『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第119回
青菜、声がよくひっくり返る三十五歳。 あの時は自分の名を覚えてもらうために何を言うにも『青菜』と、自分の名をくっ付けてきていた。
青菜のその努力が報われ、たしかに紫揺は青菜の名を覚えたのだったが、彰祥草のことはすっかり忘れていた。 あの時青菜は “彰祥草” と言っていたではないか。
『彰祥草と言いまして、この季節の祝いの膳に添えるもので御座います。 香りは良いですが食べるものではありませんので。 青菜がお教えいたしました』と。
「そう言えば、青菜さんから聞いていました。 でもどういうことです? 書蔵で見た絵と、祝いの膳にある葉っぱはちょっと違います。 書蔵で見た葉っぱは茎から見て小さかったし、添えてもらってる葉っぱより小さかったです。 それに梁湶さんは何も言ってなかったし」
「男は知りません。 膳を作るのは女ですから」
「でもそんなものも・・・えっと、祝いの時の膳のアレコレも書蔵にある書に書かれているんですよね?」
「書かれていますが、膳のことが書かれている書を梁湶は読まないと思います」
この東の領土では料理が出来なければ嫁に出られないというが、徹底的にここでは男が料理に首を突っ込まないようだ。
「あ、じゃあ、葉っぱの大きさが違うのは? え? いや、待って下さい。 それ以前です。 彰祥草って高山にしか生えないし、そこには香山猫がいるんじゃないんですか? そんな所に採りに行ってるんですか!?」
「いいえ、違います。 膳に添える彰祥草は高山の彰祥草とは違って、山菜が採れる山に生えています」
「えっと・・・基本的なことを訊きます。 同じ名前なのに違うってことですか?」
「その辺りが私には分からないので、葉月なら知っているのかもと」
「食べ終わったら葉月ちゃんを呼んでください」
「紫さま、お久しぶりですねぇー」
いつもの如く、葉月が紫揺の横に座っている。
マツリが来てから葉月は紫揺の部屋を訪ねてこなくなっていた。 塔弥が止めたのだった。
『なんで? マツリ様と何があったか―――』
『葉月、そこまで首を突っ込んじゃいけない。 マツリ様とのお話に紫さまが何か思われ、お心が萎えられたら紫さまが葉月を呼ぶだろう。 お呼びになられないということは、紫さまがご自分で考えていらっしゃるということだ。 葉月のお蔭で紫さまはマツリ様のことをお考えになられるようになった、せっついては駄目だ。 葉月からマツリ様のことを訊かないように。 紫さまからお話しされるまでは』
『塔弥って・・・』
『なんだ?』
『・・・何でもない』
―――それぐらい、私のことを考えてよ。
「此之葉ちゃんから聞いたんですけど、彰祥草のことでなにか?」
「うん。 知ってたら教えて欲しいんだけど」
此之葉と話していたことを葉月に聞かせた。
「ああ、そのこと」
と、葉月が簡単に応えた。
「知ってるの?」
首肯した葉月が言うには、こうだった。
高山に生える彰祥草はいわゆる原生。 そこから進化してきたものが膳に添えられる彰祥草であると。
「いつからかは知りませんがその昔、進化した彰祥草を山菜を採りに行った時に見つけたって話です。 彰祥草は香りがいいから、その季節の祝いの膳に置くようになったらしいです」
「進化?」
「進化って言っていいのかな? あっちのバイオじゃないけど人の手によって歪められたものじゃなくて、高山にしか生きられない彰祥草が高山以外で生きようとした。 その結果、生きるために葉の大きさを変えた。 大きくした。 花が咲いて種を落として次の命に繋がるけど、その為にはその植物が生きていくに葉って大事だから」
「それって、あちこちの山で生えてるの?」
「うーん・・・紫さまが行かれた辺境の山のことですよね。 そこまでは知りませんけど簡単には生えていないと思います。 簡単に生えちゃったら、あちこちで香山猫が闊歩するだろうし」
「そうだよね・・・。 ・・・葉月ちゃんたちが採りに行く山って高山の麓になるの?」
彰祥草は高山にしか生えないのだから、進化した彰祥草が生えているのならその麓だろう。 原生が高山の頂上周辺に生えているのだろう。
「うーん、ギリ高山には入らないかな。 それに採りに行くのは麓じゃなくて山を途中まで上ります」
「そうなんだ・・・」
「ずっと昔、あの山のほぼ頂上に原生の彰祥草が生えていたらしいです。 でも辺境じゃないから香山猫が来なかったんだろうって話です」
「え?」
「高山じゃない山だから彰祥草が頑張って息をした。 最初は鳥の糞に混じってたんじゃないかな。 それであの山に種が落とされて原生の彰祥草が生えた。 高山では無かったから息がしにくかったんでしょう。 その結果、何十年もの年月を経て、進化した膳に載せる彰祥草が生まれて、それが段々と下りてきたんだと思います」
「進化した彰祥草は原生と同じ匂いを持ってるの?」
「原生の匂いを知りませんけど、どうでしょうか、そう簡単に変わるとは思えませんね」
『ぎりぎり高山と言えるほどではありません。 高山でない所に彰祥草は生えていないはずです』
書蔵で聞いた梁湶の言葉が頭に浮かんだ。 香山猫が現れたあの山は葉月たちが採りに行く山と似ているではないか。
同席していた此之葉の耳に、ギリとかバイオとか知らない言葉が入ってくる。 葉月が “あっち” と言ったのは日本のことだと分かる。
此之葉の頭が垂れていった。
「え? 葉月がそんなことを?」
翌日の紫揺の部屋である。
「知ってましたか? 山菜を採りに行く山の頂上に彰祥草が生えてたって」
梁湶が腕を組んだ。 眉根を寄せて目を瞑る。 頭の中で記憶の頁をめくっているのだろう。
暫くのあと、小さく首を振った。
「そのような書物を読んだ記憶はありません」
「じゃ、どうして葉月ちゃんは知ってたんだろ」
「女達の口伝と葉月が言ってました」
紫揺と梁湶が口を開いた此之葉を見た。
「口伝?」
「堅苦しいものではなく、祝いの膳に彰祥草を載せる時、女たちから聞かせられるらしいです。 ですが葉月が言っていました鳥が運んできたとか、原生が息がしにくくなったというのは葉月の持論のようですが」
此之葉を見ていた目を梁湶に戻す。
「梁湶さんどう思う?」
「あの辺境もここもそんなに気候は変わりません。 辺境のあの山も高山とは呼べない高さ。 そして実際に同じくらいの高さを持つここの山で彰祥草が採れている。 ・・・同じことが起きている可能性はあるかもしれません」
「原生と膳に載せている彰祥草とは同じ匂い?」
「高山の彰祥草の匂いはいま生きている者の中では誰も知りません。 本物を見た者もおりません」
「あ、香山猫が居るから?」
「はい」
「そっか。 じゃ原生は諦めるとして、あそこに彰祥草が生えているかどうか確認しようと思ったら、来年のあの季節まで待たなきゃ分からないんですよね」
「そうですね。 もう枯れているでしょうし」
「そういえば・・・。 香山猫って彰祥草が枯れている間は匂いが嗅げないんですよね。 その間はどうしてるんですか?」
「匂いが無ければ生きられないわけではありません。 単に好んでいる匂いというだけで・・・言ってみれば猫のマタタビみたいなものだと思います。 来年のその時期が来るまで待っているだけです」
昨日、書蔵で沢山の本を読んだ。 その結果、梁湶とあーでもない、こーでもないと言いながらも、結局何も分からなかった。
「彰祥草が原因でしたら少なくともあの季節以外は生りません。 あまり憂えられませんよう。 今日は書蔵はやめておきましょう」
もっと早くに気付くべきだった。 もっと早くに考えるべきだった。 あの凄惨な場面を何度も夢に見て考えることにストップをかけていた自分のせいだ。
初代紫の声が心に思い出される。
耳に聞いたわけではないが重く威厳のある声、何事にも左右されない毅然とした迷いのない声。 初代紫なら夢に見るからと考えることを止めなかったはず。
まだまだ自分は紫と言う名には遠すぎる位置にある。
「それにどれだけ気にされてもこの暑さの中、馬は走らせられませんので」
「はい・・・」
涼しくなったら一度見に行こう。
機を逃してしまったことを後悔しても始まらない。 同じことを二度と繰り返さないようにするだけ。
初代紫ならそうしただろう。 気持ちを入れ替えなくては。
梁湶が辞した後、そういえば、と此之葉が口を開いた。
「私もですが、紫さまも山菜の山にはお入りになったことが御座いませんでしたね」
「あ・・・はい。 そう言われればそうです」
人が働いているところや子供たちの相手や辺境にばかり行っていた。 お付きの男たちが案内するのだから山菜の山には頭がいかなかったのだろう。
「山菜の取れる頃に葉月に連れて行ってもらってもいいですね」
「そうですね。 今回のような事もありますから見ておくに越したことはありませんね」
民の心に添い声を掛けるばかりが紫の仕事ではない。 第一に民を守ることが紫のすべきこと。 領土の中のありとあらゆるところを見ておくことが必要だ。
「今日はどうされます?」
「そうだなぁ・・・」
あまりに時がたち過ぎていた。 気にはなっていた。 報告をしておきたい、此之葉を傷つけないように。 その為には・・・。
「これから昼餉まで、ゆっくりとお転婆の手入れをします」
「あ・・・はい」
「桶をここに置いておきます」
たっぷりと水の入った縦長の木桶を塔弥が運んできた。
どこに行くにもお付きがつかない時には必ず此之葉がついてくる。 だからと言ってお付きがついてくる書蔵には必ず梁湶が中までついてくる。
そして馬のことになれば塔弥がついてくるのは必須であった。
塔弥に話をするに此之葉に席を外してくれと言わなくていい。 こういう時は此之葉が少々寂しい顔をするが。
「ありがとう」
「俺がいくら手入れしてもお転婆はそんなに気持ちのいい顔を見せてくれません。 紫さまの手入れが気持ちいいんでしょうね」
今も半眼になって気持ちよさそうにしている。
そう? と言いながらお転婆の顔を覗き込み、続けて言った。
「早く話さなきゃって思ってたんだけど、葉月ちゃんが来なくなったから」
「葉月を呼びましょうか?」
「塔弥さんから葉月ちゃんに言って」
敢えて言わなくとも、葉月に言ったことが塔弥に流れていることは分かっている。 逆も然りだろう。
「葉月に紫さまの所には行かないようにって俺が止めてました」
「え?」
ブラシをかけていた手が止まる。
「紫さまがお悩みになられれば葉月を呼ばれるだろうって。 お呼びになられないということは、紫さまがご自身で考えていらっしゃるということだと」
「そうだったんだ。 何も結果な―――」
ブルルン、お転婆が手を止めるなと抗議してきた。
あ、ごめん、と言いながら手を動かし塔弥に話を続ける。
「えっと、何も結果なんて出てないんだけどね、その、自分自身に。 でもなんて言ったらいいのかなぁ・・・何か今までと違うっていうか」
ブルルン、紫揺を睨むと今度は気合が入っていないと抗議してきた。
紫揺を睨むのなんてこの領土でお転婆くらいだろう。 ましてや五色の紫が手入れをすること自体おかしい。 もっと言えば、紫が馬を乗ること自体前例がない。
あ、ごめん、とさっきと同じように言い手を動かす。
「葉月ちゃんがね、マツリに訊きたいことを考えるようにって言ったの。 訊きたいことなんて考えたこともなかったから頭振り絞って考えたの。 でね、一つだけ浮かんだの。 どうして私を・・・私のどこを好きになったのかって」
塔弥が頷く。
「マツリに言ったら、そしたら、我も不思議だ、って」
塔弥が何度か目を瞬(しばたた)く。
「女人には見えないとか、まぁ・・・あっちで色々やったこととか言われたり」
あっち・・・本領でも何かやってきたのか。 それも色々・・・何をしてきたのかなどと訊く丹力など持ち合わせていない。 塔弥が泣き笑いに近い表情を浮かべる。
「挙句に背が低いとか、髪の毛が短いとか・・・その、女の人の身体つきじゃないとか、かじんじゃないとか、かじんって何だよって話。 とにかくボロカスに言われた」
どれにも否定はできない。 それに宮では女は髪を長くするものだと言われていると聞いたことがある。
「それで・・・面白いとか楽しいとか」
塔弥が僅かに首を傾げたが、これが葉月だったら首を傾げることは無かっただろう。
「奥に迎えたいって。 私が好きになった民を領主さんの前に連れてきたら、その民の前に立つって。 自己中の塊。 ・・・誰にも渡す気はないって。 私の気持ちなんて考えてない」
“ぼろかす” とか “じこちゅう” とは何だ。 それに段々複雑になっていく。 やはり葉月を呼ぶべきだったか。
言葉の壁もあるがマツリと塔弥ではあまりにも想いの表し方が違う。 塔弥にマツリの心の内を計るには少々難題だろう。
「ボロカスに言われた時は腹が立ったけど・・・でも、腹が立たなかった」
どっちだ、と、塔弥以外のお付きなら突っ込んだだろう。 心の中で。
「え?」
初めて塔弥が言葉を発した。
「グーでマツリを殴ったらしいんだけど、それに対しては悪かったとは思ってる。 マツリは殴って気が済むのなら何度でも殴られるって。 意味分んない」
話が飛ぶ。 それでなくても言葉についていけていない塔弥なのに。 塔弥の方が意味分んない状態である。
冷静に分かる単語だけを頭に浮かべる。
え?・・・耳が悪くなったのか? いま紫揺は殴ったと言ったか? 本領次代領主を?
「あの・・・いま殴ったと? ・・・仰いましたか?」
「記憶にないんだけど。 証拠を見ちゃったし」
「証拠?」
「グーで殴った証拠。 しっかりこの目で見たから」
証拠って何? それに “ぐー” って何だ。
「だから・・・その、私も悪いと思ってるから、あのことは無かったことにするって言ったら、無かった事にしたらマツリの言ったことが無かったことになってしまうだろうって。 そんな気はないって」
もう何が何だか分からなくなってきた。
「えっと・・・葉月に何と言えばよろしいでしょうか?」
「あ、ごめんなさい。 私もまだ整理が出来てなくて。 ってか分からなくて。 葉月ちゃんに言って欲しいのは最初に言ったこと。 自分自身、何も結果なんて出てないんだけど、何か今までと違う感じがあるって、かも知れないって。 まだ何が何だか分からないから。 でも、マツリが何か言えば話そうとは思う」
前向きになってくれたということか。 なのに。
「マツリ様、しばらく来られていませんね」
「うん。 あの時言ってた。 当分来られないって。 来なくていいんだけどね」
ドガッ! 大きな音がたった。
水を入れていた桶が派手に水をぶちまけながら転がっていく。
ヒヒーンと声高らかにお転婆の声が厩に響く。
何度もブルルンと言って紫揺に催促し、ましてや睨んでさえいたのに完全に無視をされていた。 お転婆のお怒りが沸点を越えたようだった。
この夜、葉月から “ぐー” の意味を聞いた塔弥は絶句した。
時は流れ、本領、シキの住む邸では夕刻になると虫の音が聞こえる季節となっていた。
「お方様、ややの具合はいかがですか?」
宮に居る時には “シキ様” と呼んでいるが、ここはシキの住む邸。 ここでは呼び方を変えている。 ちなみに波葉は “お館様” に変わる。
「ええ、元気に蹴っているわ」
微笑みながら膨らんだ腹に目をやり慈しむように撫でている。
「元気すぎて痛いくらい」
「若で御座いましょうか」
目を細めて昌耶が言うと手を差し伸べた。
「どうかしら?」
昌耶の手にシキの手が重なる。
じっとしてばかりいていては妊婦の身体に良くない。 毎日邸の庭を散歩している。 こけることの無いように、それはそれは昌耶が気を張り詰めて。
昌耶は未婚である。 よって自身に妊娠出産の経験はないが、澪引の従者としてなら澪引が妊娠出産をした時にその経験はある。
「足元にお気を付けくださいませ」
昌耶が引く手の反対側にも万が一のことを考えて従者がついている。 後ろにもゾロゾロと。
「紫、来ないわね」
上がり框を降り庭に出ると朱に染まりかけている空を仰いだ。 ロセイが羽を伸ばすために上空を飛んでいる。
マツリが杠に言われ紫揺と話をしてきたと、波葉から又聞きで聞いたのは随分と前になる。
波葉が宮でその話しをマツリから聞いた時には、杠が献言してくれたのかと、ホッと息をついたものだった。
その時に時が許すのならシキに会いに来てもらいたい、と言ったとも聞いていた。
「東の領土でお忙しくされているのでしょう」
「東の領土は紫がいない事だけに憂いていたのよ、領土は安定していたわ。 紫が見つかった以上、何も忙しくすることは無いわ」
最近のシキは、ふとした時にピリピリを発散していた。
床に入った途端、お腹のややが元気に遊びだし寝られたものではなかった。 昼寝もするが、その時にもややが遊びだす。 どうも横になると遊びだすようで睡眠不足が原因のようだった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第119回
青菜、声がよくひっくり返る三十五歳。 あの時は自分の名を覚えてもらうために何を言うにも『青菜』と、自分の名をくっ付けてきていた。
青菜のその努力が報われ、たしかに紫揺は青菜の名を覚えたのだったが、彰祥草のことはすっかり忘れていた。 あの時青菜は “彰祥草” と言っていたではないか。
『彰祥草と言いまして、この季節の祝いの膳に添えるもので御座います。 香りは良いですが食べるものではありませんので。 青菜がお教えいたしました』と。
「そう言えば、青菜さんから聞いていました。 でもどういうことです? 書蔵で見た絵と、祝いの膳にある葉っぱはちょっと違います。 書蔵で見た葉っぱは茎から見て小さかったし、添えてもらってる葉っぱより小さかったです。 それに梁湶さんは何も言ってなかったし」
「男は知りません。 膳を作るのは女ですから」
「でもそんなものも・・・えっと、祝いの時の膳のアレコレも書蔵にある書に書かれているんですよね?」
「書かれていますが、膳のことが書かれている書を梁湶は読まないと思います」
この東の領土では料理が出来なければ嫁に出られないというが、徹底的にここでは男が料理に首を突っ込まないようだ。
「あ、じゃあ、葉っぱの大きさが違うのは? え? いや、待って下さい。 それ以前です。 彰祥草って高山にしか生えないし、そこには香山猫がいるんじゃないんですか? そんな所に採りに行ってるんですか!?」
「いいえ、違います。 膳に添える彰祥草は高山の彰祥草とは違って、山菜が採れる山に生えています」
「えっと・・・基本的なことを訊きます。 同じ名前なのに違うってことですか?」
「その辺りが私には分からないので、葉月なら知っているのかもと」
「食べ終わったら葉月ちゃんを呼んでください」
「紫さま、お久しぶりですねぇー」
いつもの如く、葉月が紫揺の横に座っている。
マツリが来てから葉月は紫揺の部屋を訪ねてこなくなっていた。 塔弥が止めたのだった。
『なんで? マツリ様と何があったか―――』
『葉月、そこまで首を突っ込んじゃいけない。 マツリ様とのお話に紫さまが何か思われ、お心が萎えられたら紫さまが葉月を呼ぶだろう。 お呼びになられないということは、紫さまがご自分で考えていらっしゃるということだ。 葉月のお蔭で紫さまはマツリ様のことをお考えになられるようになった、せっついては駄目だ。 葉月からマツリ様のことを訊かないように。 紫さまからお話しされるまでは』
『塔弥って・・・』
『なんだ?』
『・・・何でもない』
―――それぐらい、私のことを考えてよ。
「此之葉ちゃんから聞いたんですけど、彰祥草のことでなにか?」
「うん。 知ってたら教えて欲しいんだけど」
此之葉と話していたことを葉月に聞かせた。
「ああ、そのこと」
と、葉月が簡単に応えた。
「知ってるの?」
首肯した葉月が言うには、こうだった。
高山に生える彰祥草はいわゆる原生。 そこから進化してきたものが膳に添えられる彰祥草であると。
「いつからかは知りませんがその昔、進化した彰祥草を山菜を採りに行った時に見つけたって話です。 彰祥草は香りがいいから、その季節の祝いの膳に置くようになったらしいです」
「進化?」
「進化って言っていいのかな? あっちのバイオじゃないけど人の手によって歪められたものじゃなくて、高山にしか生きられない彰祥草が高山以外で生きようとした。 その結果、生きるために葉の大きさを変えた。 大きくした。 花が咲いて種を落として次の命に繋がるけど、その為にはその植物が生きていくに葉って大事だから」
「それって、あちこちの山で生えてるの?」
「うーん・・・紫さまが行かれた辺境の山のことですよね。 そこまでは知りませんけど簡単には生えていないと思います。 簡単に生えちゃったら、あちこちで香山猫が闊歩するだろうし」
「そうだよね・・・。 ・・・葉月ちゃんたちが採りに行く山って高山の麓になるの?」
彰祥草は高山にしか生えないのだから、進化した彰祥草が生えているのならその麓だろう。 原生が高山の頂上周辺に生えているのだろう。
「うーん、ギリ高山には入らないかな。 それに採りに行くのは麓じゃなくて山を途中まで上ります」
「そうなんだ・・・」
「ずっと昔、あの山のほぼ頂上に原生の彰祥草が生えていたらしいです。 でも辺境じゃないから香山猫が来なかったんだろうって話です」
「え?」
「高山じゃない山だから彰祥草が頑張って息をした。 最初は鳥の糞に混じってたんじゃないかな。 それであの山に種が落とされて原生の彰祥草が生えた。 高山では無かったから息がしにくかったんでしょう。 その結果、何十年もの年月を経て、進化した膳に載せる彰祥草が生まれて、それが段々と下りてきたんだと思います」
「進化した彰祥草は原生と同じ匂いを持ってるの?」
「原生の匂いを知りませんけど、どうでしょうか、そう簡単に変わるとは思えませんね」
『ぎりぎり高山と言えるほどではありません。 高山でない所に彰祥草は生えていないはずです』
書蔵で聞いた梁湶の言葉が頭に浮かんだ。 香山猫が現れたあの山は葉月たちが採りに行く山と似ているではないか。
同席していた此之葉の耳に、ギリとかバイオとか知らない言葉が入ってくる。 葉月が “あっち” と言ったのは日本のことだと分かる。
此之葉の頭が垂れていった。
「え? 葉月がそんなことを?」
翌日の紫揺の部屋である。
「知ってましたか? 山菜を採りに行く山の頂上に彰祥草が生えてたって」
梁湶が腕を組んだ。 眉根を寄せて目を瞑る。 頭の中で記憶の頁をめくっているのだろう。
暫くのあと、小さく首を振った。
「そのような書物を読んだ記憶はありません」
「じゃ、どうして葉月ちゃんは知ってたんだろ」
「女達の口伝と葉月が言ってました」
紫揺と梁湶が口を開いた此之葉を見た。
「口伝?」
「堅苦しいものではなく、祝いの膳に彰祥草を載せる時、女たちから聞かせられるらしいです。 ですが葉月が言っていました鳥が運んできたとか、原生が息がしにくくなったというのは葉月の持論のようですが」
此之葉を見ていた目を梁湶に戻す。
「梁湶さんどう思う?」
「あの辺境もここもそんなに気候は変わりません。 辺境のあの山も高山とは呼べない高さ。 そして実際に同じくらいの高さを持つここの山で彰祥草が採れている。 ・・・同じことが起きている可能性はあるかもしれません」
「原生と膳に載せている彰祥草とは同じ匂い?」
「高山の彰祥草の匂いはいま生きている者の中では誰も知りません。 本物を見た者もおりません」
「あ、香山猫が居るから?」
「はい」
「そっか。 じゃ原生は諦めるとして、あそこに彰祥草が生えているかどうか確認しようと思ったら、来年のあの季節まで待たなきゃ分からないんですよね」
「そうですね。 もう枯れているでしょうし」
「そういえば・・・。 香山猫って彰祥草が枯れている間は匂いが嗅げないんですよね。 その間はどうしてるんですか?」
「匂いが無ければ生きられないわけではありません。 単に好んでいる匂いというだけで・・・言ってみれば猫のマタタビみたいなものだと思います。 来年のその時期が来るまで待っているだけです」
昨日、書蔵で沢山の本を読んだ。 その結果、梁湶とあーでもない、こーでもないと言いながらも、結局何も分からなかった。
「彰祥草が原因でしたら少なくともあの季節以外は生りません。 あまり憂えられませんよう。 今日は書蔵はやめておきましょう」
もっと早くに気付くべきだった。 もっと早くに考えるべきだった。 あの凄惨な場面を何度も夢に見て考えることにストップをかけていた自分のせいだ。
初代紫の声が心に思い出される。
耳に聞いたわけではないが重く威厳のある声、何事にも左右されない毅然とした迷いのない声。 初代紫なら夢に見るからと考えることを止めなかったはず。
まだまだ自分は紫と言う名には遠すぎる位置にある。
「それにどれだけ気にされてもこの暑さの中、馬は走らせられませんので」
「はい・・・」
涼しくなったら一度見に行こう。
機を逃してしまったことを後悔しても始まらない。 同じことを二度と繰り返さないようにするだけ。
初代紫ならそうしただろう。 気持ちを入れ替えなくては。
梁湶が辞した後、そういえば、と此之葉が口を開いた。
「私もですが、紫さまも山菜の山にはお入りになったことが御座いませんでしたね」
「あ・・・はい。 そう言われればそうです」
人が働いているところや子供たちの相手や辺境にばかり行っていた。 お付きの男たちが案内するのだから山菜の山には頭がいかなかったのだろう。
「山菜の取れる頃に葉月に連れて行ってもらってもいいですね」
「そうですね。 今回のような事もありますから見ておくに越したことはありませんね」
民の心に添い声を掛けるばかりが紫の仕事ではない。 第一に民を守ることが紫のすべきこと。 領土の中のありとあらゆるところを見ておくことが必要だ。
「今日はどうされます?」
「そうだなぁ・・・」
あまりに時がたち過ぎていた。 気にはなっていた。 報告をしておきたい、此之葉を傷つけないように。 その為には・・・。
「これから昼餉まで、ゆっくりとお転婆の手入れをします」
「あ・・・はい」
「桶をここに置いておきます」
たっぷりと水の入った縦長の木桶を塔弥が運んできた。
どこに行くにもお付きがつかない時には必ず此之葉がついてくる。 だからと言ってお付きがついてくる書蔵には必ず梁湶が中までついてくる。
そして馬のことになれば塔弥がついてくるのは必須であった。
塔弥に話をするに此之葉に席を外してくれと言わなくていい。 こういう時は此之葉が少々寂しい顔をするが。
「ありがとう」
「俺がいくら手入れしてもお転婆はそんなに気持ちのいい顔を見せてくれません。 紫さまの手入れが気持ちいいんでしょうね」
今も半眼になって気持ちよさそうにしている。
そう? と言いながらお転婆の顔を覗き込み、続けて言った。
「早く話さなきゃって思ってたんだけど、葉月ちゃんが来なくなったから」
「葉月を呼びましょうか?」
「塔弥さんから葉月ちゃんに言って」
敢えて言わなくとも、葉月に言ったことが塔弥に流れていることは分かっている。 逆も然りだろう。
「葉月に紫さまの所には行かないようにって俺が止めてました」
「え?」
ブラシをかけていた手が止まる。
「紫さまがお悩みになられれば葉月を呼ばれるだろうって。 お呼びになられないということは、紫さまがご自身で考えていらっしゃるということだと」
「そうだったんだ。 何も結果な―――」
ブルルン、お転婆が手を止めるなと抗議してきた。
あ、ごめん、と言いながら手を動かし塔弥に話を続ける。
「えっと、何も結果なんて出てないんだけどね、その、自分自身に。 でもなんて言ったらいいのかなぁ・・・何か今までと違うっていうか」
ブルルン、紫揺を睨むと今度は気合が入っていないと抗議してきた。
紫揺を睨むのなんてこの領土でお転婆くらいだろう。 ましてや五色の紫が手入れをすること自体おかしい。 もっと言えば、紫が馬を乗ること自体前例がない。
あ、ごめん、とさっきと同じように言い手を動かす。
「葉月ちゃんがね、マツリに訊きたいことを考えるようにって言ったの。 訊きたいことなんて考えたこともなかったから頭振り絞って考えたの。 でね、一つだけ浮かんだの。 どうして私を・・・私のどこを好きになったのかって」
塔弥が頷く。
「マツリに言ったら、そしたら、我も不思議だ、って」
塔弥が何度か目を瞬(しばたた)く。
「女人には見えないとか、まぁ・・・あっちで色々やったこととか言われたり」
あっち・・・本領でも何かやってきたのか。 それも色々・・・何をしてきたのかなどと訊く丹力など持ち合わせていない。 塔弥が泣き笑いに近い表情を浮かべる。
「挙句に背が低いとか、髪の毛が短いとか・・・その、女の人の身体つきじゃないとか、かじんじゃないとか、かじんって何だよって話。 とにかくボロカスに言われた」
どれにも否定はできない。 それに宮では女は髪を長くするものだと言われていると聞いたことがある。
「それで・・・面白いとか楽しいとか」
塔弥が僅かに首を傾げたが、これが葉月だったら首を傾げることは無かっただろう。
「奥に迎えたいって。 私が好きになった民を領主さんの前に連れてきたら、その民の前に立つって。 自己中の塊。 ・・・誰にも渡す気はないって。 私の気持ちなんて考えてない」
“ぼろかす” とか “じこちゅう” とは何だ。 それに段々複雑になっていく。 やはり葉月を呼ぶべきだったか。
言葉の壁もあるがマツリと塔弥ではあまりにも想いの表し方が違う。 塔弥にマツリの心の内を計るには少々難題だろう。
「ボロカスに言われた時は腹が立ったけど・・・でも、腹が立たなかった」
どっちだ、と、塔弥以外のお付きなら突っ込んだだろう。 心の中で。
「え?」
初めて塔弥が言葉を発した。
「グーでマツリを殴ったらしいんだけど、それに対しては悪かったとは思ってる。 マツリは殴って気が済むのなら何度でも殴られるって。 意味分んない」
話が飛ぶ。 それでなくても言葉についていけていない塔弥なのに。 塔弥の方が意味分んない状態である。
冷静に分かる単語だけを頭に浮かべる。
え?・・・耳が悪くなったのか? いま紫揺は殴ったと言ったか? 本領次代領主を?
「あの・・・いま殴ったと? ・・・仰いましたか?」
「記憶にないんだけど。 証拠を見ちゃったし」
「証拠?」
「グーで殴った証拠。 しっかりこの目で見たから」
証拠って何? それに “ぐー” って何だ。
「だから・・・その、私も悪いと思ってるから、あのことは無かったことにするって言ったら、無かった事にしたらマツリの言ったことが無かったことになってしまうだろうって。 そんな気はないって」
もう何が何だか分からなくなってきた。
「えっと・・・葉月に何と言えばよろしいでしょうか?」
「あ、ごめんなさい。 私もまだ整理が出来てなくて。 ってか分からなくて。 葉月ちゃんに言って欲しいのは最初に言ったこと。 自分自身、何も結果なんて出てないんだけど、何か今までと違う感じがあるって、かも知れないって。 まだ何が何だか分からないから。 でも、マツリが何か言えば話そうとは思う」
前向きになってくれたということか。 なのに。
「マツリ様、しばらく来られていませんね」
「うん。 あの時言ってた。 当分来られないって。 来なくていいんだけどね」
ドガッ! 大きな音がたった。
水を入れていた桶が派手に水をぶちまけながら転がっていく。
ヒヒーンと声高らかにお転婆の声が厩に響く。
何度もブルルンと言って紫揺に催促し、ましてや睨んでさえいたのに完全に無視をされていた。 お転婆のお怒りが沸点を越えたようだった。
この夜、葉月から “ぐー” の意味を聞いた塔弥は絶句した。
時は流れ、本領、シキの住む邸では夕刻になると虫の音が聞こえる季節となっていた。
「お方様、ややの具合はいかがですか?」
宮に居る時には “シキ様” と呼んでいるが、ここはシキの住む邸。 ここでは呼び方を変えている。 ちなみに波葉は “お館様” に変わる。
「ええ、元気に蹴っているわ」
微笑みながら膨らんだ腹に目をやり慈しむように撫でている。
「元気すぎて痛いくらい」
「若で御座いましょうか」
目を細めて昌耶が言うと手を差し伸べた。
「どうかしら?」
昌耶の手にシキの手が重なる。
じっとしてばかりいていては妊婦の身体に良くない。 毎日邸の庭を散歩している。 こけることの無いように、それはそれは昌耶が気を張り詰めて。
昌耶は未婚である。 よって自身に妊娠出産の経験はないが、澪引の従者としてなら澪引が妊娠出産をした時にその経験はある。
「足元にお気を付けくださいませ」
昌耶が引く手の反対側にも万が一のことを考えて従者がついている。 後ろにもゾロゾロと。
「紫、来ないわね」
上がり框を降り庭に出ると朱に染まりかけている空を仰いだ。 ロセイが羽を伸ばすために上空を飛んでいる。
マツリが杠に言われ紫揺と話をしてきたと、波葉から又聞きで聞いたのは随分と前になる。
波葉が宮でその話しをマツリから聞いた時には、杠が献言してくれたのかと、ホッと息をついたものだった。
その時に時が許すのならシキに会いに来てもらいたい、と言ったとも聞いていた。
「東の領土でお忙しくされているのでしょう」
「東の領土は紫がいない事だけに憂いていたのよ、領土は安定していたわ。 紫が見つかった以上、何も忙しくすることは無いわ」
最近のシキは、ふとした時にピリピリを発散していた。
床に入った途端、お腹のややが元気に遊びだし寝られたものではなかった。 昼寝もするが、その時にもややが遊びだす。 どうも横になると遊びだすようで睡眠不足が原因のようだった。