大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第186回

2020年09月28日 22時35分37秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第180回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第186回



四方たちが頭を悩ませている間『しばしゆるりとされよ』 と言われた東の領土ご一行は昼食を供されていた。

四方が出て行った直後、やってしまった紫揺は落ち込み、領主は呼び捨てのマツリ宣言と四方への難詰に瞬時にして精魂尽き果て魂が抜かれたようになり、此之葉はこういう紫を “古の力を持つ者” としてどうすればいいのか頭を巡らせ、秋我においては、何を考えることすらも出来ない状態であった。

そんな状態であった時に、割れた光石の片付けが始まり、一行は和室に移ることとなった。 片付けている者達の横からしずしずと何人もの女が入ってきて、それぞれの前に膳を並べたのだった。

「どうして日本を経由することを避けるんでしょうね」

落ち込んでも立ち直りは早い。 相手は四方なのだから。

「日本を認めてしまうことになるからでしょう」

「日本を認めなかったら私が居ないのに。 日本は認めないけど、日本で育った私は認めるって、変な話」

「紫さま、どうか、その・・・この本領に居る間だけは、四方様のお立場や紫さまのお立場をお考えになってお話し下さい」

「あ。 はい。 さっきは言い過ぎました。 反省してます。 でも、のらりくらりとしていては、結果が出ないんじゃないでしょうか。 このまま無かった事にされたらどうするんですか?」

「いいえ。 四方様はそういう事はされません。 必ず答えを出されます。 殆どの場合、すぐその場で。 洞のことを追々と言って下さったのは、余ほどに紫さまのことを考えられたからでございましょう」

「余ほどに考えた割には答えが早かったですね」

「それでこそ、本領領主であるということで御座います。 問われれば即座に答えられます。 それが本領領主を知らない者には少々冷たく映っても仕方がありません。 その四方様が今のように時を持って考えられることの方が珍しいのです」

「ってことは、唱和様を本領に連れてこようと考えているということですか?」

「まずそうでしょう。 北の領土の道がどのようなものかは分かりませんが、簡単に本領に来ることが出来ないのでしょう。 我が領土も独唱様がお歩きなられることはもうままなりません、紫さまが仰ったように似たようなものなのでしょう。 それを思案されていることと思います」

「だから日本で会って。 日本経由にすれば、東の領土に帰るまで歩くことなんて殆どないのに。 あ、分かってます。 日本を認めていないんですよね」

あの頑固ジジイは。 と思っても口には出さない。

最初、膳を出されても手をつけられなかったというか、喉を通らず箸を置いてしまった此之葉と秋我に「残してはならんぞ」 と領主から言われた二人が喉を潰すように、やっと最後の一口を飲み込んだ。 紫揺と領主に至ってはもう茶を飲んでいる。 隅に控える女が此之葉と秋我に茶を出し、空になっていた紫揺の椀におかわりを注ぐ。

「どうするんでしょうね」

三杯目の茶に口を付けた。 この茶は、来た時とその後ともまた違う茶葉で淹れたものだろう。 これも気に入った。

此之葉と秋我も茶に口を付ける。 無理に通した喉が弛緩していくようだ。

「これも上手い茶ですね」

「本当に」

静かな二人の声が和室に豊かに広がった。

膳が下げられると、ご一行は片付けられた板間に戻った。 上を見ると新しい光石が取り付けてある。 するとそれを見ていたかのように四方が戻ってきた。

「少しはゆるりと出来ましたかな?」

最初に入って来た時と同じように大股でやって来た。 後ろについていた男が椅子を引く。

「お心づかいに感謝申し上げます」

それで、と急いて訊きたいが訊けるものではない。

「すぐに来ると思うが・・・ああ、来たか。 入りなさい」

「シキ様!」

そう言って立ち上がったのは秋我である。

「あの折には世話になりました」

ゆっくりと入ってきたシキが秋我の正面に立つと、顎を引くくらいに頭を下げる。

「とんでもございません。 シキ様のお声により、民の悲しみがどれほど癒されましたでしょう」

こちらは深々と頭を下げる。

「お役に立てたのなら嬉しく思います。 どうぞ、お上げになって」

(へぇー・・・キレイな人・・・。 この人がリツソ君の姉上)

優しい桜色をした衣裳は日本の着物と同じように前合わせをし紫色の帯を巻き、その上に重袿(かさねうちぎ)を着ているが、日本の着物とは少し違う。 着ているものが着物に比べて随分と生地が薄く、帯も半巾帯ほどもない。 そして何より、帯の下は裾広がりになって、後ろではまるでドレスのように足元で裾を引きずっている。 もちろん袴などは穿いていない。

「辺境でのこと、秋我から聞いております。 なんとお礼を申し上げればよいか」

立ち上がって言うと、こちらも深々と頭を下げ、此之葉が倣って頭を下げるのを見て紫揺も同じように立ち上がり頭を下げた。 四方にはしたくないと思った所作であった。

「どうぞ、お上げになって。 領主、祭の際には世話になりました」

「行き届かないことが多くありました事と存じます」

「そんなことはありません。 楽しく過ごさせて頂きましたわ。 どうぞお掛けになって」

そう言うと四方の隣に座った。 目の前ではちょうど紫揺が座ったところだ。

「紫ね?」

何とも美麗な笑顔を向けて尋ねてきた。

「はい」

真っ直ぐに見る目をシキに返す。 シキが安堵に似た目を返す。

「“古の力を持つ者” 此之葉、久しいわね」

視線を此之葉に変えて言う。

立ち上がって辞儀をするとシキが頷いたのを見て座る。 シキとは祭で顔を合わせている。

「此度のことは見抜くことが出来なかった、我らが祖の手落ちかもしれないということ。 北の領土はわたくしの見る領土ではありませんが、もしその者が東の領土の民なれば放っておくことはできません」

領主を見ながら言っていた視線を此之葉に戻した。

「見抜くことができるのね? 解くことも」

封じられているかもしれないということを。

「・・・はい」

先程の勢いが消えている。 念を押されて自信を無くしてきている。 だが独唱から言われている。
『自分を信じねば何も出来ん。 今の此之葉に足りんのは自信だけだ』 と。

「独唱様ほどの力はまだ御座いませんが、独唱様以上の力を持つ者など居りませんでしょう。 私でも十分に見抜くことができ、解くこともできます」

自分に言い聞かせるように口にした。

「ではその時にはお願いね。 早くて明日になります」

此之葉に言うと領主に目線を変えた。

「明日? ですか?」

今日ではないのか?

「ええ。 昨日マツリがその者と会っています。 体調が良く見えなかったそうですから無理を強いられないの。 今またマツリが様子を見に行っています。 その様子で早くとも明日ということになります」

「では・・・」

「ええ。 領主が忙しいのは承知しております。 ですが、その者をここに連れてこられるまでは、此之葉をここに置いていてほしいの。 領主もご心配でしょうから、此之葉とご一緒にと申したいのですが、いかがかしら?」

領主が秋我と目を合わした。

「領土の方は私が見ておきます」

「いや、祭の後の民は落ち着きがなくなっている。 それに紫さまのことで落ち着きどころか、民が浮足立ったままかもしれん。 私が戻る。 秋我が残ってくれ」

「あの・・・私はどうすれば・・・」

小声で領主に訊いた紫揺に応えたのはシキ。

「紫もここに居てもらえないかしら? 沢山お話がしたいわ。 ね、領主よろしいでしょ?」

北の領土に居た紫揺がどういう経緯で東の領土に、そしてこの本領に足を運んできたのかはマツリから聞いた。 もちろん洞のことも日本のことも。 だから敢えて紫揺に何を問わなければならないことは無いのだが、だからと言って「それではこれから東の領土を頼みますね」と言って終われるのものでは無い。 あれ程に待ち望んだ紫が目の前にやって来たのだ。 それにどうも紫揺の真っ直ぐ見る目に一目惚れしたようだ。

「紫さま、いかがいたしますか?」

「私もシキ様にお伺いしたいことがあります。 このまま帰ってしまっては機会がなくなってしまうかもしれませんから」

「まぁ、嬉しいわ。 では父上、そのようなことで宜しいでしょうか」

「・・・」

「父上?」

シキに問われるが、その目をシキにではなく紫揺に向けた。

「紫」

「はい」

「その者を本領に連れてくるにあたり、シキが禁を破る」

「父上、その様なことを紫に言っても・・・」

シキを一顧すると続ける。

「間違えでは済まん。 分かっておるか」

紫揺の言うショウワが、たとえ “古の力を持つ者” ショウワだったとしも、そうでなかったとして、その後に連れてきた者であろうとも、そんな者は最初から居なかったという結果であったとしても同じことである。

(禁とか、破るとか、急にそんなことを言われて分かるわけないだろ)

と、心の中で吐いて違う言葉を口にした。

「物事に百パーセントなんてありません。 お医者さんだって完全に治すとは言いませんから。 ですが私は私を信じています。 でももし違っていたら・・・」

パーセントの意味は分からなかったが、何気に言いたいことは分かる。 全員が紫揺を見る。

「ゴメンナサイを百回言います」

四方の身体が傾き、領主が見えない手で頭を抱え、此之葉と秋我が下を向いた。 見えはしないが、此之葉は大きな歎息を吐いているだろうし、秋我は苦虫を百匹ほど口に入れて噛んでいるだろう。

そんな場の中にコロコロコロと笑い声が聞こえる。 シキである。

「素直ね、何よりも正直だわ。 父上、余り仰いまして、その者が東の者と分かった時にはいかがなされるおつもりですか?」

「・・・」

「そうであったとしても、四方様の手落ちではありませんから。 それより四方様がこの機会を作って下さったことに感謝しています。 そしてシキ様にも禁とかって、それがどんなものかよく分からないですけど、破るということは大変なことをするということは分かっています。 手を携えて下さって有難うございます」

「まぁ・・・本当に素直なのね」

分からない事は分からないとはっきりと言う。

「いいえ、そんなことはありません。 でもシキ様、少しは安心してください。 私だけがそう思う感じるということだけで、ここまでの決断は出来なかったかもしれません」

どういうことかしら? といった具合にシキが紫揺に問うように見せた。

「私が北の屋敷で聞いたショウワ様というお名前は、独唱様のお姉さんである唱和様と同じお名前です」

「え?」 シキが思わず声を漏らし、聞いていませんけど? という目を四方に送る。
四方とて今初めて聞いた。 だから、言ってませんけど? という目を返してはいない。 その目を紫揺に向ける。

「同じ名だというのか」

「はい」

四方が腕を組んだ。
四方の考えていることは想像がつく。 きっと攫ってきたにもかかわらず名を変えなかったというのは可笑しな話だと思っているのだろう。

当時、東の領主が唱和のことを本領に言わなかったものの、もし言っていれば名から足がつくはずなのだから。
四方が何かを言う前に紫揺が口を開いた。

「此之葉さん、説明してもらえますか」

コクリと此之葉が頷き四方を見ると、四方が此之葉の発言を許すというように頷いた。

「封じ込めるというのは、その者の力がよほど強くない限り、封じ込められる者の抵抗が大きければ、封じ込むことは出来ません。 民であれば抵抗など出来ません。 抵抗の力など持っておりませんので。
ですが唱和様が居られなくなった時は五の歳になっておいででした。 お力のある唱和様でしたらたとえ五の歳の幼子と言えど、抵抗の力をお持ちだったと思います。
急に攫われ、知らない者の前に出され、封じ込めを受けることを分かられたのでしょう。 たとえ五の歳であってもまだ五の歳で御座います。 封じ込めに完全に抵抗することが出来ないのは分かっておられたのでしょう。 ですから何を抵抗されるか、ただ一つに絞られたことと思います。 そこに力を注げば必ず成功すると思われたのでしょう。 それが御名で御座いましょう」

「わずか五の歳でそのような判断を・・・」

シキが口から漏らした。

「ついでに言っちゃうと、独唱様や此之葉さんなら、どれだけ抵抗されても完全に封じ込めが出来るそうです。 それだけ東の領土の古の力は偉大です」

何気に東の領土の古の力をアピッている。

「独唱様も、今は仮に北の領土のショウワ様も紫である祖母を探すことだけに、幼いころからそれだけに生きてこられました。 結局祖母は亡くなりましたが、それでも諦めきれず紫を探されて私が見つかりました。
おおよそ八十年間ずっと、探すことだけに生きてこられました。 ショウワ様は既に私が北の領土の手から居なくなったことをお知りになったでしょう。 落胆されていらっしゃると思います。 八十年かけたことが目の前からなくなったんですから。
ですがショウワ様が落胆されることなど必要ありません。 一日も早く封じ込めから解放してさしあげたい。 そう思っています。 だからシキ様のご決断に感謝しています」

シキが愁色の色を見せ、次に憐憫の目を紫揺に送ってきた。

「ショウワのことは事がはっきりとしてからのこととしましょう。 でも紫? あなたはほんの数日前に領土のことを知ったと聞きました。 何故それほどに独唱やショウワのことが言えるのですか?」

「どういうことでしょうか?」

コキっと首をかしげる。

「そうね、簡単に言ってしまうと、よく知りもしない者のために、どうして心を寄せられるのですか? その時があるのなら紫は元居た場所に帰りたいのではないのですか?」

東の領土の紫揺以外の誰しもが視気(シキ)が視た、と思った。 紫揺は元いた場所、日本に帰りたいのだと、領主と此之葉、秋我がそれぞれに肩を落とし、静かな息を吐いた。

「祖母が悪いわけではありませんが、でも祖母と私が原因でお二人もの方の一生を駄目にしてしまったんです。 笑うことも楽しむこともなかったと思います。 八十年間ずっと気を張られていただけです。 その方々のことを想うのは当然じゃないでしょうか。
私は何も出来ません。 手を携えて下さるシキ様に感謝することしか出来ません。 それに・・・日本に帰りたいと思うのも当然だと思います。 生まれ育った場所ですから。 でも考える時間は欲しいです」

「そう。 分かりました。 本当に正直に言って下さるのね。 気持ちがいいわ」

そう言ってから四方を見た。

「父上、わたくしと紫はこれで宜しいでしょうか?」

腕を組んだままの四方が頷くとシキが紫揺に視線を戻す。

「ね、さっきわたくしに訊きたいことがあるようなことを言っていたけれど?」

「はい。 教えて欲しいことがありますけど・・・みなさんの前では・・・」

「それでは、わたくしのお房でお話しましょう? わたくしもゆっくりと紫とお話がしたいわ。 父上よろしいでしょう?」

「あ、ああ。 まあ―――」

まで言うと襖の外から何やらにぎやかな声が聞こえてくる。 賑やかどころか怒声ほどではないが、女と男の叫び声と制止する言葉も交じっている。

「なんだ、騒々し―――」

襖がバンと音をたてて開いた。
全員が襖を見、部屋の隅に居た者達が走り出そうとした時だった。

「シユラ!」

「リツソ!」 「リツソ!」 「リツソ君!」 四方、シキ、紫揺と三人の呼ぶ声が重なった。

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虚空の辰刻(とき)  第185回

2020年09月25日 22時12分16秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第180回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第185回



「四方様っ」

「いや、領主、会わせないと言っておるのではない。 独唱の姉であるならば、北の領土・・・その屋敷にいるという者はかなりの高齢だ。 その屋敷から北の領土に入ることは出来たとしても、この本領に来ることはままならんだろう。 だからと言って此之葉を北の領土に入れることは出来ん。 それは分かっておるだろう」

各々の領土に干渉せぬこと、各々の領土に足を踏み入れぬこと。 それを守らなければいけない。 例外を作ってしまうわけにはいかない。

四方の言いように紫揺がイライラする。 確約とか何とかの話をしているのだろう。 今はそんなことはどうでもいいではないか。

「だったら・・・」

言った声の主に全員の目が集まる。

「たしかに東の領土から・・・馬車を降りてから山を上るなんてこと独唱様に出来るとは思いません。 多分、北の領土からの道もそうでしょう、きっと似たり寄ったりでしょう。 独唱様と同じく唱和様には歩けないでしょう。 だったら、あのマツリのフクロウに乗せて来ればいいんじゃないですかっ? でなければシグロかハクロの背に乗って来ればいいんじゃないですか!?」

最初は大人しく話していたが、段々とボリュームが上がってきてしまった。 それは単に感情的になってしまったのか、マツリのことを思い出したからなのか、ましてやその名を口にしたからなのか、当の紫揺さえ分からないし、ボリュームが上がって来た理由など考えることすらもなかった。

領主と此之葉と秋我の目が “あのマツリ” 宣言に今にも目が飛び出して落ちそうになっている。 四方においては、紫揺が『唱和様』 と言ったのを聞き逃さなかっただけでなく、キョウゲンとシグロとハクロのことを出されて驚きを隠せない。

「出来ませんかっ!?」

追い打ちをかける紫揺に誰も言い返せない。 そして未だ誰も息さえできていない。 四方に対してあまりの言いように、隅に控える三人もだ。

シーンと静まる二十畳。 襖の向こうで控えていた者が内容を知らず、静まり返ったここがチャンスとばかりに襖を開け茶を出しに入ってきた。

その茶を紫揺が一気飲みし、ドンとテーブルに置いた。 全員がずっと紫揺を見ていたというのに、更に全員の目が紫揺に集まる。

紫揺が四方を見据える。

「ウダウダ言ってても始まらないでしょう! もし唱和様が東の領土の方であれば、此之葉さんの力を借りて記憶を取り戻し、郷に帰るのが当たり前なんじゃないですか!? 唱和様は私に土下座をして北の領土を守ってほしいと仰いました! どうしてそんなことをしなくちゃいけないんです! 唱和様は北の領土の人間ではない可能性があるんですよ! 独唱様と唱和様が似てらっしゃるというだけではありません。 じゃない! 可能性じゃない! 同じものを持っていらっしゃる!」

領主と此之葉が驚いた。 そんなことを紫揺から聞かなかったからだ。 だが当の紫揺も今初めて気付いたことであった。

「同じ気を持っていらっしゃる! 間違いなく独唱様と唱和様はご姉妹です! ご姉妹をああだこうだと言って会わせないのが本領ですか!? それとも! 当時に気付かなかった本領の手落ちを隠そうとするんですか!?」

頭上の光石が一つパンと音をたてて割れた。 その欠片がテーブルの上に落ちる。 紫揺を除く誰もが落ちてきた音に改めて目を覚ました。

「・・・これは参った」

紫揺の瞳が青色(せいしょく)になっていた。 破壊をもたらす青色に。

四方の横には三人の男たちが駆け寄ってきている。

「大事ない。 下がってよい」

男たちが目を見交わせながらも元の位置につく。

(あああぁぁ・・・、やっちまったー・・・)

「この本領領主の前で五色の力を出すなどと前代未聞だ」

紫揺が領主に言った『出来うる限り努力します』の努力が終わった。 こんな努力になるとは紫揺も領主も思ってはいなかったが。

「あ・・・えっと。 スミマセン。 まだよくわかっていないので・・・」

今の紫揺の瞳は黒に戻っている。

「そうだったか。 ほんの数日前に領土のことを聞かされただけなのだからな。 力のことも同じであろう」

いえいえ、そのずっと前にホテルと屋敷でやっちゃっていました。 とは言えない。

「領主」

「はい」

「考える時をもらえるか?」

「もちろんに御座います」

「あの、日本経由とか日本で会うって手もあります・・・」

上目遣いにぽそっと、さっきの言いたい放題につけ足した。

「それは使いたくない手だ」 というと立ち上がり 「しばしゆるりとされよ」 と言い残すと部屋から出て行った。


執務室の前、四方の従者が居るはずなのに一人もいない。

「え?」

マツリが四方の執務室を開けるとそこに誰も居なかった。 机の上にはやりかけの書類が山と積まれている。 民からの訴え状、都司からの報告書、納税の状況、領土で採取されたものの一覧などなど。 四方が見る前に官吏(かんり)が見てかなり書類は減ってはいるが、それでも今日一日で見なくてはならないものがまだこれ程にある。

「どうしたということか?」

執務室を出て回廊を歩いていると四方の従者を見つけた。

「父上はどちらに行かれた?」

「茶室に御座います」

「客か?」

「いえ、お一人で御座います」

頷くと茶室に足を向ける。

「どうしてこんな時にお一人で茶室などと・・・」

今は仕事の時間である。 茶室には仕事を終えてからか、仕事のない日に行くものである。 例外として客を茶室で迎えることはあるが、それは滅多にないこと。
茶室の前に行くと従者が誰も居ない。 本来なら何人もの従者が茶室の外に座っているはずであるのに。

「人払いをされたか」

よほど考えに集中したいのだと分かる。 これは声を掛けていいものだろうかと思案顔を見せたが、それも一瞬で終った。 邪魔であればすぐに引けばいいのだから。

「父上」

閉じられた襖の外から声を掛けた。

「・・・ああ、マツリか」

「お邪魔でありましたら引きますが、何か御座いましたでしょうか」

「訊きたいことがある。 入れ」

訊きたいこと? 己は何か誤謬(ごびゅう)を犯しただろうか。

「失礼をいたします」

襖を開けると茶室に入った。

「こちらへ」

四方の前に座れと言い、おもむろに茶をたて始めた。
己の誤謬を案じていても仕方がない。 マツリが四方の前に座る。

「北のショウワだが・・・」

己のことではなかったのかと、どこかで気を緩めた自分がいる。

「本領に来ることはできるか?」

東の領主に紫揺が言ったショウワとは、北の領土の “古の力を持つ者” かと、問うてはいない。 東の領主が北の領土の “古の力を持つ者” のことなど知らないのであるのだから、訊いたとて答えられるものではない話である。

それに紫揺がそんなことを言わなかった。 北の領土の “古の力を持つ者” ショウワだと。 紫揺がそう言っていれば迷いなど無かったのだが、知っていれば訊くまでもなく紫揺が言っていただろう。

だが領主が言っていたように紫揺はまだ領土のことをよく分かってはいない。 それにさっきの話からすると北の領土や屋敷と言われるところに居た頃には領土のことすら知らなかったようだ。 たとえショウワから “古の力を持つ者” と聞かされていても記憶になかったかもしれない。

と四方が考えるが、紫揺はムロイからショウワのことは『重鎮』と聞かされていた。 その事を紫揺はすっかり忘れていたが、四方から『ショウワは “古の力を持つ者” か?』と問われれば『重鎮』と聞かされていたことを思い出して首を振ったかもしれない。 
そうなれば『ショウワ大捜索』になっていたことだろう。

偶然にもそんなことを訊かなかった四方。
単純に独唱の姉だと言われれば “古の力を持つ者” ショウワが年齢的に合わなくもない。 それに東の領土から攫われたのは “古の力を持つ者” である。 北の領土の “古の力を持つ者” ショウワであろうと考えるのが無難なところだろうし、北の領土から屋敷と言われるところに戻った紫揺が言っていたセッカの関連する話からセッカの代わりにマツリと話したあのショウワである可能性が高い。

もしそうでなかったのならば、四方にしてもマツリにしても “ショウワ” という名は “古の力を持つ者” ショウワしか知らない。 民の中に “ショウワ” という名の者が居るのかもしれないが、民の名まで知ることは無い。 ではどうするか。 マツリの話から北の領主に話を聞くのは難しいようだ。 それならショウワなりセッカなりを問いただしてみようか。 だがそれは証のない話を広げてしまうことになるだけである。

茶室に入ってそのことを何度も考えたが、まずは一番考えられる “古の力を持つ者” ショウワと考え話を進めていくのが無難なところだろうと落ち着いた。

マツリにしては思ってもいなかった四方からの問いであったが、問われれば答えなくてはいけない。

「あの様子では・・・」

あの時に体調が悪かっただけなのか、年齢的に常なのかは分からないが、あまり身体の調子がよさそうには見えなかった。

「年齢から考えましても及び難いかと」

「そうか」

マツリの前に茶碗が置かれた。 礼をして茶碗を手にする。

「単純にショウワが歩いて来るほかに何か方法はないか?」

四方とて、北の領土からこの本領に来るまでの道のりは知っている。
茶碗を口元まで運んでいたマツリの手が止まった。

「どうしてもショウワを本領にお連れになりたいと仰るのですか?」

「ああ」

四方の返事を聞くと茶碗を口に運んだ。 飲み干したマツリが口を開く。

「本領に入ってからはどうにでもなりましょうが、北の領土で山の中を歩くのは簡単なことでは御座いません」

「狼の背に乗せてもか?」

「は?」

「いや、何でもない」

つい、紫揺が言っていたことが口から出てしまった。 紫揺がシグロかハクロの背中に乗せて、と考えた気持ちが分からなくもなくなってしまった。

「あそこは馬では歩けんからなぁ」

四方も知らないわけではない。 マツリに北と西、シキに東と南の領土を見させる前は、四方が東西南北の領土を見ていたのだからそれはよく分かっている。 ましてやマツリのようにキョウゲンの背に乗って飛んでいたわけではない。 四足であるヤマネコの背に乗っていたのだから、小さな起伏もよく知っている。

「ショウワに何かあったのですか?」

四方から言わない以上は何も問う気はなかったが、あくまでもショウワはマツリの見る領土の人間だ。 ここまで頭を悩まされていては、問うてもいいだろう。

「ああ、実はな・・・」

と、先ほど領主や紫揺から聞かされたことを順を追って全て語るつもりだったが、それを途中で折られてしまった。

「はっ!? あのクソ生意気な娘がここに居ると仰いましたか!?」

「あ? え?」

「アッチやコッチにウロウロと!」

マツリが話しの途中を折るなどということはあることではなかった。 四方が呆気にとられるようにマツリの名を呼ぶ。

「マツリ?」

「して! 今どこに居りますか!?」

立ち上がった途端、四方を見下げていることに気がついた。

「なにを荒れておる」

「あ・・・申しわけ御座いません」

すぐに座り直す。

「お前と紫は互いによく話したのか?」

リツソの初恋の相手のはずだが? ということも含めて訊いているのが分かる。

「とんでもございません!!」

「まぁ、そう荒れて話すな。 だが、会ったことはあるのだな?」

マツリのさっきの言動、紫揺の言動から互いに顔を合わせそこそこ話したことがあるようだ。 マツリから娘である紫揺のことは聞いていたが、その時には気にも留めていなかったことが今にして疑問となって現れてきた。

「一度だけですが」

「今更だが、その時に五色と気づかなかったということか?」

「・・・申し訳ありません」

怒髪してそれどころではなかったとは言えない。 そう考えるマツリだったが、ずっと後になってそれが理由ではないことを知る。

「いや、先ほど紫の力を見せられた。 紫は力のことがまだよくわかっていないと言っておったから、そのときにはまだ紫としての力が出ていなかったのかもしれんな」

――― 口惜しい! あの糞娘(くそむすめ)!

“クソ生意気な娘” を短縮してしまっては紫揺が糞まみれに思える言動だ。

「続きを話そう」

そう言って途中で折られた話を続けた。

「ショウワが?」

「紫が言うには独唱と同じ気を持っていると言っておった」

「ですが今のお話しではあのショウワとは限らないと」

「ああ。 だが可能性として高い。 どうして知ったのかは分からんが、当時 “古の力を持つ者” と分かって攫って行ったのだろうからな。 五色の側に居させるはずだ」

“古の力を持つ者” は五色と共に居る者であるのだから。 北の領土にはショウワ以外に “古の力を持つ者” は居ない。 もしショウワが東の領土の唱和なのならば、北の領土の “古の力を持つ者” はどこに行ったのかということになり、そこも可笑しな話ではあるのだが。

マツリが何度も頷いた。

「それでショウワを本領に、というわけですか」

話を聞き終わったマツリもあのショウワと考えるのが一番有り得るだろうと思う。

「ああ、領土が独立したと言えど、四つの領土を守る責というのは本領に残されておる。 その領土の民が攫われたとすると放っておけるものではない。 それに、当時に気付かなかった本領の手落ちを未だに隠そうとするのか、などと食って掛かって言われては言い返すことも出来ん」

「ふん、アイツらしい口の利き方」

「なんだ?」

「いいえ、何でもありません」

本領領主として守りに入っている四方は証がなければ訊きただせないというが、マツリはそんな風には考えていない。 だがムロイに訊きただそうにもムロイはあの状態だ。 セッカを除いた五色がそんな俗的なことを知っているとは思えないし、当のショウワは此之葉の言うように封じ込められているのであれば知る由もないだろう。

だが四の五の言っていられないようだ。 今の四方の言いようでは、当時のことを思うと一刻も早く動かなければいけない。 まずは可能性の高いショウワから動いてみるのが一番だろうし、もしあのショウワでなかったのならばセッカに訊くしかない。

「しかし、どうしたものでしょう。 キョウゲンに乗せるなどということも出来ませんし」

誰も同じようなことを考えるか、と四方が心の中で苦虫を噛み殺した。 と、そこへ障子の向こうから声が掛かった。

「父上、シキに御座います」

「おお、シキか。 入れ」

障子が開くと開口一番 「あら、マツリもいたの」 であった。

「なにかあったか?」

「母上が目覚められました」

倒れてからうつらうつらと目を開けることはあったが、殆どぼんやりとしたものだった。 だが “目覚められた” ということは、はっきりと気が覚めたということだ。

「おお、そうか。 マツリ、今の話をシキに聞かせておいてくれ。 澪引の顔を見たらすぐに戻ってくる」

「承知いたしました」

「シキ、中に入りなさい」 そう言い残して足早に茶室を去って行った。

「何かあったの?」

障子を閉めた手を残して振り返りシキが訊いてきた。
マツリからの話を聞いてシキが目を見開いた。

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虚空の辰刻(とき)  第184回

2020年09月21日 22時36分12秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第184回



朱禅が出て行くとすれ違うように女が茶を持ってきた。 先程と違ってソーサー付きのカップでハーブティーのようだ。 薄い桃色が付いて甘い香りが漂ってくる。 茶を置いた女が静かに下がる。

「ここに来るといつも最初に先程の茶を出して頂き喉を潤します。 次にこの茶です。 甘いので山を上ってきた疲れが取れます。 どうぞお飲みください」

紫揺が手を伸ばさなければ、誰もカップを手にしないことは分かっている。 そっとカップを両手で包み込むと、飲みやすい温度である。 口に含むとしつこくないほんのり甘い味が口中に広がる。

「美味しい」

領主を見て言う。

「ええ、我らの領土では採れない茶葉です。 ここでしか飲めませんから何度でもおかわりをされると宜しいですよ」

冗談めいて言うが、さすがに紫揺もそれを本気にするほど子供ではない。

東屋にいた時のように雑談が出来る様な雰囲気はない。 特に秋我はこれまでもそうだが、これからの領主の一挙手一投足を見逃すまいとかなりリキが入っている。

此之葉にしても初めての本領だ。 これから本領領主と会わなければいけない。 独唱の代理として来ているのだから失態は許されない。 無意識に身体に力が入っている。

領主においては、紫揺の事もあるが、唱和のことを話さなければならない。 信じてもらえるかどうか、本領が動いてくれるかどうか憂惧することしか出来ないでいた。

カップを手にした紫揺がキョロキョロとしている。 この板間にも畳の間にもある柱も梁も立派な木が使われ、そこに見事な柄が彫られている。 壁にしても襖にしても金銀を使った見事な柄が描かれている。 だがその柄が何の柄かは分からない。 分かるのは幾何学模様ではないということだけだ。 そして調度品が少ないことに気付いた。 これだけの部屋ならば、絵画とか壺とか掛け軸とか掛け軸の下に刀があってもいいのではないだろうかと思う。 早い話、物品として殺風景であるのだ。

(でもあれかな。 これだけ襖や柱が賑やかなんだから、なにか置くとごちゃごちゃとしてしまうのかな)

もう一度コクリとハーブティーを飲む。 甘くて美味しい。

(そういえば長い間チョコレート食べてないなぁ・・・)

今度家に帰った時には山ほど買いこもう、と心に強く誓ったが、なんとも紫揺一人お気楽である。

「失礼いたします」

襖の向こうから声が聞こえたかと思ったら、静かに襖があいた。 朱禅が膝をついて襖を開け、暫くそのままの格好でいる。
何人もの足音が聞こえたかと思うと、朱禅が床に手を付け頭を下げた。 それから少し遅れて大股に一人の男が入ってきた。

「東の領主、久しいのう」

入ってきた銀色短髪で恰幅の良い男は、領主に勝る響きのある声だ。
続いて朱禅と同じ格好をした三人が入ってきたが、二人はすぐに部屋の隅に、一人が大股に入ってきた男の為に、領主の前の椅子を引くと奥の端に引っ込んだ。

領主が立ち上がると残りの三人もそれに倣った。

「四方様、ご無沙汰をしております」

(へぇー、この人が本領領主なのか。 リツソ君のお父上。 リツソ君が言うように見た目立派だけど中身はどうなんだろ)

「音沙汰が無いのは領土が安泰だというが、あまりにもなさ過ぎては心配にもなる。 まぁ、座ってくれ」

領主がチラリと紫揺を見たのを感じて、紫揺が一番に座る。 続いて領主、此之葉、秋我と座った。

四方がそれに気付いたのか、それ以外のことに気付いたのか、微妙に片眉を上げた。

「早速でございますが、そちらの者が独唱様の後を継ぐ “古の力を持つ者” でございます」

「此之葉に御座います」

立って深々と頭を下げた。

「最後に控えておりますのが、次期東の領土、領主となります」

「秋我に御座います」

こちらもきちんと立って、此之葉の柔らかいお辞儀とは違い、男らしい切れのあるお辞儀をしてみせた。

二人それぞれに目を合わせ頷いてみせると「本領領主、四方」とだけ言って、立ったままの此之葉と秋我をもう一度順に見た。 そして三拍ほど置いて話を続ける。

「これからの東の領土を支えていく若者であるな。 東の領土に災い無きよう、此之葉は心魂(しんこん)を持ち五色を守り、秋我は身魂(しんこん)気根(きこん)を持ち領土を守り民と向かい合うよう、互い砕身を惜しまぬよう労されよ」

東の領土に五色のことを言うのは憚られるが “古の力を持つ者” が第一にしなくてはならないのは五色のことである。 そのことを言わないわけにはいかない。 それにシキからの話も気になってはいた。

「我が東の領土 “古の力を持つ者” 独唱様より享受しもの、五色様に添えますよう砕身いたします」

此之葉が低頭し、そのままじっとしている。

「代々領主に恭敬し深甚なるものを理解し、我が東の領土を守り、虚心坦懐に民へ耳目を傾け砕身いたします」

秋我も低頭する。

「励まれよ」

四方の声に三秒ほどして二人が頭を上げた。

「掛けるが良い」

二人がそっと椅子に掛ける。

「これで独唱も安心だろうが、領主、其方はまだまだということを覚えておいてもらわねばならんぞ」

「もうあちらこちらにガタがきておりますゆえ」

「何を言っておるやら。 我が本領、先代領主はいまだかくしゃくとされておられるぞ」

「ご壮健にあられますようで何よりで御座います。 この秋我はずっと辺境で民を見ておりました。 これからは私の元で色々と教えていきたいと思っております」

この機に秋我を中心に戻して、次男に秋我の分も辺境を見させようと思っている。

「シキから聞いておる。 秋我、シキが辺境で世話になったそうだな。 礼を言う」

「シキ様が我が領土の民に添われて下さいましたことを思いますと、もったいないお言葉に御座います」

「シキから聞くところによると、民の悲しみが大きくなっているようであるが?」

「はい、つい先日までは」

どういうことだ? という顔をした四方に領主が口を開いた。

「その事に関しましてもお話があり参じました」

応えたのは領主だ。

「まずはこちらが我が東の領土五色の紫さまです」

ぺコンと紫揺が頭を下げた。 辞儀などしないようにと言っていた此之葉だったが、事前に本領領主やその家族には礼を持って下さいと言われていたからだ。
だが先ほどの此之葉と秋我を見ていれば立って辞儀をしても良さそうなのだが、余りの硬さに閉口していたし、四方の態度がでかすぎると思った。 イコールこういう態度になった。

「うん? よく呑み込めんな」

腕を組んで顔をしかめて見せると、領主がゆっくりと頷いた。

「話は先の紫さまが襲われたころから始まります」

本領にとって耳の痛い話ではあったが、四方は頷くだけだった。
領主は当時、先の紫を探している時に、洞を見つけたことを話し、その先に日本という所があり、先の紫はそこで命を取り留め育ち、子をもうけ、孫の顔を見る前に亡くなり、その孫がこの紫揺だということを話した。 極力端的に言ったが、それでも長い話となった。
そこでいったん話を切った。

「一つずつ訊きたい」

「然に」

「その洞というのは」

「本領と東の領土を結ぶ洞と同じようなものでございます」

納得しがたいが、答えとしては充分だ。 朝食の席でシキたちと話していた時にシキに視えない所があるというのを再考した。 そしてまさか、と思ったことがあったが、今そのことが現実にあると領主が言ったのだ。

「その二ホンというのは」

「生活も何もかもが全く違うところでございます。 私も最初に見た時には驚きました」

「民が住んでいるのだな?」

「民の住む地でございます」

「ふむ・・・そこにキュウシュウという所はあるか?」

紫揺が驚いて目をパチクリさせた。 どうして日本さえ知らない四方が九州のことを知っているのか?

「日本の中の一部に九州がございます」

領主もどういうことだという目をして答える。 だがここで反問は許されるものではない。

「・・・そうか」

既に紫揺の発する気で紫揺が五色であることは分かっている。 それに領主が紫揺の事を五色と紹介したのだから敢えて尋ねることではない。

「先の紫と今代紫のことは分かった。 だが、その洞は今すぐにでも潰さねばならんな」

「はい、ですがその事はしばしお待ち願いたく」

「理由は」

「紫さまは領土のことは何もご存じありませんでした。 事情をご説明し無理をお願いして嘆く民にお姿を見せて頂きました。 紫さまが領土のことや民のことを知られたのは、ほんの数日前に御座います。
紫さまには九州の方での生活がおありになります。 九州に戻られるのか、領土に帰ってくださるのか、まだお決めかねられておられます。 すぐに洞を潰してしまっては、紫さまに考える時がなくなってしまいます。 どうか紫さまがお決めになるまでお待ち願いたく」

マツリから迷子の娘は二ホン、キュウシュウから来たといっていたと聞いている。 そしてマツリの言う迷子の娘が東の領土の紫だとシキが言っていた。 この娘に間違いないであろう。

「紫、そうなのか?」

「・・・はい」

答えにくそうに答えたのは、迷いがあってではないし、四方にビビったわけでもない。 “紫さま” と呼ばれ続けていたのに、急に呼び捨てにされてカチンときたのだ。 “様” と呼ばれることに慣れたというわけではない、祖母である紫を呼び捨てにされたような気になったからである。

「では今日には決せず、追々考えよう」

「有難うございます」

「礼を言われては困る。 緩くは考えておらんのだからな」

(けっ、この四方っての、さっきから態度もでかいし、意地悪のカタマリ? 領主さんを虐めてどういう気よ)

「然に」

「その二ホンという所に行ったこと、その報告が無かった事に対しての咎は後日。 『各々の領土に足を踏み入れぬこと』 その確約から外れなかったとしても、厄災を持ち込むような場所があったということの報告が無かった事は看過できぬこと」

「然に」

「他には」

どれ程の咎があろうと、紫揺を東の領土の五色である紫と認められ、洞のことさえ了解を得られれば、あとは紫揺にシキと話をさせてもらうことを願えばいいのだが、その事は今言うことではない。 今これから言わねばならない事は唱和のことだ。

「北の領土に攫われたと思われる、我が領土 “古の力を持つ者” のことでございます」

「“古の力を持つ者” ? 独唱が北に攫われたとでも言うのか?」

「いいえ。 独唱様では御座いません。 四方様はご存知ないかと」

少々失礼な言い始めだったが、事は真実だ。
先の紫が攫われた時に、独唱の姉が居なくなった。 だが時の領主は先の紫のことで頭がいっぱいになり、独唱と共に古の力を持つその姉のことを本領に告げなかったと言った。

そして紫揺が北の領土の者に攫われた時に、独唱にそっくりな者を見た。 そこは北の領土が日本に居を構えている屋敷だという。
ここでまたいったん話を切った。 四方は相手の話を最後まで聞くと知っているからだ。

「それでは北の領土の者もその二ホンという所に行っているというのか?」

「我が領土の者が日本で紫さまをお探ししている時にも、北の領土の者が同じように紫さまを探しに日本に来ておりました」

「北の領土にも洞があるということか?」

「はい。 紫さまがお歩きになったということです」

四方が腕を組んで大きく息を吐く。
確かにそうでなければ紫揺が迷子として北の領土に居たことが成り立たない。

「北の領土の者がその二ホンに行ったとして、どうやって紫を探したというのだ?」

「紫さまがごらんになった者が、我が領土の “古の力を持つ者” なら可能なことでございます。 先の紫さまの気を独唱様以上にご存知なのは攫われた独唱様の姉上だけなのですから。 ましてや一度は我らの目の前から紫さまを攫われたのです。 独唱様と同じ時に紫さまの気をお感じになられていたと考えるのが妥当かと」

「ふむ・・・」

「そっくりなお婆さんを見たのは間違いないです」

紫揺が割って入った。
四方が目だけを動かして紫揺を見た。

(なにそれ、その態度。 見るなら顔全部動かして真正面から見なさいよ、クッソ腹立つおっさん!)

「紫は北の領土に行ったか」

先ほど領主が紫揺が北の領土にある洞を通ったと言ったが、迷子として北の領土に入っていたかと確認をする。

「はい」

それがどうした、今は関係ないだろ、とどこか不服ありげに答える。

「では紫、北の領土に入ったことから先に問う。 どうやって北の領土に入った」

「道で北の領土の人に攫われて、それから半年くらいしてから洞窟を抜けて領土に連れて行かれました」

完全棒読みである。 領主を虐めた四方のことがかなり気に入らないし、さっきのクッソ腹立つおっさんへの腹立たしさが態度に出ている。
四方の目が点になり、領主が頭を抱えたそうにし、此之葉はどうしたものかと頭を下げてしまった。

「あ、ああ。 そうか」

コホンと白々しい咳払いをする。

紫さま、と小声で領主が紫揺の名を呼んだ。 紫揺が領主を見るとその目には、棒読みはやめて下さい、という懇願が内包されているように感じた。

領主に懇願されては仕方がない。 気を取り直して心を込めて返事をしよう。 時に応じ、色んな心を込めて。

「で? どうやって北の領土を出た」

「連れられて出ただけです。 洞を歩いて」

「北の五色が紫を本領に渡すと言っておったが、そのことを聞いておるか」

驚いた領主が四方を見、此之葉が下げていた頭を上げた。

「知りません。 でも北の領土を出た後、何日かしてセッカさんが領土から帰って来て翌日に私を北の領土に連れて行くとは聞きました。 でもそこまでです」

四方は五色と言った。 何故なら、その領土の者の名を他の領土の者に聞かせないためだ。 各々の領土に干渉しない、という確約がある。 それにそって他の領土の者の名を聞かせていない。 だがここで紫揺を責めるわけにもいかない。 つい数日前に領土のことを知ったばかりだと言っていたのだから。 それにセッカと言った。 間違いなくセッカが紫揺を迎えに行ったということが分かった。

「そこまでとは?」

「北の領土から戻って北の屋敷に数日居ましたが、また領土に連れて行かれると思って。 領土に連れて行かれたら簡単に日本に戻ることが出来ません。 と言うか、その前から屋敷から逃げ出す準備をしていましたから、急遽屋敷から逃げました。 だから後のことはなにも知りません」

セッカが迎えに行った時には紫揺は居たが、いざ出ようと思った時には紫揺はいなかった。 マツリから聞いたショウワの話は嘘ではなかったのだな、と得心した。

「では、紫が出て行ったその屋敷という所にその者がいたというのだな」

「はい」

「さて、どうしたものか」

「四方様、もしその者が我が領土の独唱様の姉上なら今日にでも、いえ今すぐにでも、東の領土に帰って頂きたく思っております」

「だが、どこにもそのような証はない」

何の証もなく、北の領土に嫌疑をかけたようなことを訊けるものでは無い。

「それにどうしてその者は北の領土にずっといるのだ。 申し立てる機会はいくらでもあったことだ」

たとえ今は日本の屋敷に居るとしても、領主が言うように攫われてきたのなら、最初は北の領土に居たはずだ。 マツリも然り、四方本人も若い頃には何度も北の領土に行っている、その時に訴えることが出来たはずだ。 いくら当人を隠していても四方にもマツリにも隠していることを見抜く力があるのだから。

「此之葉が申しますに、古の力で記憶を封じ込められているのでは、ということでございます」

「記憶を封じる? 古の力でそのようなことも出来ると言うのか?」

領主ではなく此之葉に身体ごと向けて問う。

(エロジジイ)

おっさんからジジイに降格したようだ。 それとも昇格だろうか。
そのエロジジイに答えたのは此之葉ではなく領主。

「はい。 一度封じ込めると、二度と思い出すことは御座いません。 ですが独唱様のお話では、その昔、古の力は東西南北どの領土より、東の力が優れていたと聞いております。 たとえ封じ込めをしていても、その力に勝る者には解くことが出来ます。 此之葉は若輩ではありますが、独唱様から教えを乞うております。 力は存分に御座います。 四方様のお力でその者と会わせてはいただけませんでしょうか」

「会ってどうする」

「力の弱い封じ込めでしたら、それを見抜くことができます。 そして解くことも」

「・・・ふむ」

解いていた腕をもう一度組んで考える。

「簡単ではないな」

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虚空の辰刻(とき)  第183回

2020年09月18日 22時53分49秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第183回



「これはこれは、東の領主ではありませんか。 久しいですな」

「何年ぶりでしょうかな」

驚いた顔を見せ歩み寄ってきた男が領主の前に立つと、一瞬足を止めた領主が親し気な笑顔で応え、二人で男の居た位置に歩き出した。

「両手では足りませんぞ。 あまりに余所余所しいではありませんか」

ガハハと笑うこの男は黒髪を後ろで束ね髭も濃く、鼻の下から続く髭が横に広がり顎にまで続き、長い逆三角形を作っている。 髭の下に見える服は、半袖で上から被るタイプの上に皮を細く切ったものを編み込んだベストを着ていて、下穿きは筒ズボン、その裾は長靴の中に入っていて見てとれない。 いずれにしても濃淡こそあれ、岩山と似た色である。

「こちらに伺わないということは、我が領土が安泰しているということですからな」

「そう言われてしまっては元も子もないではありませんか」

では、今日ここに来たのは東の領土が安泰ではないということなのか、などという愚問は口にしない。

「いやいや、久しぶりにお声が聞けて何十年か前に若返れたようですな」

「なにを仰る。 全く変わっておられませんぞ。 ご子息ですかな?」

後ろを覗き込んで秋我を見て言う。 これは愚問ではない。 よく似ているし、本領に入る者の人間確認ということである。

「ええ、私ももう歳ですのでな。 まだ身体の動くうちに本領への道を教えておこうと思いまして。 秋我と申します。 そしてこちらが我が領土の五色の紫さまと独唱様の跡を継ぐ “古の力を持つ者” です」

紫揺が本領に来るのはこれで最初で最後かもしれない。 それでも今の紫揺は東の領土の五色なのだ。 堂々と紫揺を紹介する。
秋我に続いて紫揺がお辞儀をしようとしかけて、此之葉に止められた。 当の此之葉は頷くように顎を引いただけだ。

「独唱様も長くお見掛けしておりませんが、こちらに来るには厳しいお歳になられたのでしょうな。 皆さまよくいらっしゃいました」

見た目と違って形よく切れのあるお辞儀をする。

「シキ様がずっと我が領土に来て下さっておられたのですが、ここのところとんとお見掛けしませんが、他の領土に行かれておられるのですか?」

「そう言われれば、この数日はお見掛けしませんな」

「そうですか。 いや、どちらかへお出になられておられるのかと思いましてな」

「そのご心配はありません。 今日もお見掛けしておりませんので。 すぐに用意をいたします。 しばしのお待ちを」

三人に目を合わすと最後に領主を見て踵を返した。 歩いて行った先にはそこにも洞があった。 何やら大声で話す声が漏れ出ている。
いくらもしない内に六頭の馬が六人に連れられて出てきた。

「私と息子は一人で乗れますが、紫さまと “古の力を持つ者” をお願いできますかな」

「初めてのこのような道でご子息は大丈夫ですかな?」

「見た目はよく似ておりますが、当時の私より随分と身体が動きますので」

いけるな? という視線を秋我に流すと、素早く頷いたのを男が見た。

「では十分にお気を付けて」

これ以上言うと秋我に恥をかかせることになる。 男が曳いていた馬の手綱を秋我に渡した。 領主も手綱を受け取り二人が騎乗する。

紫揺と此之葉は階段状の台を出され、此之葉が恐々ながら馬に横乗りをした。 跨ぎ乗ろうとしかけた紫揺に「紫さま!」 と此之葉から小声で叱責を上げられた紫揺が、此之葉に倣って大人しく横乗りをする。 その二人の身体は後ろに乗っていた男が支え、もう一方で手綱を握っている。

先頭を洞から出てきた男、続いて紫揺、此之葉、領主、秋我、殿は同じく洞から出てきた男がつとめ、順に馬を歩かせ始めた。

馬は慣れたものなのか、岩山の高さも崖壁も気にする様子も見せず、岩壁に沿って時折道が細くなっていても歩調を変えることなく進んでいく。

(退屈だ・・・)

ずっと同じ色の山、目の前の男も似たような色の服。 それしか見えないのだから。
だが一方では此之葉は風景を楽しみ、秋我は小さな石でも踏むことの無いように気を緩めることなく手綱を握っている。

「あの・・・?」

軽く頭を横に振って紫揺を支えている男に振り返った。

「なんでしょうか?」

「どうして刀なんて持ってるんですか?」

領主が話していた男と同じような服を着た男たちの背には、襷がけにされた刀が背にしょわれている。

「我が本領に来られた方に万が一のことがあってはなりませんので」

「万が一? それって誰かが襲ってくるかもしれないってことですか?」

「あくまでも万が一ですが」

北の領土や東の領土と比べて治安が悪いのか、と思いながら、また沈黙の世界に入った。 馬が歩くごとに首を軽く上下させている。 鬣(たてがみ)をそっと触る。 よく手入れがされているのだろう、思ったほど硬くはなかった。

二十分ほどかけて山を下りきると、今度は馬を軽くではあるが走らせる。 広い大地の左手には降りてきた山々の連なりが続き、ずっと先の右手には木々が林立している。

それは先程までの退屈さを一転するものだった。 決して風景にではない。 馬が走ることで風が顔にあたる。 馬からの振動はすぐにタイミングを覚えて合わすことが出来た。 上体を捻って両手で鬣(たてがみ)を持ち前屈みになると、まるで自分一人だけで馬の背の上に乗っている気がする。
紫揺の後ろにいた男が眉と口角を上げ、支えていた手の力を緩めた。

目の先に何かの影が映った。 顔を上げてみると鷲かトンビだろうか、一羽の大きな鳥が悠然と弧を描いて飛んでいる。
一方、此之葉は後ろの男に身体を預け胸元にしがみ付いている。 馬の振動からワンテンポ遅れて身体が跳ねている。

ずっと走っていると何もなかったように見えていた前方に森が見えてきた。 森の中に入ると馬が走りやすいようにであろう、幅広く木が伐採され一筋の道が出来ていて、尚且つ周りにある木の下枝も切り落とされている。

森の中に入り走り抜けると正面に漆喰の塀が見えた。 その塀に添って左に曲がり馬を走らせる。 塀はずっと続いている。

(塀? 誰かの家なんだ。 大きい家なんだぁ)

かなりの距離を走らせている。

塀の直線が切れ今度は九十度曲がって右に伸びている。 その塀に沿って曲がると今度もかなり馬を走らせ、塀は更に右に曲がったいた。 ずっと馬を走らせていると、塀に沿って次には大きな門が見えた。

先頭の馬が門近くに馬を止めると、残りの五頭が門の前に揃うのを待ってから馬を門の正面に進めた。 馬上の男が門の外にも中にも立つ門番に聞こえるように大声を出す。

「東の領土、領主が来られました」

それを聞いた門の外にいた門番が中の門番に同じことを告げると、中の門番から誰何があった。 こちらも外に居るものに聞こえるように大きな声だ。

「東の領主とは!」

同じことを外の門番が告げる。
領主の乗る馬が前に出て、大声を出した男の馬の横に自分の馬を付けた。

「東の領土、領主、丹我」

誰よりも響く声であった。
領主の声に続いて外に居た門番も大きな声を出した。

「東の領土、領主、丹我さまがお見え」

中から横木をずらす音がする。 そしてゆっくりと大門が開かれてゆく。

(なっが。 って、形式か。 そんなことしないでサッサと開けてればいいのに、どんだけもったいぶってんだか。 ああ、そっか、治安が悪いんだったらそうなるのかなぁ)

そう思いながらも、領主が一緒でないとこの門をくぐらせてもらえなかったのだと分かる。 いくら名前を言ったとて、その顔を憶えてもらっていなければ門番は通さないだろう。 岩山に居た髭の濃い男にしてもそうだ。 東の領主である丹我の顔を知っていたから岩山を通し、馬を用意したのであろう。 そう思うと、秋我はこれから色んな人に顔を憶えてもらわなくてはならないことになる。

大門が開ききると中の様子が見えた。 まず大きな庭。 左右にも奥にも続いている。 手入れのされた松が幾本も見え、その足元には少し離れた所に白い玉砂利を丸く敷き、幹の茶色や葉の緑を鮮やかに見せるよう彩っている。 落ち着いた日本庭園風と言ったところであろうか。

中にいた門番が階段状の台を出し、紫揺と此之葉が馬から下りた。 他の者は既に下馬している。
此之葉が合わせの部分が乱れていた紫揺の衣装を「失礼いたします」 と手早く整える。

紫揺の衣装は祭の時に着た合わせの衿の淡いピンク色のワンピース。 合わせの部分には五色の色が入っていて、それが裾まで続いて裾広がりになっているから、帯の下でフレアースカートのようになっている。 帯は地模様のある赤みのかかった紫色。 なにせ、紫揺の祖母の先代紫が十一歳の時に着ていた服なのだから、膝上丈の幼い服である。

普段着なら少々合っていなくても紫揺の祖母の先代紫が着ていたものが山ほどあるが、祭や本領に着ていくとなると、どれだけ探しても今の紫揺の背丈にあう服はこれしかなかった。 丁度、先代紫の成長期だったのだろう。

合わせの部分を整えた此之葉が後ろに回って紫揺の飾り結びも整えると、自分の服も手早く整えた。

門番の一人が四方への報告のために走り、他の二人が領主と秋我から手綱を預かった。 山から一緒に降りてきた四人も手綱を引いて馬屋に消えて行く。

「四方様のお許しがあるまでこちらでお待ち下さい」

門がゆっくりと閉められてゆく。

案内されたのは庭の中にある門に一番近い東屋だった。 そこに椅子とテーブルが置かれてあり、いくらも待たないうちに茶が出て来て人心地をつくことが出来た。

「なんとも立派な・・・」

秋我が辺りを見回す。

松が所々に立ちその足元には芝が広がり、白い玉砂利も見える。 日本庭園のようで、厳かな雰囲気を醸し出している。 そして庭も立派だが、門から入って奥の右手に大階段の横顔が見える立派な建物が見え、回廊から渡殿で繋がっている庭の奥には秋我には見たこともないような建物が立っていた。
紫揺にしてみれば歴史の教科書で見たことがある立派な御殿だ。 この奥には大奥でもあるのだろうかとさえ見ている。

「此之葉さん、馬は大丈夫でしたか?」

「はい、なんとか・・・」

馬の揺れからワンテンポ遅れての衝撃はまだじんじんと残っているが、それを言ったとてどうなるものでもない。

「紫さまは?」

「馬が走ってからが楽しかったです」

これが紫揺と此之葉が反対の性格だったなら「絶句」 と紫揺は口にしただろう。

「独唱様もこうしてここまで来られていたのですか?」

紫揺と此之葉との会話と違うところで秋我が領主に問う。

「ああ、とは言っても私の知る限りはほんの数回だ。 そうそう領土の者が本領に来るわけではないからな。 だが秋我は顔を憶えてもらわなければならん」

領主が何を言いたいかは分かっている。 紫揺が考えたことなのだから、秋我にも簡単に分かることだ。

秋我が顔を引き締める一方で、独唱のことを聞いた此之葉がどこかホッとしたような顔を見せたのは、他の三人の気のせいだろうか。

「少なくとも門番とあの岩山の見張番には、しかりと顔を憶えてもらうよう」

「はい」

「領主さん、さっきの人達、馬に乗せてくれた人たちはあそこで何をしていらっしゃるんですか?」

「さっきのように各領土から来た者をこの宮に案内したり、万が一にも不埒なものが本領に入らないように、そしてその逆も然り。 本領から領土に入り込まないように見張りをしております」

その見張りの目をかいくぐって、リツソは一人で北の領土に入ったのだが。

「国境警備隊みたいなもの?」

「ははは、あちらではそう言いますかな」

「あそこの場所はあまり知られていないんですか?」

だだっ広い土地を抜けた先の岩山にあった。 空高く舞う鳥を見ただけで、あとは人っ子一人見ていない。

「ずっと昔は本領、東西南北の領土は行き来をしておりました。 ですからずっと昔は誰もが知っていたんですが、領土の独立と共に東の領土のあの洞は民に忘れられていきました。 独立の時に各々の領土に干渉せぬことというのがありますから。 他の領土も本領も同じだと思います。 ですが万が一を考えてあの様に見張りが立っているのでしょう」

「男の人達が刀を持っていらっしゃったから、理由を訊いたら万が一のためだって仰っていましたけど、ここは治安が悪いんですか? だから万が一を考えて見張りも立てているんでしょうか」

「うーむ・・・。 本領のことはそこまでは知りませんが、我が領土とは比べ物にならないくらいの広さと民・・・人口です。 何か良からぬことを考えている者がいてもおかしくはないでしょうな」

「人口が多いのかぁ・・・」

それだったら治安が悪くなっても仕方がないか。

とりとめのない話をしていると、裃(かみしも)姿によく似た姿であるが、日本のように硬さがないそれを着た男がこちらに向かって足早に歩いて来た。 その姿を見止めた領主が紫揺に頭を下げた。

「紫さま、くれぐれも唱和さまのことをお願いいたします」

「出来うる限り努力します」

ここに来る前、領主の息子たちと顔合わせをしたときに、紫揺がリツソの姉であり本領領主の娘であるシキと会う他に、その本領領主である四方へ唱和のことを話すと約束していた。 その時に初めて此之葉も秋我兄弟も唱和のことを知った。

そして紫揺は四方やシキに誤魔化しなどきかないことを聞いた。
言わないでいれば問われることは分かっている。 急に紫である紫揺が現れたなどと、どう言い繕うことも出来ない。 日本へ通じる洞のことも領主は四方に話すつもりでいた。 もちろん紫揺も納得をしている。

「領主、お久しぶりでございます。 ご息災のご様子で」

この男、朱禅(しゅぜん)が来たということは四方に話が通ったということだ。

「まだなんとかやっております。 朱禅殿もご息災のようで。 これは我が息子、これからはこの息子が来ることになります」

「秋我に御座います」

「これはこれは、ご立派な。 朱禅と申します。 さ、こちらへ」

朱禅と領主が並んで歩きながら会話を交わしている。 その後ろに紫揺、斜め後ろに此之葉、一番後ろを秋我が歩く。

まだ四方に紫揺と此之葉を紹介していないのだから、朱禅に紫揺と此之葉を紹介するわけにはいかない。 朱禅も四方を差し置いて紹介を受けるような男ではない。 だが正式に紹介はしなくとも説明だけはしておいた。 五色の紫と “古の力を持つ者” だと。 朱禅は静かに頷いてそれを聞いた。

広い庭を歩くと先の右手に見えていた大階段の前に来た。 朱禅が履き物を脱いで階段に上がると、領主もそれに続いた。

紫揺は履き物を脱ぐと裸足である。 裸足で他所の家に上がるのはどうかと思ったが、下足番がすぐに代わりの履き物を紫揺の足元に置いた。 踵の少し高いウエッジソールのようなもの。 此之葉も同じものを出され二人で目を見合わせるとそれを履いた。

大階段を上がると回廊を左に折れ、次は右にと何度か曲がると襖を開け、一つの部屋に案内された。
二十畳ほどの広さがある板間で奥には十畳ほどの畳部屋がある。 板間には巧緻(こうち)を極めた横に長い大きな卓が置かれてあり、畳の間にもこれまた大きな黒い漆塗りの卓が置かれている。

「いつも通りでよろしいですか?」

「紫さま、板間でよろしいですか?」

領主が紫揺に尋ねてきたので 「はい」 と応えると、朱禅が頷き「ではこちらにお掛けください」 と紫揺の座る椅子を引いた。 その隣の椅子を秋我が引き、そこに紫揺に続いて此之葉が腰かけた。
一番右に領主、その隣に紫揺、此之葉、秋我と座った。 秋我が下座となる。

本領を始め各領土の考える人の立場の位置はそれぞれに違う。 ましてや朱然は初めて東の五色を迎えた。 東の領土が五色のことをどの位置に置いているのかが分からなかったが、領主が紫揺に問うたということで、領主より紫揺の方が上の位置にあるとは分かった。
その立場からすると本来なら紫揺が一番右に座るべきだが、朱禅が紫揺に気を利かせたのだろう。 こんな小さな子を端に座らせては心細かろうと。 そしてそれは間違いが無かったようだ。 領主から異を唱える言葉は出てこなかった。

「すぐに茶をお持ち致しますので、今しばらくお待ちください」

「お手を煩わせます」

領主が軽く頭を下げた。

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虚空の辰刻(とき)  第182回

2020年09月14日 22時34分55秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第180回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第182回



あれだけの移動があった。 飛行機にも電車にも乗らなければいけなかった。 それも知らない土地でのこと。 それなのに、知っている土地でも乗り物に乗ったことがない? それにそれに、人と話すこともなかった? 独唱から教えを乞うだけ? 塔弥意外とは誰とも接することがなかった?

それにしては、流暢に・・・気の利いたことを言ってくれるではないか。

それは人と暮らしているから出る言葉じゃないのだろうか。 それともそれが古の力を持つ者とかいう人たちの教えなのだろうか。 いや、そうは思えない。 そうかもしれないが、それだけとは思えない。

「でも、誰かと話をイッパイしましたよね?」

「え?」

「話も聞かれましたよね?」

少し考えるようにすると一人の名前が出た。

「・・・醍十、でしょうか」

心当たりがあるとすれば醍十しかいない。

「醍十さん?」

「彼の地のことを何も分かっておりませんでしたので、ずっと醍十が付いていてくれました」

鍵さえも存在しないこの地。 カードキーを阿秀に渡された時には意味さえ分からなかった。

「そっか・・・」

やはり誰かと話していたのだ。 今の話からするに日本に来てからのようだが、それでも人と話すということがなければ今の此之葉のようではなかっただろう。

「人と話すっていいでしょ?」

「紫さまはそうお考えですか?」

「はい。 まぁ」

そうなのかな・・・。 どうしてこんなことを言ってしまったのだろうか。

でも・・・高校時代は楽しかった。 中学校でも小学校でも友達と一緒にいて楽しかった。 どんな話をしたか覚えている。 ただ、慣れない人と話すのが不得意だっただけだ。

「人があまり得意でないと仰られたのは払拭されましたか?」

「ああ・・・それはどうでしょう。 相手に寄るのかなぁ。 我が儘なだけでしょうか」

「まぁ、そんなことは御座いません」

そう言われれば、日本にいた時の自分を思い出すと随分と違ってきているように思える。 今までの自分なら櫓に上って湖彩とあんな風に話せただろうか、領主の家で祖父母の話をあんな風に出来ただろうか、領主の息子たちと世間話が出来ただろうか。

なによりホテルで目覚めた時のことを思い出す。
あの時は訳が分からなかったこともあっただろうが、それでも泣いて震えているだけだった。 勇気を出して脱走を試みたけれど、ちゃんと話すということをしなかった。

(いや、あれはムロイさんがちゃんと説明してくれなかったから・・・)

北の領土の五色とちゃんと話さなかった。 分からないことを具体的に訊くこともしなかった。

(ちょっとは変わったのかな・・・変われたのかな)

人見知りを盾にとるなどという子供ではなくなってきたのだろうか。

どれくらい乗っていただろうか、馬車が止まった。

「お降りください」

阿秀が踏み台を用意していた。
後ろの馬車からも領主と息子が降りてきた。

「我々はここまでです。 あとは徒歩になりますが、山の中に入りますのでくれぐれもお気を付けください」

塔弥と声を交わした領主と秋我がこちらに向かって歩いてきた。

「北のことを考えますと、万が一を考えてお付きを伴うのが良いのでしょうが、これから先は紫さまと領主と “古の力を持つ者” しか行くことが許されておりません。 今回、此之葉は独唱様の代理として、秋我(しゅうが)は跡継ぎとしてお供させて頂きます。 どうぞ足元にお気を付けてお歩きください。 では参ります」

阿秀に一度目を合わせると、広葉樹が生い茂る山の中に一歩を入れた。

最初は何でもなかったが、段々と緩い上り坂になり、その足元は決して良いものではなかったが、身体のバランスを崩してしまうという程でもない。

「紫さま、お手を取らせて頂けますか?」

足元が悪いのを気にしてのことだろう。 紫揺がこけるのを懸念して先を歩いていた領主が手を出してきた。

「大丈夫です」

どちらかと言えば紫揺には嬉しい道であったが、飛跳ねたいのに目の前のおやつを食べられない状態であった。

(あの岩と岩の間、跳べるかなぁ) (わっ、頃合いの高さの枝、跳びつきたいなぁ) ナドナド。

「それより此之葉さんの方が」

息を切らせて下ばかり向いて歩いている。

「秋我」

殿(しんがり)を歩いていた秋我が頷くと此之葉に駆け寄り手を取った。

「・・・申し訳ありません」

「あともう少しだが休憩を入れるか? これから坂もきつくなる」

かなり疲れていそうなのが見てとれる。

「此之葉さんそうしてもらいましょう。 その方がいいです」

「いえ、これしき・・・」

「紫さまが言っておられる。 ほら、お飲みなさい」

秋我が竹筒を此之葉に渡す。

紫揺が辺りを見回す。 優しい陽光に広葉樹の葉が煌いている。 遠くを見ると幾本もの光の筋が見える。 足元には小石や岩があるが、所々に苔が密集していたり、大きく育ったシダが身を寄せ合っているのが見える。 苔やシダがあるとはいえ、けっして不快な湿度を感じない。

この山は櫓(やぐら)から左に見えた山だ。 湖彩が山の恵みがある山だと言っていたが、どこかにキノコや山菜があるのだろうか。 ちょこっと歩き軽く屈んで木の根元を見るが、それらしいものが見えない。

「なにか見られましたかな?」

領主に問われ紫揺が下げてた頭を上げた。

「湖彩さんからこの山は山の恵があるって聞きましたから、何かないかと思ったんですけど、見当たりませんね」

「ああ、それはもっとずっと離れた所です。 この場所にはあまり生えてはいません。 また生えてもらっても困ります」

「どうしてですか?」

「ここは本領に続く場所でございます。 先ほども申しましたように、本領へは決められた者しか行くことが許されておりません。 我が領土に愚行者が居るとは思いませんが、万が一にでも本領へ入ってしまう事があっては困りますので」

「入れないように、入口を柵で囲うとかってしないんですか?」

立入禁止の柵などということである。

「この領土はそういうことを好みません」

「そうなんですか・・・」

それ以外にどんな返事が出来るだろうか、日本人と違う東の領土の民の持つ心が日本人と大きく違うのだろうか。
湖彩の話にしてもそうだ。 車の話になった時、汗を流して荷車を引くのを好むといっていた。 この領土の人間の好みが分からない。

此之葉の息が落ち着いたというところで、再度歩き始めた。 座って休憩をとることが出来ないのだから、長々と居ても仕方がない。

此之葉は作務衣と似た服ではなく、白地に襟元に水色、緑、オレンジ色の三色の色がある合わせの膝下丈のワンピースを着ている。 帯には緑に地模様が入っている。 二重に回して飾り結びをし、残りの帯の部分をきれいに下げている。 この状態でどこかに座るなどしてしまうとすぐに白地に汚れが付いてしまうし、帯も台無しになってしまう。

秋我が此之葉の手を引く前で相変わらず紫揺の足取りは軽い。 この目の前のおやつを食べたくして仕方がないといった具合だ。 口から心臓ではなく、手が出てきて今にも木にしがみ付きたいばかりだ。
無意識にその図を想像した。

――― グロテスクだ。 身の毛がよだつ。

此之葉の歩調に合わせて三十分弱ほど歩いただろうか。 紫揺の歩調なら半分で済んだだろう。 領主が足を止めた。 だがそこは行き止まりであった。 目の前に見上げるほどの大きな岩が見えるだけである。

「こちらに御座います」

どちらですか? と訊きたかったが、首を傾げるにとどめておいた。
領主が紫揺から目先を変え秋我を見た。

「ここまでの道のりを覚えたか?」

「しかと」

領主によく似て恰幅がよく、三四歳にしては風格と威厳を備えている。

(ってことは、初めて来たんだ。 私と一緒か。 此之葉さんもだな)

此之葉の息はもうあれている。

「領主さんちょっと待って下さい」

言うと、秋我に目を向けた。

「此之葉さんにお水をお願いします」

これから本領に入るのだという思いで、そこまで気付かなかった秋我が慌てて竹筒を此之葉に渡した。 受け取った此之葉がゆっくりと水を口に入れ、酸素を送り込み過ぎて乾いていた喉に潤いを満たした。

「大丈夫ですか?」

「・・・はい。 落ち着きました」

自分の情けなさを思ったのか、恥じ入るように言う。

「此之葉いいか?」

「はい」

領主に返事をすると秋我に竹筒を返した。

「では、参りましょう」

そう言うと領主が目の前の岩に手を触れた。 今までそこにあった岩の前面がすっとなくなり、先に大きな岩と同じ幅、高さのある道が見えた。 ずっと先から光が零れて入ってきているのが見える。

「え?」 と言ったのは領主を除く三人。

洞である。 領主が手を触れたところに穴が穿たれ、その先に洞窟が続いている。
領主がその穿たれた場所に片足を入れる。 だがほかの三人は足が動かない。 それを領主が見越していたのか、先に進む勢いであったと思われたのに足を止め振り返った。

「私も最初は驚きました。 さ、紫さま、どうぞこちらに」

ワケがワカラナイ。 促されるが紫揺の足が動かない。

「紫さま。 我が領土と彼の地を結ぶ穿たれた場所のことをお話いたしました。 紫さまが岩壁にお触れになったことと同じことでございます」

先の紫である紫揺の祖母と、祖母のお付きであった塔弥である紫揺の祖父を助けた洞。 それは彼の地である日本に続く洞窟だった。
その洞窟は境目に何某かの物なり人なりが穿たれた境目に触れていると常に見ることができたが、それが無ければその先を見ることが出来なかった。 単なる岩壁でしかなかった。

同じ様に岩壁に手を触れ片足を入れ、先の道を開けた領主がそれを言っている。
ゴクリと聞こえるほどの唾を飲んだ紫揺。 領主に続いて一歩二歩と中に入る。 なにも不審なことを感じない。

「これが・・・」

周りを見ると単なる洞窟だが、かなり広い。

「はい。 今のことを考えますに、先の紫さまも塔弥の曾祖叔父もあの洞窟の岩壁に手を触れようなどと思わなかったと思います」

ましてや、そのときには先の紫が岩壁の手前の足元に大穴をあけていたのだから。

「・・・分かりました。 先に進んでください」

領主に言うと後ろを振り返った。 きっと洞の外では此之葉と秋我が戸惑ったような顔をしているだろう。 領主と紫揺は中に入ってしまったのだから。
紫揺が境目の岩に足を振れるようにすると、此之葉と秋我に洞の中と紫揺の姿が見えたようである。 二人に視線を送ると来るようにと頷いてみせた。

洞窟の中を五十メートルほど歩くと更に広い所に出た。 その場所は今まで歩いてきた洞と比べると、もっと広いものであった。 その先に続く洞が光の漏れ入ってきていたところである。

「あの光は本領のものでございます。 あそこを出ますと本領に出ます。 そのあとにもまた少々歩きますが、道は悪いものでは御座いません。 ですが、これからほんの少しの間は、我が領土に入る時に感じられた慣れないものを感じられると思います」

聞こえているか? という様子を見せて後ろに視線を送る。 秋我が頷き、此之葉も頷いた。

領主が歩き出したあとを紫揺が歩く。 すぐに領主の言うところの慣れないものを感じた。 日本の領主の家から東の領土に移った時と同じものを。 そして屋敷と北の領土を往復した時に感じた同じものを。
此之葉も感じているのだろう、振り返った紫揺の目に此之葉が僅かに眉をひそめたのが見えた。 そして秋我にも。

領主は “古の力を持つ者” に匙を投げられたと言っていたが、それでもそれなりの力を持っていると聞いた。 だからこの感覚が分かるのだろう。 秋我は領主の血を引いているようだ。

二人の表情を見た紫揺が他に目を移すと、紫揺たちが出てきた洞の他に三筋の洞が見えた。

(あの洞窟はどこに繋がってるんだろう・・・)

その時はそう思ったが、のちに考えて東の領土を除く東西南北の西、南、北に続く洞窟なのだろうと考えた。 あくまでも地理的なことを一切無視して。

広い所から続いている洞を数十メートル歩くと目の前が開けた。 洞が終わったのだ。 そこは東の領土と同じように明るい陽射しがあった。 広くひろがる蒼い空。 その蒼さは両手を大きくひろげて空気を吸いたいほどに清々しいものを感じさせる。 いつしかあの慣れないものが取り払われていた。

「ここが・・・」

「本領に御座います」

正面を見下ろすと平らな地が広がっている。 そして左右には幾つもの尖った岩山が見えるが、どれも中腹から上が見えている状態だ。

「高すぎると思うんですけど」

洞窟から出ると領主の左横に立つ。
今立っている場所は、高さ的に言うと充分に気が滅入ってしまいそうな高さだが、目の前の岩山が高さの錯覚を起こさせ、なんとか気が落ちそうになるのを抑えられるが、高所恐怖症にはけっこう限界だ。

紫揺に続いて洞から出た此之葉と秋我が紫揺の左横に立ち、目を丸くして周りを見ている。 左右に見える先の尖った赤みを帯びた岩山々が色んな高さで峨峨(がが)たる稜線を描いている。 そして上空に蒼天。 息を飲む壮観な光景だ。

「こちらへ」

領主が正面右側に足をすすめた。

取り敢えず、周りはみないでおこう。 領主の進む足元だけを見て歩こう。 でなければイッテシマウ。

今出てきた洞窟の斜め前を歩いて行くと、なだらかな下り坂となっていた。 幅は随分とある。 と言っても二メートルもなく、手すりもなければ何もない。

岩壁に右手を添わせながら歩くが、迂闊に断崖側を歩くと簡単に下から伸びてくる触手に身体を掴まれ、この屹立する岩山の中にそのまま落ちていくだろう。 実際にそんなことはないが、高所恐怖症の紫揺にはそうとしか考えられなかった。

きっとこの高所恐怖症は、祖母が崖を落ちたことに起因しているのだろうと思う。 先端恐怖症は祖父の腕に刺さっていた尖った木。 閉所恐怖症はあの洞の中。
原因が分かると解放されると聞いたことがあるが、なんのなんの、簡単にはいかないようだ。

緩やかな下りは、この岩山の周りに沿って歩いているようで緩やかなカーブでもあった。
二十分ほどゆっくりと歩いた。 急いで歩けばそんなにもかからなかったであろうが、初めて歩くほかの三人、特に紫揺と此之葉を気遣ったのだろう。 秋我と二人であったならここまでゆっくりと歩いて気遣うことはなかったであろう。

「見えてきました」

ずっと領主の足元だけを見ていた紫揺がそっと顔を上げた。 領主の大きな背中から岩壁に沿って先を見てみると、広く平らな空間が広がっていて、そこに数人の男たちがいた。

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虚空の辰刻(とき)  第181回

2020年09月11日 23時07分49秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第170回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第181回



「で? もうお休みになられたのか?」

「はい」

今日の失態を湖彩が阿秀に報告に来た。 その阿秀は領主の家にいた。
領主の二人の息子たちが辺境からやって来て、まずは先の紫のこと、紫揺の置かれていた環境から今回本領に出向く事になった次第とこれからのことを話していた。
領主は紫揺から本領に出向くことを一日でも伸ばされるのを危惧して、息子と顔を合わせるとあとを阿秀に任せ、自室に戻っていた。

息子たちも長旅の疲れがある。 ちょうど話が終わったので、それぞれが懐かしの部屋で今頃はぐっすりと休んでいるだろう。

「倒れられたのだから、湖彩が抱えても致し方ないだろう。 どうだ、私の気持ちが少しでも分かったか?」

阿秀の言う気持ち、それは紫という存在を抱きかかえるなどと畏れ多いということ。
紫揺が洞で倒れた時すぐに阿秀が紫揺の背中を支えたが、そのあとは醍十が紫揺を背負って歩いた。 その醍十はその様なことは畏れ多いことだとは考えていない、ただただ紫揺の、紫のことだけを考える男だ。

だから蔵書から起きない紫揺を抱きかかえ帰った阿秀の気持ちを分かってもらえるのは、今聞かされた話から湖彩だけだと思いそう訊いたが、期待した答えを聞くことが出来なかった。

「冗談を。 あんな場面で抱きかかえては、なんて考えませんし、お運びする時も、あとになってもそうです。 そうではなく、自分の判断の間違えに落ち込むだけです」

一瞬、阿秀が両方の眉を上げてつまらなそうにしたが、すぐに表情を変えた。

「いや、間違っていない。 まぁ、結果は凶と出たが、湖彩の考えていることは誰も考えている。 だがそれを実行に移すのが恐いだけだ」

紫である紫揺を一人にするということ。 籠の鳥にしないということ。 いや、籠の鳥にする気などない。 紫揺は日本で生きていたのだから、急にこの領土の何某かを押し付けるのは心が痛む。
だがお付きの目の前から紫揺が居なくなるということは不安でたまならなかった。 それは恐怖でもあった。

「だからその結果に落ち込んでるんです。 あんなことを言うつもりはなかったんです」

あんな場面で二度と紫を失いたくないなどと。

「まぁ・・・心にあった言葉だろうから、な。 仕方がないだろう」

目の前に置かれている湯呑を手に持つが、その湯呑を置いたのは阿秀自身だ。 もう湯呑の中の茶は冷めている。

「でも、絶対に阿秀ならあの場でそんなことは言いませんよね」

「・・・どうだろうかな」

「言わないですよね。 ったく、阿秀って変なところで自分に厳しく人に優しい」

「八つ当たりか?」

湯呑を置きながらチラリと湖彩を見るが、話の筋を変えるように視線を湯呑に戻した。

「言ったことは無かったことには出来ない。 いつかは紫さまも分かって下さるだろう。 それにお倒れになったのは仕方がない。 紫さまのお力は私たちには分からないのだから」

どういう意味かと湖彩が眉を寄せる。

「あれが紫さまのお力と?」

「木の葉がその様なことを言っていた。 だから気にするな」

紫の力によって先の紫と感応したのではないかと此之葉が言っていた。

「はぁ・・・」

「それで? 櫓はどうしてほしいと仰っておられた?」

「今日で十分と」

「では明日畳んでいいんだな」

「そうしてもらわないとこっちが櫓より先に畳まれます。 壊れます」

「お見事だったらしいな。 若冲が今すぐ畳んでくれと泣きついてきた」

「紫さまの前に障害物は置いていただきたくはありません。 若冲なんて隠れたところで見てただけですよ。 俺なんて真下ですから」

紫揺に付いていたのは紫揺の見える限り湖彩だけだったが、隠れてほかの五人もまた付いていた。

『上がっていいですか?』

櫓の下に来た時に唐突に尋ねられた。

『氏子さんしか上がれないとかってあるんですか?』

『あの地のように氏子などはありませんし、みな自由に上がっていますがあぁぁぁーーーーー!!』

“しかしながら” という接続詞を聞く前に、紫揺がもう櫓に手をかけ上りだした。 梯子は反対側にある。 止める間もない。 とにかく落ちてしまってはどうにもならない。 梯子を上って反対側から追うより、下で待ち構えた方が賢明だ。

紫揺から目を離さず、片手を振って残りの者を呼ぶ。 その内の四人が駆け付けて櫓まで来た時には、紫揺はもう上がりきっていた。 若冲だけは紫揺が上り始めてすぐにアワアワ言い出して、湖彩が呼んだ時には顔を手で覆っていたのだから、呼んだことを知る由もなかった。

当の湖彩は四人が駆け付けて来てから反対側に回って梯子を上ったが、あまりに慌てすぎて足を二段滑らせ、向う脛に腫れが残っている。 それが痛々しくもあり・・・。

「これで悠蓮、野夜、まぁ塔弥はどうかと思うが塔弥も入れるとして、今回は湖彩。 見事な勲章を頂いているな」

痛々しい怪我を勲章という。
悠蓮は尾骶骨、野夜は足首。 どちらも目にする場所ではないが、塔弥の顔の傷は未だにかさぶたが顔じゅうに張り付き、湖彩の向う脛は椅子に座れば下穿きが上がって目に映る。

「そんなことを言ってると、次は阿秀ですからね」

「いや、私は固く辞退する」

「全員そう思ってますよっ!」



ここは本領。
マツリとシキ、そして四方の三人が食事を目の前にしながら話している。

「では、紫は見つからなかったということ?」

「ショウワに怪しいものは視えませんでしたし、もちろん厄災を起こす禍々しいものもです」

「だがショウワは古の力を持つ。 怪しいことがあってもそれを隠すくらい出来るだろう」

「はい、そうかもしれません。 ですが何かを隠していることは確かです。 それは姉上に頼らなければと思いますが」

「たとえシキといえどショウワの力・・・ “古の力を持つ者” には及ばん」

古の力とはそれほどのものだ。 たとえショウワが自身を “老いぼれ” と言おうとも、その力に衰えはないであろう。
四方が空席になっている妻である澪引の椅子を見、次に同じく空席になっているリツソの席を見た。

「リツソはまだ泣いておるのか?」

紫揺の事を想って。

「はい。 尽きることの無い鼻汁を垂らして」

頷きながら要らない情報まで入れてマツリが答えてくれる。 うっかりそのリツソの姿を想像するに溜息を吐きたくなるが、心の中を占めているのは澪引だ。

「澪引が良くなるのはまだまだということか」

リツソの母である澪引は、毎日泣いて暮らしている末息子のリツソのことを案じて倒れてしまった。

「リツソが頑張っていたのに、わたくしが要らないことを言ったばかりに・・・」

「姉上まで。 そんなことは御座いません。 あれはリツソの我儘です。 それにあのクソなま・・・紫を捕ら・・・紫をこちらに連れてこられなかったのは、我の手落ちです。 甘すぎました」

あの時セッカを追っていれば、キョウゲンで追うのが見つかるというのなら、狼たちに追わせていれば。 後悔は尽きない。
後悔して後悔して・・・あのクソ生意気な娘! 勝手にウロウロとしおって! という風に何度考えても結果がそちらに向いていったのである。

「だがシキにさえ視られない所が北の領土のどこにあるというのだ・・・」

腕を組んで首をかしげる。

「父上、お食事中です、 あまりお考え事をなさっては」

朝食の席であった。

「あ、ああ。 そうだな。 ・・・まさか、な・・・」

「え? なんでしょう?」

「ああ、いや、なんでもない。 それより昨日は東に行くといっていたのに、澪引に付いていたのだ。 今日はどうする?」

「・・・東の領土には当分行けそうありません。 いえ、母上のことではありません。 もちろん母上のことは気になります。 ですが今あの領土に行って民を慰められる自信がないのです」

紫を取り逃がしたからだ。 マツリが口を歪める。

(あのクソ生意気な娘がっ! フラフラとしおってっ!)

「南へは?」

「南は落ち着いております。 頻繁に行かなくとも大丈夫でしょう。 暫くは母上についております」

「まぁ、そろそろシキには落ち着いてもらおうと思っていたからな。 いい切っ掛けになるかもしれんか。 澪引のことは大事ないのだから側付きに任せて波葉と時を持つのも一つだぞ」

「まぁ、父上」

突然の名にシキが頬を赤らめた。

「姉上、そうですよ。 我から見ても波葉は姉上をお預けするに文句がありません」

いや、文句は百ほどある。 千も万もある。 だがそれを言ってはいけないというのは分かっている。 ショウジと話していてそれを学んだ。 それに波葉とはあいさつ程度で直接に話したことはないが四方から聞く限り、懐が深く度量があり峻別のある者だと聞いている。

「マツリったら、預けるって。 わたしはマツリの子ではないのですよ」

「同じようなものです」

四方が破顔した。



朝食を終えた紫揺の元に領主と共にやって来た領主の息子二人と顔合わせをした。
息子たちが今にも背中に羽を生わせ飛び立とうとするのを、領主がその足をむんずと掴む。

「しかりとせぃ!」

思わず領主が叫んだのを聞いて紫揺が笑ったものだ、と、紫揺の代の “紫さまの書” に書かれるかもしれない。

息子たちと歓談を終えると領主に目を移した。

「ちゃんとお休みを取っていただけましたか?」

息子たちに睨みを送っていた領主に尋ねる。

「充分に」

領主が深く頷いた。

「じゃ、行きましょう」


目の前に二頭引きの馬車が用意されていた。 見た目は北の馬車とはエライ違いであったが、チューブの入ったタイヤでもなくサスペンションも付いていないのは同じだった。

(やっぱり木のタイヤかぁ・・・)

アマフウ曰くのドヘドを吐かないことを願うばかりである。

馬車は二台。 一台には紫揺と此之葉。 もう一台には領主と領主の長男である秋我(しゅうが)。
馬を操るのは紫揺側に阿秀、領主側に塔弥。 馬車の前を先頭に一頭、その後ろに二頭が並び、殿(しんがり)を三頭の馬が追っている。 進行方向は櫓の上から見た左の山に向かって、領主の家から直角に山に向かっている。

「此之葉さん、馬車に乗り慣れています?」

「いいえ。 初めてです」

「え?」

そうなのか? この土地に暮らしていて、と考えたが、よく考えると此之葉はずっと独唱についていたのだった。 あの洞で教えを乞うていたのだった。 それにしてもたまにはどこかに遠出ということはなかったのだろうか。

「紫さまは?」

「あ・・・えっと、北の領土で長い間乗りました」

「北で?」

「はい。 とてもじゃなく吐き気があったり、腰が痛かったりしました。 今回もあるかもしれません。 その時にはハッキリと言って馬車を止めてもらいます。 此之葉さんもどこか具合が悪くなったら言ってくださいね」

とは言っても、北の馬車とは違い尻の下にはふかふかのクッションが敷かれている。 これだけでも随分と違うだろう。

「有難うございます」

「馬には乗れるんですか?」

「いいえ」

「え? じゃあ、此之葉さんの移動手段って・・・徒歩?」

ここには自転車も電車も自転車さえもないのだから。

「紫さまをお探しできるまでは、独唱様の居られる所と家の往復だけでしたので」

「え? それ以外はどこにも行ってないんですか?」

「毎日が学びの時ですので」

「遊びにも?」

「そのようなことは全く望みません。 ”古の力を持つ者” として生まれました。 ”古の力を持つ者” はその力を師匠から教えを乞い、次に伝えるのが一つのお役目でございます」

「それって・・・。 楽しいんですか?」

「お役目を果たせることが喜びでございます」

「子供の時、遊びたいと思わなかったんですか?」

「“古の力を待つ者” が特別だとは思っておりません。 民もそれぞれに田を耕し、米を作ります。 陶器を作る、ありとあらゆるもの、個々それぞれにお役を果たしております。 田を耕してもらわなければ、米を作ってもらわなければ、私は食することが出来ません。 陶器を作ってもらわなければ皿もありません。 私も皆のためにお役を果たしたいだけでございます。 ささやかながらですが、みなの力になれればと思っているだけでございます」

どれだけ謙遜千%の人生を送っているんだ、そう思った。 だが・・・それが、そう思うことが一番大事なのかもしれない。
自分はそんなことを小指の先ほども思ったことは無かった。 紫の話を聞くまでは、ただ自由に生きていただけだ。 やりたいことをやっていただけだ。 両親との思い出の玄米茶。 そのお茶を栽培してくれている人に想いを馳せたことなどなかった。

(ちょっと今までの人生に反省かな・・・)

これからは少しは考えていくのがいいのだろうな、などと思いながらも疑問は片付けていきたい。

「領主さんからも聞きましたけど、古の力って一言には言えないって仰ってましたよね。 具体的に何をするんですか?」

「紫さまに添うことが “古の力を持つ者” の本質のお役目です」

「本質?」

「はい。 師匠からは色々と学びますが、何よりも紫さまに添うことが一番に御座います」

「・・・それって・・・」

せっかくお師匠さんからいろいろと教えてもらったのに・・・寂しくはないんですか? とは訊けなかった。 此之葉が言ったことを否定するようで。

「民が何を考えているか、どのようにあるか。 そのような事は二の次で御座います」

「はぁ・・・」

ちょっと引いてしまう。

「私はまだまだお役不足ですが」

そう言って頭を下げた。

ソンナことはアリマセン。 ジュウブンにしてもらってイマス。 と言いたいが、重い、重すぎる。

「いえ、そんなことはありません」

一部が口から出た。 事実なのだから。

「・・・」

此之葉の頭が上がらない。
暗い。 暗すぎる。 この空間でそれはやめてほしい。

「えっと、でも、喋ったりはしたんですよね。 お付きの人? 阿秀さんや皆さんとは話したりしてたんですよね?」

コタツを囲んで一辺に此之葉、あとの三辺に誰がし、という図を頭に浮かべていう。

「紫さまをお探しに出るまでは、塔弥とは独唱様のことがありましたから、それなりに独唱様のことを話しましたが、あとの者とはあまり・・・」

「え? じゃ、それまでは塔弥さん以外とはあんまり喋っていないということですか?」

紫揺以上にあの口下手な塔弥意外の誰とも話さなかったというのか?

「独唱様の居られない時でも学びの時でしたので」

「洞には行かれたかもしませんが、その先から出たことがない?」

日本の領主の屋敷から先に出たことがない?

「はい。 独唱様が紫さまをお探しになられて、すぐに領土を出て彼の地の乗り物に乗りましたが、それが初めてでした」

「ぜっく」

心の声が口から出た。 “絶句” である。 色々なことに絶句である。

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虚空の辰刻(とき)  第180回

2020年09月07日 22時39分35秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第170回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第180回



「紫さま?」

ニョゼの声ではない。

だれ?

――― ニョゼさん、会いたいの。 ニョゼさんにいっぱい頑張ったって話したいの。

え? 頑張った?
頑張ってなどいない。 流れに身を安易に投じることなく、自分の思うがままに進んだだけだ。

――― ニョゼさん、褒めて欲しいの。 私、頑張ったの・・・。

頑張った?
そうなのだろうか。 思うがままに、感情のままにいただけなのに。
・・・それでも・・・花を咲かせられたの。 枯らさなかったの。 みんなが喜んでくれたの。

「・・・だ、れ?」

「此之葉に御座います」

「コ、ノハ・・・?」

目覚めかけた紫揺がまた意識を失った。
紫揺の枕元にいた此之葉が寂しげな歎息を吐いた。


ニョゼが美味しいお茶を淹れてくれている。 髪の毛を切ってくれている。 庭の芝生で初めてガザンと向かい合って困惑した顔を見せている。 美味しいパンを焼いてくれた、料理を作ってくれた。 お心を庭に向けて頂けますかと言ってくれた。

「・・・ニョゼ、さん」

「紫さま?」

紫揺がうっすらと目を開けた。

「紫さま・・・?」

「あ・・・」

目の前に憂心を抱いた此之葉の顔が覗き見ていた。

「・・・此之葉、さん?」

「お気づきですか?」

「私・・・」

身体を持ち上げようとした。

「深く考えられませんように」

「え?」

身体の動きが止まった。

「紫さまは紫さまです。 紫揺さまです。 先の紫さまのことはゆっくりと」

また紫揺と呼ばれた。 ここではそう呼ばないと言っていたはずなのに。

「・・・此之葉さん?」

「肩のお力をお抜きになって下さい」

「カタのチカラ?」

「はい。 お楽になさって下さい」

(そうだ。 たしかに、あの緑が続く芝生のようなものを見て、それから・・・)

「紫さま? 先の紫さまも紫さまのことを案じてられておられるのではないでしょうか」

「お婆様が?」

「あの先に行かれますと・・・」

「え? ・・・もしかして」

「はい。 先の紫さまが花を愛でに行かれた場所に出ます」

先の紫が崖から落ちた場所とは言わない。

「お婆様がそこに行かそうとされなかった・・・?」

だからあの顔が浮かんだ? 祖母が襲われた時の北の者の顔が。
あの時、急に何かを感じて、行かなくっちゃ、助けなくっちゃと思って走ろうとしかけた時に湖彩に声を掛けられた。

助けなくっちゃと思った、と言う紫揺に “誰を” を此之葉が訊いた。

「先の紫さまをお助けしようとされたんですね」

「・・・そうかもしれません」

「この領土に先の紫さまはお暮しでした。 紫さまのお力で色んなことをお感じになるかと思います。 ゆっくりと感じていかれればと」

「ゆっくりと・・・」

「はい。 まずはお付きの者がご案内いたしますので、お声をおかけください」

湖彩が言っていたことを思い出す。 『もう紫さまを失いたくないんです』 そして遠くで聞こえた『我らはもう二度と紫さまを失いたくはないのです』 と。
声を掛けるのも迷惑だろうと思ってこっそりと家を抜け出したが、それこそが何よりも迷惑をかけていたのかもしれない。

「・・・はい」

「お昼ご飯は食べられそうですか?」

「え? もうそんな時間なんですか?」

「はい。 いかがいたしましょう」

「あ、じゃ、いただきます」

腹は減ってないが準備をしてくれているのだろう。

「薬膳に致しましょうか?」

「フツーでお願いします」


紫揺と湖彩が櫓の上に立っている。
昼飯を食べ終えた後、湖彩が謝罪にやって来た。 言い過ぎたと。 紫揺が倒れたことを気にしてのことだろう。 湖彩が悪いわけじゃない自分が悪かったのだと、湖彩が下げた頭を上げるまで紫揺が頭を上げなかった。 そのあとに此之葉から “お願いですから辞儀はされませんように” と懇願されたが。

「広いんですね」

紫揺が今見ている背中側に午前中に倒れた場所がある。
見渡す限りずっと先まで家が立ち並んではいるが、けっして押し詰め状態ではない。 一軒一軒が家の周りにゆとりを持っている。 右手と左手のずっと先には稜線が見える。 書蔵の高い塔も見える。

「あちらの山から鉱石が採れます。 代々の紫さまの飾り石もあちらの山から採っております」

紫揺から見て右手の山を指さした。

「あっちの山からは採れないんですか?」

反対側の山。

「採れなくはありませんが、あちらはどちらかというと山の恵みが豊富です」

「じゃ、あの山は?」

くるりと後ろを向いた。

「あちらの山は我が領土の山ではありません」

ちょっとぎこちなく湖彩も方向を変えた。 下穿きが脛に当たり顔を歪めかけたが、なんとか平静を保つ。 

「え?」

「北の領土の山です」

北の領土に入った時、ずっと左手に山が続いていた。 その山から続く木々の横を歩き、馬車で通った。
けさ倒れることなく、あのまま行くと先の紫が花を愛でに行った場所に行くと聞いた。 早い話、先の紫が落ちた崖に行くということだ。

北の領土に着いた時、すぐ建物の裏を見にいった。 覗いてみたわけではないが、深い谷があるのが分かった。 何故ならずっと向こうに断崖が見えたのだから。 断崖の先には平原のようなものが見えて 『芝生でも生えてるのかなぁ。 こっちとエライ違い』 と思ったことを思い出す。 

「あの山・・・」

北の領土に入った時に歩いたあの山に違いない。 そして断崖の先に見えた平原のようなところで先の紫は花を愛でていたのだろう。 そしてあの崖から落ちた。

「あそこから・・・」

北の領土で目にしたあの崖から。

「どうされました?」

「・・・いえ」

一旦顔を伏せると、身体の向きを百八十度変えた。

(そうか、辺境と呼ばれていたのは北の領土の端、この東の領土との境だったのか)

だからあそこが一番暖かい所と言っていたのか。 谷を挟んで気温が全く違ってくるのだろうか、ここは温暖だ。 その地に一番近いのだから、あそこが一番暖かいと言われれば納得がいく。

「広いんですね、左の山はなんとか行けそうですけど、右の山まではかなりありそうだし、それに正面はずっと続いてて終わりが見えない」

「正面の方は段々と下っていって海に出ます。 領土の広さとしては、そうですね・・・向こうで言うところの九州より少し小さいくらいの大きさでしょうか」

「え? そんなに広いんですか?」

「日本とは比べ物になりませんが」

「ってことは、ここは日本じゃない?」

それは念を押して訊きたかったことだ。

「我らもよく分からないのですが、あちらでいう異世界ということになるのでしょうか」

湖彩に限らずお付きの者は日本で生活を続けていたことがある。 異世界という言葉はこの領土には無いが、あちらで耳にしていた。 この領土と日本との関係をあらわすには一番適した言葉ではないのだろうかとお付きの者達で話していた。 それを湖彩が口にした。

「異世界・・・」

改めて周りを見渡す。 後ろ以外だが。

「異世界って・・・アニメみたいですね」

「向こうではテレビやゲームで流行っているようですね。 ですがこの領土には異世界という言葉はありません」

「じゃ、なんて言うんですか?」

「まず、日本の地図にこの領土は載っていませんし、もちろん世界地図にもです。 そしてこの領土の者も日本という所がある事も知りません。 世界という所もです。 ですからその言葉は必要ないんです」

「それって・・・離島でずっと暮らしてるようなものなのかな。 一歩も島から出ないで島以外の情報は遮断して島以外のことを知らない」

「そうであり、そうではありません。 我らにとってここはここなんです。 閉じ込められているわけではありませんし、遮断もしておりません。 ですが紫さまの仰りたいことは分かります。 ですからそうであるかもしれません」

「うーん、分かったような分からないような・・・」

「難しく考えられるのではなく、受け入れていかれれば何となく分かってこられると思います」

「そっかー。 そんなものかな」

湖彩が頷く。

「ここは、工場なんてないんですか? 工房とか?」

北の領土にはそんな風なものがあるとアマフウが言っていた。

「あちらのように大きな工場はありません。 車もテレビもパソコンもありませんので。 ですが小さな工場ならございます。 あちらの煙が見えますでしょうか」

湖彩の指さす方を見た。 右手の山に近い所に目を眇めると一本の白い煙が見える。

「あそこでは鋳造をしております。 他にもあるのですが、今は煙が見えませんね。 あの辺り一帯が、物造り場となっています。 ガラス工場もありますし、陶芸工房もあります。 あちらのように流れ作業ではなく、全て手作りです」

「あそこまで行くのにどうやって行くんですか?」

「馬や馬車です」

「え? ここも?」

「ここも、とは?」

「北の領土です」

「領土は東西南北があります。 その昔、各領土が本領から独立する時に、各々の領土に干渉せぬこと、各々の領土に足を踏み入れぬこと、それを確約しておりますので、他の領土のことは知り得ませんが多分どの領土も車などはないと思います」

「ガソリンがないから?」

「まぁ、たしかにそうですが、それが理由でということではありません。 車という発想がないと言いますか、必要としていません。 もし誰かがこの領土に車を持って入ったならば、誰しもが眉を顰(ひそ)めるでしょう」

「どうしてですか?」

「排気ガスです。 でも、電気自動車の四駆なら欲しいと思うかもしれませんね。 あくまでも電気があればの話ですが。 山の中から重いものを運ぶのは大変ですから。 怪我人も出ます。 ですがそれ以外は、便利というものを好みません。 荷を運ぶ時には、汗を流して荷車を引くのを好みます」

電気自動車にどれほどの電力が必要なのかは知らないが、大きな電力がないことは北の領土で何となく分かっている。

「勤勉なんだ」

「子供たちは親の姿を見て育ちますから、同じことをします」

「子供達って・・・学校はあるんですか?」

「寺子屋のようなものがあります。 あちらと違って午前中は家の手伝いをして、午後からあります」

「午後から。 あ、じゃ電気は? 寺子屋や家の電気はどうしてるんですか?」

目の先に電線など見えない。 地下に潜らせているのだろうか。

「寺子屋にも家にも書蔵にも、どこにも電気はございません」

「え? だって、夜には明るいですし、寝る時に電気を切りますし、書蔵も明り取りの窓が実用的ではなかったけど明るかったですよ」

暗くなってくれば此之葉が紐を引っ張って灯りを点け、寝る時には自分で紐を引っ張って灯りを消している。

「あれは光石というものです」

「光石?」

「向こうで言うところの動くものをセンサーでキャッチして自動で電気が点いたり消えたりするものと同じです。 違う所は電気ではなくて石自体が光っているんです。 お部屋の光り石もそうなのですが、先の紫さまが二歳であのお部屋に来られました時に、せっかく寝てらしているのに、側仕えが動くせいで光石を消すことが出来ず、苦肉の策で光石に刺激を与え点灯消灯をさせています。 ですから紫さまのお部屋の光り石だけは完全手動になっております」

紫揺の居る部屋だけ手動。 それでは他の部屋や他の家は不便なのではないのか? センサーでキャッチする日本の自動点灯消灯と同じということは、起きていてもじっとしていれば消えるのではないのか? そうでないとするならば。

「その光石って、人が寝ているのが分かるってことなんですか? 寝たから消える、起きたから点く?」

僅かに湖彩の頬が緩んだ。 何という幼く突飛な考え方なのだろうか、と。 そしてそれは紫揺の突飛な動きにも通じていることなのだろうか。

「動きを感知しています。 側仕えは先の紫さまが寝られたからと、じっとしているわけではありませんから」

紫揺が紫の部屋以外のことを訊いたとは知らず、側仕えのことを再度説明した。 それは側仕えが動けば光石が点灯する。 だから紫の部屋だけは手動にした、と。 だがあとに言葉を添える。

「それにあちらのセンサーのキャッチとは少々違いまして、広い範囲で僅かな動きにも反応いたします。 指一本の僅かな動きにでも」

日本の電気の自動点灯はセンサーの前だけに動きがあれば点灯をするが、ここの光石は狭い範囲での動きをキャッチするのではなく、広い範囲で認識するということか。 それも指一本に対してでも。

「ああ、そういうことですか」

と、納得しかけて、では寝返りをうったら点灯するのだろうかと疑問を持ちかけた時に湖彩が続けた。

「明るい時には点きませんし、暗い時には布をかぶせると動きがあろうとも点灯せず消灯いたします」

疑問が解消された。

「わぁー、賢い石なんだぁ」

紫揺の言いように笑いを殺すような顔で頷くと、足まで揺れてしまって痛みが走る。

「あ、ってことは、わざわざ苦肉の策を使わなくてもよかったんじゃないですか? 布をかぶしてしまえばいいんでしょ?」

「幼い紫さまが寝ていらしているところで布をバサバサするのを憚ったのでしょう」

単なる幼い紫さまなのか、やっと寝てくれた力を秘めた幼い紫さまを起こさないようになのか、そこのところは今生きている誰にも分からないところだ。

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虚空の辰刻(とき)  第179回

2020年09月04日 22時21分55秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第170回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第179回



床を見ていた目を伏せるとケミもまたゼンから目を離した。

「・・・まだある」

「お父母のことを思い出せたか」

「・・・いや」

「そうか」

「お前はどうなのだ? お前のことが分かったのか?」

「いいや」

「・・・そうか。 ああ、そうだ。 そう言えばショウワ様が妙なことを仰った」 

ケミの声にゼンが顔を上げケミの顔を見た。 ケミもいつの間にか見ていた戸から目を外してゼンを見る。

「ムラサキ様が居られなくなったのを知られた後だったが、夢を見たと仰ってな 『先代は厳しいお人じゃった。 古の力を叩きこまれた。 ・・・そして今お前たちがいる』 と」

「どういうことだ?」

「そのあとに言いかけてやめられた 『お前たちの・・・。 いや、今はやめておこう』 とな」

「お前たちの? それに、今はやめておこう?」

「ああ」

ゼンが視線を外し顎に手をやる。

「どうした」

「・・・なにかが、何かが動くかもしれんな」

「なにか?」

「ああ」

己達は影として生き、ショウワを助けるということもあったが、一番に言われていたことは、ショウワがムラサキを見つけ出し、そのあとにムラサキを守るということだけを言われてここまできていた。 そのムラサキが居なくなった、ショウワがもうあとを追えないと言う。 言ってみれば己達のやるべきことがなくなったのだ。

ショウワが言いかけたのは “お前たちのやるべきことはなくなった” なのではないだろうか、と考える。
それならばこの迷い “吾がどうしてここにこうして居るのか。 吾は吾が分からない” そしてケミの迷い “吾のお父母はどこに居るんだ” それが解けるのではないだろうか。 そう思うが、ケミにそんなことはまだ言えない。 思い違いかもしれないのだから。

それに、ケミには言わなかったが、最近は頭痛以外の痛みを感じるようになってきていた。 その痛みや頭痛からも解放されるのだろうか。


暖かい陽光を肌に感じる。 それに鳥の鳴き声がする。

「お目覚めになられましたか?」

「ここは・・・」

「昨日、セノギが居間からこのお部屋にお連れいたしました」

「あ・・・ああ」

そうだった。 昨日は居間で頭痛が起きて・・・。

「マツリ様は」

「ショウワ様が丸薬を飲まれてすぐに帰られました」

「そうか・・・」

「長旅のお疲れもありましたのでしょう。 お加減はいかがですか?」

「ああ、もう痛とうはない」

「セッカ様に頂いた丸薬がもうなくなりましたので、薬草師に作って頂いてもよろしいですか?」

「ああ、頼む。 あれがなければどうにもいかん」

「ショウワ様のお身体に良く効くようですし、あちらの薬のように副作用がありませんから、お出しする方も安心でございます。 すぐに食をお持ちします」

「頼む」

食欲があるのだと、ニョゼが安堵しすぐに部屋を出た。

「また来られるか、それとも何かの折に訊かれるか」

マツリがあの状態で終らせるはずなどない。 あの場で何もかも終わらせたかったのに、こんな憂いを残したくなかったのに。

「忌々しい・・・」

マツリに対してではない。 あの頭の痛みに対して言ったことだった。



「今日一日退屈だなぁ」

朝食を終え、累積的に退屈大王と化しつつある紫揺である。

「まだ民って人達が片付けやなんかでその辺にいっぱいいるんだろうなぁ」

少人数ならまだしも、大人数の前に姿を現したくない。
ゴロンゴロンと転がる。 民から貰った花の水は毎日此之葉がかえてくれる。 些細なことも何もすることがない。
ゴロンゴロン。

「領土史でも読みに行こうかなぁ」

言ってはみたが、そんな気になれない。

「腐る」

北の領土ではもう少し広い部屋だったから、なにがしか身体を動かせたが、ここではせいぜい倒立が限界だ。 普通の部屋の大きさなのだから。 言い変えたら、北の領土で畳が敷かれていた寝室と同じくらいの大きさなのだから。 紫揺の家の居間よりは広いが。

「腐る―、腐る―、腐るー」

うつ伏せ状態で文句を並べるが、何度言っても何の変化があるわけではない。

「ん?」

ガバッと顔を上げた。 ゴロンと仰向けになる。

「考えたら、最初の日は夜中にこの部屋を出たし、あとは書蔵に行ったけど、初日の行きは紫さまっていう声が聞こえて最初はそっちを向いたけど、あとにはもう案内する湖彩さんの背中しか見なかったし、帰りには人が集まってきたし、二回目以降は抜け道? 阿秀さんに教えてもらった家の裏側を通る道を通っただけだし、祭の時にはそれどころじゃなかったし・・・」

一日目はヒキガエルのような笑顔を振りまいただけで、二日目はどんな風に返事をしようかと考えていただけだった。

「よく考えたら、この領土の景色を全然見てない」

足を上げてきてその脹脛を掴み顔の前に持ってくる。

「櫓(やぐら)に上げてもらえばよかった」

そんなことを訊けば、阿秀に限らず他の六人も止めただろうし、若冲などは櫓を壊しかねない。

「櫓の他に私が上った台。 他に何かあったかなぁ・・・」

それ程片付ける物が無ければ、サッサと片付くだろうし、人手もそんなに出ていないだろう。
グイグイと向う脛辺りを顔に押し付ける。 言ってみれば逆前屈、つぶす、だ。

「よし・・・」

一度軽く足を上げると、勢いよくもう一度顔に付くほど持ってきて、その勢いを殺さず足を撥ね上げ、後転倒立で起き上がる。 もちろん肘など一度も曲げていない。

そっと戸を開ける。 誰も居ない。 朝食は済んだのだ。 女たちは片付けを終わってもう家には残っていないだろう。 それにお付きという者達がいる部屋も閉まっている。

何故閉まっているかを紫揺は知らないが、それはお付きの者達の気遣いである。 お付きの者たちの姿を見れば、ゆっくりと出来ないだろう。 紫揺が家の中を歩きやすくする為のものであった。
此之葉からどこかに行くときは、誰かに声を掛けるように言われていたのは覚えている。 でも案内など要らない、ブラブラするだけなのだから。

(だいたい、この家は紫の家って言ってたんだから、他の人がいるのがオカシイ)

足音を立てず、そっと玄関で靴を履いて外に出る。 窓を閉めていたとはいえ、それなりに人の声や物音が聞こえていたが、外に出るとけっこうなボリュームで聞こえる。

「櫓を分解してるのかなぁ」

辺りを見回し近くに誰も居ないことを確認すると、出来るだけ民と呼ばれる人たちに見つからないように物陰に隠れながら歩き始めた。 右へ行くと初日に運動したところに出る。 そして領主や独唱の家があることは分かっている。 よって、左に曲がる。 ずっと左に歩いて行くと、祭がおこなわれていた場所に出、そこを通り過ぎてずっと歩いて行くと書蔵に出る。

紫揺の家の隅から一人の男が出てきた。 もう一方の隅からも男が出てくる。

「やっぱりな」 最初に出てきたのは野夜。

「はぁー、本当にじっとしておられない」 そして湖彩。

お付きの者達の部屋の戸を閉めていたから前回は大探しとなった。 それを教訓に家の外である玄関と窓に張り付いていた。

「どうする?」

野夜が目で紫揺を追ったまま、声を掛けるかどうかと訊いている。

「うーん、そうだな。 紫さまのされたいようにしていただこうか」

声を掛ければやりたいことも出来ないだろうと言っている。

「・・・あの時のことは覚えているんだろうな」

ちらっと湖彩を横目で見た。

「忘れるわけがない。 お前が俺たちを飛び越した後にこけたことだろう」

「ちがうだろ!」

「分かってるよ。 とにかく籠の鳥はお好きでないようだ。 何かされそうになればすぐにお止めすればいいだろう」

「責任持てよ」

「パス。 応援を呼んで来る」

家の中に入って行った。

物陰に隠れながらの移動で紫揺の歩みは遅い。

「家が並んでるだけじゃない」

北の領土では領主の家が他のところより高い所に建っていたから、領土の中心という所を見渡せたが、ここはどうも平地が続くようだ。
書蔵に行くときも家の裏側を通ったが、そこにも家が立ち並んでいただけだったな、と思い返す。

「やっぱり櫓の上しかないよねー」

物陰から頭を出して見てみる。 まだ櫓はたったままだ。 家々の屋根の上に櫓が見える。
北の領土では領主であるムロイの家だけが一部に二階があったが、坂の下に見える民と呼ばれる者達の家は全て平屋の長屋だった。

そしてここ東の領土、領主の家も紫の家も民の家も平屋である。 北の領土と違うのは長屋ではなくそれぞれが戸建てであるということだ。

「ふむ・・・」

建物に背中を預けて腕を組む。

「このまま進んでも、絶対に誰かと会うのは分かってる。 今日は一日暇なんだから・・・」

踵を返した。

まさか方向を変えるとは思わず、散らばっていた二人一組の三組が慌ててワチャワチャになっている。 紫揺のすぐ後(うしろ)を追っていた一組の横を、紫揺が何も無いように通り過ぎる。 見事に壁と一体化して身を隠した梁湶と悠蓮であった。
二人一組の三組計六人誰もが大きく息を吐いた。

「なにしてるの?」

ウワァ―っと声を上げかけ、より一層壁に引っ付いたのは、野夜たちと比べて身体が大きめな梁湶だ。 その身体を不自然に壁にくっ付けているのだから、見咎められても仕方がない。
声のする方、足元を見ると四歳の男の子であった。 詰問されたのではなかったようだ。

「ああ、朋来(ほうらい)か。 いや、なんでもない」 小声で言う。

「梁湶、いくぞ。 走って行かれた。 朋来またな」

悠蓮が小声で言って、朋来の頭を一撫でし、走り出した。
梁湶が覗き見ると、紫揺がもうそこそこ走っていた。

「うそだろ」

結局、紫の家を通り過ぎ、領主の家も通り過ぎ、初日に身体を動かした広々とした所に来た。

「へぇー、こんなに広かったんだ」

どこまでも続くと思われるような芝生のような緑。 ずっと先に見える木々は後ろに見える山へと繋がっているのだろうか、それとも森だろうか。

「ここに公園を作ればいいのに」

緑の中に足を入れる。

「おい、どうする。 このまま進まれれば隠れるところがない」 若冲。

「んじゃ、俺らも行くって言えばいいんじゃないかぁ?」 言わずと知れた醍十。

「訊いた相手が悪かった」

「どういう意味だよー」

「湖彩、どうする?」

野夜が嬉しそうな顔をしているのは気のせいだろうか。

「これ以上進まれれば致し方ないか」

「責任を取れよ」

湖彩が紫揺に声を掛けるということを言っている。

「パスって言っただろ」

「そんなことが通用するわけがないのくらい分かってるだろ。 決めたのは湖彩なんだからな」

「あ・・・野夜、計画的に俺に訊いたか?」

「いや・・・」

明後日を見た野夜に湖彩が目を眇めた。
その間にも紫揺はどんどん先を歩いて行く。

「さっきの足の速さを思うと、走られてはどうにもいかん。 これ以上距離があくのは考えものだ」

梁湶が言う。

「ああ。 運動能力に長けていらっしゃるというのは、我々にとって良いのか悪いのか」 悠蓮。

二人一組の二組と野夜が陰から見ている前に湖彩が立った。

「お声をお掛けしてくる」

野夜に向かって言うと湖彩が走った。

「言い出しっぺにはなりたくないなあ」

湖彩の背を見ながら野夜が呑気に言う。

「お。 湖彩が走ったかぁ、 結局俺らもついて行くってことを言いに行ったんだろぉ? それならもっと早くに言えばよかったのに」

「湖彩は湖彩なりに紫さまを想っている」 若冲。

「俺だって想ってるぞぉ」

「・・・確かにな」

紫を探すなか、船着き場で一番近くに紫揺に近寄れた醍十。 その機を逃してしまって、此之葉さえも放って領土に帰り、先の紫が落ちた崖に彷徨うように歩いていた醍十だ、とぼけて言っているようだが、紫への想いは皆と一緒で大きい。

急に紫揺が走り出した。 すぐ後ろまで来ていた湖彩が慌てて声を上げる。

「紫さま!」

紫揺が足を止め振り向いた。

「あ・・・」

「どちらに行かれますでしょうか」

身を出していた他の五人が物陰に身を隠す。 だがいつでも走れる状態だ。

「あ・・・えっと」

「我らは紫さまのお付きです。 どこへ行かれるにもお供いたします」

書蔵を案内してくれたときの湖彩とは違って厳しい言いようだった。

「・・・いつも・・・」

その次に何が続くのだろうかと、湖彩が首をかしげる。

「私に・・・自由はないんですか? 一人で歩いてはいけないんですか?」

紫揺自身思ってもいないことを言ってしまった。 言葉の選び方を間違った。 迷惑をかけたくないから、案内など要らないからと考え一人で家を出たのに。

「あ・・・ごめんなさい」

「いえ。 そう考えられるのは当然のことでございましょう」

「え?」

「お一人でお歩きになりたいときもございましょう」

「・・・」

「ですが、我らは一度、紫さまを失ったのです」

「分かっています」

「もう紫さまを失いたくないのです」

「・・・」

「いつ北が来るやもしれません。 紫さまがいつ攫われるやもしれません。 我らはもう二度と紫さまを失いたくはないのです」

湖彩の声が途中から遠くなってしまった。 ちゃんと最後まで聞きとることが出来なくなった。 その紫揺の脳裏に、異常な目をしヨダレを垂らし、祖母が ”邪” としか考えられなかった男の顔が浮かんだ。
どうしてそんな顔が浮かんだのか。

――― イヤダ。

「紫さま!!」

湖彩の叫ぶ声が遠くに聞こえた。

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