大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第142回

2020年04月27日 22時44分21秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第142回



阿秀の姿を目で追っていた誠也。 その姿が見えなくなった。 すると阿秀からたたみ直され渡されたメモを広げて見てみるとそこに数字が並んでいた。

「って、あれ? これって春樹の携帯番号じゃんかっ!」

そう。 上着のファスナーを閉め忘れ、諭吉さまは顔を出していた程度に済んだが、春樹が紫揺に渡したメモはしっかりと落としていたようだった。

「紫揺ちゃん、春樹の連絡先を聞いてたって言ってたけど、絶対にこのメモのことだよな。 ってことは、そのメモを落としちゃってる紫揺ちゃんから春樹に連絡が取れない。 ってこと第二弾は俺とも連絡が取れない。 ってこと第三弾は、あの美青年のことが訊けない、それに今の人も紫揺ちゃんの知り合いだったら・・・」

・・・訊けなくなった。

美しくない三段論法を立てると、その場に沈んでいった。

息子は沈み、走っていた父親はいくらも走らない内に足がもつれ、ドッテンとこけたままの姿で止まっている。
もうどこにも紫揺も男たちの姿も見えなくなっていた。



逃げていた紫揺。 坂を上がりきって左後ろを見ると建物があったが、前に見える駐車場を選んだ。 その時の躊躇が男達との差をかなり縮めていた。 駐車場を選び走ったが醍十に先を越されてしまい、前を塞がれてしまっていた。

(息は整った)

気取られないように息を深くして整えていた。

紫揺にしてみれば前に回り込んできた初めて見る男と睨み合っていた。
男は肩を上下させながら、好き勝手なことを言っている。 後ろの男たちも紫揺と睨み合っている男の言うことを、身体を固くして聞いていた。 故にその男たちの息はまだ上がっている。

(今だ)

そう自分に言うと醍十の横をすり抜け、目の前に広がる駐車場の中に走り出した。

あっ! っと叫んだ醍十であった。 いや、醍十以外も咄嗟に叫んだ。 叫んだだけであった。 まさか逃げ出すとは思っていなかった。 それに紫揺の手を取ることも憚られた。 それが遅れを取った。 我に返り紫揺の後を追った。

逃げ出した紫揺。 そこここに車が停まっている。 ジグザグと車を縫うように走る。 小回りの利く紫揺の身体に対して、大の男たち、それも身体が大きくなるほどに距離をあけられる。 いつの間にか醍十が悠蓮に抜かれていた。

紫揺の小さな身体を隠すにはタイヤ一本あればいい。 それにここに停まっている車は車高が高いものが殆どだ。 普通に歩いているだけでも紫揺の身長を隠すことが出来る。

車の後ろに消えたと思ったら、また違うところから出てくる。 紫揺にしてみれば単にジグザグに走っているだけなのだが、追う男達にはそうは見えないようだ。

ひときわ大きなタイヤの車を見つけた。 そこに背を預けてもう一度呼吸を整える。 同時に耳を澄ます。

(一人、二人、三人・・・四人。 四人だったっけ?) と、足音で何人いるか、またその方向を確認する。

(・・・五人)

最後に数えられたのは、誰の足音なのだろうか。

「どこに行かれた」

「見失った」

「弱音を吐いてないでお探ししろ!」

声の方向は分かるが、それが誰なのかまで知る由はない。 だがこの台詞はどう聞いてもホテルを脱走し、失敗した時とは台詞そのものは違うものの、同じ内容のことを言っているのは分かる。

息がかなり整ってきた。 聞こえてくる足音に合わせて小さくは動いているが、こんなことをしていてはいつか見つかってしまう。

(取り敢えずここから出ないと)

駐車してある車が邪魔だが、離れた所に先ほど左後ろを見た時の建物が二つ。 何かの施設と管理事務所らしき建物が見えていた。
奥に管理事務所らしきもの。 その横に幅のある道を挟んで何かの施設らしき建物が管理事務所らしきものより手前に見える。

逃げてきた道を帰ることになるが、建物の中に入ることが出来ればおんのじだし、入られなくてもここより随分マシだろう。 よく自販機の横に設置してあるごみ箱でもあれば、その中に入ることも出来るのだから。

あらためて精神を集中する。 足音から身を隠して車の間を移動していく。 少しでも建物の方に近づくように。
駐車場の端まで来た。 そして一気に走った。

「あ!」 と、声が聞こえた。

「うそ、もう見つかったの?」

後ろを振り向くと、バラバラの方向から五人が走って来るのが見える。
このまま建物に走って行っては隠れる時間もなにもない。 辺りに目を満遍なく動かす。

「あった!」

方向を変える。 走っている足を右方向に変えた。 先程は車の影になって見えなかった所だ。
施設らしき建物の後ろに紫揺の得意分野が転がっているのが見えたのだ。
走っていくと所狭しとそれらが幾つも転がっていた。

「あそこまで捕まらなかったら逃げ切れる」

施設らしき建物の後ろに回って得意分野で距離をあけ、そのままぐるりと回って建物の中に入るか、若しくは直接施設らしき建物にあるだろうゴミ箱の中。
どちらを選ぶか。 目が嬉しそうに輝いた。

走りきると得意分野の中に入った。

まずは1メートル幅くらいで紫揺の腰より少し高く “コ” の字を左に90度ひっくり返した進入禁止の為であろうか、金属製の物がみえた。 40センチほどの間隔を空けて横に並んでいる。 それが50センチほどの間隔を前後交互にずらし三列。

(潜ると跳ぶとどっちが早い・・・)

考えがまとまるより先に身体が動いた。

一列目に左手を着くと足を揃え横跳びをし、素早く右手で二列目を持ち身体を引き寄せ、左手を三列目に移すと右手も三列目に移し二列目をギリギリで跳び越えた。 そのまま二列目と三列目の間に身体を滑り込ませると、足を着くことなく潜り込み、蹴上がりをするように足首をそれに近づける。 蹴上がりならそのまま足を上方向に向けるが、今は上下に推進方向をとる時ではない。
足の方向を前に取ると、飛行機飛びの後半のような流れを取り、そのままスピードを緩めることなく着地をすると走り出す。

後を追って来た男たちは、紫揺のように列の間には簡単に身体が入らない。 入ろうとすれば、身体を横にしなくてはならない。 一列目に飛び乗ると二列目三列目を跳び越える。 紫揺の流麗な流れと比べると、かなりの時間ロスとなる。

次に何の形か、跳馬の高さよりは低く、跳馬とは比べ物にならないほど横に長く、角のないオブジェらしきもの。 片足で踏み込み、それに片手を着いたかと思うと、次にもう片手を着く前には、すでに身体は前にVの字に曲げられて、勢いを殺して着地。 何故なら、次のオブジェらしき物との間隔が狭かったからだ。

追って来た者はこれを迂回するように右に回りこむか、かなりスピードを落として乗り上がるか、跳び越えるかしなくてはならない。

(ふわっ、ロイターがないから無理かと思ったら、結構いけた。 けど、肘が曲がったな)

ロイターと言うのは跳馬や跳び箱を跳ぶときに踏み切るロイター板のことである。

一番に紫揺の後ろを追っていた者が右に迂回したのを目の端に止めると、左に向いて走り、目の前にあったオブジェらしき物の端を通り抜け、次々と障害物を難なく跳んでは走る。

水を得た魚というのは、こういうことを言うのだろう。 追われているという自覚はあるが、いかにも楽しそうに、いや、とっても楽しく跳んでいる。

次はジャングルジムの一マスが大きい四角版と言っていいのだろうか。 大小の四角が意味の分からない形をとって重なり合っている。 こちらも横長で、迂回をすることを思うと渡る方がよっぽど早い。 それをいとも簡単に、雲梯か段違い平行棒をするように渡っていく。 これも身体の大きな男には避けて通らなければ、何とも通りにくいものだった。

「くそっ! これってなんなんだよ!」

誰が叫んだのだろうか。

跳馬に見立てて跳んだりするときには、前への推力はあるものの次の動きの為に、下方向に突くというということをするが、基本、紫揺の推力方向は前である。
オブジェらしき物は堅いものもあれば、そうでない物もあるし、オブジェらしき物だけではなかったようだった。

前への推力を保ちながら、軽く手を触れ跳んだ小象の形をとったそれは、いわゆる張りぼてだった。 手に体重を乗せたわけではなかったから難なく跳べたが、その後を追っていた悠蓮が、思いっきり手を着いて跳ぼうとしてそれが破壊された。 平竹ひごで型を作り、その周りに紙が貼られていただけのものだった。
バキッという音とともに尻から落ち苦悶する。

「ワッ!」

と聞こえたかと思うと、湖彩が悠蓮にぶち当たった。

「頭を下げろ!」

と聞こえ痛みも忘れて、もつれるように地に伏せると、野夜が二人の上を跳んだ。
その野夜、一つの張りぼてのオブジェを跳び越えた時、着地をしようとしたその足元に、跳び越えたものより二周り小さなものが、陰として潜んでいるのを目にした。 それもツルツルとよく滑りそうな肌をした球体上の物。 言わずもなが野夜は転倒した。

身体の大きい梁湶と醍十はジャングルジムモドキに阻まれて迂回をし、別ルートを走っている。

先ほどまでは追うものは楽だった。 追われる者の背中を見ているだけで良かったのだから。 だが今は違う。 追う者を目で追いながら、自分の足元や目の前に広がる障害物そして迂回路をも見なければいけない。
それに何より、楽しく走って跳んでいる者と、後がないかもしれないと、切羽詰まりながら追いかける者とでは心の余裕が違っている。

ここはオブジェか大道具の青空借宿かなにかなのだろうか、そこここに色んなものが見てとれる。 そして出し入れをしやすいようになのか、長いものは道路から正面の建物に向かって縦に入れられている。 よって、建物沿いに走っている者からすれば、それは横長となり跳び越えることが出来なければ、否が応にも迂回せねばならない。

それからも紫揺はわざといびつな障害物の多いところを狙って、身体の小ささと身体能力を有利に使った。

左右自在に動くものだから、追う方は道路に出るのか、建物の方に行くのかが全く見通せなかった。 
それに道路と言っても、立派な道路ではないし、道を外れれば雑木林が広がっている。 そんな中に入られては簡単に探せないし、紫揺をそんな所に入れるわけにもいかなかった。
追ってくる男達との差がどんどん開いていく。

(あーあ、ここも、もう終わりか・・・)

オブジェらしきものがなくなり、前に大きく横に広がる水溜りが見えた。 単なる水溜りだろうか、それとも小さな池か。 深さが分からない。 ひとっ飛びするにはかなり無理がありそうな奥行だ。

そのすぐ右には小さな建物、トイレらしきものが見える。 その壁が目に入る。 トイレらしきものと水溜りか池らしきものの間には、20センチほどの間があった。 左側にも同じように20センチほどの間をあけて、施設らしき建物の裏側があった。 こちらは壁だけでなく窓がある。

(走るしかない)

スピードを緩めて幅20センチをカニ歩きする気など毛頭ないが、このまま走ってしまえば、水溜りポチャか池ドボか間違いなし。 出来るだけ汚れないようにソロッとカニ歩きすると、いくら距離をあけたからといって、追いつかれる可能性が無くはない。 今までの努力が水の泡になる。 だから走った。 トイレらしきものの壁を。 身体を斜めにしてギリギリ水溜まりか池の端に降り立った。

振り向くと男たちが悪戦苦闘しているのが見てとれた。 さすがに息が上がる。 膝に手を着くと肩で息をした。

「でも、今のうち」

深呼吸を大きく三回する。
少しでも進もうと腰を伸ばし足を出そうとした時、目の前の風景がなくなっていた。

「え?」

瞬きを何度かした。

「お探ししておりました。 藤滝紫揺さん」

敢えて今はまだ “紫さま” とは言わない。

「・・・」

ここにきて六人目が居たことに初めて気付いた。

「無礼極まりないことをお詫びいたします。 お話だけでも聞いていただけませんでしょうか」

まるでセノギだと思った。
さっきまで追いかけてきた人達は、ホテルや攫われた時の人達と同じだ。
この男を一瞬セノギだと思った。 セキがセノギのことをどれだけ良く言っても、セノギが言葉を尽くしたとしても、聞く耳なんてどうして持てようか。

目の前に居るこの男も攫った者の仲間だ。 北の領土といわれる者たちだ。
紫揺の前に立っていた阿秀を無視して歩き出す。 阿秀に・・・いや、阿秀という名も知らない。 目の前にいる男に再度攫われるかもしれない。 そんな危惧を持ちながらも歩を進めた。 不安ではない。 もう攫われる気などさらさら無いのだから。 家に帰るのだから。

阿秀が紫揺の後ろについて歩き出し軽く手を上げる。

「うっそ、阿秀いつの間に・・・」

これも誰が言ったのだろうか。

だがそんなことはどうでもいい。 取り敢えず五人の明日の運命は見えていた。
打撲痛、筋肉痛、間違いなし。 言葉もなく全員がその場にへたり込んだ。


「・・・」

ここにも言葉を失っていた者がいた。 だがその口はすぐに開かれた。

「紫揺ちゃんって・・・サル?」

阿秀のあの姿を見てどうしてもその後、何をするのかを見たかった。

一旦は沈んだ身体だったが、すぐに立て直して、阿秀のように身軽にはいかなかったが、壁を上った。 石垣とまではいわないが、足をかけられるところがあったから、よじ登ることが出来た。
そして阿秀を見ていたら、一瞬考えたように止まり、辺りを見回すと足の向きを変え、今の紫揺の居る所に向かった。

とったルートは紫揺とは違っていた。 管理棟と建物の間を通って建物の裏に出た。
どこに行くのだろうかと、建物の影から見ていると、暫くして誠也曰くの、野生のサルが跳びはねてパルクールをしていたという次第だった。
ふと我に返った誠也。

「あ、なにやってんだ俺。 え?・・・俺って・・・もしかして、いや、そんな筈はない。 絶対にない! 有り得ない! 絶対にストーカーなんかじゃない!」

自分に言い聞かしているようだが、きっとその初心者は誰も同じことを言うのだろう。


「藤滝紫揺さん、お話を聞いてはいただけませんか?」

阿秀が紫揺に話しかけるが、それは東の領土のルールというものから逸脱していた。 だがここまできてルールを守ってはいられなかった。

もし醍十が下船後、領主の元に向かったのならば、すぐにでも連絡して領主に来てもらいたかったが、それは叶わなかった。
醍十が希望したことは別として、現実問題、醍十はここに居るのだ。 醍十が領主をここに連れてくることなど出来ない。 もちろん此の地のことをよく知らない領主が、一人で来ることなど出来ない。

「・・・」

「今日までに、どうお聞きになっておられたかは分かりませんが、我らは東の領土の者です。 藤滝紫揺さんに一番にお会いするのは、東の領土の領主でした。 ですがこんなことになってしまい、領主がご挨拶にも来られず、その上、非礼を働きました。 お詫びを申し上げます」

尚も歩を進めるが、どこに行くのか紫揺本人さえも分かっていない。
取り敢えずこの建物をぐるりと回って・・・原点復帰しようとしか考えられない。 頭が回らない。 誠也と別れたところに戻るしか今は考えられない。

いつからか、船を片付けた若冲が正面から歩いて来ていた。 それを見た阿秀がそれ以上近寄るなと、紫揺の後ろから手を上げて止め、その手を軽く横に振った。 若冲が回れ右をしてどこかに消えていった。

「・・・東とか北とか・・・」

紫揺が口の中で言うと、次に振り返り阿秀を睨み据えて言った。

「それって何なの!? それが私に何の関係があるって言うの!」

北の領土から言われたことは分かっている、いや、分かりたくない、分かるはずもない。 言われたことを知っている、聞いただけだ。

「ご説明させていただけませんか? そのお時間を頂けませんか?」

もう逃げられないだろう。 この、六人目、単に追いかけるのをさぼっていたとか、高見の見物でトンビに油揚げとしか思えない男から。

「お話を聞くだけでいいんですね」

挑戦的に言い返す。

「はい。 私からではなく領主から」

セノギと同じことを言う、と腹の中で吐くように言う。

「そう、領主ですかっ!」

噛みつかんばかりに言う。 今までに何度聞いた代名詞だろう。

「アナタからではないんですかっ!?」

「我が領土の長は領主です」

「答えになってないんですけどっ」

本当を言えば大体の想像はつく。 でもヤケクソになって嫌味の一つも言いたい。

「私がそのお話に納得をしなければどうするんですか?」

この質問にはセノギではなく、きっとムロイと同じことを言うだろう、と頭の中で考えている。

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虚空の辰刻(とき)  第141回

2020年04月24日 23時17分51秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第140回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第141回



「あ、あのクルーザー帰ってきたんだ」

何気なく振り返り海を見ながら駐車場に向かって歩いていた誠也が呟いた。

『まだ電車も動いてないよ。 おじさんが適当な駅まで車で送って行くから、先に駐車場に行ってなさい。 片付けが終わったらおじさんもすぐに行くから』 そう言われ、先に駐車場に向かって誠也と共に紫揺が長い上がり坂を歩いていた。 

あの島でトウオウが出してくれたとは言え、あれだけ騒いでいたのだ。 誰かが音を聞きつけて、紫揺が脱走をしたことに気付き船で後を追ってこられるかもしれないと、船の上で何度か後ろを振り返っていたが、追ってくる灯りは見えなかった。

「後ろに灯りは見えなかったのに・・・。 あのクルーザーっていうのはスピードを出して戻ってきたんでしょうか」

船のスピードの常識というものが分からない。

「さぁ? どうなんだろうね」

クルーザーを見に引き返したいが、紫揺が先を歩き出したので仕方なく後を追った。

「あ・・・」

誠也が小さく呟いた。

「紫揺ちゃん、ファスナーが閉まってないよ」

紫揺がずっと誠也の半歩後ろを歩いていたので気付かなかったが、羽織っている上着のファスナーの閉まっていないポケットから諭吉さんがちょっと顔を出していた。

「あ、ウッカリしてた」

船を下りるまでは少しでもポケットの中を乾かそうと、金を入れた後もファスナーを閉めないでいた。 下船の時にはファスナーを閉める気でいたが、すっかり忘れていた。
金を奥に押し込むとファスナーを閉めた。

「おじさん駅まで送って下さるって仰ってましたけど、本当に甘えてもいいんでしょうか?」

「いいんじゃない? 親父がしたくてそう言ってんだから」

紫揺の半歩前を歩き、両手を頭の後ろに組んだ。

「ってか、やらせてあげて」

「え?」

「どうも親父を見てたら、紫揺ちゃんのことを自分の娘気分で見てるみたいなんだよな。 早い話、俺の妹」

「え?」

「二歳以上差の」

「・・・どういう意味ですか」

二歳差のはずだ。

「ま、年齢は置いといて。 娘が欲しかったなんて聞いたことなかったけど、紫揺ちゃんのことを気にいったんじゃない? こんな子が俺の娘だったら、とか何とか考えてんじゃないかな? 俺からの親父への親孝行じゃないけど、親父に駅まで送らせてやってもらえない?」

「そんな。 こちらこそ迷惑をお掛けしっぱなしなのに」

「迷惑だなんて思ってないよ。 親父は紫揺ちゃんと会えたし、俺はあのクルーザーを間近で見られたし、紫揺ちゃんのことがなかったらあんな近くでクルーザーを見られなかったもん」 

あくまでも船の趣味は父親である、自分ではない。 よって滅多に船着き場に来ることはなかったのだから、憧れのクルーザーをそうそう見ることもなかった。

「それに・・・」

続きを待っていたが、誠也の口が閉じられた。

「はい?」

「いや、なんでもない」 

―――それに、あの女性美を思わせる程の美青年にも逢えた。 顎ばっかり見てたけど。
紫揺ちゃんはあの美青年と知り合いのはず。 でなきゃ、あの美青年が俺に紫揺ちゃんを紹介するはずない。 あの美青年が誰なのか名前とか性格とかいろいろ訊きたい。 でもそれって・・・自分を同性愛者だと認めることになるのだろうか。

俯いた逡巡は長くはなかった。

「あ、あのさ・・・」

耳の後ろを掻きながら顔を上げる。

「・・・え?」

『え?』 じゃなくて・・・ここは『はい?』 とでも言って欲しい。 でないと同性愛者なのか? と訊かれた気分になる。 が、『え?』 と言った紫揺の視線が後方に向けられている。 誠也自身も父親の呼ぶ声が聞こえた気がして振り返ったのだが、間違いなく父親の姿はあったがそれ以外の姿も目に入った。

「え?」

後ろを見た誠也が同じセリフを吐いた。

最初に二人を追ってきた父親。 そしてずっと後ろにクルーザーから二人が降りてきているのを見てとれたが、その前を歩くスーツ姿の数人の男がこちらに歩いてくるのが目に入ったからだった。 そんな姿などさっき振り返った時には目に入らなかったのに。



少し前

この季節である。 明るくなり出すと早い。 もう既にあたりは完全に明るくなっていた。 坂を歩いて行く二人の姿が見てとれた。

「いいか、先走るんじゃないぞ」

野夜が全員に言うが、野夜自身も他の四人の心も逸っていた。

「ああ、今を逃がしたら後はないも同然と考えなければな」

梁湶の言いように悠蓮が頷いていたが、阿秀が止めるのも聞かず誰もがまだ動いている船から跳び下りてしまっていた。



「なんだろね、なんか物々しいね。 こんな所でスーツって」

と言いながら、あのクルーザーに乗って微笑んだ人のスーツ姿、長身痩躯でその秀麗な顔に髪が風に踊っていた。 その顔が頭に浮かび耳が熱くなるのを感じた。

(・・・俺って・・・ストライクゾーン広かったんだ)

島で見た女性美を想わす青年は自分と同じくらいの年齢に見えた。 だがクルーザーに乗っていた長身痩躯の男性は自分より随分上だ。

―――同性愛者と認めたのだろうか。

「杢木さん・・・」

「ん? なに?」

「今日の事、本当に感謝してますって、おじさんに伝えてください。 それと送ってもらえなくって残念ですって。 もちろん、杢木さんにも感謝しています。 先輩の、あ、春樹先輩の電話番号を聞いています。 先輩から杢木さんの連絡先を訊いて、必ずご連絡させていただきます」

深くす早くお辞儀をすると、走り出した。
春樹の連絡先を聞いているというのはメモのことであった。 

「え?」

一瞬のことに杢木が呆気に取られている間に、紫揺は走り出していた。

スーツを着た男。 それは屋敷でも見ていたし、ホテルでも見ていた。 なにより、自分を攫った男たちが着ていた。
もちろんシノ機械にいた頃、仕事の客は殆どが作業着だったが、遠方から来る客はスーツを着ていた。 だからスーツを着ているからといって、必ずしも屋敷の人間、若しくは攫った人間かホテルにいた人間とは限らないのは分かっている。
でも杢木の言う通り、こんな所でスーツを着ているなんて。 それもこんな時間に。 追ってきたか、待ち伏せしていた以外に考えられない。
その紫揺が走り出したのを見て、醍十が走り出してしまった。

「っと、おい! 醍十!!」

湖彩が叫ぶ。

一番に跳び下り、誰よりも先を歩いていた醍十が走り出したのだ。 醍十を止めようと、湖彩、野夜、梁湶、悠蓮が醍十を追って走り出した。
挙句に

「紫さま!」

醍十が叫んでしまった。

(やっぱり!)

紫と呼ぶからには、追ってきた以外の何者でもない。
足を止めることなく後ろを振り向く。 紫揺の足は遅い方ではない。 どちらかと言えば早い方だ。 とはいえ、足を止めなくとも振り向いてしまっては速度が落ちる。 それに醍十には失礼だが、身体が大きく愚鈍に見えるが、身体が大きいといえど決して遅鈍ではない。

目の前に見えていた幅広で緩やかな長い坂を上がりきり、一瞬の躊躇を見せて、そのまま真っ直ぐに駐車場に向かって走った。

坂を上がってUターンするように左に曲がれば、建物があり、坂を上がった延長上の右手の先には何台もの車が見えた。 建物と駐車場、一瞬どちらに走ろうかと迷ったが、駐車場を選んだということだ。

先頭の男がすぐ間近に追いついてきているのが分かる。 いや、それ以外の足音も聞こえる。
追う方は追われる者を追いかければいいだけだが、追われる方は自分の進行方向を考えねばならない。 顔を目を左右に振りどこに向かって走ろうかと迷う。 僅かではあるが一瞬一瞬にスピードが落ちる。

「きっとさっきの人達全員だ・・・」

振り返った途端、大きな身体が横をすり抜けた。

「え?」

前を見直すと、肩を上下させている大きな男が立ちふさがっていた。

「紫さま、どうか話を聞いてください」

醍十を止めきれなかった他の四人も、大きく肩で息をしながら紫揺の後方についた。


「まったく・・・」

遅れて後方から足早に歩いていた阿秀が大きく溜息を吐き、一瞬止めた足をまた動かしながら、数分前のことを思い浮かべた。


阿秀の隣から皆の元に戻った悠蓮が、他の者と同じように身体を乗り出して前を見ていた。 船が段々と桟橋に近寄っていくと、坂がある方向に歩く身長差のある二人の姿が見えた。 それ以外には、離れた所に同じ方向を歩く男の姿だけだ。 下船したのがこの三人だということは明らかだった。

「悠蓮どうだ?」

隣に居た野夜が聞く。
紫揺の会社で紫揺の後ろを追っていた時の事を脳裏に浮かべる。

「あの時はコートを着てらした。 後姿だけでは何とも言えないが、さっきの船に乗っていたのは、あの二人というのは間違いないだろう」

冬のコートを着ている姿と、Tシャツの上に上着を着ている姿とでは、後姿だけでは何とも言えない。

「ああ、それらしき者は他に居ないからな」

乗船しようとしている者はいる。 だがそれは関係ない。
全員が食いつくように船べりから身をのり出して、身長差のある二人の行方を見ている。
そして桟橋に近寄った途端、まだ船が動いているというのに、一番に醍十が跳び下りその後を四人が跳び下りた。

阿秀がすぐに全員を止めたが、全く止まるものではなかった。
大声を出せば紫揺らしき少女に聞こえるかもしれない。 そうすれば、もし少女が紫揺ならば振り返り逃げ出す可能性が大きかった。 今まさに脱出してきたであろうところなのだから。 いや、それも想像だ。 紫揺が脱出してきた確信など何もないのだから。 だが、何においても万全を尽くさなければならない。 そう、今はあの少女が紫揺であって、そして今まさに脱出してきた。 そう考えて行動しなければいけない。 だから脱出をしてきたからには、何を見ても敵に見えるだろう。 そこに一人でも多ければ、一人分威圧を増すだけ。

逃げ出す小さな火を大きな炎にしたくはなかった。
あのまま間を詰めていけば、紫揺に辿り着けるのは目に見えていたのだが、全員が走り出してしまうとは思ってもいなかった。


後方から若冲が阿秀に追いついてやって来た。

「追いついたから良かったものの、無茶もほどほどにしてもらわないと困りますね」

醍十たちのことを言っているのだ。

「片付けてきたのか?」

「いえ、まだです。 あれを見てオチオチ片付けなんて出来ませんよ」

そう話す二人がもう少しで誠也親子を抜くと言う時、親子の会話が聞こえた。
阿秀が軽く手を上げて若冲を止まらせる。 同時に阿秀も止まった。

「おい、いったい何があったんだ?」

やっと誠也に追いついた父親が訊く。
遅すぎる。 地球を何週走ってからやって来たのだろう、と思うくらいだ。

「いや、分からない」

「取り囲まれてるじゃないか」

「確かに逃げたっぽいけど」

「お前ってヤツは!」

そう言うと、誠也の胸に紙きれを突きあてた。

「落し物だ。 預かっとけ」

そう言って少々出っ張り気味なお腹を揺らして走り出した。 その姿が実にコミカルである。 もし、中高生がこの姿を見たら『カ~ワイイ』 ということ請け合いだ。
前傾で走っていない。 走れないのだろう。 プリっとしたお腹を突き出して後傾で走っている。 ある意味悲しいが。

阿秀の眉がピクリと動いた。 もう一度手を上げて若冲を止まらせておくと、二歩三歩と歩く。

「やぁ、君、海上であったね」

誠也が振り向いた。

「あ・・・」

ついさっき頭に浮かべていた人物が目の前にいる。 その上、話しかけてこられた。

「突然で失礼、あんな時間にどうして?」

「あ・・・いえ、その。 友達からの頼まれモノがあって」

物なのか者なのか。

(声までカッコイイ・・・) 落ち着いていて清々しくて、それなのにまろやかで。

「そう。 ちょっとそれ見せてもらえる?」

作った微笑ではあるが、到底誠也にはそんな風には見えない。

誠也の手にあるものをちょっと指さしてから、スッと出された細い指。
掌を上に向けて差し出された時の指の曲がり具合がなんとも美しい。 それにその瞳に誠也が映っている。 その顔が微笑んでいる。

「あ、でも。 これ俺のじゃないから・・・」

断りたくなどないが、これは紫揺の持ち物だ。 勝手に人に見せることなど出来ない。

阿秀の笑みが深まった。
落し物だと言っていた。 三人しか乗っていない船で、二人の物でないということは、紫揺のものだということだ。
先ほどまでは作った微笑であったが、今は完全に真からの笑みである。

「失礼」

そう言うと更なる微笑と共に、見せていた掌を返して、人差し指と中指で誠也の手の中の物を挟むと、スッと取り上げた。

何故か嫌味がない。

「メモ・・・」

小さく言い広げると、そこには数字が書かれていた。 その数字を覚えすぐにたたみなおした。
それはどう見ても携帯番号であった。

「ありがとう」

メモを誠也の手に返した時だった。

「わっ!」 と醍十の声が聞こえた。

醍十の横をすり抜けて紫揺が再度逃走をはかったようだった。

「船を片付けておいてくれ」

後ろを向くと、低く厳しい、誠也にかけた声とは全く違った声音で若冲に言った。

「了解」

「あの!」

動きかけた二人が止まる。 四つの目が誠也に向く。

「紫揺ちゃんの知り合いの人なんですか?」

それに笑みで応えたのは阿秀だった。
青年は “紫揺ちゃん” と言った。 確実に藤滝紫揺、紫さまだと分かった。

微笑みを残し二手に分かれると、すぐにその場から離れた。
一人はクルーザーを定位置に置くために。 一人は紫揺を追うことなく、そのまま進んで坂を上がり、坂の途中で左に見える背の高さほどもある壁を軽々と跳び上がり、紫揺とは別の方向に。

その姿を見て誠也がまたも恋焦がれるとは、阿秀の知ったことではなかった。

「うっそーん」

身悶えする23男。 見ていられない。

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虚空の辰刻(とき)  第140回

2020年04月20日 22時38分30秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第140回



「此之葉どうしてるかなぁ」

醍十が唐突に言った。

「お前っ! 紫さまのことより此之葉のことが心配なのかよ」

誰もが言いたいことを代表して悠蓮が言う。

「あーん? 紫さまのことは現状、若冲に任せてるんだろがぁ。 今の俺らにどうしようもない。 それに比べて此之葉は領主に預けてるんだぞ。 だったら此之葉のことが心配になるだろうよぉ」

「領主と一緒に居るんだからそれでいいじゃないか、何が心配なんだよ」

「領主はコッチのことはよく知らない。 此之葉もなぁ」

「ホテルにじっとしていればなんてことないだろ」

「そこだ! そこが心配なんだ」

「は!?」

「じっとばかりしてちゃ、食うもんも食わない可能性があるだろ。 此之葉ちゃんと食ってるかなぁ」

阿秀以外が歎息と共に仰け反ったり、頭を抱えた。

「安心しろ。 ルームサービスを頼むまでは出費がかさむからできなかったが、それなりのものは置いてきた」

「それなりって? まさかパンやインスタントじゃないでしょうね」

「ま・・・まぁ、な。 ・・・そのようなもの、だ」

夕飯までは同行していた。 だから朝食用にとサンドイッチとお湯を入れるだけのスープを置いてきた。 しっかりと醍十に指摘されたものを置いてきていたのだった。

「っとに、阿秀までそんないい加減なものを此之葉に食べさせて」

横目で阿秀を睨んでいる醍十に他の者が絡んでくる。

「お前は此之葉のなんなんだっ」

「親父か!」 

「せめて兄貴って言え」

言い返すと今度は悠蓮と湖彩に睨みをきかせる。

「じゃ、兄貴は妹に気をもんでおいてくれ」

阿秀がおもむろに立ち上がると醍十の肩をポンと叩き、サロンを出て操舵席に向かい若冲の横に立った。

「どうだ?」

そろそろ小型船を眼中に捉えてもおかしくない。

「それが、全く見えないんです」

先には夜釣の小舟がプカプカと浮いている灯りしか目に入らない。

「ふむ・・・あの後にスピードを上げたか」

考えていなくもなかった。 だがあの時にはああ言うしかなかった。

「すみません」

「私が間に合うと言ったんだ。 若冲のせいではない。 それに無理をすることはない。 あの子供・・・少女が紫さまだったとしたら手はまだ考えられる。 今、少なくとも二本の糸が垂れている。 二本目は簡単に切れるかもしれないがな」

若冲が一瞬、阿秀に目を向けてまた前を見た。

「あの少女が紫さまだったとしたら、どこに向かわれると思う?」

「・・・あ」

「だろ?」

「その為にあの家を置いといたんですか?」

紫揺の家のことである。 紫揺が攫われてからは阿秀たちが家賃を払って借主である紫揺の存在を存続させている。

「それだけじゃないがな。 まぁ、船を捕まえられなかったら、野夜でも乗せて誰かに駅まで送らせ電車で家に向かってもらおう」

紫揺が電車で家に向かえば車では到底追いつけない。

「あとの者は?」

「紫さまのことが一目で分かる若冲と悠蓮にそれぞれ誰かを引き連れて、まずは船着き場周辺を当たってもらう」

小型船も阿秀たちが船を停めていた船着き場に向かっているはずだ。 あの船着き場が島から一番近い船着き場であるということと、あの小型船で遠くの船着き場には行かないと考えている。
若冲も同じように考えているから、阿秀が言うまでもなく停めていた船着き場に戻っている。

「まだ電車が出ている時間じゃないからな。 船着き場からタクシーを呼ぶにも時間がかかるだろうし、車で出た様子があればその時の話だ。 それでだめなら可能性のある場所を探してもらう。 やはり紫さまを写真で知っているだけでは雰囲気がつかめないからな」

梁湶が作成した紫揺のプロフィールには、学校に忍び込んだ時に手に入れた卒業アルバムの集合写真から、紫揺の写真を写メった写真が貼り付けられてあった。
それは表情無くまじめな顔をしてカメラを見つめていた写真である。 到底笑っている、動いている紫揺を想像できる写真ではなかった。

「可能性のある場所とは?」

「紫さまが地元に帰られるのは間違いないだろうが、もしあの島から抜け出てきて後を追われると思われているのなら、すぐに家にはお帰りにはならないかもしれない。 どこかで様子を見られてからになる可能性もある。 だが、その間に北に見つかるかもしれない。 紫さまのことを特に詳しく調べた梁湶に思い当たるところを考えてもらう。 まぁ、その前に船を降りられた後の紫さまがどういった移動手段を使われるのかが全くもって分からない。 あの一緒に居た青年か操縦していた者か、若しくは二人ともが下船後も関わるのか、或いはそうでないのかも」

「出港記録から割り出します」

紫揺が乗っていたと思われる船の進行方向から、阿秀たちが船を止めていた船着き場に戻ることは想像できた。 いや確信があった。

そしてこれが二本目の糸と分かった。

「頼む。 あとどれくらいかかりそうだ?」

「いくらもかかりません」

「夜明けと同時か?」

「残念ながら同時より少し遅れるくらいです」

「分かった。 一旦サロンに戻る」

サロンに戻ると、若冲に言ったことを繰り返して他の者たちにも聞かせた。

「すぐに船を追わなかった私のせいだ。 謝る。 まだまだ動かねばならんことになってしまったが、よろしく頼む」

阿秀があの時、船を追うことを選ばなかったのは、万が一、追った船に乗っていた少女が、紫揺でなかった時のことを思い、そう判断を下したのは誰もが分かっていた。
そしていつまた、紫揺が北の領土に入るかもしれない。 島に上がるのは一日も伸ばしたくなかった。 誰もがそう思っていた。 それを若冲と悠蓮が見た少女が確信もなく、紫揺かもしれないということでそちらを選び、間違いでしたでは済まない。

間違った後に、今日にも紫揺が北の領土に行くかもしれないのだから。 そうなれば若冲と悠蓮の立場がない。 阿秀はそれを何よりも危惧したのだ。 誰もがそれを分かっている。 だから阿秀が謝るのは筋が違う。 でもそんな阿秀だから誰もがついてきている。
その阿秀から船を下りた後の各々の行動が続いて話された。

「どうして俺が紫さま探しから外されるんですか!」

すぐに紫揺の家に行くように言われた野夜だった。

「北の者が来るかもしれん。 その対応もある」

「なら、梁湶でしょう」

「何で俺だよ」

「まずは見た目だ。 俺みたいなちっこいのより、お前の方が威圧をふるえる」

「なら、俺だろぅ」

すかさず醍十が言ったが、誰もが白い目を向ける。

「口で負けるのは目に見えてる」

誰かがそう言ったのに醍十が言い返そうとしたが、その前に阿秀が口を挟んだ。

「いや、醍十にはホテルに戻ってもらう」

「え?」

全員の目が阿秀に集まる。

「長引くかもしれん。 領主と此之葉の面倒を見てもらう」

「阿秀、そりゃ此之葉のことは気になりますが、紫さまを探すのはさすがの此之葉の心配より上回ります」

「お前さっき言ってたことと違うだろう。 さっきは若冲に任せてるって言ってたんだから、今度は俺らに任せるってことになるだろ」

少し前にそう言われた悠蓮が言う。

「事態が違うだろぅ。 若冲に任せず船を降りて泳ぐわけにもいかないんだからな。 阿秀、頼みます。 外さないでください」

「とは言われてもなぁ・・・」

領主と此之葉を放っておくことは出来ない。

「昼飯」

醍十の声に阿秀が顔を上げた。

「昼飯時まで一緒に探させてください」

領主と此之葉の朝食は、醍十に苦言を呈せられたが阿秀が用意をしていた。 この事態だ、苦言を呈しながらも阿秀の用意した朝食で領主と此之葉・・・いや、醍十が考えるのは此之葉だけだろう。 醍十から考えると散々な朝食のようだが、この際だ、此之葉の朝食と受け取ったようだ。

「あ・・・ああ。 そういうことか。 では、それで頼む」

夜明けから昼時迄。 その数時間でも人手があるに越したことはない。

「お前・・・そんなに飯が気になるのか?」

呆れたように悠蓮が言う。

「ああ。 此之葉は見張ってやってないと、まともに食べないからなぁ。 こっちの食い物をあまり気にいってない」

阿秀が梁湶を見た。 梁湶は一時ではあるが、醍十が悲しみに暮れて領土に帰ってしまった時に此之葉についていた。

「いえ、俺にはそうは見えませんでしたが・・・。 コンビニ弁当を普通に食べてました」

「コンビニ弁当? 此之葉がそんなものを進んで食べるわけがないだろうがぁ」

「どういうことだ?」

梁湶ではなく阿秀が訊いた。

「何を食べさせても、混ざり物が多すぎると言うんですけど、特にコンビニ弁当は嫌がってました」

そう言えば、と醍十から受けていた連絡を思い出す。

「のり弁を買わせたがこれも気に入らなかった、そう送ってきたあれは、そういう事なのか?」

「はい。 会社に行くには、どうしても弁当を持たせなくちゃなりませんので、のり弁ならマシだろうと思ったんですけど、気に入らなかったようです。 全部食べたとは言っていましたけど、まぁ、会社に持って行く弁当ですから、見張ってることも出来ず全部食べたかどうかは分かりませんが」

「じゃ、家では何を食べさせてたんだ?」

梁湶が訊く。

「スーパーで食材を買ってきてだな、俺が作ってたけど食材そのものも調味料も気にくわないらしい。 塩さえもな。 たった一つ文句をつけなかったのが豆腐だ」

「豆腐?」

「手作りの豆腐屋で見つけた豆腐だ。 あれだけは文句を言わず食べた」

「え? いや・・・俺は、その、ずっとコンビニ弁当を食べさせていたけど、そんなことを此之葉から一言も聞いてない」

阿秀が小さく笑うと、思い出したことがあった。 そういう事か、と小さく呟くと今度は誰にも聞こえるように言う。

「私が見ていた時も何も言わなかった。 此之葉は醍十と一緒に居て変わったようだな」

『此之葉の腕なら骨ごと一噛みで終わりだ』 そう言った時、此之葉が自分の腕を抱え込んだ姿を思い出した。 それに 『醍十と一緒に居ることが多くなってから、此之葉の頬がふっくらしたようだな』 そう言った時には頬を覆っていた。

きっと醍十が此之葉の顔色をうかがうことなく、気を使うことなく 『どうだ? 美味いか?』 『美味いに決まってるよな、俺が作ったんだからな』 『好き嫌いするんじゃないぞ、そんなことをしていては太れん。 此之葉は細すぎる』 『こら、残すんじゃない。 俺が食わしてやるから口を開けてみろ。 ほら』 などと言っていたのだろう。 いや、これが醍十の気の使い方かもしれないが、いずれにせよそれが表情の無かった此之葉にとって吉と出たのだろう。

「まさか此之葉が醍十のとんでもない影響を受けたんじゃないでしょうね?」

思わず阿秀に訊いた野夜に醍十が冷ややかな視線を送る。

「表情が出てきたと言えばいいのか。 だがそれもまだまだ徐々にだろう。 食へのことを言えるのは醍十だけなのと同じにな」

「醍十・二号にさえならなければいいですけど。 でもまぁ、食べ物への気持ちは分からなくもないな」

ポツリと言ったのは野夜だった。 野夜は一日も早く領土に帰りたいと思っている。 その中に食べ物のことが無くはない。 領土とこの日本の料理が遠く離れているとは言わないが、それでも多少なりとも食材や味が違う。

阿秀がサロンの窓から外を見た。

「では、それぞれ頼む」

阿秀が立ち上がると全員がそれに倣った。

外は薄明りの中にあった。
船着き場が確認できるようになった時には、まだ薄暗くはあるが、辺りが見まわせるほどになっていた。

「阿秀!」

操舵席から若冲の声が聞こえた。
阿秀が駆け寄ると若冲が一点を指さした。

「あの船か・・・」

「間違いないと思います」

「阿秀・・・」

阿秀に続いて悠蓮もやって来ていた。
遠目ではあるが、船には操縦していたと思える男が見える。

「近くにつけてくれ」

「了解」

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虚空の辰刻(とき)  第139回

2020年04月17日 22時20分04秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第139回


ムロイの部屋で茫然自失となっていたニョゼ。
何度も鳴っていたコンコンと窓を叩く音にやっと気が付き、ゆっくりと窓を見た。
誰もいない。
いつもなら不審に思いすぐに行動に出ることはないが、今は何も考えられない。 音に導かれるように窓に向かって歩いた。 まるで夢遊病者のように。

窓に近づくとピョンピョンと跳ねているのだろう、セキの顔が窓に見えたり引っ込んだりしていた。 その顔が、何度窓を叩いても気付かないニョゼに渋面を作っていたが、最後に飛んだ時には満面の笑みを見せていた。
ニョゼが窓を開けて下に視線を伸ばした。

「あ・・・ニョゼどうしたの?」

ニョゼの顔は今までに見たことがないくらいに沈んでいた。
それもそうだろう。 今までどんなことがあろうとも表情に出さなかった。 たまにこの土地に帰ってきた時もそうだった。 本土でどんなことがあろうとも、いつもにこやかにしていた。

「セキ・・・シユラ様が」

言いかけて止めた。 自分でさえこの状態だ。 紫揺に懐いていた幼いセキが知ったら・・・。

「そう! そうなの!」

セキが両手を窓に差し出すと掌をひろげた。 そこには風車の形をしたものが三つあった。

「・・・なに?」

風車に手を伸ばすことなくセキに問う。

「シユラ様からのお手紙。 これはニョゼに」

「え?」

「私にもあったんだよ。 私のは花の形に折られてて、もう読んだけど」

嬉しそうに言うセキの頬をよく見ると涙の筋が残っている。

「シユラ様から?」

「うん。 えっと・・・キノラ様の仕事の人? よくわからないけど、私たちと同じ所で生活している人から預かりました」

この屋敷に滅多にくることはないが、それでも屋敷内のシステムは把握している。
セキ達が生活する建物はこの屋敷ではない。 その建物は、セキたちのように北の領土からかり出された雑務をする者と、此の地で手を買われたコックとキノラの仕事を補佐する人間が生活をしている。
ソロリとセキの掌に手を伸ばす。 三つの風車が今にもユルリと回りそうだ。

「シユラ様、ゴメンネばっかり書いてるけど、そんなことないのにね」

ニョゼが三つの風車を手に取った。

「でもね、私の・・・」

グッとセキの引き絞る喉が鳴った。

「セキ?」

紫揺の手紙に書かれていることを思い出したのだろう。 泣きそうになったのを我慢したのだろう。
ふうーっと、小さく息を吐いてセキが続けた。

「・・・シユラ様、私のことを心配し過ぎてるの」

「え?」

「そんなことないのに・・・。 それに私、伝えられなかった。 シユラ様から言われてたこと。 アマフウ様のことを母さんに聞いたって、伝えられなかった」

母親から自分が幼い時に野犬に襲われそうになったのを助けてくれたのはアマフウだったと聞いた。

「セキ・・・」

「あ、それにね、ガザンのことを喜んでくれてたみたい。 ガザンに会わせてもらって嬉しかったって。 ガザンの名前は最初 『我山』 って頭で書いて覚えたって。 我は山。 ガザンにも話したら照れてたみたい」

トウオウの言ったことがニョゼの頭の中を走った。
『シユラ様は安全に獅子の居る門から出ようとした。 だが、獅子がいる限りはシユラ様一人では出られない。 そこであの犬を使った。 あの犬、スゲーの。 獅子を伸してた』 そうトウオウは言っていた。
だが、そういう意味で書いたのではないのだろう。 ガザンという名前から見た目で漢字を当てはめただけだろう。 その時にはガザンの強さなど知らなかったのだろうから。

だが・・・シユラはまだ力こそ上手く使えないが五色(ごしき)である。 それも一人で五色(ごしょく)を持つ五色(ごしき)。 計り知れない力を持っているはず。 その力の中に相対するモノを見る目があるのかもしれない。 そう考える自分に少しは冷静になれたかと、自嘲に似た笑みが緩んだ。

「ありがとう。 あとで私の頂いたお手紙のお話をするわね。 その時にセキのお話ももっと聞かせもらえる?」

三つの風車を胸に抱きしめそう言った。
まだ話し足りないといった顔をしながら、セキがコクリと頷くと洗濯場に走っていった。

「シユラ様」

胸に抱きしめていた風車を視線の下に出した。


――― ニョゼ様
『ニョゼさん、ずっとずっといつもいてくれてありがとう』

その一行だけでニョゼの目に涙が浮かんだ。

『ニョゼさんには感謝しきれないことが沢山あります。 何も分かっていない私に添ってくれました。 これからの私に指針を与えてくれました』

始まりはそうだった。
読み進めるニョゼの目に尽きることなく涙が溢れ出る。

「シユラ様・・・」

紫揺が自分の知らない所で、色んなことを悩み考えていたことを知った。 その中に、春樹とのことも書かれてあった。
そして最後には、脱出のことが書かれてあった。

『突然でごめんなさい。 もっとニョゼさんと居たかったんだけど、そうもいかなくなりました。 最後に会うこともままならなくなりました。 今日、ガザンの手を借りてこの島を出ることになりました。 それが成功に終わるか、失敗に終わるか今は分かりませんけど、この手紙を春樹という人に預けます。 この手紙がことなくニョゼさんの手に渡ることを祈っています。 私は両親の元に帰ります。 ニョゼさん、ニョゼさんもご両親の元に帰って下さい。 その日を願っています。
ニョゼさんありがとう、ありがとう、ありがとう。 何度書いても心に見合いません。 でも時間が無くなってきました。 まだまだいっぱい書きたいことがあるのに。 ニョゼさんと出会えて嬉しかったです。 それが一番です。 そして感謝しています。
――― 紫揺』

「シユラ様・・・」



一時間後、屋敷の電話が鳴った。



事は数時間前に遡る。
まだ夜が明けきれない波間を小型船が走っている。

「あ、そう言えば雪中花って言ってたよね」

「え?」

「あの人が」

何故か頬を赤らめている。

紫揺の頬に唇を重ねたトウオウが 『合格だね』 といった前に言ったことだとすぐに分かった。

「せっちゅうか、ってなんのことだか知ってるんですか?」

普通に言うと傲慢に聞こえるかもしれなかったが、相手は紫揺だ。 誠也が気に入らなければ、人差し指で鼻先をピンと弾ける相手である。 だがそんなことをする必要など無かった。 紫揺の言いようは全く傲慢には聞こえなかったからだ。

「知らないの?」

あの戦いの中で急にアマフウが言った言葉だ。 それもまともに聞き取れなかったのを、トウオウが教えてくれただけの言葉であった。

「はい、知りません。 教えてください」

「水仙の別名だよ。 って、水仙知らない?」

あくまでも自称21歳だけに疑いをかけたくもなる。 だがよく考えると小学校の理科の授業で水仙を育てただろうから知っているだろうか。

(あ? あれ? 違ったっけ? ヒヤシンスだったっけ?)

「お花の水仙ですか?」

「ああ、知ってるんだ。 そう、その水仙の花の別名が雪中花。 雪の中の花って書く。 清楚なイメージがあるけど、ナルシストとか自己愛とかって言われてる一面もあるし、毒もある」

「雪の中の花・・・雪中花。 あ、え?・・・毒?」

「ニュースで聞かない? ニラと間違えて水仙の葉を食べて大変なことになったって」

「知りません」

「そっか。 まぁ、香りが強い花だって言われているけど、品種によっては華やかで繊細でもあるけどね。 春先に咲く花だから “春の訪れ” っていう人もいるよ」

「香り・・・?」

「うん、ちょっと強いけどいい香りがするよ」

「詳しいんですね」

「まぁね、農業高校の園芸科だったから」

「え?」

意外な答えだった。
春樹を思えばコンピューターを操って株とか何とかをやっている。 その同級生なのに園芸科?
紫揺の疑問を感じたのか、誠也が言う

「親父は爺さんの後を継がなかったけど、爺さんは庭師だったんだよ。 口うるさいお袋から逃げたくて、俺はいっつも爺さんの仕事場について行ってた。 爺さんが枝に足をかけている間に花を愛でてた。 ・・・のかもしれないな。 だからかな・・・女子が多い園芸だったけど、気にすることなく行ったのかもしれない」

決して女の臭いに惑わされたのではない。 花を見たかった、感じたかった、香りをかぎたかった。 なのにそんなことを忘れて高校を卒業して園芸の道には進まず、今どきのパソコンを扱う専門学校に進学した。

「初心を忘れていたのかもしれないかな」

もうすぐ明けようとする海を見た。

「え?」

「初心貫徹か」

ふっと笑うように息を吐いたかと思うと続けて言った。

「俺・・・大きな声じゃ言えないけど、今フリーターなんだ。 でも、爺さんの後を継いで庭師になろうかな。 高校でそれなりの勉強をしたし、資格も取ってる。 植木だけじゃなく、花に目をやれる庭師になろうかな」

誠也がこちらを向く、それにしかりと応える。

「とってもいいと思います」


――― 雪中花
誠也から聞いた話でアマフウの言いたいことが分かった。 トウオウの『合格だね』 の意味も。
以前、アマフウの香りの元は何なのかと訊いた。 石鹸に使用している香りだ。 しっかりとそれに答えてもらえなかったが。

だが、あの舞う砂や閃光が走る中、アマフウが“雪中花” と言った。
トウオウがどういう風に見積もっていたのかは知らないが、今になって『合格だね』 と言ったこと、誠也の話から雪中花には強い香りがあるということ。 『ナルシストとか自己愛』 という部分にも頷けるところはあるが、今それは置いておこう。 考えるとややこしくなる。
それに此処で言われていることと同じことが、あの領土で言われているとは限らない。
雪中花はアマフウの香りの元なのだろう。
アマフウの石鹸の香りは雪中花。 水仙の香り。

あのアマフウとトウオウの関係だ。 自分がアマフウの香りの元を訊いたのをトウオウは知っているはずだ。
アマフウが教えてくれた。 トウオウが合格と言ってくれた。
それはアマフウに合格したということ。 アマフウが認めてくれたということ。
感違いかもしれないけど、それでも今はいい・・・嬉しい。


「お嬢ちゃんどう? 服は乾いた?」

アマフウとトウオウに心を寄せていた中、誠也の父親が声をかけてきた。
きっと誠也との会話を聞いていただろう。 父親として誠也の想いは嬉しかったに違いない。

「はい」

完全に乾いてはいないが、下着が乾いてないとは言いにくい。

「お金も?」

冗談に言う。

「まだ湿ってますけど、折ってポケットに入れています」

ポンポンと手に持っていた上着のポケットを叩いた。

「じゃ、もうちょっとスピードを上げてもいいかな? 夜釣の邪魔しちゃいけないからね。 とっとと抜けるよ」

言われて辺りを見るとポツポツと明かりが見える。

「夜釣り? あの灯りは夜釣をしてらっしゃるんですか?」

「そう。 あと少しで夜が明けるから今が頑張りどころだろうからね。 じゃ、危ないから摑まっててよ」

そう言うと急にではなく徐々にスピードを上げていった。



サロンに入った野夜たちによれば、島の浜辺で怒鳴り合う声が聞こえ、閃光が走っていたという。

「何を言っているのかは全く聞き取れませんでしたが、女同士で争っているというか、罵声を飛ばしているという感じでした」

「女、か。 それでは五色様方と考えられるが、誰かが誰かに一方的にではなく?」

野夜と梁湶が目を合わせる。

「はい・・・互いにと言う感じでした」

「万が一、さっきの船にいた少女が紫さまであったとして、紫さまが島から出られた、それによる互いの責任のなすり合いとも考えられるが、それであったならすぐに船の手配をするだろうが、そんな様子が今のところ見られない」

阿秀たちの船は島を半周回った位置につけていた。 紫揺が脱走を図ったのを知り、すぐにでも船を出せば阿秀たちとかち合うだろうが、そんなこともなかった。
阿秀が腕を組み背もたれにもたれた。

「考えられるのは、あの船の少女は紫さまではなかった。 紫さまであったとしたら、まだ紫さまが島から出られたことを知られていない。 そして野夜たちが聞いたのは、紫さまとは全く関係のない痴話喧嘩か。 ・・・分からんなぁ」

「俺たちの見た閃光ですが、あれはもしかして・・・」

阿秀が頷き応える。

「紫さまには火や風、水や土を扱う力をお持ちと聞いている。 他に雷も。 それは紫さまと同じように五色様も五色の力を持っているときく。 その閃光は雷から・・・いや、雷のようなものを扱ったのかもしれない」

「・・・だから痴話喧嘩? 五色様方の?」

「ああ。 北の領土には紫さまと違い、それぞれの力を一人が一つずつ持っている五色様が居ると聞いている。 それ以上のことは何も知らされていないから分かりようもないのだが、その閃光が雷を扱える者が出したとすれば、他の力のある者に出したのだろう。 そして他の者は雷や閃光など扱えない。 暗闇の中で目に見えない何かの力を使ったのかもしれない。 火であったなら暗闇の中でも分かるだろうから、土や水。 それとも風か」

「あの場で北の五色様の何かがあったとして、紫さまは関係ないでしょう」

「そう願いたい」

「阿秀は北と言えど、力のないものに力を使わないと考えていますか?」

「ああ多分な」

きっと野夜はあの争いの中に五色以外の人間が居たと考えているのだろう。 現場を見ていない阿秀には分からないが、その可能性も考えられる。 五色以外の幾人かがいたのかもしれない。 その者たちが紫揺を追っていたのかもしれない、追っていなかったかもしれない。 いずれにしても五色の力に巻き込まれたのかもしれない。
考えられる可能性はいくらでもある。

紫揺は根底には五色としての力があるはず。 そうでなくては独唱が探すことが出来なかったはず。 独唱は紫の気、紫の持つ五色の気を追っていたのだから。 だが今の紫揺は東の領土で生まれ育ったわけではない。 表立っての力があるのだろうか。 それを思うと野夜が言ったように、力の無い者の中に紫揺も入るかもしれない。

あの日本で誰に教えられることなく、五色の力を持っていれば簡単に生活することなど出来ないはず。
だが五色の力は伝え聞いた話だけだ。 五色の力を見たことなどない。 想像することしか出来ない。

「北だからなぁ、何を考えてるか分かっちゃもんじゃないです」

野夜と阿秀の会話に醍十が入り込んできた。

「あ・・・」

阿秀が醍十をたしなめようとした時、声が上がった。 思わず梁湶が自分の首を引っ込めたのを思い出したのだ。

「なんだ?」

「いえ、引き返そうとオールを漕いでる時に、切るような風を感じたのを思い出して」

野夜も頷く。

「閃光もしくは雷対風か。 それかもしれんが、何とも言えないな」

確かにアマフウ対セイハを考えると、閃光若しくは雷対風ともなるだろう。 だがアマフウの場合は他の力も持っている。 それに梁湶の言った切るような風は、アマフウがセイハを河童にするために放ったカマイタチだ。 そして閃光を放ったのもアマフウだ。 これではアマフウ対アマフウになってしまう。

「まぁ、何某かが分かればそれに越したことはないと考えていたが、そうはならなかったようだな。 あとは若冲の腕に賭けるしかない」

「すみません」

野夜が言うと梁湶も頭を垂れた。

「誰のせいでもない」

阿秀はそういうが誰もが同じことを考えていた。 阿秀なら何某かを持って帰ってきていただろうと。
夜目の利く阿秀なら、僅かな灯りで十分だっただろう。 昼間、たった一度、それに遠目だが岩礁を見ている。 身体能力のある阿秀なら、海上から頭を出している岩を跳び、移動することが出来ると判断したのかもしれない。 船に乗せていた小さなゴムボートは紫揺だけを乗せるためのゴムボートだったのだろう。

今更にしてしゃしゃり出たことを後悔した。

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虚空の辰刻(とき)  第138回

2020年04月13日 23時02分15秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第138回



セッカから疑問を投げかけられ、セノギに言われニョゼがショウワを病院に連れて行ったことを話した。

「酷い頭痛がおありになるようで、お顔のお色もよろしくありませんでしたので」

「それで?」

「調べて頂きましたら特にどこがというところは見受けられないということで、ご年齢から点滴を受けて戻って来ました。 頭痛は寝不足も関係しているだろうと医師に入眠剤を頂きました。 しっかりと寝られればお顔の色も良くなるだろうと」

「それで毎晩薬を飲んでるというの? 入眠剤を」

ムロイの看病をしている時につくづく、北の領土のことを考えてしまった。 此処の医療とは比べ物にならない程、医療とも呼べないが、それも然りであると。

「いいえ、数日に一度です。 また寝不足になられたようで、お顔のお色も悪くなられましたので、昨晩は飲んでいただきました」

もし夕べ薬を飲んでいなければ、セイハやアマフウの力の出しあいに気付いたかもしれない。 そして紫揺の力にも。

「そう、それでまだ起きていらっしゃらないということね」

「はい」

「何時くらいにお目覚めになるのかしら? ちょっとお話がしたいの」

「九時・・・遅くとも、十時にはお目覚めになられると思います」

「そんなに? 薬の量が多いんじゃないの?」

「深夜まで起きていらっしゃいましたから、お薬をお飲みになった時間も遅くなってしまいましたので」

「そう・・・、仕方がないわね」

ショウワに告げず勝手なことは出来ない。 領主であるムロイさえもそうなのだから。 ましてや自分は五色ではあるが、その領主の婚約者だけという立場なのだから。 早朝にムラサキを伴って領土に向かことは出来ない。
踵を返しかけたセッカがセッカ付きを見た。

「シユラ様は起きてらっしゃるかしら?」

「いえ、まだ起きていらっしゃらないと思います」

領土でのことを考えると、早起きでないことは知っているが、夕べ告げた話がある。 いくらなんでももう起きているだろう。 時間の変更を伝えてやらねば。

「起きているはずよ。 シユラ様に時間が延びたと言ってきてちょうだい。 時間はショウワ様次第だと」

セッカ付きが首肯の代わりに頭を下げると同時に、今度こそ踵を返して階段を降りて行った。

セッカを見送るとセッカ付きが大きく溜息をつく。

「わたくしが行って参りましょうか?」

寝ているであろう紫揺を起こすのがイヤなのだろうとはっきりと分かる溜息だったのだから、見過ごせるわけなど無かった。

「え? いいの?」

「はい」

「じゃ、お願い。 良かったー、ムラサキ様は簡単なことでお怒りになられないことは知ってるけど、でもね・・・」

後ろにいる二人に視線を送る。 二人も頷く。
そこへもう一室のドアが開いた。

「おや、これはお揃いで。 お早うございます」

爺が恭しく頭を下げ、朝の挨拶をする。
お付きの男女が分かれてそれぞれ二つの部屋を使っているので、爺の後ろには若いトウオウ付きが従えている。
女四人もそれに応えて頭を下げる。

「では私はシユラ様のお部屋に行って参ります」

セッカ付きに言うと、再度、爺に頭を下げ、その場を後にした。

「さぁ、それでは私たちも朝の準備に」

三人が爺に軽く頭を下げると、ニョゼの後を追うように小さな階段に向かって歩き出した。

「はて、朝から何でしょうな?」

爺が小首を傾げると、三人の後を追うように小階段に向かって歩き出した。 若いトウオウ付きがそれに従い歩き出す。


「シユラ様?」

コンコンとドアをノックした後に声を掛けるが、返事はない。 普段の紫揺が起きている時間ではないことは分かっているから、何の心配もないのだが、なにかを確信して紫揺が起きているとセッカが言ったのだろうと思うし、時間が延びたと言っていたことも気になる。

「シユラ様、失礼いたします」

紫揺がいつも鍵をかけていないことは知っている。
カチャリとドアを開けると部屋の中に入りドアを閉めた。 くつろぎの場所に紫揺の姿は見えない。 ただ、いつもかけてある腰高の窓が開いている。 寝室に目を転じた。

「シユラ様?」

寝室を覗き込むとそこに紫揺の姿がない。 ニョゼが小首を傾げる。
洗面所、風呂場、トイレと探すが見当たらない。 まさかと思い、クローゼットの中を見て回るが、そこにも姿がない。

「こんな朝早くに・・・どこへ」

頭をかすめたのはセキとガザンだったが、まさかこんな時間から散歩をしている姿など一度も見かけたことなどない。
寝室から戻ると腰高の窓から庭を見た。 そこにも紫揺の姿がない。

まさか紫揺がもうここに居ないなどとは考えもつかなかったニョゼ。 何かあったのだろうかと思うが、心当たりがない。 それとも夜、ショウワについている時に誰かと衝突でもしたのだろうか。 セッカが帰ってきたことにも気づかなかったのだから、有り得なくもない。

取り敢えずは屋敷内をくまなく探そうと部屋を出た。 風呂に浸かって考え事をして淋しくなって、風呂に潜るようなことをしてみせてくれた。 誰かと衝突してどこかに入り込んで、そのまま膝を抱えていつのまにか一晩を過ごしたのかもしれない。 狭い場所までくまなく探そうと足を早めた。

探し出して二時間が経った頃だろうか、食堂にも厨房にも、洗濯場にも見当たらなかった。 有り得ないと分かっていても、洗濯機の中を覗いたり、厨房では紫揺の身体が入る大きさの棚を見つければ、あちらこちらの棚の扉を開け、朝食の準備にかかっていたコックに何をしているのか訊かれたりもした。

そんな時ふと気づいたことがあった。 紫揺が部屋を壊した時、一時ではあるがムロイの仕事部屋で過ごしていたことを。 厨房を出るとムロイの仕事部屋に向かった。 ドアに手をかけた時、階上から悲鳴が聞こえた。

「え?」

後ずさって階上を見上げる。
すると二階のセイハの部屋からセイハ付きが飛び出してきた。 あとには引き裂かれて、羽を舞わせるクッションがついてきた。 決して行儀よくついてきたのではない。 他にも数人が二階を覗き込んでいる。

「も、申し訳ありません!」

クッションに続いて次々と小物が飛び出してくるドアに向かって、頭を下げるが、それでも次から次に色んなものが飛んできた。
そしてキャスケットが飛んできたかと思うと、セイハ付きが 「あ・・・」 と言って口を押さえた。
キャスケットに続いてセイハが出て来たからだった。

「セイハ様、お帽子が・・・」

言うが早いかセイハが出てきたのが早いか。

「あ・・・」

とニョゼも声を漏らした。

「このことを誰かに言ったら、許さない―――」

―――からね。 とは続けられなかった。

階下にはニョゼが、コックが。 同じ二階には今まさにトウオウの部屋のドアをノックしようとしていた爺と若いトウオウ付きが。 セッカの部屋から丁度出てきたセッカ付きも、階段途中には書類を持ったキノラがこちらを見ていたからだ。 そして全員がフリーズしている。

セイハの血の気を引いた顔が全員に白眼視を送ると、次に顔を真っ赤にして下唇を震わせている。 そして目をキャスケットに移すと拾いあげ部屋に入った。
バタンというドアを閉める大きな音がいやに響いた。

キャスケットを拾う姿を見たコックがプッと吹き出し、慌てて口を押えた。

「どういうこと?」

コックに続いてフリーズの溶けたキノラがセイハ付に声を発した。
セイハ付が振り返り大階段を見ると、キノラがこちらを見ながら一歩づつ階段を上がってきている姿が目に入った。

「キノラ様」

「いったい何が起きたの?」

階段を上り終えたキノラが近づいてくる。

「それが・・・」

と話し始めたセッカ付きが言うには、朝食の準備が出来たと部屋に呼びに行こうとして、ドアの前に立つと大きな音が聞こえてきたと言う。 何かが割れるような音。
何事が起きたのかと、何度かノックをしたが返事がない。 その内に音が止み、もう一度ノックをして返事を待ったが、これにも返事がなかった。 何事かがあったのかもしれないと、そっとドアを開けたと言う。

「その時には、もう既にセイハ様はお帽子を被っておいでで」

「それで?」

「お部屋の中が物々しい状態になっていて・・・」

「それで? なんなの?」

「それが・・・」

「はっきりと仰い」

「・・・はい。 その、私にビックリされたようで、手に持っていらっしゃったお人形と・・・ナイフを落とされて・・・」

「人形とナイフ?」

キノラが眉根を寄せ、廊下で寝ている切り裂かれた人形を一瞥した。

「変わった趣味ね。 それで?」

「落とされたそれを拾おうとなさって、その時にお帽子がセイハ様の頭から・・・」

「落ちてしまった?」

「・・・はい」

「そう、それで見られたセイハが怒ったということね」

「はい」

「でもどうしてあんなことになっていたの?」

「存じ上げません。 夕べまではいつもの・・・」

「髪型だった?」

「はい」

「あんな・・・河童のようにはなっていなかったのね」

「はい」

「そう。 ・・・ミディアムで良かったということかしら」

「はい?」

「ロングだったら落ち武者だったわ。 河童の方がマシだと思わない?」

セイハのことを少しでも救おうとして言っているのか、シャレなのか全くつかめない。

「・・・」

答えられない。 それに、どっちもどっちだと思う。

アマフウが飛ばした風は、トウオウが言ったようにセイハの身体を真っ二つにしたわけではなかった。 だがその方がセイハとしては救われたかもしれない。
風を緩い山型にカーブをつけた俗に言われるカマイタチは、セイハの頭頂部周辺の髪の毛を剃りあげたのだった。 キノラが言うように、それはまるで河童か落ち武者の頭と化した。

「まぁ、その落としたナイフを使って、自分で剃りあげたようなことはないでしょうから・・・アマフウあたりかしら。 そうね、朝食は部屋に運んであげなさい」

そう言い残すと自室に戻っていった。

「アマフウ様・・・」

二人の会話を聞いていたニョゼがドキリとする。 もしかして紫揺も同じようなことになっているのではないかと。
紫揺が言っていた。 アマフウにケンカを売ったと。 『知らない強みって言うんですか?』 ケンカを売った後にアマフウのことが分かってと、そんなことを言ってはいたが、売らなかったとしても、アマフウの機嫌を損ねたことがあったのかもしれない。

「シユラ様っ!」

ムロイの仕事部屋に駆け込んだ。
もしセイハと同じようになっていれば、どこかに隠れているかもしれない。 念を入れて部屋中を探したが、見つけることは出来なかった。
肩を落とし、次の場所を探そうと振り返ると、開け放していたドアの枠に背を預け、腕を組んでいるトウオウが立っていた。

「怪しいな。 こんなとこで何やってんの?」

顔だけをこちらに向けて言う。

「トウオウ様・・・。 シユラ様を見かけられませんでしたか? お部屋にいらっしゃらなくて」

「シユラ様? なに? ニョゼはシユラ様がムロイの机の引き出しに入ってるとでも思ったの?」

椅子を引いて中を覗いたが、机の下にいなかった。 そして次に一番大きな引き出しを開けた。 そこに紫揺が丸くなっているのではないかと思って。 入っていたのはファイルだけだった。 でも開けてみればいくらなんでも無理だろうと肩を落としたところだった。

「トウオウ様がご存知でいらっしゃらないのでしたら、申し訳ありませんが、わたくしはこれで」

「なに? 何かヤバイことをしているのが見つかって逃げるの?」

「そのようなことは!」

「トウオウやめなさいよ」

トウオウの横にアマフウが立った。 多分、壁に背を預け、トウオウと同じような格好をしていたのだろう。

「アマフウ様! シユラ様に・・・いえ、シユラ様と夕べ何かあったのでしょうか?」

直球で問う。 セイハにしたことと同じことを紫揺にしたのかと訊いている。

「夕べ? 夕べじゃないよ。 あったとしたら時間的に深夜だな」

アマフウの代わりにトウオウが答える。

「え?」

ニョゼの顔が硬直する。

「だからやめなさいって。 アノコなら、机の引き出しに隠れてても可笑しくないって考えられるわよ」

トウオウを見て言うと目を転じて 「ニョゼ」 と呼んだ。

「はい・・・」

「アノコを探してもどこにも居ないわよ」

「え?」

「さっきトウオウが言ったように、深夜にこの島を出たわ」

「・・・え」

「言っとくけど、河童にはしてないから安心なさい」

「アマフウったらニョゼに優しいんだな」

「フン! 朝食を食べに行くわよ」

トウオウを置いてさっさと歩き始めた。 その後ろ姿を見送ると、首を撫でるようにする仕草を見せ、もっと言い方があるだろう、と、呟くように言った。

「ニョゼ」

「はい・・・」

「アマフウなりに、いつも髪の毛を切ってくれてる礼だと思うよ」

「あ・・・」

じゃな、と言って歩き出そうとするトウオウを止めた。

「なに?」

「その、シユラ様はお一人で・・・?」

本当はアマフウの言っていたことは、真実なのかと問いたかった。

「迎えが来てたよ。 そうだな・・・んじゃ、ついでに言っちゃおうか」

アマフウの礼は完全とは言えない。 まだニョゼが不安を持っているのがその証拠だ。 補足してやろう。

「シユラ様は安全に獅子の居る門から出ようとした。 だが、獅子がいる限りはシユラ様一人では出られない。 そこであの犬を使った。 あの犬、スゲーの。 獅子を伸してた。 で、犬の話はお終い。 そのシユラ様が海岸に向かったけど、それに横やりを入れたのがセイハ。 そのセイハを河童にしたのがアマフウ。 シユラ様は安全に迎えに来た船に乗りました。 目出度し目出度し」

「・・・」

目を見開いてトウオウの話を聞いていたが 『目出度し、目出度し』 で括られても口を動かすことも、指先一本さえも動かせない。

「じゃな」

今度こそトウオウが部屋から出て行った。


一人食堂に向かったトウオウが、アマフウの横に座った。

「計画的犯行ってやつ?」

「うん? なんのことだ?」

「わざとニョゼに不審な行動があるって言いながら、アノコのことを私からニョゼに話させた」

「なんのことか分かんねー」

両手を頭の後ろに組んで背もたれに体重をかけると、椅子が二本立ちになった。
コホン、とわざとらしい小さな咳払いが後ろから聞こえた。

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虚空の辰刻(とき)  第137回

2020年04月10日 21時47分32秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第130回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第137回



再びスピードを上げ岩礁近くまで船をつける。 ボートはすぐに降ろされた。 殆ど醍十が上から投げたと同じだが。 そこへ梯子を下りてきた野夜が一番に跳び下り、続いて梁湶が跳び下りた。 阿秀程の軽やかさはないが、ゴムボートが少したわんだくらいだ。

「頼むぞ」

「まかして下さい」

二人がオールを漕ぎ出した。

「くれぐれも島に上がるんじゃない。 何かの動きがないかを見るだけでいいんだからな」

二人に声を投げかけると、わずかに首肯した影が見えた。 既に船のライトは消してあった。 島から見つからないために。
力仕事となると醍十が一番なのだが、めったやたらと漕いで良いわけではない 。 そこで阿秀が行くと言ったのだが

「斥候くらい俺たちに任せてください」

と、二人に丁重にお断りされてしまった。

梁湶は醍十に続いてガタイが良い。 身長は阿秀とあまり変わらないが、個々別に見ると、スッキリとした身体を持つ阿秀より、梁湶の方が大きく見える。 そして見た目のそれに反して、書類やデータなどと緻密なことに頭を動かすのにも長けている。
恵まれた身体を使って漕ぐ以外にオールを器用に使いながら岩礁を避けていく。 先に次々と現れる岩礁を見ながら素早く動きを考えているのだろう。

「穴が開いたら最悪だ。 オールは俺に任せろ。 野夜は出来るだけ先を照らしてくれ」

「分かった」

梁湶の邪魔にならないようにオールを手放し、島から出来るだけ見られないように先を照らした。
いくらか漕ぎ、月明かりで砂浜が見えるかと言う時に、何かを壊すような音が聞こえた。

「止まれるか!?」

「OK」

すぐさまオールを岩礁に引っ掛けて、瞬時にボートを止めた。 野夜の力では無理だっただろう。
野夜が手にしていた懐中電灯を消す。 辺りが月明かりだけになったかと思ったら、発光が目に入ってきた。 それに耳をすませば波間に声が聞こえる。

「女の声?」

野夜が言う。

「みたいだな。 話しているっていうより、完全に叫んでるな」

罵倒ともいえる声も聞こえるし、叫び声もするがまだ遠い。 はっきりとは聞き取れない。 海があるという空間だ。 浜辺には屋根もなければ反響をおこす何かがあるわけではない。 音は、声は、広がることなく上に上がっていく。 こんな時に耳の良い醍十がいればと思うが、それは都合がよすぎる話だろうと思う。
と、その時に雨雲など無かった筈なのに、大きな稲光が走った。

「え?」

野夜が空を見上げる。

「雷か?」

「まさか・・・」

その残光で砂浜の様子が見てとれた。 砂浜は砂が舞い飛び、その中に向かい合う二人の影、そしてこちらを背にして岩に座っていると思われる一名。


「あーあ、とうとうブチ切れた。 セイハのヤツ、しつこいんだよ」

海を背にして砂浜にそそり立っている岩に座り込んでいたトウオウが溜息交じりに言った。

「なにしてくれるのよ!」

セイハの前に大きな穴が開いていた。

「セイハ・・・」

アマフウが手を止めた。

「いい加減に己の力を知りなさい。 そして自分のしようとしていることも」

「なにをっ! なにを偉そうに言ってるのよ!」

「分からないのだったら・・・分かろうとしないのだったら、今度はアナタの頭に落とすわよ」

「はっ? 出来るものならやってみなさいよ!」

そのセイハの足元に火が飛んできた。

「キャッ!」

思わず一歩下がり、トウオウを睨んだ。

「セイハ、いい加減にしろ。 アマフウは本気だぞ」

岩から跳び下りたトウオウが言う。

もし、まだ野夜が懐中電灯をつけていれば、セイハに見つかったかもしれないが、野夜の手にある懐中電灯は今も消されている。

「本気ってなによ、こっちも本気で―――」

「黙れ」

トウオウの静かに制する声にセイハが息を飲んだ。

「アマフウが本気を出せばこれくらいで済まないことは分かってるだろう。 自分の身が可愛いのなら、遊びは終わりってことだ。 ここで引くのが良案なのが分からないのか」

「エラソーに! 何が遊びよっ!」

息を吹き返したセイハが大口をたたく。

「そっか。 オレはセイハに生きて欲しいとは思ってないけど、セイハがアマフウに仕留められるのを望むんだったらそれを止めない」

「やれるものならやってみなさいよ」

セイハが退屈そうにしていたアマフウを見遣る。

「そう? じゃ、今度は切ってやるわ。 足元になんか落とさないわ」

いつまで経っても考えを改めない。 あの子たちと同じだ。 そんなセイハなど見てもいたくない、声も聞きたくない。

アマフウが腕を動かした。



「上がれないな」

梁湶が暗闇の中で言う。

「そのようだな」

思いもしなかった賑やかな祭りが行われているようだ。
暗黙の了解で島が静かであれば二人は阿秀を置いて島に上がろうと思っていたが、それは出来そうにはないようだ。

「引き返すしかないか」

「ああ」

懐中電灯を再度照らし、その明かりを野夜が身体で隠すようにして目の先だけを照らす。 梁湶が目を皿にして岩礁を見ながらオールを動かした。

切るような風圧を感じた。 思わず首を引っ込める。 ザンと目の前の海水が音を鳴らした。

「なんだ?」

野夜が小さく言った。

「分からん」

風を感じてはいたが、ボートを岩礁にぶつけることなく戻ることだけに専念していた梁湶が答えた。


船の上では時折閃光を目にしていた。 そして最後にアマフウの放った稲光を目にした。

「あれは・・・?」

悠蓮が隣に居る阿秀を見た。

「雷・・・か?」

空を仰ぎ見たが、漆黒の幕が下りその中に下弦の月がいるだけだ。

「いや・・・雨雲などない筈」

雨が降る気配も臭いもない。

「でも何かが、島に落ちたように見えましたが」

「ああ」

海面に落ちていないことを願うしかないが、夾雑(きょうざつ)を取り除くことが出来ない。
万が一あの二人が島に上がってしまっていたら・・・。 気が逸っていた野夜だ、有り得なくはないだろう。

どれだけの時を待っただろうか。 灯りは見えないが僅かにオールを漕ぐ音が聞こえる。 湖彩がすぐさま縄を手に持った。 ボートを引き上げるための縄だ。

音が段々と近づいてくる。 あと少し経てば、深更が終わりを告げる。

「無事戻って来られたようだな」

闇夜に揺れる灯りと二人の影が目の中に入ってきた。

ゴムボートを船に近づけたところで湖彩が縄を投げる。 受け取った野夜がゴムボートに括り付ける。 その間にも梁湶が船の梯子にゴムボートを寄せる。 ここからは時間を無駄には出来ない。 すぐにでもすれ違った船を追いかければいけないのだから。
まずは野夜が梯子に上がった。 その後ろで梁湶が四本のオールを船に投げ入れる。

「ドワッ! 一気に投げるかぁ!?」

なんとか三本は悠蓮の手の中に納まったが、あとの一本だけがとんでもない方向に飛んでいき、操舵席に向かおうとしていた阿秀の後姿を襲った。
振り返った悠蓮が、あっ! という間もなく、片手を頭の横に持ち上げた阿秀の手がオールを掴んだ。
その様子を丁度梯子を上ってきた野夜が目にした。

「ったく、阿秀の目は後ろにも付いてるのかよ」

後ろ以外にも付いているだろう。 多分、島に上がろうとしていた自分の考えなどお見通しだっただろう。
船に乗り込んできた野夜と振り返った悠蓮の目が合う。

「見せつけてくれるな」

阿秀には逆らえないと改めて思う。 そんな気はないが。

その横で醍十がここが出番とばかりに、ゴムボートを一気に引き上げ、ゴムボートが踊る様に船上に舞った。

「わっ! 馬鹿! 加減を―――」

叫んだ湖彩の頭にゴムボートが降ってきた。

騒ぎを聞いて野夜たちが帰ってきたことが知れていた。 若冲が船を出す準備を始めたところに阿秀がやって来た。

「すぐに出してくれ。 あとは頼む」

今は野夜たちから何かを聞く必要などない。 閃光が見えていたのだ、島には上がれない状態だろう。 一分一秒を惜しんで船を出す方が先だ。

「了解。 必ず追いついてみせます」

頼む、と再度言い置いて残っている者達をサロンに集めた。 野夜たちの報告を聞くためだ。



「ヒュ~、さすがはアマフウ。 一ミリの狂いもない」

口笛を吹いたこの姿を見たら、誠也は更に落ちていくだろう。

「ちょっと! 何してくれるのよ!!」

頭を押さえ、腰を抜かしたように座り込んでいたセイハが叫んだ。

「その程度で終ってくれたんだからアマフウに感謝しな」

そう言い残すとアマフウの腰に手をまわして歩き出した。

「馬鹿―!!!」

突っ伏して泣き叫んでいる。
砂浜を歩き、岩壁を潜ろうとした時に何かが動いたように見えて、チラリと左を見たトウオウ。

「あれ?」

そういえば忘れていた。

「獅子がいたんだっけ」

完全に失念していた。
入って来た岩壁の間から随分と左に獅子がいる。 アマフウとセイハの闘いは・・・なじり合いは、右側に大きく広がっていたから、この場所を目にすることはなかった。
でも、と考える。 最初は岩壁の間から出て来て真正面にいるセイハと紫揺とそしてアマフウとのなじり合いだった。 右にズレていったのは、セイハとアマフウのなじり合いが始まってからだ。

「そういえば、あの犬が動いたのはこっち方向だったよな」

ガザンを思い浮かべる。
なじり合いや爆音の中に遠吠えが聞こえた。 紫揺が最後にガザンを呼んだ時だ。 紫揺の声に応じるかのような遠吠えだった。 名を呼ばれて来るわけではなくあくまでも返事のような遠吠えだった。

そうか、と、微苦笑を浮かべた。

「あの犬、なかなかやるなぁ」

紫揺が獅子回避に犬を連れてきたのか、犬が紫揺を守ろうとついてきたのかは分からないが、どちらでもいい。

「あのシユラ様だ。 どっちも考えられるもんな」

遠目ではあるが獅子に大きな傷など無いように見える。 どうやって獅子を伸したのかは分からないが、すでにガザンの姿はそこに無かった。

「どうしたの?」

足を止めたあとに何やら独り言をいっているトウオウを怪訝な目でアマフウが見た。

「いや、オレたちは犬に見放されたみたいだな、って」

紫揺を守り通したのだから、もうここに用はなかったのであろう。 獅子が息を吹き返し、後に残った者がどうなろうと、知ったこっちゃないということだろう。

「なんのこと?」

「帰ろう」

アマフウの腰に当てていた腕を前に押した。

黎明(れいめい)はすぐそこまで来ている。



夜が明けた。
前日まで馬を駆らせていたセッカが、身体の痛みを押しながら身を起こした。

「・・・歳は取りたくないものですわね」

一人呟くと、夕べの内にお付きがベッド脇に置いていた服を見てゆっくりと立ち上がり、まずは洗顔に向かった。
今日、紫揺を連れ出すことをショウワに報告をしなければいけない。 それにムロイの様子も。 夕べは帰って来るのが遅くなってしまい、紫揺のことを報告できなかった。

「起きていらっしゃるかしら」

年寄は早寝早起きのはずだが、これは聞かなければ分からない。
着替え終わった足で二階から五階に上がる。 少しでも凝り固まった筋肉を動かそうと、階段を上がった。
一室のドアが開いた。

「あ、セッカ様」

一番に顔を出したのはセッカ付きであった。 その後ろにキノラとセイハ付きがいる。

「いいところへ。 ショウワ様は起きていらっしゃるかしら?」

「いつもでしたらお目覚めになられていらっしゃるのですが、ここ数日は・・・」

後ろを振り返り助けを求める。

「ここ数日は?」

その時、ショウワの部屋からニョゼが出てきた姿が見えた。

「あら、どうしてニョゼが?」

ニョゼの姿を目に捉えながらセッカ付きに訊いている。

「・・・はい。 ここのところショウワ様の具合がよろしくないそうで、ニョゼがこの数日前から夜からこの時間にかけてまでショウワ様に付いているようです」

「へぇー・・・」

セッカが何を考えているのか分からない。 三人がセッカの目を盗むようにして互いに目を合わせる。

「ニョゼ」

下を向いて歩いてきたニョゼを呼び止める。

「あ、セッカ様。 お帰りになられておいででしたか」

お疲れ様でございますと、足を止め深々と頭を下げる。

「ショウワ様は起きていらっしゃるのかしら?」

「いいえ。 まだお休みです」

「どうしてかしら? もう起きていらっしゃってもいい筈の時間でしょ? 具合でも悪くされているのかしら?」

「それが先日病院へ行きましたところ―――」

「病院?」

そんな話など聞いていない。

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虚空の辰刻(とき)  第136回

2020年04月06日 21時37分58秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第130回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第136回



あと数時間で暁光が射してくる。 夜が明けきってしまえば島の中の人間に、北の領土の人間に見つかってしまう危険性が大きくなる。
だからと言って、夜中に忍び込むことも憚られる。
何頭いるかも分からない夜行性である獅子の中に飛び込んでは、全てが水の泡になるかもしれないのだから。 ましてや紫である紫揺自身の身の安全の確保さえ保証できない。

「そろそろ出ましょうか」

「ああ、頼む」

応えた阿秀(あしゅう)から獅子と対面するだろう緊張が僅かに伝わってくる。

阿秀に声を掛け操舵席に座った若冲(じゃくちゅう)が、隣に立った野夜に声を掛ける。

「阿秀、かなり身が強張っているみたいだな」

「多分・・・自分が囮になるつもりだ」

「え?」

エンジンをかけかけた手が止まった。

「獅子を自分に向けさせている間に、俺たちを島の中に入れるつもりだ」

「まさか! たとえ阿秀といえど、獅子から逃げられるはずないじゃないか」

「俺たちの中で一番動けるのは阿秀だ」

前を見据えながら野夜が言う。

それは分かっている。 阿秀以下の俺たちは阿秀程に動けない。
キーをまわしてエンジンをかける。 ゆっくりと船が動き出し徐々にスピードを上げていく。

紫揺が攫われた時の事が脳裏に浮かぶ。 紫揺の勤める会社の二階の窓から紫揺の姿を見降ろした。
神々しささえ感じたあの時だった。 紫揺が襲われ、紫揺の後ろについていた悠蓮(ゆうれん)がそれを阻止しようとしたが、あっさりとやられてしまい、最後にはブロック塀にその身を貼り付かされてしまった。 自分はそれを見ていることしか出来なかった。 なのに阿秀は二階の窓から跳び下りて攫われた車をすぐに追った。
判断力も行動力もそしてそれに伴う身体能力も持っている。

「お前、それで平気なのか?」

若冲はこの船で待つ待機組になるのは分かっている。 他に誰が待機組になるかは分からないが、野夜は必ず島に上がるだろう。

「・・・獅子が思いのほか多ければ阿秀と二手に分かれるつもりだ」

「お前も囮になるということか」

「悠蓮よりマシだろうからな」

紫揺が攫われるのを阻止できなかった時のことを言っているのだろう。 若冲が僅かに頭を下げてクッと笑った。

「アイツ、一生言われるんだろうな」

「塔弥とそんなにかわらないからな。 塔弥に次いで俺たちの誰よりもチビッコいんだから、まぁ、仕方がないと言えばそれまでだが」

「身長で決まるか? 俺と梁湶(りょうせん)は阿秀とそんなに変わらない。 それに阿秀より醍十(だいじゅう)の方が縦も特に横も大きいんだぞ。 それなら醍十を囮にさせればどうだ」

悠蓮とそう大して変わらない野夜。 その野夜たちよりずっと体格のいい醍十の名を出した。 分かっていてわざと。

「醍十は別だ」

「うん? 呼んだかぁ?」

後ろから醍十の声がする。
普通ならエンジン音や、かき分ける波の音で離れたところの会話など聞こえるはずがないのに。

「本当に、耳だけは犬並みにいいんだからな」

呼んでいないと野夜が応えると、若冲がぼそりと口にした。

「醍十ほど何も気にしないでいられれば楽だな」

「まあな」

そう言いながらも、紫揺が北の領土に入ったと聞かされ、此之葉を置いて一人東の領土に帰ると、紫が落ちたと言われている崖の上を放心状態で彷徨っていた醍十の姿が目に浮かぶ。

「単純だ」

言葉にしてしまうと辛らつに聞こえるが、愛を持って言っている。
彷徨っていたくせに、紫揺が北の領土を出たと伝えた途端、正気に戻った。 醍十は醍十なりに考えているのだろう。 心のままに動ける、ある意味羨ましいことだ。

それきり会話が途切れた。
他の者達もこれからのことに緊張しているのか、それとも紫さまである紫揺に想いを馳せているのか、誰の声も聞こえない。

暗い海に魚が跳ねた。 月に反射されキラキラと輝く飛沫が見え、聞こえるはずのない魚が着水する音が聞こえた。 何という名の魚かは知り得ることはなかった。
もう獅子も闊歩していないだろうか。

「あとどれくらいで着く?」

待機組とはいえ、若冲も落ち着かないのだろう。 いつもより随分とスピードを出している。 まるで紫揺が静岡の警察署にいると分かった時に、逸る心を押さえきれず、島からとばしていた時のようだ。

「いくらもかからない。 早く着き過ぎるかもしれ・・・ん?」

前を見据えた若冲の目先に灯りが見えた。 揺れている。 ライトだ。 それがゆっくりとこちらの方に動いてくる。

「こんな時間に俺たちの他にもこんな所に誰か船を出しているのか?」

若冲の目の先を見た野夜が胡散臭そうに言う。

「そうみたいだな」

これからのことを考え、引き締まっていた若冲の顔が更に引き締まる。
船のスピードを緩めた。

「どうした?」

「いや、時間はあるからな」

こんな所で止めてしまって不審に思われても困る。 スピードを緩めただけだ。
寡黙になっていた誰もが操舵席に目を向けた。 サロンからゆっくりと阿秀が出てきて操舵席に向かう。 阿秀に気付いた野夜が若冲の横を譲り、醍十たちの居る方に向かった。

「どうした?」

「いえ、あの船とすれ違うだけです」

それだけで何を言わんとしているのかが分かった。
明かりがどんどんと近づいてくる。

「一人ですかね?」

「いや、他に二人いるな」

向こうからもこちらを照らしているのだ。 あまりジロジロと見るわけにもいかない。

「へぇー、立派なクルーザーだ」

父親の声に誠也が顔を上げた。

「あ、あの船!」

「なんだ?」

「俺たちと同じ所に停泊してた船だ」

一度は乗ってみたいと思っていた、遠目に見ていた船だ。

「へぇー」

「ちょっとゆっくりすれ違ってくれよ。 出来るだけ寄って」

船をマジマジと見てみたいし、どんな人が乗っているのかも気になる。

「無茶言うな」

そんな互いの会話を知らず船は段々と近寄っていく。
誠也の言うように寄せることはなかったし、元からゆっくり動いているのだ。 これ以上ゆっくりなど痺れが切れそうでお断りだ。

互いの舳先が同一線上に並んだ。

誠也が憧憬(しょうけい)の目で船体を見、そして顔を上げる。 操舵席には二人の男がいた。 操舵席に座る男の顔は見えなかったが、その隣に立つ痩身長躯の男。 どうしてここに来てスーツなのかは分からないが、凝視されたのに気付いたのか、風に揺れる髪の毛の中から誠也の目を捉え微笑んだ。
それがまるでスローモーションのように見えた。 ゴクリと誠也が息を飲んだほどに男は秀麗だった。


「一人は青年だな。 塔弥とそう変わらないか。 あとは・・・」

背中をこちらに向け、なにか小さな紙を風に当てている。

「子供ですね。 船の上で退屈でもしてるんでしょうかね」

ゆっくりとすれ違う。 若冲が最後にチラリと子供の顔を見ようとしたが、ハッキリと見てとれなかった。

「夜釣・・・とは言えない時間だが」

前を見たまま阿秀が口元に手をうつした。

「ええ、親子ですかね。 いずれにしても北は関係なさそうですね」


「やっぱ、カッコイイよなー」

すれ違っていく船に、誠也が紫揺の横で身を乗り出し、舐めまわすように船体を見ている。 操舵席以外には誰の姿も見てとれない。

「かぁーーー、あの船にたった二人で乗ってるのかよ」

アレコレと騒ぐ誠也の声が気になって、紫揺もすれ違い終わった船に目をやる。

「大きな船ですね」

「あれって、クルーザーって言うんだよ。 一回ぐらい乗ってみたいなぁ」

「そんなもんですか?」

「お前、なに贅沢言ってんだ。 小型船とはいえ、持ち船があるだけでもすごい話なんだからな」

「ま、まぁそうだけど。 夢くらい見たっていいだろ。 それに操舵席の横に居た人、あの人がクルーザーの持ち主で、操舵席の人が―――」

言葉が止まった。

「なんだ? 雇われって言いたいのか?」

そう、まさにそう言いかけたが、一瞬にして違うことが浮かんでしまっていた。 ほんのついさっきまで、誰にも言えないことを考えていたのだ。 雇われであろうがなかろうが、いずれにしても操縦していたのは男だろう。

もしかしてあの二人もそうなのだろうか。 あの微笑んでくれた人も

――― 同性愛者なのだろうか。


そんな風に見られているとは知らず、偽同性愛者は会話を続けていた。

「ん?」

「なんだ?」

「あ、いえ。 ちょっと何かが引っ掛かったんですけど・・・」

「今の船にか?」

「ええ。 後姿しか見えなかった子供ですが・・・」

うーん、と額に手をやって考えるが、思い当たらない。 それにまず、しっかりと見たわけではないのだから、どの記憶の引き出しを開けていいのかも分からない。

「子供に?」

「ああ・・・。 無理だ。 思い出せない」

額から手を離すと諦めた様子で前を見た。

「どこかですれ違った子かも知れません」

阿秀なら気になることがあったなら一緒に考えてくれる。 色んなヒントを与えてくれるが、今の阿秀を手こずらせたくない。 肩を竦めて見せると徐々にスピードを上げる。

「そうか」

そう言うと振り返り少し張った声をだした。

「もういいぞ」 と。

隠れていた皆がゆっくりと腰を上げた。 醍十の元に寄った野夜が全員に身を屈めるように言っていたのだ。
目立たないように誰もがすれ違い終わった船を見た。 誠也につられて紫揺がこちらを見ていたが、もう離れてしまっている。

「え?」

悠蓮が小さく声を上げた。
隣に居た湖彩(こさい)が、どうした? という顔を寄こす。
走って船尾に移動した悠蓮が尚も船べりを掴んで身体を海に投げるように先を見ようとする。

「おい、見つかるじゃないか」

腰を屈めて追って来た湖彩が悠蓮を引っ張る。 人に知られたくないのだから。

「いや・・・」

もう暗闇に飲まれ、完全に見えなくなってしまったが、さっき一瞬見えた二人の内の一人は・・・。 踵を返すと操舵席に向かった。
湖彩が呆れたようにその後ろ姿を見送っている。

「若冲!」

呼ばれた若冲ではなく、阿秀が振り返る。

「どうした?」

「あ、阿秀、居たんですか」

「悪かったな」

「いや、そんな意味じゃなくて、今さっきの船に乗っていた人物を見ましたか?」

阿秀と若冲が顔を見合わせる。

「私は、青年を見たが?」

「じゃなくて、もう一人の方です! 若冲、見たか!?」

「それが、はっきりとは見えなかったんだ。 どこかで見たような気もするんだが」

波を大きく立てて船は走っている。 ほんの一瞬の後、考え事に気を取られて操縦を疎かにした若冲に代わって応えたのは阿秀だった。

「まさかっ!?」

阿秀の身体を避け、覗き込むように若冲を見ていた悠蓮の顔に驚きの顔を被せた。 悠蓮と若冲が誰かを見たという共通人物は一人しかいない。

「え?」

グリップを握っていた若冲が悠蓮に目を移す。

「二階から見ただろう? 紫さまの会社の二階から紫さまの姿を。 似てなかったか?」

「間違いないのか?!」

阿秀が悠蓮を問いただす。

「それがハッキリと見えなかったんです。 一瞬でした。 だから若冲なら見たかと」

この船の中で動く紫揺の顔を見ているのは、悠蓮と若冲だけだ。 悠蓮に関して言えば、若冲のように短い時ではない。 ずっと紫揺の後ろについていたのだから。 その姿は心に刻み込まれている。

「・・・かもしれない」

どの引き出しか分かった。 その引き出しを大きく開ける。

「だが言い切れない。 子供だと思いこんでいたし、はっきりと見たわけではない」

引き出しにある紫様の顔は思い出せたが、今の船に乗っていたのは子供としてしか見なかった。 そこにギャップが生じて探し当てられないし、動く紫揺をハッキリ見たわけでもなかった。

「だが、さっき引っかかるところがあると言っていたな・・・」

「・・・はい」

そうだった。

「阿秀、どうします?」

梁湶(りょうせん)が作った紫揺のプロフィールを頭に浮かべる。

「・・・たしか、紫さまの身長は約150センチ足らず、見た目は華奢な身体付き、とあった。 子供に見えてもおかしくはない、か。 それに悠蓮と若冲が揃って気になっているんだ。 ・・・そして船がやって来た方向にあの島がある」

こんな時間に子供を乗せた船が何故走っているのか、それを説明できるのは、子供が子供ではなく、紫揺であれば納得がいける。

だが、あの子供が本当に紫揺なのなら、攫われた紫揺がどうやって抜け出せたのかが分からない。 あの島には北の領土の人間しかいないと想定している。 醍十が船着き場で見た時に、北の領土の人間以外は船に乗らなかったと言っていたからだ。 北の領土の人間が紫揺を島から逃がす筈などない。

だがそれ以前にどういう生活をしていたのかも分からないのだから、何かを考えることなど出来ない。
確実に分かっているのは、紫揺が襲われ攫われ、その後に北の領土に行き、この島に帰ってきている。 それだけしか無い。

紫揺が北の領土、若しくはこの島で生活をするのを是としているかもしれない。 そうであれば、こんな夜中に島から出る必要などない筈。

だが僅かでも可能性があるのならば捨てるべきではない。 紫揺が是としていなかったのならば。
阿秀の心の内で二転三転する。 ここに此之葉がいれば即答したであろう。 間というものは悪戯に動く時がある。

島にはもう充分に近づいている。 悠蓮と阿秀が目の前に見える島を見た。

「あのゆっくりしたスピードだ。 充分に間にあうだろう」

方向を変え、追いかけるということだ。

「いや・・・ちょっと待って下さい」

思わずスピードを落とした若冲が自信なげに続けて言う。

「計画を曲げてまでの確信はありません」

「・・・そうか。 悠蓮は?」

「俺も・・・若冲が見ていなかったかを確認したかっただけなので」

即断を下さなければならないのは阿秀だ。 目を閉じ、五秒ほどして目を開けた。

「では若冲、お前の腕にかける。 ギリギリまで船を近づけてゴムボートを下ろす。 島に上がらなくとも、さっきの子供が紫さまなら島の中は騒ぎになっているかもしれない。 いや、そうでないかもしれないが、何らかの動きがあるかもしれない。 そうなれば簡単に島に上がることが出来ないだろうが、様子を見て何某かが分かればそれに越したことはない。 何かの情報は得られるだろう。 その後にさっきの船を追う。 だが動きが無ければ私が島に上がる」

「了解」

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虚空の辰刻(とき)  第135回

2020年04月03日 21時43分29秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第130回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第135回



トウオウが海の中に足をつけていく紫揺を背中に感じながら、北の領土でのことを思い出していた。


『鬱陶しいったらなかったわ!』

『へぇー、今日のシユラ様は何をしたんだ?』

北の領土での移動中の話であった。 アマフウを除く五色とムロイは馬で移動していたが、紫揺とアマフウだけは馬車で移動していた。 アマフウは紫揺をヒオオカミから守る護衛のようなものだった。

『なにをしたも何も! あのセイハの香りを馬車中に振りまいていてくれたわ!』

『香り? ・・・ああ、石鹸ね』

『ああ、じゃないわよ。 気分が悪いこの上ないわ!』

『仕方ないじゃん。 セイハと仲良くしてんだから、風呂でセイハの石鹸も借りるだろう』

そう言っていたのだが、その数日後、紫揺がアマフウの石鹸の香りを訊いてきたと言う。
北の領土では、五色の石鹸はある花を五色それぞれに見立てて作っているということを、紫揺がセイハから聞いたからだった。

『で? 答えたの?』

『教えるわけないじゃない! セイハの香りをプンプンさせているアノコに!』


『教えるわけないじゃない!』 その時の言葉を思い出してトウオウが笑いを堪えきれず、プッと息を吐いた。

『セイハの香りをプンプンさせているアノコに!』 それはある意味、取って付けた言葉だ。 セイハの香りが紫揺から漂ってこなくても、アマフウはあの時、紫揺に自分の香りの元を言わなかっただろう。

「強情崩壊」

そう言うと未だに砂が舞っているのを目にしながら感慨深げに言う。

「シユラ様って天然過ぎだけど、やっぱシユラ様とアマフウって似てるよな」 

あの強情さが誰よりも似ている。

「あ・・・忘れてた」

紫揺が自分の力を発したことの自覚が無かったのだった。 それを忠告しようと思っていたのにすっかり忘れていた。

「ま、シユラ様ならどうにかなるか」

良くも悪くも。

大きく伸びをしながら、アマフウとセイハの戦い・・・いや、アマフウがセイハを弄ぶのを観戦しようと離れた岩の上に腰を下ろした。

バウ・・・。

ガザンが遠くから紫揺の姿を見送る。 灯りがある所に紫揺が居るのだ。 足元では大きな音に反応している獅子がまだ抵抗するように暴れ、それによってガザンの身体が揺れている。 いつひっくり返されるか分からない、と、セキと紫揺以外の者は思うだろう。 だが、ガザンはこんなことでひっくり返りはしない。 セキと紫揺だけがそれを知っている。


バシャバシャバシャと、海水を蹴りながら歩く手を繋いだ二つの影。

「大丈夫?」

青年はそれ程でもないが、紫揺は腰まで濡れている。

「はい、大丈夫です」

紫揺の髪の毛は既に濡れていた。 服も。 だから今更濡れてもどうってことないだろうとは思うが、それでも一応訊いてみるのが男だろう。

「杢木(もくぎ)さんですよね?」

春樹はいつもこの青年のことを “友達” とか “アイツ” と言っていたが、最後の最後に『作戦を練りなおそうよ。 杢木に連絡を入れ直すから』 そう言っていた。

「あ・・・」

すぐに“うん” とは応えられなかった。
春樹から聞いた話から突っ込んで質問を投げ込むと、ちょっと怪しい匂いがした。 ほんの微かだが。 具体的にと何を訊いても『いや、よく分からないんだ』 と濁していた。 だから、手は貸すけどややこしいことに巻き込まれるのはイヤだから名前を出すな、と言っていたからだ。
春樹にしてみれば濁したのではなく、本当に何も知らなかっただけなのだが。
それなのに今、苗字を呼ばれた。

「違うんですか?」

紫揺の手が杢木から離れようとする。 誰かの、北の領土の策略か、そんな不安が走った。
杢木がすぐに離そうとしかけた紫揺の手をギュッと掴む。 こけかけたのかと思ったからだ。

「杢木誠也(もくぎせいや)」

苗字を聞かされていたのなら仕方がない。 そうそうある苗字ではない。 開き直ろう。

「え?」

「邑岬春樹(むらさきはるき)の専門学校の時の・・・親友でもないけど友達。 同じクラスだった」

「むらさき?」

「え? そうだよ。 ん!? 君、本当に春樹の言ってた紫揺ちゃん?」

手を引きながら歩いていた足が止まる。

「あ、はい。 その、先輩からは春樹としか聞いていなかったから、てっきりそれが苗字だと思っていました」

そんなことはない。 最初に出会った時にちゃんと学校名も学年もクラスも姓名も名乗っていた。 言ってなかったのはスリーサイズだ。 若しくは身長体重。
だがあの時は余りのことに学校名と学年とクラスしか頭に残っていなかった。 早い話、姓名を聞いていなかったのと同じだった。

セイハが春樹のネームプレートを見て“春樹” と言っていたから、てっきりそれが苗字だと思っていた。 まさかネームプレートに氏ではなく、名が書かれていたとは思ってもみなかった。 それにまさかここにきて“ムラサキ” と聞かされるとは更に思ってもいないことだった。

「ふーん、アイツ苗字を名乗らず、下の名前を名乗ったってことか」

いや、それはどうだろうか。 春樹はフルネームを言ったのだから。

「あ、いえ、勝手に私が思い込んでいただけで・・・あ、そうです。 えっと、どこかに、その、先輩の持ち物に“春樹” って書いてあったから、そう思い込んでただけです」

ハッキリとネームプレートと言ってしまえばいいのだろうか、自分自身アレコレと隠し事をしている故に、春樹もここで働いているのを隠している可能性があると、トンチンカンな気のまわしをした。

「先輩?」

さっきも言っていたな、と疑問を口にした。

「はい。 高校時代の先輩です」

「え? ってことは、紫揺ちゃん柔道部なの?」

過去形ではなく現在進行形で聞いている所がミソだ。 何故なら、春樹の後輩だったらそうなるだろう。 卒業後も春樹がクラブに顔を出していたとして、偶然にでも春樹の持ち物を見たり、誰かが“春樹” と呼べば、それが苗字だと思うかもしれない。 でも、そう考えても今は高校生? それにしては小さいな、と首を捻った。

「・・・違います」

どこからどう見て、自分が柔道部に見えるんだ、それになんで過去形でなく進行形で訊くのかと、苦虫を噛むように答えた。 

「単に、同じ高校の二年先輩です。 クラブとか関係ありません」

「へ?」

一瞬紫揺が何を言っているのかが分からなかった。 紫揺の言葉が頭の中を三周ほどしてやっと意味が分かった。

「デェーーー!! それって、エー――!!」

目を大きく開いて、紫揺と繋いでいた手を離して大きく振る。

「なんでしょう?」

騒ぐ杢木に白い目を向けて問う。

「紫揺ちゃんって・・・俺より二年下なだけーー!?」

そう言われれば、思っていた年齢層より言葉がしっかりとしている。
紫揺を見て幼稚園児ではないとは分かったが、せいぜいよく見積もっても、中学三年生。 いや、見積もり過ぎか。 電車の切符を買って自動改札を抜ける時に “ピヨピヨ” と音がしても可笑しくない。

“どういう意味でしょうか” とは訊かなかった、訊けなかった。 声が掛かったからだ。

「何やってんだ」

杢木の何かに対するパフォーマンスが大きすぎて、呆れたように父親が声を掛けたのだった。

「あ、ああ、親父」

紫揺が杢木誠也の視線を負う。 この人が杢木の父親かと認識する。 無理を言ったのだ、ちゃんと謝罪の言葉を言わなければ。 杢木誠也の繋ぐ手をなく数歩進んだ

「こんな深夜に急なことをお願いして申し訳ありませんでし―――」

迂闊に深々と頭を下げ顔が海水に潜った。 海水に浸かった途端 “ヴァ” と聞こえたような気がする。 多分『申し訳ありませんでした』 の最後の『た』 を海水の中で言ったのだろう。

杢木誠也の父親がビックリして 「君! 顔を上げて!」 と慌てて叫ぶと、びしょ濡れになった紫揺の顔が海面に上がってきた。 これがテーブルなら、完全にゴンという音が響いていただろう。

「いやいや、何を言ってるんだい。 さぁさ、いつまでも濡れたままじゃ、身体によくない」

良く教育された子だと思った。 父親も誠也と同じように、見た目の紫揺のことを小学生だと思いこんでいたからだ。 小学生がこれほどの礼を出来るなど近年有り得ない。 もっとフテブテしかったり、こまっしゃくれている。

「早くボートに上がって来なさい」

父親は紫揺に言ったのに、誠也が先にボートに乗り込んだ。 紫揺を引き上げようと思ったからだったが、その手を必要とせずに軽く身を翻してボートに乗り込んだ。

「ほぅ、身体能力に富んでいるんだね。 先が楽しみだ」

まるで何年後かのオリンピックにでも出られるかのように言うが、今の紫揺は小学生でもなければ、中高校生でもない。

「じゃ、出るよ」

父親が岩礁を見ながら船外機を細かに動かす。
紫揺は離れていく海岸を見ないではいられない。

(ガザン・・・無事でいて)

ボートの端をギュッと握りながら願わずにはいられない。
もっともっと、セキにもニョゼにも残したい言葉があったが、今この時にはガザンのことしか考えられない。
自分のやりたいことに付き合わせた。 それも大きく危険を伴って。 そのガザンのことをセイハもアマフウも犬という。 確かにガザンは犬だ。 アヒルでもなければサンショウウオでもない。 ・・・人でもない。 人間が勝手につけた犬という名詞だ。 でも同じ命だ。

「ガザン・・・」

ガザンがどう考えているのかなんて紫揺には分からない。 でも、ガザンは紫揺のことを、紫揺の願いを分かってくれていた。

「え?」

岩礁を避ける為に船外機を細かに動かしながら、父親が幼児を見るように紫揺を見た。 父親の中で紫揺の年齢は不思議とどんどんと下がっていくようだ。 娘など育てたことがなかったのが大きな理由だったかもしれないが、サスガに普通なら乳児までには遡らないないだろう。

「どうしたの? なにか恐いことがあるのかい?」

“ガザン” と言った言葉を“母さん” とでも聞き間違えたのだろうか。

「いえ、何でもありません。 あの、それより」

そう言うと杢木に目をやった。
杢木がゴムボートの端で虚ろな目をしていた。

(俺が・・・俺が・・・。 俺は・・・俺は・・・同性愛者だったのか・・・?)

目に浮かぶのはトウオウだ。
父親が息子の後頭部をはたいた。


エンジンの付いたゴムボートから船に乗り込んだ。

「はい、濡れた身体を拭きなさい」

紫揺にタオルを手渡し、はたいたにもかかわらず、未だにボォーっとしている我が息子には、その顔にタオルを投げつけた。

「着替えがないけど、大丈夫かい? 風に当たって熱でも出たら大変だ」

この小型モーターボートにはサロンなどついていない。 娘がいたらきっと過保護な父親になっていただろう。

「大丈夫です」

ニコリと返すと濡れた顔や髪の毛を拭き、服を拭きだした。

「じゃ、出発するよ」

船がゆっくりと動き出す。 紫揺に少しでも風が当たらないようにと、スピードは上げなかった。
ずっと手に持っていた上着のポケットのファスナーを下げた。 ポケットに手を入れる。 岩礁の中を歩いてた時には濡れないように気を付けていたが、杢木の父親に頭を下げた時にウッカリ濡らしてしまっていた。

「やっぱり濡れちゃった」

ポケットの中から折りたたまれた札とメモを出す。 わずかの時間でも乾かそうと、一枚づつ広げて風に飛ばされないように気をつけながら、タオルで海水を拭きとる。

(お金?)

紫揺を心配して振り返った父親が紫揺の様子に目を止めた。
札をタオルで拭き、それをヒラヒラと風に当てている。 その様子がなんとも子供らしいが、その手に持っている札の肖像画がドラえもんでもなく、アンパンマンでもない。 子供銀行でもなく、しっかりと日本銀行券である福沢諭吉の肖像画が見てとれる。

「そんな大金どうしたの?」

身に合わない肖像画だし、何枚も見えるトータル金額だ。

「あ、はい。 船を下ろしてもらった後に使うといいからって」

「え? 誰か迎えに来るんじゃないの?」

「・・・いいえ」

「おい、誠也、どうなってんだ!」

投げられたタオルが顔に当たり手に取ることなく膝に落ちたまま、未だに海を眺めてボォーっとしていた杢木誠也が父親を振り返った。

「・・・ん? なに?」

「船を降りた後に、このお嬢ちゃんの迎えはないのか?」

「え? あ、ああ。 みたい」

「みたいって、お前!」

「だから俺が駅まで連れて行くように言われてる」

「は!? お前が? 駅に連れて行くって・・・それで? このお嬢ちゃんはどこの駅まで乗ってくんだ?」

「取り敢えず、方向としては九州」

「はぁー!? どれだけの乗り換えがあると思ってるんだ!」

早い話、この小さな紫揺一人では乗り換えなど出来ないだろうと言っている。

「この子、俺の二年下だから、乗り換えくらい一人で出来るよ」

「え?」

殆ど幼児に近く思っていたのだから、驚くのも無理はないだろう。 だが、どう見ても幼児には見えないのだが。

「そうなの?」

何故か恐々と紫揺に訊く。

「21歳です」

こちらも何故か申し訳なさげに応える。

「えー!!」

船が左右に大きく揺れた。

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