『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第142回
阿秀の姿を目で追っていた誠也。 その姿が見えなくなった。 すると阿秀からたたみ直され渡されたメモを広げて見てみるとそこに数字が並んでいた。
「って、あれ? これって春樹の携帯番号じゃんかっ!」
そう。 上着のファスナーを閉め忘れ、諭吉さまは顔を出していた程度に済んだが、春樹が紫揺に渡したメモはしっかりと落としていたようだった。
「紫揺ちゃん、春樹の連絡先を聞いてたって言ってたけど、絶対にこのメモのことだよな。 ってことは、そのメモを落としちゃってる紫揺ちゃんから春樹に連絡が取れない。 ってこと第二弾は俺とも連絡が取れない。 ってこと第三弾は、あの美青年のことが訊けない、それに今の人も紫揺ちゃんの知り合いだったら・・・」
・・・訊けなくなった。
美しくない三段論法を立てると、その場に沈んでいった。
息子は沈み、走っていた父親はいくらも走らない内に足がもつれ、ドッテンとこけたままの姿で止まっている。
もうどこにも紫揺も男たちの姿も見えなくなっていた。
逃げていた紫揺。 坂を上がりきって左後ろを見ると建物があったが、前に見える駐車場を選んだ。 その時の躊躇が男達との差をかなり縮めていた。 駐車場を選び走ったが醍十に先を越されてしまい、前を塞がれてしまっていた。
(息は整った)
気取られないように息を深くして整えていた。
紫揺にしてみれば前に回り込んできた初めて見る男と睨み合っていた。
男は肩を上下させながら、好き勝手なことを言っている。 後ろの男たちも紫揺と睨み合っている男の言うことを、身体を固くして聞いていた。 故にその男たちの息はまだ上がっている。
(今だ)
そう自分に言うと醍十の横をすり抜け、目の前に広がる駐車場の中に走り出した。
あっ! っと叫んだ醍十であった。 いや、醍十以外も咄嗟に叫んだ。 叫んだだけであった。 まさか逃げ出すとは思っていなかった。 それに紫揺の手を取ることも憚られた。 それが遅れを取った。 我に返り紫揺の後を追った。
逃げ出した紫揺。 そこここに車が停まっている。 ジグザグと車を縫うように走る。 小回りの利く紫揺の身体に対して、大の男たち、それも身体が大きくなるほどに距離をあけられる。 いつの間にか醍十が悠蓮に抜かれていた。
紫揺の小さな身体を隠すにはタイヤ一本あればいい。 それにここに停まっている車は車高が高いものが殆どだ。 普通に歩いているだけでも紫揺の身長を隠すことが出来る。
車の後ろに消えたと思ったら、また違うところから出てくる。 紫揺にしてみれば単にジグザグに走っているだけなのだが、追う男達にはそうは見えないようだ。
ひときわ大きなタイヤの車を見つけた。 そこに背を預けてもう一度呼吸を整える。 同時に耳を澄ます。
(一人、二人、三人・・・四人。 四人だったっけ?) と、足音で何人いるか、またその方向を確認する。
(・・・五人)
最後に数えられたのは、誰の足音なのだろうか。
「どこに行かれた」
「見失った」
「弱音を吐いてないでお探ししろ!」
声の方向は分かるが、それが誰なのかまで知る由はない。 だがこの台詞はどう聞いてもホテルを脱走し、失敗した時とは台詞そのものは違うものの、同じ内容のことを言っているのは分かる。
息がかなり整ってきた。 聞こえてくる足音に合わせて小さくは動いているが、こんなことをしていてはいつか見つかってしまう。
(取り敢えずここから出ないと)
駐車してある車が邪魔だが、離れた所に先ほど左後ろを見た時の建物が二つ。 何かの施設と管理事務所らしき建物が見えていた。
奥に管理事務所らしきもの。 その横に幅のある道を挟んで何かの施設らしき建物が管理事務所らしきものより手前に見える。
逃げてきた道を帰ることになるが、建物の中に入ることが出来ればおんのじだし、入られなくてもここより随分マシだろう。 よく自販機の横に設置してあるごみ箱でもあれば、その中に入ることも出来るのだから。
あらためて精神を集中する。 足音から身を隠して車の間を移動していく。 少しでも建物の方に近づくように。
駐車場の端まで来た。 そして一気に走った。
「あ!」 と、声が聞こえた。
「うそ、もう見つかったの?」
後ろを振り向くと、バラバラの方向から五人が走って来るのが見える。
このまま建物に走って行っては隠れる時間もなにもない。 辺りに目を満遍なく動かす。
「あった!」
方向を変える。 走っている足を右方向に変えた。 先程は車の影になって見えなかった所だ。
施設らしき建物の後ろに紫揺の得意分野が転がっているのが見えたのだ。
走っていくと所狭しとそれらが幾つも転がっていた。
「あそこまで捕まらなかったら逃げ切れる」
施設らしき建物の後ろに回って得意分野で距離をあけ、そのままぐるりと回って建物の中に入るか、若しくは直接施設らしき建物にあるだろうゴミ箱の中。
どちらを選ぶか。 目が嬉しそうに輝いた。
走りきると得意分野の中に入った。
まずは1メートル幅くらいで紫揺の腰より少し高く “コ” の字を左に90度ひっくり返した進入禁止の為であろうか、金属製の物がみえた。 40センチほどの間隔を空けて横に並んでいる。 それが50センチほどの間隔を前後交互にずらし三列。
(潜ると跳ぶとどっちが早い・・・)
考えがまとまるより先に身体が動いた。
一列目に左手を着くと足を揃え横跳びをし、素早く右手で二列目を持ち身体を引き寄せ、左手を三列目に移すと右手も三列目に移し二列目をギリギリで跳び越えた。 そのまま二列目と三列目の間に身体を滑り込ませると、足を着くことなく潜り込み、蹴上がりをするように足首をそれに近づける。 蹴上がりならそのまま足を上方向に向けるが、今は上下に推進方向をとる時ではない。
足の方向を前に取ると、飛行機飛びの後半のような流れを取り、そのままスピードを緩めることなく着地をすると走り出す。
後を追って来た男たちは、紫揺のように列の間には簡単に身体が入らない。 入ろうとすれば、身体を横にしなくてはならない。 一列目に飛び乗ると二列目三列目を跳び越える。 紫揺の流麗な流れと比べると、かなりの時間ロスとなる。
次に何の形か、跳馬の高さよりは低く、跳馬とは比べ物にならないほど横に長く、角のないオブジェらしきもの。 片足で踏み込み、それに片手を着いたかと思うと、次にもう片手を着く前には、すでに身体は前にVの字に曲げられて、勢いを殺して着地。 何故なら、次のオブジェらしき物との間隔が狭かったからだ。
追って来た者はこれを迂回するように右に回りこむか、かなりスピードを落として乗り上がるか、跳び越えるかしなくてはならない。
(ふわっ、ロイターがないから無理かと思ったら、結構いけた。 けど、肘が曲がったな)
ロイターと言うのは跳馬や跳び箱を跳ぶときに踏み切るロイター板のことである。
一番に紫揺の後ろを追っていた者が右に迂回したのを目の端に止めると、左に向いて走り、目の前にあったオブジェらしき物の端を通り抜け、次々と障害物を難なく跳んでは走る。
水を得た魚というのは、こういうことを言うのだろう。 追われているという自覚はあるが、いかにも楽しそうに、いや、とっても楽しく跳んでいる。
次はジャングルジムの一マスが大きい四角版と言っていいのだろうか。 大小の四角が意味の分からない形をとって重なり合っている。 こちらも横長で、迂回をすることを思うと渡る方がよっぽど早い。 それをいとも簡単に、雲梯か段違い平行棒をするように渡っていく。 これも身体の大きな男には避けて通らなければ、何とも通りにくいものだった。
「くそっ! これってなんなんだよ!」
誰が叫んだのだろうか。
跳馬に見立てて跳んだりするときには、前への推力はあるものの次の動きの為に、下方向に突くというということをするが、基本、紫揺の推力方向は前である。
オブジェらしき物は堅いものもあれば、そうでない物もあるし、オブジェらしき物だけではなかったようだった。
前への推力を保ちながら、軽く手を触れ跳んだ小象の形をとったそれは、いわゆる張りぼてだった。 手に体重を乗せたわけではなかったから難なく跳べたが、その後を追っていた悠蓮が、思いっきり手を着いて跳ぼうとしてそれが破壊された。 平竹ひごで型を作り、その周りに紙が貼られていただけのものだった。
バキッという音とともに尻から落ち苦悶する。
「ワッ!」
と聞こえたかと思うと、湖彩が悠蓮にぶち当たった。
「頭を下げろ!」
と聞こえ痛みも忘れて、もつれるように地に伏せると、野夜が二人の上を跳んだ。
その野夜、一つの張りぼてのオブジェを跳び越えた時、着地をしようとしたその足元に、跳び越えたものより二周り小さなものが、陰として潜んでいるのを目にした。 それもツルツルとよく滑りそうな肌をした球体上の物。 言わずもなが野夜は転倒した。
身体の大きい梁湶と醍十はジャングルジムモドキに阻まれて迂回をし、別ルートを走っている。
先ほどまでは追うものは楽だった。 追われる者の背中を見ているだけで良かったのだから。 だが今は違う。 追う者を目で追いながら、自分の足元や目の前に広がる障害物そして迂回路をも見なければいけない。
それに何より、楽しく走って跳んでいる者と、後がないかもしれないと、切羽詰まりながら追いかける者とでは心の余裕が違っている。
ここはオブジェか大道具の青空借宿かなにかなのだろうか、そこここに色んなものが見てとれる。 そして出し入れをしやすいようになのか、長いものは道路から正面の建物に向かって縦に入れられている。 よって、建物沿いに走っている者からすれば、それは横長となり跳び越えることが出来なければ、否が応にも迂回せねばならない。
それからも紫揺はわざといびつな障害物の多いところを狙って、身体の小ささと身体能力を有利に使った。
左右自在に動くものだから、追う方は道路に出るのか、建物の方に行くのかが全く見通せなかった。
それに道路と言っても、立派な道路ではないし、道を外れれば雑木林が広がっている。 そんな中に入られては簡単に探せないし、紫揺をそんな所に入れるわけにもいかなかった。
追ってくる男達との差がどんどん開いていく。
(あーあ、ここも、もう終わりか・・・)
オブジェらしきものがなくなり、前に大きく横に広がる水溜りが見えた。 単なる水溜りだろうか、それとも小さな池か。 深さが分からない。 ひとっ飛びするにはかなり無理がありそうな奥行だ。
そのすぐ右には小さな建物、トイレらしきものが見える。 その壁が目に入る。 トイレらしきものと水溜りか池らしきものの間には、20センチほどの間があった。 左側にも同じように20センチほどの間をあけて、施設らしき建物の裏側があった。 こちらは壁だけでなく窓がある。
(走るしかない)
スピードを緩めて幅20センチをカニ歩きする気など毛頭ないが、このまま走ってしまえば、水溜りポチャか池ドボか間違いなし。 出来るだけ汚れないようにソロッとカニ歩きすると、いくら距離をあけたからといって、追いつかれる可能性が無くはない。 今までの努力が水の泡になる。 だから走った。 トイレらしきものの壁を。 身体を斜めにしてギリギリ水溜まりか池の端に降り立った。
振り向くと男たちが悪戦苦闘しているのが見てとれた。 さすがに息が上がる。 膝に手を着くと肩で息をした。
「でも、今のうち」
深呼吸を大きく三回する。
少しでも進もうと腰を伸ばし足を出そうとした時、目の前の風景がなくなっていた。
「え?」
瞬きを何度かした。
「お探ししておりました。 藤滝紫揺さん」
敢えて今はまだ “紫さま” とは言わない。
「・・・」
ここにきて六人目が居たことに初めて気付いた。
「無礼極まりないことをお詫びいたします。 お話だけでも聞いていただけませんでしょうか」
まるでセノギだと思った。
さっきまで追いかけてきた人達は、ホテルや攫われた時の人達と同じだ。
この男を一瞬セノギだと思った。 セキがセノギのことをどれだけ良く言っても、セノギが言葉を尽くしたとしても、聞く耳なんてどうして持てようか。
目の前に居るこの男も攫った者の仲間だ。 北の領土といわれる者たちだ。
紫揺の前に立っていた阿秀を無視して歩き出す。 阿秀に・・・いや、阿秀という名も知らない。 目の前にいる男に再度攫われるかもしれない。 そんな危惧を持ちながらも歩を進めた。 不安ではない。 もう攫われる気などさらさら無いのだから。 家に帰るのだから。
阿秀が紫揺の後ろについて歩き出し軽く手を上げる。
「うっそ、阿秀いつの間に・・・」
これも誰が言ったのだろうか。
だがそんなことはどうでもいい。 取り敢えず五人の明日の運命は見えていた。
打撲痛、筋肉痛、間違いなし。 言葉もなく全員がその場にへたり込んだ。
「・・・」
ここにも言葉を失っていた者がいた。 だがその口はすぐに開かれた。
「紫揺ちゃんって・・・サル?」
阿秀のあの姿を見てどうしてもその後、何をするのかを見たかった。
一旦は沈んだ身体だったが、すぐに立て直して、阿秀のように身軽にはいかなかったが、壁を上った。 石垣とまではいわないが、足をかけられるところがあったから、よじ登ることが出来た。
そして阿秀を見ていたら、一瞬考えたように止まり、辺りを見回すと足の向きを変え、今の紫揺の居る所に向かった。
とったルートは紫揺とは違っていた。 管理棟と建物の間を通って建物の裏に出た。
どこに行くのだろうかと、建物の影から見ていると、暫くして誠也曰くの、野生のサルが跳びはねてパルクールをしていたという次第だった。
ふと我に返った誠也。
「あ、なにやってんだ俺。 え?・・・俺って・・・もしかして、いや、そんな筈はない。 絶対にない! 有り得ない! 絶対にストーカーなんかじゃない!」
自分に言い聞かしているようだが、きっとその初心者は誰も同じことを言うのだろう。
「藤滝紫揺さん、お話を聞いてはいただけませんか?」
阿秀が紫揺に話しかけるが、それは東の領土のルールというものから逸脱していた。 だがここまできてルールを守ってはいられなかった。
もし醍十が下船後、領主の元に向かったのならば、すぐにでも連絡して領主に来てもらいたかったが、それは叶わなかった。
醍十が希望したことは別として、現実問題、醍十はここに居るのだ。 醍十が領主をここに連れてくることなど出来ない。 もちろん此の地のことをよく知らない領主が、一人で来ることなど出来ない。
「・・・」
「今日までに、どうお聞きになっておられたかは分かりませんが、我らは東の領土の者です。 藤滝紫揺さんに一番にお会いするのは、東の領土の領主でした。 ですがこんなことになってしまい、領主がご挨拶にも来られず、その上、非礼を働きました。 お詫びを申し上げます」
尚も歩を進めるが、どこに行くのか紫揺本人さえも分かっていない。
取り敢えずこの建物をぐるりと回って・・・原点復帰しようとしか考えられない。 頭が回らない。 誠也と別れたところに戻るしか今は考えられない。
いつからか、船を片付けた若冲が正面から歩いて来ていた。 それを見た阿秀がそれ以上近寄るなと、紫揺の後ろから手を上げて止め、その手を軽く横に振った。 若冲が回れ右をしてどこかに消えていった。
「・・・東とか北とか・・・」
紫揺が口の中で言うと、次に振り返り阿秀を睨み据えて言った。
「それって何なの!? それが私に何の関係があるって言うの!」
北の領土から言われたことは分かっている、いや、分かりたくない、分かるはずもない。 言われたことを知っている、聞いただけだ。
「ご説明させていただけませんか? そのお時間を頂けませんか?」
もう逃げられないだろう。 この、六人目、単に追いかけるのをさぼっていたとか、高見の見物でトンビに油揚げとしか思えない男から。
「お話を聞くだけでいいんですね」
挑戦的に言い返す。
「はい。 私からではなく領主から」
セノギと同じことを言う、と腹の中で吐くように言う。
「そう、領主ですかっ!」
噛みつかんばかりに言う。 今までに何度聞いた代名詞だろう。
「アナタからではないんですかっ!?」
「我が領土の長は領主です」
「答えになってないんですけどっ」
本当を言えば大体の想像はつく。 でもヤケクソになって嫌味の一つも言いたい。
「私がそのお話に納得をしなければどうするんですか?」
この質問にはセノギではなく、きっとムロイと同じことを言うだろう、と頭の中で考えている。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第142回
阿秀の姿を目で追っていた誠也。 その姿が見えなくなった。 すると阿秀からたたみ直され渡されたメモを広げて見てみるとそこに数字が並んでいた。
「って、あれ? これって春樹の携帯番号じゃんかっ!」
そう。 上着のファスナーを閉め忘れ、諭吉さまは顔を出していた程度に済んだが、春樹が紫揺に渡したメモはしっかりと落としていたようだった。
「紫揺ちゃん、春樹の連絡先を聞いてたって言ってたけど、絶対にこのメモのことだよな。 ってことは、そのメモを落としちゃってる紫揺ちゃんから春樹に連絡が取れない。 ってこと第二弾は俺とも連絡が取れない。 ってこと第三弾は、あの美青年のことが訊けない、それに今の人も紫揺ちゃんの知り合いだったら・・・」
・・・訊けなくなった。
美しくない三段論法を立てると、その場に沈んでいった。
息子は沈み、走っていた父親はいくらも走らない内に足がもつれ、ドッテンとこけたままの姿で止まっている。
もうどこにも紫揺も男たちの姿も見えなくなっていた。
逃げていた紫揺。 坂を上がりきって左後ろを見ると建物があったが、前に見える駐車場を選んだ。 その時の躊躇が男達との差をかなり縮めていた。 駐車場を選び走ったが醍十に先を越されてしまい、前を塞がれてしまっていた。
(息は整った)
気取られないように息を深くして整えていた。
紫揺にしてみれば前に回り込んできた初めて見る男と睨み合っていた。
男は肩を上下させながら、好き勝手なことを言っている。 後ろの男たちも紫揺と睨み合っている男の言うことを、身体を固くして聞いていた。 故にその男たちの息はまだ上がっている。
(今だ)
そう自分に言うと醍十の横をすり抜け、目の前に広がる駐車場の中に走り出した。
あっ! っと叫んだ醍十であった。 いや、醍十以外も咄嗟に叫んだ。 叫んだだけであった。 まさか逃げ出すとは思っていなかった。 それに紫揺の手を取ることも憚られた。 それが遅れを取った。 我に返り紫揺の後を追った。
逃げ出した紫揺。 そこここに車が停まっている。 ジグザグと車を縫うように走る。 小回りの利く紫揺の身体に対して、大の男たち、それも身体が大きくなるほどに距離をあけられる。 いつの間にか醍十が悠蓮に抜かれていた。
紫揺の小さな身体を隠すにはタイヤ一本あればいい。 それにここに停まっている車は車高が高いものが殆どだ。 普通に歩いているだけでも紫揺の身長を隠すことが出来る。
車の後ろに消えたと思ったら、また違うところから出てくる。 紫揺にしてみれば単にジグザグに走っているだけなのだが、追う男達にはそうは見えないようだ。
ひときわ大きなタイヤの車を見つけた。 そこに背を預けてもう一度呼吸を整える。 同時に耳を澄ます。
(一人、二人、三人・・・四人。 四人だったっけ?) と、足音で何人いるか、またその方向を確認する。
(・・・五人)
最後に数えられたのは、誰の足音なのだろうか。
「どこに行かれた」
「見失った」
「弱音を吐いてないでお探ししろ!」
声の方向は分かるが、それが誰なのかまで知る由はない。 だがこの台詞はどう聞いてもホテルを脱走し、失敗した時とは台詞そのものは違うものの、同じ内容のことを言っているのは分かる。
息がかなり整ってきた。 聞こえてくる足音に合わせて小さくは動いているが、こんなことをしていてはいつか見つかってしまう。
(取り敢えずここから出ないと)
駐車してある車が邪魔だが、離れた所に先ほど左後ろを見た時の建物が二つ。 何かの施設と管理事務所らしき建物が見えていた。
奥に管理事務所らしきもの。 その横に幅のある道を挟んで何かの施設らしき建物が管理事務所らしきものより手前に見える。
逃げてきた道を帰ることになるが、建物の中に入ることが出来ればおんのじだし、入られなくてもここより随分マシだろう。 よく自販機の横に設置してあるごみ箱でもあれば、その中に入ることも出来るのだから。
あらためて精神を集中する。 足音から身を隠して車の間を移動していく。 少しでも建物の方に近づくように。
駐車場の端まで来た。 そして一気に走った。
「あ!」 と、声が聞こえた。
「うそ、もう見つかったの?」
後ろを振り向くと、バラバラの方向から五人が走って来るのが見える。
このまま建物に走って行っては隠れる時間もなにもない。 辺りに目を満遍なく動かす。
「あった!」
方向を変える。 走っている足を右方向に変えた。 先程は車の影になって見えなかった所だ。
施設らしき建物の後ろに紫揺の得意分野が転がっているのが見えたのだ。
走っていくと所狭しとそれらが幾つも転がっていた。
「あそこまで捕まらなかったら逃げ切れる」
施設らしき建物の後ろに回って得意分野で距離をあけ、そのままぐるりと回って建物の中に入るか、若しくは直接施設らしき建物にあるだろうゴミ箱の中。
どちらを選ぶか。 目が嬉しそうに輝いた。
走りきると得意分野の中に入った。
まずは1メートル幅くらいで紫揺の腰より少し高く “コ” の字を左に90度ひっくり返した進入禁止の為であろうか、金属製の物がみえた。 40センチほどの間隔を空けて横に並んでいる。 それが50センチほどの間隔を前後交互にずらし三列。
(潜ると跳ぶとどっちが早い・・・)
考えがまとまるより先に身体が動いた。
一列目に左手を着くと足を揃え横跳びをし、素早く右手で二列目を持ち身体を引き寄せ、左手を三列目に移すと右手も三列目に移し二列目をギリギリで跳び越えた。 そのまま二列目と三列目の間に身体を滑り込ませると、足を着くことなく潜り込み、蹴上がりをするように足首をそれに近づける。 蹴上がりならそのまま足を上方向に向けるが、今は上下に推進方向をとる時ではない。
足の方向を前に取ると、飛行機飛びの後半のような流れを取り、そのままスピードを緩めることなく着地をすると走り出す。
後を追って来た男たちは、紫揺のように列の間には簡単に身体が入らない。 入ろうとすれば、身体を横にしなくてはならない。 一列目に飛び乗ると二列目三列目を跳び越える。 紫揺の流麗な流れと比べると、かなりの時間ロスとなる。
次に何の形か、跳馬の高さよりは低く、跳馬とは比べ物にならないほど横に長く、角のないオブジェらしきもの。 片足で踏み込み、それに片手を着いたかと思うと、次にもう片手を着く前には、すでに身体は前にVの字に曲げられて、勢いを殺して着地。 何故なら、次のオブジェらしき物との間隔が狭かったからだ。
追って来た者はこれを迂回するように右に回りこむか、かなりスピードを落として乗り上がるか、跳び越えるかしなくてはならない。
(ふわっ、ロイターがないから無理かと思ったら、結構いけた。 けど、肘が曲がったな)
ロイターと言うのは跳馬や跳び箱を跳ぶときに踏み切るロイター板のことである。
一番に紫揺の後ろを追っていた者が右に迂回したのを目の端に止めると、左に向いて走り、目の前にあったオブジェらしき物の端を通り抜け、次々と障害物を難なく跳んでは走る。
水を得た魚というのは、こういうことを言うのだろう。 追われているという自覚はあるが、いかにも楽しそうに、いや、とっても楽しく跳んでいる。
次はジャングルジムの一マスが大きい四角版と言っていいのだろうか。 大小の四角が意味の分からない形をとって重なり合っている。 こちらも横長で、迂回をすることを思うと渡る方がよっぽど早い。 それをいとも簡単に、雲梯か段違い平行棒をするように渡っていく。 これも身体の大きな男には避けて通らなければ、何とも通りにくいものだった。
「くそっ! これってなんなんだよ!」
誰が叫んだのだろうか。
跳馬に見立てて跳んだりするときには、前への推力はあるものの次の動きの為に、下方向に突くというということをするが、基本、紫揺の推力方向は前である。
オブジェらしき物は堅いものもあれば、そうでない物もあるし、オブジェらしき物だけではなかったようだった。
前への推力を保ちながら、軽く手を触れ跳んだ小象の形をとったそれは、いわゆる張りぼてだった。 手に体重を乗せたわけではなかったから難なく跳べたが、その後を追っていた悠蓮が、思いっきり手を着いて跳ぼうとしてそれが破壊された。 平竹ひごで型を作り、その周りに紙が貼られていただけのものだった。
バキッという音とともに尻から落ち苦悶する。
「ワッ!」
と聞こえたかと思うと、湖彩が悠蓮にぶち当たった。
「頭を下げろ!」
と聞こえ痛みも忘れて、もつれるように地に伏せると、野夜が二人の上を跳んだ。
その野夜、一つの張りぼてのオブジェを跳び越えた時、着地をしようとしたその足元に、跳び越えたものより二周り小さなものが、陰として潜んでいるのを目にした。 それもツルツルとよく滑りそうな肌をした球体上の物。 言わずもなが野夜は転倒した。
身体の大きい梁湶と醍十はジャングルジムモドキに阻まれて迂回をし、別ルートを走っている。
先ほどまでは追うものは楽だった。 追われる者の背中を見ているだけで良かったのだから。 だが今は違う。 追う者を目で追いながら、自分の足元や目の前に広がる障害物そして迂回路をも見なければいけない。
それに何より、楽しく走って跳んでいる者と、後がないかもしれないと、切羽詰まりながら追いかける者とでは心の余裕が違っている。
ここはオブジェか大道具の青空借宿かなにかなのだろうか、そこここに色んなものが見てとれる。 そして出し入れをしやすいようになのか、長いものは道路から正面の建物に向かって縦に入れられている。 よって、建物沿いに走っている者からすれば、それは横長となり跳び越えることが出来なければ、否が応にも迂回せねばならない。
それからも紫揺はわざといびつな障害物の多いところを狙って、身体の小ささと身体能力を有利に使った。
左右自在に動くものだから、追う方は道路に出るのか、建物の方に行くのかが全く見通せなかった。
それに道路と言っても、立派な道路ではないし、道を外れれば雑木林が広がっている。 そんな中に入られては簡単に探せないし、紫揺をそんな所に入れるわけにもいかなかった。
追ってくる男達との差がどんどん開いていく。
(あーあ、ここも、もう終わりか・・・)
オブジェらしきものがなくなり、前に大きく横に広がる水溜りが見えた。 単なる水溜りだろうか、それとも小さな池か。 深さが分からない。 ひとっ飛びするにはかなり無理がありそうな奥行だ。
そのすぐ右には小さな建物、トイレらしきものが見える。 その壁が目に入る。 トイレらしきものと水溜りか池らしきものの間には、20センチほどの間があった。 左側にも同じように20センチほどの間をあけて、施設らしき建物の裏側があった。 こちらは壁だけでなく窓がある。
(走るしかない)
スピードを緩めて幅20センチをカニ歩きする気など毛頭ないが、このまま走ってしまえば、水溜りポチャか池ドボか間違いなし。 出来るだけ汚れないようにソロッとカニ歩きすると、いくら距離をあけたからといって、追いつかれる可能性が無くはない。 今までの努力が水の泡になる。 だから走った。 トイレらしきものの壁を。 身体を斜めにしてギリギリ水溜まりか池の端に降り立った。
振り向くと男たちが悪戦苦闘しているのが見てとれた。 さすがに息が上がる。 膝に手を着くと肩で息をした。
「でも、今のうち」
深呼吸を大きく三回する。
少しでも進もうと腰を伸ばし足を出そうとした時、目の前の風景がなくなっていた。
「え?」
瞬きを何度かした。
「お探ししておりました。 藤滝紫揺さん」
敢えて今はまだ “紫さま” とは言わない。
「・・・」
ここにきて六人目が居たことに初めて気付いた。
「無礼極まりないことをお詫びいたします。 お話だけでも聞いていただけませんでしょうか」
まるでセノギだと思った。
さっきまで追いかけてきた人達は、ホテルや攫われた時の人達と同じだ。
この男を一瞬セノギだと思った。 セキがセノギのことをどれだけ良く言っても、セノギが言葉を尽くしたとしても、聞く耳なんてどうして持てようか。
目の前に居るこの男も攫った者の仲間だ。 北の領土といわれる者たちだ。
紫揺の前に立っていた阿秀を無視して歩き出す。 阿秀に・・・いや、阿秀という名も知らない。 目の前にいる男に再度攫われるかもしれない。 そんな危惧を持ちながらも歩を進めた。 不安ではない。 もう攫われる気などさらさら無いのだから。 家に帰るのだから。
阿秀が紫揺の後ろについて歩き出し軽く手を上げる。
「うっそ、阿秀いつの間に・・・」
これも誰が言ったのだろうか。
だがそんなことはどうでもいい。 取り敢えず五人の明日の運命は見えていた。
打撲痛、筋肉痛、間違いなし。 言葉もなく全員がその場にへたり込んだ。
「・・・」
ここにも言葉を失っていた者がいた。 だがその口はすぐに開かれた。
「紫揺ちゃんって・・・サル?」
阿秀のあの姿を見てどうしてもその後、何をするのかを見たかった。
一旦は沈んだ身体だったが、すぐに立て直して、阿秀のように身軽にはいかなかったが、壁を上った。 石垣とまではいわないが、足をかけられるところがあったから、よじ登ることが出来た。
そして阿秀を見ていたら、一瞬考えたように止まり、辺りを見回すと足の向きを変え、今の紫揺の居る所に向かった。
とったルートは紫揺とは違っていた。 管理棟と建物の間を通って建物の裏に出た。
どこに行くのだろうかと、建物の影から見ていると、暫くして誠也曰くの、野生のサルが跳びはねてパルクールをしていたという次第だった。
ふと我に返った誠也。
「あ、なにやってんだ俺。 え?・・・俺って・・・もしかして、いや、そんな筈はない。 絶対にない! 有り得ない! 絶対にストーカーなんかじゃない!」
自分に言い聞かしているようだが、きっとその初心者は誰も同じことを言うのだろう。
「藤滝紫揺さん、お話を聞いてはいただけませんか?」
阿秀が紫揺に話しかけるが、それは東の領土のルールというものから逸脱していた。 だがここまできてルールを守ってはいられなかった。
もし醍十が下船後、領主の元に向かったのならば、すぐにでも連絡して領主に来てもらいたかったが、それは叶わなかった。
醍十が希望したことは別として、現実問題、醍十はここに居るのだ。 醍十が領主をここに連れてくることなど出来ない。 もちろん此の地のことをよく知らない領主が、一人で来ることなど出来ない。
「・・・」
「今日までに、どうお聞きになっておられたかは分かりませんが、我らは東の領土の者です。 藤滝紫揺さんに一番にお会いするのは、東の領土の領主でした。 ですがこんなことになってしまい、領主がご挨拶にも来られず、その上、非礼を働きました。 お詫びを申し上げます」
尚も歩を進めるが、どこに行くのか紫揺本人さえも分かっていない。
取り敢えずこの建物をぐるりと回って・・・原点復帰しようとしか考えられない。 頭が回らない。 誠也と別れたところに戻るしか今は考えられない。
いつからか、船を片付けた若冲が正面から歩いて来ていた。 それを見た阿秀がそれ以上近寄るなと、紫揺の後ろから手を上げて止め、その手を軽く横に振った。 若冲が回れ右をしてどこかに消えていった。
「・・・東とか北とか・・・」
紫揺が口の中で言うと、次に振り返り阿秀を睨み据えて言った。
「それって何なの!? それが私に何の関係があるって言うの!」
北の領土から言われたことは分かっている、いや、分かりたくない、分かるはずもない。 言われたことを知っている、聞いただけだ。
「ご説明させていただけませんか? そのお時間を頂けませんか?」
もう逃げられないだろう。 この、六人目、単に追いかけるのをさぼっていたとか、高見の見物でトンビに油揚げとしか思えない男から。
「お話を聞くだけでいいんですね」
挑戦的に言い返す。
「はい。 私からではなく領主から」
セノギと同じことを言う、と腹の中で吐くように言う。
「そう、領主ですかっ!」
噛みつかんばかりに言う。 今までに何度聞いた代名詞だろう。
「アナタからではないんですかっ!?」
「我が領土の長は領主です」
「答えになってないんですけどっ」
本当を言えば大体の想像はつく。 でもヤケクソになって嫌味の一つも言いたい。
「私がそのお話に納得をしなければどうするんですか?」
この質問にはセノギではなく、きっとムロイと同じことを言うだろう、と頭の中で考えている。