった。

「石のことを教えてくれたこと」

「別に貸しなどとは思っておらん。 言ったであろう、五色のことを教えるのは任だと」

「マツリがどう思おうと好きにして。 本・・・書を借りたり、宮に泊まらせてもらってるからまた新しい借りが出来るけど、それでも少しずつ返していく」

マツリが溜息を吐いた。

「好きにせい」

「彩楓さん、リツソ君のお部屋・・・お房に行きます」

客間の襖前に控えていた “最高か” と “庭の世話か” が驚いた顔をした。
マツリがピクリと眉を撥ねる。

「紫さま・・・その、リツソ様はいま勉学をされておられますかと」

「それならそれに越したことは無いんですけど、お房にいなかったら一緒に勉学が出来ないから、一緒に探してもらえますか?」

「リツソと勉学をするということか」

「前みたいに教えない。 リツソ君のお房でこの書を読んでるだけ。 たぶん私が居ればリツソ君も逃げないでしょう?」

「マツリ様、どういたしましょう」

これまでずっと紫揺が宮にいることをリツソに知られないようにしてきた “最高か” と “庭の世話か” だ、そう思うのは当たり前だろう。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第100回

2022年09月23日 21時10分48秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第100回



紫水晶の力を身体の芯で感じる。 この虚脱感はその力についていけていないのだろう。
紫水晶の力を感じるということは、やはりマツリの言うようにこの石は自分の為にあった石なのだろう。
認めるしかない。

―――民に厄災など及ぼしたくない。

もし自分が嘆き悲しんだら、怒ったら、怖がったら、妬んだら、この紫水晶の力があれば山の一つも崩すかもしれない。

「いま紫の身体は力が入らんだけか」

「・・・うん。 多分」

「石に何かを感じるか」

「漠然とだけ・・・すごい力。 その力に、押されて・・・かな。 力が入らない、感じ。 よく分んない、けど」

「そうか。 では今、紫の瞳がどんな色をしておるか自覚があるか」

「え・・・。 黒・・・」

「何故か」

「・・・なにも思ってない、から」

「残念だが違う。 紫の瞳は我がこの房に入って来た時から紫の色をしておる。 この石によって紫は無意識にその力を出しておる。 紫の瞳の力を」

「・・・私の紫の力は・・・添いたい・・・心、に添いたい。 ・・・そうじゃ、ないの?」

「ああ、そうだ。 その想いで紫は北の者にも耶緒にもその力を施した。 間違いはない。 己の頭で何をも否定するのではない、それが怖れに繋がることもある。 何度も言う、この石の力を扱えぬうちは腹の底の想いに蓋をせよ。 よいな」

「うん・・・」

「紫の持つ力の想い、それは今置いておく。 よいか」

「・・・うん」

一呼吸置くとゆっくりとマツリが続ける。 紫揺の頭が混乱しないように噛み砕いて子供に聞かせるように。

紫の力は赤と青の力が合わさったものでもある。 という事は基本に赤と青の力があるということである。
赤の力は夏であり、火を操る。
青の力は春であり、風と雷を操る。
異(い)なる双眸の時には赤と青の力を同時に操れるが、それは単なる赤と青の力。
紫の瞳になるとこの力を良くも悪くも破壊的に操れることになる。 だがそれは操る者の考え方や理解によって随分と違う。
今の紫揺は紫の瞳になっているのに自覚が無い。 それはとても恐ろしいことだ。

「恐ろしいと言っても怖れるのではない。 自覚せよということだ。 分かるか?」

「・・・うん」

マツリの声が上から降ってくるが、声の響きが背中から肩から後頭部から感じる。 耳から聞こえてくる声よりずっと深く包まれるように。

「自覚が無ければその気も無いのに力を発してしまう」

間をおいてから続ける。
石に心を寄せよという。 石の力に押されるのではなく、その力を受け取り愛でるように。

「・・・め」

「うん?」

「ちょっとの、間・・・目、瞑って、いい? ・・・寝ない、から」

無意識にマツリが笑んだ。

「ああ。 寝るなよ」

紫揺なりに石と向かい合おうとしているのだろう。

瞳を閉じると瞼の裏に紫煙のようなものが見える。 もわもわと。 もわもわが徐々に濃く、そしてどんどん広がっていく。
瞼の裏が広がっていく。 狭い顔の中の眼球を覆っている瞼の裏ではない。 どこまでも広く果てが無いように。

赤みを帯びた紫になったかと思うと、次には青みを帯びた紫に。 そして均整の取れた美しい紫に。 それを繰り返し、まるでオーロラのようにひだを作り揺れ輝きだした。
そしてより一層濃くなったもわもわは、もうもわもわとは感じない。 まるで絵筆で塗ったようにしっかりと綺麗な紫色をして、ずっと広くそして奥行きを感じる。 目の前を、宇宙の果てまでを、一色に染めているように。

『・・・紫』

耳朶ではない。 頭に響いた。 マツリに後頭部を預けているマツリの声の響きではない。

『・・・我が名は紫』

重く威厳のある声。 何事にも左右されない、毅然とした迷いのない声。

『・・・東の五色の・・・紫さま・・・』

問うつもりではなかった。 心の中に思っただけであった。

『・・・然り』

思わずつぶやいた心の声が聞こえたのだろうか。

『わらわの声を聞く者』

“声を聞く者” ・・・それは自分だろうか。 それは余りにおこがましい。
だが思考が勝手に応じた。

『はい・・・』

『わらわの大事子』

『・・・はい』

『よく聞くがよい。 大事子、その身を滅ぼさせぬ為、わらわはこの石にわらわの力を宿らせた』

『はい』

『わらわの力を取り違えるではない。 わらわの力は嵐のような力を抑える為にのみぞある。 決して取り違えるではない。 その上でわらわを受け入れよ。 そなたの力となろう』

『・・・どうしたら、どうしたらいいのですか? それに受け入れた後、私はどうすればいいんですか?』

『わらわを信じよ』

『信じる・・・』

『わらわはそなたの為にある。 わらわの大事子、そなたの為に』

目の前に広がっていた絵筆で塗っていた紫色が徐々に薄くなっていく。 そして真っ白になり、その白さが徐々に黒くなっていった。

ゆっくりと瞼を開ける。

紫揺の両手には紫水晶があり、その手をマツリの手が包んでいる。
包まれている手に力を入れてみた。 力が入る。 ゆっくりと自分の手を持ち上げる。 マツリの掌から紫揺の手の甲が離れる。

マツリが紫揺の様子をじっと見ている。

紫水晶を目の高さまで持ってくる。
大きな紫水晶。 飾り石職人がこの石を見つけた時に睨まれたと言っていた。
自分を待ってくれていた。 初代の紫が。

初代紫と話したとて自分にそんな力があるとは思えない。 それは決して初代紫が言ったことを疑っているわけではない。
たぶん・・・自信がないだけ。 そこまで思われる自信がないだけ。 みんなに心配をかけるほどの力など無いと思うだけ。

目を瞑る。 大きく息を吐く。
そんなことを思っていては駄目だ。 自信がないからと自分の力を軽んじては。
自分は初代紫の・・・大事子。

初代紫の声は重く威厳があり、何事にも左右されない迷いのない声だった。 自分のように情けなく心を揺らせ、無様に泣いたりしなかったはず。

どこかで誰かに聞いた。 本領から独立した当初は今のように平和な東の領土ではなかったと。
あの初代紫の威厳のある声が民を導き、そして厄災から自然から民を守ったのだろう。
改めて紫と言う名の重みを感じる。

もう一度目を開け紫水晶を見る。

(初代紫さま、どうぞお見守りください。 紫と言う名に恥じないよう、民を守ってゆきます。 紫さまのお力添えを信じています)

紫水晶が一瞬、輝いたように見えた。 次の瞬間、放射線状に紫の光がほとばしり、部屋の中を紫色に照らす。
鮮やかであり、心安らぐ紫色。

ずっと紫揺の様子を見ていたマツリが驚いた顔をし、部屋の中を見渡す。
マツリが首を左右に振るだけでその振動が紫揺に伝わる。

「初代紫さまがお返事をしてくれたんだと思う」

首を巡らしていたマツリが紫揺を見下ろす。

「石と・・・初代紫さまと話が出来た」

段々と部屋の中から紫の光がおさまっていく。 最後に紫揺の手の中にある紫水晶が輝いてそれっきりとなった。

「・・・そうか」

「やっぱり私だったんだね」

「紫・・・」

「ずーずーしいけど、私、力があるみたい。 それを認めなくちゃいけないかも。 うううん。 認める」

「そうか」

「初代紫さまの大事子だって」

大事子 “だいじこ”。 大事な子。
フッと紫揺が笑うように息を吐いた。
本当にだいじこだ。 あのまま日本に居れば何も知らずに済んだのかもしれないのに。 “大事故” にあったようなものだ。
でも・・・後悔はない。

「・・・マツリ」

脈動、膨張と収縮、体が熱くなり息がしにくくなった。 恐かった。 何がどうなっているのか分からなかった。 不安で恐くて震えて・・・。

「なんだ」

「ありがとう・・・」

マツリが教えてくれた。 支えてくれた。

紫揺が言ったそれっきり何も動かなかった。
真空の中に居るように空気さえなく、何も伝わってこなかった。
そんな時が続いたあと、紫揺の身体が小刻みに左右に揺れゆっくりと後ろに倒れた。
マツリが手を後ろにやり上半身を倒したから、もれなく紫揺の上半身もついてきたというものだ。

「五色の郷の本領の任であり、先(せん)の紫にあったことへの責を果たしただけだ」

マツリは言っていた 『皆それぞれに生まれ持った何かの力を持っておる』 と。 マツリは不思議な力を持っているが、本領領主の息子という責任をも肩に乗せている。

紫揺も五色としての力と責任はあるが、誰もが気にかけ手を携えてくれる。 でもマツリは誰に頼ることも出来ない。

トウオウも言っていた。 『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ』 と。
自分だけじゃないんだ。 それに・・・マツリはもっと大変なんだ。

「落ち着いたか」

「うん・・・」

「身体の具合はどうだ」

「もうなんともない」

「石と・・・初代紫と話せたのだな」

「うん」

「紫がこの先どうしていかなければいけないのかは分かったのだな」

「うん」

「では・・・」

“では” で止められて後がない。 なんだろう。

「なに?」

「明時だ」

「あかとき?」

あかときとは、赤トキ。 赤い色をしたトキ。 猩々朱鷺(しょうじょうとき)。

マツリが軽く眉をひそめると、紫揺が納得する様が見えた。 それなのに紫揺が動かない。どういうことだ。
そう言えば塔弥が言っていたか、と気付いた。 日本の言葉が分からない時があると。
紫揺と睨み合っていた時には無かった事だ。 相手を罵る時には言葉の壁がないのか、怒りに任せている時にいちいち細かい言葉まで気にしなかったのか。

紫揺の言う言葉がマツリには分からない時があった。 今こうして反対も然り。

今度東の領土に行き、此之葉の妹という葉月に訊いてみようか。 ある程度の意味は分かるが、具体的に “むかつく” とはどういう意味なのかを。

「飛んでるの?」

何が飛ぶというのか。 己の言葉の間違いがどこにあった。
言い変えよう。

「いつまで、もたれておる」

「うん?」

紫揺が顎を上げてマツリを見上げた。

「あ・・・」

保安灯となる小さな光石にうっすらと照らされたマツリの顔。

「マツリ・・・顔色悪い」

「そのようなことは無い。 光の加減だろう」

「そんなことない」

ガバリと紫揺が起き上がり方向を変えた。 紫水晶を横に置くと膝をつきマツリに向き合い、胡坐をかくマツリの足に手を置いた。

マツリがドン引く。

「寝てる?」

紫揺が本領にきてから寝ているわけがないはず。 “最高か” と “庭の世話か” からそう聞いている。
昨日と今日はここで寝ているが、本領に運ばれて来てからは以前のようにマツリの部屋に寝かされていたのだから。

「我のことは紫には関係の無いこと。 紫が―――」

「寝てない?」

「いや、だから。 我が寝ようが寝るまいが紫には―――」

「顔色悪すぎ。 ゾンビみたい」

「は?」

ぞんび?

「あ、キョンシーか」

「は?」

きょんしー?

「どっちもか」

「何を言って―――」

「私は沢山寝たからココ譲る」

そう言うとほぼ四つん這い状態だった身体を立ち上げ、紫水晶を持つと寝台から下りた。

「はぁ?」

未だに足は胡坐をかき後ろに手をついているマツリが、寝台を降りた紫揺を見上げる。

「マツリの部屋・・・房に戻るまで歩かなくちゃいけないでしょ?」

マツリの部屋の場所は分かっている。
宮内は広い。 ましてや客と迎えられたこの部屋から、顔色を悪くしているマツリの部屋は遠い。

「途中で倒れられても困るし」

「そのようなことは無い」

後ろにしていた手を前に引く。 胡坐を組んでいた足を寝台から下ろす。 そして立ち上がる、はずだった。
だのに僅かに上げた腰をドンと寝台に落としてしまった。

「大人しくしなさいって」

立ち上がりかけたマツリを紫揺が押したのだ。

「なにをする」

「大人しく寝てなさいって!」

「何ともないと言っておろうが!」

一度も “何ともない” とは聞いていないが?

「・・・分かった」

「紫が落ち着いたのであればそれで良い。 あとのことは明日考えよう。 今日はこれまでだ」

「そう、分かった」

「紫・・・」

「なに」

「よくやった。 よく堪(こら)えた」

「・・・は?」

「苦しかったであろう、悲しかったであろう、痛かったであろう・・・我にはそれが分からん。 紫一人でよう堪えた」

「マツリ・・・」

一人なんかじゃなかったんだ。 それに一人だったら何も出来なかった、知る術もなかった。
マツリが居てくれたから、マツリが教えてくれたから。 マツリが見守ってくれてたから。

はっと思い出した。
『一人ではない』 何も分からなくなって泣きだした時だ、マツリがそう言った。
あの時はニョゼやトウオウ、東の領土にいる塔弥や此之葉、葉月やお付きたち、民たちのことだと考えた。
でもマツリはそういう意味で言ったんじゃなかったんだ。
『一人ではない』 と言うのは 『マツリが居る』 という意味だったんだ。

「お茶・・・淹れる。 それだけは飲んでって」

夜中に喉が乾いたらと、茶の用意を置いてくれている。


マツリの銀髪を括ってあった丸紐を解くと、紫水晶の横に置いた。


誰も居ない。
部屋から保安灯として置かれていた光石を手に持って回廊を歩いている。 回廊には紫揺が歩く度、光石が点灯するから保安灯代わりの光石が要るわけではないが、他の目的があって手に持って出てきた。

回廊から小階段を下りて履き物を履く。 しばらく歩いた先に光石を掲げると何度か見ていた木の枝を照らす。

「助走をつけたらいけるよね」

当たりをキョロキョロするが回廊の光石はどこもついていない。 誰も通っていないということだ。
夜衣を尻の下までたくし上げると前で括った。 幾つかの枝の位置を覚える。 履き物を脱ぐと少しずつ下がっていく。

「よし」

光石を懐に入れる。 辺りは月の光だけを受けている。 目標の枝がぼぅっと月明かりに照らされている。
助走を付けると木に向かって走った。 数歩木にかけ上ると最後の足で蹴り上げた。 ぎりぎり目標の枝を持つことが出来たが少し痛みが走った。

「しまった、軍手してない」

もとより持っていない。

「仕方ないか」

松の木肌は荒い、諦めるしかない。
諦めるのは木に上ることではなく、手を傷めること。
いつものように蹴上がりで上がると、そのまま中抜きを途中で止めて枝の上に立つ。 その時に先に覚えていた順に枝に手をかけ上っていく。

この松の木は庭の中でひときわ高い。 職人が梯子に上り剪定していたのを何度か見ていた。 そんなものを見てしまえば紫揺の中で憧れの木になってしまっても致し方ない。
最後の枝の上に座り月を見上げる。

「日本もここも領土もお月さんは同じ」

白い月の周りにうっすらと青い色が見える。

回廊を背に枝に座った紫揺の後ろで、ぼぅっと回廊の光石が点灯した。
男が勾欄を持ち体重をかけると月に目をやった。

年寄りの夜中の厠ではなさそうだし、ここは宮内に寝起きする従者や女官、下働きの者たちが歩く場所でもない。

月の手前には松の木の枝が映り込んでいる。
そしてそこに影が座って・・・。

「え?」

目の端に映ったものを凝視する。
猫の影にしては大きいし、この宮内で猫など見たことがない。 四方の供の山猫だろうかと思うが、山猫があんな角度で枝に座っていないだろう。 それに枝の下からは一本の尻尾ではなく二本の尻尾が見える。 それが時折ブラブラと動いている。
尻尾ではなく足のようだ。

「賊か?」

だが足をブラブラとさせて月を見ている賊など有り得ないだろうし、こちらは光石が灯っているのだ、あまりにも不用心が過ぎるだろう。 賊という可能性はかなり低いが見てしまった以上、確認しなければいけないだろうし放ってはおけない。

回廊を背にしている紫揺は男が近づいてくるのに気付いていない。 男が足音を忍ばせているのも大きく手伝っている。
男が目を離さず移動し枝にいる影を見ているが影に動く様子は無い。 男が首を傾げるが一旦止まった足をまた動かす。

月明かりに照らされた影に段々と近づくと、他の枝に邪魔されることなくその影をはっきりと見ることが出来た。
まさか?

「紫揺・・・?」

「え?」

振り返り下を見ると杠が立っていた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第99回

2022年09月19日 21時47分39秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第99回



「まず何よりも腹の底から怒るな、怖れるな、悲しむな、妬むな。 そして己の力で出来ぬことを思うな、願うな。 紫水晶を上手く扱えない内はそれをしかと心しておくよう」

シキとの歓談が終わると・・・いや、終わらされた。 マツリが戻ってきたのだ。
『姉上、申し訳御座いませんが』 マツリがそう言うとシキが後ろ髪を引かれるようにマツリの部屋から出て行った。
シキにしてはあっさりと引いていった。 事前にマツリが何かを言っていたのかもしれない。

そしてマツリが紫揺の前に座って話し出したのがコレだ。

紫揺の祖母である先の紫が、独唱と唱和の先代 “古の力を持つ者” から言われたことと似ている。

『怒ってはなりません。 赤子のように泣いてはなりません。 妬んではなりません』

先の紫が十歳になって紫の力が解放される日に先代 “古の力を持つ者” から言われたことだ。

「が・・・頑張る」

女人としてもっと違う返答の仕方があるだろうに・・・。 マツリが何度目かの溜息を吐く。
下げた頭を上げ気を取り直して続ける。

「よいか、あの大きな石に認められた額の煌輪の石から紫色の光が現れ出たのは、紫が男を助けたいと思ったからであろう。 その事が悪いとは言わんが、己の出来ん事に心揺さぶられるのではない」

「・・・分かってる」

本当に分かっているのだろうか、怪しいところだ。

「あとは紫次第となる」

次の言葉を待つが、マツリが何も言わない。

「え? それから?」

「紫がどう考えるかだ。 我からは言えん」

「なにそれ? 指南するって言ったじゃない!」

「紫がどう考えるか。 それに間違いがあれば我が正す。 紫から申せ」

「申せって・・・モウモウホルスタインじゃあるまいし。 そんなんじゃ分からない」

ほる? それはなんだ。

「では・・・例えば、額の煌輪から光が出た時のことを考えよ。 あの時は何も知らなかった。 今は知っておる。 同じことが目の前で起きたとする。 知ったことで紫はどうするか」

「・・・え」

まさかそんなことを訊かれるとは思ってもいなかった。

「同じことが目の前で起きた。 男が落ちてきた。 考える暇(いとま)などない。 どうする」

「どうするって・・・」

「分からなければ、どう思う」

「助けたいに決まってる」

「あの石のことを知る前も知った後も同じことを思うというのか」

「当たり前じゃない!」

「我は言ったはずだ。 己の力で出来ぬことを思うなと」

「でもっ・・・」

「紫の力で救うことが出来るのか」

「だから・・・」

だから・・・額の煌輪の力を借りる。

「言いたいことは分かる」

「え?」

「目の前で民が命を失くすようなことがあれば救いたいと思うだろう。 だが己の力を知らねばならん。 大きな力を借りねば出来ん、それは己の身を滅ぼすだけだ」

「・・・そうなってもいい。 それで民が一人でも助かるのなら」

「そうか? 紫が身を滅ぼした後の民はどうなる。 あとは知らぬと言うのか」

「そんなことっ!」

「そう言っておるではないか。 よいか、よく考えろ。 あの紫水晶は紫の持つ力をそれ以上にすると言ったであろう。 それがどういうことか、それを使うとどういうことになるか」

「・・・じゃあ・・・マツリだったらどうするの」

「そうだな。 我に五色の力があれば・・・風を操り男の身を受けるだろう。 岩場に落ちるとするならば、落ちてくる、いや降りてくる足元にでも砂でも敷こうか。 そうすれは足への負担も少なくなるだろう。 足から下りられなければ身体への衝撃も少なくなる」

「・・・え?」

思いもしなかった事だ。

「己の力を知るということはそう言うことだ。 むやみにあの紫水晶に頼ることではない」

「・・・」

「納得がいかんか」

不承不承に首を振る。

「額の煌輪はあの紫水晶と共鳴しておる。 あれに頼るのではない」

頼っている気など無いが、結果がそう出た。

「紫の力でどうにもならん時は冷静になれ。 でなければ、あの石が、額の煌輪が紫の想いを叶えようとする。 力を貸す」

「・・・力を貸す?」

「そうだ。 むやみやたらにそれを受けるのではない」

「分かんない・・・」

「あの石から、額の輝輪からは紫の力を抑えることだけを受けよ。 石と話せ」

「は?」

「紫にはその力がある。 もし無ければ、紫の言うようにあの石は他の者の前に現れたはずだ」

「全然意味不明。 お話になんない」

何が指南だ。

「あの石は初代東の五色が作った物。 我はそう思っておる」

今更その話? その確定で話していたのに “思っておる” とは、どう?

「サイアク」

マツリが首を傾げる。

「石と話す? 有り得ないんですけどっ!」

マツリが頬を緩める。 それがまたムカつく。

「その様なことは無い。 五色は命を分かっておる。 花にも稲にも木にも、そして石にも想いがある」

想い? 木にも? 急にふっと思い出したことがあった。
北の領土のムロイの屋敷に行った時。 ムロイの屋敷の裏庭で見た木。 あの時にあの木に無機質を感じた。 そしてもっと生のある木々なら何か教えてくれるのにと、意味もなくそう感じた。

木が何かを教えてくれる?

ああ、何処だったか、いつだったか、この事に疑問を覚えたことがあった。 何処かもいつかも覚えていないけれど、力に関する時に思ったことは確かだ。

(どうしてそんなことを思ったの・・・)

マツリが言った。 ついさっき聞いた。 五色は命を分かっている。 花にも稲にも木にも、そして石にも想いがあると。

「なに・・・?」

宙を見ていた紫揺の口からポツリと出た。

「紫?」

脳天から頭の中にヘラかお玉を入れられ、かき混ぜられているようだ。 脳みそがグチャグチャになっていく。
頭の中が痛い。 脳みそが悲鳴を上げている。
ゆっくりと紫揺がマツリをねめつけた。

「分からない! 分からない! マツリは何を言ってるの!? 知らない! そんなこと知らない! 私じゃない!」

肘を卓に付き拳を握りしめドンと額を置いた。

「紫、落ち着け」

「・・・私じゃない」

「我は紫を責めておるわけではない」

五色・・・いや、この本領も東の領土も何も知らなかった紫揺。 五色の力などと言われ、ましてやその力が大きなものであり、他に有する者が居ないと言われ、その力を増幅する石の存在が現れた。 その石が現れたのは紫があまりにも大きな力を持ちすぎるから。
そんなことを急に言われて分かるものではないだろう。 ましてや石と話せなどと。

焦り過ぎたか・・・。
焦っては事を仕損じると思っていたというのに。

「待っておれ」

そう言い残すとマツリが部屋を出て行った。

予定通りであり予定外でもあった。
今日、紫揺に分からせてからと思っていたが、紫揺を分からせないまま予定通りに進行させるしかない。
今の紫揺をシキには預けられない。 予定外ではあるがこれは予定通りにする、今はそれが最善だろう。

部屋を出たマツリが “最高か” と “庭の世話か” がすれ違いに部屋に入ろうとしたのを止めた。

「・・・ですが」

「今は茶の用意も要らん」

そう言い残すとその場から立ち去った。


「悪いな」

「そのようなことは仰らないで下さいませ」


どうしたものかと回廊に座していた “最高か” と “庭の世話か”。 四人が回廊を歩いて来る姿に目を輝かせた。

「杠(ゆずりは)殿!」

「ご心配をお掛けしているようで」

申しわけ御座いませんと頭を下げる。

「その様なことは!」

建て前はマツリ付の官吏だが、この杠がその程度で収まる立場ではないことを知っている。
“最高か” が襖を開ける。
杠が “最高か” に頭を下げ襖の中に入る。 自動ドアのように襖が閉まる。

目の前に頭を項垂れている紫揺の背が映った。

マツリからは経緯を聞いている。 紫水晶と向き合えたであろう紫揺と杠を会わす予定と聞いていたが、事の進展が紫揺の受け入れない思いが予定を大きく狂わせた、だがそれでもと。 

「紫揺」

え?
誰が紫揺と呼ぶのか。 リツソとカルネラ以外。 それに聞き覚えのある声。 頼りたい・・・兄の声。
紫揺が顔を上げた。 気配を感じる横を見る。 杠が居る。 座っている。

「杠・・・」

「久しぶりだな。 元気にしていたか?」

杠が手を広げる。

「杠・・・」

「名を覚えてくれていたか? 嬉しいな」

「そんなこと・・・そんなこと当たり前」

杠の広げられた手の内に入る。

「杠・・・」

「・・・紫揺」

杠が紫揺をなお一層抱きしめた。


「で?」

「で、と仰られましても・・・」

「誤解するな。 杠と紫との間のことで我が言うことは何も無い。 紫が今回の力のことを何か言っておったか?」

「マツリ様・・・」

紫揺が杠に抱きついてきた。
その前には波葉から紫揺と会ったシキの話を聞いていた。 紫揺が泣いていたと。

「何も。 ただ、私じゃない、と言って泣いていただけです」

「・・・そうか」

何とも言えない空気が流れる。

「・・・お伺いしても宜しいでしょうか」

ずっと杠の視線は気になっていた。
何を訊きたいかは分かっている。

「拳で殴られただけだ」

回廊を歩いている時には上手く顔を隠していたが、杠と話すに正面を見なければいけなかった。


どうしたものか。 このまま強行突破が吉と出るか凶と出るか。
・・・焦ってはいけないと思いながら焦った、その結果がこれだ。 強行突破は凶と出るだろう。

だが・・・もしあの石が紫水晶が紫揺を探しだしたのならば時はない・・・。
いや待て。 焦るからそう考えるのだろうか。 石は紫を探してなどいないかもしれない。 そうなれば石と紫を離していればいいだけのこと。

マツリが深い息を吐いた。

「逃げておるか・・・」

己は事から逃げようとしているだけか。
無難に考えようとしている。 それが至当ならばそれに越したことは無い。 だがそうでは無いことを知っている。 紫揺にも言った、書に書かれているのだから。
回廊にいるマツリが顔を上げた。 夕陽が沈みだしている。


ドク、ドク、ドク、ドク―――。

寝台で紫揺が目を覚ました。

「なに・・・?」

寝ていたにもかかわらず、血液が波打つように激しく流れている。 鼓動の音が耳にまで聞こえるほどに。
あまりの身体の異様に上半身を起こした。 掛布団を握りしめると胸元にその手を抱きしめる。

「誰か・・・」

分からない衝動。

「どうして? なんで・・・」

前屈みになって掛布団を握りしめる。 その背中が、布団を握りしめている手が震える。

「どうしたらいいの・・・」

己の身の鼓動で身体がどうにかなってしまいそうになる。
脈打つ度、波打つ度、身体が膨張と収縮を繰り返しているように感じる。 身体が熱い。 大きな膨張と小さな収縮を繰り返しながら、その脈動にどんどん身体が膨張していくようだ。

何が何か分からない。 どんどん不安になっていく。 息がしにくい、恐ろしさから震えがどんどん大きくなっていく。

・・・お願い、だれか。

「起きておるな?」

え?

襖の向こうでマツリの声がする。 外は漆黒のはず。 それなのに。

「開けるぞ」

衝立の向こうの襖が開けられた。 衝立の両端から光石の輝きが入ってくる。 襖は閉められたが、保安灯として置かれている小さな光石のその中に歩いて来るマツリの影が見えた。

紫揺が掛布団を握りしめ胸元に寄せている。

「案ずるな。 なにもせん」

『なにもせん』 とは・・・。 葉月から聞かされた話のことなのだろうか、などと今は考えることなど出来ない。 身体がどんどん膨張していく、それが恐い、息がしにくい、どこかからくる不安、ただそれだけ。

マツリの手元を見た。 紫水晶が握られている。

「キョウゲンが戻って来た。 身体に異変はないか?」

紫揺が掛布団をずっと握りしめている。

「何かを感じるか? 感じたか?」

何も言わずただただ紫水晶を見ている。

「しかりとせい!」

声を抑えて言っているが、紫揺の耳に届いたようだ。

「・・・!」

僅かに膨張が止まったように感じる。 膨張したまま。

「この刻限まで起きておったのか、それとも起こされたのか」

息をするのが少し軽くなった。

「紫! ここに紫水晶がある。 甘えたことを考えておるのではない。 時は進んでおる。 起きておったのか、起こされたのかどちらだ」

「・・・寝てた。 そしたら身体が・・・分からない。 どう言っていいか分からない」

不安を顔に貼り付けているようだ。

「そうか、分かった。 その事にこれ以上は問わぬ。 落ち着け」

「・・・だって、だって・・・。 分からない、寝てたのに、勝手に身体が・・・」

「よい、考えるな」

紫水晶を手に持ったマツリが紫揺の横に座ると震える背中をさする。

「何も考えることは無い。 怖れることもない。 我が言ったことを思い出せ。 腹の底からの想いに蓋をせよ。 心を平静にせよ」

波打っていた身体が少しずつ収まっていくような気がする。 同時に膨張がおさまっていくような気がする。 何をしたわけでもないのに脱力感が生まれる。 身体を支えきれない。
ふらりと横にある身体にもたれた。 意味が分からず波打ち熱くなっていた自分の身体と随分と違う。
暖かい。

「そのままでも良いが眠るのではないぞ。 我の言うことをしかりと聞くよう」

手にある紫水晶を紫揺に持たせようとするが、紫揺の手が動こうとしない。
さすっていた手を止め、背中側から手をまわし紫揺の手を取ると紫水晶を持たせるが、紫揺の片手の掌では持ちきれない。 もう一方の手を取り両手で持たせようとするが、紫揺の手に力が入っていないのがありありと分かる。

捻った身体の胸に紫揺がもたれている。 その紫揺の背中に片手をまわし紫水晶を持たせている。
この体勢、長くなれば結構きつい。

「石を己で持て」

「・・・手、が重い、指、も」

こういうところはマツリには分からない。 紫揺の身体の具合が。

「一人で座っておれんか」

「・・・力が・・・入んない」

そう言われれば、目の下に映る紫揺の頭頂部が段々低くなっていっている気がする。 腰が曲がってきたのだろか。
このまま横にならせればきっと眠ってしまうだろう。

己の情けない姿を、誰にも見られたくない姿を頭に浮かべる。
仕方ない。
敬遠したいところだが、それしかない。

紫水晶を持つともう一方の手で紫揺の身体を支え、サッと体勢を変えた。 マツリの部屋でのあの時のように。

紫揺の後ろに回り込み胡坐をかき、片手で紫揺を持ち上げると足の上に座らせる。 今回紫揺の足は前に投げ出されているが、布団が被っていて見えない。 左右からマツリが手をまわし紫揺の手を取ると紫水晶を持たせる。 紫揺の手の甲にはマツリの掌がある。 マツリの胸には紫揺の頭がもたれている。 

こうすれば紫揺に石を持たすことが出来るし身体を支えることも出来る。 が、誰にも見られたくない。 まぁ、誰がこの部屋に入ってくるわけでもないが。

「瞼を開けておく力くらいはあろう。 目を閉じるのではないぞ」

「・・・うん」

本当なら抗いたい。 認めたくないのだから。 それにこれほどに虚脱感を感じている、寝ころびたいのに。
だが紫揺とて分かっている。 ・・・もう抗っても無駄だと。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第98回

2022年09月16日 21時07分43秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第98回



シキ様は? 澪引様は? と訊いたのだから、今の自分が何をしなければならないか分かったはずなのに、どうして、何故、などともがいてしまう。 涙が止まらない。
ポトポトポトと衣を濡らしていく。

「拭け」

僅かに顔を上げると手巾が差し出されている。 マツリの手の上に乗った手巾。

紫揺が百八十度向きを変える。 ゴシゴシゴシと手の甲や腕で涙を拭くが、どちらも涙を吸い取ってはくれない。 涙が顔じゅうに広がるだけ。

女人が手で涙を拭くなどと・・・。 だがリツソのように鼻を垂らして泣き喚かないだけマシか、と思いながらマツリが立ち上がった。
紫揺との間にあった卓の横を歩くと、百八十度向きを変えていた紫揺の前にしゃがんだ。
手の甲で手の平で腕で顔中を拭いている紫揺。 目が吊り上がったり下がったり。 その顔に手巾を押し付ける。

「手で拭ったとて拭えまい」

拒否するように紫揺が顔を避ける。

「今日はもう遅い、休むが良い。 あの者たちを呼んでよいか?」

あの者たち “最高か” と “庭の世話か” のことだ。 泣いている顔を見られてもいいかと訊いている。
受け取らない手巾を紫揺の頭の上に乗せる。 紫揺の返事があるまで待つ。

どれだけ手で拭っても涙が顔から離れない。 その上まだまだ次発列車ならず、次発涙が次々と生産されている。

「・・・どうして」

「うん?」

「どうして・・・私なの・・・」

「生まれ持った力。 それだけのことだ。 それは紫だけではない。 皆それぞれに生まれ持った何かの力を持っておる。 その力を持て余しておる者もおるだろう。 初代紫も、初代紫は・・・その力に苦しんだのだろう。 それを紫に同じ苦しみを味あわせないよう、初代紫は息吹を吹き込んだのだろう。 初代紫の配慮に感謝しあの紫水晶を扱え。 紫なら、お前なら出来る」

紫揺の頭の上から手巾を取ると、もう一度紫揺の顔に押し付けた。 しばらくじっとしていた紫揺だったが、手巾の上に手を置き涙を拭い始める。 全く楚々とした拭き方ではないが。

『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ。 ね、心当たりがあるならハッキリ言って欲しい。 その対処をしなくちゃ・・・力の使い方を覚えなくちゃ、北の領土以外では生きていけないよ』

北の屋敷で自分の部屋を破壊した日、トウオウが言っていた。
もう何十年も前のような気がする。 そんなことは無いのに。 トウオウのその声が何度も頭に繰り返される。 そして段々と小さく・・・。

涙を拭いていた紫揺の手が落ち身体が揺れた。 咄嗟にマツリが紫揺の身体を支える。 また気を失ったのか? 焦ったマツリが紫揺を覗き込む。

―――熟睡。

完全に寝息を立てている。

「は? 座ったままで? さっきまで泣いていたのに?」

話も中途半端なままだし、気を失っていたといえどかなり寝ていたはずだ。 それなのにまだ寝る?
信じられないという目をした。 紫揺を抱えながら今度は呆れた目で見る。
だが・・・暫くするとクックと笑いが出てきた。


パチリと目が開いた。
装飾の施された木が幾つもの大きな真四角にかたどった見覚えのない天井。 首を捻ると見たこともない部屋の中が目に映る。

「・・・どこ?」

起き上がると布団の上で寝ていたのだと分かる。 その布団はシキの部屋のように膝の高さくらいの寝台に敷かれていた。

寝台の上で記憶の頁をめくる。
そうだ、気が付いたら本領に居た。 マツリの部屋に。 ・・・それから。
徐々に昨日のことが思い出されていく。

「くそっ! マツリの前で泣いたんだっ!」

紫揺の声が少々大きかった。

「お目覚めで御座いますか?」

襖の外から声が掛かった。 それは覚えのある声音。

「あ・・・はい」

ゆっくりと襖が開くと “最高か” と “庭の世話か” が襖の前に立ててあった衝立の横から入ってきた。 襖を開けても部屋の中の様子が回廊から見えないように、若木に小鳥が止まっている絵を施した漆塗りの衝立が置かれている。
衝立の両横に二人ずつ座ると手をついて頭(こうべ)を垂れる。

「あの・・・」

静々といった態で頭を垂れていた四人がバッと頭を上げると、すぐさま立ち上がり衣を翻し紫揺に駆け寄って来た。

「大事は御座いませんか?」

「え・・・全然・・・。 あの、ここは・・・?」

「マツリ様がお待ちに御座います。 失礼とは存じますが、彩楓がご説明を致しまして、わたくし共がお着替えをお手伝いさせていただきます」

紅香が “庭の世話か” に視線を送る。 心得たとばかりにシキに言われ用意していた衣装を寝台の横に置く。

「紫さま、お立ち下さいませ」

彩楓が言う。

言われるがままに寝台を降り下り立ち上がると、紅香と “庭の世話か” が忙しく手を動かし始めた。
紫揺の正面に座した彩楓が口を開く。

己らはマツリの部屋の前の回廊で紫揺を待っていた。 以前であるのならばシキの部屋に案内するが、今回は客の泊まる部屋に紫揺を連れて行くようにとマツリから言われていた。 四方には了解済みだと。

宮の中が沈み返り、夜告鳥の声も聞こえなくなった時、マツリの押し殺した笑い声が聞こえてきた。 何事が起きたのかと思っていれば「居るか?」 と尋ねられた。
「はい」と応えると「開けよ」と言われ、襖を開けると立っているマツリに抱きかかえられた紫揺が居た。

また気を失われたのかと四人が血の気を失いかけた時
『話の途中で座りながら寝たようだ。 疲れたのだろう、案ずることは無い』 そう言ったという。
それから用意をしていたこの部屋に案内したということだった。

「え? うそ・・・」

話の途中で? 座りながら? 寝る? そんな器用なことが自分に出来たのか?

「マツリ様が仰っておられました。 紫さまをお疲れにさせるお話をされたと。 今日は紫さまのお疲れが取られるまでお待ちするようにと」

マツリが紫揺を抱えながら眉を顰め「トウオウ・・・」 と独語を吐いたことは言わない。
マツリが言うより先に腕の中で「トウオウ」と紫揺が言ったのだった。

トウオウは北の領土の異(い)なる双眸を持った五色。 マツリが紫揺からトウオウの名を聞いたのはこれで二度目だった。
それに一度目は聞き逃すことが出来ないシチュエーションで。 それはあくまでもマツリ的にだが。

紫揺が「トウオウ」と言った時、抱きかかえるマツリの腕がビクリと動いた。 それを見逃すことがない “最高か” と “庭の世話か” だった。

彩楓と話している間にもスススと着替えが進んでいる。 キュッと帯が締められた。
最初にマツリが待っていると言っていた。

「えっと・・・」

今何時ですか? とは訊けなかったのだった。 まだまだ日本の感覚が抜けない。

「二日間、お倒れになられており、夕べやっと遅くに食を口にされました。 今は昼餉の時はとうに過ぎております。 お召し上がりになられましょうか?」

是非とも食べて欲しい、そうでなければ身体に宜しくない、という眼光を送りながら訊いている。

「え? お昼すぎてるんだ・・・」

どれだけ寝たのだろうか。 二日間もぶっ倒れて寝ていたというのに。

「昼餉はどうなさいます?」

彩楓の目が恐い。 と思っていたら、他の三人の目もあまりに眼光が鋭すぎる。

「あ・・・いただきます」

いつの間にか着替えが終わっていたようだ。


どうしてだ。
昼餉を食べるだけじゃなかったのか。
何故、マツリの部屋にいる。 そして何故、昼餉を食べる紫揺の前にマツリが座している。

「よく眠れたか」

無視を決め込み箸を動かす。

「この刻限まで寝ておったのだ。 疲れは取れただろう」

ドンダケ嫌味なヤツ。 たしかに寝過ぎたが。

「夕べ言っておったあの紫水晶、石の話は覚えておるか。 本領の端まで置いたということを」

箸を止めると上目遣いにマツリを見る。
夕べの話を回想する。 たしかにそんなことを聞いた覚えがある。
あの紫水晶は本領の端に置いてあるから、今のところあの紫水晶からの影響はないやらナントカ。
コクリと頷く。

「これからキョウゲンにあの紫水晶を取りに行ってもらう。 あの紫水晶と向き合えるか? まだ整理がついていないようならばキョウゲンは飛ばん」

「・・・」

動かしかけた箸が止まった。

「キョウゲンが取りに行っても戻ってくるに何辰刻もかかる。 いま飛び立って今すぐ向き合うということではない」

箸を動かす。

「・・・あと半日」

「え?」

「・・・夕時になってから」

いまキョウゲンが飛び立てば陽の光の中を飛ばなくてはならない。 夜行性のキョウゲンのことを考えて言っているのだろう。

「それまで・・・」

「・・・何をしておる」

不思議なほど色んなおかずを茶碗の飯の上に乗せていた。

「あ・・・」

意識なくやっていたようだ。 良く言えば彩丼ぶりの出来上がり。 ストレートに言えば残飯に近い。
盛ったものを捨てるわけにはいかない。 残飯に見えるが口に運ぶ。 胃の中に入ってしまえば同じことなのだから。

「・・・それまで・・・、マツリの話を聞く」

マツリが両の眉を上げた。 残飯をかっ食らう紫揺を見ながら。

「力のこと何も知らないし。 ムカつくけど、腹立つけど、顔も見たくないし声も聞きたくないけど・・・話を聞く。 仕方ないから。 マツリと同じ場所にいたくもないけど」

むかつくの意味は分からないが他は分かる。

「そうか。 では食し終えてから話を聞かせよう。 まずはゆるりと食べよ」

そう言うと立ち上がり部屋を出て行った。

あれ? 言い過ぎたか? 箸が止まる。

マツリとすれ違いに “最高か” と “庭の世話か” が入ってきた。

「いかがされました?」

茶碗の中にありとあらゆるおかずが乗っている。

「あ、いえ、何でもないです」

残飯に箸を動かす。

「あの、マツリ・・・」

紫揺の口からマツリの名前が出た。 四人が目を輝かせグイっと紫揺に顔を寄せる。 残飯が視野の下に映るが、そんなことはどうでもいい。

「マツリ様が?」

「あ・・・えっと。 ・・・なんでもないです」

「まぁ、何でも仰って下さいませ」

「ええ、そうですわ。 わたくしたちは紫さまのことだけを考えておりますのですから」

「え・・・」

「そうで御座います。 ただただ、紫さまのお幸せだけを」

「紫さまのお幸せが、わたくしたちの幸せとなります故」

「ですから、何で御座いましょう?」

最後は素晴らしいカルテットでズズイと寄ってきた。

「あ・・・えっと。 その、今ちょっとマツリに言い過ぎたかなって」

「まぁ! マツリ様のことをお気にされておられたと?」

「いや・・・そういう意味じゃないですけど・・・ちょっと、じゃなくてかなり嫌味を言っちゃったから、出て行っちゃったみたいで」

「まー、まー、その様なことをお考えになられておられたのですか。 ですがそのようなことはお気になさらず」

「え?」

「マツリ様は何もかも分かっておいでです」

「なにもかもって?」

「もう少しすればお分かりになります。 さ、お食べになって下さいませ」

止まっていた箸を残飯に動かすよう促す。

「あ・・・はい」

四人にじっと見られていれば食べにくいが、それぞれがあれやこれやと話を聞かせてくれる。 太鼓橋のある庭の花が綺麗に咲き始めたとか、池の鯉が増えたとか。
そう言えばと、彩楓が急に声を改めた。

「紫さま、危のう御座いますので、太鼓橋の欄干の上はお歩きになりませんように」

「え?」

“庭の世話か” が何のことかと目を合わせる。

「あれ? 見てたんですか?」

欄干に立って歩いたことを思い出した。 とてもつまらなかった。

“最高か” に休憩をして下さいと言ったら、とんでもないと言われた。 だからもう少しすればシキが来る、その時の茶の用意をしてもらえるよう頼んでその間に欄干の上を歩いていたつもりだったのだが、見られていたようだ。

「シキ様がお倒れになる寸前で御座いました」

そう言われればマツリから言われた。 欄干に座っていただけなのに『姉上が見られたら卒倒される』 と。
欄干に座っていただけなのに。 いや、シキは座る前、欄干の上を歩いていたのを見たのか。

「・・・シキ様」

どれだけシキに心配をかけてしまっているのだろうか。
グスリと鼻をすする。

「紫さま?」

あの築山でシキが五色の力の事を話してくれた。 ゆっくりと紫揺が分かるように笑みを添えて。
無理だ。 シキを想うと涙を止めることなど出来ない。

―――自分にそんな力なんてあるはずない。

右手で箸を持ち、左手の手首で涙を払う。
・・・払い切れない。 箸を持った右手の参戦も加わるが涙を払えない。
イヤだ。
どうして・・・。
トウオウの言葉がまた頭を巡る。

『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ』

「紫さま・・・」

四人の手から手巾が出てきた。 その時、バンと襖が開けられた。

「シキ様! ややもいるというのに、はしたないでは御座いませんか!」

昌耶の声が耳に入った。 顔を上げ振り返る。 襖の向こうにシキの顔が見える。 シキにピントが合った。 シキの前にはぼかしたようについてきた手巾。
一眼レフで撮ったようなワンショットが紫揺の前に見えた。

「・・・シキ様?」

身を捻じってシキに向き合う。

「紫・・・」

紫揺の頬に涙の足跡が見える。 マツリからそんなことは聞いていない。 紫揺が泣いているなどとは。

四人が手巾と共に身を引く。

「・・・紫」

シキが紫揺の前に膝をつき、紫揺の頭を抱え抱き寄せた。

「どこか痛いの? 苦しいの? 言ってちょうだい?」

ああ、そうか。 マツリは言っていないのか。
シキは紫揺が倒れた事だけに想いを馳せているんだ。 倒れた理由も、これからどうするも、簡単に受け止められていないのもシキに言ってないんだ。

それに四人が言っていた
『マツリ様は何もかも分かっておいでです』 『もう少しすればお分かりになります』 と。 言っていたのはシキのことだったのか。 マツリはシキを呼ぶために部屋を出たのか。 嫌味を言い過ぎたからではなかったのか。

「大丈夫です」

シキに頭を抱擁されながらも紫揺が顔を上げた。

「やや、おめでとうございます」

“やや” 初めて口にする言葉。 気恥ずかしいが、この地の、宮の言葉で言わなければ。

薄っすらとシキが頬を桜色に染める。

「ありがとう」

シキがもう一度紫揺の頭を抱き頬を寄せた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第97回

2022年09月12日 21時01分09秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第97回



「あの紫水晶は初代紫の息吹が宿っておる。 よって並みの紫水晶とは違う。 あの石には初代紫がその力を吹き込んでおる」

それはいつ現れるかは分からない後の紫の為に。 今の紫揺の為に。 だがいくら初代紫といえど、紫揺に与えられた境遇など知る由もなかった。
東の領土で生まれ東の領土で育ち、五色の力を自然と身に付けているはずだった。 ただ、その五色が、紫と名付けられた後の紫が己ほどの強力な力を持った者ならば、苦しむところがあるはず。 力はあればあるほど良いということではない。

「あの石は紫の力に影響を及ぼす。 石に込められた力をよく知り、よく理解し、紫の力が暴走せぬよう、出過ぎることの無いようにせねばならん。 でなければ紫自身が潰れる。 民に厄災をもたらせてしまう。 分かるか」

紫揺が頷く。

取り敢えず紫水晶に込められた力の事に耳を傾けるようだ。 一段落と言うところか。 茶を飲んで口を湿らせたいが動くことが出来ない。 だからと言って誰かを呼んでこの姿を見られるのも堪ったものではない。

「今あの紫水晶は本領の端に置いておる。 そこは宮からかなり離れておる。 紫水晶が近くにあればあるほど、その力の影響を受けるはずだ。 初代紫には計り知れない力があった、それが為あの紫水晶自体の力も計り知れん。 掘り起こされ既に紫と感応した石が紫を探そうとするかもしれん。 いや探すであろう」

驚いた紫揺が顔を上げたが、前を見てもそこに話している相手が居るわけではなかった。

「だがそれは誰にも分からん。 初代紫以外にはな。 そうであるとするならば、万が一を考えて早急にあの紫水晶の力を理解せねばならん。 額の煌輪に付いておる紫水晶、あれはあの紫水晶に共鳴し力を出した。 何故出したか、それは紫が男の身を案じたからだ。 そしてそれは何を意味するか、あの額の煌輪が紫自身にも共鳴したということだ」

額の煌輪は、初代紫の息吹が入った紫水晶と紫揺のパイプ役ということである。
紫揺の目がどこということなく彷徨う。 真正面から見ていなくともその様子が分かる。 ひと休憩入れた方がよさそうだ。

「食せ。 ゆっくりで良い」

紫揺が何も知らなかった時のことを思うと、ここまで頭に入っただけでも随分と違うだろう。 あの紫水晶が紫揺に影響を及ぼしてきても、分かろうという気持ちがあるだけで、あの紫水晶の存在を知っただけでも結果は随分と違ってくる。
焦っては事を仕損じる。
だがいつまでもあの紫水晶と紫揺を離しているわけにもいかない。 初代紫が案じた力が紫揺にあるのだから。

紫揺が箸を動かしているのが僅かな体重移動で分かる。 噛んでいるのが胡坐を組んでいる足に伝わってくる。

(こんな姿を見たら・・・)

“最高か” と “庭の世話か” は卒倒するだろう。
決してマツリの姿にではない。 紫揺が軽くではあるが、胡坐をかいている姿にである。 宮の女人にあるまじき座り方なのだから。

(ああ、茶が飲みたい・・・)

嫌なもので、飲めないと思う程に飲みたいと思うものである。

回廊から話声が聞こえてきた。

「シキ様がまだかと」

昌耶の声だ。

波葉から聞いたのだろう、まだ紫揺が倒れている時にシキがやって来ていた。 臥している紫揺の頬を何度も撫でていたが、昌耶に言われ自室に戻って行った。

シキには紫揺が目覚めたら呼ぶと言ってあった。 紫揺がしっかりと目覚めた時、回廊に居た “庭の世話か” のどちらかが紫揺が目覚めたとシキに知らせたのだろう。 だがすぐにシキが来なかったのは、マツリの意を汲んで “庭の世話か” が止めたというところであろう。
“最高か” にしても “庭の世話か” にしても言わずともよく分かってくれている。

マツリが床に着いていた片手を顎に当てる。 シキが待ちきれないのは分かるが、今の状態の紫揺では、シキに頼りすぎて前に進むのが遅くなりそうな気がする。
喧嘩ごしの相手の方が紫揺自身にはいいだろう。 五色の知識があまりない紫揺である、一人で乗り越えるにはキツイかもしれないが。
マツリが襖越しに声を掛けようとすると、紅香の声が聞こえた。

「申し訳御座いません。 今まだ微睡(まどろ)んでおられます。 その様な時にシキ様にお会いされて万が一のことがありましたら・・・お肩をお落としに・・・」

「あ、ああ、そうね。 分かりました。 ではしっかりとお気がお付きになれば―――」

「心得て御座います」

きっと「ですが少しなら」 と続くと思った四人が昌耶の言を途中で切り、白々しく手をついた。
そして一人が顔を上げた。

「昌耶さま、・・・」

ごにょごにょごにょ、紅香が昌耶に耳打ちをする。

「え? あら、まぁ。 そうね、そういうことでしたらシキ様もお待ちになられますでしょう」

残りの三人も顔を上げにこりと微笑む。
これは効くだろう。 マツリと紫揺を結び付けたいと考えているシキと昌耶には。 それに四人も実際そう思っている。

『昌耶さま、今はマツリ様と紫さまお二人だけの時で御座います。 シキ様のお声をお届けするに、お二人の間にお声を掛けるなどと無粋なことは・・・』 チラリと目を輝かせ昌耶を見たのだった。

まさか耳打ちまで聞こえない。 襖の向こうの回廊でそんなことを言われているとは知らないマツリ。 裾を撥ねサラサラと衣擦れの音が遠ざかっていく。 昌耶が戻っていくのが分かった。

改めてあの四人はよく分かってくれていると思う。 そば立てていた聴覚を紫揺に戻す。 紫揺は気付いていないようでゆっくりと食している。

(ああ、やはり茶が飲みたい・・・)

いつの間にか顎にやっていた手を後ろについていた。 顔を天井に向ける。
キョウゲンは我関せずと言うように、巣に入り長距離を飛んできた羽を休めている。

初代紫の息吹が入った紫水晶。 それには紫の力を増幅する力がある。 そして他の物を共鳴させる力も。 共鳴は初代紫が息吹を入れた石に選ばれた物に限られる。

力のある初代紫が、どうして力のある後の紫の為にそんな物を作ったのか。 力のない後の紫の為になら分かるが、力があり過ぎる事で苦しんでいたはずなのに。
力を増幅させる。 それは考えようによっては・・・。

「あ・・・」

紫揺が顔を上げた。 目の前にマツリが座っている。
卓にあった食器は既に下げられ、マツリと紫揺の前には湯呑が置かれている。

一瞬、紫揺が眉根を寄せたが、その原因は考えないでおこうと、自分に言い聞かせ頭の中を巻き戻す。

「姉上から聞いておったであろう。 力はその者の理解の仕方で変わると」

「増幅とは・・・抑えるという意味も、ある・・・?」

シキが言っていた、力は理解の仕方や気持ちの問題でかわるのだと。 どれだけ広げていくのかはその個人次第。

「ふむ。 よく考えたな、今の状況で。 大分、頭がはっきりとしてきたか」

こんなことがなければマツリをひっぱたいていただろうセリフだし、今はあの時のことを置いておくしかないことは分かっている。

「石のことは・・・石に息吹を入れるということは、本領に残る五色の力のことを書いた書に書かれておる。 東の領土の初代紫はその書を読んだのだろう。 この領土にいる時からその力の大きさに悩んでおったのかもしれんな」

力を増幅させることが出来るということは、理解の仕方によっては、大きすぎる力を抑える力も持つということ。

「でも、私・・・五色の力なんて。 そんな大きな力なんてない。 川で遊んでる時に子供たちに黒の力で水を掛けたり、砂遊びの時には黄色の力で砂を引っ掛けたりする程度。 私に力があるとは思えない」

そんな事に力を使っていたのか、マツリの頭が痛んだ。 こめかみを押さえて溜息を吐く。
そんなマツリを放って紫揺が喋り続ける。

「現れるべくして現れたんじゃなくて偶然じゃないの? 絶対に私じゃない」

こめかみから手を外したマツリ。 その手で湯呑を持つとゴクリと一口飲む。

「初代紫の力に疑いはない。 初代紫が東の領土に行くまでは本領の書に残っておる。 その紫の息吹が入った石だ。 偶然などありはせん」

「だって悩むような力なんてないもん」

“もん” いくつになったんだ、リツソでさえもう言わないのにと、マツリがまたも大きく息を吐いた。
あと何回この息を吐かねばならないのだろうか。

「よいか、よく聞け」

よーく耳をかっぽじって聞け。

「紫はその力を知って三の年も経っておらん」

マツリが間を置くと紫揺が頷いた。
ちゃんと自覚はあるようだ。 まぁ、こんなところで、知って一の年も経ってないなどと呆けたことを言われても困るが。

「三の年どころか二の年程。 紫の瞳が紫になったのは、北の領土の者の身体を治した時が初めてだと言っておったな」

コクリと頷く。

「その時は力の事を知って間なしのこと」

マツリが言葉を切る。
なんだ、この間の空け方は。 と思いながらも頷く。

「この本領には一人で五色を操る者が何人もおる。 だが紫の瞳を持つ者はおらん」

一人で五色を操る者。 その力の弱いうちは異(い)なる双眸すらも作れないが、力がついてくれば段々と赤と青の異なる双眸を作ることが出来、同時に赤と青の力が使える。 そして更に力が強くなれば双眸が紫色になる。 シキがそう言っていた。

「・・・。 ・・・。 ・・・え?」

かなりのタイムラグで紫揺の間の抜けた声が発せられた。

「一人で五色を操る者は本領と、あとは東の領土に一人、お前しか居らん」

「・・・。 ・・・。 ・・・あ」

頭が止まる寸前のようだ。 ショートしなければ良いが。
マツリが紫揺と自分の湯呑に茶を注ぐ。

「茶を飲んで少し落ち着け」

促され湯呑を手にする。 その姿を見ながらマツリも湯呑を持った。
二人が茶を喉に通す音が聞こえる。 その音しか聞こえない。
長い沈黙が続いた。

「・・・私だけ、ってこと・・・」

沈黙を破ったのは紫揺だった。 マツリは紫揺の言葉をいつまでも待つつもりだった。

「そうだ。 今この本領に紫の瞳を持つ者がおらんというだけではない。 何代も前からその瞳を持つ者はおらん」

「・・・日本に居たから?」

日本に居たから、紫の瞳を持つようになった?

「その様なことは関係ない」

日本と言う言葉をあまり聞きたくはないが、今は仕方がないし、なにより紫揺の生まれ育った所だ。 否定できるものでもない。 己が紫揺を奥に迎えようと思うのなら尚更のこと。

「お婆様・・・」

「先(せん)の紫か」

「お婆様はお力のある方だったって。 だから十歳になるまで “古の力を持つ者” にお婆様の力を封じさせたって。 お婆様も記憶のないほど小さい時に」

「十の歳のことか?」

「お婆様は十歳・・・十の歳になったその日に襲われたって。 五色の力を “古の力を持つ者” が戻した日に・・・」

「そうか。 急に力を出すようなことは出来なかったのだろう」

「そうじゃない。 そんなこと言ってない。 だから・・・私じゃなくて、お婆様だったんじゃないの?」

それ程の力があったのならば、考えようによってはそうかもしれないが、そうでは無い。

「“古の力を持つ者” が、力を戻すことを認めたということは、先の紫は力を理解していたのであろう。 たしかに十の歳まで使ってはいなかったのであろうから、深いところまでは知らなかったであろうが、力を理解する、使えると “古の力を持つ者” が判断をした。 もし先の紫が浅慮な者なら “古の力を持つ者” は再度力を封じたであろう」

紫揺が下を向いた。 どうしても自分と認めたくないようだ。

「紫」

呼んだが次を続けない。 紫揺がそれなりの反応を見せるまで待つ。
ここに時計があれば、チクチクチクと秒針の音が聞こえ、分針が動く音もするだろう。 そしてその分針が何度も動いた時、下を向いたままの紫揺が口を開いた。

「なに・・・」

呼ばれたことを忘れてはいなかったようだ。

「先の紫のように領土で生まれ育っておれば、肌で感じることがある、知ることが出来る。 だが紫は領土で生まれ育ってはおらん。 何も知らなくて当然だ」

先ほど先の紫は浅慮な者ではないから “古の力を持つ者” が再度封じることがなかったと言った。 それは先の紫がどれ程の力を持っていようが、紫水晶が必要でなかったということを言っている。 言い変えれば紫揺が浅慮者と言っているようなもの。 だが力の事に関しては浅慮であっても仕方がない。 それにそれだけではない。

「・・・私が日本で生まれたからいけないの? 日本で育ったからいけ・・・」

喉が詰まって声にならない。

どうして、どうして。 どうして自分は日本で生まれ育ったのか。 どうして今領土に居るのか、どうして生まれ育った日本に居ないのか。
分かっている。 日本をあとにし領土を選んだのは自分自身だ。 自分が選んだ。 だからどうしてではない。 なら、どうして領土で生まれなかった。 北の領土のせいなのか、北の領土が先の紫を襲ったからなのか。

ちがう。

日本人のお父さんがいなければ、自分は生まれてこなかった。 先の紫と祖父も領土に居ては結ばれることは無かった。 二人が結ばれることは無かったということは、母親も生まれては来なかった。 何もかもが無かったことになる。

「そんなことは言っておらん。 紫の力を受け入れ、あの紫水晶の力を借りて大きすぎる力を抑えるようにする。 それだけだ」

「・・・私の、力なんて・・・大きく、な・・・」

どうしても最後まで言えない。 途中で喉が詰まってしまう。

「よいか、落ち着いて聞け。 もし紫が堪えようのない怒りに満ちた時、悲しみに満ちた時、あの石の増幅させる力をもってしては、何がどうなるか分からんほどの力を出すだろう。 そうなった時では遅すぎる。 民にどんな厄災が降りかかるか、紫自身の身体もそうだ。 もし何度もそんな目に遭ってしまえば肉体が追いつかん。 民と紫自身を守るためだ」

怒り、悲しみに満ちた時・・・。

ホテルで両親のことを思い泣き、ホテルの部屋を無茶苦茶にした。 北の領土の屋敷でトウオウに怪我をさせた。
紫揺の知らない所ではあるが、警察署の中で亡くなった両親と対面した時もそうだった。 その時に受けた傷は今も志貴の頬に残っている。
あの石がない状態でも部屋が無茶苦茶になった。 あんな事が東の領土で起きたなら。

どうしてこんなことになったのか。

日本に暮らしていただけなのに。 泣いただけなのに。 やめてと叫んだだけなのに。 祖母に東の領土を頼むと言われただけなのに。 東の領土の温かさに触れただけなのに。 自分を大切にしてくれる民の幸せを願っているだけなのに。

目からポロポロと涙が溢れ出てくる。 膝に置いていた手でぎゅっと衣を掴む。 汁物をこぼした時の染みが位置を変える。

「一人ではない」

泣きながらもマツリの声が耳に入ってくる。

――― 一人じゃない。

北の屋敷に居た時はニョゼが居てくれた。 トウオウも。 東の領土に帰れば塔弥も此之葉も葉月もお付きたちも民もいてくれる。
でも、その東の領土の者たちに厄災が降りかかるかもしれない。

―――自分のせいで。

より一層、涙が溢れ出る。

「民を守りたいのなら、しばらくは宮に留まりあの紫水晶の力を扱えるようになれ」

「・・・どうやって」

「我が指南する」

「・・・」

さすがにあのことを思い出した。 横になど置いていられない。

「・・・シキ様は」

はっきりと避けられているのが分かるが、致し方ないだろう。

「姉上は懐妊されておる」

「・・・かいにん?」

解任?

お役御免という言い方はしないのか?
たとえ結婚したからと言って、力の事を教えてもらうだけなのに、本領領主の子としてそんなことまでいちいち解任しなくてはならないのか?

紫揺の疑問を持った復唱に、言葉の意味が分かっていないのだろうと、別の言葉を発する。

「ややがおる」

「ややがおる?」

矢矢が折る?

何を言っているのかさっぱり分からない。 つい顔を上げてしまった。
マツリが己の腹を指さしポッコリと山を作ってみせる。 こういうところが塔弥の言う、言葉が通じないというところなのかと、改めて知った。

「あ・・・赤ちゃん? あ、えっと、赤子?」

「・・・ああ、赤子。 そうだ」

“やや” と言うのは宮内だけの言葉であったことを思い出した。

「え・・・?」

「我もほんの少し前に聞いたところだ。 義兄上も。 知っておったのは昌耶だけだ。 ややが安定したからと聞いた。 姉上が東の領土に飛んだ時には、まだ安定しておらず昌耶が顔色を失くしていたそうだ」

「あ・・・」

自分のせいだ。 自分のことを心配してロセイに乗って飛んできてくれた。

「まぁ・・・我のせいではあるがな。 ややの話を聞いた時には事なきに終ってどれ程安堵したものか」

そうだ、マツリのせいだ。 事の発端はマツリにあるのだからと、全面的にマツリのせいにしたいが、シキは紫揺のことを心配して来てくれたのだ。

「ややが安定したとはいえ、姉上にご心配をお掛けしたくはない。 とくに紫、お前のことはよくよく心に掛けておられる。 紫を本領に連れ帰ったことを聞いてすぐに姉上が宮に来られた。 紫を待っておられる」

「だったら」

だったら、シキに教えてもらえばいい。

「ややがおるのだ。 少しのことでお疲れになられる。 それに紫のことになると懸命になり過ぎられてしまわれる。 ややが安定もしておらぬのにロセイに乗られたほどだ。 お疲れに気付かれず無理をされてしまうかもしれん」

紫揺が頭を下げる。

「・・・澪引様は」

「母上は力の事を何もご存じない」

いつの間にか涙は止まったようだったのに、また溢れ出してきた。

「我のこと・・・その事は別だ。 いま力の指南は父上か我にしか出来ん。 だが父上はお忙しい。 我で我慢して紫水晶の力を扱えるようになれ」

「・・・」

「民の為に」

止まることを知らず涙が溢れ出る。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第96回

2022年09月09日 21時50分08秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第96回



光石に照らされた闇の中、羽音が聞こえた。
襖が自動ドアのように開くと、キョウゲンが部屋に入ってきた。
すかさず回廊に座っていた丹和歌と世和歌が襖を閉める。

紫揺の状態から、そしてマツリの状態から、彩楓と紅香二人では乗り切れないと思った。 それに二人で紫揺を見ているのは抜けがけをしているようで、後ろ髪を引かれる思いだったからである。
呼ばれた丹和歌と世和歌も、これからが勝負、これを逃しては! と言わんばかりの笑みを携えてマツリの部屋に来てくれた。
もちろん、彩楓と紅香、丹和歌と世和歌の上司には通してきたと。
その二人が来た時には、マツリを見て引きつらせたままの顔で固まってしまっていたが。

キョウゲンの羽音に、卓に突っ伏していたマツリが顔を上げた。 キョウゲンが止まり木に止まろうとしていた羽根の向きを変え、マツリが突っ伏していた座卓の上に降り立った。 急に向きを変えたがため、滑った不細工な着地となったが、そんなことはどうでもいい。

「マツリ様・・・如何なされました」

「あ、まぁ・・・ちょっとな」

マツリが左の頬をさすると痛さに顔を歪める。
肉体的な痛みだったのか、精神的な痛みだったのか・・・。

「ちょっとでは御座いません。 何が御座いましたか」

基本、供は主に付いていなければならない。 それでも今回は例外扱いになる。 例外扱いの間に、供が居ない間に主に変化があった。 いくら例外といっても、供として主を守れなかった事に違いはない。

キョウゲンの言いたいことは分かっている。 と言うか、言われる前から言われるだろうと分かっていた。 こんなことは前代未聞なのだから。

「いや・・・案ずるな。 これはこれで・・・進展の兆しだ。 それよりあの石はどこまで運んだ」

キョウゲンが言うに、領土の端に近いところまで運んだという。 かなりとばしたのだろう。 羽のいたるところに無理を感じさせる。

「無理をするなと言ったではないか」

「何を仰せられます。 マツリ様の想いで御座いましょう」

「だがそこまで・・・。 ・・・キョウゲン、あまりにも安全の帯を長く引いてないか?」

「マツリ様の教えで御座います」

マツリが頭を落とした。 斬首ではない。 だがそれに近いほどに。

「キョウゲンはそこまで考えなくてよい。 だが今回のことは良くやってくれた」

「紫さまに何かありましたでしょうか?」

あの大きな紫水晶を遠ざけたのに。

「あの紫水晶の力は想像以上だ。 やっと紫からあの石の力が抜けたようだが、今まだ怪しい」

「それがその頬の痣の理由で御座いますか?」

キョウゲンに隠していても、いつまでも食いついてくるだろう。

「・・・ああ。 見事に殴られた」

「あの時の・・・平手ではなく?」

以前マツリは紫揺に平手でビンタを食らっている。 それを思うと “殴る” というのが無いわけではなかろうが、平手で叩かれたビンタの時のように、マツリはそれを受けとめたということだろうか。

「拳だ」

言うと溜息を吐いた。

「というわけだ。 キョウゲンが案ずるようなことがあったわけではない」

受け止めているようだ。 “御意” とも言えず、何とも返事のしようがない。

突っ伏していたが為か、いつの間にか水で冷やした手巾が座卓に落ちてしまっていた。 手に取ると桶の水でもう一度冷やして頬に当てる。

「ったく、身体はフラフラなのに・・・」

忌々しげな台詞と相反する表情である。 それもそうだろう。 マツリを見て『誰?』 と言っていたのだから、相好も崩れてくる。 “誰” ではなくなったのだから。

怒ってもいい、罵られてもいいと思っていたところにコレだ。 ある意味己が忘れられたのではない証ではあるが、なかなか素直には受け取れないところもある。

マツリの個人的な思いはさて置き、マツリの話に傾ける耳を持っていなくとも、紫揺にはすぐにでも紫水晶の話をしなければならない。 遠くに離した紫水晶だが、万が一にも紫水晶が力を広げてきては、何も知らない紫揺はまた同じ目に遭ってしまう。

だが当の紫揺がまだ微睡んでいる。 これだけ人の頬に痣を残すほどの拳を入れておいて、である。
内襖の向こうから声がする。 “最高か” の声だ。

「如何で御座いますか?」

「まだ霞がかかったようで御座いますか?」

マツリのように殴られるかもしれない、などと恐れをなしていない。 しっかりと紫揺を覗き込んでいる。

「・・・あ」

「ご無理をされませんように」

「ええ、まだ起き上がられるにはお身体が揺れましょう」

先の二回を考えると、既にマツリが襖を開けているはずが今回はまだ開ける様子がない。 紫揺の拳を恐れているのだろうかと、チラリと思ったが杠との鍛練を見ている。 そんなことがあるはずもなかろうと “最高か” が思い直す。 口にしなくとも互いに目を合わせただけで意思疎通が図れる強固なタッグだ。
ということは、このまま会話を続け紫揺の様子を聞かせるのが、いま一番必要とされているのだろう。
“最高か” が頷き合う。

「ここは・・・」

「宮に御座います」

マツリの房と言ってしまって、マツリという名詞を聞いて紫揺がどんな暴挙に出るか分からない。 ゆっくりゆっくりと。

「・・・彩楓さん・・・紅香さん・・・」

「はい、彩楓に御座います」

「紅香に御座います。 回廊には丹和歌と世和歌もおりまして御座います」

「丹和歌さん、と・・・世話歌さんも・・・」

本当に此処は本領なのか、宮なのか。

「・・・どうして」

どうして自分は本領に居るのだ?

「まずは茶を飲まれませんか? お支えいたします」

紅香が紫揺の背に手をまわす。 彩楓が部屋の隅に置いてあった茶器から茶をカップに入れる。

「紫さまがお好きな茶に御座います」

胸元に出され香りが鼻腔をくすぐった。 甘く優しい香り。

そっと手を出しカップを持つ。 その手を覆うように彩楓が手を添えた。 両手でカップを持つとゆっくりと口に近づける。 ゆるりと彩楓の手が離れる。

「・・・おいしい」

「よう御座いました」

喉が渇いていたのも手伝ってか、すぐにカップの中の日本で言うところのハーブティを飲み干した。
ほぅ、と息を吐いた紫揺。

「お身体の具合はいかがで御座いますか?」

「え?」

「ずっとお倒れになられたままで御座いました。 どこか具合の悪い所が御座いましたり、まだ霞がかかったようで御座いましょうか?」

黒目だけを上に向ける。 多分この様子から、自分の頭の中を見ているのだろう。 霞と言われ、頭の中に霞があるかどうかを。

「大丈夫な気がします」

「お一人でお座りになられそうで御座いましょうか?」

言われて気付いた。 紅香が身体を支えてくれていた。

「あ・・・、有難うございます大丈夫です」

紅香が微笑んでゆっくりと手を離していく。

「お手のお指は動かされましょうか?」

紫揺がグッパとしてみせる。
彩楓が微笑むと「他のお身体も動かされましょうか?」と訊くので、紫揺も不安になりあちこちを動かしてみる。

「痺れなど御座いませんか?」

「はい。 至って元気です」

彩楓と紅香が目を合わせ、良かった、と言いながら安堵の息を吐いた。

「あの、どうしてここに居るんですか? それにここって・・・」

以前こうして布団の中で目を覚ました部屋。 それも遠くない日に。

「東の領土で気を失われておられた紫さまが宮に来られました」

「来たって・・・」

全く記憶にない。 気を失っていたのだから、記憶にないのも当たり前なのかもしれないが、いや、そういう問題じゃない。

「来たって、どうやってですか?」

東の領土から本領、ましてや宮に来るまでは簡単なことではない。

“最高か” が目を合わせた。

「我が運んできた」

襖が開けられた。
“最高か” が身を引く。

一瞬呆気にとられた紫揺だったが、すぐに立っているマツリをねめつけた。
紫揺のその目を見ただけで正気に戻ったと分かる。

「立てるか」

マツリがこの先何をしようとしたのか分かった “最高か” が襖から出て、隅に置かれていたものを卓に置く。
既にキョウゲンは止まり木にとまっている。

「東の領土で倒れてからほぼ四日間何も食べておらん。 まずは食せ」

マツリのエラソーな言いように腹が立つが、それに対して言い返す口などない。 喋りたくなど無いのだから。

空気を読んだ “最高か”。

「紫さま、こちらにご用意しております。 さ、お手を」

紫揺に立ち上がるよう促し、万が一にもふらつかないよう両方から紫揺を支える。
マツリが顔を出したのだ。 マツリの名を憚ることもなかろう。

紫揺を回廊側の襖を背に座卓の前に座らせると、役割分担は自然に出来ている。 紅香が次々と蓋を開けていき、彩楓が紫揺の斜め後ろに座すると説明を始めた。

「マツリ様が東の領土に出向かれました時、すでに紫さまはお倒れになられておられました。 東の領土では紫さまをお気付かせられなかったご様子で、マツリ様がこの本領まで紫さまをお連れになられました」

紫揺が眉を顰める。

「キョウゲンには乗っておらん」

襖の桟に背をもたれかせ腕を組んでいるマツリが言う。 その目は真っ直ぐに前を向いているだけで、紫揺の方を見てはいない。

だが以前のようにわざと紫揺を見ていないのではなく、紫揺に気を使っているのが “最高か” にはありありと分かる。

「さ、お召し上がりください」

「厨の者に柔らかいものを作らせました。 ゆっくりと」

“ごゆるりと” ではない。 まるで小さな子に言い聞かせるように “ゆっくりと”。

「紫が我のことをどう思っていようが今は関係ない。 横に置いておけ。 我が今から話すことをしかと耳に入れよ」

マツリは今も立ったまま、襖の桟にもたれ真っ直ぐに前を向いている。
『我のことをどう思っていようが』 シキから紫揺とマツリの話は聞いている。 それが何を指すのかは分かっている。
紅香が紫揺に箸を持たせると彩楓と共に部屋を出た。 これから話されることは自分たちの聞く話ではないという事は、紫揺が最初に意識を戻した時、マツリが言いかけていたことから分かる。

まだ喉が渇いている。 見覚えのある冷めない食器。
汁物に手を出しかけて手に箸を持たされたことを思い出した。 汁物の具から食べる。

横目に紫揺を見るとマツリが続ける。

「耳に入れなければ、紫の破滅に繋がり、強いては東の領土の民にも害が及ぶ」

民と言われて紫揺の手がピクンと動く。

「良くて紫が潰れるか、それより前に民に厄災が降りかかるか」

ゆっくりと紫揺がマツリを見る。

マツリが瞼を閉じる。

「・・・民に厄災?」

閉じた瞼をゆっくりと上げる。

「まだ頭で考えるな。 それほどには回復していないであろう、混乱を起こすだけだ。 聞くだけで良い」

ガタン!
紫揺が立ち上がったと同時に食器が大きな音をたてた。
紫揺の身体がふわりと揺れる。

襖の桟を背で蹴ると、すぐにマツリが紫揺を支え「誰か」と襖の外の者を呼ぶ。

“庭の世話か” がすぐに入ってきた。 音が聞こえた時から襖に体を寄せていた、行動は早い。
卓の上でひっくり返っている汁椀を持ち、こぼれてしまった汁を手巾で拭く。

「すぐに新しいものをお持ちいたします」

「ああ、よい。 この刻だ。 もう厨に誰もおらんだろう。 汁物の代わりに茶を淹れてやってくれ」

「畏まりました」

これが畳なら畳に沁みてしまっていただろうが板張りの床である。 こぼれた汁を拭き、敷いていた濡れた座布団を換えるだけでいい。

マツリと “庭の世話か” の声が耳に入ってきた。 紫揺が体幹を戻す。 だが支えているマツリの手には少々無理をしているように感じる、まだ手は離せない。

「お召替えはいかがいたしましょう」

ふと下を見ると紫揺の夜衣の裾が濡れている。

「・・・あとで良い」

裾が濡れている程度だ。 急がずともいいだろう。

世和歌が新しい手巾で濡れている部分を軽く叩いて拭きあげている間に、丹和歌が茶を淹れ “庭の世話か” が部屋を出た。

「大人しく食せ」

ゆっくりと紫揺を座らせようとしたのだが時折紫揺が揺れる。 やはりまだ一人で座っていられないかもしれないと、一度紫揺を持ち上げてから座らせる。

「とにかく考えるな。 聞くだけだ。 良いか」

紫揺を座らせたマツリの目に、紫揺の頭頂部が頷いたように見えた。

「まずは、紫はどこまで覚えておる。 滝に落ちてくる男を見たな?」

女の悲鳴が聞こえて声のする方を見たら、男が落ちてきそうになっていた。 いや、もう落ちてきていた。
思い出した。 映像が頭の中で再生される。 目を見開いた。
助けなくっちゃ、こんな所でこんなことをしている時じゃな・・・い。 尻すぼみに頭の中で言葉が消える。
ほぼ四日も眠っていたと聞いた。 それに此処はあの場所ではない。 ・・・もう遅い。
コクリと頭頂部が頷くとギュッと目を瞑る。

「その後のことは覚えておるか」

頭頂部を中心に顔が左右に振れる。

「光が出たことは? 光が男を包んだことは?」

頭頂部が斜めに動いた。 首を傾げているのだろう。

男を目にした後の記憶が一切ないということか、とマツリが考える。

ふと見ると紫揺が何も食べていない。 湯呑にも口を付けていない。 仕方なくマツリが紫揺に箸を持たせてやる。 まるで二人羽織のように。
先程一度紫揺を持ち上げて座らせたが、それはマツリのかいた胡坐の上に、紫揺の尻を置いて座らた状態である。 胡坐の中にスッポリと入った尻は安定良く座っている。

「食しながら聞け」

マツリ自身、どうしてこうなったのかと、情けなくなってきている。 揺れる紫揺を座らせるに他に方法があっただろうにと、何の考えも浮かばなかった己に口を歪め、紫揺に箸を持たせると後ろに手をついた。

「塔弥から聞いた。 男を見上げていた紫の額の煌輪なるものから、紫に光るものが出て男を包み込んだと。 男は光によってゆるりと地に下りた。 光はその後弾けるようになくなった。 そのあとに紫が倒れた」

「・・・じゃ」

「ん? なんだ?」

「男の人は・・・?」

「助かった。 紫によってなのか、額の煌輪なるものによってなのか、そのことは今はよい。 いずれにせよ男は助かった。 礼を言うより先に紫のことを案じておったらしい」

「良かった・・・」

「安堵したのなら食せ」

持たされた箸をゆっくりと動かす。

マツリの足の上に尻を置き、その前に軽く足を曲げて座っている自覚があるのだろうかと、まるで幼子の座り方、女人にあるべき姿では無いと訝しむが、今はこの流れを止めない方が最善だろうと話を進める。

「紫の部屋にあった紫水晶を覚えておるか」

紫揺が動かしかけた箸を止め考えるようにしている。 まだハッキリとしていない部分があるようだ。
思い出したのかコクリと首肯する後頭部が見えた。

「あれは・・・。 難しいかもしれんがよく聞け」

あの紫水晶は紫の為にある石である。 初代紫が後の紫の為に息を吹きかけた石である。 そして現れるべくして現れた。 初代紫にはその力に苦悩があったのかもしれない。 それが故、後の紫の為に石を残したのだろう。 石に息吹を吹き込めるほどに、初代紫には力があった。
そんな風にマツリが静かにゆっくりと間を持ちながら話した。

「初代紫に苦悩? 後の紫の為にって・・・現れるべくしてって・・・それって、私のこと・・・?」

「良いか、今は考えるな。 まだ先に進まねばならん。 紫が知らなければ、先ほども言った、何が起きるか分からん。 民のことを思うのであれば考えず我の話を聞け」

紫揺の頭がうな垂れるが、それでも聞く姿勢はあるのだろう。 うな垂れた後、僅かに頷いた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第95回

2022年09月05日 21時04分46秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第95回



「阿秀、御者台でマツリ様からお聞きしたことを話します」

そして阿秀から領主に話す。 いつものパターンだ。

「いや、いい。 又聞きより塔弥から領主や他の者に話す方がいいだろう。 このまま全員で領主の家に行く。 その時に話してくれ」

「分かりました」


此之葉が顔を上げた。
同時に違う場所で独唱と唱和が目を合わせた。
独唱と唱和が感じる大きなものがなくなった。 そして此之葉がふるふると感じていたものがなくなった。

「どうして・・・」

紫揺が運ばれる馬車に同乗したかった。 だがマツリから言われたことがあった。 このふるふると感じていたものが気になって馬車に乗ることが出来なかった。
良きものか悪しきものかも分からない。 見過ごすことが出来なかった。 だが今それがフッとなくなった。 何日も張りつめていた脳と身体が弛緩する。 身体を脱力させるとすぐに思い返して、まだ起きているだろうと、独唱と唱和の元に行こうとしかけ足を止めた。

「蹄の音・・・」

蹄の音が聞こえる。
お付きたちが戻ってきたのだ。 紫揺の様子を聞いてから独唱と唱和の元に行っても遅くはない。
阿秀が領主に報告に行くだろう。 その間に塔弥にでも訊こう。
お付きたちが部屋に戻るまで待っておこう。 それまでこの張りつめていた身体を横たえ休めよう。 そう思っていたが、横になっていくらも経たないうちに、領主の家に来るようにと呼ばれた。

領主の家に集まった領主、秋我、お付きたちと此之葉。 マツリから聞かされた話を塔弥が聞かせる。 あくまでも紫揺を奥に迎えるという話以外を。

最初に一番短くて済み、此之葉も不安だろう “古の力を持つ者” が感じていたものの話をした。

「え? では、あのふるふるとしたものを感じなくなったのは、マツリ様が本領に入られたから?」

「そうなんだ、感じなくなったんだ。 正にマツリ様の仰っていた通りということか」

「それでは悪しきものでもなんでもなかったということか?」

領主に問われ「それなんですが」と、紫水晶のことを話し出した。 そこにはどうして紫揺が倒れたのか、どうしてマツリが紫揺を本領に連れて行ったのかということも含まれている。

「それほどに紫さまのお力が大きく、目覚められたとしてもお力に紫さまが潰れられ、悪くすれば民に厄災が起きると仰っておられました」

塔弥の締め括った言葉に誰もが息をのみ驚いた顔をしている。
ようやく息を吐いた領主が腕を組んだ。

「先ほどの此之葉の話からするに、マツリ様の仰られたことは間違いないのだろう。 紫さまがあの紫水晶と離れた所に居られれば、気が付かれるというのもそうなのだろうな」

塔弥が頷く。

「それにしてもそれ程に強いお力をお持ちだったとは」

初代紫に匹敵するほどの力を持っていたとは。
紫揺と知り合って一番時の浅い秋我が言うが、誰もがそう思っている。

「ああ、あのまま何も知らず紫さまに何かあっては大変なことになっておった。 それに民にも」

紫揺の、紫の力を計ることが出来るのはこの領土の中にはいない。 比較する力を持つ者もいないのだから。

「初代紫さまが後の紫さまの為に作った石。 現れるべくして現れた・・・」

独語のように領主が言ったのを受けて野夜が訊く。

「梁湶、何かそれらしいことを書かれていた書はないのか?」

この領土で一番書を読んでいるのは梁湶だ。 そして “初代紫さまの書” が存在しないことは誰もが知っている。

「・・・無いな。 まず “初代紫さまの書” が無いんだ。 関する書もなければ、その時代の書もない」

今のように平静な領土ではなかった。 書を残すなどと考えられなかったのだろう。

『五色の力は民が五色を愛してこそ五色の力』 そんなことも知らなかった。 どこかで途絶えたのだろう。 当たり前に五色を想ってきていたこの領土の民なのだから。

塔弥からすべてを聞いてそれぞれに考えるところがありながらも、いかにこの領土は五色のことを知らなかったのかと痛感させられた。 そして紫を、紫揺を守るために今はマツリに頼るしかないと。
帰り際、領主が塔弥を止めた。

「はい」

「マツリ様は何用があって来られたかは、言っておられなかったか?」

「あ・・・」

一瞬にして背中に汗がにじむ。

「あっと・・・紫さまのお話しかしませんでしたので」

心当たりが無いと、困った表情を見せた。 実際、そんなことを訊かれ困っているのだから。

「そうか・・・。 お急ぎでなかったということか」

「そのようかと・・・」

時は遅くなってしまった。 独唱も唱和ももう寝ているだろう。 此之葉が独唱の家に向かったのは翌日となった。


何度か紫揺を抱え直しながら山を上ったマツリ。 杠との鍛練のお蔭なのか、息を上げることもなく紫揺を落とすこともなかった。

洞を抜け岩山を下っていくと光石が出迎えてくれた。 月明かりがある、光石が必要なほどの暗闇ではなかったが、あるに越したことは無い。

「意外と早いお着きでしたね」

「待たせて悪かったな」

「いいえ、これしき。 キョウゲンが文を携えてきた時には何事かと思いましたよ」

マツリ抜きでキョウゲンと対峙することなど無いのだから。
その文には『馬を一頭用意しておいてくれ』 とだけ書かれていた。 キョウゲンが持って来たのだから差し出した相手は分かっている。
そのキョウゲンは今マツリの肩に居ない。 暗い洞の中のマツリの足元を誘導し終え空を飛んでいる。

「お休みですか?」

マツリに抱えられている薄物に身を包んだ紫揺の顔を覗き見る。 それは己が運ぼうかという意味である。 見張番であるのだ、マツリよりずっと馬の扱いに慣れている。

「いや、なんということは無い。 我が運ぶ」

「では馬を連れてきます」

剛度の乗る馬は今ここにいる。
連れてこられた馬には剛度の馬と同じように既に光石が付けられていた。
では、と言って剛度が両手を差し出す。 何のことかとマツリが首を捻る。

「紫さまを抱えられたまま馬には乗れませんでしょう」

一瞬マツリの目が剛度の目から外れた。
言われてみればそうだ。
ここだけは仕方がないか・・・。

紫揺を剛度に預け騎乗する。 剛度から紫揺を受け取ると横座りに座らせ、そのまま片手で抱えてもう一方の手で手綱を握る。

「かなり危うく見えますが? 平地ならまだしも岩山を下りられますか?」

確かにそうだろう。

「無理をする気はない。 落としてしまってはどうにもならないのだからな。 ゆっくりと行けるところまで行く。 悪いが岩山を下りるまで後ろについてくれるか」

どうしてだかニヤリと笑ってから「お任せを」と、自分の馬に跳び乗った。
そして宮までずっと後ろをついてきた剛度であった。


今日マツリが東の領土に行ったことを聞きつけたパシリ。 情報元は杠である。 その辺の噂でも何でもない。

パシリが杠に頼み込んでかなりの時が経っていた。 杠は波葉の事情を察してすぐにマツリに言ったが、やはりマツリは動いてはくれなかった。 今の本領を考えるとそれは致し方ないとは分かっている。

毎日を針の筵で過ごしているとやっとマツリが動いた。 杠からの情報である、これは間違いないと、司令塔に報告をした。 すると結果を訊きに行くようにとの命を仰せつかったのであった。

あっちにウロウロ、こっちにウロウロとしながら大階段で上空を見上げていると、何故か門が開く音がした。
こんな刻限に誰がやって来たのだろう、マツリとの話を折られるような相手では困る。 まさかご隠居だろうかと目を凝らして見ていると、その姿がどんどん大きくなってきて、しっかりと光石に照らされる前におかしな人影に見えた。

単に胴だけがずんぐりむっくりに見えなくもないが、片方の胴の横から蜘蛛のように足が覗いているようにも見えるし、それが意志を持たず揺れている。 もう片方の胸当たりからは丸い玉のようなものも見える。 それも歩くたびに揺れている。
眉間に皺を寄せるパシリ。

異様なずんぐりむっくりが段々とその姿を露わにした。

「あ? え? ええぇぇぇーーー!!!」

パシリの叫び。
パシリが慌てて大階段を降りる。 下足番はいない。 慌てすぎていくつかの履物を落としながら、置いた己の履く履物もひっくり返して地に置く。
足でひっくり返った履き物を戻すと足を入れ、ずんぐりむっくりではなかったマツリの元に走った。

「マツリ様!」

「これは、義兄上。 こんな刻限まで宮に居られて宜しいのですか?」

「なにをっ! なにを悠長なことを仰られておられますかっ! 紫さまが・・・。 紫さまはどうなされたのですか!」

マツリの腕の中にあった、蜘蛛の足でもなければ丸い玉でもなかった紫揺の足と頭。

「東の領土で異なことがありまして、連れ帰ってきました」

「異? 異なこと!?」

これだけ大きな声を出しているのに、紫揺に目覚める様子がない。

パシリ・・・いや、波葉も、門に背を向けているマツリも気付いていないが、ジリジリと陰に隠れて門から歩いてきていた内門番たちが、波葉とマツリの会話に耳をそばだてて聞いている。

内門番が外門番に「マツリ様がお帰り」と言われ、門の横木を引いて門を開けた。 すると意識のない紫揺が、マツリに抱えられ馬に乗って入ってくるではないか。

常なら夜であれば、マツリはキョウゲンで宮に戻ってくる。 陽の明るい内であれば、他の門から馬で出入りすることはあったが、この門からマツリが馬で出たとは交代のときに聞いていなかった。 それなのに馬で戻ってきたこと自体どうしたことなのかだったのに、意識のない紫揺を抱えている。
そのマツリは紫揺を抱えたまま馬から跳び下り、馬を見張番に渡していた。 そしてキョウゲンの姿も見えない。

外門番にしても同じことを考えていたが、見張番が馬を連れて門をくぐると門は閉められた。 中で何があるのかを窺うことは出来なかった。

「紫さまは、紫さまはどうされたのですか!?」

マツリに抱えられている紫揺を見ることなく、マツリにすがるように問う。
紫揺に何かあれば司令塔に何と言えばいいのか。

波葉の問いに内門番が何度も首肯する。

「気を失っているだけで御座います。 明日には気付いているでしょう」

キョウゲンは既に岩山から、あの紫水晶を遠くに置きに行った。

「本当に? 明日には気付かれますか!?」

「はい」

波葉がほう、っと息を吐くと、ずっと後ろの陰で同じように安堵する内門番。 その者たちが一人を残して踵を返した。 外門番に知らせなくては。

「義兄上、申し訳御座いませんが、以前、姉上の従者をしておりました彩楓と紅香という者がおります。 その者たちを呼んではいただけないでしょうか」

「今は女官の者ということですか?」

決して彩楓と紅香が格落ちしたということではない。 元々、彩楓と紅香はシキ付きの末端だったのだから。 それ故、シキに付いて波葉とシキの邸について行けなかっただけである。 とは言え、彩楓と紅香はシキではなく紫揺を選んだところがある。
女官たちは既に仕事を終え奥に引っ込んでいる。

「はい、すぐに呼んで参ります」

“最高か” の顔を知らないわけではない。

「我の房で待っております」

「承知いたしました」

四方の承諾なしに宮の部屋を使うわけにはいかない。 取り敢えず紫揺をマツリの部屋に運ぶことにする。


「う・・・ん」

ずっと起きていたマツリが、襖を背に肩越しに振り返った。

(キョウゲンがかなり飛んでくれたか)

キョウゲンがどこまで飛んだかは分からないが、あの紫水晶が徐々に範囲を広げ、紫揺に再度影響を及ぼす前に、紫揺には言ってきかせなくてはならない。
とは言っても、マツリと紫揺の間には困ったものがある。 それはマツリ自身が作ったものだとは分かっているが、紫揺が簡単にマツリの言うことを受け入れるだろうか。

襖の向こうから「紫さま?」と彩楓と紅香の声がする。
マツリが立ち上がった。

「開けるぞ」

襖の向こうに言うと返事を待たずマツリ自ら襖を開けた。
彩楓と紅香が驚いた顔をマツリに見せる。

「時が惜しい。 下がっていよ」

マツリの威圧に押され彩楓と紅香が場を譲る。

微睡(まどろ)んだ目をしていた紫揺の焦点が合う。 焦点が合ったのは天井。 何本かの木が走り、薄い黄土色の天井を幾つもの長四角にかたどっている。 見覚えのある天井。
でもそれは紫揺の家ではない。

「・・・え?」

「目が覚めたか」

記憶にある声音。
ゆっくりと首を巡らす。

「なっ! なんで!?」

ガバッと起き上がろうとして、身体がコンニャクのようにたわみ、再び倒れるのを何かが受けた。

「今はまだ無理をするな。 我の話しだけを聞け」

紫揺の身体を支えていたのはマツリの腕だった。 そっと紫揺を寝かせる。

マツリの話しなんて聞かない、そう言いたかったが、それ以前にどうしてマツリがここに居るのか? それにここは・・・あの天井はマツリの部屋ではないのか? 何もかもが分からない。

「滝を覚えておるか? そこから男が落ちてきたことを」

説明としての開口一番の内容に “最高か” がひっと声を上げる。

紫揺にしてみれば唐突な話だった。 マツリを見た。 見たくないのに。

「男が落ちてくるところを見たか?」

男が落ちてくるところ? 紫揺がマツリの目から視線を外す。 正面を見る。 天井を。
紫揺が思い出そうとしているのだろうとマツリが待つ。
時は長かった。

「・・・あ」

長い時を破って紫揺が声を上げた。

「思い出したか?」

紫揺の唇が震え始めた。

「紫?」

紫揺が掛けられていた布団を撥ねると、その指が震えている。

「紫」

ゆっくりと起き上がる紫揺。 身体が左右に振れている。

「・・・行かなくっちゃ」

紫揺の揺れる身体をマツリが支える。

「行くことは無い」

その者は紫の力で救われたと言いかけたが、紫揺がそれを言わせなかった。
いま何を言われたのか、耳に届いた声は何を言ったのか、民を救いに行く必要が無いと言うのか。 どうしてそんなことを言うのか。

紫揺がゆっくりと首を回すとマツリを見た。

「・・・誰?」

―――想定外だった。

再び紫揺の瞼が閉じられた。


次に紫揺の瞼が開けられるまで長く感じる時を要した。 だがそれは真実時が長かったのか、待つ者の精神的なものかは分からない。

「紫さま?」

彩楓と紅香の声が聞こえた。
うつらとなっていたマツリが、卓に顔を置いていた状態から目を覚ました。
窓が開け放たれている。 いつの間に開けられたのだろうか。 窓から見える陽の光から昼前だと分かる。

一日二日、三日でも四日でも殆ど寝ずに領土を見て回ることが出来ていたのに、どうしてここで寝てしまったのか。 そう思うと、東の領土で秋我に言われたことを思い出す。

(やはりまだ疲れが取れていなかったのか・・・)

立ち上がり襖に向かって問う。

「起きたか?」

言い終わると同時に襖を開けた。 今回も彩楓と紅香の返事を待たない。 だが心得た彩楓と紅香が場を譲る。

薄っすらと紫揺が瞼を上げた。

「紫、聞こえるか?」

紫揺がマツリを見て『誰?』 と言って瞼を閉じ全身を脱力した。 そしてそのまま眠りの縁へ落ちた。
キョウゲンが紫水晶を遠くに置いたのは間違いない。 一度は紫揺が目覚めたのだから。
だがマツリを記憶していなかった。 怒ってもいい、罵られてもいい、なのに誰と訊かれた。

それほどにあの紫水晶の力が大きかったのか・・・。 離れても残滓のようにおくものがあったのか。
マツリが考えるが、そうではなかった。

紫揺はマツリの声を聞いた時、民を救いに行く必要が無いと言われたと思った。 どうしてそんなことを言われるのか。 それは紫揺にとって何もかもを否定されたと同じだった。 そのショックからマツリさえも分からなくなってしまった。

キョウゲンはまだ戻って来ていない。

「紫、我が誰か分かるか?」

ぼぅっと天井を見ていた紫揺に問う。
天井を見ていた。 「誰か分かるか?」と言う声がしたと思ったら、見覚えのある顔が目の端から入ってきた。

「・・・マツリ」

「そうだ。 我はマツリ。 我のことを憶えているか?」

真っ直ぐに天井を見ていた紫揺が首を回す。 目の前にマツリの顔がある。
どうしてここにマツリが居るのか? どうして目の前にマツリが居るのか?
利き手の拳を握った。

拳が震える。

「キャー!! マツリ様!!」

聞き覚えのある声が聞こえた。 それもとても大音声の叫びで。 気が遠くなっていく。 身体がジンジンする。

再び眠りに落ちた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第94回

2022年09月02日 21時10分59秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第94回



「すぐに馬車が参ります」

「手を煩わせるな」

「秋我をご一緒させます。 紫さまのお身体は秋我が―――」

「いや、よい」

領主に最後まで言わせずマツリが言う。

「え?」

「我が抱えて行く。 キョウゲンに乗せられれば良いのだろうが、それがまかりならんからな」

『供は主にだけ仕え、その背は主以外に触れさせてはならぬ』 供に決められたものがある。
そして主の方にも 『主は供を慈しみ、その背を誰からも触れさせてはならぬ』
それが供と主に決められている禁。

「ですが山の中お一人で紫さまを抱えられてはご無理が御座いましょう」

秋我になら出来て己に出来ないと言っているのか。 先ほど秋我が言ったように、まだ己には疲れた顔が残っているのか、それとも己には、はなから無理といっているのか、本領に気を使っているのか。
マツリが腕の中に居る紫揺を見た。

「この程度、なんということは無い」

地下では何の疑いもなく坊と呼ばれた身体つきだ。

これ以上領主からは言えない。 二度もマツリに断られてしまったのだから。

馬車がやって来た。 いつものオープンの馬車ではない。 万が一にも今の紫揺の様子を民が目にしては困る。 周りを湾曲に囲い、紫が乗るに相応しく装飾が施されている。
御者台には阿秀が乗っている。 馬車に付いて歩いているのは塔弥。 他のお付きたちもそれぞれが馬を曳いている。

マツリが紫揺を抱えたまま乗り込む。 腰を下ろす長椅子には振動がこないように、ふかふかの座布団が敷かれている。

「マツリ様、ご一緒させて頂いても宜しいでしょうか。 せめて馬車の中だけでも私が紫さまを」

秋我が言うがマツリが首を振った。

「かまわん。 それより紫の光が出たという時の話しを、もう少し詳しく訊きたいのだが」

断られてしまってはこれ以上言えない。

「それでは塔弥がこちらにご一緒させて頂いて宜しいでしょうか」

「塔弥が見ておったのか?」

「はい。 他の者は違うところを見ておりましたので」

「では塔弥を」

秋我が頷いて塔弥を呼び、塔弥が乗ろうとしていた御者台に座る阿秀の隣に秋我が座った。
マツリが馬車に乗り込んだ時、どこかの枝にとまっていただろうキョウゲンが飛んで来ていたが、すぐに飛び去って行った。

馬車に乗り込んできた塔弥。 何故かそのすぐ後にガザンも入ってきた。 塔弥がなんとかガザンを下ろそうとするが、足元で伏せをして頑として動かない。
「かまわん」というマツリの声で諦め、次いですぐに紫揺を抱えると言ったが、あっさりと断られてしまった。 仕方なくマツリの斜め前になるよう長椅子に座り、秋我から聞いていた紫の光が放たれた前のことから話し出した。

黙ってマツリが聞いていたが、それはあまりにも短い話だった。

「ではその時、紫は男を見上げただけだと」

「はい。 特に何かをされたということはありませんでした」

「ふむ・・・」

何かを考えこむようにしていたが、急に足を動かし立膝をついた。 そして紫揺を抱えている片腕を立膝をした上に置く。 紫揺がマツリの膝の上に横座りになっている状態になった。

「あの、やはり山までは己が」

「ああ、気にするな。 少し考えたいからだ」

紫揺が重たくなってそうしたのだろうと思って言ったが、そうでは無かったようだ。

「領土に何か変化はなかったか」

「変化? 変化と申されますと?」

「異変とでも言おうか。 此之葉や独唱は何も言っておらんか」

「あ・・・」

思い当たることがある。 とくに葉月は恐がっていた程だ。
マツリが塔弥を眇める。

「独唱様と唱和様は “大きなものを感じる” と。 此之葉はふるふると何かを感じていたようでした。 そして “古の力を持つ者” 全員が、それが段々と大きくなってきたと。 ですがそれが何なのかは分からないと」

塔弥が言うのを聞いてマツリが懐に手を入れた。 出してきたのはあの大きな紫水晶。 手巾から出すと塔弥に見せる。

「その原因はこれだろう」

「え?」

「たぶんこれは初代の紫が残したもの」

「初代紫さまが?」

「これの影響を受けて紫の額にあった紫水晶が紫とこの石と共鳴した。 その結果が紫の光だろう。 此之葉から聞いたが、もしこの紫水晶を削っていればどうなっていたか分からん」

「・・・あ」

「紫をあのままにしておればこの紫水晶の影響を受け、今回のように知らずの内に力を出してしまう。 身体がついて行けず紫が潰れるだろう」

「そんな・・・」

「この紫水晶は現れるして現れたのだろう。 元の場所に戻すこともままならん。 取れる道は一つ。 紫の力をもっと紫が知ること」

手巾に包み直すと懐に入れる。

「・・・紫さまは目覚められるのですか?」

「ああ、それは心配せずともよい。 この紫水晶から距離を置けば目覚めるだろう。 今は紫と共鳴してしまった額の紫水晶を切っ掛けとして、この紫水晶の力に押されているだけ」

良かった、と吐く息の中で塔弥が言った。

「“古の力を持つ者” たちが言っておった異なるものは、これが本領に入ればなくなるだろう。 だが、もしなくならないようであれば他の可能性を “古の力を持つ者” が感じねばならん。 紫不在である間は “古の力を持つ者” が領土を災いから守らねばならん」

「はい」

ホゥホゥとキョウゲンの声が聞こえた。

「戻ってきたか」

この馬車を見てから飛んで行ったのだ、顔を出さずともいいだろう。

「・・・マツリ様」

呼ばれ塔弥を見ると目が合った。 口を引き結んでいる。 そして彷徨わせた視線を下げた。
目はあったのだ。 必要であれば塔弥から話し出すだろう。 こちらから「なんだ」という必要はない。

「・・・紫さまから聞きました」

マツリが塔弥を見て片眉を上げる。 塔弥はまだ下を向いたままだ。

「以前、紫さまが倒れられた時にマツリ様が来て下さったことも、紫さまを目覚めさせて下さったことも、紫さまには言っておりません」

塔弥が更に頭を下げる。

「・・・紫さまを奥に迎えられるのですか」

塔弥がゆっくりと頭を上げるとまっすぐにマツリを見る。 その目をマツリが正面から受ける。

「そのつもりだ」

塔弥の唇が震える。
紫揺に何かある度、こうしてマツリに頼らなくてはいけない。 言い変えれば誰よりも紫の力ことを分かっているのは・・・いや、それだけではない、紫揺のことも分かっているのはマツリだ。 東の領土の人間では紫揺を、紫を守り切れない。

「この事を知っているのは己と此之葉の妹の葉月という者だけです。 領主にも此之葉にもまだ言っておりません」

「ああ、そうしてくれると助かる。 我から領主に言う前に、領主の耳に入るのは良いこととは言えんからな」

「・・・このまま紫さまを本領に置かれるのですか」

何度このように訊かれたか。 東の領土にとって紫揺がどれほど想われているのかがよく分かる。
『五色を愛することが五色の力となる』 シキが言っていたことを思い出す。

「案ずるな、その様なことはせん。 この事はこの事。 我の想いとは別のことだ」

それに今は嫌われているからな、杠が相手だったらそう言っていただろう。

塔弥が視線を下げた。

「知っておるか。 五色の力は民が五色を愛してこそ五色の力となる」

何のことかと塔弥がマツリを見る。

「今代の紫の力は生まれ持ってのものが大きいだろう。 だが民や領主、それと・・・お付きと言ったか、紫の近くにいるその者たちが紫を愛する。 それが紫の力ともなっておる。 民に愛されない五色は力を削がれる」

「え・・・」

「東の領土の民は五色を・・・紫を愛しておろう」

「それはもちろんで御座います。 紫さまも民に応えておられます」

「五色と民の模範のようだな」

フッとマツリが目を細め目線を下にさげた。 今もまだすやすやと眠っている紫揺。 顔にかかっていた髪をそっと指先で払ってやる。

「先ほどはそのつもりだと言ったが、つもりではない。 奥に迎える以外は考えておらん。 いつまででも、何十と歳を重ねても、紫が我に心を寄せてくれるのを待つ。 急いではおらん。 ゆるりと紫を待つ。 そして東の領土から紫を取り上げることは無い」

「マツリ様・・・」

マツリが紫揺を奥に迎えると言う。 それなのに東の領土から紫揺を取り上げることは無いと言う。

―――矛盾している。

だがそう言うマツリを信用できるような気がする。

「今日はな、領主に紫を我の奥にしたいと言いに来た」

「え・・・」

驚いた顔をする塔弥をマツリが面白そうに見る。

「だが言う前にこれだ」

「あ? え? では?」

「言っておらん。 ぶち壊してくれたわ」

そう言って相好を崩して紫揺を見る。

「あ、あの!」

マツリが塔弥に視線を転じる。 問う声は出さない。

「紫さまは・・・その・・・」

マツリが紫揺の首筋に唇を置いたことを許嫁の約束かと思っていた、そして接吻をすると子が生まれると思っていた、そんなことを言い、最後には葉月が全てを教えたと説明する。

塔弥の顔は見るのも気の毒なくらいに赤くなっている。

「そうか・・・」

どうしたものか。

葉月の説明がなければ、紫揺は今もあの首筋への口付けが許嫁の約束ごとだと思っていたはずだ。 それが解かれてしまった。
洞を歩いていた時の紫揺の言葉が思い浮かぶ。
『結婚をして手を繋げはいいのか。 うん、そこそこの人ならいいか。 嫌いじゃなければいいんだ』
どうしたものかと考え込みかけたが、紫揺の寝顔を見て頬が緩む。

「それでは接吻で、やや・・・赤子が生まれないと知ったのだな」

「はい・・・」

塔弥の頭頂火山爆発、マグマのように顔が熱い。

「今回、紫が倒れた時に抱えたのは阿秀といったか。 その者は?」

「この馬車の御者で御座います」

ガザンがむくりと立ち上がり紫揺の顔を覗き込んだ。 長椅子に前足をかけるとベロンと紫揺の頬を舐める。

「この犬は」

己の匂いを嗅いできたり、紫揺の横に寝ていたり、今回もそうだ。 どうして馬車に乗り込んできたのか。 それに己の匂いを嗅いできた時に、お付きと言われる者たちは何も言わなかった。

「元は北の領土の者たちが、日本にある屋敷で飼っていた犬だそうです。 紫さまがその屋敷に居る間に気持ちが通じ合ったようです。 最初は北の領土に連れて行くつもりだったそうですが、この犬を・・・ガザンを抑えられるのは紫さましか居ないということで、紫さまが仲良くしていたガザンの飼い主が紫さまに託されました」

「飼い主なのに抑えられなかったのか?」

「最初は北の領主が飼っていたそうですが、思うように動いてくれなかったそうです。 その後をガザンが唯一懐いていた子が引き受けたそうですが、紫さまのこととなるとその子の抑えもきかないと。 それでは北の領土に帰って万が一何かがあってはどうにもならないと、紫さまに託されました」

洞が閉ざされるのだから北の領土に連れ帰ろうと思ったが、ままならなくなったということか。

「ほぅ・・・」

「我が領土ではこのガザンの許しが得られないと、紫さまに近寄らせてもらえないと言われています」

(紫の鉄の守りか・・・)

「ガザンは・・・紫さまに心を寄せていない者を近寄らせない、紫さまに害ある者には威嚇をする。 己は一度でも見たわけではありませんが、領土の者はそう思っております。 実際そうだと己も思います。 日本の地で北の領土の者の関係から、お付きの者達がガザンに相当威嚇をされたそうですので」

そしてセミになった。

興味深げにマツリが聞いている。

「マツリ様が・・・紫さまのお身体の具合をみられるのにガザンの手をとられました」

その時のことはしっかりと覚えている。 紫揺の身体にガザンが手を乗せていたから、邪魔になりその手を退かせたのだから。

マツリが頷く。

「ガザンは紫さまが心を開いている者にしか、心を許さないと言われています。 自惚れと思われても仕方がありませんが、ガザンが心を許しているのは紫さまの愛馬と己だけと言われています」

マツリが両の眉を上げる。

「ですが己は・・・。 ガザンは。 ・・・ガザンはマツリ様にも心を許していると思います」

「・・・どういうことだ」

「ガザンが心許していない者に手を取られ、黙っているはずがありません。 ガザンが黙っていたのは、紫さまがマツリ様に心を開いておられるからかと・・・」

ずっと塔弥を見ていたマツリが宙を見た。

何も知らない紫揺はすやすやと眠っている。

「想いの支えになる。 礼を言う」

馬車が止まった。

「一つ問う。 先ほど此之葉ではなく、此之葉の妹と。 それは何故か」

「此之葉も己も日本の言葉が分からない時があります。 逆に紫さまもこちらの言葉が分かられない時があります。 此之葉の妹の葉月は日本に居ましたので、紫さまのお話したいこと、お訊きになりたいことを間に立って互いに話してくれますし、紫さまも葉月のことはよく知っておいでですので」

「ではどうしてその話の時に此之葉が居なかったのか」

“古の力を持つ者” は五色に付いていなければいけない。

「この話しのことは何度お尋ねしても、紫さまは此之葉に話されませんでした。 己にもそうでした。 本領や領土の約束ごとも何もかもが分かられない状態で、お話される気にはなられなかったのでしょう。 ですが己には・・・己が交換条件を出しました。 己が己のことを話す代わりに、紫さまの憂いを話して頂きたいと。 己が紫さまにご心配をお掛けしていたことがあったので」

「・・・そうか」

馬車が止まって戸を開けようとした秋我であったが、中から話声がする。 今はまだ開ける時では無いのだろうと待っていると中から戸が開けられた。
一番にガザンが出てきた。 そしてマツリが紫揺を抱え直すと馬車を下りた。 秋我が下りてくるマツリを迎える。 最後に塔弥。

「塔弥に事情は話しておいた。 いつまでかかるかは分からんが本領で紫を預かる。 少々長くなるやもしれん。 その旨、領主に伝えておいてくれ」

「はい・・・」

秋我が返事をするが、何も話を聞いていない。 納得しての返事にはならなかった。

下馬した者はみな手綱を持っている。 手綱を持っていないのは秋我と塔弥、そしてもう一人。

「阿秀か?」

紫揺を抱えたのはこの馬車の御者であると塔弥から聞いていた。 馬の手綱は持っていないだろう。

一介のお付きである者が、本領領主の跡継ぎから声を掛けられるなど有り得ない事。 名指されて阿秀に緊張が走る。

「はい、阿秀に御座います」

「紫が世話になった。 礼を言う」

阿秀は頭を下げることしか出来ない。 どうしてマツリから礼を言われなければいけないのか。 心当たりは滝壺で紫揺を抱えたことだ。 だが紫揺を抱えたことなどこれが初めてではない。 それなのにどうして礼を言われなくてはならないのか。

塔弥がようやっと軽く息を吐いた。
秋我にも己にも紫揺を抱えさせなかった。 だが昨日、阿秀が紫揺を抱えた。 その話しを塔弥がマツリに聞かせた。
マツリは今回、東の領土に来てから誰にも紫揺を触れさせていない。
ケリをつけたかったのだろう。 阿秀に礼を言うことで。 それ程に誰にも指一本、紫揺を譲りたくないのだろう。

―――マツリ様の想いは確かなものだ。

紫揺を抱えたマツリの姿とその上を飛ぶキョウゲンが山の中に消えていった。
ずっとそれを見送っているガザン。

お付きたちが上がっていた肩を落ろしたが、紫揺について行こうとしないガザンの背中に目をやる。

「ガザンはどうしてついて行こうとしないんだ?」

塔弥の肩がビクリと動く。

「紫さまが居られない間、領土を守っていようと思っているんだろう」

「んなもん思うかい。 ガザンは紫さまが安全に暮らせればそれでいいんだから」

「いや、だから。 紫さまが戻って来られた時の為に領土に残るんだろう。 それまでに紫さまに害為す者が現れないように」

「・・・ふーん。 そういうことかぁ。 ガザンも考えてんだぁ」

ガザンがついて行こうとしないのはマツリを許しているから。 最初の突っ込みどころはいいが、詰めが甘いな。 そう思って塔弥が肩を下ろした。

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