大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第7回

2018年12月31日 23時06分48秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第7回



領主がすぐに阿秀 (あしゅう) を呼ぶように言う。 呼ばれた阿秀は静岡にいたが、昨日、沖縄の離島にある東の領主の日本での屋敷に帰ってきたところだった。

「疲れている所をすまんが、独唱様が紫さまの住まいと思われる所を確定された」

「はい」 一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに冷静を取り戻す。

「この時間から出られるか?」

「私、一人でしたら」 暗に領主には出られないと言っている。

「船か?」 この時間に飛行機などない。

「はい」

領主を高齢とは言わないが、船にも乗り慣れていなく老齢の域に達していては、大型船でもない船での移動など明らかに堪えられないものだと分かる。
先に出ていた時も船で出ている。 そして昨日帰ってきた時もその船で帰ってきていた。 ここ離島は、頻繁に飛行機が飛んでいるわけではない。 飛行機を待っているくらいなら、飛行機よりは時間がかかるが、すぐに出られる自分で操舵する船の方がいくらかいい。

「やはり、わしには無理か?」

「ご無理をされない方が」

「・・・分かった。 では、明日一番の飛行機でこちらを発つ」

「では、私は一足先に参らせていただきます」 顎を引いて頭を下げると、その場を後にした。

「塔弥!」

「はい、ここに」 開けられていた襖の後ろから片膝をついて現れた。

「北の動きがどうなっているか聞いたか?」

まさか北が動いているとは思わなかったこの数十年。 だが、先日、塔弥から独唱が北のことを言っていたと聞かされ、北も未だに紫さまを探しているのだと知った。
北が何故、どんな力を持って紫さまのことを知るのか、それは東の領主の知るところではなかった。 時間があれば、力があればそれを探ることが出来たのかもしれないが、全くもってそれを持ちあわせていないはずなのに。 それにこの日本のことをどうして知ったのか。 詳しく独唱に訊く暇 (いとま) もなかった。 それは東の地の領主の暇ではなく、独唱の暇である。

「はい。 警察署内に入り込んでいる野夜 (のや) が、同じく潜伏していた北の関係者のことを報告してきました。 今日の昼間に紫さまに関する何かを見つけたようなのを知りそれは阻止したと。 ですが、再度この時間に探ってくると思われるので、それを止めたのち先に向かっている者に遅れて地図の場所に行くということでございました。 こちらが半日早ければそれで良いであろうと・・・」 領主と阿秀が話している間に、ちりじりに散っている仲間に全ての連絡を取っていた。

「・・・北が見つけおったか。 いや、出来ることならもう一日延ばすように言っておいてくれ。 北がどこから来るかは分からんが、こちらは飛行機で出ねばならん。 少なくとも一日の余裕が欲しい」

「承知しました」

「それと」 手を動かしかけた塔弥の動きが止まった。

「はい」

「此之葉 (このは) も連れて行く」

「承知しました」 襖を閉めるとその場を去った。

屋敷を出るとすぐに今も警察署内に潜んでいる仲間である野夜に連絡を入れ、携帯を切ると洞穴に走った。 岩屋に見える隧道の奥へどんどんと入って行き、その更に奥にいる此之葉を呼びにいったのである。


塔弥から連絡を受けた署内に身を潜める二人。 北の関係者はまだ来ていない。

「どうする?」

「ここに此之葉がいてくれれば、どの資料を北が手にしたかわかるのにな・・・」

北の邪魔をするにはその資料をこの漆黒の間だけ隠しておけばいいのだが、その資料がどれかが分からない。

「少なくともこの夜を過ぎなければならん」

「ああ。 此之葉に頼る事もできんのだからなぁ・・・。 それではこの場所でなく、玄関から行くかぁ?」

「玄関?」

「最終的なピンポイントで止めるんじゃなくて、その前に止めるってやつよ」

「しかし、この建物の中に入ってくるには警察官が立っているし、北のやることだ、正面からは来ないだろう」
北のやることとは言ったが、警察署内で見たのは北の人間ではなかった。 瞳の色が違う。 警察署内に入っていたのは、北が雇ったこの地の者だろう。

「う・・・ん、そうかぁ」

「お前は真っ直ぐすぎる。 お前の様に北は考えない」

「クッソ、北め!」

結局この日、北に雇われていた者は資料室には来なかった。 余裕をブチかましたんだな、と 「クッソ、北め!」 と醍十 (だいじゅう) と呼ばれている男が言った。
朝になりもう一人の男、野夜 (のや) が問いを投げかけた。

「まだ今日一日、北を資料室に入れることはできない。 どの手を打つ?」

「俺には無理だぁ。 お前が考えてくれ。 昨日、坂谷を資料室に行かせたように」 実行したのは醍十だったが、手を考えたのは野夜だった。

「じゃ、俺の好きなようにしていいな?」

「任せる」

任せられた野夜は朝から坂谷に近寄り、北の関係者のことをほのめかせた。

「志貴さんと親しいんですよね。 あの噂は本当なんですか?」

「なんの事?」 坂谷が言う。

「知らないんですか? ほら、暫く前からおかしな二人がいたでしょう?」 粗忽な巡査を装っている。

北の関係者は今まで無骨にそこら周りを漁っていた。

「ああ、昨日も一人資料室にいたよ」

「今日も朝から可笑しなことを言ってたんです。 志貴さんのことを」

「志貴さんのこと?」

「ええ、志貴さんの頬の傷は女の子にきせられたって」

署内に潜り込んでいた野夜が、昨日急遽応援を頼んでいた。 隠れ家のホテルに帰った北の関係者二人を監視してほしいという事であった。 するとその二人の間に新たに一人が加わり、そのホテルのロビーで交わされた話を聞いていると 『高校生』 『志貴』 『傷』 というキーワードが出てきたというのである。 紫揺のことを調べているのは分かっている。 『高校生』 というキーワードを 『女の子』 に置き換え、志貴の顔は知っている。 その頬に傷があるのは簡単に見て取れる。

「え! そんなことを!?」

「ええ。 本当に志貴さんの頬の傷はそうなんですか?」

「そんな筈ないじゃないか!」

「そうなんですか? ですけどあの二人は、そんな噂を振りまいていますよ。 それじゃあ、志貴さんも迷惑な話ですよねー」

坂谷に昨日のことが頭を過ぎった。

「すまない。 ちょっと・・・」

「ええ、どうぞ」

自分が報告書に志貴のことをどこかに書いてしまっていたのかと不安に思う。 足早に資料室に向った。

「それにしても、なんだって今頃この話が出てくるんだ。 どこの部署か分からないやつをひっ捕まえるしかないか」

その坂谷の後姿を見送った二人。

「坂谷に絞っておいて正解だったな」

「正解かどうかは俺には分からん」

「これで少なくとも今日一日は坂谷が資料室で北の関係者の奴らを待ち構えるだろう」

「お見事と言おう」

「その言い方は何だ?」

「・・・俺には想像ができないやり方だ」

「だから言っただろう。 お前は真っ直ぐすぎるって」

それに反して 「イヤミではないぞ」 と前置きをして言葉を続けた。

「お前は北のようだな」 と、横目でチラリと野夜を見る。

「あんな奴らと一緒にするな。 知恵があるといって欲しいな」 すげなく返す。

(知恵ね。 悪知恵か・・・) と思ったがそれを口にすることはなかった。

「それにしても夕べの男が気になるな」

「え?」

「北の奴らのホテルに尋ねてきたっていうガタイのいい男だ」 

夕べ隠れ家のホテルに帰った二人の監視を頼んでいた男から聞かされていた三つのキーワードをその男に話していたという。 かなり身体が大きかったということであった

「俺にはよく分からんが、ここの人数を増やすためだけなんじゃないのかぁ?」

「単純にそれだけだったらいいんだが・・・」 拳を口元に当てると、少し考える様子をしてから 「考え過ぎか」 と拳の横から声を漏らすと続けた。

「さっ、今日一日は坂谷がずっと資料室に居るはずだ。 俺たちはあの場所に行こう。 紫さまの元に」

「え? ・・・いや、それは危ないだろう。 何があるかわからない。 いつ、坂谷が呼び出されるか分からないじゃないか」

「おい、坂谷の普段の行動を見ていなかったのか? 何のために坂谷に絞ったか分かってないのか?」

「え?」

「こういうときに坂谷は連絡を一切きっているだろう」

「え?」 もう一度同じ言葉を発した。

「坂谷は今日一日、資料室からは出ない。 自分に強情な性格だ。 だから何かあったときにはと、坂谷に絞ったんじゃないか」

「・・・そうなのか?」

「お前・・・。 ずっと塔弥のうしろに仕えるか、今回の此之葉付きにしてもらえ」 大きく嘆息を吐くとその身をひるがえした。

「遅れを取るわけにいかない。 行くぞ」 言葉を投げかけるが、最後に吐かれた言葉の意味が分からないといった顔をしている醍十に視線を送る。

「分からないのかよ。 ・・・冗談だよ。 俺はサッサと領土に帰って楽な服を着たいんだ。 ほら、デッカイ図体をサッサと動かせ」 そう言うと背中をバンと叩いて、にわか警察の制服を脱ぎながら先を歩いた。


翌朝一番の飛行機に乗ってやってくる予定だった領主だったが、運悪く西からやって来た台風が速度を速めこの日一日飛行機が飛ばなくなってしまった。
荒波を泳いでいくわけには行かず、仕方なく翌日の飛行機に乗ることになった。
朝一番の飛行機に乗ってやってきた領主と此之葉。 福岡空港で待ち構えていた阿秀と合流した。
深夜先に出ていた阿秀は1分1秒を惜しんで島を車で走り、そのあと船で海を渡っていた。

「調べはすすんだか?」 足早に空港内を歩く。

「はい、役所に忍び込んだ梁湶 (りょうせん) が申しますには、紫さまはお生まれになった時からずっと今の場所に住まわれているようです」 領主の横に付いて小声で話す。

「では、その土地に旧知が多いという事か?」

「それが、思うほどではないようです」

「どういうことだ?」

「学校関係は中学を卒業してからは他の地域の高校に行ってらっしゃいます。 地元での友人関係は絶たれているようです」

「だが、連絡をしていたかどうかまでは分からんであろう」

「それが、今時のスマホも持たず、高校は部活に入って休みの日なく朝から夜まで練習をされていたという事で連絡など取られる時間はなかったと思われます」 

「そうか」

「高校からは進学も就職もされなかったようです。 その理由はまだ分かっておりません」 

まで言うと下を向いて言葉を止めてしまった。

「どうした?」

「御祖母様も御祖父さまも、既にお亡くなりになられています。 紫さまがお生まれになる前です」

「・・・そうか」 足を運ぶ速度が落ちた。

紫揺の祖母が生きていれば84歳になっているはずだった。 存命を期待していたが、年齢を考えると、或いは、ということを思わなくもなかった。

「お労 (いたわ) しい。 どれほど無念であられただろうか・・・」

「はい・・・」

「紫さまの母上から、先 (せん) の紫さまのお話をお伺いするしかないな」 足の速度を元に戻そうとした時だった。

「・・・紫さまには、ご両親がおられないという記録になっているそうです」

領主の足が止まり、驚駭 (きょうがい) の様子を隠せず阿秀の目を凝視した。

「ど・・・どういうことだ・・・?」

「昨春、5月にご両親とも亡くなられているという記録になっているそうです」

「・・・昨春・・・お叫びになっておられたあの頃か・・・」

「その時だと思われます」

「なんとしたことか・・・」 

阿秀から目を外すと下を向き顔を歪めた領主が再び足を運び出した。 先の紫の話を聞けない上に、今の紫揺のことを思うと心が痛む。

「ご両親を亡くされたその2ヵ月後に今の会社に就職されています」

「1年と半くらいか・・・」 就職先にいる期間のことだ。

「はい」

「紫さまのご性格はまだ分からんな」 先の紫のこと、今の紫揺の心情を思い、心を塞いでいる時ではない。 事を進めていかなければ。

「はい」

「活発であられれば1年半もあれば、周りと溶け込んでおられるだろうから、そうなると始末が多すぎるな」 斜め後ろを歩く此之葉に僅かに視線を流した。

「はい。 ですが、ご両親を亡くされてまだ2年と経たないことを思いますとなんとも言えません」

「・・・うむ。 独唱様の言っておられた毎夜の紫さまのお悲しみがご両親の事であられれば、まだ塞いでおられるかもしれんか・・・」

「近所付き合いは殆どなかったということです。 ご両親がお亡くなりになったこともあまり知られていない状態だったようです」

働き詰めの両親はすれ違いざま会釈こそすれ、近所付き合いをすることはなかったようだったし、近所周りも借家で人の出入りが激しかった。 近くで働く母親のパート先はすぐにわかり、そこでも特別の付き合いはなかったようだ。 だが付き合いがなかったが故、父親の勤め先が今も分からない。 近所の人間からも聞くことが出来ない状態であるらしい。

車で待ち構えていたスーツ姿の男が車のドアを開け、領主と此之葉が後部座席に乗り込み、阿秀が助手席に乗った。

「北が嗅ぎつけたらしい」 後部座席で羽織袴姿の領主が腕を組んで阿秀に言う。

「どこで、でございますか?」 眉がピクリと動いた。

「独唱様の言われた警察署内だ。 だが、昨日の時点では詳しくはまだ分かっておらんだろう。 少なくとも昨日一日はそれ以上嗅がせる事のないようにと言っておいたが、まさか台風で飛行機が飛ばんようになるとは思ってもいなかったからな。 今日は速やかに動きたい」

「紫さまのお父上の勤め先が掴みきれておりませんが、先に紫さまにお会いになりますか?」

「・・・仕方あるまいな」

「僚友がおられなければ良いのですが」

「ああ、紫さまを探されてはあとで厄介が残る」

「まだ暫く車で走らなければなりません。 そうなるとお疲れでございましょう。 紫さまのいらっしゃる近くで一度腰を下ろされてはいかがですか?」 ホテルという事である。

「ああ・・・そうしようか」

ハンドルを握る者が頷いた。

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虚空の辰刻(とき)  第6回

2018年12月28日 23時08分36秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第6回



「分かったぞ!」 ようやくムロイが声高に言い、ショウワの元に立った。

「日本の静岡県にムラサキが居たのではなかった!」

その物言いにショウワが眉を寄せた。

「あ・・・ムラサキ様が居られたのは静岡県ではなかったようです」

「どういう事だ」

「ムラサキ・・・ムラサキ様は、はるばる遠方から静岡県の警察署に来られていたようです」

「で?」

「ムラサキ様の家はあと少しの時があれば分かるでしょう」

「ほぅー。 では近くムラサキ様に話しが出来るのだな?」

「・・・ショウワ様」 どこか冷笑を浮かべてショウワを見た。

「何かあるのか?」

「話など無用です。 我が地にムラサキ・・・ムラサキ様を迎えればそれでいいのですから」

「ムロイ・・・ムラサキ様を軽々しく思うな」 諌めながらも声音静かに言う。

「これはこれは、ショウワ様のお言葉とは思えませんな」

「何を言いたい」

「なにも・・・。 では、ムラサキ様をこちらにお迎えするまでいま少しお待ち下さい」 言うと踵を返して出て行った。


「おい、何をしている」

後ろから声を掛けられ、一瞬肩をビクつかせたが平静を装って振り返った。 するとそこに立っていた者の顔を見て驚きかけたが、なんとか表情に出さず冷静を装って話す。

「資料室にいるんですよ。 資料を見ているに決まっているでしょう」 手にしていた資料から目を上げると、短い言葉の中にどこか横柄な態度が見え隠れする。

「どこの部署の者だ」

「坂谷さん、私は貴方を知っているのに貴方は私を知って下さっていないのですか?」 それは残念だ、と付け加えて資料を閉じた。

坂谷がその資料に目をやる。 自分が書いた報告書だとすぐに分かった。

「志貴さんの頬の傷はこの時につけたんですね。 いえね、頬の傷が気になっていましたから。 それより坂谷さんはどうしてここに? 調べ物ですか?」

「もうそれを片付けて出て行ってくれ」 猜疑を充分に含んだな目で見た。

両の眉を上げると「はい・・・。 分かりました」 言いながら小首を傾げるように笑顔で答えると、資料を棚に戻し軽く会釈して部屋を出て行った。

扉を閉め廊下に出ると、辺りを見回した。

「どこに行ったんだ」 見張りの者が立っている筈だった。

あと少しだったのに、と口惜しく言うと歩き出した。 その背中を見送る二人の男の足元には、気絶をして壁に身体を預けて座っている男が居た。

「やっぱりアイツは北の関係者だったかぁ」

「ああ、北がこの地の者を雇ったんだろうな。 何かを掴んだかもしれない」

「それにしても坂谷を入れて正解だったなぁ」

「ああ、俺達が入っていけばこちらが疑われるだけだっただろうからな。 それに、アイツはもう坂谷に顔を覚えられた。 これ以上は簡単に動けまい。 今度は夜を狙うかもしれないな」

「そうだな。 今夜は妨害の手を考えなくちゃならんか。 コイツはどうする?」 足元を見た。

「このままでいいだろう。 すぐにアイツが見つけるだろうからな。 それにまだ他に居るかもしれない。 下手なことをして俺達が疑われても困る」
手に持っていた気絶している男のスマホから、ついさっきかけようとしていた相手にワンコール鳴らすと着信履歴を残した。

「きっと、アイツにかけようとしていたはずだ。 GPSですぐにここが分かるだろう」 

警察官の制服を着た二人が普段使われる事の少ない階段を降りていった。


資料室では坂谷が腕を組んで扉を見つめている。

「報告書に志貴さんが怪我をしたことなんて書いていないし、今更何を見ようとしたんだ」 組んでいた腕を解くと棚に歩き出し、資料を手にした。

「あれからもう1年半も経つのか・・・」


半年前に読んだ早季の日記。
最後に書かれていたのは、亡くなる前日だった。

≪あと10日で紫揺さんが遠くに行ってしまう。 本当にこれでよかったのかしら。 十郎さんに何度も問うけれども、紫揺さんの自由にさせてあげましょう。 私たちは紫揺さんを守る人間でもあるけれど、紫揺さんの親でもあるんですよ。 親が守るという事はずっとベッタリついていることじゃないんですよ。 紫揺さんはもう子供じゃないんですから。 いつも同じ答えが返ってくる。 そして紫揺さんがプレゼントしてくれた旅行をあり難く受け取って早季さんも心を休めましょう。 と。≫

「お母さんは東京に行くことに本当は反対だったんだ・・・。 お父さんがお母さんに言ってくれてたんだ」

早季の日記を読むと分からないところが所々あった。 それをレポート用紙に書き写していた。 そのレポート用紙を幾度となく見るが、一向に分からない。

≪お母様とお父様を早くお郷へ帰らせてあげたい。 どれ程お郷に帰りたいと願われていたか。 すぐにでもお帰りになりたいでしょうに≫ 

祖父母の命日にはいつもこれが書かれていた。 それは分骨した小さな骨のことであろうが、紫揺が高校に入った年の命日の日には

≪いつまでも部屋の中で地に足がついていない状態では、お母様もお父様もお辛いでしょう。 いつかは帰れるでしょうが・・・もしかしたら紫揺さんが連れて行ってくれるかもしれません。 それとも紫揺さんではないかもしれませんが、それまではこの地のお墓で暮らしませんか? お墓を用意してもよろしいですか?≫ 
と書かれていた。

「私がお爺様とお婆様のお郷へ連れて行くかもしれない? 何処かも知らないのに・・・」

≪紫揺さんを自由に生きさせてあげたいと十郎さんが言う。 私もそう思うけれども・・・それでも紫揺さんに何かあってはお母様へ申し訳がない≫

「どうしてお婆様がここで出てこられるの?」

その紫揺に対する早季の心配は色んな所で書かれていた。

≪十郎さんが紫揺さんの高校選びは紫揺さんに任せましょう。 と言うけれど、電車で通う高校。 何かあったら、電車の事故はよく聞くから。 と言うと、歩いていても事故に巻き込まれますよ。 と笑って言われてしまった≫

≪紫揺さんが本格的に器械体操を始める。 毎日毎日、怪我がなく紫揺さんが帰ってくるのを待つのは胸が張り裂けそうになる≫

並の親以上の心配のしようであった。
そしてとうとう肩を脱臼してしまった日。 すでに病院で治療を受け、国体が終わってから顧問の車で帰ってきた日からは何も書かれていなかったが、随分遅れて

≪紫揺さんがとうとう怪我をしてしまった≫
それだけが書かれていた。

≪夕べ、早季さんと紫揺さんは違うんです。 と十郎さんに言われてしまった。 早季さんは私が守ります。 でも紫揺さんの身にこれから何があるかわかりません。 紫揺さんですよ。 もしかすると迎えがあるかもしれません。 とまで・・・。 お母様にお迎えが無かったのに、紫揺さんにあるのかしら・・・願っている。 願っているけれど不安になってしまう≫

「誰かが私を迎えに来るかもしれない? どうして? お婆様にはお迎えがなかった?」 どれだけ頭を捻っても何も分からない。


勿論、最初に読んだ紫揺の命名のこともレポート用紙に書き込んである。

≪私は淡く見えただけなのだから。 十郎さんに相談したら、きっとそうでしょう。 見間違えではないでしょう。 でも、自信が無いのであれば、お義母さんが仰っていた 『紫揺』 と言う方の名を付けようと十郎さんが言う。 でもハッキリ見たのではないのですから。 そう言ったのだけれど、その時の為にお義母さんが考えられた名でしょう? 冷静に十郎さんが言った≫

「これって、これと同じ意味なのかな?」

≪お母様、紫揺さんに何も見られません。 私はどうすればいいのですか? それとも私の見誤りだったのでしょうか≫

「私に何が見えるっていうの? 淡い何か?」 サッパリわけがわからない。

そして最後の日に書かれていた言葉も書き写してある。

≪私たちは守る人間でもあるけれど、紫揺さんの親でもあるんですよ≫

「お父さんとお母さんは私を守る人間であり、私の親でもある・・・」 目を眇めてそれを何度も読み返す。

「親が子供を守るのは、当たり前って言えば当たり前だけど・・・・。 それと違う何かがあるんだろうな」


そして、あの日かわした早季との会話を思い出しながらそれも書き出していた。

≪私もそこで生まれるはずだったのにね・・・≫

≪もしかしたらお爺様とお婆様は駆け落ちとか? それを聞いたお母さんが大きな声を出した≫ 

≪お婆様たちのお郷に帰りたかった。 お婆様のお郷に行くんじゃなくて、帰りたい≫

≪お郷に帰る、その道が分からなかった≫

この半年間、何度もこのレポート用紙を見たが、一つとして解決できないでいた。

2階に上がって両親の部屋に入った。

「何か他にヒントがないかなぁ・・・」

部屋を見回すが、半年前に見たときとなんら変わりない。 部屋には文机しかないのだから。 押入れの下段をくまなく見るがコレといった物はない。 座り込んだまま頭を上げると天袋が目に入った。 押入れの上段に軽々と乗りしゃがむと上に手を伸ばし、木枠を押入れの中から掴み足を伸ばしてもう一方の手で天袋を開けた。 中には普段使わない土鍋や、ホットプレートなどが入っていた。

片手で置いてあるものをどけていくと、奥に小さな段ボール箱があるのを見つけた。 それはガムテープではなく、紐で括られていた。 器用にその身を天袋に潜らせると、奥から箱を引っ張り出し、もう一度押し入れの上段に足を乗せると紐を持って箱を下ろした。 畳の上に置いた箱を眺めるとゆっくりと紐を解きそろっと箱を開けた。 中を見てみると風呂敷が入っていた。 その風呂敷を手に取る。 風呂敷は何かを包んでいた。 風呂敷を置いて結び目を解くと、今までに見こともない服と、アクセサリーが入っていた。

「なに?」

広げてみるとまず、子供の服が1着。 着物に似ているがどこか違う。 着物をあまり知らない紫揺にはどこが違うか分からないが、一応着物文化で育った日本人だ。 細かいところは分からないにしても、どこかが違うということだけは分かる。 

紫揺に分からない所、それは着物の形に似ているが生地が違う。 それは柔らかい生地で出来ていた。 素肌の汗を吸い取って涼しく過ごせる生地。 シルクであった。 そして帯は日本の着物のように幅があるわけではなかった。
そしてもう一つは今の紫揺が着るには大きめな上下対であったであろう甚平か柔道着のような形をした服。 だが、その生地も柔らかいものであり、帯らしき物も入っていた。

「破れてるし、この汚れって?」

その服二つともに破れが見られ、シミが付いていた。

「どうして破れたり汚れたりしているものを、風呂敷なんかに包んで?」 大切にしていたのか。

アクセサリーはなんのストーンだろうか、アクセサリーに興味のない紫揺には分からなかった。 紐に紫色のストーンがついている。 そして綺麗な水色をした首飾りに同じくストーンの付いたブレスレットらしき物が二つ。 そしてバレッタではなかったが髪飾り。 それは全て子供サイズであり、どれにも傷が入っていた。

「誰の?」 それぞれを手に取る。

「お母さんの? ・・・それともお婆様?」

謎を解くために何かないかと両親の部屋に入ったのに、更に謎が増えてしまった。


「・・・塔弥」

「はい」 独唱の横に従えていた塔弥が指差された場所の更に詳しい地図を老女の前にある地図と差し替えた。

「紫さまのお悲しみがかなり薄れてきた。 追えるのは今日が最後になるかもしれん」

独唱の言葉を受け、返事をする代わりに僅かに頭を下げた塔弥が胸の内で安堵した。


深夜、地図を手に持った塔弥が岩屋から領主の屋敷に走った。 最後の最後に、紫揺の居る所が分かった。 塔弥が手にしているのは、紫揺の自宅が分かる地図だった。

領主の屋敷に入り、明かりが零れている領主の部屋の襖に膝をついた。

「塔弥にございます」

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虚空の辰刻(とき)  第5回

2018年12月24日 22時36分00秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第5回



家に帰ると小くなった両親のお骨に手を合わせ、目の高さにあるタンスの上にあった祖父母の骨壷をずらすとその横に置いた。 
そこに置いてあった預金通帳を見た。

「お父さんとお母さんが一生懸命に貯めたお金・・・これ以上使いたくない」 通帳を見ていた顔を上げた。

「家賃だって光熱費だって・・・自分で働かなきゃ」 僅かばかりしかなかったこの通帳は、それでも父と母がこの世に居た証拠でもある。

決して広くはない家だが、それでも一人で住むには広すぎるこの借家。 もっと狭くて安いアパートにでも引っ越せばいいのだろうが、両親と過ごしたこの家を離れたくない。 それにこの借家は祖父母の頃から住んでいる。
通帳を遺影の前に置くとその遺影に話しかけた。 遺影は二人別々ではない。 二人揃って写っている一枚のものだ。

「お父さん、お母さん。この家にずっと居たいの。 だからこれから働きに出る」 遺影を見つめる。

「・・・お父さんお母さん・・・ごめんなさい。 私が要らないことをしなければこんなことにならなかったのに」 涙が止まることなく流れ出る。 それは毎晩の事であった。


「藤滝さん、寒い中悪いんだけど、この図面を隣町のノギワ精密に持って行ってくれる?」 大きな紙袋に入った何枚もの図面を紫揺 (しゆら) に渡す。

「はい」 昔ながらの紺色のスモックの事務服を着た紫揺が机から顔を外しペンを置くとそれを受け取った。

「自転車のかごに入るかな?」

「入ると思います。 行ってきます」

「ああ、頼んだね」

紫揺が勤めるのはスーパーに貼ってあった求人募集の貼り紙を見て雇ってもらった機械屋だった。

「ちょっと暗いけど、今の子にしては藤滝さんってよく働くよね」 図面を渡した設計者が誰に言うでもなく言った。 

「苦労しているみたいですよ」 紫揺の隣の席に座る年かさの事務員が伝票を見て台帳に記帳しながら言う。

「え?」

「はっきりとは言いませんけどね。 昨年の春にご両親を亡くして一人で暮らしているみたいです」 顔を設計者に向けペンを置くと 「ああ、肩が凝った」 と片手で自分の肩を揉みながら続けた。

「ほら、朝出勤してくるといつも目が赤いでしょ? それに瞼もはれぼったいし」

「そう言われれば・・・」

「きっと毎晩泣いてるんですよ」

予想もしないあまりに衝撃的な言葉だった。

「ご両親を亡くしてたの?」 話を聞いていた他の作業服を着た男性社員が言う。

「多分、同時に・・・」 年かさの事務員が返す。

「そんな話をしたの?」

言葉数の少ない藤滝紫揺が言ったとは思えなかった。

「年末調整があったでしょ?」 年かさの事務員が言った。

「ああ、僕らも貰ったよね」

「勿論、藤滝さんにも渡したんですけど 『世帯主』 の欄に藤滝さんの名前が書かれてあったから、ここはお父さんの名前を書くところよって言ったら・・・お父さんもお母さんも居ませんから。 って言ったんですよ。 いつも以上に悲しげな顔をして」

「え?」

「それで少し話したんです。 そしたら春にご両親を亡くしたって・・・」

「そう・・・そうだったの」

「だからね、ご両親に心配かけないように生きていこうねって言ったんですけどね」

一気に事務所内が愁色に包まれた。


「ショウワ様お呼びでございますか」 一つの影が一室の壁から姿を現した。 その姿は片膝をつき、手に拳を作るとその拳を地につけている。

「ハンか」

「はい」

「ムラサキ様は見つかったのか?」

「それが・・・」

「ムロイはどうしておる」

「ゼンとダンが付いておりますが、ムロイも探しあぐねいているようです。 ムロイの指示の元、幾人かが警察署の中に潜入しておりますが、これといったことが見当たらないようでございます」

「あの日、あの時間から割り出せば何がしか出てくるのではないのか? お叫びになっておられたんぞ」

「それが、その時間には同時に大きな地震があったようで、あちらこちらから悲鳴が聞こえていたそうです」

「・・・なんとしたことか」

ハンが下げていた頭を更に下げる。

「ああ、分かった。 下がってよい」

「・・・御意」

ショウワが下瞼を僅かに上げると椅子から下り、横に見える窓の前に立った。
暗い窓の外には星の光しか見えなかった。


「独唱 (どくしょう) 様、これ以上は・・・独唱様のお身体がどうにかなってしまいます」 岩屋に座する独唱に仕える塔弥 (とうや) が言う。

「我が領主はその後、何も得ておらんのだろう。 同じく北の領主もまだ紫さまを見つけておらん。 北の領土に紫さまを渡すことは出来んのじゃ。 黙っておれ」 言うと、夜な夜な僅かに感じる紫さまと呼ばれる悲しみの気を追った。

(紫さま・・・何故にそんなに悲しまれる・・・) 独唱の胸が一抹の不安を感じた。

(北? 北の領土が未だに紫さまを追っていると仰るのか?) 憤りを抑えた塔弥が頭を垂れた。

東の領主は塔弥から聞いた場所に、すぐさま数人を送っていたが、未だに何の情報も得られていなかった。


翌春が来た。

「お父さんとお母さんの一周忌・・・。 あの時から一年経ったんだ」 

あまりに衝撃を受け過ぎた為に記憶が薄い横たわる両親と対面した日。

「どうしてあんまり記憶にないのかな」 

もし坂谷がここに居れば、記憶しておかねばならないことではない。 逆に忘れてしまう方がいい。 とでも言っただろうか。

「あの刑事さん? に、連れて行かれたことは覚えているけど・・・その先の詳しい記憶がない。 どうしてなんだろう・・・」 憂愁に閉ざされそうになる。

思うと、ふと母親が言っていたことを思い出した。

「お母さん・・・二十歳になるのを待たずに話す事があると言ってた。 あの旅行から帰ったら話すって言ってた・・・お母さんの名前の由来も、私の名前の事も・・・」

紫揺の母、早季、 “早くその季節が来ますように” と言う名前の由来。

「お母さん・・・何を伝えたかったの」 両親の遺影に問いかけるがその返事はなかった。


寝るときは下の和室で三人で並んでいたが、2階には紫揺の勉強机を置く部屋と、両親の部屋がある。 今まで入る事の出来なかった2階の両親の部屋にやっと入った。 母親の早季はキチンとなにもかもを整理していた。
紫揺が部屋を見渡す。

「お母さん・・・」

台所から夜な夜な聞こえてきた声の一つが頭に過ぎる。


『十郎さん、もう紫揺さんに話さなくちゃ』

『早季さん、待って下さい。 まだ紫揺さんには理解ができません。 紫揺さんには自由に生きてもらいましょう。 そう思いませんか?』

早季が自由に生きてこられなかったことを示唆した。 早季だけではない、早季の両親もだ。

『十郎さん・・・』


記憶はここで途絶えた。 紫揺が眠入ってしまったからだ。

「どうしてお父さんもお母さんも夜になると私のことを紫揺ちゃんじゃなくて紫揺 “さん” って言ってたんだろ・・・」

部屋を見渡した。 そこには整理整頓された空間が見えるだけだった。 腰高の2つの窓には淡い色のカーテンがあり、その下には小さな文机が立てて置いてあり、黒いその4本足がこちらを向いている。 たったそれだけの部屋だった。
押入れを開けた。 上段の押入れにはキチンと季節の違う布団が歪むことなく整理して収納されていた。 下段を見るとその片隅に小さな二段の整理箱を見た。

「あれ?」 言うと、しゃがんで整理箱を押入れから出した。

下段からは住所録が書かれたノートがあった。 そのノートには毎年年賀状を出した記録がチェックされていた。

「そっか・・・この人たちにお父さんとお母さんが居なくなったことを知らせなくちゃいけなかったんだ・・」 年が明けたときには父母宛に年賀状が届いていた。

ノートを下段に返すと上段の引き出しを引いた。 そこには筆箱と数冊の大学ノートがあり、その隅に番号が書かれていた。 パラッとめくる。

「これって、お母さんの日記・・・」

そのノートの一文が目に映った。

「なにこれ?」

読んでも意味が分からない。 その場に座り込むと 『1』 と番号を書かれた大学ノートを手にし、最初から読み始めた。


日記は紫揺を産んだ時から始まっていた。

≪やっと十郎さんとの赤ちゃんが生まれた。 とても可愛い女の子。 ・・・なのに、どうすればいいのかしら。 お母様が仰っていた名前を付けるべきなのかしら。 私には淡く見えただけ。 十郎さんに相談したら、きっとそうでしょう。 見間違えではないでしょう。 でも、自信が無いのであれば、お義母さんが仰っていた 『紫揺』 と言う方の名を付けようと十郎さんが言う。 でもはっきり見たのではないのですから。 そう言ったのだけれど、淡く見えたのでしょう? その時の為にお義母さんが考えられた名でしょう? 冷静に十郎さんが言った。≫ 

その後は毎日些細な紫揺の成長のことが書かれていた。
初めて声を出して笑ったとか、寝返りが他の子より早いとか。 些細な事が世界一嬉しい出来事のように。

『1』 と書かれた大学ノートを読み終えた。

「喉が渇いた」

大学ノートを重ねて横に置くと整理箱を元の位置に戻し、全てのノートを手に持つと階段を降りた。 そして両親の遺影の前に大学ノートを置き手を合わせた。

「お母さんごめんなさい。 お母さんの日記をちょっと読んじゃった・・・。 でも全部読ませてね。 そしたらお母さんが言いたかったことが分かるかもしれないから」

『2』 と書かれた大学ノートだけを持ち台所に行くと、冷蔵庫を開けて冷茶をコップに注いだ。
椅子に座ると一気に半分まで飲んで、肘をついた両手で額を覆った。

「私の名前は事前にお婆様が決めていらっしゃった? 淡く見えた? 何が見えたの? それにその時のために考えていらっしゃった名前って、どういう意味? はっきり何かが見えたのなら違う名前だったの?」

『2』 と書かれた大学ノートをめくった。

このノートには特別に驚く紫揺のことは書かれていなかった。 紫揺の成長日記といった具合だった。 ただ、どれだけ紫揺のことを想っているのかが伺える内容であった。

「お母さん、細かなことまで書いてくれてたんだ」

お箸が上手に使えた日が分かった。 どうすればお蕎麦を啜れるのを上手く教えられるか頭を悩ます早季の姿が目に浮かぶようなことも書いてあった。

「ゴメンねお母さん。 まだ上手に啜れない」 

蕎麦もラーメンもうどんも今だに上手く啜れない。 上手く啜れたと思ったときには途端、咳き込んでしまう。

『2』 と書かれたノートを読み終えると 『3』 のノートを手に持った。 読み進めていると

「え? そんな小さな時からしてたっけ?」

日記には夕飯を終えると、毎日天井に向ってジャンプする紫揺のことが書かれていた。

≪「紫揺ちゃん何がしたいの?」

「天井に手が届きたいの」

「紫揺ちゃん、それは無理よ。 まだまだ天井に届かないわよ。 もっと背が伸びたときに挑戦すれば?」

「そんなことない。 背が伸びなくても絶対に天井に手が届く」

拙い言葉でそんなことを言う紫揺ちゃんが、とても可愛い。 でも、他の人が聞いたら紫揺ちゃんが何を言っているのか分からないでしょうね。 こんなにはっきりと喋っているのにどうして分からないのかしら。 それともこれって親馬鹿って言うのかしら。≫


その後も毎夜、夕飯のあとジャンプをし続けていたと日記には書かれていた。

「私って・・・小さい時から馬鹿なことをしてたんだ・・・」 

馬鹿かどうかは分からないが、高校に入るまで続けていたことは覚えていた。 その時には余裕で天井に手が届いて、連続10回、11回と段々と数を増やしていったことを思い出す。 これが後に脚力をつけていた一端になっていたが、そんなことは紫揺の知るところではなかった。

隣の部屋にある残りの大学ノートを見遣ると、今日はもう疲れた、また今度読もう。 視線を外した。

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虚空の辰刻(とき)  第4回

2018年12月21日 22時05分37秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第4回



両親の葬儀は何も分からない紫揺 (しゆら) に代わって、父親の会社の同僚が執り行ったが、それは紫揺と同僚だけの密葬であった。

何もかも終えた家の中で悄然とした目で遺影を見つめている紫揺が座っている。 

「紫揺ちゃん、本当にご親戚に連絡しなくてもいいの?」 父親の同僚が言う。

その声に我に帰ると正座をしたまま向きを変えた。

「はい。 お父さんとお母さんとのお別れは私だけでいいんです。 あの、何もかも有難うございました」

この同僚は紫揺の父親、十郎から親戚の話は僅かに聞いてはいたが、だからと言って亡くなったことを連絡しないのはどうかと思うのだが、この少女にも何かの考えがあるのだろうか。

「紫揺ちゃん・・・」

まだ高校を卒業して間もない、成人にも達していない紫揺の毅然とする姿に何とも言えない寂寥感を覚えた。

「これからどうするの?」

「まだ・・・まだ分かりません」

「ああ、ごめん。 そうだよね。 ・・・何かあったら、いつでも小父さんのところに相談に来るといいんだよ」

「はい、有難うございます」

「あ、小父さんの方からもここに来てもいいかな?」

「え?」

「十郎が安心できるように、時々紫揺ちゃんを見に来ていいかな?」

「佐川さん、息子さんが生まれたばかりだって、お父さ・・・父から聞いています。 時間のある時には息子さんと一緒に居てあげてください。 私は大丈夫ですから」

この佐川は、数年前の再婚で初めての我が子、息子を腕に抱いていた。

そう答え下を見る紫揺を憐憫な眼差しで見る佐川は、紫揺が警察署から一番に連絡を入れた相手であった。
佐川が警察署まで出向くと、その時までの紫揺の様子を坂谷から聞いていた。

紫揺は親戚にどうしても連絡を取りたくはなかった。

紫揺が物心ついた頃、隣の部屋で寝る紫揺がもう眠ったであろうと踏んだ両親が台所で夜な夜な話している言葉を耳にしていた。 その中のいくつか記憶に残っている話があった。

「十郎さん、やっと終わりました。 有難うございました」 早季がテーブルの椅子から腰を上げると、板間に座り両手をついて深々と頭を下げた。

「早季さん、止めて下さい!」 驚いた十郎が椅子から跳び下りると早季の肩に手を添え、隣の部屋で眠る紫揺を起こさないように、声を潜めながら十郎が言う。

「いえ、十郎さんが身を粉にして働いてくださったお陰です。 お父様のことなのに私は何もお手伝い出来ませんでした」

「早季さん、それは違う。 私はお義父さんと約束したんだ。 知っているだろう?」

「・・・はい。 でも―――」 次の言葉を言わせないように十郎が早季の言葉を遮った。

「早季さんもお義母さんと約束をしただろう?」 

早季が頭をもたげた。

「私たちは紫揺さんを守らなければいけない。 こんな所で躓いている場合じゃないんですよ。 私が働くなんて知れたものなんです」


そんなことがうつろに聞こえてきた紫揺の頭にユラユラと残っていた。
そしてそれから数ヵ月後に話されたことも記憶に残っている。


「早季さん、すまない。 迷惑をかけてしまって・・・いえ、迷惑をかけるつもりはありません。 でも紫揺さんのことを早季さん一人にだけにお願いしなくてはならない事が心苦しい」

働きづめで身体を害してしまい、結果、寝込むことになってしまった。

「迷惑などではありません。 十郎さん・・・お父様の時にも思っていたのですけど・・・」

「なんですか?」

「紫揺さんも、もう小学校に上がります。 だから・・・私が働きに出ます。 十郎さんはアルバイトを辞めてください」

「冗談でも止めてください、なんてことを言うんですか。 紫揺さんはまだ小さいんです。 早季さんは紫揺さんについていなければ。 それに前も言いましたよね? 早季さんを守るって私がお義父さんと約束したのですから。 それに早季さんもお義母さんと約束したでしょう?」

「でも・・・これ以上、十郎さんの身体に無理がないよう暫くはゆっくりしてください。 私は・・・お母様と同じに私にきせられた責任を負わなければいけないことは分かっています。 でも、それで十郎さんがお父様の様に身体を悪くしては、十郎さんに申し訳が立ちません」

「・・・早季さん」

「お母様と私では違うところがあります。 私は世の流れを知っています。 お金が何にも勝るとは思っていませんが、それでも必要な時があるんです。 大切な人の身体を守れるのなら働くくらい出来ます。 それに働いたことがないわけではないんですから」

早季の話を聞けば聞くほどに、自分が義父の二の舞を踏んでしまっては早季や紫揺に自分が負ったと同じことが降りかかってしまうかもしれない。 そうなれば元も子もない・・・。

「無理のない範囲でお願いします」 と、砂を噛むように早季に言い、心の中で義父に深々と頭を下げた。 そして僅かの間だが身体を休めると、また会社の休みの日にはバイトを始めた。

紫揺の入学式を迎えた後、早季が働きに出た。 

だが、その時の紫揺にはそれがどういうことなのかは分からなかった。 が、簡単に分からないでは済まされないことだと肌では感じていた。

それより何より、普段は 『紫揺ちゃん』 と呼んでいた両親が 『紫揺さん』 と呼んでいた事が気にかかり、そのことが大きく記憶に残る要因となった。

紫揺がその内容を一部理解したのは、高校2年の頃だった。
紫揺の布団の両横には両親の布団が敷いてある。 この歳になっても紫揺は両親と寝ていた。

両親が隣の台所で夜中に話しているのを聞いたとき、小さな頃に聞いていた話と繋がった。

ことは、紫揺が生まれる前、紫揺のお爺様の病院代から始まっていた。 
祖父の病院代を稼ぐ為に父親の十郎は社員として働き、休みの日にはアルバイトをしなければならなくなっていた。 母親の早季も紫揺を出産してからは、内職で家計を助けることしかできなかったが、それでも追いつかない。 仕方なく、父親、十郎方の叔母夫婦に借金を申し出たということがあった。

この時、休みなく働いていた十郎の身体は悲鳴を上げていた。
その中でも叔母夫婦に借りていた借金をやっと返した。 だがすぐ後にその叔母夫婦が十郎の家を訪ねてきた。
叔母夫婦から店を出したいと思っている、と告げられた。 そしてその為に銀行から金を借りる為の保証人になってほしいと言われた。 それは簡単に承諾できる金額ではなかった。 でもどこの親戚にも断られた。 もう、十郎の所しか残っていない。 十郎、早季さんお願いします。 必ず自分たちで借金を返すから、迷惑をかけないから、と手をついて頭を下げたというものであった。 今まで金を借りていた事もある。 邪険にできないものであった。

だがその直後、叔母夫婦は夜逃げをして借金の後始末は全て十郎が背負うことになった。
他の親戚はそのことを傍観して手をかそうとはしなかった。

その数年後、十郎の兄が少額ではあるが 「明日の食費がない」 と、金を借りに来ていた。
早季は十郎の兄のことを無下にできなかった。 幾度となく借りにきても全てに応えていた。
それは余裕があるからではなかった。 身を切る選択ではあったが、断るということが出来なかった。

叔母夫婦の事も、兄の事も断らず受けていたというのは、弱いといわれればそうなのかもしれない。 そう言われても仕方のないことだろう。 
断るということは何よりも強い心があってできるのだから。 
断れないというのは、断るという勇気がないか、言ってきた者を信じているかのどちらかだ。
紫揺の両親は後者であった。 決して金銭的に余裕のある家ではなかったが、親戚兄弟を見放すなどできない両親であった。

そんな親戚になど連絡をしたくなかった。

叔母夫婦に負わされた借金は、紫揺が高校2年の春にようやく完済をした。 その夜、両親が完済の喜びを話すのを聞いて 『怪我なんかで病院代を出してもらうわけにいかない』 と、お金の迷惑をかけてはいけないとお転婆から卒業したのであった。

そして借金が終わったにもかかわらず、早季がいつまで経っても仕事を辞めないのは、貯金を貯めていくものだという事を知った。 それは早季の父母の墓を建てるためであった。 分骨をして大半は納骨堂に納めたが、小さな骨壷にはまだ骨が入っている。 2つの小さな骨壷は目の高さにあるタンスの上に遺影と共に置かれていた。
普通に暮らしていれば父親の収入で充分に墓を建て、貯金をしながら暮らせるはずだった。 

そんな中でも、紫揺の両親は紫揺を慈しみ、愛して育てた。 だが、並に他人と同じように少しでも贅沢な生活を紫揺にさせることは出来なかった。

「紫揺ちゃんゴメンね。 携帯持ちたいでしょ?」

「お母さん、何言ってるの? そんな物いらない。 友達とは口で話せるから。 約束なんて口の方が大事よ。 携帯なんて持ったら、約束してても、遅刻するから、って連絡が入るんだもん。 そんな約束の撤回聞きたくないもん。 約束は約束でしょ? それを簡単にやぶられるのが携帯よ。 そんな物いらない」

紫揺は敢えて携帯と言った。 スマホとは言わなかった。


両親の密葬を終えた日から1か月ほど経ったころに佐川がやってきた。

「紫揺ちゃん。 もう少しすると四十九日になるけど、どうする?」 

それは紫揺を心配するあまりの口実でやって来たとすぐに分かった。

「佐川さん、私は何も知らないけど、型にはまったことをしなくてもきっと両親は今頃二人で仲良く天国に居ます」 納骨のことは住職から聞いていた。 自分ひとりで出来る。

「紫揺ちゃん・・・」

「大丈夫です。 息子さんと一緒に過ごしてください。 母は・・・私の母は僅かな時間を惜しんで私の傍に居てくれていました。 父も・・・働き詰めだったけど、それでも時間の空いたときには母の横に添って私を遊んでくれました」

紫揺は、自分が小学校に上がってから母親が働きに出たことに、心に寂しさを覚えていた。 それを誰にも言わなかったが。

「それでも子供って・・・親が知らないところで寂しいんです」

紫揺の母親、早季は紫揺が小学校に上がった途端、働き始めた。 それでも紫揺はそれまで通り明るく自分のやりたいことをやって過ごした。 

「佐川さん、私はもう高校を卒業しています。 友達の中にはもう就職をしている友達もいます。 私は子供じゃないんです。 私は私をやっていけます」

「紫揺ちゃん・・・」

「息子さんといっぱい遊んであげてください」 

それは切なる願いだった。 

紫揺は父親とたくさん遊びたかった。 が、父親、十郎は紫揺と遊ぶ暇などなく働き通しだった。 だが、父親は僅かな時間を見つけては紫揺を遊んでくれた。 身体の具合が悪くても。 紫揺にはそれが嬉しかった。

「佐川さんの気持ちには感謝しきれないと思っています。 だから、佐川さんの息子さんを幸せにしてあげたいんです。 時間がある時には息子さんの傍にいてあげてください」

この子は・・・この少女は誰にも言わず今までどれだけ寂しかったんだろう・・・佐川が思う。
同僚、十郎が会社の休みの日にはバイトに出ていたと聞いていた。 親戚の金銭の問題で。
この子はその波を何も言わず受け止めていたのか。

「紫揺ちゃん・・・」

「佐川さん・・・今すぐにはまだ無理ですけど、私が元気になったら私から連絡を入れます」

「紫揺ちゃん・・・」

「お父さんは幸せです。 佐川さんのような人が居てくれて」


佐川が紫揺の家を出るとその後姿を見とめた男が居た。

「あれは? もしかしたら・・・」 男が佐川の後を追った。

「もしかして佐川さんですか?」 佐川が振向く。

「あ、あなたは・・・たしか・・・」

「あ、やっぱり佐川さんだった。 静岡県警掛野署の坂谷です」

「あ、そうだ、坂谷さんだ」

「今、藤滝さんの家から出てきましたよね?」

「はい」

「彼女、どうしていますか?」

「18歳とは思えないほど毅然としていますがね・・・その分、見ているこっちが悲しくなってきますよ」

「そうですか・・・」

「あれ? もしかして坂谷さん紫揺ちゃんのことが気になってこんなに遠くまで来たんですか?」

「あ、ええ。 まぁ・・・今日は非番ですから」 照れ隠しに顔を隠すように額を掻いた。

「坂谷さんから聞いたあの時の紫揺ちゃんのことを思うと・・・そりゃ、心配になりますかね」 何ともいえない苦い顔を作った。

「ええ、まぁ。 でもまっ、なんとか立ち直ってくれそうですね」

「感情を表に出さない子みたいです。 これは私も今知ったんですけどね。 でもその分、冷静に物事が考えられるでしょう」

「そうですか。 それを聞いて幾分安心出来ました」

「紫揺ちゃんに逢って行くんでしょ?」

「いえ、立ち直っていけそうならそれでいいんです。 私みたいなのがあまり顔を見せると当時のことを思い出すかもしれませんから」

「でも、せっかく遠方はるばる来てこられたのに・・・」

「いえ、私の勝手で来たんですから。 それに立ち直っていけそうっていう収穫がありましたからね。 あ、そうだ」 いうと胸ポケットに手を入れた。

「もし、何かありましたら連絡下さい」 名刺を差し出す。

「あ、これは」 名刺を受け取ると佐川も胸ポケットから名刺を出し渡した。


心ある住職の元、無事、納骨堂に分骨の納骨を済ませた紫揺。 祖父母と両親の眠る納骨堂に手を合わせた。

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虚空の辰刻(とき)  第3回

2018年12月17日 23時07分14秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第3回



「・・・私です」 

坂谷は紫揺の両親が利用したツアーの会社からの情報で、藤滝紫揺 (ふじたきしゆら) という少女が18歳だと聞いていたが、このドアの向こうにいる少女はどう見ても自分が知っている18歳には見えなかった。

「あの? 藤滝紫揺さんの妹さんですか?」

「違います。 私が藤滝紫揺です」

藤滝紫揺本人が目の前にいた。 坂谷が思う18歳とはかけ離れた18歳が。

「あの・・・」 紫揺が釈然としない顔を向けた。

ドアの向こうにいるこの少女が藤滝紫揺なのか、とまだ納得できていない坂谷が紫揺をじっと見ている。

「紫揺さんの妹さんではなくて、アナタが紫揺さん?」

「はい」

紫揺という少女が18歳とはわかっていたがあまりに幼すぎる、と一瞬焦ってしまった。 いつも相手にしている18歳と全く違う。 彼女たちがマセ過ぎているのか、紫揺が世間の波に乗っていないのか・・・。

坂谷の知っている18歳は、髪の毛をウエーブさせていたり直毛であったとしてもその色は茶色だ。 いや、茶色だったらまだマシ、金髪や赤やピンク、紫とあったりとする。
が、この目の前にいる少女は短髪で真っ黒。 それに化粧などしたことがないのだろう、肌が艶めいている。 服装もジャージ。 それも高校の名の入ったジャージであった。 坂谷が知っている18歳の中にも確かにジャージを着ている子はいたし華奢な子も居た。 だが、この目の前にいる子とは違ったジャージを見に纏わせていた。 というより、この目の前にいる子の方が普段見ない身体つきをしている。 それになにより幼さの残る顔をして、言葉尻もなにもどこにもスレたところが見当たらない。 ついでに言うなら、胸も幼そうでツンツルテンの断崖絶壁だ。

「アナタが藤滝紫揺さんですか?」 念を押して聞いた。

「・・・はい」

坂谷はどうしようかと思った。 が、事を言わないわけにはいかない。 今更ながら婦警を連れてきたらよかったと後悔した。

「申し上げにくいんですが、藤滝十郎さんと藤滝早季さんが事故に遭われまして・・・」

「・・・え?」

「一緒に来てもらえますか?」

「・・・あの・・・両親は今、ツアーに出ています」

「はい。 ・・・そのツアーで事故に遭われました」

何を言われているのかわからない。

「ツアー会社の連絡先の名前が藤滝紫揺さんだけだったんですが、ご親戚が居られればそちらの連絡先を教えてもらえますか? ご親戚に来てもらいますが」

「どうして? どうして警察と一緒に行かなくちゃいけないんですか?」 得も言われぬ不安から声が震える。

「それは・・・。 あの、ご親戚の連絡先を教えてください」 坂谷がもう一度紫揺に言うが紫揺は口を開こうとしない。

「藤滝さん?」

「私が行きます。 どこに行けばいいんですか?」

「静岡県の掛野署です」

「警察署? どうしてですか? どうして病院じゃないんですか?」

「藤滝さん・・・」

「事故に遭ったなら病院じゃないんですか?」

「藤滝さん、お願いです。 ご親戚の連絡先を教えてください」

「・・・着替えてきます」


地下霊安室前に通された紫揺。 

着替えてきた服は高校の名が入ったジャージから、鞄につめた物をひっくり返したスポーツメーカーのジャージだった。

「藤滝さん、無理だったらいいんですよ。 今からでもご親戚の連絡先を教えてもらえませんか?」

紫揺は無言で頭を振った。

「・・・それじゃあ」 大きく息を吐くと隣にいた職員に目顔を送った。

職員の手で霊安室のドアが開けられた。

「藤滝さん、手をつないでもいいですか?」 坂谷が言うが、紫揺には聞こえていない。

(無理だろ。 こんな子に親の顔を見せるのは・・・) 坂谷が心の中で嘆声を漏らす。


上司からこの話を聞いたとき、紫揺の家に電話を掛けるように言われたが、18歳と聞いて電話では収まらないものがあるかもしれないと思った。
だから、坂谷が直接家に迎えに行ったのだったが、こんな風になるとは思ってもいなかった。

「藤滝さん?」

何を言われようが、坂谷の言葉は紫揺の耳に入ってこない。

紫揺が一歩を出した。

「きみ、大丈夫?」 身体が揺れているわけでも、足がおぼつかないわけでもないが、思わず職員も声をかけてしまった。


この時、署内ではあちこちで緊急地震速報を知らせる警報音が鳴っていた。


一歩を踏み出したあと、そのまま白い布に覆われたベッドの横につくとその隣に横たわっているであろう父か母を見た。

「お父さんとお母さん・・・?」 乾いた声が硬く冷たい部屋に響く。

誰に聞いているのだろう。 いや、聞いているのか独語なのかさえもわからない。

「藤滝さんやめよう。 出よう」

警察官が犯罪者でもなく何もない者の腕をとるなどということは禁じられているが、思わず坂谷が紫揺の腕をとった。 途端、紫揺が遺体の顔にかけられていた白布をはぎ取った。

坂谷がとった腕を離すと頭を下げる。

「・・・お父・・・さん・・・?」 父親の顔をじっと見つめる紫揺。

「お父さん・・・お父さん」 ただその場に立ち、泣くわけでもなく何度も父親を呼んでいる。

何度か父親を呼ぶと父親から目を離し、隣に横たわっている母親であろう方に目を移した。途端紫揺が坂谷にとって思いもしない行動に出た。 その場から走って隣のベッドで顔を覆っていた白布を引っ剥がしたのだ。

「・・・お母さん」 母親の方は窓際に座っていたのか顔に多数の傷がある。

「お母さん、お母さん、お母さん・・・」

何処からともなく風が吹き、点けられていた蝋燭の炎が揺れる。
紫揺の瞳が揺れる。
が、その瞳を坂谷も職員も見ることができなかった。 いや、紫揺の目を見るどころではない、紫揺自身をまともに見ることさえできなかった。

「わ・・・私が殺した・・・。 私が殺した・・・私が殺した、私が殺した」 まるで自分自身に呪詛でも唱えるかのように何度も紫揺が唱える、いや、口にする

坂谷が慌てて紫揺の横に付こうとしたが、足が縫われたかのように動かない。
坂谷にとってこの18歳の少女は今までの自分が知り得る18歳の少女とあまりに違っていたからだったのかもしれないが、また違うものもあったのかもしれない。

「坂谷さん!」 声を殺して叱咤するように、ドアの前に立っていた職員が坂谷に叫んだ。

「あ、ああ。 分かっています」

「藤滝さん!」 やっと縫われたように動かなかった足が解放され、坂谷が紫揺の横に駆け寄った。

「藤滝さん? しっかりして」

「・・・お父さんとお母さんを殺したのは私だ・・・私が殺した、私が殺した・・・」 このツアーを両親にプレゼントしたのは自分なのだから。

「藤滝さん、藤滝さんのせいじゃない。 事故なんだ」 

だが坂谷が何を言おうとも紫揺の呪詛は終わらない。

「藤滝さんもうやめよう。 一度出よう」

と、その途端、紫揺が大声を上げた。

「私がお父さんとお母さんを殺したー!!」 裂帛の絶叫であった。

床に膝と手をついて何度も何度も同じ言葉を叫ぶ。

「私が殺した! 私が殺したー! 私が殺したー!」

「藤滝さん! しっかりして! 君のせいじゃないんだ! 事故だったんだ!」 思わず紫揺の肩を両手で握り締めた。

職員がドアの前で顔を背ける。


署内が揺れ、物が次々と落ちた。

「地震!」 誰かが叫んだ。 ロビーや窓口では来署者の足元が揺れ、その場に座り込む者や、悲鳴を上げて逃げ惑う者、署員が 「落ち着いてください!」 と言うが、その揺れは大きく、来署者が落ち着けるものではなかった。 署内の警察官が慌ただしく走りだした。


霊安室でも雷のような轟音が響いたと思ったら物が割れて落ちてきた。

「え? なんだ?」 職員が言う。


既に察知していた老女二人の前には日本地図が広げられてあったが、同時に二人が地図から目を離して顔を上げた。

「お叫びじゃ!」

老女二人が同時に言った。

老女二人が・・・いや、一人は男がノートパソコンの画面を老女の前に出した。 勿論、老女にノートパソコンは扱えない。 おぼろげに老女が指さす画面を男が少しずつ拡大していく。

もう一人の老女には老女の右手離れたところで座して頭を垂れていた塔弥が思わず老女の前に進み出た。

「もう少し詳しい地図を・・・この辺りじゃ」 指さされたのは中部地方であった。

塔弥が頭を下げ、すぐに老女の横にあるいくつもの地図の中から一つの地図を取り出した。


霊安室の中では次々と物が割れては落ちる。 陶器の香炉が砕けとび、その木の台が大きく揺れ動く。 蛍光灯が大きな音を立てて割れとぶ。
職員が慌てて遺体の顔に白布を被せた。
坂谷が紫揺の腕を引いていた。

「藤滝さん! 取り敢えずここを出ましょう! 廊下に出ますよ!」

だが何を言ってもその場に両手をついて叫ぶばかり。 坂谷が紫揺を抱きかかえ霊安室を出るとドアを開けた職員が坂谷に続いた。
霊安室もさほど物があるわけではないが、廊下に出れば落ちてくるものなどはないし、割れるようなものといえば蛍光灯くらいだ。 それ以外は何もない。 が、その蛍光灯が殆ど割れていてすでに薄暗い。 廊下の端の蛍光灯の幾つかが点滅を繰り返している。

「志貴 (しき) さん、あそこの蛍光灯の近くに長椅子を動かしてください。 真下は危ないですから。 割れた蛍光灯に気を付けてください」 

点滅している蛍光灯を顎で示す。

志貴というのは先程から一緒にいる職員だ。
志貴が足元に注意しながらズルズルと長椅子を移動させる。
坂谷の腕の中で顔を手で覆いながら、まだなお泣き叫んでいる紫揺を、その長椅子に静かに降ろした。 途端、長椅子に突っ伏して 「私が殺した! 私が殺した! お父さん! お母さん!」 と大きな声で両親を呼んでいる。

一瞬見えた紫揺の左目が真っ赤になっているのを坂谷が見た。

(目の血管が切れてしまうんじゃないか?・・・) それほどに赤くなっていた。

「今はそっとしておいてあげましょう」 霊安室で飛んできた破片に頬をなぞられた志貴が赤い一筋をつけた顔を坂谷に向けた。

「はい。 あの、ここは自分がついていますから、志貴さん、治療をしてきたらどうですか?」 言うと自分の頬を指さした。

え? という一言と同時に志貴が自分の頬を触った。 ヌルっとした感覚があったその手を見ると血がついていた。 霊安室の蛍光灯が割れてその破片が飛んできたのだった。

「けっこう深いんじゃないですか?」

「あ・・・」 じわじわと痛みを感じてきた。


「・・・ここじゃ」

老女二人が同時に指をさした。 そこは掛野署と示されていた。

「警察? 間違いなく?」 ノートパソコンを操作していた男、ムロイが問う。

「わしを疑うておるのか」 老女が男を睨め付ける。

「滅相もない」 肩をすくませて机の上に置いていたノートパソコンを手に取る。

「それでは、ここからは私の役目ですので」 わずかに不遜な態度を見せて部屋を出て行った。

物言わぬ空気が流れると壁の前に5つの影が現れた。

「ショウワ様」 5つの影の内の1つが言 (げん) を発すると、その影に老女が下知する。

「ゼンとダンの二人はムロイに付け、何をするか分からん。 おかしな動きがあれば些細な事でも逐一報告せよ。 ハンはムラサキ様が分かり次第その過去を辿れ。 カミとケミはまだわしの元に居れ」

「御意」
「仰せのままに」

5つの影が消えた。


岩屋の中では

「警察署でございますか?」

「ああ、間違いない」

「すぐに領主に言ってまいります」

「ああ、行動を一刻も早く起こせと言っておいてくれ」

「承知しました」 塔弥が地図を持ち岩屋を出て行った。

「紫さま・・・どうして警察署などに・・・」 老女が紫さまと呼ぶその身を案じる。

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虚空の辰刻(とき)  第2回

2018年12月14日 23時58分24秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第2回



紫揺 (しゆら) が進路指導室を出て行った後、進路指導の教師の頭の中には2年前の出来事が過 (よぎ) っていた。

「今思えば懐かしいか・・・」 

足をドンと床に着くと椅子から立ち上がり窓際に立った。 2階の進路指導室からは素晴らしい眺望には程遠く、グラウンドで走る部活に励む生徒の姿が見える。


2年前、紫揺が1年の秋。 2泊3日の野外学習での出来事だった。 野外学習では自然を感じるというのがテーマだった。 宿泊施設には山や河川があり、人工の物ではアスレチックもあった。 とは言え、ほとんどが自然を利用して作ったものである。

そのアスレチックで紫揺はとんでもないことをしでかした。

紫揺の動きがおかしいことに一人の引率の教師が気付いた。
所々、引率の教師が見守る中、友達とはしゃぎながらアスレチックを楽しんでいた紫揺だったが、急に友達から離れて場所を移動しようとした。 それに気付いた友達が紫揺に声を掛ける。

「シユ、何処に行くの?」 他の友達も振り返る。

「あ、さっきの場所に忘れ物をしちゃった。 先に次の所に行ってて」

「一緒に行こうか?」

「いいよ。 すぐに追いつくから」

「そう? じゃ、先に行ってるからね」 淡白な返事を返した。 何故なら、友達たちは薄々気づいていた。 紫揺が何をしたいのか。

器械体操部は突然に宙返りをしたくなるらしい。 これを心得ていた。 
例えば、器械体操部と下校していると急に宙返りや、ターンをする。 これは紫揺に限らず、器械体操部の一種の病気と心得ていた。

「シユ、遠慮しちゃってるけど、絶対何かやるわよ」 バスケ部員が言う。

「ふふ、手も足もウズウズしてるんじゃない?」 これはテニス部員だ。

「言えてる」 最後に言ったのはバトミントン部員だ。

「どうする? シユを見る? それとも次に行く?」

「決まってる。 シユを見る」 残りの二人も頷くと、五人が目を合わせ紫揺の後をソロっと尾けた。

その時だった。 紫揺が不自然に身を隠しながらキョロキョロとしている。 「なんだ?」 と思い、引率の教師が紫揺の後を追おうとしかけた時、紫揺のクラスメイトが紫揺から見えないように、後を尾けているではないか。

すわ、イジメか!? と引率の教師が疑った。 
引率の教師が紫揺ではなく、紫揺のクラスメイトの後を静かに追う。

「ユラ遅いよー」

先に居たのは体操部員16人。 この中で紫揺を含む3人が引き抜きで、あとは一般入部部員だ。

「シーッ! 先生にバレるよ」 言いながら藪から出てきた。

「大丈夫だよ。 もうこの辺りには生徒がいないから、先生もいないよ」

「だといいんだけどね」 木に手をかけた。

「思いっきりやろうよね」 こちらも木に手をかける。

友達とおしゃべりしながら遊ぶのも楽しいが、他部員が居ては、単にアスレチックをこなすだけで、面白みがない。 身体のウズウズが止まらない。 それは機械体操部員全員同じだった。 だからこうして、他生徒が居なくなってから機械体操部員だけで遊ぼうということになっていた

「あれ・・・体操部?」

紫揺のクラスメートの後をつけていた教師が、クラスメート越しに前を見ると、器械体操部の面々が見える。 そして訝し気に紫揺たちの様子を見ていた教師が眉を顰めた途端、目を剥いた。

普通なら2本縄で宙づりにされた丸太の上を次々と渡っていくというものなら、男子女子ともに宙づりにしている丸太の両端の綱をしっかり手で持ち、足の裏で丸太をしっかりと踏んで、次の丸太に移動する。

それを紫揺にさせれば、一本目の丸太でまるで鉄棒のように前回りをしたかと思うと、そのまま膝裏を次の丸太にかけて移動する。 次に逆さまになった状態を腹筋で起きてくると、膝裏で捉えている丸太に手をかけ膝を伸ばし、そのまま丸太に尻から背中を滑らせて上がっていき、難なく丸太に座る。 次の丸太へはまた違うことをしてと、紫揺にとってはこれ以上に楽しいことはなかった。

「さっすが、ユラ。 私にはそんなことできないよー」 一般入部部員が言う。

「やりたかったらやればいいよ。 出来るから」

「出来るわけないし・・・」

「ユラって、自分のことを全然わかってないよね」

「へっ? 楽しいことをしてるだけだよ」

「楽しいって・・・」

ほかにも、傾斜のある道に長くロープが引かれていて、そのロープには持ち手の木の上に滑車がついている。 出発地点には数段の階段が設けてあり、そこに上がり持ち手の木をもって勢いよく上から下へ滑り降りていくのだが、最初は3メートルほどの足の届かない高さであっても、最終地点には地面にかなり近づいている。 150センチ強の身長の紫揺であれば膝を曲げて立つくらいの高さになる。

それをした時には、出発地点は皆と同じだったが、最後の着地では男子が数人なんとかこけずに済んだくらいで、女子においては全員尻もちをついていたところを、滑車がまだ走っているというところから、自分の身体を前後にあふると最後の手前で、そのまま飛び降りるということをした。 

「ユラ、あんまり危険なことしちゃだめだよ。 怪我でもしたら練習に差し支えるよ」 紫揺と共に引き抜きで入った一人が言うと、もう一人もそうだよと、頷く。

陰から見ていた友達たちが 「やっぱりね」 と声を合わせるが、引率の教師はずっと呆気に取られていてその声が聞こえない。 イジメどころか、危険を伴う。

紫揺はいかにも楽しげな顔で、まだまだ色んなことをやってのけていたが、引率の教師がいないところでそんなことを次々とされては一大事である。

我に返った引率の教師が 「コラ―! 怪我をしたらどうする!」 と雷を落とした。 

教師の前に居たクラスメートたちが飛び上がって後ろを振り返った。

それが当時の引率の教師であり、今は進路指導の教師であった。
未来の進路指導の教師は

「体操部は解散! つるんでないでバラバラに他のことをしに行け」

「えー・・・」

「えー、じゃない。 それと藤滝、お前はここで何をするか分からん! 河原で遊んで来い!」

「先生、横暴!」 一般入部部員が言う。

「でも言えてるかも。 これ以上ユラに何か遊ばせたらブレーキが利かないかも」 引き抜きの部員。

「ユラの遊びは後先見ないもんね」 これも同じく引き抜きの部員。

「どうしてそんなこと言うかなぁ。 楽しいだけなのに」

二人が目を合わせ溜息を吐く。

「怪我したら元も子もないでしょ?」

「しないって」

「いいから! 藤滝は河原に行け!」 他の部員は節操があるようだ。 無茶はしないだろうが、当分自分が目を光らせておこう。

「はーい、じゃね」 他の部員に手を振り、案外諦め早く河原に向かおうとした紫揺に、クラスメートが駆け寄る。

「シユ、河原に行っちゃうの?」

「あれ? どうしてここに居るの?」

「あ、それはちょっと」 エヘヘ、と誤魔化す。

「先生が行けって言うから行ってくる」

「付き合おうか?」

「いいよ。 朋美ちゃん、水が嫌いでしょ?」 バスケ部の目を見て言う。

「う・・・」

「朋美ちゃんに付き合ってあげて。 じゃね」

いともあっさりと、河原に向かって行く紫揺。 教師は拍子抜けしたところが若干あるが、無難に終わらせるのが何より。

「ほら、体操部、バラバラに遊び・・・じゃない、野外学習だ、自然を感じてこい」

「はーい」

暫くは遠目に体操部の様子を見ていたが、無茶なことをする様子が見られない。 と、さっき紫揺にああは言ったものの、紫揺が何かをしでかしているのではないかと気になり、他の教師に声を掛けて河原に行ってみた。
河原近くに行くと、他の教師の大きな声が聞こえてきた。

「藤滝!! 何をしてる! 戻ってこい!」

ああ、やっぱり何かしでかしている・・・。 と、頭を抱えたかったが、そんなことをしている暇はない。
足場の悪い河原に降りる道を足早に降りると、叫んでいた教師の目の先を見た。 すると川の中の岩をピョンピョンと跳んで遊んでいる紫揺が目に入った。
川の流れは早く、深さもあるようで水の色は深緑になっている。

「先生、大丈夫。 落ちても泳げるから」

「そんな問題じゃない! 戻ってこい!」

叫んでいる教師に走り寄り、横に立った未来の進路指導教師。

「先生、すみません。 アスレチックでとんでもないことばかりしていたのでこっちに来させしたが、まさかあんなことをするなんて」

「アスレチックでも何かやらかしてたんですか?」 二人とも会話をするが、目は紫揺を見たままだ。

「おい! 藤滝!! お前の顧問に言いつけるぞ!」 未来の進路指導教師が大声で怒鳴った。

「え? 顧問? ・・・ヤバ」 言うとすぐに跳んできたと同じ岩を跳んで河原まで戻ってきた。 

勿論、紫揺がひと跳びする度に教師二人の肝はすくみ上っていた。 それがあったからなのかは分からないが、この後に教師二人からコンコンと言われたのは言うまでもない。

そして未来の進路指導教師が紫揺の首根っこをとると河原を後にして、山に入っていった。
山といってもしれた山なのだが。

歩いていると紫揺が急に止まった。

「どうした?」

「なんでもないです」

少し離れた所に紫揺の顔の高さに枝がちょうど出ていた。 紫揺は枝から目を逸らし、そんなに広くない道を真っ直ぐに歩かず、半円を描くように歩き出した。 未来の進路指導教師から見れば何かに怖がっているように見えた。 紫揺の見ていた目の先を見ると、先に入ってきた誰かが枝に引っかかったのだろうか、枝の先が裂かれ、まるでナイフのように尖っていた。

「先生どうしたんですか?」

「あ、何でもない」

少し歩くと木で作られた2脚の椅子があった。 雨や陽に当たらないようになのか、上左右後ろの4辺を木で作られた箱のような形をしているその中、正面の空いている所にその2脚の椅子が入っていた。

「あそこに座ろうか」

「・・・」 じっとその箱のような物を見ている。

「藤滝?」

「狭い空間は好きじゃないです」

「話があるんだよ。 座って落ち着いて話したいし、あそこなら陽に当たらないだろう。 焼けちゃダメなんだろ?」 焼けあとがついてしまっては、レオタードを着た時にひびく。

見上げた空は抜群の秋晴れとなっていて、この場所は木々が少なくしっかりと陽が降り注いでいる。

「座ろう」 言って、紫揺の腕をとると引っ張りかけた未来の進路指導教師の手を思いっきり振り払った。

「狭いところはイヤだって!!」 先ほどの枝を怖がった時以上の反応だった。

その異様さに未来の進路指導教師は目をパチクリさせたが、すぐ我に返って辺りを見た。

「分かったよ。 じゃあ・・・」 目を先に向けるとベンチがあった。 陽がバッチリと当たる場所だが。 

まぁ、でも今更だ。 さんざん陽の下で遊んでいたのだから。
そこに紫揺を座らせた。

「おい、藤滝。 お前、自分の身体を考えろ。 怪我なんてしたら試合に出られなくなるだろう」

「怪我なんてしません」

「ホンットに・・・」 頭をポリポリと掻くと紫揺の横に座った。 その時、木で出来たベンチが大きく揺れた。

「わっ! 先生! 危ないじゃないですか!」

「ああ、悪い」

「自分の身体のデカさ考えて下さい」 目を眇めてみせた。

この未来の進路指導教師は、柔道部顧問である。 とは言っても、試合に出れば1回戦負けの軟弱柔道部であったが。

「このまま後ろに転げて道の端っこに出たら・・・」 そのあとの言葉は言わなかった。

「だから、悪かったって。 あのなぁ顧問なぁ。 お前のとこの」 紫揺が訝し気な目を向けた。

「告げ口するんですか。 今日のことを」

「しないよ。 そんな話じゃない。 そうじゃなくて、お前に期待してるんだ、顧問は。 俺はその話を聞かされている。 だから、俺の引率のあるところでお前に怪我をさせるわけにはいかないんだよ」

「怪我なんかしないって言ってるじゃないですか」

「ホンットに強情だな。 顧問が言ってた通りってやつだな」 紫揺がもう一度目を眇めて見せる。

「強情で食べ物の好き嫌いが多い。 全くそんな奴ほど、どんどん伸びるってさ」


夜、見回りを終えた未来の進路指導教師が布団に入るとふと思った。

「藤滝は・・・あの様子から見ると閉所恐怖症か? 尋常じゃなかったもんな・・・。 あ、待てよあの木の枝、あの時も普通じゃなかった・・・。 あの枝、先が尖っていたよな。 顔の前に急に出たのならわかるけど、少し離れたところの顔の横だったのに。 もしかして先端恐怖症か? って、なんだよ。 どれだけ怖がりなんだよ。 それなのにあんなとんでもないことばっかり・・・あ、待てよ。 そう言えば」 未来の進路指導教師が記憶をたどった。 

アスレチックで色々やってのけてはくれたが、みんなそんなに高さのないものばかりだった。 高さのある単純な長い滑り台でさえしていなかった。

「それに・・・。 ベンチに座ろうとした時・・・」

『このまま後ろに転げて道の端っこに出たら・・・』 言いたいだけ言っておいて言葉を止めた。 あのまま道の端っこに出たら、崖になっていた。

「え? 高所恐怖症もあるのか?」


結局学校での紫揺の言い分は通った。
学校から何の推薦も受けず、家事手伝いとなり卒業式を終えた紫揺は独りでスタントマンへの門を叩く事となった。


東京に旅立つ10日前の夜、まだ残業で帰ってこない父親をおいて母娘で夕飯をとっていた。

「紫揺ちゃん、来週から本当に東京に行っちゃうの? 一人で大丈夫なの?」

「お母さん、大丈夫よ。 ちゃんとマメに連絡入れるから。 それよりお母さん寂しくない? 大丈夫?」

学校ではやりたい放題、言いたい放題だが、苦労をして育ててくれた両親には気遣う心を持っている。

「お母さんにはお父さんが居てくれるから大丈夫よ。 それに紫揺ちゃんがプレゼントしてくれた旅行にも行ってくるから」

紫揺が東京に発つ前に、細々と貯めた小遣いで両親に一泊二日のツアーをプレゼントしていた。

「うん、明日から楽しんできてね。 お母さんは家のことと仕事で大変だったんだから。 この静岡温泉旅行を切っ掛けにこれからはゆっくりとして。 それに私が働きだしてお給料をもらえたら今度はハワイの旅行だからね」 おどけたように言うと、母親が相好を崩した。

「そうね、ありがとう。 明日と明後日、お父さんとゆっくり温泉に浸かってくるわね」

「うん。 富士山を仰いできて」 この上なくにこやかに答えた。

「ね、紫揺ちゃん」 さっきまでと違ったどこか機微を含む表情を向けた。

「なに?」

「お婆様とお爺様のお話はちゃんと覚えてる?」

他人が聞けば首を傾げるであろう。 どこの富豪でもなければ、共働きをしなければならないほどの生活なのに、祖父母のことをお爺様お婆様と呼ぶのだから。

「うん、とっても素晴らしいお爺様とお婆様でしょ?」

「ええ、そう」


祖父は働きに働き続けた。 祖母をこれ以上なく大切に大切にして。 そして祖父が43歳、祖母が38歳の時に初めて生まれたのが、紫揺の母、早季であった。

早季と言う名は “早くその季節が来ますように” という願いをもって名付けられた。 そしてその早季が年頃になったとき、紫揺の祖父母であり早季の両親の前に十郎を連れて来た。 両親は顔色を変えたが、何度も足を運んでくる十郎と話すたび、その人となりを知り早季をその手に預けることを決心した。

この時に十郎は思いもしない話を聞かされた。 一瞬顔色が変わったが、それがどうであれ早季をずっと守っていく。 義父が義母を大切にしてきたと同じ様にと、腹を据えた。

「お義父さんがお義母さんを守ってこられたように、私が早季さんを守り抜きます。 大切にします」 正座をし両手をつくと、畳に額を押し付けて頭を下げた。

早季を十郎の手に託した紫揺の祖父が、働きすぎがたたり67歳の時に倒れた。 そして翌翌年に亡くなってしまった。 祖父を亡くし憔悴しきった祖母がその後を追うように同年亡くなった。

早季が紫揺を身ごもったのがその翌年だった。

「お婆様はお爺様のことが大好きでいらっしゃったんだよね」

「ええ、とても愛していらっしゃった。 プロポーズをしたのはお婆様からだったんですものね。 それに何よりも誰よりも大切にしてもらっていらっしゃった。 そしてそのお婆様は私を大切にして下さって・・・お婆様とお爺様に紫揺ちゃんを見て頂きたかったわ」

「うん、私もお逢いしたかった」 以前に母親から聞いたことがあった。 お婆様からのプロポーズの言葉を。 何と真っ直ぐな人なのだろうと思った。

母親が自分の両親、紫揺の祖父母のことを話すときには必ず敬語であった。 紫揺もその影響を受けて敬語で話すようにしている。

「お婆様はお郷に帰ることだけを夢見ていらっしゃったのよ。 お爺様と一緒にお郷にね。 そしてお爺様はお婆様をお郷に返してあげたいと、時折言ってらしたわ」

「お郷? 帰ることが出来ないわけがおありだったの?」 

写真を見る限り他国の顔をしていない。 簡単に帰ることが出来るはずなのに。

「ええ・・・。 帰りたくても帰ることが出来なかったの」

「そのお話は聞いてないわ。 どうして? どうして帰ることが出来なかったの?」

自分に親戚が少ない事は分かっていた。 
父、十郎の親戚以外、母の早季の方に親戚がいないのを不思議に思っていた。 早季に兄弟がいないのだから早季側の従兄弟がいないことは分かるが、それでも早季の側の親戚の話を全く聞かない。 それが気にならなかったと言えば嘘になる。

「もしかしたらお爺様とお婆様は駆け落ちとか?」

「紫揺ちゃん!」 

「あ、・・・ごめんなさい」 初めて聞いた母親の大きな声だった。

「あ・・・お母さんこそごめんね、大きな声を出して。 でもね・・・そんなものじゃないの。 お婆様とお爺様は・・・帰りたかったの。 お郷もお婆様とお爺様が一日も早く帰ってこられることを望んでいらっしゃったの。 でもね、その道が分からなかったの」 紫揺を見つめると視線を外し、間を置いて小さく言った。

「私もそこで生まれるはずだったのにね・・・」

「え? なに?」

紫揺に問われて顔を上げた。

「うん? ・・・お母さんもね、お婆様たちのお郷に帰りたかった」

「え? お婆様のお郷に行くんじゃなくて、帰りたい?」 『その道が分からなかったの』 と言う言葉が何より気になったが、今は母親の方が気になった。

紫揺の言葉に笑みで返された。 きっと 『その道が分からなかったの』 ということがどういう事か聞いても笑みで返されるだけだろう。 聞いてはいけない事なんだと思った。

「あのね、前から不思議だったんだけど」

「なに?」

「どうしてお母さんの名前の由来が “早くその季節が来ますように” なの?」

「ええ・・・」 言うと頭をもたげた。

「お母さん?」

「紫揺ちゃん・・・紫揺ちゃんが二十歳になったら話そうと思っていたことがあるの」

「二十歳になったら?」

「ええ、そう。 でももう、紫揺ちゃんに話したほうがいいかもしれない。 お父さんとお母さんが旅行から帰ってきたら話すわね。 その時にお母さんの名前の由来と紫揺ちゃんの名前の由来も話すわ」

「・・・うん、分かった」 何か目に見えないものが母と自分の間に渦巻いているような気がした。



翌日早朝、父母を駅まで見送った。

その夕方、東京行きの荷物をある程度まとめていると戸を叩く音がした。

「あれ? 誰だろ」

玄関の硝子の引戸を開けると思いもしないものを見せられ、名を告げられた。

「静岡県警掛野署の坂谷と言います。 藤滝紫揺さんは御在宅でしょうか?」

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虚空の辰刻(とき)  第1回

2018年12月10日 01時59分20秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』






                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第1回



「降りられた」

二人の老女が同時に言った。
その老女二人がこの数十年、片時も離さず持っていた世界地図にすぐさま目を落とした。

一人の老女は屋敷と言われる一室にいた。 飾り気のない15畳ほどのフローリングにデスクを置き、その椅子に座っている。 右を見れば腰高の窓があり、左を見れば廊下から入る為のドアがある。 背面の壁には寝室に続くドアが見える。
そして正面にはソファーに座ったスーツ姿の男が居た。 その男が喜悦を目に浮かべすぐに老女の座る机の前に立った。

もう一人の老女は洞穴 (どうけつ) の中にいた。 四方に広く、上にも高い空間があり、足元は多少大きな岩が残っている所はあるが、歩くに困るほどの岩が残っているわけではない。 所々に裸電球がぶら下がり、一辺の左右には隧道 (ずいどう) が続いている。 
老女が一段上がった岩屋に薄い座布団のようなものを敷き座している。 前には几案 (きあん) が置かれ、その上で蝋燭の火が揺れていた。
そしてかなり離れた所、広い空間の左右に隧道が続く真ん中で、作務衣のような物を身にまとい頭を垂れ片膝をついていた若者が驚いて顔を上げた。


「オギャー」 と一際大きな声で泣いた女の子。
あまり裕福ではない両親にとって初めての子供だった。

「おめでとうございます。 可愛らしい姫さんですよ」 取り上げた産科医が言い、その姫様を初めて母親となった人物に見せた。

取り上げられた姫様が僅かに瞼 (まぶた) を開いた。

「・・・あ」 母親が一瞬、憂色を浮かべ声を漏らした。

我が子を見た母親は陣痛の余韻なども忘れ、産科医の手の中にある我が子をこれ以上になく見続けたが、そこにはただ愛らしく大きな声で泣く我が子が居るだけだった。

母親が産科医の言うところの姫さん、その我が子に自分の母親から聞いていたものを見た、ような気がした。 でもきっと思い違い。 今はもう何も見られない。 ただただ、元気に産声を上げているだけ。

産湯に浸かり、フワフワのおくるみに包まれた我が子が母親の胸元にやってきたときには泣き止んですやすやと眠っていた。


「日本・・・」
「やはり日本じゃ・・・」

また同時に二人の老女が言葉を発した。

一人の老女の前にいた男が問う。

「日本のどこに?」 手を机について片眉を上げる。

「もう泣き止まれてしもうた。 今はこれ以上分からん」

「そうですか。 思いのほか早かったですな」 呟くように言い、ついていた手をはなすと片手で頬をさすり、老女の右側に見える窓の外を見るともなく眺めた。

老女は口を噤んだ。

老女を一瞥すると男は踵を返して部屋を出て行った。


もう一方では

「ああ・・・これ以上は分からん。 塔弥 (とうや) 領主に日本に御誕生されたと伝えよ」

「はい」 塔弥と呼ばれた若者はすぐに身を跳ね岩屋を出ていった。


初めて母親となった早季 (さき) の病室にやってきた十郎。

「早季さん、お疲れ様でしたね。 よく頑張ってくれたね」 早季の手を取って労をねぎらう。 と共にその顔が何かを聞いている。

「十郎さん・・・」 その問いが何なのかが分かっている。

「ああ・・・今は止めておこう」 早季の表情に答えを見出してしまった。

「今は私達の娘の誕生を喜ぶだけにしよう。 なっ、早季さん、名前はすぐに決めなくていいんだから」

「・・・はい」

早季の心の中を切り替えてもらおうと十郎が言う。

「さっき僕も腕に抱いたんだよ。 赤ちゃんってあんなに小さいんだね。 今にも壊しそうだったよ」

「ちゃんと上手く抱っこできました?」

「看護師さんが上手に教えてくれてね、壊す事はなかったよ」

早季がクスリと笑ったのを見ると十郎の張っていた瞳も緩む。

「とても可愛らしい子だ。 早季さんによく似ている。 僕に似ないでよかったよ」

「まぁ、十郎さんったら」

幸せに包まれた病室であった。


一際大きな声で泣いた女の子はよく寝る子で両親の手を煩わすことなく、その後すくすくと育った。 が、少々すくすく過ぎたようで、紫揺 (しゆら) と名付けられたその女の子は小さな頃からお転婆だった。


お転婆は紫揺のやりたいことではあったが、すくすくと育ったというのは紫揺がある事を知る時までであった。

夜ごと両親が悩みあぐねいていたことを耳にし、それを理解した時まで。
おかしいとは思っていた。 いつまで経っても母親が仕事を辞めないことを。

「どうしてなんだろう。 授業料が要らないのに・・・」 引き抜きで入った高校であった。

紫揺が小学校に上がった途端、母親がパートを始めた。

「紫揺ちゃん、寂しくない? 大丈夫?」

「うん。 大丈夫」

紫揺に言う母親、早季だが、本当は働くことなくずっと紫揺についていたかった。 家に居て可能な限り一時でも紫揺から離れたくなかった。
そして紫揺は母親のその気持ちをどこかで感じ取っていた。

だが両親の悩みあぐねいていたことを知って、母親が仕事を始めた理由、今もまだ辞めない理由が分かった。 が、それを知った事を両親にも誰にも言わず、いつもと変わらず高校生活を送っていた。 でも 「怪我なんかで病院代を出してもらうわけにいかない」 と、お転婆に終止符を打った。 それは高校2年の春であった。

幼少期の紫揺は母親と一緒に散歩に出たときなどは、道路と路肩との境の段を見つけると母親の手を振り切ってその上を歩いたり、家の中では押入れの上の段によじ登るとそこから飛んで遊ぶという事を繰り返したりと、母親をヒヤヒヤとさせる場面が多かった。

幼稚園に入園すると、ブランコはもちろん毎日遊具で遊んだ。 園庭においてある一輪車が空いていると、黙々と一輪車に没頭したものだった。

小学校に上がると、学校では校庭にある鉄棒や棒上り棒、雲梯とひとしきり遊んだ。 ジャングルジムでは小学生低学年では考えもつかないだろうというようなことをして、その四角の中を器用に移動していた。

だが、高学年に上がると委員会というものが出てくる。
その委員会。 立候補をしなければ何かの委員に推薦される。 が、どれも跳んで跳ねたりすることができない。 この紫揺という女の子にとってはどれも辛気臭い。 だから、とっても緩いであろう飼育委員に立候補をした。
放課後に餌をあげておけばそれで済むだろう。 という浅い考えであった。

実際はその餌がネックとなった。 毎日3回餌をあげなくてはならない。 小鳥とリスが一緒にいる小屋と亀やフナがいる池は校舎から離れたグラウンドの隅に、ウサギやニワトリがいる小屋はグラウンドと反対の中庭に、犬や猫がいる小屋はこれまた方向の違う裏庭にと、あちらこちらに散らばっているため、休み時間ごとに走らなくてはならなかった。

休み時間が餌やりにそがれる。 それ以外に飼育小屋の掃除から、犬の散歩、飼育小屋に生きる動物達の健康状態さえ見なくてはならない。 不真面目な6年3クラス合計6人と5年の他の2クラス4人の飼育委員とトロ臭く動く同じクラスの男子の飼育委員を無視して一人で走り回った。

「絶対に6年になったら飼育委員なんかにはならないんだから」

デッキブラシで犬猫小屋の床をこすりながら心に誓った。 が、1年間寒い日も暑い日も世話をしていると情がわいてくる。
6年になってもしっかりと飼育委員に立候補をしてしまった。

だが、飼育委員担当の教師に言わすと、ここまでする飼育委員はかつて居なかった。 紫揺が一人で頑張り過ぎていたということであった。

そんなこともあり、小学校高学年では低、中学年の時ほどには跳んだり跳ねたりすることはできなかったが、下校をするときには、田舎風景を残す地域、田畑や用水路も沢山残っている。 幅のある用水路を見つけては水路の向こうに飛ぶ遊びをしたり、ブロック塀を見つけるとその上によじ登り塀の上を歩いて帰ったりしていた。

飼育委員から解放された中学生になると部活に入ったが、下校時には通学途中にある公園のブランコで遊び、ブランコの前にある危険回避の鉄柱にブランコから飛び降りその上に立ったり、ブランコを大きくこぐと前に大きくあふられた時に身体を後ろに倒して膝裏でブランコを捕らえるとそのまま1回転して降りたりもしていた。

借家であった家の鍵を忘れた時には窓や少し出っ張った所を足場によじ登り、鍵をかけていない2階の勉強机が置かれている自分の部屋の窓から家に入るなど、並べると言い尽くせないほど、お転婆では済まされないほどのことを毎日楽しんでいた。 それを遊びと言うのはあくまでも紫揺本人だけだ。

紫揺が小学校に上がってからは母親が働きに出た為、紫揺がこんなことをしているとは、母親は露とも知らなかった。


紫揺が中学校に入ったとき、幼稚園から一緒の友達に誘われて器械体操部に入った。 紫揺にしてみればバスケ部か、テニス部に入りたかったのだがそれは友達に却下された。

「シユちゃん、チビじゃん。 そんなのでバスケ部に入ってもレギュラーになれないし、テニス部って3年になるまでずっとボール拾いらしいよ」

紫揺のことを、シユちゃん、ユラちゃん、ユラユラ~と実に友達たちは自由に呼んだ。

「ね、平均台の上でしなやか~に歩くって憧れない?」

友達にそう言われてバスケ部もテニス部も諦めて器械体操部に入った。
特別身体が柔らかかったわけではなかったが、幼少期からのお転婆がここで功を成した。 反対にこの友達はあまりの自分の身体の硬さに早々に退部した。

名声も歴史も無ければ名も無い、名があるといえば顧問が 『名だけの顧問』 ということだけだった。 そんな実力のない中学校の弱小器械体操部だったが、紫揺は試合に出ると団体戦は無理にしても個人戦で予選を勝ち抜き、本戦に出ることが出来た。 だがそれは地方戦でしかなかった。 だからここまでだ。 本戦では簡単に負けてしまう。 

小さな頃から有名体操クラブに通っていた子達、有名な小中高一貫の体操クラブとは雲泥の差がある。
単にタンブリングが出来ればそれでいいものではない。 本戦に行く子達はダンスの先生もついている。 紫揺はダンスなんてものは出来無い。 男子器械体操部の姿を見て、そして本を買ってタンブリングを練習していただけのものだ。 それに、弱小器械体操部には跳馬も無ければ、段違い平行棒もない。 そんなものは触ったことも無かった。 予選では段違い平行棒という種目は無かったし、跳馬ではなく跳び箱であった。 が、本戦ではそれが必要となっていた。

紫揺はそれに悔しさを持ちはしなかった。 あくまでも楽しく跳べればそれでよかった。 宙を舞うのが気持ちよかった。 時が止まったような、鳥になったような、スローモーションで動くその瞬間が好きだった。 だが、幼い頃より厳しい練習に耐えてきた子達は違っていた。 紫揺の為に予選落ちをした者が居る。 落ちた仲間が居る。 試合会場で嫌がらせを食うことがあったが、紫揺は単に 「心の狭い人間」 と一蹴していた。

その紫揺が高校から引抜を受けた。

「紫揺ちゃん、引き抜きを受けなくていいのよ」

母親はそう言うが、紫揺にしてみれば引き抜きで高校へ行けば、通学費はかかるが授業料がタダになる。 定期には学生割引がある。 通学費を出しても、地元の公立高校に行くより安くつく。 母親が働かずに済むかもしれないと思った。 だがそれを口に出すことはない。

「お母さん、器械体操をしたいの。 だからその高校へ行く」 嘘ではなかった。 もっと高く跳びたいという気持ちがあったから。

小中学校と一緒に過ごした友達と別れ、誰も知った友達が居ない高校へ行くことを決意した。

高校に入学すると紫揺は初めて握る段違い平行棒のバーを握った。 初めて跳ぶ跳馬に向かって走った。
まさかそれがこれから迎える練習になるとは知らず。


3年の校舎に科学の移動教室があった。

椅子に座りながら開けられた教室の廊下の窓枠に肘をつき、その手に頬をつきながら何かを見ている3年男子がいた。 ちなみにこの3年男子は柔道部員であったが、その姿からは柔道をしているようには見えない。 何と言っても軟弱柔道部なのだから。

「おい、邑岬 (むらさき) なに見てんだ?」 島田が邑岬の視線の先を見た。

「え? ああ、なんでもない」 急に話しかけられ、慌てて窓から体を外す。

「何でもなくないだろ?」

島田の視線の先、先ほどの邑岬の視線の先では1年女子がまるでパンダの子供たちが押しくらまんじゅうでもしているかのように、遊び絡んで玉になって互いにまとわりつきながら歩いている。 その中に紫揺もいた。

「何でもないって言ってんだろ」

「ああ、サイ組か。 あの子はやめときな」 やっと島田が視線を外した。

サイ組というのは正しくは 『彩組』 と書く。 『いろどり組』 ではない。 『さい組』 と読む。 1年彩組。 『さい組』 というのを、揶揄するかのように言葉は一緒であっても心では動物のサイを思い浮かべて 『サイ組』 と呼ぶ者たちがいる。

「どういう意味だよ」 窓際にある自分の席の机の前に椅子を動かし、その椅子に再び座る。

「山並がコクったけど、アッサリ振られたってさ」 邑岬の机の前にある椅子を引くと背もたれに腕を置いて座る。

「え?」

「今はクラブだけをしてたいって言われたらしい」

「へぇー、山並ってあの子のこと好きだったんだ」

「へぇー、山並みが誰にコクったか言ってないのに、あの中の誰かって分かるんだな」 両肘を邑岬の机につくと指を組みその上に顎を置いてニヤけた顔を向ける。

「うっさいんだよ」 組まれたその手が邪魔だといわんばかりに、鞄から次の授業の教科書を出すと机の上に置いた。


「山並だけじゃないぜ」 手をどけると椅子の背もたれに腕を置く。

「へっ?」

「他の学校のヤツ。 本当なら違う路線なのに、わざわざあの子と同じ路線にかえて遠回りして学校に通ってたらしいんだ。 それで同じ車両に乗って何気に顔を覚えてもらってからラブレターを渡したらしい」

「ラ・・・ラブレター!? この時代にー!?」

「そいつと同じ中学だった女子がこの学校に居るらしい。 で、あの子がスマホを持ってないのを教えたからじゃないのかな」

「え? あの子スマホ持ってないの?」

「らしいよ」

「で、そいつはどんな返事をされたの?」

「山並と一緒。 クラブだけをしてたいってことだったらしいけど、体よく断られてんじゃないの? そいつと同じ中学だった女子が陰に連れて行って、あの子にそいつと付き合ってやりな、ってかなり突っかかったらしいけど、あの子、一貫してクラブをしたい、男子と付き合ってる暇なんてない、って突っぱねたらしいよ」

「陰に連れて行くって、どうよ」

「体育館の裏じゃないだけマシじゃね? って、体育館の裏っつったらあの子の顧問の息がかかってるからな、そんなとこに呼び出したら完全反撃食うわな。 それも教師から目を付けられるんだからたまったもんじゃないしな。 あの子の入ってる、器械体操部の顧問って校長の次に先生たちが恐れてるんだしさ」 当たり前のように言う。

「・・・お前」

「なんだよ」

「詳しいな。 ってか、詳しすぎるな」

「はっ!? お前がボォーっとあの子を見てるから無駄だって教えてやってんじゃないか」

「ふーん・・・」 胡乱な目を島田に向ける。

「なんだよ、その目!」


その2年後、紫揺が高校3年生になる頃にはそこそこの成績を残した。 が、高校3年生の夏、国体当日、サブ会場で積み重なってきていた肩がとうとう悲鳴を上げた。 軽い亜脱臼を持ってはいたが、毎回自分で肩を定位置に戻して何とかやり過ごしていた。 だが国体当日には完全に脱臼を起こしてしまった。 顧問がすぐに関節を入れたが、結局、戦線離脱を余儀なくされた。

紫揺の成績は世界大会には出るほどのことはなかったが、国内ではたった3年間の練習でこれほどに成績を伸ばせるか、というほどの結果を残していた。


進路指導室。

「おい藤滝、どこの大学にするんだ? 顧問と話したのか?」 進路指導進教室で進学担当の教師が言う。

「先生、・・・進学しない」 藤滝と呼ばれた女子は、フルネームを藤滝紫揺という。

「はっ!?」

「就職します」

「就職って・・・今更何言ってんだ?  いや、そんな話じゃないだろう。 お前、就職ってどういうことだよ」

「学校からの推薦は要らない。 自力で就職します」

「そんなことを言ってんじゃないだろ。 お前・・・自分が何を言ってるのか分かってるのか?」

「分かってます。 大学からの引き抜きの話があるのも知ってる。 顧問がこのまともに動かない肩になるまでは体大に行かせようとしてたのも知ってる。 この肩になっても今でもそれを思ってるのも知ってる。 でも肩が治っても、もう練習なんてものはしたくない。 それはずっと前から思ってた。 私に練習は合ってないから」 自由に跳びたいだけなのだから。

肩はまだ固定されたままである。

「お前、今までどれだけ練習してきたか自分で分かってるだろう。 それを全部棒に振るのか?」

「棒になんか振りません」

「どういうことだ?」

「スタントマンになる」

「はっ?」

「スタントマンになりたい。 スタントマンの道を歩く」

「ス? ・・・それってなんだ?」

「アクション・・・って言ったらいいのかな。 でも、影。 スタントマンは危険なところの顔を見せない代役って言ったらいいのかな」

「だから、それって・・・なんだ? ・・・え? アクション? あのアクションか? そんな仕事があるのか?」

「最初は事務所か、養成所に行かなくちゃなんないかもしれないけど、それも全部自分でする」 学校に置いてあるパソコンであらかたは調べた。

「お前・・・アクションって。 ・・・たしか高所恐怖症だったよな?」

「え? ・・・なんで知ってるんですか!?」

「そんなことはいい。 高所恐怖症なのにどうするんだ」

「でも段違い平行棒の上バーの上に立って何かをするくらいならOKだし、橋の上も大丈夫。 校舎の3階は・・・キツイかもしれないけど、屋上じゃなかったらOK」

「なにがOKだよ、アクションって言ったら校舎の3階どころかビルの屋上に立って飛び降りるくらいのことをするんだろ?」

「かもしれない」

「かもしれないじゃなくて、絶対するはずだろ。 お前には出来ないだろが。 それに閉所恐怖症、先端恐怖症だったな」

「・・・なんで? 誰にも言ってないのに」

「1年の時、お前色々とやってくれただろ。 あの時で全部バレバレだよ」

「あ・・・」

「あ、じゃないだろ。 アクションなら、閉所に入らなくちゃならないこともあるだろうし、本物じゃないにしてもナイフを向けられる事もあるだろ」

「・・・乗り越えてみせる」

「お前なぁ・・・。 お父さんとお母さんはなんて言ってんだ?」

「紫揺の人生だから紫揺の好きなようにすればいいって」

「はぁー・・・」 進学担当の教師が椅子の背もたれに仰け反り額に手を当てると、一呼吸置いて椅子の背もたれから帰ってきた。

「お前、あの時も言ったけど顧問の先生がお前のことをどう思っているのか考えたのか?」

「考えたけど・・・」

「それなら、肩を完全に治して体大進学だろうが」

「練習がイヤ」

「何を今更言ってんだ、それにそのなんだ? アクションか? そっちに行っても練習があるだろう?」

「その練習は受け入れられる」

「何の違いがあるんだよ」

「ただ、跳びたい。 CとかDとかEとか難度なんてどうでもいい。 指先や足先もどうでもいい。 跳んでひねりたい、壁を駆け上がりたい。 階段を一気に飛び降りたい。 平均台じゃなくて屋根の上を走ったり欄干の上を走りたい。 段違い平行棒じゃなくて木の枝を飛び移りたい。 そっちの方が息ができる」

「・・・先生には意味が分からん」

「分かってもらわなくてもいい」

「なんだよそれ。 あっ、と待てよ。 お前、そのアクションって今お前が言ったことばかりじゃないんだろう?」

「どういうことですか?」

「そうだな・・・格闘とか、車やバイクにも乗ったりするんだろ?」

「分からないけど・・・車やバイクはカースタントがするはずです。 格闘は覚えてやりたいと思ってるほど。 ・・・うん、いいな。 テコンドーとか、空手や少林寺を覚えて10人に囲まれてそれをみんななぎ倒したいな。 お腹にケリを入れたい。 うん、先生それいい。 アクションの方もやってみたい」 

「え? ・・・先生、今すごくヤバイことを言ったのか?」

「そんなことない。 やりたいことが増えた。 うん、とってもやりたいな」

「あ・・・だから」

「それに先生、私がこの3年間ずっと体育が5って知ってますよね。 加えて言えば小学1年から今まで体育で5を落としたことがない。 体操選手はボールが扱えないとか、泳げないとか、走れないって言われてるけど、今までやってきたことは全部できる。 新しいこともやっていく自信はある」

「ああ・・・まぁ、女子サッカー部の顧問がお前をほしがってたのは知ってる。 ボールさばきもいいし、足の速さはサッカー部員よりも早いらしいな。 ああ、それとバドミントンの顧問も言ってたっけかな・・・」

「仙田先生? ・・・あ、そう言えば1年のとき昼休みに仙田先生に誘われてバドミントンをして遊んだっけ」

「体育館仲間だからな。 お前を見てそのとき試したみたいだ。 ああ、それにソフト部の顧問もお前が体育の授業で遠投するのを見て何か言ってたっけ・・・」

「だから、自分で全部するから。 オーディションを受けるかもしれないから就職・・・あ、じゃなくて家事手伝いに変える」

「はっ!?」

「先生、そっちの方、何も知らないでしょ?」

「ま、まぁ、今までそんな学校?・・・養成所に行ったなんて前歴は無いからな」

「だから自分でする」

「お前・・・俺からも顧問に言っておくが、お前ももう少し顧問と話せ」

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