『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第186回
四方たちが頭を悩ませている間『しばしゆるりとされよ』 と言われた東の領土ご一行は昼食を供されていた。
四方が出て行った直後、やってしまった紫揺は落ち込み、領主は呼び捨てのマツリ宣言と四方への難詰に瞬時にして精魂尽き果て魂が抜かれたようになり、此之葉はこういう紫を “古の力を持つ者” としてどうすればいいのか頭を巡らせ、秋我においては、何を考えることすらも出来ない状態であった。
そんな状態であった時に、割れた光石の片付けが始まり、一行は和室に移ることとなった。 片付けている者達の横からしずしずと何人もの女が入ってきて、それぞれの前に膳を並べたのだった。
「どうして日本を経由することを避けるんでしょうね」
落ち込んでも立ち直りは早い。 相手は四方なのだから。
「日本を認めてしまうことになるからでしょう」
「日本を認めなかったら私が居ないのに。 日本は認めないけど、日本で育った私は認めるって、変な話」
「紫さま、どうか、その・・・この本領に居る間だけは、四方様のお立場や紫さまのお立場をお考えになってお話し下さい」
「あ。 はい。 さっきは言い過ぎました。 反省してます。 でも、のらりくらりとしていては、結果が出ないんじゃないでしょうか。 このまま無かった事にされたらどうするんですか?」
「いいえ。 四方様はそういう事はされません。 必ず答えを出されます。 殆どの場合、すぐその場で。 洞のことを追々と言って下さったのは、余ほどに紫さまのことを考えられたからでございましょう」
「余ほどに考えた割には答えが早かったですね」
「それでこそ、本領領主であるということで御座います。 問われれば即座に答えられます。 それが本領領主を知らない者には少々冷たく映っても仕方がありません。 その四方様が今のように時を持って考えられることの方が珍しいのです」
「ってことは、唱和様を本領に連れてこようと考えているということですか?」
「まずそうでしょう。 北の領土の道がどのようなものかは分かりませんが、簡単に本領に来ることが出来ないのでしょう。 我が領土も独唱様がお歩きなられることはもうままなりません、紫さまが仰ったように似たようなものなのでしょう。 それを思案されていることと思います」
「だから日本で会って。 日本経由にすれば、東の領土に帰るまで歩くことなんて殆どないのに。 あ、分かってます。 日本を認めていないんですよね」
あの頑固ジジイは。 と思っても口には出さない。
最初、膳を出されても手をつけられなかったというか、喉を通らず箸を置いてしまった此之葉と秋我に「残してはならんぞ」 と領主から言われた二人が喉を潰すように、やっと最後の一口を飲み込んだ。 紫揺と領主に至ってはもう茶を飲んでいる。 隅に控える女が此之葉と秋我に茶を出し、空になっていた紫揺の椀におかわりを注ぐ。
「どうするんでしょうね」
三杯目の茶に口を付けた。 この茶は、来た時とその後ともまた違う茶葉で淹れたものだろう。 これも気に入った。
此之葉と秋我も茶に口を付ける。 無理に通した喉が弛緩していくようだ。
「これも上手い茶ですね」
「本当に」
静かな二人の声が和室に豊かに広がった。
膳が下げられると、ご一行は片付けられた板間に戻った。 上を見ると新しい光石が取り付けてある。 するとそれを見ていたかのように四方が戻ってきた。
「少しはゆるりと出来ましたかな?」
最初に入って来た時と同じように大股でやって来た。 後ろについていた男が椅子を引く。
「お心づかいに感謝申し上げます」
それで、と急いて訊きたいが訊けるものではない。
「すぐに来ると思うが・・・ああ、来たか。 入りなさい」
「シキ様!」
そう言って立ち上がったのは秋我である。
「あの折には世話になりました」
ゆっくりと入ってきたシキが秋我の正面に立つと、顎を引くくらいに頭を下げる。
「とんでもございません。 シキ様のお声により、民の悲しみがどれほど癒されましたでしょう」
こちらは深々と頭を下げる。
「お役に立てたのなら嬉しく思います。 どうぞ、お上げになって」
(へぇー・・・キレイな人・・・。 この人がリツソ君の姉上)
優しい桜色をした衣裳は日本の着物と同じように前合わせをし紫色の帯を巻き、その上に重袿(かさねうちぎ)を着ているが、日本の着物とは少し違う。 着ているものが着物に比べて随分と生地が薄く、帯も半巾帯ほどもない。 そして何より、帯の下は裾広がりになって、後ろではまるでドレスのように足元で裾を引きずっている。 もちろん袴などは穿いていない。
「辺境でのこと、秋我から聞いております。 なんとお礼を申し上げればよいか」
立ち上がって言うと、こちらも深々と頭を下げ、此之葉が倣って頭を下げるのを見て紫揺も同じように立ち上がり頭を下げた。 四方にはしたくないと思った所作であった。
「どうぞ、お上げになって。 領主、祭の際には世話になりました」
「行き届かないことが多くありました事と存じます」
「そんなことはありません。 楽しく過ごさせて頂きましたわ。 どうぞお掛けになって」
そう言うと四方の隣に座った。 目の前ではちょうど紫揺が座ったところだ。
「紫ね?」
何とも美麗な笑顔を向けて尋ねてきた。
「はい」
真っ直ぐに見る目をシキに返す。 シキが安堵に似た目を返す。
「“古の力を持つ者” 此之葉、久しいわね」
視線を此之葉に変えて言う。
立ち上がって辞儀をするとシキが頷いたのを見て座る。 シキとは祭で顔を合わせている。
「此度のことは見抜くことが出来なかった、我らが祖の手落ちかもしれないということ。 北の領土はわたくしの見る領土ではありませんが、もしその者が東の領土の民なれば放っておくことはできません」
領主を見ながら言っていた視線を此之葉に戻した。
「見抜くことができるのね? 解くことも」
封じられているかもしれないということを。
「・・・はい」
先程の勢いが消えている。 念を押されて自信を無くしてきている。 だが独唱から言われている。
『自分を信じねば何も出来ん。 今の此之葉に足りんのは自信だけだ』 と。
「独唱様ほどの力はまだ御座いませんが、独唱様以上の力を持つ者など居りませんでしょう。 私でも十分に見抜くことができ、解くこともできます」
自分に言い聞かせるように口にした。
「ではその時にはお願いね。 早くて明日になります」
此之葉に言うと領主に目線を変えた。
「明日? ですか?」
今日ではないのか?
「ええ。 昨日マツリがその者と会っています。 体調が良く見えなかったそうですから無理を強いられないの。 今またマツリが様子を見に行っています。 その様子で早くとも明日ということになります」
「では・・・」
「ええ。 領主が忙しいのは承知しております。 ですが、その者をここに連れてこられるまでは、此之葉をここに置いていてほしいの。 領主もご心配でしょうから、此之葉とご一緒にと申したいのですが、いかがかしら?」
領主が秋我と目を合わした。
「領土の方は私が見ておきます」
「いや、祭の後の民は落ち着きがなくなっている。 それに紫さまのことで落ち着きどころか、民が浮足立ったままかもしれん。 私が戻る。 秋我が残ってくれ」
「あの・・・私はどうすれば・・・」
小声で領主に訊いた紫揺に応えたのはシキ。
「紫もここに居てもらえないかしら? 沢山お話がしたいわ。 ね、領主よろしいでしょ?」
北の領土に居た紫揺がどういう経緯で東の領土に、そしてこの本領に足を運んできたのかはマツリから聞いた。 もちろん洞のことも日本のことも。 だから敢えて紫揺に何を問わなければならないことは無いのだが、だからと言って「それではこれから東の領土を頼みますね」と言って終われるのものでは無い。 あれ程に待ち望んだ紫が目の前にやって来たのだ。 それにどうも紫揺の真っ直ぐ見る目に一目惚れしたようだ。
「紫さま、いかがいたしますか?」
「私もシキ様にお伺いしたいことがあります。 このまま帰ってしまっては機会がなくなってしまうかもしれませんから」
「まぁ、嬉しいわ。 では父上、そのようなことで宜しいでしょうか」
「・・・」
「父上?」
シキに問われるが、その目をシキにではなく紫揺に向けた。
「紫」
「はい」
「その者を本領に連れてくるにあたり、シキが禁を破る」
「父上、その様なことを紫に言っても・・・」
シキを一顧すると続ける。
「間違えでは済まん。 分かっておるか」
紫揺の言うショウワが、たとえ “古の力を持つ者” ショウワだったとしも、そうでなかったとして、その後に連れてきた者であろうとも、そんな者は最初から居なかったという結果であったとしても同じことである。
(禁とか、破るとか、急にそんなことを言われて分かるわけないだろ)
と、心の中で吐いて違う言葉を口にした。
「物事に百パーセントなんてありません。 お医者さんだって完全に治すとは言いませんから。 ですが私は私を信じています。 でももし違っていたら・・・」
パーセントの意味は分からなかったが、何気に言いたいことは分かる。 全員が紫揺を見る。
「ゴメンナサイを百回言います」
四方の身体が傾き、領主が見えない手で頭を抱え、此之葉と秋我が下を向いた。 見えはしないが、此之葉は大きな歎息を吐いているだろうし、秋我は苦虫を百匹ほど口に入れて噛んでいるだろう。
そんな場の中にコロコロコロと笑い声が聞こえる。 シキである。
「素直ね、何よりも正直だわ。 父上、余り仰いまして、その者が東の者と分かった時にはいかがなされるおつもりですか?」
「・・・」
「そうであったとしても、四方様の手落ちではありませんから。 それより四方様がこの機会を作って下さったことに感謝しています。 そしてシキ様にも禁とかって、それがどんなものかよく分からないですけど、破るということは大変なことをするということは分かっています。 手を携えて下さって有難うございます」
「まぁ・・・本当に素直なのね」
分からない事は分からないとはっきりと言う。
「いいえ、そんなことはありません。 でもシキ様、少しは安心してください。 私だけがそう思う感じるということだけで、ここまでの決断は出来なかったかもしれません」
どういうことかしら? といった具合にシキが紫揺に問うように見せた。
「私が北の屋敷で聞いたショウワ様というお名前は、独唱様のお姉さんである唱和様と同じお名前です」
「え?」 シキが思わず声を漏らし、聞いていませんけど? という目を四方に送る。
四方とて今初めて聞いた。 だから、言ってませんけど? という目を返してはいない。 その目を紫揺に向ける。
「同じ名だというのか」
「はい」
四方が腕を組んだ。
四方の考えていることは想像がつく。 きっと攫ってきたにもかかわらず名を変えなかったというのは可笑しな話だと思っているのだろう。
当時、東の領主が唱和のことを本領に言わなかったものの、もし言っていれば名から足がつくはずなのだから。
四方が何かを言う前に紫揺が口を開いた。
「此之葉さん、説明してもらえますか」
コクリと此之葉が頷き四方を見ると、四方が此之葉の発言を許すというように頷いた。
「封じ込めるというのは、その者の力がよほど強くない限り、封じ込められる者の抵抗が大きければ、封じ込むことは出来ません。 民であれば抵抗など出来ません。 抵抗の力など持っておりませんので。
ですが唱和様が居られなくなった時は五の歳になっておいででした。 お力のある唱和様でしたらたとえ五の歳の幼子と言えど、抵抗の力をお持ちだったと思います。
急に攫われ、知らない者の前に出され、封じ込めを受けることを分かられたのでしょう。 たとえ五の歳であってもまだ五の歳で御座います。 封じ込めに完全に抵抗することが出来ないのは分かっておられたのでしょう。 ですから何を抵抗されるか、ただ一つに絞られたことと思います。 そこに力を注げば必ず成功すると思われたのでしょう。 それが御名で御座いましょう」
「わずか五の歳でそのような判断を・・・」
シキが口から漏らした。
「ついでに言っちゃうと、独唱様や此之葉さんなら、どれだけ抵抗されても完全に封じ込めが出来るそうです。 それだけ東の領土の古の力は偉大です」
何気に東の領土の古の力をアピッている。
「独唱様も、今は仮に北の領土のショウワ様も紫である祖母を探すことだけに、幼いころからそれだけに生きてこられました。 結局祖母は亡くなりましたが、それでも諦めきれず紫を探されて私が見つかりました。
おおよそ八十年間ずっと、探すことだけに生きてこられました。 ショウワ様は既に私が北の領土の手から居なくなったことをお知りになったでしょう。 落胆されていらっしゃると思います。 八十年かけたことが目の前からなくなったんですから。
ですがショウワ様が落胆されることなど必要ありません。 一日も早く封じ込めから解放してさしあげたい。 そう思っています。 だからシキ様のご決断に感謝しています」
シキが愁色の色を見せ、次に憐憫の目を紫揺に送ってきた。
「ショウワのことは事がはっきりとしてからのこととしましょう。 でも紫? あなたはほんの数日前に領土のことを知ったと聞きました。 何故それほどに独唱やショウワのことが言えるのですか?」
「どういうことでしょうか?」
コキっと首をかしげる。
「そうね、簡単に言ってしまうと、よく知りもしない者のために、どうして心を寄せられるのですか? その時があるのなら紫は元居た場所に帰りたいのではないのですか?」
東の領土の紫揺以外の誰しもが視気(シキ)が視た、と思った。 紫揺は元いた場所、日本に帰りたいのだと、領主と此之葉、秋我がそれぞれに肩を落とし、静かな息を吐いた。
「祖母が悪いわけではありませんが、でも祖母と私が原因でお二人もの方の一生を駄目にしてしまったんです。 笑うことも楽しむこともなかったと思います。 八十年間ずっと気を張られていただけです。 その方々のことを想うのは当然じゃないでしょうか。
私は何も出来ません。 手を携えて下さるシキ様に感謝することしか出来ません。 それに・・・日本に帰りたいと思うのも当然だと思います。 生まれ育った場所ですから。 でも考える時間は欲しいです」
「そう。 分かりました。 本当に正直に言って下さるのね。 気持ちがいいわ」
そう言ってから四方を見た。
「父上、わたくしと紫はこれで宜しいでしょうか?」
腕を組んだままの四方が頷くとシキが紫揺に視線を戻す。
「ね、さっきわたくしに訊きたいことがあるようなことを言っていたけれど?」
「はい。 教えて欲しいことがありますけど・・・みなさんの前では・・・」
「それでは、わたくしのお房でお話しましょう? わたくしもゆっくりと紫とお話がしたいわ。 父上よろしいでしょう?」
「あ、ああ。 まあ―――」
まで言うと襖の外から何やらにぎやかな声が聞こえてくる。 賑やかどころか怒声ほどではないが、女と男の叫び声と制止する言葉も交じっている。
「なんだ、騒々し―――」
襖がバンと音をたてて開いた。
全員が襖を見、部屋の隅に居た者達が走り出そうとした時だった。
「シユラ!」
「リツソ!」 「リツソ!」 「リツソ君!」 四方、シキ、紫揺と三人の呼ぶ声が重なった。
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四方たちが頭を悩ませている間『しばしゆるりとされよ』 と言われた東の領土ご一行は昼食を供されていた。
四方が出て行った直後、やってしまった紫揺は落ち込み、領主は呼び捨てのマツリ宣言と四方への難詰に瞬時にして精魂尽き果て魂が抜かれたようになり、此之葉はこういう紫を “古の力を持つ者” としてどうすればいいのか頭を巡らせ、秋我においては、何を考えることすらも出来ない状態であった。
そんな状態であった時に、割れた光石の片付けが始まり、一行は和室に移ることとなった。 片付けている者達の横からしずしずと何人もの女が入ってきて、それぞれの前に膳を並べたのだった。
「どうして日本を経由することを避けるんでしょうね」
落ち込んでも立ち直りは早い。 相手は四方なのだから。
「日本を認めてしまうことになるからでしょう」
「日本を認めなかったら私が居ないのに。 日本は認めないけど、日本で育った私は認めるって、変な話」
「紫さま、どうか、その・・・この本領に居る間だけは、四方様のお立場や紫さまのお立場をお考えになってお話し下さい」
「あ。 はい。 さっきは言い過ぎました。 反省してます。 でも、のらりくらりとしていては、結果が出ないんじゃないでしょうか。 このまま無かった事にされたらどうするんですか?」
「いいえ。 四方様はそういう事はされません。 必ず答えを出されます。 殆どの場合、すぐその場で。 洞のことを追々と言って下さったのは、余ほどに紫さまのことを考えられたからでございましょう」
「余ほどに考えた割には答えが早かったですね」
「それでこそ、本領領主であるということで御座います。 問われれば即座に答えられます。 それが本領領主を知らない者には少々冷たく映っても仕方がありません。 その四方様が今のように時を持って考えられることの方が珍しいのです」
「ってことは、唱和様を本領に連れてこようと考えているということですか?」
「まずそうでしょう。 北の領土の道がどのようなものかは分かりませんが、簡単に本領に来ることが出来ないのでしょう。 我が領土も独唱様がお歩きなられることはもうままなりません、紫さまが仰ったように似たようなものなのでしょう。 それを思案されていることと思います」
「だから日本で会って。 日本経由にすれば、東の領土に帰るまで歩くことなんて殆どないのに。 あ、分かってます。 日本を認めていないんですよね」
あの頑固ジジイは。 と思っても口には出さない。
最初、膳を出されても手をつけられなかったというか、喉を通らず箸を置いてしまった此之葉と秋我に「残してはならんぞ」 と領主から言われた二人が喉を潰すように、やっと最後の一口を飲み込んだ。 紫揺と領主に至ってはもう茶を飲んでいる。 隅に控える女が此之葉と秋我に茶を出し、空になっていた紫揺の椀におかわりを注ぐ。
「どうするんでしょうね」
三杯目の茶に口を付けた。 この茶は、来た時とその後ともまた違う茶葉で淹れたものだろう。 これも気に入った。
此之葉と秋我も茶に口を付ける。 無理に通した喉が弛緩していくようだ。
「これも上手い茶ですね」
「本当に」
静かな二人の声が和室に豊かに広がった。
膳が下げられると、ご一行は片付けられた板間に戻った。 上を見ると新しい光石が取り付けてある。 するとそれを見ていたかのように四方が戻ってきた。
「少しはゆるりと出来ましたかな?」
最初に入って来た時と同じように大股でやって来た。 後ろについていた男が椅子を引く。
「お心づかいに感謝申し上げます」
それで、と急いて訊きたいが訊けるものではない。
「すぐに来ると思うが・・・ああ、来たか。 入りなさい」
「シキ様!」
そう言って立ち上がったのは秋我である。
「あの折には世話になりました」
ゆっくりと入ってきたシキが秋我の正面に立つと、顎を引くくらいに頭を下げる。
「とんでもございません。 シキ様のお声により、民の悲しみがどれほど癒されましたでしょう」
こちらは深々と頭を下げる。
「お役に立てたのなら嬉しく思います。 どうぞ、お上げになって」
(へぇー・・・キレイな人・・・。 この人がリツソ君の姉上)
優しい桜色をした衣裳は日本の着物と同じように前合わせをし紫色の帯を巻き、その上に重袿(かさねうちぎ)を着ているが、日本の着物とは少し違う。 着ているものが着物に比べて随分と生地が薄く、帯も半巾帯ほどもない。 そして何より、帯の下は裾広がりになって、後ろではまるでドレスのように足元で裾を引きずっている。 もちろん袴などは穿いていない。
「辺境でのこと、秋我から聞いております。 なんとお礼を申し上げればよいか」
立ち上がって言うと、こちらも深々と頭を下げ、此之葉が倣って頭を下げるのを見て紫揺も同じように立ち上がり頭を下げた。 四方にはしたくないと思った所作であった。
「どうぞ、お上げになって。 領主、祭の際には世話になりました」
「行き届かないことが多くありました事と存じます」
「そんなことはありません。 楽しく過ごさせて頂きましたわ。 どうぞお掛けになって」
そう言うと四方の隣に座った。 目の前ではちょうど紫揺が座ったところだ。
「紫ね?」
何とも美麗な笑顔を向けて尋ねてきた。
「はい」
真っ直ぐに見る目をシキに返す。 シキが安堵に似た目を返す。
「“古の力を持つ者” 此之葉、久しいわね」
視線を此之葉に変えて言う。
立ち上がって辞儀をするとシキが頷いたのを見て座る。 シキとは祭で顔を合わせている。
「此度のことは見抜くことが出来なかった、我らが祖の手落ちかもしれないということ。 北の領土はわたくしの見る領土ではありませんが、もしその者が東の領土の民なれば放っておくことはできません」
領主を見ながら言っていた視線を此之葉に戻した。
「見抜くことができるのね? 解くことも」
封じられているかもしれないということを。
「・・・はい」
先程の勢いが消えている。 念を押されて自信を無くしてきている。 だが独唱から言われている。
『自分を信じねば何も出来ん。 今の此之葉に足りんのは自信だけだ』 と。
「独唱様ほどの力はまだ御座いませんが、独唱様以上の力を持つ者など居りませんでしょう。 私でも十分に見抜くことができ、解くこともできます」
自分に言い聞かせるように口にした。
「ではその時にはお願いね。 早くて明日になります」
此之葉に言うと領主に目線を変えた。
「明日? ですか?」
今日ではないのか?
「ええ。 昨日マツリがその者と会っています。 体調が良く見えなかったそうですから無理を強いられないの。 今またマツリが様子を見に行っています。 その様子で早くとも明日ということになります」
「では・・・」
「ええ。 領主が忙しいのは承知しております。 ですが、その者をここに連れてこられるまでは、此之葉をここに置いていてほしいの。 領主もご心配でしょうから、此之葉とご一緒にと申したいのですが、いかがかしら?」
領主が秋我と目を合わした。
「領土の方は私が見ておきます」
「いや、祭の後の民は落ち着きがなくなっている。 それに紫さまのことで落ち着きどころか、民が浮足立ったままかもしれん。 私が戻る。 秋我が残ってくれ」
「あの・・・私はどうすれば・・・」
小声で領主に訊いた紫揺に応えたのはシキ。
「紫もここに居てもらえないかしら? 沢山お話がしたいわ。 ね、領主よろしいでしょ?」
北の領土に居た紫揺がどういう経緯で東の領土に、そしてこの本領に足を運んできたのかはマツリから聞いた。 もちろん洞のことも日本のことも。 だから敢えて紫揺に何を問わなければならないことは無いのだが、だからと言って「それではこれから東の領土を頼みますね」と言って終われるのものでは無い。 あれ程に待ち望んだ紫が目の前にやって来たのだ。 それにどうも紫揺の真っ直ぐ見る目に一目惚れしたようだ。
「紫さま、いかがいたしますか?」
「私もシキ様にお伺いしたいことがあります。 このまま帰ってしまっては機会がなくなってしまうかもしれませんから」
「まぁ、嬉しいわ。 では父上、そのようなことで宜しいでしょうか」
「・・・」
「父上?」
シキに問われるが、その目をシキにではなく紫揺に向けた。
「紫」
「はい」
「その者を本領に連れてくるにあたり、シキが禁を破る」
「父上、その様なことを紫に言っても・・・」
シキを一顧すると続ける。
「間違えでは済まん。 分かっておるか」
紫揺の言うショウワが、たとえ “古の力を持つ者” ショウワだったとしも、そうでなかったとして、その後に連れてきた者であろうとも、そんな者は最初から居なかったという結果であったとしても同じことである。
(禁とか、破るとか、急にそんなことを言われて分かるわけないだろ)
と、心の中で吐いて違う言葉を口にした。
「物事に百パーセントなんてありません。 お医者さんだって完全に治すとは言いませんから。 ですが私は私を信じています。 でももし違っていたら・・・」
パーセントの意味は分からなかったが、何気に言いたいことは分かる。 全員が紫揺を見る。
「ゴメンナサイを百回言います」
四方の身体が傾き、領主が見えない手で頭を抱え、此之葉と秋我が下を向いた。 見えはしないが、此之葉は大きな歎息を吐いているだろうし、秋我は苦虫を百匹ほど口に入れて噛んでいるだろう。
そんな場の中にコロコロコロと笑い声が聞こえる。 シキである。
「素直ね、何よりも正直だわ。 父上、余り仰いまして、その者が東の者と分かった時にはいかがなされるおつもりですか?」
「・・・」
「そうであったとしても、四方様の手落ちではありませんから。 それより四方様がこの機会を作って下さったことに感謝しています。 そしてシキ様にも禁とかって、それがどんなものかよく分からないですけど、破るということは大変なことをするということは分かっています。 手を携えて下さって有難うございます」
「まぁ・・・本当に素直なのね」
分からない事は分からないとはっきりと言う。
「いいえ、そんなことはありません。 でもシキ様、少しは安心してください。 私だけがそう思う感じるということだけで、ここまでの決断は出来なかったかもしれません」
どういうことかしら? といった具合にシキが紫揺に問うように見せた。
「私が北の屋敷で聞いたショウワ様というお名前は、独唱様のお姉さんである唱和様と同じお名前です」
「え?」 シキが思わず声を漏らし、聞いていませんけど? という目を四方に送る。
四方とて今初めて聞いた。 だから、言ってませんけど? という目を返してはいない。 その目を紫揺に向ける。
「同じ名だというのか」
「はい」
四方が腕を組んだ。
四方の考えていることは想像がつく。 きっと攫ってきたにもかかわらず名を変えなかったというのは可笑しな話だと思っているのだろう。
当時、東の領主が唱和のことを本領に言わなかったものの、もし言っていれば名から足がつくはずなのだから。
四方が何かを言う前に紫揺が口を開いた。
「此之葉さん、説明してもらえますか」
コクリと此之葉が頷き四方を見ると、四方が此之葉の発言を許すというように頷いた。
「封じ込めるというのは、その者の力がよほど強くない限り、封じ込められる者の抵抗が大きければ、封じ込むことは出来ません。 民であれば抵抗など出来ません。 抵抗の力など持っておりませんので。
ですが唱和様が居られなくなった時は五の歳になっておいででした。 お力のある唱和様でしたらたとえ五の歳の幼子と言えど、抵抗の力をお持ちだったと思います。
急に攫われ、知らない者の前に出され、封じ込めを受けることを分かられたのでしょう。 たとえ五の歳であってもまだ五の歳で御座います。 封じ込めに完全に抵抗することが出来ないのは分かっておられたのでしょう。 ですから何を抵抗されるか、ただ一つに絞られたことと思います。 そこに力を注げば必ず成功すると思われたのでしょう。 それが御名で御座いましょう」
「わずか五の歳でそのような判断を・・・」
シキが口から漏らした。
「ついでに言っちゃうと、独唱様や此之葉さんなら、どれだけ抵抗されても完全に封じ込めが出来るそうです。 それだけ東の領土の古の力は偉大です」
何気に東の領土の古の力をアピッている。
「独唱様も、今は仮に北の領土のショウワ様も紫である祖母を探すことだけに、幼いころからそれだけに生きてこられました。 結局祖母は亡くなりましたが、それでも諦めきれず紫を探されて私が見つかりました。
おおよそ八十年間ずっと、探すことだけに生きてこられました。 ショウワ様は既に私が北の領土の手から居なくなったことをお知りになったでしょう。 落胆されていらっしゃると思います。 八十年かけたことが目の前からなくなったんですから。
ですがショウワ様が落胆されることなど必要ありません。 一日も早く封じ込めから解放してさしあげたい。 そう思っています。 だからシキ様のご決断に感謝しています」
シキが愁色の色を見せ、次に憐憫の目を紫揺に送ってきた。
「ショウワのことは事がはっきりとしてからのこととしましょう。 でも紫? あなたはほんの数日前に領土のことを知ったと聞きました。 何故それほどに独唱やショウワのことが言えるのですか?」
「どういうことでしょうか?」
コキっと首をかしげる。
「そうね、簡単に言ってしまうと、よく知りもしない者のために、どうして心を寄せられるのですか? その時があるのなら紫は元居た場所に帰りたいのではないのですか?」
東の領土の紫揺以外の誰しもが視気(シキ)が視た、と思った。 紫揺は元いた場所、日本に帰りたいのだと、領主と此之葉、秋我がそれぞれに肩を落とし、静かな息を吐いた。
「祖母が悪いわけではありませんが、でも祖母と私が原因でお二人もの方の一生を駄目にしてしまったんです。 笑うことも楽しむこともなかったと思います。 八十年間ずっと気を張られていただけです。 その方々のことを想うのは当然じゃないでしょうか。
私は何も出来ません。 手を携えて下さるシキ様に感謝することしか出来ません。 それに・・・日本に帰りたいと思うのも当然だと思います。 生まれ育った場所ですから。 でも考える時間は欲しいです」
「そう。 分かりました。 本当に正直に言って下さるのね。 気持ちがいいわ」
そう言ってから四方を見た。
「父上、わたくしと紫はこれで宜しいでしょうか?」
腕を組んだままの四方が頷くとシキが紫揺に視線を戻す。
「ね、さっきわたくしに訊きたいことがあるようなことを言っていたけれど?」
「はい。 教えて欲しいことがありますけど・・・みなさんの前では・・・」
「それでは、わたくしのお房でお話しましょう? わたくしもゆっくりと紫とお話がしたいわ。 父上よろしいでしょう?」
「あ、ああ。 まあ―――」
まで言うと襖の外から何やらにぎやかな声が聞こえてくる。 賑やかどころか怒声ほどではないが、女と男の叫び声と制止する言葉も交じっている。
「なんだ、騒々し―――」
襖がバンと音をたてて開いた。
全員が襖を見、部屋の隅に居た者達が走り出そうとした時だった。
「シユラ!」
「リツソ!」 「リツソ!」 「リツソ君!」 四方、シキ、紫揺と三人の呼ぶ声が重なった。