大福 りす の 隠れ家

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『在る』

2012年02月08日 21時58分10秒 | 日記
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この記事は昨日書き始めましたが 上手く言葉にするには難しすぎて 考えているうちに深夜になってしまい 何度も読み返していくうちに この文章で通じるのかどうか不安になり 一日置いて読み返してからアップしようと思い 一日ずれていますが

「今日」 と言うのは「昨日」 のことです。

本当は昨日のタイミングでアップしたかったのですが 

もしかしたらタイミング的に 遅かったかもしれません。




                                 




先日から『在る』 このことが気になっておりまして アップしなくてはという思いがありました。

『事は在る』 という事です。


分かりやすく言うと 今、目の前に起きていることに 自分がどんな判断をしようが どんな感情を持とうが その事はただ『在る』 だけで その事は何も変わらない という事です。


人の数だけ『在る』 ことに対しての見方が違うでしょうが 『在る』 その事には なんらかわりがありません。




例えば 小さな女の子が下を向いて しゃがんでいることが 目の前に『在る』。



女の子を後ろから見た人は 泣いているように見えたりします。 他の見え方も出来ます。


前から見た人は 蟻に話しかけているようにも見えます。 こちらでも他の見え方も出来ます。



女の子を見た人がどんな見え方をしようが ただそこには しゃがんでいる女の子が居るだけです。

そのことが『在る』 だけです。



女の子が泣いていると思って 走って行き 慰めてあげようと「どうしたの?」 と話しかけ その声に顔をあげた女の子は もしかしたら 蟻とお話をしていて 嬉しそうな満面の笑みを返してくるかもしれません。


逆に 蟻とお話をしていると思い 女の子とすれ違いざま「嬉しいね、楽しね」 と声をかけると 顔をあげた女の子は 迷子になったと泣いているかもしれません。



声をかけた人が 最初その女の子を見て どう考え判断しどんな感情を持ち 

女の子に声をかけた後も どう考えたとしても その判断や感情は 『在った』 ことを変えられないのです。


そのことは 『在った』 だけなのです。




言いたいことの 遠回しな説明になってしまいましたが



5年前、10年前 貴方は貴方にとって 大きな事で悩んでいませんでしたか?

夜も眠れないほど・・・。


1年前 人ごみの中でみんながもみくちゃになっている時 「どけ!」 と言われ挙句に押された。

とても腹立たしく思ったり 嫌な気持ちになったというような 経験はないでしょうか。


1年前も5年前も10年前も その事が在っただけなのです。

貴方がどう考え、どう判断してどんな感情を持っても その事が在っただけなのです。



在った事は 在っただけです。



ただ、在った事に いつまでも負の気持ちをもって 心を痛める、憤りを感じる そんなことは捨てませんか?


勿論、仕事上や人間関係などでの 失敗はキチンと出来うる限りの誠意をもって 謝罪をし、修正をしなければいけませんし 同じことを繰り返さないためにも 必要以上に捨てるという事は考え物です。


仕事の失敗をしたり 人を傷つけても「在る事は在っただけ」 と責任逃避は いただけません。



よく考えてみてください。


5年前、10年前に 夜も眠れないほど悩んだ事柄です。 キレイサッパリ解決が出来た事ならまだしも 解決の出来ていない事だったら この5年、10年ずっと心に抱えて 沈んだ毎日でしたか?


もし、貴方がまだ 「10年前の事でまだ悩んでいるんだ」 そうなのならば 考えてみてください。

10年以上前のことを


幼稚園や小学生の時に 悩んだこと、怒ったこと、泣いたことを 全て覚えていますか?


「考えの浅かった 子供の頃と一緒には出来ない」 と思われますか?


でもその時は腹の底から 悩んだり怒ったり泣いたりしたはずです。


でも時が経つと忘れてしまうことが大半です。




仮に 貴方が30歳だとします。 20年前の10歳、小学校4年生頃でしょうか その頃に腹立たしかった事、悲しかった事きっとあったと思います。

そしてそのことに対して 精一杯怒ったり悲しんだりした事でしょう。

その頃を 浅い考えの子供の頃と 考えるのなら

 
今の30歳の貴方の20年後、50歳の貴方は 30歳の今の貴方の悩みに こう考えないでしょうか

あの頃は若かった。 まだ何も分からない青二才だった・・・と。



70歳の人を見て 90歳のお爺さんお婆さんは「まだまだ何も分かっていない子供」 と仰います。
 



貴方の悩んでいることが 仕事のように これから解決へ向ける為の 必要のある責任であるのならば 考える事が必要な事かもしれません。 


でもそうでないのならば その悩みを手放しませんか?



『在る』 という事に何ら変わりがありませんが でもそのことに


嬉しい楽しいと感じたことなら 周りに居る方に笑顔を向けられます。

貴方の笑顔を見て また周りの方が笑顔になります。 貴方の笑顔で人が幸せになれるのです。



女性に多いと思いますが 無垢な赤ちゃんの笑顔を見ていると 無条件に笑顔になるという事があります。

その他にも無条件に笑顔になれることが沢山あると思います。


その沢山のひとつに 貴方の笑顔もあります。



悩みあぐねく様なことなら 手放しませんか?





実は このことを考え出してから 


今日、道路を歩いていると 車に長いクラクションを鳴らされました。 注意を促すクラクションではありませんでした。

私も車の運転をするので 車の大きさと必要な道幅の関係は分かります。 

道幅を考えても クラクションを鳴らす必要なく 充分車の通る事のできる道です。

私が目障りだったのかもしれません。


その時に思い出したのですが


何年前か忘れましたが少なくとも 8年は経っていると思います。

車を運転していて まっすぐな広い道路に右折で入ろうとしたとき ずっと遠くの左の方に車は見えましたが 私が右折をしてもなんの邪魔にもならないほど 距離がありました。

私はそのまま右折をして広い道路に入ったのですが その後、左に見えていた車が私の後ろについて 車同士が分かれるまで ずっとクラクションを鳴らし続けられました。

2車線だったかどうか覚えていないのですが 対向車もなく 私の車とその車だけでした。 

私のスピードが遅いのであれば 2車線でなかったとしても 広い道路、抜けばいいことと 私が車を左へ寄せても ずっと後ろについて 抜かす様子もありません。



その事があってからは 未だにクラクション恐怖症みたいになってしまっているのですが
(書いていて思い出したのですが このことがキッカケで恐怖症になっていたことは すっかり忘れていました。 ただクラクションが怖いとしか 思っていませんでした。)



でも反対に それと同時に 鳴らされた事への 苛立ち、怒りなども覚え 数日間その感情は抜けませんでした。


あれほど苛立ち、怒った事なのに 今日まで忘れていました。



もし『在る』 という事を考えられなかったら 今日も何年か前の苛立ちや怒りを感じていたかもしれません。


クラクションが鳴った。 それが在った。 ただそれだけです。 とても楽ですよ。


とは言っても 私もまだまだ 簡単に思うことが出来ないので 「今クラクションが鳴った それが『在った』 ただそれだけ、ただそれだけ・・・」 と何度も自分に言い聞かせるようにしていました。




今日このことがあったのは 私に『在る』という事を再認識するために このことが経験として必要だった事もあるでしょう。


でも違う所で このブログを見て下さっている どなたかに『在る』 という事を伝える切っ掛けだったのかもしれないと感じ

こうして『貴方』 と言う文字をつかってアップしました。



上手く説明が出来ていませんが

貴方にはその悩みの中から 少しでも早く出て欲しいのです。 どうかその悩みを手放してください。



貴方も私も 一日1回、「ありがとう」 と笑顔で言える毎日を送りたいですね。

貴方も私も 眉間の皺をとりましょう。



そして貴方に感謝を申し上げます。

書いていて気付きました。


その時のことを思い浮かべながら書いていたのですが 自分を省みた時に クラクションへの恐怖がなくなってきていたようなのです。

クラクションという 重い呪縛から解かれたようです。 とても清々しい気持ちです。 と言ってもその呪縛を作ったのは私自身なのですが・・・。


でも 私にとってはとても大きなことです。 そのことに気付かして頂いて「ありがとう」





必要でない方には 目を通して頂いたのに 申し訳ありません。

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