大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第170回

2023年05月29日 21時05分37秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第170回



武官所では青翼軍六都武官長が渋い顔を作っていた。

「何名動かされますか?」

「百二十七名を捕らえる、か」

六都武官長宛には、杠の意見を取り入れるようにと書かれていた。
武官長が腕を組んで顔を上げたが、その目は閉じられている。
これが冬なら悪さをする者も少ないが、運悪く蒸し暑さもなくなって過ごしやすい。

「一気にその人数ではありません。 明後日、陽が昇り始めてから徐々にです」

確かに六都武官長宛の文にもそう書かれていた。 武官長がゆっくりと目を開いて顔を戻す。

「ご提案で御座いますが、自警の群を朝から動かすというのはいかがでしょうか」

「自警の群を?」

「何名動かせるかは分かりませんが、少なくとも今まで登録された者は動かせましょう」

「たしか、六十余名だったか・・・」

「はい、その者たちは一度も問題を起こしておりません」

武官長がぎろりと杠を見た。 自警の群をそこまで信用していいのかという目だ。

「仮に自警の群を動かすとして・・・自警の群の三人で武官の一人分だろう、武官二十名が浮いてくるだけのことだ」

「二十名が浮くだけでもたいしたものです。 ですが自警の群二人で武官殿お一人分の仕事は出来ます。 相手は自警の群もよく知っているゴロツキどもです。 それこそ自警の群は今までそのゴロツキだったのですから、ゴロツキが何を考えるかくらいわかるでしょう。 ドスの入った者が居れば別ですが、六都にはドスの入った者はおりません。 下手をすれば武官殿お一人分の仕事も出来ましょう」

簡単に武官と自警の群が同じレベルだという言い方は出来ない。 それは武官をコケにしていることになる。

「長々とよく言ってくれたものだな」

「失礼をいたしました」

「何かあった時にはどうするつもりだ」

「ある、と思っておりましたらご提案は致しません。 百二十七名に対して六十余名の武官殿がおられれば十分かと」

徐々に入ってくると言えど、捕らえた者を速やかに三都の武官所に連れて行かねば、叫びでもされれば次に入ってこようとしていた者が引き返すかもしれない。 単純に捕まえる為の人数ではない。
武官長が何度も口を開いては閉じる。 そしてとうとうその口から声を発した。

「他翼武官長がそろそろ来るだろう。 こちらの文には杠官吏の意見を取り入れるようにと書かれていた」

他翼武官長に提案してもいいということである。


まだ陽が昇る前に馬を駆らせた。
少しでも早く杉山に居る四十余名を六都の中心に入れなくてはならない。 それに本当に問題を起こしそうにないか京也に確認をとりたい。 そのあとには戸木に行かなくてはならない。
夕べの巡回は二十名が行っていた。 その者たちの足止めは武官がすることになっている。
杉山までやって来た頃には陽が半分顔を出していた。

宿所では男達が次々と出てきて朝の準備をしている。 それを見張るように遠巻きから見ていた武官が蹄の音に顔を上げた。

「あれは・・・杠官吏」

さすがにマツリ付の官吏だ、見事な手綱さばきである。 前には文官として文官所に居たと文官から聞いていたが、文官で治まる器ではなかったようだ。

「ご苦労で御座います」

馬から跳び下りた杠が言う。

「お早うございます。 馬にお乗りになれるのですね」

普通、文官は乗ることが出来ない。

「マツリ様に教えていただきました」

そう言えば宮都からの応援に来ていた朱翼軍の二人から聞いた、体術にも長けていたと、緑翼軍でも腕の立つ武官が杠に負けたと。

「本日より明日、六都武官殿六十名が六都を出られます」

「え?」

まさか有り得ない。

「それにより、自警の群によって武官殿の代わりに巡回をさせるようにと、六都武官長から命が出ております」

四翼軍武官長それぞれの名が書かれた文を手渡す。

「ですが自警の群が武官殿の代わりになるか、疑いが無いかを見てくるように仰せつかりました」

その事を武官長たちからは言っていない。 杠から言い出したことだった。
遅れてやって来た武官長たちは渋った顔をしていたが、最後には『杠官吏の意見を取り入れるように』と書かれた文に目を落とした。
『明日早朝、杉山に行って様子を見て参ります。 引っかかる者がいればその者を省きます』そう言ってきたのだ。

「武官殿からご覧になって如何でしょうか」

「是とも否とも。 ですがもう咎人以外の見張は必要ないかと」

「中の様子を見ても宜しいでしょうか?」

「どうぞ」

付き添おうとした武官を止める。

「お役にご迷惑はかけられませんので」

「承知いたしました。 何か御座いましたらお呼び下さい」

その様子を陰から見ていた京也。 さて、どこで接触をしようか、などと考えていると、自警の群で顔見知りになった者たちに声をかけながら杠の方から歩いて来た。

「あなたは自警の群で見かけませんね」

(そうきたか)

「ああ、官吏さん。 そいつはオレらを牛耳ってるんだ」

「え?」

男の方に顔を向ける。

「牛耳ってるだって? 人聞きの悪い」

「だってそうだろ。 中心に行けって声をかけてくんのは力山だろう」

「それを牛耳るって言うのかよ」

「見てりゃわかるさ、危ない奴が行こうとしたら止めてんだろが」

「危ない奴? さきほど武官殿からはその様な話は聞きませんでしたが?」

見張がもう必要ないくらいだと言っていた。 男から京也に顔を戻す。

「いや、争いごとは起こしませんや。 だが中心に行ってそそのかされるかもしれませんから。 せっかくここで働いてるのに、咎人にしたきゃないですからね」

「そういうことですか。 では少しお伺いしても宜しいでしょうか?」

「なんなりと」

正面からきってくる、マツリと全く違うな、と思いながら取り繕った顔をしている杠を見ている。

「自警の群なのですが、今日明日と武官殿に代わって六都の巡回をお願いしても何ら支障は御座いませんでしょうか」

自警の群と聞いて男たちの手が止まった。

「え? どういうこって?」

「六十名の武官殿が二日間、六都を出られます。 登録されている六十三名、その方々に巡回をお願いしたいのですが・・・タガが外れるようなことは」

『タガが・・・』 そこは小声で言ったが、聞こえる者には聞こえている。

「おいおい、官吏さんや。 オレらを信用してないってか?」

他の者も口を開けようとしたが、その前に杠が口を開いた。

「いいえ、今回武官殿に代わって自警の群を推したのは私です。 武官長殿に確認をするように言われただけです」

「そういうこって。 ああ、信用して下さいや。 なぁ!」

杠から目を離して周りにいる者たちに声をかけた。

「おーさ、まだ馬鹿をやってる奴を目覚めさせてやるだけだ」

あちこちから声がかかる。

「有難うございます。 ではご協力をお願い致しま・・・杉山の仕事は宜しいでしょうか?」

「一日二日、何人かいなくなったからって、何ともないだろう、な? 残ってる奴で出来るだろう?」

「ああ、そうだな、杉山に上るのは厳しいか。 下でチマチマやっとくさ」

少人数となる。 切った杉を下ろしてくるのが大変になってしまう。 薪でも割っておくということだろう。
咎人にはしっかりと杉山に上ってもらうが。

『信用してくださいや』 と言ってから京也は一言も発していない。 いつもこうやって自発的に話すこと、動くことを促しているのだろう。
京也の言葉は聞けた。 もう用はない。

「では申し訳ありませんが、朝餉を食べられたらすぐにこちらを出て頂けますでしょうか。 武官殿は昼前に六都を出られますので」

「分ったよ、まかせな」

「中心に行かれましたら武官殿から指示があります。 武官殿と自警の群の混在で組を作ることになります。 皆さんの力を武官殿に見てもらって下さい」

あ、力み過ぎないように、と追加をする。
周りから笑いがおきる中、一人の男が声を出した。

「あ、おい、官吏さんや」

「はい?」

「將基と金河が戻って来てねーんだけど」

「はい、宮都に出向いて頂いております」

「それは知ってっけど、まだか?」

「あちらで待たされているようです。 まぁ、何不自由なくしているでしょう」

「・・・それならいいんだけどよ」

「ご心配は要りませんよ。 ご心配されておられると文を出しましょうか?」

「いっ、要らねーよ!」

ニコリと笑うと「それではよろしくお願いいたします」と言って深々と頭を下げ宿所を出て行った。

京也がふーっと息を吐いた。 上手いもんだ、と。
きっと杠は自分の言った『信用してくださいや』 それを聞きに来たのだろう。 それを男達の前で言わせた。 逆から見れば、男達に釘を刺したようなものだ。
それに京也でなくとも誰からでも、この者たちは信ずるに値すると言ってもらえれば、言われた者は誰でも嬉しいもの。
そうしておいて、心を緩ませておいて武官と自警の群の混在を言った。 初っ端からそんなことを言ってしまっては、自分達を信用していないのか、武官に自分たちを見張らせるのか、そんな文句も出ただろう。 それを言わせなかったどころか、笑わせていた。

(まったく・・・大したもんだ) そう思いながら無意識に頬を片手で撫でる。

杠の姿が宿所から消えると手を動かしながら杠の噂話となっていた。
もちろん、良い話である。

「なんだ、力山。 あの官吏の顔が羨ましいのか」

「あぁ?」

頬を撫でていた手が止まった。

「お前の顔じゃ太刀打ち出来ねーだろ」

しまった、無意識に頬を撫でていた。 今の男たちの話の流れから、自分の顔と杠の顔を比べた結果だと思われても仕方がない。
男達は杠の腰の低さや顔のことを言っていたのだった。

「へっ、あんな甘ちゃんな顔に負けるかよ」

紫揺好みの優しい顔立ち。 甘いマスク。
その顔で言うか、などとあっちこちから失笑に似た笑いがおきる。

「だがよー、女が寄って来るだろうな、あの顔。 羨ましいぜ」

「あんなのは寄って来ても最後には、いい万(よろず)相談屋になっちまうだけだろ。 あの性格、押しもしねーだろうし、男としての肉がねぇ」

これ見よがしに腕をまくって筋肉を見せる。

「まぁ、押しはなさそうだな。 押し倒されて終わりってな」

段々と杠への誤解の話になってきたようだ。

「おい、さっさと朝飯作って食え! 間に合わなくなるだろ!」

武官が口を挟む前に京也が喝を入れた。


杉山を出て馬を駆らせ戻ってくると、武官所の前に縄で縛られた男が六人意識なく転がっていた。 額に『紫さまを襲いかけた 其の一』 と紙が貼ってあり、それぞれに其の二、其の三と其の六まで続いていた。
百足の仕業だろう。 いや、百足は縄など縛らない、昏倒させて終りだろう。 こんな楽しい貼り紙まで貼るのは・・・好々爺しかいない。
百足が昏倒させた後に好々爺がしたのか、最初っから好々爺がしたのかは分からないが、いずれにしても夕べ紫揺が襲われかけたことは確実だ。

(武官所を出る前の頃だろうか・・・)

ここのところ夜襲の話は聞いていない。 偶然にも杠が宿を出て行ったのを見て、その後武官所から出てくる様子がない。 出来心で紫揺を襲いに来たのだろうか。
馬首を変えると宿に向かった。
宿には争った跡が見られない。 紫揺の寝る部屋の前で「紫揺」と声をかける。 返事がない。 そっと戸を開けると部屋が荒らされた様子もないし、紫揺もすやすやと眠っている。

ふと窓を見ると開け放たれたままだ。 さすがに締め切ってしまうと暑いから仕方がないが、不用心な、と呟いてしまう。
窓を閉めようと引き戸を持った時、窓の下に転がっている物が目に入った。
梯子。 この二階まで上がれる長さが十分にある。 ここから入ろうとしたのか。
危なかった・・・。
窓を閉め、そっと部屋を出て行った。

丁度その頃、武官所に出仕してきた武官が「なんじゃこりゃー」と叫んでいた。


道端で眠ってしまっていた男が目を覚ました。
夕べは順々に家の戸を叩き「ここに呉甚という者はおりませんか?」と訊いて回っていた。 そしてとうとう、応えがもらわれなくなった。 そのまま泥のように座り込んでいつの間にか眠っていたらしい。

見張っていた武官がこの男を捕らえようかどうか迷っていたが、男に呉甚を探させようとそのあとをずっと尾行(つ)けていた。

一方で二都の七坂での捜索が始まっていた。
呉甚を探す男。 その男が二都の七坂の大店の馬車に乗ってやって来たということは、七坂に柴咲が居るかもしれない。
男と柴咲を結び付けるものは呉甚を探しているということしかなかったが、それで十分だろう。 十分でなくとも間違っていても、柴咲を探す何らかの手立てが見つかるかもしれない。
捕らえる理由は上が無理矢理につけていた。
無断欠仕。
武官たちが似面絵を片手に動いていた。

泥のように眠っていた男が立ち上がると再び家の戸を叩いた。


高妃が虚ろな目をして顔を上げた。 高い窓から目に映るのは高い空。 そこから朝陽がさしている。 小鳥の声も聞こえる。
だから退屈じゃない。 ああそうでは無い。 退屈という言葉さえも高妃にはない。
日々、絵や書を教えてくれる。 朝起きれば美味しい朝餉を持ってきてくれる。 眠れない日には童話を聞かせてくれる。
寂しくなったら面白おかしく挿話を聞かせてくれる。
でも誰も居ない。
高妃の心の中には誰も居ない。

『お力を持続なさいませ』

どうして。

『お考えにならずとも宜しい。 お力を失くさないように。 ほれ、水差しを倒してごらんください』

高妃が水差しに手を向ける。


杉山の者たちがやってくると武官の一人が武官長を呼びに走った。 今回の自警の群との合同巡回は、腕遊び(じゃんけん)で負けた六都緑翼軍武官長が責任者となった。
革鎧を着た無骨な武官長四人、まだ暗い中、腕遊びをしている図は部下には見せられない図であった。

杉山の者たちの前に姿を現した六都緑翼軍武官長。 杉山の者を射るような目で見渡すと口を開いた。

「協力を感謝する。 六都の不穏分子の暴走を抑えるべく、武官と共に隅々までの巡回を願う」

“協力を感謝する” これは杠に言われていた。 第一声はこの言葉からお願いしますと。
いつも偉そうな武官から、ましてや武官長から『協力を感謝する』と言われ気を良くした杉山の者たち。 先ほどの人を馬鹿にした射るような眼差しを水に流すことにする。

その後、武官から登録していた名前の確認をされ、これから動く朝当番と夕から動く夕当番の振り分けを聞かされた。 だいたいゴロツキは夕方から呑み始めて問題を起こす。 夕当番の方が断然人数が多かった。

「朝当番の者は今から巡回に回ってもらう。 武官と夕刻まで巡回するよう。 夕当番の者は夕刻から明日朝までとなる。 それまでに睡眠をとっておくよう」

「かぁー・・・。 オレ夕当番か。 目が覚めちまってるよ、寝られるかってんだ」

「オレもだ。 ちょいちょい仕事しながら夕刻が来るのを待つか」

「そうしようぜ。 自警の群の見回りでは寝てなんてねーんだからな」

仕事が終わり自警の群として見回る時には睡眠などとっていない。 杉山の労働でなら疲れ果て夜になれば寝るが、中心に出てきた時には杉山から運ばれてきた丸太を運んだり、丸太を買いに来た客の荷馬車に乗せたり、注文を受けた物を作ったりしているだけだ。 体力を使う杉山の労働とは比べ物にならない。 丸一日起きていてもなんのことは無い。

「では早速、邑途(ゆうと)」

邑途が手を上げる。

「相手は己だ。 よろしく頼む」

“よろしく頼む” これも杠から言われていた。

邑途が口角を上げると「こちらこそ、頼んます」と言いながら歩を出した。
その後に続いて順々と名が上げられていく。

「深緑(しんりょく)」

「あんたが俺の相手か?」

近づいた深緑が言う。

「いや、相手の武官はもう回っている。 案内する」

夕刻当番の武官たちが既に朝当番として一人で巡回している武官の元に、自警の群の者たちを案内していった。
その頃、六十名の武官がギリギリまで巡回をし、早い昼餉を終え、出立の準備を終わらせていた。 あとは馬に騎乗する者が厩に行って馬の準備をし、時が来るのを待つだけである。

「六都、三都の者に覚られんようくれぐれも注意するよう。 第一陣、出立!」

第一陣は隠れるように三十名の武官を乗せた馬車十台とその馭者台に乗る十名。 第二陣が二十名の騎馬。
今回の決起に参加する者たちに覚られてはならない。
六都と三都を繋ぐ川、玻璃(はり)の川の川上に戸木があるが、玻璃の川沿いに行くわけにはいかない。 遠回りになるが、三都に向かっているだけだという顔をして途を取らなくてはならない。

そして第一陣の馬車が三都に入る頃に、あとから馬で出発した第二陣が第一陣を追い抜いて戸木の案内役となっている三都の武官と合流をし、三都で決起を起こそうとしている受け側の者が、玻璃の川沿いに居ないかを確認した。
戸木は人里から離れているとは言え、決起を起こそうとしている者が何処に居るか分からない。 徹底的に調べた。
調べ終ると立入禁止の札を地から抜き、キラキラが目立つ飾り石を探し、目につく所に置いた。
大きな邪魔は入ったが、なんとか第一陣が来る前に終わった。

馬車でやって来た第一陣の武官が離れた所に馬車を止め徒歩でやって来た頃には夕刻を過ぎていた。 夏であるから夕刻と言ってもまだ明るいが、冬であったならもうとっぷりと日が暮れている刻限になっていた。
その第一陣の武官たちが目をクリっと開いた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第169回

2023年05月26日 21時26分19秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第169回



武官舎の一室。

「まだ見つからんのか!」

呉甚は勿論の事、柴咲も。 待つことばかりに耐えられず四方が声を荒げる。

「柴咲が見つからないということは、あの似面絵で足止めを食っているのでしょう。 いったいどこで止まったか・・・」

四方の相手をしているのはマツリ。
似面絵で足止めを食らっているとすれば二三四都のいずれかになる。 足止めがある以上は決起が予定通りにはならないだろうが、何より捕まえなくてはならない。
宮で似面絵を描いていた絵師も文官も仮眠室で寝させている。 最後に描いた束はいま一都に向かって走っている。
もう陽が落ちる。

「決起の予定の日が過ぎましたら、至急武官を宮都に集めましょう」

「そうだな、虱潰しに探すしかないだろう」

呉甚が宮都から出ていないのは分かっている。 居ないと分かってすぐに早馬を走らせ、宮都境に各都の武官を配置した。 宮都でも武官が探しに出たのだから、どこかに潜伏しているとしか考えられない。

「待つだけなどと・・・やっておられん。 カジャで走ってみるか」

「・・・おやめください」

戸を叩く音がした。 戸際に座っていた尾能がそっと開けると外から差し出されたものを受け取る。

「六都からの早馬に御座います」

「杠からか。 ふむ、呪い文ではないな」

朱墨ではなかったようだ。 それにちゃんとした文用の寸法の料紙である。 ちゃんと杠が書いたのだろう。
だがそれにしてもあの朱墨の四方曰くの呪い文。 いったいどういう状況でああなったのだろうか。
四方の眉根が段々と寄っていく。
何があったのだろうか。

全て読み終えるとマツリに文を渡した。
目を走らせる。

「六都だけで百二十七名? それでも少ないと?」

紫揺が聞いてこなかったらどういうことになっていただろう。
確かに芯直と絨礼があの男を追ってはいたが、あとになって杠から聞くとあの二人では追いきれなかっただろうということだった。

「柴咲が既に三都に入っていて三都の者と接触をしておれば、まずは戸木に居る三都の者を捕らえて吐かす。 戸木の川沿いは立入禁止領域になっておる所がある。 きっと目につかないそこを狙っておるのだろう。 三都の者なら立入禁止領域を知らないはずはない。 その後は流れてきた六都の者を捕らえる。 それが今回のことを止めるに一番簡単だが、三都の者と接触が無いようなら・・・六都の者を捕らえる理由が無い」

六都の人数を聞き強引に運ぶようだ。 それは一旦別件ででも三都の者を捕らえるということ。 吐かせると言っていたが何の証拠があるわけではない、だが三都の者に対してその先を考えていない四方ではない。 その三都の者が来るとはまだ限っていないが。

「六都の者たちは立入禁止領域を知らなかったと言えばそれでいいということですね」

住居を移すのなら届け出が必要である。 だが、ほんのちょっとの移動であれば届け出など要らない。 届け出が無かったということを突くことも出来ない。

「たしか・・・立入禁止の理由は、鉱石・・・飾り石でしたか」

戸木に流れる川は辿っていくと上流が宮都から流れている。 この川の流れるところには所々に鉱石が見られる。 リツソがよく拾ってきては宝の箱に入れている石は、この川の支流で拾ったものであった。 時折、砕けた小さな飾り石が迷い込んでいた。

「そうだ。 無暗やたらと取らせんようにしておる。 申請し許可の下りた者だけにしか取ることが出来ん」

「それを六都の者が取ったら」

「・・・わざと取らせるのか」

ジロリとマツリを睨む。

「お嫌ですか?」

あと二日。 今日はもう夕刻を過ぎている。 仕掛ける為に動くのなら明日しかない。

「仕方あるまいか・・・」

気に入らないが捕らえられる者は捕らえていかねばならない。 特に六都は今マツリが手を入れているのだから、それを折るようなことは避けたい。

「武官長を呼んで参ります」

言い残すと尾能が部屋を出たが、いくらもしない内に入ってきた。 部屋外で待機する従者に行かせたのだろう。

「もし似面絵で柴咲が動けなくなっているとすれば、残る五七八都のいずれか、又は全ての都の者も動くかもしれません」

五六七八都は一二三四都にゆっくりと入る、そう紫揺が聞いてきたのだから。
このことは何度も武官長と話したが、どうしても捕らえる術も理由も見つからない。 ゆっくりと入る、そこが痛手となる。 景気良く入ってくれば目を付けられるが、今の杠からの文からも、陽が昇ったらすぐに移動を始め、一日かけてポツポツと入って来るのでは単に行き交う者との区別がつかない。

「六都で百二十七名、それで他の都より少ない。 何か目立つことは無いでしょうか」

「六都のように他の都から入って来る者が少ないわけではない、言ってみれば七都の者が二都で働いていることもある。 他の都でもな。 今回の六都を受け入れる三都ではこういう受け入れ方をしたが、どこも同じだとは限らん。 数か所で受け入れを分散しているかもしれん、そうなれば同じ方向に向かわん」

やはり堂々巡りか。

「呉甚さえ捕らえられれば・・・」

柴咲も捕らえたいが捕らえる決定的な理由が無い。

「三都の戸木に向かうか?」

「いえ、武官に任せます」

戸木に向かった武官が “これとってもお金になるよ、盗っちゃいな盗っちゃいな、ほれほれ” と目立つように飾り石を置き、若しくは積み上げ、それを懐に入れた者を御用とする。 特に六都の者だ、簡単に餌に食らいつくだろう。 そんな事は武官に任せればいい。 それで一人でも逃せば杠ではないが、一生不眠不休労役だ、などと考えていると、武官長たちが転げて入ってきた。


「紫さまぁぁぁーーー!!!」

文官所近くに戻ってくると文官たちの悲痛な声が聞こえてきた。 紫揺に何かあったのだろうか。 速歩で戻って来ていたが、すぐに地を蹴り文官所に入っ・・・た。

「ああ! 杠殿! お止め下さい!」

文官の声が枯れている。
紫揺の腰に一人の文官が手をまわし、その文官の腰に二人の文官が手をまわしその腰にも文官が・・・孔雀の尾羽のように文官が広がっている。

「杠、遅い」

杠がこめかみに指をあてる。

「すぐに戻ってくるって言ったのに」

パサリと孔雀の尾羽が解除されていく。 最後に紫揺の腰に手をまわしていた文官が恥じ入るように手を放した。

「申しわけ御座いません」

それ、その言い方やめてほしいんだけど。 そう言いたかったが言えるものではないのは分かっている。

「退屈この上ないんだけど!? こんなんじゃ宮に戻ります!」

「は!?」

「道案内に一人お願いしますっ」

宿の一室、ブー垂れた紫揺を引きずって宿まで戻ってきた。

「紫揺、いい加減、機嫌を直してくれないか?」

「退屈にも程があるし、それに・・・匂いがする」

「え?」

「お姉さんの匂いが杠からする」

ドキリとする。

「気のせいだろう、それより―――」

「どうして杠からお姉さんの匂いがするの? すぐに戻って来るって言ったのに、その時にはお姉さんの匂いがしなかったのに。 どうしてかな?」

あぁーーー、バレてる。 これは徹底的に話を逸らすしかない。

「だから気のせいだ」

「お姉さんの匂い覚えてるし」

おムネから香った、か・ほ・り。 忘れられない。 甘くてフワフワしてて柔らかくてそれから・・・。

「宮に戻るとはどういうことだ?」

「あぇ?」

お姉さんのおムネのかほりと感触が蘇りかけた時に・・・かほりも感触も頭からすっ飛んだ。

「知っているだろう、いま宮は危険な状態にある。 紫揺を戻すわけにはいかない」

「だって官所でボーっとしてるだけなんて退屈だもん。 それなら宮でお菓子食べてる方がいい」

それが理由か・・・。
マツリを助けたいとか、手を貸したいのではないのか。

「どこに行ってたの」

お姉さんという言葉こそ出ていないが、完全に外堀から埋めて行こうとしているのが丸見えだ。

「己がマツリ様付きであるからと、マツリ様がいらっしゃらなければやることが無いというわけではない。 マツリ様がいらっしゃらないということは、マツリ様が手をかけられていた所を見なくてはならない」

必要以上に同じ言葉を繰り返してでも、出来るだけ長々と話す。 そして紫揺に疑問を持たせることも忘れず全てを話さない。

「マツリが手をかけていた所? 学び舎じゃなくて?」

「杉山のことを話しただろう?」

「あ、えっと・・・木を切って、学び舎も建てて、色んなものを作って、杉山って遠いのにここまで通ってるって・・・」

「ああそうだ。 馬で、急いで、その者たちの様子を見に行っていた。 あの者たちには言えないが、いつ何時、昔に戻るか分からない心配がある。 様子は毎日見ておかなければいけない。 それにあの者たちは自警の群も兼ねている。 武官たちが少なくなった分、あの者たちに負担がかかることもあるからな、そんな話もしてきた。 すぐに戻るつもりだったんだが、馬で、急いで行ったんだが、悪かった」

「あ・・・ごめん。 そうだったんだ」

「もう夕餉の刻だ。 今日は下で食べるか?」

いつものように部屋に持ってきてもらうのではなく、たまには一階の食処で食べるか? それなら官吏の衣を着替えても不自然ではない。 そうすれば香りで再び思い出すことも無くなる。

「うん、そうする」

よし、お姉さんのことは忘れたようだ。

「では着替えてくる」

「うん」

単純で良かったとつくづく思う。

食処に下りてくると半分ほどの席が埋まっていた。
繁盛しているのかしていないのか分からない微妙な線だが、これくらいがゆっくり食べやすい。
向き合って座ると二人とも “今日のおすすめ夕餉” を注文した。

「そう言えば、宮も六都の中もみんな平屋なのに、ここって二階建てなんだ、珍しいね」

「どこに行っても宿はみな二階建てだ。 大抵、下はこんな風になっていて二階が宿になっている。 六都で宿をとる者などそうそういないから、ここは下で儲けているんだろうな」

・・・繁盛しているのか。

“おすすめ” と言うだけあって、ある程度用意がしてあったのだろう。 膳の上に置かれた “今日のおすすめ夕餉” は白飯にほうれん草の味噌汁、芋の煮っころがしに、葉物のお浸し、見たことのない焼き魚におろし大根が添えられ、出汁巻きものっていた。
宮に居た時から不思議だったがここでもだ。 北の領土と東の領土の料理は見たこともない食材が多い。 だが宮もここも日本と同じような食材が並んでいる。 それに調理法も同じ感じである。 見た事のない魚は紫揺が知らないだけなのだろう。

「食べようか」

「うん」

箸を進めながら杉山の話を聞いた。

「じゃ、その杉山の杉がなくなったらどうするの?」

「無くなりはしないだろうが、働こうとする者が増えてくるかもしれない、そうなると全員が全員同じというのも考えものだとは、マツリ様も仰っている」

「鉱山は無いの?」

「無いらしい」

東の領土では何があったかを考えるが、基本、東の領土の者は働き者だ。 贅沢もしなければ遊ぶことすら考えない。 日々、畑や田んぼに手を入れる者、山で働く者、山から入ってきた物を加工する者と色々と働いているが、誰も不平も不満も言っていない。 自分に出来ることをしているだけだ。 それは出来ないことを互いに補い、互いに感謝をしているから。
日本も東の領土のようになったら事件なんてなくなるだろうに、と最初はよく思っていた。

「うーん、何かないのかなぁ」

どうして杉山で木を切り始めたかは聞いていた。 疲れさせて悪さを出来なくさせるのだと。
働いていない者たちが悪さをするのだろう、だから体力を使わせて働かせる。 最初はそれでいいかもしれないが、それで全員が続くとは限らない。
続けるには、その者たちが興味を示すようなものでなければならない。 でなければ簡単に働きに来ないだろうし、すぐにやめてしまうだろう。
ある意味六都は日本と似ているかもしれない。

「紫揺が考えなくてもいい。 ほら、箸を止めていないで。 冷めてしまうぞ」

百面相をしている紫揺が可笑しい。

「うん。 ね、明後日どうするの?」

「うん?」

「行くの?」

戸木に。

「マツリ様から早馬が来るだろう。 それ次第だな」

「行くんだったら誘ってね、一緒に行きたいから」

誘ってね・・・。
遊びに行くのではない。

「サワガニいるかなぁ」

遊びに行くつもりだったのか・・・。


馬車を早く走らせたが、単騎で馬を駆けさすほどには早くない。
柴咲に命ぜられ、本領に入った男がようやっと呉甚の家の前までやって来た。 馬車は離れた所に待たせてある。
呉甚の家の戸をドンドンと叩くが応えが無い。
もう官吏の仕事が終わり家に戻っているはずなのに。

首を傾げる男を陰から目を光らせて見ている武官。 すぐに捕らえるわけにはいかない。 単なる訪問者なのかもしれないし、もしそうでなかったとして、これからどこかへ移動するならば呉甚の居るところの可能性が高い。

「このままでは戻れない・・・」

だからと言ってあては無・・・いや、無くはない。 だがピンポイントには知らない。
男が馬車を待たせてあるところに足を向けた。
馭者が呑気に欠伸をしている。

「瑠路居(るろい)という所を知っているか?」

「うーん、知らなくはありませんがねー」

馭者が何を言っているのか分かる。 男が眉根を寄せて金貨を一枚つかませた。

「瑠路居のどこまで?」

「そこは広いのか?」

馭者がまじまじと男を見る。 瑠路居を知らないのか、それなのに行くと? 金で釣ってまで急いで。
最初に渡された金の半分は店主に渡した。 勝手に乗って首など切られたくない。 ちゃんと店主に言って出てきた。 この日、急なことが無い限り馬車を出す予定が無かった。 だから店主も許したのだろうが、これ以上遅くなる気など無い。

「広いな。 瑠路居の真ん中くらいまで乗せてやる。 降ろしたらオレは戻る、あとは自分で帰ってきな」

仕方がない。 頷くと馬車に乗った。
瑠路居の真ん中ではなく端に下ろしてもらった。 道中、瑠路居の範囲を聞いた。 あまりにも広すぎる。 仕方がない、端から順々に探して行く。 早くしないと夜が更けてしまう。
一軒ずつの家の戸を叩いた。

「もうちっと渋りゃあ、良かったか」

ゆっくりと馬を歩かせながら、片手で袋に入っている金貨と銀貨をジャラジャラ鳴らす。 この袋にある金貨は店主に渡さなくてもいいだろう。

「待て」

いつの間に居たのだろうか、馬車の横に武官が立っていた。
驚いて手綱を引く。

「な、なんだよ」

「さっきの男は知り合いか」

「し、知らねーよ。 乗せてくれって言うから乗せてきただけだ」

「どこから」

「二都の七坂ってとこだ」

「二都?」


杠の部屋の戸が叩かれた。

「杠官吏? 起きていらっしゃいますか?」

官吏の衣を洗濯し、窓に干していた時だった。

「はい、お待ちくださいませ」

戸を開けると武官が立っていた。

「宮からの早馬で御座います」

文は六都武官長にも届いていた。

「有難うございます」

差し出された文を受け取る。
戸を閉めるとすぐに文を広げた。 マツリからであった。
文には戸木のことが詳しく書かれてあり、捕縛の方法も書かれていた。 そして最後に六都から武官を出すようにと書かれていた。
今は柴咲を探している、そして宮都から呉甚を出さないために穴を作りたくない。 三都の武官を動かせないということであった。 案内に一人だけは戸木で待たせると書かれていた。

手で顔の半分を覆う。
分かっている。 マツリとて六都の武官を動かしたくないはず。 あとは状況を見て杠が考えろということだろう。
六都武官長のところにも同じような文が届いているはず。

「宿直(とのい)のまとめに武官所におられるか・・・」

下手をしたら、宿直の武官と一緒に巡回しているかもしれないが、この時期だ、いつ宮からの早馬が来るかもしれない。 武官所にいるだろう。
皺を伸ばして官吏の服を干し終えると、替えの官吏の服に着替えて武官所に向かった。 既に百足は見張っているだろう。 こんな刻限から杠が出るのを常ならおかしく思われるかもしれないが、さっき武官が訪ねてきたのだ。 それにこれから向かうのが武官所。 おかしく思われて尾行(つ)けられても何の不都合もない。
残した紫揺の護衛は百足か好々爺たちがするだろう。 好々爺に聞かせて良かったとつくづく思った。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第168回

2023年05月22日 21時12分36秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第168回



「ああ、マツリ様が第一に考えられたことだ。 この六都の学び舎は百の年以上も前に廃れてしまっていて、新しい場所も含めて十二棟の建て替えをされた。 子たちに道義を教え、根本からこの六都を作り替えようとされている。 幼い子たちには優しい師を、もう口達者でどうにもいかない歳の者には、ガツンと拳を落とす師を六都の外から来てもらった」

「六都の外から?」

「ああ、ここはまともな者が少ないからな、人の物を盗んだりするのは平気だ。 道義なんて教えられる者はまずいない」

「へぇー」

道義とは道徳のことだろうか。

「ずっと学び舎が無かったってことは勉学はどうしてたの?」

「必要なことは日々の生活で覚えていったんだろうな。 店で働けば金の算術も覚える、帳面をつけようと思ったらある程度の字も覚える。 まあ、良くて軽い算術と仮名の読み書きが出来るだけだろうが」

まるでリツソのようだ、などと考えた紫揺は宮から何か言われるのだろうか。

「そうなんだ。 じゃ、今は教えてるの?」

「教えているのは道義だけだ」

やはり道義とは道徳のようだ。 勉強は教えていないのか。

「建て替えの労働も六都の男達にやらせられたんだが、これがいいように転がってな、今では生き生きと働いている。 ゴロツキが少しは少なくはなった。 まだまだだがな」

「マツリ、そういうことしてたんだ」

「ゴロツキや悪党掃除に忙しくされていた。 今回のことで宮都から応援に来ていた武官も引き上げて行ったからな、またゴロツキが増えるのではないかと、気が気ではおられないだろう」

「あーあ、地下の時もそうだったけど、今回も私が要らない事ばっかり拾ってきた。 疫病神かなぁ」

「やくびょうがみ?」

「あ・・・えっと、悪いことを運んでくるってこと、かな」

「ああ、禍つ星か。 東の領土ではそんな風に言うのか」

再度、誰にも言ってくれるなと心の中で手を合わせる。 禍つ星、脳ミソに刻もう。
そう言えば東の領土では何というのだろうか。 そんな話は出たことは無かった。

「そうであるはずないだろう。 地下の時も紫揺がいなければ誰も助けることが出来なかった、そう言っただろ? 今回のこともそうだ、誰も気付きもしなかった」

うーん、と言って頭をガシガシとする。 どうも納得がいかない。

紫揺の様子を見ていて思いついたことがあった。
武官から聞いた話。 紫揺の護衛が必要であれば要請に来るようにと、要請が無ければ護衛につかないと四方から伝えられてきたということだった。 好機かもしれない。

「そうだ、学び舎を見に行こうか」

「え、だって杠、お仕事とか “あのこと” とかあるんでしょ?」

“あのこと” ちゃんと人に分からないように言っている。 さっき紫揺が耳にしてきたことを言っていた時は、さほど人がいなかったが今はそうではない。 歩きながら話しているのだ、周りが変わってきて人数が増えている。

「己の仕事はマツリ様付き。 今はマツリ様がいらっしゃらない、よって紫揺付きだ。 それに “あのこと” は今はまだいい」

黒山羊で何があったかは夜になってから女に訊きに行く。 それに享沙がまだ戻って来ていない。

「うーん、それじゃあ、マツリがどんな風にしたのか見てみる」

この返事、それにマツリと会えてあの態度。 マツリもよく分かっているのだろう、素直ではないと。

(紫揺のことに対しては、あれほど鈍感でいらしたが)

不思議なものだ。

杉山のことや、杉山の者たちの物作りのことを話しながら歩いていると学び舎に着いた。 帆坂の弟である世洲が教えていない所、早い話、好々爺の一人が教えている学び舎。 好々爺が居なくとも強面が居る。 どちらでも良い。

「あの建物?」

目の前に新築の大きな平屋がある。 そしてその周りで子供たちが遊んでいる。

「ああ」

規模から言うと寺子屋のようだ。 寺子屋を実際に見たことは無いが、歴史の教科書の挿絵にあった。

「指示は宮都の工部がしたが、素人が建てたようには見えないだろう?」

「うん、あんなのを十二棟も建てたんだ」

「今では建てた者たちの誇りとなっている」

「いいように転がったってことの一つね」

「よく分かったな」

紫揺の頭をまた撫でてやる。

ほっほっほ、と後ろから掛け声と共に、若干走っているだろう足音が聞こえてきた。 振り返ると好々爺であった。 杠がマツリに道案内をした家にいた好々爺。 七人の元百足の頭であろう、好々爺。

「これはこれは、杠官吏」

好々爺が足を止めた。

「毎日ご苦労様で御座います」

「いやいや、孫と話しているようで楽しい限りです」

さっき杠の言った優しい師だろう。 紫揺がペコっと頭を下げる。

「大きな声では言えませんが、こちらは紫さまと仰って―――」

「え? あの? あの紫さまで御座いますか? マツリ様の御内儀様になられるという?」

「ええ、ご存知でしたか」

「ええ、ええ、噂は耳にしております・・・ですが額に飾り石をお着けされていると聞きましたが」

百足は紫揺の顔を知らない。 額の飾り石を紫揺を見つける目印としていた可能性がある。 己の考えが合っていようが、間違っていようがここに来て正解だったか。
四方のことだ、武官を付かせることは出来なければ百足を付かせるだろう。 武官から杠からの要請が無い限り、護衛が出来ないという話を聞いた時にすぐに思った。 だが確信は無かった、だから芯直たちを付かせた。

さすがに好々爺。 “この坊が?” とは訊かない。

「紫さまと分からないように、飾り石をお着けになっておられません。 実は武官の護衛が御座いませんで、己のような何も役に立たない者がお付きしているだけです。 ですので紫さまと分からない方がいいだろうと、この様な格好もしていただいております」

「ほぅー、そうで御座いましたか」

もし四方が百足を動かしていれば、これで百足にこの顔が紫と伝わるだろう。 もし四方が百足を動かしておらず、杠だけに紫揺を預けていたのならば、マツリ曰くの 『武官をおちょくってかなり面白がっていた好々爺三人』 は紫揺を守りに動くだろう。

「ええ、以前マツリ様に夜襲が御座いまして、同じ宿というのが不安では御座いますが、なかなかいい宿が見つからず、マツリ様のお部屋の隣にお泊り頂いております。 紫さまにも夜襲の危険が及ぶかもしれませんので尚更」

実際には隣ではなくマツリが泊まっていた部屋なのだが、同じ部屋に泊まらせているとなると夜襲のことを考えていないことになってしまう。 それに隣でも同じ部屋でも部屋の中で守るわけではない、外からの守りとなれば一部屋違うだけでは何の影響も出ない。

「ですが? 杠官吏が付くのは四六時中とはいきませんでしょう?」

「要請をすれば武官が付いて下さるそうなのですが、夜は―――」

「そんなのは要らないですからって、私が言いました」

杠に最後まで言わせず、ずっと黙って聞いていた紫揺が言う。 話の流れは分かった。 どうしてその流れが必要なのかは分からないが。

「お師匠様、ってお呼びすればいいでしょうか? 初めまして、紫と申します」

今度はしっかりとペコリン。 頭を下げるなとは言われないだろう、年上という言葉も甚(はなは)だしい相手。 それに師である。

「これはこれは、勿体ない」

好々爺が深く深く頭を下げる。

「雲海と申します。 どうぞ、その様にお呼び下さい」

好々爺が頭を上げるまで待つ。 自分はまだ御内儀ではない、今は単に東の領土の五色なのだから。

「雲海様」

「様など、どうぞお付けになられませんよう」

「では、雲海師とお呼びいたします。 私が来たことでご迷惑をかけたくないですから、針の先ほども」

「師などと勿体ない。 なかなかに気骨のある御内儀様のようで」

“師” も付ける必要は無いといいたかったが、この御内儀様は譲らないだろう。

「勝手に来たんですから勝手にウロウロして寝ます。 卑怯に寝込みを襲うような輩は追い返してやります」

「し・・・紫さま、どうぞそのような事はお慎み下さい」

好々爺の前で言わないでくれ、心の底からの声である。

好々爺がニマっと笑う。
おちょくって面白がる好々爺は完全に釣れた。
これで夜は心配なく紫揺を一人にしておける。

「お勉きょ・・・。 学び舎での様子を見せてもらっていいですか?」

「どうぞ、どうぞ。 可愛い子たちで御座います」

杠が一歩引いて三人で歩きだす。

「道義を教えていらっしゃると伺いました」

「はい、その様にマツリ様から」

「リツソ君と勉学はしたんですけど―――」

「は?」

「え?」

「リ、リツソ様と・・・あ、え? リツソ、くん?」

あ、ヤバ。 ここでは “君” 呼びが気持ち悪いものだったらしかったのだ。 スルースルー、話を進めよう。

「えっと、こちらでも・・・学び舎でも道義だけではなく、勉学を教えられればどうでしょうか」

「・・・え?」

「すぐに理解する子、そうでない子の差が出て、それで新たな問題も出てくるかもしれません。 でもその子たちがまた小さな子を教えていけば、慈しむということも覚えるでしょうし、働きやすくもなると思うんです。 それにそうすることで学び舎も続いていくんではないでしょうか」

杠は六都の外から来てもらっていると言っていた。 そんな事をしなくてもこの六都の中でやっていけばいい。

「道義の中で時折、算術を入れたりはしておりましたが・・・そうでございますな、あれやこれやと手を変え品を変え道義ばかり説いていても尽きますか。 マツリ様が戻られましたらご相談いたしましょう」

「生意気なことを言ってしまいました」

軽く頭を下げる。

「とんでも御座いません」

雲海が紫揺の斜め後ろを歩いていた杠に目先を転じる。

「マツリ様は良い御内儀様をお選びになりました」

紫揺への賛辞を聞き、杠が相好を崩して頷くように頭を下げる。

好々爺は先代の御内儀も知っている。 四方の御内儀にしても先代の御内儀にしても宮の中にいるだけだった。 ましてやこうして長く問題とされている六都に来ることなどついぞ無かった。 その上、マツリのやっていることを理解し自分の考えを言う。
マツリが何故六都にいないのかは知っている。 現役百足から紫を探しているが、額に飾り石を着けている紫が見つからない、見かけたら教えてくれるようにと言っていた。 その時に今マツリがどういう状況にあるのかを聞いていた。
マツリ不在の中、マツリに変わって六都の中を歩き物事を見ようとする。 当たり前に護衛が付く立場でありながらそれを拒否する。
マツリの代が楽しみだ。

(おいそれと死んではおられんわい)

老衰も寿命切れも蹴っ飛ばす。

これで夜の紫揺の心配はなくなったとしても、逆に杠が動きにくくなった。 百足は何処から紫揺を見ているか分からない。 紫揺を置いて宿を出て行くことがままならなくなった。 それに夜襲と念を押したが、昼間に紫揺と離れることも憚られる。 もし好々爺たちではなく、今動いている百足が紫揺に付くのであれば、それこそ一日中付くだろう。

(文官所に預けるか)

文官が居る間なら紫揺を文官所に預け、自分は官吏の仕事をする振りをして文官所から出ることが出来る。

好々爺が子供たちに教える話を聞いて、様子を見て、学び舎をあとにした。

文官所に入ると紫揺が聞いてきたことを文に書いた。 早馬でマツリに知らせなければ。
「すぐに戻ってくる」と言い、紫揺を文官所に預けるとまずは武官所に行き文を預け、次に男の家に向かった。
紫揺は数日前に文官所の分官所長の部屋で似面絵を描いていて、その時に文官たちへ紫揺の紹介は終わっている。 マツリの御内儀になる紫だと。
文官所の者たち、文官が紫揺を監視・・・温かい目で見るだろう。

杠が足を向けた男の家の近くでは、座り込んで砂で漢字の練習をしている二人と、離れた所に隠れている柳技が居た。

「勉学か?」

白々しく杠が二人に話しかける。

「うん」

「見てて、こんなのも書けるんだ」

『さしゅう、分かれた家で待つ』

「おー、上手い上手い」

“松” ではなく “待つ” 完璧に覚えたようだ。
二人が紫揺は見つかったのか? という目を送ってくる。
頷いて二人の頭をポンポンと叩くと享沙が見張っているだろう家に向かった。

もし男に下手な動きがあったのならばその事も書くだろう。 それが無かったということは男に下手な動きはなかったということ。
紫揺の持って帰った情報で動きは取れる。 早馬を走らせ、マツリからの指示が武官にとべば一網打尽に仕留められる。
これ以上動く必要はないが、他に漏らしていることが無いかを探らなければいけない。

「オレの部屋に置いてます」

すれ違いざま享沙が言った。 歩みの先を享沙の長屋に向けてそのまま歩き続ける。
享沙の部屋に入ると盆の下を見る。 文が置かれてあった。
そこには享沙が見張っていた男が何処の家に寄ったかが書かれていて、一軒は話の最後だけを聞くことが出来たようだった。
『いいか、俺たちが一番出だ。 陽が昇ったらすぐだ。 忘れんなよ』
男が寄った家を頭に入れると、台所で文を焼き、瓶から柄杓で水を汲むと灰の上にかけた。

外の様子を伺って部屋を出ると女の元に足を向ける。
夜に行こうと思っていたが、百足の隙間をかいくぐるのは難しいだろう。
女があら? と、意外そうな顔を向けてきた。 どうしてだか時折、杠は官吏の衣を着ているからであるが、それよりも意外なことがある。

「こんなに早く?」

女が杠の腰に手をまわす。

「どうだった」

「言うことはそれだけ?」

「坊たちが世話になったそうだな」

女の手を解くと、その手に金貨を握らせる。

「それだけ?」

女が首を傾げると唇を重ねてきた。 杠の首に手をまわす。
僅かに杠が応えると腰に回した手で女を引き離す。

「急いでいる」

つれないのね、と言うと「混味を食べてただけ。 誰とも話してなかったわ」そして杠の手を取る。

「私がおごったのよ? 坊たちを気に入ったから」

杠の手の中に金貨を返した。
こういう女だ。
女の後頭部に手をやると唇を重ね、胸元に手を入れ金貨を落とす。

「今夜は来ないのかしら?」

既に踵を返していた杠。 返事があるはずもなかった。


「高妃、あと少しだ。 あと少しで陽のめを見られる、外に出られる。 そして宮に入ることが出来る。 分かるか? 宮だ。 高妃はそこで生まれるはずだった。 今もそこに居るはずだった。 その宮に入れるぞ」

話しかけられても、ぼんやりとしている。
身にまとうものは絹。 民のような衣ではない。 まるで宮の衣装のよう。 虚ろな瞳は焦点が合うと黒々とした大きな瞳になり、朱をさしたような唇は小さく愛らしい。

長い間生まれてこなかった五色。 やっと十八年前に生まれた。 力が見られるようになってきたのは四歳の頃。 その頃から地道に動いてきた。 動いて、そして動かず。 誰にも尻尾を取られるような事なく。

「力の証明は出来るな?」

金狼印があればいいことだが、五色の力を見せなければ奪い取っただけの夜盗に過ぎない。

高妃が手を動かすと水差しから水が躍り出た。 その水が高妃の指先にとぐろを巻くように巻き付いて手首から肘下まできた時に、軽く肘を曲げ少し下目にもう一度伸ばした。 とぐろを巻くようにしていた水が、高妃の指先から水差しを目がけて飛ぶ。
カラン、という音と共に水差しが倒れた。

呉甚が満足そうに口の端を上げる。

きな臭いものを感じてここに逃げてきた。 外の様子を見に行かせると、武官が誰かを探している様子だったと聞いた。
家の方を見に行かせると武官が家の中に入っていたという。
どうして己が探されなくてはいけないのか、どこで疑われたのか。 シキやマツリに視られないよう工部に希望を出し宮内に入らなくていいようにしていたのに。
だがもういい、もうすぐ決起が始まる。 領主の座さえ奪ってしまえばなんということは無い。 文官の立場も要らない、領主となった高妃の後見としていればいいのだから。
それに高妃には誰かを扱うということは出来ない。 言い換えれば己が領主も同じ。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第167回

2023年05月19日 21時03分16秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第167回



杠が男の後を追って行くと何もなかったように家に戻って行った。
さて、どうする。 このまま見張っているか男が寄った家のどれかを見張るか。
逡巡は一瞬で終った。
男が寄った家の様子は享沙と柳技に任せよう。 十二軒もの家に寄っていたのだ、その内の一軒が増えたとて変わるものではないだろう。
男はもう家を出ないだろう。 だが来る者はあるかもしれない。


キレイなお姉さんと別れてまたもや三人で歩きだした。

「お姉さん、紫揺のことが気に入ったみたいだったね」

「私もお姉さんのおムネ気に入った」

「は?」 二人が声を合わせる。

「あ、なんでもない」

そっとおムネをタッチした紫揺を見て二人が首を傾げる。

「あれ?」

「ん? なに?」

「弦月。 ほらあそこ」

ずっと先に弦月と言われた柳技が見える。 前を歩く男から姿を隠しているようだ。
弦月の名は夕べ絨礼から聞いている。 そして弦月は柳技でもあるとも。

「あの隠れてそうで隠れられてない緑の衣の?」

「うん。 あーあ、男からは隠れてるけど角度を変えてみたら丸見え。 仲間がいて見られたらすぐにバレるな」

「うん、いい勉学になったね。 追い方も考えなくっちゃだね」

「どうする?」

「行ってみる? 弦月だったら、これからどこに行っていいのか知ってるかも」

「うん、行ってきて。 それで二人で弦月止めて。 あれじゃ、見つかるのも遠い話じゃないわ」

夜ならまだしも、すでに辺りを歩いている子供たちが不審な目を送っている。

「え? 紫揺はどうするの?」

紫揺であり紫であると聞かされた。 己たちと同じであれば、紫が表の呼び名であり紫揺が裏の呼び名であると考えた。 でも己達と同じでないことは何気に分かる。
だから兄の杠が嬉しそうに “紫揺” と呼んだのだから、己たちも紫揺と呼ぶことにした。 そしてその時に漢字を教えてもらった。 難しい漢字であった、というのが感想である。 そして覚えられていない。

「あの男の後を追う」

「え?」

「早く行って。 杠の立てた計画がおじゃんになっちゃうでしょ」

そう言い残すと紫揺が地を蹴る。

「し! 紫揺!!」

芯直と絨礼が顔を見合わせると互いに頷くこともなく柳技の元に走った。

柳技が隠れていた所からピョコっと顔を出すと一瞬ナニカが目の前を走った。

「え?」

そのナニカを探すと、塀を蹴り上げたかと思うと手を伸ばして高い塀に手をかけ、そのまま登って塀の上を走って行き、手を伸ばして木の枝に跳んだ。 あまりの早さに柳技と芯直、絨礼以外誰も気づいていない。

「ああー!?」

木の枝をつかむと身体を揺らせて枝に足を置いて立ち上がる。

「はぁー!?」

柳技の顎が今にも落ちそうになっている。

「見た?」

「うん」

「すごいね」

「ってか、紫揺走るの早すぎ」

えっほえっほと走ってきた芯直と絨礼が柳技の横に立った。

「弦月・・・口閉じろよ」

「顎が外れちゃうよ?」

「あ―――?」



長い年月、生まれた時から人目から隠すようにずっと部屋に入れられていた。 不自由はない。 腹を空かすこともない。 疑問もない。 楽しみもない。 笑うこともない。
有るのは・・・力だけ。

「高妃(こうき)様、昼餉に御座います」

伏せていた瞼が上がり、虚ろな瞳が僅かに上を向いた。



「わわ、紫揺・・・」

隣の枝にピョンと跳んだだけで絨礼が肝を冷やす。

「あ、あれ・・・あれ、なに?」

やっと口を閉じた柳技が紫揺を指さしたが、柳技の様子がチョイおかしい。

「うわ、弦月! しっかりしろ!」

絨礼は肝を冷やした程度であるが、紫揺の奇行を初めて見た柳技には刺激が強かったようだ。


「ふーん・・・周りに気を張ってないか」

振り返ることもなければ左右を見ることもない。

「どこに行くんだろ・・・ってか、このおじさん、どっから生えてきたんだろ」

体格的に紫揺が耳にした声の持ち主とは思えない。 きっとこのおじさんは男にしては高音だろう。
音楽専攻のクラスメイトが、体格からの声というものを教えてくれていた。
『まっ、例外もあるし、全てにはあてはまらないけどね』 とも言っていたが。

男の様子を木の上から見ていると一軒一軒に何かを言っている。 それは長い話ではなかった。

「何を言ってるのかな・・・想像はつくけど詳しいことを聞きたいなぁ」

柳技が追っていたのだ、決起に関することだろう。 男の姿を追うだけで木の枝にいたが男に近づいてみることにした。 枝を蹴って地に下りると、木の上から見ていた方向に走り出す。

「わわわ、紫揺が行っちゃう、追わなくっちゃ!」

「くそ! 弦月、しっかりしろよ!」

パンパンと柳技の頬をはたく。

「あ? え?」

「行くぞ!」

芯直が言った時には絨礼は既に走っていた。

「っと」

小路を走り、角を曲がった紫揺の目の先に男が居た。 男が家の中に入って行く。
男が話しているのは長い時ではない。 これから床下に潜り込んでもその間に話は終わっているだろう。

「どうしろってよ・・・。 おじさん・・・腹立つんだけど?」

長々と話せばいいのに。
男が家から出てきた。
絨礼から聞いた話からすると、きっと決起は三日後とでも言っているのだろう。 そうならばこの家の者を見張ればいいのだろうが、ここまでにも数軒の家を訪ねていた。

「覚えられないし・・・」

それに方向も怪しくなってきた。 決起まで探りを入れられるのは今日を入れてあと二日しかない。

「おじさん・・・家に帰ってよ。 でないと私が帰れなくなる」

紫揺が願うが男は次の場所に足を運ぶ。

「まだ進むっての? もう・・・やめてよ」

後ろを振り返るが、あの二人の姿は無い。
男が小路から道を外した。

「ん?」

小路なら塀や家々の木に跳び移れたが、男が広い道を歩きだした。

「うわ・・・」

仕方なくベタベタの柳技並に後を追う。 時折、武官から「あれ?」 という目を向けられたが、完全無視無視。 額の煌輪をしていないのだから。

「気のせいかな?」

「何が」

「さっきの坊が紫さまに見えたけど」

「お前・・・イッてるか?」

「イッてない。 って、お前、紫さまを見てないよな?」

「見てないけど、坊と紫さまを一緒にすんなよ。 それに額に何かあったか?」

ガマガエルの額にあったグリングリンと描かれたものが。

「・・・無かった」

「んじゃ、紫さまじゃないだろう。 応援がなくなったんだ、とっとと歩くぞ」

「・・・ああ」

男の後を追っていると広い道から外れ見たこともない所に来た。

(杠・・・ここ知らないけど? 案内不足じゃない? ここ何処よ)

一軒家を回っていた男だったが、ここにきて長屋にやって来ていた。

(文化住宅の・・・平屋?)

男はそこを目指して歩いているようだ。
どうせまたすぐに出てくるのだろうが、この建て方からすると一軒家のように敷地内に潜り込む必要がない。 ということはこの辺りの子供の顔をして堂々と歩くことが出来る。 それに間取りも二間くらいだろう。 入った場所さえ分かれば、窓の下にでも腰を下ろし耳をくっ付ければ話を聞くことが出来るはず。

長屋の棟は一筋が五軒ほどで、それが紫揺の方に玄関を向いて目の前に三筋ある。 奥にも同じように長屋が続いている。

男が正面に見える長屋を通り越して、一筋目と二筋目の間を歩いて行く。 奥の長屋に行くようだ。
見つかっても顔さえ覚えられなければいい。 紫揺が走った。 男が歩いて行った筋の反対側の一筋目の横の道を走ると、丁度男がまだ奥に入って行くところが見えた。

(何棟立ってるのかな・・・)

チラリと正面に玄関の見えた長屋の裏を見ると、それぞれに窓が一つしかない。 皆同じ建て方である。

(話を聞けるとしたら裏手のあの窓か・・・うーん、それともやっぱり床下かなぁ)

完全に蜘蛛の巣にまみれそうだし、ネズミとも遭遇しそうだ。 いや、ジクジクしてそうだから、ミミズもいるかもしれない。 想像しただけで心が折れそうになる。
次の筋で男が曲がると一つの戸の前に立った。 端の部屋なら壁に耳をくっ付けようかと思っていたのに希望がついえた。

(こっちから三つ目)

裏に回って三つ目の窓の下に腰をかがめようとした時、向かいの部屋の住人が出てきた。 見慣れない紫揺を不審に思っているのか、ジロリと見て歩き去って行く。

(ぐぅー、やっぱ床下かぁ・・・)

いつだれが出てくるかわからない、辺りをキョロキョロするとサッと床下に潜り込む。 紫揺がキョロキョロした時、すっと身を隠す者が居たことに気付いてはいなかった。
衣を汚さないようヤモリのようにサワサワとつま先と掌だけで声のする方に移動する。 掌がジメッとした土を捕えて気持ちが悪いし、かび臭い。

「・・・三日後に決まった」

もう会話が始まっていた。 だがこの辺りは聞かなくても分かっている。 ギリセーフだったようだ。 そして男の声は紫揺の想像通りの少し高めの声であった。

「三都が受け入れるんだな」

「ああ。 六都だけで総勢百二十七名。 他の都より少ない分、移動がしやすいだろう」

「三都のどこに向かう?」

「戸木(へき)という所だ。 六都と三都を繋ぐ川があるだろう、あの川を上っていくと戸木という所に出るらしい。 三都の者がそこで待っている。 朝から順次六都を出て行く。 一気に出ると目立つからな、この長屋は夕刻から。 他の者にもそう言っておいてくれ」

(へぇ、長屋って言うんだ。 ふーん、まだここに仲間がいるのか)

男が頷いたのだろう、その後には何も聞こえなく、戸の閉まる音がしただけだった。
ヤモリが方向転換をするとサワサワサワと移動する。 あのまま前に進んでも良かったが、かび臭さが前の方からしてきているような気がしたからだ。 きっと台所か何かの水回りがあるのだろう。
ヤモリが床下から辺りを見る。 誰の足も見えない。 そっと顔を出すと辺りを確認して身を出しパンパンパンと手をはたいていると、さっきの住人が戻ってきた。

(わっ、危なかった)

住人が口を開きかけたが、引き留められる前にとっとと退散。 踵を返して走り去る。
身を隠していた男がその後をそっと追った。

「おじさん、おじさん・・・」

男を見つけなくては現在完全に迷子状態である。 その男を見つけたものの、男が女の人と立ち話をしている。 互いに笑ったりしている様子から、ヒミツのお話しではないようだ。 だがこのままここに立っていても不自然である、と思ったときに気づいた。

「ん? 子供が居ない?」

辺りを見まわすが子供が何処にもいない。

「なんで?」

するとずっと先にこちらに向かってくる武官の姿が見える。

「補導されちゃったりするのかな・・・」

辺りをキョロキョロとすると大人もそんなにいない。 働いている時間なのだろう・・・かな? 夕べの絨礼の話ではここの人はあまり働かないと言っていたが。
とにかく身を隠した方がいいだろう。
目の前の大きな木を目がけて走る。 方向的に前から歩いてくる武官から見えないように、木の陰に隠れるように。 そして少し斜めになっている木の幹をトントントンと蹴り上げると枝に手を伸ばす。

「ギリ、セーフ」

その後はいつもの如く蹴上がりで上がると枝の上に立ち、姿が見られないように上の枝に移動していく。 男の姿を見失わないように目は男を追っている。

(おじさん、ご機嫌さんじゃない・・・。 緊迫感無さすぎ)

三日後に大変なことをしようとしているのに。

身を隠していた男が驚きに目を大きく開けていた。 暫く紫揺が上った木を見ていたが動く様子が無い。 戻らなくてはいけない。 今目の前にいるあの坊のことは関係ない。 仕方なく歩を出した。

話を終えた男。 その姿を木の上からじっと見る。 木の近くに武官が居る。 まだ下りられない。

「とにかくおじさんの後を追えば、あの子たちに会えるはず」

会えなかったら仕方がない、官所の場所を聞くだけだ。 坊の姿をしている時は出来るだけ声を出したくないが致し方ない。

「紫揺」

男の後を追っていると真後ろで杠の声がした。

「わっ、びっくりした」

紫揺を見つけられなかった芯直と絨礼、そして柳技が最初の男の家に戻ってきた。 そこにいた杠が紫揺の話を聞き、三人に見張を頼んで探しに来たというわけだった。
昨日、ある程度歩き回ったと言っても、六都に来て間がない紫揺をたった一人にさせてしまい、あちこち走り回っているところだった。

「混味は美味しかったか?」

だが口から出たのはこれだった。

「え? あ、うん。 綺麗なお姉さんにおごってもらった」

どうして知っているのだろうかと思いながらも、綺麗なお姉さんを頭に浮かべた途端、あのおムネを思い出した。 無意識にペチペチと自分の断崖絶壁にタッチしている。
紫揺が何を考えているのか分かった。
綺麗なお姉さん・・・。 それは綺麗で胸の大きなお姉さんということだろう。 心当たりはある。 紫揺よりあの女の肢体を知っている。 そして歳も。 お姉さんではなく紫揺より年下だとはとても言えない。

「あそこの混味は六都一美味しい」

紫揺の頭を撫でてやりながら心の中で言う。 胸のことを気にすることはない、と。
マツリが聞けば説得力がないと言うだろうが。

「うん、カレーみたいにして食べるのね」

「かれー?」

懐かしくなって、ついうっかり日本の料理を口にしてしまった。

「あ・・・その、東の領土の料理」

「へぇー、東の領土には似た食べ方があるのだな」

ありません、嘘です。 東の領土ではそんな食べ方はしません。 杠がどこかでこの話をしないことを願うしかなかった。

「長屋ってとこ分かる?」

「あちこちにあるが?」

見聞きしてきたのだろう。

「そうなんだ」

そう言うと聞いてきたことを話し出した。
六都だけで総勢百二十七名。 他の都より少ない分、移動がしやすい。 戸木という所に向かう。 六都と三都を繋ぐ川があり、その川を上っていくと戸木に出る。 三都の者がそこで待っている。 朝から順次六都を出て行く。 話を聞いた長屋は夕刻から。

「で、他の者にもそう言っておいてくれって言ってた。 あの長屋ってとこに仲間がまだ居るんじゃないのかな? 弦月とタッチ・・・代わってから私が聞いた以外に回ってた家は六軒。 以上」

杠がもう一度紫揺の頭を撫でる。

「貴重な情報だ。 だが紫揺がそこまで危険なことをする必要はない、マツリ様に逢いに来たんだろう?」

「あ・・・うん。 葉月ちゃんが会わなさすぎって」

おムネの話はいいだろう。 実際、葉月はそう言ったのだから。 それに葉月が言っていたのは、マツリに逢うっていうのが一番で、おムネが大きくなるのは二次的産物。 まぁ、紫揺にしてみればその二次的産物が目的なのだが。

「マツリ様はいつ戻ってこられるか分からないから、本当なら紫揺を宮に戻せばいいのだろうが、とてもお忙しくされておられると思う」

杠はこの六都だけを考えればいいが、宮に戻ったマツリはそうではない。 逢いに行っても会えないだろう。

「それに万が一、今回のことが止められなかったら宮にいる方が危険だからな」

「止められないの?」

見上げてきた紫揺の目を見て微笑む。

「マツリ様ならお止めになる」

「・・・そっか」

子供たちが団体で前から歩いてきた。
そう言えば子供たちの姿を見なかったのだ。 団体でどこかに行っていたのか。

「学び舎から戻ってきたようだ」

「学び舎?」

そのフレーズは知っている。 寺子屋みたいなものだろうか、それとも学校ほどの規模があるのだろうか。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第166回

2023年05月15日 21時04分11秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第166回



マツリの部屋に紫揺を寝かせると己の部屋に戻り策を講じる。

「あと四日・・・」

紫揺が床下に潜り込んだ家の主を何らかの手で捕らえて吐かすより・・・泳がす方を取るか・・・。
だが武官所に行った時、応援の武官たちが早朝六都を出ると言っていた。 簡単に武官の手を借りることはまず出来ない。
・・・六都だけでも何とかしたい。
いつ馬鹿者どもからの夜襲があるか分からない。 隣りの部屋で眠る紫揺が心配だが、さっと地図を書くと腰を上げた。

享沙が朝起きると戸の隙間から文が入れられていたのに気付いた。
開いてみると地図が書かれてあり、その下に『俤』と書かれてあった。
六都以外で動きたいと申し出ていた。 それを承諾してくれていたのに何かあったのだろうか。
尻に拳をコンコンとあてる。 響く痛みはかなり薄まっている。 柳技があれやこれやと世話をしてくれたからだろう。 その柳技はもう少しすれば来るはずだ。
杠からの文を盆の下に置く。 あとはどうすればいいか分かっているだろう。 享沙が長屋を出た。

杠からの地図に書かれていた家、そこは紫揺が床下に潜り込んでいた家である。 享沙はそのことを知らないまま地図で示された家には来たが杠の姿が見えない。 キョロキョロしていると、ふっと後ろに気配を感じた。 振り返る。

「かなり気配が分かるようになってきましたね」

杠だった。

「弟のこともあるでしょうが火急です。 六都で動いてもらいます」

杠から説明を受ける。

「決起の集団・・・」

「はい。 六都は我らの手で根こそぎ引っ張り出します」

マツリは六都に戻ってこられないだろう。 マツリが居なければ百足の力も貸してもらえない。 武官にも簡単に頼ることは出来ない。

「この時までこの家の主は動きませんでした、後を頼みます。 弦月たちをここに呼びに行ってきます」

「いや、それは必要ありません」

どういうことだと、杠が享沙を見る。

「すぐに弦月が来ます」

そういうことか。 享沙の面倒を柳技に頼んでいたが、こんなに早朝からとは思ってもいなかった。
享沙は杠の書いた地図を置いてきたのだろう。

「沙柊」

享沙である沙柊の名を呼ぶ。

「守りたい者がこの六都に入りました」

守らなければならない方ではない、守りたい者。

「己はその者につきます」

「紫さま・・・ですか?」

ビックリした。 どうして・・・。

「ずっと長屋の中に入っていても、六都の中での噂は弦月が持ってきてくれています」

そうか、そういうことか。 笑むしかない。

「マツリ様の御内儀様になろうとされている紫さまが、俤の妹かもと聞きましたが?」

芯直と絨礼からの情報も流れているらしい。

「はい、血縁はありませんが」

「え?」

「血縁が無くとも己の妹。 六都のことが治まればマツリ様の御内儀になる。 己は妹を守る。 この後を任せられますか?」

弟から身を隠しながら。
沙柊が口角を上げた。

杠が急いで戻ると馬鹿どもからの襲撃もなければぐっすりと紫揺が寝ていた。
相当に疲れたのだろう、ずっと手を動かしていたのだから。 その中で杠の考えていたことを理解し、朱墨ではあったが四方に文を書いた。
単に手を動かしていただけではない、頭で考えていた。 耳に入ってきたことに頭を傾けていた。

「疲れたな」

沈むように眠っている紫揺の乱れていた前髪を指で上げる。 額の煌輪は杠の手で座卓の上に置かれていた。

「マツリ様は戻ってこられるからな」

紫揺の元に。


陽が真上に上がった頃、ようやく紫揺の目が開いた。

「あれ?」

布団の上で寝ている。 最後の記憶は机に突っ伏していたはず。 だがこの天井には見覚えがある。
ゆっくりと起き上がると座卓の上に文が置かれているのに気付いた。 その横にも。

『隣の部屋にいる 杠』

「あ、杠が運んでくれたんだ」

文の横に置かれていた額の煌輪をチラっと見て、そのまま部屋を出た。


紫揺を連れて六都の案内をしている。
杠が何をしようとしているのかは、部屋に運ばせた昼餉を食べながら聞いた。

「ここらでは何も見どころが無いがな」

「ふふ、杠が何を考えているかくらい分かるから。 いつでも言って」

思わず杠の手が紫揺の頭上に伸びる。 その手が優しく動く。

「マツリ様に怒られるだろうかな」

紫揺を巻き込んでは。

「そんなことしたら怒鳴り返してやる」

最後にポンポンと二度軽く叩いて手を引いた。

「それにしても、小路が覚えにくいかなぁ・・・」

大きな道の左右には何筋もの小路がある。 その複雑に何本もある小路を抜けるとまた大きな道、そしてまた小路。 どこの小路の何筋目にどの木があった、どんな塀があった、ナドナド、覚えられない。

「大体でいい、次は官吏たちの家の方」

マツリと景色を見に行くどころか、夕餉の刻まで杠と六都の中を歩いた。


紫揺が湯浴みをしている間に男の家に向かった。

「動きは」

「ありません」

紫揺の言っていたように男は家から出てこないのかもしれない。
明日にはあと二日となる。

「警戒しているか」

目の前に動き出す日が迫って来ているのだ、下手に尻尾を出すつもりは無いのだろう。 こちらに掴まれているとも知らないはずなのに。

「弦月たちは?」

「先ほど帰しました」

夜に動くとなればそうそう派手に動き回らないだろう、という判断なのだろう。 武官は減ったと言えど、最近は夜にもなれば自警の群が巡回をしてもいるのだから。

「あとで交代に来ます」

「え・・・紫さまは」

マツリが夜襲に遭ったのだ。 その御内儀様になろうという紫揺にも危険が及んでもおかしくない。

「朧と淡月に頼みます」

それは無理だろう、と享沙が顔を歪めるのを見て思わず笑んでしまった。
宿を出る前、武官に警護を頼んでおくと言った。
『やめて。 武官さん減っちゃったんでしょ? 減らなくてもだけど私がここに来たことで迷惑かけるの嫌だから。 それにマツリが居ればそんなこと頼まなくても良かったんでしょ? 居ないマツリが悪いんだから。 何かあったら杠のせいじゃなくてマツリのせい。 まっ、何かなんて無いけど』 そう言われてしまった。

「武官を付けるって言いましたら断られまして。 ま、おかしな動きさえ察知すれば、一人で逃げられます。 淡月と朧には交代で寝てもらいます」

「逃げられるって、そんな簡単に。 いいです。 ずっと長屋でゴロゴロしてたんです、 二晩や三晩くらい寝なくてもなんともありません。 それに俤だって寝てないでしょう」

「ちょくちょく寝ています。 それに今言ったことを我が妹に言うと張り飛ばされるかもしれませんよ?」

「・・・え?」


一日六都をまわっている時に、杠が紫揺の着替えを買い求めようとした。 民の物ではあるが女物の衣を。

『そんな動きにくいものはイヤ。 いざって時に動けないじゃない、跳び降りるにしてもいちいち裾を押さえなきゃなんないし』

『いやだが、今この六都では紫揺はマツリ様の御内儀様になられる方と噂になっている。 いつまでも坊の衣のままではマツリ様の―――』

『マツリはマツリ。 それにマツリ居ないんだもん、紫じゃなくて紫揺』

どんな所論だ。

湯浴みから上がると杠が買い求めた坊の衣に手を通し、剛度から借りていた衣を洗濯した。 ギュッと絞り窓の外に干していると、杠の泊まっている部屋の窓から絨礼が顔を出してきた。

「あ・・・」


基本文官は馬には乗れないが例外がある。 工部の文官は馬に乗ることが出来る。 工部という仕事柄必要であるため、下っ端時代に乗馬練習をさせられるのであった。

六都から七都八都と馬を駆り、暗いなか二都に入った。
二都をまとめている男の家の戸を叩く。 ガラリと戸が開いた。


「ん? そこって杠の泊まってる部屋よね? ・・・ふーん、そういうことか」

考えていることが分かった。

「えっと・・・紫さま、だよね?」

額の煌輪をしていないが顔は覚えている。 けれど・・・。

「うん」

「杠の妹の?」

「うん」

「しゆら?」

杠は紫ではなく、紫揺と呼んでいた。

「うん」

「どっち!?」

「どっちも。 ね、君はどっち? 芯直君? 絨礼君?」

「くんってなに?」

「敬称ってとこかな。 ね、どっち?」

「絨礼だけど淡月」

「淡月君か」

「その “くん” っての言わないでくれる? 気持ち悪い」

眉を上げてしまった。 そういうものなのか? そう言えばハクロも “ちゃん” を付けた時に怒っていた。

「んじゃ、淡月、もう一人は?」

「寝てる」

「こっちに来ない? 遅くまで寝てたから寝られないんだ」

「来ないって・・・女人だろ?」

「ませたことを。 来ないんならこっちから行くよ?」

絨礼が振り返る。 交代まで芯直を寝させたい、話し声で起こしたくなんてない。

「行くから待ってて」


早朝、二都を抜けて一都に入ろうとしていた柴咲が思わず手綱を引いた。

「ど・・・どういうことだ」

己の似面絵が描かれてあり、その上下に『科人の疑い』『武官に知らせよ』 と朱墨で書かれている。
馬首を回して来た道を引き返した。


朝になり享沙と柳技がやって来た。 杠と交代である。

「動きは全くありませんでした」

「あと二日、ですね」

「はい、早ければ今日くらいから動くでしょう。 朧と淡月は・・・昼餉を食べさせてから送ります。 交代で寝たとは言ってもまだまだ寝足りな―――」

最後まで言えなかった。 目で方向を示すと瞬時にしてその場から居なくなったからだ。
ガラリと戸が開き男が出てきた。
享沙が身を隠す。 遅れをとった柳技は知らない振りをしてぽてぽてと歩き出す。

(なにー!? あの二人。 ってか、杠ってどうなってんのー!?)

歩くしかない柳技が心の中で叫んでいる。

庭から出て来た男が左右を見ると塀沿いを歩く、まだ大人の背丈になっていないヒョロっこい柳技が背を向け一人歩いていただけなのを確認し、柳技に背を向けて歩き出した。

聞き耳を立て足音が遠ざかっていくのを確認すると柳技が振り返る。 すぐに男の家に走って行き、ドンドンと玄関の戸を叩いて暫く待ったが応(いら)えがない。 あの男がこの家の主に違いない。
紫揺からの話では、女の声は一切聞こえなかったということを又聞きに聞かされていて、家族で住んではいない事は分かっていた。
すぐに男が向かった方向に足を向けると角から享沙の声がかかってきた。

「どうだった?」

「間違いない、あの家の主。 誰も残って無かった」

享沙が顔を上げると木の上にいた杠に手を上げて合図を送る。 あの男に間違いないという合図を。

「げっ、いつの間にあんな所に・・・」

「追おう」


柴咲が二都のまとめ役の所に戻って似面絵の貼り紙のことを言った。 驚いたまとめ役がすぐに二都の中を歩いてみた。

「あちこちに貼ってあった」

「いったいどういうことだ・・・これじゃあ、動けない」

六七八都には言ってきた。 この二都で七都を受け入れ、あとは一都が八都を三都が六都を受け入れることを言わなければならない。 そしてまだ言っていない五都は動かないからいいようなものの・・・。
八都と六都の者たちが動いてしまっては、受け入れ側の用意が出来ていない。 一都と三都で他の都の者が何人もウロウロしていれば、武官に問いただされるかもしれない。
この事を知らせる先の家は柴咲と呉甚しか知らない。

「宮都に走って呉甚にこのことを伝えてくれ」

宮都からなら一都と三都は遠くない。 五都と四都も間に合うかもしれない。

「う・・・馬になんか乗れない」

「何でもいい!! 馬車でもなんでもつかまえろ!!」

転がるように家を出た男。 大店の厩に飛び込み、馭者を金で釣ると馬車に飛び込んだ。

「み、宮都まで。 急いでくれ!」


杠たちが男の後を追っていると、次々と何軒かの家に入って行った。 その内の二軒に享沙と柳技を残らせた。
男が入って行った家を記憶に刻む。
合計十二軒の家に入った男がその後、黒山羊に入って行った。
昼餉でも食べるのだろうが、誰かと接触があるかもしれない。 杠が入ってしまうと顔を覚えられる恐れがある。 それにこんな刻限なのに官吏の衣を着ていない。 昼餉を食べに来た他の官吏に見つかってしまえば不信の目を向けられるだけ。
杠の腕に細い腕が絡みついてきた。 驚くことは無い、足音で分かっていた。

「困ってるみたいね」

横に立った女の腕からそっと自分の腕を抜くと女の腰にまわす。

「いま入って行った男」

耳元に口を寄せると囁くように言う。

「戻って来てたのに何の音沙汰もなく、それ?」

杠の頬に人差し指を這わせると、視線だけ杠に合わせ黒山羊に足を向ける。
女が店に入ったのを見送ると踵を返しすぐ宿に向かった。

部屋の戸を開けると芯直と絨礼の姿が無かった。 すぐに官吏の衣に着替えマツリの部屋を訪ねる。 声をかけたが応答がなく開けてみると紫揺もいない。 一瞬、顔を歪めたがすぐに黒山羊に向かった。

絨礼と芯直と紫揺の三人で男の家に向かったが享沙の姿も柳技の姿もない。

「あれぇ?」

「どこ行ったんだろ?」

夕べ、紫揺は絨礼から色んな話を聞いた。 その中でこれから杠がどうしようとしているのかも聞き、それは杠から聞かされたものと同じであった。 ちゃんと理解しているようであった。

「この家のおじさんが動いたんだろうね」

声だけしか聞いていないが、きっとおじさんだろう。

「どうする?」

二人が紫揺を見る。
うーん、と言いながら考えてみるが、まだ土地勘も薄くどうにも動きようがない。

「取り敢えず、あちこち歩こうか」

「うーん、お腹空かない?」

「紫揺、金持ってる?」

「コロッケでも買うの?」

女子高生の定番である。
二人が目をパチクリとさせた。

黒山羊の店前まで戻って来た杠が思わず額に手を当てた。 止める間もなかった。

「らっしゃい!」

「あ! お姉さん!」

「あーら、かわいい坊が一人増えてる」

額の煌輪は部屋に置いてきた、目印になってしまうだろう。 紫とバレたくない。
二人がチラリと紫揺を見たが、当人は声を出さず顔で笑っているだけ。 坊でいいらしい。

「紫揺、いいか? こういう人をお姉さんって言うんだ」

小声で芯直が言う。
どういう意味だ。
思いっきり芯直の足を踏んでやった。

「混味を食べに来たの?」

「うん」

絨礼が応える。

「ふふ、一人増えたお祝いに驕っちゃうわ。 混味三つちょうだい」

杠と会えて機嫌もいい。

「あいよー」

「ここの混味はうまいんだよ」

紫揺がコクリと頷く。
女が首を傾げる。

紫揺が最初に言っていた。 坊としてふるまう時には声を出さないと。

「あ・・・もしかして口、が?」

「うん、そうなんだ」

何故か涙目になっている芯直がこたえる。

「まぁ・・・」

女の隣に座った紫揺をムギューっと抱きしめる。
豊満なおムネに顔が沈む。

(うう・・・これくらい欲しい)

紫揺を抱いたおムネは紫揺以上に杠が知っていたが、そんなことを紫揺が知るはずもない。

「大丈夫よ、この坊たちはいい子だから」

芯直は褒められ嬉しいが紫揺が羨ましい。 あんな風に母親に抱きしめて欲しい、と。
男が立ち上がると店を出て行った。 女が一瞬目を細めたが追うことは無かった。 今晩、杠は来るだろう。

「へい、お待ち!」

混味が三つ置かれた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第165回

2023年05月12日 21時08分43秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第165回



右の眉の上を人差し指で押さえていた紫揺。

「あ・・・」

尻もちをついた紫揺に屈んできた官吏。
地下の者たちに囚われていた官吏たちの家族が戻ってきた時、尾能の母を心配してマツリの後を追った。 尾能の母に傷は増えていなかった。 安堵して・・・すぐに杠に会いたいと思った。 一人で走り戻った時、あの時ぶつかった官吏に・・・文官に黒子があった。
あの場所は初めて行った場所だった。 あれはどこだったのだろうか。 門を二つ潜った記憶しかない。

「地下に囚われてた家族の人たちが戻ってきたでしょ? 馬車で」

「ああ、あの時」

紫揺はマツリの後を追ったが、杠は波葉とシキとその場にとどまっていた。 馬車で戻ってきたのを見たわけではないが、紫揺が言うように馬車でしか戻れないだろう。

「えっと・・・門を二つ潜ったの。 それで・・・」

記憶をたどる。

「尾能さんの母上に会えて・・・そのあと走って戻って・・・。 うん、そうだ。 門を一つ潜ったところで、ここに大きな黒子のある文官さんとぶつかった。 同じ人かどうかは分からないけど」

「間違いないか?」

「黒子はあった、それは間違いない。 大きかったから結構印象に残ってるもん」

「宮都の文官かもしれないということか・・・」

考えを巡らせている杠を置いて朱墨の筆をとり似面絵の絵を正していく。

「マツリ様が宮におられるうちにお知らせするがいいか・・・」

「その文官さんがどうしたの?」

「紫揺が言っていただろう? 後ろ盾になるという話」

「あ、うん」

「さっきの者に後ろ盾になる話を持って来たのが、黒子のある者だったらしい。 口調は官吏と同じようだったというし、宮都の者と思っていたようだが、あの官吏口調は官吏だけだ」

「それっていつ頃?」

さらさらさら。

「マツリ様がこの六都に入られる随分と前だったようだ」

「ふーん」

さらさらさら。

「で、どうするの?」

「すぐに先ほどの者を宮に送る。 紫揺が見た文官があの者の言っていた者なら絶対的な証人になる」

さらさらさら。

「さっきの人の名前は?」

「將基」

「どんな字?」

杠が宙に指で書いてみせる。
六都の者は学が無い。 よって自分の名前を仮名ですら書けない者が多いが、漢字で書ける者などそうそういない。 なのにどうして漢字の名前か。
親が出生届を出す時に、文字をかける者、若しくは漢字を書けるものは自分で書き届を出すが、大半は文官が名前を口頭で聞き文官の一任にて、出生欄に漢字で名前を書き込んでいる。 よってその名の漢字を親さえ、本人さえ知らないことが当たり前にある。

“文官の一任” それは言い換えれば “文官の裁量” である。 同じ名前でも漢字が違えば印象はぐっと変わってくる。
例えば、盆栽が趣味の文官ならば出生届を出してきた親に口頭で “うえはち” と聞いたならば “植鉢” と記すだろうし、下手な正義感のある文官なら “飢破知” 飢えを破り知恵を入れると記しただろう。 あくまでも下手な正義感のある文官ならばである。 通常であれば “上八” とでも書くであろう。

享沙はこの六都の出だ。 ろくでもない親だったが、ちゃんと出生届を出していた。 その時の文官が “きょうさ” と口頭で聞いて漢字をあてた。 もし、トンデモ趣味文官だったら “凶鎖” とか “教唆” になっていたかもしれない。

今回、自警の群に名前を登録する際にも必要であったし、腕章の裏に名前を書かなくてはならなかった。 その時に文官が調べて漢字で腕章の裏に書いていた。
ちなみに六都の出ではない巴央の時には杠が誤魔化した。
自警の群の者たちは腕章をひっくり返して嬉しそうに自分の名前の漢字を覚えた。
將基も杠と官所に来る途中で名前を聞かれた時、嬉しそうに宙で名前を書いていた。

「旧字体なんだ」

さらさらさら。
何のことかと思いがならも杠が行動を起こす。

「武官に早馬の準備を頼んでくる。 一人でも大丈夫か?」

「うん。 じゃ、これ。 はい。 最後に杠の字で名前書いて」

「は?」

「早馬で文を運んでもらうんでしょ? マツリの居る間に」

渡されたものをざっと見ると、杠が書こうとしていたことが書かれていた。 それも達筆で。

「ほら、早くしないと時が経っちゃうよ?」

ちょっと顔を歪めた杠だが致し方ない、紫揺の言うように書き直す時が惜しい。 最後に黒墨で杠の名を書いて文官所長の部屋をあとにした。


茶室で話したあと、すぐに武官長を集め、もう一度マツリからの説明があった。 この二度手間は仕方がない。 まずは四方に言わなければいけないのだから。 それにマツリが勝手に武官長たちを集めるわけにはいかない。
だがその前、武官長たちが部屋に入ってきた途端、黄翼軍長と朱翼軍長が踵をカンと響かせると四方とマツリに礼をとった。

「我等が隊、黄翼軍と朱翼軍から出しました紫さまの護衛、大変な失態を犯し、申し訳御座いません」

ここに来る前に知らせが届いた。
四方が何のことかという目をしている。 マツリはその説明はしていなかったし、いま改めて武官長も説明をしていない。

「よい。 少なくとも杠の居るところまで送り届けた。 杠が居れば我が居ると同じこと」

杠のことはもちろん知っている。 武官長たちは杠の試験に立ち会ったのだから。 だが杠の元に送った、そんなことは聞いていなかった。

「どのような咎でもお受けいたします」

「よいと言っておる、今はそれどころでは無い。 ただ、紫の似面絵を描いた武官にはそれなりに下す」

杠がかなり怒っている。

「は? 似面絵とは・・・」

もちろんそんなことも聞いていない。
武官長が問うが、今その事は置いておかねばならない。

「今そのことはよい、急いでおる」 と言ってマツリが四方に聞かせたものと同じことを話したのであった。

「では他に誰がその者たちと組んでいるか分からないのですか?」

官吏の中で。

「おるかもしれん、おらんかもしれん。 よって武官達への指示は慎重に行ってもらいたい」

マツリに変わって四方が言う。
武官の中に仲間がいては筒抜けだ。
四人の武官長が腕を組んだ。

「我らは部下を信用しております」

「分かっておる」

「猶予があと五日、いや、その六日目に動くのであればあと四日・・・部下を疑っていては動けません」

「分かっておる」

それでも動かせと四方の目が言っている。

「・・・六都からはどれくらい戻して頂けるでしょうか」

マツリが瞑目する。 その質問が来るのは分かっていた。 二つほど数えて瞼を上げる。

「・・・六都の武官以外全員」

「応援を全員引かせて宜しいということですね?」

「ああ、構わん。 だが六都の武官は応援にはやれん」

「構わん」

応えたのは四方であった。
あとは武官をどう配置させるか。


かなり遅めの昼餉を食べ終えた時に尾能が食事室に入ってきた。

「六都から早馬で御座います」

文を四方に差し出す。
文を広げ・・・。

―――何故だ。

それにこの料紙の寸法は文用ではない。 紫揺の描いていた似面絵用の料紙である。 そこにも

―――何故だ。

だが最後には墨で杠と書いてある。 ざっと内容を読むとマツリに渡す。

文を手にしたマツリ。
・・・何故だ。 と一瞬思ったが、すぐに合点がいった。

「朱墨は紫が書いたものでしょう。 朝、我がすってきました」

そう言われれば、マツリが尾能に渡していた似面絵に朱墨で何か書かれていたと思い出した。

「朱墨で文を書くなどと・・・呪い文か」

吐き捨てるように言った。 そして続ける。

「それにマツリに墨をすらすなど・・・どちらにしても呆れてものが言えん」

「ずっと似面絵を描いているのです。 墨をする間もありません。 それにきっと・・・朱墨で文官が描いた似面絵に訂正を入れている最中に書いたのでしょう。 何故かはわかりませんが。 ほー、人相描きも上手いが字も上手いものだ」

「・・・」

そこは認める。

「すぐにあたって頂けますか」

黒子のある官吏を。

「言われんでも分かっておる」

何もかもが紫揺の指示のように思えてならない。 立ち上がり食事室を出て行った。

昼餉を終わらせると一旦、六都に戻るつもりだったが、將基という者を待たねばなるまいか。 杠もそれを狙って早馬を出したのだろう。
紫揺を抱きしめた己の手を見る。
背の低い紫揺を抱え上げた腕。 背中に回しそっくり返る紫揺を抱きしめた。 素直じゃない紫揺の声。

「・・・くそっ、また杠に取られた」

兄が妹に触れる。 兄が妹に微笑む。 それは澪引とその兄も同じだった。 四方にはその愚痴を聞いてくれる尾能という存在があった。 だがマツリの場合はその尾能の存在にあるのが杠だった。 その杠を紫揺は兄と慕っている。


文官所では何枚もの似面絵が仕上がっていた。
この似面絵を利用できるのかどうか。 四方の返事次第でこれが無駄に終わるかもしれない。 それでも描く。
夕刻を十分に過ぎ、文官所を閉めようかとした頃、宮都から早馬がやって来た。 マツリから杠宛だった。

「紫揺! 四方様が三都に紫揺が描いた似面絵を貼るとされたそうだ。 今ある紙を描き終えたら手を止めていいということだ。 宮で描く者が見つかったと書かれている」

「うん・・・分かったぁ」

「あ? 紫揺? 生きてるか?」

「多分・・・そんな気がするぅ・・・」

「紫揺! しっかりしろぉぉぉー」

文官所長の部屋に杠の声が響いた。
杠にぶんぶん揺すられて三途の川を渡り損ねた紫揺。 最後の力を振り絞ってとっぷりと暮れた頃にやっと全てを描き終えた。 
自席で描いていた文官二人もぐったりと机の上に伸びている。 自慢気に「描けるもーん」と言ったことを今更にして後悔をしていた。

マツリからの文は他にも指示が書かれていた。 描き終えたのち描いたものを早馬に乗せすぐ三都に持っていくようにというものだった。
突っ伏している紫揺をそのままに、武官所に似面絵を持っていきマツリからの指示を出す。 すぐに舞い戻ってきて机に伸びている文官二人を起こし家に戻らせ、紫揺を抱えて宿に戻った。
マツリからの文には將基と巴央が着いたとは書かれていなかった。 馬車で出たのだからそう簡単には着かないのだろう。

杠が將基の元に行き、宮都に向かってもらいたいと言うと、不安な顔をした將基が『あんたも行ってくれるのか?』 と訊いてきた。

『官吏なんざ・・・オレの言うことをどこまで聞くか分からない。 けど、あんたなら・・・』

『今ここはマツリ様不在で空けるわけにはいきません。 ですが宮都ではマツリ様が待っておられます。 マツリ様は誰もに耳を傾けるお方です。 安心してください』

そして気になり寄って来た巴央を見ると『一緒に行ってあげてくださいますか?』 と官吏の顔で言ったのだった。

杠が早馬からの文を受け取った一方で、六都武官所にも宮都武官長から文が届けられていた。 明朝、宮都の武官は六都を引き上げ、一部が宮都に戻り他は三四都に移動ということであった。 その振り分けも書かれていた。
そして四方からということで、杠からの申し出が無ければ六都に入った紫揺に護衛は要らない、その旨、杠に伝えておくようにと書かれていた。
六都武官長が首を捻った。 明日からぐんと武官の人数が減る。 紫揺の護衛に回せる余裕などないと言っていい。 だが武官でもなければマツリ付であるだけの杠官吏が一人でどうやって紫揺を護衛するのだろうかと。

一二都には五七八都からの応援になった。 それでなくとも手薄になっている宮都からの応援は、これ以上出すことが出来なかった。
そして同時に全都の都武官長、都文官長に決起のこと、指示命令を書いた早馬が走っていた。

宮都では八人の文官と宮お抱えの三人の絵師、合わせて十一人で夜を徹して柴咲の似面絵が描かれ、ある程度纏めては三都以外に貼って回った。
三都では紫揺たちが描いた似面絵で十分間に合ったということであった。
だがこれだけでは決定的なことにはならない。 今回のことが上手く流れたとしても根は生きているまま。
疑いを持って柴咲を一旦押さえることしか出来ない。 紫揺を証人に立てることも考えられるが、あくまでも紫揺は姿を隠して聞いていたのだ、説得力に欠ける。
そして四方が動いた時にはきな臭いものを感じたのか、出仕していた黒子のある文官、呉甚(ごじん)が姿を消していた。

夜遅く武官舎の庭に馬車が入ってきた。 将棋と巴央が馬車から下りる。 待ち構えていた武官の先導で武官舎に入ると一室に入れられ、待っているよう、と言い残すと武官が部屋を出て行った。
二人が目を合わす。

「長い間馬車に揺られて来たってのに、茶の一つもないのか?」

巴央が將基の気を使って先に文句を言う。

「ああ・・・喉が渇いたな。 悪いな、付き合わせて」

殆ど休憩も無しに馬車に揺られていた。 その上、何度か馬車を乗り換えさされ、馬車であるにもかかわらず杠の指示の元、そこそこの早さで走って来ていた。

「官吏に言えって言ったのはオレだ」

暫くの沈黙が続いた。 慣れない馬車に身体がじんじんしている。
巴央達は知らないが、馬車ではあるまじき早さで走って来ていたのだ、身体も痛かろう。 それに紫揺たちが乗るような気の利いた馬車ではない、無骨な武官用の馬車だ、仕方がないだろう。

「足労であった」

入ってきたマツリが開口一番に言ったのがそれだった。 そして確認をしてもらおうと思っていた文官が姿を消したことを告げる。

「え・・・じゃ、無駄足ってことで?」

「いま探しておる」

紫揺の書いた書簡、四方に呪い文かと言わしめた朱墨で書かれていた中に、紫揺が呉甚とぶつかった場所と文官であったことが書かれていた。 その場所はある程度の文官に絞られるが通りかかりかもしれない。 そして文官であるその男の大きな特徴的とも言える黒子のことも書かれていた。
四方と尾能がすぐに誰か分かった。 紫揺がぶつかったとされるその場所に居てもおかしくはない。 いや、居なければならない。 そこは武官舎の隣にある領土省と林水省の二つの省が入っている文官舎。
柴咲と同じ領土省の工部だった呉甚は仕事柄武官たちとよく顔を合わせていた。

「臭いを嗅ぐのに長けておるのかもしれん。 どちらが將基か」

白々しく二人を右に左に見て訊ねる。

「あ、俺で」

「一旦六都に戻り、逃げた者を捕えてから再度来てもらうも良いが・・・」

「では、それで」

「命の保証はない」

えっ!? と言う顔をしたのは將基だけではない。

「臭いを嗅ぐのに長けておれば証人は消すであろう」

思いもしないことを言われてしまった。

「言い換えてみれば、我らにとっても大切な証人。 強制は出来んがここに留まってもらいたい、どうだ。 六都に居た宮都からの武官は明日、全武官引き上げる。 六都に戻っても十分な警護に手は回らん」

あれだけわさわさ居た武官が居なくなる。 その中に身を置く。 命の保証はない。

「將基、ここに留まろう。 オレも付き合う」

「お前の名は」

白々しい。

「と・・・とってもお聞かせする名ではありませんが、金河」

馬鹿か、焦らすな。
ついうっかり巴央と言いかけたのが見え見えだ。

「金河か。 では金河、將基とここに留まるよう。 將基、良いな」

自分の身が消される・・・。 殴って殴り返されて、逃げて逃げられて、そんなことは日常茶飯事だった。 ・・・学び舎を建てるまでは。
だが・・・初めて六都を出てきて聞かされた言葉が・・・消される。

「おい、將基! いいだろ!? お前が・・・お前に何かあっちゃあ・・・」

金河の声が遠くに聞こえる。
イキがってただけか。 消されると知って・・・これだけビビってる。
いや、前なら、学び舎を建てる前なら「かかって来るんならこさせればいい」と言っていたかもしれない。 かもしれないではない、絶対に言っていた。 下手な自信・・・投げやりな自分。
だが・・・今はそうではない。
作りたいものがある。 笑う時がある。 飯当番になった時には色んなものを作ってやりたいと思う・・・相手がいる。

「誰一人仲間を外したくないんだよ!」

弾かれるように金河の声が聞こえた。
將基がゆるりと金河を見た。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第164回

2023年05月08日 21時15分52秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第164回



男の家を教え、宿に戻って来てからも似面絵を描き続けたが、宿の紙だけでは十分ではなかった。
紙がなくなった時点でコクリと舟をこぎ出した紫揺をマツリの部屋に寝かせると、杠の部屋でマツリと杠がゴロ寝をした。

「べつに宜しいでしょうに。 初心男みたいに・・・」

紫揺と同じ部屋で寝ても。

「・・・殴られない自信が無い」

横に転がるマツリを眼球だけ動かしてチロリと見る。
別にいいんじゃありませんか? と言いたいが相手は紫揺だ、他の女人のように簡単にはいかないだろう。 それに紫揺を寝させてやりたい。
これ以上紫揺の話をしては毒かと、話の先を変えた。

「沙柊もそろそろ動けるようになったでしょうし、宮都に移しますか?」

「え? 動けるようになったとは?」

享沙が弟と逢ってしまって、他の地への指示を願っていたことはマツリも杠と一緒に文を読み知っている、だが動けるようになったとはどういうことだ。

「尻を痛そうにしておりまして、歩きにくそうにしていたんです。 それは知っていたんですが、あまりにも長引いていましたので、尻を見たら尾骶骨をかなり強く打ったみたいでひびが入っていたと思います。 暫くは安静にするようにと言っておりました。 柳技に面倒を見させています」

「・・・享沙の?」

「はい?」

「・・・尻を見たのか?」

「あ、はい」

「・・・」

「なにか?」

「・・・そっちの気もあったのか?」

「ありません!」


朝一番に紙屋に出向き大量の紙を仕入れてきた。

「わぁー・・・気が遠くなる。 コピー機ほしい」

「すまぬ・・・」

最後の言葉の意味は分からないが・・・。

「いや、謝らなくていいし。 出来ないものは出来ないんだから」

一応、昨日マツリと杠が紫揺の似面絵を真似て描いてみた。 マツリ杠ともにガマガエル武官とは一味違う芸術的なものだった。

「マツリの出来ないコトを一つ見つけて面白いくらいだし」

「だから、万能ではないと言った」

しゅっしゅと、マツリが墨をすっている。 お手伝いできるのはこの程度である。

「いま杠が文官に描き手がいないか訊きに行っておる。 一人でもおればこの半分になるんだがな・・・」

「いつまでに描き終わったらいいの?」

「言ってみればこの紙でも足りんくらいだが・・・」

今日で決起が動くまであと五日。

「宮の者にも描き手がいるかもしれんか・・・。 今日、宮に飛ぶ。 紫は取り敢えずそれまでに描けるだけ描いておいてくれ」

「朱墨」

「ん?」

「とっとと朱墨をすって」

似面絵を描く墨はもう十分にすれている。

「あ、はい」

「ここの文官さんが描いた似面絵は、私がチェック・・・確認できるけど、宮の誰かが描いたものを私は確認できない。 全く同じに描ければいいけど、描いたうえではちょっと違うだけでも、本人と比べると面差しが違って見えるものなの。 だからここだけは、ってとこに朱墨で注意書きする」

時間が惜しい。 既に描き始めている。

「はい・・・」

その後、紫揺が描き終えた全ての似面絵と、朱墨が入った一枚を手に宮に向かって飛んだ。


男達が杉山からやって来た。

「官吏さん」

「はい」

振り返ると巴央と以前頭と思しき男と思っていた男が立っていた。
京也か巴央からの連絡があるとしたら、杉山にいる者たちがやってくるこの時に接触するしかない。 それだけに官所に居る間は出来るだけこの時に姿を現すようにしている。 マツリが出た後、紫揺のことが気になりながらも置いて出てきたが、どうしたというのだろうあまりにも露骨な接触ではないか。

巴央が頭と思しき男、將基(しょうぎ)の脇を肘で突く。

「ほら、言いな」

將基が顔を歪めている。
あの時、巴央が声を低くした。

『うざいんだよ』

とうとう限界がきた。

『オレが力山に言われて最後尾を歩いてた? ふざけんなよ。 なんでオレが力山に言われるがまま動かなきゃいけない。 オレを見下してんのか』

今までの態度を一転させた巴央から將基が目を外した。

『・・・悪かった。 宮都からの奴かと思ったからだ』

『は? ・・・どういうこった?』

將基が何でもないというが、簡単に終わらせる気はない。

『おい、勝手に疑っておいてそれはねーだろうよ。 オレの納得できる話をしてもらおうか』

渋る將基を何とか吐かせたが聞き逃せない話であった。
それはまだマツリが来るずっと前のことだったと言う。

やさぐれながら呑み屋で呑んでいると声がかかってきた。 本来なるべきだった六代目本領領主の直系、その後ろ盾をしないか、と。
その時は本気にしなかった。 隣に座ってきた相手の椅子の足を蹴り上げて返事としたが、今こうしてマツリの指示のもと動き始めて変わってきたことがあるのには気付いている。 己自信も、己と同じやさぐれどもも。
その時のことはとっくに忘れていたが不意に思い出した。 それに後ろ盾とはどういうことだろうかと。

思い出したきっかけを作ったのは京也と巴央であった。
声をかけてきたのは六都では見かけない奴だった。 官吏たちと似た口調・・・多分、宮都の者。
だから六都で見かけなかった巴央と京也がそいつの仲間かと思った。 杉山の者を怪しい道に引きずり込もうとしているのではないかと。

『確かにオレはそんな奴じゃない。 だけど、おい・・・』

『ああ、杉山の者が巡回をしている。 夜に。 いつまたオレみたいに声をかけられるか分かったもんじゃねー。 だがまぁ、随分と前のことだ、今もそんなことをしているのかどうかは分かりゃしないがな』

『・・・官吏に、官吏にその話をしようぜ。 せっかく真っ当に・・・ああ、いや、真っ当でなくてもいい。 だがオレたちは仲間だ。 一緒に学び舎もここも、屋舎も建てた。 毎日同じ飯を食ってる。 一人でも外れる奴を作りたかねー。 その、後ろ盾? それが何の意味か分からねーが、官吏の頭で考えるだろうさ。 それに領主がどうのこうのなんて、何かに巻き込まれでもしたら大事になっちまうかもしんねぇ。 オレたちは仲間を守る。 人っ子一人オレたちから外させねー』

お互い “後ろ盾” の意味が分からなくはない。 “本来なるべきだった六代目本領領主の直系” その後ろ盾。 具体的にどうするのかは分からないが、剣呑だということは肌で感じる。

『官吏が信じるか?』

杉山で働いている者の話を。

『あの官吏、自警の群を作った時の。 それか・・・なんてったっけ、箪笥を見せてくれた官吏。 あの二人の内どちらか。 あの官吏たちだったら分かってくれる』

杠か帆坂。 こんな話は杠に限らなくてもいいだろう。 それに將基はマツリが六都に来るずっと前の話だと言っていた。 杠は時々見かけないときがある。 少しでも早く伝えなければ。

「顔は覚えていますか?」

紫揺が言っていた話と同じだ。

「うろ覚えだが・・・見れば思い出すと思う」

「似面絵があります。 一緒に来て確認していただけるでしょうか」

本気にしてくれたらしい。

巴央が顎をしゃくって、行けと促す。
向かったのは宿ではなく分官所の分官所長室。 描き手が増えた。 文官二人が自分の席で描いている。 何枚かに一枚、絵が崩れてきていないかを紫揺が確認しながら文官所長室で自分も描いている。
部屋の戸は開けっ放されている。
將基を連れた杠が入ってきて紫揺の描いた似面絵を見せる。

「いや、違う」

溜息を吐きそうになって寸でで止めた。

「顔も違うし、ここ。 ここに大きな黒子があった」

右の眉の上あたりを指で押さえた。

「そうだな・・・親指の爪くらいの大きさだったと思う」

かなり特徴的だ。

「念を押してお尋ねします。 官吏と同じような口調だったんですね?」

「ああ、間違いない」

「承知しました。 その時になれば頼みます。 ご足労有難うございました」

ご足労・・・そんなこと言ってもらったことなどない。 それにどうして坊がこんな所で似面絵を描いているのか不思議に思いながらも、面映ゆい顔で官所を出た。

杠と將基の話を聞きながらずっと手を止めることなく描いていた紫揺。

「怪しい人が増えたの?」

「そうみたいだ」

「官吏さん?」

「多分」

「ここの、じゃなくて?」

「ここでは見かけないと言っていたし、今も知らない顔をしていた」

文官所長の部屋に入るには、文官が仕事をしている部屋を通らなくてはならない。 それに大きな黒子のある者などいない。

「ん?」

「どうした?」

朱墨の筆に持ち替えると、文官が描いた少し崩れてきた似顔絵のチェックを始める。 描かれた似面絵の上に朱墨で描き直そうとして筆を止め硯の上に筆を戻すと人差し指でこめかみをグリグリし始めた。

「どっかで見たような・・・」

「え?」

「ここに黒子。 大きな黒子」

右の眉の上を人差し指で押さえた。


執務室の外から声がかかった。 中にいた尾能が立ち上がり、四方の後ろに立ち斜め前に座っている文官に聞こえないように小声で言う。

「マツリ様が茶室でお待ちで御座います」

執務中だというのに茶室。 それに紫揺が会いに行っているというのに。
何かあったか。
無言で立ち上がると執務室を出た。 心得ている尾能は立ち上がりかけた従者たちの足を止め、三人だけを指名する。

「あとの者は控えの房で待っているよう」

三人を引き連れて四方の後を追い茶室に向かうが、随分と離れた所に三人を座らせた。
四方の前にすすっと入って茶室の襖を開ける。 そのまま外に座そうとしたがマツリがそれを止める。

「尾能も聞いて欲しい」

時間を無駄にしたくない。
尾能が四方を見ると四方が頷いてみせたのを受けて襖内に座る。

「茶は」

「いりません」

すぐに紫揺が聞いてきた話を始めた。
尾能が驚いたように目を大きく開けている。

「ご存知でしたか?」

「・・・随分と前にそれらしいことを聞いたと百足から報告があった」

やはり百足は耳にしていたのか。

「だがそれ以上は分からなかった」

杠は人前に出て探りを入れるが百足はそうではない。 影で動く。 杠なら声をかけられれば、それに乗ったふりをして探ることが出来るが百足には出来ない。 それに又聞きや噂であればそれを最初に口にした者を簡単に特定できるものではない。 特定さえ出来れば動けたのだろうが。

「・・・また紫か」

「それほどお厭ですか。 護衛を二人だけしか付けない程に」

隠せない剣を声に乗せる。

「紫が断っただけのこと。 ましてや道案内の一人だけでいいと抜かしおった、無事に着いたようだな」

「はい」

「何事もなくか?」

「特には聞いておりません」

チッ、と四方が舌打ちしたのは気のせいなのだろうか。 だが今は紫揺のことで時を取っていてはいけない。 脇に置いてあった何枚もの似面絵を四方の前に置いた。

「これは?」

「紫が描きました。 今も描いております。 これが、しばさきという官吏だそうです。 顔に覚えはありませんか?」

片手で似面絵を持ち、もう一方の手で顎をさすっている。

「ふむ。 上手いものだ。 よく似ておる、というか、そのものか」

「ご存知で?」

持っていた似面絵を尾能に渡すと尾能も知っていたようで、ほぅー、っと声を上げている。

「工部の者だ」

「工部?」

似面絵を置くとすっと襖を開けて尾能が出て行き、少しすると戻ってきた。 離れた所に待たせていた従者に柴咲の確認をさせに走らせたようだ。

「柴が咲くと書く。 この者は確か・・・」

どうだった? と尾能を見る。

「領主筋では御座いましたがもうかなり薄いかと。 六代目が取り上げられた権利を一部、四代前がお戻しになりました」

はるか昔の六代目が取り上げた権利。 領主筋を取り上げ尚且つ民草以下とした。 当時は官吏などとは無かったが、それに相当する役どころはあった。 領主筋はそのお役に就くのが誉とされていたが、それに就くことを取り上げたということである。
そしてこの時代、民であれば官吏にもなれるが、民以下なら官吏にもなれなければ商売をすることも出来ない。 それを領主筋までとはいかないが、四代前が民まで戻した。

「他にもそのような者が官吏になっておるのか?」

「申し訳御座いません、存じ上げません。 私がこの者のことを知ったのは偶然で御座います」

知り合いの娘がこの男に一目惚れをした、と兄から聞かされて身元を調べただけであった。
尾能から顔を移したマツリ。

「その筋の者が官吏の中に居るのかどうか、式部省に問い合わせればわかるのですか?」

「いや、分からん。 百足から聞いた時に、そのような者たちを探そうとしたが、四代前が何もかもを消されておった。 民にまで上げた、これ以降何も必要なかろうと、それで十分だろうと過去の跡を一切な。 尾能がよく調べたものだと思う程だ」

「本当に偶然、調べられただけで御座います」

分かるのならその者たちを確保しようと思ったが、そう簡単にはいかないようだ。 仕方がない、進めるところは進めなければ。 どうしてこの似面絵を描いたのか説明を始めた。

「また・・・紫か」

「どれだけお厭ですか」

「そういうわけではない。 意外と知恵が回るのだな、と思っただけだ」

そんな言い方ではなかっただろう。

「各都に似面絵をまわす御許可を頂きたいのですが」

「ああ、今はそれしかないか」

四方の返事を聞くと尾能が膝で進んできて四方の前に置かれた似面絵の束を手にする。

「どちらから回しましょう?」

「昨日の時点で六都、ということは・・・」

「今頃は五都か七都・・・で御座いましょうか」

「先ほどの話では、五六七八都は一二三四都にゆっくりと入るということだったな?」

「はい」

「この枚数では・・・五六七八都は諦め一二三四都で動けなくさせるしかないか。 各都に一枚ずつ武官所に配り、残りを・・・まずは三都に貼りつける」

「承知いたしました」

四方に向かって言うと今度はマツリを見る。

「他に御座いますでしょうか」

己は茶室を退いてもいいかと訊いている。 尾能自ら武官舎に行き早馬を走らせる手立てをするのだろう。

「この似面絵を写し描きできる者はおらんか?」

枚数が少ないのだ。 マツリが何を言おうとしているのかは分かる。
首を傾げかけた時、襖外から声がかかった。
尾能が少し襖を開けて聞くと短い内容だったのだろう、すぐに襖を閉めた。

「柴咲は昨日の朝に一度顔を出しただけで、その後に居ないそうです。 今日は出仕していないようで、昨日も今日も無断ということです」

もう官吏の職に用は無いということか。

「四方様、先程マツリ様が仰られたことで御座いますが、一枚だけこちらに頂いても宜しいでしょうか」

誰かに描かせてみるということ。 それが単数なのか複数なのか。

「構わん」

四方の返事を聞くと、マツリが朱墨の入った一枚の似面絵を尾能に渡す。

「紫からだ。 描き写す際の指示が書かれておる」

「有難うございます。 紫さまはご用意周到で」

チラリと四方を見ると、ブスッとした顔をしている。 笑いが漏れないように口を引き絞ると茶室を辞した。

「すぐに武官を戻せるか」

「致し方ありません」

「やってきたことが泡となるか」

「・・・少々戻ったとしても・・・泡にはなりません」

「そうか。 この事、他に策を考えておるのか」

「昨日の今日です。 それも夕刻に紫が持ち帰った情報です」

「紫に問うたが、何をしにマツリの元に行った」

「それは・・・。 そう言えばバタバタしていて聞いておりませんか」


バタバタバタと紅香が走ってきた。

「え? マツリ様が戻ってこられているの!?」

「せっかく紫さまがマツリ様の元に行かれたのに?」

「ええ、茶室に入って行かれる所を見たの」

「そんな! すれ違いもいいところじゃないのー!」

お二人にはご縁が無いのかしら・・・。 心の中に暗雲が立ち込めていった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第163回

2023年05月05日 21時03分56秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第163回



床下で聞いていた話を思い起こしながら話し始め、そして話し終えると丁度、膳が運ばれてきた。 紫揺がもくもくと食べ始めた一方で、マツリと杠が眉を寄せている。

「決起とはそういうことだったのか・・・それらしい動きを剛度の女房が見たということか」

絨礼と芯直から聞いていた決起、それは六都内でのことだと思っていたが宮を襲うということだったのか。
六日後には動く、ということはあと五日。 今日はもう終わっている。

「あ、それでね、最後に入ってきた、しばさきって人の声をどっかで聞いたことがあるなぁ、って思って顔の確認をしたの」

紫揺が耳にする声など範囲が知れている。 まさか、といった目をして二人が紫揺を見た。

「ほら、沢山本を読ませてくれた時があったでしょ?」

紫揺が額の煌輪によって倒れたあとのことである。

「あの時に読み疲れて夜のお散歩に出たの。 そしたらフラフラ~って知らない所に行っちゃったみたいで、その時に官吏さん、えっと文官さんにぶつかったの。 その人だった」

やはりか・・・。

「間違いはないのか」

「うん。 何の先入観も持たないで顔を見たんだから間違いない。 その時のことを忘れてて顔を見て思い出したくらいなんだもん」

「しばさきと言ったな?」

「うん」

「杠、知っているか?」

杠が頭を巡らすが片隅にも覚えがない。

「いいえ、記憶にありません。 己が知っている文官は宮内に出入りしていた文官の一部だけです。 紫揺も言っていたように夜であったのなら、宮内に入って来てはならない文官だった可能性もあるかと」

「何処でその文官とぶつかった?」

「え・・・それは分からない。 考え事をしてたからどこをどう歩いてたか。 とにかく知らない所だったから、そのしばさきって人が私の分かるところまで送ってくれたの。 ここから分かるって言ったら、しばさきって人も丁度ここからは分からないから良かったって言ってた」

「何処にいたか分からないか・・・」

何処を探っていたのか。 だが少なくとも今の紫揺の話からは、四方たちが生活をする宮内の奥にまでは入ってこなかったようだ。 紫揺は大門に近い客間から四方たちの部屋までを知っている。

「文官の仕事部屋でしょうか」

「若しくは父上の執務室。 いずれにしても金狼印を探していたのだろう」

紫揺がヒョイと眉毛を上げた。 マツリの口調が柔らかい。
“おった” とか “おろう” という言葉が出ていない。 紫揺と話していた時、前にも感じたことがあったが、この数回はまた言葉が戻ってきていた。

(なんでだろ)

「今から飛んだとしても、しばさきが何処に向かったのかは分からん。 探そうにも顔を知っているのは紫だけ・・・」

「まずは、しばさきを押さえ、事が運ぶのを止めるのが先決とお考えですか?」

何を言いたいのかとマツリが眉を上げる。

「紫揺が潜り込んだ家の主を別件で取り押さえる、というのはいかがですか?」

「別件?」

「ええ、何でもよろしい、無理矢理に作ってでも。 そこから吐かせれば」

「吐く保証はない、その上に期限が切られている。 それに吐かせたとて六都だけを止めるに過ぎん。 他の都の動きを止められん。 今の紫の話では、しばさき以外は他の都の誰が動いているかは知らないようなのだからな」

「ですが、しばさきを探すことは出来ません」

どこの都に向かったのかも分からなければ、誰の家に向かったのかも分からない。
マツリが渋面を作る。

「御馳走さまでしたー」

気の抜けるような声がした。 続いて。

「それこそ似顔絵、じゃなくて似面絵を描こうか?」

は!? っという、鳩が豆鉄砲を喰らった顔二つ。

紫揺の行っていた葵高校は、特進科、スポーツ科、芸術科、普通科とあった。 その中で特進科と普通科はそれぞれの科だけの男女混合のクラス割りだったが、スポーツ科と芸術科はクラスに混在していた。 そしてクラス自体は女子クラスと男子クラスに分かれていた。
紫揺はスポーツ科だった。 そして紫揺の居たクラスには芸術科の美術専攻のクラスメイトと、音楽専攻が居た。 休み時間には美術専攻のクラスメイトから、似顔絵や色んな絵の描き方を教えてもらっていた。
それにこの地での書き物は筆。 筆の扱いには慣れている。 小さな頃から書道師範の手前までいった父親に教えてもらっていた。 草書体も書くくらいなのだから。

「あの似面絵より随分とマシだと思うよ? それをあっちこっちに貼り付ければ・・・うーん、何か言葉を添えて。 そしたら、しばさきって人、動きにくくなるんじゃないかな」

何か言葉を添えて・・・それは日本で言うところの『指名手配』 とかと言いたかったが、この領土ではなんと言うかが分からない。

「いや・・・あれよりマシ程度では」

「取り敢えず人であると分かる程度では無理だろう」

「人のこと馬鹿にして・・・。 墨! 墨と筆と紙! 用意して。 今すぐ!」

ビシッと人差し指を向けそのままその手を戸に向ける。
紫揺に怒鳴られ指をさされ、すごすごと出て行ったのはマツリであった。

さらさらさら。

用意された筆に墨を付けると紙に似面絵を描き出した。 描いている途中からその顔が誰か分かった。 特徴をよくつかんでいるというより、そのものに見える。
またもや二羽の鳩が出来上がった。

「はい、出来上がり」

鳩がポッポポッポと互いを見合ったり、紙に描かれた似面絵を見ている。

「・・・芯直と」

「絨礼・・・」

似面絵には二人が顔を寄せてプンスカ怒った顔が描かれている。

「初めて会った時こんな顔してた。 急いだから結構手抜きだけど、何枚も描くんだったら、これと同じくらい手抜きになる。 それでもいい?」

「いや・・・想像以上っていうか」

「そのものではないか・・・」

「これで少しは動きが制限されるだろうから、六日っていう期限は延ばせるかもしれないし、上手くいったら捕まえることが出来る、かな? それとも無駄になるかもしれないけど、何でもやってみなくちゃ分からないしね」

「あ、ああ・・・。 ではこの事は紫に頼む」

ポカンとしかけた二羽だったが、すぐに紫揺から叱責が飛ぶ。

「それなら、マツリ! ボケッとしてないで紙! もっと紙持ってきなさいよ! 紙!」

トイレットペーパーが切れたように叫ぶ紫揺である。 最初にマツリが持って来たのは一枚だけであったのだから。
次期本領領主を顎で使う。 武官たちが言っていた尻に敷かれているのは、あながち間違いではなかったようだ。

宿からかき集めてきた紙を紫揺の前に置くと、さらさらと描き始める。
ボケッと見ていてはまた紫揺から叱責が飛んでくるかもしれない。

「その家の主をどんな別件で捕まえる」

杠が顎に手を当て考える。

「描いているところを悪い、その家というのは商家か何かだったか?」

六都では殆どが店を構えていればそこが住居となる。 それは大店にしてもそうだ。 大店であれば店奥に離れもあったりする。

「しょうか? 商売ってこと?」

杠が頷く。

「うううん、普通の家」

さらさらさら。

商家なら帳簿閲覧をして正しくやっていようとも、難癖をつけようと思ったが、そうはいかなかったようだ。

「我の足を蹴らせようか」

本気で言っているのかどうかわからないが、家の主が歩いているところにマツリが足を出せば、マツリが主の足を引っかけたというより、マツリの足を蹴ったという形になる。 それはマツリの立場があるからであって、他の者に出来ることではない。

「家から出てこなかったらどうするの?」

さらさらさら。

描きながら言ってくれる。
そうだ、いちゃもんをつけようにも家から出てこなければ、いちゃもんのつけようがない。 そしてもう一つに気付いた。
その家を知っているのは紫揺だけだったと・・・今更にして。
今回のこと、紫揺が居なければ宮は襲われていただろう。 それをつくづくと感じた。

六都の民の異変に気付かなかったと杠が落ち込み、そしてマツリは、百足は気付かなかったのか、それとも気付いて四方に報告がいき、既に手を打っているのかと思案するが、この時まで四方からの連絡が無い、百足は気付いていないだろうと、無意識に唇をかみしめた。

「紫」

「ん?」

「手が疲れたら、その者の家を教えてくれ」

「うん」

手を止めることなく返事をする。 その時にはいい休憩になるだろう。

「似面絵の上下にスペース・・・隙間を作っといたから、乾いたら何か書いといて」

『指名手配』 とか。

描きあがった似面絵を見る。

「ふむ、なかなかの・・・」

「良い顔ですね」

「うん、夜だったけど光石に照らされてよく見えたよ。 声は心に沁みるような優しい声だったし、顔も爽やかな感じだった」

言ってしまえば男前を描いている。

「マツリ様が書かれるのは朱墨の方が宜しいでしょう。 持っているか宿の者に訊いて参ります」

描きながら杠の声を耳に入れた。 ここでもそれなりに書く文言があるようだ。
手を止めることなく、さらさらさらと描いている紫揺の手元を見る。

「上手いものだな」

「高校の時のクラスメイトが教えてくれたの、美術専攻でイラストが得意な子。 って、何言ってるか分からないよね」

「ふっ、そうだな。 “教えてくれた” と“得意” しか分からん」

さらさらさら。

いつも紫揺はこんな感じで会話を聞いているのだろうか。 とくに宮には宮だけの言葉もある。 言葉だけにも寂しさを感じていたのだろうか。

「ね、どうして口調・・・言葉って言う方がいいか。 私と話している時の言葉、どうして元に戻ったの?」

何のことかとマツリが首を傾げるが、ずっと手元を見ている紫揺にはその様子を見ることは不可能である。 だがマツリからの返事が無い。 何を言っているのか分からないのだろう。

「ほら “我は知っておる” とか “知っておろう” みたいな言い方。 前に一度、そんな言い方をしなかったのに、今みたいに杠と話している時みたいに言ってたのに、またそんな言い方をしてた。 そんな言い方っていうのは嫌だから言ってるんじゃないけど、どうしてかなって」

さらさらさら。

「ああ、そういうことか」

「びゃ! 失敗!」

紙をクシュクシュと丸めて次の紙を取る。
かなり心乱れている。 それほどに気になったコト。
紫揺の様子を見ていて微笑む。

「我が・・・心張らずに居られるのは杠だけだ。 だがうっかり、紫にもそういう話し方をしたのだな」

「・・・うっかりって」

さらさらさら。

マツリが大きく息を吸った。

「我の意識のないところ・・・それほどに紫に心を許しているということだ。 だが紫の言うように我の言葉が戻ったのは・・・」

クシュクシュ。
描いていた紙を丸める。

「紫が・・・我の手の中で・・・」

ギュッギュ、握りしめる紙がどんどん小さくなっていく。

「幼子のようだったのかもしれんな」

「はぁぁぁ!?」

「紫は・・・何も知らなかっただろう?」

何もって・・・なに。

「うっかりだ。 幼子に教えるように話してしまっていたようだな」

幼子? どうしてだ。
だからおムネが小さいんだ、とでも言われているようだ。
ムカツク。

「どういうこと?」

マツリが眉を上げる。

「あの時の紫は幼子・・・だった」

「はぁ?」

あの時? どの時? 何月何日、何曜日、何時何分。 何年前に勝手にマツリが時空を飛んだ?

「それからの紫は・・・教えてやらねばならなかった」

「教える? 何を?」

全く見えない。

「我がどれだけ紫を想っているか。 紫が我をどれだけ想っているか」

「・・・」

紫揺の手元を見る。

「究極を言ってしまえば、紫の父上と母上のお気持ち」

ギュッギュする手が止まった。
杠が戸を開けようとしていた手を止めている。

「そっか・・・そういうことか。 マツリは・・・杠に心を許してて」

一つ息を吸って続ける。

「で、私のことは幼子と思ってるんだ」

教えてくれた。 父と母の気持ちを。

「い、いや、そうではない」

「だったら何?」

手の中で丸めた紙をマツリの顔に投げつけたが、しっかりハッシと受けられてしまった。

「絶対に私のことを “お姉さんみたい” って言わせてやるから!」

それは無理だと思う、と思ったのはマツリだけでなく、戸の外に立つ杠もだった。 そして紫揺の境遇を聞いたうえで、己の両親のことをマツリと話したことが頭をかすめる。

(お父と・・・お母のことを。 いつまでも考えていては・・・引きずっていては・・・幼子か)

伏せていた顔を上げて戸を開けた。


夜陰に二つの影が走っている。
流れる雲が時折月を隠すが、街灯代わりの光石が武官の姿を視界に入れ、あちらこちらで点灯している。
武官を避けながら走ってはいるが、それでも武官の通り過ぎたあとの光石はしばらく点灯したまま。 足元がよく見える。

「地下を思い出すね」

いかにも嬉しそうな顔を向けてくる。
そう、二回目に地下に潜った時、二人でこうして走った。

「疲れてないか?」

宮都から馬で駆け、そのすぐ後に今向かっている男の家の床下に潜り、その後にはずっと似面絵を描き続けていた。

「いい気晴らし」

振り返った額には、光石に照らされた額の煌輪が光っている。

「それに楽しい」

塀を上ったり、大きな庭石を跳んだり、木に上ったり、跳び下りたり走ったり。 それも杠と一緒に。

(本当に好きなんだな)

紫揺は障害物が目の前にあると、跳び越える、駆け上るなどとして避けるということが無い。 それによく見ていると、走りながらにも関わらず目測で距離を測り小走りになることなく、歩幅が合わなければ二三歩を少し大きく出し調整し跳び越えている。 紫揺のそれは単に好きなだけではなく、経験があるということだ。

(いったい東の領土でどんな生活を送っているのか)

思いながらも、一越えする度に喜んでいる紫揺が愛おしくてたまらない。
その紫揺は時折杠を振り返っては笑っている。
二人が宿を出る前、ようやく筆を置いた紫揺が言った。
迷い迷い官所にやって来ていた。 よって官所から直接床下に潜り込んだ家の場所が分からないと。

『ね、杠があの子たちの頭を撫でていた所に連れて行って。 そこからしか分からない』

だから武官と別れた時の木に上り、人家の裏庭を走り抜けるところからスタートをした。
月明かりだけではない、光石がある。 木の上に上って男を追っていた方向も分かる。 小路にも光石が点灯している。 男が入っていった家が光石に照らされている。

「あの家」

木の上から指さす。 一つ下の枝に立つ杠が指先を見たが、一軒の家を特定するには難がある。

「こんなことをして追わなければいけなかったのだったら、芯直と絨礼には無理だっただろうな」

「ふーん、そんな名前だったんだ」

そう言えば、少年の似面絵を描いた時にそんな名前を言っていたかと思い出す。

「ああ、俺と同じに朧と淡月って名もある」

「淡月・・・ん? 朧だけ? 朧月じゃなくて?」

「朧月って書いたんだけどな、俺と同じ一つだけの字がいいって言って月を取った」

「へぇー、杠が名付け親なんだ」

「考えてくれって言われてな」

照れ臭そうに頭の後ろを掻いている。
朧・・・そんな字などついぞ書くことが無い。 どんな風に書くんだったっけ、と思いながら「あの家に行こうか」と言って木を跳び下りた。

夜に出歩くなと言われたマツリが、イライラしながら墨が乾いた紙の上に『科人の疑い』下には『武官に知らせよ』 と朱墨で書いている。

「杠め、なんだかんだと言いながら、紫を独り占めしおった!」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第162回

2023年05月01日 21時03分43秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第160回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第162回



朱色の革鎧を着た武官が、手を震わせながらマツリの前に似面絵を差し出す。
差し出された似面絵受け取りもう一度まじまじと見てから武官をジロリと睨め付け、ガマガエルの額を指さした。

「これはなんだ」

問われた武官が黄翼軍六都武官長をちらりと見ると頷いている。 話しても良いということである。

「はっ! 護衛をしていた者が言うには、飾り石をお着けになっておられたそうです」

話は本当らしい。 だがどうしてガマガエルの額に額の煌輪を描かなくてはならないのか。

「詳しい話を聞こう」

詳しくと言われても長々と話す話ではない。
二人の護衛を連れ宮を出てきたが、六都に入り中心までやって来た時、急に馬の手綱を護衛に預け、鞍の上に立ち上がるとそのまま木に登って消えたというだけである。 だが話を作るわけにもいかずそのままを伝える。

聞き終えたマツリが額を押さえる。
間違いない、紫揺だ。

「護衛をしていた者からの説明でお探ししております」

たった二人しか護衛を付けなかった四方が何を考えているのかは分からないが・・・。

「もしかしてこれは紫か」

似面絵をヒラヒラとさせる。

「あ・・・その、己らは紫さまのお顔を知りませんでしたので・・・」

「・・・こんなガマガエルを追っていて捕まるものか」

似面絵をたたみ懐に入れる。 杠に見せてやろう。
辺りを見まわすとどぶ板がひっくり返され、塀沿いにあった色んなものが散乱している。 木の枝などは打ち折られたようになっていて、その下にはいい迷惑だったであろう葉が水溜りヨロシク葉溜まりを作っている。

(紫がどぶ板の下に居るとでも言いたいのか・・・)

振り返ったマツリが黄翼軍六都武官長に言う。

「事情は分かった、紫は探さんで良い。 それより片付けろ」

「は!? お探ししなくていいと?!」

「紫なら・・・一人で戻ってくる」

「で! ですが! ここは六都で御座います! どんな輩が転がっているか!」

「地下に入ったこともあるのでな。 地下に比べれば何ということは無い」

「は? ・・・ち、地下?」

宮都の武官なら一部は知っている話だが、この六都の武官たちは知らない。 応援に来ている宮都からの武官たちが知っているのかどうかまでマツリは知らないが、秘密裏に行われたはずであるから誰も口にしていないであろう。 黄翼軍六都武官長が知らなかったのだからそれがいい証拠である。

「ただ・・・紫はこの六都を知らん。 我を訪ねるものがあれば我の元に連れてくるよう」

「本当に・・・宜しいのですか?」

「何度も言わん」

「・・・護衛の者の処分は」

懐からもう一度ガマガエルならず、紫揺の似面絵を出した。

「これを描いたのはその護衛だな」

「はい」

「せいぜい・・・侮辱罪」

武官たちがざわめいた。 あの絵を見てそれはそうだろうが、だからと言ってそれは厳罰過ぎる。 絵師が描いたものでは無いのだ、武官としての職の咎めから逸脱しているのではないか。

「・・・と言いたいが、紫に決めさせよう」

『と言いたいが』・・・完全にマツリがこの似面絵に対して怒っているということだ。

「片付けをして各自持ち場に戻るよう」

これだけの人数。 夜の番の者もかり出されたのだろう。

黄翼軍六都武官長が踵を鳴らす。 それに続いて武官たちも踵を鳴らし礼をとると、片付けに入る者、まだこの事を知らない者たちに告げに行く者とに分かれた。

マツリが歩を進め屋舎に入ろうとした時、杠の声に止められた。
杠がマツリの元に走り寄るまでに、武官たちがあちこちで片付けをしているのが目に入った。
ネズミかイタチが見つかったようだ。
駆け寄ってきた杠が耳打ちをする。

「可笑しなことがありまして」

「なんだ」

「紫揺のような者が朧と淡月に接触したようなのですが」

マツリが目を細める。
さっき黄翼軍六都武官長は『護衛の武官を振り切って逃走』 と言っていた、言いかけていた。 だがどうして芯直と絨礼を知っているのか。

「紫だ」

「は?」

「宮からこの六都に入ったらしい。 護衛二人を振り切って乗っていた馬の鞍の上に上がって木を上っていったそうだ」

「はぁぁぁ!?」

突っ込みどころが多すぎる。 どうしてこの六都に? 護衛がたった二人? 何故木に上る?
懐から似面絵を出して杠の前に差し出す。

「似面絵らしい。 護衛の者以外紫の顔を知らんということでな」

畳まれた紙を広げると、そこにガマガエルが描かれていた。

「こ、これのどこが似面絵ですかっ!」

「俺に怒るな」

「どこのどいつが描いたんですかっ!」

似面絵を握っている手がわなわなと震えている。
やっぱり。
杠のこの状態を見たくてわざわざ手にしていた。 喉の奥でクックと笑う。

「笑い事ではありません! 労役一生! 決まりです! 言い渡して下さい!」

ビリビリと破いて捨て・・・かけて、ごみを出してはいけないと破いた紙片を丸めて手に持った。
それがまた可笑しくて堪えきれず声をたてて笑ってしまった。

「笑い事ですか!!」

近くにいた武官たちがギョッとして二人を見る。
マツリの御内儀様になるかもしれないという東の領土の五色が現在行方不明。 それなのにマツリが大笑いをし、日頃温和な杠が怒鳴っている。 ましてやマツリに・・・。

「極刑! 労役一生! 必ずです!」

え・・・武官たちの動作が止まる。 紫揺を逃がしてしまったあの武官二人のことを言っているのだ。 先程マツリも侮辱罪と一旦口にはしていたが、それより酷いことを杠が言っている。

―――そんなに美女だったのか。

「まぁ、まぁ、落ち着け」

まだ腹を抱えながら杠の腕をポンポンと叩く。

「紫に決めさせればよい」

「み! 見せるのですか! こんな絵を!」

「まず第一に、護衛を振り切った紫が悪い。 武官たちも必死で探していたようだが、いかんせん顔が分からないのであれば、似面絵も描くだろう。 まあ、あの絵では一生見つからんだろうがな」

武官たちが必死で探していた? 書簡でもなければ、ネズミでもイタチでもなかったということか。
だが・・・紫揺を探すのにどうしてどぶ板をひっくり返したり、アリを探すように物をひっくり返さなくてはならなかったのか。

「紫揺はどんな者と思われているのか・・・」

はぁ、と溜息を吐くと怒りが静まっていく。

「接触したとは」

杠の顔が厳しくなり、芯直と絨礼から聞いた話をする。

「男を追って行ったのか・・・」

何故、護衛を振り切ったのかは分かった。

「だがどうしてあの二人を知っていた」

ひとしきり聞いた杠も同じことを思った。 そして何度か訊き返してやっと分かった。
紫揺が『君たちが話してた官吏さんは日頃どこに居るの?』 と言ったということは、杠とあの二人が話しているところを見たということだ。
直接あの二人を知っていたのではなく、杠を通してあの二人を知ったということ。 そして迂闊にも芯直が官吏姿の杠のことを俤と言った。 二人が何をしているのかを知ったのだろう。

「・・・そういうことか」

「官所に来ると思います。 今は二人を官所で待たせております」

マツリと杠が真剣な顔をして話し込んでいる。
あの二人・・・一生労役決まりだな、と、武官たちが遠い目をした。


官所の入り口近くに二人が座り込んでいる。

「来ないねー、おねーさん坊」

紫揺の代名詞が決まったようだ。

「・・・見つかったのかな」

「え?」

「捕まってないよな?」

「・・・」

「あ・・・あんな木登りが出来るんだもんな。 あんなことが出来るんだから、捕まるわけないよな?」

「・・・でもオレ達とそんなに変わらない背丈だし・・・後ろから羽交い絞めにされたら」

簡単に宙ずりにされてしまって逃げるに逃げられない。

「柳技・・・弦月みたいにされたら・・・オレたちのせいだ」

柳技、深入りをし過ぎて六都のゴロツキにボコボコにされた。 痛々しかった身体はまだ目に焼き付いている。
膝の中に入れた顔からポロポロと涙が零れる。

「ごめん・・・要らないことを言った」

芯直も膝の中に顔を入れる。
暫くすると頭の上から声が降ってきた。

「これ、下を向いていてはいけないだろう」

杠だった。
まるで道の端に座り込む坊に声をかけているような素振りで前に立っている。
顔を上げた二人の目に涙の筋が見える。
しゃがんで二人の頭を撫でてやる。 誰が見ても泣いている坊を慰めているようにしか見えない。

「お前たちの見た女人が誰か分かった」

「にょ・・・女人?」

「心配しなくともいい。 紫揺なら簡単に捕まることは無い」

全く何も知らない城家主の屋敷に入って己を助けてくれた。 あの身軽さもあるだろうが、頭の回転もいいはず。 だから己も信じている。
心配が全くないとは言えないが。

「しゆら・・・?」

「杠の知ってる女人だったの? 坊じゃないの?」

「間違いない。 紫揺だ。 もう少ししたらマツリ様もいらっしゃる。 気になるならこのままここで待っていてもいいが今日はもう遅い。 戻ってもいい」

撫でていた手を二人の頭から外すと立ち上がった。
杠の捕まることは無い、という言葉を聞いて幾分ホッとしたが『簡単に』 と言う言葉を聞き洩らしてはいない。 確実ではないということだ。

「待ってる」

「オレも」

曇天の間から見える赤くなっている陽は大きく傾き、あと数刻で完全に身を隠すだろう。 その前にマツリの姿が杠の目に映った。
同時に後方からタッタッタっと走ってくる音がした。 振り返る、と・・・。

「杠!」

間違いなく紫揺だった。

「紫揺!」

あちこちで官所の場所を聞いてやっとやって来た紫揺がドンと杠にぶつかって手をまわす。 杠も応えるように紫揺の身体を抱きしめる。 その拍子に持っていた物を落としたが、気が付かなかった。

「無茶をして」

「そうでもないよ」

「怪我は?」

「ない」

顔を上げて杠を見るその額に目がいく。 前髪をかき上げ額の煌く輪をひたと見る。

(これがガマガエルに描かれていたものか。 紫揺の顔もだが、これもかなり杜撰(ずさん)に描かれていたものだ)

「どうして分かった?」

芯直と絨礼に目をやる。

「杠と一緒に居るところを見たの。 そしたら地下の時みたいな気配が漂ったから。 一瞬だったけど。 だから俤かなって」

「・・・無意識か」

反省しなくては。

芯直と絨礼の前で執り行われている・・・らぶ。 二人が顔を赤らめて下を見た。

「ほんとに・・・女人だったのかな」

目の前にしてもまだ信じられない。

「ってか、オレだってあんな風にしてもらったことないのに」

「え・・・」

「オレの俤なのに・・・」

「それちょっとオカシクない?」

芯直が杠のことを敬愛しているのは知っているが、方向性がオカシイ。

「でも良かったね、無事だった」

「あ・・・うん、それは良かった」

二人が目の前に落ちてきた丸められた紙を拾い上げ、バラバラになっている紙をパズルのように合わせながらぼそぼそと話していると、長い影が二人の姿を覆った。

「いつまでしがみ付いておる」

「あ、マツリ」

マツリがピクリと眉を動かす。
軽すぎないか? 杠には抱きついておきながら。 それに今も尚、杠に抱きついているのはどういうことだ。

「話があるんだけど、その前にお腹空いた。 東の領土で朝餉食べたっきりだし」

「え? 護衛の武官は昼餉をとらせなかったのか?」

言ったのはマツリではない。
杠が怒りの顔でマツリを見た。

「マツリ様! 一生労役など甘い! 一生不眠不休労役!! 宣告してくださいませ! 宜しいですね!」

何のことだと見上げる紫揺に対して、こめかみを押さえるマツリ。
イタイ兄貴だ。

「紫」

「なに?」

なに? 未だに杠にしがみ付いていてそれか。

「兄妹の挨拶は済んだのだろう」

え? と芯直と絨礼が顔を上げる。

グイッと杠から紫揺を引き剥ぐと、腰に手をまわし噂のガマガエルの身体を持ち上げた。

「わっ! ちょ! 何すんのよ」

何すんのよとは、杠との扱いが違いすぎる。

「決まっておる、抱擁であろう」

「要らないわよ!」

どうして。
片手を離すとそっくり返る紫揺の背中を押さえて抱きしめる。

「心配をさせおって」

「心配なんてしてないでしょ! 放してよ」

「何も知らんこんな所でほっつき逃げおって、心配をしないわけが無かろう」

「誰が逃げたって!? 逃げてなんてないわよ! それにほっつきってどういう事よ!」

「我の居らんところで無茶をするなということだ」

「どーでもいい! わ、分かったから下ろしなさいよ」

「紫が我に手をまわすまでは下ろさん」

「ばっ! 馬っ鹿じゃないの!?」

芯直と絨礼の前で繰り広げられる・・・らぶ、なのか、罵倒なのか。 だがどうして罵倒? マツリに対して。
マツリは今この六都で一番偉い人なのに。 それどころではない、本領で二番目に立場の高い人物だ。 それに、それなのにどうして杠の妹が?
だがそれを聞いていたのは芯直と絨礼だけではなかった。 辺りを片付けていた武官も耳を大きくして聞いている。

「紫・・・って仰ったな?」

「ああ、確かに」

「ではあの方が・・・御内儀様になられるかもしれないという?」

「・・・完全に・・・尻に敷かれておられるのか?」

「いや、どっちかってーと、じゃじゃ馬っぽくないか?」

「言えてるな。 尻に敷かれてるってのは違うな」

「ってか、さっき官吏が言ってた・・・」

一生不眠不休労役・・・。
遠目ではっきりと顔は見えないが、ガマガエルではないことは確かだ。 マツリと杠がここに来るまでに言っていたことは既に聞いていた。 一生労役と聞いていたが、昼餉を食べさせなかったことで咎が加算されたようだ。
波紋が広がるように口伝えで広がっていく。
それを耳にした紫揺を取り逃がした二人の武官。 泡を噴き倒れてしまった。

混味にしましょうか、などと話しているマツリと杠の後ろで、仕方なくマツリの首に手をまわして解放された紫揺が、芯直と絨礼が不思議なパズルを完成させた前に座り込んでいる。

「これなに?」

芯直と絨礼と同じようにしゃがみ、出来上がったパズルを見ている。 全く同レベルの坊が三人いるようだ。

「さぁ、杠が落としたけど」

何気なく振り返ったマツリ。 思わずプッと噴き出した。

「それは紫の似面絵だ。 それを元に武官たちが紫を探しておった」

「に、づらえ?」

にづら・・・と考えて、にづらえとは似顔絵のことだとわかる。

「はぁ? これがぁ!?」

「一生探せなかっただろう。 軽くても侮辱罪。 紫から罪状を言い渡すがいい」

「いや、そんな権限もってないし」

「では我が言い渡すが? なんと告げよう?」

「そんなことしなくてもいい」

マツリから目を外しもう一度似面絵を見る。
ふむ・・・。 自分の顔はこんな風に人の目に映っているのか。 目で見たまま、それが似顔絵なのだが、そこに感情が入ると見たままではなくなる。 そう教えてもらった。 美術専攻のクラスメイトに。
紫揺が馬の鞍から木に飛び移った。 それが柳の枝に飛び移ろうとする蛙のように見えたかもしれないし、その前に水に足をつけていた。 水場に生息する蛙。 そのあたりで蛙という発想になったのかもしれなかったが、それは描いた武官にしか分からない事である。

杠が紫揺の頭を撫でると「武官長に紫揺が見つかったことを言ってくる」と告げ、武官所に足を向けた。

杠が戻ってくると、結局、混味を食べられる店ではなくマツリと杠の宿泊している宿に向かった。 紫揺が急ぎ内密な話があると言ったからである。
道々、杠が「あの後、張り倒されなかったのですか?」と訊いたが、何のことかと言う顔をしたマツリ。
杠が紫揺を抱きしめるのを見て『抱きしめていたではないか』 とマツリが言ったことに対して、杠がマツリも抱きしめればいいと言った時『張り倒されるわ』 と言っていた。 そのことを言っている。

「抱擁のあとには張り倒されなかったのですか?」

「あ、ああ、そういうことか。 ああ、なかった、か」

官所の前の様子ではマツリの一方的に思われたが、上手くやっているようだ。

宿に戻ると部屋まで三人分の食事を運ばせることにした。 夕餉時と言ってもいいのだからマツリと杠も夕餉をとることにしたのである。

部屋に入るとすぐ剛度の女房から聞いた話をした。

「マツリに伝えてほしいって。 なんか胡散臭い動きが目につくって」

「胡散臭い?」

「うん。 でね、それって今からいう事に繋がってるんじゃないかな」

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