大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

辰刻の雫 ~蒼い月~  第179回

2023年06月30日 21時14分16秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第179回



『わらわの大事子』

初代紫の声が紫揺の頭に響く。

『あの者、我が子も同じなり。 我らの祖と同じ血を引く者』

青の力しか出していないが瞳を見ればわかる。 黒い瞳、それは一人で五色を操る者。

『五色の力により民に禍つを与うる者、我が祖の責は我らが負わねばならぬ』

『はい』

だがどうやって?

『黄の力、其は天位の力。 天位の力にて頭上より五色の力を出させよ。 力はわらわの石が預かろう』

出させる? 頭上から? どうすれはいいのか?
五色の力は理解。 どう理解するかで変わる。

よろよろと高妃が立ち上がった。 まだ手にはぷよぷよと水がまとわりついている。 その手が赤く腫れあがっている。

「もう力を出しちゃ駄目よ? でないとまた痛い目をするからね」

紫の瞳で紫赫の中にある高妃の身体を視る。

(やるしかない)

紫の瞳のまま両手を動かす。 最初は掌を高妃に向け、続けて上に向けると、まるで高妃の腹から頭上に、高妃の持つ力を下から上に上げるようにゆっくり、ゆっくりと。
紫赫が耀き紫揺に呼応する。
次の瞬間には黄色の瞳に変わっている。

高妃が腕を動かす。 紫揺に閃光を放とうとしているのが分かる。
今では宮の者たちが、武官が、宮内に足を踏み入れてもいい文官たちもが紫揺を見守っている。
紫揺は今、自分のしていることに集中している。 少女に対峙できるのか、誰もが息を飲んだ。

紫揺の手が高妃の背の高さより上まで上がると、一瞬にして紫揺の瞳が紫に変わる。

マツリが勾欄に足をかけたその時、より一層紫赫が耀き、それと共にゆっくりと高妃が倒れていく。
高妃の身体から徐々に紫赫が引いていく。 徐々に徐々に紫揺の額の煌輪に戻ってゆく。
その力に耐えられないのか、紫揺が天を仰いだ。 そしてそのまま後方に倒れていく。 まるでスローモーションを見ているようだった。
ざっ、と音をたて、身体が地に倒れる寸手で紫揺の身体の下にマツリが滑り込んできた。

「紫!」

「・・・大、丈夫、ちょっ、押され、た、だけ。 コウ、キ、は?」

「こうき?」

「あの、子。 コウキ、って名前、だって」

「高妃!?」

マツリの声に四方が少女を見る。

「多分、ご、五色の力・・・引き出せ、た、と思う。 近、寄っても、大、丈夫、と思・・・」

あの倒れている女人が五色が、武官たちにずっと探させていた高妃? マツリに続いて紫揺の元に駆け寄ってきていた四方がマツリに頷いてみせると、高妃の元に行き四方自らが高妃の手を取った。

『間が抜けたことを言っておるな』 と言ったことは記憶の中から消そう。

「・・・つ、疲れ・・・」

「ああ、疲れたな、もう喋らずともよい。 休んでおれ」

どれだけの力をどんな力を要したのかは、マツリには分からない。
マツリに声をかけられ、気を失うように寝入った紫揺をマツリが抱き上げた。
四方の従者に抑えられていた “最高か” と “庭の世話か” が目にいっぱい涙を溜めながら走り寄ってきた。 履物など履いていない。

「眠っておるだけだ。 大事ない」

高妃の手にぷよぷよとまとわりついていた水が手から落ち、地に沁み込んでいく。


紫揺のことは “最高か” と “庭の世話か” に任せ、四方とマツリが向かい合って座っている。 柴咲と呉甚のその後がどうなったかを聞いた。
二人を別の馬車で運び、各都に連絡をつけている者たちの家に現在案内させているということである。 まずは動きを見せた七都と八都に行き、その後に各都に回らせるということを始めたということだった。 六都にも念のために回るが、宮都のあとの最後に回るということだった。

「六都の話からすると、柴咲や呉甚が知っている者のその先がまだ繋がっていよう」

「ある程度の人数は分かったのですか?」

「六都以外は人数が多すぎてはっきりとは把握していないようだが、ある程度は聞いた」

マツリが大きく息を吐いた。

「それほどに呉甚たちを後押しする者が居たのですか」

本領領主の座に五色の直系を戻すということに。
六都では捕らえただけでまだ個々の尋問を始めていない。 宮都が動き出した後にと思って六都官別所に入れているだけであった。
だが六都官別所の見張の武官が言うには「面白そうだっただけだ」とか「話が難しくて分からなかった」などと叫び「だから出せ」と叫んでいると聞いている。 それが真実かどうかはこれからだが、真実だとしてそれは六都だけなのか他の都もそうなのか。

「いや・・・そこのところもよく分からん」

「どういうことでしょうか?」

「全ての者が決起のことを分っておったのかどうかも・・・」

柴咲と呉甚の言いようでは、最初は本領領主直系の後ろ盾にならないかと言っていたそうだが、ではどうやって、というところにきたら、宮に押し入る、そう言っていただけのようだった。 だが深いところを話した者もいただろう。
そこのところの見極めが難しいと、四方が腕を組み眉を寄せる。

「六都はどんな具合だった」

「百二十七名を捕らえるに、六都から武官が六十名抜けたそうですが、その間、六都内で特に異常はなかったと聞いております」

「では宮都からの応援は要らんということでいいか」

「いえ、三十名ほどお願い致します。 まだまだ六都を動かしたいので見張りの目は付けておきたいかと」

「ふん、上手いことを言いおって。 で? まだまだ動かすとは」

「働かせます。 父上が寄こしてきて下さった硯職人に確認させますと、間違いなく硯になる岩石の山だということが分かりました。 杉に続いてそちらにも働かせたいと思っております」

杠が上手く杉山の者たちを言い含め、今日から杉山の者たちが硯職人について岩石の山に向かっているだろう。
さすがは職人である、道具を持ってきていた。 すぐにでも硯職人の指導が入るだろう。

「六都は今まで山を放ったらかしにしておったということか」

「我も気付きませんでした。 杉山もそうですが、てっきり三十都の山だとばかり思っておりました。 紫が武官から聞いてこなければ、岩石の山も見過ごしていたでしょう」

「・・・また紫か」

「どれ程お嫌ですか」

「いや・・・。 そうだな、先ほどの紫の様子からしてやはり・・・杠に似合いかと、な」

「何故で御座いますか」

「あの場を考えない緊張のなさ、間の抜けたところ、そんな所は置いておくが腹が座っておる。 杠に添うてやって欲しいと考えるだろう」

「そこで何故、杠ですか。 我ではないのですか」

「マツリの・・・領主の奥は楚々としておるもの」

確かに紫揺は楚々とはかけ離れている。

「あの紫が大人しく奥勤めが出来るか?」

女官たちをまとめられるか?

「紫は紫のやり方で出来ましょう。 それにその頃には・・・落ち着いておりましょう」

完全なる希望的観測である。
それに紫揺が女官たちをまとめるのは四方が領主を退いてからだ。 まだまだ先の話である。
四方が大きく息を吐いた。

「澪引にもシキにも言われておる」

何のことかとマツリが眉を上げる。

「マツリの奥は紫しかいないと、な」

一度言葉を切って続ける。

「紫はいくつの歳になる」

「二十五の歳に」

「杉山に続いて岩石の山。 いつまでも六都にかまけておっては子を産む年を過ぎてしまおう」

それでなくても次代の紫を生み、その子が紫としての自覚が育つまで本領に来ないという。 次代の紫が産まれなければマツリの奥が宮に不在となってしまう。
マツリの頭の中で依庚の説教が響いた。
己の歳のことを言われていたが、そうだった、紫揺の歳もあったのだった。 紫揺には五色ももちろんのこと、この本領の跡継ぎを産んでもらわなくてはならないのだった。

「宮の者たちが密かに言っておる “菓子の禍乱” 聞いたことがあるか」

どうしてこの話に菓子が出てくるのか。 それも禍乱? どういうことだ。

「・・・いいえ?」

聞いたこともない。

「マツリが六都に行ってからというもの、澪引とシキの従者たちの間で、ああ、女官たちも入っておると聞くか。 誰が紫の首を縦に振らせるかの争いが起きておる」

何のことだ、意味が分からない。
紫、首を縦に振らせる、菓子、争い。 このワードからマツリが何を想像できようか。

「何のことでしょう?」

「紫は・・・マツリとのことを何と申しておる」

まだ一度もはっきりと聞いたことが無い。

「受けてくれております」

「澪引もシキもそれを知らんな?」

「ええ・・・特には言っておりませんか」

あっと気付いた。 “紫の首を縦に振らせる” とは、そういうことか。
それに菓子。 紫揺に渡してくれと持たされた菓子、あれはそういう意味だったのか。 菓子で紫揺を釣ろうとしたのか・・・。 考える方も考える方だが、そんな判断を下された紫揺もどうなのか・・・。

「澪引とシキに言っておくがいいだろう。 要らぬ争いが起きておる」

「はい・・・」

己の知らない所で何をやってくれている・・・。

「それと、マツリが東の領主に紫のことを言いに行くつもりだった、それが紫が倒れたことによって頓挫した。 そのような事をシキに言ったらしいな」

シキにそのようなことを言ったのは覚えている。 あれはいつだったか。

「ええ、申し上げましたが・・・。 ああ、思い出しました。 姉上の邸に行った時です」

初めて天祐に会った日だ。

「わしがそれを知っていたとも言ったらしいな」

「はい」

「そのお蔭で、どれだけわしが針の筵(むしろ)の上に立たされたことか」

「はい?」

「良いか、紫の言を澪引とシキに言った暁には、紫とのことが流れてしまえば針の筵どころでは終わらん」

「は?」

「六都のことなど二の次。 杠に任せて、すぐにでも紫と婚姻の儀を挙げよ」

「はぁい?」

あれだけ紫揺のことを敬遠しておきながら何を言うのか?

「父上? どう致しました?」

四方がギロリとマツリを睨む。

「澪引もシキも・・・紫のこととなると・・・。 ・・・地獄に落とされるわ!」

いったい何があったのか・・・。
だがどんな切っ掛けであれ。

「では、紫のことを快くご承諾いただけたということでしょうか?」

「何が快くだ! 脅しだ、脅し!」

意味が分からない・・・。

「澪引がいつの間にあんな風になったのか・・・。 ああ、シキもだ。 波葉の気持ちが分かるのは、わしだけ・・・わしの気持ちを分かるのも波葉だけ・・・」

何やらブツブツ言い出した四方。

訳が分からないが、取り敢えず四方が紫揺を迎えることを承諾したことは確かである。 四方が承諾しようがしまいが、反対さえなければ次期領主として己が奥に迎えるつもりではあったが、承諾を得るに越したことは無い。
だが六都のことを置いてすぐに婚姻の儀を挙げるなど、それは出来ないが考えなくてはならない。 依庚が言ったようにマツリの歳もあるが、四方が言った紫揺の歳もある。
七日間の婚姻の儀。
これから新しいことを始める。 六都を空けることが出来るだろうか。


紫揺の手が動いた。
マツリが紫揺を客間の寝台に横たえさせていた。
マツリがあとは頼むと言って出て行き、その後すぐ、紫揺の身体が熱くなった。 熱が出た。 医者に診てもらったが、原因は分からないがと言って、解熱の薬湯を用意された。 四人がかりで紫揺に薬湯を飲ませた。 その後はただただ、祈る想いで紫揺の横に付いていた。

「紫さま?」

彩香が声を発した。 その声に他の三人が伏していた顔を上げる。 紫揺の手が動いている。

「紫さま!」

三人が同時に言った。
身体の横にあった紫揺の手が額の上に乗る。

「あ・・・熱、い」

解熱の薬湯を飲んで身体の中の熱を放出しているのだろう、紫揺自身にとっては身体中が熱いだろう。

「すぐにも、お熱がお下がりします。 ・・・堪えて下さいませ」

言った彩楓の目が潤んでいるが、他の三人も同じように目を潤ませている。

尾能が四方の従者の三人を客間の外に座らせていた。 紫揺に何かあればすぐに報告するようにと言って。
医者が客間に来た時にも報告があった。
『紫さまにお熱が出られたようです。 女官が医者を呼びました』と。 その後に、解熱の薬湯を飲ませるようにと医者が言ったことの報告もあった。
今回も四方とマツリが居る襖内に座る尾能に報告があった。 襖を僅かに開け、その報告を聞く。

「紫さまのお目が覚められたようですが、まだお熱は下がっておられないようです」

客間の外で “最高か” と “庭の世話か” の発する声しか聞いていない。 詳しいことは分からない。

一人ブツブツ言っている四方を置いてマツリに目を転じる。

「マツリ様、紫さまが気付かれたようです」

「尾能・・・?」

尾能は独断で四方の従者を紫揺に付かせていたのか?

「お熱が上がっておられます。 紫さまにお付き下さいませ」

「熱?」

寝ていたのではないのか?

「はい。 紫さまにお熱が上がり、医者が解熱の薬湯を御用意いたしました。 いつも紫さまに付いておる者たちが薬湯を飲ませましたので、今一番お熱が上がっておられる頃かと。 紫さまがお辛い状態にあらせられます」

四方を一顧だにせず一瞬にして部屋をあとにする。
疲れた、と言った紫揺。 寝ているだけと思っていた。 知らなかった。 そこまで五色の力を出すことに身体に無理をかけていたのか。

「紫・・・」

回廊を走って客間の前に来た。 そこには四方の従者が三人座っていた。 それまでに数人としかすれ違わなかった。 殆どの者が高妃の放った閃光の後始末をしているのだろう。

バンと客間の襖を開け、衝立の横を抜けると横たわる紫揺に駆け寄る。 汗に濡れた衣裳を着替えさせようとしていた “最高か” と “庭の世話か” の四人が身を引く。 引きたくはなかったが。

「紫? 我の声が聞こえるか?」

だらりとなっていた紫揺の手を取ると、その腕は熱された炭のように熱い。
どういうことだ。

「紫! 我の声が聞こえるか!」

薄っすらと紫揺の瞼が上がる。 ほんの僅か。

「う・・・る、さい・・・」

聞こえているようだ。

「わ、悪かった・・・」

落ち着いて見てみると、次から次に玉のような汗が噴き出してきている。 額の上に乗せられていた濡れた手拭いを取ると、横に置かれていた手拭いで汗を拭いてやる。
着替えさそうとしていたのか、めくられていた布団の中にあっただろう紫揺の身体を見ると、びっしょりと衣が濡れている。 懐から手を入れて拭いてやることもできるが、さっさと脱がせて拭いてやる方が早い。

「着替えさせてやってくれ」

身を引いたマツリの横を四人が滑るように入ってきた。 入れ違うように寝台から離れると後ろを向いて座った。


「紫が熱を出しておったのか」

マツリからは寝ているだけだと聞いていたが。

「そのようで御座います。 五色様のことは私には分かりませんが、かなりのお力を出されたようかと」

紫揺が目を伏せる前に、五色の力を引き出せた、近寄っても大丈夫。 そう言っていた。 “多分” という言葉がついていたが、そこは聞かなかったことにした。 だから躊躇も無く四方自ら高妃の手を取った。 “多分” そう言われても言われなくとも武官に任せるつもりは無かったが。

五色の力を引き出す・・・、そんなことはどの書でも読んだことは無い。 いったい紫揺は何をしたのだろうか。
額の煌輪のことは紫揺から聞いて知っていた。 それが東の領土の初代紫の力であることも。 東の領土の初代紫の力は初代本領領主に勝るとも劣らない五色の力を持っていたと書に書かれてある。
今日初めて紫赫を見たが、あれが東の領土の初代紫の力なのだろうか。 その初代紫と共鳴できている紫揺。 どれだけの力を持っているのだろうか。

恐いところがある。

マツリの力は本領領主の中で稀に見る力。 身体の具合を視られることは今までの血筋の中にあった。 だがマツリの持つ赤髪の力、何もかも跡形も無くならせる力、あれは今までの血筋にはなかった。
計り知れない五色である紫揺の力とマツリの持つ力。 産まれてくる子はいったいどんな力を持つのであろうか。

襖の外から声がかかった。 僅かに開け、尾能がいくらか言葉を交わすと襖が閉められた。

「高妃が目覚めたようですが、何やら様子がおかしいようで御座います」

高妃に付いていた武官からだろう。

「様子がおかしい?」

「言葉をあまり・・・上手く話せないようで御座います。 閃光などは放っていないようで御座います」

四方が考える様子を見せる。

「高妃を探してくれと言っていたあの者、あの者を会わせてみるか」

四方が立ち上がった。 四方も立ち会うということだろう。

高妃のことは隠して育てた五色だと呉甚から聞いていた。 ”古の力を持つ者” によって育てられていないとも。
五色の力が残っていれば大変なことになる。 紫揺と話せるようになりそこのところをはっきりと聞きたいが、それまでを武官任せには出来ない。 五色は本領領主の責と任にあるのだから。 そしてこの宮の責と任も四方にある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第178回

2023年06月26日 21時06分42秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第178回



杠が馬を曳いてくると、そこに文官と武官がひしめき合っていた。

「ど、どうされました?」

手綱を手に杠が驚いた顔をした。 顔だけではなく心底驚いている。
文官より先に武官が口を開く。 こういうところ、実力行使の武官が強いのかもしれない。

「紫さまがお帰りになると、お聞きいたしましたが」

「はい・・・そうですが」

だから何なのだ?

杠の疑問など知る由もない文官武官が混在する間にどよめきが波のように唸りを上げた。

(な、なんだ?)

「次はいつ来られるのでしょうか?」

は? と言いたくなる。 どういう意味だ。 だが言った武官の後ろで誰もが首を縦に振っている。

「紫さまは東の領土に戻られます。 今度いつ宮に来られるかは分かりません。 それを思うと此処、六都には来られるかどうかも分かりません」

文官武官の間で再度どよめきが起こる。

何だこれは。

そうこうしている時、マツリと紫揺が姿を現した。 全員の目が紫揺に注がれる。
衣は来た時に着ていた剛度に借りた衣ではなかった。 マツリが市で手に入れた女人の衣である。 そして額には額の煌輪が着けられている。
マツリと居る時には額の煌輪は必要ないと言われていたが、手に持つわけにもいかない。
マツリが袈裟懸けにしている中には剛度に借りた衣が入っている。 紫揺には荷物を持たせないようだ。

「紫さま・・・戻られるのですか?」

言ったのは文官である。

「はい。 長くお世話になりました。 ご迷惑もかけちゃいました」

「ご、ご迷惑など・・・」

はい、イッパイ頂いた。 精神的に折れそうになった。 杠から紫揺を見ておいてほしいと言われた時には、そんな無茶を言わないでくれと思った。 だから杠が川に行くと情報を漏らした。 そうすれば紫揺が文官の手から居なくなると思ったから。
だが紫揺のかけてくれた色々は思い返せば楽しいものだった。 人生で誰かの腰に手を回し行き先を止めようなどと、そんなことは今までもこれからも無いだろう。 ましてや一名などは将来の御内儀様の腰に手を回した。

文官の一部が似面絵を描いていた。 描く上での注意を細かに受けていた文官。 あまりの細かな注意に辟易していたが、注意を受ける前の似面絵と注意を受けた後の似面絵では、原画となっている紫揺が描いた似面絵に忠実に似せて描けるよう大きく響いていた。 我が儘だけを言いたい放題の紫揺ではなかった、それが分かった。

武官にしては、戸木でのことがある。 困ったことは山ほどあった。 だが紫揺の身体能力に舌を巻いた。 紫揺が薬草を塗り替えに来る度、質問をすれば色んな話を聞かせてくれていた。

「もう、六都に来られないのですか?」

誰が言ったのだろう。
紫揺が口の端を引きニッコリと笑う。

「いつかは分かりませんが、マツリが連れて来てくれると思います」

あとに言葉を添えたかった。 だからマツリが作りたい六都になってと。 みんなで手を取り合って、と。

「紫さま、その時には川でのあの木に上がった要領を教えて頂きたいものです」

「杠が教えてくれますよ?」

名をさされた杠が咄嗟に視線を外す。

「川で、あれほどご自由にされた要領もお聞きしたいのですが」

武官達がことごとく川に落ち、衣を濡らし、酷い時には衣を破いた。 それなのに紫揺は涼しい顔をして岩を飛び回っていた。
それは何度も訊かれた。 その度にやりたいからしただけ、と答えていた。

「いいえ、それより、紫さまの人相書きのことをお伺いしたい」

「いえいえ、紫さまは書がお綺麗。 そこの話も・・・」

文官武官がごった返してしまった。

―――気に食わない。

どうして紫揺を取ろうするのか。 それが杠だけでないのか。
文官武官に応えようとしていた紫揺の腹に手を回す。 ブンと紫揺を持ち上げる。 ストンと馬の背に下ろす。

「・・・は?」

流れが見えなかった。

「各々、紫には問いたいことがあるようだが紫には時が無い」

そう言うと地を蹴って馬に跨る。

「杠、後を頼む」

「承知致しました」

二人乗りの馬が駆けだした。
あまりの流れの出来事に誰もがポカンとしていたが、砂煙を上げている馬の尻を見て我に返った。

「うわぁぁぁー、紫さまー!!」

誰もが後を追うが馬の足に敵うわけもなく、一人また一人と脱落していった。 

「ゴルァー!! 何をしとるかー!」

明け方、武官所に戻ってきた武官長。 だが武官所にはひとっこ一人居なかった。 おかしいと思って武官所を出て歩き回ったが、武官の姿を見かけない。 そこに文官武官たちの叫び声が聞こえてやって来たというわけだった。

官吏たちを振り切って走っていた馬の足を緩める。 振り返るともう誰も見えない。

「っとに、どいつもこいつも。 どういう料簡だ」

紫揺の頭上からマツリの文句が垂れられる。
マツリの手によって横座りに座らされていた紫揺がごそごそと動き馬を跨ぎ、フレアーのスカートがはためかないように足の下に入れ込む。

「誰も彼も我から紫を取ろうとする」

ブツブツブツブツ・・・。

頭上に垂れられる文句が何気に嬉しい。 おムネにそっと手を触れる。
大きくなあれ。
心の中でそっと呟いた。

それからは時折休憩を入れたり、来た時のように手を伸ばし果実をもいでマツリと一緒に食べたりした。
ゆっくりと馬を歩かせていてもマツリは今日中に東の領土に戻れることを知っている、それを紫揺が知っている。
この六都から宮までの距離、宮から岩山まで、そして陽が沈まぬうちに東の領土の山を下りることも全て計算しているだろう。 何の心配も必要ない。 マツリはゆっくりと、時には早駆けと、それを繰り返していた。

馬上では他愛もないことも話したが、やはり六都の話が多かった。
紫揺が六都のことで質問をする度にマツリが微笑んで答えていた。 マツリの前に座っている紫揺がその微笑みを見ることは無かったが、時折マツリが紫揺の腹に手を回し抱きしめていた。 マツリの微笑みを知るのにそれだけで十分だった。

六都を出て三都での遅めの昼餉のあとには少しの休憩でまた馬に乗った。 思い起こせば北の領土で食後すぐに馬車に乗り、吐いてばかりしていた時のことが懐かしい。 いつの間にか馬の生活に慣れてきていたんだ、と改めて感じた。

武官は武官長に蹴散らされて居なくはなったが、残った文官たちを宥めすかして家に戻らせた杠。

「一度は六都に来てもらわねばマツリ様が子取り鬼と見られるか・・・」

それらしいことを文官の数人が言っていた。 決して紫揺は子供ではないが。

子取り鬼、それは。
美味しそうな肉を持った小さな子。 その肉を喰いたい鬼が子を攫う。 だが攫った鬼が牙を見せて口を大きく開いた時、喰われることを分かっていないのか、余りに愛らしく笑う子。
鬼が口を閉じ、先の尖った爪で子の頬をつつくと、くすぐったくて子が再び笑い出す。
たった一人でずっと山の中で暮らしてきた。 笑い声など忘れていた。 鬼が大きな手で子を抱きしめた。 子を肩に乗せると川に行き川魚を焼いて食べさせた。 鬼と子はずっと一緒に暮らしていった。

そんな語りがどこの都にも残っている。
マツリがそんな子取り鬼と見られてしまっては、官吏たちの協力を快く二つ返事で得ることが出来なくなってしまうかもしれない。
昼餉を食べ終えた時、飛於伊が声をかけてきた。


朝になり目を覚ました女。 何日も臥せっていたからだろう、すぐに身体を動かすことが出来なかった。 ようやく一人で座ることが出来た時には昼餉時になっていた。

「さ、これをお食べ」

出されたのは粥だった。

「急がなくていいからね、ゆっくりとお食べ」

出された粥に匙を入れ小さな口に運ぶ。
いったいどこから来たのだろう。 問いたいが、もう少し落ち着いてから。 それから帰してやればいい。 足の裏の怪我は医者の塗った薬で治ったのだから一緒に歩いて送ってやればいい。

「夕餉の材料を買いに行ってくるからね、食べ終わったら横になっておいで」


陽が大きく斜めに傾きだした頃、あと少しで宮都に入るとマツリの声がした。 早駆けといっても襲歩ほど早くは無かった、それに長い時を走らせていたわけではなかったし、休憩も入れていた。 なのにもう宮都に入る?

「武官さん達ときた時にはもっと馬を走らせていたのに、もう宮都に入るの?」

「ふむ・・・、察するに武官は回り道をしたかもしれんな」

「え? どうして?」

「紫を知らない者はそうするだろう」

「うん? どういう意味?」

「我が紫をよく知っているということだ」

何か誤魔化されたような気がするのは気のせいなのだろうか。

「・・・紫と別れて暮らすと言ったことを今更ながら後悔している」

「撤回しないでよ」

頭上でマツリの笑いとも言えない息が漏れたのが耳に入る。

「婚姻の儀だけは早々に済ませたいがなぁ」

婚姻の儀と言われどこかくすぐったく、突然に聞かされた言葉は自分の話ではないようにも思える。

「でも六都のことがあるでしょ?」

一日で終わるのならば何ということもないが、そうではない。 嫁ぐシキで五日間行われた。 だがマツリの場合は七日間となる。 その間に問題が起きても婚姻の儀を中断することも抜けることも出来ない。

「東の領主は何か言っているか?」

「特に何も。 ただ葉月ちゃんがマツリと会わなさ過ぎって。 何日でもマツリのところに行っておいでって」

そしておムネを大きくしておいでって、だがそこは言えない。

「ああ、そうか。 葉月が言ってくれたからこうしてやって来たのか」

「うん」

「一旦東の領土に戻ってまたすぐに来んか?」

「さすがにそれは」

自由に動ける今が好機だろう、と六都のことに踏み切った時に分かっていた。
短い期間でどうこうなるものではない。 それだけに今動いていいものかという懸念が無くはなかったが、好機を逸してはどうにもならなくなるかもしれないと思った。
懸念、それは紫揺とのことだった。 あの時はまだ紫揺から色よい返事をもらっていなかった。 六都のことに動き出してしまっては、紫揺との距離を詰められなくなってしまうと思っていたし、紫揺が色よく返事をしてくれたとて、簡単に婚姻の儀に踏み切れないだろうと思っていた。 まさに今がそうだ。

ずっと馬を歩かせていて誰もが振り向いていた。 マツリが騎乗する前に小さな女人が乗っているのだから。 女人と分かるのはその衣を着ていたからであるが。

チラチラと民に見られ自分は何と思われているのだろうか、時々頭の片隅に思ったが、もしかしてマツリもそう思っているのだろうか。 だから婚姻の儀だけは早々に済ませたいと言ったのだろうか。 この者は御内儀であると、はっきりとさせたいのだろうか。

宮都に入って随分となる。 陽もかなり傾いてきたが、まだまだ明るさはある。

「え? ・・・マツリ、あれ」

目の先で煙が上がった。 そこは宮になるはず。

「落とされるなよ」

一言いうと今までにない速さで馬を走らせる。

気付いた民たちも煙の方角を見ている。 野次馬根性だろう、走り出す民も居たが、後ろからの蹄の音に振り返り思わず道を譲っていた。
目のずっと先に立派な大門があるはず。 近付くにつれ、その大門が黒焦げになり煙を上げているのが目に入った。
民が遠巻きに大門の中を覗いている。

「どかんか!」

蹄の音に混じってマツリの恫喝が響く。 民が蜘蛛の子を散らすように四散する。
門の前まで行くと馬を止め、民に睨みを利かしていた外門番に目を止めると「何事か!」 と叫んだ。
外門番が宮の中を指さし、あの者が・・・と、一言いったあと口を閉じてしまった。 指さされた方を見ると、累々と門番や下働きの者たちが倒れている。 その先に足取りがおぼつかないのか、ふらふらと歩く女人の後ろ姿。 前からは武官が走って来ている。
マツリが馬を走らせようとした時「待って!」と紫揺の声が上がった。

「刺激しないで。 私が行く」

前の女人を見据えながら紫揺が馬を降りた。

「な! 何を言っておる!」

「あれは・・・五色の力だもん」

どういう意味だ、五色は宮都にはいない。 どこかから流れてきたというのか、いいや、五色には ”古の力を持つ者” が付いている。 その者の姿が見えない。 ”古の力を持つ者” の手から居なくなってしまえば報告がある。 いいや、それ以前の話である、今までにこんなことはなかった。
五色は ”古の力を持つ者” に育てられ、勝手なことなどしない。

外門番に馬を預け歩き出した紫揺に付こうとしたが、紫揺がそれを手で遮る。

「女子は女子で話す。 マツリは武官さんを止めて」

半笑いの顔をマツリに向けた。
こんな所で・・・意味が分からない。 “じょし” とはなんだ。

紫揺が走り出し、距離を取って目の前をふらふらと歩く少女の前に出た。 紫揺より背が高い。 だが顔があどけない。 紫揺より年下だろう。 可愛い顔の作りをしているが、その目はどこか焦点が合っていない。

「五色ね?」

少女が足を止め、ゆらりと紫揺を見た。

「門をあんな風にしちゃいけないし、門番さんに閃光を浴びせても駄目よ?」

少女がすっと腕を前に出す。 人差し指以外は握られている。
紫揺がニコリと笑う。

「五色の力で人を困らせちゃ駄目。 教えてもらわなかった?」

少女の指先から閃光が走った。
紫揺が掌を広げ少女に向ける。 掌から突風が吹き、少女の放った閃光を巻き取り方向を変える。
閃光が植木に当たると枝が折れ、その枝から燻ぶった煙が上がる。

目の前でおこったことにマツリが止める前に武官たちの足が止まる。 そのまま止まっているようにと走ってきたマツリが指示を出す。

「危ないよ? そんなことしちゃ駄目」

少女が次から次に閃光を放つが、紫揺がことごとく方向を変える。 植木が折れ、砂煙が上がり、大階段や回廊を破壊する。
武官達が慄(おのの)いて後退る。

「四方様! どうかこれ以上は!」

回廊を走ってきた四方を尾能が止めるが、その尾能を払おうとしている。

「父上!」

回廊下に居たマツリが走り寄ってきて回廊に上がり四方の横に付いた。

「いったい何があったのですか!?」

「分からん、わしもこの騒ぎで気付いただけだ。 ええい、尾能、離さんか!」

「どうか、どうかこれ以上は!」

いつ閃光が飛んでくるか分からない。

「父上、紫が刺激しないようにと言っておりました。 ここは五色同士で」

「何を言っておる! ここは宮だ、わしが守らねばどうする! それに紫に万が一のことがあってはどうするつもりだ!」

「力の差は歴然です」

紫揺が笑っていた。 あの笑い方は地下で見た時の笑い方と同じ。 宇藤に手を引かれていた時の笑い方と。
四方が改めて紫揺と少女に目を移す。

「ね、何がしたいの?」

少女が首を傾げる。 手を下げる。 閃光が止まった。

「み、や」

「みや? うん、ここは宮。 合ってるよ。 誰かに会いに来たのかな?」

「宮、に、入、る」

『高妃、あと少しだ。 あと少しで陽の目を見られる。 外に出られる。 そして宮に入る』

「うーん、どういう意味だろう。 もう宮に入ってることは入ってるけど・・・。 えっと、お名前は?」

閃光が走っていた時には、あちらこちらが破壊され、声を荒げなければ聞こえなかったが、閃光が止んだ今はあまりのことに誰もが口を閉じているからなのか、少女の声は小さすぎて聞こえないが紫揺の声はよく聞こえる。
どうしてここで名前を訊いているのか、誰もがそう思った。

「・・・間が抜けたことを言っておるな」

マツリは横目で四方を見ただけであった。

「高、妃」

その声は紫揺にしか聞こえていない。

「そっか。 私は紫」

どうしてここで自己紹介なのか。
いや、そんな疑問は二の次、閃光に当たり運悪く火や煙を上げているところがある。 いまがチャンスとばかりに桶に水を汲み、四方の従者が走り回っている。

「宮には入ってるよ? 宮のどこに行くの?」

「宮、に、いる」

『宮だ。 高妃はそこで生まれるはずだった。 今もそこに居るはずだった。 宮に入れるぞ』

「うーん、宮のどこかな? 案内しようか?」

あまりよく知らないが。

遠巻きに見ている者や武官たち、どう考えてもどう聞いても、聞き違えではないはず。 今、案内しようかと言った。 この場面において、あまりにも緊張感が無さすぎるのではないか。

「どい、て」

再び高妃の腕が上がる。 四方の従者が驚いて桶を置いて逃げ出す。

「これ以上物を壊しちゃ駄目だよ?」

どちらかというと、高妃の放った閃光の方向を変え、結果、破壊につながったのだから、破壊しているのは紫揺ではないのか? 一部の者がそんなことを頭に浮かせたが口には出せない。

紫揺が四方の従者が置きっ放しにしていた桶に手を向けた。 続いてその手を勢いよく高妃の手に向ける。
高妃が閃光を発したその寸前、紫揺の操った水が高妃の手の周りにぷよぷよと絡みついた。

「キャッ!」

思わず高妃が声を上げて座り込む。

「ごめんね、痛い思いさせて」

閃光は青の力で出しているのは分かっている。 それは小さな雷のようなもの。 電気を帯びているのだから水に流れて己に返る。

その時、紫揺の額にあった額の煌輪から紫赫(しかく)が走った。 紫赫が高妃を捉える。

「え? なんで?」

自分自身を見失ってなどいない。 冷静に対処できているつもりなのにどうして紫赫が?

初めて目にする現象に誰もが驚愕の目を向けている。 声さえ出ない。 四方とマツリも同様であった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第177回

2023年06月23日 21時14分43秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第177回



雲海に酒を渡したマツリ。

「世話になったようで」

ほっほ、と笑いながら「何のことでしょうかな?」と、一度断った酒を受け取り、半歩後ろに居た紫揺に目を転じると、紫揺がお辞儀をしてから口を開いた。

「マツリへのご助力を頂いたようで有難うございました。 それと先日は学び舎での道義を聞かせて頂き、有難うございました」

(そのようにきたか。 ・・・杠は分かっていたということか。 我には想像も出来んかったわ)

「いやいや、知れたもので御座います。 それより、よくお似合いで御座います」

杠に無理矢理、市に放り出され買い求めた衣。 宮の衣には程遠いが坊の衣ではない。
裾が足首までの巻きスカートのようにしていたものもあったが、それではあまり足が広げられなく動きが制限される。 ってことで、裾は足首より少し上までになってしまうが、フレアースカートのような物を購入した。 ちゃんと女人の衣である。
足が見えるということでマツリが苦情を呈したが「それなら膝上までたくし上げる」と巻きスカートの方を指さされ渋々承諾した。

「動きにくいのですが」

「お噂はお聞きしております。 ですが御内儀様となられればその衣でもお足りにならないかと」

武官達が話している紫揺のトンデモ噂だろう。 ウソ噂ではなく真実なのだが。

「あと少しですがこちらに居ります。 その間はこの衣で居た方が良いと思われますでしょうか?」

坊の衣の方がいいというように、少し不服気味な言い方をする。

「ええ、御内儀様になられるお方ですから」

紫揺が相好を崩した。

「そう思われますか・・・では、そうします」

(こ、こやつ。 ちゃんと百足を立ておった・・・)

何故かこれから先が不安になった。 うかうかしていると足元をすくわれるかもしれない。

「ああ、そうでした、マツリ様」

前を見据えてはいたが、殆ど頭の中が飛んでいたマツリが名前を呼ばれ我に戻る。

「学び舎で道義以外に勉学も教えたら如何かと御内儀様・・・紫さまが申されまして。 如何で御座いましょう」

「教えて頂けるのなら、それに越したことは無いが・・・。 無理を言って来てもらっておる、負担がかかろう」

「いいえ、いいえ。 マツリ様から仰っていただきましたら、いくらでも」

「そうか。 ・・・では無理のないところで頼む」

「承りました」

好々爺が深く頭を下げた。

好々爺の長屋を出ると武官の様子を見に少し歩いた。
武官達の巡回の様子を見ながら「ふむ」と言うと屋舎に向う。 紫揺はずっと付いてきている。
屋舎には杠が居た。

「あ! 杠!」

裾をたくし上げ、マツリを抜いて紫揺が走り出した。

(・・・気にくわん。 杠めっ)

帳面を見て下を向いて誰かと話していた杠とその誰かが顔を上げた。 マツリが思わずUターンしかけたが、紫揺を置いていくわけにはいかない。 そんな事をすれば、また杠に取られてしまう。

「紫さま、お走りになられませんよう。 ああ、裾などたくし上げては・・・」

杠が紫揺にコンコンと大人しくするように言っている横で、誰かである依庚にコンコンと三十路の話をされたのであった。

夕刻、宮都から硯職人が馬に乗ってやって来た。 硯になる岩石を運ぶに馬車を扱わねばならない。 よって馬にも乗れるということであるが、あまり上手くはない。 時がかかったのだろう、くたくたに疲れている様子が見てとれる。

「お疲れで御座いました。 明日、馬車で行きましょう」

マツリたちが泊まっている宿には空き部屋がある。 そこに泊まらせることにした。

翌朝、杠が馭者台に座り馬車に乗り込んだ硯職人。 紫揺も気になり付いて行きたかったが、杠に取られまいとするマツリに止められた。

杠が居なければマツリが屋舎に向かわねばならない。 杉山で何かあれば巴央が来るだろうし、芯直たちからの接触もあるかもしれないと思ってのことであったが、巴央が来ることもなく芯直たちからの接触もなかった。

紫揺の掌は、朝、武官に薬草を塗ってもらった時にかなり治ってきていた。 そし夕刻に塗り直してもらった時には跡形がなくなっていた。 さすがは武官が持つ薬草である。
その報告を聞いて普通ならよかったと思うところ、顔を歪ませたのはマツリであった。
ましてや硯職人と戻ってきた杠からは、硯に使える岩石だと聞き「これで安心して東の領土に戻れる。 明日戻るから、あとはマツリがやっといてね」などといわれる始末。

ブスッとした顔のマツリと紫揺を置いて杠が辺りを回ってくると言うと、紫揺がそれについて行きたそうにしている。
マツリと少しでも一緒に居ているようにと、杠が言うが聞きそうにない。 いつもならマツリと杠が肩を並べて回っているところである。

「よい、我も行く」

マツリはどこかでジレンマを感じている。 六都のことは気になる、だが滅多に会えない紫揺が居る、その紫揺と一緒に居たい。 ならば紫揺と一緒に六都を回ればいい。

紫揺を挟んで三人で小路を歩いていると、顔色を変えた享沙が後ろを気にしながら早足で歩いてきていた。 後ろを気にするあまりか、マツリと杠に気付いていない。 すると横の小路から男が出て来た。 振り返っていた享沙がその男に声をかけられ前を向くと足を止めた。 小路を回って先回りした様だ。
マツリと杠の目前で何が起こっているのだろうか。 享沙が下手を踏んだのだろうか。

「兄さん、どうして逃げるの!」

え? という顔をしてマツリと杠が互いを見合う。

「・・・ぴょこの、弟、か?」

「そのようで」

何のことかと真ん中で紫揺が二人を見上げている。
ぴょこ?

六都の決起のことは終わった。 享沙は長屋で大人しくしていれば良かったが、いつまでもじっとはしていられなかった。 ちょっと見回るだけのつもりだったのに弟と遭遇してしまった。
知らぬ存ぜぬは通せない、他人の振りは出来ない。 前回会ってしまった時に話をしてしまっていた。 弟の横を走ってすり抜けた時、弟が手を出してきたがそれを撥ね退けた。 その時になってようやく目の前にマツリと杠が居ることに気付いた。

「あ・・・」

言ったのは杠だった。
弟をすり抜けようとした享沙を追って、弟がこちらに顔を向けたからであった。

「まさか、あの男が沙柊の・・・ぴょこ、あ、いや、弟?」

「なんだ? 知っているのか?」

「例の、都司にと考えていた男です」

え? という顔をしてマツリが男を見る。
杠から二十七歳と聞いていた。 確かにその年齢より随分と若く見える。 だがその男が享沙の弟?
マツリと杠に気付いた享沙だったが杠の横を走り去る。 ついでに紫揺にも気付いていた。
床下に潜り、享沙が何度も練習をしても上れなかった木にいとも簡単に上った坊。 芯直たちからその坊はマツリの御内儀であり、五色の紫であり紫揺でもあると。 杠が紫揺と呼んでいることから芯直たちも紫ではなく紫揺と呼んでいるとも聞いた。

弟が逃げ去る享沙を見て肩を落とし、やって来た小路に引き返して行った。
それをずっと見ていたマツリと杠。

「兄弟を調べた時に分からなかったのか」

「兄の名は凶作と書かれておりましたので・・・」

凶作と書いて “きょうさ” という名であった。 まさか享沙だったとは。
享沙の親から出生届を受け取った文官はそれなりの趣味があったようだ。

「ふむ、たしかに若く見える顔だったが、芯はしかりとしていそうか・・・」

いつまでも兄を探し求めてはいるようだが、兄に会うまでは一人でやって来たのだろう。 幼くは見えても、見ようによっては責任感があるように見えなくもない。

「一度、話してみるか」

弟と。

「沙柊は如何いたしましょう」

同席させるのか?

「ふむ。 良いかもしれんな。 ケリをつけさせるに丁度いいだろう」

「では今晩で宜しいですか?」

マツリが頷いた。
頭上で交わされる意味の分からない会話。 一人のけ者にされたような気分になる。 眉根をひそめ、今晩というものに参加することを心に決めた。
杠が別行動で弟と享沙の家に行き、マツリと紫揺は六都の中をずっと歩き、夕餉の刻になると宿に戻って行った。
歩き回っている時に武官と目が合った紫揺が手を振ったり、武官が “うふっ” っという感じで礼をとるではなく、皆が同じように手を振り返してきたのには眉がピクピクと動いてしまったが。
戻ってきた杠と夕餉を食べ終えると部屋に戻り、この宿に享沙と弟に来るように言ったとの事だった。

「沙柊にも弟にも互いが来るとは告げておりません」

「承知した」

「紫揺は己の部屋に行っておくといい」

「ここに居ちゃ駄目?」

東の領土が気になるから戻ると言ってはこんな状態だ。

「如何いたしましょう」

「・・・黙っているならよい」

行けと言っても駄々をこねるのは目に見えている。 隅にでも座らせておこう。

先にやって来たのは享沙だった。
部屋に入ると紫揺が居た。 隅っこにちんまりとではあったが。

「先に紹介しておこう、マツリ様の御内儀様となられる東の領土五色、紫さまです」

座した享沙が手を着いて頭を下げる。 御内儀様と顔を合わすなんてことは有り得ない事なのだから。 だがどうしてこの場に呼ばれたのだろう。

「今回の決起のことでは紫さまがよく動いて下さいました。 紫さまは芯直、絨礼、柳技の顔は知っておられます」

そういうことか。 マツリの手足となって動いている者との顔合わせということか。

「紫さまとお話しするに、今も今後も私を通す必要はありません」

民からすれば御内儀様ともなれば雲上のお方になる。 もちろんマツリもそうなのだが、マツリは領土を回っていて民に顔を見せているし、話すこともある。
ましてや自分たちはマツリに呼ばれて宮に行ったのだ、マツリから話しかけられマツリの下で働いている。 今となってはマツリと話すのは特別なことではない。 だが御内儀様は違う。 宮から出ることも無く、御内儀様の顔を見ようと思えばたった一度、婚礼の儀の時に馬車で民の前に姿を現す時に見られるだけである。

享沙が杠に頷いてみせ、次にマツリに頭を下げると紫揺に向き直った。

「享沙、通り名を沙柊と申します。 紫さまのお姿は一度長屋でお見掛けいたしました」

「え?」

「床下に潜られ、木に上られるところを」

見られていたのか、全く気付かなかった。
マツリが渋面を作り、杠が笑いかけている。

「気付きませんでした。 では初めましてではないんですね。 改めまして、紫と言います」

お辞儀をしかけて身体を止める。

顔合わせはこれで終った。 弟が来るまでに聞きたいことがある。

「沙柊、六都に残っている沙柊の名は不作という意味の凶作だったのか?」

頷いた享沙が答える。
六都を出て漢字を覚えるようになり、自分の名はどんな字を書くのだろうかと、一度六都の文官所に赴き漢字を教えてもらったのだという。 だがそれがとんでもない字だった。 だから自分で考え、漢字を当てはめたということであった。
享沙が生まれた時に登録をした文官はトンデモ趣味文官だったようだと、享沙に説明されようやく納得がいった。

「ですがどうして俺の名を調べたりしたんですか?」

ここからはマツリに説明してもらう。

「沙柊、弟のことだが、この六都の都司になって欲しいと考えておる」

「え?」

「弟の身辺を洗うことで兄に凶作という者が居ると分かったが、この六都を出てどこに居るかが分からなかった。 だが今日、弟の兄が誰か分かった」

それが享沙だった。
そうか、名を調べられた理由が分かった。 だが弟が都司に?

「長く離れておったと聞いたが、どうだ? 享沙から見て弟は都司に向いているようか?」

「・・・小さな時の弟は・・・ただただ優しいだけでした。 俺が居なくなってからは、六都を出たと言っていました。 俺と同じように六都の外で勉学をしたと。 それだけしか言えません。 他には何も知りませんので」

「そうか。 なぁ、沙柊、我の手足となっていることはさて置き、弟と話をせんか」

「・・・情が移ってしまいます」

「今も充分そうであるから逃げておるのであろう。 それに我は情の無いような者を選んだつもりはない」

「マツリ様・・・」

「もう少しすれば弟がここに来るが、都司の話を持ち掛ける。 そのあとにでもゆっくりと話をしてみんか」

「どうして・・・そのようなことを」

「我が手足となっている者の幸(さち)を願わぬわけが無かろう」

「沙柊、あくまでも弟と一緒に住むからと、こちらを抜けることは許されません。 ですが兄弟がゆっくり顔を合わせてもいいのではありませんか? 積もる話もあるでしょう」

紫揺がどこか驚いた顔をしている。
杠が言ったのは当然と思って聞けた。 だがマツリがあんなことを言うなんて。
杠と地下から出てきて宮に戻った時、杠が言っていた、マツリは『あの方は気骨があり温情の深い方』と。 あの時は『権高で癇性の間違いじゃないの?』 と思っていたが、今ではそうでないことを分かっている。 だが杠の言う “恩情の深い方” それがこういう事なのだろうか。

と、戸を叩く音がした。 享沙がビクンと体を震わせる。
杠が立ち上がり戸を開けるとそこには享沙の弟である、飛於伊(ひおい)が立っていた。
杠が飛於伊を中に入れる。 そこに兄である享沙が居たことに驚き、一瞬立ちすくんでしまったが、杠に座るように促され享沙の隣に座った。
正面には同じように座しているマツリが居る。 マツリと同じ位置に座るなど考えられない事だった。 すぐに両手をつき頭を下げた。

「改まらずともよい。 伏していては話が出来ん」

更に杠にも声をかけられ、おずおずと飛於伊が顔を上げる。

「享沙の弟、飛於伊だな」

「はい・・・」

いったい何なのだろう。 わけが分からず伏目にしている睫毛が揺れる。

「急な話ではあるが、飛於伊にはこの六都の都司になってもらいたく来てもらった」

「と・・・都司?」

思わず声がひっくり返り目を見開いた。

「都司になってもらうにあたり、身辺に疑いのある者では困る。 飛於伊にはこの兄一人しか居らんということで間違いないな」

そういうことか。 それで兄が呼ばれたのか。 「はい」と言いながら頷く。

「兄であるこの者も飛於伊と同じように真っ当に生きておるようだ。 何の疑いもない。 この六都は他の都と違って、都司は代々が継いでいるものではない。 読み書きが出来れば良いのだが、どうだ、今すぐにということではないが都司になってみんか」

すぐに返事が出来るものでないことは分かっている。

「マツリ様が変えようとされている六都の最初の都司になってみてはくれないか。 悪いが、飛於伊のことはこの私が調べました。 何の淀みもない。 都司としてやっていけると思うのですが?」

飛於伊が戸惑ったような顔をしている。 こうして見ると本当についさっき大人になったような顔だ。

「簡単には決められないでしょう。 ですが私がマツリ様に飛於伊のことをお知らせし、マツリ様がご納得をされました。 それを念頭に置き、兄に相談して決めてはくれませんか?」

飛於伊が享沙を見る。
享沙に杠のやりようが分かった。 享沙からも勧めろということだ。
享沙が弟に頷いてみせた。

「我が身に有り余るお話しでは御座いますが、兄とよくよく相談しお返事をさせていただきたいと存じます」

「良い返事を待っております。 私は杠と申します。 決められましたらいつでも私の方まで」

享沙と飛於伊が部屋を出て行った。

「あの物言いが出来るのなら、文官に舐められることもなかろう」

「はい、単に読み書きが出来るわけではなく、頭の回転もよさそうですので」

「兄弟でよく似ておる」

ぴょこ、さえなければだが、いや、飛於伊にも何か秘められたものがあるのだろうか。

「紫、どうしても明日戻るのか?」

ずっと黙って隅に居た紫揺。

「あ・・・うん」

今のマツリを見せられて、自分の知らないマツリをもっと見てみたいなどと思っていたが、今の自分は東の領土のことを考えなければいけない。
いくら秋我が呼びに来なくとも、あまり領土を空けるのは考えもの。

「マツリ様、明日は武官ではなく、マツリ様がお送りされれば如何で御座いましょう。 宮に戻られて、柴咲と呉甚のことがどこまで進んでいるかということも御座いますし」

まだ進展が無いのだろうか、それとも何かあるのだろうか、宮から早馬が走って来ていない。

「・・・そうだな」

「紫揺、宮で一日でも泊まるか?」

「うううん、宮に戻ったらすぐに領土に帰る」

そんな無駄な時間は取りたくない。

「では明日一番に出るということで宜しいでしょうか」

紫揺ではなくマツリに向かって言う。

「致し方ないか」

朝一番に出て夕刻前には宮に着くだろう。 それから岩山まで馬で走り、東の領土に入って山を降りねばならない。 強行突破だが、朝一番を逃すとそれが出来なくなる。


宮都の一角で「もう熱は下がりました。 明日には目が覚めるでしょう」と言い残し、医者が帰って行った。
見知らぬ、まだあどけない女人だったが、驚くほどの高熱を出していた。 放っておくわけにはいかなかった。 医者の言葉にホッと胸を撫で下ろした夫婦だった。


翌早朝、杠が厩から一頭の馬を曳いてきた。 紫揺がこの六都に乗ってきていた馬である。

『紫揺が乗ってきた馬だけで御座いますか?』

杠は当たり前にマツリの乗る馬も曳こうと思っていたが、マツリが紫揺の乗ってきた馬だけを曳いてくるようにと言った。

一方で、文官所と武官所では紫揺が帰るということを聞いて、しっちゃかめっちゃかになっていた。
文官所では早朝から誰かが出仕しているものではない。 だが武官所では二十四時間体制。 武官が早朝に杠から聞いたことがまだ出仕していない文官の耳に入り、文官たちが出仕時となっていないのに詰め寄せていた。 まだ交代の刻限にもなっていない武官も然りであった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第176回

2023年06月19日 21時25分47秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第176回



刑部舎では呉甚の取り調べがまだ続いていた。

「いい加減、諦めたらどうだ」

呉甚の前には刑部長が座っている。
未然に防げたと言っても事は大きかった。 行部長自らである。

「なんのことだか」

証人が証言したと聞いた。 だがそれがなんだ、証拠はどこにもない。 高姫もどこかに行ってしまった。
部屋の戸が外から開けられた。 三人いた刑部文官の一人が立ち上がり、外から入ってきた文官と小声で話している。 聞こえたのは「承知した」それだけだった。
呉甚に相対していた刑部長に小声で告げる。 しっかりと呉甚に聞こえるように。

「女が吐きました」

呉甚の目が大きく見開かれた。

「柴咲のことも」

“の” とはどういうことだ、という目をしているのは、白々しい刑部長だけではない。

「高妃のことも」

グッと呉甚の喉の奥で音がした。


『高妃様を、どうか高妃様をお探しください!』

とうとう女が泣きながら叫んだ。

『高妃様とは?』

『早くお探しください! もう・・・もう丸一日、一人でおられ・・・。 お願い致します、どうか・・・お探しください・・・、衣を見れば、分かります、どうか、どうか・・・』

女は夕べそれ以上言わなかった。
だがこの日夕刻まで待って呉甚が吐かなかった時には、まるで女が吐いたように話を進めようということになっていた。 女の言いようを聞いて “高妃” の名を上げれば呉甚が諦めるだろうと推測してのことだった。
女は高妃に “様” を付けていた、呉甚にとってもそれなりの者だろう。 いや、それが本領領主の直系であり、後ろ盾と言われていた者のことだろう。
それに女についていた武官から誰かを探しているようだったと報告を受けている。 それがその高妃だったのだろう。


「その高妃は?」

「武官に探させるよう、伝令が走っている頃かと」

刑部長が呉甚を見る。
と、また外から戸が開けられた。 先程と同じようにひそひそと話している。 刑部長が呉甚の顔を見ると明らかに引きつっている。
「承知した」先ほどと同じ声しか聞こえない。 呉甚が今も刑部文官を引きつった顔で見ている。
刑部文官が先程と同じように小声で、しかしまたもやしっかりと呉甚に聞こえるように伝える。

「柴咲が吐きました」

これもやけのやんぱち、嘘のやんぱち。 使いたくない手ではあったが、あまり長引かせては面子にかかわる。
刑部長が呉甚を睨み据える。 さっきのどういうことだ、という目にしてもなかなかの役者である。

日本に浅香亨と曹司(ぞうし)という二人が居るが、この二人に演技指導をしてほしいほどである。 <国津道 より>

「な・・・何が悪い!! 直系だ! 直系が領主になることの何が悪い!!」


文官所を出て屋舎の様子を見てから屋舎に立つ依庚(えこう)と話をした。 順調に売り上げが伸びているということである。

「杉山の杉はどんな具合でしょうか?」

「ええ、まだまだ大丈夫です」

「この調子で行けば、宮都への借財も思いのほか早く返せるかもしれません」

「それは何よりです」

この依庚は六都文官が咎にかけられた代わりに入って来た文官である。 以前の六都を知ることはないが、それでも噂には聞いていただろう。

「六都が変わっていきますな」

「ええ、そうなってもらわなければ困ります」

「時に」

「はい」

「御内儀様のことをお聞きしましたが、いつごろ婚姻の儀をお考えなのでしょうか?」

「マツリ様は六都のことを終わらせて、とお考えなのではないでしょうか」

依庚が顔を歪める。

「なにか?」

「マツリ様はたしか・・・二十八の歳におなりかと」

「はい」

「悠長に構えておられますとすぐに三十路になりましょう。 お子のことを考えられなければなりませんでしょう、進言できるのは杠殿だけと思いますが」

紫揺は男の子を生まなければならない。 そして東の領土に残す為の女の子も。

「・・・たしかに」

依庚との話を終わらせると文官所に戻った。 文官所長の部屋の戸を開けると、出て行った時のままの図が目に入ってきた。

「ゆずりはぁぁ・・・。 たすけてぇぇ・・・」

抱え上げられたままの紫揺が振り返り、力尽きたように半泣きの目で杠を見ているではないか。

「いつまでやってるんですか」

戸を閉めようとした時に文官たちの顔が並んでいるのが見えた。
紫揺のあの力尽きた様子、きっと暴れるだけでなく怒鳴っていたのだろう。 それが文官たちの耳に届いて・・・。
杠がにこりと微笑んでそっと戸を閉める。

「ずっと・・・」

紫揺のトンデモは武官に。 マツリのこのザマは文官に。
考えただけで頭がイタイ。

「何を言ってるんです、ほら、手を離して下さい。 なにが手首瀕死寸前ですか」

紫揺をマツリからもぎ取ると、降ろされた紫揺がへなへなとその場にうずくまった。

「紫が本領に居るというのに何日も会えなかったのだからな、これくらい良いであろうが」

ううう・・・血が巡るぅ。 などと、うずくまっている紫揺が独り言を零している。

「硯職人の手配はどうされました?」

しゃがんで紫揺の背をさすってやりながら問うと、文官所長の椅子に座りながら「・・・今から」 と答える。

「・・・とっととお願い致します」

“致します” と言うわりに “とっとと” とは。


夜になり、武官の仮眠室の戸が開けられた。

「柴咲、謀反の罪で捕縛する」


宮都からの応援のなくなった武官の様子と自警の群の夜の巡回の様子を見に、ひとしきり歩き回ったマツリが杠の前に座っている。
殴られる自信があるのでな、と、前回とは言い方は違うが、同じことを言って杠の部屋に入ってきていた。 手には酒と酒杯の載った盆を持っていた。

「杠から見てどうだ」

応援の武官はいなくなったが六十人の武官は帰って来ている。 今の武官の人数が本来の六都の武官の人数。 六十人の武官が戻ってきたことで、自警の群の応援は引いてもらった。

「うーん、厳しいところがありますでしょうか・・・。 ですがいつまでも甘えているわけにはいきませんし、今回のような事を考えますと宮都を手薄にさせるわけにもいきません」

今回の事、それは決起の事。

「ああ、今回のことは宮都が手薄になったことも一因だろうな」

「三十人ほど・・・ではどうでしょうか」

いや、それでも厳しいか、などと口の中で言っている。

「応援を頼むということか」

杠が頷く。

「少しでも早く安定に近いものを作りたいので」

そこで杠が依庚から聞かされた話をした。

「三十路か・・・」

クイっと酒杯の中の酒を口に入れる。

「今回、これほど六都を空けられました。 自警の群が頑張ってくれたこともありますが、すぐにとは申しません。 ですが六都のことが終わるまで、という前でもよろしいのではないでしょうか」

「まぁ、な」

「あまり乗り気でないご様子ですか。 なにか?」

「いや、杠もすぐにとは言っていないのだから同じなのだろうが、まだ自警の群に確信を得られたわけではない。 自警の群には悪いがな。 それに六都の民をもう少し動かしたい」

あれだけ長い間、紫揺を抱きしめておいて何を尤もなことを言っているのか、とは思うが、マツリの言いたいことは分かる。 まだまだ安心できない六都だ。 それにこれから百二十七人の咎のこともある。 咎を言い渡して終わりではない。

「お心に留めて置いて下さればそれで宜しいかと」

「・・・ああ、分かった。 依庚からうるさく言われそうだ。 そうだな、では三十人程応援を頼もうか」

はい、と答えながら、マツリは東の領主には何と言っているのだろうか。 そう思った時に気になったことが頭をかすめた。

「東の領土とはかなり言葉が違うのでしょうか?」

「ん? どういうことだ?」

酒杯を口にしたマツリがゴクリと嚥下する。

「今回、紫揺と長く一緒に居りまして聞き慣れない言葉が幾つかありました。 全く聞いたことの無い言葉ですが・・・それ程に言葉が違うものなのでしょうか」

どうしたものか。 マツリが酒を口に含む。
その様子を見ながら杠も酒杯を傾ける。 マツリの様子がおかしい。 何かあるのだろうか。

「紫には・・・言葉を教えんといかんな」

「宮の言葉のことでしょうか? それとも本領の?」

宮の言葉は民の言葉とはちょいちょい違う。 マツリ付の官吏となって宮に入った時には何度か訊き返したりしたものだった。

「・・・紫に」

そう言っただけでマツリの口が止まった。
聞こえるのは、もうそろそろ終わるであろう蛙の鳴き声。 隣りの部屋にいる紫揺はもう寝たのであろう、物音ひとつ聞こえてこない。
マツリが一度置いた酒杯に再び手を伸ばす。 だがそのまま止まっている。
暫く経ってようやく口を開いた。

「紫に・・・ずっと付いてくれるか」

どういう意味だ。

「紫の兄として、いてくれるか」

「はい」

己が投げかけた疑問に対してどうしてそんな話になるのだろうか。

「我は杠の弟にはならんが」

「当たり前です」

杠が少し減っているマツリの酒杯に酒を継ぎ足し己の酒杯にも注ぐ。
ふぅーっと大きく息を吐いたマツリが酒杯を口にする。

「紫は・・・どこの領土にも・・・どこの領土でも産まれておらん」

マツリが驚くことも出来ないような話をしだした。
出来ることなら雨がしんしんと降っていて欲しかった。 雨の音を聞けば少しは心が落ち着けたかもしれない。
先代紫? 襲われた? 洞? にほん? いったいなんだ。
蛙の鳴き声が棘のように頭に刺さる。 頭の中で鐘楼が鳴り響いている。 さかむけが引っ張られるような、意味が分からない言葉の羅列。
長い長い時が過ぎたようだった。

「納得出来まいがな」

「・・・では、その、にほんという所の言葉だと・・・」

「ああ。 一度開き直ってにほんの言葉で話された。 全てというわけではないが、分からなかったわ」

「その東の領土の、にほんという所を知っている者たちは分かるのですか?」

「通事をしてもらっておるようだ。 紫自身、まだこちらの言葉が分からないところがあるようでな」

そう言われれば、明時や払暁といった言葉を知らなかったか。 と思う杠だが、その言葉は紫揺が知らないだけで、現代の日本にもある言葉である。
そして紫揺が父御、母御、祖父御、祖母御を連れてきたかったという言葉の意味がようやく分かった。

「あれは・・・紫は、人知れず寂しい思いをしておる」

ある日突然、純粋な日本人では無いと聞かされた。 知らない所に来た。 そして言葉の壁。

「・・・己が知ったことを、紫揺にはいかがいたしましょうか」

「言うも言わぬも杠の判断に任せる。 我からは言わん」

「承知いたしました」

己と紫揺の間のことは己に任せてくれたということ。 その想い、大切にしたい。

朝餉の席でマツリにとって驚くことを目の前に座る紫揺が言った。
はっ!? と言ったのはマツリ。
何故だか、マツリと杠が対面の椅子に座ると紫揺が杠の隣に座った。

「だから、夕べよくよく考えたから。 もう長く居たから東の領土に帰る」

「き、昨日、我が戻ってきたところではないか!」

「今日で・・・八日でしょ、たしかそれくらい。 あんまり東の領土を空けたくない」

「わ! 我を置いていくというのかぁ!」

まるで三下り半を渡された男ではないか。 マツリ曰くのイタイ兄の杠が眉をピクつかせる。

「マツリ様・・・民の目が御座います」

誰もがマツリの声にギョッとしてこちらを見ている。

「落ち着かれませ」

「杠はずっと紫と一緒に居ったから、そういうことを言えるのだ!」

「声をお下げください」

そう言うと隣に座る紫揺を見る。

「まだ傷が治っていないだろう。 そんな手で宮に戻ると六都武官長の面子を潰すことになる」

左の掌を見るがそこにはまだ晒が巻かれている。 でも紫揺にすれば面子より東の領土の方が心配である。

「でも何かあったら」

「秋我殿に頼んできたのだろう?」

何かあったらすぐに秋我が宮にやってくると話していた。

「早馬もなにも来ていない。 な? 傷が治るまであと少し、マツリ様とご一緒に居ればどうだ? ああ、そうだ。 紫揺は知らないが紫揺に夜襲があった」

「へ?」

「杠!」

一度マツリの顔を見ると紫揺に戻す。

「それを押さえて下さった好々爺がいらっしゃる」

「好々爺?」

ゆっくりと杠が頷く。

「ほら、学び舎で会った」

「雲海師?」

「そうだ。 地下の報告の時、百足の話があっただろう?」

地下と百足という所は殆ど口パクである。
紫揺が頷く。

「あ・・・もしかして」

「そう、今は動いておられんがな」

マツリの知らない話を二人でしてくれている。 それも目の前で。 杠が穏やかに話し、なんだか従順に・・・いや、小動物のように目をクリクリさせながら紫揺がそれに応えている。 ましてや互いに見つめ合って。 ・・・隣り合って。

(杠めっ)

白飯を口にかっこんだ。

「マツリ様が礼に行かれるが、一緒に行かないか?」

「うん、行く」

自分が迷惑をかけたのだから。

(どっちを向いておる。 こちらを向いて言わんか)

思った途端、茶碗を落としそうになって慌てた。 焼いた川魚に箸を伸ばす。

「だが一つ」

杠が人差し指をたてる。

「なに?」

「百足のことは紫揺も己も知らん。 分かるな?」

(分かるわけがなかろう。 あ、ぐふ)

川魚の骨がのどに引っかかった。

今回も百足という所は口パクだ。
杠が何を言おうとしているのか分かった。

「分かった」

(わ・・・分かったのか?)

涙目でおえおえとしながら茶で骨を流している。
何やら一人で遊んでいるマツリを杠が一瞥(いちべつ)し紫揺に言葉を継ぐ。 それを聞いた紫揺の返事。

「え? ・・・嫌なんだけど?」

「マツリ様が戻って来られた。 そういうわけにはいかない」

朝餉を済ませ武官所で薬草を塗り直してもらうと、まだまだ紫揺と話したそうにしていた武官を完全にスルーして紫揺を拾い上げ、マツリと共に六都の市に放り投げた。
紫揺がブツブツ言う中、なんとか一着が決まりその後、杠が用意していた酒を片手にマツリと紫揺が宿を出た。 殆ど杠に蹴り飛ばされながら。 
慣れない衣を触りながら紫揺が口を開く。

「杠がね、大丈夫だって」

唐突に耳に入ってきた声。 何のことだか分からない。

「何のことだ」

「杠のお父さんとお母さんの事」

そんな話をしたのか。
お父さん、お母さん、そんな言葉は本領にない。 だが意味は分かる。 民の言うおっ父や、おっ母、幼子の言うおととや、おかかと同じであろうと。

「有難う」

どういう意味だ。

「何が」

「杠に言ってくれたんだってね、私は乗り越えたって。 だから、杠も乗り越えてくれって。 マツリからの頼みだって」

「・・・杠が言ったか」

この二人は・・・。

「うん。 杠が大丈夫って言ってくれて・・・。 嬉しかった」

「そうか」

「・・・私は、私には・・・」

紫揺の口が閉じられた。
紫揺の口が開くまで待つ。 歩は進めるが。

「私は・・・マツリが聞いてくれた。 分かってくれた」

思いもしなかったことを言われた。 紫揺は・・・分かっていたのか。 泣いて泣いて泣き疲れて寝てしまったのに。

「ずっと一人で泣いてた。 でも、マツリが聞いてくれた」

・・・ずっと一人で。

「もっと早く紫の心に添えばよかった」

紫揺が首を振る。

「充分」

「悪かった」

「そんなことない。 絶対ないから」

「・・・そうか」

マツリの顔をチラッと見ると前だけを向いていた。 杠ならきっとこっちを向いていただろう。 そして頭を撫でてくれただろう。

「杠がね、まだ苦しんでいるんだったら、マツリが私にしてくれたみたいにしようと思ってた」

「は!?」

マツリの足が止まる。

「同じことは出来ないけど、それでも私なりにしようと思ってた」

紫揺が顔を上げてマツリを見る。 マツリも紫揺を見ている。

「あれ、すごく安心できた。 何もかも流せた。 マツリみたいに抱き上げることは出来ないけど、杠に低くなてもらったら、杠の頭を抱きしめることは出来るから」

「はぁー!?」

「そしたら一人じゃないって思えるから」

「・・・そんな事をっ! そんな事をしたなら!! ・・・」

「ん? なに?」

許さん! と言いたかった。
だが・・・。

「・・・必要であれば我がする」

「は・・・?」

マツリが杠の頭を抱く・・・。
紫揺がドン引いた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第175回

2023年06月16日 21時17分10秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第175回



「あれま、どうしたんだい?」
水を汲みに外に出ると誰かが座り込んでいた。
綺麗ではあるが変わった衣を着ている、それなのに足元を見ると何も履いていない。 裸足で長く歩いてきたのだろう、柔らかな足の裏から血が出ている。 疲れて座り込んでしまったようだ。

「お、空・・・」

可愛い顔をして空を見上げている。 長い睫毛に囲われた黒く大きな瞳がゆらゆらと揺れ、零れ落ちそうになっている。 その瞳にゆっくりと瞼が落ちた。

「ちょ、ちょっと。 あんたー!」

女が家の中に居る亭主を呼んだ。


翌朝、早朝から杠と二人乗りで馬に乗って出掛けた。 紫揺に手綱は持たせられない。

「昨日は武官達とどんな話をしたんだ?」

昨日、紫揺と昼餉を済ませると自警の群に労いの言葉をかけに出た。 その間、紫揺は武官所に預けていた。
六都官別所に百二十七人を入れた武官たちが戻って来て、紫揺と楽しいお話をしていたようだった。

「うーん、メイン・・・主には木の枝に跳び乗ったこと。 あれは何だったのかとか、どうすればいいのかとか。 他には杠と私の関係」

「はぁ?」

「お兄ちゃんのように慕ってるって言ったけど、都合悪かった?」

まんまを言ったのか。
慕ってる・・・表情筋がなくなったように崩れていく。

「いや、あ、え、その、都合って何だ?」

「だって杠の立場もあるでしょ?」

「し、慕っているというのは?」

どうしてそんなことを訊いてしまったのか、どうしてこんなにドギマギするのか、どうしてもう一度聞きたいと思うのか。
己・・・オカシイ。
今までになく長い間、紫揺と居たせいだろうか。

「のは、って訊かれても。 だって・・・お兄ちゃんだし。 え? 駄目なの?」

杠が紫揺の腹に手をまわしぐっと引き寄せる。

「そんなことがあるはずないだろう、紫揺は俺の妹だ。 いつもいつも手の中に入れていたい。 お譲りするのはマツリ様にだけだ」

“手の中に入れていたい” 嬉しいフレーズ。 紫揺としてはいつも杠の胸ポケットに入っていたい、そう思っていた。 ここの衣に胸ポケットは無いけど。 お兄ちゃんから離れたくない。

でも・・・マツリは別。

「・・・うん」

「マツリ様は戻って来られる」

「マツリなんてどうでもいい、杠と一緒に居たい」

葉月曰く、おムネは大きくならないらしいけど。 ・・・ああ、でも、おムネ・・・大きくなりたい。 あのお姉さんのように。
後ろで杠が笑った気がした。

「戻って来られる」


杠の言うようにマツリが戻ってきた。
キョウゲンから跳び下りたマツリを見た巡回をしていた武官が文官所に報告をする。

「マツリ様!」

文官が走り寄ってきた。

「杠は」

「紫さまと・・・遠出に出られたと聞いておりますが」

「・・・杠めっ!!」

「は?」

「いや何でもない。 それより、今回の六都の者を捕らえたということは早馬で知らされたが杠からの報告が無い。 何かあったのか」

「特には何もあったわけは御座いません。 自警の群もよく動いたと武官から聞いております」

では何故、杠からの連絡が無い。

「武官に代わって自警の群が捕らえた者の咎の言い渡しと、今回の捕らえた者の言い渡しをすぐにお願い致したいのですが」

もう六都官別所が溢れかえっている。
何故か返事をするどころかマツリが思いっきり口を歪めている。 どうしてだろうか。

「承知した。 だがその前に武官長に話を訊きに行く」

(くそっ! 遠出とはどういうことだ!)


「この山だな」

杠が馬を止める。
紫揺が目の前の山肌を見る、間違えないような気がする。 幼い頃、父と母と見に行った山肌。 だが父ほど詳しくはない。 あの時、父にどう説明してもらっただろうか。 山肌を見て目を瞑り思い出す。 父の言っていたことを。
父のことを想ってもう泣かない。 心に刃など持ったことは無いのだから。 それどころかこうして父の声や楽しかった会話を思い出せる。 心には楽しかった思い出がある。

『紫揺? 見て分かるかな? 粘土質が堆積した岩石を崩しているだろう? ほら、あそこ分かるだろ?』

『んー・・・あのお山?』

『そう。 あのお山が硯の原石なんだ』

『コンコン叩いてる』

『そう。 放置して風化してしまう前に硯を作るんだ』

(お父さん・・・)

瞑っていた目を開ける。 泣かない。 絶対に。 いっぱい泣いた。 最後にマツリの胸の中でイッパイ泣いた。
マツリが何もかも吸い取ってくれた。
だから泣かない。
深く深く息を吸い、長く長く吐いた。

杠が紫揺を見る。

「この山、硯が作れると思うんだけど」

「硯?」

「うん、見当違いかもしれないけど」

紫揺が馬を下りて山の壁面に歩いて行く。
父に教えられた層が見える。

「間違ってるかもしれないけど、一度硯を作っている職人さんに確認してもらえる?」

山肌の土の層を手で触りながら言う。

「硯か・・・」

杉山だけでは納まり切れなくなると、マツリとそんな話をしていると紫揺に話した。 紫揺自身もそう感じていると言っていた。 それを考えていたのだろう、そこに武官からの話があった。 思い当たる節があったのだろう、だから確認しに来たということ、か。
杠が紫揺の頭を抱(いだ)く。

「いい子だ」

紫揺はいつもカルネラにそう言っていた。
紫揺が杠の体に手をまわす。
いつもなら何か言うはず。 いい子でしょ、等と。 だが紫揺の口からは何も発せられなかった。

「紫揺・・・?」

褒めて抱(いだ)いた紫揺の頭だった。 だが違うものを感じた。 無言でもう一度紫揺を抱く手に力を込める。

「く・・・苦し・・・い」

「あ、悪い!」

杠が紫揺の後頭部から手を離した。
手を回したまま顔を横に向けるとプハーっと息を吐く。 カルネラが紫揺の懐から出てきた時はこんな感じだったのかと思う。
横に向けた目の先には山肌がある。 岩石の山肌をじっと見つめて口を開く。

「お父さんってね・・・私の。 書が上手だったの。 師範・・・師になれる寸前までいってたんだって。 師になるつもりは無かったって言ってたけど。 どっちかって言ったら硯や筆の方に興味があったって。 でね、一度お母さんと一緒に会社の車・・・その、馬車で硯の元になる山に連れて行ってもらったの。 小っちゃかったからはっきり覚えてないけどこんな感じだったと思うんだ」

「・・・そうか」

「マツリから聞いてるかな」

「・・・ああ」

「・・・私も杠のことを聞いた」

「ああ・・・」

知っている。

「マツリがね、沢山言ってくれたの。 腹立つほどムカツクほどに。 ・・・お父さんとお母さんのことを思うといつも一人で泣いてた。 でもマツリが一緒に居てくれた、泣かせてくれた、だからもう泣かない、んだけど・・・」

「・・・ぅん?」

「それでも・・・寂しいね。 お父さんもお母さんも大好き。 お爺様もお婆様も。 みんなみんなを連れてきてあげたかった」

紫揺が杠の体に顔を伏せる。

どこに連れてきてあげたかったのか? それに紫揺の言葉が分からない部分がある。 本領と東の領土の言葉の違いを感じる。 でもそのことに疑問を抱く時ではないであろう。

「そうか。 紫揺の想いに父御も母御も祖父御も祖母御も喜んでおられる」

そうだ。 目に見えなくとも姿が見えなくとも。

「私より杠の方が小さい時にお父さんとお母さんと離れちゃったんだよね」

杠は誰かの腕の中で泣けたのだろうか。
紫揺が顔を上げて杠を見る。 今、杠の手は紫揺の背中にかかっている。

「そうだな」

「・・・大丈夫?」

杠が口角を上げる。

「歪んでいた、ようだ」

「え?」

杠を見上げる紫揺の視線を外して山の方を見る。

「マツリ様に紫揺は乗り越えた、杠も乗り越えてくれ。 マツリ様からの頼みだ、そう言われた」

「杠・・・」

視線を紫揺に戻す。 眉を上げ、声が出るのは口からだったが、その目から話されているような感じがした。

「だが、もう大丈夫だ」

「うん」


杠がどうして宮都に報告に来なかったのか、武官長から聞いてその理由は分かった。 かなり言い渋るように言ってはいたが、紫揺の事だ、それくらいするだろう。 だがもう夕刻になろうとしているというのに、まだ杠と紫揺が戻って来ない。

ペタコン、ペタコンと書類に判を押していく。
百二十七名には労役を科すが労役の先は現在不定。 そして詳しいことも他の都と合わせなくてはならない。 当分、官別所で冷たい飯と共に過ごしてもらう。
ゴロツキにはとっとと明日から杉山に行かせる。 金河と將基もそろそろ戻って来るだろう。

「手首が死ぬわっ!」

一人叫んでみるが四方はこの程度ではないのだろう。 改めて四方の大変さを知ることとなった。
最後の一枚に判を押した頃には夕刻になっていた。

「お疲れ様で御座いました」

全てに押印が終わった時、ちょうど控えていた文官が茶を持ってきた。

「・・・杠は」

「まだお帰りになってはおられないようですが」

マツリがブスッとしかけた時に文官所の戸が開いた音がした。

「マツリ様が戻られていると聞きましたが」

杠の声だ。

「戻られたようで」

文官が文官長室の戸を開け杠を呼び、すれ違いに文官が出て行った。
文官長室に入るとブスッとした顔のマツリが居た。

「どうされました?」

左腕で頬杖をつき、顔は横を向いて目だけを杠に合わせている。

「右手首が瀕死寸前」

杠が首を傾げる。

「押印。 杠が居れば杠に頼んだものを・・・どこに行っておった、それに紫は」

マツリの前に置かれている書類の束、これに押印して手首が疲れたと言いたいのか。

「この程度で?」

マツリが眉根を寄せる。

「鍛練が足りませんね。 四方様とご一緒に仕事をされた方が宜しいかもしれません」

押印に鍛練などというものがあるのか。

「紫は」

「武官所に居られます」

「武官所? どうして」

「武官と楽しい仲間になったと仰っておられました。 して、決起の方はどうなりましたか?」

楽しい仲間に薬草を塗り直してもらってもいるが。
杠に訊かれて思い出した。 そうだった、その話が一番だった。 押印が頭にきてすっかり頭から飛んでいた。 迂闊だった。

「呉甚も柴咲も捕らえた。 柴咲は似面絵が効いたようだ、二都で足止めを食っておった。 七都と八都の民がそれぞれ入った都で右往左往しておったと報告が入ってきた。 三都の者はどうだった」

「迎えもありませんでしたし、その様な動きもなかったと聞いております」

「そうか、五都の者は動いてはいなかったということだ」

「ということは、六都から七八都に入って二都に行ったということですか。 あとの都は何も知らなかった」

「ああ、そのようだな」

「動いた者と動かなかった者で咎が違ってきますか?」

「違ってくる。 動かなかったと言っても謀反を起こそうとしていたのだから、それなりの咎があるが動いた民はそれ以上の咎だ。 全ての都で咎を合わさなくてはならん、他の都の状況を見てからの判断となる。 従って六都の百二十七名は暫くあのままになる」

「承知いたしました」

「紫が怪我をしたと聞いたが?」

「紫揺自身は何でもないと言っておりますが、六都武官長が気にされております。 それに怪我をしたまま戻ればお方様やシキ様、あの女官たちがご心配をされるでしょう」

「その程度か」

「はい」

「で? どこに行っておった。 我抜きでっ!」

笑いかけた顔を見られないよう、すぐに横を向いたが気付かれたようだ。

「・・・杠」

駄目だ、耐えられない。 後ろを向いて肩を揺らす。

「・・・二人してなん月も一緒に居りおって」

「なん月などと、数日ではありませんか」

くっく、と笑いながら、まだ後ろを向いている。

「我からすれば、なん月ほどと感じておる」

なんとか肩の揺れをおさめマツリに向き直るが涙目である。

「それなのですが・・・」

紫揺と硯が作れるのではないかと思える、粘土質が堆積した岩石の山を見に行ったことを話した。

「硯?」

「はい。 人の手で割れる岩石です、確認してきました」

「どこにある」

「杉山と反対方向の三十都との境です。 紫揺は確証が持てないようで硯職人に確認してほしいと言っておりました」

「その山は間違いなく六都の山か」

「はい。 武官も時々ではありますが巡回に回るようですし、文官にも確認を取りました」

「承知した」

「ああ、それと。 將基と金河が戻って来ております。 道中手厚くしてもらったと喜んでおりました」

そのようにせよと、馭者となった武官には言っておいた。 間違いなくしたようだ。

あとには小声で百足が動いているかもしれないと話し、紫揺が襲われかけたことも話した。
額に紙が貼ってあったことを聞くと互いに目を合わせる。 好々爺だな、と。

「その者たちはどうした」

「最初武官たちは首を捻っていたようですが、間抜けにもまだ襲っていない、御内儀様とやらの顔を見ようと窓から入る寸前でわけが分からなくなった、と申しまして、武官長が蒼白になって官別所に放り込んだとのことです。 そちらの方の咎もお願い致します」

「ったく! いらん仕事を増やしおって。 杉山送りだ、たっぷり力山に可愛がってもらえばよい!」

「ではそのように」

「礼を言いに行かねばならんな」

「酒の用意をしておきます」

戸の外から文官たちのざわめきが聞こえてきた。

「紫揺が来たようです」

どうして紫揺が来ただけで文官たちのざわめきとなるのか、マツリが首を捻る。

ギュッと抱き上げられ、マツリ曰くの抱擁をされている紫揺。
紫揺が入ってきた途端にそうしたものだから戸を閉める間もなかった。 戸口には文官たちの顔が並んでいる。

「ば、馬鹿! 離しなさいよ!」

「言ったであろう、我に手を回すまでおろさんと」

「マツリ様、もう少し下がって下さいませ」

マツリが紫揺を抱えたまま二歩三歩と下がる。 杠が文官たちに軽く会釈をし、そっと戸を閉める。 その気配を背中で感じた紫揺。 しぶしぶマツリの首に手を回す。 するとマツリの片手が紫揺の背中に手を回してくる。

「久しい」

「・・・それ程でもないと思うけど」

頬を付けた紫揺の声が耳朶に響く。

「怪我はどうだ?」

「さっき武官さんが薬・・・薬草を塗ってくれた」

まただ、聞いたことの無い言葉。 どれほど本領と東の領土では言葉が違うのだろうか。
紫揺がこだわった “くん” にしてもそうだ、この本領にはそんな呼び方などは無い。
そうだ、それに・・・。 地下のことを四方に報告をしていた時 “デカームの人” と言っていた。 あの時は聞き慣れない使い方だと思っただけだったが、前後の話から意味が分かり特に何も考えなかったが、誰かを指す時にそんな言葉の使い方はこの本領ではしない。

「あとで見よう」

手には晒が巻かれているが、どうしてあとなのか。

「なんで?」

「今はまだこのままだ」

杠がそっと武官長室を出ると、文官たちが蜘蛛の子を散らすように自分の席に着いた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第174回

2023年06月12日 21時09分12秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第174回



こんな時に! 呉甚が女を見て顎をしゃくると自分は奥の部屋に隠れる。
女が戸を開けると、そこには肩を下げ目の下にクマを作った男が立っていた。

「ここに呉甚という者はおられませんか・・・」

声が枯れている。

女が振り返った。
聞き覚えのある声に奥の部屋から顔を出し、女に首を振ってみせる。

「あ、居りませんが・・・」

「そうですか」

より一層肩を下げた男が向きを変えた。
女が戸を閉めると呉甚が奥の部屋から出てきた。 どうしてあの男が自分を探しているのだろうか。 それに高妃を探さねばならない。

「この家のどこにもいないのか」

「・・・はい」

「外を探しに行け」

「あ、あの、先ほどの男は・・・」

呉甚が口を歪める。 何かあったのだろうか、柴咲が来ることなくあの男がここに来るなどと。 それにこの家にいると確信があった様子ではない。 どういうことだ。

「外に出た時それとなく訊け」

いつまで経ってもきな臭い。 自分が外に出ればろくでもないことがありそうな気がする。
頷いた女が戸を開けて外に出た。 辺りを見回すが高妃の姿はない。 その代わりに隣の家から肩を落として出てきたあの男が居た。

「もし・・・」

男が振り返る。

「お探しのお方は見つかりましたか?」

武官達が様子を伺っている。
男が首を振る。

「かなりお疲れのようですが?」

「・・・もう何日も探しております」

「まぁ、それはそれは。 どのような御用で?」

「・・・え?」

「これから私も人探しに出ます。 呉甚という名ですね? もし出会いましたら言伝いたしますが?」

「あ、ああ。 そういうことですか。 ご丁寧に。 ですがその、結構です。 あと少し探せば終わりにしますので」

「どちらかにお泊りですか?」

「え? はい “蜥蜴(とかげ)の尾” と言う食処の上の宿に」

女がニコリと笑って踵を返しそのまま高妃を探しに出た。
一人の武官があとを尾行(つ)ける。
女の後ろを尾行けていたが怪しい様子は見られない。 あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロしては場所を移動しているだけではあるが、誰かを探しているのは一目瞭然であった。

男が最後の家の戸を叩いた。

「ここに呉甚という者はおられませんか」

首をふられてしまった。
瑠路居には居なかったのだろうか。 ガックリと膝を折った。
そこに民に変装した武官がやって来た。 顔は覚えている、いくら変装していてもこの男は武官だ。

「苦労だった。 だが暫くは宿にいてもらう」

「・・・え?」

「すぐ宿に戻れ」

変装した武官が腕を引っ張って男を立たせてやる。

「兄さん、大丈夫かい」

白々しく言うと男の衣をはたいてやる。

「気を付けて帰んな」

更に白々しく言うとその場から去って行く。
男がトボトボと ”蜥蜴の尾“ に向かって歩き始めた。

女が応対に出た時、後ろを振り返ったのが見えた。 それに後から接触してきて男の宿先を聞いていた。 何かあるのかもしれない。 男を撒き餌にする。

女が夕刻になってようやく戻ってきた。 尾行けていた武官がここまでは何の疑いも無いと判断した。

「いたか?」

女が首を振る。
呉甚が大きく舌打ちをする。 自分が探しに出られない事に苛立ちを覚える。

(あの男を使うか・・・)

「訪ねてきた男は」

「”蜥蜴の尾” の上の宿に泊まっていると」

「用件を聞いてあの男にも高妃を探させろ」

あの衣だ、顔を知らなくとも衣を探せばいい。

「すぐに行け」

クタクタになった女が家を出て ”蜥蜴の尾” に向かう。 その後を一人の武官が尾行ける。 もう一人はこの場に残った。
男が宿泊している部屋の隣にも武官が待機している。 安宿だ、壁の一枚が薄い。

襖の向こうから声がかかるのが聞こえた。

「あの・・・昼間お声をかけさせていただいた者ですが」

疲れた体を横たえていた男がだるそうに起き上がった。

「どうぞ」

襖がすっと開き昼間見た女が顔を出した。 部屋の中を見ると男一人だけであった。 その男が座卓の前に座っている。
座卓には食べた後の皿と麦酒が入っていただろう杯が置かれている。
襖を閉めると女が男の横に座り声を殺すように言う。

「呉甚に何用ですか」

「え?」

「呉甚からの言伝です。 何用かを訊き高妃様をお探しするようにと」

「おっ! 居られるのですか! どこに!?」

「声が大きい御座います」

「あ・・・」

「何用で?」

「ああ、その。 科人の疑いとされ柴咲の似面絵が出回って動きが取れないと・・・」

六七八都には決起に動くようにとは言ったが、受け入れの一三都に伝えることが出来なかった。 自分が二都で七都を受け入れなければいけなかったが、柴咲に代わって呉甚に一三都の受け入れを頼もうと奔走していて日が過ぎてしまったということを話した。

「え・・・では決起は?」

「今回は失敗に終わった」

「科人の疑いとは?」

「分からない。 今は俺の家にいる。 似面絵があっちこっちに貼ってあって全く動きが取れない」

すでに柴咲は捕まっているがこの男はその事を知らない。

「失敗に終わったのに呉甚を探していると?」

武官に言われたとは言えない。 何か理由は無いか・・・。

「あ、その・・・。 柴咲のことを伝えようと。 全く動けないのだから」

「ああ、そういうことで・・・」

「それより呉甚はどこに?」

「居場所を教えていいとは聞いていませんので。 それより高妃様をお探ししてください」

「お会いなどしたことが無い」

「衣を見れば一目で分かります。 民では無い衣を着ております」

女が立ち上がると部屋を出て行った。
壁に耳を当て全てを聞いていた武官。 所々聞こえない所はあったが充分だ。 決起のことを言っていた。
女が出た後にすぐに武官も部屋を出る。 女を尾行けていた武官にいま聞いたことを伝えると部屋に戻って行った。 聞いた武官が女のあとを尾行ける。
女が足早に家に向かっている。
尾行けていた武官が途中で三人の武官に合図を送った。 三人の武官が尾行けていた武官の後ろを歩く。 家の近くまで来ると家を見張っていた武官に合図を送る。 合計五人の武官。

女が戸を開けた。 その戸を後ろから大きく開けられると大きな影が目の前を通った。

「ひっ!」 と言った途端、片腕を取られていた。

どかどかと四人の武官が家の中に入って行く。
女はあの男が呉甚を探していると知ってすぐに家を出ていた。 ずっと誰かを探していたようだったが、誰かと接触し話している様子は無かった。
それなのに男に指示を出していたし、呉甚の居場所を教えていいとは聞いていないと言っていた。
そんな話を出来たのはここだけ。

「な、なにを!」

女の声に奥の部屋から呉甚が出てきた。

「なにを大きな声・・・」

「呉甚!」

武官達は呉甚の顔を知っている。 問答無用に捕らえる。

「な、何をする!」

「謀反の疑いにて捕縛する」

縄にかけている間、他に誰かいないかと家の中を見て回った。 不思議な作りの家だった。 半地下があった。 そこには四角く切り取られた明り取りの窓があるだけだった。

「他にはいないようだ」

全員が頷く。
一人が ”蜥蜴の尾” に向かい、もう一人が馬車の用意に走る。

「う! 疑いくらいで! 縄にするのか!!」

「証人が待っている」

「・・・証、人?」


六都に戻ってきた紫揺と杠。 既に二人の噂は武官の間で広まっている。
杠が六都武官長四人を前に全ての報告を終わらせた。

「苦労であった」

たとえ杠がマツリ付だと言っても武官長より立場は下だ。

「自警の群はいかがでしたでしょうか」

「うむ、杠官吏の言ったように何事もなく、と言うか、かなりのゴロツキを捕まえてくれた。 マツリ様に戻って頂き、すぐにでも咎の言い渡しをしていただかねばならん」

ゴロツキ。 一日二日放り込んで放免にすればいいが、今のマツリのやり方はそうでない。

「承知いたしました。 今回のご報告を兼ねて宮都に戻りたいと思います」

「あ、いや・・・」

「なにか?」

「紫さまはどうされる?」

「ええ、ご一緒に」

いくら百足が見張ってくれていると言えど、置いていくわけにはいかない。

「その、掌に怪我をされたと聞いたが。 治られたようか?」

「まだで御座いますが、あれくらいなんとも御座いませんしょう」

「あれくらいでは困る。 この六都からお帰しするに当たり、ほんの少しのお怪我でも困る」

「ですが紫さまを置いて私が戻るわけにもいきませんし・・・。 あ? 武官殿が紫さまに付いて下さるのでしょうか?」

六都武官長四人が音がしそうなほど首を振った。 現に朱い皮鎧を着た朱翼軍武官長が首をゴキッと言わせ「あぅ」と思わず声を上げている。

そうか・・・だいたいの想像はつく。 紫揺の様子を武官から聞いたのだろう。
武官長四人が文官に押し付けてはどうか? などと杠を無視して円陣を組みだした。
ゴホン、と杠が白々しい咳払いをすると、四人の武官長が突き合わせていた頭を上げ、慌ててそれぞれの席に戻り武官長らしくふんぞり返る。

「文官殿からは何度か泣きつかれましたのでご無理かと」

だろーな、武官ですらあのザマだったのだから。 紫揺の川遊びの話を聞いた、散々だったと聞かされた。

「あー、では報告としては既に早馬が出ている。 それでいいのではないか?」

四人が四人ともニッコリと笑って小首をかしげているのが不気味だ。
だがよく考えると、あれくらいの傷マツリなら何ともないと言うが、女官たちは見過ごすことが出来ないだろう。 それに協力させたのは己だ。 仕方がない。

「ではそのように」

四人が四人とも鷹揚に頷く。 さっきの不気味ニッコリ首傾げはどこにいった。

「で? 今、紫さまは?」

「手に刺さった棘は抜きましたが、すった跡がまだ残っておりますので、あちらで武官殿に薬草を塗って頂いております」

そう言えば戸の向こうからキャッキャ、キャッキャと先程から野太い声が聞こえている。

(あやつら、あれほど言っておったのに紫さまと楽しんでいるというのか?)

四人が四人とも眉間に皺を寄せた。


早馬の文に、六都の者全員捕らえたと書かれていた。

「さて、次はこっちか」

数刻前、呉甚が馬車で運ばれてきていた。 喚いていたのでしばらく喚かせることにしていたがそろそろ疲れただろう。
將基が部屋から呼び出された。
將基を含む武官文官三十五人が民の衣を着て呉甚の前に立った。 これで何かあった時、將基に害が及ばない。
工部に居てはこんなことは知らない。 これが刑部にいたのならこの方法も知っていただろうが。
「え? え?」 と何が何だか分からない様子を見せていた呉甚、三十五人の顔など覚える間もなかっただろう。

暫しの時を置くと「どうだ」と武官が訊ねる。 一人づつが頷いてみせる。 二十九人目で將基が頷いた。 それを見た残りの六人も頷く。 そしてぞろぞろと三十五人が出て行った。

「いったいどういうこと、で」

訳が分からず付いていた武官に問うが武官からの返事は無かった。

將基が一室に入れられた。 そこには四方、マツリ、四翼軍武官長、刑部長、刑部の文官五人が居た。
勧められた椅子に座ると刑部長が訊ねる。

「どうだった?」

誰が誰なのかは分からないが、あまりの面子にゴクリと唾を飲んでから答える。

「間違いないです。 あの男です」

刑部長が頷く。

「安心するといい、お前の顔は覚えていない。 お前の証言が一番ではないが、見張っていた武官もそれなりの事を聞いた。 呉甚に問えるほどのことではないがな」

將基が頷く。

「では、あと少し。 こちらの文官に出来るだけ詳しいことを話すよう、それで顔を知られないために証言台に立つ必要はなくなる」

場所を移そうと文官二人が立ち上がる。

「將基、長い間、苦労であった。 金河と共にここに居た間の賃は出るように申しておる。 今日はもう遅い、文官との話が終わり明日朝一番に二人とも馬車で送り届ける」

將基が頭を下げ文官と出て行く。

「さて、あとは刑部の腕の見せ所だが?」

とっとと各都に散らばっている者たちを捕らえなくてはいけない。

「お任せください。 武官を何人かお借り出来ますか?」

「何人でも」

武官で一番の長にあたる四翼軍武官長が答える。

「なんならわしが」

「父上」

すかさずマツリが四方を窘める。 ずっと仕事をしていなかった、ただ待つということだけだった。 完全に退屈になってきているのだろう。 カジャで走り出すと言ったほどだ。
刑部長が半笑いで刑部文官を連れて部屋を出て行った。

「六都の者は全て捕らえた」

四翼軍武官長が頷く。

「あとは刑部がどういう吐かせ方をするかだが、まずは今の態勢をすぐに解除」

宮都との境に立たせている武官たちのことである。 呉甚を捕らえた、もうその必要はない。

「マツリ、六都に何人か戻すか?」

「・・・戻して頂けるのは嬉しいのですが、詳しいことは六都の様子を見なければ何とも」

「杠が報告に来んな」

「杠なら来るはずですけど・・・今日一日、待ってみます。 それでも来なければ六都に飛んでみます」

何かあったのかもしれない。

「では六都の応援は杠官吏次第ということで、各都に応援に行っている武官を一旦、宮都に元に戻しても宜しいでしょうか?」

「そうだな、報告からすると暴動も起きんだろう」

一都と二都で受け入れ側が現れず、七都と八都の者が右往左往していたと聞いている。
四翼軍武官長が立ち上がった。
武官長が部屋を出て行くと、つまらなそうな四方の声が聞こえた。

「呆気なかったか」

「何事もなく良かったでは御座いませんか」

「呉甚・・・駄々をこねんかのぉ・・・」

完全に四方ではなく死法として吐かそうとしている。 それほどに退屈だったのか。
胡乱な目を送りながらマツリが口を開く。

「柴咲はどう致しましょう」

「柴咲のことも刑部が呉甚に吐かせるだろう、それまで待たせるとよい。 なんならわしが―――」

「ではあとは刑部と武官ということで宜しいですか?」

最後まで言わせない。
マツリを横目で見た四方がつまらなそうに頷いた。


武官達とキャッキャ、キャッキャと話している時に面白い話を聞いた。

「ね、杠、そこの場所知ってる?」

さすがの杠も知らなかったが、武官が説明しながら地図を描いていくと大体の位置が分かった。

「今から行って戻って来られる?」

「いやぁー、それは厳しいでしょう」

杠に代わって武官が答えたが武官と違うことを杠が言った。

「紫さまでしたら少々無理をしますと行けますでしょう」

地下から戻ってくるときに、紫揺がどんな風に馬を乗っているのかの話も杠にしていた。

「おわっ! 杠官吏! なんてことを!」

「じゃ、行く」

「い! いけません! まだ掌のお傷も治っていらっしゃらないというのに、早駆けの手綱など持たないで下さい!」

って、早駆けが出来るのか? まず馬に乗れるのか?
三都から六都に戻ってきた時には、杠と二人乗りをして馬車に合わせてゆっくりと戻って来ていた。

「・・・退屈だし」

「退屈って・・・戻って来てまだいくらも経っていません」

「ああそうでした。 掌のお傷の具合はどうでしょう? 武官長がお気にされていましたが」

宿に戻ってすぐに刺さっている棘を抜き、宿の者に薬草を塗ってもらってはいたが。

「完全に治られるには数日かかるかと。 大人しくしていて」

なにか付け加えられた。

「しゆ・・・紫さま、その掌のお傷が治るまで宮には戻してもらえそうにありません」

「え?」

「それにあの女官たちがまた泣くでしょう?」

“最高か” と “庭の世話か” 紫揺からしたらちょっとのことでもワァ―ワァ―泣いてしまう。

「うう・・・」

いったいどうしたのかと問い詰められるに違いないし、一緒に湯殿に入ってくるだろう。 そしてずっと泣かれる。

「これくらい何ともないのになぁ・・・」

「シキ様もお方様もご心配されます」

それを言われたら痛い。

「うーん、じゃ何しようかなぁ」

「取り敢えず、昼餉を食べに行きませんか?」

そう言われればお腹が減っている。

「うん」

見事な紫さま捌(さば)きだ、と武官たちが感心した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第173回

2023年06月09日 21時19分24秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第173回



「武官殿は持ち場に戻って下さい。 暗くなりましたら気を付けてこの辺りまで出てきて下さい」

残り一人を捕らえるだけ。 四人と五人で挟み撃ち。 暗がりとはいえじっとしてさえいれば岩から体がはみ出していても気付かないだろう。
武官達が持ち場に戻っていった。 ほどなく一人がともした灯りをもって川岸に置いた。

二人で川の方に歩いて行く。

「サワガニ寝てるかな?」

「そうだな、起こしてしまうな」

「あ、そうだ干し肉」

ごそごそと懐を探ると食べ残していた干し肉を出してきた。

「なんだ? 全部食べなかったのか?」

「うん、あんまり得意じゃないみたい」

杠が顔だけで笑った。 それはそうだろう、こんな物は武官しか食べないだろう。
川の水でふやかすとサワガニ探しを始める。

「ね、どうしてもっと近くに来てから捕らえる理由を言えばって言わないの?」

拳大の石をめくる。

「ああいうところは口を出すところではないからな。 それで逃げられれば進言はしただろうがな。 まっ、紫揺が教えてくれなければ一人捕り逃すところだったが、あれは直接その事とは関係が無いからな」

「ふーん、そうなんだ」

「紫揺だって自分がやってきていたやり方に口を出されれば、いい気はしないだろう?」

「まぁ・・・ね。 そっか、そんなことも考えなくちゃいけないのか。 杠、えらいね」

えらいねと言われ、口角を上げてくすくすと笑いながら石をめくる。

「紫揺、いたぞ」

覗き込むとサワガニがいる。

「干し肉食べるかなぁ」

サワガニが寝ている所を起こされて怒ったように、ハサミを動かしていたが、干し肉の臭いに気付いたのだろうか、ハサミで干し肉をつかむと器用に食べだした。

「わっ、食べた食べた!」

喜んではいるが声は抑えている。

「良かったな」

紫揺の頭を撫でてやる。
ふと思い出した。 サワガニを見ていた顔を上げた紫揺が、手を伸ばし杠の頭を撫でる。

「ヨシヨシするって言ったから。 杠って不思議なくらい分かってくれる」

「そうか?」

「うん。 絶対に、一、二回は失敗すると思ってたのに」

「オレもよく木に上るからかな?」

「じゃ、マツリじゃ無理だってことね」

相好を崩してもう一度紫揺の頭を撫でてやる。

「きっとすぐに戻ってこられる」

「べつに待ってるわけじゃないから」

そうか、とだけ言っておく。
紫揺はマツリのこととなると素直ではなくなる。 滅多に会えないのだ、素直になってマツリと時を楽しんでほしい。 ・・・だが素直でないそれも愛しい。
辺りが段々と暗くなり始めた。
杠が腰を上げる。

「あの岩陰に隠れている」

杠の体だとスッポリと入る。 武官たちも近くまでやって来ている。
灯りを紫揺に渡すと岩陰に向かって歩いて行った。 残された紫揺が少し場所を移動して飾り石を手に取った。 周りにはまだまだ大小の飾り石が散らばっている。
しゃがむと飾り石ではなく川石を積み上げて遊びだした。 三基四基と積み上げてからふと気づいた。

「ん? これって・・・賽(さい)の河原の図?」

わわわ、と言って積み上げたものを崩す。 今度はまるで賽の河原の鬼になった気分だ。

「わぁー、暗がりに一人。 ろくでもない事しか考えられなくなった・・・。 最後の一人、早く来てよー」

まだかな、と思って川下に目を移すと近づいてくる灯りが見える。
来た。
わざと灯りを持ち上げて動かしてみる。 紫揺の動きに杠ならずとも武官たちも身体に緊張が走る。

「んー、どうしようかな」

人を緊張させておいて作戦は立てていなかったようだ。
灯りが段々と近づいてきた。 大きな火だ。

(松明(たいまつ) か・・・)

紫揺の持つ灯りは角灯である。
角灯を置くとしゃがんで飾り石を手に取り、まるで検分しているかのような姿をとる。
松明の灯りに紫揺の影が揺れた。
まるでびっくりしたように松明を仰ぐ。
男も驚いた顔をしていた。 だが男は本当に驚いているのだろう。

「ぼ・・・坊?」

紫揺が眉を寄せる。 どいつもこいつも “坊” と言う。 一人くらい女の子? と言えないのだろうか。 いやいや、お姉さんと言えないのだろうか。

「わ、びっくりした。 驚かせないでよ。 武官かと思った」

手に持っていた飾り石を放り投げると違う飾り石を手に取る。

「あ? え? 三都の福喜(ふくき)の代わりに居るのか?」

床下で聞いていた男の声の一人だ。

「福喜? 誰それ?」

杠に聞こえるように言う。 福喜の名前に乗って話を作ろうかとも思ったが、知らないことを突かれると答えに窮する。 だから別の道をとる。

「飾り石を取りに来たの。 おじさんも取りに来たんでしょ?」

まだ声変りが始まっていないのか、掠れることもなく高い声で話す坊。

「え?」

「簡単に取っちゃいけないよ? ちゃんと良いものと悪いものを見分けなくっちゃ」

「あ、いや・・・。 坊の他にここに誰か来なかったか?」

つられて飾り石を手にしなかったか・・・。

「誰も来てないけど?」

「坊はいつからここに居る?」

「ついさっき来たところ」

ということは、まだこの先なのだろうか。 ここまで来て福喜の姿は見なかった。 この先で三都の福喜が待っているのだろうか。

「おじさん? 飾り石を取りに来たんじゃないの?」

「え? あ?」

手に取ってもらわなくては困る。 紫揺が胡乱な視線を男に送る。

「もっと質の良い大玉を狙ってるの? それなら許せないんだけど?」

この坊は何を言っているのか? とにかくこの先に足を運びたい。

「狙っているも何も、この先を歩くだけだから」

「だから狙ってるんでしょ!?」

杠も武官もジリジリとしている。

「行かせないよ、この先には」

持っていた飾り石を男の足元に投げた。

「坊、何か勘違いをしている」

男がしゃがんだ。

「ほら、これを持ってお帰り」

紫揺が投げた飾り石を手に取った。
紫揺の口の端が上がり、次の瞬間には身を翻(ひるがえ)していた。


今日も一日、一軒一軒歩き回った。
「ここに呉甚という者はおられませんか?」 と。
今日も何を言っているのかという目を向けられただけだった。
男が棒になった足を投げ出して座り込んだ。 男の目の端に武官の長靴が映る。

「今日はこれでいい。 明日・・・明日の昼前には瑠路居の範囲が終わる」

男が弱弱し気に足と共に垂れていた顔を上げる。

「それで居なければ、お前が騙されていたということ」

騙されていた? どういうことだ? そんな筈はない。
騙す以前のことだ。
呉甚と柴咲が話していたことを聞いただけなのだから。

『瑠路居の場所を移さなくてもいいか? 宮都では隠しきれないかもしれん』

『・・・移さなくてもいいだろう。 高妃は大人しくしている、言われるがままだ。 高妃を宮の近くに置く方がいい。 その方が動きやすい』

瑠路居、間違えなく聞いた。 宮の近くにと。 瑠路居は宮の近くにある。 騙されているわけではない。
情状、それをしてもらわなければ・・・。
男が上げていた顔を落とした。 もうクタクタだ。


星が綺麗に瞬いている。

「きれ、い・・・」

今日も綺麗。
あの空が。
毎日同じ。 何も変わらない。 それを不思議に思ったことは無かった。
外に出られる、そんな言葉が耳に入っていた。

「お、そと」

四角の窓に見える空をもっと見たくなった。 窓の外の空だけは色とりどりに、形も変えていた。
空にかかる星、月、雲。 星も月も綺麗だった。 だが雲は空を変えていた。 星や月を隠したり陽も弄んでいた。
もっと見たい。
虚ろな瞳のまま立ち上がった。


やっと百二十七人目を捕らえることが出来た。
紫揺が身を翻したあと男はポカンと立っていた。 その手に飾り石をもって。
その男が二人の武官によって、馬車に揺られ三都官別所に運ばれていく。

「紫さま、お疲れ様で御座いました」

武官たちが居る。 紫揺とは言えない。 と、杠は思っているが、さんざん紫揺と言っていた、ダダ洩れである。 まぁ、武官たちは暗号と思っているようだが。

「お疲れっていうより・・・お腹空いた」

杠が満面の笑みを作る。 紫揺らしい。 そう思った途端タガが外れる。

「三都は粉ものが美味しいらしい。 行くか?」

「うん」

残っていた武官が首を捻じる。
どう考えても、御内儀様との会話と思えない。

「武官殿」

杠に声をかけられて武官たちがハッと身を正す。

「紫さまを夕餉にご案内いたします。 武官殿みなさまは予定通りでお願い致します」

武官達がカンと踵を合わせる。
百二十七名を一旦は三都官別所に収容したが、六都まで連れ帰らなければならない。

この夜、第一陣の武官たちは三都武官所に泊まりとなった。 三都官別所にあまりにも預ける人数が多すぎるので、六都の武官たちが交代で見張りをすることになっている。 その合間に飯も食べる。
そして明日早朝になれば十台の馬車に捕らえた者を押し込み、十人の御者台に乗る武官と、徒歩の三十人で見張りをする武官が列をなして三都から六都の中を歩く。
第二陣はあらかたな報告を兼ね、馬を駆り既に六都に向かっている。
遠くに繋いでいた馬を武官が連れてきた。

「有難うございます。 では明日早朝、三都官別所に行きますので」

「はい、お待ちしております。 あの、これをどうぞ。 三都の武官がこちらにお宿をお取りしておりますので」

手渡された料紙にはあらかたの地図と宿の名前が書かれてあった。 単なるマツリ付の杠だけならこんなことはしない。 紫揺がいるからだ。 ちゃんと二部屋取ってあると書かれている。

「お世話をお掛け致します」

既に紫揺は馬に跨っていた。

宿の近くの食処に行きお好み焼きのようなものを食べた。 ソースがとんかつソースでないのが残念だったが。
だがお菓子にしてもそうだし膳に出されるものもそうだが、つくづく、この本領の食べ物は日本と似ていると思った。

紫揺と杠が食処で楽しい時間を過ごしている間に、武官たちの間では紫揺と杠の噂話で持ちきりだった。

「いや、武官じゃねーんだぜ? なのに杠官吏、がっちり関節を固めてたんだ。 あれじゃ身動きできねー」
「杠官吏と紫さまの関係、誰か訊いたのか?」
「お前見てなかったろ? 紫さまがあの木から跳び下りたんだぜ」
「え! うっそ!!」
「いやー、それよりあの上り方。 あれ一体どうなってんだ?」
「そーいや、地下って言ってたよな」

あちこちで囁かれていたどころか、大音声で噂をされていた。


夜中、馬を駆って六都に戻ってきた第二陣。 厩に馬を戻すと報告をするに武官所に足を向けると四色の皮衣を着た六都武官長が待っていた。

「では一人も捕らえ損ねることなく百二十七名全員捕らえたのだな」

「はいっ! 詳しいご報告は明日、杠官吏から」

「承知した」

「では我々も解散としようか」

「そうだな」

「・・・あの」

「なんだ?」

「紫さまが戻って来られる前に、お耳にお入れしておいた方が宜しいかと」

「何だ」

そして紫揺の協力を話し出した。 すんなり話すのではなく、杠と紫揺のコラボから紫揺の木登りまで。 そしてそれが大いに役立ったと。
戸に耳をあてて聞いていた他の武官がノックをし、武官長の部屋に足を入れると「それだけでは御座いません」と入ってきて、木から跳び下りたことから始まって、最後の一人に上手く飾り石を持たせたこと、そして掌を怪我していたようだと話した。
武官長四人が馬鹿みたいに口を開いたままだった。 もちろん紫揺のあれやこれやに。

「ということで情けないことですが、今回、紫さまがいらっしゃらなければ成功したかどうかは分かりません」

武官長たちの口が閉まった。

「・・・お前ら、武官として恥ずかしくないのか」

「矜持を捨ててでも、事実を申し上げております」

「武官たるもの木にも上れんのか」

「ことごとく枝が折れまして」

「身を縮こませれば岩に隠れられるだろう!」

「どれだけ小さくなっても全員はみ出しまして」

一人も逃がしたくないと考えたところから巨躯の者たちを厳選した。 それが裏目に出たということか。

「バッ、バカヤローがっ! 痩せろ!!」

大男の武官長に言われても説得力を感じない。

「それになんだそれは、武官たるもの破れた武官衣を着ているなどとだらしがない! そんな武官衣で三都に行ったのか!」

「あ、いえこれは・・・」

紫揺の河原での武勇伝を、耳をかっぽじらせて聞かせてあげた。 紫揺の動きは奇行ではなく、武勇伝として成り立った。


朝になり、三都官別所に向かった杠と紫揺。 捕らえた全員を馬車に入れると武官達に見張られながらゆっくりと馬車が動いた。
杠と紫揺は三都武官長に挨拶を済ませてから武官所をあとにした。

「あの坊みたいなのが紫さま・・・」

まだ早朝である、交代は来ていない。 夜番であった群青色の皮鎧を着た武官長、三都青翼軍武官長と数人の武官しかいなかった。

「信じらせませんね。 あの噂も」

「だが本当らしい。 手に手巾を巻いておられた」

六都の武官たちがしていた噂は既に三都武官長まで届いていた。


夕べ武官舎に木箱のような馬車で運ばれてきた柴咲。 結局逃げる隙など無かった。

『文官殿はみなもう帰られた。 ここで明日まで待っているよう』

入れられた部屋は武官の仮眠室。 戸の前と窓の外には武官が立っている。

(やはりおかしい。 無断欠仕だけでどうして・・・)

頭を過るのはあの似面絵に書かれていた文言。 そして自分がしようとしていたこと。
朝になり交代の武官たちがやってきた声がした。
その内に始業の太鼓も聞こえてきた。 それなのにまだこの部屋から出す様子が無い。
戸の内側からノックをする。

「武官殿、まだで御座いますか」

「今、朝餉の用意をしています。 しばらくお待ちください」

戸の向こうから返って来た返事はこれだけだった。
暫くすると朝餉の膳を手に持った武官が入ってきたが無言で出て行った。
武官の様子をじっと見ていたが、何かを訊いてもまともに答えないだろうことは目に見えていた。 だがいつまでもこうしているつもりはない。 膳を下げに来た武官に口を開いた。

「工部長に申し開きをさせていただきたいのだが」

「今日は欠仕となっておられるようです。 明日までお待ちください」

嘘だ。 何のために時間稼ぎをする。

「では次長に」

「それでお気が済まれるのなら、こちらにお呼びいたしますが、明日、工部長にお会いされるまでは、こちらから出て頂くわけにはいきません。 如何されますか」

柴咲が唇をわななかせる。

「結構! それでは結構です! 明日まで待ちます!」

膳をもって武官が出て行った。
戸を閉めた途端、戸に何かが当たる音がした。 きっと枕でも投げたのだろう。 戸の外に立つ武官と目を合わせ口だけで笑った。


「ここに呉甚という者はおられませんか?」

今日ここで何軒目だろう。


「高妃様、朝餉が遅くなり申し訳・・・」

部屋に高妃がいない。
部屋の中に隠れるところなどないが、まず高妃が隠れるなどということをすることは無い。
卓の上に朝餉の盆を置くと部屋を出て声を出して探し回った。

「高妃様! どちらに居られますか!? 高妃様!!」

「何を騒いでいる」

「高妃様が! 高妃様がお房におられません!」

呉甚の目が吊り上がる。

「どういうことだ!」

「夕べ、お眠りになる時には居られました。 いつものようにお伽噺をお聞きになりながらお眠りになって・・・」

「鍵をかけていなかったのか!?」

一度、高妃が部屋を抜け出てからは鍵をかけるようにと言っていた。

「あ・・・それは」

「かけなかったのか!?」

「高妃様が鍵をかける音を嫌がられて・・・その代わりに、お房を出ないと約束して下さって・・・」

「約束などとっ―――」

叫びかけた時、玄関の戸を叩かれる音がした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第172回

2023年06月05日 21時06分57秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第172回



「真上に上げるのではいけないのかですか?」

武官達が話しているのを聞いて、ついうっかりいつものように話していたことに気付いて言葉を直す。

「真上はあんまり得意でないから」

握力がないのは自分でよくわかっている。 真上にあげられてしまうと枝を持った途端、自分の体重と下に落ちていく落下の重さも加わり、到底自分の握力では枝をつかんではいられなくなる。 それなら斜めに上げてもらって、その推力で体を振り真下へかかる重さをなくす。

「あの一番下の枝をつかめるくらいの高さにあげて」

「承知しました」

紫揺が立っていた位置に杠が立つ。 そっくり返ってもう一度枝の位置を確認し、組んだ手を振り上げる。 角度の確認。
紫揺が杠から離れていく。

「なにすんだ?」

「わかんねー」

ぼそぼそと言っている武官たちを完全無視してスタート位置を決めた。

「じゃ、行くよ」

杠がしっかりと指を絡ませ腰を落とす。

「おっ、杠官吏のあんな姿って見ねーな」

「様になってんじゃん」

紫揺が地を蹴り走った。 片足で踏み切ると杠の両手にもう一方の片足を乗せる。 杠が首を反らせ枝を見ながら紫揺の足を押し上げる。 紫揺の身体が宙に浮く。

「ゲッ!」
「ギャッ!!」
「何を―――!!」

思ってもみなかった展開に武官たちが騒ぎまくる。

紫揺の足の感触がなくなった途端身体を捻って紫揺の姿を追う。

しっかりと枝をつかみ、斜めから入った身体をそのまま前に揺らせスイングを出すと、蹴上がりから撥ね上げると枝の上に立った。 一連の流れが水の流れのように静かに止まることなく行われた。

「え・・・うそ」
「ああ?」
「なっ、何がどうなった!?」

「さすが杠。 あとで頭ヨシヨシしてあげる」

「怪我はないか? 掌は?」

掌を開いてみて少し眉をしかめる。

「まっ、こんなのは怪我の内に入らない」

武官達がぶっ倒れそうになる。

「あとで見せるんだぞ」

そーじゃないだろー!! 誰もが心の中で叫ぶ。

「もうちょっと上に登ってもいい? ここじゃ丸見えでしょ?」

「気をつけるんだぞ」

違うー!! そこでいいから大人しくさせろー!! これ以上傷を増やさせるなーーー!! 言いたいけど言えない。 もし叫んで紫揺がビックリして落ちてきたりでもしたら・・・。 いや、そうなれば受け止めるけど、いやいや、そんな問題じゃないし・・・。 武官たちの頭の中がパニック寸前になってきた。
ハラハラする中、紫揺がかなり高い枝まで上った。 持たされた笛は落とすことなく懐から取り出し手に持っている。

『川下から民が歩いてくる。 民の流れが切れたら、この笛を吹くように』

そしてどうやって捕まえるのかの説明もされた。
紫揺なら単に笛を吹くのではなく、民の様子を暫く見るだろうと考えてのことであった。
一度吹いてみると、ピィーとひな鳥の鳴き声のような音だったが、よく通る音は風に乗ってどこまでも響いていく。

再々、杠に言われ、後ろ髪を引かれる思いで紫揺を残し持ち場に散った武官達。 もちろん杠も持ち場に居るが、武官たちのように紫揺の心配はしていない。

紫揺が退屈をし始めた時、川下に人影が見えた。 まだ距離はある。
あと五分ほどで紫揺の下に来るという時に、ピィ、ピィっと短く二回吹いた。 これは紫揺が言い出したものだった。

『ずっと隠れてるの疲れるでしょ? 適当なところに来たら笛で合図するから』と。

「あと二分(にぶ:六分)」

誰もが口の中で言うと、その身を隠す。
そして紫揺の足の下を八人の民が過ぎていく。 川下を見ればそれに続く民はいない。
いくらか歩いて行くうちに民たちが飾り石に気付いたようだ。

「おい、これって」

「ああ、間違いない」

既に手に取っている者が陽の光にあてながら言う。
全員が目の前に転がっている陽の光に当たり光り輝く石を手にした。 二つ三つと、いくつも手に取り懐に入れている。
ピィーっと鳥のさえずりが聞こえた。 珍しい鳥の声だと一人の男が顔を上げる。
陰から様子を見ていた武官たちが一斉に躍り出た、が、誰一人気付いていない。

「石の窃取及び立入禁止領域に入ったことにより捕らえる!」

気付いてもらえなかった武官が大声で叫んだ。 大声で叫ばなくては、しっかりと聞こえない距離にいるからだ。 言った台詞は力強いが距離があり過ぎるのがイタダケナイ。 身を隠す岩もなければ何もない。 川岸からかなり離れた所から出てきたというわけだった。

八人の男たちが石を放り出して来た道に逃げ出したが、そちらからも武官が出てきた。
捕縛した男達をすぐに馬車の元に歩かせ、馬車が三都官別所に向かった。
イタダケナイ登場だったが、あまりの手際の良さに木の上で驚いた。

「わぁー、川遊びは下手くそなのにサスガ」

武官は小指の先も遊んではいない。

「あと百十九人か・・・。 辛気臭いなぁー、百人くらいで来てくれないかな」

そうなれば武官の一生不眠不休労役は決定だろう。


昼を過ぎたというのに、男はまだ帰って来ていない。

「いったいどうなってるんだ!」

苛々しながら部屋の中を檻の中の熊のように右に左に歩く。
あの男から呉甚に話がいき、呉甚が動いてくれていればそれでいい話。 だがあの男が戻って来ていないということは、この二都での七都の者たちの受け入れが出来ていないのではなかろうか。
それとも遅くなったから受け入れ場所に直行しているのか。 馬に乗れないと言っていた、馬車での移動なら時もかかる。
だが何を思おうとも落ち着かない。 自分の目で耳で確かめないと。

十八年かけてゆっくりゆっくりと集めてきた仲間。 いや、仲間と言える者たちではない。 切って捨てることもできる。 利用するだけ。
宮に押し入り好きなように暴れてくれるだけでいいのだから。

ドンドンドンとまた戸を叩く音がした。
ビクッと身体が撥ね上がる。

(いったい誰だ! こんな時に!)

吐き捨てるように心の中で言うが、自分の似面絵が貼られているのだ。 武官に探されていることくらい分かっている。 だがこの家に入るのは誰にも見られてはいないはず。

ドンドンドン。
ドンドンドン。

まるで恐ろしいものが近寄ってくるような音。 背筋に汗が流れる。

「各家確認終えました」

外から声が聞こえる。

「ここだけということか」

「はい、家主には了解済みです」

鍵をみせるとカチャカチャと鍵を開け始める。

そう言えば男が言っていた。 ここは借家だと・・・。

ガラリと戸を開ける音。
もう・・・逃げられない。 いや、一つある・・・。

入ってきた武官が目の前に立つと一瞬ビックリした顔をした。 似面絵と瓜二つ。 一目で分かる。

「柴咲だな」

「そ・・・そうだ」

「宮都まで来てもらおう」

宮都・・・どういうことだ。 だがまだ逃げ切れる。

「に、似面絵が貼ってあった。 科人の疑い、だろう。 う、疑いで連れて行くのか」

「宮都から無断欠仕の報告が来ている」

「・・・え?」

「文官舎で心配をしているそうだ」

どいうことだ。 決起のことがバレたのではないのか。

「科人の疑いというのは?」

「さぁ、そこまで我らは聞いておらん」

無断欠仕のことを言った時、科人の疑いのことを訊かれれば知らぬ存ぜぬを通せと言われる。

「う・・・嘘だ・・・」

納得出来るものではない。 似面絵まで貼っておいて。

「嘘? 何をもってそう言うのか?」

いや・・・嘘でもいい。 このままここで暴れて逃げられるはずがない。 咎人ではない。 縄はかけられないはず、隙を窺って逃げればいいだけ。

「い、いや。 では、文官舎に行けばいいんだな」

「ああ、そうだ。 我らが送り届ける」

やはり何かある。

「今すぐ行ってもらおう」

武官が軽く柴咲の背中を押す。 外に出ると既に木箱のような馬車が停まっていた。


「二都で柴咲が捕まった。 今こちらに向かっておる」

「二都の位置から言うと七都の者たちが流れているはずですが、そちらの方の報告は?」

「しっかりとわけが分からずウロウロしている者たちが居るようだ。 武官が感じるだけでかなりの数になるらしい」

だが何の理由もなく捕らえることなど出来ない。 あとでしっかりと捕らえるが。

「ということは馬車を降りた男、その男が二都でのまとめ役ということでしたか」

「まずそうだろうな」

柴咲は捕らえられたが呉甚がまだ捕まらない。
二都から宮都に入ってきた男が呉甚を訪ねてきた。 その男を泳がせて呉甚の居場所を探させていると聞いたが時がかかり過ぎる。 呉甚から先に吐かさせねばならないというのに。
そう考えていたマツリの頭の中を見透かしたように四方が言う。

「瑠路居は宮都でも一、二を争う広さだ」

「はい、わかっております。 その男の振りをして武官が探して下手を踏むより、時がかかってもその男に探させる方がいいということも」

本領の中である。 ましてや宮都の中、よく分かっている。

「この時まで五都の動きは無いようですね」

八都の民が一都に溢れかえったと報告はあったが、五都の民が動いたという報告は受けていない。

「六七八二都という途をとったのだろうな。 二都から一都に入る途中で似面絵を見て二都に踏みとどまった」

「二都から一都、そして三四五都と回ろうとしていた、ということですか」

「今日が終わるまでは、まだ分からんがな」


夕刻を過ぎた。 だがまだまだ明るい。
木の枝では紫揺が枝に跨りうつ伏せになって上半身を寝ころばせている。 手足がブランブランしている。 もう少し手足が短くて黒くてぷっくりしていたら、仔パンダに見えただろう。

「お腹空いたぁー・・・」

枝の上で干し肉と干し果物と水だけで過ごしていた。

「退屈ぅー・・・」

首を捻れば魅惑的な川があるのに、その川にさえ入ることが出来ない。

「あと・・・二十二人だったっけ」

これまでの最高人数は、二十六人だった。 だったらまとめて二十二人も有り得るだろう。 武官の数が段々と減っているのに気が付いてはいるが、まとめて来いと念じる。

「あれ? 武官さん何人になってたっけ?」

捕らえた六都の者を三都の官別所まで馬車に乗せ運んで行かなければならない。 御者台に乗る武官もいれば、捕らえた者を見張らねばいけない武官もいる。 全員が行ったっきりではない、戻って来ている武官も居るが、それでも最初の人数より数段欠けている。
二十二人を捕らえるのに二十人の武官では難しい。 それでなくとも遠くから走って来るのだから。

「大体、捕らえる声をかけるの、もっと近くに来てからかければいいのに」

横を向いていた顔を正面に向ける。 頬に当たっていた枝が顎の下にあたる。

「うーん、何人だろう・・・」

まだ遠すぎてはっきりと分からない人影が動いている。
じっと待つ。
ようやくピィ、ピィっと笛を吹く。

(残念、二十一人)

まだ一人待たなくてはいけないようだ。
遅れて歩いてきているのかと目を凝らすが、人の姿は見えない。

(絶対視力良くなってる気がする)

ピィーと笛を吹いた。
武官達が躍り出てくるが、相変わらず遠くから声を発している。

(なんで杠は注意しないんだろうかな・・・)

枝の上から見ていると武官たちが走って来るのが見える。 石を放り投げて慌てて逃げ出しているが挟み撃ちにされている。

(一二三四・・・あれ? 十九人、武官さん足りないじゃない。 捕まえられるのかなぁ)

じっと見ていると一人が走り抜けていった。 
武官達が捕らえている後ろで杠は捕らえ逃しが無いか様子を見ていたが、死角になってしまっている。 一人の武官が二人の首に腕を回して止めている。 応援が来るまでそのまま腕を回して止めておくのだろう。

「杠!」

杠が枝を見上げた。

「あっち! 一人走ってった」

紫揺の指さした方に首を巡らせると、川上でも川下でも川の中でもない方向に一人の男の背中が見える。
武官に指示しようとしたが、良くても縄をかけようとしているところだ、仕方なく地を蹴った。
杠が男の腕を固めて戻ってきた時には、もうすべての者に縄がかけられ馬車に向かって歩かされていた。

「武官殿、縄をお願い致します」

杠の声に振り向いた武官たちが驚いた顔をする。

「ゆ、杠官吏・・・どうして」

どうして腕を固めているのか? 何故そんなことが出来るのか?

「・・・あ、はい!」

隣にいた武官に捕らえた者を渡すと杠の元まで走り男を受け取る。

(がっちり固めてんじゃないか・・・)

武官が驚いた目で杠を見ると「これであと一人ですね」などと嘯(うそぶ)く。

そのままずっと待っていたが残りの一人が来ない。 もう辺りは暗くなりかけている。
諦めた杠が紫揺の元まで歩いてきた。 武官五人がすぐあとに続いている。

「しゆ、紫さま、降りておいで下さい」

武官五人が首を傾げる。

「え? なんで? あと一人残ってるのに?」

「これ以上暗くなると、木から跳び下りるのが危険になってく、ます」

く、ます? いや、そこじゃない、跳び下りる?

「ゆ、杠官吏! 跳び下りるなどと!」

「そうです! 我らがお下ろし致します!」

一人の武官が足を広げ木の幹を持ち、その股にもう一人の武官が頭を潜らせ、えんやこらと立ち上がる。 同じ様にもう一人が立ち上がった武官の股に頭を潜らせ「ぐおぉぉー」 っと叫びながら足を延ばし、また同じようにもう一人も叫び声を上げながら立ち上がり、三段の肩車が出来上がった。 一番上の武官が手を伸ばせばなんとか紫揺に届くだろう。
紫揺の目が嬉しそうに光る。

「今すぐおやめになった方が宜しいかと」

「どうしてですか? 跳び下りられるよりずっと安全では御座いませんか」

「大人しくされるがままで終わると思われますか? 枝を蹴って一番上の武官殿の肩の上に跳び乗ります。 体勢を崩せば全員総倒れです。 そうなると・・・」

そうなると・・・この本領にこの言葉があるとすれば、それってサーカスじゃないか! と言っただろう。 雑技団はあるが、その雑技団でさえ今のように三段止まりだ。
一番下の武官が目を大きく開けすぐに膝を曲げた。
今にも枝を蹴ろうとしていた紫揺が口をへの字に曲げる。 そしてトントンと軽い音ではなく、ドンドンと三人の武官が重い身体を地に下ろした。

「受けようか?」

「いらない」

言った途端、枝を蹴って跳び下りてきた。
ヒェー!! と、間近で見ていた五人以外から声が上がった。 十九人だった武官が今は九人に減っている。 残りの四人の悲鳴だろう。 五人などただ口を開け顔を蒼白にさせているだけである。

「手を見せて」

跳び下りてきた紫揺の掌をすぐに見る。 忘れていなかったようだ。
腰にぶら下げていた筒を掌の上で傾け傷を洗う。

「あと一人どうするの?」

「まだ先に見えなかったのだろう?」

「うん」

「あと少しすれば暗くなってくる。 明かりをもってやって来るだろう。 それに暗くなれば武官たちも遠くに身を隠さなくてもいい」

紫揺の左手に手巾を巻いてキュッと括る。

「暗くなったら・・・飾り石に気付くかな」

飾り石を手に持たさなければいけない。 単に立入禁止領域に入っただけならば、暗がりで立入禁止の札が見えなかったと言うかもしれない。 そうなると捕らえることが出来ないわけではないが、すぐに放免にしなくてはならなくなる。 まあ、立入禁止の札などは既に引っこ抜いて無いのだが。

「ぶつけてでも持たせるさ」

紫揺がニカっと笑う。

「じゃ、そうする」

「え?」

「川で遊んでるから暗くなるまでは隠れてて。 それと灯りある?」

「紫揺?」

「ほら、まだ何とか見えるんだから。 見つかっちゃうよ?」

杠が優しく微笑んだ。 いつもより優しく。

「すぐに暗くなるが、それまで一緒に川で遊ぼうか。 目立っても困るから、そうだなサワガニ探し。 どうだ?」

「うん!」

五人が首を傾げる。 杠の言葉使いもそうだが、ちょいちょい出てくる “しゆら”。 それは何の暗号なのだろうかと。 とにかく今わかっていることは、灯りを持って来なければいけないようだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第171回

2023年06月02日 21時01分38秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第170回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第171回



今日最後になる言葉を発した。

「ここに呉甚という者はおられませんか?」

居なかった。
男がその場に崩れるように座り込んだ。

「・・・もう遅い」

明日には早朝から六七八都の仲間が動きだす。 受け入れが全く出来ない。
俯いていた男の目に長靴が映った。 ゆるゆると顔を上げる。

「明日も続けてもらう」

冷たい声が降ってきた。
明日から事が動くことは分かっている、男が諦めたのだろう。 だが事が動くことと、この男が呉甚を探すことは別問題。 この男は呉甚と繋がりを持っているのだろうから。

「二都の七坂の者、明日も呉甚の居所を探せ」

顔を上げたそこに武官が居た。

この男を締め上げて呉甚のことを訊きたかったが、訊くより何より、探す方が先決。 この男は呉甚を探しているのだ、締め上げたとて今の居所を知らないということ。 それならばこのまま探させる。
だがどうして二都の者がここに来るのか。 もしかして二都の七坂に柴咲が居るのかもしれない。 似面絵で動けなくなった柴咲に代わって、この男が動いているのかもしれない。 この男を締め上げ、柴咲から捕らえる方法もあるが、そうなると呉甚を捕らえるに時がかかってしまう。 二都の七坂では二都の武官が動いている。 二都は二都でやってもらう。

「な、何のことでしょう・・・」

「荷馬車の者は捕らえた」

「・・・!」

正確に言えば、捕えてはいない。 ちょっと訊いただけである。

「お前が昨日今日と呉甚を探しているのは知っている」

「・・・」

「協力するなら情状がある」

情状がある、何に対しての、呉甚を探しているだけなのに。 何も知らないのならそう言えた。 だが・・・知っている。


玄関の戸を叩かれた。
光石が反応する刻限には全ての光石に布をかけていた。 この刻限、どこから見ても留守宅になっているはずだ。

「居られませんか?」

野太い男の声。
呉甚の元に走らせた男がまだ帰って来ていない。
暗い中、声を殺して待つしかなかった。


「高妃様!」

虚ろな瞳が振り返った。

「どうしてこのような所に!?」

どうして? このような所に?
どうして来てはいけないの? 窓から見える四角の中にある空、どうなっているのかを見たいだけなのに。
高い窓・・・部屋から出ると窓に見える空がもっと見える気がした。
振り返った首も顔も目のようにうつろになっている。

「高妃様? お房に戻りましょう」

半地下の房に。

「そ、ら」

「は、はい?」

「空、を・・・見、たい」

初めて聞いた高妃の声だった。


少し遡るが、六都で第二陣が出立しようとしていた頃である。
杠がこめかみを揉んだ。

夜襲があったなどと全く知らない紫揺が平和に朝餉を食べ終わった。 かなり遅い刻限だったが。 その時には杠が第二陣と騎馬を駆らせる時となっていた。
紫揺の部屋には起きたら朝餉をとり、文官所に行くようにと文を残してきていた。
紫揺のことは半泣きで首を左右に振る文官たちに無理矢理頼んであったのだが、いざ馬を駆らせる段になって、腰に手をあてた紫揺が杠の真ん前で仁王立ちになっていた。

「杠! 言ったよね! 川に行くときには誘ってって!」

何処から情報が漏れたのか・・・。
きっと・・・文官からだろう。 それが計画的であったのか、何も考えず杠のことを問われて答えただけなのか。
いずれにせよ文官に口止めをしなかった杠の失態である。

結果、紫揺に押し切られ、杠と二人乗りで第二陣に参加することとなったのだが、馬を下りて歩いている時には小さい紫揺は目立たなかった。 それに杠は馬も徒歩も常に最後尾をとっていた。 その横を紫揺が歩いていたのだから、武官たちの目にとまることは無かった。

「どわっ! ・・・どうして!?」

武官の言いたいことは分かる。 紫揺が杠の前に仁王立ちになり、この第二陣に参加をしているのを知らなかったのだろう。 この武官は紫揺が仁王立ちになる前にもう馬で出ていて、それからも離れた場所で動いていたのか、今の今まで此処での紫揺の奇行を知らなかったのだろう。


目をクリっと見開いた第一陣の武官の目の先に紫揺が居る。 紫揺を紫と認識しているのかどうかは分からないが。

「どうしてここに坊が居るんだ!」

紫と認識していなかったようだ。

「ばっ! 馬鹿っ!!」

奇行に巻き込まれた武官が思わず “坊” と言った武官の口を塞いだ。

「むっ、紫さまだ。 正真正銘! 紫さま!! どっから見ても紫さま!!」

最初は声が小さかったが・・・クレッシェンドとなっていく。

「むががぎがが?」

きっと「紫さま?」と言ったのだろう。

「お前、分かってるな? 一生不眠不休労役。 やりたいのか?!」

口を塞がれていた武官がブンブンと首を振る。
後ろで聞いていた第一陣の武官も同じように首を振っている。

自分の名前を呼ばれたと思い、口を押さえていた武官に歩み寄る。

「一生不眠不休労役って何ですか?」

「げっ! いつの間に」

「げっ、て・・・」

げっ! って、そりゃ言いたくもなる。
着いた途端『川~』 と叫んで杠に口を押えられ、こんこんと、いいと言うまで声を出さず、じっとしているようにと言われたのにもかかわらず、近くの木に登りだし・・・まあ確かに木の上ではじっとはしていたが。 いいと言われた途端、ジャバジャバと川に入ってサワガニ探しを始めるわ、岩を跳んで遊びだすわ・・・。
挙句に杠が止めることなく『ご自由にさせてあげてください』 そんなことを言うわ・・・。
自由になどさせて怪我でもされたらどうするのか。 後を追った武官たちは鬼ごっこと勘違いした紫揺に思いっきり弄ばれたのだから。

「あーっと、それは・・・」

紫揺を護衛していた武官二人にこれから下されよう咎です、などとは言えないし、ここに着いてからの紫揺を見ていて、護衛の武官がどれ程大変な思いをしていたか心底分かった。 心の中ではもう一種類の言葉が浮かんでいた。
“アナタ様がじーっとしてないから、お利口さんにしていないから、走り回るから、いい迷惑をこうむった武官二人の行く末です” と。

「紫さまを護衛してきた武官二人に出る咎です」

紫揺の後ろに立った杠が言う。 振り返った紫揺。

「え? なんで?」

「あんな似面絵を描いた挙句、昼餉もとらせず、当然でしょう」

当然か? 武官の誰もが思う。

「似面絵は・・・まぁ、それなりの気持ちが無いわけではないけど、昼餉は私がいらないって言ったから」

「は?」

「そんなことで少しでも遅くなるのが嫌だったから、それに梨やらイチジクやらもぎって食べてたから。 まっ、お腹にどんとこなかったから、杠と会った時にはお腹が空いてたけど」

もぎって? 時期本領領主の御内儀となる方が?

「それにマツリに言ったよ? 咎なんていらないって」

口から手を離された武官がまじまじと紫揺を見る。 こうして紫揺の顔を見てみると本当に似面絵とは全く違う。 アヤツらはどこをどう見てあんなガマガエルに見えたのか、いや、ヒキガエルだったか? それどころか可愛い坊じゃないか。 マツリが言ったとされる第一声の侮辱罪には値するだろう。
それなのに咎などいらないという。

「そ! それはまことで御座いますか!?」

思わず武官たちが叫んだ。
振り返った紫揺。

「何様でもないのに、そんなことくらいで大騒ぎする方がおかしいです」

いいえ、ナニサマです。 そう思いながらも喜びかけた時、杠が口を開いた。

「紫さま、そういうわけにはいきません。 あんなっ、あんな似面絵に・・・」

似面絵を思い出したのだろう、杠の声のボリュームが上がってきた。

「あんな風に描かれて! それにいくら紫揺がいらないと言っても、食べさせるのが護衛でしょう! こんなチビッコイのにっ、栄養の蓄えが武官のようにはないのに! 口を無理にこじ開けさせてでも食べさせなくてどうする!!」

しゆら? 何のことだ? それに最後はなんだ? 紫さまが責められてるみたいだ。 それにそれに、日頃声を荒げることのない杠官吏が声を荒げるなどと。
武官たちがキョトンとしている。

「どうしたの? 杠。 ん? なに? じゃ、杠が私を描いてみる?」

あの一種独特な才能で。

「う・・・」

「それに杠と一緒に食べられたから、そっちの方がいい。 ね?」

「あ」

兄として妹にこんなことを言われてはデレデレになってしまう。

「ね?」

止められないニヤついた顔で頷いてしまう。

「ってことです。 もしマツリが何か言っても止めます」

泡を吐いて倒れた武官。 宮都に戻ったその二人に早く知らせてやりたい。 マツリのことをマツリ様と言わず、マツリと呼び捨てにしていることなど気にもならなかった。

今晩はまともな夕餉というものを摂ることはままならなかった。 煙を上げることが出来ない。 六都の者全員を捕らえるまで干し肉や干し果物を頬張るだけである。
紫揺を三都の中心に戻して夕餉を食べさせ、宿に泊まらせようとしたが、頑として紫揺が首を縦に振らない。
それどころか、まだ明るい内にと川岸に生えている果物をとって口に運びだした。

「毒果だったらどうする」

「大丈夫、分からないものは食べないから。 杠もハイ、みずみずしくて美味しいよ」

という始末であった。
そしてこのまま夜明け前まで軽く睡眠をとる。 武官たちが一人二人コロンコロンと背を預けていた岩から崩れていく。 何故かその全員が第二陣の者たちであった。

「まさか本領に来て、こんな風に空を見られるなんて思ってもいなかった」

ゴロンと寝ころぶと、瞬く星々に照らされた深く青い空がいっぱいに広がっている。
紫揺が寝ころんだ下には万が一を考えて急遽取りに行った敷物が敷かれている。

「たまにこうして外で寝るのも楽しいね」

杠が口の端を上げ紫揺の頭を撫でてやる。

「今日は遊び疲れただろう、明日は早い。 もう寝るといい」

遊びに来たわけではないが紫揺は別だ。 せっかくマツリに逢いに来たというのに、まともに話すことも出来ていない。

「うん・・・」

離れた所でその様子をじっと見ていた第一陣の武官達。
目を戻すと第二陣が全員倒れている。
長い間、クソ暑い中、馬車に身を隠し、どれだけ第二陣の方が良かったかと心で文句を垂れていたが、第二陣から紫揺の奇行を聞かされ、弄ばれたその第二陣の全員が倒れている。

『オレなら絶対サルの似面絵を描いていた』

いや、イタチだ、ネズミだ、と散々言っていた。
紫揺を追いかけて川の中ですっ転んだのだろう、衣を濡らしている者もいれば、衣が破れている者もいる。 イビキでなく呻き声を上げる者がいる。 夢の中でも弄ばれているのかもしれない。
第一陣で良かったとつくづく思った。

「な、杠官吏と紫さまってどういう関係だと思う?」

それは誰もが不思議に思っていた。
単にマツリ付の官吏というだけで、ああして横になっている紫揺の頭を撫でるものだろうか。 それに杠は全く紫揺の自由さに頓着しなかったと聞いた。 マツリからの預かりのはず。 それは有り得ない事だ。

「どうなんだろうな。 たしか紫さまは東の領土の五色様とも聞いたが」

「ああ、そうなんだ、そこなんだ。 それなのにどうしてあれだけ杠官吏と親しくしてんだろ」

「明日訊くか? 紫さまって・・・なんて言ったらいいかな」

「そうだなぁ・・・宮の女人たちみたいに、近寄りがたいってのが無いよな」

聞いた武官がクックッと笑う。

「宮の女人はたとえ女官といえど、サワガニ獲りなどしないだろうな」

「木登りもな」

そこここで、紫揺の噂話がされていた。
百二十七名、一人も捕り逃すことの無いよう、そう言われて出てきた。 それなのにこの緊張感の無さは何だろう。


芯直と絨礼、柳技の三人を目の前にして墨をすりながら享沙が口を開いた。

「なんだか変わった坊を見たんだが」

算術を解いていた三人が顔を上げる。

「変わった?」

「ああ。 俤に文を残す為に長屋に寄った時だったんだが、床下を潜ったり、信じられないだろうけど、木をかけ上って木の上にあがったり・・・」

毎夜どれだけ練習しても木に上がれなかった。 挙句に尾骶の骨がやられてまともな歩き方も出来なくなった。 その木に簡単に上った坊。

三人が目を合わせる。

「それって紫揺だと思う」

「え? 知ってるのか?」

「女人だってさ」

「は?」

「マツリ様の御内儀様ってやつ」

「はぁー!?」


まだ薄暗いというのに、人の動く気配で目が覚めた。 夕べ杠が座っていたところを見ると杠が居ない。
身体を起こす。
離れた所で紫揺の様子を見ているようにと言われていた武官が走ってやって来た。

「お目覚めで御座いましょうか」

「あ、お早う御座います」

まさか朝の挨拶をされるなどと思ってもいなかった。 驚いて踵を合わせカンという音をたてると礼をとる。

「あの、杠は?」

「杠官吏は指揮にあたっておられます」

六都武官長の誰もここに同行していない。 ここの責任者は杠となった。 ここでも杠官吏の意見を取り入れるようにと書かれていたことが大きかった。 それに自警の群を杠が言う程も武官長たちは信用していない。 こちらに参加するより六都に残ることを選んだ。

川の水で顔を洗うと、武官たちの間を抜けて何やら言い合っている杠の元に足を向ける。

「いやぁー・・・こりゃ無理です」

木を見上げながら言っている。

「そちらは?」

「手をかけただけでへし折れました」

へし折った木の枝を掲げて見せる。
これで何本目だ。
武官達・・・体格良すぎ。
昨日の時点で見張が隠れることのできる岩が見つからなかった。 体格が良すぎるから。
だから木に上ろうと決めていたが、ことごとく枝から落ちてきてくれる。
杠自身が上ればいいのだが、あまり身体を動かすところを見られたくない。 それに見張に立ってしまえばあとの指揮がとれない。

「木に上るの?」

振り返った杠が口の端を上げる。

「協力してくれ、さいますか? 退屈だぞですが」

何かオカシイ。 だがそんなことより、紫揺に協力をさせるなどと、訳が分からなくなった六都の者が暴れたらどうするのか。 武官が止めようと口を開けるより先に紫揺の口が開かれる。

「何すればいいの?」

夜が明けた。
三都からの者は来なかった。 三都に柴咲は入っていなかったようだ。

「どこに立てばいい?」

紫揺が上ろうとしている木の枝は一番低いものでもかなりの高さがある。 手に届く枝はことごとく武官たちが折ってくれていた。 蹴り上げて届くものではない。
紫揺が枝を見上げ、後ろ向きに歩きながら目測で測っていく。
武官達が寄ってきてその様子を見ている。

「ここ。 地下の時と違って塀を持って自分の身体の方向を調整できないから、全部杠に任せるね」

「分かった。 松の時のように怪我をしてはいけない。 手に手巾を巻こう」

杠が懐に手を入れかける。

「うーん、松じゃないからから大丈夫」

「怪我をしてからでは遅い」

懐から手巾を出し紫揺の手を取りかけたが、紫揺がその手を引っ込めた。

「巻いちゃうと握りにくいと思うんだ。 そっちの方が危険。 握り損ねて変な落ち方になるかもしれない」

そう言われてしまっては言い含めることが出来ない。 紫揺がどんな体勢でどうしようとしているのか分からないのだから。
仕方なく木の枝と、紫揺が「ここ」と言って立っている場所を交互に見る。 紫揺は角度的なことを言っているのだろう。
杠と紫揺の会話を聞いていた武官達。

「さっき・・・地下って言わなかったか?」

「・・・言った、あー、じゃなくて仰った。 って、お前口の利き方気を付けろ」

六都の武官は地下のことは聞いていない。 どういうことだと武官たちが目を合わせる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする