大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第196回

2023年08月28日 21時29分27秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第196回



翌朝しっかりとマツリを見送り、杠と二人乗りで岩石の山に向かった。 馬を下りるとすぐに杠が棚から出してきた硯を持って二人で山に入って行く。
作業場があればいいのだろうが、宿所を建てただけで作業場などない。 もっとも杉山もそうなのだが。

「お早うございます。 今日もお邪魔します」

「お早うっす! マツリ、マツリ様が許してくれたのか?」

「はい。 でもこちらには今日で最後になると思います。 また道具をお借りします」

紫揺の言った “今日で最後” さざ波のようなざわめきが起こったが、素知らぬ顔でノミを取りに行き、昨日と同じ所に座るとすぐに作業を開始した。
杠が何度も宿所と山を行ったり来たりするが、紫揺はずっと座ったままで作業を続けている。

昼餉時にはようやく岡を掘りだしたと話した。 墨を磨る部分である。

「今日中に出来そうだな」

他の者は宿所で昼餉を食べている。 人の耳を気にすることなどない。

「でも磨くのが大変。 昨日もそれで時間取ったし」

「どうして手順を知ってるんだ?」

「うん? 知らない。 幼い時に一度見たことがあるけど、細かいところはあんまり記憶にないから勘」

それに道具も全然違う。

「勘?」

「物を作るって・・・えっと、細かいことは苦手だけど、お裁縫とか。 でも決まった型なんだから削って磨けば出来るんじゃないかなって思って。 それに硯の山の人達と話さなくちゃいけないとは思うけど、同じことをするのにも意味があるでしょ?」

そんな風に考えていたのか。

「東の領土でもあちこち回る時にはその場所によって色々やってる。 お付きの人達に止められる時があるけど」

そうだろうな、根を詰め過ぎだ。 それに今は刃物を使っている。 指に怪我をさせるのではないかと思うと気が気ではない。 足の傷のことが無ければとうに止めている。

「紫揺は東の領土で五色として働いているんだったな」

「働くっていうか・・・声掛け程度だけど」

「そうか、でもそれを置いて六都に来たんだ。 明日はマツリ様と居ろよ。 俺からも明日の一日くらい杉山に行かれないようにお頼みするから」

「杉山について行くだけでもいいんだけどな」

「二人っきりになって話をすることも大切だ」

「そうかな・・・」

でもそうすればあの時のようにドキがムネムネ、じゃなくておムネがドキドキして大きくなるかもしれない。

「そうかもね」

杠の手が伸びてきて紫揺の頭を撫でた。

昼餉後も少しの休憩を取っただけで紫揺はすぐに作業に取り掛かった。 昼餉を食べてから山に戻ってきた者たちが、既に紫揺が作業を始めているのを見て大慌てで作業を開始していた。

掘り終わった後、磨きに磨いて僅かの凹凸もなくした。 指でそっと触れてみる。

「よし、これでいいはず」

だがそこで終るつもりはない。 その為に右端と池の上の部分を空けていたのだから。

「実用的じゃないって言われたらそれまでだけど」

実際掘った岡や池部分はかなり小さい。
彫刻刀に似た物を手にすると、頭の中に描いていたものを掘りだす。

「杠官吏、見てくれ」

「はい」

今日はこれで六つ目である。 段々と慣れてきたのか、今までとは比べ物にならないくらいである。 これからは漆を塗るまでをひと工程とした方がいいかもしれない。 そして今までの物はまとめて漆を塗らなくてはいけない時になってきた。

硯に水を入れ墨を磨る。 どこにも引っかかりを感じない。

「私からしてみれば文句なしです」

「よし。 で? いつ職人のところに持っていくんだ?」

職人に見てもらってからということは皆に話している。 そしてこの男はこれだけではなく今までにも仕上げている。 自分の出来がどんなものか気になっているのだろう。

「そうですね、明日から乾いている硯に漆を塗りましょうか。 それからということで」

「明日か、よし。 墨を塗りつけたらまた作ってくらぁ」

休まないようだ。
紙片を出すと今の男の名前を書く。 墨を塗りつけたらここに持ってくるのだ、誰の物か分かるように棚に置く時に名前を書いた紙片を下に敷く。 そして帳面にも名前を書きつける。

夕刻に差し掛かった。 今日はもうこれで終わりである。 紫揺を迎えに行くと細い砥石とヤスリを使って細かなことをしているようだ。

「どうだ、ですか?」

「うん、出来た。 どう?」

それは単なる硯ではなかった。 池の上から右の横にかけて鈴の花が彫られていた。 何本もの茎の先に鈴の花が咲いている。 鈴の花を模って縁を彫り浮き彫りにしているものと、鈴の花を彫っているものとがある。

「これは・・・」

「小さいし、彫ったところに水が溜まりそうで実用的じゃないけどね」

何のことだと、杠の周りに人が集まりだす。

「これって・・・?」

「模様を入れちゃいました」

男達には思いもしない発想であった。

「杠官吏、見せてくれ」

杠が男に渡すと次から次に男達の手に渡っていく。

「仕上げは私がしておきます」

「うん、お願いね」

「む! 紫さま!」

「はい」

「この硯は・・・どうすん、だ?」

「あ、えっと・・・」

杠に言って仕上がったらいつでもいいから宮に預けてもらうか、六都の宿に置いてもらうかして・・・。 などと考えていると、男が先に声にする。

「き、記念にここに置かせてもらえないか?」

思いもしなかったことを言われてしまった。

「硯の山に? え、あ・・・どうしよう。 記念って・・・上手く作れてるわけじゃないし・・・」

初めて作ったのだ。 後になり手慣れた時に見て笑われるかもしれない。

「杠官吏、杠官吏からも言ってくれや!」

そうだ、そうだ、と男達から声が上がる。
嫌な役回りを押し付けられたものだ。 だが仕方がない。

「いかがですか?」

「上手じゃないから・・・」

「作られた記念に持ち帰られたいですか?」

「うーん・・・それほどでも」

あまり記念と言うものにこだわりは無い。

「ではこちらに置いていても宜しいですか?」

「・・・笑わない? 下手っぴって」

「皆さんどうですか?」

「笑うわけねー!」

「おうさ、誰が笑うもんか」

やっと硯が回ってきた男たちが驚きに目を開けている。 初めて作ったというのに丁寧な仕上がり。 それに自分たちは池や岡を作るだけと思っていた。 それなのに・・・。

「じゃ、それで・・・」

おーっし! 全員が叫んだ。

杠の手に硯が戻ってくると宿所に戻り棚に置いた。 その間に紫揺が挨拶を済ませている。

「また来てくれ・・・下せー」

「そん時までにはオレらも上手くなってるからよ」

「はい、皆さん頑張ってください。 それじゃ、有難うございました」

賑やかに見送られ二人乗りで岩石の山をあとにする。
そしてこの日から岩石の山ではなく、紫揺が口にしていた硯の山と呼ぶようになった。

宿に戻るとマツリが先に戻って麦酒を呑んでいた。

「おや、お早いですね」

マツリを見つけた杠が前の席に座るとすぐに紫揺が杠の隣に座る。 マツリの眉がピクリと動いたのを二人で無視する。
マツリが紫揺を隣に座らせたいのは二人とも分かっている。 杠にしてみればマツリはこの先一緒に居られるだろう。 だが杠は紫揺が御内儀様になれば、今この時しか一緒に居られない。
紫揺にしてみても杠の隣に座りたいこともあるが、こっちの方がマツリの顔がよく見える。

「ああ、あの問題を起こしていた三人が岩石の山に行ったからな。 昨日に続いて今日も落ち着いておったから早々に戻ってきた」

杠と紫揺が目を合わす。

「そんな様子は硯の山では見られなかったと思うけどな。 私が周りを見てなかったからかな?」

「いいや、何度も見に行ったが黙々とやっていた」

マツリが意外な顔をする。

「合うか合わんかか」

「うーん、そうなのかもしれないかな。 誰にも何も言われないからいいって言ってたし」

給仕が注文を取りに来ると『今日のおすすめ夕餉』 を三人で頼んだ。 杠は麦酒も注文する。
それからは今日、岩石の山であったことを話した。

「へぇー、その様なものを紫が作ったのか、見たいものだな」

既に前に並べられていた『今日のおすすめ夕餉』 に箸を動かしながら聞いていた。 相変わらず日本の定食によく似ている。 言ってみれば生姜焼き定食だろう。

「仕上がりましたら一度宿に持ち帰りましょう」

「見なくていいよ。 マツリみたいに器用じゃないんだから」

「いや、大したものだったぞ?」

「いいってば。 それよりマツリ明日も杉山?」

「ああ、そうだ」

「マツリ様、あの三人が居ないのであれば、明日くらいは紫揺と一緒に居られれば如何ですか? お二人でどこか・・・特に景観を見に行くようなところはありませんか。 市にでも行かれればいかがですか?」

「市は・・・どうかなだけど、そうしよ、マツリ」

どういうことだ。 紫揺がそんなことを言うはずがないのに。

「・・・何を企んでおる」

「あ、なにそれ」

「・・・マツリ様、どうぞ素直に」

マツリが杠に半眼を送る。

「無いものを訝しく思っている間に紫揺は東の領土に戻ってしまいます。 それに己も紫揺も何も企んでおりません。 今日岩石の山の帰りに、明日一日くらいはと話をしていただけです」

「・・・」

「うわ、完全に拗ねてるし」

四方の子供に間違いなさそうだ。

「拗ねてなどおらんわ」

己の知らない所で勝手に明日の相談などしおって、などとは絶対に思っていない。
結局

「では行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

二人乗りで馬に乗って杉山に向かうこととなった。 様子を見て落ち着いているようならば、三十都(みそと)まで足を延ばし景観を楽しむことにした。 いわゆる同伴出勤後のデートである。
紫揺の足の傷は無理をしなければそれで良いが、一人で馬に乗って三十都まで行くとなると不安がある。 まだ薬草をつけているのだから。

「三十都っていう所に行けるといいね」

市より滝や山や川の方が良いと言った紫揺。

「辺境が良いのか?」

行く先は辺境ではないが、それでも目的地は三十都の中心からかなり離れている。

「自然がいっぱいだから好き。 だから杉山も好き。 でも出来れば滝が見られるといいなぁ」

「まだ寒かろう」

「うーん、それでも見られたらいいな」

そういえば紫揺が何を好んでいるのかは、あの泉のことと菓子のことしか知らない。 何を厭うのかも知らない。
今までそんな事は考えもしなかった。
それを知る必要があるのかどうかは分からないが、何かの切っ掛けがあれば知りたいと思うだろうが今は必要ない。 無理に訊く気はない。

「そうだな」

杉山に行くと連日と同じく落ち着いていると聞いた。 そこであとは武官に任せて三十都に向かうことにした。
杉山は三十都の土地かと思っていたくらいだ。 三十都に入るのにそんなに時を要しないが、かといって目的地は徒歩で行けるようなものではない。

「足は痛まんか?」

「うん」

「痺れは」

「うーん、無くなったっていったら嘘になるかな。 でもマシになった気がする」

「その痺れに慣れてきているのではなかろうな」

「そんなことないと思う」

腕を見ると赤い筋はもう殆ど治ってきている。

「薬草ってすごいね」

「ん? 東の領土では切った時に薬草を使わんのか?」

「使うよ。 でも改めて思った・・・って言うか、本領の薬草ってよく効くみたい」

東の領土で紫揺が高熱を出した時、東の領土の薬湯の効き目は薄かった。 本領の薬湯をマツリが持ってきて、それがてきめんに効いた。

「紫の身体には東の領土の薬草より、本領の薬草の方がよく効くようだ」

「ああ・・・、もしかして本領と日本の食べ物がよく似てるからかなぁ。 東の領土の食べ物は私にしては珍しいものが多いし、身体の中の作りが本領風になってるのかもしれない」

「似ておるのか?」

「うん。 調味料も料理の仕方も食材も。 まぁ、何もかも全く同じかって訊かれたら何もかもじゃないけど。 北の領土の食べ物は知らない食材が多かったし」

紫揺の言うように食べてきたもので身体が作られている。 その身体に合う薬草を採っているのだから、東の領土は東の領土の者の身体に合うものを採っている。 本領も然り。

「そうか、それならばそうなのだろうな。 身体は摂る物で作られておるからな。 それにしても北の領土か」

「なに?」

羽音のことも思い出したが薬草の話をしていたのだ、違う人物を思い出した。 紫揺がトウオウのことを思い出す前に口を開く。

「北の領土にショウジという薬草師がおってな」

ショウジとの話を紫揺に聞かせた。 今思えば誰よりも先にマツリの恋に気付いていたのはショウジであった。 的外れな答えをしていたが。
紫揺の話を聞きたい気持ちはある。 だがそれはまだ僅かな時を過ごした東の領土でのこと。 日本の話は出来るだけさせたくない。 紫揺が話したいと思えば別だが。
紫揺が滝を見たいと言っていた。 話しながらも滝の方に馬を歩かせている。


「あー・・・やっぱり杠官吏だけか」

昨日紫揺から話を聞いていたはずなのに期待をしていたようだ。

「残念で御座いました。 さて今日は昼餉のあとから今まで仕上がったものに漆を塗りましょうか」

「おっ、とうとう職人のところに持って行くのか?」

「皆さんの手が早くなられてきたようなので」

「おー、そいじゃ、今やってるのも早く仕上げるか」

「食当番じゃありませんでしたか?」

「とっとと準備を終わらせる」

一つ笑むと杠が棚から紫揺の作った硯を手に持ち、墨を塗る準備を始めた。



昨日で紫揺が東の領土を出てから五日が終わっていた。

「阿秀、今日戻って来られるのかぁ?」

いつ戻って来てもいいように山の麓で待つお付きたち。 もちろんお転婆もいる。 ガザンは不参加を決めたようだったが、頼みこんでお転婆についてもらった。 謝礼は鶏肉。

「満の月までまだ日があるからな、どうされるだろうかな」

満月の夜には紫揺の誕生の祝いがある。 それまでには戻ってくるだろうが。

「湖彩」

「はい」

「辺境の女人とはどうなった」

「いや・・・阿秀、こんなところで訊かなくても」

「こんなところだからだ。 みんな退屈だろう」

阿秀に応えるかのように、阿秀と塔弥を除く五人に取り囲まれた。 この五日間、ずっと辺境に出ていた湖彩である。 どちらに転んでも、それなりに楽しいお話があるだろう。

「湖彩? どんなことがあったのかな?」

「一緒に泣いてやってもいいぞぉ?」

「言ってごらん」

「楽しく聞いてやるからさ」

「言えよ」

「お、お前ら・・・人の不幸を」

五人の目が輝いた。

「おー! そうか! 不幸か! よし、言ってみろ言ってみろ、聞いてやるから」

湖彩が責められているのを後目に阿秀が呟く。

「明日は梁湶にでもしようか」

涼しい顔で言ってのける。

「阿秀・・・性格恐くなってきてませんか?」

「退屈しのぎはこれが一番いい。 それにこっちに火の粉が飛んでは困る。 塔弥もだろう?」

「・・・あ、はい。 じゃ、明後日は悠蓮で」

「ん? 悠蓮にも居るのか?」

「一目惚れだそうです。 前回紫さまが本領に行かれた時には何日か通ったそうですが、その時にはまだ話が出来ていなかったと聞いています」

領主からそんな話は聞いていなかった。 悠蓮、領主に隠していたようだ。

「そうか・・・では明日は悠蓮にしよう」

悠蓮もこの五日間、お付きの部屋に居なかった。 それなりに何かあっただろう。

お付きたちの恋など知らない紫揺。 この事を知っていたのならば、五日と言わず十日と言っていたかもしれない。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第195回

2023年08月25日 21時08分41秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第195回



宿所に行くとすぐに座卓の上に渡された硯を置き、水と墨を使って磨ってみる。 引っかかりは感じないし、底もしっかりと平らにしてあるようで僅かなグラつきもない。 砥石とヤスリでよく仕上げている。
硯職人から見てどうなのかは分からないが、使い手からとしての文句はない。

「良いですね」

顔を上げて男を見ると、強張っていた男の顔が緩んでいく。

「やっとかー・・・」

そう、これで何度目であっただろうか。 だがここが第一関門に過ぎないことは分かっている。 第二関門は教えてくれた硯職人からの合否である。 

その第二関門で落ちたとしても、それを安価な商品として売ることは売る。 やり直しでどうにかなるのならやり直す。
男の脱力する様子に微笑みながら「お疲れで御座いました」と声をかけ続ける。

「どうですか? 硯の山でやっていかれますか?」

杠が合格印を押した硯を作った者には必ず訊いている。 杉山に比べると一つを仕上げるのに時がかかる。 それに杉山は品を作らなくとも杉を切るだけで給金が入ってくるが、この岩石の山ではそうはいかない。 品を作ってそれが売れてやっと給金を手にすることが出来る。 それを骨身に沁みて分かってからどうするのか。

「杉山に比べると実入りは無いも同然だがこっちでやる」

「そうですか」

「道具を買いたいんだが・・・オレの残りの金で買えるか?」

杉山で手にしていた給金は宿所の食事代にしか使っていない。 ここに来てもう何カ月も経っているが、まだ岩石の山で給金を手にしていない。 金の管理は杉山でもそうだが文官が行っている。 万が一にも泥棒騒ぎがあってはならないからだ。
中心に戻って酒を吞む時などは、文官所に行って小遣いをもらうような仕組みになっている。 それを文官が一人一人の帳面に付ける。 小遣い帳のようなものである。

「お待ちください」

そろそろ仕上がるだろうという者の小遣い帳の残金をメモしてきている。 そのメモに指を這わせる。
残金を全て使うわけにはいかない。 これからいつ給金が入ってくるのかは分からない。 それでも食事代はかかるのだから。

「今はまだ全てを揃えることはやめた方が宜しいでしょう。 まずは一つでしょうか」

これまでに同じことを言ってきた者たちもそうであった。 やはり何か月も無収入なのは大きくひびいている。

「一つか・・・」

「今すぐ決めなくても宜しいですよ。 今度まとめて私が買いに行きますので、それまでに何を買われるか決めておいてください」

取り寄せるほどの数ではない。 そしてその時に仕上がった硯の具合を指導した硯職人に見てもらいに行く、そこで収入に繋がる結果が出ればよいのだが。

「あとは墨を塗りつけて下さい。 そのあと今日は一日休憩されたらどうですか?」

ずっとあの硯にかかっていたのだ。 それに杉山ではこんなことは出来ないが、ここでは仕上がっていくらの世界。 休憩も自由である。

「いや、塗りつけた後は新しいのを作る。 今度こそ杠官吏に一発で良いと言ってもらえるものを作るからな」

「そうですか、期待をして待っております」

男が笑いながら硯を持って宿所を出て行った。 この男だけではなく、取り組む姿勢においてもだが不服三昧だった男たちなのに、本当に人が変わったと思えるような笑顔である。 つくづくマツリのやってきたことに間違いがなかったと思える。

現段階で仕上がった硯は二十三個。 まだ一つも仕上がっていない者もいれば、二つ三つと仕上がらせた者もいる。 硯自体の大小の差もあるのだろうが、やはり得手不得手の違いが出ているのだろう。

食当番の者たちが戻ってきた。 馬車で中心まで食材を買い出しに行っていたようだ。

「あれ? 杠官吏、御内儀様ってのが来てると聞いたんだが?」

中心で紫揺と杠が二人乗りをしていたと聞いたが、宿所を見回しても紫揺の姿など見えない。

「岩石の山に居られます」

「え?」

「硯を作っておられるのでしょう。 紫さまは書が堪能でいらっしゃるので、硯のこともよくお分かりのようです。 それと、まだ御内儀様ではありませんので紫さまとお呼びください」

「へぇー、紫さまね。 その紫さまって、本領領主の筋の女人か何かか? それか宮仕え?」

宮仕えといっても上流の者しかなれないのだから、それであれば書も堪能だろう。

「いいえ、東の領土の五色様です」

この岩石の山でもいずれ分ること。 隠しておく必要もないだろう。

「え?」

「東の領土の?」

「五色様?」

五色様と言われてもよくは分からないが、少なくとも時期本領領主が本領からではなく、東の領土から御内儀様を迎える? 想像だにしていなかった。

「そ、それっていいのか?」

「どういうことでしょう?」

「本領の女人でなくてもいいのか?」

「そんなことは聞いたこともありませんが」

そういう決まりはないらしい。

「そ、そうか。 ならいいんだけどな」

自分達がいいかどうかなど関係の無い話だが、漠然と本領の女人が御内儀様になるものだと思っていた。

「その紫さまってのが居るんだ、昼餉はここで食べるだろう?」

自分達が作った物を一緒に食べるだろう?

「いいえ、お気持ちだけ頂いておきます。 いつものように紫さまの分の握り飯も持ってきておりますので」

「未来の御内儀様と食べられるなんて滅多にないことなんだしよう、一回くらい、いいじゃねーか」

「昼餉は皆さんの給金から出ています。 それを食するなど紫さまもご遠慮なさるでしょう」

「そんなことこの岩石の山のモンは考えてねーよ」

すると杠が笑いながら話し出した。

「紫さまは東の領土から来られていますので、宮で食べられるのにも遠慮をしておいでです。 働いてもいないのに食べさせて頂いていると」

マツリから聞いたことを正確に言うと、ただ飯と言っていたそうだが。

「へ?」

「なんでだ? 居るだけでいいんじゃねぇのか?」

民の感覚として宮の女人とはそういうものであって、たとえ東の領土から来ているといっても居るだけでいいのではないのか。

「東の領土では五色様として働いておられます。 それなのに宮では何もしていないのにと気にされておられます」

「へぇ・・・」

「以外っつーか」

「六都の女なら食らい付くのによぉ・・・」

「お気持ちは紫さまにお伝えしておきます。 では山に行って参ります」

履き物を履くと宿所を出て行った。
杠を見送った三人。

「いったいどんな女人だ?」

「見た事ねーよ」

「とっとと作って見に行こうぜ」

杠が岩石の山に戻ると紫揺が同じ所に座って砥石をかけていた。

「ずっと砥石をかけていらっしゃったんですか?」

前に座り込んで紫揺の手元を見る。

「うん。 なかなか平らにならないね」

紫揺がやって来た時『硯の事なら私も少しは分かるから。 あ、作り方じゃなくて仕上がった後の感触だけどね。 それに興味もあるし』 とは言っていた。 作り方を知っているとは言わなかったが、こうして砥石をかけている。 ある程度は知っているようである。

「力が無い者には時がかかっちゃうね」

「そうですね。 そろそろ指を痛めます、もうやめられればどうですか?」

「やれるところまでやる」

やると言ったら止めても聞かないだろう。

「足の方はいかがですか?」

「何ともない」

何ともあっても何ともないと言うだろうが、座りっぱなしだ、酷くはなっていないのだろう。

「杠官吏ー、見てくんねぇかー?」

「はい、すぐ行きます」

無理するなよ、と小声で紫揺に声をかけると声のかかった方に歩き出した。

「マツリも杠も忙しいんだ」

指が攣(つ)りそうである。 一度グッパをして指を動かす。
一心に砥石をかけていると再び杠がやって来た。

「昼餉の時になりました。 手を洗ってからどこかで食べましょう」

いつの間にそんな時間になっていたのか。 立ち上がりポンポンと衣をはたくと宿所にある水場に行くまでに男達からの昼餉の誘いを聞いた。 もちろん断ったことも。

「それで良かったでしょうか?」

「うん」

杠の話し方には引っかかりを感じるが民の耳がある。 仕方がない。 水場で手を洗い場所を移す。
杉山と違って木々の無い山である。 眺めとしては荒涼と言ってもいいだろう、寂しいと感じる。 それは紫揺が緑が好きであり、木々に息を感じると思っているからなのかもしれない。

適当な所に座ると杠から握り飯の入った包みを手渡された。 昨日は三個だったが三個を食べきるのは至難の業がいった。 かなりお腹がいっぱいになってしまったので、今日は二つにしてもらっている。
包みを開けると二つとも海苔が巻かれていた。 中に何が入っているのか楽しみである。
一つを手に取ると、隣で杠が筒に入っていた茶を木椀に入れてくれている。 それは女の仕事だろうと自分に突っ込むが、立場的には杠がしなければならない事。

「外で食べるのもいいね」

寂しい眺めではあるが空が見えるし広い。 パクリと一口齧る。

「御内儀様になろうとしている紫揺には有り得ないことだがな。 茶を置いておくぞ」

どこから持ってきていたのか木の台の上に木椀を置いた。 民の耳がなくなった途端、いつもの杠の話し方に戻ってくれるのは嬉しい。

「硯、売れそう?」

「さぁ・・・俺には分からないな。 あと数個出来上がれば硯職人に見てもらいに行く。 売り物になるかどうかはそこで判断してもらうが、少なくとも俺の判断では使えなくはない。 売り物にならないと言われても、安価で売るつもりだが買い手があるかどうかは別問題だからな」

杠も自分の分の包みを開けると握り飯を口に入れる。

「学び舎で勉学も教えてもらえるように言ったけど、あれどうなってるの?」

「ああ、教えてもらっている」

「硯や筆は?」

「各人が持って来ることにはなっているが持っている者などいないからな、六都で貸し出している。 硯も筆も数人に一つってところだな」

「まずは学び舎で使う硯を作るとかは?」

「買われていくらだからな。 六都も学び舎の為に進んで買うことも無いだろうし、ましてや学び舎に通う親が買うことはないだろう」

「そっか・・・。 うう、モノにならなかったら責任感じるなぁ・・・」

「作ることに楽しみを得た、まずはそれが一番だ。 金がなくなれば杉山に戻って働いて金を貯めてまたここに来るだろう。 金のことも覚えた。 紫揺が気にすることじゃない」

「だといいんだけど」

握り飯の中からおかかが出てきた。 醤油が沁みていて美味しい。

握り飯を食べ終わると少し休憩して今度は側面の歪な部分をなくしていく。
紫揺が根を詰め過ぎだとは思ったが、今は出来るだけ足を動かして欲しくはない。 座りっぱなしは丁度いい。

昼餉を食べながら紫揺の噂話でもしていたのだろう、男達が意味なく紫揺の周りを歩いていたが、当の紫揺はずっと下を向いたままで顔さえ拝めなかっただろう。
杉山の者たちと岩石の山の者たちが持つ紫揺の印象は全く違ったものになっただろう。 杠さえも紫揺がこんなにじっと座っていられるとは思いもしなかった。

「紫さま、そろそろ終わりましょう」

「え?」

「もう今日は終わりです」

周りを見るとみんな片付けをしている。 知らない間にかなりの時間集中していたようだ。

紫揺の手元は砥石で磨いた岩石にノミで池を掘っている途中だった。 水を入れる部分である。

「進みましたね」

「明日も来ていい?」

「マツリ様にお伺いしてからですね。 さ、手を洗って宿所に寄ってから戻りましょう」

立ち上がると紫揺のしかけていた物を杠が持ち宿所の棚に置いた。

「それでは皆さん、今日もお疲れ様で御座いました」

杠が言っている横で杉山から来た三人の男達に紫揺が声をかけている。

「どうでしたか?」

「こっちの方がいいかもしんねぇ、かな?」

他の二人も頷いている。

「誰に何を言われるわけでもねぇしな」

「杠に聞くとなかなかお金にはならないようですけど」

「聞いた。 でも中心に戻っても何もすることがねぇしな」

岩石の山で試してみて、それでやりたくないようなら中心に戻す、マツリにそう言われていたのを聞いている。 何もすることが無い・・・働いていなかったのか。
だが何もしない事ではなく、何かをすることを選んだ。 それは大きいのではないだろうか。

「無理をせずゆっくりと、ご自分のペース・・・歩みでやっていってください。 お金・・・のことばかり言って申し訳ありませんが、お金が無くなるようでしたら杉山で働けるそうです」

「マツリから・・・マツリ様から聞いてる、聞いてます」

言葉使いがなっていなかった、またマツリに不敬罪と言われるかもしれないと気づいたが今更である。

ちゃんとマツリが説明していたのか。

「紫さま、そろそろ杉山に戻らなくてはいけませんので」

この三人はまだ岩石の山の宿所には泊まれない。 いつ何時問題を起こすか分からないのだから、杉山に戻って武官の目があるところに戻らなければならない。

「あ、じゃ、明日も頑張ってください」

三人が杉山から通っている者たちと宿所をあとにした。
男達が宿所を出て行くのを見送ると紫揺がくるりと振り返った。 紫揺を見ていた男達の視線が踊る。

「昼餉のお誘いを有難うございました」

紫揺の第一声に男達が踊っていた視線を戻す。

「私がこの本領の者になりましたら、その時には一緒に昼餉を頂きたいと思います」

本領の者、それはマツリの御内儀になった時ということ。 宮の者として働いてちゃんと収入を得、昼餉代が払える立場になれば。 紫揺はそう思ってはいるが杠から言わすともう十分働いているのだが。

「今日は一緒に居させて下さって有難うございました」

ペコリとしかけて頭を止めると逆に宿所に居る者たちの方が頭を下げた。
杠が人知れず相好を崩したが、次の瞬間に紫揺が次のことを言った。

「出来れば明日も来て、やりかけの硯を仕上げたいんですけど・・・」

チラリと杠を見る。 その視線がわざとらしい。

「明日も来ればいいだろう?」

「そうだ、やりかけのものを放るわけにゃいかないだろ。 杠官吏、いいだろ?」

完全に岩石の山の者を味方につけたようだ。 これで明日、紫揺がここに来ないとなるとひと悶着発生するかもしれない。
マツリに何と言えばいいのか・・・。

「えーっと・・・紫さまは東の領土に戻られる時を考えねばなりませんので」

だから一日でも長くマツリと居させたいというのに。

「え? 御内儀様とやら、いつ戻るんだ?」

「まだ内儀ではありませんけど・・・」

今日で東の領土を空けて四日。 明日には五日となる。

「そろそろとは思っています。 それと今はまだ内儀ではありませんので紫と呼んでください」

「杠官吏! 少なくとも明日は御内儀様っと、紫さまを連れて来てくれよ」

御内儀様に会えるなどそうそうあることではない。 それに紫揺が硯を作っているのだ。 それもこの岩石の山で。

「あー・・・ですが」

「一日くらいいいだろ!?」

「マツリ様がどうお考えか・・・」

「杠官吏!」

「あ・・・では・・・マツリ様にはそう申し上げましょう」

責任はマツリにぶん投げることにする。 この岩石の山で目の敵にされてしまっては、岩石の山に来る意味がなくなってしまう。

「では紫さま、戻りましょうか」

杠が前を歩いて宿所を出た。
杠と二人乗りで馬に乗って帰っていくのを岩石の山の者たちが見送る。

「紫さま・・・いいよな」

誰が言い出したのだろうか。

「女人にはちーっと遠いがな」

どいつが言った。 紫揺に聞こえていれば、それなりの私刑を下されたかもしれない。 向う脛蹴りとか。

「たしかにちーっとどころか大分と遠いが、オレらみたいなのに礼を言った」

「言ったじゃねー、仰った、だろが」

マツリに対して杠や武官たちがそんな言葉を使っていたのを耳にしていた。 使い慣れないが。

「ああ、それに見たか? ずっと硯を作ってた」

「杠官吏が紫さまは書が堪能と言ってたしな」

「おらぁー! さっさと卓の用意をしろ! 夕餉だ夕餉!」

食当番が割って入ってきた。 男達が隅に片付けてあった座卓を運び出す。


「で? 紫は杠のせいにして、杠は我のせいにして、明日、紫は岩石の山に行くということか?」

「べつに杠のせいにしてないし」

「しっかりと俺を見ただろう」

「いや・・・単に硯を仕上げたかっただけだし。 杠を見たのには意味は無いし」

「あれは完全に計画的だろう」

「そんなことないしぃ~」

マツリの知らない所で起きていた話を言い合ってくれる。 やはり一日でも紫揺を手放すのではなかった。

「ね、マツリ、明日も硯の山に行ってもいいでしょ? 仕上げたいの」

岩石の山から戻って来て紫揺の足の具合を見た。 まだ明日一日は足を動かさない方がいい。 信じられない事だが、杠の話から岩石の山に居ると紫揺はじっとしているらしい。

「・・・紫」

杉山に来てはまたいつ杉に呼ばれるか分からない。 もう呼ばれることも無いだろうが、それでも万が一呼ばれてしまってはまた傷を増やすだけ。 だからと言って・・・。 また女々しいことを考えてしまう。

「紫は・・・我と居たくないのか?」

女々しいことを口にしてしまった。

「今こうして一緒に居るじゃない」

宿の一階の食処に。 ましてや斜交(はすか)いに。

「杠・・・我はどう考えればよい」

「あ・・・。 お訊きにならないで下さい」

杠とて紫揺の考えていることは分からなくもない。 だがそれを敢えてマツリに言うのは酷である。 マツリも分かっているのだろうから。

「明日で本領に来て五日でしょ? そろそろ戻ることも考えなきゃなんないし・・・ね、明日だけ。 お願い」

東の領土に戻ることを考えて己と一緒に居ないことを選ぶという。

―――どういう意味だ。

分かっていなかったようである。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第194回

2023年08月21日 21時07分42秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第194回



朝餉を終わらせたマツリが早々に杉山に向かって出て行った。

「武官所に行くか?」

享沙や柳技たちとの接触の時はまだである。

「うん」

薬草のお礼を言いに行くか、と言ってくれているのだろう。 杠が言わなくてもそのつもりだった。
だが杠はそのつもりではなかった。 紫揺の元気な姿を見せねば、今夜もまたあの嗚咽交じりの嘆きの呪詛を聞かされるからである。

武官所では思った以上の歓迎ぶりだった。 丁度交代にやって来ていた武官たちが多く居て、泣き出すものまで現れた。

「うわぁぁぁー・・・良かった、良かった。 崖から落ちられたと聞いた時にはぁぁ・・・」
「グスングスン、その後に川に流されたとお聞きしてどれだけ・・・うぐぐぐぅぅ」
「ジュル、最初には杉のてっぺんから跳び下りられて、着地に失敗されそのまま坂を転げて行かれたと・・・うぅぅぅ」

ジュルは鼻水を吸い上げた音。 それは分かる。 だがどういうことだ。
今の話では、杉のてっぺんから跳び下りて着地に失敗、そのまま転げて行って崖から落ち川に流された・・・。
あまりの噂に杠が呆れた顔をしていたが、紫揺はそうでは無かった。

「はい? どっからそんな噂が流れたんですか?」

「え? 違うのですか? ズビ」

どっからどう見ても違うだろう。 そんな状況に遭っていれば今ここに居ないだろう。 紫揺は一応人間のつもりだ。 いや、完全に人間だ。
そんな噂があっては嗚咽交じりの嘆きの呪詛も致し方ないかもしれない。 それに濃い桜色の晒に紫揺の生き返りを願ったことも。

「走ってる時に葉っぱや枝で切り傷が出来ただけです。 それにそんなにドンクサくないです」

一瞬、え? と言った顔を見せていた武官達だったが、どこからか、そうだよなー、と声が上がった。

「よく考えれば、紫さまがそんなことになられるはずがないよなー」

「だが杉のてっぺんから跳び下りられたというのは、説得力があり過ぎだ」

「ああ、紫さまなら有り得るってな」

「ああ、そこを信じたから、あとも信じてしまったな」

言いたいことを言ってくれる武官達だ。

「いくらなんでも杉のてっぺんからは跳び下りません」

どれだけ高いと思っているのか。 こちとら高所恐怖症だ。

「いや、ご尤もです」

「何より大きなお怪我が無くてよう御座いました」

「ですがそのお傷・・・」

腕に赤い線が沢山ついている。

「これくらいすぐに治ります」

御内儀様の腕に傷・・・。 武官たちが目を合わせる。 ・・・いいのだろうか。 いや、良くない。 いくら単に葉や枝で切った痕だと言っても。

「お傷が完全に消えますまで薬草をお塗り致しましょう」

いや、動きにくいのはもう勘弁願いたい。

「何ともないです。 それにマツリが塗らないと判断したんですから大丈夫です。 えっと、朝早くに薬草もいただきまして、ご心配をおかけしました」

早朝に杠が薬草を取りに来たという話は武官所に来た途端全員が聞いていた。 その薬草が痺れ毒に対するものだとも。
腕には薬草が塗られていない。 痺れ毒の傷は無かったのだろう。 紫揺が言うように、腕の傷はマツリの判断で自然治癒に任せたのだろう。
痺れ毒は放っておくと個人差があるものの、感覚が麻痺してしまったりすることがある。 それが短期間なのか、長期間なのかは受けた傷の具合や、痺れ毒を持つ葉の種類で違いがある。

痺れ毒に対する薬草を塗った箇所は、きっと足。 チラチラと見えている紫揺の生き返りを願った晒が見える、足。 だが御内儀様となられる紫揺の足を武官がじっと見るわけにはいかない。

武官達は納得をしただろうし、それに誤解も解けただろう。 そろそろいい頃合いだ。

「紫さま、そろそろ」

享沙や柳技たちとの接触の時ということだろう。 コクリと頷くとちゃんと礼を言う。

「薬草と晒、有難うございました」

片足を前に出すと、キュロットを少しだけ上げて濃い桜色の晒を見せた。 キュロットを上げなくても足首まで巻かれている晒は短靴の上からチラチラとは見えていたのだが、それでもよく見えるようにと少しだけ上げてくれたようだ。

「とっても可愛くて気に入ってます」

そう言われて見てみれば、淡い桜色の下穿きによく合っている。

早馬が宮から持って来た下穿きは、淡い桜色のものと柿色の二色だった。 包帯代わりの布の色に合わせて今日は淡い桜色の下穿きをチョイスした。

「へぇ・・・、下衣と対になっている衣に見えなくもありませんな」

「よくお似合いで」

「やはり女人である紫さまはお考えになられることが違う」

簡単に言うと包帯である晒しがファッションの一部に見えるということだった。
褒められてちょっと嬉しい。

武官所を出ていつもの接触しやすい所に行ったが特に接触は無かった。

「会わないって事は良いことなんだよね」

接触してこないということは、問題が無いということである。

「マツリ様のされている杉山への咎がかなり効いているのだろうな」

実際、問題を起こす者も少なくなってきている。 ここのところ武官や自警の群が捕らえるのは、酔ってわけが分からなくなり暴れる者たちばかりであった。
マツリもそのあたりは考えて酔って暴れた者には度合いによっては違うが、大体三度に一度、数日の杉山送りとしている。
杉山に忙しいマツリには、その辺りの報告はマメに杠がしている。
さっきも紫揺が武官達と話している時に、前日捕らえられた者たちの事が書かれた帳面を見ていた。

「あとはちゃんと働いてくれればいいのだがな」

働いていない者は誰かの物を取るしかない。 マツリの咎を知って今まで取った物で食べていけていたとしてもそれも尽きる。 また悪循環を繰り返すかもしれない。

「働くのって・・・嫌な人は嫌と思うからね。 とくに毎日ってのが嫌みたいだから」

日本のようにバイトや日雇い感覚のようなものがあればいいのに。 それなら短期で働いて、そのお金で生活して無くなればまた働けばいいのに。

「盗ることを覚えた者はそれ以前だ。 働くということをしない・・・いや、疎んじる」

「そうなんだ」

紫揺には理解できない。

「人の物を盗るのにもそれなりに大変なのにね」

前を向いていた杠がクッと笑って下を向いた。

「なに?」

「そんな風に考えるのは紫揺くらいだろう」

「そうかな? だって人の家に入って物を盗ろうとしたら、その家の人の様子を見てなきゃいけないし、持ってる物を盗ろうとしたら、結構気を張り詰めるんじゃないかな? その力があるんだったら働いた方が楽と思うんだけどな」

「そうだな、要らぬ労力や気を使うな。 いいコだ」

紫揺が何度もカルネラに、そしてカルネラも何度も言っていた言葉。
紫揺の頭を撫でてやると、馬を曳いてくるからここで待っているようにと言って足早に厩に向かって歩いて行った。

そう言えば杉山に乗って行った月毛の馬。 杉山に置きっ放しになっている。 杉山からは杠の乗ってきた馬に二人乗りで帰ってきたのだから。
杠に頼んで明日にでも二人乗りで馬に乗って杉山に行ってもらおう。 そしてあの月毛に乗って帰ろう。

「あれ? 紫揺?」

自分の名前が耳に入り振り返ると、絨礼と芯直がこちらに向かって歩いてきていた。

「朧、紫さまだろ」

「あ・・・そうだった」

人目がある。 そんな時には紫揺ではなく紫さま。
二人のそんな会話が聞こえる。 思わず頬が緩む。 紫揺とそんなにかわらない身長だが、生きている年数は随分と違う。

「淡月! 朧!」

紫揺が二人の元に駆け付けた。

「久しぶりね」

「紫さまにお声をかけて頂き、至極恭悦に御座いますぅー」

辺りにしっかりと聞こえるように言う。

「朧・・・白々しいよ」

「これくらいの方がいいんだよ」

「いま杠は馬を曳きに行ってるけど、何かあったの?」

紫揺も辺りを気にしながら小声で言うと二人が首を横に振る。
良かった、何もなかったようだ。 二人がここに現れたのはただ単に歩いているだけのようである。
だが・・・。

「勉学進んでる?」

享沙に教えてもらっていることは絨礼から聞いている。

「まぁな。 享沙が元に戻ったし」

「ん?」

どういう意味だろうか。
享沙の話をマツリが聞かせたが、さすがに杠から聞いた壊れた享沙のピョコの話は言わなかった。

「何か不便はない?」

「そんなもん無い」

「淡月も?」

「・・・うん。 朧と弦月が居てくれるからいい」

「そっか」

人が居てくれるからいい。 それは大事なコト。 ・・・そうだ、それは大事なこと、大切なこと。

―――マツリが居てくれる。

過去を過ごした日本のことを何も知らないマツリ。 日本のことを一切聞かない。 それでも・・・奥として迎えてくれる。
マツリが日本のことを訊かないのは、本領領主の跡継ぎとしてなのだろう。 訊いてはならぬこと。 そして洞は塞いだ。 日本との繋がりは一切ない。 訊いてどうなるものではない。 そう思っているのだろう。 そこに間違いはない。
それに一番甘えたい杠が居てくれる。 いつか杠も奥さんを迎えるだろうが、それまで杠は紫揺のもの。

「弦月はどうしてるの?」

「他のところを回ってる」

「紫揺っ」

思いつめたような顔をして、絨礼が紫揺を紫ではなく紫揺と呼んだ。 朧が「コラ、声が大きい」とは言ったが。

「ん? なに?」

「武官達が噂してた・・・その、紫揺の・・・身体が、良くないって。 崖から落ちたりしたって。 外に出てていいの?」

噂は武官の間だけでは終わっていなかったのか。

「それ武官さんの思い違い。 心配してくれてアリガトね。 全然何ともないから」

「そうなの? 本当に?」

「見れば分かるでしょ?」

紫揺が大の字になって見せる。 腕には赤い線が多々ある。 民であれば・・・辺境に居て良いことの無かった絨礼であれば、それは当たり前だが紫揺はそうでは無い。

「その腕の傷は何?」

「おい、淡月」

「朧、いいよ、何でもないから。 走り回って葉や枝で切っただけ。 何ともないよ」

くるぶしから見える濃い桜色の晒。

「それなに?」

紫揺の足元を指さす。

「ああこれ? 可愛いでしょ、武官さんからのプレゼン・・・」

プレゼント、とは言えない。 ましてや紫揺の理解は間違っている。

「武官さんから貰った晒」

今の紫揺はどこにも薬草を巻いていない。 それなのに薬草の匂いがする。

「その晒の下に薬草を付けてるの?」

「よく分かったね、そう。 マツリが塗ってから巻いてくれた」

「マツリ様が?」

「うん、だから何の心配もないよ」

「絨礼どうしたんだよ」

「・・・何でもない」

紫揺との初対面は良いものではなかった。 ましてや芯直ではなくいつも大人しい絨礼が紫揺に食って掛かっていた。
紫揺に言われた。 『追えないよ』 と。 何をしても芯直に追いつけない絨礼。 それなのに目の前に現れた坊にそんなことを言われ頭にきた。
だが後に紫揺の正体を知り、その上、杠に言われ宿の隣の部屋で紫揺を守っていた時、紫揺に誘われ紫揺の居る部屋に行った。 そこで紫揺と話し印象は全く変わった。 紫揺という人間がよくよく分かった。
怪我の心配をしてもおかしくはない。

そこに一頭の馬を曳いて杠がやって来た。
杠を見た紫揺の様子を見て、絨礼と芯直がそっと姿を消した。

絨礼と芯直が姿を現したということは何か連絡があるということか、それとも紫揺に何か伝えたのだろうか。 杠が視線を変える。

「膝から下の傷がまだあります。 二人乗りで行きましょう」

「うん」

確かにまだ痺れている。 足で馬体を締めるには楽ではないかもしれない。
素直に二人乗りを認めた紫揺に傷の具合がうかがえる。 マツリの話からはそう悪くは無いものだと聞いているが、気を緩めてはいけないだろう。
紫揺を先に騎乗させる。 此之葉が居る時には馬にまたがるなどと言語道断と怒られるが、マツリも杠もそういうことを言わない。 そして作ってもらったキュロットはスカートより随分と乗りやすい。
杠が騎乗するとすぐに紫揺が口を開いた。 杉山に残してきた月毛の馬のことである。

「ご心配なく。 昨日マツリ様が月毛の馬を曳かれて戻られたそうです」

それは馬に乗りながら、もう一頭を曳いて帰ったということ。
月毛はかなり訓練されている。 それは乗る前から分かってはいたが乗ってからもよくよく分かった。 その仔の手綱を馬上から曳くことはそう難しいことではないだろう。 だがマツリがそこまで馬に乗れるとは思ってもいなかった。

「そうなんだ」

初めてそんな姿を見たのは剛度が見せた時だった。 自分もやってみたいと東の領土で何度かやってみたが、ことごとくお転婆が隣に来た馬に歯を剥いてみせ一度も成功していない。

―――悔しい。

杠が軽く馬を走らせる。 武官たちが振り向いて紫揺の足元を見る。 立っている時より足元がよく見える。 濃い桜色の晒が。

「傷にひびきませんか?」

「うん、大丈夫」

「先ほど、淡月たちは何か言っておりましたか?」

訊かずとも絨礼たちが何か言っていれば紫揺から言うだろうとは思ってはいたが、一応確認してみる。

「傷の心配をしてくれただけ。 一応訊いてみたけど何もないって」

しっかりと紫揺から訊いてくれたようだ。 だがどういうことだ、今紫揺は傷の心配と言った。 手に見える赤い線を見て心配をしたのだろうか。 たしかに未来の御内儀様の付ける傷ではないが、あの二人はある程度紫揺の行動を知っているはず。

「武官さん達から民に伝わってるみたい。 とんでもない理由を考えてくれたもんだわ」

想像力激しすぎ、と付け加えて言われ、武官所で聞いた話が広まっているのかと、絨礼たちが心配をした理由が分かった。

「紫さまの姿を民が見れば単なる噂と分かりますでしょうし、武官達があの話が事実ではなかったと話すのを聞くでしょう」

「そう願いたい。 そんなドンクサい人間だと思われたくないもん」

そこか、と思いながら紫揺の後ろで杠が微笑んだ。


岩石の山に着くと既に昨日の三人の男たちが手順を教えてもらったあとだった。 道具は人数分あるわけではなかったが、工程をずらせば誰なとが道具を持つことが出来る。
三人の男たちは崩した原石を鏨(たがね)と槌を持って層に沿って割っているところだった。
紫揺が三人に近づく。 決して足場がいいわけではない。 杠がピッタリと紫揺の後に付いている。

「どうですか?」

後ろから声をかけられ男達が驚いて振り返った。 まず女の声など杉山にしても此処にしても無いのだから。 でも聞き覚えのある声だった。

「なかなか上手くはいかねーもんで」

それでも杉山に居た時と比べると形相が変わっている。

「何をするにも最初はみんな同じですよ」

目の先に紫揺の掌大ほどの板状の岩石がある。 それを拾い上げると全面を見てから、道具が置かれている所に足を向ける。
何をするのだろうかと杠が後ろをついて歩くと、砥石と水に入った桶を手に持とうとしたのですぐに杠が手に取る。 紫揺がしようとしていることが分かった。
空いている場所に紫揺を座らせると、簡素な木の卓ではあるがしっかりしている台の上に手に持っていた石を置き、杠が持ってきた桶の水と砥石を使って削り始めた。

「杠、ここで大人しくしてるからお仕事してきて」

日本ならここで旋盤を使うのだろうがそんなものは無い。 ただひたすらに平らにするために砥石をかける。

「杠官吏、見てもらえるか?」

仕上がった硯を持って男がやって来た。 使い具合を見てもらうためである。
硯を受け取ると指先であちこちを触る。 それは今までに何度もされた仕草。 ここでいつも注意を受けやり直しをしていた。

「では宿所に行きましょう」

だが今回は次の段階に進んでもらえるようだ。
紫揺がチラリと杠を見る。

「宿所に行って参ります」

「うん、分かった」

杠がどんな仕事をここでしているのかは知らないが、今の様子から使い具合を見るということも仕事の一つのようである。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第193回

2023年08月18日 21時08分53秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第193回



そろそろとスカートをめくり上げ自分の足を確認する。 結構上まで傷がある。 高くまでスカートをたくし上げていたのを今更にして後悔する。
マツリが薬草を塗っている足が動かされる。 後ろに傷が無いかを確認しているのであろう。
最後にはマツリの手で内腿まで薬草を塗られた。 そしてその腿にも晒が巻かれる。

(これってサイアク恥ずかしい。 もっと下でスカートを括っておけばよかった。 そうなると走るに邪魔だっただろうけど)

手足に晒が巻かれ肘も膝も簡単に曲げられない。 手足を突っ張ったお座り状態のぬいぐるみのようだ。 ぬいぐるみ・・・欲を持って言えばテディベア。

・・・そこまで可愛くないか。

手足を前に出している紫揺の頭を撫でる。 どうしてだかそうしたくなる。

「痛い思いをさせたな」

「そんなことない」

言われて初めて傷の痛みを感じ始めた。 ピリピリと痛い。 薬草が効いてきたのだろうか、それともずっとこの痛みはあったのだろうか。

「杉に呼ばれただけだし」

改めて紫揺の五色としての力を感じる。 紫揺は呼ばれれば走ってしまうと言っていた。 五色と木は呼応しているということか。
その呼応の仕方は五色それぞれなのかもしれない。 きっと紫揺だから走ってしまうのだろう。 紫揺に木との呼応の落ち着きがみられれば走ることも無くなるだろう。

手足を突っ張っている紫揺を抱きしめる。
己は・・・紫揺の持つ力の支えになれるだろうか。

「・・・マツリ?」

突っ張っている手は抱き返してはくれない。
紫揺の身体を離すと童女(わらわめ)のようにマツリを見ている。 何度もその頭を撫でてやる。

「なに?」

いつものように訝しんだこ憎たらしい目が返ってくる。
頭を撫でていた手を頬に、耳の後ろに。 そして口付けた。
そっと離された唇が言ったのは「紫は女人か童女か分からんな」だった。 そしてもう一度口付けられた。

―――どういう意味だ。

言ってやろうとした時に、外で何やらがやがやと聞こえる。 その中に杠の声がある。

「杠官吏お待ちください!」

「待ってなどおられません!」

「いや、官吏さん! 今はまだ入っちゃいけねーから!」

押し問答どころか、次には何やら人が投げ飛ばされたような音が聞こえた気がする。

「杠が来たようだな」

マツリが手足の突っ張った紫揺を抱き上げ板間から下りた時に戸が開けられた。 めちゃくちゃ勢いよく。

「紫揺!!」

杉山の男達の腕を撥ね退け杠が飛び込んできた。
ん? と杠の後ろで誰もが首を傾げる。 聞き違いだろうか?

マツリに抱きかかえられている紫揺。 手足に晒を巻きその手足が突っ張っている。

「一般的な薬草は塗った。 だがそれで間に合うかどうかは分からん」

今の杠は混迷している。 マツリが小声で「紫だ」と言い、続ける。

「宿に連れ帰ってくれるか」

マツリに抱きかかえられている紫揺を杠がぶん取る。 空になったマツリの腕が悲しい。

(違う引き取り方があろうがっ)

「しゆ!・・・紫さま!」

混迷している杠にマツリの声は届いていたようだ。

「杠、何でもないよ。 マツリが大袈裟なだけ」

「何でもないことなど! これほどに・・・」

紫揺が勝手気ままをしたのなら、我が妹に自業自得を教える。 だが先ほど、五色のことで何かあったらしいとマツリが言っていたと武官に聞かされた。

「宿に戻ります」

ここに居ては医者も薬草師も簡単に来ることは出来ない。 それならば無理があっても中心に戻る。

「頼む」

マツリは勿論のこと武官や杉山の者たちに見送られ、杠の乗ってきた馬に二人で乗りで宿に戻って行った。

中心に戻ってくると馬上の紫揺の姿を見た武官たちの間ですぐに噂は広まった。

「え? 崖から落ちられた?」
「いや、川に流されたと聞いたが」
「いやいや、杉のてっぺんから跳び下りられて着地失敗、でそのまま坂を転げ落ちたと」

杉山に居る武官たちは十日ごとに交代である。 丁度今日が交代の日であったから、あと十日は正しい話は伝わらないだろう。

部屋に入ると抱えていた紫揺を下ろす。 すぐに額に手を当て耳の後ろにも手を当てる。

「熱は出ていないな」

「だからマツリが大袈裟なんだってば。 それより杠は硯の山に戻って」

「この状態の紫揺を置いていく筈が無いだろう。 それに岩石の・・・硯の山は杉山ほど問題があるわけじゃない」

紫揺に合わせて岩石の山ではなく、硯の山と言い変えた。

「でも毎日遅くまで見てるんでしょ?」

「紫揺が気にするな。 それよりどんな葉だったとか、木だったとか全く覚えていないのか?」

どうしてこんな状態になったのかは馬上で聞いた。

「シダは覚えてるんだけどなぁ」

踏んづけてしまってよく滑った。

「明日まで熱が出なければいいが、それでもかぶれたり爛(ただ)れたりすることがあるかもしれない。 異常を感じたらすぐに教えろよ」

「明日まで? じゃ、明日は硯の山に行ける?」

「紫揺・・・」

「今日、杉山で問題を起こしてる人と話したの。 でね、明日硯の山に行ってもらうことにしたの。 ほら、声をかけた以上責任があるし」

「腹が減ってるだろう」

しゃがんで紫揺の頭を撫でながら言う。

「話し逸らしてない?」

「逸らしていない」

杠が持っていた包みを開ける。 宿の者に言って毎日二人分の握り飯を握ってもらっている。 だが今日は三人分。 杠が杉山に行った時、三人で食べるつもりだった。 一つは杉山に行った時にマツリに渡しておいた。

「塩がよく効いていて美味いぞ」

―――それは、おにぎり。

懐かしい。

開けた一包みを紫揺に渡しかけて肘が曲がらない事に気付いた。 ちょっと待てよ、と言い、マツリが巻いた晒を解いていく。
肘にもその内側にも潰した薬草が塗られている。 これではこのような巻き方になっても仕方がない。

「食べている間だけ、解いておこう」

開けた包みを紫揺の前に置く。 右手の晒だけを解いた。 茶碗を持つ手が別に必要なわけではない。 右手が動けば十分だ。 それに手の甲にも傷があるが、掌には怪我はない。

そっと手を伸ばし一つの握り飯を手にする。 三角の握り飯。 手にしたのは海苔が巻かれていないものだったが、あとの二つには海苔が巻かれている。 手にした海苔が巻かれていない握り飯は、ジャコと胡麻と青菜が一緒になって握られている。
一口パクリと食べる。 丁度いい握り具合。 それに胡麻の風味の中に醤油の味が程良く染み込んだジャコと青菜。

―――懐かしい。

美味いだろう、と言いかけた杠の口が止まった。 紫揺の目が潤んでいた。

「どうした?」

「美味しくって・・・懐かしくって」

東の領土からやって来てたった三日。 懐かしいは無いだろう。
だったら日本で同じものを食べていたということか。

「そうか」

俯き加減になっていた紫揺の頭を何度も撫でてやる。
とうとうポロポロと涙を流した紫揺だったが、泣きながら他の二つも食べた。 涙の塩味と相まって塩がよく効いていただろう。

どうして泣いているのかを訊かない杠。 泣くほど美味しかったのかと思われているのだろうか。

食べ終わると濡らした手巾で手を拭いてもらい再度晒が巻かれた。 そして最後に顔も拭かれた。 涙のあとを拭いてくれたのだろう。 こうして動けなくては殆ど赤ちゃんになったようだ。
不便極まりない。
夜になりマツリが戻ってきた。 すぐに身体の状態を視られたが特に異常は無いと言われた。

「明日の朝まで待って熱が出なければ良いがな」

「この布・・・晒はいつまで巻いておくの?」

「状態による」

「不便なんだけど」

伸び縮みする包帯なんて無いだろうが、それらしい物が無いのだろうか。

「たしかにそうだな」

握り飯を食べた時のことをマツリに言うと、マツリも確かにそうだなというように頷いている。

「肘の傷さえ治れば良いのだがな。 だが今日一日はこれで我慢しておけ。 膿んだり腫れたりしてしまっては余計長引く」

言われてみればそうである。

夕餉は三人分を部屋に持って来させた。 やはり右手の晒だけを解いてお行儀悪く、茶碗を持たずに食べた。
夕餉の席で杉山の者たちには紫揺が杉から聞いてきたことを伝えたとマツリが話し出した。

「かなり驚いておったわ」

「それはそうでしょう、杉と話せるなんて」

杠にしても以前マツリから、紫揺が大木と話したということを聞いたが、とてもじゃなく簡単には飲み込めなかった。

「守ってくれそうだった?」

「あの者たちは杉に感謝をしておる。 万が一にも試そうとする馬鹿者が居たとしても、我のような結果で終るだけだ」

「かなり怒ってたよね、川石蹴ってたし走り出したし」

「・・・」

「そうなのか?」

紫揺が杠に頷いてみせる。

「いつから見ておったのだ」

「何度も何度もUター・・・くるっと回って元の位置に戻ってるとこから」

「くるっと回って?」

真っ直ぐに歩いているつもりだったのに。

「声かけても聞こえなかったみたいだし、見えてもいなかったみたいだし」

「それは・・・反対側からは様子が見えるということか? マツリ様が川石を蹴られた時に音は聞こえたか?」

「うん」

「反対側からは全く普通ということか・・・不思議な」

杠が不思議がっている横でマツリはとんでもないところを見られていたと苦い顔をしている。

紫揺を布団に寝かせると、何度も紫揺の様子を見にマツリが部屋に訪れた。 熱を出している様子はない。 単なる切り傷に終わるようだ。
それにしてもこの身長でよくも顔に傷をつけなかったものだ、と考えていると窓の外から人の声が聞こえてきた。 耳を澄まして聞いてみると、野太い声が喉を詰まらせ泣いているように聞こえなくもない。

「ううう、紫さま・・・紫さま、うぐっぐ・・・どうかご無事、で。 死なないでぇぇ」
「むぅ、紫さまにも失敗があって・・・ぐぐぐ、当然で御座い、うぐ、ます」

マツリの瞼が半分下がる。 これを少なくとも今晩ずっと聞かされるのか・・・。
明日にでも紫揺が元気になればその姿を見せなくては堪ったものではない。 それにしても失敗とはいったい何のことなのだろうか。

翌朝になり寝不足の顔をしたマツリが紫揺の居る部屋を訪れた。

「起きておったか」

「うん」

昨日は早くに寝かされた。 充分寝た。

「よく眠れたか?」

「うん」

あの声に睡眠を邪魔されるようなことは無かったようだ。 まぁ、何度見に来ても起きる様子は見せていなかったが。

「具合はどうだ」

「どこも何ともない」

戸の外に杠が待機していたのだろう。 杠、と声をかけると桶を手に持った寝不足の顔をした杠が入ってきて、紫揺の頭をひと撫でしてから腕の晒を、マツリが足の晒を解きだす。
マツリに協力するように、腹筋を使って片足を上げようとしたが、マツリが自分の足の上に紫揺の足を乗せた。

腕の晒を解き終えた杠が桶の水を染み込ませた手巾でそっと磨り潰した薬草を拭きとっていく。 腕の方はそんなに酷くはない。
左右の腕を上げたり横にしたり、まんべんなく腕の傷の様子を見る。

「膿んでいる様子もありませんし、腫れてもいませんね」

「なによりだ」

マツリを見てみると、ようやく片足の薬草を拭きだしたところである。

「桶の水を替えてきます」

桶の水は既に薬草色に変わってしまっている。

「頼む」

やっと腕が解放されたと、曲げ伸ばししようとしたのをマツリに止められた。

「肘の傷が開くとまた巻かねばならんぞ」

「バンドエイドがあればいいのに。 カットバンとか」

マツリがチラリと紫揺を見る。 頬を膨らませ後ろに手を着きそっくり返っている。 紫揺の言ったそれがどんな物かは分からないがどこの言葉かは分かる。
夕べ杠の部屋に行くと握り飯のことを聞かされた。 “帰りたいか” とは訊けない。 出来もしないことを訊いてもどうにもならない。 それに同情なんてものを欲しがる紫揺ではないだろう。
それにしてもこの画。

(杠以外には見せられんな)

そっくり返っている紫揺の足元でマツリがチマチマと薬草を拭き取っている画。

戸が開いて杠が入ってきたが、マツリの元に桶を置くと部屋を出て行った。 気を使ってくれたらしい。 それがマツリに対してなのか、紫揺に対してなのかは分からないが。
全ての傷を拭き終わり再度傷を見ると、膝下に気になる傷が幾つかあった。 それ以外は単なる切り傷で終るだろう。

「じっとしておれ」

立ち上がると戸の向こうで待っていた杠に何やら言っている。 自分の足を見ると腕とは比べ物にならないくらいにとっても賑やかだ。

「うわぁ・・・やっちゃったなぁ」

“最高か” と “庭の世話か” が見れば大変なことになる。
今日で本領に来て四日目。 東の領土には五日は戻らないとは言ったが・・・。

「もっと長めに言っておけばよかった」

「何がだ?」

いつの間にかマツリが戻って来て横に座った。

「何でもない。 もう大丈夫なんでしょ?」

少し痺れを感じる箇所はあるが、なんということは無い。

「痺れは感じておるか」

咄嗟に後ろに着いていた手で頭を覆った。
マツリが大きな溜息を吐く。

「・・・あ」

そうでは無かったのだと思い出す。

「感じておるのだな」

「・・・ちょっとだけ」

そろそろと手を下ろす。

「膝上は何ともないだろう」

「・・・うん。 膝下」

「気になる傷がある。 いま杠にそれに対応する練った薬草を武官所に取りに行ってもらっておる」

「毒のある葉っぱだったってこと?」

マツリが頷き、続ける。

「人間にとって毒であっても、あの場には必要な葉なのだろう。 他は何ともないようだがあまり動かさぬよう。 さっきも言ったがまた傷が開くかもしれんからな」

自分の肘を見てみる。 これくらい何ともないと思うが、将来の御内儀様の持つ傷ではない事は分かっている。

「今日、杠と一緒に硯の山に行っていい?」

昨日のことが気になっているのだろう。 杠からも聞いている。

「その衣装・・・衣でか?」

衣裳は宮の言葉。
ズタズタに破けた衣。 昨日の状態で着替えなど出来なかった。 まさかマツリに手伝ってもらう訳にはいかないし、元より着替えなどない。
さすがにこの衣で外に出てはいけないことくらい紫揺にも分かる。

「無茶をせんと約束するか?」

言ってきくような紫揺ではない。 マツリが杉山に行った後に何をしでかすか分かったものではない。 それならば無茶をさせないように約束させる方がいいだろう。

「うん」

「我は今日も杉山に行かねばならん。 我が出た後、市が開いてから杠と衣を買って岩石の山に行くといい」

「うん、分かった」

市は朝一番には開かない。 岩石の山に行くのが遅れるが、それは致し方ない。 それに杠に付き合わせて悪いとも思う。 昨日も半日で終わらせてしまったというのに。
杠が見たというのに気が済まないのか、紫揺の腕を取って傷を見だした。

「ふむ、足もそうだが、あの薬草はよく効いたようだな」

塗らなければこれほどに治っていなかっただろう。 赤く筋が残っている程度だ。

戸の外から声がした。 杠だ。

「よいぞ」

戸を開けて入ってきた杠が不思議なものを持っていた。 片手の木箱は分かる。 あの中に薬草が入っているのだろう。 だがもう片方の手に持っている風呂敷の包みはなんだろうか。

紫揺のスカートは膝上までめくられているが、先ほどのように太腿まで見えているわけではない。 それに膝下に薬草を塗るとさっき言っていた。 早々に部屋を出る必要は無いだろう。
木箱をマツリに渡すと風呂敷を下に置き、どかりと座ると風呂敷を開けだした。

「早馬で宮から丁度着いた所だった。 女官殿からだそうだ」

「え?」

マツリも何が入っているのかと、まさかこれだけ大量の菓子ではないだろうなと、木箱を開けながら杠の手元を見ている。
すると風呂敷から出てきたのは紫揺の衣だった。

「え? うそ!?」

宮を出る時に頼んでおいた衣?
杠が取り出して手を伸ばしてきた紫揺に渡す。
間違いない。 下穿きの端っこを引っ張るとキュロットになっている。 注文したのはそこだけだった。 上衣までは言っていなかったが、紫揺の今着ている衣と同じような物を縫ってくれている。 色違いのセットが二セット。
この短期間に。

「母―さんがー夜なべーをして・・・の世界じゃない」

今度また宮に来た時まででいいと言っていたのに・・・。
分からないことを口ずさんいる紫揺だが、日本の歌なのだろか東の領土の歌なのだろうか。

「変わった形だな」

「宮を出る時に頼んでおいたの。 これなら女人の衣に見えて動きやすいから。 でもこんなに早く出来上がるなんて思ってもみなかった」

「ふーん、たしかに女人の衣では馬に乗りにくいだろうな」

「走りにくくもあろうな。 紫に女人の衣を着せるのがそもそも間違っておるのかもしれんわ」

どういう意味よ、と言いたかったが自分でもそう思っている。

「ほぉー、あの者たちはほんによく気が付くな。 菓子も入っておるではないか」

風呂敷の中にはしっかりといつもの袋が入っている。 やはり菓子が入っていたかとは思うが人並みの量である。
マツリが木箱の中の瓶を取り出し、同じく木箱の中に入っていた匙で気になる傷に塗りだす。

「朝餉の前に食べるのではないぞ」

袋に手を伸ばそうとしかけていた紫揺の手が止まる。
杠が微笑んで紫揺の頭を撫でてやり「あとでな」と言うと袋を座卓の上に置いた。

両足に薬を塗り終え、木箱の中にあった晒に手を伸ばそうとした時、今初めて気付いたその手が止まった。

「何かの間違いか?」

「いいえ、それが、どうしてもこれでと。 その、紫さまは女人だからと」

普通、包帯のように巻く晒は白である。 それが・・・

「女人だからと言って、どうして・・・」

どうして濃い桜色なのか。

「紫揺に生き返っ・・・お役に立ちたいからと、用意をして待っておりました」

夕べの嗚咽交じりの嘆きの呪詛をまざまざと思い出す。
紫揺が木箱を覗き込む。

「わっ、可愛い」

可愛いのか?

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第192回

2023年08月14日 21時13分37秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第192回



≪触れよ≫

そう言われてもどの杉か分からない。 どの杉も立派だ。 あの時のように一本大木が目立っているものではない。

≪すべては吾(わ)ら≫

そう言えば東の領土の大木が言っていた。
≪吾らは地に根を生やし、地で繋がっておる≫ ≪吾らは地で繋がっておる≫ ≪地のあるところ、吾らは繋がっておる≫ と。
あたりをキョロキョロと見る。 一本の杉に目がとまった。 樹皮のデコボコが他の杉より大きい。 その杉の前に行くと裾を括りつけていたスカートを解き、パンパンと皺を伸ばす。 礼儀のつもりだ。
そしてそっと手を触れる。 東の領土の大木の時と同じように奥底から脈打つものを感じる。

≪然(さ)に。 吾が呼んでおった≫

ギザギザした声ではない。 いや、声と言っていいのだろうか、頭の中に響き話しかけられているようだ。

≪久しい。 遠きにそちの声は聞いておった。 だが今そちの声はよう聞こえる。 実(げ)に久しい≫

“遠きに” というのは東の領土での紫揺の声だろう。 そして “久しい” というのは、きっと初代紫のこと。 初代紫が本領に居た頃、本領での初代紫の声を近くで聞いていたのかもしれない。 そして東の領土に行っても。
東の領土の大木が言っていた ≪そちの声は、ふたつめ。 懐かしや≫ と。

≪お呼び頂きありがとうございます≫

紫揺が言うと、五拍ほど遅れて頭の中に響いてきた。

≪吾らはこの地で人間の為すことを耳にしておった≫

≪はい≫

≪切られた吾らは人間の役となろう≫

そうだった。 杉にも命があり息をして育っているのだった。 それを無暗に切っていた。 改めて知り愕然としかけた。

≪役となると申した≫

愕然としかけた心が動く。 無駄にしちゃいけないんだ、と。

≪そちが渡ってきた流れ≫

流れ・・・。 川のことだろうか。

≪そこより吾らの居るこの地に入ってこぬよう、伝え申せ≫

ああ、伝言を伝えるために呼ばれたのか。

≪吾が呼ばわぬ限り、流れより来せれし人間は居らん。 だがそう伝え申せ≫

≪承りました。 必ず伝え申します≫

深い呼吸を三度ほどした。 杉からは何も伝わってこない。 だが奥底から脈打っているものはまだ感じている。
更に二呼吸。

≪吾らは地に根付いておる≫

≪はい≫

手を離さなくて良かった。 続きがあるようだった。

≪地のことは良く知っておる≫

≪はい≫

≪地にそちらの力が紛れ込んでも、それが紛いないものでない限り地は飛ばん≫

どういう意味だろうか。

≪飛ぶのは紛れ込んだ力のみ≫

・・・分からない。

≪そちの問いに答えた≫

問に? どういうことだろう。 何も訊いていないのに。

≪地のこと、知る限り答えよう。 いつでも吾らに聞きに来るが良い≫

≪有難うございます≫

脈打つものが消えた。 そっと手を離す。 ギザギザとした声は聞こえない。 引き留められることが無いということは話が終わったということだろう。
杉に向かい深く一礼をすると踵を返す。

「きっとマツリが心配してる」

さすがに重々しい声を聞かされたその杉の前でスカートの裾をたくし上げて括るなどということは出来ない。
前の方の裾を膝辺りまで上げると走り出す。 シダに滑りながらも何度か振り返って、先ほどの杉が見えなくなったのを確認すると足を止め、来た時と同じように後ろは尻の少し下までの長さにして裾を前で括る。 両手が自由になると勢いよく走り出した。 先ほどまでと違う本気走りである。
水気に光る岩を避け、杉の間を走り抜ける。

「方向合ってるかな・・・」

目印になるようなものなど無かった。 だが来た時と同じように足が勝手に動いている。

「もしかして・・・木々が導いてくれてるのかな・・・」

日本に居た頃の自分なら木々が導いてくれてるとか、木に触れて木と話が出来るなどと聞いたらどう思っただろうか。
頭から否定しただろうか、それとも相手を心配しただろうか、白眼視を送っただろうか。
頭の中で色々考えていても身体は嬉々と動く。

水気のなくなった岩には手を着いて跳び越す、足元が悪ければ左右に跳ぶ。 これは導かれているからというものではない。 紫揺の持っている身体能力。 身体もさることながら、目で見て距離感が掴める、どれだけの力で跳べばいいなどとも。 頭で考える必要などない。 今誰かが紫揺の顔を見ると、その顔が笑んでいるのを見るだろう。

目の前から杉も雑木も無くなり川までやって来た。 きっとあの杉が言っていた “流れ” 。
ふと見てみるとマツリが川を渡ろうとしてUターンをしている。 それを何度も何度も繰り返している。 首を傾げまた何度も。 その内に足で水を撥ね川石を蹴り出し、走って渡ろうとしているがまたUターンをしている。
いったい何をしているのだろうか。 来た時に上った足場のあるデコボコの所に行くと、上ってきた時の巻き戻しのように今度はガマガエル姿で下りる。

川を挟んだマツリの前方に出て「マツリ!」と呼ぶが、マツリは同じことを繰り返しているだけである。

「見えてない・・・?」

そして聞こえていない?

履き物を脱ぎ川を渡る。 巾のある川を殆ど渡ってくるとマツリがようやく紫揺に気付いた。

「・・・!」

目の前に紫揺が急に現れた驚きで一瞬固まっていたが、すぐに紫揺を抱きしめる。

「紫!」

紫揺の足が浮く。

「どこに行っておった!」

紫揺の気配は感じていた。 間違いなくこの川の向こうから感じるのに川の向こうに行けなかった。 真っ直ぐに歩いているのにいつの間にか元の位置に戻ってしまう。

「く、苦し・・・イタイ」

肺を圧し潰されそうだし背骨をへし折られそうだ。
紫揺の喘ぎにようやく気付いたマツリ。 力を緩めるが紫揺を下ろすことは無い。

「どこに行っておった」

先程の心配を前面に出していた声と違い、いくらか落ち着きを取り戻している。

「話すから、それに聞いてもらわなくちゃいけないから。 武官さんも心配してるかもしれないから、とにかく戻ろう」

しぶしぶマツリが紫揺を下ろすが、そこは川を渡り切ったところ。 紫揺が履き物を履く。 マツリの足元を見ると、脱ぐ暇(いとま)も惜しんだのか、履物がびしょびしょに濡れている。
マツリもまた紫揺の足を見ている。 まだスカートはたくし上げたままだ。
あっ、と気付いて結び目を解いてスカートを下ろすと、それはボロボロの雑巾のようになっていた。 それによく見るとスカートだけではなかった。

「・・・あ」

紫揺がスカートを見下ろしていると、マツリが膝を着きスカートをたくし上げた。

「な! 何すんのよ!!」

切り傷だらけの足が目に映る。 スカートを押さえようと伸ばしてきた紫揺の腕。 そこにもたくさんの切り傷がある。 その紫揺の腕をとる。

「足にも腕にも・・・こんなに傷が」

スケベオヤジっぽい目で足を見ていたのではなかったのか。 よくよく考えれば色気のある足では無かった。
チョイ悔しい。

「走ってたから、木の枝や葉っぱで切っちゃったみたい」

「どんな枝や葉で切ったか分からぬのだろう。 戻ってすぐに薬草を塗る」

毒を持っている葉などであれば大変なことになる。 特に毒と言われるものを持っていなくとも、かぶれを引き起こす樹液や葉汁もある。
立ち上がると二人で壁面を上がった。 そして歩こうとしかけた紫揺をマツリが抱き上げる。

「どのような枝や葉で切ったか分からん、単なる切り傷とも限らん。 毒を持っておれば動かさぬ方がよい」

口を開きかけた紫揺に有無を言う隙を与えずマツリが言った。
マツリの言うことは分かった。 仕方なく抱かれたまま一度閉じた口を再び開く。

「杉に呼ばれたの」

「杉?」

「東の領土でもそうだったけど、呼ばれると走って呼んでる木の所まで行っちゃうの。 足が勝手に走っちゃうっていうか。 自分でもよく分からないんだけど」

「それでこの傷か」

うん、と答えてから続ける。

「その時の話しをするけど、その前に教えて。 どうしてマツリは川を渡って来なかったの?」

マツリにしてはそれは “どうして川を渡って助けに来てくれなかったの” に聞こえた。

「渡りたかった。 紫の気を川の向こうに感じておった。 渡って紫の所に行けるはずだった。 それなのに・・・渡れなかった」

気は追えていた。 間違いなく川の向こうから紫揺の気を感じていた。

気? そんなものを感じていたのか・・・。 知らなかった。

「杉の言っていた場所かどうかを知りたいの、詳しく言って」

責められているのではなかったようだ、己の思い違いか。 そう考えると紫揺は迂遠に言うことは無い、言いたいことがあればはっきりと言うのだった。 納得すると説明を始める。
前を向いて真っ直ぐに歩いているのに、気が付くと元の位置に戻っている。 そして紫揺の姿など見えもしなかったのに突然に紫揺が現れたと言い、紫揺の声など一切聞こえなかったとも言う。

間違いない、杉の言っていた “流れ” とはあの川のことだ。
それは ≪吾が呼ばわぬ限り、流れより来せれし人間は居らん≫ そういうことなのだろう。

「そっか、分かった」

そう言うと杉から聞かされたことを話した。
≪切られた吾らは人間の役に立とう≫
≪そこより吾の居るこの地には入ってこぬよう、伝え申せ≫

「杉が? 杉がそう申したのか?」

「うん。 それで言われて気が付いたの。 杉にも命があって息をして育ってる。 それを無暗に無駄に切っちゃいけないって、無駄にしちゃいけないって。 ・・・間違ってる?」

どうしてだろう、あの時宿で杠が紫揺の頭を撫でていた気持ちが分かるような気がする。 接吻でも抱擁でもない不思議な気持ちだ。
抱き上げていたマツリの片手が紫揺の頭に伸び、その頭を撫でてやる。

「間違ってなどいない」

杉山の者は杉を無駄にはしていない、粗末にも扱っていない。 だが改めて言うことは必要なことだろう。 杉が言ったのだから、紫揺が聞いてきたのだから。

「あの川の向こうには入らぬようにということだな」

「うん。 でもマツリみたいに入ることが出来ないらしいけど、それでもちゃんと言っておくようにって」

「承知した。 だがどうして紫は入ることが出来た?」

「杉に呼ばれたら入ることが出来るみたい」

そういうことか。
六都の者がこの山に入ってこなかったのは、その昔にあの川で不思議な体験をし不気味に思ったのかもしれない、それで足が遠のいたのかもしれない。

「不思議なことがあるものだ」

不思議な事・・・。

「ね、マツリ。 他にも杉が言ってたことがあるの。 それは私個人に対しての問いに答えたって杉が言うんだけど、私何も訊いてなかったのに」

そして杉が言っていたことをマツリに聞かせた。
≪地にそちらの力が紛れ込んでも、それが紛いないものでない限り地は飛ばん≫
≪飛ぶのは紛れ込んだ力のみ≫
≪そちの問いに答えた≫

「意味が分からないの」

マツリが一瞬考えた様子を見せたが、すぐに口角を上げる。

「そういうことか・・・」

「なに?」

「杉は・・・東の領土の大木にしても紫のことは何でも知っているということか」

「あ、うん。 大木が言ってた。 地に足をつけている者の声が聞こえるって」

そうか、と言ってマツリが続ける。

「高妃のことではないのか?」

「え?」

「高妃に閃光を浴びせられ気が覚めなかった者たち三人の事。 紫は高妃の中にある力を見て、黄の力が小さく大きな青の力に引き込まれたと考え、宮にあった砂があの者たちに飛んだと考えたが、あの者たちに砂は付いていなかった」

紫揺が一人ブツブツ言っていたことはマツリには分かっていた。

単に黄の力が青の力に引き込まれて飛んだとしても ≪地にそちらの力が紛れ込んでも、それが紛いないものでない限り地は飛ばん≫
引き込まれた力は “紛いないもの” ではない。 “紛いあるもの” だ。 青の力に引き込まれた黄の力。 純粋な黄の力ではない。
だから地は飛ばない。

≪飛ぶのは紛れ込んだ力のみ≫

「それって・・・頭の中に見えていた霞のような物は・・・紛れ込んじゃった黄の力っていうこと?」

「そのようだな」

事は終わっていた。 紫揺が三人の頭の中に視えていた霞は出した。 そして三人とも目覚め、何ともない様子だった。
結果として杉が教えてくれたことへの理解が合っているとすれば、早々に紫揺が施して正解だったということになる。 あのまま五色の力を何の力のない者の頭部に残していてはどうなっていたか分からない。

「高妃の黄の力が、黄土色と緑色を合わせたような靄のように視えただなんて」

高妃の身体の中に視えていた時にはちゃんとした黄色だったのに。 まだまだ理解がついて行かない。

「事後とはなるが、分かって良かったではないか」

「・・・うん」

確かにこれからの向学の参考になる。 リツソの時には眠らせる薬湯を飲んだことによるものだとは分かっていたが、結局、耶緒の時のことは分からずじまいなのだから。

話している内に相当歩いた。

武官達の元に戻ると、居なくなった紫揺がマツリに抱えられているのも勿論のこと、衣は破けスカートの中に隠された足は見えないが腕は切り傷だらけ。 武官達の間で大騒ぎとなり、杉山の者たちにしても自分たちの山で御内儀様である紫が怪我をして戻ってきたのだ、あちこちでテンヤワンヤとなった。
追い立てられるように宿所に行くと武官たちだけならず、杉山の者たちも薬草を出してきた。

「このまま薬草を貼る方がいい!」

「すり潰したものの方がいい!」

症状に合わせて違ってくる。 そう言った声があちこちで言い合っているのを無視し、前に置かれたすり潰した薬草を選別してマツリが紫揺の腕に塗りだした。

「あ・・・」

何処からか声が漏れたのが聞こえた。
たとえ御内儀様であろうともマツリが、次期領主がその手当てをするなどと。
煩(うるさ)かったあたりがシーンとする。

「あと少しすれば杠が来る、杠に宿まで送り届けてもらう。 薬草を貼っていては動きにくかろう」

紫揺が口を開きかけたが、それより先に武官が叫んだ。

「な、何を仰います! これほどの傷があられるというのに! 今からすぐに中心に馬車を取りに行きます!」

「あー! 武官さん、待って待って、待って下さい!」

「はい?」

武官に向けていた目をマツリに向ける。

「どういうこと? 杠が来たら硯の山に連れて行ってもらうはずだったでしょ? 行くよ、硯の山に」

武官と杉山の者が立ち眩みを起こしそうになる。

「何とない葉や木であったのならばそれで良い。 だが言ったであろう、毒を持っているかもしれんと。 紫は毒を持つ葉や木に当たったのかどうかが分からんのであろう」

「ま、まぁ・・・そうだけど」

いつ傷をつけたのかも記憶が無いのだから。

「杉山はあまり毒性を持つ雑木は無いが全く無いとは言い切れん。 だが葉には毒性を持つものが多々ある。 紫が一番よく分かっていよう、あそこに生える葉を誰も知らぬことを」

「あ・・・」

あの川を境に呼ばれなければ入ることは出来ない。 ということは、どんな葉が生えているのか誰にも分からないということ。

「単なる葉かもしれん。 だが毒性を持っておれば何が起きるか分からん」

何の話だ。 御内儀様しか知らない葉ということか? それもその葉に毒性があるかどうかを誰も知らない? ・・・意味が分からない。
マツリが手早くすり潰した薬草を両腕に塗り晒を巻いていく。

「足にも腕以上の傷があるのだが?」

どこを見ることなくマツリが言ったが、武官たちや杉山の者たちが何のことかと思った。 だがそれは一瞬で終わった。

「・・・!」

マツリの言った意味が分かった武官と杉山の者たちが数人慌ててこけながら宿所を出て行く。
戸がピシャリと閉められた。

「傷のあるところまで裾を上げよ」

足首の上にすり潰した薬草を塗りながらマツリが言う。 東の領土から履いてきていた長靴ならよかったのだが、生憎と宮で用意された短靴であった。 だが最初に勧められた宮の履き物であったなら、足の甲から傷が入っていたであっただろう。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第191回

2023年08月11日 21時26分33秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第191回



武官が走り寄って来る。

「や、やはり紫さま、どうして・・・。 あ、や、お怪我をされましたでしょうか!」

良いことを言ってくれた。 そういうことにしよう。

「ちょっと足を挫いちゃって」

「すぐに山を下り、治療をさせて頂きます!」

「あ・・・お気遣いなく」

「万が一のことがあっては!」

良いことではなかったようだ。 面倒臭いことになった。

「ホントに大丈夫ですから」

半笑いのマツリが紫揺を下ろす。 目的の三人が目の先にいる、これ以上歩く必要は無い。

「ここにかけていろ」

切られた杉の木のあと。 まるで丁度良い椅子のようになっている。
マツリが歩を進め目的の三人に近寄る。
杉山の男に声をかけているのが見てとれる。

「ふーん、あんな風にコミュニケーションをとるんだ」

まだ諦めきれない武官。 座った紫揺の前に後ろ向けに屈みこんだ。

「失礼とは重々に分かっておりますが負ぶります、どうぞ治療をさせて下さいませ!」

そんな事をすればマツリは天祐の時の比ではなくなるだろう。

「ホントにもう大丈夫です」

ほら、と言ってケンケンをしてみせる。 しっかり両足共に。

「あ? え?」

「マツリが大袈裟なだけです」

マツリのせいにしておこう。 うん、マツリが悪いのだから。 ちょっと足が見えたくらいで何なのか。 こっちは太腿の上の上まで見せてきていたんだ。 って、今そこまで見せろって言われたらかなり抵抗はあるが。
紫揺が考えている前で呆気に取られていた武官。 言われてみればそうだ。 紫揺の逸話を聞かされていた。 その紫揺が足を挫くなどということは無いはず。

「しっ! 失礼をいたしました!」

「ご心配を有難う御座います」

一応礼は言っておこう。 ニッコリを添えて。
そう言えば自分・・・いつからか結構悪魔になってきてるな。 地下の時にも四方に対して本気丸出しモードをとらなかったような気がする。 したたかになってきたのだろうか。 それともこういうのを世渡り上手と言うのだろうか。

マツリが三人を連れてきた。

「初めまして、紫と言います」

男達が間の抜けた顔をする。 御内儀様になる方だと聞いている。 その御内儀様になる方から挨拶? どういうことだ?
男達が紫揺とマツリを何度も交互に見る。

「紫から話があるそうだ」

会える? とは聞いたが話とは言っていない。 もっと持っていき方を考えて欲しかった。 だが伊達に東の領土で民に声をかけているわけではない。 それなりに人と話すことが出来る様にはなっているつもりだ。

「お仕事中にすみません」

「あ・・・いい、え・・・」

「杉を切るってどうですか? 私も少し前に聞いたのですが難しそうですね」

「はぁ、まあ」

マツリが武官に元の位置に着くように言い、マツリ自身も少し距離を取った。 紫揺には紫揺のやり方があるだろうし、三人は呆気に取られている、暴れて紫揺に傷を負わすことなどないだろう。

「ご自分からここを希望されたんですよね? どうしてですか?」

「いやぁ・・・最初はスッキリするからだったけど・・・なぁ?」

「ああ」

「でも・・・うるさいんだよな」

「うるさい? 何がですか?」

相手はマツリでも武官でもない、何も知らない御内儀様になろうとしているだけの女人。 遠い存在ではあるが・・・宮の女人に何を考えられようか。

「ああしろ、こうしろって」

「それは・・・経験豊かな方の助言ではないのですか?」

マツリから木を倒すにも方向があると聞いた。 言われてみればそうだ、無暗やたらと木を倒していいものではない。
紫揺と男達三人の声は決して大きくはなく、杉山の男たちが話を聞こうと耳をそばだてている。 その男たちに『経験豊かな方の助言』 という紫揺の言葉が耳に入った。

「木を倒すことは危険が伴います。 倒した方にも周りにいる方にも。 それを教えて下さったのではないのですか?」

「そ、それはそうだが・・・」

同じ様に咎で杉山に通っていた者がとんでもないことをして、杉の下敷きになりかけたことがあった。
あまり責める言い方をしてはいけない。 北の領土に居た女たちのようになられては聞く耳を持ってくれなくなる、話が出来なくなる。

「最初はスッキリするからと仰いましたが、今はどうですか?」

ニッコリを添えて先程の話は責めたものでは無いと示す。

「最初は良かった。 斧を振るって斧で蹴倒しても誰にも文句を言われないんだから。 そんなこと他でやっちゃあ、すぐに武官に捕まる。 だから、気持ちよかった。 でもどれだけ斧を振るっても倒れない杉もあるし、方向が違うと言われる、面白くも何ともない」

「では何が面白いのですか?」

「・・・え?」

紫揺が口角を上げた。 これは心から。

「面白いということを考えて下さい。 何が面白いか、それは大切なことです」

この小さな女人は何を言っているのだろうか?
男達が海を知っていたならば大海に身を投じ、己は仰向けにプカプカと浮いているだけの存在と知るだろうが、哀しいかな男達はきっと大海を知らないだろう。 うつ伏せになり息を止めているだけ。

「斧を振るっても・・・」

男が口を噤んだ。 暫し待つ。

「それが欲しいわけじゃない」

ようやっと男が言った。 他の二人も頷いている。

「欲しいわけ? すみません、よく分かりません。 えっと・・・では何が欲しいんですか?」

よく分からないが、もしかして男達にとって欲しいと面白いは同義語なのかもしれない。

「木を・・・杉をブッ叩いてスッキリしてた。 それだけだったのに、色んなことを言われる。 腹立つだろ? ああ、御内儀様には分からないか」

「ん? 分からなくもないですよ? 裾をめくっただけで色々言われますから」

思わぬことを言われ男達が「裾?」と復唱してから笑った。

「御内儀様・・・だよな?」

「今はまだ違いますけど将来的にそうみたいです。 将来の内儀としての自覚は乏しいみたいですけど、それなりに頑張っているつもりです」

「え? そうみたい?」

「訳が分かっていないので。 でも教えられたことは身に付けるよう頑張っているつもりです。 私、本領の人間ではないので、御内儀様という言葉にも慣れ親しんでいませんし、宮というところも分かってはいません。 教えていただいて身に付けるようにしています」

本当ならこの世界の人間ではないので、だ。 日本で生まれ育ったのだから。 良くて東の領土の人間。 だがそんな事は言えない。

男達が口を開けたままで止まった。 男達にも想像の出来ない宮の生活。 それを何も知らない本領に生きてこなかった紫揺が教えてもらい身に付けるようにしていると言う。 ましてや・・・女人の衣を着ているが、ほぼほぼ女人として見えない紫揺が。
そういえばそうだ、紫揺のこの見た目。 マツリの趣味は幼子趣味なのだろうか。

「木を・・・杉をブッ叩いてはスッキリとしなくなったのですか? 色んなことを言われるから?」

ああ、そういう話だった。 それにしても御内儀様が “ブッ叩いて” などと言うものだろうか。

「いや・・・そうじゃないかも」

「それは?」

男達が目を合わし、己らの心の中を整理する。
紫揺はいつまでも待つ。 その為に来たのだから。

「ち・・・力まかせにして最初はスッキリとした・・・けど」

初めて口を開いた男だった。

「はい」

質問をしない。 相槌を打つだけ。

「・・・けど。 うっぷんがはらせるのに・・・色々言われて」

「はい」

「オレ・・・うっぷんは無くなった。 せいせいした。 それなのに色々言われて・・・」

「そうですか。 溜まったものを出すことが出来て良かったです。 それなのに色々言われてはまたうっぷんが溜まりますよね。 それで、せいせいしたあとは何がしたいですか?」

「え?」

「杉山では・・・杉で色々作ったりしているとも聞きました。 それはどうですか?」

「手・・・手先が器用じゃない」

「釘を打ったり・・・ギコギコって木を切るのは?」

鋸(のこぎり)という言葉があるのかが分からなかった。 だからギコギコ。

「釘を打つだけだったらいいけど・・・作るのは最初っから最後まで自分でやるもんだ。 オレたちは考えることも出来やしねーし」

「じゃあ・・・こことは違う所で硯を作っているのは知っていますか?」

「・・・知らねー」

ここまで三人の男たちが交互に話していた。 そして今、他の二人も首を縦に振る。
紫揺がマツリに目を合わせる。
少し離れた所に居るといってもいつでも紫揺を守れる距離を保っている。 会話もずっと聞いていた。

「一度硯の山に行ってもらってもいい?」

あそこなら今、誰もが同じようなレベルなはず。 やり方さえ教えてもらえば、それを素直にさえ聞いてもらえれば何とかなるかもしれない。
マツリが近寄って来る。

「岩石の山のことは皆で話していたと思うが聞かなかったのか」

「話なんてしねえ」

話はあったのだろうが耳を傾けなかったということか。 京也も無理に引っ張り込もうとはしなかったか。 ・・・この三人は杉山から離す方がいいのかもしれない。

「けどオレたち、手先が器用じゃねーから物を作るなんてこと出来やしねぇ」

「ここではどんな風に作るかは知りませんが、私の知るやり方では岩石を落としたあとはヤスリと砥石と彫るための刃物を使います。 たしかに不器用では出来ないかもしれませんが、やり方さえ教えてもらえば黙々と一人で出来ると思います」

マツリが驚いた顔を見せた。 どうしてそんなことを知っているのか。

「ち、小っせーのに、そんなことをどうして知ってんだ?」

マツリと同じ疑問を男が持ったようだが、男の言いように残りの二人が驚いた顔をして声を発する。

「オイ!」

「御内儀様だ!」

そう言われればそうだった。 見た目は小さいけど話口調はしっかりとしていた。 御内儀様だった。 姿形に惑わされてしまった。

「あ! すんませんっ」

「背が高くないのは事実ですから」

決して低いとは言わない。

「いい?」

マツリを見て言う。 本当なら「マツリ? いい?」と言いたかったが、澪引は四方のことを四方様と言っている。 紫揺も本来ならマツリ様と言わなければいけないのだろう。 特に民の前だ、マツリをないがしろにするようなことは言えない。 だが今更マツリ様とは呼びたくない。 よって短縮した。

「試してみるのも一つであろう、だがそれでやりたくないようなら中心に戻す、それで良いか」

男達が互いに目をやり頷く。
とことん杉山は嫌なようだ。

「それと先程の我の内儀になろうとしている紫に言った言葉。 不敬罪にあたろう」

「え?!」

「紫どうする」

「事実だから。 そんなの要らない」

すんません、すんません、と男が何度も頭を下げる。 もう二度と杉山通いは嫌だ。
もういいですからと、男が頭を下げるのを止めると話を続ける。

「明日・・・杠に一度ここに来てもらってから出る?」

今日の昼餉頃には杠が紫揺を迎えに来ることになってはいるが杠も紫揺も馬である。 徒歩でどれくらいかかるか紫揺は知らない。

「いや、杉山から岩石の山に通っている者たちがおる。 明日、その者たちと共に岩石の山に行くが良いだろう。 今日は最後まで杉山で働くよう。 言っておくが、硯の方はものになるまで給金は無い、ものになっても賃仕事になろう」

いま岩石の山に居る者はそれを承知で岩石の山に行っている。 金より自分たちが何をしたいのかを見つけた何よりもの証。
杉山でもまだまだ使いものになってはいないこの三人。 給金は他の者より随分と安い。

武官に明日朝、岩石の山に向かう者たちの中にこの三人を入れるように言うと、三人を元の仕事に戻した。

男三人が元の場所に戻りながら考える。
紫とは御内儀様とは・・・体は小さいが、背は低いが、女人には見えないが、内面がしっかりしているようだ。 もし高飛車な宮の女人なら不敬罪に処されただろう。 だが宮の者では無いと、この本領の者でもないと言っていた。 そして頑張っていると。
マツリの趣味は見た目ではなさそうだ。

「まだ時があるがどうする」

山の中を歩いてみたいが裾をめくるなと言われる。

「やっぱり剛度さんに借りてくればよかった」

木に座りながら膝の辺りを摘み上げてヒラヒラとさせる。

「たくし上げるな」

それでなくても宮では足首さえ見せないのに、この民の女人の衣装は足首がしっかりと見えている。
いったい日本でどんな教育を受けてきたのか、再々そう思うマツリだが、もしそれを問うてレオタードの説明をされれば顎が外れるどころか白目を剥いて倒れるかもしれない。 紫揺は着たことは無いがビキニなど言語道断だろう。

結局、紫揺は木に座ったままで、マツリが時折見回りに回るだけということになった。 見回りから戻って来ても他の者の耳目がある、二人の甘い時間とは程遠いものであった。
マツリが何度目かの見回りに回っている時、ふと何かに気付いた。 それは前にもあった感覚。

―――呼ばれている。

香山猫のことを教えてくれた大木。 あの大木が呼んでいたと同じような感覚。 まだギザギザとした声は聞こえていない。 距離があるのかもしれない。

「マツリ・・・」

マツリの姿を探すがどこにも見えない。 座っていた木から立ち上がる。

「武官さん!」

大声を出した紫揺に驚いた武官が走り寄ってきた。

「何か?」

「マツリが戻って来たら、あっちに行くって言っておいてください」

後ろを指さすがその先はまだ誰も入ったことのない所だ。

「お一人で? 危険で御座います」

「用が終われば戻って来ます」

「用などと、あ! 紫さま!」

紫揺が前の裾をたくし上げて走り出した。 武官もすぐに追おうとしたが、二人一緒に姿を消しては騒ぎになるだけだ。
すでに男達は登っていってしまっているし、他の武官も先に居る。 踵を返し走り出す。 最初に見かけた武官に今のことを伝えようとした時、丁度マツリが下りてきた。

「マツリ様! こちらに!」

武官が元に戻りながら今のことを伝える。 マツリも武官のあとに続き走り出した。
紫揺が座っていた木のところまで来ると「あちらに!」 と紫揺が走って行った方向を指さす。

「紫のことは我が追う。 杉山の者たちを見ておれ」

言い残すと紫揺の気配を追った。

(どこ・・・どこから呼んでるの)

そうは思うが、無意識下でどこから呼ばれているのは分かっているのだろう。 迷うことなく立ち並ぶ杉の間を足が勝手に動いている。 あの時のように。
手はスカートを持っている。 とてつもなく走りにくい。 一旦止まって両横の裾を持ちあげると後ろは尻の少し下までの長さにして裾を前で括った。 こうしてしまえば手を使える。

止まった足を再び動かす。 最初は上りだったが今では下りとなっている。 動きやすさに勢いが出過ぎないようジグザグに下りて行く。 と、目の先の地がなくなっている。
目の先の下には幅があり底にある川石が見える、深さの無い川が見える。 その川に行くには河川敷に降りなければいけないがかなりの段差がある。 段差は跳び下りられなくもない高さだが、着地地点の足場が悪すぎる。 拳くらいの石がゴロゴロしている。
嘘ではなく本格的に足を捻るかもしれない。 息を切らせながら辺りを見回す。 左に行けば壁面に足場になりそうなところがあった。

「あそこからなら下りられるかもしれない」

すぐに左側に走り出し、目的の場所を覗き込むとデコボコとした壁面。 思ったように充分に足場になる。
万が一にも失敗して足を激しく挫いてしまっては戻れなくなるかもしれない。 とっとと跳びたい衝動を抑えて壁面にしがみ付くように下りる。
川の傍まで行くと履き物を脱ぎ川を渡る。 再度履き物を履きそのまま対岸を走ると先ほどと同じように壁面がある。 デコボコとしたところを探してよじ登る。 後ろから見ていると正にガマガエルが壁面を上っているようだ。

登りきると先程のように杉が立ち並んでいる。 その間を走り上る。
走っているとマツリたちと一緒に居た杉山の様相とは違ってきた。 大きな岩があったり雑木が見えだし、足元には多種多様な雑草が生えてきている。
大きな岩は避けて走るが、低木の雑木の枝や鋭い葉に衣を引っ掛け手や足を切られる。 シダに足を取られて滑りそうになる。 それでも動く足は止まらない。
いつの間にか辺りはかなり湿っぽくなっていた。 山が吸い込んだ雨だろう、足元にも水気があり岩も水で光っているように見える。

マツリたちと居た所の杉は男達が両手を広げるとまわせる程度の太さだった。 だが今目の前にある何本もの杉はとてもじゃないが、一人の男が腕を回したとて到底とどかない太さ。 それに男たちが居た所の杉はスッと立っていたのに、目の前にある杉々はドシンとしていて樹皮が顔に見えなくもない。

紫揺の足が止まった。 ハァハァと息を上げている。

≪よう来た≫

ギザギザとした声が聞こえた。 この声の主が誰かは知っている。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第190回

2023年08月07日 21時34分33秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第180回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第190回



大門に行くと前回付いてくれた武官が二人待っていた。

「紫さま! お咎めがないようにして下さり、有難きこと・・・」

「どれだけ感謝を申し上げても足りぬことで御座います」

でっかい武官二人で足元に泣きつかれた。 えっと、これは元を作った・・・自分の罪か?

「あははー・・・」

声だけで笑うしかない。

前を百藻が歩き後ろから瑞樹が馬を曳いてやって来た。 前回乗った馬と同じ月毛の馬である。 相変わらずとても綺麗だ。

「武官さんには何の責任もありませんから。 今回もお願いします」

紫揺の言葉に武官二人が立ち上がり、そうだと思い出した。 ここで見張番から言われたこと。 改めて今にしてよく分かった。
・・・今日はどうなるのだろうか。

「はい、こちらこそ」

「今回はきちんと昼餉をとります」

アバウトだが大体の距離感は分かったし、前回と違い行く先の六都のことも知ることが出来ている。 前回のようにとばさなくてもいいだろう。
瑞樹が出してきた台に乗り馬にまたがる。 いつもなら台なしで騎乗しているのに、やはりスカートは扱いにくい。
顔を歪めながらスカートが翻らないようにしている紫揺を見て “最高か” と “庭の世話か” の目がより一層輝く。
その四人と見張番に見送られる中、額に額の煌輪を揺らせながら大門を出る。

大門が閉められるとすぐに四人が踵を返し大階段を駆け上がって行った。 吹っ飛ばされた履き物を下足番が拾いに行く。
間違いなくこの四人は紫揺の影響を受けている。

武官たち二人は紫揺のトンデモを一度経験している。 少々のことでは驚かないつもりだったが、逆に急に馬首を変え馬を下りると裾を上げ川に足を突っ込んだり、鞍の上に立ち上がるということも無く、首を傾げている。 ましてや「どこかお身体の具合が宜しくないのでしょうか?」などと尋ねてしまう始末であった。
紫揺にしてみれば、あの時は暑かったから川に足を突っ込んだだけで、今は暑くはない。 鞍の上には立ちたくても立てない衣裳であるという立派な理由があるというのに。

昼餉を辞する武官達を説得し、ましてや同席でゆっくりと昼餉をとり、余裕ブチかましで夕刻を過ぎた頃には六都に着くことが出来た。
(昔なら、あんまり知らない人と一緒にご飯を食べるなんて考えられなかったのにな)などとボーっとした時もあったというのに。 武官が大人しくしている紫揺を見て選ぶ道を変えたのが大きかったようである。

まずは文官所に足を運ぶ。 有難くも歓迎を受け挨拶を済ませるがマツリも杠もいない。

「マツリ様も杠殿も出ておられます。 戻って来られるまでこちらでお寛ぎ下さいませ」

ささっと、帆坂が茶を出してくる。
その後は紫揺の似面絵描きの事や書の話に移っていったが、入口でドヤドヤと声がする。 何事かと一人の文官が戸を開けると武官たちが流れ込んできた。

「これはこれは文官殿、紫さまの一人占めとは如何なことでしょうか」

紫揺を送ってきた宮都の武官達から聞いてきたのか、巡回に回っていた武官が紫揺を目にしたのかは分からないが、武官所に挨拶に行かなかったことが悪かったようだ。

「あ、すみません、遅くなって。 落ち着いたらご挨拶に伺おうと思ってました」

「ご挨拶などと、勿体ない」

そこに文官が入ってくる。

「武官殿は巡回の途中なのでは御座いませんか? ここで足を止めていても宜しいのですか?」

やばい。 悪い雰囲気が流れてる。

「あー! えっとー! そろそろ文官さんのお仕事は終わりですよね。 これ以上お邪魔をしてもなんですので、武官長さんにご挨拶をしてきます。 お話楽しかったです。 美味しいお茶を有難うございました」

止める文官たちを背に後ろに武官を従わせ、とっとと文官所を出るとそこに杠が帰ってきた。

「紫揺ぁぁーあー紫さま!」

「杠!」

「来たのか! ですか!」

「うん、今から武官長さんにご挨拶」

「お供いたします」

後ろの方で舌打ちが聞こえた気がしたのは気のせいだろうか。 いや、今もまだ聞こえている。 気のせいどころか完全に聞こえるように打っている。
背中に舌打ちを何度も受けながら武官所に入り武官長に挨拶を済ませる。 武官長室を出ると丁度交代の武官たちがゾロゾロと武官所に入ってきた。

「紫さま!」

「いらしておられたのですか!」

「お久しぶりで―――」

最後まで言わせることなく、武官達に取り囲まれそうになったところを杠が紫揺の手を取りすり抜けていく。
まさかそんなことは無いだろうが、今日から歓迎の呪詛が始まるかもしれない。 考えただけで眠れない気がする・・・。

とっとと紫揺を宿の部屋に入れる。 もちろんマツリの部屋に。 部屋の主不在であるが、杠の部屋に入れることは憚られる。

「腹は空いてないか?」

「うん、ちゃんとゆっくりお昼・・・昼餉も食べたから」

お昼・・・その後にどんな言葉が続くのだろうか。 日本というところの言葉。 己の気付かない所でこうして紫揺はやってきていたのか。 ずっと。

「そうか。 マツリ様はあと二刻(一時間)もすれば戻って来られる。 それまで待っていられるか?」

「うん」

どうしたのだろうか、いつもの杠と違うような気がする。

「杠どうしたの?」

「うん? どうもしていないが? いつまで居られる?」

気のせいだったのだろうか。

「五日は戻らないって言ってきたけど、今日で二日目だから・・・どうしようかな」

「そうか、マツリ様も一日くらいは・・・」

ああ、どうだろうか、などと一人で言っていると、ドンとぶつかられた。 紫揺が抱きついてきていた。

「うん? どうした?」

「久しぶりだから」

「そうか」

応えるように抱きしめてやる。 上から見る紫揺の額に額の煌輪がゆらゆらと揺らめいている。
マツリと一緒に居させてやりたい。

「硯の方どうなった?」

抱きついたまま上を向いて問いかける。

「まだまだ使い物にはならんが毎日作ろうと励んでいる。 宿所も造ってな、朝から頑張っているようだ」

促して紫揺を座らせる。

「使い物になる頃には岩石が無くなっちゃうってことない?」

「さすがにそれは無いだろう」

「明日見に行っていい?」

「少しはマツリ様とどこかでゆっくりすればいいだろう」

「さっきは一日くらいは、ああどうだろうかって言ってたのに? 今日はマツリどこに行ってるの?」

「杉山だ。 咎を受けて杉山通いをしていた者たちが杉山に残って働いているからな、問題を起こさないかどうかを見ておられる。 数人が何回か問題を起こしかけたそうだが・・・一日くらいは何とかなるだろう」

「そうなんだ・・・じゃ誰も硯の山の方を見に行ってないの?」

紫揺の言う硯の山とは岩石の山のことである。

「毎日俺が見に行ってる」

「じゃ、明日一緒に行こうよ」

「紫揺、聞いていたか? マツリ様との時を取らないでどうする、マツリ様にお会いするために来たのだろう?」

「うーん、それもなくは無いけど・・・どっちかって言ったら領主さんの顔を立てなきゃって」

「なんだそれは・・・」

「硯の事なら私も少しは分かるから。 あ、作り方じゃなくて仕上がった後の感触だけどね。 それに興味もあるし。 なにより六都の為になるんでしょ? ちょっとくらいお手伝いする。 出来るかどうかわかんないけど」

そう言われれば見事な達筆であった。 何度も墨をすって硯には慣れ親しんでいるのだろうか。

「マツリ様の役に立ってくれるということか?」

「・・・ん、まぁ、そんなところかな? マツリと杠の役に立てればいいかなって。 役に立てるかどうか分かんないけど」

相変わらず素直ではない。

そうこうしている内にマツリが戻ってきた。 戸を開ける前から紫揺の声に気付いたのだろう、思いっきり勢いよく戸を開けると座っていた紫揺を抱え上げた。 器用にクルリと紫揺の体勢を変える。 パンダ抱き、ぬいぐるみ抱き、なんと言おうが縦抱きに。 そっくり返る紫揺を無視して抱きしめる。

「いつから来ておった」

「そこそこ前。 夕刻が終わりそうな頃かな?」

「抱擁が終わりましたらちゃんと紫揺を下ろして下さいませ。 そうそう、マツリ様を待たれて夕餉もまだで御座います。 紫揺、長引くようであれば大声を出せばすぐに来る」

文官長の部屋の時のように長々とやられてしまっては紫揺の血の巡りが滞る。 開けっ放しの戸から出て行くときちんと戸を閉める。

「相変わらず忙しそうだね」

「そうでなければ東の領土に飛んでおる」

「杠から聞いたけど、今日は杉山で問題は起きたの?」

相変わらずだ。 どこの女人が男の仕事のことを気にするだろうか。 民の中には居るかもしれないが、それは少なくとも生活がかかっているということがあるから。 だが宮ではそういうことは一切ない。 女官たちも然りである。

「少々な、力山が上手くまとめてくれた」

もう一度紫揺をギュッと抱きしめるとストンと下ろす。 今日は血の巡り不通地獄には遭わなかった。 杠が言ってくれたからだろう、あれは辛い。

「疲れたでしょ、夕餉を食べよ」

しっかりと杠の隣の席に座った紫揺と三人で宿の一階で夕餉をとっている。 マツリからは杉山のこと、杠からは硯の岩石の山のことをしっかりと聞きながらの食事となった。
部屋に戻って湯浴みを済ませると、マツリと杠が酒を傾け、紫揺が茶を飲みながらたった一日だけだが宮都であった話をした。

「ほぅ・・・鈴の花か」

「言われてみれば・・・そうかもしれませんか」

酒杯を傾けた杠がしみじみと続ける。

「あと少しで御座いますねぇ・・・」

婚姻の儀まで。

「杉山が落ち着かんようであれば、応援の武官を頼むしかないか」

既に三十人の応援は来ていたが、婚姻の儀までに落ち着かないようであれば増員を頼むしかない。

「まさか杉山が落ち着かないとは思ってもいませんでした」

「問題ってどんなこと?」

「他愛の無いことから始まる。 だがそれが殴り合いになるから始末に負えん」

「婚姻の儀ということとは別に、問題を起こす者は杉山を辞めさせますか? 夜になった宿所でも喧嘩を吹っかけているのでしょう? いつまでも力山に頼ってはおられませんし他の者への影響もあります」

うーん・・・マツリが腕を組む。 いろんな問題を起こしてでも、一人ずつに向き合いたい。 杉山に残り働くという気を出した者を切り捨てたくはない。 だが杠の言うように他の者への影響もある。

「マツリ、明日も杉山に行くんでしょ?」

「紫揺、言っただろう」

「ちゃんと聞いてたよ、だから私も一緒に杉山に行く。 そのあとで硯の山に行く。 ならいいでしょ?」

「紫揺・・・」

堪らなく愛おしい。 なんて不器用なのか。 なんて素直じゃないのか。 どうしてもっと我儘を言わないのか。
堪らず頭を撫でてやる。
なんだそれは、といった目でマツリが二人を見ながら酒杯に口をつけた。

翌朝早くマツリと紫揺がそれぞれ馬に乗り杉山に向かった。 杠はマツリが杉山に行く以上は金河の接触を待たなくともよい。 柳技たちや、今はもう逃げることもなく動けている享沙たちからの接触が無いかどうかを確かめてから、紫揺曰くの硯の山に向かった。

初めて杉の山に来た紫揺。

(わぁ、花粉症を思い出す)

友達や会社で花粉症に悩まされていた人たちがいた。 目を真っ赤にしたり、鼻づまりの声を出したりしていた。 杉だけではなかったのだろうが、花粉症にならなかった紫揺にしてみれば全員が杉花粉と思えてしまっていた。

杉山の男たちが作った馬の手綱をかける木には既に何頭もの馬が繋げられていた。 武官たちの乗ってきた馬だろう。 マツリが二人の乗ってきた馬の手綱を引っ掛けると杉山に向かう。
もう既に木を切る音がしている。 チェーンソーの音ではない、斧で木を打っている音。
裾をたくし上げマツリの後に続く。

(筒ズボンならこんなことしなくてもよかったのに・・・)

ブツブツと文句が心の中に出る。
暫く歩くと上から声がかかった。 見張の武官のようである。

「マツリさ・・・あぁ? むっ、紫さまぁー!?」

裾をたくし上げた坊ではない紫揺の姿がマツリの後ろに見えた。 御内儀様の足が見えている・・・。
ここに “最高か” と “庭の世話か” が居れば、武官の目をひと突きで潰していたかもしれない。

(あの武官さんは確か・・・)

紫揺が記憶を遡る。 戸木の河原で三段肩車をした内の一人、一番上に乗っていた武官。

「お早うございます。 その節は有難うございました」

自分を覚えてくれていた・・・のか? 確信が欲しい、確認を取りたい。 すっかり御内儀様の足のことなど忘れてしまっている。

「お早うございます。 来て頂けるとは・・・。 えっと、それでその節とは?」

間違いなく答えて欲しい、社交辞令であればショックが大きい。

「覚えていらっしゃいませんか? 私が高い枝から跳び下りようとしたとき、他のお二人と肩車をして下さって、武官さんの肩に乗ろうとしたのを」

間違いなく覚えてくれていた!

「そうです! それが己です! 覚えていて下さいましたか!」

「はい、凄く残念だったから」

残念・・・あの時の杠の言葉と紫揺の顔を思い出す。 
『大人しくされるがままで終わると思われますか? 枝を蹴って一番上の武官殿の肩の上に跳び乗ります』
そしてへの字に口を曲げた紫揺。

その時のことを武官だけではなく紫揺も思い出す。

「あは、あははは」

杠の言葉の記憶は笑って無かったことにしよう。

マツリの知らない間の会話をされている。 スコブル気分が良くない。

「あの者たちはどうだ」

「あ! はい! 今日はまだ大人しく指導を受けております!」

(この武官、この一瞬、我の存在を忘れておったな・・・)

完全に紫揺との二人の世界に入っていたようだ。 杠にも澪引にもシキにも紫揺を取られると言うのに武官にまで取られてなるものか。

「指導?」

木を切るだけなのに?

「枝打ちやら木を倒す方向、担いで下りる時の注意、色々あるからな」

振り返ったマツリが眉をしかめるとそっと紫揺の手を下げさせる。 裾をたくし上げ過ぎだということである

「そうなんだ」

切ればいいってもんじゃないのか。
夕べ特に問題を起こすのは三人と聞いた。

「ね、夕べ言ってた三人の人に会える?」

紫揺と武官の中継にマツリが入る。

「問題の者たちは何処に居る」

「この先の一番後ろに居ります。 呼んで参りましょうか」

マツリが紫揺を見る。 どうする? という目で。 紫揺のことだ、自ら足を運ぶと言うだろう。

「うーん、もう少したくし上げてもいい?」

上り坂である。 さっきマツリに降ろされた程度では踏んずけてしまいそうである。

「いかん」

言ったかと思うとヒョイと持ち上げる。
民の目の前でこういう姿が宜しくない事は分かっている。 あとで杠に言うとコンコンと説教をされるだろう。 だが将来の御内儀様の立場にある紫揺が足を見せる方がよほど宜しくない。

「わっ! ちょっと! 歩けるわよ!」

「騒ぐ方がみっともない。 堂々としておれ」

抱っこされてどうやって堂々としていろと言うのか。
そんな紫揺の思いなどどこ吹く風。

「ここに居なくてはならんのだろう、案内は要らん」

目を逸らす武官を置いて、紫揺を抱えたままスタスタと杉山を上がっていく。
マツリの姿を見止め、慌てて降りてきた武官やって来た時にもしっかりと目を逸らしてくれた。

暫く歩くと数人の武官と杉山の者たちの姿が見えた。

「あ? え? 紫さま?」

紫揺を抱えるマツリの姿が武官の目に入った。 そこには杉山の者たちもいる。 杉山の者たちは紫という紫揺の名前を知っている、そしてどのような立場にあるのかも。 誰もが振り向く。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第189回

2023年08月04日 21時16分12秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第180回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第189回



六都に戻り、翌日飛尾伊に会うと受けてくれた礼を言い、まだしばらくはそのままでいるようにということを伝えた。 そして足を官別所に向けると一人一人に向き合い咎を言い渡していった。

四方は飾り石の咎の後に決起の咎と言っていたが、二度手間など踏む気はない。 決起のことへの追及、断罪も行った。

十日の労役は百二十七名中、五十九名が飾り石の窃盗未遂だけの咎ということになり、決起へのことは訳が分かっていなかったようだったが、結果としてどういうことになるのかをよくよく言ってきかせた。 五十九名の中には女子供が沢山いた。 よって労役はどぶ板をめくっての清掃。 あくまでも十名と九名単位で腰と足に縄を繋を繋ぐ。 しっかりと指をさされ笑われてもらう。

三ヵ月と十日の労役は四十七名。 同じく飾り石の窃盗未遂に加え決起の意味を分かっていたようだった。 そして言うことは、一番性質の悪い『面白そうだった』 である。 意味が分かっていてそう言うのだから、三ヵ月では甘いくらいだが、こちらも未遂であるのだから仕方がない。

そして下っ端のまとめ役となっていた者たち二十名には七か月と十日の労役。 六都の中心的なまとめ役となっていた者一名には一年と十日の労役。 人の頭に立っていたのだ、未遂であってもそれなりの咎を受けてもらう。
いずれも労役先は杉山。

朝から夜遅くまで行われ、十日以上を要した。 決起のことを分かっていなかった者と『面白そうだった』 と言った者への言いきかせは文官に任せたもののクタクタである。
特に下っ端のまとめ役の中には、シラを切る者もいてこれが長引いた。 結局マツリの目を使わなくてはいけなかった。 使った上で圧をかけ自白させる。 それでも簡単に吐くことが無かったのだから、何度も声を荒げることもあった。

咎の言い渡しはすぐに宮に早馬で走らせた。 他の都がどう判断を下すかなどもう待っていられない、これを参考にするだろうという思いもある。

「お疲れ様で御座いました」

宿に戻ると杠が待っていて茶を差し出す。

「そっちはどうだ、順調に進んでいるか?」

杠は岩山の宿所を建てるにあたり、毎日杉山と岩山を行ったり来たりしている。 もちろん馬に乗って。

「木材は大分、運び込めました」

注文を受けている杉がある。 その杉を屋舎に運ばなければならないし、売らない杉を岩山に運ばなければならない。

「杉山の者たちが荷馬車を手作りしまして、新たに四頭の馬を借りて二手に分かれて運び込めました」

「なんでもよく作るのお」

「その者たちが杉山に残りたいと言っている者です。 あの者たちの作る物はよく売れております。 元より作ることが好きなのでしょうが、売れるということがまた良いのでしょう」

「皆が皆、そう思えば良いのだがな。 明日より労役を始めるが杉山は大丈夫か?」

「ええ、来ても何も出来ませんでしょうし、当面は行って帰るだけでしょう。 邪魔にもなりますまい。 それより・・・三十名の応援の武官、今は無理でしょうか?」

まだ来ていない。 宮都もこれから咎人で忙しくなるだろう。

「ああ・・・そうだな。 さすがの我も今は言いにくいか」

咎人に付ける武官の数は限られている。 元々しっかりと縄で繋いではいたが、二重三重の縄でしっかりと繋ぎ、杉山まで通わせなくてはならないということになってしまった。


それから十日後、宮都の硯職人が帰っていった。
最初は硯に出来る山かどうかを見てもらうだけのつもりだったが、硯職人が懇切丁寧に仕上がりまで教えたようである。

「あれだけやる気があれば、何とかなりましょう」

そう言い残した硯職人に都庫からしっかり謝礼金を出させた。

道具も買ったのだ、岩石の山に残る者たちには途中で投げ出さず、しっかりと働いて元を取ってもらわねば困ると、持ってきた謝礼金と共に依庚に釘を刺されたのは言うまでもない。


二都から一都、三四五六都を回った柴咲と呉甚を乗せた馬車が宮都に戻ってきた。
三四五都はそれぞれ三百名前後、宮都では百三十四名が捕まった。 六都に続いて宮都は数が少ない方であった。

「何も分かっていない都と、宮のことを分かっている宮都が似たような数だとはな・・・」

皮肉なものである。

六都に馬車が入って来た時にはマツリが付き添ったが、結局、漏れることなく全員を捕まえられていたことが分かった。 まだ咎の言い渡しがあるかもしれないと思っていたマツリが、やっと上がっていた肩を下ろすことが出来た。

三か月と十日の労役を終わらせた者の中には、杉山に残る者も現れた。 その頃には岩石の山に宿所が建ち、硯を作りたいと言っていた者が移っていった。 丁度入れ替わりに新しい者が杉山の宿所に入ることとなった。
まだ岩石の山に行くかどうかを決めかねている者は暫く通うということであった。 そして岩石の山に入った者は、当分自警の群からは抜けると聞いた。
硯はまだまだ歪なものが多く、思い通りには出来ていないようだが、己に文句を吐きながらも投げ出すというようなことはないようだった。

七か月の労役の者たちは下手な矜持があるのだろう。 労役の間、仕事に行かなかったのだから首は切られていたが、それでも杉山に残るとは言わなかった。 仕事がなくなり悪さをするかもしれないという懸念はあるが、もう二度と杉山通いはしたくないだろう。



「うーん・・・やっぱりどっか違うかなぁ・・・」

はっきりと言ってくれる紫揺にガクリと葉月が肩を落とす。

「そうですよね・・・」

この東の領土にはカカオの木などない。 日本のようなチョコレートが作れない。 似た味を色んなもので作ってはみていたが、やはり違うと味見をしていた葉月にも分かっていた。

「でもこうしてパフェにしたら、またちょっと違う感じのチョコレートパフェでそれなりに美味しいよ?」

「・・・それなり」

「あ、失言。 美味しいです、はい。 この生クリームなんて最高」

ケーキは既に食していた。 絶妙に美味しかった。

「バナナが無いのもイタイし・・・」

葉月の考えるチョコレートパフェにはバナナは外せない。
此之葉が呆れた顔で二人の会話を聞いていると外から声がかかった。 阿秀である。

「シキ様が見えられました。 領主の家までお願い致します」

葉月も此之葉も婚姻の儀のことは聞いている。 紫揺からもシキが来るかもしれないとも聞いている。 そのことで来たのだろうか。 いよいよなのだろうか。

領主の家に行くとシキが音夜を遊ばせていた。 童女はかわいいわね、などと言いながら。
音夜はこまっしゃくれたところもなく、誰にでも懐いて好かれやすい。

「久方振りね、紫」

「わざわざ有難うございます」

座ってちょうだい、と言いながら隣の席を示す。

「東の領土の祭はどうでした?」

先月は東の領土の祭があり、今月には紫揺の二十六の歳になる祭りがある。

「はい、民が楽しく祭を迎えることが出来ました」

「マツリは来たのでしょう?」

「はい。 でも六都が忙しいようでそんなに長くは居ませんでした」

武官の人数が限られている。 マツリも武官と同じように咎人の見張に杉山に毎日通っていたということであった。

「マツリったら・・・」

「宮には戻らなかったんですか?」

「ええ、どこの領土の祭に行くにも六都から六都よ」

そこに目立つお腹の耶緒がやって来て紫揺の茶を置く。 今回は悪阻も殆どなく落ち着いて過ごすことが出来ていた。 紫揺が来るまでにそんな話をシキとしていた。

「今日来たのは婚姻の儀のことなの。 領主とのお話は済ませたのだけど、明空(あけそら)の月はどうかしら? それまでには準備も整うわ」

「明空の月?」

宮では祝い事に一の月二の月などとは呼ばない。 それぞれの月に意味を持った呼び方をしている。 明空の月とは読んで字の如く、空が奇麗に澄んでいることが多い月ということである。

「ええ、十の月のことよ」

――― あと約半年。

分かっていたとは言え、目の前で具体的に聞かされるとドキッとするものがある。

「明空の月なら今から各領土や本領内での招きをお知らせするのにもいいでしょうし、霜降り月、十一の月のことね、そこになってしまうと本領が少し寒くなり始めるの」

ああそうか。 東の領土とは違うんだ。
黙って聞いていた領主を見るとにこやかに頷いている。

「はい・・・じゃ、明空の月で」

次期領主の婚姻の儀は満月を挟んで前後合わせて三日間。 そしてその前後に二日間があり合計七日間。
シキが相好を崩す。

「楽しみだわ」

細かいことはもう領主に話したのだろう、早々に本領に戻ることを告げる。

「領主から領土は落ち着いていると聞いたわ。 また宮に来てちょうだいね」

本領から戻ってこの数か月、徹底的に領土を回った。 そして先月の祭があった。

「はい」

婚礼の儀の前に一度は落ち着いてマツリと会っておきたい。 それに領主がマツリに紫揺を本領に来させてくれと言われたことを気にして、何度もマツリに逢いに行ってはどうかと言っていた。 領主の顔も立てなくては。
そして理由はもう一つ。 紫揺が六都に行っている間に、お付きたちが順番に想い人の所に行っていたらしい。 紫揺が戻ってきた時、阿秀が最初は交代で迎えに来ていたと言っていたのは、そういうことだったらしい。
阿秀と野夜と醍十、塔弥は毎日来てくれていたそうだが、お付きの者たちにもそういう時が必要だろう。 でなければいつまで経っても結ばれない。

それから三日後、紫揺が本領に向かった。
いつ戻ってくるかは分からないが、少なくとも五日は戻って来ないからそれまでは迎えに来る必要が無いと言い残して。

前回同様、洞を抜けた後までの岩山までは秋我が付いた。 紫揺がまた宮を出ると言ったからである。

宮に入るとタイミングが良かったのか、四方に挨拶をすることが出来た。

「先刻領土に戻る時にはご挨拶が出来ず申し訳ありませんでした」

なにか挑戦的に聞こえるのは四方の気のせいだろうか。

「澪引から聞いておる、それで十分だ。 マツリとの婚姻の儀を澪引とシキが進めておるが異論はないか」

「はい」

「これから六都に向かうのか」

相変わらず腹立つおっさん。 本当にあの澪引の旦那なのだろうか。 こんなおっさんを半年後に義父と呼びたくはないが仕方のないこと。 歯を食いしばって呼んでやろうじゃないか。

「はい。 マツリが東の領主に私を六都に向かわせるようにと言っておりましたので、約束を果たしに行きます」

どうだ、こう言えば納得するか。 言い出しっぺはマツリなのだから。 おっさんの息子なのだから。

約束を果たす、と? 決闘でもしに行くのか! と突っ込みたかった四方だが言おうとしていたのはそうではない。

「・・・紫」

「はい」

「婚姻の儀を撤回するようなことは無いな」

「え?」

おっさん、何を言っている?

「マツリの奥になるのだな」

おっさん、壊れたか?

「その・・・つもりですが・・・」

何を言いたい、壊れたおっさん。

「そうか。 我が義娘となることを待っておる」

三百六十度回って壊れた位置に戻って、遠心力で最後のネジが吹っ飛んで完全に壊れたか?

「何も知らない不束者ですが、東の領主に恥じることのないよう努力いたします」

こんな返事でいいのだろうか、壊れたおっさんに。

「・・・そうか、そうであったな」

何が?

四方との挨拶を終え客間に戻ってきた紫揺。 “最高か” と “庭の世話か” によって着替えさせられ澪引の部屋に通された。
シキが泊まり込みで澪引と招待状の準備をしているところであった。 何もかも澪引とシキ任せで申しわけないと思うが勝手が全く分からない。 結納なるものもあるのだろうか。

「気にしないでちょうだいな、わたくしが輿入れした時もそうだったのよ。 何もかも義母上と四方様がして下さっていたわ。 宮のことなど分からないものね」

「四方様が? それじゃあ、マツリがお手伝いできない分、私がします。 その、教えてください」

澪引とシキが目を合わせて微笑み合う。

「母上が気にしないでと仰ったでしょう? それにマツリの代わりはわたくしがしているわ、ね?」

それにと、一から十まで澪引とシキがするのではないということであった。
招待状にしてもどんな紙で出すのか、どんな文章で出すのかなどを決めるだけで、書くのは文官たちであるらしいし、準備に走り回るのは従者や女官たちであるらしい。

「気に入ってもらえるかしら、母上と相談をしてこういう文で出そうと思うの」

文は通常の連絡用の料紙と違い、紫揺をイメージしたというスズランのような花が右上に型押しされた和紙で、招待の文言の後ろには邪魔にならぬよう薄っすらと、これまたスズランに似た絵が描かれている。
一目見ただけで涼やかな感じを受ける。

「わぁ・・・可愛らしい」

「気に入って?」

「はい、とても」

「良かったわ。 東の領土に行く前から母上と相談して紫には鈴の花を思わせるところがあるって話していたの。 だから既に作らせていたのよ」

スズランではなく、鈴の花というらしい。

「これからはこの鈴の花が紫を表すことになるのだけど、宜しくって?」

「はい」

嬉しそうに型押しされた部分を撫でている。

「紫のお蔭でこうしてシキと楽しむことが出来るわ。 それにこういうことは楽しくってよ」

「ね、だから紫は気にしなくていいのよ。 それに紫も跡目を生んだ時にはすることよ。 その時に楽しんでおやりなさいな」

そうだった。 跡継ぎを産まなくてはいけなかったのだった・・・。 何故だか次代紫を生む自信はあるのだが跡継ぎを産める自信はない。 ここに来て次期本領領主の元に嫁ぐのだということを痛感した。
プレッシャーだ・・・。

そこに千夜がやって来て「反物の出来を見て頂きたいのですが」と言う。 澪引とシキが目を輝かせて立ち上がり紫揺を誘う。
反物を見る目など持っていないが、今日一日は澪引とシキに付き合おう。 明日一番に六都に向かえばいい。

翌朝、よく分かっている “最高か” と “庭の世話か”。 紫揺が前回マツリに買ってもらった六都から着て戻ってきた衣裳を用意していた。 ちゃんと洗って保管してくれていたようだ。 今回はうっかり剛度に借りてこなかった、助かった。

「澪引様がこのような衣装ではと仰ってご用意して下さったのですが、六都に行かれてはあまりに目立ってしまいますので何かあってはと、ご辞退申し上げましたが宜しかったでしょうか」

澪引はどんなものを用意したのだろう・・・。 考えるだけでちょっとコワイ。

「はい、これがいいですから。 って、これでもちょっと動きにくいんですけど」

「はい?」

「あ、いえ・・・」

「紫さま・・・まさかまた欄干をお歩きになるようなことをされていらっしゃるのでは・・・」

「いえいえ、そんなことはしてません」

そんな程度のことは。

「えっと、馬に乗るのにちょっとフサフサし過ぎかなって思っただけです」

いわゆるスカートである。 馬に乗ることだけを考えてもとっても鬱陶しい。 サッと鐙(あぶみ)を外して鞍の上にも立ちにくい。 裾を踏んずけてこけるかもしれない。 剛度に借りた筒ズボンが恋しい。

「あ? え? あの、皆さん?」

一瞬の間に “最高か” と “庭の世話か” が座り込んで円陣を組んでいる。

「馬に乗られるということは・・・」

「下穿きは筒の方が宜しいのかしら」

「紫さまが来られるときは、いつも下穿きは筒よね」

「でも御内儀様よ? 下穿きが筒などと・・・」

品位が下がる。

「どう致しましょう・・・」

「絹の筒穿きは・・・」

「駄目よ駄目、基本よ、御内儀様が筒穿きなどと」

「でも馬に乗られるのよ?」

全員が黙った。
終わりのない話のようだ。 どうしよう・・・。
円陣の会話を聞いていた紫揺。 完全に迷惑をかけているようだ。

「あ、えっと、これで六都に行きますから。 全然大丈夫ですから」

梨はもげないな、ってか、この季節、梨は無いか。 うん、梨の諦めはついた。 それにきちんと昼餉をとらないとまた杠が武官に怒り出すかもしれない。

「そうだ、ちょっとお願いをしてもいいでしょうか?」

紫揺が何やら説明をする。 澪引もシキもそうだが、特に女官たちは針を持つことに長けていると昨日シキから聞いた。

『母上とわたくしは刺繍程度なの、でも女官たちは優れているわ』

反物の確認を終わると、日本で言うところの引き出物を作っている部屋に通された。 そこでは絹を使ってショールのようなものから羽織る物を縫っていた。
今は婚姻の儀に向けて縫っているが、常は澪引やシキや宮の客人の衣装、従者や女官たちの衣装も縫っているという。
女官たちの腕の良さをまざまざと見たのだった。

「色とか上衣とかはお任せします。 次にまた来る時まででいいので、ゆっくりでいいんですけど、お願い出来ますでしょうか?」

四人が目を輝かせる。

「もちろんに御座います!」

すぐに神業で寸法を計られた。 そのチームワークの良さには驚くものがあった。

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