大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第128回

2022年12月30日 20時54分46秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第128回



走って走って山をかけ登る。 此之葉に負けない程に肩で息をしていながらも駆け上る。

「だ、れ?」

ようやっと着いた。 導かれるままに。 それを信じたままに。
上がった息を整えようとした時、映像が視えた。
進化した彰祥草の香りを嗅ぐ香山猫の姿。
香山猫が鼻を歪めた。 物足りないと。

(・・・進化した彰祥草では香りが足りない?)

それはあの辺境に居た香山猫ではない。 進化した彰祥草につられてやって来たのは他の香山猫というのがどうしてか何気に分かる。
目の前から鼻を歪めた香山猫が、進化した彰祥草が、歪んでぼやけて消えていく。 そしてついさっき目にした山の風景が姿を現した。 駆け上がってきた山の斜面ではなく、木々がまばらに立っている広々とした場所。

(どうして・・・)

どうしてあんな映像が視えたのか。
ふらりと前に歩いて行く。

お付きたちがようやく斜面から上がってきた。 身体の大きい梁湶、若冲、醍十はその身体の重さから足を何度も滑らせ遅れをとっている。 先に走ってきたのはやはり一番身軽で駿足な塔弥。 続いて息を上げた湖彩と野夜そして悠蓮。

野夜が紫揺を呼ぼうとしたのと同時に走りかけたのを塔弥が手を出して止めると「このままで」 紫揺に聞こえないように声を静めて言う。
紫揺がいつまた走り出すか分からない、距離をあけたくない。 それは誰もが考えていることだ。 誰もが。 もちろん塔弥も。

これが阿秀であれば逆らうところではないが、野夜が塔弥の言うことを聞かなければならないことなどはない。
塔弥を押しのけて紫揺の元に走るも、塔弥の言うことを聞いて様子を見るのも野夜の判断。 迷った末に塔弥の判断に任せることにしたが、紫揺の様子がおかしいのはたとえ後姿からでも分かる。
身体がふらりと揺れている。 地に足が着いていないと思わせる様子。

湖彩が塔弥に近寄って声を押し殺して叱責する。

「塔弥!」

息が上がっている時に声を殺して言うのはなかなかに難しいが、紫揺には聞こえていないようだった。

「あと少し。 それ以上は距離をあけるつもりはない」

遅れをとっていた三人もやって来た。 振り返った悠蓮が手で制する。

「あの大木を過ぎられたら。 それまでは待ってくれ」

紫揺の行く先に大木がある。 樹齢何百年になるのだろうか。 その大木を通り過ぎた時には走って紫揺を止めに行く、塔弥がそう言っている。
ふらりふらりと歩いていた紫揺が大木の前に来て足を止めた。

「・・・」

どうして自分はこの木の前に立ったのだろうか。
大木を見上げる。 枝が何本も前後左右に伸び、幾つもの生き生きとした葉をその手に乗せている。

≪触(ふ)れよ≫

(え?)

ギザギザとした声が聞こえた。 触れよ、と。 左右をキョロキョロと見るが声を発する者などいない。 これで後ろを見ていればお付きたちの声と思ったかもしれないが、そうでない事に気付いた。
声は身体の内で聞こえた。 耳ではない。 まるで初代紫に話しかけられた時のように。

(まさか・・・この木?)

≪然(さ)≫

またギザギザとした声が聞こえた。

(どういうこと・・・?)

“然” の意味が分からないし、あまりに短いひとこと。 ギザギザの声で言われても、それが “さ” と言ったのかどうかも分からない。

≪触れよ≫

再度、響いた。
ギザギザした声が何を言いたいのか分からない。 いや、それ以前にこのギザギザは何だ?
意味も分からず思い当たることをするしかない。
ツッと手を伸ばし目の前の大木に掌を置いた。 ザリッとした木の皮の感触が手に伝わってくる。 そしてそれと同時に奥底から脈打つものも。

≪知りたかったのであろう≫

ギザギザとした声ではなかった。 重く深く心に浸透してくる声。 いや、声なのだろうか。

(え?)

≪視たまま。 それが真≫

わけが分からない。 紫揺曰くの頭が散乱状態。 正しくは錯乱状態。

≪何が分からぬ。 視たであろう≫

紫揺が見たのは香山猫が進化した彰祥草の香りを嗅いで鼻を歪めた。 物足りなさげに。

≪そちが分からぬことを教えたまで≫

この大木が話しているのか? それを自分が受けているのか? 紫揺が驚きに目を見開いた。

≪なにを驚くことがあろうぞ≫

驚くも何も疑問はいっぱいある。 意味わかんないとか、無理だしー、と言いたいこともいっぱいある。 だが・・・。
ゴクリと唾を飲む。

(教えて下さったんですか?)

≪そちが気に病んでいたであろう≫

会話が成り立った。 やはりこの大木が話しかけてきたのか。 木に話しかけられる・・・。 疑問は増える一方だが疑問など二の次。 あとで考えればいい。 いつ消えるかもしれない会話をどうもっていくか。

≪そのような案じは要らぬ≫

(・・・)

読み取られているようだ。 ここまできては開き直るしかない。

(どうして私が気に病んでいると知っていらっしゃるのですか?)

≪そちのことは何でも知っておる≫

(・・・)

もしかして最近になり、もうちょっと胸の膨らみがあったらいいのにな、と考えだしたこととか、本領に行くとお腹が出てくるな、とか、アンナこともコンナことも? 全部透かして視られてる?

≪そちのことだけではない。 この地にしかと足を置く者、その者たちの声は聞こえておる≫

良かった。 自分一人ではないようだ。

(香山猫のことを御存知なんですか?)

≪しかと足を置く者たちの声は聞いておる≫

この大木から言わすと香山猫はしかと足を置いているのだろう。 だが・・・。

(ここに香山猫がいないのにどうしてご存知なんですか?)

それに視せられた。

≪吾(わ)らは繋がっておる≫

(・・・?)

≪吾らの根は地にあり。 地は繋がっておる≫

意味が分からない。
根は地にあって地は繋がっている?
単純に考えれば隣りに生える木と根が絡まって繋がっているだろう。 これだけ大きな木だ、その根は大きいだろうから大きく考えればこの山に生える木とも。

≪吾らは地で繋がっておる≫

疑問を読まれたのだろうか。

≪地のあるところ、吾らは繋がっておる≫

この大木に触れた時から頭を下げていた紫揺の頭が僅かに上がった。
この地球上、地のあるところ全てに繋がっているということなのだろうか。

≪然≫

紫揺が大きく目を見開く。

≪そちの声はよく聞こえる≫

だから視せてくれたのだろうか。

≪然≫

紫揺が唇を噛んだ。 思いもしない事だった。
自分がアレやコレやと要らないことを考えているのがこの大木に聞こえていたのか? いや、この大木だけではないかもしれない。  “吾ら” と言った。

≪何を想う。 そちは知っておったであろう≫

どういうことだ? 自分が何を知っていたというのか?

≪吾らに問おうとした。 問われれば吾らは応えた。 だがそちは問わなかった≫

紫揺が眉間に皺を寄せる。 何を言っているのだろうか。

≪そちは吾らに問わなかった≫

木に問う? 問わなかった? 全く以って意味が分からない。
だが・・・木に問う。
何だろう引っかかる。
引っかかるのであれば過去に何かを思ったからなのだろう。 過去を思い巡らす。
木に何かを・・・。 問うではない。
木に教えてもらう・・・。そんなことを思った、確かに思ったことがあった。
“もっと生のある木々なら何か教えてくれるのに” と。

まだ何も分かっていない時、北の領主の家にいた時だ。 北の領主であるムロイの家の裏庭に行った時にそう思ったのだった。 どうしてそう思ったのかは未だにわかっていない。 というより、そんなことも忘れていた。
紫揺が記憶の頁を開けたことを知った大木。

≪あれは若木(わかぼく)そちに伝える術を持たん。 そちのことも分からぬ≫

若木だったからなのか。 まるでセメントで固めた電柱のように感じ無機質とまで思っていたが、それでもあの時、木々が何かを教えてくれると思った。
それは・・・そう思ったのは紫の力なのだろうか。

≪然≫

紫揺が息を飲む。

≪そちの声はよく聞こえる。 久しい≫

久しい・・・、それはもしかして歴代紫のことを言っているのだろうか。

≪吾らは・・・吾はこの地に根付いた。 そちの声は、ふたつめ。 懐かしや≫

“ふたつめ” それは “二つ目” ・・・。
思い上がっていると思われるかもしれない。 だが・・・。
初代紫から大事子と呼ばれた。
初代紫は間違いなく大きな力を持っていたであろう。 あの声、あの在り方。 地に足を着けていた。 その初代紫が紫揺のことを大事子という。
二つ目・・・それは、二人目。 自分なのだろうか。

≪然≫

・・・自分が。

≪吾らは何でも知っておる。 いつ何なりとも、そちに知を授けよう≫

ゴクリと唾を飲む。

(辺境に・・・私が気にしている、あの辺境に香山猫はもう来ませんか?)

こんなことを訊いて答えてくれるとは思っていない。 訊いて答えを教えてくれる未来万能マシーンではないのだろうから。 だが訊かずにはいられなかった。 もし答えてくれたとして、それは近道でしかない。

≪視せたであろう≫

やはりこの木が視せたのか。

(ですが、彰祥草の匂いにつられる以外のこともあります)

カジャから聞いた話がある。

≪吾らがそこまで考えぬと思うか≫

全てを見越している。
紫揺が一番先に考えた疑問を解決するように視せた。 そのあとに違うことがあれば、あのシーンを視せなかったということか。

(ごめんなさい)

≪いつでも来るが良い。 吾はいつでもここに居る≫

(・・・有難うございます)

一瞬、いや、木だし、動けるはずないし、いっつもここに居るだろう。 迂闊にもそんな事を考えてしまった。 それも読まれているのだろう。 気を悪くしただろうか。
掌からは何も感じなくなった。 あの脈打つものを感じなくなりザリッとした木の皮の感触が残っているだけ。
手を下ろした。

後ろではすでに息を整えているお付きたちが立っている。 紫揺が大木に手を添えた時に全員が眉を動かしていた。 しかめる者、上げる者。 それぞれの眉の動きに合わせ目を眇めたり丸くしていた。
紫揺がその場に座り込む。
塔弥を除くお付きたちが目を合わせる。 紫揺が気分を悪くしているかもしれない、斜面を上って足を挫いたのかもしれない。 実際、醍十はびっこを引いている。

「行ってくる」

紫揺の後姿を見たまま塔弥の声が静かに響いた。



ドンドン、トンテンカンテン、ギーコギーコと朝早くから槌(つち)を打つ音や鋸(のこぎり)の音が鳴り響いている。
「よーっし、そっちを上げろー」「それ持ってこーい」「合わせるぞー」いたる所で色んな声が飛んでいる。
朽ち果てた学び舎を撤去したあと、工部の指示のもと新たな学び舎を建てている。
マツリが六都官別所に行き、捕らえられ灸を据えられた咎人全員を引きだし人足として使った。

咎人たちは灸を据えられた。
据えられその後自由になるのではないかと考える者はいなかった。 マツリが来る前はこんなことは無かったのだから、灸など無かったのだから。
引き出され灸の延長上と考えていた。 その灸の延長上に賃金が払われると聞いて、何が何だか分からないが貰えるものは貰いたい。
まずは十日間、だがあくまでもその間の賃金は相場より安く、そのあとの働きには貼り紙に書いたように、相場よりほんの少し高い賃金を支払う。 後にも働きたければ働いても良しとマツリが宣言し、六都官別所から灸を据え終わった者達を出した。 金に釣られて全員がそのまま残った。

もともと武官に捕らえられるような輩である。 病弱でもなければ軟弱でもない。 どちらかと言えば有り余る体力を持っているのだから暴れたのである。 金を持っていないのだから食い逃げをしたのである。

有り余る者には槌を打たせ発散させればいい。 金を手にすれば食い逃げをすることもない。
一日の終わりにその日働いた分の金を手にして、労働は好むところではないが、これまた遠目に様子を見ていた者が金に釣られて人足募集にのってきた。

「相場より少し高めにしておいて正解で御座いました」

などと文官が言っていたが、まさにそうなのだろう。
建て替えているのはこの一か所だけではない。 あちこちで建て替えを進めている。

「材料は間に合っていそうか」

学び舎を建てている様子を見ながら隣に立つ文官に問う。

「はい、今日も届きます」

文官も働く様子を見ていたが、マツリに訊かれマツリの方に身体を向け応えた。
今ごろ四方はどんどんもたらされる書類に頭を痛めていることだろう。 材料代や人足費然り、宮都での武官不足、その他もろもろ。
だがこの事は最初に言っておいた。 四方も “仕事を増やす気か” などと言いながらも覚悟は出来ていたはず。
それに六都が落ち着き最初に手を入れたことで、これからは税がかすめ取られることなく、宮都に納められるようになれば万々歳であろう。

「次に考えねばならんのは、学び舎を建てるに働いている者たちを今後どうするかか」

せっかく働き始めたのに学び舎が建ってしまった後はまた仕事をしないだろう。 どうしたものか。
それに今は武官に見張られているからちゃんと働いているというところが大きいだろう。 その武官は宮都からの応援の武官である。 いつかは引き上げる。 その後に六都の武官がずっと付いているわけにはいかない。

「六都の誰もかれもが働いていないわけでは御座いませんし、働き口が大口を開けて待っているわけでは御座いませんし」

「ここは何か採れんのか」

前を向き働く者を見ていたマツリが顔だけ文官に向けた。

「何かと仰いますと?」

「鉱山はないのか?」

宮都では光石や金銀銅が採れる。

文官が「うーん」と唸って考えるが「聞いたことが御座いません」と首を振るだけだった。 たしかにマツリ自身も見たことがない。 顔を戻して言う。

「六都の空いている地で田畑でも耕させるか」

少々、投げやりである。 何もなければそれが最後の手段だろうが、出来れば種をまいたり、雑草を抜いたりなどではなく、一日中力任せに余った体力を消耗させるものの方がいい。
文官はマツリが何を言いたいのかが分かった。 頭をひと絞りすると口を開ける。

「鉱山は御座いませんが、六都の端に木のある山が御座います」

「木のある山?」

「はい、三十都(みそと)との境に山が御座います」

マツリが記憶を遡らせる。

「ああ、あったか。 木々が鬱蒼としていたが、あそこは三十都の山ではないのか?」

「いいえ、あの山の向こうからが三十都になります。 あれらの木は杉と聞いております」

杉と言えば薪から建築材から樹皮や葉も使える。
間伐もされていないのだったら、良い建築材が取れなくとも他に使いようは多々ある。

「徒歩(かち)でどれ程かかる」

その辺りはキョウゲンに乗って移動しているマツリには徒歩の感覚がない。 ここからその山に徒歩で行くとどれ程の時を要するのか。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第127回

2022年12月26日 21時27分21秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第127回



「人足は集まりそうか」

せっせと “人足募集” の紙を貼っていた文官が朝陽を眩しそうに振り返る。

「興味を示して見ているようではありますが、実際どうでしょうか」

六都の者は働くことを好まない。 そこを見越してほんの少しだが、相場より高い賃金を出すと書いている。 いや、描いている。 字の読めないものが多いのだから、文字より描いているほうが分かりやすいであろうということである。

「明日には宮都から工部が資材を持って来るが・・・。 ふむ、人足が無いようなら武官を出すしかないか」

六都所有の土地に学び舎を建てる。 そこで徹底的に道義というものを教える。 この腐った六都は根本から叩き込まなければいけない。
強制的に引きずってでも学び舎に連れて来て子供たちに教える。 大人はもう遅い、些細なことでも捕らえて牢に入れるしかない。 そのうちに嫌気がさして少しはおとなしくなるだろう。 中には享沙のように、この六都の在り方に嫌気がさしている者もいるだろうが、そのような者は悪さをしないのだから捕らえるようなことはない。
どこの都にもある学び舎。 昔は六都にもあったが朽ち果てて使い物にもならなかった。


六都都司と六年前の都司夫婦そして六都文官所長と共に悪行に手を染めていた文官が宮都の牢に入れられていた。
帳簿と都司がつけていた三冊の綴じ紐で括られていた物を精査していた文官がそれを手に持ち宮都に戻ってきた。
横領していた額は相当なものであった。 そして都司による静かなる恐喝もかなりの額であった。
これから刑部によって尋問があり咎が出される。


工部が資材を持ってきて運び込んでいる。 結局人足は一人も来ることが無く、武官が手伝う羽目になったが、相当な人数を一度は捕らえた。 灸を据えたのがいつまで続くかは分からないが、当分は大人しくしているだろう。 武官も捕らえるのに走り回ることなく、見まわるだけとなるだろう。

「ふむ、捕らえた者に手伝わすというのも一手だったか」

すでに放免されている者もいるが、まだ灸を据えられている者、これから据えられる者も残っている。
工部の者にあれやこれやと言われながら手伝っている武官を後目(しりめ)にマツリが踵を返した。
向かった先は六都官別所。 捕らわれた者たちが居るところである。



梁湶が書蔵に居る。 紫揺から聞かされた話から、香山猫の生態を書いたものがどこかにないかと探しているが全く見当たらない。
それもそうだろう。 日本とは違うのだ。 獣に近づいてその生態を探ろうなどと考える酔狂な民はいない。

「はぁー、骨折り損か」

ドカッと椅子に座り込んだ時、戸が開いた。

「なんだ、書を探していたんじゃないのか?」

阿秀である。

「今の今まで探していました。 やっぱりありませんね」

香山猫のことで書かれているのは、彰祥草の匂いのする高山に住んでいるということと、その姿が描かれているだけであった。

「まぁ、そうだろうな。 紫さまからお聞きしたことは此之葉がまとめて書いている。 せいぜいその書くらいになるだろう」

「でしょうね。 ですが分散というのは初めて聞きました」

他の獣のことを考えると、捕食対象が少なくなり場所移動をするとか、群れのリーダーが弱くなってきて若い獣がリーダーを倒し、リーダーが変わったということはありがちだったが。
尤もだと阿秀が頷く。

「で? 阿秀は何用ですか?」

「紫さまがもう一度あの辺境に行きたいと仰っておられるんだが、梁湶が何かを見つけていればなにか策を講じれるかと思ってな」

「何の策もなく辺境に行くには代償が大きいですからね」

危険な道程でもあるし、馬の疲れも激しい。 とくに野夜と悠蓮の乗る馬は。

「どうするんですか?」

「このまま留め置いていて勝手に飛び出されても困るしなぁ・・・」

「大体、行って何をするつもりでいらっしゃるんですか?」

「行ってみる、それだけしか仰らない」

「・・・阿秀も大変ですね」

人ごとのように言うしかなかった。 実際人ごとである。

「最近の領主も元気がないみたいですし」

紫揺のお守りから領主の心配まで。 つくづく筆頭でなくて良かったと思う。

「ああ、いったいどうされたのか。 秋我は心配ないと言っているんだがなぁ」


数日前に遡るが、秋我は秋我で本領から戻って来てすぐ、父親である領主に本領であったことを報告せねばならなかったが、報告もなにも何もなかった。 あくまでも本領では。

「何もないに越したことはない」

領主はそう言ったが、秋我が口を引き結び眉根を寄せている。

「どうした?」

大きく息を吸い、勢い良く息を吐くと口を開いた。

「本領では何もありませんでしたが、本領に行く前、領土の山を歩いている時に紫さまから問われたことがあったんです」

領主が両の眉を上げる。

「どうも・・・紫さまは本領のどなたかを、拳で殴られたようです」

領主が驚いて目を見開いた。

「痣が残るほどに」

領主の見開かれた目からどんどんと黒目が上がっていく。 どこを見ているのだろうか。

「父さん?」

「・・・」

考えられるのは本領領主四方か、それともマツリか。 それともそれとも、他に誰かいるのだろうか。

「・・・本領が何か言ってきてから考える」


「だからっ! お転婆は禁止です!」

「だーって、ずっとじっとしてたんだもん! 身体が鈍って仕方がない!」

本領から戻って来てすぐに絵師に捕まりじっとさせられていた。 絵は仕上がってホッとしたものの、阿秀からはそうそう辺境には行けないと言われるし、尚且つお転婆も禁止と言われた。 阿秀にすれば、いつ勝手にお転婆に乗って一人で辺境に行くか分かったものではない。 塔弥を厩の見張に立てていた。

「子たちと走りっこでもしてきて下さい」

そんなことを歴代の紫はしていないが。

「ダントツブッチギリで私の勝ちじゃない。 楽しくもない」

“だんとつぶっちぎり” は分からないが、言いたいことは分かる。
誰が本気で走れと言った、子供相手に。

「じゃ、ガザンと」

「勝てるわけないでしょ!」

ガザンとも本気で走るつもりか。 ドンダケ勝負をしたいんだ、そして勝ちたいんだ。

「お転婆に乗ってあの辺境に行こうとしているでしょう」

「うっ・・・」

呆れてしまうほどの丸分かり。 溜息交じりに塔弥が続ける。

「一人で行けるはずないでしょう」

「い、行くなんて言ってない」

その顔と声を詰まらせながら、行くと言ってるようなものではないか。

「顔が行くって言ってます」

「え?」

もしかしてマツリが透けて見えると言ったのは、脳みその中のことじゃなくて顔のことだったのか?
顔が透けて見える? 自分は今どんな顔をしているんだ。 それともキン肉マンの額の “肉” の字のように自分の額に “行” と文字が浮き上がってきたのだろうか。
そっと額をこする。

キン肉マンのことは知らないが、紫揺が何をしているのか想像は出来る。 小さく溜息をつくと紫揺に訊ねる。

「行ってどうするつもりですか?」

「うん・・・。 えっと・・・」

やはり行くつもりだったのか、それもなんの策もなく行きたいだけのようだ。

「行ったら行ったでね、何か気付くことがあると思うの」

「前に行った時に何か気付きましたか?」

「あの時は香山猫のことをよく知らなかったし、どっちかって言うと民が気になって行っただけだから」

「辺境は簡単に行けるところではありません」

「知ってるよ、それくらい。 でもまた襲われたらどうするの、そんなことになったら後悔してもしきれない」

「紫さまのことを先住の獣だと思ってもうそこには来ないと聞いてきたんでしょ? えっと・・・山猫に」

「山猫じゃなくてカジャ」

それを言うなら山猫のカジャであろう、カジャは山猫なのだから。
塔弥が何度目かの溜息を吐く。

「その道のりで紫さまに何かあっては、我らが後悔してもしきれません」

「うん、私もそう思う。 いや、私に何かあることは無いけど、野夜さんと悠蓮さんの馬は怪しいからちょっと気になってるし。 二人に何かあったらそれこそ後悔しきれない。 だから二人を抜きで・・・ってか、一人で行けるけど?」

全身に脱力を覚える。

「行けるわけないでしょう。 まず道のりを覚えていらっしゃらないでしょう?」

「うーん、キョロキョロしながらだったら分かると思う。 ほら、岩とか木とか目印になるものがあるし」

よじ登りたい岩や、目をつけていた木とか。

「却下」

「なにそれ?」

「もっとそれらしい理由・・・策を講じて下さったら、俺からも阿秀に口添えをします。 家に戻って頭を捻ってきて下さい」

後ろで聞いていた此之葉がくすくすと笑いだした。

「紫さま、今日は諦めて策を講じましょう。 塔弥はどいてくれそうにありません」

恨めしい目を塔弥に送り此之葉の言う通りに策を講じるしかないのかと家に戻っていった。

「あ、そうだ。 前に言ってた、葉月ちゃんに山菜の山に連れて行ってもらえないでしょうか?」

「そうでしたね。 それでは明日、行きましょうか」

いや、これからが退屈なのだ。 策など講じられないのだから。

「今からでは駄目なんですか?」

「朝早くに出ませんとなりませんので」

行ったことはないが女達はいつも朝早くに出ている。

「そんなに遠いんですか?」

「たしかに近くはありませんけど、馬で行くわけではありませんので」

「あ、そっか」

葉月は馬に乗れない。 というか、この領土で馬に乗れる女人は紫揺くらいなものだ。

「でも策を講じるって言っても何も浮かばないし・・・」

「一度落ち着きませんか? 茶をお淹れします」

紫揺に何か要らないことを考えられては、お付きたちが困るであろう。
ことりと此之葉が紫揺の前に湯呑を置いた。

「塔弥さんったら、頑固なんだから」

どちらが頑固だろうか。

「塔弥は紫さまの身を案じているんです。 分かってやって下さい」

チロリと此之葉を見て湯呑を手に取る紫揺の様子を見て要らないことを考えさせないように此之葉が続けて言う。

「辺境ってそんなに危険なんですか?」

「平地を歩いている分には何ともありませんけど、山の中に入るとけっこう足下の危ない所があります」

「足下の危ない所?」

「私、高所恐怖症ですから、崖の横を歩くとか・・・基本、高い所には行けないんですけど、それでもちょっとした高さのところを馬で歩く時があるんです。 沢を渡ったりすることもあります。 ま、沢を渡るのは楽しいですけど」

恐怖症は原因が分かれば克服されると聞く。
紫揺の先端恐怖症は祖父に刺さっていた木の枝が、閉所恐怖症はあの洞、そして高所恐怖症は崖から落ちたこと。
紫揺が持っている記憶ではなく先の紫の記憶だが、知らず紫揺にその記憶が流れ込んできていたのかもしれない。
原因が分かったお蔭で二つの恐怖症はなくなっていたが、原因が分かっても高所恐怖症だけは克服されなかった。 これは紫揺自身が持っていたものなのだろう。 複雑な要因はなく、単に高いところが恐いだけかもしれない。

「馬車ではいけない所ですか?」

「全然無理です」

ということは、紫揺は歴代紫が足を運んでいなかったところまで行っているということになる。 歴代紫は馬車で行っていたのだから。

「そんなところまで・・・」

「最初は皆さん驚いていらっしゃいましたけど紫のことは知っていらっしゃったから、以前はそこまで奥に住んでいなかったんでしょうね」

ほぅっと此之葉が息を吐く。

「どうしました?」

「今代 “紫さまの書” に書き記すことがまだまだありそうです」

辺境での道程など今まで聞きもしなかったし、お付きたちも特に言ってこなかった。 お付きたちに詳しく訊き書き足していこう。 今代紫の偉業を。

「そうですか?」

当人は何とも思っていない。 どちらかと言えば足元の悪い道は好きだ。 馬がこれ以上は入れないという時には、馬番を残して他のお付きたちと歩いて行くが、楽しいことこの上ない。 阿秀と塔弥に走るなと止められなければの話だが。

「うーん、それにしても策かぁ・・・。 なーんにも思い浮かばないしぃ・・・」

行けば何なりと、としか考えられないのだから。

結局、この日はガザンと領主の家の奥にある緑の広がる所に行き、走り回って遊んだ。  近場の民と触れ合う気になれなかったからだ。
夢には見なくなったが、紫揺の脳裏に未だにあの残酷なシーンが思い浮かべられているなどと、たとえ塔弥でも知るところではなく、知っていたのはガザンだけであった。
紫揺の相手をしていたそのガザンは紫揺と遊べることにかなり喜び、テンションが上がりまくって珍しくワンワンと吠えていた程だった。


翌日、葉月に連れられて山菜の山に登った。

「もう少し冬に近づけば山菜も採れるんですけどね」

案内役の葉月が言う。
東の領土は温暖である。 短く暑い夏が終わり今は過ごしやすい。 だがまだ先だが、次には短く寒い冬が来る。 とは言っても、夏は暑いと言いながらも、じりじりと焼けつくようなものではないし、冬は雪が降るほどにはならない。 そして短く寒い冬の前には山の恵みである秋がやって来る。

「此之葉ちゃん、大丈夫?」

山など歩くことがない此之葉には・・・いや、一度だけある。 本領に行くため、東の領土の山の中を歩いた。 散々だったが。
山の中が楽しくて仕方のなかった紫揺、うっかりそのことを忘れていた。 後ろを歩いている此之葉を振り返るとかなり息が上がっている。 それに顔色も良くない。

「あ、此之葉さんごめんなさい。 気付かなかった」

「いえ、その、よう・・・な、ことは」

声も絶え絶えに言う。
此之葉の後ろをゾロゾロと歩いているお付きたち。 その先頭の阿秀に目をやる。

「阿秀さん、此之葉さんを見てあげてください」

段々と足が重くなり息が上がっているのは分かっていたが、後ろを歩いていた為、此之葉の様子を見ることは無かった。 すぐに阿秀が此之葉の横に付く。

「此之葉? 少し座ろうか」

「い、いいえ・・・これ、しき」

「充分これしきじゃないですよ」

此之葉を見て言うと前を歩いていた葉月を見る。

「休憩入れても彰祥草の所に行ける?」

葉月が此之葉の様子を見る。 片眉が動いた。

「一回くらいなら行けますけど・・・。 此之葉ちゃん無理しない方がいいよ」

一回の休憩では収まらないだろう。

「無理、なん、て」

紫揺が唇を噛み短く息を吐く。

「此之葉さん、このままここで阿秀さんと休憩していて下さい」

「むら、さ・・・き、さま」

「いま無理をして、明日寝込んだらどうします? 明日が無くなりますよ? 今日はここまで一緒にいてくれました。 明日も一緒にいましょう。 ね?」

「む、らさき、さま」

“明日も一緒にいましょう” それに心を動かされたのだろう、此之葉が疲れていた頭をガックリと下げた。

「お水を飲ませてあげてください」

紫揺が言うと阿秀の後ろについていた若冲がすぐに腰にさげていた竹筒を阿秀に渡した。 お付きたちが腰から下げている竹筒は紫揺用であったが、一つくらい無くなってもなんということはないであろう。

「“古の力を持つ者” には、私には分からない重責があるでしょう。 でも私と此之葉さんの間のことです。 重責に押し潰されないで下さい。 ね、気軽に」

お付きの誰かの眉が動いた。 それとも全員だろうか。
気軽? 此之葉のことはいい、置いておこう。 だが紫揺の気軽が過ぎる、何事においても。 そうではないだろう、もっと考えてくれなければ困ると、お付きの頭に浮かんだことを紫揺は知らない。

「じゃ、阿秀さんお願いします。 葉月ちゃん、進んで」

阿秀が息を上げながらぐったりとしている此之葉の口に竹筒を当てる。 その横を他のお付きたちが歩いて行く。

「飲めないか?」

息を上げている此之葉に問う阿秀の声がお付きたちの背に聞こえた。

しばらく歩いては後ろを振り返る葉月。 此之葉のことがあって紫揺が気になるのだが、紫揺にそんな様子は見られない。 それどころか正反対である。

「紫さま、楽しそうですね」

「うん、こういうところ大好き」

お付きたちがゲッソリという顔をしたが、それを紫揺が目にすることはない。

「もっと、沢とかあったら楽しいんだけ・・・」

紫揺の言葉が止まった。
前を半分まで向きかけた葉月が振り返る。

「紫さま?」

だがそこに居るはずの紫揺の姿がなかった。 お付きたちが駆けだしたのを見ただけだった。

「紫さま! お止まり下さい!」

お付きが言うが紫揺の足が止まることはない。
楽しくて走っているのではない。

―――呼ばれている。

誰、誰が・・・。

―――誰かが呼んでいる。

葉月の案内する道筋から外れて山をかけ登って行く紫揺。 そこは道ではない。

―――誰が呼んでるの。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第126回

2022年12月23日 21時05分01秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第120回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第126回



「昼餉の前に帰ろうと思います」

「え? もう少しゆっくり出来ないの?」

「カジャに教えてもらったこともありますし、何かあった後では遅いので」

東の領土の災いの話をされては引き留めることは出来ない。

「残念だわ」

早々にカジャに会わせるのではなかったと、今更後悔しても遅い。

「シユラ、カエル?」

「うん。 帰るまで肩に居てね」

カルネラを肩に乗せて澪引の部屋に向かっていた。
シキと澪引が妊婦の運動という名の散歩を終え、シキが休憩をとってから、紫揺と二人で澪引の部屋を訪ねに来ていた。
回廊には従者がずらりと並んでいる。
シキの後ろにも従者がずらりと歩き、最後尾に “最高か” と “庭の世話か” が歩いている。 昌耶は紫揺と反対の横を歩きシキの手を取っている。

既にシキと紫揺の姿を見止めた従者が来訪を告げているので、何も言わずとも襖が開けられる。
部屋の端には千夜が座っている。 昌耶と目が合うと互いにフンっと顎を上げている。

シキを椅子に座らせると昌耶が部屋を出て行った。 ここは澪引の部屋、昌耶がシキの為とはいえ残ることは出来ない。 悔しいが今はシキを千夜に預けるしかない。
シキに言ったことと同じように昼餉前に東の領土に帰ると告げ、残念そうにしている澪引を慰めてから出されていた菓子にやっと手を伸ばすことができた。

「でも残念ね、せっかく紫が来てくれたというのに・・・」

とても残念そうに澪引が言う。
何のことかと紫揺が眉を上げる。 その口には齧ろうとした菓子が半身入っている。

「マツリがいないでしょ?」

サクッと音を立て半身を口に入れ、もう半身を持つ手を下げる。

「澪引様とシキ様にお会い出来ました。 それにややにも」

まだシキのお腹の中ではあるが、懐妊を知らされた時にはお腹も膨らんでおらず実感がなかったが、今は充分実感できる。 それに蹴りという挨拶も受けたのだから。
澪引が小さな溜息を洩らしている。

「ね、紫?」

「はい」

「母上もわたくしも紫をマツリの奥にと考えているの。 それにマツリも」

「あ・・・えっとー。 でもそれは・・・」

シキが首を振る。 長くウエーブしている髪の毛がそっと揺れる。

「無理強いしているのではないの。 それを忘れないでいてもらえる?」

紫揺が口の中の物を飲み込むと一文字にした。 なにかを考えるようにして、そしてゆっくりとその口を開く。

「・・・仮に」

シキの目が嬉しそうに輝き、澪引の朱唇が期待にほころぶ。

「仮に・・・私が、マツリ・・・のことを・・・その、想った・・・としても。 東の領土と別れる気はありませんから」

マツリのことを想ったとしても、そこのところは途切れ途切れに言ったのに、東の領土のことはすらすらと言ってくれた。
どこまでマツリのことを言いにくくしているのか。 だが “仮に” とでも、マツリのことを想うと言った。 これは大きな進展だ。

「紫? マツリを信じてもらえない?」

紫揺が何のことかと首を傾げる。 いつものコキンではない。 ゆっくりと。

「マツリは東の領土から紫を取り上げたりしないはずよ」

今度は傾げたままで眉根を寄せる。

「東の領土の紫はただ一人。 東の領土の民が言っていることにマツリが耳を寄せないはずはないわ。 それに紫の気持ちを一番に考えているはずよ」

シキを見ていた視線を下げる。

「マツリを信じて? そして紫は誰を想っているのかに心を寄せてもらえる?」

「誰を想っている、か?・・・」

「ええ。 誰も想っていなくはないはずよ。 紫の心に誰かが居るはずよ」

ここまで言えば、シキがその誰かが誰なのか言っているようなものなのだが、残念な紫揺には届いてはいない。

澪引の部屋を出て着替えを済ませるとカルネラを預け、澪引とシキに見送られ大階段を下りた。 そして最後には “最高か” と “庭の世話か” が紫揺と秋我を見送った。

「な~ご」

回廊の端からカジャが出てきて紫揺の後姿を見送っていた。
門が閉まると三々五々散らばっていた従者が戻ってきた。 最後の最後にリツソに現れてもらっては困るからだ。 万が一にも大泣きに泣かれてはどうしようもない。



「捕らえろ!」

マツリのひときわ大きな声が上がった。
朱色の皮の胸や肘膝当てを付けた武官たちが走る。 鎧は着けていない。 相手は山賊でもなければ強盗でも地下の者でもない。 武器など持っていないのだから。 それに走って追うに鎧は邪魔なだけである。

宮都からやって来た武官たちを幾つかの組に分け、その一つの組、朱翼軍(しゅよくぐん)の三人を引き連れ、毎日その筆頭に立って軽い食べ逃げにしても喧嘩にしても徹底的に捕らえた。 武官に捕まるのを嫌って家から出てこなければそれで良しとしている。

いま六都には都司が居なければ文官所長もいない。 マツリが六都文官所に入れば、それは六都官吏の長となるということだ。 その立場を利用し、六都の中で徹底的に六都の粛清を謀っていた。

宮を出る前の朝議では、それは独裁になると反対意見も出たが、マツリがゴリオシで通していた。
今を逃すとあとが無いのだから。 それに全員に反対されれば考え直す余地もあったが、反対をしたのは六都の現状をあまりよく知らない文官の文部長ただ一人だけだった。

そして今、マツリが武官を従えている一方で、六都の文官が一人、武官に付き添われせっせと人足募集の貼り紙をあちこちに貼ってまわっている。
残りの文官は文官所に詰め、宮都からやって来た文官たちと一緒に二重帳簿から税がどれだけ横流しされていたのか、都庫金の不正がどれだけあったのか、それを何年も前に遡って調べている。 もちろん都司が書き記していた三冊にも目を通していた。


数日前、三か所で捕らえられた者たちは、すぐにマツリと数人の武官と共に宮都に移動をしていた。
宮都の刑部が「やっと落ち着いたと思ったのに、またか・・・」とガックリと肩を落としたことをマツリは知らない。
だが送られたのは、都司、文官所長、六人の文官と六年前の都司とその女房だけである。 他の者は六都内でその咎に判断を下す。
そして咎人たちを刑部に引き渡すと四方の許可の元、マツリが式部省で杠の宮都への移動指示令を書かせ六都に舞い戻っていた。


「マツリ様」

ひっ捕らえていかれる者たちを見送っていたマツリの耳に月夜の影から杠の声が聞こえた。
辺りに目を走らせると、そっと声のした路地に足を向ける。 路地の手前で止まると杠に背を向ける形で立ち止まった。

「分かったか」

「辺境からの脅しとは関係なかったようですが、詳しいことはまだ特定には及んでおりません。 ですがどうも、宮内(みやうち)が関係しているかもしれなません」

「宮内?」

マツリが目を眇める。
六都を出た享沙からの連絡であった。 いま享沙は一人で下三十都に居る。 絨礼と芯直が持って帰ってきた官吏家族たちの井戸端の情報の裏付けに動いていた。
井戸端の話しでは『下三十都に辺境の郡司が入るようだ』 ということであった。
以前、辺境の郡司が下九都を食おうとしていた、そんな話が百足からもたらされ、四方から注意喚起を受けた下九都ではそれを潰したようだが、同じことが繰り返されているのだろうかと訝しんで、杠が下三十都に享沙を送り込んだのだが、その様ではなかったらしい。
マツリが咎人と共に宮に戻った時、四方にそのことを訊くと、百足からそのような連絡は入っていないということであった。

たしかに絨礼と芯直が聞いたときも “郡司が下三十都に入るようだ” という話であって “入った” ではなかった。
だが単に入るのなら井戸端で話されるはずがない。 なにより六都と下三十都はかなり離れている。 何かあるのかもしれないと杠が怪しんだ。 何をしに辺境の郡司が下三十都に入ろうとしているのだろうか。

享沙が調べた時にはすでに郡司が入ってきていて、薬草を売りつける為だったようだと噂を聞きつけた。
いま下三十都では流行り病に苦しむ民が多々居るらしい。 それに効くという薬草を持って入ってきたということだが、あまりにも高値が過ぎた。
それに辺境の地でどうして下三十都の流行り病のことを知ったのか。 下三十都に隣接しているとはいえ、流行り病で人が倒れていたのは下三十都の中心だ。 簡単に辺境にまで噂が届くとは思えない。
そこまでが現状分っていたことである。 杠が説明を終える。

「宮内の誰かが流行り病のことを教えたということか」

下三十都の流行り病のことを知っている者が。

「その色が濃いかと」

「官舎ではなくか」

六都のことがある。 官吏が関わっているのかもしれないと敢えて訊いた。
宮都以外は官所(かんどころ)というが、宮都では官舎と言う。 宮内(みやない)にある門を潜って武官や文官が働いているところである。 宮内の門を潜るといっても、そこを宮内(みやうち)とは呼ばない。 宮内(みやうち)と呼ぶのは、客をもてなしたりマツリたちを含む宮の者が生活する場所と、四方が宮内に作った文官たちの仕事部屋、四方の執務室だけのことである。

「はい」

先に享沙を送り込み、マツリが一旦宮都に戻って再度六都に戻ってくるのを待ってから杠も下三十都に入った。 享沙と合流すると、杠はまず最初に官吏や官所で働く者たちを調べようとした。
以前、四方に付いて仕事をしていた時に目にした書類があったからである。
そこに書かれていたのは、下三十都都司と秀亜郡にいざこざがあったということだった。
杠はそれが気になった。 今回の郡司はまさにその時の秀亜群の郡司だったのだから。

だからすぐに官吏と都司の動きを調べようとしたのだが、官吏も都司も流行り病に倒れていた。 それどころか、郡司にべったりと張りついていた享沙が思いもかけない拾い物を目にした。
郡司が茶屋で喉を潤し銭袋を懐から出そうとした時、その懐から落とした物は宮の印のある封じ袋だった。 郡司がすぐに拾い上げたが、郡司にとって運悪く落としたのは、茶屋の床几に座っていた享沙の足元であった。

だがそれだけでは、今回のことと関係しているのかどうかも分からない。 と言いたいところだが、そうとも言えない。
宮にいる者がどうして郡司に文を送るのか。 官吏でもないのに。 常なら考えられない。
官吏であったならば、違う印が押されている。

「このままこちらの方を洗っても宜しいでしょうか」

最初に考えていたのは、下九都と同じことが起きているのではないかということだったが、そうではなかった。 それで終わる筈だった。 それなのに六都のことを置いて下三十都に舞い戻ると言っている。

「そちらは俤に任せる」

杠が気にしているということは何かあるのだろう。 それに宮内が関係しているかもしれないというのも気になる。

「金河を連れて出ても宜しいでしょうか」

マツリが顎に手をやった。
金河である巴央はよく動いてくれる。 だが・・・六都の咎人が捕まってからの様子がおかしい。

「・・・ああ、構わん」

最初に巴央を見た時、巴央自身は使えると思ったが灰汁が強すぎる。 だが杠なら何とかやってくれるだろうと思っていた。
それが今かと思えた、杠がそうしようと思っていると思えた。

杠が頭を下げた気配を残して全ての気配がなくなった。


杠が巴央の長屋を訪ねた。
内側から戸が開くと「なんだ」と気の抜けた声を出し、左右をキョロキョロとすると顎をしゃくる。
すぐに中に入り杠が戸を閉めるが長居をする気はない。

「下三十都で調べものがあります」

「沙柊が行ってるんじゃないのか?」

「ええ、ですが金河も来て下さい。 今からすぐに」

巴央が目を眇める。

「調べものがあると言いました。 下三十都だけでは終わらないかもしれないので」

「餓鬼たちはどうすんだ」

一日中とは言わないが柳技、絨礼、芯直を離れた所から見守っていた。 杠に言われたということもあるが、言われなくともそうしただろう。 意外と優しい一面を持っている。

「力山に頼んでおきました。 今は力山の長屋に移動させています。 それに三人とも当分、大人しくしていてもらいますので」

柳技においてはマツリがこちらに来てしまったのだ。 商品が入ってこないのだから商売も出来ないし、もともと官所にいる杠との連絡役であったところが大きい。 その杠がもう官所にいないのだから、柳技の仕事は殆どが無いようなものである。
絨礼と芯直においても、もうマツリと武官、文官が入ったのだ。 噂は必要ない。

「力山に行かしゃあいいだろうが」

「話している時が惜しいので歩きながら説明をします。 すぐに荷物をまとめて下さい」

「おい! なに言ってんだ!!」

「野並の四つ辻、二つ西に入ったところで待っています」

ガチャンと何かを投げる音が戸を閉めた杠の背中に聞こえた。


人気のない道を二人が歩いている。

「え・・・嘘だろ」

「最初に言いました。 こういう見方も出来ると。 決してそうとは限らないですが、そのつもりで動いて下さい」

四つ辻で待っていると “すぐに” と言ったのに、それ以上に待たされた。
少し前、不貞腐れた様子を見せながら巴央が姿を見せた。 巴央にしてみれば、言われた野並の四つ辻二つ西に入った所に来たのに杠の姿がない。 袋に包んだ荷物を投げようとしかけた時に『何をしています、行きますよ』 と声が聞こえた。
振り返るといつの間にか杠が立っていて歩き出していた。
いつの間に、と思いながらも、投げかけた袋を背負い直し杠の後ろについた。

『まずは事の起こりから、そしてあったこと、最後に己の考えを言います。 己の考えというのは、あくまでもこういう見方も出来るということです』

杠から聞かされたのは、まず今回、下三十都に秀亜郡司が入ってきたというところから始まった。 そして以前、下三十都都司と秀亜群司でいざこざがあったということであった。

『どういうことだ、死人が出たってのに、何も分からないで終わりってか!?』

『ええ、許せるものではありません』

『・・・え』

意外な答えだった。
巴央の失敗を、抽斗をちゃんと元に戻さなかった失敗を皆の前で言った。 巴央の矜持をズタズタにした杠だった。 憎んでいると言ってもいい相手だった。
だがそれは己の手落ちが発端だとは分かっている。 ・・・それでも許せない。
巴央は真っ直ぐに生きてきた。 その真っ直ぐ過ぎる生き方は矜持をも高くもしていたが、本人はそれに気付いていない。
杠は同じ様な過ちを他の者たちにもさせないために言っただけであって、巴央を糾弾したわけではない。 それも分かっている。
だが・・・許せない。

『下三十都に任せるだけでなく、宮都から武官も文官も行って調べたようですが、確かに亡くなった官吏が火をつけていたそうなんです。 それを秀亜群の民が証言したのですから、それ以上進めないということです。 それで己は今回のことと繋げて考えるのですが・・・』

聞く気もない杠の話が頭の中に入ってくる。
それは突拍子もないと言っていい話だった。 どうしてその話と今回のことがそんな風に繋がるんだ。 それにそんなやり方で。

『ですから己はそう考えています。 ですがそれは見当違いかもしれません』

その見当違いの話を聞かされた巴央が『嘘だろ』と言ったのだった。

「己の見当違いを望みますが、望むと現実にある、無いとは違ったものです」

「はっ、お前の見当が間違い過ぎなんじゃないのか?」

「そうあって欲しいものです。 ですから調べたいのです」

もし杠の言う通りであったら・・・。

「俺は汚いことが嫌いだ」

「ええ、己もです。 そして力山も沙柊もです」

巴央が前を歩く杠の背を睨む。

「柳技と絨礼と芯直もそう思えるよう、己らが伝えていかなくてはなりません」

「本当にそんなことが起きてると思ってるのか?」

「分かりません。 ですが・・・有り得なくはありません」

「宮のことは分からねーが・・・」

言葉をとぎらせた巴央に杠が軽く肩越しに振り返る。

「ええ、己も僅かな間、宮に居ただけですが」

温和な声音で杠が言う。 そして続ける。

「だからこそ、有り得るかもしれないと思うんです」

四方の仕事を手伝いながら色んな事例を見た。
杠が前を見る。

「そうですね、下三十都で色々見聞きしていただいた後、秀亜群に飛んでいただきたい・・・あ、沙柊が先に飛びますか。 沙柊もかなり怒っていますから」

「お前の話を聞いてか?」

杠が口の端を上げる。

「沙柊には己が思う話をしていません。 あったことだけを話しています。 それで沙柊なりに考えて動くでしょう」

臭わせるようなことを織り込みながら話したが。

「沙柊がお前と同じことを思うっていうことか? それとも単にお前がそう思いこんでいるってことか?」

「さぁ、どうでしょう」

享沙は享沙の判断で動いているということ。 そして杠はそれを止めていない。
巴央の矜持が動いた。

「てれてれ歩いてんじゃない。 さっさと歩け」

巴央が杠を抜いて事前に官吏としての杠が用意していた馬を引き取りに行くための馬宿に向かった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第125回

2022年12月19日 21時27分22秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第120回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第125回



『カジャ、紫という者が来る。 訊きたいことがあるそうなのだが』

『お話は聞いておりました。 わたしから話すことは御座いませんので』

ですよねー、とは四方は言わなかったが、心の中ではそう言っていたであろう。

『脅して帰らせても宜しいでしょうか?』

わざわざ脅す必要はないだろうとは思うが、カジャはそういう性格だ、分かっている。

『・・・好きにしてくれ』


『初めまして、紫です』

カジャが身体を大きくしているのにもかかわらず、紫揺がカジャの前にペタンと座り込んだ。 紫揺にしてみればガザンもそうだが、ハクロとシグロを見ているのだ。 初めての時には身体が固まったが、それでも何度も見ている内に大型の獣には慣れた。 ハクロにおんぶ紐を結わえたくらいなのだから。
それに人に襲い掛かった香山猫もみた。 それを思うとカジャは供である。 怖がる理由などなんにもない。

カジャが紫揺の後ろに立つ四方を見上げる。

『えっと、教えて欲しいことがあるんですけど。 教えてもらえますか?』

カジャが四方から目を離し再度紫揺を見る。

『カジャさんって、山猫ですよね?』

たしか、供と主は同じくらいの歳のはず。 主が産まれた時に時の領主である父親が供を付け、主と供が共に学び共鳴していくと聞いている。
よってカジャは四方と同い年だろう。 紫揺より随分と年上になる。 “さん” を付けなくてどうする。

『山猫の習性って言うか、そんなものを教えて欲しいんです』

カジャの口元が波打ってきた。

『香山猫を知っていますか?』

カジャがもう一度四方を見て紫揺に視線を戻した。

『知っておる』

四方は “好きにしてくれ” と言った。 改めて話していいかなどと訊く必要はない。

『カ、カジャ?』

まさか返事をするとは思っていなかった四方の声がひっくり返っている。

『好きにしてよろしいはずでは?』

カジャが四方に問いながら身体を小さくしていく。 四方の目が今にも落ちそうになっている。

『カジャでよい』

『あ、はい。 じゃ、カジャ。 へぇー、元はそれくらいなんだ』

中型犬くらいであった。


「でね、高山から下りてきたんだけど、彰祥草の匂いにつられて下りてきたと思う?」

「有り得んこともない。 その近くの高山に咲く彰祥草と時期がズレていたのなら」

「ああ、そういうことか。 高山の方の彰祥草がもう枯れちゃったとか、まだ咲いていないとかってことか。 そんなに彰祥草の匂いにつられるもの?」

喉をゴロゴロと鳴らして目を細める。

「もうちょっと右」

あ、はいはい、と言って右にずらして耳の後ろを掻いてやる。 その姿を振り返り見た四方が大きなため息をついた。 いつの間にやら指運動は止まっている。

「香山猫が彰祥草の匂いを嗅ぐと、今の我のように気持ちがよくなる。 それを得たいと思うだろう」

「痒いところに手が届くってこと?」

「いや、気持ちがいいということだ。 なんならここを撫でてもいいぞ」

ここ・・・喉元を示した。

「あ、じゃ、寝ころんでもらえる? その方が気持ちいいと思うよ。 ここ、どうぞ」

ゴロンと寝ころんだカジャが “ここ” と言われた紫揺の足の上に頭を置いて横臥すると紫揺が喉元を撫でてやる。 寝ないでね、と一言添えて。
四方がもう一度振り返り、我が供の姿を見て愕然とし卓に突っ伏した。

「父上、お気をたしかに」

「ええ、ええ、これからお仕事ですのに」

カジャから得た情報はこうだった。
香山猫もカジャと同じ山猫。 習性はあまり変わらない。 ただ二つだけは大きく違うということであった。 それは香山猫が彰祥草の匂いにつられるということ。 そして群れを成すこと。

その群れのリーダーが二年草である彰祥草の匂いを嗅ぎわけ、その高山に生きている。 彰祥草は種が弾け飛んで咲くので、咲く場所が少しだが変わっていくということであった。 そして種は似たようなところに落ち群生していると。

紫揺が葉月から聞いたことは有り得なくはないが、滅多に鳥が種を口にすることは無いということであった。
原生と比べ進化した彰祥草がどれ程の香りを持っているのかをカジャは知らないということであったが、それ以前にまず進化した彰祥草を知らないと言われてしまった。 それにどちらかと言えば、彰祥草のことより群れの方を考えるほうが道理が通るだろうとも言われた。

まずは、捕食対象が少なくなった。 他に群れのリーダーが変わった、または分散をした。 その二つが考えられると。
捕食対象が少なくなれば餌を求めて段々と下りてくることがある。 匂いで気持ちよくなる以前の話しだ。 捕食対象が少なくなってくれば、生きるか死ぬかがかかってくるのだから、少々気温が上がっても耐えるだろう。

そしてリーダー。 リーダーが年老いてくれば二位の地位であったものがリーダーに挑んでその座を手にする。
先のリーダーが守ってきていた高山にそのままいることが殆どなのだが、稀に先のリーダーが守ってきていた場所を変えようとする輩が居る。 前のリーダーが守ってきた場所にいれば何の苦も無く安泰なのだが、それに溺れたくないと思う矜持の高い香山猫もいるということであった。

そして分散とは、群れが分かれるということ。 敢えてリーダーに挑まなく、下についた者を連れて群れを離れていくということだった。 そうなると場所を求めるために移動をするが、殆どの高山にはすでに香山猫の群れがある。 そこに割って入るには先住の香山猫と戦わなければいけない。 それには大きな賭けが必要になってくる。
それは先に言った、矜持の高いリーダーも同じであった。
新しい住処を探すに山を下りてくる可能性は大いにあるということであった。

だが一つ言えることは、香山猫は高山に住む。 本領で言うならば宮都や他の都にあるような低い山には現れない。 ある程度山を下りてきたといえど、あくまでも気温の低い所でしか暮らせないからと。

そして最後にカジャはこう言った。
もうそこにその群れの香山猫は現れないと。
言い換えてみれば、紫揺が先住の獣と思われたからだと。 挑まずして去ったのだから、リーダーは紫揺に膝まづいたようなものなのだと。 それにそこに留まろうと思ったのかどうかも怪しい。 単なる場所探しの途中だったのかもしれないと。


「おかしい・・・」

眉根を寄せて言った。

「なにがで御座いますか? あ、ほれ、筆を置いてはなりません」

サポーターのように晒(さらし)を腰にグルグル巻きにしている師が言う。

「匂いがするのに誰も何も言ってこん」

ギクリと一瞬肩を上げた師であったが、すぐに取り繕った。

「さぁさ、この問いの答えはなんで御座いましょう?」

【問一】 森の中にセミが十匹おりました。 二匹採ることが出来ました。 残ったのは何匹でしょう。

「セミなど要らん」

「いえ、要るか要らないかの話では御座いません」

「シユラが来ておらんか?」

「はて? 何のことで御座いましょうか」

師は“庭の世話か” から聞かされていた。
『シキ様からの命で御座います』
詳しいことは聞かなかったが、紫揺がこの宮に居ることをリツソに感ずかせることのないようにということであった。
だがリツソを見ていてその真意が分かった。

「お座りください」

腰を浮かしかけたリツソに師が続けて言う。

「リツソ様、リツソ様はあと少しで十六の歳になられます。 このままでは奥を娶ることが出来ません」

奥を娶るどころか自立さえ出来ていない。 いやいや、もっとそれ以前。 足し算も引き算も桁が上がると怪しい。 応用問題など遠い話。 ひらがなはかろうじて読み書きが出来、紫揺から教わった漢字は書けるが、それは少しの漢字。 文を出そうと思えばほぼ全文ひらがなで書かれるだろう。

「へっ?」

「本領領主の元にお生まれになったからには―――」

師が全てを言う前にリツソが言葉を被せる。

「どういうことだ? 我がシユラを奥に迎えることが出来ないというのか?」

師が恭(うやうや)しく頭(こうべ)を垂れる。

「今のままでは、そのようかと」


紫揺が四方の部屋から戻ってきた。 そして四方の部屋で聞いたことを秋我に聞かせた。 秋我が厳しい顔をする。

「可能性は多々あると・・・」

「そうみたいです。 どれが当てはまるかは分かりませんが」

「領土に帰って調べるしかありませんね」

「はい」

初代紫の力を借りれば、あの時の香山猫に会って話を聞けるかもしれない。 だが・・・それは初代紫が望むものではない。

『わらわの力を取り違えるではない。 わらわの力は嵐のような力を抑える為にのみぞある』

カジャが言うようにあの群れはもう現れないであろう。 だとしても群れはあの群れだけではない。
前のリーダーが守ってきた場所に居たくないと思う新しいリーダーの香山猫、そして分散をする香山猫の群れは他にもこれから出てくるかもしれない。
彰祥草だけが原因ではないと分かったが、決定的に打つ手が見つからない。

唯一、カジャが言っていた気温の低い所でしか暮らせない、そこにかけるしかない。 あの場所に香山猫が耐えてなら暮らせる気温なのかどうかは分からない。
カジャが言っていたように、あの場所に留まろうとしていたのかどうかさえ分かっていない。 単なる場所探しの途中だったのかもしれないのだから。
早々に打つ手は見つからなくとも、調べることから始めなくては。

「さて、今日領土に戻れそうですか?」

澪引にはそう言ってあるが、シキが言祝ぎに来た時に「もう少しゆっくり出来ないかしら?」と言っていた。
シキは今、朝の散歩をしていてそれに澪引もついて行っている。 紫揺も誘われたが丁重にお断りをした。 カジャから聞いた話を忘れないうちに秋我に伝えたいからという理由を付けて。
せっかく里帰りをしてきたのだ、お腹を大きくした娘の身体を労わりながら、母娘の時を楽しんでもらいたいのだから。

「昼餉の前にまたお誘いに来られるって言ってらしたから、その時に言ってみます」

それまでは本を読んでいたいが、その本が何処にあるのかも、どの本を読んでいいのかも分からない。
マツリが居ないから。
それに読み初めても数ページで終ってしまうだろう。

「私のいない間どうしてたんですか?」

「庭を眺めていましたら朱禅殿がいらして、色んな話を聞かせていただきました」

朱禅、紫揺と秋我が初めてこの宮に来た時に、四方と話していた六十を過ぎたであろう四方の従者。 自己紹介はその時に済んでいる。
尾能のように四方に付いているのではなく、どちらかと言えば少し離れて外堀を見ている立場にあるようだ。
秋我に話しかけてきたのも、シキが秋我に世話になったというのを知っていて、退屈させないように気を使ったのだろう。
自分が居ない間、秋我が退屈していたら申し訳ないと思っていたが、どうもそうではなかったようだ。

「一番興味を引いたのは、薬草の話しでしたね」

「薬草? え? 秋我さん薬草のことを知ってるんですか?」

「辺境に居ましたからね。 私のいた辺境には薬草師も医者もいませんでしたから、民が怪我をすれば薬草を持って駆けつけていました」

「どこで薬草の勉強をしたんですか?」

紫揺が勉強というのは勉学のことだとお付きたちから聞いている。

「耶緒の両親に教えてもらいました」

「え?」

意外な人物の名であった。

「辺境に住んでいれば、知恵がついてそれを代々伝えていきますので。 それを教えてもらったということです」

「そうなんだ」

それが耶緒との切っ掛けなのだろうか。

「たしか朱禅さんって・・・珍しく官吏から四方様の従者になられたんですよね」

「ええ、たしか父さんがそう言ってましたね。 せっかく官吏になられたというのにもったいないって」

「それも能吏だったらしい―――」

のにね、と最後まで言うことが出来なかった。
襖が慌ただしく開けられたとおもったら “最高か” と “庭の世話か” が飛び込んできたからである。

「失礼をいたしますっ! お立ち下さいませっ!」

何のことかと思いながらも、あまりの迫力に負けて紫揺と秋我が立ち上がった。

「こちらへ! お早く! 秋我様も!」

彩楓が紫揺の手を引き、紅香が襖の外を覗いていたかと思うとそのまま回廊に出て行った。 そして “庭の世話か” が茶器を大急ぎで片づけている。

「よろしくてよ」

紅香の声が聞こえた。

「行きましょう。 秋我様も」

紅香の声に応えるように彩楓が言う。

「あ? あの? いったい何が?」

彩楓に手を引っ張られながら、何度か回廊を曲がる度に、先を行く紅香の声が聞こえてきていた。 そして一つの戸の前で止まった。 その戸には襖に描かれているような絵は描かれていない単なる木戸であった。

「暫しの間、こちらにお願い致しますっ」

「いらしたわ!」

「お早く!」

紫揺と秋我の背を押し塗籠に放り込んだ。
光石があるからいいようなものの、中は窓もなく、これで光石が無ければ真っ暗だっただろう。
訳が分からずキョトンとする二人であった。

バン! と先ほどまで紫揺たちが居た部屋の襖が開けられた。

「・・・おらんか」

襖を閉めることもせずそのままに、隣の部屋に行くとまたバン! と襖を開ける。 それが延々と繰り返されているが、まさか塗籠に隠されているとは思いもしないだろう。

「リツソ、ベンガク、オベンキョシマショ。 シユラとオヤクソク!」

「わかっておる!」

勉学をしなければ紫揺を娶ることが出来ない。 師が言った。 だから勉学はする。 ・・・紫揺とする。 紫揺と一緒なら勉学も楽しい。 それにどうしても紫揺の匂いがする。

「ン?」

一言漏らすとカルネラがポカスカと叩いていたリツソの頭からスルスルと降りた。 回廊に下りきると立ち上がり首を傾げている。 耳の飾り毛が優しい風にフワフワと揺れている。

「どうした? カルネラ」

「リツソ、オベンキョをスル。 カルネライイコ」

そう言い残して走って行った。

「あ! カルネラ!」

追おうとしたリツソの前に影が出来た。

「へ?」

見上げるとそこに腰に手を当てた師が立っていた。

回廊の影からリツソを覗いていた “庭の世話か” を見つけたカルネラ。 自分の身が見つからないように回廊の外側を走り、そっと “庭の世話か” の後ろについた。
“庭の世話か” は紫揺が居る時にはずっと紫揺に付いているのは見て知っている。 そして “最高か” も。

「連れていかれたわね」

「ええ、わたくしが最後まで見ておくわ。 丹和歌は彩楓たちに教えてきて」

いつ師から逃げ出すか分からないが、今回、師はかなりきつくリツソの手をとっている。 腰が痛くてそうそう追いかけられない。 再度逃げられては追えないからだろう。
丹和歌が頷くと左右に分かれ動き出した。

二人の会話が分かったわけではないが、動物的勘なのか、単にリツソに近づこうとしない方を選んだのか、カルネラが丹和歌の後を追った。

塗籠の前に立っていた “最高か” が丹和歌の姿を捉えた。

「どうだった?」

「あちこちの房を開けていらしたわ」

「気付かれたということ、かしら・・・」

「どうかしら・・・」

塗籠の外から声がする。 もう出てもいいのだろうか。

「あのぉー、もう出てもいいですか?」

最初は何が何だか分からなかったが、隠されているのだと覚り暫くじっとしていたが、もうその必要はないのではないであろうか。

「あ!」

慌てて戸を開けると三人が頭を下げた。

「申し訳御座いませんでした」

三人が頭を下げた途端、回廊の外側に居たカルネラの目に紫揺が映った。

「シユラー!」

ギョッとして三人が振り返ると、足元を毛玉がすり抜けた。
カルネラが紫揺の肩までスルスルと上がっていく。

「カルネラちゃん!」

「シユラ、ミツカルゥー」

紫揺を見つけて甘えるように紫揺の顔に抱きつく。

「見つかる、じゃなくて、見つけた、だよ?」

いつもリツソが “見つかる” と言っているのだろう。

「ミツケタァー」

秋我はカルネラの存在を知らなくもない。 前回初めて見た時にリツソの肩にちょこんと乗っていたのだから。
だがそのカルネラが話せるとは知らなかった。

「リ、リスが話すのですか?」

「私も最初は驚きましたけどね。 あ、カルネラちゃんの時にはもう慣れていましたけど」

「え? 他にも話せるリスが?」

「いいえ、リスじゃなくて、その時には狼でした」

解せないといった顔をした秋我であった。

“庭の世話か” は、紫揺がカルネラを可愛がっていることは知っている。 もちろん “最高か” も。
見つかってしまっては致し方ない。 カルネラをリツソの元に帰さなければいいのだ。

回廊の向こうからシキの従者が歩いてきた。

「あ、丹和歌、シキ様がそろそろと」

紫揺を呼んでいるのだ。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第124回

2022年12月16日 20時19分13秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第120回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第124回



紫揺の顔を見て思い出したのだろうと思い、シキが続ける。

「同じ感覚を持っているのね。 ぶつかるところもあるでしょうけど、それ以上に分かり合えるんじゃないかしら?」

え? マツリと同じ感覚を?

暫く紫揺はマツリのことを考えるだろう。 紫揺の顔を見ていた澪引がシキに目を移した。

「マツリがね、四方様に紫を奥に迎えたいと言ったの」

「え?」

「四方様は本気にしていらっしゃらないというか・・・反対のご様子だったわ」

「まぁ、父上ったら・・・」

せっかくマツリが言ったというのに。

「そしてね、どうしてだかは分からないのだけど、急に紫が話してくれたの」

マツリが東の領土で言ったことを紫揺が澪引に話しだした。 アルコールにのせられ口饒舌にすらすらと。
マツリが暫く来られないと言った。
べつに来なくていいと言った。
シキに会いに来てやってくれと言った。 安心をしていい、マツリは顔を出さないと。
そして来てみたらマツリが居なかった。 と。

「え?」

「おかしいでしょ?」

聞きようによっては、マツリに会えなくて寂しい丸出しではないか。 それにそんな話だけをどうしてチョイスしたのか。 他にもあったはずだ。

「それにね」

マツリが支えてくれた、と言って
『マツリがいてくれたら・・・進めるかもしれません』 と。

シキと澪引の瞳が光る。
『もしかしてそれは紫としての力の事だけに対してかもしれません。 でも私は紫です。 紫にはマツリが必よ』

「マツリが必要と言ったのですか?」

「それがね、そこで途切れたの」
『あ! いえ、何でもありません。  あれぇー、私ったら何言ってんだろ・・・』と言って。

「あら、あと一押しだったのですね」

「ええ、でも前に進めていると思えない?」

「ええ、充分に」

「わたくしには力の事は分からないわ。 紫の言った紫としての力の事だけかもしれないというのは、どうなのかしら?」

「はい、そこは気になるところでもありますが・・・」

シキが顎を上げて僅かに瞼を伏せるが、決して視ているわけではない。

「そこが二人の出発点かもしれません」

「出発点?」

「はい。 力の事には紫もマツリも頓着せず話せるようです。 マツリは五色の力を持つ者に力の事を教えるのは任だとしています。 紫は教えてもらわなければ分かりません。 マツリは紫に教えようといたします、紫はマツリの言うことに耳を傾けます。 会話の始まりですわ」

合点がいったというように澪引が頷く。

「マツリが叩かれたことがあるでしょう? その、二度目に。 その事はもう紫の中でおさまったのかしら?」

「暮夜のお話しをいたしましたでしょう?」

澪引が頷く。

「あの時に、わたくしが考える以上に二人が分かり合えた・・・いえ、分かり合えたかどうかは分かりませんが、かなり近づけたのではないでしょうか」

繊手を口元にやると少し考えてまた口を開く。

「ええ、きっとそうですわ。 だから紫がマツリに・・・。 東の領土に行ったマツリとのお話をあんな風に言ったのではないでしょうか」

澪引が小さく何度も頷く。

「二度目に叩いたことも解決されていますわ、きっと。 それがどうしてかは分かりませんけれど」

「では紫がマツリのしたことを認めたということ? それがマツリへのお返事ということかしら? でも紫からはそんな風には感じないわ」

「ええ、母上からお聞きした限りはわたくしもです。 叩かれたマツリが許す許さないの問題ではありませんし、逆に叩いた方の紫が許すかどうかのお話し・・・」

叩いたから許してあげる。 許すということは叩いた原因を許すということ。 どういうことなのだろうか。
二人の目線が紫揺に移る。
幸せそうに菓子を食べていた。


「昼餉前にそんなに菓子を食べられるからです」

給仕に居た “最高か” と “庭の世話か” が目を合わせる。
前に出されている昼餉がなかなか進まない。

「だって、美味しかったんですもん」

「父さんが言っていたことを覚えていますか?」

「・・・残しません」

そう言うと空になっている秋我の皿と、まだ箸をつけていない自分の皿をせっせと入れ替える。

「秋我さん、食べ盛りでしょ?」

「とうにそんな歳は終わりました」

仕方が無いと言った具合に前に置かれた皿に箸を運ぶ。 お付きたちに比べるとこれくらい楽なものだ。 実際まだ入らないわけではない。 食べ盛りではないが。

「紫さま、あの・・・なにか、どこか、お身体の具合のよろしくない所はございませんでしょうか?」

二日は経っていないが、二日酔いをしていないだろうか。 それとも気分を悪くする酒は残っていないだろうか。

「あ、大丈夫です。 ホントに単にお菓子を食べ過ぎただけですから。 心配しないで下さい」

そのお菓子が問題なのだ。

「そうですよ。 こんなことくらいで心配をしていたら東の領土での紫さまにはついていけません。 ご心配なく」

酒菓子のことを知らない秋我がいともあっさりと言ってくれる。

「秋我さん、東の領土でのことを、ネタ・・・酒の肴にしないで下さいよ」

「それは残念です」

なんだか四人がシミジミしている。 紫揺は、紫は、東の領土でどんなことをしているのだろうか。 どんな生活をしているのだろうか。 桶を脛で蹴ってしまったり、器用にころんだり、秋我から聞かされた話はある。 ほかにどんな風にしているのだろうか。

「秋我様、お話し下さい」

秋我がニコリとした。

「ええ?」

と言ったのは紫揺である。

「あ、その前に、紫さまはお酒をたしなまれますのでしょうか?」

「ああ、それは私も知らないなぁ。 どうなんですか?」

「生まれてこのかた、飲んだことはありません」

再度四人が目を合わせる。

「あの、紫さま、本当にどこもどうも御座いませんか? 頭痛がするなど御座いませんか?」

紫揺がキョトンとする。

「お菓子を食べただけですから・・・」

そう言う以外なかった。

昼餉を食べ終えるとシキがやって来た。
お腹の大きなシキを見て、秋我の目が落ちそうになっていた。 秋我を驚かそうとして紫揺はシキがこれほどにお腹が大きいことを言わなかったからだ。
秋我にしてみれば、澪引にシキの懐妊の言祝ぎを贈ったが、こんなに大きな腹だとは思ってもいなかった。
この秋我の顔、東の領土に帰ってネタに出来ると、紫揺がほくそ笑んでいたことを秋我は知らない。

シキから言祝ぎをもらい、涙を流さんばかりに何度も何度も「有難うございます」と言っていた。
シキは長い間、子が出来なかった秋我夫婦を知っていた。 その耶緒が辺境の子供たちに添うていたのも知っている。

「シキ様、お身体をお大切に。 お元気な赤子を・・・」

それを言うのが精一杯だった。


「ああ? それで千夜(せんや)と昌耶が言い合いを?」

仕事を終わらせ着替えていた四方の手が止まった。 あの日から、澪引が物申してからは、毎日澪引が部屋で待っていて着替えを手伝っている。

『お方様、少々、千夜とお話をさせていただいて宜しいでしょうか?』

『あら、なにかしら? いいわよ、どうぞ』

紫揺が澪引の部屋から出て行った後だった。

『千夜、ちょっと出てきてちょうだいな』

言いたいことは分かっている。 澪引の側付きの千夜がチラリと昌耶を見ると、単なる側付きとは思えない優雅な所作で立ち上がり澪引の部屋を出た。

『酒菓子をお出ししたそうね』

『ええ、紫さまがよくお話し下さって、お方様も喜んでいらっしゃるようでしたわ』

昌耶には中の様子が分からなかったが、それでもそういうやり方はどうか。

『紫さまのことをよくご存じないようですけど、ええ、千夜のお付きするお方様がお気にされている紫さまのことを、千夜はよく知らないようですけ、どっ!』

千夜のこめかみにピキリと青筋が立ちかけた。 それを見た昌耶がふふん、と鼻から息を吐くと続ける。

『紫さまはまだ童女のようなお方。 そのようなことをされては困ります』

千夜がギロリと昌耶を睨む。

『何を仰っているのかしらっ。 房の中のこともよく知らず。 ええ、ええ、それはそれはお方様もシキ様も喜んでいらっしゃったわ。 それになぁに? 昌耶はシキ様の側付きでしょう。 紫さまのことをどうこう言うのはおかしくはなくて?』

『シキ様がずっと紫さまを可愛がってこられたんです。 ええ、お寝になられる時もご一緒だったほど。 紫さまのことはわたくしたちが良く知っていますの。 ですから紫さまのことにちょっかいを出さないで頂けるかしら』

『ちょっかいだなんて、昌耶からでるお言葉とは思えませんわ。 それに、わたくしたちはお方様から紫さまのことを頼まれておりますの、お願いねと。 そちらこそ今までのらりくらりとして、紫さまのお気持ちを窺えていないんじゃありませんでしたこ、とっ!』

『のらりくらり? それこそ千夜からでるお言葉とは思えませんわっ! 急いては事を仕損じるということをお知りにならないのか、し、らっ!』

今までにも紫揺は澪引の部屋に来ている。 澪引とシキとそして紫揺の話を聞いている。 それにシキと澪引が紫揺とマツリをくっ付けようとしている話も聞いている
そこで今回、澪引から紫揺のことを頼まれたのだ。 はりきらいでどうする。
段々とボリュームが上がり、澪引の部屋の中まで会話が聞こえてきていた。
そこで紫揺を送り出したあと、母娘の会話をしていた澪引とシキが仲裁に入ったということだった。

「ええ、千夜も昌耶も有難いのですが・・・」

「ああ、それはそうだろう。 其方にはわしが選び抜いて従者を付けたのだからな」

昌耶もシキに付く前は澪引についていた。
四方が選んだ中に教育係もいた。 澪引に字を教え、宮での言葉を教え、所作もなにもかもを習わせた。 当時その補佐に着いていたのが千夜だった。 澪引とほとんど変わらない歳だったというのに千夜は何もかも出来ていた。
そしてほとんど変わらない歳だからこそ色んな話も出来た。 千夜はいつも頷いて聞いてくれていた。 とは言っても、自分はどうして何も出来ないのか、と言った時に千夜が慰めてくれる程度のこと。 けっしてキャピキャピと恋バナなどをしていたわけではない。
初めての懐妊の時には千夜がずっと付いていてくれた。 不安ばかりだった澪引を励ましてくれていた。

『澪引様、何もご心配することは御座いません。 健やかなややがお生まれになります。 ご安心ください。 この千夜が見守っております』

「シキには其方が選び抜いて昌耶を付けたのだからな。 二人とも其方たちのことしか思っておらん。 其方たちの為になることしかせんのだからな」

男社会で言うところの忠臣である。

「千夜も紫に異変があれば、抜かりなく手を打っただろうし、まぁ、昌耶の言うことも分からんでもない。 あの紫が酒を吞んであれ以上になることなどと考えたくもないからな」

昌耶は紫揺がお子さまだからと言っただけで、酒乱とは言っていない。

着替え終わった四方が、どうしてだろうかといった具合に腕を組んだ。
どうしてだ? 千夜にしても昌耶にしても澪引とシキの為になることしかしない。 その二人がマツリとくっ付けようとしている澪引とシキに手を貸している。
あの二人は澪引とシキの為にならない時にはちゃんと進言をするはずなのに。

たしかに地下のことでは活躍した紫揺だ。
だがどうなんだ? 捨ててこようとしたものを忘れて宮までもって帰って、その中にあったものが偶然に零れ金。 目にとまったからと持って帰ったのが、偶然に乃之螺の帯門標だったり。 活躍したといっても偶然にあったこと。

杠をどうやって地下から出してきたのか詳しいことは分からないが、地下の牢屋に目を走らせ、尾能に尾能の母は立派だったと言った。 それに百足からの伝言を受け取っていた。
これも偶然なのだろうが、偶然だけで終わらせられるだろうか。
四方がブンブンと心の中で首を振る。
地下のことは地下のこと。 あくまでも紫揺が次期本領領主の奥になるかどうかの話しとは別である。 どれだけ偶然を引き寄せようが、その結果が本領のいざこざを治める切っ掛けとなろうが、本領領主の奥には関係のないこと。

「千夜と昌耶は納得したのか?」

澪引とシキの説得に。

『千夜、わたくしの想いを受けてくれたのですね』

本当は “でもそうじゃないの” と思っている。

『もちろんで御座います。 初めてお方様がお願いね、と仰って下さったのですから』

『え?』

『お方様はずっとずっと、お一人で乗り越えられてこられました。 わたくしが居ますのにわたくしに頼って下さいませんでした。 でも初めて、お願いね、と言って下さいました』

だからっ、燃えます!

『お方様が何と考えられていらっしゃるのか、分かっております。 一日も早くお方様のお心のままにわたくしたちは動きます』

ある意味、恐い団体かもしれない。

『千夜、ありがとう』

でもね、方法を考えて欲しいの・・・。 とは言えなかった。

『昌耶? 紫のことを考えてくれて嬉しいわ』

『当たり前で御座います。 シキ様は紫さまのことを御妹として考えておられるのですから』

『それだけじゃあないわね?』

『あ・・え?』

『昌耶も紫のことを想っているわよね?』

『・・・シキ様が余りにも紫さまに心を寄せられるので・・・つい』

『つい、じゃないわよね?』

昌耶がシキを見る。

『・・・紫さまは、可愛い御座います。 ですが、それを教えて下さったのはシキ様で御座います』

『昌耶、ありがとう』

でもね、いがみ合うのはやめて欲しいの・・・。 とは言えなかった。

『千夜も昌耶も手を取り合って協力してくれると嬉しいわ。 ね?』

『紫もマツリに心を寄せてきているみたいなの。 これからはそっと見守る・・・、少しのお膳立て程度で上手く運ぶと思うの。 昌耶も千夜も頼みますね』

澪引とシキが言えなかったことを互いが補足して言うこととなった。
一瞬睨み合った二人だが、仕える主から言われては物申せない。
『そのように』 と二人が声を合わせた。

「なぁ、澪引? 紫とは・・・」

何と訊いていいのだろうか。 四方から見ればマツリと言い合いをするだけの人物だ。

「女人から見てそれほどに想える者なのか?」

「まぁ、何を仰られるかと思えば」

組んでいた腕を解き眉を上げる。

「可愛らしいでは御座いませんか」

そんな一言で終られても困ってしまう。 四方から見れば澪引の方がよっぽど可愛いのだから。

「シキ様に御座います」

尾能が僅かに襖を開け、衝立の向こうから声をかけてきた。

「通してくれ」

襖が開けられシキが部屋に入ってきた。 回廊では四方の従者の末端に座っていた千夜の隣に昌耶が座った。

「お方様のお言葉忘れてはいませんでしょうね」

「そちらこそ、シキ様のお言葉を覚えておいででしょうね」

「わたくしは昌耶より若いので? 物忘れなど御座いません」

昌耶のこめかみの血管が浮く。

「ええ、そのお歳なのに、敬うということを御存知ないのかしら?」

「ほほほ、何を仰られるのやら。 わたくしの方が先に側付きになりましてよ。 敬ってもらわなくてはならないのは、わたくしの方ですわ」

「何をコソコソと言っておられるのか?」

末端に座る四方の従者に言われ「何でも御座いません」とハモった。

「香山猫が?」

「はい。 わたくしも東の領土で一度、高山から下りてくるところを見ました」

「それで?」

「カジャが何か知ってはいないかと。 紫と話をさせていただけないでしょうか?」

四方がまたしても腕を組む。 供が主以外と話す。 有り得ない事だ。 それにカジャは気位が高い。 そんじょそこらの山猫や供とはわけ違う。

「カジャは話さんだろう。 わしから訊いておく」

「いいえ、カジャも話すと思います」

「カジャ、も?」

「夕餉の用意が整いまして御座います」

衝立の向こうから尾能の声がした。


翌日、朝餉を終えた紫揺が四方の部屋に通された。
初めて入ったわけではないが、そこには初めて見るハクロとシグロにも劣らない大きさの山猫が居た。 身体全体は薄めの茶色。 そこに黒い歪な丸模様が入っている。 耳の先には黒い飾り毛があり、金色の目は煌々とし、その中の針のような黒い瞳が紫揺を睨みつけている。
いつもは奥の部屋にいたのだろう。

四方と澪引、シキが卓を囲んで椅子に座っている。 四方が気に食わないと言った顔で片手で頬杖をつき、もう一方の手は親指以外を順にタタタタと何度も卓に落としている。

「四方様、そんなにお怒りにならなくても」

「そうですわ。 ロセイもキョウゲンもそうでしたから」

あの時キョウゲンは話してはいないが、少しでも四方の気が済むようにキョウゲンを道連れにする。

フン! と鼻を鳴らしソッポを向く五十一歳。 “お怒り” ではなく拗ねているのだろう。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第123回

2022年12月12日 20時15分53秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第120回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第123回



「四方様が来て下さらなければ、紫が言ったようにわたくしも止まったままだったかもしれないわ」

茶器に手を伸ばし喉を潤す。
話しているからと、気づかわなくていいわ。 いくらでもお食べなさいな、と言って続ける。
言われなくともバンバン食べていたが「はい」と返事をしておくし、これで遠慮なく食べられる。 バンバン食べていても一応遠慮はしていたのだから。

「妬心を持っていただけるほどに愛されている。 兄は四方様に妬心など感じていなかったわ。 いつも見守ってくれていただけ。 それに不服があったのではないですけどね」

最初は妬心という気持ちが分からなかったという。 だが何度も四方の言葉を聞く度に何となく分かってきたと。 それがどんな気持ちなのか分かるようになると、あることを感じるようになったと。
兄を慕う気持ちと比べるとそれは異質なものであった。
恋を知らなかった澪引が初めて感じた事だった。 兄を慕うそれと求婚をしてくる四方に感じるそれは全く違うと。

「いつの間にか、わたくしも四方様を想うようになってきていたみたいなの」

四方の粘り勝ちか、とどこかまだ四方を受け入れられない紫揺が思う。

「輿入れの時には、迎えに来て下さってずっと馬車の横を歩いて下さったわ。 わたくしの身体を考えてそうして下さったみたい。 従僕が仕事を取られたとオロオロしていたかしら」

澪引の身体を考えて馬車はまるで牛車のような進みだったという。
思い出したのか、くすくすと笑んでいる。

紫揺が茶器に手を伸ばし茶をすする。 何故かポワンとする。 ふわふわと気持ちいい。

「辺境からずっと歩かれたんですか?」

あの四方が?

「ええ、いつもは供の山猫に乗っていらっしゃるのに」

「供って、や・・・山猫なんですか・・・」

「ええ、カジャと言ってね、最近はあまり姿を見ないけれど、若い頃はずっと四方様に付いていたわ。 お義父様と代替わりしてから段々と見なくなったかしら。 四方様も宮内でお仕事漬けになってしまったから」

デスクワークに供は必要ではないのであろう。 あの肉球のある手で筆は持てないのだろうから。

「宮に来てからは、わたくしの書いた文を持って随分と郷里に行って下さったわ。 あちらでは誰も文字を知らないの。 わたくしも宮に来てから教わったくらいなの。 ですから代読もして下さったり、父や母、兄の土産話も持って帰って下さったりしていたわ。 ふふ、四方様はわたくしが知っているのをご存知ないのだけれどね、随分と援助もして下さっていたみたい。 わたくしには言わないようにと四方様から念を押された尾能から聞いていたの」

以外だ・・・、あの四方が? それともそれが恋した者の為せる業なのだろうか。

「どうして尾能さんが?」

四方に止められていたというのに。

「郷里を想うわたくしのことを思って下さったのは勿論でしょうけれど、尾能は四方様一番ですからね。 四方様は手厚くされています、ご心配にはおよびません、とでも考えたのでしょうね」

尾能にとって一番は四方。 まるで杠とマツリのようだ。

「四方様が先代領主と交代されて、宮でのお仕事に就くようになられてからは、郷里との連絡やご様子を見に行かれるってことは無いんですか?」

「馬を走らせて下さっているわ。 その者が代読して土産話を持って帰ってくれるの」

抜かりは無いのか。

「父と母が病に伏せった時、亡くなった時には駆け付けたかったけれど・・・この身体ではね」

そうだったのか。 そうか、よく考えればわかるはず。 澪引がいくらシキと姉妹に見えるからと言っても、澪引はシキの母親だったんだ。 その両親となるともう亡くなっていてもおかしくない。 辺境がどれ程生きていくに厳しい所か知っている。 安穏と隠居など出来ない所だと。
え? 安穏と?

「もしかして・・・、お兄様は澪引様のお身体を考えて四方様にお預けになったんですか?」

辺境で身体の弱い者が生きていくなど、簡単なことではない。

「宮に来て暫く経ってからそれに気付いたわ。 きっとそうだとわたくしも思うの。 兄は見守るだけで何も言わなかったもの」

手放したくなかったのかもしれない。 だがそうすれば澪引の命の時が短くなってしまう。

「マツリも同じように考えると思うの」

「はい?」

どうして急に? それに同じって、四方と? それとも澪引の兄と? いやそれとも澪引と? いやいや、遡って尾能とか・・・それは有り得ないか。 どうしてだろう、考えが散漫する。

「紫はマツリのことをどう思って?」

澪引がゆるりと僅かに首を傾げる。 シャランと柔らかな音が鳴り、桜の花が舞いそうな美しさだ。
先の言葉は質問ではなかった。 あとで誰と同じと考えたのかと訊けばいい。 まずは質問に。 質問に・・・。
どう答えればいいんだ。

「どう思う・・・」

「ええ」

紫揺が眉根に皺を寄せる。

「最初とは随分と変わったと思うの。 違うかしら?」

「それは、そうです。 いやな奴とか、腹立つとか、色んなことは考えなく・・・思わなくなりました」

少々、解せない言葉があるが、澪引の質問に “是” と応えたのだと分かる。

「何か新しいことは感じたかしら? 思ったかしら?」

「新しいこと、ですか?」

「些末なことでもいいの。 何かないかしら?」

考える。
ポコポコポコ。
頭の中で木魚がなる。
ポコポコポコポコポコ。
どうしてだろう、何も浮かばない。 考えようとするがまとまらない。 頭の中がフワフワしているせいだろうか。

「えっと。 マツリが東の領土に来たんです」

そして暫く来られないと言った。
澪引は頷いて聞いている。
べつに来なくていいと言った。
シキに会いに来てやってくれと言った。 安心をしていい、マツリは顔を出さないと。 そして来てみたらマツリが居なかった。
急にすらすらすらと紫揺が話し出した。
どうしたことだろうと思いながらも、澪引が目を細めて聞いている。

「べつに会いたいと思ってるわけじゃないんですけど・・・」

「では会いたくないとも思っていないのね?」

「それは・・・そうかもしません。 あ! って言うか、マツリがここに居るのは当たり前と思っていましたから」

「マツリに会いたいかしら?」

「え? ・・・そ、ど、・・・どうでしょうか」

紫揺が眉間に皺を寄せて首を傾げる。

「どうしてこんなことを言っちゃったんでしょ。 ああ、頭散乱です」

頭を散乱させてどうする。 見られたものではない。

「混乱してしまったかしら?」

側付きが顎を上げ半眼になった。

(なかなかに強情な・・・)

だがそろそろ限界だろうか。
部屋の隅に居たもう一人に目で合図をする。 頷くとそっと部屋を出て行った。

「マツリに会えなくなっても何ともない? ああ、ごめんなさい、混乱しているのよね。 杠と会えなくなったらどうかしら?」

「それは杠にも言ってます。 私がこっちに来ないと会えないんだからもう会えないって。 杠はまた逢えるっていっつも言いますけど」

「ええ、杠はよく分かっているから」

どう言う意味だろう。 だが考えようとするとポワンとする。

「杠に思うようにマツリにも思えないかしら?」

紫揺が首を傾げる。

「考えないで? 混乱しているのですもの。 思ったままを教えてもらえるかしら?」

「・・・分からないんです。 杠と会えないって分かってても寂しいです。 でも杠に会うために本領に来ることなんて出来ないし、杠もそんなことを望んでないし。 でも・・・マツリは。 ・・・マツリは」

澪引が待つ。

「マツリは支えてくれました」

「そうなのね。 四方様がわたくしを支えて下さったようにマツリも紫を支えたのね。 わたくしはそうして下さった四方様に甘えました。 紫はどう?」

マツリの腕の中に居た。 心だけではなく身体も支えてくれていた。 褒めてくれた。 労ってくれた。

「マツリがいてくれたら・・・進めるかもしれません」

澪引の朱唇の端が柔らかく上がった。

「杠に褒めてもらって、労ってもらって、それはすごく嬉しいです。 心が満たされます。 嬉しくて満面笑みです。 でもマツリに褒めてもらっても、労ってもらっても、満面笑みにはなりません。 ただ、進める。 もしかしてそれは五色としての、紫としての力の事だけに対してかもしれません。 でも私は紫です。 紫にはマツリが必よ・・・あ! いえ、何でもありません。 あれぇー、私ったら何言ってんだろ・・・」

あと一押しだったのに。
側付きが心の中で舌打ちをした。

さっき出て行った従者が戻ってきた。 手には菓子の載った大皿が持たれている。
もう一人の側付きが立ち上がり茶を入れ直す。

「紫さま、どうぞお飲みください。 混乱をされているようですので、この茶でゆるりとされて下さいませ」

有難うございます、と言い飲んでみると今までの茶と味が違った。

「サッパリしてます」

側付きが頷くと、紫揺が茶を飲み干した。
今度は違う茶葉で茶を入れる。

「新しい菓子に合う茶で御座います」

新しい大皿が置かれた。 まだ菓子が残っているというのに大皿を下げた。 とは言え、かなり紫揺一人で食べた。 食べ干してしまうと困ったことになるかもしれない。 昼餉が食べられなくなるとか、太るとか、そしてそれ以外にも。

「どうぞお召し上がり下さいませ」

側付きが一礼して元の位置に戻っていった。

下げた大皿を持って澪引の部屋を出てきた従者が “最高か” と “庭の世話か” を手招をしてきた。
何事かと四人が目を合わせるが、敵に呼ばれたのに行かないわけにはいかない。
回廊の角を曲がり、すっと一室に入った。 もう一度四人が目を合わすと腹に力を込めて後に続く。
振り返った従者が大皿を四人の前に差し出してきた。

「紫さまにお出ししていた菓子です。 一つお食べ下さいな」

再再度四人が目を合わせ、それぞれが一つを手に取る。

「紫さまにお出ししておりましたのですよ? 毒など入っておりません」

四人が同時に口に入れる。 それぞれが違う菓子だけに、ナニナニ味というのは違っているが共通するものがあった。

「これって・・・」

丹和歌が一番に口を開いた。 この味に一番詳しいのは丹和歌だったようだ。

「え? なに? なにかあったの?」

姉である世和歌が丹和歌に問う。 紫揺と同レベルのようだ。

「ええ、そうね」

彩楓が言うと紅香も頷く。

「はい、そうです。 酒(しゅ)を練り込んでいます」

「しゅ、酒を!?」

世和歌が驚いて声を上げる。

「ほんの僅かですが、紫さまはよくお食べになられるのでお口が滑らかになられるだろうと考えた次第です」

お酒に強ければ何の効果もなかったが、と付け足す。

「なんという無茶をなさいますか!」

「お酒をお飲みいただいたわけではありません。 あくまでも酒菓子(しゅがし)ですので」

そう言うと目を流しながら部屋を出て行こうと一歩を出す。

「主を思われるのなら、これくらいはされませんと」

暗に紫揺のことを思っているのならば、紫揺の幸せを思うのなら、これくらいしなくてどうする。 今まで何をしていたのかと言っている。
パタンと襖が閉められた。
呆気に取られていた四人がその音で我に戻った。

「くっ! くやしーーー!!」

悔しいとは言っても、到底この四人にそんな発想はなかったし、教えられてもそんなことをする気はない。

「紫さまはお酒はどうなのかしら?」

「そんなお話は今までなかったわ」

と、回廊を何人もの人が歩いていく音がする。

「シキ様だわ」

「ええ、きっと」

明日と聞いていたが、急遽今日に繰り上がったと澪引の従者にシキの従者が言ってきた。 その時に四人もその従者から聞いた。 四人も元はシキの従者を務めていたのだから仲間である。

「シキ様!」

大きなお腹に手を添えてシキが入ってきた。

「まぁ、大きくなったわね。 まるで明日にでも産まれそうね」

「触ってもいいですか?」

ポワンとした頭の中だったのが、段々とはっきりとしてきた紫揺がシキの腹に手を伸ばす。

「ええ、蹴られるかもしれないけど」

クスクスとシキが笑う。

「疲れは取れた?」

「はい、とうに取れていたんですけど、昌耶がなかなか出してくれなくて」

「ふふ、やはりシキは昌耶に任せるのが一番ね」

「あ、蹴った!」

ポコリ、と紫揺の掌が蹴られた。

「きっと、ややから紫へのご挨拶ね。 わたくしも」

澪引がシキの腹に手を当てる。
まだ生まれていないというのに赤ちゃんの存在は大きい。 誰もが幸せになれる。
澪引の部屋が幸せに包まれた。

「え!? 酒菓子を?」

「ええ」

「紫さまはお酒は?」

「お話をしたことが無いの」

「でもまぁ、シキ様も房に入られて何も言ってこられないということは、大丈夫だったのでしょうけど」

「何をコソコソ話しているのです?」

いつの間にかシキの従者の先頭に座していた昌耶がこちらにやって来ていた。

「昌耶様、それが、お方様の従者が紫さまに酒菓子を出されたとか」

「え!?」

「紫、来てくれて嬉しいわ」

椅子にかけ、ようやっと落ち着いて話が始まった。

「もっと早くに来られれば良かったんですけど」

「東の領土で忙しくしているのね? 領土はどう?」

「香山猫が下りてきてちょっと困ってしまっていましたけど、それ以外には何もありません。 みんな幸せにしています」

詳しいことは言えない。 胎教に宜しくないことくらい紫揺にだってわかる。

「香山猫が?」

そうだった。 紫揺が東の領土に来る前はシキが辺境を飛んでいたのだ。 何か知っているだろうか。

「シキ様が回っておられた時にはそんなことはありませんでしたか?」

「ええ、あったわ」

「え!?」

まさかのま、だった。

「ロセイで飛んでいる時に見かけたの。 でも人郷まで下りることが無かったからその時はそのまま見逃したの。 そうね、わたくしから言うよりもカジャから聞いた方が詳しく説明してくれると思うわ。 夕餉の時にでも・・・終わってから父上に言ってカジャと会えるようにするわね」

カジャとは、四方の供だと澪引から聞いたところだ。 山猫だと。

「あ、そうか。 猫同士なのか」

「ゆっくりできるのでしょう?」

「明日シキ様が来られるということでしたから、シキ様とお会いしてから明日戻るつもりでした」

「そんなに急かなくても。 領土は落ち着いているのでしょう?」

「秋我さんを戻してあげたいのもあって」

「え? 秋我が来ているの?」

「はい。 耶緒さんがもう少ししたら出産? えっと赤子が産まれますから。 シキ様より少し早く。 だから帰してあげたくて」

出産という言葉がこの地にあるのか誰にも訊いていなかったし、ややというのは、宮の者だけの言葉らしいから民は赤子のままでいいのだろう。

「まぁ! 耶緒が?」

シキは辺境で秋我に世話になっていた。 当然、耶緒のことも知っている。

「秋我がさぞ喜んでいるでしょうね。 わたくしから秋我に言祝ぎを伝えたいわ。 あとで一緒に行きましょうね」

珍しく子供のように喜んでいる。 いつもはしっとりとして澪引の姉かと思うくらいなのに。
そう、風に揺れる藤の花のように。

「澪引さまは桜の花、シキ様は藤のよう」

急に何を言うのかと、澪引とシキが何度か目を瞬いた。

「あ、すみません急に。 でも澪引様とシキ様を例えるならそんな感じって・・・」

側付きの片眉が上がる。
酒菓子がまだ残っているのだろうか、茶を飲ませてもうスッキリしたはずなのに、と。

「ふふふ、マツリと同じことを言うのね」

「え?」

「全く同じではないけれど、母上には桜色、わたくしには藤色がよく似合うというのよ。 マツリの前に居る時は藤色の衣装を着ていてほしいって言うほど」

藤にも色んな色がある。

「何色の藤色ですか?」

「薄い紫よ」

同じ色をイメージしていた。

視気(シキ)の目を使わずとも紫揺の表情から同じ色を考えていたのだと分かる。

「ね、わたくしが初めて紫と会った時に言ったことを憶えているかしら?」

「え?」

シキとは初めて会った日から沢山話をしてきた。 ましてや初対面の夜から同じ布団で寝たほどだ。
紫揺がコキンと首を倒す。
「きゃっ!」 とハモった声が聞こえた。

「まぁ、シキ、あまり急に喜んではややに刺激がいってよ」

ソロリソロリと首を戻す。

「ああ、そうでしたわ。 アッ・・・」

腹の中から苦情を申されたようだ。

「やや、元気ですね」

「ええ、元気すぎてあまり眠れないくらいよ。 ね、思い出した?」

うーん、という顔を紫揺が作る。

「仲がいいのねって言ったのを覚えていないかしら?」

あっと思い出した。 それが始まりでまたどんどんマツリと睨み合ったのだった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第122回

2022年12月09日 21時48分12秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第120回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第122回



湯浴みと夕餉を終わらせ、前回寝泊まりした部屋に通された。
湯浴みも夕餉も “最高か” と “庭の世話か” がピッタリと付いていた。 四人とも秋我とよく気が合ったようで、夕餉の時には話は弾んでいたが、どうして東の領土での紫揺の失態話をエサに話が盛り上がるのかと、何度突っ込みを入れた事か。
歩いている時に器用に足を滑らせたとか、水桶を向う脛で蹴ってしまって悶絶していたとか、とくにお付きからの又聞きなのだろうが、お転婆での襲歩の話しではキャーキャーと手を叩いて喜んでいた。
寝台に上がりやっと一人になれたという感じだ。

「明日一日、澪引様のお話し相手をして気がお楽になればいいけど」

澪引もシキが居なくなって寂しいのだろう。
そしてリツソのこと。 “才” どれだけ考えてもリツソには逃げ足の早さの才能しか思い浮かばない。 そう思うと四方も苦労するだろう、決して虐めているわけではなさそうだ。
リツソを叱る者が居ないと言っていた。 長い間マツリも殆ど出ているからと。
『安心せい。 我は顔を出さん』 マツリが言っていたのはこういうことだったのだろうか。

「東の領土にも当分来られないって言ってたし・・・」
―――べつに寂しいわけじゃない。

ただ、本領に来るといつも見ていた顔がない。
―――ただそれだけ。

この寝台、マツリが身体を支えてくれていた。
―――褒めてくれた、労ってくれた。

ここで初代紫と話せた。

ゴロン。 仰向けに転がった。
あの松の木に上りに行こうか。 杠と上ったあの松の木に・・・。

「あ!」

ガバリと起き上がった。
あれほど杠と会いたいと思っていたのに、杠が抱きしめてくれると思っていたのに・・・。
今の今まで忘れていた。

「あした澪引様に言って杠と・・・」

杠と会って何を話す? あの時のような寂しさを感じていない。 ただただ杠と会いたい、今はそんな風に思っていない。

「杠・・・」

目を瞑って杠の笑顔を思い出す。 紫揺、と呼んでくれる声を思い出す。 杠の両腕が広げられる。
そうだ、杠と会って話す必要なんてないんだった。 杠は笑って抱きしめてくれる。 泣いている間もずっと抱きしめてくれている。
杠を忘れていた自分をちょっと腹立たしく思いながらも、あした澪引に頼もう。 澪引と話す時間を割くわけにはいかないけど、こんな時間にならいいだろう。 あの松の木に上った時のように。
そう言えば、もう本領に来ることなんて無いと思っていたのに。 もう杠と会えないと思っていたのに。

『また逢える』
『俺の言葉を信じていてくれればそれでいい』

あの時は希望、期待を持っていればいつかは叶うということだろうか、と思っていたが、思い返してみれば以前にもあった。 二人で地下に潜ったあの数日。 東の領土に戻る紫揺にだけ聞こえるように杠は “また逢える” と言っていた。
松の木には明日上ろう。 杠と一緒に。 手に手巾を巻けば許してくれるだろう。


「え? 杠もいないんですか?」

今日は澪引の部屋に招待されている。 卓の上には美味しそうで色もとりどりの菓子が大皿に置かれている。
そして澪引の茶器の横には小皿が置かれてある。
この大皿は紫揺一人用だろうか。

「そうなの。 マツリよりずっと長い間いないわ」

食べてね、と言って目で菓子を勧める。

「まさか・・・地下? ですか?」

「よく知らないの。 ああ、いいえそれはないわ。 杠からの文が届いていたから。 地下から文なんて出せないのでしょう?」

澪引は地下のことなど知らない。 ましてや入ったことなどない。 紫揺の方がよほど詳しい。
あの地下を思い浮かべると郵便配達員もいそうにないし、ポストもなかったはずだ。 東の領土にもポストはないが。
杠がマツリの手足となって動きたいと言っていたのは聞いていた。 きっとマツリの手足となって動いているのだろう。

「そうですね。 地下じゃなかったら安心です」

それは杠にとって幸せなことなのだから。 そう思うとどこか納得が出来る。 菓子に手を伸ばす。

「澪引さまもご出産のときには里に帰られたんですか?」

明日シキは出産のために宮に戻ってくる。 出産後もしばらくは宮に居るようだ。
澪引が首を振る。

「わたくしは辺境の出なの」

それが? という顔をして菓子を噛んだまま首を傾げる。

「もともと体が丈夫ではないの。 だから懐妊していなくても馬車での長旅が出来ないの」

「それほどにお身体が?」

「ええ、お薬は欠かせないの」

そんな風には見えなかった。 たしかに見方を変えれば儚くは見える。

「それじゃあ、一度もお里に?」

「ええ。 その分、四方様に我儘を沢山言いましたわ」

そう言って笑む。

辺境からやってきてずっと一人で宮に。 辺境と宮の生活は一転していたであろう。 本領の辺境がどんな様子かは見たことはないが、東の領土と変わらないであろう。
耶緒を思い出す。 それこそ耶緒は秋我と結婚して長い間辺境に居た。 結婚してすぐ中心に来たわけではなかったし、そこそこ人生を踏んだ歳にやってきた。 それでも身体の具合を悪くした。

澪引は結婚をしてすぐに宮に輿入れをしている。 いくつで結婚をしたのかは知らないがまだ若かったに違いない。 それこそ十代だったかもしれない。 それなのに親に泣くことも出来ず、甘えることも出来ず、そして三人もの子を産んだ。

「澪引様・・・」

以前、澪引は “辛い” と言った。 その時に紫揺は東の領土にいてみんなが優しくて、心配してくれて、それでも自由にさせてくれて。 大事にしてくれていると思った。
自分の方がずっと恵まれている。 日本の地を知ってくれているお付きや葉月も居る。

「あら、そんな悲しい目をしないでちょうだい? わたくしは幸せよ」

とくに四方に物申してからは。

「特に紫とお話してからはね、わたくしとっても幸せなの」

「え? 私の? ですか?」

「ええ、だから紫にも幸せになってもらいたいわ」

マツリが四方にあれ程言い切ったのだ。 あとは紫揺の気持ちをどう軟化させるか。 出来ることならシキが来る前に。
紫揺がマツリに心を寄せたと聞けばシキも安心できるだろう。
シキがいる間はシキの従者が何かと気をまわしていたが今はそれが無い。 “最高か” と “庭の世話か” が居ることは分かっているが、澪引と四人だけでは心許ない。 昨日、紫揺が来たと聞いた時、澪引の側付きには紫揺のことを言っておいた。


回廊に座る “最高か” と “庭の世話か” がコソコソと話し合っている。

「絶対におかしいわ」

「ええ」

四人が共に回廊に座る澪引の従者をチラリと見た。

「まるで布陣が敷かれているような」

「ようなではありませんわ、姉さん。 完全に敷いていますわ」

昨日から澪引の従者が今までとは違う気がしていたが、間違いないだろう。 陣形を組んでいるようにさえ見えるのがこわい。 男の戦いとは違う、女のコワ~イ戦いの陣形。
澪引の従者がチラリとこちらを見た。

「挑んでいますわね」

「全く以って」

「人数で負けることは確か。 でも」

「ええ、明日にはシキ様が来て下さるわ。 シキ様の従者と一緒になれば」

「こっちの勝ち」

低くオドロオドロしいカルテットがさざ波を立てた。
かくしてマツリと紫揺をくっ付ける為に、どうしてか二分してしまった従者であった。


「澪引様・・・」

遠慮気味に側付きが澪引の後ろから声をかけてきた。

「え? シキが?」

どこからどうやって・・・ではないであろう。 まるっぽ波葉からであろう。 紫揺が宮に居ると聞いて一日繰り上げてやって来たという。
では落ち着いてからこちらに、と言うと、紫揺を見た。

「シキが来たみたいよ」

「え? 明日じゃなかったんですか? あ、具合でも悪くされたんじゃ・・・」

一瞬にして心配顔になる。

「大丈夫よ。 紫が来たのを耳にして一日も待っていられなかったようだわ。 お房に来るようにと言ったから、疲れが取れたらこちらに来るでしょう」
良かった、と、さっきの表情から一転する。 シキの母としてそれは嬉しいことである。
紫揺がシキに借りていた衣装を取りに行くからと、席を立ちかけると、澪引の側付きが「お任せくださいませ」と言って紫揺を止めた。 部屋の中に座していた従者に視線を向けると、従者が頷き部屋を出て行く。

澪引にしてみれはシキが来る前に紫揺を軟化させようと思っていたが、それが叶わないようだ。 でも話を進めておくくらいは出来る。
遠慮せず食べてね、と言うと、改めて紫揺を呼んだ。

「紫?」

「はい」

菓子に伸ばした手が止まる。

「ああ、気にしないで食べてちょうだい。 マツリがね、紫以外を奥として迎える気はないって」

「あぃ? えぁ?」

再び動きかけた手がやっぱり止まった。
側付きが眉間を寄せる。

「四方様にそう言ったの。 四方様としては出来れば紫は杠の奥にとお考えなのだけれど、万が一にも四方様が杠の奥に紫を置かれれば、マツリには跡がないから四方様の跡にはリツソを置くようにって」

「はいー!?」

「四方様がね、つくづく仰ったの。 紫と杠は良く似合ってるって。 互いのことをよく分かり合ってるって。 そうなの?」

マツリが言ったことに対して澪引は何かを訊いてきたわけではない。 今訊いているのは四方が言ったことがどうなのかということだ。 マツリの言ったことに紫揺が目くじらを立てて反駁をする時ではない。
菓子に手を伸ばす。

「杠のことは兄と思っています、杠も私のことを妹と思ってくれていて・・・。 分かり合っていると言われればそうかもしれません。 だからお互いに同じように想えるんだと思います」

「では、四方様の命で杠の奥になるようにと言われれば、どうかしら? 紫はどう思うかしら?」

杠と結婚。 杠の奥さん、配偶者、妻。 新妻。 無意識に首をコキンと傾ける。
キャ、っと言った澪引の声は紫揺の耳に入っていない。

杠が仕事から帰ってくる。
『お帰りなさい』
『ただいま』
杠が紫揺の背に手をまわし抱きしめる。 そして額にチュ。

(ああ、駄目だ駄目だ、有り得ない)

巻き戻そう。
菓子を口に入れムシャムシャ。 美味しい。 これで幾つ目だろう。 大皿を見るとけっこう食べてる。

『お帰りなさい、ご飯? お風呂? どっちを先にする?』

『うーん、今日はマツリ様の足になったから疲れたかな? 先に風呂に入ろうか』

『ん。 んじゃ、着替えを置いとくね』

(いやいや、ナイナイ)

杠との会話でこんなものは無い。
まず “お帰りなさい” じゃない。 “お帰り” だ。 そして杠が “ただいま” と言ったら、すぐに抱きしめてくれる。

『今日は大人しくしていたか? 怪我などしていないか?』

こっちだろう。
大人しくして怪我などもずっとしていなく、それが毎日でも杠は訊くだろう。 親を亡くした兄のように。

でも 『行ってらっしゃい』 でも 『お帰り』 でもない。 離れることなんて考えられないのだから。 だから出来ることなら・・・杠の胸ポケットにずっと入っていたい。
ずっと杠と一緒にいたい。 杠に近寄ってくる女の人はみんな蹴ってやる。 私に合格の印を押された者にしか杠を譲らない。
・・・それなのに。
・・・そう思うのに忘れていた。
―――どうしてだろう。
翅(はね)をもぎ取られたようだ。

紫揺が口を開くまで澪引は待っていた。 部屋の隅に居た側付きが外の気配に気付き、もう一人座していた者に目配せを送る。
送られた者が首肯し部屋を出た。

紫揺が首を振った。

「有り得ません」

「どういうことかしら?」

「杠の奥さ・・・奥には杠にお似合いの人がいるはずです。 その人は私のことも認めてくれるはずです。 妹として」

「紫は杠の奥にはならないの? なりたくないの?」

紫揺が顔だけで笑った。 澪引が柳眉を上げる。

「出来ることならずっと杠と居たいです。 杠の腕の中の揺り籠に微睡(まどろ)んでいたいです。 安心してその揺り籠にずっと居たいです。 でもそれじゃあ、私は止まってしまう。 私は杠を止めたくないと思っています。 だから杠も私を止めたくないと思っているはずです。 それに・・・杠の揺り籠に微睡んでいたいというのは・・・私の弱さです。 いつまでも弱くて杠に心配をかけていては巣立ちの出来ない雀と同じです」

ずっと長い間黙っていた紫揺。 それを見守っていた澪引。
紫揺はいっぱいいっぱい考えたのだろう。 紫揺の答えに何と酷な質問をしたのだろうかと考える。

だがここで【注意】が発生する。
あくまでも紫揺の容姿から、澪引がそう考えるのは間違ってはいないだろう。 澪引でなくともそうであろうが。
だが実際、紫揺は冬を越せば、シキが無事に産んだ子が三カ月にもなれは、二十四歳にもなる。 中学生でも高校生でもない、立派なクリスマスイブイヤーを迎える歳になるのだ。
澪引が紫揺に対して “酷な質問をした” と考えるのは可笑しい。 もうそんな歳なのだから。

「そうなのね」

一瞬だが愁色を見せる。

「澪引様?」

先ほどの色など無かったように、澪引が婉然と微笑んだ。

「・・・わたくしにも兄が居たの」

「え?」

「兄とわたくしの二人兄妹よ」

澪引に対しては若くしてこの宮に嫁いできて、両親に甘えられなかったと、泣くことも出来ずにいたと思っていた。 両親だけではなかったのか。 一人っ子で育ったから兄弟姉妹のことを考えられなかったが、兄弟姉妹が居るのは今更ではあるが当たり前ではないか。

「どんなお兄様ですか?」

ふふふ、と言いながら遠い目をする。
思い出にふけっているのだろう。
澪引が半眼で今も尚、宙を見ている。

「四方様が妬心を抱かれたの」

唐突だった。 まるで夜の静寂を破るような言葉のチョイスだった。

「え?」

遠い目をしていた澪引が紫揺を見る。

「兄に妬心を抱かれたの。 わたくしにしては・・・それが大きかったみたいなの」

「はぃー!?」

「兄はわたくしを・・・ずっと・・手元に置きたいと思っていたの。 わたくしは病弱だから心配だったのでしょうね。 それにわたくしも兄の側にいたかった。 誰の奥にもなりたくなかったわ。 いいえ、そんなことすら考えることなく、ずっと兄の元に居られる・・・何の疑いもなくそう思っていたの」

でも、と澪引が続ける。
四方がやって来た。 度々やって来る四方に気を引かれたかと言われれば、それを否定することは出来ない。
ましてや四方は澪引に一目惚れだった。 澪引が辺境の女人にも拘らず四方からのアプローチは何度も繰り返されたと言う。 そしてとうとう、ご隠居も出てくる始末になったと。

「ええー! 四方様は時の本領領主を連れてこられて・・・。 え? 権限を振りかざして澪引さまを奥に?」

あの四方なら有り得なくないだろうと “四方あんまり好きでない” 頭がすんなりと考える。
だが澪引が首を振った。

「四方様はわたくしが “はい” と言うまでずっとお待ちになったわ。 お義父様はわたくしの様子を見に来られただけ。 最初はね、そのつもりだっただけ。 でもどうしてか、わたくしを見られた途端・・・」

がっしと澪引の手を取りブンブン振って、四方の奥にどうしても! と声高に言ったという。
四方ですらまだ澪引の手を握ったことなど無かったのにと、あとで四方から聞いて笑ってしまったと、クスクス笑いながら話している。

「四方様が何度も足を運んでくださっている間、兄は見守ってくれていたわ。 それなのに四方様ったら、四方様を見送った後に兄がわたくしの肩に手を置いたり、背に手をまわしているのが気にいらなかったそうなの」

「え・・・もしかしてそれがヤキモチですか?」

澪引が、なんのことかしら? という風に首を傾げる。

「あ、嫉妬・・・妬心の元凶ですか?」

ふふふと、澪引が笑う。

「ええ」

来る度に『腰に手をまわしておったな』 『髪を梳いておったな』 『花簪をさしておったな』 などと前回来た時の去ったあとに見たことをつらつらと言っていた、と言う。 供の山猫の上で後ろ髪を引かれる思いで振り返っていたのだろう。
ココロ狭ッ! と紫揺は思ったが、澪引はそうではなかったようだ。

澪引が話し始めた為、紫揺の手が菓子によく伸びる。
側付きの口の端が上がっている。

「最初はね、四方様は何を仰っておられるのかしら? と思ったりしたの。 ずっと小さな頃から当たり前に兄がしてくれていたことなのですもの。 でもね、だんだんと・・・聞く度に嬉しくなってきたの」

「嬉しく?」

紫揺が目をパチクリさせる。

「四方様はわたくしを見て下さっている、って」

「でもお兄様も澪引様のことをずっと見ていらっしゃったんですよね?」

「ええ、それはもう大切なものを扱うように、壊れないように。 包むように」

一拍を置いて続けて言う。

「紫が言っていた杠の揺り籠と同じように」

あ、っと紫揺が声を漏らした。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第121回

2022年12月05日 20時21分14秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第120回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第121回



二日後、六都で全ての者を捕らえ、証拠も挙がったという知らせを持って、一足早く黄色の皮の胴当てを身にまとった一人の武官が戻ってきた。 顔を腫らせ、多分、鼻の骨を折って。
治療を必要とするだろうこの武官をわざわざマツリが走らせたのだが、少々裏目に出たようだった。

黄翼軍(おうよくぐん)武官長が目の前にいる部下に驚きの視線を送った。 この男は我が黄翼軍でも賊を片手一本で撒き散らせることが出来るほどの剛腕の持ち主であり、その体躯は必要以上過ぎるくらいに立派なものである。
恰幅の良い身体になりたいと思っているマツリでも「あ、そこまでは結構です」と言うだろう体躯である。

「何があった」

お前の身に。

真剣な眼差しで訊く武官長。 その目がイタイ。 武官長の真剣な目が何を問うているのか分かる。 己がどうしてこんな顔でいるのか、ということだと。

「六年前の都司、是環比を捕えに行きました時、是環比に逃げる様子が見えましたので足を踏ん張りましたら・・・その、床が抜けまして。 身体が沈んだところに飛び出してきた是環比の膝が顔に当たったということでして・・・」

「・・・」

「あ、ですが取り逃がしてはおりません。 周りを固めていた者が取り押さえました」

「・・・少々、食を抑えた方がいいかもしれんな」

早い話、ダイエット推奨である。



「シキ様のご様子を見に行きたいんですけど?」

東の領土では短い夏が終わり、過ごしやすい日々が続いていた。
紫揺とお付きは夏が終わると辺境に行き、あの気になっていた集落を訪ねた。 一度に十二名もの死者を出した。 さぞ悲しみ沈んでいるのだろうと気になっていた。
だが民は逞しい。 十二名をこの集落のやり方で野辺送りにし、家族が数日の喪に服した後は生きていかねばならない。 いつも通りの生活に戻っていた。 悲しみはまだ癒えてはいないだろうが。
紫揺は特に家族を亡くした者たちに添うように数日を過ごし、集落をあとにした。 その間、阿秀と梁湶は彰祥草の咲いていた痕跡がないかと探したが、やはり見つけることは出来なかった。

「はい?」

唐突に言われた領主。

「シキ様、ご懐妊なんです。 マツリからシキ様のご様子を窺うようにと言われましたんで」

・・・言われましたんで?
なんだ? それは?
本領で懐妊があったとて、それをこの東の領土がどうやこうやと・・・。
いや、そうではないか。
本領からお役御免となったシキが飛んできた。 そしてこの東の領土の宝ともいえる紫を抱きしめた。 お役御免となる前、シキには長い年月、東の領土の民に添ってもらっていた。 そのシキの身を案じるのは分かる、だが。

「で?」

どうしてマツリに言われたからと?

「本領に行ってもいいですか?」

どうして? 何故?

「あの? マツリ様が仰られたからと?」

「あ、えーっと、まぁ、それはそれで。 そのぉー、シキ様の具合も気になりますしぃ・・・」

分かった。 なぜ急に言い出したのかの理由が分かった。
紫揺が飽きたのだろう。 その口実にシキを使っているのだろう。 まるっぽすっかり丸分かりになった。

今代紫である紫揺の “紫さまの書” を書くにあたって、此之葉がずっとしたためている。 だが肖像画は未だに描かれていなかった。
『えー・・・ジッとしてなきゃいけないんですよね?』 『いやぁ、むりむり、やめましょう。 歴代紫を汚しちゃいます』 『私の顔なんて残さなくていいですよ』
ナドナド。 領主が何と言おうがずっと断られてきていた。 だが領主の一言で一転した。
『では、絵師の記憶のままに描いてもらいましょう。 かなり美化をして描くと思いますがご了承を』
そんなことを受け入れる紫揺でないことを分かっていて言った。 だからわざと言った。

そしてこの数日、紫揺はある角度でじっとしなければいけなかった。 それに飽きたのだろう。 というか、足や手が退屈限界になってきたのであろう。
そろそろ限界かと、と阿秀からも聞いていた。

「秋我が随行いたします」

「一人で大丈夫ですけど?」

「そういうわけには参りません」


「秋我さんごめんね、耶緒さんのことが気にかかるでしょう?」

「何を仰います。 紫さまが耶緒に手を施して下さり元気になりました。 気にかかることなど欠片も御座いません」

山の中を道順が心許ない二人で歩いている。

「でも、それでも毎日心配でしょ? 耶緒さんの顔を見ていたいでしょう?」

まるで比翼の鳥ともいえる二人である。 その耶緒は妊娠している。 それも出産となれば初産となる。

「ははは、紫さまには敵いませんね」

いや、紫揺でなくとも誰でも言うだろう。 お愛想でも。

「ええ、毎日、耶緒の顔を見ていたいです。 毎日、耶緒が腹を大切に思うその想いに私も腹を撫でたいです」

え? どういうことだろうか?
耶緒が腹を大切に思わなければ、秋我は耶緒の腹を撫でないということだろうか? 二人の子がいる耶緒の腹なのに。

「それって、耶緒さんが、もし耶緒さんがお腹の子を大切に思っていなかったら、秋我さんは耶緒さんのお腹を撫でないということですか?」

秋我が大きな声で笑った。 思いもしないことを言われたからだろう。

「そんなことはありません」

「え? だって・・・」

「耶緒と私の子です。 耶緒がどうして大切に思わないでしょうか」

そうだった。 この二人の愛情は自分も見てきたではないか。 何を今更、無粋なことを言ってしまったのか。

「じゃ、毎日、耶緒さんのお腹を撫でたいですよね。 ごめ―――」

―――んなさい、とは言えなかった。 秋我が紫揺を見たのだ。

「秋我さん?」

「私は耶緒を信じております。 耶緒も然り。 それだけではいけませんか?」

二人の絆は深い。 毎日腹を撫でる、それは秋我にとって至福の時であろう。
腹を撫でるという単なる行為に至福を感じる、それも一つではあるが、何よりも心が繋がっている。
その行為の至福は、厚意でもあるのかもしれない。 いや、厚意などではない。 そんなことはこの二人には必要ない。 心の底から赤ちゃんを想い、互いを想う。 ただそれだけ。

「紫さま? 私が耶緒の腹を撫でるのは、ただただ、幸せだからです。 紫さまの仰りたいように私が耶緒から離れて、耶緒の腹を撫でられなくなって何が変わりましょうか? 耶緒の腹の子は私が撫でずとも大きくなります。 耶緒の愛情を受けて」

この二人の絆は固い。

「喧嘩なんてしないんですか? あ、しなかったんですか?」

「一度もありませんね」

「・・・そうなんだ」

「耶緒が目くじらを立てるところを想像できますか?」

「・・・できない、です」

そして耶緒だけでなく秋我にも。
自分とマツリとはエライ違いだ。

(・・・? なんで私とマツリを比べなきゃいけないの)

でもこれは訊いていいだろうか。 うん、いいだろう。 これは単に男としてどう思うかなのだから。

「どうしました?」

考え込むような様子を見せていた紫揺の顔を覗き込んできた。

「あ、えっと。 その、秋我さん・・・女の人に拳でほっぺたを引っ叩かれ・・・殴られたことってあります?」

ギョッとした顔を見せた秋我。 三度、目を瞬かせてから口を開いた。

「ありません、が?」

“が?” 問われ返されてしまった。 それがどうしたのかと。

「あ、いや、なんて言ったらいいのかな。 その、うーんと。 もし! もし殴られたらどう思います?」

「歩いていて急にですか? 民に?」

どうして疑問を疑問で返すんだ。 答えだけが欲しいのに。

「あや、そうじゃなくて・・・。 その、そんなことは無いと思うんですけど、いえ、思うじゃなくて、絶対、秋我さんにはないんですけど。 その、秋我さんが・・・もし相手の気に食わないことをして、それで殴られたら。 拳で。 ああ、ついでに言うと、その前にもビン・・・平手で叩いてて、じゃなくて、叩かれていて、二度目が拳だった、ら?」

秋我が心の中で大きく息を吐いた。
・・・やったのか。 どこで、誰に。
今は元気になっているが、憂いていたことと関係があるのだろうか。

紫揺が憂いていたことは民にさえ分かっていた程だ。 阿秀が民と会うのを止めたくらいなのだから。 それほどなのだから秋我にも分かっていた。 それにその頃シキもロセイに乗って飛んできていた。
どこでは、本領だろう。 誰に、は・・・。 秋我の知る限りマツリか四方か。 マツリには喧嘩ごしだったし、四方には食って掛かっていた。
だが今はそれを追求する時ではないであろう。 相手は紫揺だ。

「うーん、何をしたか、どうしてしたかの内容にもよりますが。 少なくとも私は自分の信じたことを行っていたと思います。 ですが叩かれたということは、それも二度。 かなりお相手にとっては気に食わなかったのでしょうね」

そうなんです! そうなんです!! そう言いたかったが、言ってしまえば自分の話をしているのがチョンバレになる。 ただ頷くだけにしておいた。
チョンバレているが。

「謝っても許されないのなら、それを受けることしか出来ません」

「受けるって? 黙って叩かれるってことですか?」

「はい。 それ程のことをしたのでしょうから」

「痣が残っても?」

痣が残るほどの力で殴ったのか・・・。

「・・・はい」

本領、宮に着いたら一番に胃痛を抑える茶をもらおう。


宮の門を前にして見張番が東の領主代理が来たと告げると「東の領土、領主代理とは!」 と誰何された。 秋我はたった一度父親である丹我が門番とやり取りをするのを聞いただけである。

「東の領土、領主代理、秋我!」

腹の底に力を込めて。大音声で応える。
秋我は初めてのことに頑張った。 が、秋我の横には紫揺が居る。 顔パスの紫揺が。 とは言え、この形式ばったことをしなければ、紫揺は入れても秋我は入れないのだろう。


「まぁ、紫、来てくれたのね」

四方に代わって澪引が出てきた。 四方は今日も仕事に忙しいらしい。 宮に来た挨拶は今回も澪引止まりでいいそうだ。

「秋我も疲れたでしょう」

はい、紫揺の話に東の領土を出る前から疲れました、などとは言えない。

「此度はシキ様のご懐妊、おめでとうございます」

椅子から立ち上がり辞儀をする。
初めて秋我たちが通された部屋にいる。 ここは訪ねてきた者が最初に通される部屋なのだろう。

「ありがとう」

澪引が椅子に腰かけると紫揺と秋我も座った。

「シキ様のお加減はいかがですか?」

澪引の前に茶が置かれた。 紫揺と秋我の前には既に湯呑が置かれている。 そして空になった小皿が二枚、紫揺の前にある。

紫揺が来たのだ、すぐに “最高か” と “庭の世話か” がタッグを組み、茶を出そうとしかけたところ、澪引の従者に先を越されてしまっていた。
どうして澪引の従者が? とは思ったが、出されてしまっては仕方がない。 部屋の隅に座ろうとして澪引の従者に中の様子を窺うと、すでに二人座っているという。 まだ澪引が来ていなかった時だというのに。 仕方なく四人で回廊に座した。

「波葉のお話しでは元気にしているそうよ。 お腹も随分と大きくなったようなの」

澪引が従者の目を見て呼ぶ。 そして「紫に菓子を」と言われ、すぐに部屋を出ていった。

「良かった。 その、ご迷惑でなければシキ様にお会いしたいと思って来ました」

「まぁ、迷惑だなんて。 シキも喜ぶわ。 明日にでも一緒に行きましょう? と言いたいところだけれど」

「あ・・・なにか?」

「明後日、シキが来るの。 そのままややが産まれるまで宮に居るわ。 ね、数日宮に居られるのでしょう? 明後日までシキを待って、今日と明日はわたくしと一緒にいましょう?」

シキの邸がここからどれだけ離れているのかを知らない。 だから長くて一泊二日と考えていたし、どちらかと言えば日帰りのつもりだった。 どうしようかと秋我を見る。

「それでは明後日まで宮にお世話になりましょうか」

澪引の申し出を断るなどということは出来ない。 だがさり気なくそれ以上の滞在は考えていないと織り込む。

「ええ、是非そうしてちょうだいな」

そこに菓子が運ばれてきた。 個々の茶に添える小皿ではなく大皿に載っている。 小皿にしてしまっては紫揺の皿がすぐに空になるからだ。 すでに空になっていた小皿を下げる。 この二枚の小皿に載っていた菓子を食べたのは、どちらも紫揺だろう。

「さ、召し上がれ」

大皿に手を伸ばす紫揺を目の端に入れ、心の中で溜息をついた。 きっと紫揺は来る度にこうして遠慮もなく菓子を食べているのだろう、と。
彼の地の話は聞いている。 彼の地には遠慮というものが無いのだろうか、僅かに首を傾げた秋我だった。

「リツソ君はどうしていますか? お勉きょ、勉学は進んでいますか?」

澪引が美しい溜息を吐いた。 皆まで言わずとも分かるほどに。

「あ・・・。 あの、カルネラちゃんに頼んでおいたんですけど、ダメでしたか?」

「カルネラにはいつも頭を叩かれているわ。 でもねぇ、カルネラの力では。 それに長い間マツリも殆ど出ているから誰も叱る者がいなくて。 師もリツソの逃げ回りに腰を悪くしてしまって・・・」

澪引の美しい溜息とは比べ物にならないと言うか、根本的に比べるのがおかしいだろうという息が吐かれた。 紫揺の口から。

「どうして分かってもらえないんだろうかな・・・」

勉強の必要性を説いたはずなのに。 それを分かってくれたはずなのに。

「私が居る間は私がリツソ君のお勉・・・勉学を見ましょうか?」

「だめよ。 シキが帰ってきたら紫をずっとシキに取られるんですもの。 シキが来るまではわたくしと一緒に居て? ね?」

一瞬、あはははっと笑うことしか出来なかった。 そして「はい」と付け加える。

「それに紫が居る間に教えてもその間だけのことでしょう?」

尤もだ。 付焼刃にもならない。
手にした菓子をひと齧りする。

「それにね、ここだけのお話しなんだけれど・・・」

澪引が小声で話し、前に座る紫揺に顔を近づけるようにする。

「澪引様、お話し中失礼いたします。 すこし庭を見てきても宜しいでしょうか?」

「あ、ええ、どうぞ。 あら、ごめんなさいね、つい紫と話し込んじゃって」

とんでも御座いません、と言い残して回廊に出ていった。
秋我が気を利かせたのは明らかに分かっている。 澪引の “ここだけの話” を秋我が耳にするわけにいかないと思ったのだろう。
宮の誰もが知っていることだが。

「もう少ししたらリツソが十六の歳になるの」

「わぁ、もうそんなになるんですね」

確か知り合った時は十三歳と言っていたはずだ。

「紫は二つ名のことは知っていて?」

「はい。 シキ様とマツリの二つ名を知っています」

シキは四季であり視気であり、マツリは祭であり魔釣である。

「その二つ名ですけれどね、十五の歳に四方様から頂くの。 シキもマツリも十五の歳を待たずして四方様はお決めになっていたのだけどリツソにはまだなの」

「え? お決めになられていないってことですか?」

澪引がその美しい面差しに憂色を浮かべ頷く。

「四方様の根悪ってことですか?」

あの四方なら有り得る。

「こんわる?」

「あ、えっと。 ちょっと虐めちゃってる? みたいな?」

澪引が左右に首を振る。

「勉学をさせるためにそうされているのかしらと、わたくしも少し思ったりしたのですけど、そうではないようなの」

やっぱり四方にはあり得るようだ。
四方に言わせれば、濡れ衣だ、と言いたいだろうが。

「才が見られないのですって」

「さい?」

「シキには民の気持ちの中を視る目があるでしょう? マツリは厄災をもたらす者を視ることができるわ、そして他にも。 でもリツソにはそのような才が何も見られないそうなの」

“さい” とは、生まれ持っての “才能” のことらしいと理解した。
紫揺から見てもリツソには何かの才能や飛びぬけた力がありそうには見えない。 それにあれだけ勉強から逃げ回っているのだ、先天的なものだけではなく、後転的に手に出来る知識もないだろう。

「二つ名を十五の歳までにもらえなかったら、どうなるんですか?」

「四方様が仰るには、無いものは無いのだから無理に付けるものではない、そう仰るだけ」

「あ、じゃ。 無くてもいいってことですか?」

「宮のそういうところ、わたくしには分からないの。 でも慣例に背くということは分かっているわ」

澪引が分からない以上に紫揺は分からない。 解決策など出てくるはずもない。 それに四方がそう言っているのだから、それも有り得るのだろう。
このまま澪引の話し相手を貫こう。 少しでも気が楽になるだろう。
それにしても、これ程に美しく可愛らしい人が数か月後にはおばあちゃんになるなんて・・・信じられない。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第120回

2022年12月02日 21時01分51秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第120回



「マツリ様に御座います」

遅い夕餉のあと四方の部屋を訪ねた。 従者はもう引いていて、尾能だけが残り回廊に座していた。 尾能は四方が床に入るまで引くことは無い。

「入れ」

尾能が襖を開く。
部屋に入ると澪引もいた。

「難しいお話しかしら?」

椅子に座していた澪引が立ち上がろうとしかけたのを四方が止める。

「退屈であろうが外さんでよい」

歴代の本領領主の奥は僅かな例外を除き、殆どが宮都若しくは他の都の出身である。 故に本領領主というもの、またその奥というものの立ち位置を分かっている。 だが澪引は辺境で生まれ育っている。 輿入れをしてきたときにそのことを勉学の中で教えてはもらっていたが、頭ではわかっていても肌には染みていない。
澪引が寂しいと言っていた。 あれからはどんな話でも、澪引が退屈しようとも、座を外させることがないようにと考えていた。
四方がマツリを見る。

「六都か?」

「はい、杠から文が届きました」

杠からの文を卓の上に置く。
四方が座るようにと目で示してから文を手に取ると、横に座していた澪引がチラリと文を見る。

「綺麗な字を書くのね。 マツリが教えたのでしょう?」

緊張の中に澪引の声が美しく降り注ぐ。 今までには無かった事だ。

「はい、覚えも早いものでした」

「杠には良い人は居ないの?」

文を読んでいた四方の目が一瞬止まったが、すぐに読み進めていく。

「さぁ・・・。 点々とはいるようですが、それが想い人と呼べるのかどうか。 奥などもらう気は無いと言っておりましたので」

「まぁ、奥をもらわないっていうの? え? あ? 点々?」

「杠にそんな女人が居るのか?」

四方が文を封じ袋の中にしまいながら口を開いた。 読み終えたようだ。 重要なことが書かれていた。 見逃すことなど出来ない。
読みながら聞いていたようだ。

「杠から聞いた限りは」

「東の領土さえ了承すれば、杠の奥には紫が欲しいと思っているのだがなぁ」

父上! と言いかけるより先に澪引の声が響いた。

「四方様! 何を仰います! マツリが紫を想っているのをご存知で御座いましょう!」

マツリは四方には言ったが澪引に言った覚えなどない。 そして四方が澪引にそんな話をするはずはない。 波葉からシキ、シキから澪引に流れているのだろうと、簡単に察することが出来る。

「いや、だが・・・マツリと紫とでは、どうもなぁ・・・」

毎日怒鳴り合いを聞かされるだけでは無いのか。

「父上、我は紫以外を奥として迎える気は御座いません。 万が一にも父上が杠の奥に紫を置かれるのであれば我に跡は御座いません。 父上のお継ぎにはリツソをお置き下さい」

澪引がパァッと蕾が開いた桜の花のように顔を満開にさせる。 マツリから初めて聞いた紫揺を想う言葉であった。
対して四方が渋面を作る。

「本領を潰す気か・・・」


翌日、長い朝議が行われた。
朝議という名だったが、すっかり昼を過ぎてしまっている。

「では、そのように」

四方が締め括り、全員が礼を取った。


三日後の早朝、マツリを先頭に馬に跨った武官が列をなして宮都を出た。 後方の馬車には財貨省長から税部、経部関係の文官が乗り、咎人を入れる為の馬車が続いている。
それから二日後。
六都の文官所の周りを宮都の武官が囲った。 同時に現都司の家、六年前の都司の家も囲われた。

今回のことでは元々六都に居る武官は不参加である。 荒れた六都に必要だから武官が巡回しているのであるのだから穴を空けさせるわけにはいかない。 あくまでも宮都からの武官だけが動いたが、六都の武官長には早馬で話は通してある。

そして杠が暴いた六年前の出来事。 宮都に流れてきた三家族十三人のことは、すでに杠から知らされており、マツリの指示のもと捕らえられていた。
その内の、今は女人となった二人の伴侶である元見張番の技座(ぎざ)と高弦(こうげん)は、地下と繋がったとして既に捕らえられている。
見張番の役から下ろされていたことはもちろんのこと、今はまだ三年間の労役の最中である。
当時十四の歳以下を除く者たちが、隠匿行為、恐喝で捕らえられた。 技座と高弦の女房は当時十一の歳で夫婦そろって囚われることは免れた。

三家族が何をもって元都司を脅したのかを訊いた。 捕まってしまってやけっぱちになった三家族の親たちはいとも簡単に話した。
六年前の元都司が大店になったのは、元の大店の主人の女房と結託して主人を殺したからだと。
元都司は殺人の罪に問われる。

他にも杠から文で知らされていた、捕らえなくてはいけない者たちの所にも武官が姿を現していた。
単に小さな弱みを握られて脅されていた者にたいしては、今回は大目に見ることにした。 言ってみれば、そこは六都内で解決すべきこと。
あくまでも宮都の武官が姿を現したのは、殺人、税横領、公務違反関係の者たちの所だけである。

文官所に何人もの武官が入り込んだ。 中に居た民は全員出され、文官所に出仕していた者全員がその場に留められた。
文官所長の部屋に入った武官が驚いた目をしている文官所長に、刑部省の印を押された令状を見せると向きを変え、声高々に書面を読み上げる。

「六都、文官所長、爾来(じらい)。 税横領、および、六都庫金の不正で咎人とする」

「なっ! 何のことだ! 濡れ衣だ! 身に覚えなどない!!」

武官が一人入ってきて二重帳簿とメモを差し出す。

「証拠はこれにある」

「そっ! ・・・それは!」

留め置かれた文官たちの前でも同じように名を呼ばれた。 志知貝 (しちかい)、荒未(あらみ)、周佐(すさ)、上備(じょうび)、散田(さんだ)、寛治(かんじ)が、顔を真っ青にしている。
令状を読み上げられている途中に一人が走り出すと全員が逃げ出した。

「ひっ捕らえ!」

他の者は何のことかと心から目を白黒させている。 あくまでも杠と享沙以外だが。 その杠と享沙は白々しく驚いた顔を作っている。 享沙は少々大根だが、それを怪しく思うほど他の者にゆとりなど無かった。 せいぜい杠が享沙の大根を心の中でくつくつと笑っているだけである
官所の外では野次馬根性の民が群がってきているのを、武官がなんとか抑えているが今にも将棋倒しになりそうだ。

都司の家では、今日は官所に行かなかった都司がゆっくりと茶を啜っていた。

「御免! 都司はおられるだろうか」

玄関で野太い声がした。
手伝いがすぐに玄関に迎い出る。 目の前に武装した三人の武官が立っていて思わず「ヒッ!」っと声を上げた。 他の武官たちは家を取り囲んではいるが、手伝いや家人からは見えない所にいる。

「都司はおられるだろうか」

もう一度武官が言う。

「お、お待ちくださいませ」

手伝いが家の中に入り都司である主人に知らせると、ゆったりとした仕草で湯呑を口から離す。

「書斎にお通しして」

ゆっくりと立ち上がると書斎に向かって足を向けた。

(やはりあれは探りを入れていたのか)

自然と口の端が上がる。

三人の武官が書斎に入ると、足を組んでいた都司が片手を上げた。 まるで「やぁ」と言うかのように椅子にかけながら。
その都司に罪状を書かれた紙を一旦見せ、それを自分の方に向けると野太い声で、滔々と読み上げる。

「六都都司、黄戴(きだい)。 税横領、および、罪人隠蔽(ざいにんいんぺい)で咎人とする」

ピクリと都司の眉が動いた。
罪人隠蔽とはどういうことだろうか。 抽斗は空いていたが、書棚の奥の綴ったものは探しきれなかったはず。 微塵と動かした気配はなかったのだから。
己を罪人隠蔽というには、綴り紐に書かれたことからか、前のこの家の持ち主からしか明らかにならないはずだ。 前のこの家の持ち主である、六年前の都司が捕まったということだろうか。

「証拠は? それとも証人でしょうか?」

「証人などおらん」

どういうことだ。

「では証拠は?」

「今から家の中を検(あらた)めさせてもらう」

咎人と言われた以上、今はそれを拒否することは出来ない。

「どうぞご自由に」

「その卓から離れてもらおう」

余裕を持った笑みを顔に貼りつけ僅かに首を傾げると立ち上がる。
滔々と読み上げた野太い声の武官が都司に付く。 ここでは都司以外の咎人はいない。 一人の武官に顎をしゃくって無言の命令を出す。 外に居る者を数人家に入れろということだ。
外から入ってきた三人の武官に都司の周りを固めさせる。 一人の武官が卓の抽斗を開け、もう一人が書棚の本を取り出した。

本に微塵も動いた跡は見られなかった。 だが場所を移動するに越したことは無い。 賊が入ったかもしれない。 それも目的を持った賊が。
書棚もどこも何も荒らされてはいなかった。 だがこの書斎の抽斗を引かれたことは分かっていた。 この書斎が怪しまれていることは明らかだった。 すぐに家の中を検めたが、他の部屋のどこにも変わった様子は見られなかったのだから。
ただ一つ、便所の窓の鍵だけがかかっていなかった。 あの窓から侵入したのだろう。 あの窓から真っ直ぐにこの書斎に来ていた。 他の部屋を検めることなく。

武官が事前に聞いていた通り寸足らずの本をすべて出したが、その奥に綴られたものは無かった。
書棚を探していた武官が野太い声の武官に首を振る。
ほぅっと都司が心の内でつい言ってしまっていた。

(やはり分かっていたのか)

書棚はまるで動かされた様子は無かった。 だが確認していたということか・・・。
場所を移動させておいて正解だった。

書棚に綴られた物が見つからなければ、別の場所に移動しているかもしれないということを武官は聞かされていた。 そして可能性のあるその場所も。
そこになければ外に居る者たちを全員家の中に入れての大探しとなる。 失敗は許されない。

野太い声の武官がもう一度顎をしゃくる。 書棚の本を取りだし首を振った武官が外に出ると、武官としては少々ガタイの寂しい武官を呼ぶ。
ガタイの寂しい武官が呼んだ武官に連れられ一室に入った。 ガタイの寂しい武官が武装を解き、呼んだ武官の肩車に乗る。
別室で何をされているのか知らない都司が余裕を持って言う。

「証拠とやらが見つからないようですね」

三人の武官に囲まれた中から都司の声がした。

「ご心配にはおよびません」

野太い声が返す。
暫くすると出て行った武官が戻ってきた。 その手には三冊の綴られたものを載せている。
野太い声の武官が受け取り、囲んでいた武官たちに手で開けるようにと示す。
都司の目の前から武官たちが居なくなる。 そして代わりに綴じられた三冊が目に入ると、大きく目を見開いた。

「これが証拠です」

「どうして・・・」

家を総探しして見つけられたのならまだ分かる。 だが、まるでそこにあったのを知っていたかのようにいくらも経たないうちに見つけられた。
あの客間に賊は入っていなかったはずなのに。

六年前の都司にも同じようなことが行われていた。

「是環比(ぜわひ)。 民殺し及び旧六都都司時の公務違反で咎人とする」

黄色の鎧に身を包んだ武官が言った。
民殺しについての裏は既にマツリがとっている。
是環比の今の女房である、元大店の主の女房も共犯として咎が言い渡される。

「どうして・・・今更」

金をせしめられ、挙句に家を脅し取られ、そのあともずっと金をせしめられた。 とうとう店を手放さなければならなくなった。 そして今は長屋暮らし。
こんなはずではなかった。 どうしてこんなことにならなくてはいけないのか。

「うわぁぁぁーーー!!!」

目の前にいた武官が捕らえようと片足を出し踏ん張った。 そこに飛び出した是環比の膝が武官の顔に入った。


武官が去った文官所では残された者たちが呆然としていた。 それをいいことに、小さな厨に入り込んだ。

「よく見つけられましたね」

二重帳簿を。

「ええ、まさか壺の中とは思いませんでした」

文官所には小さいが厨がある、いま杠たちが居るのがそこだ。 そこの漬物用の壺にあったということだった。
杠がその壺を指さす。

「ふざけたところに・・・」

湯が沸いた。 茶葉が入った急須に湯を入れ、暫く蒸すと湯呑にこぽこぽと注ぐ。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

享沙から差し出された湯呑を手に取る。

「明日からはどうするんですか?」

「全員引き上げましょう、と言いたいんですけど、官所はこれで終わりですが、新しい展開があります。 あの方の目にならなくてはいけませんので。 それに気になるところも残っています」

新しい展開、これから本腰を入れて六都を変えていかねばならない。
そして絨礼と芯直が知らせてきた話で気になることがある。 あの二人が見聞きしたことを杠に知らせているのは享沙だ。 何のことかは分かっている。

「文官として此処には残らないということですか?」

「そうなりますか。 捕まった者もいますから、すぐに宮都から新しい文官が送り込まれてくるでしょうから、その入れ替わりに何か理由を付けて私も移動ということで。 不自然に居なくなるわけにはいきませんから」

「俺はどうしたら?」

「力山と金河は・・・そのままの方がいいでしょう」

その方が一定の場所からの情報が入ってくるだろう。

「沙柊は・・・少々間抜けをして頂いて、新しい文官所長に首を切られるということで・・・後味は悪いでしょうが」

享沙が肩を竦める。
と、杠が一瞬半眼になった。
なんだ? と思ったのも束の間。 足音が聞こえてきて厨の戸が開けられた。

「ああ、人の声がすると思ったら沙柊か。 うん? あれ? 誰かと話してたんじゃないのか?」

享沙が振り返ると杠が居なかった。 閉まっていた窓が開けられ空になった湯呑だけが置かれている。

「いいえ、一人でした。 さっきは恐くて落ち着くために茶を飲みに来ましたけど、俺、ここを辞めようかと思います。 あんな恐いことは二度とご免です」

首を切られるなど間抜けな後味の悪いことはもっとご免だ。

「ああ、恐ろしかったな。 武装した武官なんて、その辺を歩いているのを遠目に見るくらいだからな」

なのに大捕り物を目の前で見せられた。 それも捕らわれたのは同僚だ。

「でも、そうそうあるものじゃないと思うが?」

「いやいや、遠慮しときます。 今日までは働きますんで、今日までの給金はお願いします」

「そうかぁ? よく働いてくれたから助かったのに」

「小心者で・・・」

屋根に潜んだ杠の耳に享沙の声が入ってくる。 思わず、プッと噴き出してしまった。
その杠は万が一、都司の綴ったものが書棚から移動されていたのなら、客間であろう漆の塗られた卓が置かれてある部屋の天井裏を探すようにと文に書いていた。 それで見つからなければ徹底的に家探しをと。
都司の家に忍び込んだ時に出入りした客間。 入ってすぐに光石であちこちを照らしていると天井板に僅かなズレを見た。 その場所が天井裏に続くのだろうと踏んでいた。

都司は以前、天井裏に綴ったものを置いていた。 だが度々、足台を置いて綴ったものを下ろすのが面倒になった。 ある日、天井裏から綴ったものを下ろすと書斎の書棚の奥にしまった。
書斎には掃除に来る手伝いには入らないようにと言っていた。 書斎の掃除は自分でするからと。
そして今回の怪しい出来事があった。 だからずっと守られていた天井裏に戻した。
天井板が僅かにずれていたことは分かっていた。 綴り紐で綴られたものを最後に出したときに手伝いがやってきて慌てたからだ。
だがそれから客間に入ることが無くすっかり忘れていた。
そして再び天井裏に戻した時にはきちっと天井板を合わせていた。

杠からの文では、書棚に綴ったものが無ければ移動したと考えられる。 その先も思い当たるところを文に書いていた。 客間の天井板にずれが見つからないようなら、そこに隠してあるのが色濃いと。
だがそれだけではなかった。
もし移動していたのならば捕らえた後に、どうして綴り紐で綴じたものを移動させたのか、その理由を聞いて欲しいとも文に書かれていた。
杠にしてみれば、これからの向上の糧であった。

マツリも杠が何を言いたいのかは分かっていた。 一旦六都の官別所に入れた都司から、六都刑部の文官を言い含め、さり気なく訊くようにと言った。 捕らえられた都司はいともあっさりと答えた。

「書棚に怪しむところはなかったんですけどね、抽斗がちゃんと閉まっていなかったのでね。 あの部屋は怪しまれている、そう思ったのですよ」

と、余裕綽々で刑部の文官に言ったそうだった。
それを知った杠。
抽斗を開けていたのは巴央である。 巴央だけを呼び出して指摘すればいいが全員を呼び事の次第を話した。

「いいですか、咎人はいつも心中穏やかではありません。 僅かな違いも、たとえ小指の爪の先ほども違えば気付きます」

あくまでも巴央を糾弾しているのではないが、巴央にしてみれば素直に受け入れられるものではなかった。

「皆、心しておいてください」

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