大福 りす の 隠れ家

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国津道  第30回

2021年04月30日 22時38分50秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第30回



会社に行くと願弦を避けるように現場に足を運ばなかった。 願弦からの話に諾とせず朱葉姫のことを話さなかったのだから。 心配して訊いてくれたのに。

そして願弦も新年の挨拶に事務所に来ただけで、すぐに現場に戻りそれ以降は事務所に来ることはなかった。 元々事務所にはあまり来ないので不自然なことではない。 それに初日だ、忙しいのだろう。

「ん? 野崎さんどうしたの?」

廊下を歩いていると、男性社員が詩甫の絆創膏に気付いた。 その指が詩甫の顔を指し、手の甲に足にと徐々に下に降りていっている。

「あはは、こけちゃいました」

「こけたくらいでそんなことになる?」

「遊びに行った先で階段をずっこけたんですよ」

詩甫は言っていない。 声の主を見ようと振り向くとそこに加奈が立っていた。

「え? うそ・・・」

男性社員が加奈と詩甫を交互に見る。

「詩甫ってうっかりな所があるから、足を滑らせたんですよ。 以外でしょ?」

「あ・・・うん」

男性社員の間では詩甫はしっかり者だと思われている。 詩甫にとってそれは誤解であるとは思っていたが、何を言っても聞いてはもらえなかった。

「女子の間では当たり前の事なんですけどね」

加奈が男性社員を横目で見る。

「そ・・・そうなんだ」

「そうですよ。 何度も言ってますよね?」

加奈に目配せをされた詩甫が言う。 今までも何度も言っていたことである。

「・・・そうか、そうなんだ・・・。 えっと、大丈夫?」

「はい、加奈がよくしてくれましたから」

加奈に睨まれているような気がして及び腰になった男性社員。

「・・・そっか。 お大事に」

男性社員が去って行った。
その姿を見送って加奈が口を開く。

「大丈夫?」

「ごめん、心配かけて。 でももう、絆創膏ですむ範囲だから」

加奈にはラインで事後報告をしていた。 あくまでも身体のことで、だ。

「そういう意味じゃないよ」

「え?」

「座斎(ざさい)」

「え?」

今、話していた男性社員である。

「座斎、詩甫を狙ってるからね」

「は?」

「他の男だったら何も言わないけど、座斎はね」

「・・・どういうこと?」

加奈の言う狙っているというのは恋愛対象の事だろう。 それくらい分かる。 だが加奈の言う『座斎はね』 それはどう意味であろうか。

「なに? 詩甫は座斎がいいの?」

加奈が眉間に皺を寄せる。
その加奈を見て詩甫が思いっきり首を振る。

「そういう意味じゃない」

「だったら何?」

「座斎さんのどこがいけないの?」

思いっきり首を振った詩甫に負けないくらい、加奈が思いっきり息を吐く。

「詩甫・・・、知らないの? そっちのフロアーには広がってない?」

四階建てのビルである。 一、二階は商品倉庫で入出荷を兼ねている。 三階が現場に近い仕事をしている階で、入出荷の伝票や在庫管理をする詩甫の在籍する商品管理課と、営業課が受付を兼任している。
そして加奈の居る四階は労務課や経理課が入っている。

「おっかしいなぁ、一つの階をとんで話が広がってるって」

「え? 何?」


夜、浅香が詩甫に連絡を入れた。
瀬戸は抒情詩的なことは一切考えなかったということらしい。 そして詩甫が望んだお婆の子孫との接触。

「ちょっとした言葉にも気を付けるようにと言われました」

どうしてそこまで気を張っているのだろうかと考えるが、門前払いをくらわされた瀬戸なりに何か感じるものがあったのかもしれない。

「家の場所はタクシーに言えばすぐにわかるということでした」

ドキン
詩甫の心が撥ねた。

「野崎さん?」

スマホの向こうから返事がない。

『・・・あ、はい』

「どうかしましたか?」

浅香が大蛇と思われる “怨” を疑った。 詩甫にまた何かあったのだろうか。

『いえ、何でもありません』

詩甫が言うように浅香の考え過ぎである。 浅香が家の場所と言った途端、もしかしたら何かのヒントではなく、核心に触れられるのかと思っただけである。

まだ鼓動が鳴りやまない。
週末、お婆の子孫に会いに行くことになった。



詩甫の初出勤の日の早朝に遡る。
お婆の子孫の家では早朝から七草粥の用意が始まっていた。 七草を山に摂りに行くということである。

「大婆、胃がもたれたろう」

大婆と言われたお婆さんが言った相手をねめつける。 その大婆は歳にもかかわらず正月から毎日餅を食べていた。

「長治、わしを馬鹿にしとるのか」

長治と言われた男が両手を振って否と応える。
この大婆は、あと千年ほど生きるであろうと思うくらいしっかりとしているのだから。

「そんなことあるわけないだろに」

長治が大婆と言った相手は曾祖母である。 長治の婆さんであり、曾祖母の娘は九十の歳手前で亡くなった。 長治が大婆と呼ぶ曾祖母は、御年百歳を超えて身体は思うようには動かないが、まだまだ内臓も頭の中もしっかりとしている。

大婆が長治をチラリと見た。

「次郎に電話があったようだが?」

次郎というのは長治の長男であり、浅香からの電話を受けた相手でもあり、瀬戸にすごみを利かせ玄関払いをした相手でもある。

次郎が電話で聞いた話を大婆にするはずはない。 誰が大婆に言ったのか・・・電話の会話を小耳にはさんで聞いていた長治の孫、次郎の子供あたりだろうか。
長治は次郎から電話のことは聞いていた。

「大蛇のことを訊きたいと言ってきていたようだ」

「・・・そうか」

「何年か前にも訊きに来た高校生が居たけど―――」

大婆が最後まで言わせなかった。

「次郎が追い帰したのだったかな」

当時の大婆はまだ九十代だった。 まだ、といっても大概だが、今は百歳を超えているというのに記憶がしっかりとしたものだと、話の先を取られた長治が舌を巻く。

まだ若かった次郎から長治を介して大婆はその話を聞いていた。
次郎にしてみれば、話が複雑になるようなら父である長治を呼ぶつもりだったが、それに及ばなかったと言っていた。

二人が話している高校生というのは瀬戸のことである。
当時の次郎は瀬戸の三、四歳ほど上であった。 瀬戸と同じ高校生ではなく働いていた。  高校生であった当時の瀬戸にしてみればそこが大きく影響を与えていた。

瀬戸が高校一年生であったとして、二年上の高校三年生はかなり大人に見える。 すごまれれば亀のように首を引っ込めてしまう。 それが三、四歳ほど上ということを知らなくとも歳上に見え、働いているとなれば持つ雰囲気が全く違う。

瀬戸が大学生ならば少しは違ったのかもしれないが、相手は完全に大人だ。 すごまれれば尻尾を巻くしかなかった。

長治が頷く。

「何かあればわしを呼ぶつもりだったらしいけど」

当時言った言葉を繰り返す。

「五十年かどれほど前か、朱葉姫様のことを訊きに来た者もおったが、二回も続けて大蛇のことか」

大蛇のこととなると大婆の機嫌が悪い。 それに今大婆が言った五十年ほど前の話はそんなことがあったと大婆から聞かされただけで長治が相手をしたわけではない。 どんな話だったのかを長治は知らない。

そこに明るい声が入った。
次郎の子供であった。

「大婆! 七草粥の材料が揃った!」

次郎の子供、それは長治の孫でもある。
朝早くから母親と一緒に七草を探しに出ていた。

「そうか。 順婆に持って行け」

順婆とは順菜という名前からきている。 長治の母親であり、大婆から見て孫であり、明るい声を出した小さな少年の曾祖母である。 曾祖母の母である高祖母であり大婆から見て大婆の娘は既に亡くなっている。

この少年から見て大婆は五代上の婆になる。 大婆が長生きなのもあるが、この家系は早婚である。

「うん」

長治が孫を見送ると、大婆に目を合わせる。
大婆がフッと息を吐く。

「大婆・・・」

「馬鹿どもが。 わしらが知っておればそれでいい。 次郎にそう言っておけ」



詩甫にとって正月休み明けの最初の土曜日の休日であった。 浅香と待ち合わせをしてお婆と言われている子孫に会いに来た。

その子孫が居る家の玄関の前に二人並んで立っている。 まだチャイムは鳴らしていない。

社に行くに、タクシーでいつも降りる場所を通り越してやって来た。
昔からの家らしく玄関の門など無く、車一台が通れる幅のアスファルトが敷かれた道路からそのまま敷地内に入る格好である。 周りの家も皆同じようなものであった。
この家のどこかに瀬戸の実家があるのかと、タクシーを降りた時には辺りをキョロキョロとしたのは浅香だけであった。

浅香が詩甫を見る。
詩甫の顔色は、待ち合わせをしていた時からあまり良くなかった。 何度か尋ねたが「何ともありません、大丈夫です」 と応えるだけだった。
再度浅香が問う。

「野崎さん、大丈夫ですか?」

俯いていた詩甫が顔を上げ浅香を見る。

「何かあるのなら、今回は止めておきましょうか?」

詩甫が首を横に振る。

「野崎さん?」

「すみません、緊張しているだけです。 何ともないです」

詩甫が緊張と言った。 それはどう言った類の緊張なのだろうか。 浅香が頭をもたげた時、後ろから少年の声が上がった。

「あれ? うちに用?」

七草粥が揃ったと大婆に報告した次郎の子供であった。
少年を見た後に思わず詩甫と浅香が目を合わせる。

浅香が詩甫から目を外して少年を見る。 まだ小学生だろう。 小学一年か二年。 口の利き方から二年生だろうか。 その少年が犬のリードを持っている。 散歩から帰ってきたところだろう。 犬が吠えまくっている。 充分番犬になる犬だ。

「あ、えっと・・・」

「父さんが言ってた電話をくれた人?」

しっかりとしている。 体躯の判断では誤ってしまうかもしれない。 小学校三年生かもしれない。
浅香が頷く。
この少年は電話でアポイントを取ったことを知っている。

「うん、今からお訪ねしようと思ってたんだけど・・・君―――」

君はアポイントを取った人の息子? と訊きたかったが、少年が先をとる。

「入って」

再度、浅香と詩甫が目を見合す。
浅香が瀬戸から聞いていたこととあまりに違いすぎる。 詩甫にしても浅香が瀬戸から聞いていたこと、そして瀬戸が書いていることとは違いすぎるとは思ったが、今日はまだ初見だ。 返事次第、訊き方次第で変わるのだろう。
そう思うと余計に緊張するのであるが。

少年が吠えまくり威嚇する犬のリードを引っ張り、玄関横に付けられたフックに掛けると「こっち」 と言って先を歩いた。
犬が浅香たちに向かって吠え続けている。
詩甫が尻ごんだが、玄関を潜るに犬に噛まれる距離ではない。

「行きましょう」

浅香が詩甫の横に付いて歩を出した。

少年が座敷に浅香と詩甫を案内すると「待ってて、父さんを呼んでくるから」 と言い残して出て行った。
瞳が生き生きとし白目部分が澄んでいた。 まるで生まれて間もない赤ちゃんの目を見るようであった。

座敷で正座をした詩甫と浅香。
浅香は正座が苦手だと言っていた。

「待っている間は足を崩していても良いんじゃないですか?」

「あー、はい」

空を見て返事をするが崩す気はなさそうである。 浅香もそれなりに緊張しているのであろうか。

暫く待たされた後、襖を開けて男が入ってきた。 背は特に高くないが見るからに筋骨が発達している。 座った目である。 角ばっている顎が余計とそう見せるのかもしれないが、この目で帰れと言われれば高校生ならば尻尾を巻くだろう。 改めて瀬戸の気持ちが分かった。

「大蛇のことを訊きたいって?」

男が座りながら言った。

少年が父親を呼んでくると言っていた。 この男が少年の父親であり、聞き覚えのある声である、電話に出た男に違いない。 あまり少年とは顔も身体つきも似ていないが、きっと少年は母親似なのだろう。

浅香が頷き「お忙しいところを申しわけありません」 と言い、まずは年明け早々に連絡を入れたことを詫び、次に浅香と詩甫の自己紹介をした。
男もそれに応え「わしは次郎」 と言い口を閉じた。

浅香と詩甫はアポイントをちゃんと取った来客である。 それなのに茶すら出されていない。
帰れ、と態度で示していることなのだろうかとは思うが、ここで帰るわけにはいかない。 瀬戸から言われている一言一言に気を付けながら、どれだけ迂遠になろうとも大蛇のことを訊かなくては何も始まらない。 あまりにも迂遠に訊く気はないが。

「電話で言っていました、大蛇のことをお伺いしたいのですけど」

昔語りとは言わないようにしていた。

「大蛇の何を」

返事をしてくれるだけ有難い。

浅香が詩甫に目を合わせた。 事前に作戦を組んでいた、瀞謝の時の記憶を話せということである。
詩甫が小さく頷くと、小さくゴクリと唾を飲む。

「お社があるお山に大蛇が居るということ―――」

次郎が目を剥いて詩甫の言葉を遮(さえぎ)る。

「い! 今何と言った!?」

「お社があるお山に大蛇が居ると・・・」

次郎が目を剥いたまま動かない。 どうしたものかと思ったが、そのまま続けて話した。

「その大蛇のことを教えて頂きたく、今日お伺いしました」

「だ、誰に訊いた」

この二人はこの村の者でも、この地域の者でもない。 どこで誰に聞いたのか。

「え?」

「あの山に大蛇が居ると誰に訊いた!」

あまりの剣幕に驚いたが、事前に瀬戸から聞かされていたことを浅香からそれなりに聞いている。 構えはある。 それに浅香と考えた嘘の話も立てている。

「直接聞いたわけではありません。 私の母の実家は九州ですけれど、何百年も前はこちらに住んでいたようで、実家の蔵の整理を手伝いに行った時に、いつの時代かは分からない程前の日記のようなものが出てきたんです。 そこにあのお山に大蛇が居ると書かれていました」

そこからは瀞謝として生きていた時の話をした。 社の掃除をしに行っていたと。 瀞謝が日記を書き記しているわけではなかったが、詩甫の記憶にある。 それを日記のようなものと称して話した。 それに母親の九州の実家には蔵などない。 浅香が考えた事であった。

「お山には大蛇が居ると言われていた。 大蛇に睨まれると本人だけではなく家族も睨まれる。 そして不幸が降りかかると言われていたようですが、書き記した私の先祖は親にそう言われながらも、行くなと言われながらも、あのお山にあるお社に行っていたようです。 嫁いだ日を最後に何も書き記されてはいませんでしたが、先祖は・・・日記を残した先祖は、何度も日記に書いていました。 お山の大蛇とは誰の事なのかと」

「誰?」

大蛇とは言え、それは蛇である。 大きな蛇、それが大蛇である。 単なる蛇。 普通はそう考える。 それなのに “誰” と訊いた。

「大蛇(だいじゃ)は大蛇だろう。 大蛇(おおへび)だ」

詩甫が首を振る。

「お山に大蛇が居ます。 その正体を知りたいんです」

「正体?」

「日記を残した先祖は何百年も前に亡くなっています。 ですがずっと大蛇のことを気がかりにしていることを書き記していました。 見ず知らずの所に嫁いだのも、先祖がお山のお社に行くことを阻止したいと先祖の両親が考えたものでした。 そうしなければお山に居る大蛇に先祖が睨まれ家族に不幸が訪れると考えたから、そう書き記してありました」

次郎がゴクリと唾を飲んだ。

「日記を残した先祖の疑問を・・・先祖は今はもう生きてばいません。 私が何を教えて頂こうとも先祖の耳には聞こえないでしょう。 ですが心で分かってもらえると思っています」

そう、詩甫の耳で聞けば瀞謝の心に聞こえるのだから。

詩甫が座布団から身を外すと手を着いて頭を下げた。

「お願いします、大蛇のことを教えてください。 大蛇と言われるのが誰のことなのかを」

昔々は “大蛇” と言えばそのままの姿の蛇を想像しただろう。 誰かがその姿を見たかもしれない。 だが詩甫は近年に生きている。 山に大蛇(おおへび) は居るかもしれない。 ニシキヘビなどは相当に大きい。 だが大蛇と恐れられるほどだろうか。 とぐろを巻いて何十メートルもの大きさがあるだろうか。

無いだろう。

どこかで歪んでいる。 思い込まされている。
思い込ませたのは大蛇の皮を被った誰かかもしれないし、この地の他の人間かもしれないし、この地の者ではないかもしれない。 だがそれは知識のある者、力のある者。 そうでなければここまで昔語りとして残らないだろう。

詩甫を突く力のある者。 詩甫はあの時のことを誰かに突かれたと記憶している。 感触も残っている。
それは突く手のある者。
蛇に手などない。

次郎が立ち上がったのが分かった。

下手を打ったのだろうか。 下げていた詩甫の顔色が一瞬にして変わる。

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国津道  第29回

2021年04月26日 22時00分16秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第29回



半眼で少々睨んではいたが、祐樹がフッと雰囲気を変えた。

「浅香は料理するの?」

責められると思ったが意外な言葉が祐樹から出た。 この状況から解放されたようだ。

「んー・・・レパートリーとしては・・・カップ麺、カップ焼きそば、カップスープと即席みそ汁かな」

「即席みそ汁?」

カップ系は知っている。 袋ラーメンの情報を得た時に友達から詳しく聞いていた。

「うん、知らない? 具と味噌が袋に入っててそれをお椀に入れてお湯を入れる。 するとあら不思議、みそ汁の出来上がり」

再度祐樹の目が半眼になる。

「それって・・・全部お湯を入れるだけじゃないのか?」

「ご明察」

「オレの方がよっぽどマシじゃないかー」

あの卵焼きモドキにこの多足宇宙人ウインナー作の料理人に言われたくはないし、卵焼きはきっと詩甫が味付けをしたのだろう。 卵焼きの横に並べられていた三つ葉の入った出汁巻きは格別に美味しかった。 だがそんなことは言えない。

(うー、僕って大人ぁー)

それに祐樹の突っ込みは尤もだ。 湯しかいれていない。 自覚はある。

「浅香、料理したことないの?」

「ない」

まごうことなく速攻言い切る。

「・・・ま、オレも袋ラーメン以外は今日が初めてだったけど」

「カップ麺じゃなくて?」

「カップ麺って高いらしいし」

「え?」

祐樹から同級生が話していたことを聞いた。 そしてどうして袋ラーメンを作るようになったのかも。
袋ラーメンは五食入っている。 それで三、四百円ほどと記憶している。 対してカップ麺は一食軽く百円越え。
コンビニで買っているカップ麺の浅香価格である。 だが浅香の通うコンビニに袋麺はない。 その浅香がどうして袋麺価格を知っているのか。
スーパーになど行かない浅香だが、仲間とあれやこれやの時にはスーパーに行く。 そこで袋ラーメンの価格を何気に見ていた。

「姉ちゃん、切符代を渡してくれようとするんだ。 オレ、受け取らないけど」

「そっか」

祐樹は祐樹なりに、金銭的に詩甫に迷惑をかけないように思っているのだろう。

「オレ・・・」

祐樹が下を向いた。
浅香が詩甫を見るといつからなのだろうか、箸を置きファイルを見ている。

「なに?」

「姉ちゃん・・・」

祐樹は何か言いたいのだろう。 でも言えないのだろう。 それが何かは分からないが、詩甫の心配をしているのは知っている。 だから知っていることを言おう。

「野崎さんには頼れる人が居るらしいよ?」

「え?」

「会社の人だって」

「そ・・・そんなのオレ聞いてない」

祐樹以外の誰に頼っていたのか。 そうは思うが、袋ラーメンを買うことすらできない自分だということは分かっている。

「ああ、誤解しないで」

「え・・・」

「今の野崎さんは朱葉姫の事しかない。 それは何気に分かるよね?」

「・・・うん」

「その人は朱葉姫の望みを叶えてくれるのに協力してくれるかもしれない・・・ってこと」

「え・・・」

「僕もよく知らないんだけどね」

浅香と祐樹が詩甫を見る。 その詩甫は二人に気付くことなくファイルに目を這わせている。

「お腹一杯になったんなら、単行本読む?」

浅香が抱えてきていた単行本だ。

「まだおかず残ってるし・・・」

せっかく詩甫が作ってくれたのに残したくない。

「うーん、お握りはラップで包んでイタダキ。 残ったおかずも皿に移し替えて今日の夕飯にする」

おかずは浅香と祐樹でほぼ食べ尽くしていた。 夕飯にするには少な過ぎる。
浅香がそう言った時、詩甫が眉間を寄せた。

(これ何だろう)

「イタダキかよ」

「だーって、祐樹君はいーっつもこんなに美味しいお握りを食べてるんだろ?」

そう浅香が言うが、お握りは滅多に食べたことは無い。 給食以外は母親が料理を作っていたし、詩甫の部屋に来た時には詩甫が作ってくれていた。 それはどちらも茶碗に入ったご飯である。 例外で詩甫が作ってくれた弁当があったが、お握りではなかった。

詩甫が次の頁をめくる。

「ちょっとくらいは自分で作ろうと思わないのかよ」

「うーん・・・。 料理って忍耐と才能じゃない?」

「は?」

小学生相手に真剣に問答する浅香。 それは言い換えればいいわけでもある。

「才能は分かる。 忍耐ってどういう事だよ」

「料理って、たとえ才能があっても、作りたくない者には苦行でしかないってこと」

「は? 才能があれば簡単に作れるだろ」

「才能があっても作りたくない時ってあるだろ? 作りたくない人も居るだろ? 才能があったとしても三六五日、毎日何年も三食作りたいと思う人はまず居ないよ」

どうして浅香がそう言い切るのか。
それは患者や患者の家族に触れた時に感じることであった。 負の想い。 それであった。

『このまま入院させてくれればご飯作りから解放される』

夫が定年退職をした妻によく感じる負の思いだった。

「ま、誰しもがとは言わないけどね」

そう言われれば、平日母親は祐樹の昼ご飯を作ることは無い。 平日の昼ご飯は給食である。 そして当の母親は前日の残り物を食べているようだ。 料理を作るのが好きなはずなのに。

まだ小学生の祐樹には難しい話をしてしまったかと、浅香が立ち上がろうとした時に詩甫の声が上がった。

「浅香さん」

祐樹と浅香が詩甫を見る。

<●山の神は見ておられた  杉合の婆ちゃんが言った。 何のことか尋ねたら、山の神は何でも見て御座る。 そうとしか教えてくれなかった>

そして翌日の日付にはこう書かれていた。
<●山を見い  杉合の婆ちゃんは、お婆のこともよく知っていた。 何年も前の、ずっと前のお婆の事なのにどうして知っているのか訊ねたら山を見い。 と言われた>

詩甫が指を這わして読み上げた。

「これってどういう意味ですか?」

「ええ、僕も不思議に思いました。 それで瀬戸さんに訊ねたんです。 そしたらそのお婆さんはその後、入院して退院をすることなく亡くなったそうです」

「・・・まさか」

山には入っていなくとも、あの山のことを瀬戸に話して大蛇に睨まれた? そんなことが有り得るのだろうか、詩甫がそんな顔をして浅香を見ていた。 瀬戸に聞かされた時、一瞬ではあったが浅香も詩甫と同じことを考えたのだからよく分かる。

「かなりのお歳だったそうです。 瀬戸さんが会いに行った時には、もう肺炎を患っていたと思います。 お年寄りには多いんです。 喉の力が弱くなってきていますから、誤嚥から肺炎を起こすんです。 軽いものから始まると家族もなかなか気づきません」

「肺炎でお亡くなりになった?」

浅香が頷く。

それが大蛇に睨まれていなかったという証拠にはならない。 睨まれるというのは例え話かもしれないのだから。 大蛇の怨念で身体を弱らせたのかもしれない。 だがここで止まっているわけにはいかない、先に進まなければいけない。

「山の神は見ておられた。 山を見い・・・」

「ええ、瀬戸さんもそこが気になってあちこちに訊いたようですけど、結局何も分からなかったそうです」

「・・・これって」

「はい?」

「お社ではなく山を見ろということではないんでしょうか」

「はい?」

「お社と山は別ということ、ではないんでしょうか」

「はい?」

「社かお山か、どっちでもいい、瀬戸さんはそう言われたんですよね。 そしてすごまれた」

「はい」

二人の会話を聞いていた祐樹が呆れたような目で浅香を見た。

「浅香、はい以外言えないのかよ」

そんな祐樹の声は二人の耳に入ってこない。

「電車の中でのことは置いておいて、もし朱葉姫の言ってらした “怨” を持つ者、その者が大蛇としたら、私に起きたことはお社近くであったわけではありません。 もうお社から離れて階段の途中で突かれました。 まぁ、視線を感じたのはお社近くですけど」

「山に大蛇が居るということですか?」

社に大蛇が居るのではない。 そうであれば瀞謝の記憶と一致する。 少なくとも朱葉姫が大蛇と思われたということではない。

だが昔語りにある大蛇とはいったい何者なのか。 詩甫を襲った者と同じなのか。 そうであるとすれば、朱葉姫の話からは朱葉姫に “怨” を残す者。
そんなことを考えていた浅香に詩甫が次を提示した。

「それと、ここですけど」

詩甫が何枚も頁を遡る。 そこもまだ稚拙な書き方の所だ。

「あなう」

指を這わせた詩甫が声に出す。

そこには
<●あなう  三木の婆ちゃんがそう言ったけど、何のことか分からんと言った。 けど、婆ちゃんの婆ちゃんが歌っていたらしい。 婆ちゃんが歌ってみせてくれた。 あーなーう、あーなーう、美しあなう、泣―くぅな・・・。 婆ちゃんが言った。 あれ、どうやったかの、と。 忘れたみたいだ。 音痴で耳が痛かった>
そう書かれていた。

「これって何ですか?」

「瀬戸さんが言うには」

浅香の説明が始まった。 やはり浅香も瀬戸に訊いたようだ。

浅香は何度も読み直していると言っていた。 たった今このA4用紙に目を這わせている詩甫より数段考えたのだろう。

「“美しあなう” というところで、僕も瀬戸さんもほぼ人名ではないかと思ったんですけど、当時の人名を探す手立てはなかったということです」

だが “美し” と付くのだからそれは女性だろう、とも言った。

「お婆さんですよね・・・」

歌ったのは。

「はい。 お婆さんのお婆さんから聞いた歌です。 瀬戸さんがその歌の意味を訊かれたらしいんですけど、知らん、とだけ言われたそうです」

その事は後に書かれている。 詩甫もそれを読んだ。

「聞き違え、若しくは覚え間違いってことはありませんか?」

あなう・・・。 人名として聞き違え若しくは覚え間違いであるのなら今の世でなら例えば “まなむ” とも考えられる。 当時の人名に “まなむ” があるのかは知らないが、他にあるかもしれない。

「瀬戸さんもそれを考えて、この歌詞を色んなお婆さんに訊いたそうなんですけど、誰も知らないということでした」

確かにそれも書かれてあった。 かなり細かに書いてある。 あったことを漏らすことなく書いていたのであろう。
詩甫が口に力を入れて、少し考えるような顔をする。

「・・・子守歌」

「は?」

「泣くなというところで、子守歌の可能性。 “あなう” は赤ん坊という意味。 それと・・・他には人名ではなく、何かに例えた言葉。 “あなう” は当時の言葉か方言で海ということとか、直接的に海ではなくて何かを示す言葉で、それが海に伝わるとか」

「あ、そうか。 泣くなで子守歌か。 でも海というのは?」

「あくまでも分かりやすく海としましたが。 美しあなうは、美し海。 泣くなというのは海が荒れるとか・・・逆に静かに泣いているということで凪いでいるとか」

「抒情詩的なことですか・・・」

苦手だなぁ、と言って後頭部をぼりぼりと掻いている。 そんな浅香をチラリと見てから詩甫が言う。

「あそこの地域には海が見えませんから、木々のざわめきと考えられるかもしれません。 山が荒れないようにという意味でしょうか。 瀬戸さんはそこのところを何か言ってらっしゃいませんでしたか?」

浅香が首を振る。

「瀬戸さんも抒情詩は苦手なのかもしれません」

ましてや当時は中学生だ。

ほんの日記のようなもの。 浅香はこの辺りに書いていたことを稚拙と判断していた。 そして当の瀬戸も少々調べたようだが、ほぼ音痴で終わらせていた。

きっと浅香は何頁も先に重きを置いただろう。
瀬戸の中学生時代がどんなものだったかは分からない。 だが少なくとも成長した高校時代は中学生時代と比べて男臭かっただろう。

瀬戸はお婆さんやお爺さんを中心に話を訊きに回っていたようだった。 汗臭い高校男子に話す内容よりも、まだ幼さの残る中学生の瀬戸に年寄りは孫を見るように昔話を聞かせたかもしれない。

ファイルの日付から、瀬戸がお婆の子孫に会いに行ったのは高校生の時だった。 “すごまれる” もし瀬戸が中学生の時であったのならば、相手の年齢にもよるだろうが、同じ様にすごんだだろうか。 中学生相手にだいの大人がそんなことをするだろうか。 ・・・するかもしれない。 だがそれはかなり意に反する時だろう。

角度を変えて見ると、それだけに当時の瀬戸は禁句を言ったのかもしれない。 『社か山かなんてどっちでもいい』 と。

「訊いておきます」

瀬戸と浅香はカフェであった時にラインを組んでいた。
詩甫が頷いてから可能だろうかと浅香に訊く。

「お婆の子孫と言われる方に会いたいんですけど」

浅香が声なく笑った。 きっとそう言うだろうと思っていた。

「アポイントを取っておきます」

瀬戸はしっかりとノートに連絡先を書いていた。
それに浅香は一応、瀬戸に訊いていた。 お婆の家に連絡を取ってもいいかと。 瀬戸からは『僕の名前を出さないように』 とだけ返って来た。 でなければ敷居を跨がせてもらえないからだろう。


「じゃ、ご馳走様でした」

今から遡って午後一時半。
おかずは平らげられていた。 だがお握りが数個残っていた。 それをいつの間にか祐樹がラップに包んでいた。 ラップは詩甫持参であった。 おかずも残るだろうと思っていて夕飯にでもしてくれたらと思っていたが、見事に全部食べてくれていた。
それからまた、二人で瀬戸のファイルを見た。
祐樹が手を洗ってから浅香が手にしてきていた単行本を読んでいる。

そして今、午後三時。
浅香の出勤形態は分かっているが、その心構えが分かっていない。 だから早々に切り上げた。

結局、瀬戸が書いたものから新たに何も見つけ出せることは出来なかった。 だが見事に事細かに書かれていた。
書かれていたことに詩甫が質問をすると浅香が答えた。 浅香も同じことを瀬戸に訊いたのだろう。

「読み直します」

「よろしくです」

駅まで送って行くと言う浅香を三度断り、祐樹が単行本の入っている紙袋を手に持った。



年始の休みが終わった。 詩甫の部屋から登校する祐樹は今日から家に帰る。
浅香から渡されたファイルをチラリとみる。 今日までに何も分からなかった。

浅香に借りた単行本を夜な夜な何度も読み返していたのだろう。 祐樹は簡単には起きなかった。

顔の傷はコンシーラーと厚塗りのファンデーションで何とか誤魔化せるが、まだ手足の傷が残っている。 絆創膏を貼っていては余計と目立つが、足のかさぶたに引っかかってストッキングに伝線がいくかもしれない。 それに手の甲の傷はまだ治っていない。 仕方なく絆創膏を貼ることにした。

「祐樹、起きて! 今日から学校よ!」

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国津道  第28回

2021年04月23日 22時23分10秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第28回



祐樹が残っていたオレンジジュースを飲み干した。

「やっぱ、コナンって頭良いよなぁー」

「最近は二回の放送で解決だからね、両方とも残しておいてよかったよ」

今回もコナンは二回連続で事件を解決した。
ストーリーとしての内容は数日経っているが、放送時間は合計でおおよそ一時間。 一時間で問題を解決したということだ。
それに比べてこちらは “怨” の話を聞いてどれだけ経っているのか。
ましてやウルトラマンなら三分だ。

とてつもなく要らないことを考えた頭の中を払拭して祐樹との会話を続ける。

「頭の中は高校生だからね。 それにそこいらの高校生より何でもよく知っているしね」

浅香の口から高校生と聞いて御節を抱えて電車に乗っていた時のことを思い出す。
優香の彼氏が高校生。

「浅香・・・」

「うん?」

「・・・りんかい高校って知ってる?」

思わず詩甫と浅香が目を合わせた。
それは祐樹とは違った意味であったし、浅香と詩甫も違う意味であった。

「知ってるけど?」

詩甫が応えるより先に浅香が答える。 どうして祐樹が凜魁高校のことを訊くのだろうか。 それにどうして詩甫に訊かないのだろうか。

「そこって・・・その学校って・・・アタマいいの?」

再度、浅香と詩甫が目を合わせる。

「東大って知ってる?」

「知ってる。 有名大学だろ? それくらい知ってる」

季節になるとニュースで東大のことは聞いている。 東大合格者が何処の高校出身者か合格率で流されている。 だがその高校名の記憶はない。

「その東大に合格してる確率が高いのがその高校」

「え・・・」

祐樹が息を飲む。

詩甫が浅香を見たのはその理由だった。 だが浅香にはまだ先がある。

「祐樹? どうしたの?」

優香の彼氏が在籍する高校。 そして優香はそこを受験する。 優香はそこまで頭が良かったのか。 そして彼氏も。

「何でもない」

祐樹の様子に浅香が目を眇める。

「何でもなくないなぁ」

腕を組んで祐樹を見る。

「なんだよ」

詩甫が浅香と祐樹を交互に見る。 浅香は何を考えているのだろうか。
あ、っと思い出した。 そう言えば、祐樹と箒と塵取りを買いにホームセンターに行った時、高校のグラウンドを見た。

「浅香さん、もしかして凜魁高校って、お社に行くまでに建っている高校ですか? ホームセンターの近くにある」

浅香が一度詩甫を見て頷く。

「どうして祐樹君が凜魁高校を知っているのかな?」

祐樹が住む県より随分離れているのに。

「あ・・・」

ホームセンターと聞いて祐樹も学校の存在を思い出した。 グラウンドに沿って詩甫と歩いたのだった。
あんな遠くにあったのか・・・。

優香は公開実験で凜魁高校に通う三年生と知り合ったと言っていた。 そして今、お付き合いをしていると。 デートと言っていた。

ズズイと浅香が寄ってきた。

「えーっと・・・大人買い」

「うん、いくらでも見せるよ、約束だもんな。 でもその前にどうして祐樹君が凜魁高校を知っているのか訊きたいな」

「・・・ちょっと聞いただけ」

「うん、それを話してほしいな、そのちょっとを」

祐樹が詩甫を見ると微笑んで頷いている。
少し頬を膨らませてから、まずは優香との関係を話した。

「ほぼ一年間オレの担当だったから、よく知ってるんだ」

その優香と詩甫の部屋に来る時、電車の中であった。 そこで凜魁高校を受験すると聞いた。 そう話を括った。 彼氏のことは話さなかった。

浅香が少々肩を落とした。
凜魁高校に通っているのなら、社や山のことを何か知っているかと思ったが、まだ通ってもいなければ受かるかどうかも分からない状況である。
だがよく考えると寮があるほどだ。 あの地域出身の者などほんのひとつまみだろう、いや居るとも限らないだろう。 諦めはつく。

「そっか、そういうことか」

「・・・大人買い」

「おー、約束だもんな。 こっち」

浅香が立ち上がるとあとに祐樹がついてリビングを出て行った。
大人買い大会は浅香の寝室で行われるようである。
すぐに祐樹の声が聞こえてきた。

「おおーーー!! すっげー!」

かなり小学生の気を引く物があったらしい。
スヌーピーのカップを見る。 スヌーピーのカップに仮面ライダーやアニメをテレビで見てそして単行本、浅香の趣味が分からない。
今度もぬるくなってしまったコーヒーを口に運ぶ。

浅香は瀬戸に朱葉姫のことを言っていないと言っていた。 願弦にもそうする方がいいのだろうが、願弦には思いもよらない知識があるかもしれない。

「悪霊退散呪文とかお札とか」

だが願弦は正義感が強い。 その分巻き込むかもしれない。 その結果怪我をしても “俺の決めたことだから” とでも言うだろう。 だがそれは命あってのこと。

浅香に対しても巻き込んでいるという意識がある。 いくら浅香が色んなことを言ってくれたとて、方向を決めるのは詩甫である。 浅香の身体や命を考えると、朱葉姫や曹司が言っていたように、もう社に行かないのが人が傷つかない一番の解決策だと思う。

「・・・分かってる」

浅香と祐樹の足音が聞こえてきた。
ふと腕時計が目に入った。 いつの間にか正午前になっていた。

ドアが開かれると冷気がリビングに入ってくる。

「やーっぱ、野崎さんとこがいいな。 冷えた廊下は身体に良くない」

浅香が何冊もの単行本を両手で抱え、祐樹がしっかりとした紙袋を持っている。

「だからオジサンなんだよ。 オレなんて家に帰ったら廊下だけじゃなくて階段も上がるんだからな」

浅香が眇(すが)めた目で祐樹を見る。

「・・・貸さないぞ」

「姉ちゃん! 浅香が貸してくれるって」

「おーい、無視かーい」

浅香に何と言われようとも、こういう時は完全無視に限る。

「ほら」

紙袋の中を見ると単行本が入っていた。
単行本を借りて帰るということか?

「だ、駄目よ」

「え? なんで?」

「汚しでもしたらどうするの」

「ちゃんと手を洗ってから見るから汚さない」

「それでも駄目」

「そんなこと言ってたら図書館の本も借りられないよ」

「野崎さん気にしないで下さい。 ピックアップしたのはそろそろ手放そうかと思っていた物ですから」

「え?」

せっかく買い揃えていたものを手放す?

「浅香の部屋ってすごいんだ。 窓以外はびっしりマンガ。 もう次のが入らないんだって」

「という訳です、って、マンガだけじゃなかったろ」

しっかりと習っていた教材も置いてあるし、自分で購入した救急に関する本、医学の本も並べてある。

「あ・・・じゃ、リビングに置かれたら」

ソファーとテレビと座卓しかないこの空間に本棚を買えばいくらでも入るだろう。

「ああ・・・、なんて言ったらいいのかな、一日長く居る空間にはあまり物を置きたくないんです」

それでこのリビングなのか。

「だから気にしないで下さい」

「・・・それじゃあ、お借りします」

紙袋をリビングの端に置いた祐樹が時計を見る。

「姉ちゃん、そろそろ昼」

浅香も振り返り時計を見る。 本当だ、いつの間にこんなに時が経っていたのか。

「どこかで昼ご飯でも食べませんか?」

浅香の抱えていたマンガの単行本を数冊づつ祐樹が下ろしていく。

「あの、ご迷惑でなかったらお弁当を作ってきたので」

昨日の時点で浅香は昼を挟んでと言っていた。 だから用意をしてきていた。
詩甫が持ってきていた袋から見覚えのあるお重を出してきた。 御節が入っていたお重である。

「え? 嘘、作って来てくれたんですか?」

「お茶うけも持ってこようと思ってたんですけど、ちょっと作り過ぎてしまって、お腹一杯になってもと思って」

お重は三段ある。

「わぉ! 歓迎です! お腹一杯お弁当を食べたいです!」

詩甫がホッとした顔を見せる。 お弁当などと図々しいのではないかと懸念していたのだ。

「ここで広げてもいいですか?」

ダイニングにはちょっとした物置台があるが、テーブルではない。 この座卓以外に卓と呼べるものは見当たらない。

「はい! 大歓迎です!」

祐樹がジュースの入っていたグラスとスヌーピーのカップを二つ持つと、浅香が角砂糖とフレッシュの入った小鉢と皿を持つ。
浅香について祐樹がキッチンに足を入れる。

チラリと浅香が振り返ると詩甫がお重を並べている。

「お茶と受け皿だな」

お重と一緒に割りばしが見えた。 箸を持ってきていたようだ。
浅香が独り言を言っていると祐樹が口を挟む。

「紙皿持ってきたから受け皿は要らない」

「あ? そうなの?」

詩甫の方を見ると二人を見ていた詩甫が「持ってきました」 と言うが、紙皿では趣が無さ過ぎる。 せっかくの弁当なのに。 お重なのに。

「いいですよ、受け皿出します。 せっかく作って来てくれたのに、紙皿じゃ寂しすぎますから」

そう言っている時に水を流す音が聞こえてきた。 祐樹がグラスとカップを軽く水ですすいでいる。 そこには二つのスヌーピーの先住カップがいる。 そしてスポンジを手に取って洗剤を付けると洗い物をしだした。

「え? 祐樹君いいよ。 あとで洗うから」

「これくらいしないでか」

時々聞く言葉尻、学校で流行っている台詞なのだろうか、浅香が声なく笑ってボタンを押すとピロ~ンと音が鳴った。 給湯器のリモコンの画面が賑やかに点灯する。

茶を淹れ受け皿を持って戻って来ると、既にお重が広げられていた。

「祐樹君、あとでいいよ」

洗ったものを布巾で拭いている。 浅香など水切りに入れたら乾いてから食器棚に戻すというのに。

「うん」

そう答えながらも、全部拭いて物置台に置いてその上に布巾をかけると戻って来た。
几帳面だなと思った。 そう言えば本を読む前に手を洗うと言っていた。 あまり子供の発想には無いのではないだろうか。 それにテレビを見ながらジュースを飲んでいなかった。
普通、子供はテレビを見てゲラゲラ笑いながらジュースを飲むものではないだろうか。 そして零して叱られる。 それはジュースとテレビがあるところでは世界共通だろうに。

「ん? なんだ? 浅香」

「あ、いや、キチンとしてるなって。 野崎さんに教えてもらってるの?」

詩甫から母親の話を聞いている。 詩甫と祐樹は異父姉弟。 そして今、母親と過ごしているのは祐樹である。 詩甫の前で母親の話は憚ってしまう。

「うん? そっか? これって普通じゃないの?」

ということは、母親も詩甫もそうであるのだろう。 詩甫も祐樹も母親にそんな風に育てられたのだろうか。

「祐樹はよく手伝ってくれるんです」

「そうなんですか。 うん、それは良いことだ。 じゃ、祐樹君も揃ったところで頂きます」

御節の時のように、浅香が手を合わせて軽く頭を下げた。 結局三人ともセンターラグの上に座っている。

「お口に合うといいんですけど」

一つのお重には色んな種類のお握りが入っていた。 そして二つ目のお重には唐揚げや炒め物やウインナーなどと、主に油を使ったものが入っていて、三つ目のお重には胡麻和えや南瓜の煮物などと和風の物が入っていた。

祐樹が座る前に詩甫から短く説明を受けていた。
その説明のままにお重を見てみると、和風のお重の中に、他の物とは明らかに作った人間が違うだろうと思える、きっと卵焼きだろうと思える物が入っていた。
詩甫に教えてもらって祐樹が作ったらしい。

「んじゃ、祐樹君作から」

箸でつまむとボロボロと欠片が零れてくるが、なんとか受け皿で受けた。 受け皿の上で、箸でつまむ角度を変えて口に入れる。
祐樹がじっと見ている。 その視線が結構イタイ。 が、正直に感想を述べる。

「うん、美味しい」

親指を立てて見せるとよほど嬉しかったのか、祐樹には珍しく満面に笑みを作った。

食べながら御節の時のように、浅香と祐樹はアニメや単行本の話で盛り上がっている。 今回は仮面ライダーの会話はなさそうである。

詩甫が二人の会話に耳を寄せながら、お握りを二つとおかずを幾つか食べて箸を置いた。 浅香が淹れてくれた茶をすする。 煎茶だった。

浅香は箸を進めてくれている。 良かった、ちょっとは口に合っていたようだ。 母親のように料理教室に通ったわけではない。 自信など無かった。

二人が楽しくしている会話を聞いていたいとも思ったが、アニメを見ない詩甫は内容がチンプンカンプンである。

身体を座卓から外して浅香から手渡されたファイルを開く。 最初から読んでいく。
浅香が言っていたように最初の方は稚拙であったが、それでも一生懸命調べようとしていたことが窺える。

「おお! タコさんウインナー!」

「オレのリクエストだからな。 嬉しかったらオレに感謝しろよ」

祐樹の話を耳にしながら一つ取ると、下に歪なウインナーが登場した。

「ん? 一匹・・・なんだ? 多足宇宙人ウインナー?」

均一されたタコの足になっていないし、多足と言っても多くはなく、千切れたようなところが手に見えなくもない。

祐樹が半眼になって浅香を見た。

「あ・・・え? あ! もしかして祐樹君作?」

「悪かったな」

詩甫から多足宇宙人ウインナーの話は聞いていない。 こういう情報は事前に漏れなく伝えてほしい。
箸にあるタコさんウインナーを口に入れると、すぐに多足宇宙人ウインナーを箸で取り口に入れる。

「うん、美味しい」

卵焼きの時と同じように親指を立てて見せたが、祐樹の反応は卵焼きの時と違っていた。

「ウインナーに味付けはしないんだよ、みんな同じ味」

半眼のまま浅香を見ている。

「・・・だね」

半笑いを引きつらせるしかなかった。

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国津道  第27回

2021年04月19日 22時06分10秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第27回



「野崎さんのとこみたいに、寝室がリビングに繋がってるってのがいいですよね、僕の部屋はいちいち廊下に出なくちゃならない」

廊下に出て冷えたのだろう、少し不服気に言う浅香の手にはファイルが二冊持たれている。

「浅香ぁー、うるさい」

「あ、ごめんごめん」

今も祐樹と詩甫は浅香に促されたソファーに座っている。

「野崎さん、いいですか?」

声を殺してセンターラグに座った浅香の横を指さす、そこはソファーの対面である。 詩甫がソファーから立ち上がり浅香の隣に座る。 フレアーのスカートがふわりと空気を含む。

浅香がファイルをカーペットの上に置く。 それは祐樹が駅で見たファイルであった。

「野崎さんが救急で運ばれた時、あの時の隊員の一人があの土地の者だったんです」

詩甫が祐樹に怒られないように小声で話し出した浅香を驚いて見た。
その詩甫に一つ頷いてみせるとその時のことを話し、次に駅近くのカフェで会ったことを話し出した。

メールで自分は大学時代、社サークルであった。 運ばれた詩甫は同じサークルの後輩であった。 二人ともあの社に魅せられ色々調べようとしたが、材料が薄く調べがついていない。 そんな時、たまたまあの日乗ったタクシーの運転手から社について “睨まれる” というワードを聞いていた。 瀬戸に訊かれたあの時は詩甫のことがあったのですっかり忘れていたが、詩甫を医者に託してから思い出して、連絡先を訊いたと説明したという。

「瀬戸さん、って言うんですけどね」

瀬戸も他の家族と同じように、昔語りを幼いころから聞かされていたということであった。

「幼い頃はそのまま鵜呑みにしていたそうなんです。 その話は運転手さんと同じ話でした」

詩甫が頷く。
だが中学生の頃に疑問を持ったという。
祖父母がまだ健在であったから疑問を投げかけた。 今も健在であるが祖父母共に痴呆が始まっていて、今からは何も訊けない状態であるということを念押しして言う。

「瀬戸さんが訊いた内容は」

どうして社に大蛇がとぐろを巻いているのか、ということであった。
祖父母は互いに目を合わせた。

『婆さん、知っとるか?』

婆さんが首を振りかけ『・・・いんやー。 あぇ、そう言やぁ・・・』 何かを思い出したように首を傾けた。

婆さんが言うには、何故かは覚えていないが違う話を聞いたという。 婆さんの爺さんからは社に大蛇がとぐろを巻いていると聞いたが、婆さんの婆さんからは山に大蛇が居ると聞いていたということであった。

『わしの覚え間違えやったかのう』 と言ったという。

それを聞いた爺さんが

『んなもん、お山に大蛇が居るって、どれほど大きな大蛇じゃ。 社じゃ、社』

そう言ったという。

「で、瀬戸さんはあちこちに聞きに回ったらしいです。 地元人ならではですよね」

再度詩甫が頷く。

「結果、瀬戸さんの見解では皆がお爺さんのように言って、お婆さんの勘違いだろうということでした」

再生をされているテレビでは「コナン君」 と、蘭がコナンに話しかけている。

「このファイルは瀬戸さんが今まで調べたことを書いているコピーです。 コピーまでしてファイルにまとめて持ってきてくれました」

「え?」

「中学生の頃から始まって今もあの山のことを調べている、いや、積極的にはもう調べていないようですが、気には留めているということです」

だから今回、詩甫があの山から落ちたということで、浅香に訊いてきたということであった。

「・・・どうして」

「どうしてそこまでして調べようとするのかっていう、どうしてなら、その質問には・・・男ってそうなんですよ」

「は?」

「あ、男女差別になっちゃうか」

「え?」

「男でも女性でも疑問を持ったら突き進むっていう、特殊人物が稀に居るんですよ」

浅香がファイルを開く。 そこには何枚ものA4用紙がバインダーに挟まれている。

「この時はまだ稚拙な書きようですし、進展はありません」

バインダーに挟まれていたのは当時の手書き。 きっと本体はノートに書かれていたのだろう、罫線までしっかりと写しだされている。 バインダーをしても読みやすいように、端に寄せてコピーをしてある。

何枚かをめくる。

「ここです」

浅香が一つの文言に指を這わせる。

『お婆の子孫を見つけた!』

大きな字で書かれたそれを、きっと蛍光塗料のラインマーカーで囲っていたのだろう。 白黒のコピーをされA4用紙となっては、薄く墨を塗ったようになっている。 探し出すまでに相当かかったのだろうか、当時の少年がどれ程嬉しかったのかが窺える。

「お婆・・・」

タクシーの運転手が言っていたお婆の存在。 昔々のお婆。

「お婆が言ったことを訊きたいと接触をした」

読み上げながら動かす浅香の指を詩甫の目が追う。
その家では代々お婆の話が言い伝えられていると書かれていた。 その末裔に会ったと。

『お婆の話を聞かせて欲しい』

『どうして』

『おれはあの社に大蛇がとぐろを巻いていると聞いた』

聞いた相手が鼻から短く息を吐いた。

『でも・・・』

『なんだ』

『社じゃなく山に大蛇が居るとも聞いた』

『・・・誰から』

『婆さんから。 覚え間違いかもしれないって言ってたけど・・・』

『覚え間違いか・・・』

再度鼻から息を短く吐く。

『おれは真実を知りたい』

『どうして』

『疑問に思ったからだ』

『・・・そうか』

『おれはこの地で生まれ育った。 この地にずっと居たいと思ってる、 でもあの山には誰も入らない。 入ることを代々許されていない。 社があるのに誰も入ろうとしない』

『社か・・・あのお山には何百年と誰も入っていない。 それなのにどうしてお社があると知ってる?』

訊かずとも分かっている。 家々で昔語りがどれだけ変わってきているのかは知らないが、それでもこの少年は最初に言っていた。 昔語りでは社に大蛇がとぐろを巻いていると伝えられている、と。 少なくともお山に社があることはそこから知れる。

『・・・それは』

昔語りにそう言われていた、そう言えば済むことだった。
この地で生まれ育った者は、誰一人として山に入っていない。 決して入るのではない、そうきつく言いきかせられていたから。
何故知っているかと訊かれた。 正直に答えると怒られるかもしれない。 でも・・・。

『山に入ったから・・・』

山に入って社を見たから。

お婆の末裔がふん、と顔に皺をよせた。

『男には何も無いと言うからな』

そう言っただけだった。
怒られることは無かった。

『社か山かなんてどっちでもいい。 どうして大蛇が居て、なんでとぐろを巻いているか、それを教えてほしい』

末裔が口を曲げて少年を睨んだ。

『あ、えっと、なに・・・?』

言い方が悪かったのだろうか。

『お社かお山か、どっちでもいいだと?』

浅香の指が止まった。
ノートには今浅香が読み上げた会話が書かれていた。 そこには読み上げた以外にも書かれていることがあった。 それは少年が感じたことが書かれていた。

「すごまれて返事が出来なかったそうです。 それで最後は「帰んな」と言われたそうです」

浅香の指が一番下まで降りてトントンとその台詞の上で音を鳴らす。 この頁に来るまでに何枚かをめくっていた。

「どういう意味でしょう? お社か山か・・・そこで大きく違うということでしょうか?」

「分かりません。 瀬戸さんはそれからこの家を訪ねても玄関払いをされたそうです。 出禁ですね。 それで瀬戸さんなりに調べたらしいんですけど、以降はどこにも辿り着かなかったそうです」

コピーをされたファイルには、中高生時代に調べた細かなことが書かれていた。 それは日誌でもあり日記のようでもあった。

「どこかにヒントが無いかと思って何度も読み返すんですけど、それらしいのが見当たらなくて。 で、目が変わったらわかることがあるかもしれないって思いまして」

浅香が何を言いたいか分かった。 詩甫にも全部読んでみてほしいということである。

「はい」

「じゃ、お願いします」

そう言うともう一冊を詩甫に渡した。 浅香がコピーのコピーをしたようだ。 本体のノートから見れば孫になるとでも言おうか。

「それと、きっと野崎さんも同じように考えているだろうと思って曹司に言っちゃったんですけど」

浅香が言うには、浅香が曹司に向かって社を修繕する、祭とまではいかないかもしれないが、朱葉姫に民の姿を見てもらう、そう言ったという。
詩甫が微笑みながら聞いていた。 そして最後に頷く。

「私も朱葉姫に社を終わらせないといいました。 朱葉姫のお名前が今も残っているんですから。 朱葉姫のお名前を知っている人たちを朱葉姫に見てもらいたいと思っています」

詩甫も浅香と同じように考えていたということだ。 今度は浅香が詩甫に頷いてみせる。
淹れたコーヒーはもう冷たくなってしまっている。 どちらもまだ一口も飲んでいない。

「コーヒー、淹れ直しますね」

「あ、大丈夫です」

淹れ直させないために慌ててスヌーピーの柄が入ったカップを持った。 ちなみに浅香のカップもスヌーピーで、祐樹の飲んでいるオレンジジュースが入ったグラスは某ビール会社の名が書かれている。
ビール会社のグラスというのは分からなくもないが、どうしてスヌーピーなのだろうかと考えるが聞くに訊けない。

ふと目を上げると祐樹がテレビのリモコンを持っている。 画面に目を移すと録画一覧画面になっているではないか。

「祐樹! 勝手にしちゃ駄目でしょ」

三十分間のコナンが終わったようで、その次を見ようとしているらしい。

「ああ、いいですよ。 気にしないで下さい。 へぇー、祐樹君よそん家のテレビリモコンの操作が分かるんだ」

テレビのメーカーによったり、汎用のリモコンであれば操作が違ってくる。

「それくらい分からいでか」

「おおそうか、男だもんな。 リモコンくらい扱えなくっちゃな」

「祐樹・・・正直に言いなさい」

祐樹が最後のボタンを押して、バツが悪そうに詩甫を見てリモコンを座卓に置いた。

「オレん家と同じテレビ。 大きさは違うけど」

だからリモコンの扱いを知っていたということである。
祐樹が言ったように同じメーカーのテレビで、浅香の家のテレビは24インチ、祐樹の家のテレビは40インチである。

「あ・・・そうなんだ」

男同士で心のやり場に彷徨う。

「浅香うるさい・・・」

「ごめん」

オープニング曲も無くコナンが始まった。

詩甫が溜息をついて冷めたコーヒーを飲むと、まだ混ぜていなかったことを思い出した。 最後の一口は沈殿した角砂糖で砂糖白湯を飲んでいるようである。

「お替わり淹れましょうか?」

「あ、はい。 すみませんがお願いします」

口の中の砂糖を流したい。

浅香も自分自身に入れたコーヒーを一気に飲み干すと、下げたカップを流しに入れ、新たなカップにコーヒーを淹れて二人分持って来た。

「有難うございます」

新たに置かれたカップはまた同じスヌーピーのカップだった。
いくつ持っているのだろう。
フレッシュと角砂糖を入れると、スプーンで混ぜすぐに一口飲む。 口の中の砂糖が喉の奥に流れて行く。

カップに口を付けかけて上目遣いに浅香が詩甫を見て言う。

「喉乾いてました?」

喋っていたのは浅香だったのに。

「あ、いえ、そうではなくて」

理由を述べた。

「やっぱりあの時、淹れ直した方が良かったですね」

詩甫が首を振る。

「今度はちゃんと美味しく頂きます」

詩甫の視線が祐樹に移る。 ソファーにほぼ九十度に座ったままコナンを見ている。 オレンジジュースはまだ残っている。
詩甫につられて浅香も祐樹を見ている。

「どうして・・・」

「え?」

「・・・私がお社のことを諦めるとは思わなかったんですか?」

あんな事があったのだから。 朱葉姫にも曹司にも止められていたのに。 それなのにこうして資料を提示してくれる。
浅香が薄く笑う。

「あの時・・・病院で『有難うございます』 って言ってくれたでしょ? “有難うございました” 過去形ではなかったでしょ。 それに、僕のことを・・・存在を心強いと言っていたでしょ? まぁ、そこんところは照れる話ですが。 それは置いといて、それって野崎さんの決めた道を進むということではないのかと思って」

だから『昔語りにある大蛇、そちらから考えたい』 そこを突き進むのだろうと考えた、と言った。
ほんの些細な言葉、詩甫さえ気づかなかった言葉。 心から出た言葉。 それに浅香が気付いていた。

「それに野崎さん・・・」

浅香の言葉が止まる。

何? と言うように詩甫が眉を上げる。

「・・・朱葉姫の声を聞いたのは野崎さんです。 朱葉姫の気持ちを一番分かっているのは野崎さん・・・って、曹司が聞いたら怒るかな」

詩甫が相好を崩して下を向く。

「怒られるでしょうね。 でも、そう言ってもらえると嬉しいです」

曹司は千年以上も朱葉姫の事だけを考えて朱葉姫についている。 瀞謝の時の一年にも満たない時、そして詩甫として朱葉姫と時を過ごしたとは言っても、それは曹司のように濃厚ではないしあまりにも僅かな時。

「瀬戸さんでしたっけ」

話しが飛んだ。

「はい」

「瀬戸さんに朱葉姫と・・・と言うか、私たちの話は?」

「していません。 あくまでも社サークルで通しています」

詩甫は何を懸念しているのだろうか。

「そうですか・・・。 あの、お社を終わらせるにあたって祝詞を教えてもらった人が居るんですけど」

願弦の話をした。 祝詞を教えてもらい、修行と称した所作を習いに行くつもりだったということも、加奈から詩甫の怪我を聞いたことも。

「それで私が怪我をしたことに自分も一枚噛んでいるからって」

『その社のこと聞かせてもらえない?』 そう訊かれたという。
社のことを話すということは、何故閉じるかということ。 それは朱葉姫のことを、今も存在する朱葉姫のことを話さなければいけないということ。

「話せないと言いました」

だが詩甫がこうして浅香に願弦のことを話しているのは、願弦に話したいと思っているからなのだろう。

「どこまで信用できる人ですか?」

「私自身は疑うことなく信用しています」

浅香は今、詩甫から願弦は神職の学校を出た、だが兄が神社を継ぐからと、詩甫と同じ会社で働いていると聞かされた。
神職の心得があるのならば、社を閉じるに必要な人間と言ってしまえばそうだろう。 それは詩甫が習ったように知識であるのか実際に閉じてもらうのか、どちらにしても知識のある人物だ。

「・・・」

浅香が口を閉じてしまった。
やはりこの事は、朱葉姫のことは、当事者以外話さない方がいいのだろうか。

コト、という音で二人が顔を上げた。 祐樹がリモコンを置いた音だ。 座卓に置かれていたグラスに手を伸ばし、残っていたオレンジジュースを飲みだした。

「終わった?」

「ん」

飲みながら返事をした。

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国津道  第26回

2021年04月16日 23時11分27秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第26回



この女子と初めて会ったのは、祐樹が小学校に入学してすぐの一年生の時であった。 一年生の世話係となるのが五年生で、その時に祐樹担当となったのがこの女子であった。

祐樹が一年生の一年間はこの女子と付かず離れずだったが、二年生になると世話係の担当というものがなくなる。 二年生なのだから何もかも一人でやるということである。
そしてこの女子が六年生になると卒業行事や中学受験などで忙しく、廊下ですれ違った時に祐樹に手を振ってくる程度だった。 

この女子が中学受験に合格したあとは、祐樹が家を早く出てきた時には、時々通学路で駅に向かうこの女子と会うことがあったくらいであった。
その女子が中学の制服ではなく小学校の時のように私服姿であったが、小学校の時とは随分と違っている。 大人びている。 それに目や唇に化粧を施し、イヤリングの他にもアクセサリーを身に付けていた。

「あ、優香ちゃん」

「んん?」

祐樹の背中にあるランドセルを見て眉をしかめて見せる。
ランドセルを背負うのは小学校に行く時である。 その小学校に行くには電車など必要ないし、今はまだ冬休みだ。
優香の視線の意味に気付いた。

「へへ、ちょっとね」

はっきりと言わない祐樹に優香がにこりと笑う。
優香はこんな少女だ。 言いたいことははっきりと言うが、問い詰めることなどしない。

「お化粧してるんだね」

「うん、デートだからね」

「え?」

「凜魁(りんかい)高校の三年生。 公開実験で知り合ったんだけど、私もそこを受験するの」

「そ、そうなんだ」

優香は今、中学二年生。 相手の男子が高校三年生。 ということは祐樹と優香と同じく四学年の差。
祐樹から見れば優香は大人に見える。 きっと優香もその男子のことが大人に見えているのだろう。

「高校生なんだ」

「うん、凄く頭が良くてね、スポーツマン。 優しくて顔もバッチリ」

「へぇー、優香ちゃんみたい」

「ふふ、美男美女でしょ? 分かってるって。 でも頭はどうかなぁ? 受験に合格した時には頭も認めるね。 落ちた時には・・・思いっきり笑って」

優香ははっきりとものを言うが、優しくてよく気が付く。 スポーツも出来る。 六年生の時には家庭科クラブの部長でもあった。 きっと料理も上手なのだろう。 それに自分の顔のことも認めている。
美人が美人と言われて否定をすると嫌味になるし、認めると天狗のように聞こえるが、優香が言うと全く嫌味にも天狗のようにも聞こえない。

「笑うわけないよ。 優香ちゃんが目指すくらいなんだから、難しい学校なんでしょ?」

「ま、ね」

電車が止まりドアが開く。

「あ、ここで下りるから、じゃね」

手の指を波のように前後にひらつかせると電車を降りて行った。 手の振り方も小学校の時と違う。
祐樹が膝に乗せ抱きかかえていた袋から片手を外す。 優香の真似をして手の指だけを波のように前後にひらつかせる。

「・・・」

似合わない。
いつものように手首から掌を左右に振る。
今の祐樹には文句なくこちらだ。
斜め前の座席に座っていた中年のおばさんがクスリと笑ったのが分かった。 耳まで赤くしてお重の入った袋を抱え込んだ。

電車に揺られ、優香が下りた駅から二つ目の駅に止まった。 最後まで、詩甫の部屋に着くまで崩すことの無いようにと、そろりそろりと座席を立った。

ホームに降りると、乗ってきた電車が過ぎ去っていく。 そんなに多いわけではないが、降りてきた人たちの波に巻き込まれないように電車を見送る。 いつもなら階段に近い車両に乗るが、今日はわざと外れた車両に乗った。 ぶつかってしまっては御節を崩してしまうかもしれないからだ。
人の波が引き歩き出そうと一歩を出しかけた時に、ホームに浅香が立っているのが目に入った。

「あれ? 浅香?」

祐樹は準急に乗ってきたが、浅香は隣の駅で降りる。 ホームを挟んだ反対側に入ってくる普通電車を待っているのだろう。
真面目な顔をして手にあるファイルを見ている。 時折ファイルに指を這わせ、その指を口元に持ってきたりしている。

「なにカッコつけてんだよ」

浅香がどれだけ格好をつけても、きっと優香の彼氏にはかなわないだろう。 見たことは無いが、優香が顔もバッチリと言っていた。

「おーい、浅香ぁー!」

浅香が下げていた顔を上げた。


詩甫の部屋に正座をして改まったような顔をしている浅香。

「すいません、図々しくて」

詩甫の顔の傷はガーゼから絆創膏に代わっていた。 もう血は止まっているだろうから絆創膏の必要はないと思えるが、傷を晒すのを避けているのだろう。 手足も大判の絆創膏に代わっていたが、こちらはなにかの拍子にまた出血するかもしれない。


駅で祐樹と会い、詩甫の部屋に誘われたのだった。 もちろん事前に詩甫に連絡を入れた。 詩甫も是非にと言っていた。

『ってことで、これ持てよ』

浅香が横目で祐樹を見ながら祐樹が抱えていた袋を手に持つ。 ずっしりと重い。

『御節だからな、崩すような持ち方はすんなよ』

『もしかして、これを持たすために僕を誘った?』

返事をすることも無く祐樹が歩きだしたのであった。


「いいえ、こちらこそお付き合いいただいて嬉しいです。 どうぞ足を崩して下さい」

どういう意味だと祐樹が詩甫を見る。 優香と話をしたばっかりの祐樹は “お付き合い” という言葉に敏感になっている。

浅香がモゾモゾと動いて胡坐をかく。

「毎年母が作ってくれるんですけど、祐樹と二人では食べきれなくて。 それに祐樹も付き合ってはくれてるんですけど」

そこまで言って祐樹を見る。

付き合うとはそういう意味だったのか。 一人心の中で納得をした祐樹が詩甫の視線に「なに?」 と応える。

「御節、飽きてるでしょ?」

座卓には所狭しと、三段のお重が段をなくして広がっている。

「あ・・・」

見透かされていたようだ。

「三日間も食べて、お姉ちゃんの所でも御節じゃね」

言い返す言葉がなく祐樹が口を尖らせる。 全くその通りであった。

「優しいお母さんですね」

詩甫が僅かに微笑む。

「料理上手なんです。 急なことだったのでお酒と祝い箸の用意がないんですけど。 どうぞ」

取り皿と割りばしを浅香の前に置く。

「いえいえ、お気遣いなく。 いやぁー、御節なんて何年ぶりだろ。 じゃ、頂きます」

食べながら祐樹の学校の話や、仮面ライダーやアニメの話に二人が花を咲かせていた。 詩甫は二人の会話を聞き笑んでいる。

「ポートボール? うわ、懐かし!」

「わっ、なにそれ。 ジジクサ」

外では緩い陽射しが差しているものの寒風が吹いている。 子供たちの声は聞こえない。 きっと家族で田舎にでも帰っているのだろう。

暖房が効いた部屋だが、それと違う暖かな・・・ポカポカとした陽射しが柔らかく当たっているようだ。 座っているこの部屋に花が咲いてきそうな気さえする。
そう思うとこれが家の中なら、温かい家庭で家族団らんのお正月を迎えていて、これが家の外なら、暖かい陽の下でピクニックにでも来たようだ。

そんな風に思っているのは詩甫だけだろうか。

物心ついた時から両親は喧嘩をしていた。 父親が帰って来ない日もあった。 あの時は分からなかったが、きっと女の人がいたのだろう。
詩甫が一人で留守番が出来る歳になると、母親は帰って来ない父親を待っていたくなかったのか、詩甫を置いて元同級生たちと遊びに出かけていた。

父親と離婚した後、詩甫と共に実家に戻った母親は義父と付き合うようになった。 その母親が料理教室に通った。 元々カフェで働いていた時に、ちょっとした物を作っていて料理に興味を持っていたから進んで教室に通っていた。

義父と母親が再婚をしてからは、出来るだけ二人の邪魔にならないようにと食事以外は部屋に籠っていた。 その食事も味わうことなく早々に終わらせていた。

「ねー、姉ちゃんってば、聞いてる!?」

祐樹のボリュームアップされた声で我に返った。

「あ? え? なに?」

「もー、だからー、浅香の家に行っていい? って」

「え?」

驚いた顔をして浅香を見る。

「単行本、大人買いの自慢です」

「姉ちゃん、絶対に話聞いて無かったろ」

「あ・・・ごめん」

浅香がフッと笑む。
この席で朱葉姫のことを話さないようにしていた。 だが詩甫は朱葉姫のことを考えていたのだろうと思ったからだ。

大きな間違いだが。

「で? いいですか? 祐樹君を大人買い自慢大会に招待して」

「おい浅香、いつの間に大会になったんだよ」

「だーから、さっきから何度も言ってるだろ? お兄さんだって」

祐樹が横目で浅香を見る。

「なに・・・」

「どっちかって言ったらオジサンだろ?」

「がぁーーー!! それだけは許さないからなー!」

浅香が箸を置いて祐樹に覆い被さるようにしたが、すばしっこい祐樹がすぐに逃げる。
詩甫がふと座卓のお重を見るとほぼ食べ尽くされていた。

「・・・うそ」

詩甫と祐樹が三日かかっても食べきれないお重であったのに。
部屋の中を駆けまわった祐樹が、浅香の魔の手から逃れるように詩甫の横に座る。

「ね、姉ちゃんいい?」

「うーん、でもご迷惑よ」

「ああ、そんなことはありません。 お気遣いなく」

「ほら、浅香も言ってる」

「お兄さんだろ」

「んじゃ、代名詞で呼んでやる。 オジサン」

「次に言ったら、たとえ祐樹君といえどもぶっ飛ばす」

そう言いながらも箸を持って残り少なくなった御節を口に運んでいる。
浅香自身が “お兄さん” にこだわる理由など分からないが、常識的にそうだろう。 小学生が大人を呼び捨てにするのはどうかと思うし、オジサンと呼ぶには早いだろう。

「いいんですか?」

詩甫が訊いた。

「全然全く、大歓迎です。 野崎さんも一緒にどうですか?」

仮面ライダーやアニメをおススメされるのだろうか。 ちょっと引く。

「うん、そうだ。 姉ちゃんも一緒に行こうよ」

仮面ライダーをおススメされるかもしれないとは思うが、浅香に祐樹の相手を頼むのは筋違いだろう。

「明日なんてどうですか?」

一瞬にして祐樹が喜んだ。

「あ・・・でも」

「今日が非番で明日は休みなんです」

浅香の目が何かを言っている。
そういうことか。
詩甫が頷く。
何かあるのだろう。

食べ終えて一時間後くらいに浅香が帰って行った。 きっと昼ご飯は食べられないだろう。

「浅香さん、よく食べてくれたねぇ」

「浅香だけじゃないよ? オレもかなり食べたもん」

「え?」

いつもは苦虫を噛み締めるように御節を食べていた祐樹だ。

「浅香が御節の謂れ? そんなことを話したから浅香と一緒に全種類食べたけど、浅香の説明面白いからつい一緒に食べちゃった」

「そう、なんだ」

「姉ちゃん、何をボォーッとしてたの?」

「え? ボォーッとしてた?」

若干自覚はある。

「してたよ」

「暖かかったから」

詩甫が口の中で言った。

「え?」

訊き返す祐樹にこの三年ほど言っていた毎年のことを言う。

「ボーリングに行こうか」

小学校二年生から一人で電車に乗ることが出来た祐樹。 その年から詩甫の部屋を訪ねている。 訪ねる頻度はお小遣いの問題で当初はかなり少なかったが。

お年玉を持って正月に詩甫の部屋を訪ねてくると、必ずボーリングとスケートリンクに連れて行った。 もちろん経費は詩甫持ちであって、お年玉を使わせることは無い。

「うん!」

その帰りに買い物をして帰ろう。



翌日、十時過ぎに駅に着く電車に乗ってやってきた。 浅香には駅まで迎えに来てもらっていた。
詩甫は顔の絆創膏を外していた。
決して自然ではない顔ではあったが、絆創膏をしている方が不自然だと思える。 それ程に昨日と今日で違いがあった。 初出の時にはコンシーラーやファンデーションでいくらか誤魔化せるだろう。

「昨日はごちそうさまでした」

詩甫が「いいえ」 と首を振り「今日はお世話になります」 と返した。 その手には何故か大きな荷物が持たれている。
いくらか歩き浅香の住む部屋に入った。

駅から部屋に向かう途中で、狭いLDKの他には寝室があるだけと浅香が言っていたが、詩甫の部屋とそう変わらないだろう。 ダイニングスペースが詩甫の部屋の方が少し広いくらいで、リビングは浅香の部屋の方が広い。

そのリビングには二人掛けのソファーが一つと座卓、座卓は二段になっていて、下の段にはちょっとした文房具が置かれていた。 その下にはセンターラグが敷かれてある。 テレビ台の中には隙間なくDVDが整列されていてその上にテレビがある。 無駄なものが無くきれいに片付いている。 日当たりもよく清潔ささえ感じる。

ソファーに座るように言われた詩甫がちょこりんと座り、その隣で祐樹がソファーの上で胡坐をかいている。 それを窘めようとした時

「んー? 浅香ぁ、大人買いは?」

目ざとく部屋を見回した祐樹が言う。 それはそうだろう、それが目的なのだから。

「今、コーヒー淹れてるからちょっと待って。 祐樹君はオレンジジュースでいい?」

浅香が詩甫の部屋に来た時、詩甫が祐樹にオレンジジュースを出していたのを覚えていたのだろう。 きっと昨日の帰りにでも買ってきてくれたのだろう。

「あの、お構いなく」

「昨日あれほどお構いしてもらったのに、コーヒーくらい淹れさせてください。 インスタントですけど」

湯が沸くと手早くコーヒーカップに入れ、片手に詩甫の為のコーヒー、もう片手にオレンジジュースを持って卓に置くと、取って返して今度は浅香のコーヒーともう片手にフレッシュと角砂糖を小鉢に入れた物、その下に小皿がありそこにスプーンが置いてある物を持って来た。

浅香はインスタントのブラックなはずだった。 フレッシュと角砂糖も詩甫の為にわざわざ用意してくれたのだろうか。 それとも日頃から誰かが来て常に用意しているのだろうか。

インスタントですけどどうぞ、と言ったあとに浅香がテレビのリモコンを操作する。

「祐樹君、年末最後とその前のコナンを見損ねたって言ってたろ?」

「ん」

オレンジジュースを飲みながら返事をする。 するとテレビにコナンが映し出された。

「消さなくて良かったよ」

「わ、撮ってたんだ」

ジュースを置いた祐樹が座る角度を九十度弱変え体操座りをした。 きっと浅香はこのソファーに寝ころんでテレビを見ているのだろう。
祐樹の座り方を窘めることが出来なくなってしまった。

詩甫に眉を上げて見せると廊下に戻って行った。 部屋に入ってきた時、玄関を入って右側にドアがあった。 きっとそこが寝室なのだろう。 そこへ行ったのだろう。
詩甫がフレッシュと角砂糖を入れていると、浅香が戻って来た。

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国津道  第25回

2021年04月12日 22時00分06秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第10回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第25回



電車に乗り込み一駅で下車をして、待ち合わせのカフェに全速力で走る。
カフェに着くと息を整え腕時計を見る。
十時四十分。
瀬戸が何時に駅に着いたのかは知らないが、少なくとも三十分は待たせたようだ。
カフェのドアを開けた。


冬休みに入った祐樹は四日ほどで冬休みの宿題のほぼ半分を終わらせていた。 でなければ詩甫の所に泊まりに行かせてもらえないからだ。

『三十日には戻ってくるのよ』

詩甫の所には一泊二日だけ。 年末年始は家で過ごせということである。

『まぁ、お正月は戻らないとお年玉がもらえないからな』 そんなことを独り言ちて電車に乗ったのだが、詩甫の部屋について目が飛び出るほど驚いた。

「ね・・・姉ちゃん」

詩甫の顔にはガーゼが充てられていた。 そして落ち着いてよくよく見れば、手足にもガーゼが充てられてある。

「どうしたの・・・」

「ふふ、やられちゃった」

祐樹が来ることは分かっていた。 連絡を貰っていたから。 だがこの傷を隠すことは出来なかった。

「え・・・」

思い当たることがある。
祐樹の顔が見る見るうちに蒼白になっていく。

「心配しないで。 大丈夫だから」

「大丈夫じゃないっ、どうして言ってくれなかったの!」

詩甫がニコリと微笑む。 顔の傷が突っ張る。

「こんなことくらいでお姉ちゃん、負けないよ? 言ったでしょ? お姉ちゃんは頑固だって」

「でもっ!」

「お社に行った時に思い出したことがあるの」

これ以上、祐樹を巻き込みたくはなかった。 だが祐樹は知り過ぎている。 情報を提供したのはこちらだが、こんなことになるとは思ってもいなかった。 甘かったのだろう。 だからと言って、祐樹を蜥蜴の尻尾を切るように終わらせることは出来ない。

祐樹はまだ小学生、なんとでも誤魔化せるだろう。 巻き込みたくなければ誤魔化せばいい。
否。 もう幼稚園児では無いのだ。 誤魔化しはきかない。 だからはっきりと言おう。

「え?」

「瀞謝の記憶。 断片的だけどね」

「あ・・・」

瀞謝の話は聞いている。 瀞謝とは昔々の大昔の詩甫の事であると知っている。

「ね、祐樹? お姉ちゃんは祐樹を巻き込みたくないの。 祐樹はこの部屋に居てお姉ちゃんが帰って来るのを待っていてくれる?」

「・・・どういう意味?」

「祐樹がここに来た時ってこと」

「・・・姉ちゃんがどこかに行くってこと?」

詩甫が一瞬目を瞑ったがすぐに首を振る。

「行くことは行くけど、そういう意味じゃなくて・・・。 そうね、お姉ちゃんを待っていてほしい。 ただそれだけ」

「それって姉ちゃんが必ず帰って来るってこと?」

詩甫が頷く。

「・・・やだよ」

「え?」

「姉ちゃんが言うんだから待つことは待つ。 でもずっと一人でなんて待たない」

「祐樹・・・」

「姉ちゃんが帰って来る、それは当たり前。 姉ちゃんについていったオレも帰って来る。 この部屋に姉ちゃんより先に入る。 姉ちゃんにお帰りって言う」

一秒でも詩甫を待っていたということ。

「・・・祐樹」

祐樹がニッパっと笑った。

「そんな手じゃ洗い物も出来なかったろ? 電話して呼んでくれればよかったのに」

「祐樹・・・」

「昼ご飯はオレがラーメンを作るからね」

「・・・うん、ありがと」

もう祐樹に隠し事は出来ない。

三十日になり、祐樹が母親に連絡を取った。

「だって姉ちゃんが手を怪我してるからって・・・」

『それが何!?』

母親のヒステリックな声が受話器を通して祐樹の耳に響く。 リビングに置いてある固定電話だ。 座っていた詩甫の耳にもその声が聞こえる。

祐樹が母親に連絡を取るというのを止める詩甫を横目に、祐樹が連絡を入れたのだった。
受話器を耳に充てていた祐樹が顔を歪めて詩甫を見る。
詩甫が微笑んで頷く。

「・・・分かった」

受話器を元に戻した祐樹。 コトっと音がした。

「お正月だもん、お母さんと居てあげて。 ね、またいつでも来て」

「・・・」

「祐樹?」

「一人で・・・」

「え?」

「一人でお社に行かない?」

「うん」

「・・・オレが一緒に行けない時は、ちゃんと浅香と行く?」

「うん」

この怪我のことを話した時に浅香と一緒だったと言った。
その時は何を言っても浅香に対して憤慨していたが、どうやら浅香を許したようだ。


浅香と瀬戸の会話を聞いた曹司はすぐにその話を朱葉姫に話すことが出来なかった。
朱葉姫のお社に大蛇が居るなどと・・・そんな話を朱葉姫に聞かせるわけにはいかない。 だがそれが原因で民が社に来ることがなくなってしまったのだろうか。
山の中を見て回った後、社の中に戻ることが出来ず、社の前に座り込んでいた曹司が小さく首を振る。

「曹司?」

振り返ると薄(すすき)がそこに居た。 曹司にとって薄は叔母のような存在である。 思わず立ち上がる。

「どうしたの? ここのところ様子がおかしいけど」

朱葉姫の前では説得をしたり今までと変わらずしてきたつもりであるが、どこか気を抜いた時の表情を見られていたのかもしれない。
薄が今の姿の時には曹司はもっと小さな少年だった。 小さなことから何までも薄が教えてくれた。 きっと薄は曹司を小さな頃と変わらず見ていたのだろう。
曹司が首を振る。

「何かあったの?」

薄も曹司も死んだ人間だ。 だが社に居る者たちにはその自覚こそあれ、日々をちゃんと過ごしている。 生きていた時と変わらない。 薄が曹司の心配をするように、曹司も薄に心配をかけたくないと思っている。

曹司は簡単に社を出るが、薄にしても一夜を除く朱葉姫に仕える他の者にしても社を出てくることなどまずない。
一夜とて、強硬に詩甫の中に入ろうと何度も社を出ていたが、それまでに社から出るということは殆どなかった。

あの日、一夜がようやく詩甫に乗り移った日に、一夜が社の外ばかりか山の外に出ていたと知ったくらいだったが、あとになり一夜から朱葉姫のことを思うと居てもたっても居られなかったが、もう二度と社からは出たくないと聞かされていた。
それほどに皆、社から出たくないと思っているのに、様子がおかしい上に社の中に戻らない曹司を心配して薄が出てきたのだろう。

「いいえ、何でもありません」

この姿を見てまでも小さかった時のように心配をさせている。 こんなことでは朱葉姫にまでも心配をさせてしまう。

「少々張り切って見回りをしてしまっただけです。 さ、戻りましょう」


祐樹が家に戻って年末から年始を迎えた。
元日から二日後、傷のかさぶたが大分と小さくなってきた。

「絆創膏でいけるかな?」

顔に絆創膏は頂けないが、手が絆創膏に代わると随分と生活が変わる。
料理をすれば洗い物がでる。 無理に洗い物をして治りを遅くしたくはないから、仕方なく総菜を買っていた。 お米はレンチンタイプのものを。

たとえ祐樹が洗い物をしてくれると言っても、料理を作ろうとすれば野菜を洗ったり、肉や魚などを触ればしっかりと自分の手も洗わなければいけない。 それに迂闊に動かすとまた傷口が開くかもしれない。 祐樹があのまま泊っていれば寂しい年末年始を送らせていただろう。

座卓に置いてあったスマホが鳴った。
画面を見る。

「え・・・」

すぐに画面をタップする。

「もしもし」

『よっ、あけおめ』

間違いなく画面に出てきていた名前の声である。

「あ、明けましておめでとうございます」

『傷、どう?』

「え?」

『どうして? って訊きたい? ハハハ、加奈ちゃんから聞いたんだよ』

加奈とは、詩甫が務める会社の同僚。 そして着替えの服を用意してくれ、病院まで迎えに来てくれた人物である。

『あ、加奈ちゃんを責めないでくれよな。 急に詩甫ちゃんから年末年始の予定に行けなくなったって連絡を貰ったから、何かあるのかなぁーってね。 だってあんなに一生懸命だったから。 で、加奈ちゃん辺りが知ってるかなぁーって思って無理矢理訊きだしたんだから』

電話の相手は願弦であった。

年末年始、詩甫が浅香に言った修業とは、願弦の元に行き供物の置き方、所作を習うことであった。 そして浅香の抱いていた、詩甫が大人しすぎると思っていた時には、祝詞を教えてもらい頭に詰め込んでいた時であった。 まだ覚えきってはいないが。

『あの話な、詩甫ちゃんは神の宿る社じゃないって言ってたけど』

「はい」

『俺としてはね、天津神(あまつかみ)も国津神(くにつかみ)も、うーん、言っちゃえば八百万の神々も、そこに祀られているその柱だけじゃないってことを言いたいわけよ』

意味が分からない。 ついでに言葉も分からない。 どう返事をしていいのかもわからない。
取り敢えずコクリと頷くが相手にそれは見えないだろう。

天津神とは高天原の神々である。 国津神とは天津神の天孫降臨の前から国土を治めていたとされる神々である。

『祀られている・・・俗に言う色んな神さんがいるだろ?』

「え?」

どの神様だろうか。

『大きなところでは、伊勢とか出雲とか』

「はい」

それは知っている。

『他に菅原道真とか早良親王とか、橘逸勢(たちばなのはやなり)とか。 他にもいるけどな』

最初の二人は知っている、現存する人物だった人たち、いわゆる歴史上の人物だ。 だが最後は知らない。 名前から現存する人物だったのだろうか。

『菅原道真は、天満宮。 早良親王は、京都の巣同祟道ほか祟道天皇社。 橘逸勢は橘逸勢神社』

天満宮は知っている。 他は知らないし、特に最後の神社はいったいどこにあるのだろう。 小者だろうかと詩甫が首を傾げる。

『三人とも生きていた人間だよ。 天津神でも国津神でもない』

願弦が言うには、時の朝廷が冤罪を含み汚名を着せて滅したと言う。 そしてその怨霊に恐れおののいて、鎮魂のために神として祀ったという。

「え・・・」

『詩甫ちゃんの言ってるその社、そこもそうなのか?』

思わず詩甫が首を振る。
あの社は鎮めるための社ではない。 ましてや怨霊などとは全く関係がない。

「違います」

『そっか・・・』

どうしてそんなことを訊くのだろうか。 祝詞を教えてもらっている時にはそんなことを言わなかったのに。

『その社のこと聞かせてもらえない?』

詩甫は最初に社のことを一切話さなかった。 ただ一つ、神では無いと言っただけである。 そして『下手でも、唱えられるようになりたいんです。 教えてください』 そう言っただけであった。

今回、詩甫が怪我をした話を加奈から聞いたが、どうして詩甫がそんな所に行ったのかが分からないと言う。 詩甫に縁もゆかりもない土地だからだと。 そこは乗り換えばかりしてすごい田舎だったということであった。

だからもしかして、そこは詩甫の言っていた社がある所ではないのかと思った。 もしそうだとするのならば、自分は一枚噛んでいるということになる。

『ほら、詩甫ちゃんの傷がその社と関係があるのなら、俺も知らぬ存ぜぬではすまないからな』


三が日が終わってランドセルを背負った祐樹が電車に乗った。 座席に座った膝には風呂敷に包まれたお重の入った袋を乗せている。 お重の中の御節が崩れないように、そろりそろりと歩いて電車に乗り込んできた。 張っていた身体が電車の暖房で溶解していくようだ。

三が日の間に残っていた宿題は終わらせた。
詩甫は七日から出勤である。 例年、初出勤は日曜日にさえ重ならなければ、七日と決まっていた。 そしてその日は祐樹の三学期が始まる日でもあった。 詩甫の所で三泊してそのまま学校に行く。

年末年始はいつも通りだった。
三十一日の午前中に大掃除の手伝いをさせられ、三十一日の午後からは新しい下着を買いに両親と出かけ、夜になれば除夜の鐘をききながら家を出て初詣に出かけた。
母親が一年の間に一番喜ぶ顔を見せる日でもあった。

「どこの家も同じなのかなぁ」

そんなことは今まで考えもしなかったが、年末に詩甫の怪我があったせいなのだろうか、つい考えてしまう。
それにしても、母親に電話で詩甫が怪我をしていると言ったが、取り合ってもらえなかった上に家に戻ってからも詩甫の怪我のことを訊いてくることもなかった。

「・・・」

詩甫のことを思うと段々と頭が下がってくる。

「ん? あれ? 祐樹?」

顔を上げると中学生の女子が座席の横に立っていた。 祐樹が座っているのは長い座席が横向けにあるものではなく、二人掛けが対面にあるパターンの電車である。
座席の持ち手を握っているが、吊革を持っても持つ手に余裕があるだろう。 祐樹などはまだ届かないのに。

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国津道  第24回

2021年04月09日 22時38分33秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第10回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第24回



河童の話をした先輩が目を丸くした。

「瀬戸?」

「ええ、瀬戸朝霞さん。 それとも朝霞君?」

「なんでお前が瀬戸を知ってるんだよ」

「ちょっと袖をすり合わせまして」

「なんだよその表現」

「その瀬戸朝霞さんか、朝霞君かのメルアド知りません?」

「“さん” だよ、お前より一つ上」

「あ、そうなんだ」

「お前・・・うちの出張所の恥を晒したんじゃないだろうな」

「なに、その言い方。 失礼な」

「何が失礼だよ、十分に値する」

「ま、僕は大人ですから、そこはスルーしてあげましょう」

「どこがだよ」

「で? メルアド知りません?」

「・・・」

「知ってますね」

河童先輩・・・もとい、河童の話をした先輩・・・長すぎる、河童先輩でいいか。 その河童先輩である権東が言うには、何年も前のメルアドだという。 だからもう変わっているかもしれないと。

「え? メルアドが変わっていて連絡なしですか? わぁー、信用無さ過ぎ」

「浅香ぁー」

「えーっと、信用があるってのなら、メール打ってもらえません? 連絡がついたら権東さんの信用爆上げ。 反対に行き先不明ですってお知らせがあったら」

浅香がニマリと笑う。

「お前って・・・ホンットに根性悪いよな」

「あれ? そんなことないですよ? それって気のせいですよ」

「言ってろ!」

引継ぎの時間となった。


河童先輩が叫んでから一日を終えた。 二四時間が終わった。

冬は心筋梗塞や脳溢血、動脈乖離の患者が増える。
暖かくなればそんな病状の患者が少しでも減るだろうが、今度は熱射病や熱中症の患者が増える。

「うぇー」 と、出張所に戻って来た浅香が声を吐く。

「なんだよ、バテたのか?」

患者の前で言わなかっただけこの男に関しては感心だ。 いつもこんな態度だが、それを患者に見せていない。 付き添う家族にも。 当たり前と言えば当たり前だが。

「いやぁ・・・・昨日、寝てないもんでして」

「は?」

「色々とあって・・・体力も底を突きたかなと。 僕も歳には逆らえませんー」

浅香が勝手に泣き言を吠えているが、そう言えば出動を待っている間、いつもなら事務処理を蹴っ飛ばして消防隊員と一緒に自主トレをしているのに、今日はそれが見られなかった。
暗雲が頭に上る。

「それって・・・瀬戸に関係することか?」

「正解、さすがは権東さん」

何とでも言っておこう。

引継ぎを終え、権東が瀬戸にメールを送った。 有難くもデリバリーから行き先不明の連絡はなかったが、すぐに返信もなかった。

そしてその夜、詩甫から無事に退院したという連絡があった。 詩甫は浅香の出勤形態をよく分かってくれている。 顔についた傷に友達の目が止まっていたと笑っていた。
落ち込んでいないようで良かった。

翌日、出勤するとロッカーに入ってきた権東から瀬戸に連絡がついたと聞かされた。

浅香が権東を前にして両手をパンパンと叩いて拝み倒す。 そして「さすがは河童の力を貰った権東さん」 と言った。

「お前・・・完全に馬鹿にしてるだろう」

権東が今にも頭から火を噴きそうなほどにしている、ではない。 冷たい目で浅香を見ている。

「いいえ、決して、断じて。 有難いほどです」

「白々しい。 で? お前のことを面白いと返信があったが? 浅香、お前何をしたんだよ」

権東は浅香のことを口悪く言うが、浅香の存在を否定しているものではない。 むしろ浅香の存在を受け入れている。

「楽しいお話をしただけです」

権東から連絡をしてもらえた。 計算外ではあったが、これで瀬戸が持っていたかどうかは分からないが、浅香に対する不信があったとすると払拭できただろう。
たとえあの時、権東の名を出したとしても、河童話をしてもどこかに不信は残っていたかもしれない。

「えーっと、それじゃ、メルアド教えてもらえます?」

スマホを手にしていた権東が横目で浅香を見る。

「なに、その目」

言った途端、浅香のスマホがメールの着信の音を奏でた。

「引継ぎの時間までに返信しろよ」

権東が浅香の背中をバンと叩いてロッカーを出て行った。

権東の背中を見送るとスマホを手にする。
着信にはアルファベットでフルネームが書かれていて、その内容は空メールだった。

権東が浅香のメルアドを教えたのだろう。
だがあの時会った性格から考えるに空メールは有り得ない。 きっと権東がそうしろと言ったのであろう。

フッと浅香が鼻から息を吐く。
やはり権東は浅香のことをよく理解してくれている。
今度自前で和菓子をプレゼントしてもいいか、などと考えながら指を動かす。

返信の内容は『ご連絡ありがとうございます』 から始まって、あの日の様子ではお互い非番がすれ違いになるようだ、よって休みの日か、休みによってズレた非番が合えばその日に連絡をしたい、と書き込んだ。 そして訊きたいことというのは、紅葉姫社のことであるということを書いた。

受信したメールは瀬戸朝霞からであった。



草を踏みしめる音がする。

「おかしい・・・」

どうしてこんな所に血痕が残っているのか。 いや、血痕といっても血溜まりではない。 倒れた葉の先や、折れてしまった雑木の枝に付いている程度である。

「誰かが落ちた・・・?」

あの日の二日前には土砂降りの雨が降っていたが、あの日から雨は降っていない。 とはいっても足元が滑りやすかったかもしれない。
階段の途中から横に生えている葉や雑木がなぎ倒されている。 血はもう乾いている。 今日の、いや今朝の出来事ではないようだ。

いつもの曹司ならばここまで山を下りてこなかった。 朱葉姫もここまでは守っていない。 せいぜい坂くらいまでである。 だが数日前から階段辺りが気になり何度か坂の下まで見回っていたが、特に何の変化もなかった。 そしてとうとう躊躇いながらも階段を下りてきた。

「・・・まさか」

曹司が階段を気にし始めたのは詩甫たちが帰って暫くしてからだった。 もし雨が降っていれば、この血も流されていただろう。 だが詩甫たちが来てからは雨は降っていない。



呼び出しのコール音が四回。 いったい相手のスマホはどんな着信音にしているのだろうか、などと考えていると相手がスマホに出た。

『はい』

「お早うございます、浅香です」

『お早うございます、お疲れ様でした』

電話の相手は瀬戸である。 今日は浅香が当直明けの非番、瀬戸が非番明けの休日ということであった。

「ええ、疲れました」

スマホの向こうで瀬戸が笑っている。 病院内のように顔だけではなく、声を出している。 明るい笑い声だ。

『この時季は患者が多いですからねぇ。 うちなんか年寄りが多い地域ですから寒い時季は出動が多いですよ。 とは言っても浅香さんの所ほど人口密度は高くないですけどね』

「いえ、大都会に比べたらこちらも大概です」

『では・・・お疲れというのでしたら、家を出ることは叶いませんか?』

「え?」

電話で話を聞かせてもらうはずではなかったのか? この日この時間に連絡がつくと返信してきたのは瀬戸の方だ。

『浅香さんの勤務されている出張所の最寄り駅に居るんですが』

「えー!?」

瀬戸と話し終えスマホを切ると、ドンという音がするほどの勢いで曹司が浅香にぶつかってきた。

「うわぉ!」

目の前に、いや目の前というほど優しいものではない。 殆ど額を付けられているほどである。

「瀞謝に何かあったか」

「ち―――」

「そうだ、血のあとを見た」

「ちが―――」

「そうだ、血だ。 はっきりと言え、あの血は瀞謝のものか」

ほんの数センチ離れて曹司の双眸がある。 おちょくってキスでもしてやろうかとも思うが、そんなことをしたら腰に履いている剣呑な物で何をされるか分かったものではない。

「だぁー!!」

大声を出して後方に跳び、曹司から離れる。
そして仮面ライダーのようにビシッと曹司を指さす。

「最初の “ち” は、その後に “ちょっと待て” と繋がる。 次の “ちが” は僕の最初の言葉を勘違いした曹司に “違う” と言いかけた」

曹司の眉がピクリと動く。
曹司を指さしていた手を力無く下ろす。

「今頃何言ってんだよ」

「どういうことだ」

「どうしてもっと早く来なかったのかって言ってんだよ!」

「・・・何があった」

「瀞謝が山を下りている途中で階段から落ちた」

曹司が目を見開く。

「やはりあの血は・・・」

「誰かに突き飛ばされたって言ってたよ」

「それで・・・瀞謝の様子は」

「連絡を貰った。 元気にしているようだけど傷は残ってるみたいだ。 落ち着いた頃に様子を見に行くつもりだよ」

そう言えば長期休みの間の修業はどうなったのだろうか。

「そうか・・・」

命を絶たれるようなことは無かったのか。
ホッと安堵する。

「で? 今まで何の連絡も無く何してたんだよ」

言い捨てるとスウェットを脱ぎだす。

「何をしておる」

「着替えだよ」

これから駅に向かわなくてはならない。 瀬戸が出張所最寄り駅近くのカフェで待っている。

「これから人に会う。 曹司も一緒に来いよ、その方が手っ取り早い。 とっとと今日まで来なかった事情を話してくれ」

「・・・」

スウェットを脱いだトランクス一枚の男が目の前にいる。 だが曹司にしてみればトランクスなど知らない。 アウターウェアは時の流れと共に変わってきていたのは知っていたが、下着が変わっているなどとは知らなかった。 だからトランクスが下着とも思っていなく、その下に何も着けていないようだ。

「おら、早く」

「亨・・・褌(ふんどし)はどうした」

「は?」

Gパンに足を通そうとしていた浅香の足が止まった。


褌論争を終えて大急ぎで着替えの終わった浅香。 Gパンの上にパーカーを着ている。 そしてその上にダウンジャケットを羽織る。
時計を見た。 十時十五分ちょっと前。 スマホを切ったのは十時十分だった。

「絶対に出てくんなよ。 出てきたら何もかもがおじゃんになるんだからな」

そう念を押して駅までの道々、曹司から話を聞いた。 聞くと言っても口から発する声ではない。
簡単に言ってしまえば、詩甫に説明した時のように今は浅香がハンドルを握っていて曹司が助手席に座って話しているようなものだ。

頭の中に曹司の事情が響いてくる。

曹司が言うには朱葉姫は悩んでいるということであった。
このまま朽ちるのを待つことが出来ない。 何があるか分からないのだから。 それなのに瀞謝が言った、もう二度と逃げないと。

だからどうやっても浅香に瀞謝が止められないのであれば、浅香の手によって早々に社を閉じてもらえば、瀞謝に危険が生じないだろう。 浅香が生まれてきた当初の目的はそうだったのだから、と曹司が朱葉姫を説得していたという。

<曹司が説得すれば朱葉姫は納得するだろうな>

不服があるかと、助手席からじろりと浅香が睨まれた。
当たり前だと言いたかった。 それでは浅香に何かあってもいいということになるではないか。 浅香の命は尊重してもらえないのか。 だが口から出たのはそんなことではなかった。

<なのにそうではない。 ミソは、当たり前の結果があるのに、どうして朱葉姫が悩んでるかってところ>

曹司が浅香から目を離す。

<曹司にしてもそうだ>

前を見据えていた曹司の眉が動く。

<朱葉姫がいつ瀞謝から聞いた話を曹司に言ったのかは知らないが、少なくとも今日来たのはその話をする為じゃなかっただろう。 瀞謝の様子が気になって来ただけだろう。 ま、その話をしろって催促したのは僕だけど>

<・・・>

<朱葉姫が悩んでいるのは瀞謝の存在だ。 たとえ曹司が僕に瀞謝を説得するように言ったとしても、僕がそうしたとしても瀞謝は納得しない。 朱葉姫はそれを分かっているんだろう。 瀞謝が己を顧みず無茶をしないかどうか。 まっ、曹司が言うように瀞謝に内緒で僕がお社を閉じれば話は違ってくるけどね。 だけど曹司は何を言っても本来の朱葉姫の願いを叶えたい。 僕に命を与えた苦肉の策なんかで終わらせたくない。 そういう事なんじゃないのか?>

まだ前を見据えたまま口を開こうとしないどころか、僅かにも動かない。
だがそれが返事だ。

<確かに瀞謝は傷を負ったよ。 でも瀞謝は諦めていない>

僅かに曹司の指先が動いたように感じた。

<それに僕も>

どういうことだという目をして曹司が浅香を見る。

<瀞謝を手伝えって言ったのは曹司だろう>

握っているこのハンドル、今は無意味だ。 単に握っているだけなのだから。 ハンドルを放しても同じこと。 運転席に座っているといえど、浅香の意識は曹司に向いている。 今は自動運転のような状態だ。 浅香の身体は通い慣れた道を勝手に進んでいるのだから。

だがギヤをトップに入れての速度では無いのが残念だ。 ほぼ・・・セカンド? トップは無理にしても出来ればサードになってほしい。
もし自分が短距離走か、若しくは中距離走の選手であれば、無意識の中であってもそれが叶ったのかもしれないが、残念ながら専門的に中・短距離を疾走するのは得意ではない。

<瀞謝に言ったよ。 朱葉姫と瀞謝、曹司と僕ってね>

何を言いたいのかと、曹司が眉間に皺を寄せる。

<でももう一つ違う組み合わせがある。 朱葉姫と曹司、瀞謝と僕>

朱葉姫=曹司 瀞謝=浅香 それは先に言った 朱葉姫=瀞謝 曹司=浅香 に繋がる。 どちらをとっても社を朽ちらせたくないということだ。 そして 瀞謝=浅香 のタッグはそれだけではない未来を見ている。

<社を修繕する。 祭とまではいかないかもしれないけど、民の姿を朱葉姫に見てもらう>

<・・・亨>

<何十年先にどうなるかは分からない。 いや、一年かもしれない。 でも朱葉姫に民を見てもらう、声を聞いてもらう。 今も尚、朱葉姫の名は残されてるんだからな>

敢えてそんな話を詩甫としたわけではない。 だが詩甫もそう考えているはず。
階段から落ちていく前に詩甫が言っていたことがある。 だがあんなことがあって考えを変えただろうかと思っていたが、あの時病院で詩甫の目が言っていた。 そして違う言葉を口にした違う言葉で言っていた。

<どういうことだ>

<教えてやるよ。 だから協力しろよ>

だが絶対に出てくんなよ! と再度念を押した。

アンドロイドのように高い知能を持った人間型ロボットではなく、知能を手放した肉体が駅に着いた。 身に付いた所作で改札を潜る。

知能を手放していた肉体の目に息が宿った。
浅香が曹司との話を終え、完全に意識が我が身に戻って来た。 曹司は助手席に座っている。

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国津道  第23回

2021年04月05日 22時19分39秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第10回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第23回



救急隊員が気を失っている詩甫の代わりに、浅香に詩甫の生年月日を訊いてくる。
常套句ではないが、それは基本の基。 それは分かっている。 だが詩甫の生年月日など知らない。


―――気に入らぬわ。

瀞謝め、心の臓の一時くらいでは懲りんか。
何百年も前には見逃してやっていたものを・・・。
何百年? いや千年だろうか、もしや二千年だろうか・・・。
ああ、もう時の感覚などない。

―――時などどうでもよい。

あと少しなのだから。
これ以上の邪魔は許さない。
もう目の前の事なのだから。


―――ざまをみろ。

落ちていく詩甫を追って階段を走り下りて行く浅香の背を見送っていた切れ長の目を細め、口角がゆっくりと上がる。


浅香から連絡を受けた救急車がやってきた。 浅香は詩甫を動かしてはいない。 救急車が来るまで詩甫の隣について脈を計ったくらいである。 詩甫の頭のあるほんの下には大きな石があった。 あと二転でもしていたら、完全にその石に頭をぶつけていただろう。
やっと落ちて行った詩甫に追いつき、横たわる詩甫の横でその石を見た時にはゾッとした。 だが石だけではなく、ここに落ちてくるまでに木に頭をぶつけたかもしれない。

サイレンの音を聞いて道路に出ると詩甫が倒れている所まで救急隊員を誘導した。



詩甫の生年月日を訊かれた浅香がそれに答えず違うことを言った。

「自分も救急隊員です」

「え?」

救急車の中で不思議な空間が出来上がる。

「彼女の名前は野崎詩甫さん、一人暮らしです。 一緒には居ましたが、生年月日など詳しいことは知りません。 お訊きされてもこれ以上は答えられません。 単なる後輩ですのであとは彼女の携帯番号しか知りません。 親御さんの連絡先も知りません」

相手は警察では無いのだ、誰にこんなことをされたのか、犯人を見なかったか、そんなことは今必要ない。 後から警察が来て自分が怪しまれるかもしれないが。
だが今の状況では、知っていることを説明しなくてはならない。 どうして詩甫がこんな事になったのかを。
誤魔化すことなんて出来ない。

二人の救急隊員が同じ目で浅香を見たが、一人だけは違う目で浅香を見ていた。 その違う目で見ていた詩甫の生年月日を書き込もうとしていた隊員が問う。

「もしかして社に行かれたんですか?」

浅香が口を開いた救急隊員を見る。
瞬きを一つすると救急隊員が続ける。

「・・・睨まれ、た?」

この隊員は昔語りのことを言っているのだろう。
救急隊員として昔語りの謂れに従うのはどうかと思うが、この地出身の者なのだろう。

運転手の話から、この地に生まれ育った者は大蛇のことをどこかで信じているようなのだから。 運転手自身もあれやこれやと言いながらも、社に来たことは無かったというし、子や孫にも昔語りを聞かせていたのだから。

詩甫は気を失っている。
朱葉姫と話したと言っていた。 そして社を潰さないと言っていた。
こんなことになって気が変わるかもしれないが、もし気が変わらないのであれば、あの大蛇の昔語りを今ここで再び起こしてはならないだろう。

「え? 何のことでしょうか?」

腹を括らなければいけない。

「・・・あ」

「ええ、お社に行って戻って来る途中でした。 ぬかるんでいましたので階段を降りている途中で滑ってしまって・・・その上、運悪く階段から逸れてしまったので、切り傷は密集していた木の枝や葉で切れたと思われます。 以前にも葉で指を切ったことがあります、自生の葉で鋭い葉があるようです」

「あ・・・あ、そういうことですか」

「ええ、ですが僕も彼女もこの地に詳しくはないので、どんな草が生えているかを知りませんが」

「了解です」

『了解です』 浅香と同じような言葉のチョイス。 同じノリの隊員なのだろうか。 そう言えば歳が同じくらいだろうか。
だがノリと歳は似ていても浅香と決定的に違う所がある。 この隊員は・・・昔語りを知っている。


病院で意識を取り戻した詩甫があらゆる検査を受けた。 打撲こそはあるが、骨折も何も骨に異常はなく、頭も小さなたんこぶだけでおさまった。 切り傷もしっかりとコートを着ていたから、手首から先と膝上あたりまでで済んだ。 顔の傷は笑えないが。

きっと落ちて行く途中、早々に気を失ったのだろう。 意識があって転がっていく動きに抵抗をしていれば、もっと酷い結果になっていたかもしれない。

これが都市の病院ならばすぐに退院だろうが、救急病院であっても片田舎の病院である。 一晩様子を見るということになった。

事情聴取に来ていた警察も帰って行った。 浅香が疑われることなく単なる事故として終わった。

「すみません、ご迷惑をかけてしまって」

そう言って頭を下げる詩甫の顔にも手にも足にも、ガーゼや包帯が巻かれている。

「いえ、僕が目を離してしまったからです。 すみませんでした」

一度首を左右に振った詩甫が、顔を左に振り遠い目をして窓の外を見る。

空気が綺麗だからだろうか、空が澄んで見える。 高い空では流れる白い雲の動きが速い。 上空では風が勢いよく吹いているのだろうか、それとも上空だけではなく、窓を開けると勢いよく風が入ってくるのだろうか。

「誰かに・・・後ろから突かれました」

浅香にだけ聞こえるように小声で言った。
詩甫が顔を戻す。 ベッドの上に座ったまま正面を見る。 そこには六人部屋である仕切りのカーテンしかない。

浅香が頷く。
浅香は詩甫の右側に座っている、視野の中に入っているだろう。
浅香の正面は窓になる。

この事は勿論、詩甫は警察に言っていない。 だが詩甫が声にせずとも、警察に説明する話を浅香は十分に疑っていた。

詩甫は階段の途中、ぬかるんだところで足を滑らせ慌てたが為に横に転んでしまったと言っていた。 横に転んでそのまま落ちてしまったと。 浅香は前を歩いていてそれに気付くのが遅れたと。

浅香は詩甫と並んで歩いていた。 それを前を歩いていたと言ったのは浅香を庇う為だということは分かる。

だが他の話に対しては、そんなことはあるはずがない。
たとえぬかるんだ階段で足を滑らせたとて、横に転んでもそのまま尻もちで終るだろう。 階段から逸れて山の中の藪の方に落ちていく筈は無いのだから。 それに秘密兵器を履いていた。 長居は無用とは言ったが、決して走ってなどいないのだから、簡単に踏み外したり滑らせたりするはずがない。

「取り敢えず今日はゆっくりしましょう」

浅香の声かけに詩甫が頷いたかと思ったが、下を向いただけのようだった。 そして唇を噛んでいる。
社を潰さないと決めてすぐあとの事だ。 悔しいのか考えを改めようと思っているのか浅香には分からない。

結局、詩甫の夕飯が運ばれてきた時まで詩甫の横についていたが、詩甫は一言も話さなかった。
浅香からも何も訊ねることは無かった。

「じゃ、僕そろそろ帰ります」

「本当にすみませんでした」

「いえ、気にしないで下さい。 っていうか、僕の責任ですから。 あの、それより、本当にご実家に連絡しなくていいんですか?」

「はい・・・」

「了解です。 じゃ、えっと・・・明日は・・・」

明日は当直だ、簡単に迎えに来るとは言えない。

「気にしないで下さい。 友達に連絡を取って来てもらいますから」

今は病衣を着ているが、着ていたスカートは枝に裂かれたと聞いている。 コートは泥だらけだと。 友達の服を借りるしかない。

「お役に立てなくて」

頭を下げる浅香を見て詩甫がくすりと笑う。

「そんなことありません。 浅香さんが居て下さって心強いんです。 ご迷惑ばかりかけてこんな言い方はおかしいんですけど・・・有難うございます」

浅香が笑みを返す。

――― そういう事か。

一つ頷くと「昼ご飯を食べていないんですから、残さないで食べて下さいね」 と言い残して病室を出て行った。

「あ・・・」

少し遅れて詩甫が気付いた。
浅香はずっと詩甫についていた。 きっと浅香も昼ご飯を食べていないはず。
再度、浅香の在り方を有難く思い箸を手に持った。

その箸を動かそうとした時、ふと詩甫の手が止まった。
下瞼が痙攣を起こしたように震える。

――― なにか忘れている。

落ちた時・・・いや、転がり落ちて何も分からなくなって意識が薄くなって・・・。

(そのあと・・・ほとんど意識がなくなっていたあの時・・・)

思い出そうとするが思い出せない。 完全に意識がなくなる中、その一瞬の時の何か。 その何かが思い出せない。

「野崎さん、具合はどうですか?」

看護師が様子を見にやって来た。


駅に向かう足でポケットに手を入れた。
詩甫の入院した病院は駅まで少々歩かなければいけない。 距離にしてみれば中距離。 歩くには距離がある。 車で移動の範囲と言っていいだろう。

その病院は診察時間なのに都市の病院ほど病院内に外来患者が居たわけではなかったし、病室も満杯ではないようであった。 だがここは田舎。 駅から徒歩で行けなくはないと言っても、都市ほど土地価格が高くはないのだろう。 だから患者があまり多くなくともやっていけているのだろう。

ここから駅の反対側、山に行く方には高校が建っていた。 東大合格率の高い高校だと聞いたことがあった。 少し離れた所に寮もあると聞いたことがある。 全国から集まって来るのだろう。 その高校にしても寮にしても、土地価格が高くないから固定資産税も都市より安く充分にやっていけるのだろう。

ポケットの中にあるメモ書きを取り出し広げる。 そこには携帯番号が書かれている。
あの救急隊員に訊ねたのである。 昔語りを知っていた救急隊員に。

患者を救急病院に運んだあとに救急隊員がどう動くかは知っている。 患者を下ろしてハイお終い、ではない。

『ちょっとお伺いしたいことが』

浅香が何処で働いているか、出張所の名称までを言い次いで名乗った。

『ああ、あそこですか』

『ご存知で?』

『先輩が今も居るはずですが』

自分の身分が嘘まやかしでないことを示す絶好のチャンスである。 隊員の名を連ねた。 もちろん、先輩と言ったのだから、それらしい歳の隊員から。 三人目で当たった。

『ええ、権東先輩です』

『河童を見られたって話は聞いています?』

浅香が心を許している河童を見た先輩である。
救急隊員が笑いを噛み殺している。

『正解ですね。 と言うことで、僕を信じてもらえますか?』

救急隊員が顔だけで笑う。 こんな所でこんな姿をして声を出して笑えないだろう。

『面白い人ですね、瀬戸朝霞(せとあさか) と言います』

ノリは浅香と同じではなかったようだ。

『へぇー、 “あさが” と “あさか” 点々があるか無いか、ですか』

『姓と名で違いますがね』

そうして携帯番号を訊いたのだった。 瀬戸は嫌がる様子も無くすぐにメモに書いて寄こした。

『お伺いしたいことが必要なくなれば、このメモはシュレッダーで廃棄・・・いえ、燃やしますので、プライバシーを侵害しません、ご心配なく』

瀬戸がまた顔だけで笑う。

『縁があればまたどこかでお会いするでしょう』

清々しい青年だった。
やはり浅香と同じではなかった。

メモを見つめる。
詩甫は最後に『有難うございます』 と言っていた。 詩甫の考えは話してもらえなかったが、その一言で分かる。

“有難うございました” の終わりにする過去形でもなければ、浅香の存在を心強いとも言っていた。 それは詩甫の決めた道を進むということ。
『昔語りにある大蛇、そちらから考えたいと』 そういう事だ。

メモを元通りに折りたたんで落とさないように財布の中に入れる。 新しい絆創膏が三枚入っている所と同じ所に。

「運ちゃんの方が歳をとってる分、知っていそうだけど・・・」

だが考え方を変えると昨今の若い者の方が、何かを疑問に思って親なり祖父母なりに訊いたことがあるかもしれない。
昔と違い、昨今の若者は疑問を頭に浮かべる、そして口にする。
それに家々によって違う話があるかもしれない。

救急車の中に入った時には瀬戸にとぼけた返事をしたが、あの時は詩甫のことで頭がいっぱいだったから、当日タクシーの運ちゃんから聞いた話をすっかり忘れてしまっていた。 そう誤魔化すしかない。
正直に話す必要などないが、下手に嘘をついて万が一にもタクシーの運ちゃんと瀬戸が知り合いだったら辻褄が合わなくなってしまう。 それを避けたい。

「うー、僕って小心者」

一人、己(おの)が小心者に心を浸したが誰も突っ込んではくれない。 浸っていても意味が無い。 現実に戻って気を取り直す。

「僕が明日当直、彼が・・・瀬戸さんが・・・瀬戸君か? が非番。 僕が非番の時に当直」

単純にそのすれ違いが延々と続く。 安易に連絡を入れられない。
だが休日がある。

「あー・・・携帯番号じゃなく、メルアドを聞けばよかった」

メールなら時を構わずに連絡を入れられたのに。 そうならば休日や非番を利用して連絡が入れられたかもしれないのに。 それに休日のズレから同じ非番の日があっただろうに。

あれやこれやと考えている内に、いつの間にか駅に着いていた。
階段を上がり切符を買う。 田舎にしてはそこそこの駅である。 病院や学校があるからだろう。 そして再び階段を降りてホームに降り立った。

こんな時間だというのにホームに人が溢れていない。 所謂(いわゆる)ラッシュ時なのに、溢れるどころか数えられるほどだ。
イヤホンを耳にしてスマホを操作している若者たち、同じくスマホを見ている女性がちらほら。 他にはこの地で働いているのだろうか、帰途につくのだろうGパンの上にジャケットやコートを着ている男女、この姿が一番多い。 とは言っても溢れるほどに居るわけではない。
この地が寂れていることがよく分かる。

朱葉姫の地であるのに・・・。 そんなことを考えたが、それはあまりに遠い昔のことであり過ぎる。

「田舎ならこんなものか・・・」

詩甫にあった事を曹司は知っているのだろうか。 ふとそんなことを思った。
浅香から曹司を呼ぶことは出来ない。

頭を垂れる。
詩甫が何をどう選ぶか、何をどうしたいか。 それはもう分かっている。

自分は曹司でもある。
曹司の思っている・・・願いも分かっている。
朱葉姫の願いをそのままに、静かに終わらせたいということ。 心ある者に社を終わらせたいということ。
だが詩甫はそれを選ばなかった。

社に向き合った後『ちゃんと話せました?』 と訊いた。
詩甫がコクリと首肯したが『でも』 と続けた。
その一言でおおよその想像はついた。 だから『朱葉姫は納得しなかった』 そう言った。

詩甫は社を閉じないと言ったのだろう。 それに対して朱葉姫が首を縦に振ったのではないのであろう。
詩甫がどんな言い方をしたのかは分からないが、社を潰さないと言っていた。 それは社に足を運ぶということ。

「曹司・・・こんな時に何やってんだよ、来いよ」

話を聞きに来いよ。 説得してやるから。

ゴォーっとけたたましい音をたてて電車がやって来た。

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国津道  第22回

2021年04月02日 22時23分48秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第10回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第22回



二人で階段を上がっている。
階段を上がる前に、詩甫が紙袋から秘密兵器を出した。 それは山に来る時にいつも履いていたウォーキングシューズだった。

秘密兵器と聞かされていて期待していたのだが、期待した種類ではなかったようだ。 どうしてそんなことをするのだろう、という目で浅香は見ていたが口には出さなかった。
ファッションに疎いらしい、と浅香の様子を見ていた詩甫だったが、詩甫もそれ程ではない。

「頭、ごちゃごちゃになっちゃいました」

社に関して何かの切っ掛け、この地域での社の在り方でも分かればと思って訊いたものの、思いもしない話に繋がってしまった。

だが社に足を向けなくなった謂(いわ)れがあるということは分かった。
その謂れ・・・昔語りによって人が寄り付かなくなった。 だが紅葉姫社、朱葉姫というワードは忘れられていないようだ。 その昔語りとかで語られているのだろう。

「いつの時代からでしょうか」

詩甫は気になるのだろうか、と浅香がちらりと詩甫を見る。
浅香は詩甫が “怨” を持つ者と対峙しようと考えていることなど知らない。

「うーん、そこがある意味ミソとも思うんですけど、運転手さんは昔語りとしか分かっていないようでしたし、祭のことは昔語りに無かったようですから・・・」

運転手の祖父母の時代と考えると、大雑把に百年。
例えば祖母と母が二五歳で子を産んだ。 それで五十年。 運転手は五十歳を超えていただろう。

「百年・・・」

おおよそでしかないが、それ以前の昔語りだと運転手は言っていた。 それが更に百年前になっても瀞謝の時代には程遠い。 ましてや朱葉姫の時代には小指もかからない。

「語り継がれているというところから、少なくとも二百年前くらいですかね」

結局、昔語りがいつからなのかは分からなかった。
大蛇と言われる存在がいつから居たのだろうか。

「あんまり考えこまないで下さいね」

だが睨まれる、そこは外せない。 それに運転手は社を修繕しようとしたら不幸が起きたと言っていた。 それは偶然だろうとは言っていたが、朱葉姫から似たようなことを聞かされている、死人が出るかもしれないと。
そして社に来るなと言われていたのに、いま詩甫を社に向かわせている。

階段が坂道になった。

「少しでもおかしなことを感じたら教えてください」

浅香が辺りに気を配っているようだ。

「はい」

浅香をチラリと見て返事をする。 浅香と目があった。
さっきの運転手への質問から考えると、社のことを解明しようと思ってくれているのだろうか。
自分が今日ここに来なければ、そんなことはなかったのだろうか。 それとも自分が今日ここに来なくても、浅香は社のことを調べようと思っていたのだろうか。

「ここ最近雨が降ったんでしょうね」

上がってきていた階段は踏みしめられてはいるものの一面平らになっているわけではなく、所々に水溜りが出来ていた。

「滑りますから気を付けて下さいね」

今のぼっているのは階段ではない、坂である。 足元の土がぬかるんで滑りやすくなっている。 つくづく秘密兵器を持ってきてよかったと思った。


今日は掃除をしない。
最初に浅香に念を押されていた。

「少しでも危ないことは回避したいですから」 と。

供え物と花束を社と供養石の前に置く。 今日はそれだけである。

詩甫が目を瞑り社の前で手を合わせる。
ここに来るまでに何もなかった。 浅香がピッタリと横に付いてくれていたお陰かもしれない。

詩甫は朱葉姫と直接話したかった。 その時に瀞謝の姿に戻るのか、詩甫の姿のままなのかは分からない。 だが今そんなことはどうでも良かった。 瀞謝も詩甫も今の詩甫なのだから。

目を開けると明るい陽射しを受けた一室に居た。 初めて朱葉姫と会った場所、社の中であった。

「・・・瀞謝」

「朱葉姫様・・・」

目の前に朱葉姫が居る。 そして後ろに一夜が控えているが、曹司も他の者も見当たらない。 社の向こうに見える外にでも出ているのだろうか。
詩甫の身体は瀞謝の姿になっている。

「曹司から聞きませんでしたか?」

穏やかに言うが心中はそうでないことは分かっている。
瀞謝が頷く。

「聞きました。 ・・・でも、逃げたくはありません」

「え?」

「もう二度と逃げません」

「瀞謝?」

この時まで思い出せなかった瀞謝の記憶がありありと浮かぶ。

以前、詩甫が瀞謝の記憶を思い出したのはほんの断片だった。 瀞謝が紅葉姫社を見つけて掃除をした。 それが嬉しかった。 それなのに母から行くなと言われた。 ただそれだけだった。 その他には思い出してはいなかった。
だがそれからのことを思い出した。

「逃げません」

「瀞謝・・・」



『瀞謝! あの社に行くなと言っているだろうが!』

とうとう母からではなく父から言われた。

『どうして?』

『流れ流れてここに落ち着いたんだ。 落ち着きたいんだ。 それなのに・・・』

どうして、と問うた。 だが父の言いたいことは分かっていた。 母が何度も言っていたことだということを。
社ではなく、あの山に入ってはならない。
それがこの地における約束ごと。

あの山の・・・大蛇が巣食う山に入ってはならない事だということを。

もしあの山の中の大蛇に睨まれては睨まれた本人だけではなく、大蛇の目を通してその周りも睨まれる。 睨まれるということは不幸が訪れるということ。

『私、大蛇にも誰にも睨まれてない』

『・・・祝言を上げる。 その男の元に行け』

『え・・・』

『お前も知っているだろう、お前に懸想していると追いかけてきた男よ』

『そんなこと訊いてない。 どうして社に行っちゃいけないの』

男が追いかけてきていたことは知っていた。 何度か話しかけられもしていた。 想いも聞いた。 嫌な男ではなかった。 でも・・・。

『流れ流れてここに着いた、お前も疲れただろう。 わしらと違って家を構えていると言っていた、あの男ならお前を幸せにしてくれる』

『父さん! そんなこと訊いてない!』



詩甫が瞼を開けた。 まだ瀞謝が十五歳に満たなかった時であった。
瀞謝に一目ぼれした相手は田舎とは言え、力ある者の息子だった。
相手の親は流れてきた者だと散々に罵ってはいたが、一人息子に『では縁を切る』 と言われ、渋々承諾をしたと聞いた。
頼れる男ではあった。

何日もかかって男の家に行き祝言を上げ、それからは社に来ることが出来なかった。
当時は何度か夫に社に行きたいと訴えたが、社に行くには何日もかかる。 だから聞き入れてもらえなかった。 それに瀞謝自身も何も分からない空間に放り投げられたようなもの。 社に行く道程さえ分からなかった。

そして毎日と言っていいほど夫が居ない時に舅姑に罵られ、涙を飲みながら忙しく過ぎていってしまっていた。
そんな中で月のものが来なくなった。
腹が大きくなってきた。
だから・・・諦めた。
それは逃げということになる。


この社に来なくなった瀞謝のあとの事など、与り知らぬ朱葉姫である。

「瀞謝は子を産んだのね」

瀞謝の思い出した記憶を朱葉姫が共有する。
朱葉姫は子供を産むどころか嫁ぎも出来なかった。 身に纏っている父親が揃えた衣が虚しくさえ感じる。

「・・・はい」

「瀞謝の子ですものね、暖かく何をも包んでくれる良い子でしょう」

朱葉姫が「でも」 と言って続ける。

「瀞謝、この地に来てはなりません」

「逃げないと言いました」

「瀞謝・・・」

「社も今すぐには終わらせません」

「え・・・」

タクシーの運ちゃんが言っていた。 今も紅葉姫社であり、そこに朱葉姫が祀られていることを知っていると。
千年以上経っても朱葉姫の名は残されている。

名・・・それは言霊かもしれない。

「朱葉姫様の名を知っている民がいます」

だがそれは安直には考えられない。
大蛇の件がある。

それでも朱葉姫の名が今も尚残っている。 きっと昔語りとして。 それは今も伝えられているだろう、だから朱葉姫の名が残っているのに反して山に雑草が生えている。 昔語りがあるから誰も来ない、人が踏み込んだ後がないのだから。 それを浅香が刈っている。

朱葉姫が瞼を半分閉じて首を振る。

「瀞謝・・・ありがとう。 でもね―――」

瀞謝である詩甫が朱葉姫の言葉を遮る。

「待っていて下さい」

朱葉姫の後ろで顔を下げて聞いていた一夜の顔が上がる。

「え?」

瀞謝の姿がたゆたった。


社の前で手を合わせていた詩甫がその手を下ろした。 長いとも短いとも言えない時だった。
横を見ると浅香が立っていた。 社の中に入っている時はともかく、詩甫が社の前で手を合わせている時にはずっと浅香が隣について辺りに目を配ってくれていたのだろう。

「ちゃんと話せました?」

詩甫の身を案ずるように、ずっと傍についていた浅香が声をかける。
詩甫がコクリと首肯する。

「でも・・・」

「朱葉姫は納得しなかった」

詩甫が言おうとした先を浅香が言った。

「え? どうして・・・」

「今の今まで散々、曹司に言われていました。 野崎さんと入れ違いに社に戻りましたけど」

詩甫が瀞謝として朱葉姫と話していた時に、浅香は辺りに目を配りながらも曹司と話していたようだ。 そう言えばあの場に曹司の姿はなかった。

「どうして野崎さんを連れてきたのかって、朱葉姫の意にそぐわないって言われましたよ」

聞きようによっては詩甫への嫌味のように聞こえるが、決して浅香の話し方はそんな風には聞こえない。
詩甫がニコリと笑う。

「ですよね」

朱葉姫と話が出来て気が済んだのだろうか、どこかスッキリとした顔をしている。 もしかしたら話が進んで社を終わらす日の話でもしてきたのだろうか。
来るなと言われたのにもかかわらず、今日こうしてやって来たくらいなのだから。

「社は潰しません」

え、っと思った、声に出して言いたかった。 多分一瞬はそんな顔をしていただろう。 だが口から出たのはそんな一言ではなかった。
どこかでそんな気がしていたのかもしれない。

「運転手さんの話ですか?」

「はい」

この地の者は今も尚、紅葉姫社に御座(おわ)すのは朱葉姫であると知っている。 昔々の言い伝え、昔語りに紅葉姫社も朱葉姫の名も残されている。

「では、どうします?」

社を建て替えることは簡単だ。 あくまでも金銭面を除けば、だが。 だが人死にがあるかもしれない。 それを朱葉姫は是としない。 もちろん浅香もそうだし、詩甫もそうだろう。

『どうします?』 と浅香が訊いてくる。 きっと浅香以外の人間だったらそんな風に訊いてこないだろう。 それどころか、閉じる潰すだけでも危険を伴うというのに、何を考えているんだと反対をするだろう。

詩甫のこの考えを聞く前には、タクシーの運転手にも色々質問をしてくれていた。 浅香には浅香の考えがあるのかもしれないが、浅香の在り方が有難い。

「昔語りにある大蛇、そちらから考えたいと」

社の中で瀞謝としての記憶を思い出したことを話した。

「え? この山自体が? 社ではなく、この山に大蛇が居ると?」

タクシーの運転手は社に大蛇が居ると言っていた。

「まだ断片しか思い出せていませんから詳しいことは分かりませんし、その話の裏に何かあるのかも分かりませんけど」

浅香が腕を組む。
詩甫の記憶は・・・いや、瀞謝の記憶は大雑把な計算からしてだが、タクシーの運転手の話より昔であろうことは先に詩甫と話していた。 そこに社か山の違いが出て来たのだろうか。

「ま、ゆっくり考えましょう」

詩甫のことを記憶喪失者だとは言わないが、稀に記憶を失くした者が思い出そうとして頭痛にみまわれることがある。 今こんな時に頭痛などおこして欲しくはない。

「長居は無用です。 戻りましょうか」

浅香が社の前に置かれている供え物に手を伸ばした。



サイレンを鳴らした救急車に詩甫が乗せられている。 手先や顔、足に切り傷を負って。

「くっそ!」

階段の途中でほんの少し浅香が詩甫から目を離した時だった。
詩甫の身体からは離れていなかった。 ずっと隣に居た。 それが隙を見せたのか、清々しい鳥の歌声に心惹かれ、詩甫から意識を外した時だった。 詩甫の一瞬の声が聞こえたかと思うと、居るはずの所に詩甫がいなかった。 え? っと思った途端、何かが木々の間を転がっていく音を聞いた。

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