大福 りす の 隠れ家

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国津道  第12回

2021年02月26日 22時36分42秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第10回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第12回



背中に嫌なものが走る。

(どこから・・・)

ゆっくりと顔を上げると、嫌ではあるがその視線がどこから来るものかを感じ探そうとする。
祐樹と浅香が社の裏から出て来る。

「いつでも貸すよ」

マンガの単行本の事だった。

「え? いいのか?」

「いつでもオッケー」

祐樹と話しながら詩甫を見ると様子がおかしい。

「嘘だろ・・・」

「え? なに?」

浅香がすぐに詩甫の元に走った。
詩甫の顔がピクリと僅かに上にあがる。

「あ・・・」

あのねっとりとした視線がなくなった。
駆け寄って来た浅香に目を合わす。

「すみません、うっかり一人にさせてしまいました。 その、まさか?」

詩甫が頷く。

「こんな少しの間にかよ・・・」

憎々しげに辺りを見回すがそれらしい影はない。
浅香の後を追ってきた祐樹が声を上げる。

「姉ちゃん! 血!」

その指先から血が流れているのが目に入った。

「わわ! 野崎さん、ティッシュ、ティッシュ!」

自分で全く気付いていなかった詩甫がポケットの中に入れていたティッシュを出すと、すぐに指を覆う。

「きつめに貼ったのに・・・」

やはり目に見えない者が動いているというのだろうか。

「浅香・・・」

祐樹は曹司が言った言葉を聞いている。

“物の怪”

「大丈夫だよ。 お兄さんに任せなさい」

「・・・誰がお兄さんだよ」

「目の前にいる僕だよ。 祐樹君はお姉さんに付いていて。 また良からぬものがあったみた・・・ん? 祐樹君は小川で何ともなかった?」

一人で小川に行き雑巾を洗ってきていたのだ。

「え? うん。 バシャバシャやってたら、寝ていたサワガニがあちこちから出て来たくらい」

「そっか」

一応、誰かいるのかと社の周りに足を向けたが、どう考えてもおかしい。 きつめに絆創膏を巻き付けたのだから。
それによく考えると、詩甫の言う視線を感じた時、その時に指を切り出血もしているようだ。 そしてその視線は、詩甫にしか向けられていないのか、それとも他の二人が鈍感なのか。

「いや、それほど鈍感じゃないつもりなんだけどな」

どちらかと言えば、出血しているのに気付かなかった詩甫の方が鈍感ではないだろうか。

「そういう問題じゃないのかな・・・」



社に向かって歩いていた朱葉姫。 社の前まで来て急に止まったかと思うと微動だにせず、伏目がちにしていた瞼がゆっくりと上げられた。

「姫様? どうなさいました?」

朱葉姫の目が開いたのを見て一夜が声をかける。
朱葉姫がゆっくりと社を見る。 社の正面に見える格子のその向こうを。

「良からぬ者が居るようです」

朱葉姫の後ろについていた曹司がすっと動いた。



丁度、浅香が詩甫たちの元に戻った時だった。
浅香が「どわっ!」っと叫ぶと、今度は冷静に言葉を口にした。 内なる曹司の顔で。

「朱葉姫様が、良からぬ者を感じられた。 亨が言ったように何かが居るようだ。 気を付けるよう」

ポカンとして祐樹が浅香を見ている。 詩甫も目をパチクリとさせている。

「ったー! ちょっとは落ち着いて行動しろよ!」

あらぬ方向を見て浅香が叫んだ。

「あ、あの? もしかして、またふっ飛ばされたんですか?」

「はい、こんな所で意識失っちゃ、打ちどころが悪かったらどうなってるか。 くっそ、曹司のヤロー」

「あ・・・やっぱり今のは曹司なのか?」

祐樹にも分かってきた。 目つきや声のトーンが違う。 それに話し方も。

「そっ、乱暴に入れ替わられたよ」

頷きながら言う。

「浅香・・・お前、大変だな」

小学生に憐憫な目を送られた。

・・・情けない。

「今、曹司がその辺りを見回っているようですけど、とにかく戻りましょう」

詩甫の指先を見るが、まだ血は止まっていないようだ。

「その状態でバッグは邪魔になるでしょう、持ちます」

「これくらい大丈夫です」

怪我をしている手を肘から上げて、その手に添わせるようにもう一方の手で流れる血を止めているティッシュを持っている。 重心が狂ったりすれば簡単にこけてしまう。 それでなくてもアスファルトの上を歩くのではない、足元に小石もあれば、坂を下り階段を降りなければならない。

「こけてからでは遅いですから」

浅香がすっと手を出しバッグの底を持つ。

「・・・はい」

詩甫の肘にかかっていたバッグをそっと引き抜く。

「あ、んじゃ、オレお供え物下げてくる」

ちゃんと社の前と供養石の前で手を合わせてから供え物を下げ、半紙もしっかり手に持って戻って来た。
祐樹が紙袋に供え物を入れている様子を見ながら、詩甫が浅香に向かって口を開いた。

「何をお供えしていいか分からなくて。 調べてみたら、お米とかお酒とかお野菜って書かれていましたけど、皆さんを見たら普通にお茶菓子がいいかなって」

「え? 皆さんって? 姉ちゃん、どういうこと?」

「ああ、そうだったか、僕の説明だけじゃ、野崎さんが朱葉姫と会ったことの説明が無かったね」

「えぇぇ?!」

驚く顔を詩甫に向けたが、詩甫はくすくすと笑っている。

「とてもきれいなお姫様だったよ」

「なん歳くらい?」

「うーん・・・二十歳にはなってないみたい。 十八歳前後くらいかな。 それにきれいな着物も着てたよ」

「ああ、曹司が言っていました。 朱葉姫の父親が姫が嫁ぐ時にと、いくつか作った着物の内の一着らしいですよ。 姫が一番気に入っていたらしいです。 それを着て・・・埋葬されたらしいです」

埋葬、その言葉を祐樹は知らないわけではない。 それに嫁ぐという言葉も。

(そうなんだ。 朱葉姫はお嫁さんになる前に死んじゃったんだ)

「・・・そうだったんですか」

朱葉姫は快活には見えなかった。 向けられた笑みは明るいわけではなく、まだ二十歳にはならないというのにしっとりとし、安堵をもたらすようであった。 それなのに赤がよく似合っていた。
少し寂しげな顔で詩甫が言うと、瞼を下げ再び祐樹を見た時には元の表情に戻っている。

「その時にね、曹司にも他の人にも会ったの。 会ったって言うか、一緒に朱葉姫と居てたってだけだけどね」

「どこで会ったの? あのお社の中?」

「うーん・・・、お社の前には立ったんだけど、いつの間にか朱葉姫の所に居たって感じで、お姉ちゃんにもよく分からない」

「ワープ? どこかにワープしたの?」

詩甫と浅香が目を合わせた。 どちらからともなくプッと笑ってしまった。
さすがは小学生。 発想がアニメっぽい。

「なんだよ、浅香。 ここ、笑うポイントか」

「いや、そうじゃなくて。 って、お姉さんも笑ってるのに、どうして僕に訊くんだよ」

「姉ちゃんはいいんだよ」

「うわ、エコひいき」

「低学年みたいなこと言ってんじゃないよ」

憐憫どころかレベルがどんどん下げられていくようだ。

「ま、野崎さんが思う物でいいんじゃないですか? ここはお社ですけど、とくに神様も神職もいるお社じゃないんですから、型にとらわれなくても」

「おっ、話し逸らせた」

「逸らせてないよ、ほら、お姉さんに荷物持たせるんじゃないぞ。 重い物はこのお兄さんが持ってやる」

祐樹に手を差し出す。 お供え物は和菓子だ。 それが二箱ともなるとこの荷物の中で一番重いだろう。

「だーから、だーれが、お兄さんだよ」

遠慮なく祐樹が和菓子の入った紙袋を差し出す。

「だーから目の前にいるだろって」

結局、祐樹が枯れた花束を持ち、浅香が詩甫のバッグと和菓子を持つことになった。 荷物はそれだけだった。
山を下りると浅香がスマホでタクシーを呼んだ。 話し終えるとスマホをポケットに入れ辺りを見回す。

「やっぱり山の中は涼しいですね」

道路に出ても以前ほどの暑さは感じないが、それでも山の中は涼しかった。

「そうですね、このアスファルトだけでも暑さを感じますよね」

「言ってみれば焼けてますからね。 アスファルトだらけの町中が暑いのも仕方がありませんね」

夏のアスファルトの上では陽炎が揺らめいている。

「浅香のくせに、なに大人みたいなこと言ってんだよ」

「こら、祐樹」

いつの間にか詩甫の指先からの出血は治まっていた。

浅香の家、と言うか部屋は詩甫が下りる駅の一つ手前だった。 先に浅香が電車を降り、そのまま別れることとなった。

次回は再来週の土曜日ということになり、きっと祐樹もついて来るだろう。
そういえば夏休にどこにも連れて行ってあげられなかった。 来週あたりどこかに連れて行ってあげよう。

「祐樹、どこか行きたいところがある?」

電車に揺られながら詩甫が訊いた。


そして二週間後、袋を下げた浅香と同じ電車に乗り社までやって来た。
電車の中では先週、祐樹が詩甫と一緒に行って来たという恐竜博覧会の話に花が咲いていた。
祐樹の話を聞いて浅香が目を輝かせて、あれやこれやと質問さえしていた。

(男の子同士が祐樹にはいいのかな。 あ、浅香さんは元男の子か)

と思ったが、現在も男の子のような目をして祐樹と話している。
乗り換えながらも祐樹と浅香が恐竜の話で盛り上がっていた電車を降りると、今度はタクシーに乗ったが、タクシーを降りる時には、どちらが払うかでひと悶着あったりした。

「いつも浅香さんにばかり払ってもらうわけにはいきません」

「いいえ、男として払わなくて男と言えますか」

後部座席から二本の腕に札を出された運転手。

「前は変わった格好で・・・こんな山の中にお二人さんは揃ってスーツで来たと思ったら、今度は払いの奪い合いかい。 仲がいいねぇ」

「え?」

詩甫と浅香が同時に言うと詩甫がルームミラーを見て、浅香が運転手の横顔を見た。 ルームミラーには運転手の顔が映って詩甫を見ている。

「姉ちゃんと仲がいいのは浅香じゃなくてオレ」

「おっ、こりゃ失礼」

運転手が二人の間に座る祐樹に振り返る。 お嬢さんのことを姉ちゃんと言った。 きっと歳の離れた弟が彼氏に焼きもちでも焼いているのだろうといった顔を向けている。

「あの時の運転手さんでしたか」

「ああ、あのクソ暑い時に、兄さんもお嬢さんも黒のスーツ着てしっかり目に焼き付いて・・・って、あれ? 兄さんあの時ダブルだったよね? 礼服だった?」

よく覚えているものだ。 そんなに目立っていたのか。

「あ、あはは。 ネクタイは外してたんですけどね」

やはり真っ黒のダブルは目立ったか。

「それに革靴で行き先が何もない山の途中じゃね。 じゃ、兄さん悪いけどお嬢さんから頂くよ」

そう言って詩甫が差し出していた札を手に取った。 そして詩甫に釣銭を渡しながら続ける。

「前は兄さんから貰ったからね。 これからも一緒に乗るんだったら、順番に払えば?」

結局、運転手からの提案でタクシー代はお互い片道を払うことにした。 行きが詩甫、帰りが浅香。 帰りは予約車となるのだから、行きより高くつく。 せめてそこだけでも男を張らせてくれと浅香が頼み込んだのである。

「イイカッコ見せようと思って」

ポソっと祐樹が言ったが、しっかりと浅香の耳に入っている。

「これが男ってもんよ」

言い返すことなく、何故か口を尖らせただけで終わった祐樹。
あれ? っと浅香が眉を上げたが、今の祐樹にはそんなことは出来ないと考えているなんて思いもしなかった。

今の祐樹に出来るのはおやつも買わず、月に二回か三回、お小遣いで詩甫の部屋に行く電車代がせいぜいであったのだから。

(オレに出来ないことが浅香には出来る。 ・・・浅香のクセに)

浅香のせいではないのは分かっている。
浅香のことを曹司と思ってずっと探し回っていた、それなのに浅香は姿を見せなかった。 もしあの時浅香が姿を見せていれば、祐樹の大きな勘違いで浅香を責めていただろう。 そして周りにそれを止められただろう。 この男は浅香だと言われただろう、子供の思い過ごしだと笑われたかもしれない。
偶然であったとしても、浅香は姿を現さなかった。 そのお蔭で笑われたかもしれない事を回避できた。
それに祐樹が遭遇しなかったカブトムシを捕まえるし、サワガニも祐樹より数段上手に捕まえていた。

―――兄が居たらこんなだったのかもしれない。

詩甫が指先から血を流していた時、祐樹はなにも出来なかったのに、浅香はチャッチャと絆創膏を巻いた。 祐樹が大切に思う詩甫を浅香も大切にしてくれた。

だから・・・浅香のクセに、と思わずにはいられなかった。

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2021年02月22日 22時45分26秒 | 国津道 リンクページ
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第 1回第 2回第 3回第 4回第 5回第 6回第 7回第 8回第 9回第10回
第 11回第 12回第 13回第 14回第 15回第 16回第17回第18回第19回第20回
第 21回第 22回第 23回第 24回第 25回第 26回第27回第28回第29回第30回
第 31回第 32回第 33回第 34回第 35回第 36回第 37回第38回第39回第40回
第 41回第 42回第 43回第 44回第 45回第 46回第 47回第48回第49回第50回
第 51回第 52回第 53回第 54回第 55回第 56回第 57回第58回第59回第60回
第 61回第 62回第 63回第 64回第 65回第 66最終回

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国津道  第11回

2021年02月22日 22時45分17秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第10回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第11回



浅香がバッグを持ってくると、詩甫が片手をバッグに入れポケットティッシュを出し、剥がした絆創膏の代わりにすぐに指に充てる。

「草で切っただけなのにえらく深く切っちゃったんですね。 あ、手は上げておいてください」

「あ、はい。 あの・・・」

「はい?」

「誰かに見られている気がして」

あのねっとりとした不気味な感覚の上にこの出血。 浅香に言わずにはいられなかった。

「え?」

「その、気のせいかもしれませんけど・・・とても嫌な視線のような気がして・・・」

浅香が辺りを見回すが誰も居ない。

「いつからですか?」

「祐樹と浅香さんが初めて会った日が最初で、今日で二度目です。 今日は二度ありました」

あの日から・・・。

「今もですか?」

「いいえ、今は。 今日、最初は私がお社の前に居た時で、祐樹が供養石の周りを掃いていた時でした。 その時は殆ど一瞬に近かったんですけど、さっき浅香さんと祐樹が居なくなった時はその間ずっと」

「何処からかは分かりますか?」

視線を感じるということは、その先の目が何処にあるか分かるものだ。 視線を感じ、そちらに顔を向けると目が合うように。
だが詩甫が眉尻を下げて首を振る。

木々の方を見渡すが人の影など見えない。 隠れてしまっていては分からないだろうが、木々の中と社では距離がある。 視線を感じるには不可能な距離ではないであろうが。

「ちょっと待っててください」

そう言い残すと社の周りを駆けだした。 今まで何度もここに来ている、誰も居るはずのないことは分かっている。 だからあくまでも一応として。

浅香はここに来て誰かの視線とか嫌なものとか、そんなものを感じたことは無かった。 だがここは長い年月を朱葉姫の社として構えていた地である。 供養石もある。 アニメの見過ぎかもしれないが、何か現実的でないものがあってもおかしくはない。

それともやはり山の中だから、単純に嫌なものの念でもあるのだろうか。 ここで殺人とか自殺とかがあったのだろうか、それとも動物・・・。

社を一周し終えると詩甫の元に戻って来た。

「誰も居ませんね」

あまり詩甫を不安にさせる話はしたくない。
そこに祐樹が木々の間から姿を現した。

「一度曹司に相談してみます」

ここで何かあったのならば曹司が気付いているはず。 小声で詩甫に言うと戻って来た祐樹に笑顔を向ける。

「さて、じゃ、草抜きを付き合ってくれるかな?」

「おぅ、約束だからな」

時間いいですか? と詩甫に訊ねるが、明らかに了解を得ようとしているのが分かる。

「はい」

実は前回、祐樹はサワガニを一匹しか捕まえられなかった。 数匹のサワガニを持っている浅香の手。 羨ましかった。 自分も掌いっぱいにサワガニを乗せたかった。
その視線に気付いた浅香に提案された。 だからその提案に約束をした。 浅香の掌に居るサワガニを全部祐樹の掌に乗せる代わりに、今度会った時には草抜きを手伝うと。
詩甫にサワガニを見せてあげたかった。 見せると詩甫が喜んでくれた。 すごいね、とも言ってくれた。

「指切らないようにね」

今の詩甫には冗談に聞こえないジョークに祐樹が笑って応える。

「姉ちゃんじゃないから」

「祐樹・・・」

そのジョーク、今は最悪だから。

「あ、ほら、野崎さん、手が下がってきてますよ」

ティッシュが真っ赤になってしまっていた。 慌てて詩甫が手を上げる。
一瞬厳しい顔をした浅香が手元に顔を戻す。

しゃがんでブチブチと雑草を引く手が四本。

「ね、祐樹君、どこで曹司の名前を聞いたの?」

その浅香に何をとぼけたことを訊いているのかという目を送る。

「え? あれ? 変なこと訊いた?」

祐樹が見せつけるように大きく溜息を吐く。
子供に溜息を吐かれてしまった。 我ながら情けない。

「姉ちゃんが倒れた時に決まってんだろ」

それは救急車を呼んだ時。

「え? あの時?」

「お前、言ってたろ・・・その、姉ちゃんじゃない姉ちゃんと・・・“わたくし” と話してたろ。 “わたくし” に “ぞうし” って呼ばれて、朱葉姫の所に連れて行くって言ってたろ。 ここのお社のことだよな。 最初にお前が姉ちゃんを連れてきたのか」

浅香が手を止めて「あたー、あの時かぁ」 と言って屈んでいる膝に両肘を乗せると顔を俯ける。 完全に曹司の失敗である。

「曹司のヤツ、周りの事とかなんも考えねーんだから」

浅香の独り言に祐樹が眉をひそめる。

「なんだよ」

「あ、いや」

二人の会話は詩甫の耳にも入っている。

「仕方ない、か。 曹司が悪いんだからな」

憮然とした面持ちで詩甫に振り返る。

「おい、何言ってんだよ。 お前が “ぞうし” なんだろうが」

祐樹から目を外した浅香に言うが、浅香は祐樹を見ることなく詩甫に問いかけた。

「祐樹君を巻き込んじゃっても宜しいでしょうか?」

「おいっ!」

祐樹に突っ込まれ浅香が祐樹に目を合わせる。

「お姉さんの許可が出たら話すよ」

「姉ちゃんの?」

祐樹が詩甫を見る。

「姉ちゃんどういう事? 姉ちゃんは・・・その、オレに何か隠してるの?」

自分に対してとえらく話し方の扱いが違うな、と思いながら雑草を引き抜く。

「あの・・・浅香さんどうすれば・・・」

「曹司の失態ですよ。 あの時のことは野崎さんは知らないでしょうが曹司のヤロー、祐樹君と他の隊員の前で平気に一夜と話してたんですから。 んっとに、自分勝手な」

その時のことは浅香から聞いてはいたが、みんな一夜に気圧されフリーズしていたと言っていたはずだ。

「祐樹君は野崎さんを心配するあまり、すぐにフリーズが溶けたんでしょうね。 曹司と一夜の会話を聞いていたということです」

「おい! なんだよそれ、ちゃんと説明しろよ!」

浅香が手を止め祐樹を見て一つ頷くと詩甫を見返る。

「巻き込んじゃいますけど、宜しいですか? これじゃあ僕も信用されませんから」

祐樹も詩甫に顔を向ける。 何を言っているかは分からないが説明を受けたい。

「姉ちゃん、いいだろ?」

仕方なく詩甫が頷く。

「あ、血が固まっちゃったらティッシュがへばりついてしまいますから、細目にティッシュを変えて下さいね」

ここに水道など無いのだから、簡単に洗い流すことなど出来ない。

「おい、話し逸らそうとしてるか?」

「そんなことナイナイ。 そうだな、祐樹君には信じられない話だけど、疑わないで聞いてくれる?」

「姉ちゃんの事なんだから、何でも真剣に聞くに決まってんだろ」

「・・・それは、有難い。 手を動かしながらね」

そう言って何もかもを話し出した。
最初は驚いた顔を見せていたが、その内に耳から入る情報が現実的でないからなのか、上手く組み立てられなくなったのか、眉をしかめたり、首を傾げたりもしていた。

「ってことでね、まぁ、僕は曹司であって曹司でないというわけ。 というわけで、正真正銘、僕は浅香亨。 偽者でも何でもないよ」

祐樹に分かるようにゆっくりと話した。 そのお蔭でと言っていいのか、雑草は大分抜くことが出来た。 やはり一人より二人は早い。

「・・・その言い方をしたら、姉ちゃんはその瀞謝であって瀞謝でないってことか?」

「ま、そうなるね」

瀞謝と詩甫のことを言われ思いもしなかった発想だったが、自分の身を振り返るとそういうことだろう。
手をはたくと立ち上がり詩甫の前に立つ。 手を取って傷口を見ると血は止まっている。 財布から最後の絆創膏を出すと詩甫の指に巻いた。

「また開いちゃったら大変ですからきつめに巻いています。 部屋に戻ったら、洗って貼り直して下さいね」

そう言うと、抜いた草の塊を持って枯葉がまとめられている所に放りに行った。

「姉ちゃん・・・いまアイツが・・・浅香が言ったこと、本当なの?」

詩甫が少し笑うと頷く。

浅香が二人の様子を目にする。 詩甫と祐樹で話すことがあるだろう。 二人の視界に入らないように大回りをすると社の前に立った。
供え物の下に半紙が敷かれているのを目にする。

「さすが女子」

一言漏らすと手を合わせる。 そして心の中で曹司を呼ぶ。
うまく社の中に居たようで浅香に気付いた曹司が浅香に気を合わせる。 浅香も曹司と意識を合わせた。

<瀞謝がここで誰かに見られてる気がするって言うんだけど? ここで誰か死んだ?>

<・・・言葉を選べ>

<それを言うなら、こっちは場所を選べって言いたいんだけど?>

すぐに浅香から祐樹が聞いていたという情報が思考で流れてきた。 それは曹司が堂々と救急隊員や祐樹の前で一夜と話していたことである。

<・・・朱葉姫様のお社があるのだから、その様なことは無い。 とは言い切れんがな>

<おーい、場所選びのことは無視かよ。 って、どういうこと?>

<姫様にも抑えられない戦が無かったわけではない。 だがそれも遠い昔の話。 姫様がこの場を清められた>

曹司の言いように浅香が深い溜息を洩らす。
戦って・・・。

<そ。 んじゃ、ここ・・・十年か五十年くらいの間には?>

<戦などない>

分かってる。

<いや・・・だから戦じゃなくて・・・>

今度は小さく溜息が出る。

<ほら、殺人とか自殺とか>

<お前こそ場を選べ。 姫様の社の前で何ということを言うのか>

<いや、だからさ、最初に言っただろ。 瀞謝が誰かに見られてた気がするって。 誰かが隠れてるかもしれないから、お社の周りも見てみたけど誰も居なかったんだよな。  木の中も考えられるけど、誰が好き好んでこの寂しい山の木の中に立ってるかって話。 ってことはこの世の者じゃないって可能性が大きいんだけど? 心当たりない?>

今の自分が体験していることを考えると、容易にそのような事が想像できる。

<今もか>

<いや、今はないらしい。 ここで瀞謝が一人になった時と、その・・・瀞謝である詩甫の弟が離れていた時らしい>

<・・・お前は待っておれ>

合わせていた手が下ろされ、僅かに下げていた顔が上がる。 次に詩甫と祐樹が話している方に足を向ける。

祐樹が詩甫と話していた視線を詩甫の後ろ、こちらに歩いて来る浅香に向ける。

「ん? あれ? なんで機嫌悪そうなんだ?」

「え?」

詩甫が振り返り浅香を見た。

「あ・・・曹司・・・」

詩甫はもう、曹司と浅香の区別がつく。 初めてここに一緒に来た時に曹司が余りにちょくちょく出てきたから、浅香と曹司の違いは一目で分かるようになっていた。

「え?」

祐樹が詩甫に向けた目をもう一度浅香に向ける。
浅香の姿をした曹司が詩甫の前に立った。

今まで見ていた限りの浅香なら詩甫に何かを言う前に祐樹に声をかけるはずだ。 祐樹が怪訝な目を浅香の姿に送る。
その浅香の姿が祐樹を見ずに詩甫を見る。

「痴れ者の目が見ていたのか」

“痴れ者” と聞いて言葉の意味は分からないが、その言いようが祐樹の耳にも目にも不遜な態度に見える。 だが詩甫が倒れた時、曹司はこんな態度ではなかったはず。 本当に詩甫の言う通りこれが曹司なのだろうか。

「おい、もっと言い方があるだろ」

浅香と呼んでいいのか曹司と言えばいいのか迷ったから名を呼ばなかった。
曹司がチラリと祐樹を見る。 見下すように。

「おい! なんだよそれ!」

「祐樹、いいの。 少し話しをさせて」

詩甫に言われてしまえば仕方がない。 口を歪めても閉じるしかない。
今目の前にいるのは曹司か嘘つき浅香か。 祐樹の目が皿を舐めるように浅香の姿を見る。

「はい、気のせいかとも思うんですけど、でも・・・その視線がねっとりとしていて背中に嫌なものが走るような感じで」

曹司が片手で顎を触る。 何か考えている様子だ。

「この地は姫様が清められてはおられたが、もう何百年も前から姫様のお力も弱くなってきておられる」

詩甫が頷く。 その話は浅香から聞いている。 だから曹司が申し出て浅香という存在が生まれたと。

「亨が物の怪(もののけ)ではないかと言っておったが、それが有り得んことではない。 瀞謝は姫様の願いを一つ叶えてくれた。 次の願いを叶える時まであまりここに来るのは控えた方が良いだろう」

「あ・・・でも。 最後の願いをお叶えするまでに、少しでもお社を綺麗にしたくて」

「姫様が聞かれるとお喜びになるだろう。 それは有難いことだが・・・」

先程の浅香の話では誰かが居るという視線の持ち主の姿は無いようであった。

数拍ほどの間が空いたと思ったら、スッと浅香の姿の目の奥が変わった。 その浅香が大きく息を吐く。

「びっくりさせちゃったたね」

祐樹に目線を合わせて腰をかがめる。

「あ・・・えと、浅香?」

「そう。 こんな風にして入れ替わる。 あの時も同じ」

曹司と一夜が話していた後に、浅香がパッと態度を変えたのはこういうことだったのか。

浅香が詩甫に目線を移す。

「えーっと、曹司からの命令です。 野崎さんがこちらに来られる時には必ず同行するようにとのことです」

「え?」

「とは言っても僕も仕事があります、二連ちゃんは付き合えませんので、出来れば多くて週一にしていただきたく」

詩甫は土日が休みだ。 その土曜日か日曜日のどちらかを浅香の非番に合わせてもらう。
浅香にも生活があるのだから。

「でもご迷惑じゃ・・・」

「ははは、曹司に出てこられるより全然いいですよ。 ほら、アイツ場所も何も選ばないですから」

下手をすると同行せずにいたら身体を乗っ取られて仕事中にでもここに来そうだとまで言うが、あながち言えなくも無いだろう。
詩甫が好き勝手をしてしまっては、余計と浅香に迷惑をかけてしまうかもしれない。

「申し訳ありません」

「あ、これはこっちの事情ですから気にしないで下さい。 事前に連絡ください。 そこで土曜か日曜かは申し訳ありませんが僕に決めさせてください。 あ、毎週来ます?」

「あ、いいえ、さすがにそれは」

毎週となると、電車代やタクシー代など馬鹿に出来ない。

「浅香さんの御都合もあるでしょうから、駄目な時は言って下さい」

「はい、そうさせて頂きます。 って、予定ガラ空きですからご心配なく」

「なんだよ、浅香、デートの予定はないのかよ」

「祐樹、何てこと言うの」

ご心配なく、と詩甫に言ってから祐樹に視線を合わせる。

「そうなんだよなー、世の女性に見る目がないんだよなー。 で? 祐樹君は?」

「え?」

「彼女いないの?」

「あ・・・その、浅香と同じだよ。 じょ、女子に見る目がないんだよ」

「おお、そうか、同志同志」

祐樹の肩をポンポンと叩いて竹箒を持つ。 次に雑巾の入ったバケツを持とうとすると、すかさず祐樹がそれを持つ。

「片付けはちゃんとする」

そうだよな、と言った浅香が歩き出すとその後に祐樹がつき浅香を抜いた。 二人が社の裏の方に向かって歩いて行った。

―――ねっとり

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国津道  第10回

2021年02月19日 22時26分37秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第10回



この子は・・・この義弟はどこまで自分で頑張ろうとするのだろうか。 あの母親に壊れることなく引き籠ることなく。 自分のように母親に振り回されることなく・・・。

「そっか。 じゃ、明日買って帰るね。 でも明日のお昼ご飯はお姉ちゃんのお弁当ね」

「うん」

とは言っても毎日ラーメンを食べさせるわけにはいかない。

「お母さんにはオレがちゃんと連絡しておく」

「うん」

きっと一つや二つ嫌味を言われるだろう、泣き落としかもしれない。 それでもちゃんと自分で連絡をするという。
詩甫が祐樹の頭を撫でた。

その後、昼食には週に四回は詩甫自身に弁当を作り、祐樹にも弁当を作った。 祐樹のラーメン作りは週に一度ということになった。

残った僅かの日々に社に向かい掃除をしていた。 その内に祐樹の夏休みが終わり、後ろ髪を引かれるように祐樹が家に帰って行った。

祐樹が家を嫌がっているのはあるのだろうが、それだけでは無いのではなかろうか。
最初は気付かなかったが、浅香と会ったあの日から浅香のことも曹司のことも祐樹は話さなかった。 朱葉姫のことも訊かなかった。 きっと社に行けば浅香と会えると思っていたのかもしれない。 浅香に曹司のことを訊きたかったのかもしれない。
祐樹は祐樹なりに何かを考えていたのだろう。

祐樹が実家に帰って九月の第二週の金曜日。 詩甫が仕事から帰ってくると部屋を見上げた。 ほぼ二週間点いていなかった部屋に灯りがついている。
祐樹が部屋に居る。 そう思うと軽い足取りで階段を上がることが出来る。

「お帰り」

祐樹が玄関で迎えてくれる。

「ただいま」

これを小さな幸せというのだろうか。

「ごめんね、遅くなっちゃった。 すぐに何か作るね」

靴を脱いで祐樹の前に立つと祐樹から問い返された。

「ラーメンでいい?」

「え?」

「ほら、袋ラーメンまだ残ってるから。 姉ちゃんが着替えてる間にオレが作っとく」

詩甫が何とも言えない表情を作る。

「あ・・・ラーメンじゃ駄目?」

小さな幸せなどではない。
とっても大きい。

詩甫が首を振る。

「じゃ、祐樹に甘える。 着替えてくるね」

「うん」

出来上がったラーメンには冷蔵庫に入っていた卵が入っていた。 まだ白身が透き通っている所がある。

「卵入れてくれたんだ」

「うん」

二学期が始まり同級生仲間に訊いた結果である。

『卵は外せないな』

だから外せない卵を入れた。

『オレん家、キャベツが入ることがある』

キャベツ・・・野菜室を開けるとそれらしい物はあるが、それがキャベツだという確信がない。
あとで詩甫に訊くとそれはレタスであったらしい。 入れなくて正解だった。

『あと、ハムと焼き豚だろう・・・ああ、モヤシもいけるな』

ハムと焼き豚。 それは同類だろう。 どっちを入れればいいんだ、という前にハムも焼き豚もモヤシも冷蔵庫にはなかった。

『それにラーメンを食べた後に、汁の中にご飯をぶち込む』

いや、姉ちゃんにそれは無理だろう、それにオレも。 きっとそんなことをしたら姉ちゃんもオレもお腹の皮がはちきれるだろう。

『うん、それ美味しい』

そうなのか? でもそれはラーメンを食べてからあとのことだ。

『そうだよな、なのにうちの姉ちゃんは、太るだけだって言うんだな』

などなど。 結構みんな袋ラーメンを食べているのだと改めて知ったのであった。

「明日、ご供養石に行かない?」

二人でラーメンを食べていると祐樹が言い出した。

「うん、行こうか」

浅香は来るだろうか、詩甫から連絡をして来てもらってもいいのだが、それではこちらの勝手が過ぎるだろう。 祐樹に曹司の話をしてほしいということなのだから。

「祐樹、美味しいよ」

たとえまだ透き通った白身であったとしても。
照れたように祐樹が顔をクシャリとした。


そして翌日、いつものように供え物と花束を持ってタクシーを降りる。
家にいる時と同じ太陽が照り付けているのに、さほどの暑さを感じない。 アスファルトが一面の街中と山の中ではこれほど違うのかと思えるほどである。 そう思って耳を傾けると、葉擦れの音が涼しく感じる気がする。

祐樹はもう慣れたもので、走って階段を上がって行っている。 きっといつものように先に行って、バケツに小川の水を入れてくれるのだろう。

階段に足を進めながら詩甫が唇を噛む。
いつまでこうしていられるだろう。 浅香からは催促の連絡などない。

「私が決めなくちゃいけない・・・」

決心をしなくちゃいけない。
トボトボと階段を上がっていく。

坂を上り歩いて行くと既に祐樹が竹箒で掃除をしていた。 社の前にはちゃんとバケツに水が張られ、バケツの縁には一度小川で洗ってきた雑巾が掛けてある。 前回来た時に置いておいた、枯れてしまった花束も回収されて下げてある。
本当によく気がつく子だ、と感心してしまう。

荷物を置き、社の前で手を合わせるとすぐに雑巾がけを始めた。 格子がいつ折れてもおかしくない状態。 気を付けながら拭くには結構気が張る。 掃き掃除をしながらも、バケツの水を何度か祐樹がかえてくれていた。

かなり拭き終えた時、後ろを振り向いた。
辺りを見回す。

「・・・気のせい?」

祐樹が掃いた枯葉をひと所にまとめている姿しか目に映らない。
雑巾をバケツの縁にかけて供養石の前に移動をする。

「あ、姉ちゃん、ご供養石はオレが拭くから」

竹箒を持って祐樹が走って来る。

「祐樹、さっき誰かここに居た?」

竹箒を詩甫に渡すと雑巾をぎゅっと握りながら、キョトンとした顔を向けている。

「誰かって?」

「あ、うううん、誰か居たかなって。 ほら、お姉ちゃんはお社に向かって後ろが見えないから」

「誰も来てないよ」

詩甫に答えると供養石を拭きだし、ポツリと続けて言う。

「・・・アイツ、来ないね」

祐樹の言うアイツ。 この場所では一人しかいない。

「アイツじゃないよ、浅香さん」

「姉ちゃんは騙されてんだよ、アイツはゾウシだよ」

「祐樹・・・」

「ゾウシと “わたくし” で姉ちゃんを騙そうとしてる。 オレ聞いたんだから」

初めて浅香と小川に行った時、仮面ライダーを録画して見ていると言っていた。 大人のクセにと思った。 祐樹自身は小学生だからまだ見ていてもいい。 でも同級生とはライダーのことを話せないでいた。 どこか馬鹿にされそうだったから。 ライダーを見るのは下級生までだから。 それなのに浅香は簡単にライダーを見ているという。 話がはずんでしまった。 その話の中でカニの取り方を教えてくれた。
それに男同士と言った。 子供扱いしなかった。

「聞いたって、いつの事?」

祐樹はずっと手を動かしながら話している。

「姉ちゃん、アイツが来たと思って訊いたの?」

「え?」

「ずっと後ろを向いてたからって言っただろ」

「うううん、そういう意味じゃないの。 誰かが居たような気がしただけ。 それで訊いたの」

そっか、と言うとバケツの中に雑巾を入れる。

「終わったよ。 お供えしよう」

「うん・・・」

いつものように社に花束を置き、半紙の上に和菓子の供え物を置いて手を合わせる。

『瀞謝、ありがとう』

手を合わせている詩甫に朱葉姫の声が響く。

(いつも見て下さっている)

そんなことを思えば思う程、社を終わらせるということに踏ん切りがつかない。 だが浅香からの言葉もある。 今のままが朱葉姫にとって辛いことだと。 朽ちていく社を見なければならないのだから。
そう思うと悲しい、それだけしかない。
と、そこに後ろから声がかかった。

「やっ、また逢いましたね」

振り返るとそこに浅香が立っていた。

「浅香さん」

一気に祐樹の顔が歪む。

「宿題してきたのか」

「へ?」

何のことかと間の抜けた声を上げたが、すぐに前に会った時のことを思い出した。 供養石の足元を見ると、花束も供え物も置かれている。 もう掃除は終わったのだろう。

「浅香さん」

祐樹が宿題と言った。 そう言えば浅香と祐樹の間で “宿題” という単語があった。 だがそれはどちらの宿題か。 どちらが出してどちらが出されたのか、浅香と祐樹の間のことで詩甫が知ることは無かったが、祐樹が『宿題してきたのか』という以上、浅香が宿題を出されたのだろう。 それとも自ら出したのだろうか。

詩甫が浅香の名を呼ぶと浅香が詩甫を見る。
それは率直に言って任せて欲しいという目だった。

「よーし、色々考えてきたぞ。 じゃ、今回は小川で掃除道具を洗いながらの問答だ」

「なーにが問答だよ」

言うと祐樹が勢いよくバケツを持って小川に向かって走って行った。 バケツの縁に掛けてあった雑巾が吹っ飛んだが、誰もそれに気付いてはいない。

浅香が詩甫を見る。

「祐樹君、何か言ってました?」

「ついさっき浅香さんのことを話し始めたんですけど、今日までなんにも言いませんでした。 だから私も訊けなくて」

「ラジャです」

そう言い残すと、祐樹の後を追って木々の中に入って行った。
ここは浅香に任せた方がいいのだろうか、自分も小川に行った方がいいのだろうかと考えるが、小川には一度も行ったことが無い。 トンチンカンな方向に歩いてしまっては、迷惑をかけてしまうだけになるだろう。

一人残された空間。

緑に溢れ、時に風が吹くと葉擦れの音が聞こえる。 朱葉姫も今この音を聞いているのだろうか。
緑に目を這わせていた詩甫がしばらく経って眉を上げる。

何かを感じる。
何か・・・
視線。

辺りを見るが誰も居ない。 そう言えば少し前もそうだったし、祐樹と浅香が初めて会った時にもそんな気がして辺りを見たことを思い出した。

「なに?」

単純な視線ではないような気がする。 ねっとりとした嫌なもの。 背中がゾワッとする視線。
怖くなって浅香たちの後を追おうとしたが、どこに向かって行ったのかが分からない。 大きな山ではないが、木々の中に入って行ったのだ、勝手に歩いて迷子になることは避けたい。
社の前に行って手を合わせて朱葉姫に助けを乞おうか。

「朱葉姫が心配をしちゃう・・・」

それに気のせいかもしれない。
怖くなった気を払うように歩き出すと雑草を抜きだす。 きっと浅香が抜こうと思っていただろう雑草を。

「怖くなんかない。 気のせい」

自分に言い聞かすと無心に雑草を抜く。

「つっ!」

あまりにも無心過ぎたのか、葉で指を切ってしまった。

―――ねっとり。

指を切ってしまって無心が無くなった途端、視線を感じた。

「やだ・・・」

ねっとりと絡みつく視線。
ぽたぽたと指から丸い形をして血が落ちる。

「じゃあ、コナンは?」

「見てるに決まってんじゃん。 単行本も揃えてる」

浅香と祐樹の声が聞こえてきた。

「揃えてる? え・・・うそ」

「ははは、大人買いってやつよ」

詩甫が左手で右手の手首を持ちながら立ち上がり辺りを見回す。 もう視線を感じない。

(・・・気のせいなんかじゃない)

「姉ちゃん、お待たせ!」

バケツを振り回しながら祐樹が走って来た。

「え・・・姉ちゃん? 怪我したの?」

詩甫の指から血が流れている。

「草で切っちゃったみたい。 なんてことないよ」

もう一度辺りに視線を巡らせる。 やはりあの視線を感じない、ねっとりとしたものも。
詩甫の手が浅香に取られる。

「え?」

「怪しい草もないようですから、心配は無いと思いますが」

そう言って常に持ち歩いている絆創膏を、ポケットに入れていた財布の中から出すと詩甫の指に巻いた。 すぐに絆創膏から詩甫の血が溢れ出る。

「巻きなおしますね」

新しい絆創膏を手にするともう一度巻く。 その絆創膏がすぐに血で赤くなったが、血が溢れ出ることは無かった。 だが寸前だ。 草で指を切っただけだというのに。

「あとで、もう一度、巻きなおしましょう」

どういうことだ。 草で指を切っただけでこんなに出血することは無いはずないのに。 手元の絆創膏はあと一枚しかない。

「浅香・・・姉ちゃん・・・」

浅香が心配そうに詩甫の指先を見ている祐樹を見る。

「何しょぼくれた顔してんの? 指を切っただけだよ」

どうしてこんなに血が・・・。
そんなことを思いながらも祐樹に軽い笑みを送る。 その目が祐樹の後ろに何かを見つけた。

「あれ? 雑巾」

「え?」

「探していた雑巾、此処にあり」

「あ・・・」

バケツの中にあるつもりだった雑巾。 小川で雑巾を洗おうとした時に無かったのだが、こんな所に置き去りにしていたのか。

「雑巾、洗ってくる」

祐樹が踵を返して小川に向かう。 その祐樹の後姿を見送ってから浅香が口を開く。

「何かありました?」

「はい・・・。 あの、気のせいかもしれませんが」

絆創膏からはみ出して血がにじんできた。 浅香の手によって、手を上にあげているのにもかかわらず。
最後の一枚の絆創膏を浅香が巻きなおそうとした時、詩甫が止める。

「あの、バッグの中にティッシュがありますから、先にティッシュで・・・」

バッグは社の石段に置いていた。 詩甫が一歩を踏み出した時、浅香が社を見るとそこに詩甫のバッグがある。

「僕が取ってきます。 社の前に血が落ちたなんて笑えませんから」

冗談めいて言うが、確かにそうだ。

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国津道  第9回

2021年02月15日 22時02分33秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第9回



「うーん・・・苦しめる気はないんだけどな。 ん、分かった。 祐樹君の話を聞こう」

「お前に話すことなんてないっ!」

「祐樹、そんな言い方しないで」

「あ、気にしないで下さい。 それよりちょっと訊かなきゃいけないし、誤解も解きたいんで任せてもらえませんか?」

でも、と言う詩甫の言葉に祐樹が被せる。

「誤解もへったくれもないっ! オレは聞いたんだからな!」

「そっか。 聞いたのか。 んじゃ、その聞いたことを教えて欲しいんだけど?」

「お前に言う必要はないっ!」

「そんなつれないことは言わないで欲しいな。 取り敢えずはお近付きのしるしにどうぞ」

手を差し出された。 その手にカブトムシが摑まれている。 前回来た時に見つけられなかったカブトムシが。

「あ・・・」

「ここに来る途中で見つけちゃった」

そろそろと祐樹が手を出す。 その手にカブトムシを渡されると逃げられないよう、すぐにもう一方の手でカブトムシを掴んだ。

「も、貰うものは貰ってやるけど騙されないからな」

上目づかいで浅香を睨みつける。 少々、目の力が先程より抜けているが。

「騙してなんてないよ」

「お前の言う・・・お前と “わたくし” が言ってた朱葉姫はもう居ないんだからな、昔の人なんだからな、姉ちゃんはどこにも行かないんだからな」

だからその “わたくし” とは誰ぞや。 心の中で浅香が首を傾げるが、その “わたくし” という知らない人物が出て来た時点で、詩甫が話したのではないだろうとかと思った。
一応確認のために詩甫を見る。 その視線が話したのか? という風に訊いている。 思わず詩甫が首を振る。

そうか、言っていないのか。

浅香が祐樹に視線を戻す。

「うん、お姉さんはどこにも行かないよ」

「・・・え」

いともあっさりと同意してきたが、簡単に信じられるものではない。

「ぞ・・・“ぞうし” なのに “あさが” なんて嘘ついて、姉ちゃんだけじゃなくオレも騙そうとしてるのかよっ」

「うーん、そう言われても僕、浅香なんだけどな。 じゃ、証明」

そう言ってポケットから財布を取り出すと、その中に入っていた運転免許証を祐樹に見せる。

顔写真入り、確かに浅香と書いてある。 “ぞうし” とはてっきり苗字だと思っていて “浅香” と嘘をついていると思ったが、下の名前の可能性もあると一瞬思ったが、免許証にはフルネームが書かれている。 浅香亨と書かれていた。 どこにも “ぞうし” の文字がない。

「お前・・・双子か? それとも偽の免許証か?」

どこまでも疑り深い。

「双子じゃない。 それに、困ったなー、免許証を信じてもらえないのならどうしようもない」

「あの・・・」

「ああ、気にしないで下さい。 男は男同士で解決しますので」

「え?」

男は男同士と言われた。 今この嘘つき曹司もどき浅香は自分のことを子供扱いしないで男同士と言った。
母親はいつも『祐樹はまだ子供だから』 口癖のように言っていた。 子供だから宿題をするのは当然、子供だから何もかもお父さんの許しを得てから、子供だから早く寝なさい。

「小川のある方に行くとサワガニもいるよ。 そこでサワガニを捕りながら男同士で話してみない?」

「え? カニ?!」

カブトムシに次いでサワガニの二段攻撃スパイス。

「うん、行ってみない?」

「ちょ、ちょっとだけなら付き合ってやる」

「嬉しいな。 じゃ、お付き合いください」

詩甫にここで待っているようにと視線を送ると、祐樹と共に行ってしまった。
詩甫から見れば、祐樹はカブトムシとカニに簡単に釣られたようだ。
男の子のことは、昔男の子だった浅香に任せた方がいいのかもしれないと二人を見送った。

一人になった。
そう言えば瀞謝の頃にはいつもここには一人でいたのだった。
緑を見回す。

「ああ・・・」

そうだった、これほどに緑があったのだった。 緑を見回して気付いた事があった。
あの時と変わっていないと言うと嘘になる。 ここに争う人間が足を踏み入れなければ、木々の年輪が広がり、もっと大きくなっていただろう。
だがそうではなかった。

「焼き払われた?」

この地の歴史は知らない。 だが過去に色んなところで焼き討ちがあった事は知っている。
此処もそうなのかもしれない。 どんな争いごとがあったのかは知らないが、木々が焼き払われた。 その炎は社に延焼してもおかしくはない話である。 だが社は焼け跡などなく建っている。

「・・・朱葉姫が社を守られた?」

朱葉姫の力などということは詩甫に分かるはずもなかった。 だが誰しも漠然とそう思うのではないだろか。
詩甫があたりをずっと見まわす。

どれだけの時が経ったのだろうか、祐樹の声が聞こえた。

「姉ちゃん!」

呼ばれたと思った時には、両手で何かを包むように詩甫の前まで走って来ていた。

「見て見て! サワガニ!」

カブトムシを胸元辺りに付けて走って来て両手を広げて見せる祐樹。 その手の中でサワガニが数匹、横歩きをしながら今にも祐樹の掌から落ちそうになっている。

「わ、すごい」

「だろ?」

「うん、お姉ちゃん、サワガニって見たことなかった。 へぇー、可愛いね」

祐樹の掌から落ちそうなサワガニを、浅香が祐樹の掌に戻している。

「でも祐樹、よく触れるね」

「そりゃ、男だもんね」

すかさず浅香が言う。
祐樹が満面の笑みで詩甫を見る。

「姉ちゃんは触れないの?」

「うぅぅ・・・可愛いけど・・・」

つつく事さえ出来ない。 見ているだけである。

「祐樹君どうする?」

「あ・・・逃がしてくる」

「え? 祐樹、いいの?」

「うん」

祐樹が木々の中に消えて行った。 小川までは難しい道順ではないようだ。
男同士の話とやらはどうだったのだろうかと、詩甫が浅香を見る。

「祐樹君に心を開いてもらっただけです。 まだ何も訊けていません、これから訊きます」

とは言ったものの、祐樹のガードは硬かった。
浅香が曹司のことについて何を言っても疑い、何を訊いても答えることは無かった。 祐樹が詩甫を守ろうとしているのがあからさまに分かるほどであった。

とっとと、何もかもを説明し、その説明に詩甫に首を縦に振ってもらえば済むであろうが、浅香とて祐樹を巻き込むわけにはいかないと考えている。

「今日はもう帰られるんですか?」

「はい」

浅香がこれから訊くと言ったが、それに応えられない。

「そっか、では次回まで取り置きですね」

「すみません、私も帰ったら訊いておきます」

「有難うございます。 でもあまり強引に訊かないで下さいね、あくまでも僕の事ですから」

「でも・・・」

「気にしないで下さい。 うん、そうだな、野崎さんは訊かなくていいです」

「え・・・」

「姉弟仲に亀裂が入るのを望んでいませんから。 この一件でそんなことにでもなったら朱葉姫が気にしますし。 どうせ曹司のせいなんでしょうから」

木々の中から祐樹が姿を現した。
今の話が無かったかのように浅香が祐樹に顔を向ける。

「ちゃんと逃げて行った?」

「うん、捕った時みたいに石の近くに置いたら、石の下に潜っていった」

「おっ、上等! なかなかサワカニの気持ちが分かるようになってきた」

褒められて照れ臭いのか、明後日を向いてしまった。

「うーん、じゃ今日のところはここまでにしようか」

そこそこの時間が経っていたし、祐樹が曹司のことになると浅香をねめつける。 浅香も小学生に無理をさせる気などさらさらない。 それに詩甫はもう帰ると言っていた。

「なんだよそれ」

「今日のゴングは鳴っちゃったからね、次回持ち越し」

「・・・持ち越し? ・・・宿題か?」

詩甫が笑いを抑えるように上下の唇を噛む。 笑ってはいけない。 この状況に置いてそう考える。 宿題・・・それ程に母親から言われているのだろうから。 それでもこの義弟を可愛く思ってしまう。

「ね、祐樹。 浅香さんはいい人よ。 嘘なんて言わないよ?」

祐樹が口をひん曲げて詩甫を見る。
どことなくだが分かっている、でも認められない。 そんな目をしている。
浅香のことを祐樹はどこかで分かってくれているのか。 浅香が小川でどんな話をしたかは知らないが、祐樹に心を開いてもらったと言っていた。

詩甫が祐樹に笑みを送る。

「今日は帰ろうか」

「うん」

「あれ、どうしようか、な」

祐樹も同じことを考えていたのだろう、詩甫の視線の先に重なっている。
何のことだろうかと浅香が詩甫の目の先を追うと竹箒やバケツがある。
そういうことか。

「どうします?」

「出来ればここに置いておきたいんですけど」

「ですよね。 これ持って電車は目立ちますもんね。 お社の裏にでも置いておきましょう」

浅香が竹箒を持つとすぐに祐樹が雑巾の入っているバケツを持った。

「お、ありがとう」

「オレと姉ちゃんが持ってきたんだしな」

祐樹と二人で掃除グッズを持つと社の裏に回った。 祐樹が泥のようなバケツの中の水から雑巾を取り出すと、浅香がバケツを手にして中の水をグルグル回し景気よくその泥水を撒いた。 それでもバケツの下に泥が沈殿してしまっている。

「わぁ、失敗」

「下手くそ。 小川で洗ってくる。 雑巾もこのままじゃ駄目だから」

おニューの雑巾が真っ黒になっている。

「よく気が付くねー、じゃ、頼む」

祐樹は小川に、浅香は掃除グッズが飛んで行かないように、押さえるための頃合いの石を探し出した。
社の裏からバケツを手にして出て来た祐樹の後姿を追っていた詩甫。 その姿が木々の中に入って行く。

「そっか。 小川のお水を使えばいいのか」

そこそこの水量があるのだろう。 次回からはミネラルウォーターは必要ないようだ。
空のペットボトルを置いていた所に行くと、一つ一つを靴の下で潰して袋の中に入れる。
祐樹が戻ってくると既に竹箒には重石がしてあり、祐樹が洗ってきたバケツにも中に雑巾を入れ、その上に重石が入れられた。

祐樹と浅香それぞれが動いている間に詩甫がお供え物を下げる。 一つを和菓子屋の袋に入れ、もう一つをエコバッグに入れていると祐樹と浅香が戻って来た。

「お下がりになっちゃいますけど、荷物にならなければ、貰って頂けないでしょうか」

供え物は二つある。 男が和菓子を食べるかどうか分からないが。

「おっ、有難く頂きます」

出された紙袋を丁寧に受け取る。

「山の下までお送りしましょう」

そう言えば浅香は何のためにここに来たのだろうか。

「浅香さんは?」

「雑草抜きに来ましたので」

やはり社までの雑草を浅香が抜いていたのか。

「オレが姉ちゃんを守るんだから、お前が来る必要はない」

「祐樹!」

祐樹の浅香に対しての態度、呼び方、全てにおいて詩甫が声を上げる。

「あ、気にしないで下さい」

「でも・・・」

浅香が祐樹の胸元を指さす。

「いつの間にかカブトムシ居なくなっちゃったね」

「あ・・・」

胸元にとまっていたカブトムシが居なくなっている。

「残念だったね」

口を尖らせると「姉ちゃん、帰ろう」 と言って、祐樹がさっさと歩き出した。
浅香にすまなさそうな顔を残して詩甫が歩きだす。 それを笑顔で送った浅香だった。


それからは祐樹に促され、隔週で社に出向いた。
何故祐樹が行きたがるのかは分からなかったが、行く度に祐樹が枯葉を掃き供養石に雑巾をかける。 詩甫が社の格子の一つ一つを拭く。 そう出来る切っ掛けを作ってくれたことは嬉しかった。
祐樹からは毎週と言われたが交通費がかさばる。 金銭的な問題から隔週ということにした。

あれから浅香とは社で会っていない。 連絡もなかった。 もしかしたら、色んなことに奔走しているのかも知れない。

あの時から祐樹は朱葉姫のことを詩甫に訊けなかった。
その内に祐樹の定期が切れる日になった。

「姉ちゃん、夏休みの間泊まっちゃいけない?」

「祐樹・・・」

どれだけ実家を疎んでいるのだろうか。

「お義父さんとお母さんが嫌なの?」

「・・・姉ちゃんと一緒に居たいだけ」

それは実家に居たくないということだろう。

「お昼ごはん、お姉ちゃんの作ったお弁当でいい? 冷めちゃうけど」

母親なら温かいものを祐樹に食べさせるだろうに。
祐樹がブンブンと首を振る。

「姉ちゃん、袋ラーメン買ってくれる? そしたら自分で作る。 作り方教えて」

湯など沸かしたこともない。
夏休みに入り家に帰った時、同級生の集団と会った。 その時に昼ご飯の会話になったのだった。

『うちは、お母さんが仕事に出る前にオムライスや何かを作ってる』
『わっ、贅沢』
『なんでだよ』
『オレん家なんておにぎりだけ』
『それも贅沢だろ。 オレん家は、母ちゃんが勝手にカップ麺を食べとけって言うし』
『カップ麺? 金持ちぃ。 オレん家は袋ラーメンだよ、しけてる』

祐樹にとってはある意味、鮮烈な話だった。
夏休みに限らず、給食の無い日は当たり前に母親が昼ご飯を作っていたのだから。

『カップ麺は金持ちなのか?』

食べたことは無かったが、母親と買い物に行くと目にしていたし、コマーシャルでも見ていたが袋ラーメンも然り、値段までは見ていなかった。

『おーよ、オレも袋ラーメン卒業させてほしい。 憧れのカップラーメン』

そんな風に聞いていた。

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国津道  第8回

2021年02月12日 22時02分36秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第8回



手を下ろすと祐樹からもう一つの花束の入った袋を受け取り、供養石まで足を進める。
ここには石段などない。 地べたに置くしかない。 先程と同じように花束を置き空になった花束を入れていた袋の上に半紙を並べ、その上に祐樹から受け取った供え物を置き屈んだまま手を合わせる。
今度は祐樹も同じように屈んで手を合わせている。

手を下ろすとその気配がしたのだろうか、それとも目を開けていたのだろうか、祐樹も同じように手を下ろした。

「この石なに?」

祐樹にしてみれば、どうして石の前に花束や供え物を置くのか疑問であったのだろう。

「ご供養石」

そう言いながら立ち上がった。
え? と言った祐樹も同じように立ち上がったが、供養石? 供養? そんな物に “この石” などと言ってしまった。 顔が引きつる。

「ん? どうしたの?」

「この石って言っちゃった・・・罰が当たったらどうしよう」

クスッと笑う詩甫。
ある意味信心深いのかもしれない。 だから手を合わせたり、殊勝な顔でいたのかもしれない。

「そんなことないよ。 それより祐樹が来てくれたことを喜んでくれてるんじゃないかな」

朱葉姫が言っていた。 手を合わせ声を聞かせ笑みを見せる。 それがどれほど大切なことかと思う。

「うー、でもぉ・・・。 ん? そうだ! 姉ちゃん、残りの紙袋オレが使っていい?」

「え? いいけど?」

供え物を置きっ放しには出来ない。 持ち替える時に使うつもりでいたが、エコバッグが鞄の中に入っている。 そちらを代用すればいい。

紙袋を手にした祐樹。 何をするのだろうと見ていると、供養石の周りの枯葉を両手で取っては紙袋に入れている。
謝罪を掃除という形にしたようだ。
罰が恐いのか、信心深いのか。 微笑ましくてクスッと笑ってしまった。

祐樹の努力を要せず、すぐに紙袋はいっぱいになった。

「今度来る時は箒とゴミ袋も買って来なくちゃだね」

パンパンと手をはたき、紙袋を持って詩甫の横に立つ。
祐樹はまた来るつもりなのだろうか。

「来ることがあったらね」

「もう来ないの?」

誰の供養石? と訊きたかったが、訊くのが怖い。

「うーん、分からない」

「あっちのお社、ボロッちいけど、どうなってるの? 修理しないの?」

わざわざこんなに遠くまで来たのだ。 供養石のことを知っていたのだから、あの社のことも知っているはずだと訊いてみた。

「今は誰も見てないみたい」

「ふーん、誰が祀られてるの?」

「朱葉姫様よ、お姫様」

祐樹が朱葉姫のことを訊いてくれたのが嬉しい。 自然と頬が緩む。

「え・・・」

ネットで調べ損ねた “あかは姫”。 “わたくし” が言っていた “あかは姫”。 どうして詩甫が朱葉姫を知っているのか・・・。

「朱葉姫。 朱色の朱に葉っぱの葉って書いて赤葉姫」

祐樹が「え」 と言ったのは、てっきり聞き損ねたのかと思い詳しくもう一度言う。

「朱葉姫って・・・姉ちゃん知ってるの?」

「え? ん? どうしたの?」

「あ・・・えっと、お姫様? 神様じゃないの? ナントカの神じゃないの?」

どうしてだか正直に訊けなかった。 あの時の詩甫の姿、言葉がある。 “わたくし” の存在が気のせいかもしれないと思いながらも、詩甫にあった事だと記憶に残っているのだから。

「うん。 ずーっと昔にここに住んでいたお姫様。 みんなに愛されていたお姫様よ」

詩甫の言うずっと昔、それは何年くらい前なのだろうか。 “姫” と言われているのだ、令和でも平成でもないだろう。 昭和など通り越して戦国の時代だろうかと考える。

「ふーん、神様じゃないんだ」

そう言われてしまっては、詩甫の知る範囲を越している。

「ご供養石は朱葉姫様を慕っていた人達を御供養するために建てられたらしいの」

詩甫の説明に、あっ! と祐樹が声を上げた。 一瞬で朱葉姫のことが頭から飛ぶ。
朱葉姫のことを粗末に言うと、供養石の者たちに祟られるとでも思ったのか、思わず祐樹が片手で口を塞ぐ。

「姉ちゃん、絶対に来ようよ。 あと一週間で夏休みだからオレいつでも来られるから。 その時に箒とゴミ袋と・・・虫籠持ってさ」

しっかりとおまけが付いている。
詩甫がクスクスと笑う。
虫籠もついてくるんだ。 それに、

「祐樹が夏休みでもお姉ちゃんは仕事だよ?」

「あ・・・」

「ね、祐樹。 夏休みに入ったら家に帰らない? お姉ちゃん朝からずっと会社に行かなきゃならないでしょ? その間、祐樹一人だと心配だし」

「ヤだ。 宿題して待ってる」

まだ曹司のことが分からない。 詩甫を一人になどしたくない。 それに朱葉姫のことは何となく分かった。 でもあくまでも点であって線にはなっていない。

「定期が切れるまでいつでも来ていいから」

八月の中旬頃に定期が切れるはずである。

「・・・」

そうだ、定期があるのだった。 何度電車に乗ってもいいのだった。
夏休みの間、自分がずっと詩甫の部屋に居れば、詩甫は祐樹の昼ご飯の心配をしなくてはいけなくなるのだった。 詩甫の弁当のついでに作ってもらってもいいが、最近はあまり弁当を作っていないようだ。

昼ご飯など抜いてもいいと考える祐樹だったが、詩甫はそれを許さないだろう。 それにコンビニで何かを買うという発想にはならなかった。 いつも母親がちゃんと作っていたのだから。 それにそう考えたとしても、そんな金もない。

「う、ん。 じゃ、姉ちゃんが仕事から帰って来る時くらいに来る。 で、朝、姉ちゃんが会社に行ってから家に帰る」

まるで実家に出勤システムのようだ。
これ以上言ってもどうしても引かないだろう。 でもそれもあと一月ほどのこと。

「そっか。 出来るだけ残業しないようにするね」

朱葉姫からのもう一つの頼み事も気になるが、昨日今日のこと。 まだどう動くかも決まっていない。 祐樹を邪魔にするつもりはないが、朱葉姫とのことは祐樹に話せない。 まず話しても信じないだろう。

浅香からはオールで二日に一日の非番があり休日もあると聞いていた。 だが詩甫は週末土日だけの休みとなる。 いつ休日出勤になるか分からないので土曜の休みは確約できないと言うと、了解したと浅香は言っていた。


金曜日、浅香から連絡があった。

『気持ち、決まりました?』

あくまでも浅香はすぐさま動く気はなさそうである。 まずは詩甫の気持ちが一番と思っているようだ。 それは曹司からの入れ知恵かも知れないが。

「・・・潰す前に掃除をしたいと思います。 それから手続きを」

手続きをしながら掃除などしたくない。 それはあの時の祐樹の存在が大きかったのかもしれない。 それが切っ掛けになったのかもしれない。

『ラジャ、です』

あの今にも朽ち果てそうな社ではあるが、それでも何百年と持ちこたえたのだ。 今更、明日、明後日、今週、今月、どうなるわけではないであろう。 台風が来ればどうなるか分からないが、まだ台風の季節の秋には時がある。


祐樹が夏休みに入った。
宣告していたように、詩甫が会社から帰ると祐樹が居て、朝起きるとまだ祐樹がいた。 詩甫が会社に行っている間だけ実家に帰っているようだった。 それは間違いなく祐樹から聞かされていた。

「お母さん、毎日毎日、宿題宿題って・・・煩いんだよ。 それに姉ちゃんの所に来ようとしたら、お父さんがまだ帰って来てないってヒステリーになってさ」

「そっか。 ごめんね、祐樹」

母親は、あの人は寂しいだけ、一人になりたくないだけ。 だから詩甫を縛り付けていただけ。 高校時代を最後の最後に満喫できなかったのを悔いているだけ。
それだけに祐樹には普通に学校に行って欲しい、普通に学生生活を送って欲しい、そう思っているだけ。 その普通にが、勉強勉強となってしまっているのは分かっている。

それを分かっていて実家から逃げた。 全てがそれだけでは無いが、主にそうであった。 それを祐樹になすりつけてしまった。

「姉ちゃんが謝ることないよ」

「ん、お母さん・・・寂しがり屋だから」

「寂しがり屋だけで、あれだけ宿題にヒステリーになる?」

母親は普通を望んでいる。 普通に授業を受けて当たり前に宿題をして、友達と笑い合う。 異分子などを望んでいない。
高校三年生で妊娠をし、普通をしてこられなかった母親自身が詩甫を産んでから望んだもの。

祐樹にはまだ難しいかな、と言って話し始めた。

「祐樹に期待してるんだよ。 ほら、お義父さんって若くして役職付きになったじゃない? 祐樹にもそうなって欲しいんだよ」

「オレはまともに家に帰って来られないような仕事はしたくない」

学校の話を聞いてくれなければ、アニメの話も出来ないような父親のようにはなりたくない。

「祐樹・・・」

祐樹は祐樹なりに心を痛めていたのか。

「次の土曜日、あそこに行かない? ご供養石」

祐樹にとって何故かあの場所は供養石のようだ。

「そうだね、行こうか」

秋の台風で社がどうかなるかもしれない、でもそうならないかもしれない。 今まで耐えてきたのだから。 超超大型でない限りこの秋も耐えられるだろう。

だから急がずともこの一年で掃除をし、手続きを終えたいと思っている。 簡単にあの社を潰したくない。 潰すまでほぼ一年、行ける限り足を運びたいと思っている。 だが祐樹が居ては、再々行くと不審に思われると思っていたが、以外にも祐樹から提案された。

「虫籠を買って行こうか」

「う・・・ん、いい」

「え? どうして?」

「誘拐犯になりたくないから」

虫を捕りに行きたいわけではなさそうだ。 それならどうして行きたいのだろうか、と思いながら詩甫が相好を崩す。

あの時、いつの間にかクワガタが祐樹の服から飛び去っていた。

「それより掃除道具を買って行こう?」

祟られたくない。 二度とあの社をボロッちいなどと言わない。
祐樹の心の内など知らない詩甫であった。


そして土曜日、駅を降りるとタクシーに乗った時に記憶にあった駅から少し離れたホームセンターに向かって歩いた。

「学校?」

グラウンドが見える。 それも祐樹の小学校より随分と広いグラウンドだ。

「そうみたいね、高校みたいね」

遊具も何もないグラウンドの様子から小学校でも中学校でもなさそうだし、先に見える校舎は特殊な建て方である。 きっと私立の高校だろう。

フェンスに囲まれたグラウンド沿いに歩き続け、ホームセンターに着くと詩甫が竹箒と塵取りをもってレジに並ぼうとしたら、何故か祐樹がバケツと雑巾を手に持ってきた。

「水道なかったよね?」

「あ・・・」

詩甫にしてみれば拭き掃除もしたかった。 でも水道が無いのは分かっていた。 瀞謝である時には麓から小さな桶に水を入れて持ってきていた記憶がある。

こうして祐樹がバケツと雑巾を持ってきてくれて改めて気づいた。 この時代だ、飲むわけではないがミネラルウォーターが売られている。

「ふふ、いいよ。 ミネラルウォータ取って来て」

「でも・・・お金かかるよね」

スポンサーは詩甫である。 水道で終るところなのに、ミネラルウォーターを買うというのは勿体ない話。

「お金じゃかえられないことがあるよ? きっと祐樹の気持ちが嬉しいって、朱葉姫様も供養石も思ってくれると思うよ」

「う、ん。 そっかな」

祐樹が踵を返して売り場に走って行った。


タクシーではトランクに入れてもらったはみ出た竹箒を少々恥ずかしいという思いをしながら、山を上り社の前に立った。

街中より幾分か暑さはましだが、相変わらず木の葉から零れてくる照り付ける陽に肌が刺されるようだ。 セミも先を争うように鳴いている。

山を上ると、祐樹がすぐさま竹箒を持って掃除を始めた。
ゴミ袋は買わなかった。 よく考えるとこれだけの枯葉をどこに持って行っていいのかも分からないし、相手は枯葉である。 地に還るのだから、離れた所にまとめて置いていればいいかと。 風に吹かれれば終わりだが、一時でも掃き清められるだけでも良いのではなかろうかと。

詩甫が前回持ってきていた花束の回収をする。 石段の上に風に飛ばされることなく同じ位置にあった。

「え・・・」

誰かの視線を感じた。
辺りを見回すがどこに誰が居るわけではない。

「気のせい、か・・・」

祐樹を見ると枯葉を掃くのが楽しいようで殆ど遊びに近い。 それでもちゃんと掃除をしている。
ミネラルウォーターをバケツに入れると、その水を雑巾に沁み込ませキュッと絞り、社の格子を一つ一つ拭いていく。

瀞謝であった時のことを思い出す。 あの時は上の方の格子には手が届かず、何度か口を歪めたものだった。

格子を拭きながら所々に朽ちかけた格子が目に入る。

(修繕すれば・・・)

とは思うが、それは朱葉姫の望むところではないのは分かっている。 詩甫自身も毎日ここに来るわけにはいかないし、詩甫だけではどうなるものではないのも分かっている。

祐樹の掃き掃除も終わり、バケツの中の水は汚れた色になり下には泥が沈殿している。 それでもその汚い色の水の上澄みに雑巾を潜らせ、祐樹が供養石を拭きだした。

前回来た時に供養石の前に置いていた花束は、詩甫が回収した社の花束と一緒に置かれている。

「祐樹、どうしたの?」

もうそこそこの時間が経った。 虫捕りをしないのだろうか。

「ここ拭いたらお供えするから、その前に姉ちゃんお社にお花とお供えしといて」

掃除道具以外に今日も花束と供え物を買っていた。

「そっか、うん」

祐樹に促され花束を置き半紙の上に供え物を置くき手を合わせる。 祐樹は未だに供養石を拭いている。 もう水分とは言えない程にドロドロなのに。

その供養石の前にも花束を置くと祐樹が手を止めた。 供え物を半紙の上に置く。 祐樹が雑巾をバケツの中に入れて詩甫の隣に屈んで手を合わせる。

祐樹としては、この供養石に祟られたくない一心であったが、詩甫が朱葉姫のことを知っていたことに疑問を持ってはいた。 だが今日まで訊けなかった。
だがこれだけ掃除をしたのだ、祟られないであろうと口を開いた。

「姉ちゃん、なんで朱葉姫のことを知ってるの?」

「え?」

「ここ、家からこんなに離れてるよね? なのにどうして?」

祐樹の住んでいる家、そこに以前は詩甫も住んでいた。 家からも詩甫が今住んでいる部屋からもこの社は遠い。
ネットでサーチしてもまともに出てこなかった “朱葉姫” というワード。 どうして詩甫が知っているのか。 “わたくし” が言った朱葉姫を。

「あ、うん・・・」

どう誤魔化そうかとしていた時、男の声が聞こえた。

「あれぇー? 野崎さん?」

詩甫と祐樹が屈んだままで振り返ると男が小走りに走って来る。

祐樹の顔が強張った。 ずっと探していた曹司が目の前に姿を見せたのだから。

「あ、浅香さん」

詩甫が立ち上がると祐樹も立ち上がる。

浅香? どういうことだと祐樹が詩甫と浅香を交互に見る。

「早速ですか。 お、弟君、祐樹君だったね」

祐樹の思いなど知らず浅香が祐樹の前に立つ。

「・・・お前」

祐樹の言葉に詩甫が驚いた。

「祐樹、そんな言い方―――」

だが祐樹が詩甫の言葉を遮った。

「あさが!? 嘘だろ! お前、ぞうしだろう! 姉ちゃんをどうしようとしてるんだ!」

浅香と詩甫の脳が一瞬フリーズした。
どうして祐樹が曹司のことを知っているのか。

祐樹が曹司を何故知っているのかは知らない。 だが浅香はそれを聞いていた。 祐樹が出張所に曹司を訪ねてきたことを。

詩甫が思い出した。
たしか浅香と道で会い送ってもらった時にその事を祐樹に言った。 すると祐樹は浅香ではなく、曹司ではないのかと言っていたではないか。
どうして祐樹が曹司の名前を知っているのか。

「お前! “わたくし” っていう奴の仲間だろ!」

“わたくし” とはなんぞや、と思いながらも浅香が祐樹に問い返す。

「どういうことなんだろうかな? 君は・・・祐樹君は何を言っているのかな?」

“何を知っているのか” と問いたいところを “何を言っているのか” と問う。
浅香の声に遅れて詩甫も気を取り直す。

「祐樹?」

「姉ちゃん! コイツは姉ちゃんを苦しめる一味だ!」

詩甫を守るように詩甫の前に立ちはだかった。

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国津道  第7回

2021年02月08日 22時24分32秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第7回



朱葉姫に膝行で進んできたのがきっと浅香の言う曹司だろう。 浅香から聞かされた話からするとそうとしか考えられない。

あの時、どこかで見たことがあるような顔と思ったが、よくよく思い出すと浅香と容貌が似ている。
浅香自身も曹司は体格こそ違え、容貌は似ていると言っていた。

『分かっていて訊くのか。 お前自身だからと、分かっていて訊くのか』

二人の間にそんな会話があったと言っていた。 それに浅香自身、曹司を見てすぐに自分だと分かったとも言っていた。

『あの、あまりそっちのことは知らないんですけど、曹司さんがまだ・・・あの、幽霊状態って言うんですか? でもそれなら浅香さんが生まれ変わり? というか、曹司さんが幽霊でいるのに、浅香さんが居るっていうのは・・・分かりません』

分身の術だろうかと浅はかな考えを持ったが、きっとそうではないだろう。

『ええ、僕も後になって気付いて曹司に訊ねたんです』

すると曹司はこう言ったという。
朱葉姫が社に来て六百年ほど経った頃、付いていた者達に言ったという。

『皆、今日までありがとう。 皆はもう帰るべき所にお帰りなさい』

その頃には祀る者が居なかったという。
だが誰もが首を振り、朱葉姫に額ずいた。

『どうか、どうか、いついつまでも姫さまと共に居ることをお許しくださいませ』 と。

この者たちは、朱葉姫の居る屋敷に仕えていた者達であり、朱葉姫が亡くなり毎日毎日泣いていた者たちだった。 そしてその命の灯火が消える寸前まで、足が動くまで、社に足を運んでいた者たちであった。
そしてとうとう、その灯火がなくなった時、その御霊は帰るべきところに帰らずすぐにこの社にやって来た。 そして朱葉姫に再び仕えることを選んだ者たちであった。 もう朱葉姫と離れたくない、皆がそう思っていた。 曹司にしてもそうであった。

そしてそれから更に百年ほど経った時、曹司が朱葉姫に願い出たという。

『己の霊(たま)を分けては下さいませぬか?』

それは分霊。 分霊とは神の御霊を分けるということであるが、この時、畏れ多くも神でもない曹司は己の霊を分けて欲しいと言った。

いつまでもこの状態で居られるはずがない。 祭も無くなり、手を合わせに来るものが段々と減り、ついには誰も、瀞謝さえも来ることがなくなった。
そうなれば、朱葉姫が一番悲しい状態でこの社を終わりにしてしまわなければならなくなる。 それだけは避けたい。
社が風雨にさらされ潰れれば、朱葉姫はもうここには居られない。 そんな終わり方などさせたくはない。

それを回避するには、地に足をつけた者が必要になってくる。 だからと言って己が生まれ変わるのならば、朱葉姫から離れなければいけない。 どんな夜盗からも、朱葉姫を守らなくてはならないということは無い。 分かっている。 分かっているが最後まで朱葉姫に仕えたい。
それに離れてしまっては、朱葉姫を記憶にとどめておける自信があるとは言い切れなかった。

朱葉姫は亡くなりこの社に祀られて既に七百年は経っていた。

朱葉姫は祀られていると言えど神ではない。 だが民が朱葉姫に心を寄せ社の前で手を合わせた。 その内にささやかながら祭も行うようになった。
朱葉姫、民は幸せにしております、という所を見せるように。 その民の姿を見守る朱葉姫に神の加護があったのか、それとも朱葉姫が民の力を得て自ら手に入れたのだろうか、神掛かった力を持つようになっていた。

だがその力も民がいてこそ。 民が社に来ることも無くなり、民の声も聞けず笑みも見られず幸せを願うことも出来ず、その力は段々と弱いものになってきていた。
今を逃してはもう後はない。

『曹司・・・、そうではなく帰りませんか?』

曹司が首を振った。

そして霊を分けた曹司が新たな時代に生まれた。 それが浅香だった。 だがその時の曹司には、霊が再び人として生まれるに何百年もかかるとは思ってもいなかった。 この社がよく持ってくれたものだと言っていたという。

『いやぁー、曹司も曹司なりにかなり心身ともに無理をしたみたいなんですよね』

通常ならそんなことをしてしまえば、曹司の力が減少するらしい。 だが曹司はそのような事もなく、それどころか浅香に影響をもたらすことさえ、憑依することさえ出来たというのだから。
だがそれは千年以上も幽霊でいたからかもしれないし、分霊をしてから五百年以上も経っていたからかもしれないと浅香は言っていた。

『曹司って・・・馬鹿なんじゃないかと思いますよ。 執念深っ、ってさえ思います。 って、それが僕なんだと思うと嫌になります。 って、その反動が今の僕なのかなぁ』

などとお気楽に曹司のことを話してくれた。
自分があんなことを経験しなければ、全く以って斜に見た話だっただろう。


「どうすればいいんだろ・・・」

今にも潰れそうなあの社をある程度補修して今後をどこかの神職に頼む。 それが出来なくはないだろうが、あの山は詩甫のものではない。
山の持ち主に話を聞いてもらって・・・

「信じないよね・・・」

信心があるのならば、あの様に朽ち果ててはいないだろう。 それにあの社が登録されているのかどうかも分からない。
きっとされていないだろう。

疲れた体を湯船に沈ませた。


そして翌日、朝早くにと言っていた祐樹が夜遅くに戻って来た。 朝に一度、そして夕方にも連絡があった。 夕飯を食べてから戻るという連絡であった。

戻って来るなり祐樹の機嫌が悪かった。 それなのに「今日も家に居ても良かったのに」 などと詩甫が言うものだから、更に機嫌が悪くなる。

「なに?! 姉ちゃんはそんなにオレのことが邪魔なの!?」

「そんなこと言ってないよ。 でも祐樹は十歳じゃない? お義父さんとお母さんと居る方がいいんじゃないの? せっかくお義父さんとお母さんが居てくれるんだから」

「あ・・・」

そうだった、義姉の詩甫は九つの時に片親となったのだった。 父親は生きているとは聞いているが、母親と離婚をして一度も会ってはいないと聞いていたのだった。

(姉ちゃん、寂しかったんだ・・・)

だから自分にそんなこと言うんだ。

「今日、お母さんとどこかに行った?」

久しぶりに祐樹が戻ったのだ。 それなりな所に祐樹を連れて出てくれただろうか。

「・・・うん」

行きたくなかった。 朝一番にここに戻って来たかったのに・・・。

「お母さんが欲しい服があるからって、ショッピングしたいからって」

詩甫の目が一瞬悲し気になる。
祐樹を楽しませるところに出かけたんじゃなかったのか。 母親の行きたい所に行ったのか。
一人ではショッピングを楽しめない人。 誰かが居ないといけない人。 一人では立てない人。 誰かに依存する人。

「そっか、お義父さんも一緒に?」

「うん」

「お義父さん付き合ってくれたんだ」

祐樹が出汁に使われたのだろうか。

「うん、今日は付き合いってのもなかったみたいだったから。 でも珍しいよ、オレが家にいる時にはお父さんあんまりお母さんに付き合わないのに」

土曜日には必ず接待に出かけている。 日曜日もそうなのだが、たまにその接待がない日もあった。 その日曜日くらい身体を休ませて欲しいと、そんな雰囲気をかもし出していた。 だがそれに気付きながらも母親がどこかに行こうと言う。 すると「行っておいで」 とだけ言っていた。

「久しぶりに祐樹が戻って来てくれたことを、お義父さんは喜んでるのよ」

「・・・」

父親のことは特別嫌いではない。 ただ仕事をしているだけの人。 それだけ。 でも詩甫の言うように、自分が家に居て喜んだのだろうか。
そう言えば詩甫の所に行くと言った時、一番に協力してくれたのは父親だった。 思ってもいなかった定期も買ってくれた。
そして今日のこと。
でも・・・それって都合のいい飴玉ではないのだろうか。 ずっとまともに顔なんて合わせたことが無かったのだから。

「祐樹?」

「あ、うん。 姉ちゃん、咳でなかった?」

咳なんてもう出ない。 分かっている。 詩甫なのに詩甫でない “わたくし” が言っていた。 それに未だに曹司のことが分からない。

「うん、全然。 心配かけてごめんね、もう大丈夫よ」

祐樹に昨日のことを言うつもりなどないと思う詩甫だが、この時の詩甫に祐樹が曹司の名前を知っているなどとは思い出しもしなかった。

「ほら、明日学校があるよ、寝よう。 この間みたいに起きなかったら、通勤の電車の中で心配この上ないのよ」

「あ、あはは」

見事に寝入ってしまって、駅まで走った日のことである。


浅香とは連絡先を教え合っていたが、浅香には連絡をせず翌週、祐樹を連れてもう一度社に足を運んだ。 手には供え物と花束を抱えている。

前回来た時は急なこともあって着替えも出来ずビジネススタイルであった。 あのスタイルで山の中の階段や坂を上るのは辛い。 今回は涼しげなブラウスに、膝丈までのフレアースカート、足元は唯一持っているウォーキングシューズ。 踵部分に二重のエアーの入ったスカートにも合うお洒落なウォーキングシューズである。

電車の乗り換えは覚えていたが、山のどこでタクシーを降りるのかがうろ覚えだった。 窓の外を見て覚えている風景を思い出しながら行き過ぎることの無いようにタクシーを止めると、浅香と来た時のようにここで良いのかと訊かれてしまった。

自信があるわけではないが行き過ぎてはいないはず。 このままタクシーを降りて先を歩けば山の中に入れるところがある筈。

「はい、ここで」

タクシーを降りるとすぐにセミの声が響き渡ってきた。 セミの声一つで暑さが増す。 それをBGMに走り去っていくタクシーの後を追うように、山の中に入る入り口を探しながら歩いて行く。

祐樹が物珍しそうに雑木を見上げたり、下に見える街並みを見たりと頭を左右に振っている。
と、五分ほど歩いた時に山に入る入り口を見つけた。

(良かった、行き過ぎてなかった)

きっと行き過ぎてはいないだろうとは思っていたが、それでも街の中のようにお店や看板のように何かの目印があるわけではないのだから、百%の自信があったわけではない。

「祐樹、こっち」

「え?」

「ここから山の中に入るの」

こういう山の中になど入ったことが無いのだろう、祐樹が一瞬眉根を寄せたが山の中に入るとすぐに喜んだ。

「涼しーぃ! カブトムシ居るのかなぁ」

などと言ってはしゃぎだした。
確かに山の中に入ると、何度か下がった気がする。 すぐ木々に囲まれるからだろうか。

祐樹を連れて来ていいのかどうか迷ったが、一人で部屋に置いていくわけにはいかなかったし、こうして連れて来て喜んでくれているのなら、それも一つかと思いながら階段を上る。

「道から逸れないでね」

階段を駆け上る祐樹の後姿に声をかけながら、さて、どうしてここにお供え物や花束を持ってきたのかを説明しようかと思いを巡らせる。

「それにしても元気・・・」

さすがは小学生である。 階段を勢いよく駆け上っている。
最初、浅香に連れてこられた時には、階段を上がり終え坂を上がる手前で休憩を入れていた。 息が上がっていた詩甫を見て浅香がペットボトルの茶を出してくれたのを覚えている。

階段が終わり坂に差し掛かった時に横から祐樹が出てきた。

「あ、道から逸れないでって言ったのに」

道から外れると雑木のある足場が作られていない斜面である。 足を滑らせでもしたらそのまま転げ落ちてしまう。

詩甫の息は少し上がっているが、祐樹を見るとどこかホッと出来る。 その祐樹が注意をした詩甫の言うことなど意に介さず、嬉し気でもあり残念な顔を詩甫に向ける。

「ん? どうしたの?」

「虫籠持ってくればよかった」

祐樹の手にクワガタが握られている。

「わ、素手で捕まえたんだ」

「うん」

「そっか・・・。 ね、虫籠じゃなくて祐樹の服に止まらせておいてあげれば? それで部屋に連れて帰って欲しかったらずっと止まってるだろうし、ここに居たかったら飛んで行くだろうし、ね?」

「えー・・・でもぉ・・・」

クワガタなんてそうそうお会いできるものではない。 連れ帰って観察したい。

「そのクワガタのお父さんとお母さんからしたら、祐樹は誘拐犯になっちゃうよ?」

詩甫のその言いように、祐樹がプッと噴いた。 自分はそこまで子供じゃない、もう中学年なのだから。 だから挑戦するように問う。

「だったら、服に捕まったまま姉ちゃんの部屋に連れて帰っても一緒じゃない?」

「それはクワガタの意思でここを出るんだから。 祐樹の身体が電車で・・・家出?」

祐樹が大笑いをすると、残念そうな思いが顔から消える。

「ほら、行くよ」

もう息は落ち着いた。 まだ笑っている祐樹を後目に詩甫が坂を上りだす。 ひとしきり笑って追いかけてきた祐樹の服の腹辺りにクワガタがしっかりと止まっている。

坂を上りきり山の中に入ると先に社が見える。 浅香に聞かされた話からよく考えると、殆ど誰も入ってきていない場所であるはず。 それなのに足元に雑草があまり生えていない。 浅香がある程度、雑草を片付けたのだろうか。

走って詩甫を追い抜いた祐樹が社の前に立った。

「わぁー、ボロッちい」

祐樹が正直な感想を述べてくれたが、朱葉姫に聞こえたのではなかろうか。 朱葉姫のことを思うと心が痛い。

「祐樹、これ持って」

供え物の入った和菓子屋の紙袋と、花束の入った袋から一束の花束を取り出し、その袋も祐樹に渡すと社の前に屈み花束を石段に置く。 そして肩にかけていた鞄からクリアファイルを取り出すと、既に折っていた半紙を取り出し花束の横に並べて置く。

詩甫が何をしているのかが分かった祐樹が持たされていた紙袋の中から供え物を取り出し詩甫に差し出す。 来る時に買ってきた和菓子屋の詰め合わせの饅頭である。

「ありがと」

祐樹から差し出された箱を受け取ると蓋を開け半紙の上に置く。
朱葉姫やその周りに居た者たちが食べるのかどうかは分からないし、何人いたのかの確認もしていなかった。 食べるとして足りるだろうかと思いながらも気持ちが大切、と自分に言い聞かせ立ち上がり手を合わせた。

隣で祐樹も殊勝な顔をして並んでいる。 荷物を持っているが故、手を合わせることは出来ないようだが。

『ありがとう、瀞謝』

朱葉姫の声が聞こえた。 そっと祐樹を窺い見ると気付いていないようだ。 祐樹には聞こえていないのだろう。

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国津道  第6回

2021年02月05日 22時10分17秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第6回



「タクシーが来るまでに触りだけでもお話します」

詩甫が首を捻じり無言で浅香を見る。

「まずは僕のことから。 僕のことなんてどうでもいいでしょうけど、気にはなりますでしょ? それに疑われたままだと僕もあとあとやりにくいので」

「あとあと?」

「協力するように言われています」

まだ誰か何かを知っているというのか? 詩甫が小首を傾げる。

「曹司から言われていますので」

そう言って話し出した。


浅香自身、大学時代の夏に偶然この場所にやって来た時に曹司に出会ったと言う。
仲間内で目的のないドライブの最中に偶然この山の中に入って来た。 よって、ここが浅香の実家の土地であるということは嘘だったと言った。 すみませんでした、と言って話を続ける。

仲間たちと山の涼しさを味わっていた時だった。 清流に足をつけていた仲間から外れて歩き出すと社を見つけた。
ボロイ社だと思った。 社の中はどうなっているのだろうかと、格子の中を覗いたが中は真っ暗で何も見えなかった。

諦めて振り返ると一人の男が立っていた。 冷たく硬い目を持っていたが、どこか浅香と似た容貌ではあるが、体格は随分と違っていた。 浅香より頭一つほど長身で、細身であるのは浅香と同じだったが、古臭い和服の中の細い身体の中には筋肉がしっかりと付いていた。

『あんた・・・』

誰? とまで訊けなかった。 どこかで分かった。 目の前にいる男が自分自身だということを。

『力を貸してもらう』

『なに勝手なこと・・・』

そう言った途端、男から意識が流れ込んできた。

何が言いたいか理解した。 だがそれは今知らされたことに対してだけ。 言ってみれば、手紙を受け取りそこに書かれている用件を理解しただけのこと。 その差出人のことや、背景、何がどうなっているのかは分からない。

流れ来るものが終わった。 フーっと肩で息を吐く。

『どうやってその瀞謝って女を探すんだよ。 それにあんたが知ってる女だろ? もう死んでるだろうが』

『たわけたことを抜かすでない。 それならどうしてお前は今ここに居るのか』

そういう意味か。 生まれ変わりっていうことか。
そんなものを信じてはいなかったが、自分は現に今体験している、感じている。 我が身をもって納得をするしかない。

『なら、どうやって探すんだよ』

『探し出せるまでお前の目となろう』

冴え冴えとした目と声で、気持ちの悪いことを言ってくれる。 付きまとうっていうことか? それとも憑くっていうことか? どちらにしても受け入れられるものではない。

『あんたが俺の先祖とかっていうのは何気に分かってるよ』

自分自身でもあるとは言えなかった。 それは事実であろう、だが簡単には受け入れられない事なのだから。

『でも、あんたの子孫って他にいるだろう。 どうして俺を選ぶ』

男、曹司が鼻で笑った。

『分かっていて訊くのか』

子孫などとは比べ物にならない、目の前にいる男がお前自身だと分かっていて訊くのか。


浅香が話していく間に詩甫の目がどんどん大きくなっていった。 自分とはまた違うストーリーがあったようだ。

「その、曹司って人から協力するようにって?」

「はい。 ま、その瀞謝っていう子の生まれ変わり・・・、野崎さんですね、が見つからなければ、僕に託すと言っていましたけど、きっとそうなると思っていました。 まさか見つかるとは思いもしませんでした。 生まれているのかどうかも分からなければ、性別も分からない。 全くあても何も無いないない尽くし。 見つかるわけないと思ってました。 それなのに野崎さんを見つけるまで馬鹿ほどあちこち探しに行かされました」

曹司はずっと朱葉姫を見ていて出来ることならば、最後に朱葉姫に心を寄せた瀞謝に朱葉姫の想いを託そうと思ったという。

『瀞謝には芯がある。 そして真の心を持っている』 曹司はそう言っていた。

「大変な思いをさせてすみませんでした」

まさか自分が探されているなんて思いもしなかった。

「いえ、野崎さんのせいじゃありませんので」

「それにしてもすごい偶然ですね、この山に来たのもお仲間から離れて社に来たのも」

「ええ、この山に来たのは本当に偶然でしたけど、っていいたいんですけど、そうでもないんですよね」

「え?」

「何て言っていいのかなぁ・・・確かに仲間たちとここに来たのは偶然なんです。 でもこの山をどこかで記憶していたようなんですね。 それで車を停めて山の中に入ろうって僕が言い出したんです」

「覚えていたということですか?」

浅香は詩甫に何度も思い出さないかと言っていた。

「僕が野崎さんに何度も訊いたような記憶ではありません。 曹司が言うには、僕と分かれる寸前までこの山を忘れないようにと念じていたということですから、それが僕の知らないところに残っていたんでしょう」

「朱葉姫やお社のことではなくこの山を?」

「よくは分かりませんけど、ここを探すに朱葉姫であったり社の記憶を残してもなかなか見つけられないと思ったんじゃないでしょうか。 それに覚えていられるという自信もなかったんじゃないでしょうかね、それなら山の方が目に大きく映るから思い出すかもしれないと思ったのかもしれません。 間違いなく僕はこの山が気になったことですし。 で、この社に来たのは曹司の操作があったようです」

「え?」

「この山って滅多に人が来ないらしいんですよ。 それなのに人の声がした。 そういう時ってヤンチャが何かしらをしていることが多いらしくて、様子を見に来たら僕が居たと。 で、僕がすぐに曹司のことを分かったと同じく、曹司も一目で僕のことを分かって僕に社まで来るように仕向けたらしいんです。 今思えばこの時の曹司はまだ優しかったと思いますよ」

仕向けたとは、目の前にいる浅香と曹司が同一人物だから出来た事なのだろうか。 だが最後の言葉はどういう意味だろうか。
詩甫がキョトンとした顔をしているので、浅香が苦い顔をして続けて話した。

「この曹司ってヤローは勝手でしてね、何の許しも無く僕の中に入って来たりする技を持っているんです」

「え?」

「いつもはそうでもないんですけどね、野崎さんが倒れた時は急に入って来て僕の意識がぶっ飛んじゃいました。 かなり焦ったんでしょうね。 いつもは・・・なんて言ったらいいのかな・・・」

少し考えるようにしてみせた浅香が言うには、この身体を動かすに運転席に座るとしたら、最初は勝手にやってきた曹司がいつの間にか助手席に座っているという。 そして時折、運転席を曹司に取られるということであった。 その時に浅香は助手席に座るらしい。

ただ、詩甫と初めて接触をした時、救急隊員として詩甫の部屋に入り、詩甫が倒れる少し前、運転席のドアを急に開けられて助手席に吹っ飛ばされたようなものだったらしい。 少しして気を取り戻して助手席で見ていると、曹司が咳で一夜を拒む詩甫のツボを押していたと言う。

「咳? あの、どう言う意味ですか? 私、拒むも何もずっと咳が出ていて辛くて止まって欲しいと思っていただけですけど・・・」

「そうですよね、あれじゃあ辛いどころじゃなかったでしょう。 よく息が吸えて喉も傷めなかったと思いますよ」

浅香は詩甫の部屋ですぐに意識を失くしたわけではない。 詩甫の苦しむその姿を見ている。

「曹司が言うには、人の中に入ろうとした時に咳をされると入りにくいらしいんです。 それとか、入られたあとに咳をして・・・うーん、祓うっていうのかな? とにかく野崎さんは無意識に入って来ようとした者、一夜って言うんですけど、その一夜が入って来るのを拒否していたということです」

朱葉姫が一夜と呼んでいたことをすぐに思い出した。

(一夜・・・朱葉姫と一緒に居た四十歳くらいの・・・)

「あの時は僕の中に入って来た曹司が咳を止めるツボを押してたんです。 昔ながらのそんなものがあるんでしょうね。 僕たちは習っていませんから。 ま、その曹司が僕の中に入ってきて、あれやれこれやと勝手に話したり、俗に言う、乗っ取りですね。 まぁ・・・気は使ってくれてるみたいで、その時の記憶はあります。 その時は助手席に座っているわけですから、目の前の風景も見られるわけで。 だからその間に僕の身体で何か知らないことをしていただなんて心配はしていませんけど。 さっきもチョロチョロと出てきていたんですけど、気付きませんでしたか?」

そういうことだったのか、気のせいではなかったのか。 いつもの浅香と台詞や声音が違うと思ったのは曹司だったのか。

「おかしいと思いました」

「嫌な奴ですよね」

と言うと、詩甫が倒れる数十日前にやっと浅香の目を通して瀞謝を見つけたと、曹司から聞かされたと言う。 それも偶然にも浅香がいる消防出張所からさほども離れていない所に。 それまでは曹司に言われ、瀞謝探しにあちこち出向いていた。 それが全く無意味だったということだ。

曹司は瀞謝が見つかったことを一夜に報告をしたのだろう。 一日でも早くこの社に足を向かわせたいと思っていた一夜が曹司に言うことなく、何度か詩甫の中に入ろうとしたが、毎回、詩甫が咳をしてそれを阻んだらしく、そこで急遽あの日、浅香である曹司の登場となったと言う。

「いやぁー、どうやって野崎さんと接触しようかと悩んでいたら、出動先が野崎さんの所だったから驚きましたよ」

朱葉姫や瀞謝のことを知り、自分のことで精一杯のつもりだったが、浅香の方が受け入れられない状態だったのではないのだろうか。

「それは・・・何と言っていいやら・・・」

全てにおいて、そんな返事しか出来なかった。

そこへ砂埃を巻き上げてタクシーがやって来た。


浅香に送ってもらってコーポに戻って来た時には夜の九時を充分に過ぎていた。

「あれ? 電気が点いてませんね」

「え・・・どうして」

祐樹に何かあったのだろうか。
一瞬不安になりかけたがすぐに思い立つことがあった。
スマホの音を消していたのを忘れていた。 仕事中に鳴りまくってもらっては困るのでバイブにしたままだった。
もし移動中に電話が入っていれば気が付かなかったかもしれない。 スマホを取り出すと着信を示すランプが点滅している。

「何かあったのかなぁ・・・」

祐樹のことを心配する浅香に少し頭を下げてから留守電を聞く。

『姉ちゃん? えっと・・・戻るつもりだったけど、まだお父さんが帰って来なくて。 もう八時を過ぎてるから、こんな時間から姉ちゃんの所に行ったら駄目だってお母さんが。 明日朝早くに戻るから。 その、気を付けてね、何かあったらすぐに電話してね』

祐樹は八時を過ぎていると言っていた。 乗り換えやらなんやらで走っていた時にでも入ってきていたのだろう。 スマホを鞄にしまうと今も部屋に視線を送っている浅香に伝えなくては。

「浅香さん、すみません、祐樹から連絡が入ってました」

「え?」

「今日は戻って来られないって、八時になっても義父が帰って来ないようで、明日戻って来るそうです。 その、すみません、もっと早くにこのメッセージに気付いていたら、こんなに急がなくてもよかったのに」

「いや、謝らないで下さい。 引っ張りまわしていたのは僕の方ですから。 そうなんですね、では祐樹君の心配は無しってことで」

「はい」

「じゃ、ちゃんと鍵を閉めて今日の疲れを取って下さい。 引っ張りまわしちゃいましたから」

「あの、有難うございました」

「こちらこそ」

浅香を見送ると階段を上がった。

電車の中でちょくちょく嘘をついていたということを聞かされた。 明日涼みに行くという話も嘘だったと。 詩甫を連れ出すに嘘をついていたと。 そして浅香の言う前夜祭などというのも、夜勤などと言うことも、詩甫と接触するための嘘だったそうだ。

『そんなことをしていたら身が持ちませんよ』

などとアッケラカンと言ってくれた。 ちなみに結婚式は本当だったようだ。

『でもこれで嘘をつく必要が無くなったから、気が楽になりました。 煩かったんです、せっつく曹司が。 にしても嘘はいけませんよね。 すみませんでした』

これだけハッキリ言われれば疑うところなどないし、それに疑うも何も、詩甫が朱葉姫に聞いたことを浅香が知っていたのだ。 疑うどころか協力者であり、こんな摩訶不思議なことを分かち合える相手でもある。

「あれ? 曹司? ・・・どこかで聞いたような・・・」

浅香以外から。

「気のせいかな」

あまり聞かない名前だ、だから祐樹から聞いたとは思い出しもしなかった。
戸を閉めるとカチャリと鍵をかけ、チェーンもかける。

「とにかく・・・」

朱葉姫が頼むと言ってきたことは容易いことであった。
一つには供養石に花を添えて欲しいということであった。

供養石は、朱葉姫の父親が建てたものだと言う。 朱葉姫を想い、毎日毎日『紅葉姫社』 に手を合わせに来る。 その者たちが次々に亡くなっていく。 父親自身も歳をとってきていた。 父親が亡くなった後にも我が娘、朱葉に手を合わせてくれる者が居よう。 その者達の気持ちを汲みたいということで供養石を建てたらしい。
民の中には、朱葉姫を想い亡くなっていった者の僅かの髪の毛を供養石の前に埋めていたということらしい。

朱葉姫が言うには、瀞謝が来る度に社に一輪の花を添えてくれたように、供養石にも花を添えて欲しいということであった。

そしてもう一つは、もう朱葉姫を想う者が居なくなった。 いつまでもここにこうしているわけにはいかない。 もっとずっと前に身を引きたかったが、民が建ててくれたこの社を放っていくには耐えがたい、それに民が心で建ててくれたこの社を朽ちて終わりにさせたくない。
だから最後にこの社を大切にしてくれた瀞謝に社の最後を頼みたいと言ってきたのだった。

瀞謝の頃の記憶が一部ではあるが詩甫にはまざまざと蘇っていた。 瀞謝の気持ちを思うと、とてもではないが社を取り壊すなどと、そんなことはしたくはない。 朱葉姫にもそう言った。
すると朱葉姫が柔和な微笑みを持って『瀞謝?』 と詩甫を呼んだ。

『祀られる者は祀る者が居てなればこそ。 祀る者の幸せを願うことが出来るのですから。 ですがそのような者はもう居りません。 わたくしの願いは終わりました』

そんな風に言われてしまった。
それではここを知ったのだから、今日から私が守ります、お祀りします、などと無責任なことは言えなかった。

浅香が協力するというのも社の取り壊しに当たって、この山の持ち主に了解を得て、役所手続きや解体屋、そしてその前にどこかの神職に拝んでもらう手配をすると言っていた。

今の世に生きていない曹司がそこまで考えているとは思えないが、何か手を携えろと言ったのは現代ではそういう事になる。
曹司が何と考えているかは分からないが、今の世の有り方、手続きを考えるだけで悲しくなってくる。
電車の中でそんな話をしていると

『今のままの方が朱葉姫は辛いと思いますよ』

浅香がそんな風に言っていた。 曹司がそんなことを浅香に言ったのかもしれない。

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国津道  第5回

2021年02月01日 22時24分00秒 | 小説
- 国津道(くにつみち)-  第5回



ドクンと心臓が撥ねた。 途端、まるで身体が心が豊かな大海を彷徨うように海中に任せた。 いや任せられてしまった。
その身に心に声が聞こえる。

『瀞謝なの? ああ、瀞謝。 よく来てくれました』


いつもいつも瀞謝の心の中に聞こえていた声。 耳になど聞こえない声。 きっと思い過ごしの声。
社の前で手を合わせると社の周りを掃除する。 毎日掃除をしたかったが相ならず数日に一度。


少しの間のあと、詩甫が口を開いた。

「あ、え?」

詩甫の表情を見て浅香が頬を緩める。

「少しは思い出されましたか?」

「え・・・」

「疑問があるのであれば解決をしませんか?」

「・・・」

「この先に進むとその疑問が解決されます」

挑戦的な、撥ねっかえりが相手だとこれに乗ってくるだろう。 だが詩甫はそうでは無い。 外に力を撥ねるのではなく守りを固める性格だ。 だが浅香は敢えてこの方法を選んだ。

「行きましょう」

差し出された手、浅香の表情が変わった。

浅香に手を引かれ、坂を上ると平らな地に出た。 その奥に入って行く。

「当時より鬱蒼としておる」

(・・・当時? どういうこと?)

それにまたいつもの浅香の台詞ではない。 声のトーンも一つ低い。

「僕も此処だけでは思い出しませんでした」

いつもの浅香の声音で笑みが振り返った。 どういうことだろうか。
浅香の足は止まらない。 それでも詩甫に合わせているのだろう、手を引かれている詩甫が急ぎ足になるわけではない。
いくらか歩くと目の先に社らしきものが見えた。

「・・・お社?」

「はい、そうです。 この辺りを見て何か思い出しません? あのお社とかこの緑とか」

「え?」

また?

「うーん、やっぱり無理かな。 きっとあんまりにも変わり過ぎていますもんね」

「お社と緑?」

「ええ、お待ちです」

「え? お待ちって・・・?」

「社に向かうよう」

戸惑う詩甫に浅香が笑みながら言った。 だがそれは浅香の明るい笑みとはかけ離れた笑み。 悲し気な笑み。

このまま歩いて行っていいのだろうか、何があるのだろうか。 そう思うが、足が手を引かれるままに動いてしまう。

社の前まで来た。 賽銭箱など見当たらなく、社頭に設けられた鈴は青緑の錆が付き、下に垂れていなければならない紐などは残骸さえ見当たらない。 錆が付いていようが、よくぞ鈴が残っていたと言わざるを得ない程の状態。
八畳ほどの社の所々で傷み始めてきている。 今は乾燥しているようだが、雨が続けばそこから腐ってくるかもしれない。 長年放置されていたのだろう。 台風でも来れば一気に崩れ落ちるかもしれない。

「ここ、は・・・?」

「手を合わせればよい」

腰つき格子戸の前まで詩甫の手を引いてそっと放す。
足元には腰つき格子戸の下に一段の石段がある。 その手前に立たされた。

本当は手を合わせることすら必要ない。 もう朱葉姫から話しかけられ、それを心で聞いたのだから。 この娘は間違いなく瀞謝。

「あ、あの・・・」

振り向いた詩甫の目にふっと浅香の目の奥が変わったように見えた。

「僕のことは気にしないで、どーぞ」

そう言うと数歩退く。

どうしたものかと思うが、社まで連れてこられては手を合わせないわけにはいかない。 バッグを傍らに置き両手を合わせる。
寂れた社。 それなのに清々しい緑の風が社の中から吹いてくるようだ。

目を瞑る。

神社にしても寺にしても、行った時には必ず手を合わせ「有難うございます」 ただそれだけを言っていた。 願い事など・・・聞いてもらったことが無いのだから。 叶えてもらったことなど無いのだから。 でもどうしてだろう、願い事を諦めた時から「有難うございます」 そう言うようになってしまっていた。

心の中で「有難うございます」 と言いかけた時
ドクン。
また心臓が撥ねた。 それを切っ掛けに、自分の身体が一回り大きくなったり、元に戻ったりを繰り返している感覚。 不安になってそっと目を開けた。 目の前に格子が見える。 そして格子の間から見えるその奥は・・・。

あ、っと思った時には、社の中に入っていた。 いや社の中だろうか、社はこんなに広く明るくなかったはず。

「瀞謝、ようやっと来てくれたのですね」

目の前に美しい姫が座っている。 幾重もの袿(うちぎ)に赤い唐衣が広がっている。 その姫が立ちっぱなしで何度か目を瞬かせた詩甫を見て相好を崩している。

「え・・・あの」

どういうことだろうか、何が起きたのだろうか。 それに山の中なのにこれほどの着物を着て座っているのは・・・いったい誰なのだろうか。
頭の中が混乱しそうになるが、心のどこかで落ち着いている自分が居るのを自覚している。 そして無意識に口から姫の名を呼んだ。

「・・・紅葉姫、様?」

「相変わらずじゃのう、これ、瀞謝、朱葉姫様と仰いな」

「え?」

目を横にずらすと四十前後だろうか、こちらも着物を着て少し離れた所に座っていた。

「一夜、良いではありませんか。 瀞謝はずっと紅葉姫と呼んでいたのですから」

「・・・その声」

「ええ、この社をいつも清めてくれていたので礼を言っておりました」

『ありがとう、瀞謝』と。

「さきほども、ようやっと瀞謝が来てくれましたので」

『瀞謝なの? ああ、瀞謝。 よく来てくれました』



瀞謝は毎朝、陽が昇ると家の手伝いをし、弟妹の面倒も見ていた。 そして手を空けられる時間がある時にはすぐにこの社にやって来ていた。 

社に手を合わせ、自作の竹箒で落ち葉を掃き、社の中に入ることはままならないと思い、外側だけをぼろ布で拭いていた。 そしてここに来るまでに見つけて手折ってきていた花を一輪添えると、もう一度手を合わせる。 するといつからか『ありがとう、瀞謝』と、心の中に聞こえてくるようになっていた。
それは瀞謝の気のせいだと思っていた。 でもその言葉が嬉しかった。

社には『紅葉姫社』 と、もうはげかけた文字で薄っらと書かれていた。 だからこのお社には紅葉姫様がいらっしゃるのだと思っていた。
だから『紅葉姫様、この地に留まることになった瀞謝と申します』 と最初に挨拶をしていたのだった。


瀞謝が生まれる五百年程前。
この辺りの豪族であった朱葉の祖父が郡司を任されていた。 郡司は世襲制で後に朱葉の父親が郡司となった。
まだ祖父が郡司の頃から朱葉は幼いながらも民によく添っていた。 祖父がそうであり、父もそうであったからなのかもしれないが、生まれ持ってのことが大きかったのだろう。

その朱葉が十八の歳の時に苦しみながら倒れた。 その長い苦しみの中、身罷(みまか)ってしまった。 民は嘆き悲しみ、当時の郡司であった朱葉の祖父に朱葉の社を立てたいと申し出た。

民の気持ちは有難かった。 我が孫、朱葉がしてきたことは民の心に浸透していたのだ、そう思うと首を縦に振らずにはいられなかった。 だが中央の目がある。 大きな社は建てぬようにと、そして里ではなく目のつかない山の中に建てるようにと、それだけを口にした。
そして民たちの手によって、祖父の持つ山の中にこの社が建てられた。

『朱葉』 それは紅葉(もみじ)の紅葉(こうよう)を示すような名。 朱葉が幼い時には『朱葉姫様のお手はまるで紅葉のようで御座います』 民がよくそう言っていた。

小さな紅葉のような手で、民が倒れればその手で背をさすり、怪我をすれば患部にその手で薬を塗り、着物が破れてしまっては、拙いなりにもその手で針を持ち繕ってやっていた。 いつからか民の間で朱葉姫は通称紅葉姫となっていた。

そこから祀られているのは『朱葉姫』 ではあるが、社の名を『紅葉姫社』 とした。 当時はしっかりと社に『紅葉姫社』 と書かれていて、腰つき格子戸の前には『朱葉姫』 と書かれた板があったが、長い年月の風雨の中、その板は無くなってしまっていた。

五百年も経てば、国の状況も民の習俗も変わる。
それまでは朱葉姫を知らない者も先祖から受け継いだ話を聞き、手を合わせ社の修繕もしていたが、段々と手を合わせに来る者も来なければ、その存在さえ忘れ去られていった。

それはある噂が一因を持っていたのかもしれないが、そんな時に家族で麓に流れてきた瀞謝がこの紅葉姫社を見つけた。 そのころはまだ、埃や枯葉で散らかりはあったものの、今ほど社が朽ちているわけではなかった。

瀞謝は『紅葉姫社』 という可愛らしい社の名にも惹かれたが、なによりその佇まいに惹かれた。 どうしてだかは分からなかったが。
それなのに風雨にさらされたまま。 このままにしておくことが出来なかった。 それからは来ることが叶えば掃除をしに来ていた。



朱葉姫が目を細め改めて詩甫を見る。 朱葉姫の前には詩甫ではなく、当時の瀞謝が立っている。

「懐かしや」 そう一言漏らした。

詩甫の脳裏に瀞謝であった頃のことが思い出され、その姿が瀞謝と変わっていた。 この社を初めて見た時のこと、それからは自作の竹箒を持ち、社の周りを掃き清め、格子の一つ一つを時間のある限り拭いていた。

「朱葉姫様・・・」

もう先程言ったように『紅葉姫、様?』 などと疑問符はつかない。 それに正しく名を呼んでいる。
どうして瀞謝がこの社の佇まいに惹かれたのかがやっと分かった。 目の前にいる朱葉姫の内なる姿、外見、そのようなものが社に映し出されていたのだ。 清楚でいて何もかもを包み込むそんな優しさを持った社だったのだ。

「まぁ、ありがとう。 初めてわたくしの名を呼んでくれるのですね」

「ええ、もう朱葉姫様はお子ではありませんので。 瀞謝にも分かってもらわねば」

「まぁ、一夜、そんなことを言っても瀞謝の知らない事」

一夜に合わせた視線を詩甫に戻しにこりと微笑む。

「姫様、そろそろ」

男の声がした。 今まで気付かなかったが後ろに何人もの男と女がいた。 その中の一人が膝行で進んできて朱葉姫に促したのだ。

どこかで見たことがあるような顔。 詩甫である瀞謝が首を傾げる。

「ええ、そうね」

伏せ目がちに男に応じると再度、詩甫に視線を戻す。

「瀞謝、頼みがあります」


フッと息を吐いた。 すると格子の前に居た。 合わせていた手を下ろす。 格子の間から中を見るが、そこは闇に包まれているだけだった。 だが清涼な空気を感じる。

振り返ると詩甫のバッグを持った浅香が立っていた。
浅香がにこりと笑む。
どうしたものだろうか、なんと言っていいのだろうか。 頭の中で逡巡していると浅香の声が聞こえた。

「鞄、結構重かったんですね。 気が付かなかなくてすみませんでした、上ってくるとき僕が持てばよかったですね」

え・・・そういう話?

「まだ祐樹君が帰って来るまでには時間に余裕があるでしょうけど、えっと、一応確認で。 遅い時間って何時ごろですか?」

「あ・・・八時ごろかな」

早くて、ということだが、今日は朝から接待で出かけているはず。 残業ほどには遅くならないはずだ。

「え? それって、遅い時間ですか?!」

浅香タイムと随分外れている。
だがよく考えればわかることだった。 祐樹は小学生なのだ。 午前様どころか、深夜近くの時間に戻ってくること自体あり得ないことだった。
すぐにポケットからスマホを出したがアンテナが立っていない。 クソッ、と言ってスマホをしまう。

「急いで山を降りましょう!」

急いで下さい、と言われて詩甫の手がとられる。
その時に朱葉姫から言われていたものが目に入った。
来た時には気付かなかったが、朱葉姫が言っていた通りに少し離れた社の斜め前に、高さ百五十センチほどで先の尖った石が立っている。

「あ・・・」

「ん?」

浅香が詩甫の目の先を追う。

「ああ、そうです、あれが供養石です。 あのことを言ってたんですよ。 今で言う供養塔みたいなものです。 ま、単なる石ですけどね」

「え?」

どうして朱葉姫が話したことを知っているのか。 それによく考えればそれ以前だ、どうしてここに連れてきたのか。
詩甫と浅香の目が合う。

「んっと、完全に怪しまれてますよね。 ま、仕方がないですよね。 詳しいことは道々お話しします。 それより急いで下さい」

浅香が詩甫の手をぐっと引いて軽く走りだす。
やって来た時には疲れたこともあり、手を取られても改めて何とも思わなかったが・・・。

(救急隊員なんだから・・・人の手を取ることくらい何ともないこと・・・)

べつに恋愛対象として考えているわけではない。 浅香のこの行動に対して考えている。
この浅香という男はいったい・・・。

「僕の考えが浅くて申し訳ありませんでしたが急いで下さい。 祐樹君に心配をかけてしまう」

祐樹が帰った時に詩甫が居なければどれだけ心配をするだろう。
さっき実家の話の時にはとぼけて応じていたが、今日までの間に詩甫自身のこと、家庭環境、そして詩甫と祐樹の事は調べている。 仲の良い姉弟だ。 それに詩甫自身も言っていた。 祐樹が懐いてくれていると。

今回のことで詩甫と祐樹の間に溝を入れたくはない。 曹司はそんなことを考えていないだろうが、俺は浅香亨だ。 曹司ではないのだから。

浅香に手を引かれるままに坂道を走り、階段を駆け下りた。
上りと違って随分と楽である。 それに急いでいると言っても相変わらず浅香は詩甫の歩幅に合わせてくれている。

少々息は上がったが、一度の休憩も挟まず山から下りることが出来た。 スポーツこそしていないが、会社で三階まで上り下りしているおかげだろう。

「くっそ、タクシーを待たせておけばよかった」

そう言いながらスマホでタクシーを呼び出している。
スマホを切ると「有難き文明かな」 などと言ってスマホを両手に挟んで一礼するとポケットに入れた。

「必ず間に合わせます。 なんて言えないんだよなー、この田舎。 この時間の電車の本数って少ないし。 自家用ジェットなんてあれば別なんですけどね」

「それって飛行場からまた時間がかかりますよ?」

「じゃ、自家用ヘリ」

「ヘリコプターが下りられるところなんて近くにありません」

「ですよね・・・」

どうしてこんな会話が出来るのだろうか。 ついさっきのことがあったというのに。
沈黙が生まれた。 それは当たり前だろう。

詩甫は詩甫なりに思うところがある。 ついさっきのこと、そしてそれを浅香が知っていたということ。 どこからどこまで何を知っているのか分からない。

それに詩甫自身も思い出したことがある。 瀞謝として生きていた時のこと。 それは受け止められている。 冷静にかと問われれば戸惑うところはあるが。

そして何より、朱葉姫から言われた二つの頼み事・・・。 一つは他愛もないこと。 だが思い出した以上、もう一つはそんなことをしたくない。

浅香が詩甫をチラリと見た。 雑木を背に地道に立っている。 それもビジネススタイルで。 でもまっ、と考える。 たとえネクタイを外したと言っても自分も革靴に礼服だ。

道の端を除いてかろうじて敷かれているアスファルトの上に、風に煽られ山から飛んできたであろう砂がアスファルトを薄く覆っている。 対向車が来るとどこか広い所で譲り合わなければならない決して広くはない道。

もう夕刻を過ぎようとしている。 西の空は茜色に染まっている。 この季節だからこそこの時間になってもこの西陽。 完全に八時には間に合わないだろう。

詩甫は何を見ているのだろうか、どこを見ているのだろうか。 祐樹のことを考えているのだろうか。
焦っても仕方がない。 間に合わないものは間に合わないのだから。 電車の中を走ったとて時間が縮まる訳でもない。

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