大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

辰刻の雫 ~蒼い月~  第119回

2022年11月28日 20時45分34秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第119回



青菜、声がよくひっくり返る三十五歳。 あの時は自分の名を覚えてもらうために何を言うにも『青菜』と、自分の名をくっ付けてきていた。
青菜のその努力が報われ、たしかに紫揺は青菜の名を覚えたのだったが、彰祥草のことはすっかり忘れていた。 あの時青菜は “彰祥草” と言っていたではないか。

『彰祥草と言いまして、この季節の祝いの膳に添えるもので御座います。 香りは良いですが食べるものではありませんので。 青菜がお教えいたしました』と。

「そう言えば、青菜さんから聞いていました。 でもどういうことです? 書蔵で見た絵と、祝いの膳にある葉っぱはちょっと違います。 書蔵で見た葉っぱは茎から見て小さかったし、添えてもらってる葉っぱより小さかったです。 それに梁湶さんは何も言ってなかったし」

「男は知りません。 膳を作るのは女ですから」

「でもそんなものも・・・えっと、祝いの時の膳のアレコレも書蔵にある書に書かれているんですよね?」

「書かれていますが、膳のことが書かれている書を梁湶は読まないと思います」

この東の領土では料理が出来なければ嫁に出られないというが、徹底的にここでは男が料理に首を突っ込まないようだ。

「あ、じゃあ、葉っぱの大きさが違うのは? え? いや、待って下さい。 それ以前です。 彰祥草って高山にしか生えないし、そこには香山猫がいるんじゃないんですか? そんな所に採りに行ってるんですか!?」

「いいえ、違います。 膳に添える彰祥草は高山の彰祥草とは違って、山菜が採れる山に生えています」

「えっと・・・基本的なことを訊きます。 同じ名前なのに違うってことですか?」

「その辺りが私には分からないので、葉月なら知っているのかもと」

「食べ終わったら葉月ちゃんを呼んでください」


「紫さま、お久しぶりですねぇー」

いつもの如く、葉月が紫揺の横に座っている。
マツリが来てから葉月は紫揺の部屋を訪ねてこなくなっていた。 塔弥が止めたのだった。


『なんで? マツリ様と何があったか―――』

『葉月、そこまで首を突っ込んじゃいけない。 マツリ様とのお話に紫さまが何か思われ、お心が萎えられたら紫さまが葉月を呼ぶだろう。 お呼びになられないということは、紫さまがご自分で考えていらっしゃるということだ。 葉月のお蔭で紫さまはマツリ様のことをお考えになられるようになった、せっついては駄目だ。 葉月からマツリ様のことを訊かないように。 紫さまからお話しされるまでは』

『塔弥って・・・』

『なんだ?』

『・・・何でもない』

―――それぐらい、私のことを考えてよ。


「此之葉ちゃんから聞いたんですけど、彰祥草のことでなにか?」

「うん。 知ってたら教えて欲しいんだけど」

此之葉と話していたことを葉月に聞かせた。

「ああ、そのこと」

と、葉月が簡単に応えた。

「知ってるの?」

首肯した葉月が言うには、こうだった。
高山に生える彰祥草はいわゆる原生。 そこから進化してきたものが膳に添えられる彰祥草であると。

「いつからかは知りませんがその昔、進化した彰祥草を山菜を採りに行った時に見つけたって話です。 彰祥草は香りがいいから、その季節の祝いの膳に置くようになったらしいです」

「進化?」

「進化って言っていいのかな? あっちのバイオじゃないけど人の手によって歪められたものじゃなくて、高山にしか生きられない彰祥草が高山以外で生きようとした。 その結果、生きるために葉の大きさを変えた。 大きくした。 花が咲いて種を落として次の命に繋がるけど、その為にはその植物が生きていくに葉って大事だから」

「それって、あちこちの山で生えてるの?」

「うーん・・・紫さまが行かれた辺境の山のことですよね。 そこまでは知りませんけど簡単には生えていないと思います。 簡単に生えちゃったら、あちこちで香山猫が闊歩するだろうし」

「そうだよね・・・。 ・・・葉月ちゃんたちが採りに行く山って高山の麓になるの?」

彰祥草は高山にしか生えないのだから、進化した彰祥草が生えているのならその麓だろう。 原生が高山の頂上周辺に生えているのだろう。

「うーん、ギリ高山には入らないかな。 それに採りに行くのは麓じゃなくて山を途中まで上ります」

「そうなんだ・・・」

「ずっと昔、あの山のほぼ頂上に原生の彰祥草が生えていたらしいです。 でも辺境じゃないから香山猫が来なかったんだろうって話です」

「え?」

「高山じゃない山だから彰祥草が頑張って息をした。 最初は鳥の糞に混じってたんじゃないかな。 それであの山に種が落とされて原生の彰祥草が生えた。 高山では無かったから息がしにくかったんでしょう。 その結果、何十年もの年月を経て、進化した膳に載せる彰祥草が生まれて、それが段々と下りてきたんだと思います」

「進化した彰祥草は原生と同じ匂いを持ってるの?」

「原生の匂いを知りませんけど、どうでしょうか、そう簡単に変わるとは思えませんね」

『ぎりぎり高山と言えるほどではありません。 高山でない所に彰祥草は生えていないはずです』
書蔵で聞いた梁湶の言葉が頭に浮かんだ。 香山猫が現れたあの山は葉月たちが採りに行く山と似ているではないか。

同席していた此之葉の耳に、ギリとかバイオとか知らない言葉が入ってくる。 葉月が “あっち” と言ったのは日本のことだと分かる。
此之葉の頭が垂れていった。


「え? 葉月がそんなことを?」

翌日の紫揺の部屋である。

「知ってましたか? 山菜を採りに行く山の頂上に彰祥草が生えてたって」

梁湶が腕を組んだ。 眉根を寄せて目を瞑る。 頭の中で記憶の頁をめくっているのだろう。
暫くのあと、小さく首を振った。

「そのような書物を読んだ記憶はありません」

「じゃ、どうして葉月ちゃんは知ってたんだろ」

「女達の口伝と葉月が言ってました」

紫揺と梁湶が口を開いた此之葉を見た。

「口伝?」

「堅苦しいものではなく、祝いの膳に彰祥草を載せる時、女たちから聞かせられるらしいです。 ですが葉月が言っていました鳥が運んできたとか、原生が息がしにくくなったというのは葉月の持論のようですが」

此之葉を見ていた目を梁湶に戻す。

「梁湶さんどう思う?」

「あの辺境もここもそんなに気候は変わりません。 辺境のあの山も高山とは呼べない高さ。 そして実際に同じくらいの高さを持つここの山で彰祥草が採れている。 ・・・同じことが起きている可能性はあるかもしれません」

「原生と膳に載せている彰祥草とは同じ匂い?」

「高山の彰祥草の匂いはいま生きている者の中では誰も知りません。 本物を見た者もおりません」

「あ、香山猫が居るから?」

「はい」

「そっか。 じゃ原生は諦めるとして、あそこに彰祥草が生えているかどうか確認しようと思ったら、来年のあの季節まで待たなきゃ分からないんですよね」

「そうですね。 もう枯れているでしょうし」

「そういえば・・・。 香山猫って彰祥草が枯れている間は匂いが嗅げないんですよね。 その間はどうしてるんですか?」

「匂いが無ければ生きられないわけではありません。 単に好んでいる匂いというだけで・・・言ってみれば猫のマタタビみたいなものだと思います。 来年のその時期が来るまで待っているだけです」

昨日、書蔵で沢山の本を読んだ。 その結果、梁湶とあーでもない、こーでもないと言いながらも、結局何も分からなかった。

「彰祥草が原因でしたら少なくともあの季節以外は生りません。 あまり憂えられませんよう。 今日は書蔵はやめておきましょう」

もっと早くに気付くべきだった。 もっと早くに考えるべきだった。 あの凄惨な場面を何度も夢に見て考えることにストップをかけていた自分のせいだ。
初代紫の声が心に思い出される。
耳に聞いたわけではないが重く威厳のある声、何事にも左右されない毅然とした迷いのない声。 初代紫なら夢に見るからと考えることを止めなかったはず。
まだまだ自分は紫と言う名には遠すぎる位置にある。

「それにどれだけ気にされてもこの暑さの中、馬は走らせられませんので」

「はい・・・」

涼しくなったら一度見に行こう。
機を逃してしまったことを後悔しても始まらない。 同じことを二度と繰り返さないようにするだけ。
初代紫ならそうしただろう。 気持ちを入れ替えなくては。

梁湶が辞した後、そういえば、と此之葉が口を開いた。

「私もですが、紫さまも山菜の山にはお入りになったことが御座いませんでしたね」

「あ・・・はい。 そう言われればそうです」

人が働いているところや子供たちの相手や辺境にばかり行っていた。 お付きの男たちが案内するのだから山菜の山には頭がいかなかったのだろう。

「山菜の取れる頃に葉月に連れて行ってもらってもいいですね」

「そうですね。 今回のような事もありますから見ておくに越したことはありませんね」

民の心に添い声を掛けるばかりが紫の仕事ではない。 第一に民を守ることが紫のすべきこと。 領土の中のありとあらゆるところを見ておくことが必要だ。

「今日はどうされます?」

「そうだなぁ・・・」

あまりに時がたち過ぎていた。 気にはなっていた。 報告をしておきたい、此之葉を傷つけないように。 その為には・・・。

「これから昼餉まで、ゆっくりとお転婆の手入れをします」

「あ・・・はい」


「桶をここに置いておきます」

たっぷりと水の入った縦長の木桶を塔弥が運んできた。
どこに行くにもお付きがつかない時には必ず此之葉がついてくる。 だからと言ってお付きがついてくる書蔵には必ず梁湶が中までついてくる。
そして馬のことになれば塔弥がついてくるのは必須であった。
塔弥に話をするに此之葉に席を外してくれと言わなくていい。 こういう時は此之葉が少々寂しい顔をするが。

「ありがとう」

「俺がいくら手入れしてもお転婆はそんなに気持ちのいい顔を見せてくれません。 紫さまの手入れが気持ちいいんでしょうね」

今も半眼になって気持ちよさそうにしている。
そう? と言いながらお転婆の顔を覗き込み、続けて言った。

「早く話さなきゃって思ってたんだけど、葉月ちゃんが来なくなったから」

「葉月を呼びましょうか?」

「塔弥さんから葉月ちゃんに言って」

敢えて言わなくとも、葉月に言ったことが塔弥に流れていることは分かっている。 逆も然りだろう。

「葉月に紫さまの所には行かないようにって俺が止めてました」

「え?」

ブラシをかけていた手が止まる。

「紫さまがお悩みになられれば葉月を呼ばれるだろうって。 お呼びになられないということは、紫さまがご自身で考えていらっしゃるということだと」

「そうだったんだ。 何も結果な―――」

ブルルン、お転婆が手を止めるなと抗議してきた。
あ、ごめん、と言いながら手を動かし塔弥に話を続ける。

「えっと、何も結果なんて出てないんだけどね、その、自分自身に。 でもなんて言ったらいいのかなぁ・・・何か今までと違うっていうか」

ブルルン、紫揺を睨むと今度は気合が入っていないと抗議してきた。
紫揺を睨むのなんてこの領土でお転婆くらいだろう。 ましてや五色の紫が手入れをすること自体おかしい。 もっと言えば、紫が馬を乗ること自体前例がない。
あ、ごめん、とさっきと同じように言い手を動かす。

「葉月ちゃんがね、マツリに訊きたいことを考えるようにって言ったの。 訊きたいことなんて考えたこともなかったから頭振り絞って考えたの。 でね、一つだけ浮かんだの。 どうして私を・・・私のどこを好きになったのかって」

塔弥が頷く。

「マツリに言ったら、そしたら、我も不思議だ、って」

塔弥が何度か目を瞬(しばたた)く。

「女人には見えないとか、まぁ・・・あっちで色々やったこととか言われたり」

あっち・・・本領でも何かやってきたのか。 それも色々・・・何をしてきたのかなどと訊く丹力など持ち合わせていない。 塔弥が泣き笑いに近い表情を浮かべる。

「挙句に背が低いとか、髪の毛が短いとか・・・その、女の人の身体つきじゃないとか、かじんじゃないとか、かじんって何だよって話。 とにかくボロカスに言われた」

どれにも否定はできない。 それに宮では女は髪を長くするものだと言われていると聞いたことがある。

「それで・・・面白いとか楽しいとか」

塔弥が僅かに首を傾げたが、これが葉月だったら首を傾げることは無かっただろう。

「奥に迎えたいって。 私が好きになった民を領主さんの前に連れてきたら、その民の前に立つって。 自己中の塊。 ・・・誰にも渡す気はないって。 私の気持ちなんて考えてない」

“ぼろかす” とか “じこちゅう” とは何だ。 それに段々複雑になっていく。 やはり葉月を呼ぶべきだったか。

言葉の壁もあるがマツリと塔弥ではあまりにも想いの表し方が違う。 塔弥にマツリの心の内を計るには少々難題だろう。

「ボロカスに言われた時は腹が立ったけど・・・でも、腹が立たなかった」

どっちだ、と、塔弥以外のお付きなら突っ込んだだろう。 心の中で。

「え?」

初めて塔弥が言葉を発した。

「グーでマツリを殴ったらしいんだけど、それに対しては悪かったとは思ってる。 マツリは殴って気が済むのなら何度でも殴られるって。 意味分んない」

話が飛ぶ。 それでなくても言葉についていけていない塔弥なのに。 塔弥の方が意味分んない状態である。
冷静に分かる単語だけを頭に浮かべる。
え?・・・耳が悪くなったのか? いま紫揺は殴ったと言ったか? 本領次代領主を?

「あの・・・いま殴ったと? ・・・仰いましたか?」

「記憶にないんだけど。 証拠を見ちゃったし」

「証拠?」

「グーで殴った証拠。 しっかりこの目で見たから」

証拠って何? それに “ぐー” って何だ。

「だから・・・その、私も悪いと思ってるから、あのことは無かったことにするって言ったら、無かった事にしたらマツリの言ったことが無かったことになってしまうだろうって。 そんな気はないって」

もう何が何だか分からなくなってきた。

「えっと・・・葉月に何と言えばよろしいでしょうか?」

「あ、ごめんなさい。 私もまだ整理が出来てなくて。 ってか分からなくて。 葉月ちゃんに言って欲しいのは最初に言ったこと。 自分自身、何も結果なんて出てないんだけど、何か今までと違う感じがあるって、かも知れないって。 まだ何が何だか分からないから。 でも、マツリが何か言えば話そうとは思う」

前向きになってくれたということか。 なのに。

「マツリ様、しばらく来られていませんね」

「うん。 あの時言ってた。 当分来られないって。 来なくていいんだけどね」

ドガッ! 大きな音がたった。
水を入れていた桶が派手に水をぶちまけながら転がっていく。
ヒヒーンと声高らかにお転婆の声が厩に響く。
何度もブルルンと言って紫揺に催促し、ましてや睨んでさえいたのに完全に無視をされていた。 お転婆のお怒りが沸点を越えたようだった。


この夜、葉月から “ぐー” の意味を聞いた塔弥は絶句した。


時は流れ、本領、シキの住む邸では夕刻になると虫の音が聞こえる季節となっていた。

「お方様、ややの具合はいかがですか?」

宮に居る時には “シキ様” と呼んでいるが、ここはシキの住む邸。 ここでは呼び方を変えている。 ちなみに波葉は “お館様” に変わる。

「ええ、元気に蹴っているわ」

微笑みながら膨らんだ腹に目をやり慈しむように撫でている。

「元気すぎて痛いくらい」

「若で御座いましょうか」

目を細めて昌耶が言うと手を差し伸べた。

「どうかしら?」

昌耶の手にシキの手が重なる。
じっとしてばかりいていては妊婦の身体に良くない。 毎日邸の庭を散歩している。 こけることの無いように、それはそれは昌耶が気を張り詰めて。
昌耶は未婚である。 よって自身に妊娠出産の経験はないが、澪引の従者としてなら澪引が妊娠出産をした時にその経験はある。

「足元にお気を付けくださいませ」

昌耶が引く手の反対側にも万が一のことを考えて従者がついている。 後ろにもゾロゾロと。

「紫、来ないわね」

上がり框を降り庭に出ると朱に染まりかけている空を仰いだ。 ロセイが羽を伸ばすために上空を飛んでいる。
マツリが杠に言われ紫揺と話をしてきたと、波葉から又聞きで聞いたのは随分と前になる。
波葉が宮でその話しをマツリから聞いた時には、杠が献言してくれたのかと、ホッと息をついたものだった。
その時に時が許すのならシキに会いに来てもらいたい、と言ったとも聞いていた。

「東の領土でお忙しくされているのでしょう」

「東の領土は紫がいない事だけに憂いていたのよ、領土は安定していたわ。 紫が見つかった以上、何も忙しくすることは無いわ」

最近のシキは、ふとした時にピリピリを発散していた。
床に入った途端、お腹のややが元気に遊びだし寝られたものではなかった。 昼寝もするが、その時にもややが遊びだす。 どうも横になると遊びだすようで睡眠不足が原因のようだった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第118回

2022年11月25日 21時01分44秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第118回



夜の静寂(しじま)を四人の男が歩きながら話している。

「ああ、いまだに独り身で仕事が出来て物腰が柔らかい奴、としか入ってこない。 どうして急に大店をやめたのか不思議だったが、ちょっとしてから都司になったと聞いて納得したってことだ」

「六都だけは豪族が都司になるわけじゃありませんからね」

「たしか・・・、学があればと聞きましたが?」

「ええ、その昔、六都の民に豪族が嫌気をさして宮都に言ってきたそうです。 宮都もしぶしぶ承諾したようですね、読み書きが出来れば良いとするかと。 難しいことは文官任せというところでしょう」

「けっ、ろくでもないな」

四人の足が止まった。

「ではお願いします」

杠が巴央を見て言った。 この中でこの家の中を知っているのは巴央だけである。
紙屋としてこの家に出入りしていた店の者から何気に間取りを聞いていて、日中、留守になったこの家に忍び込みもしていた。 間取りは頭に入っているし、杠の指示の元、忍び込んだ時に仕掛けもしておいた。

敷地に入ると横手に回り、ギリギリ巴央の身体が通るという窓に手を伸ばし、隙間に金具を押し込んだ。 カチャリと、鍵の落ちる音がした。 試したことは無かった、杠に言われたとおりにやっただけであった。
少々驚いた顔を見せていた巴央が、通り越してきた木戸の方をチラリと見る。 そこで待っていろということだ。 この窓から入ることが出来るのは身体からして巴央と杠だけだろう。
京也の手を借りて窓に身体を滑り込ませる。

暫くすると音をたてないように、巴央の手で木戸がゆっくりと開けられた。 杠を先頭に京也と享沙が続く。
巴央なりに考えたのだろう、開けられた木戸は廊下の窓の木戸ではなく、一室の窓の木戸だった。 廊下からの出入りより、一室からの出入りのほうが見つかるリスクが少ないと考えたようだ。

杠の指示は事細かくはない。 それは相手の力量をはかりながらではあるが、自分で考えるということが必要だと思っているからである。 その中で少しずつではあるが、誰もが自分なりに物事を考えている感触を感じている。

杠が懐から光石を出し、部屋の隅から天井まで辺りを照らしてみる。 部屋の隅に置かれた光石には布が被されてあった。
この部屋は畳の間になっていて客を迎える部屋なのだろう。 漆塗りの仰々しい卓が置かれている。 
巴央は主が書斎として使っていた部屋に足を向けた。 その後を三人が続く。

書斎として使っていた部屋は大きかった。 書棚もたくさん並んでいて卓もある。 間違いなく都司もここを書斎として使っているだろう。
それぞれが懐から光石を取り出す。 窓の木戸も閉まっているから外に灯りが漏れる心配はない。
杠と享沙が書棚に光石を照らし、巴央が抽斗の中を照らしている。 京也は閉めた戸の前に立ち、家人の動きがないかを耳を澄ませて聞いている。

「・・・うん?」

思わず声が漏れたが、耳を澄まさなければ聞こえないような声である。
享沙が声の主の杠を見る。
杠が目で呼び、次々と奥行きが寸足らずの本を享沙の手に載せる。 その寸足らずの本に享沙が眉をしかめている。 並べて置かれていた本はデコボコとはしていなかったはずだ。

本をどかした杠が奥に手を伸ばすと手応えがあった。 奥から横向けに置かれた綴り紐で綴じられた帳簿らしき物を出してきた。
享沙が眉を上げて口笛を吹く真似をする。 
光石を持つ手で帳簿を脇に挟むと、もう一方の手で手探りをする。 するとまだあるようだ。
顎をしゃくってまだあることを享沙に知らせる。 持っていた本を卓の上に置くと、享沙が次々と本を出し、まだ残っている綴られたものを出してきた。
その間に杠は先に出していた綴られたものの中を見ていた。 間違いなく都司が分け前として手に入れていた金をつけていたものだった。

享沙が本を元に戻そうとした手を杠が止め首を振った。 綴じられたものを持って帰るのではなく元に戻すようだ。
そして次に享沙が持ってきたものに目を移した。 こちらは大店に居た頃に誤魔化していたものが書かれていた。 もう一冊は豪族や他の大店からせしめた金のことが書かれてあった。 おまけにどんな理由でせしめたのかも。

現段階で最後に書かれているのは元のこの家の主であり、何代か前の都司のことだろう。
『都司、官所に知らせることなく弱みを握られた家族を宮都に流す』 と書かれていた。
以前都司をしていた者であり、元のこの家の主である大店の主の名も勿論だが、宮都に流した三家族のその名を一人と漏らさず書いてあった。
この家の以前の主を何度にも分けて脅したようだ。 日付といくら手にしたかの金額が書いてある。 そして最後に書かれていたのは金額ではなく『家一軒』だった。
最初に書かれた日付を見ると六年前であった。 六年間脅されていたということだ。

合計三冊。 それを元に戻すとその前に本を並べてく。 気取られぬよう最初にあった通りに。

抽斗の中を見ていた巴央は収穫無しといった顔をしている。 だがこれで十分だ。 外の音に集中をしていた京也の肩をたたく。
入ってきた時を巻き戻すかのように、都司の家を出た四人の影が家々の間に伸びている。

「持って出なくて良かったんですか?」

「ええ、武官に押さえてもらいます。 その方がはっきりしているでしょう」

「シラを切られちゃ始まらないってことか」

「だがいつまでもあそこに置いているとも限らない。 場所を移したらどうするんだ?」

「まず移さないと思いますが、移したとしてもあの家の中からは出さないでしょう。 あれの存在は確認できました。 場所を移していれば徹底的に武官に探してもらいます」

「武官ねぇ・・・」

「なんだ?」

巴央がポツリと言ったことに、京也が訊き返す。

「いや、まさか生きてて武官がどうのってことがあるなんて考えもしなかったからな」

「ああ、そう言われればそうだな」

「せいぜい、造幣所に武官が乗り込んできた時が最初で最後くらいだと思ってたからな」

「そっちもだったのか。 こっちもだ。 あの時は驚い―――」

「誰か来ます。 分かれましょう」

そう言った時には杠の姿はなかった。 あまりの早さに三人が目を丸めたが、じっとしているわけにはいかない。 自分たちは知り合いではないのだから。
暗闇に三つの影が溶け込んでいった。

翌日、享沙から受け取った紙を見てみると夕べの呑み屋でのことが書かれてあった。

「内輪もめか・・・」

あの話を聞いていた限りそうなるだろう。
内容を頭に入れると火を点けて燃やした。

「もめ事を起こす前に動かなくては」

そして足を厨に向けた。


都司の片眉がピクリと動いた。 顎に手をやる。
キチンとした性格だ、物が歪んで置いてあるのも許せない。 それなのに抽斗がきちんと閉められていない。
巴央の失態だ。
本棚を見た。 変わりはない。 寸足らずの本を一冊づつ取り出す。 何の変りもなく綴り紐で綴じられたものがあった。
三冊を取り出すと視線の先を変え書斎を出て行った。



東の領土に短い夏がやってきた。

「暑っつー」

額にじめっと汗がにじんでくる。
桶に水を張って手巾を潜らせギュッと絞る。 それを此之葉が差しだしてきた。

「有難うございます」

手巾でまず額を拭き、次に首や腕を拭いていく。

「民はいかがでしたか?」

「うん、みんな暑いなかよく働いてくれていました」

今日は農作業をしている民をまわってきた。 暑くなってからは辺境は勿論、遠出もしていない。 馬が疲れるだけだからだ。

「ね、此之葉さん」

「はい」

「香山猫、どうして高山から降りてきたんでしょう?」

うーん、と考える様子を見せた此之葉だったが、思い当たることがないようだ。

「書蔵に何か書いたものがあるかなぁ・・・」

もう何か月も前の出来事だ。 まだ頭にはあの光景が残っているが、やっとあの場面の夢を見なくなった。

「それでしたら梁湶に訊いてみましょうか?」

この領土で一番本のことを分かっている梁湶である。

「うーん、もし知っていたら、とっくに教えてくれてると思います。 梁湶さんも心当たりがないんじゃないかなぁ」

「では明日、書蔵に行ってみられますか?」

「うん、そうします。 なにかヒントがあるかもしれないし」

ヒント。 此之葉が心の中に書き留めた。 あとで葉月に訊こう。


書蔵の中は外と比べるとひんやりとしていて気持ちが良い。 まるで冷房のかかった部屋にでも入ったような気分だ。
重い戸を開け閉めしたのは梁湶である。

「ん? みんな入ってこないんですか?」

「外で見張をしています」

「そんなことしなくても大丈夫ですよ、ここに危ない人なんていないし。 外は暑いんだから入ってきてもらって下さい」

「いやぁ・・・、ここでじっとしてるくらいだったら、外で歩き回ってる方を選びます」

「じっとって、みんなも本を読んでいればいいんじゃないですか?」

「お付きで本を好んで読むのは俺くらいです。 領土史や “紫さまの書” は致し方なく読んでいますが」

「・・・え?」

「本に囲まれるくらいでしたら外を歩く方を選びます。 暑くなれば入ってくるでしょうし、紫さまのお気にされるほどのことではありません」

「そう、なんだ」

「香山猫のことが気になって来られたんですよね?」

此之葉からそう聞いている。

「あ、はい」

「まずは香山猫のことが書かれてある物を見られますか? それとも・・・」

「動物の生態が書かれている本ってありますか?」

「生態? ですか?」

「はい。 あの香山猫っていうのは日本に居ませんよね?」

「はい、おりません」

「猫って言っても大きさからして猫よりもライオン・・・鬣(たてがみ)が無いから見た目が違いすぎるか。 虎とかに似てる生態なのかな」

だからと言って虎の生態を知っているわけではない。 それに縞模様もなかった。

「ああ、そういうことですか。 そういう意味ではライオンでも虎でもありませんね」

「どういうことですか?」

梁湶が歩き出した。 その後ろを紫揺が歩く。

「香山猫は肉食です。 そういうところはライオンと虎とも同じですが、一番大切な所は高山で尚且つ、ある草の匂いのある所にしか住まないんです」

「ある草?」

こちらでお座りになっていてください、と言うとサッと歩いて梯子を上りだした。 梯子を上りきり、壁にずらりと並ぶ本を一冊手に取ると梯子を下りる。
梁湶が紫揺の斜め後ろに立ち、持ってきた本の頁をパラパラとめくる。 そして目的の頁を見つけたのか、紫揺の前に開けた頁を見せる。

「これは彰祥草(しょうしょうぐさ)と言います。 これが高山に生えていてこの草の発する匂いの高山にだけ香山猫はいます」

墨で描かれている草の葉は茎の太さから比べると少し小さめで、形は桔梗の葉を小さくした感じだ。

「どこの高山にでも生えているわけじゃないんですか?」

花は咲くのだろうかと、本から目を離さず説明書きを読みながら訊ねる。

「はい」

「あそこの山はどうだったんですか?」

「ぎりぎり高山と言えるほどではありません。 高山でない所に彰祥草は生えていないはずです」

「そうなんだ。 ちょっと読んでみます」

本を手に取ると本腰を入れて説明書きを読みだした。

梁湶が踵を返す。 あの山のことを書いてある本がどこかにあったはずだ。 ずっと香山猫のことばかり考えていたが、コレといったことを何も思い出せなかった。 目先を変えるのも一つかもしれない。 紫揺がヒントになった。


「暑っつー!」

二人一組となり、書蔵の周りをグルグルと歩き回っていた六人。 阿秀は秋我と一緒に居てここには来ていない。

「なぁ、塔弥。 もういいだろ? 教えろよ。 なんであの時、葉月が野夜に食って掛かったんだ?」

湖彩が塔弥を覗き込んで訊いてきた。

「だから知らないって。 それに俺はそれを見てないし」

「っとに、阿秀にしても葉月にしてもどうして塔弥を庇うんだか」

塔弥はあのあとしっかりと葉月に聞かされていた。
塔弥から葉月に訊いたのではない、怒りまくりながら聞かされたのだ。
『プロレスのことを知らない塔弥に技かけようなんてっ! プロレスを馬鹿にしてるわ!』と。 決して塔弥を庇ったようではなかった。

「それより馬の方はどうなったんだ?」

「あ? ああ。 腹んだな」

「野夜と悠蓮がせっついたらしいな」

「ああ。 ちなみに種は塔弥の馬だ」

「は?」

塔弥の足が止まった。

「梁湶曰く。 出来ればお転婆と塔弥の馬をかけ合わせたい、なんだがお転婆があれじゃあなぁ・・・」

「いや、待て。 俺は全然聞いてないぞ」

自分の馬は我が仔のように思っている。 それなのに何の承諾もなく。

「領土でお転婆の次に早いのが塔弥の馬なんだから、そうなるのも当たり前だろうが」

「がぁぁぁー、信じられない。 俺に何も言わずっ!」

身体全体で怒りを表す塔弥を見て湖彩がクスリと笑って下を向いた。

「なんだよ」

「醍十がな、塔弥が柔らかくなったって言ってた」

「え? なんだよそれ」

「柔らかいどころか、人間らしくなったな」

湖彩が塔弥の背をポンポンと叩く。 塔弥の汗で掌が湿ってしまった。

「お前も爺ちゃんになるんだからな」

葉月とまだまともに手も握って無いというのにエライ言われようだ。  だが自分の馬の仔が生まれると思うと思わず頬が緩む。


梁湶が何冊かの本を紫揺の座る卓の上に置いた。

「香山猫のことが書かれているものと、これはあの山のことが書かれているものです。 こっちのは、別の角度から見た彰祥草のことが書かれています」

「梁湶さんは全部読んだことがあるんですか?」

「一度は目を通しましたが、全部頭に残っているかと訊かれれば怪しいです。 ですから俺も読み直します」

あの山のことが書かれている本を一冊手に取ると、違う卓に置かれている椅子に腰を掛け本を開いた。


「おい、長くないか?」

醍十が足を止める。

「そっかぁ?」

陽が傾きだしてから長い。 もう影が自分の背の何倍にもなっている。
あまりの暑さにお付きたちは交代で書蔵をまわっていた。
書蔵の入り口までやって来ると、他の四人が陰となった入口で休んでいる。 全員腰には筒を下げていて水分補給はしっかりととっている。

「長くないか? もう陽が傾いてきている」

朝から書蔵に来て一度昼餉をとるのに家に戻り、また書蔵に来ていた。

「ああ、今そんな話をしていたとこだ」

「でもまさか梁湶も同じことは二度もしないだろうって話してたんだ」

「でもなぁ、梁湶自身が本を読みだしたら止まらないからなぁ」

醍十の言いようにドキリとするところがある。 梁湶がついウッカリ読みふけっている間に紫揺が読み疲れて寝ているかもしれない。

「あの時の阿秀の怒りは・・・静かだったよな」

「ああ、たしか梁湶に低い声で恨むぞ、とかって言ってたよな」

「今回、その梁湶を一匹で入れた俺らは罪に問われるのか?」

塔弥以外が目を合わせた。
塔弥はその時のことをさっき聞いただけで見てはいないのだから。

「二度は無いだろう。 完全・・・とばっちりがくる」

戸に背を預けていた悠蓮がすぐに立ち上がり戸を開けた。
そっと中を覗く。

「・・・」

「おい、何か言って・・・って、まさか?」

「やめてくれよー」

悠蓮を剥いで若冲が中を覗き込む。

「え・・・うそ」

「なんだよ、若冲、どうなってんだ中は」

若冲が足を進め中に入ると次々とお付きたちが覗きに来た。
そこには卓に何冊もの本を広げ並んで座り、互いに指さして何やら話している様子が見てとれた。

「あれ? なんだ若冲」

足音に気付いた梁湶が顔を上げた。

「あれ? じゃない。 紫さまと椅子を同じにしてどうする」

「ああ、いいの。 私が座ってって言ったの。 その方がお互いの考えたことを話しやすいから」

「いえ、お付きの身を顧みなくてはなりません」

「紫の立場より民のことの方が優先」

「・・・と、俺も言われてこうなった。 で? なにか用か?」

梁湶の言いように、大きくわざとらしく溜息を吐く。

「もう陽が傾いてきています。 今日はこれまでにしませんか?」

梁湶ではなく紫揺を見て言っている。

「え? もうそんなに時がたったの?」

お付きと居る時は “時” ではなく、気が緩んで “時間” と言っていたが、すっと “時” という言葉が出たあたり、少しずつではあるが言葉に慣れ親しんできたようだ。

「夕餉の支度も出来ているでしょう」

「それでは今日はこれまでにしましょう。 片付けておきますので他の者と先に戻って下さい」

「あ、でも―――」

「あまり遅くなりますと俺らが阿秀に怒られますので」

「あ・・・じゃ、お願いします」


「それで何か分かったんですか?」

夕餉の膳を前に此之葉が訊いてきた。
紫揺の様子を見ていた塔弥がようやく肉料理に首を縦に振り、それでも少しづつ、と付け加えていた。 久しぶりに鶏肉料理が一品入っている。

「うーん・・・、ミソは彰祥草みたいな感じです。 香山猫がおかしくなったんじゃないみたいです。 明日、もっと彰祥草のことを詳しく書いてる本・・・書がないか調べるって梁湶さんが言ってました」

「彰祥草・・・葉月が何か知らないかしら」

ポツンと此之葉が言った。
紫揺の箸が止まる。

「え? 葉月ちゃんが?」

「はい。 彰祥草はお目出たいときに食に添えるものですから」

「え? え? どういうことですか?」

「紫さまのお祝いや祭の時には膳の端に彰祥草が添えられております」

「あ・・・。 そう言えば」

まだこの領土に来るとは決めていない時、青菜から聞いていたことを思い出した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第117回

2022年11月21日 22時05分20秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第117回



「らっしゃい!」

店の椅子は少ししか空いていない状態だ。 客入りがいい店のようである。

「あれ? 餓鬼んちょが来たな」

「兄ちゃんがここで待ってろって」

「じゃ、そっちの端に使ってない椅子があるからそこに座っときな」

『弦月を待っている振りをして黒山羊に居るように。 官所の者が四人そこに行く。 話をよく聞いておくよう』 それが享沙からの指示だった。
隅に行き椅子に腰を下ろすと辺りを見回す。

「らっしゃい!」

声に導かれるように入って来た者を見ると女一人だった。

「あのお姉さんじゃないね」

「うん、官吏に女人は居ないからな。 ・・・綺麗だな」

「そうだね。 それよりまだ来ないのかな」

「オレ、あんな女人がいいな」

「いいなって?」

辺りを見回していた絨礼が思わず芯直を見た。

「お母(かか)」

「お母? ああ、へぇー、芯ちょ・・・朧のところではお母っていうんだ」

「え? 淡月のところは?」

「母(かぁか)」

辺境とは言え、離れていると言葉が少し違ってくる。

「そうなんだ」

「ほらよ」

目の前に皿が出された。

「え?」

注文などしていない。

「あっちの姉さんからだ」

親父の振り返った先を見ると、さっきの女、芯直が母として気に入った女が座っている。 二人の視線に気づいたのか、二人を見ると片手を上げ指をヒラヒラとさせている。
親父から皿を受け取ると二人が立ち上がって頭を下げる。

「あら、律儀ね」

と言った女の声は二人には届いていない。
女はその容貌からだろう、あちこちから声を掛けられている。 まだ子供の二人には分からないが、その肢体も素晴らしく男の目を引く。 手を引っ張ったり、肩に手をまわしてくる者もいるが、難なくそれをかわしながら悠然と酒を吞んでいる。

「朧の気持ちが伝わったのかな?」

「ま、まさか」

少し頬を染めているのは絨礼の気のせいだろうか。

親父がエイコラと、卓の間を抜けて台を持ってきた。

「姉さんに金をもらったからな、お前らも立派な客だ。 ちょっと低いけど我慢しな」

ドンと台を下ろすとさっさと消えていった。 下ろされた台は椅子に座った絨礼と芯直の膝より少し高いくらいだ。
二人が目を合わせクスリと笑うと皿を台に置いた。 皿には半分に白米、もう半分にトロリとした茶色い液体がある。 その液体の中には肉や野菜がゴロゴロと浸かっている。 皿には匙も付けられている。
腹が減った時はまずコレだ、と六都で言われているものである。 腹を減らしてやって来た者はまずこれで腹を膨らませてから、アテを口にし酒を吞み始める。

初めて見る料理に匙を手に取った二人がそろそろと食べ始める。 白米を。
横目で見ていた男が不審そうな目を送りながら暫く見ていた。 が、耐えられなくなったのだろう。 ガタンと音をたてて椅子から立ち上がった。 ざわめきの中、目立つ音ではなかったが男が立ち上がったのは目の端に映っていた。
絨礼と芯直が顔を伏せたまま目を合わせる。 互いに何かヤバイことをしでかしたのだろうかと目で問うている。 それともこの男が官所の者で自分たちの事がバレたのだろうかと。

「おい」

男が台の横に立った。
芯直が顔を上げて男を見る。 絨礼は固まったまま匙を持っている。

「なに? おじさん」

「馬鹿か。 おじさん言うな、兄さんだ。 オレはまだ女房もいないんだからな。 って、お前ら、混味(こんみ)の食い方を知らねーのか?」

「こんみ?」

男が皿を指さす。

「混味を知らねーのか?」

「こんみ?」

「馬鹿丸出しか。 混味はこうやって食う」

男が絨礼から匙を取り上げると、グシャグシャと白米とトロリとした液体を混ぜた。
あ“あ”――― と叫ぶ二人の声など完全無視で。
匙を絨礼に返すと「食ってみな」と言う。
何が何か分からず、ぎこちない動きでグチャグチャになったものを匙ですくい口に入れる。

「・・・!」

目を見開いた。

「美味いだろう」

絨礼が何度も首を縦に振る。

「この店の混味はどの店より美味い」

馬鹿な食べ方をしてんじゃねー、と言うと男が戻っていった。
何が起きたのだろう。 芯直が目をパチクリさせている。

「・・・バレたんじゃないのか?」

呆然として芯直が言う。 さっきは震える手を抑えて男に向き合ったのだ。

「じゃないみたい。 芯ちょ・・・朧もこうやって食べてみなよ。 すごく美味しい」

その二人の様子を遠目に見ていた、親父に姉さんと呼ばれていた女が伸ばされてくる手を払いのけながら、目を細めて見ている。

「テメー、食い逃げか?」

混味をグシャグシャと混ぜて、一口目を口に入れようとした芯直の手が止まった。
親父が客の一人の首元を締め上げている。

「こんな不味い混味に金なんて払えるか」

芯直が匙を見る。

「散々、吞み食いしてながら、何ふざけたこと言ってやがる!」

周りからヤンヤヤンヤの声が上がる。
六都の呑み屋では当たり前の光景だ。 いや、呑み屋に関わらずどこでもである。
親父が男をぶん殴った。 勢いで男が隣りの卓に吹っ飛ぶ。 卓の上にあった酒もアテもひっくり返る。 卓を囲んでいた者たちがひっくり返されたことに文句を言うことなく笑っている。
その隙に他に食べ逃げしようとした男がジワリと動いた時、チラリと親父が男を見た。

「テメーも逃がさねーからな」

男が口を引きつらせると椅子に尻を戻した。

「この “黒山羊” を甘くみんなよ」

あちこちから声が上がり指笛が鳴る中、親父が黒山羊の仁義を通す。
そんな中、入口の戸が開いた。

「らっしゃい!」

何もなかったように親父が言う。

「四人だ。 入れるか?」

四人と言う言葉に絨礼と芯直が目を合わせ、互いに頷くと止まっていた匙を口に運ぶ。

「うわ、美味しい」

「だろ?」

親父が食い逃げをしようとした男を目で制しながら空いている席に案内する。

「おい、あっちにつめろ」

一人で卓を占めていた男を隣の卓に相席させると一つの卓が空席になった。 そこに四つの椅子がある。
親父に促され椅子にかけた四人。

「注文は?」

親父が掌をしごいている。
吞み逃げも食べ逃げもする相手では無い。 それどころか払いのいい相手の証拠である文官の服を着ている。 仕事終わりに寄ったのは目に見て分かる。
何度か匙を口に運んだ絨礼と芯直が目を合わせ頷く。

「腹が減っている、まずは混味をもらえるか?」

それでいいよな? と付け加えて一人が言うと他の者も頷いた。
「へい」と言って親父が頷き、卓の上でひっくり返っている男の胸ぐらをつかんで調理場へと消えていった。
絨礼と芯直が混味を口にかけ込む。
女が眉をひそめる。

「あら、味わっていないみたいね」

女に手を伸ばした男が言う。

「味わってないてっか? じゃ、オレを味わってみるか?」

「アンタじゃ味足らず」

こともなげに足蹴にした。

四人の前に混味が出された。 白米は炊いてある。 大鍋に作られたドロリとしたものは弱い火で冷めないようにしてある。 早い話、皿に盛るだけである。 調理時間など要らない。
誰もが匙を持って混味を混ぜると口に運んだ。 まずは腹ごしらえだと言わんばかりに。

親父が食い逃げ騒ぎに乗じて逃げようとしていた男に目を移す。 男がピクリと身を強張らせた。

「へぇ、逃げなかっただけ上等じゃねーか」

逃げられるわけがない。 一見(いちげん)で入って来たこの男は常連客たちに見張られているような気がしていたのだから。
実際に見張られていた。 もし親父が居ない間に逃げようとでもすれば袋叩きにあっていただろう。

「親父―、身体に “黒山羊” を染みつけてやったらどうだー?」

周りから下卑た笑いが起こる。
さっきひっくり返した皿を片付け、床と卓を綺麗にしていた店の女が同じように笑いながらやって来た。

「親父からだよ」

新しいつまみを数点と酒を目の前に置いた。

「おっ、気が利くねぇ」

「さすがは “黒山羊”」

他の店ではこういうことは無い。 巻き込まれてひっくり返されても、巻き込まれたお前が悪いという顔をして知らぬ振りだ。 味も勿論だが、こういうところが好かれて常連がついている。

男たち四人がもくもくと混味を食べる中、周りだけがざわついている。

「ふーん・・・」

女が酒に湿った唇から指を離すと立ち上がった。

親父が男から有り金全部を取り上げ店の外に放り投げた。

「伸されなかっただけ、感謝しろ」

尻もちを着いた男が文句を言おうとしたが、手に何かが当たった。 振り返って見ると、さっき食い逃げをしようとしていた男がボコボコにされてうつ伏せで倒れていた。 背中には虚しくもぺったんこになった銭入れの袋が乗っている。
有り金全部取られてその上、ボコボコにされたということだ。 男が口を噤んだのは言うまでもない。

「で? どうだったんだ?」

混味を食べ終えた文官の一人が手巾で口を拭きながら言う。

「ああ、それなんだが・・・」

問われた男の口が止まった。

「どうした?」

振り返って男の視線を追うと「ほぁー」と声を漏らした。 他の二人も同じような目をして見ている。

「兄さんたち、食べっぷりがいいのねぇ」

ほうー、と言った男の椅子の背もたれに手を置くと他の三人の顔を舐めまわすように見る。

「初めて見る顔だな」

正面に座っている男が言う。

「そう? なら、今までに会わなかったみたいね」

背もたれに置いていた片手を離すと座っている男の頬に指を這わせる。
ゾクッとする甘い指先。

「一人か?」

「一杯くらい呑まんか?」

女が蠱惑的な笑みを返しながら隣に座る男の首筋にも指を這わせる。

「お、お、おぁ・・・」

「あら、うぶなのね」

事の行方を目の端で見ていた女。 もう用は終わった。

「兄さんたちの食べっぷりに一杯驕らせてちょうだい」

じゃあね、と、もう何の興味もなさそうに踵を返し、親父に男たちの前に酒を置くように言うと元の席に戻って行った。 戻る間中も伸ばされてくる手に適当に応えたり、撥ねたりしている。
親父が女からの杯を男たちの前に置く。

「あの女は?」

「時々来まさぁ。 きっぷのいい姉さんで、さっきもあの坊たちに・・・って、ありゃ? いつの間にいなくなっちまったんだ?」

台の上に食べ終わった皿と匙だけが残されていた。


あちこちで酔っ払いが座り込んでいる。 喧嘩もあったのだろう、鼻血を出して倒れている者、身ぐるみはがされて怒りまくっている者たちが溢れかえりだした。 その中に月明かりに照らされた二つの小さな影がヨタヨタと左右に揺れている。

「イッテー、膝が固まっちまった」

「オレは尻の骨が・・・」

互いにその個所をさすりながら歩いている。
その後ろにすっと男の影がついた。 巴央だ。 二人が無事長屋に戻るのを見守るように歩いている。
少し離れた所に居た女が「あら? いいのかしら?」と声を漏らすと、後ろから来た男が女の腰に手をまわしそのまま暗闇の方に連れて行く。 男の手の感触には十分な覚えがある。 顔を確かめる必要などない。

「無事だったようだな」

女を引き寄せると女が男の首に手をまわす。

「かわいい坊たちだったわ。 でもアンタに心配されるなんて妬けるわ、俤」

杠が片方の口角を上げる。

「明日はどんな昼餉を持たせてくれるんだ?」

「このアタシに坊の守りをさせたり、女房のように使うんだから」

首を傾げて流し目で杠を見る。

「今晩の俤次第」

「たっぷりと礼はするつもりだが?」

クスクスと女が笑って唇を重ねてきた。


戸を開ける音がした。

「おお、無事に戻ってきたか」

偽弟二人を出迎える為に柳技が玄関に出てくると、なんとも不細工な格好で偽弟たちが立っているではないか。

「なにやってんだ?」

偽弟二人が今晩あったことを交互に話しながら、覚えて帰ったことをしたためている。

「そういうことか。 卓の下に潜って話を聞いてたから尻と膝が痛いのか」

「それでなくても狭いんだぞ。 じっとしてりゃいいのに時々足は動かすし、なぁ、絨ら・・・淡月」

「朧、一度蹴られてたよね、あの時はどうしようかと思ったよ」

え!? と言う顔をして柳技が芯直を見た。

「ああ、オレもどうしようかと思ったけど、卓の上からスマンスマンって聞こえたから、誰かを蹴ったと思ったんだろうな」

「おどかすなよ・・・」

一瞬緊張した身体を解く。

「でもうまい具合に、あのお姉さんが文官たちの気を引いてくれたから卓の下に潜り込めたんだよね。 あのままだったら近寄るだけで精一杯で話が聞けなかったかもしれない」

「うん。 飯もおごってくれたしな」

「朧がお母になって欲しいって女人だろ? そんなに綺麗な人だったのか?」

「うん、綺麗だったよ。 でもお母っていうより・・・」

「なんだよ、文句があるのか?」

「オレは姉ちゃんの方がいいな」

「くそっ! オレだけ見てないのかっ。 一度見てみてぇー!」

仲間はずれな気がして後ろにごろんとひっくり返る。
兄貴ぶっていてもここらあたりはまだ子供だ。 それに母や姉といった愛情に知らず飢えているのだから。

「えっと・・・あれ、なんて言ってたっけ?」

絨礼が筆を止めて芯直に訊く。

「あれって?」

「ほら、厨に置いてあるって言ってた」

「ああ・・・うーんと、にじゅう・・・」

「あ! そうそう、にじゅうちょうぼ!」

「おう! そうだった、そうだった。 厨のどこって言ってたっけか?」

「言ってなかったと思うよ」

「あれ? そうだったっけ?」

「取り敢えず覚えている内に書いとけよ」

後ろから寝ころんだままの柳技の声がかかった。


静まりかえった月光の下、大きな家々が並んでいる。 そこに四つの影が浮かんだ。

「都司の家はあれだ」

巴央が指さした方を見ると、平屋ではあるがどこよりも大きな家である。

「少し前に引っ越してきた」

「ご立派な家だな」

「大店の主が住んでいた。 そしてその主は何代か前の都司でもある」

「その主が手放したんですか?」

「本人からは何も聞けなかったが、乗っ取られたみたいだって噂だ」

巴央は官所に出入りする紙屋の使い走りをしている。 その職業柄あちこちの大店や豪族の家にも出入りをしている。

「たしか、金河(きんが)の紙屋は、都司が前に居た大店にも出入りしてませんでしたか?」

金河の名付け親である享沙が金河である巴央を見て言った。


『名なんて考えられるわけないだろ』
京也と巴央が享沙に名付けてくれと依頼してきたのだ。 なにせ漢字を知らないのだから。 これから使う名だ、いい加減につけるにはゲンが悪い。
京也は力があることを誇示した名前がいいといった。 そしていくつかの候補の中から “力山(りきざん)” をチョイスした。
『力の山ってか、まるでオレのことじゃないか』 と。

そして巴央は造幣所で働いていた、それも銀でも銅でもない、金貨を作っていたのだ。 それは己の矜持であると言った。
そしてこれも幾つかの中から “金河” と言う名を指さした。
『金貨の河、これ以上の縁起はないな』
と言う具合だった。

そして享沙自身は “沙” という文字は気に入っている。 もう一つ気に入っている文字と組み合わせて “沙柊(さしゅう)” と名乗っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第116回

2022年11月18日 20時56分19秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第116回



「今日、芥(あくた)を漁っていてちょっと気になる物を見つけました」

雑用係に徹している享沙が懐から紙片を取り出すと、小さな光石でそれを照らす。
紙片には『明後日、黒山羊』と書かれていた。

「他に二枚、同じことが書かれていました」

「誰の芥入れに?」

誰から出たゴミか分かるように、ごみ箱を置いたのは杠である。 それまでは部屋の隅に大きなごみ箱があっただけである。 よって、誰もが机の端にゴミを溜め、まとめて大きなごみ箱に捨てていた。

『芥入れの始末くらい私がしますので、どうぞお気になさらずお使いください。 その方が卓の上もスッキリとするでしょう』と言って、邪魔にならない程度の箱を椅子の端に置いて回った。

「志知貝(しちかい)、荒未(あらみ)、周佐(すさ)です」

「裏はどうなっています?」

「裏?」

これは反古紙である。 裏には書き損じが書かれているだけの所謂(いわゆる)メモである。
これは杠が雑用係が必要と思わせるようにした一つであり、こうして情報を掴む手でもあった、杠が何気にやりだしたことだった。

反古紙を小さく切って覚書にした。 これ見よがしではないが、それを片手に『ああ、そうだった。 これもだった』などと言ってみると、何のことかと他の者が食いついた。
『ああ、これですか? 反古紙を使って思いついたことを忘れないように書いているんです。 けっこう便利ですよ、反古紙なら遠慮も要りませんから』と、うそぶいたのだった。
日本のように百均でメモを売っているのとはわけが違う。 紙は溢れていない。
ああ、それは良い案だ、と聞いた者が頷き、それから広がっていった。 だが、反古紙を小さくメモサイズに切るのには手間が取られた。
これだけではなく、あれやこれやと杠が仕掛け雑用係が急募とされた。

訳が分からないが、杠に言われるままに紙片を裏返す。
杠が口角を上げる。

「上備(じょうび)からですね」

「え? どういうことです?」

「ここ、丸い印が見えますか?」

杠が指さしたところ、右端に小さく○がある。 戸惑いながらも享沙が頷く。

「上備の紙片全てにこの丸い印を付けました」

「え?」

「この紙片を渡したのはまず、上備でしょう」

その上備は今の席にいた。 そして書かれていたメモは三人分。 その三人は今の席にいなかった。 単純に考えて今の席の五人とメモを受け取った三人。 合計八人。
“黒山羊” は吞み屋である。 単に吞みたければ口頭の約束でいいはず。 わざわざ紙片を使っているということは見逃せることではない。 今は何をも怪しまなければいけない。

「もしかして・・・全員の紙片に印を入れているのですか?」

杠がニヤリと笑った。 決して紫揺に見せない笑みである。

「思いもつきませんでした。 俺は切っているだけでした。 言ってくだされば印くらい入れましたのに」

「気にすることはないですよ、これくらい」

毎晩、二重帳簿を探しに忍び込んでいるのだから。
=△□+*・・・他にも一人一人、色んな印を入れている。 反古紙であるが故、印を入れても目立ったものではない。

それにしても二重帳簿が見つからなかったのは、最初っから無かったというわけか。
あくどいことをしている文官所長とはいえ、文官。 文官の性格(たち)からして必ずあると思っていたが、当てが外れていたようだ。
だが今まではそうだったかもしれないが、あの文句を聞いている限りでは都司にかなり不満を持っているようだ。 二重帳簿が無くとも、分配を書き留めたものを残している可能性は大きい。

それに都司は大店の出ということだ。 二重帳簿などという言葉を発したということは、帳場を任されていたのかもしれない。
帳場を任されていた者は、収支を書き留めなければ気が済まない者が多い。 だが都司はここに証拠が残るようなものは置いていないだろう。

「二重帳簿は作っていないと言っていましたが、なにか近いものを見ませんでしたか?」

渋い顔をして享沙が考え込む。
数舜後、口を開いた。

「それに近いものを見た気がします、文官所長の卓の上で。 ですがすぐに文官所長が入ってきたので一瞬でした。 名と数字が並んでいたのは見たんですがあまりにも一瞬でしたので」

掃除の時にでも見たのだろう。 やはり書き留めていたのか。

「文官所長の部屋に行きましょう」

家に持って帰っているかもしれないが、無駄と分かっていても1パーセントに賭ける。

文官所長の部屋を漁っている時、人の気配がした。 杠と享沙が目を合わせたかと思うと、手に持っていた光石を懐に入れ身を隠す。 だが部屋にある光石を覆ってある布を剥がし、照らされればお終いだ。

部屋に入ってきた相手は光石を手に持っていた。 その顔が照らされる。 京也と巴央であった。
おどかすな、と言いたかったが、口を噤(つぐ)み杠が姿を現す。

「どうでした?」

都司には京也が後を追い、文官所長の後に巴央がついていた。 享沙に続いてこの二人も杠の指示のもと、かなり足音を消し気配を消すことが出来るようになってきていた。

「なんてことはない、家に帰った」

都司の後を追っていた京也が言う。

「こっちも同じ。 行った先は吞み屋だけどな。 あとに何かあるとは考えられない」

言った巴央が挑戦的に杠を見る。

「そうですか。 ご苦労様です」

「そっちはどうなんだ?」

京也が問う。

「最中です。 ここで探し物を見つけたかったのですが、どうも存在しないようなので次は都司の家に忍び込みたいと思っています」

「都司の家?」

思わず京也が訊き返したが次の問いが投げられた。

「で? 今は何を探してんだ?」

京也に続いて巴央が問う。

「分け前を書いたもの」

「分け前? そんなものを残してるのか?」

「沙柊(さしゅう)がそれに近いものを見たようです。 それにあの文官所長は残していると思います」

「沙柊の見間違えじゃないのか?」

沙柊と言われた享沙はまだあちらこちらを探している。

「そうであっても確認が必要と思います」

「そうであっても? オレは毎日毎日、文官所長の後を追っている。 アイツはいい加減だ。 どうしてあんないい加減なヤツをいつまでも文官所長に置いておく!」

「その文官所長を落とすために動いています。 置いておかなければ意味がありません」

「動く? アイツのいい加減さは分かってる。 これ以上足踏みをしていてどうする。 さっさとマツリ様に報告してとっ捕まえてもらえばいい!」

「一人だけを挙げたとしても何も変わりません。 それにそのお名を口にしないよう」

「チッ」

「今日はもう帰っていただいて宜しいかと。 ご苦労様でした」

「そっちはまだするんだろ」

巴央を一瞥して京也が問う。

「ええ、ですが日中はお二人のように力仕事ではありませんから体力はまだ残っています」

京也は厩番だ、厩舎の掃除だけでなく馬の世話もしている。 巴央は使い走りだ。

「ありました」

杠が話している間にも享沙があちこちの抽斗(ひきだし)を探っていた。 この部屋は無駄に抽斗が多い。
部屋の奥隅に置かれていたちょっとした物を置く卓の前に立っている。 その卓にも抽斗がついていた。
巴央が部屋を出て行った。
杠と京也が享沙の元に寄り、享沙が光石で照らしている紙を覗き見る。
そこには日付と分配の額、名が書かれていた。 だがそれだけではなかった。

「これってもしかして?」

享沙が言う。

「ええ、掠(かす)めた先ですね。 何かの時の覚書でしょう」

やはり文官所長も文官の性格(たち)は捨てきれなかったようだ。

これは数日前にまとめて支払われた備品代とその日支払われた備品代と他である。
巴央が使い走りをしている店の名も書かれているし、柳技の裏の名である “弦月” も書かれている。 そして覚えのある他の店の名も。
弦月の売り物は高値のものは無くその場で支払っている。 官所で使うものは官所で払い、個人的に欲しいものはその個人が払う。

弦月から買ったものは高価な物がないにもかかわらず、分配一人分は銀貨二枚となっている。 二枚を八人で、それだけで銀貨十六枚。 少なくとも弦月から銀貨十六枚分の買い物をしたということだ。

「有り得ませんね」

「ええ。 たしかこの日、弦月からは官所として筆を六本買っただけでした。 あとは個人的に何やらを買っていたようですが、全部合わせても銀貨十六枚もしないはずです」

「筆六本でいくらになるんだい?」

「銀貨三枚です」

「ってーことは? 柳技・・・っと、弦月に支払ってもない金を支払ったようにして官所から出してそれを懐に入れてたってことで?」

少なくとも官所から実際の筆代である銀貨三枚と、分け前である銀貨十六枚を足して合計銀貨十九枚は出したということになる。

「はい、多分。 いえ、それしか考えられません」

「税の誤魔化しだけじゃなかったってか」

「そのようですね」

「要らないものを見つけてしまいましたか」

わざとらしく言う。

「ええ、仕事が増えました」

杠も同じように返し続けて言う。

「まあ、税を誤魔化すくらいです。 こんなこともやっているでしょう」

最初っから織り込み済みだ。

「それにしても、ざっと見て一人・・・金貨十枚はあるんじゃないか?」

「ええ、そのようです」

「ふざけんじゃねーってんだ! オレ等が金貨一枚でも手に入れようと思ったら、どれだけ光石を運ばなきゃなんなかったと思ってんだ!」

「締め上げてやりましょう」

杠のこの笑みを見たら紫揺は杠を兄と呼ぶだろうか。

「それにしてもこんな風に書き残しているのなら、必ず二重帳簿があると思うんですけどねぇ」

本当に残していないのだろうか。
いったいどこに隠しているんだろうかと、薄暗い部屋を見渡す。


二日後の朝、絨礼と芯直が官吏たちの住む家の周りをウロウロしていると、芯直が正面から誰かにぶつかられた。

「ッテ!」

「ああ、悪い悪い」

ぶつかった相手が手を取って芯直を立たそうとした時に手に何かを握らせた。

「ボォーッとしてんじゃないぞ」

「そっちがボォーッとしてぶつかってきたんだろが」

襟元を直すように握らされたものを懐に入れる。

「ケッ、活のいいクソガキだっ、ガキは早く帰って寝な」

そう言い残すと男が走って行った。
二人で走り去る男に蹴りを入れる真似事をしている。 二、三回繰り返し足を下ろした時、芯直が小声で言った。

「絨礼、文だ」

「ってことは、いま巴央が言ったのは戻って文を見ろってこと?」

「そうだろうな、ってか、ぶつかるんなら絨礼にしとけばいいのに。 あー、尻が痛い」

「巴央は加減を知らないからね」

お前がぶつかられればよかったのに、と言われているにも拘らず芯直の衣に付いた砂を払ってやっている。
二人でぼそぼそ言い合っていると後ろから声が掛かってきた。

「アンタたち、本当に仲がいいねぇ」

「あ、千依(せんえ)おばさん」

ここをウロウロしだして顔見知りになった内の一人だった。 手には包みを持っている。

「あっ、ほら芯ちょ・・・朧(おぼろ)、あれ返さなきゃ」

「あ、そうだった」

朧と呼ばれた芯直が懐から包みを出そうとして、巴央から握らされた文が顔を覗かせたのを見た絨礼が慌てて芯直のまえに塞がるようにする。

「あ、襟元がおかしくなるよ」

などと白々しく言いながら文を自分の懐に入れ、芯直の懐から包みを出し襟元を直してやる。

「淡月(たんげつ)って、いつ見ても優しい子だねぇ。 どうだい? うちで働かないかい? 朧と二人で」

淡月と呼ばれた絨礼と芯直が目を合わせる。 マツリと知り合う前だったら、飛び込んだだろう。 だが・・・。

「兄ちゃんが十五の歳になるまでは面倒見てやる、働くなって言ってるから」

「ああ、アンタらの兄ちゃんもエライねぇ」

「はい、これ。 有難うございました。 美味しかったです」

前にこの包みに菓子を入れてくれていた。 「帰って兄ちゃんと食べな」と言って。
この千依だけではなく、この二人はここらで気に入られている。 とくに絨礼は言葉使いもちゃんとしているし、二人とも愛想がいい。
その絨礼の言葉の良さは虐められていた郡司から殴られながら身に付けたもの。 何がどう転ぶかなど分からないものである。
ここは六都の人間の住む一帯ではなく派遣された官吏たちの住む処だ。 武官文官家族が住んでいる。 二人がウロウロしていても身の危険はかなり少ない。

「ご丁寧に。 ほら、今日はこれを持って行きな。 朝早くからたんと饅頭を作ったから」

「わっ! 饅頭!? オレ、饅頭には目が無いんだ! 千依おばさんありがとう!」

絨礼のように言葉は丁寧ではないが、芯直のこの素直な表情も気に入られている一つである。

「有難うございます。 いただきます」

包みを持ってホクホクしている芯直の横で絨礼が頭を下げている。

「それじゃあね」

千依が家に戻って行くと、包みを抱いたまま帰るまで待ちきれないといった具合に、芯直が鼻の穴を広げて包みの上から匂いをかいでいる。

「本当に好きなんだね」


弦月(柳技)、淡月(絨礼)、朧(芯直)。
杠が宮都内で六人をそれぞれの長屋に連れて行った時、全員に言ったことがあった。
『裏で動く時の名を考えておくように』と。
大人三人にも言ったが柳技と絨礼、芯直を長屋に入れた時にも同じことを言った。

『名なんて・・・考えられない』

『なんでもいい。 自分で覚えやすい名でいい』

『杠はなんて名?』

『俤。 マツリ様に付けて頂いた』

『ならオレは杠に付けてほしい』

『芯直、一人だけずるい。 オレも』

『オレも杠につけてもらう』

『わっ、弱ったな』

そう言ってしばし考えた後、おもむろに墨をすりだした。
勉学をするための長屋でもある、書き物の用意は事前にしていた。
三人を連れてきた時には月が出ていた。 その見えた月のことを文字にしようと思い立った。
筆を動かすと “弦月” “淡月” “朧月” と紙の上に書いた。

『げんげつ、たんげつ、おぼろづき、と読む。 今日は霞んで見えた半月だった。 霞んで見えたのはちょっと寂しいが三人の始まる日だ。 これでどうだ?』

『おもかげってどんな字を書くの?』

芯直にそう訊かれ、俤が空いている所に書いた。

『オレ、俤みたいに字が一つがいい』

うーん・・・、と言って筆をおくと腕を組み頭を絞る。

『今日の日に関係なくてもいいか?』

『あ・・・そんな風に言われたら、それは寂しいかもしれない』

『うーん・・・、それじゃあ、朧だけでは駄目か?』

弦でも淡でもいいが、それでは簡単に意味が伝わらなくなるから。 と付け足す。

『ふーん、芯直、それって良くない? 朧ってなんか格好いいし』

『え? あ? そうかな』

『うん、それに俤と同じで “お” から始まるよ』

俤と同じ一文字で同じ “お” から始まる。 “朧” という字を見て顔がニヤついてくる。
そして柳技が “弦月” を指さした。

『オレ、これがいい』

『じゃ、オレはこっち。 これで決まりだ。 杠ありがとう』

『残ったもので良いのか?』

絨礼の過去はマツリから聞いている。
郡司から足蹴にされ、それこそ牛や馬のように働かされ、口の利き方が悪いと叩かれていたそうだ。 それでも文句ひとつ言わずただ耐えていた。 逃げなかった。 逃げれば親の元に行くぞ、と郡司に脅されていたからだ。 その親には口減らしとして放られたのにと。

『残るも何も、どれも杠が考えてくれたんだから』

『そうか。 気に入ってもらえるといいがな。 それと、これからは官吏の衣を着ていない時には俤と呼ぶように。 互いの名もな』

そんな事情でこの三人の裏の名前が決まった。


長屋に戻った二人が顔を寄せ文を見る。
文には享沙の字で “黒山羊” に行くようにと書かれていた。 そしてその後の指示も、それまでの指示も。 だがそれまでの指示が少々不服のようだ。

“黒山羊” は呑み屋だ。 まだ十五歳になっていない二人が行くには眉をひそめてしまわれるだろうが、ここは六都。 誰もそんなことを気になどしない。

「夕刻になるまで寝てろって」

「オレらを餓鬼扱いしてんな、絶対」

片手に饅頭が握られている。

「でも官所が終わってからだろ? そうなると遅くまで居なきゃなんないだろうし、たしかに眠くなってくるかもしれない。 芯直なんていっつも一番に寝てるじゃないか」

「うぅぅ・・・」

饅頭を口に入れたまま突かれたことに微々たる反感を試みた。

「杠とかは行かないのかな?」

「あ、コラ、俤って言わな、きゃ・・・」

二人が目を合わせる。

「しまった」

声を合わせると辺りをキョロキョロ見まわすが、誰が居るわけでもない。 だが長屋は壁一枚で会話も筒抜けだ。

「オレらいつからこの名で呼んじまってたっけ?」

杠からは官吏の衣を着ていない時には俤と呼ぶように言われ、三人も互いにどこでも裏の名で呼ぶようにと言われていたのに。

「わわわ・・・。 いつからだろう、うっかりしてた」

「柳技が居る時はちゃんと呼び合ってたよな? でないと怒られるし」

「わっ、だから柳技じゃなくて弦月っ!」

思わず叫んでしまい薄い壁に目を移す。

「だ、大丈夫だよな? 隣とはまだ会ったこともないくらいだし」

長屋の端の部屋である、隣は片方だけ。 だがこんなこともあろうかと三人には言っていないが、隣は俤の名で借りている空き部屋であった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第115回

2022年11月14日 21時16分44秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第115回



「さっき、私の外見のことを言ったよね、ズタボロに」

外見のことに対して女としての怒りはあるが、致し方ないと鏡に映る姿に頷けなくはないが、問いたださせてもらおう。

「あ?」

ずたぼろ? 意味は分からないが、何を言いたいかの話の流れは分かる。

「ああ、言った」

何をアッサリと認めてくれるのか。 二の句が継げないでいると、マツリに取られてしまった。

「それにさっきは、穏やかに話せた」

「だからなに? いっつもマツリが怒ってばっかりいるだけじゃない」

「まあ、そうか。 杠にも声を荒立てず話せと言われた」

「・・・えらく、素直に認めるんだ」

「それに杠に言われてよくよく考えると・・・面白い」

「は? 面白い? なにが?」

問いただす前に新たなワードを投げられた。

「紫が、だ」

「意味分んない。 なに?」

マツリが相好を崩す。

「楽しませてくれる」

「・・・それって、一瞬、浮かれてるだけじゃないの?」

夫婦として何十年と持つ話ではないだろう。

「そんなことは無い。 紫はずっと我を楽しませてくれる。 それに我には紫しかおらん」

「浮かれって長続きしないよ?」

どうして説教・・・とも言えない注意をしなければいけないのか。

「浮かれてなどおらん。 楽しませてくれる紫を・・・坊にしか見えなくとも、女人と見えなくとも、落ち着きがなくとも、塀を駆けのぼったり、欄干に座ろうとも、残念なほどの身体の膨らみが無いことも、女人とは思えない身体であっても、佳人でなくとも、我は紫しか見ておらん」

何度言う。 どうして重ねて言う。 散々だ。 これ以上、人を貶める、女としてのプライドを貶める言葉があるだろうか。 注意どころか、問いただすどころか、ぶん殴りたくなる。

「結局、面白いとか、楽しませるとかってことなのね」

それなら漫才師を雇えばいいだろう。 本領に漫才師が居るかどうかは知らないが。

「ああ。 そうだ」

認めるんかいっ!

「紫の話しにずっと笑んでいたい」

「はぁ?」

「紫の話は面白い」

絵本を読む乳母かい。 そう思いながらも紫揺が顔を下げた。

「そんなの短い時の話し。 慣れちゃったら・・・話が尽きたらそれで終わり」

自分の話が面白いなどとは思ってもいないし、百歩譲ってもプロの漫才師ではない。 ずっと面白い話など出来ない。 いや、一度たりとしたことなどない。

「我がそのように思うと思うか?」

紫揺が顔を上げる。

「思う」


此之葉がお付きたちの部屋に駆け込むと、まさかの図が目に飛び込んできた。

野夜が悲鳴に似た声を上げている。
ガッツリと葉月の腕挫十字固が決まっている。

「葉月! 何をしているの!?」

此之葉は腕挫十字固など知らない。 だが、女が男の身体や首の上に足を乗せるなんて考えられない。 ましてや何故か野夜が苦しんでいるようだ。
此之葉をチラッと見て野夜に視線を戻す。

「野夜、こんど塔弥をこんな目に遭わそうと思ったら、次の技があるからね」

葉月はプロレスも見ていたようだった。 それもガッツリ技をかけられるほどにカクさんで練習して。


領主たちに見送られ、キョウゲンに乗ってマツリが本領に帰って行った。
最後の話は「当分、東の領土に来られん」だった。

昨日今日と、西南北を見回って最後に来たのがこの東の領土だということだった。 各領土の領主に、次にはいつ来られるか分からない、何かあれば本領に来るようにと言い置いていた。

北の領土では羽音にも同じようなことを言った。 そして体調を崩しかけるようならば、すぐに本領に戻るようにとも。
本領と北の領土の気候は全く違う。 たとえ北の領土といえど、これから温かくなってくるのは分かっているが、それでもまだ童女、体調が気になる。
アマフウが慈母のような目で羽音を見ていた。 これからもアマフウが見ていてくれるだろうが、気候に慣れるまでは体調を崩すこともあるだろう。

「来なくていいし」

無理をして。

「また来る」

「まぁそれがお仕事だもんね」

領土を見回るのはマツリの仕事。

「さっき紫の気持ちを考えないのか、と言っていたな」

「え?」

「こっちの気持ちって考えないの、と言っていただろう」

「ああ、うん」

「今度来た時には、その気持ちとやらを聞かせて欲しい」

「・・・マツリはマツリだし」

「なんだそれは、答えになっておらん。 我は紫の問いに答えたつもりだ。 紫も我の問いに答えてはくれんか?」

「・・・」

「姉上が紫のことを気にかけておられる。 時が許すのなら姉上に会いに来てもらいたい」

「あ・・・うん」

「安心せい。 我は顔を出さん」

「・・・」


宮に戻ると杠から文が届いていた。 自室で文に目を走らせる。


杠に付くことになった六人は既に六都に入っていた。 大人三人はそれぞれバラバラの長屋に住み他人を装い、柳技を筆頭に絨礼と芯直が親を失った三人兄弟を装っている。
絨礼と芯直の間でどちらが次兄であるかの争いがあったようだが、享沙の「似ていない双生児でいいだろう」の一言でおさまった。

享沙は読み書き算術に滞りがない。 杠がわざと雑用を多く作り雑用係が必要になるよう仕向け、そこへすかさず雑用係として官所に入り込ませた。
京也は官所の厩番として入り込ませたが、その前に杠が去って行く前任に手を合わせて謝った。 あくまでも誰にも聞こえない所で見えない所で。
前任の茶の中に腹下しを毎日入れ込んでいた。 毎日腹を抱えていては仕事になどなりやしない。 前任が官所に背を向けて去って行ったのだった。
巴央は官所に出入りする紙屋の使い走りである。

そして柳技たちが住んでいる長屋は官吏たちの家から少々離れてはいるが、それでも長屋にしては一番近い所にある。 似ていない双子は日々、官吏たちの家の周りを歩いて噂話を耳に入れて帰って来ていた。 それを書きとめるのもいい文字の練習になった。
享沙から、何よりも先にひらがなを覚えるようにと、ひらがなを徹底的に何度も書いたのが良かったのだろう。 書き留めるということが出来る様にはなっていた。

「あ、それじゃあ “ち” じゃないか。 “さ” は反対だろう」

隣りで書いている絨礼の手元を見ると指摘をする。

“さいそく(催促)をされていた” を “ちいそくおちれていた” と書いてあったのだ。

「それにそっちの “お” じゃないこっちの “を”」

自分が書いていた “を” を指さす。

「・・・読めればいいんだよ」

いや、読めるが正しく伝わらない。 読解不能である。
ガラガラガラと、戸の開く音がした。

「あ、帰ってきた」

二人が立ち上がり玄関に迎えに出る。

「おっ、今日も無事に帰って来てたか」

ここは六都。 何があってもおかしくない。
似ていない双子の二人は働いていないが、長兄役である柳技は行商人に扮している。 働いているという気持ちが自然と兄貴然とさせていた。
二人が手を差し出す。 その手は柳技が背負っている風呂敷を受けとめる為ではない。

「先に荷を下ろさせろよ」

後ろを向くと、よいせ、と言いながら上がり框に腰を下ろし、しょっていた荷を置く。
風呂敷の中には筆や墨、ちょっとした飾り物や雑貨が入っている。 支給元はマツリであるが、宮の物を流しているわけではない。 わざわざ四方の従者が市に買いに出て入手している。 民が使うものでなければ怪しまれるからだ。

二人の手が左右から目の前に伸びてきた。 早く、と言わんばかりに上下している。
柳技が懐に手を入れると、どちらがどちらかを確かめてその手に乗せてやる。

「お帰り」
「お疲れ」

やっと労ってもらえた。

二人はそのまま腰を下ろすと手に渡された紙を広げる。 前回、書き留めたものを清書し、柳技に預けた紙だ。
今日、柳技が文官所に荷を広げに行った時、柳技は今回二人から預かった清書をした紙、享沙は前回手渡された清書をした紙を互いに手渡したのである。 もちろん誰の目にも触れないように。
芯直と絨礼が書いた清書が柳技から享沙に渡り、享沙が更にまとめて書き、杠に渡している。 そして享沙は見終えた二人の清書をした紙に添削をして、柳技に渡しているのであった。

「うわ、またイッパイ間違えてた。 ああー、また “さ” と “ち” を間違えてる。 あたたた “ま” と “は” の丸っこいのが逆だった」

享沙がよく読解できるな、と思えるほどに見事である。
芯直が覗き込んできた。

「かず、書いてない?」

「かず?」

芯直の紙の裏には “かず” と書かれて、一から百までの漢数字が書かれ、それに平仮名でルビがふられていた。 次のステップというところだろう。
絨礼が裏を返すが、そこには何も書かれていない。

「うわぁー・・・オレだけ置いてけぼり。 んじゃ、芯直はいくつ間違えてたの?」

平仮名を。

「淡月(たんげつ)、朧(おぼろ)だろ」

「あ! えっと、朧はいくつ間違えてたの?」

淡月と呼ばれた絨礼が言い直す。

「みんな合ってた」

「ははは、淡月、朧に追いつけ追い越せで頑張れ」

「そんなこと言って柳技・・・弦月(げんげつ)だって字が書けないだろー」

「ん? 書けなくはないぞ。 その数も」

「え?」

二人が声を揃える。

「仕事してるんだから。 それもこれだ、誰にも頼ることが出来ないからな。 金のやり取りも出てくるんだ、釣りを騙されないように算術だって出来る様になった」

少しでも行商人として気に入ってもらえるように、価格設定はマツリがしている。 そして釣りも出しやすいように。
民に扮した四方の従者が市に買い出しに出てそれらを風呂敷に包み、価格設定をした紙と共に待ち合わせ場所で一つ一つ説明しながら柳技に渡している。

例えば
『よいか、これは “あかいし” と読む。 そして銅貨十枚で “銅十” と書いてある。 銅貨か、穴銀貨一枚で売る。 金貨や銀貨で受け取るのではないぞ。 釣りに大変になってしまう』
といった具合に。 尾能から指示をされた従者である。

“金” という漢字は覚えた。 書けないが。 それに金貨が必要になってくる商品など滅多にない。 だが “銀” と “銅” の見分けがまだつかない。 マツリにも平仮名で書いて欲しいところだが、銀貨と銅貨では商品の違いが柳技にさえも分かる。 そこで何とかクリアしていた。


深夜の文官所の一室に光石が灯っている。 堂々と光石を点灯させているのは杠ではない。
光石を挟んで文官所長と都司が並んで座り、その前に三人の文官が座している。

「杠? ああ、役方から聞いているが?」

宮都の式部省役方部から異動の文が届いているということである。

「そうですか・・・」

文官所長が口を歪めて顎をさする。

「それがどうした?」

「いや、都司が聞いているんなら間違いはないでしょう。 まあ、それに俺も役方から文を受けていますし」

「だから何を言いたいんだ」

「出来過ぎるんです」

「はぁ?」

「この六都にどうしてあれ程出来る者を宮都が送ってきたかって、考えましてね」

前に座る以前 “ヤツ” と呼ばれていた者を見る。

「お前が教えてたんだ、どう思う」

「まぁ、出来ますが、怪しむこともないんじゃないですか? 定刻に来て嫁の作った昼餉を食って定刻に帰る。 クソ真面目だけが取り柄の男でしょう」

文官所長に探りを入れろと言われ、一度酒に誘ったが「女房が待ってますんで」と断られてしまった。 あとを尾けてみると間違いなく長屋に帰り、中からは女の声が聞こえていた。
杠は来たところだ。 官吏たちが住んでいる一軒家に住むことなど考えていなくとも不思議ではない。

「金の流れは気付かれてないんだろうな」

「そっちは触らせていませんから」

「それならいいが」

「ああ、考え過ぎだろう」

文官所長が口を歪めてから問い返す。

「都司はもう慣れましたか?」

この男は今までの都司と違ってあくどい。 それが一目でわかった。 同類同士の目は分かり合えるのだろうか、都司の方も文官所長を見てすぐに気づいた。
就任後、一か月ほど経って、文官所の中にある都司の部屋に文官所長を呼び出した。
文官所長にしては、やっと来たかという具合だった。
『私を入れた方が、なにかと融通が利くと思うが?』
第一声がそうだった。
税を横流しにした分け前は減ってしまったが、面倒臭いことは済むようにはなった。
それに徐々に分け前は増えてきている。

それとは別に都司が懐を肥やしているだろうことは気付いているが、そこを突く気にはれない。 豪族相手によくやる、本当にあくどいやつだ、と思うところに留めている。

「ああ、都司がこんなに居心地がいいとは思っていなかった」

何度か声を掛けられていたが、その度に断っていたと聞いている。

「どうして今まで断ってたんで?」

“ヤツ” が訊く。

「毎日、署名や書類やと煩わしいだけだと思っていた。 これほど文官がやってくれるとは思わなかった」

本来ならそうである。 書類に目を通し署名をしていく。 だが目を通すことも無ければ署名も押印も文官に任せている。 今までもそういう形態を踏んできたから、文官所長の好き勝手が出来ていたというわけだ。

歴代都司がコロコロと変わったのは、煩わしい六都の民が騒いで官所に入ってきた相手をさせていたからだ。
この都司はそれさえもしないのである。 お蔭でそのお役が文官に回ってきた。 文官たちが辟易していた時に、偶然にも宮都から人員補充の話があった。 そして杠がやって来たのだが、民の相手をさせようと思っていたら、テキパキと仕事をこなす。 筋違いのことを喚く民の相手をさせるには少々勿体なく、都合が悪い以外の本来の文官の仕事をさせている。

「たしか、前は大店(おおだな)にいたとか?」

「ああ、そろそろ独立をするかと訊かれたがな、この六都で店を持っても何をされるか分かったもんじゃない」

「ちがいない。 うっぷん晴らしに火を点けられればそれで終わり」

“ヤツ” の隣の文官が口を開く。

「賊に入られてもな。 それだったら、こっちに来て上手くやる方がいいと思ったが、これ程だとは思っていなかった」

チラリと隣に座る文官所長を見る。

「まさか布陣が敷かれていたとはな」

その上に胡坐をかいて座ったのは誰だ、と言いたいがぐっと堪える。

「そのまま大店に残ろうとは思わなかったんですか?」

「いつまでも私が居ると下の者が上がって来られないだろう」

まるで正統派気取りで言っているが、下心があったのは丸分かりだ。 前任の都司からでも話を聞いたのだろう。 その上で、民の相手をしなければ楽なものだと思ったのだろう。 都司という役職なのだから、座っているだけで大店に居た頃よりも多くの金が入るのだから。

「で? 今日は何の話だ?」

文官所長が口角を上げる。

「今まで徴収を見過ごしていた所がありましてね・・・」

六都の所有する借地に家を建てている場所があった。 土地の賃料は取っていたが、家に対しての税は取っていなかった。 そこからボッタぐろうということだった。
その一覧を書いた紙を都司の前に置く。

「今更言って出すかねぇ」

歪めて置かれた紙を指先で真っ直ぐに置き直す。

「出さなきゃ家をぶっ潰して追い出すまでですよ」

「剣呑な話だ」

文官所長が “ヤツ” に視線を送る。

「金貨八十枚は入ってきます。 誤魔化しても少なくとも分け前は一人金貨五枚は硬い」

「金貨八十枚。 半分を税として納めて残りの四十枚を振り分けて金貨五枚か・・・。 少ないが・・・捨てるものではないか」

何も平等に分けることは無いのに、という目をして応える。

「それに誤魔化す以前に、今まで徴収していなかったんです。 収める必要も無いでしょう」

「それで一人金貨十枚、か。 まぁ、やりたいようにやってくれればいい。 今までのように」

文官所長の瞼の筋肉がピクリと動く。 自分は何もしないと言い切っていると同時に、宮都から何か言ってきても咎められるつもりもないと。
この都司は分け前を受け取る時もそうだ。 最初など目で卓の上に置けと指示してきた。 卓の上に置いて都司の部屋を出ようとすると「忘れ物だよ」と声を掛けてきた。 どういうことかと振り向くと「文官所長の物ではないのかな? 誰の忘れ物だろうね」と言ってきた始末。 黙って部屋を出たが、それからは無言で卓の上に置いて部屋を出ている。

問題が起きた時にはせいぜい、長としての責任で都司を降りるくらい。 その後はそれまでに手にした金で過ごすのだろう。 いやまた違う道を取るかもしれない。
何かあれば今までの都司も調べられるだろう。 歴代の都司は何も知らないのだから「知っていた、分け前を手にしていた」などとは絶対に言わないのだから、知らぬ存ぜぬを突き通すつもりなのだろう。

「ああ、それと、まさか二重帳簿なんてものはないだろうね?」

そんな物を残された日には、逃げきれないというように言っている。 それでも逃げるだろうが。

「そんなもの作るだけ無駄ですから・・・あ、っと。 もしかして、その大店でも何かやってたんですか?」

「人聞きの悪い」

「いや、簡単に二重帳簿などと口から出ませんから?」

「話はそれだけだったら、もういいかな?」

都司が立ち上がると誰も止めることは無かった。

「ではまた明日」

沓音(くつおと)が聞こえなくなると、四人で都司への文句が始まった。
ひとしきり文句を吐き出すと、腹も減ってきたのだろう。 四人で呑み屋にでも行くようで連れ立って出て行った。

暫くすると、暗い廊下に人影が浮かんだ。

「四十枚を振り分けたとして一人が五枚。 今居たのが五人、ということはあと三人いるということか」

独語かと思ったが、もう一つの影がゆらりと出てきた。

「そのようですね。 あくまでも平等に分けていればの話しですが」

「まだまだ絞り切れませんね」

言い終わると両眉を上げて、弱ったもんだ、という顔を杠が作った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第114回

2022年11月11日 21時37分23秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第114回



先ぶれに走るため、塔弥がすっとその場から居なくなる。
紫揺の家に入ろうとすると、相変わらずガザンがそこに伏せている。

「ガザン、マツリ様が来られる。 そこをどいてくれ」

言うが、全く以って無視を決め込まれた。 耳さえ動かさない。
なんだよ、と言いながらガザンの尻尾を踏まないように家の中に入った。 待ち構えていたお付きたちが戸から手を伸ばそうとしかけた時、そうそう引っかかるものかと塔弥が口を開いた。

「マツリ様が来られる。 邪魔をするな」

戸からチラリと見えていた手がそっと引かれ、ゆっくりと戸が閉められる。

「っとに、何考えてんだか」

言いながらも当分は阿秀と行動を共にした方がよさそうだ、と頭の隅に考えた。

紫揺の部屋を訪ねると此之葉と向かい合って夕餉を食べだしたところだった。
良かった、と安堵する。 何人もの死体を見たのだ。 此処に帰るまで、あれから殆ど食をとることが出来なかったのだから。
塔弥から言われ、今日は肉のない献立になっている。 女たちがブーブー文句を言ったが、かいつまんで話すと「そりゃ、尤もだ」と言って納得をしていた。

「え・・・」

此之葉が慌てて自分の膳を下げる。

「塔弥、マツリ様に夕餉を出した方がいいのかしら」

「さあ、どうだろう」

「どうだろうって・・・」

「あーっと、余ってるなら出してもらえますか?」

此之葉が自分の膳を持ったまま振り向く。

「いつもあっちで食べさせてもらってますから。 余ってたらでいいですけど」

「はい、すぐに」

此之葉が慌てて部屋を出て行く。

塔弥がマツリと共に食をとるのか、良い兆しだ、などと考えていると紫揺から声が掛かった。

「ん? どうしたの? そうだ、塔弥さんも一緒に食べる?」

「御冗談を・・・」

口がヒクつきかけた。



呆然とする頭の中の片隅に恐怖の文字が浮かんだ時、初代紫の声が響いた。

『わらわの大事子』

動きたくても頭も手足も縫われたように動けなかった。 だが初代紫の声に思考を傾けることは出来た。

『恐るるはその身を滅ぼすのみ』

前に居る香山猫が足を止め紫揺に焦点を合わせている。 恐怖の中、漠然と香山猫の姿を見ていただけだったが、その目と合った。

『恐るるに足りぬ』

『・・・はい』

『わらわを信じ、紫赫(しかく)を信ぜ』

紫赫といわれて何のことかと疑問を持ちかけると、瞬時に紫の光のことだと分かった。 それも初代紫が教えてくれたのだろうか。

『はい』

目を瞑って息を吐く。 瞼を動かすことが出来た。

―――落ち着け。

手を握る。 指が動いた。 顎を上げる。 身体の筋肉が弛緩していくのが分かる。 瞼を開け香山猫に目を合わす。

『四足のものに去(い)ねと命ぜ。 それだけでよい』

いね・・・。 それにも疑問を持ちかけるとこれもすぐに “去れ” ということだと分かった。



「で、四足って言われたら、目の前に居る、こう・・・何だったっけ」

「香山猫。 箸を咥えるな」

注意を受け、一瞬目を眇めたが相手はこちらを向くことなく、初めて食べる東の領土の夕餉に箸を運んでいる。


マツリが紫揺の家に入ろうとしたら、伏せていたガザンが立ち上がりマツリの前を歩いた。
塔弥が「ガザン」と言ったが、自ら足を拭くと素知らぬ顔をしてマツリの前を歩き、紫揺の部屋の戸を開けて入ってしまった。 戸を閉めないガザンである。 マツリがそのままガザンに続いて入っていった。
此之葉が戸を閉め、塔弥とどうしたものかと目を合わせていると、戸がバンと開きガザンが出てきた。 毎度のこと戸を閉めないガザンに代わって此之葉が戸を閉めたが、いったいガザンは何をしたかったのだろうか。

あとで紫揺に訊いてみると、紫揺をひと舐めしたあと気のせいかもしれないが、マツリにガンを飛ばして出て行ったということであった。
鉄の守りか、とマツリが心に思ったことは誰も知らない。


「そ。 その香山猫に近づいて行って去れって言っただけ」

「身体の不調はないか」

「特にない」

「当分、額の煌輪は付けて出た方が良かろう」

「うん」

「それと塔弥が言っておったが、石探しはやめよ」

「なんで」

「眠っているものを起こす必要はない」

「・・・」

他の言い方なら反発も出来ただろうが、この言い方にはぐうの音が出ない。 自分だって寝ている時に起こされるのは嫌だ。
チラリとマツリが紫揺の表情を見た。

「紫が寝ているのを起こすのとは訳が違う。 分かったな」

「ゔぅ・・・」

どうして何もかもバレてしまうのだろうか。 やっぱり透けてるのか? 上目遣いに頭を見ようとするが到底見えるものではない。
今度から手鏡を近くに置いておこう。

マツリが箸を置いた。 いつの間にか食べ終わっている。 紫揺はようやく半分を食べ終えただけだというのに。
気を利かせて此之葉もこの場にはいない。 戸の向こうに座しているだろう。 声を出せばすぐに入ってきてマツリに茶を淹れるだろう。

本当は葉月も此之葉の横に座していたかったが、やはり出張り過ぎだと思えた。 だが気になることは消せない。 お付きたちの部屋で待機している。

此之葉に頼らずとも、茶くらい紫揺にでも淹れられる。

「お腹空いてたの?」

湯呑に茶を淹れる。

「朝餉のあとなにも食しておらんかったからな」

「へ?」

「よくあることだ。 それにしても東の領土と本領のものとはかなり違うのだな」

料理のことを言っているのであろう。 料理が得意でない紫揺にもそれは分かる。
東の領土の料理に馴染むのには時がかかった。 食材から調味料から違うのだから。 そして本領の料理を目の前にしたときには、殆ど日本と同じだと驚いたくらいなのだから。

マツリの前にある膳を下に置くと湯呑を置いた。 見ようによっては甲斐甲斐しい。

「うん、本領の料理は日本とよく似てるけど、この領土の料理は慣れるのにヒマがかかったかな。 あ、本領のお菓子も日本のお菓子と似てる」

マツリが両の眉を上げる。
そういうことか。 紫揺に解熱の薬湯が東の領土の物は効きにくく、本領の物の方がよく効いたのは食の違いがあったのかもしれない。

「ちゃんと食べなきゃ身体に良くないんじゃない? それにそんなことしてたら大きくなれないって言うし」

もう十分に大きくなっているつもりだが。 それとも横幅のことを言っているのだろうか。

「父上のような恰幅には程遠いということか」

「あー・・・四方様か。 筋骨隆々って感じ。 若い時からなのかなぁ」

「そのようだ」

「んじゃ、なんでマツリはそうなの?」

やはり横幅のことか。

「母上に似たようだ」

茶をすする。

「ふーん、そうなんだ」

なんだ、この自然な会話は。 などと思うが、よく考えてみれば杠が言ったようにマツリが声さえ荒げなければこんな会話が出来るのだった。
だがそれはあのことがある前の話。 それなのに今、まるであのことが無かったように話せている。
いや、思い返してみるとキョウゲンがあの石を取りに行った後もそうだった。 紫揺は “ありがとう” とさえ言った。
このまま穏やかに時を重ねる方がいいのだろうか。 いや・・・。 いやいや。 いや、ではない。 やはりこのまま・・・。 いや、そんな悠長なことを言っていれば・・・。 いや、だが。
紫揺の前で一人百面相をしだしたマツリ。

紫揺がメモに手を伸ばし、畳んであるそれを広げる。 マツリに訊きたいこと。 たった一行が書かれている。 そのたった一行を目で読み、たたみ直すと元に戻した。
マツリはまだ百面相をしている。

「・・・マツリ?」

「あ? え? ああ。 な、なんだ」

なんだこの慌てようは。 良からぬことでも考えていたのか? 紫揺が眉間に皺を寄せる。 そして思ったことは何のためらいもなく言う。

「なに考えてたの」

疑問符はつかない。

「あ・・・ああ。 ちょっとな。 気にするな」

「要らないこと考えてたんじゃないでしょうね」

「要らない事とは?」

「二度とあんなことしたら許さないからね」

一瞬虚を突かれたような顔をしたマツリが次に笑んだ。 そしてくすくすと笑いながら下を見る。

「なによ」

「では一度目は許すというのか?」

「・・・そんなつもりで言ったんじゃない」

「まだ殴り足りないか」

「は? ビンタ・・・平手ぐらいで許されると思ってるの?」

「いや、拳の方を言っている」

「は?」

「殴って気が済むのなら何度でも殴られよう。 だが少々見栄えが悪い。 奇異な目で見―――」

「待って!」

思わず膝立ちになる。
戸の向こうから紫揺の大声が聞こえた。 座している此之葉と塔弥が目を合わせる、ケンカが始まるのだろうか。
と、その時、お付きの部屋から大声が聞こえてきた。

「待て! 待てー!! 葉月落ち着けー!!」

塔弥と此之葉が振り返る。 此之葉がお付きの部屋で待機しているのは知っている。 それにあの声は梁湶の声だ。

「葉月! とにかく離せー!」
「わわわ! こっち来んな」
「嘘だろ! おい!」

ナドナド、梁湶以外の声も聞こえてきた。

「葉月?」

二人で声を揃えて口の中で言った途端、ドン、ドタンバタンという音がした。
塔弥と此之葉が再度目を合わせる。

「こ、ここは俺が見ておく。 此之葉、見に行ってくれ」

マツリと紫揺が言い合いを始めれば、此之葉では手に負えないだろう。 葉月のことも気になるが、今は紫揺の方を気にかけなければいけない。 それにあの部屋にはお付きたちが居る。 此之葉一人に任せるわけではない。
此之葉が頷くとすぐに立ち上がりお付きの部屋に向かった。

マツリが膝立ちになった紫揺を見る。

「なんだ?」

「どういうこと? なに言ってんの? 拳ってなにっ!」

マツリが少し考えるような顔を見せる。

「ああ、そうか」

殴った後、そのまままた倒れたのだ。 記憶が飛んでいるということか。 これは殴られ損なのだろうか。

「座ったらどうだ」

座れ、ではない。

記憶にないのならそれでもいいか。 だがこの話をどう持っていこう。 何でもないと言っても簡単に引き下がらないだろう。 さて、どうしたものか。

あっ、と思い出したことがあった。
マツリの部屋で食事を済ませ、湯呑を前にしていた時のことを。
前に座るマツリの頬骨の辺りに青たんが出来ていたのだった。 あの時は原因なんて考える必要も無いと思った。 自分には関係のないことなのだからと。 だが、もしかしてあれは・・・。

「もしかして・・・ここ?」

自分の左の頬骨の辺りを指さす。
マツリが両の眉を上げる。

「要らぬことを言ったようだ。 そのことはもうよい。 それに―――」

「良くない! 叩いちゃった? 殴っちゃった? それもグーで?」

「ぐー?」

マツリが小首を傾げる。

「あ、拳で」

「よいと言った」

「・・・ごめん」

「謝る必要などない。 我の方が先だ。 我は謝らんがな」

「あの・・・一度目は無かった事にする。 もう殴らない」

「・・・無いことにされては困る」

紫揺が上目遣いにマツリを見る。

「無いことにされると我の言ったことが無かったことになってしまう。 そんな気はない」

百面相までして迷っていたのに、結局、外周から固めていくという穏やかに時を重ねるわけにはいかないようだ。

「我は紫だけを想っておる。 紫を奥に迎えたい。 他の者を迎えるつもりはない」

紫揺が頭を垂れてしまった。

「紫が民を領主の前に連れてきたのなら、我はその者の前に立とう」

民の前にマツリが立ったりしたら、誰でもドン引くでしょうよ・・・。 心の中で呟き、声には違う言葉が乗る。

「自己中、高圧的、高慢、傲慢、傲岸・・・唯我独尊・・・・・」

語彙が尽きてしまった。 もっと勉強をしておくべきだった。

「何と言われようと構わん。 紫を誰に渡す気はない」

「こっちの気持ちって考えないの」

「我のいない時、我のことを父上に訊ねたそうだな」

下を向いたまま紫揺が首を捻る。 なんのことだろう。

「杠と地下に行く前、戻ってきた時、そのどちらにも我はいなかった。 父上の前に出た時のことを憶えているか」

杠を助け出したあと、宇藤たちを逃がすのに地下に行くことになった。 四方の前に紫揺と杠が座った。

『だからと言って紫一人行かせるわけにはいかん』

『マツリは?』

紫揺はそう訊いたのだった。 マツリは他出して居ないということで、結局、杠と行くことになった。
そして杠と地下から戻ってきた時も。

『まずは紫の報告とやらを聞こう』

その時にも四方に訊いた。

『マツリはいないんですか?』

マツリはまだ戻って来ていないと四方が言った。

「同席していたのは父上と杠だけだが、杠から聞いた。 紫はどちらの席でも我が居ないのかと父上に訊いていたと」

「杠が?」

顔を上げて記憶を甦らそうとするが、全く以って記憶にない。 だが杠が嘘などつくはずはない。

「覚えていないのであれば、どうして我のことを訊いたのか問うことも出来んか」

少々残念だ。

『紫揺に意識はありませんが、紫揺もマツリ様のことを心の内で呼んでいます』
杠がそう言っていた。 今ここで、杠がそう言っていたが? と言えば杠に懐いている紫揺だ、何かを考えるかもしれない。 だがそれを言ってしまえばある意味、エサを見せてから強制して考えろと言っているようで、あまりにも狭量だ。
今日はこれくらいでいいか。 心の丈は言った。 あとは暫く来られないということを話せばいいか。
そう思っていたら、宙を見ていた紫揺が目を合わせてきた。

「そう言われればシキ様も同じことを仰ってた」

「姉上が?」

むぅ、っと考えるが、情報提供は杠しかいないであろう。 いつの間にシキと杠がそれ程のことを話す仲になっていたのか。

「お腹にややがいるのにロセイに乗って飛んで来て下さったとき」

「ああ、あの時か・・・」

昌耶が空に向かって「シキ様―!」と呼んでいた時とかなんとか。 あとになって “庭の世話か” から聞いた。

せっかく顔を上げていた紫揺がまた顔を下げる。

「マツリ・・・」

「なんだ」

「・・・訊きたいことがある」

マツリの片眉が撥ねる。

「言ってみろ」

紫の力の事だろうか。 それともどうして蛇が脱皮するかということだろうか。
“最高か” から聞かされていた。 リツソが紫揺を自室に招いた時、自慢げに蛇の抜け殻を見せていたと。 それを怖がらず紫揺が見ていたと。

「・・・どうして」

そこで止まった。

「なんだ? はっきりと言えばいい」

“言えばよい” ではない。
そう思い返せば、マツリは言葉を変えている。

(あ・・・)

葉月と話したタイムトラベラーではないが、マツリは時に応じてなのか、自分自身の気持ちに応じてなのか、話し方を変えている。 いつからだったのだろうか。
それに今、語尾が上がっていた。

「・・・」

マツリが湯呑を手にして一口飲み卓に置いた。
コトリという音が紫揺の耳に入る。

「・・・私のどこを好きになった」

本領では “好き” という言葉は十五歳まで。 だがその意味は分かるし、今ここでそこをほじくろうとは思わない。

「うむ。 我も不思議だ」

本当に不思議そうに首を傾げると腕を組む。

「は?」

「衣裳によっては坊にしか見えん。 宮の衣裳に変えても女人には程遠い。 落ち着きも無ければ塀を駆けのぼったり、欄干の上に座る始末」

「はぁー!?」

それって悪口じゃないのか?

「必要以上に背が低い。 女人とは髪を伸ばすもの。 なのに背と同じで短い。 身体の膨らみも無ければ、到底その姿態は女人とは思えない。 佳人でもない」

コイツ、どこまで言う気だ。 それに膨らみが無くて何が悪い。

「だが杠が言っておった。 だからだと」

「は?」

どういう意味だ。 それに、そんな話を杠としたのか。

「杠は、紫に心奪われない者はいない、そう言っておった」

杠の話を表だってするには抵抗があった。 杠をエサに紫揺を釣っているようだからだ。 だが今は伏せることにもっと抵抗がある。

「杠が?」

「ああ、そうだ」

このまま杠の話に移ってもいい。 だがエサとしては使わない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第113回

2022年11月07日 21時06分27秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第113回



夕刻を過ぎた頃からガザンが紫揺の家の前でお座りをしている。 尻尾を踏んでしまわないかと、出入りする者たちは注意を払わなければいけない状態である。
やっと辺境から紫揺が戻ってきたのだから、出入りする人間の数は多い。 女たちが腕を振るって料理を作っているのだから。

辺境では民の家に泊まらせてもらっている。 辺境の民ももてなしてはいるだろうが、あくまでも辺境。 海近くに行けば魚や貝ばかり、山に入れば肉があるときもあるだろうが、木の実や山菜が主になってくる。 食材が片寄っているのは明らかである。

「ガザン、ちょっとだけ端に寄ってくれない?」

女が言うが、ガザンは耳を動かすだけで動く様子を見せない。

紫揺が馬に乗れるようになってからは、辺境にはお転婆で出ている。 その前は馬車で出ていて此之葉もついて来ていたが、お転婆で出るようになってからは此之葉は留守番になってしまっていた。
『馬車でついて行きます!』 と言い張ったのだが、馬車では到底行けないところもあるし時間がかかり過ぎる。 今までを取り戻したいから、時間を有効に使いたいと紫揺が説得したのだった。

『今までを取り戻したい』 というのを辺境の民が聞けば涙するだろうが、どこまで真実なのかは分からないと、お付きたちは疑いを持っている。 お転婆で走りたいだけじゃないのか? などとは口には出してはいない。

「今回は疲れたー」

額の煌輪を小さな座布団に戻すと、両手を投げ出し卓に突っ伏した。 家に戻って来てその足で湯に浸かり、着替えも済んでいる。
その姿を茶を淹れながらチラリと見る此之葉。

「どちらまで行かれたんですか?」

辺境にも色々ある。 此之葉は辺境の全てに足を運んだわけではない。 行ったことの無い所であれば想像を膨らませて聞くことしか出来ない。

「うんと・・・前に此之葉さんも行ったことのある、覚えてるかな? 山の麓の川沿いの集落の名生(みょう)お爺(じじ)」

突っ伏したままで顔だけ横に向け話している。

「はい、覚えています」

コトリと湯呑を置く。
ありがとう、と言いながら身体を起こし湯呑を手に取る。 熱すぎることなく飲み頃である。

「あの奥の山の中」

「え?」

「馬道があってね、馬のままで入れましたけど、よく生活出来てるなぁーって感じでした」

「あの先の山の中にも民が居たんですか?」

あの辺りでは、名生お爺のいる集落が人の住む最端だと思っていた。

「結構いました。 名生お爺のいる集落より多かったですよ。 生活は厳しいそうだったけど麓に下りる気はないって」

紫揺が急に辺境に行くと言い出した。 それまでは唱和の喪に服したいからと大人しく家の中に居たが、此之葉がいつもの通りに紫揺に付いていた。 隠してはいるつもりだろうが、此之葉が涙を堪えているのがよく分かった。
一週間、家の中で大人しくしていた。 此之葉のことが気にはなるが、日本で言うところの初七日までは大人しくしようと決めていた。
そしてその後しばらくは此之葉を自分から解放してあげようと、辺境に行くと言い出したのだった。

「そうですか。 いくら厳しくとも民にとってはその地が一番良いのでしょうね」

そう言うと間をおいて「紫さま」と居ずまいを正すような声を出した。

「ん? なんですか?」

「独唱様と唱和様のお話を沢山しました。 ・・・やっと、落ち着くことが出来ました。 お気遣いを有難うございました」

手をついて頭を下げる。

「あ・・・」

『お前の考えなど透けて見えるわ』 マツリにだけ透けて見られていたわけではなかったのか・・・。 それによく考えると、辺境で塔弥にも言われたのだった。 思い出したくない光景だった時に。
思わず頭を隠しかけて、そうでは無かったと思い直す。

「いや・・・そんな。 お気遣いだなんて気のせいだし・・・。 うん、でも、此之葉さんが元気になったのならそれでいい」

此之葉が頭を上げると咄嗟に腕ではなく両掌で頭を覆った。

「如何なさいました?」

「あ、いや、なんでもないです」

目には見えないのだった。 そろっと手を下ろす。


外風呂から上がってきたお付きたちが、ぞろぞろと紫揺の家に戻っていく。 阿秀だけはざっと汗と汚れを落としてから領主の家に足を向けていた。 辺境でのことと、紫揺のことを報告しなければいけない。

「にしても、あんな所に住んでるなんて知らなかったな」

辺境の集落を転々としていた時、最端と思われていた集落の奥の山に、まだ人がいると偶然耳にしたのだった。

「ああ、紫さまも山を下りるように勧めておられたが、かなり血が濃くなってきている様子だったな。 あのままでは良いことは無いだろう」

「それが不思議だ。 どうしてあの紫さまがそんなことに気付いたんだ?」

「たとえあの紫さまと言えど分かるだろう」

「そっかぁ? 俺は分からなかったぞぉ」

「お前が鈍感すぎるんだよ。 ところで塔弥」

全員が塔弥を見る。 その視線に従って段々と半輪になっていく。

「な、なんだよ」

「直接はお前と阿秀しか見てないよな」

「なんのことだよ」

「俺たちはあの時と似た光しか見ていない」

「ああ、置いてけぼりをくったんだからな」

半輪が段々と狭くなってくる。

「置いてけぼりって、人聞きの悪い。 お前達の走るのが遅かっただけだろう」

馬の走るのが遅いのは乗り手に似たんじゃないのか、と言ってしまってはコブラツイストや4の字固めだけでは済まないだろう。 思っただけで口にすることは無い。
「あーん!?」 全員の声がした。 さすがにいつも、のほほんとしている醍十の声も交じっている。 思ったことを口にせず控えたのにも関わらず、全員からの反感を買ったようだ。

「何があったか話してもらおう、かっ!」

その時、塔弥の目にお付きたちの間から、背中を見せ、ずっと前を走り行く秋我の姿が目に入った。 他のお付きたちは背中を向けていて気付いていない。

「あれ? 秋我?」

え? っと全員が振り返る。

「何かあったのか?」

秋我の走っている方向には、芝を敷き詰めたように草が咲いているだけだ。 そしてそこは、東の領土にやってきたマツリがキョウゲンから跳び下りるところでもある。

「マツリ様」

息を切らせながら秋我がマツリに近寄った。

「領土は落ち着いておるようだな」

「はい」

「その後、紫に変わりはないか」

「つい先ほどまで辺境に行っておいででした。 その時に少々何やらあられたようなのですが、今その話を聞き始めた所です」

マツリの片眉がピクリと動いた。 紫揺の気は感じる。 倒れてはいないだろう。

「そうか、我も話を聞こう」

「では、こちらに」

領主の家に足を向けた。

ボーっと秋我の後姿を追っていたお付きたち。 だがその姿も左に曲がると見えなくなってしまった。

「どうする?」

「追うか?」

などと話している所に阿秀が領主の家から出てきた。

「塔弥! こっちに来い!」

阿秀が叫んだ。

「だってさ。 行ってくるわ」

絞った手拭いを湖彩に押し付けると走り去って行った。

「上手く逃げやがった」

「なんか塔弥って、ここって時にタイミングよく誰かが声を掛けるんだよな」

「だからと言って逃げ切らせるか」

「ああ、今夜は修学旅行だ」

「うーん? 野夜、そんなこと言って起きていられるのかぁ?」

「だな。 一番先に寝るな」

「寝るかい! あんのヤロー、寝込みを襲いやがって、今夜は腕挫十字固だっ!」

意趣返しの応酬は止まらないようだ。

「阿秀、何かあったんですか? ―――」

秋我が走って行ったけど、まで言えなかった。

「マツリ様が来られた」

「・・・やっぱり」

「やっぱりって、塔弥が言ってたより随分と遅いじゃないか」

塔弥が口を歪める。

「本領で何かあったんじゃないですか? ほら、前も忙しそうにされてたじゃないですか」

「まぁ、丁度良かったと言えばそうだが。 辺境であったことをマツリ様が訊かれるようならばお話しする。 私一人では思い込みや見落としもあるかもしれない。 それに塔弥が一番近くにいた。 塔弥も同席してくれ」

「はい」



辺境を馬で歩いていた。 休憩を幅のある川で取っている時、それは起こった。
いつものように下穿きをたくし上げて、ジャバジャバと川の中に入って足を冷やしていた紫揺。
紫たる者のすることではないと何度も塔弥から注意を受けていたが、この程度のことでやいのやいのと言われたくない紫揺は聞く耳を持たなかったし、他のお付きたちもそろそろ慣れだしてきていた。

河原近くの深さはさほどないが、あまり進んでしまうと深くなり激しい水流に足を取られてしまう。 足元に注意しながら膝下までの深さに進む。 川砂が心地よく、時折あたる小石は足の裏のツボを刺激する。

そこに川の水の色では無いものが混じってきた。
見覚えのある色。
おかしいと思い足元を見ていた顔を上げ川上を見ると何かが流れてきている。

『あれ・・・なに・・・』

まるで独語のように、聞こえるか聞こえないかの声が紫揺の口から漏れた。
川上は左から大きくうねってきていて、紫揺から見た百メートル先ほどの突き当りには山肌と下には岩しか見えない。
紫揺の様子を見ていた阿秀が紫揺の視線の先を追った。 その横を塔弥が走り抜け、紫揺の手を引き川から上げたが紫揺の足元がおぼつかない。

『見てはいけません』

川上から目を離せない紫揺の前に塔弥が立ちはだかり前を塞いだ。
阿秀が何やらお付きたちに命令を下している声が聞こえる。

『・・・ヒ、ト?』

『此処から離れましょう』

川上が見えないように塞ぎながら紫揺の背中を押したが紫揺が動こうとしない。

『人が・・・流れて・・・』

それも一人や二人ではなかった。

『どう、して・・・人が、流れて、くる、の?』

その前に目にした見覚えのある色は血の色だった。
東の領土に来てつい数日前に唱和との別れがあったが、民との別れなど一度もしていない。 ましてや布団の上で見守られながら亡くなるのではなく、川に流れているとはどういうことだ。

『落ち着いて下さい』

東の領土の辺境にはあちこちに足を運んでいる。 つい一昨日、足を運んだ名生お爺の集落の奥にある山の中に限らず、どこでも生活が厳しい中でも民は笑顔で暮らしていた。 争いごとなど東の領土で目にしたことなど無い。

紫揺の動揺ぶりに塔弥が何かを感じた。

『熊かもしれません』

『・・・え?』

『この奥の集落を熊が襲ったのかもしれません』

『熊、って・・・』

『民の争いごととは限りません』

『あ・・・』

まるで紫揺が考えていたことを見透かしたように塔弥は言ったが、それはそれで看過できないことではないのだろうか。
熊は人肉を食べるとその味を覚えてしまうとどこかで聞いたことがある。

『山の中での生活はそういう危険と隣り合わせです』

行きましょう、と紫揺の背を押す塔弥の手を振りほどくと川上に向かって走り出した。

『紫さま!!』

すぐに塔弥が手を伸ばしたが、かすることさえ出来なかった。 すぐに追ったが、中途半端に紫揺を止めようとするお付きたちが邪魔で遅れをとってしまった。
お付きたちは紫揺を止めようとしたが、片手で死人を持ったままで紫揺を触るのを憚り、伸ばしかけた手を引っ込め、結果、塔弥の障害物となってしまった。
丁度一人を岸に上げた阿秀が紫揺と塔弥の後を追う。
残されたお付きたちが川に流されてきた全員を岸に上げるとようやっと後を追った。

塔弥も阿秀も身体能力に優れている。 だが紫揺が岩を跳ぶ度、心臓が止まりそうになり足のスピードも緩んでしまう。 引き離される一方であった。
川筋に添って左にカーブをすると、そのずっと先右手に集落が見えた。 今から行こうとしていた集落だ。

一気にそこまで走ると河原に数人が倒れている。 息があるのかないのか分からない。 その息を確かめるより先に何があったのか、膝の高さほどの一段高くなっているところを上り、集落に足を踏み入れた。
そして呆然となった。
目の前に見たこともない大きな猫科の獣が十数頭いる。 こちらに尻を向けて歩いていたり、家の屋根に上がっている獣もいる。 大きさにして大型犬と中型犬の間くらいだろうか。
桶がひっくり返り地を濡らし、あちらこちらに人が倒れている。

一頭が紫揺に気付いた。 まるでモデルウォークのような足取りで、だがモデルのようにツンと顎を上げていない。 頭を下に位置させ、獲物を狙う目でゆっくりと紫揺に向かって歩いて来ている。
やっと塔弥が河原に倒れる者たちのところまで来た。 その先、一段上がった所に紫揺が立っている。

(良かった)

すぐに一段高くなっている所まで走り、その段を上ろうとした時、屋根の上に居る獣が目に入った。

(香山猫(こうざんねこ)!! どうしてこんな所に!)

香山猫。 それは高山である一定の高山草が発する香りのある所にしか住まないと言われている肉食獣。
足を止めた塔弥の耳に阿秀の足音が聞こえた。 我に戻った塔弥が段を上がり紫揺の元までゆっくりと進む。 走って香山猫を刺激したくない。
阿秀も同じように考えたのだろう、ゆっくりと一段高い所に上がってきた。

塔弥が手を伸ばして紫揺の腕をつかもうとした時、額の煌輪から紫の光が発せられた。
塔弥と阿秀の動きが止まる。 それだけではなく、こちらに歩いて来ていた香山猫の足も止まった。
紫揺の目を見ていたならば、そこから恐れがなくなり、そして瞳の色が変わったことに気付いたかもしれないが、残念ながら塔弥も阿秀も紫揺の目を見られる位置にいない。

紫揺がゆっくりと歩き出した。 辺り一面は紫の光に覆われている。

塔弥が止めようと手を出しかけ、その手を止めた。
初めてこの紫の光を見た時には紫揺は空を仰ぐように倒れた。 だが今の紫揺は確実に地を踏みしめ歩いている。
本領で紫の力の事を教わったと言っていた。 己などが口を挟むことでは無い。
塔弥が考えるように阿秀も考えているのだろう、塔弥を急き立てることはなかった。

香山猫の前まで歩いた紫揺。 香山猫は身体を低くしていつでも跳びかかれる態勢だ。
だが数秒後、香山猫が姿勢を戻し踵を返した。 他の香山猫もその後に続く。 屋根の上に上っていた香山猫も紫揺をチラリと見ると、その大きさから想像が出来ないくらい優雅に屋根から跳び下りた。
最初はゆっくりと歩いていたが、群れの全員が後ろについたことを確認した先頭が走り出すと、その後を追って全頭が走り去って行った。

やっとお付きたちが駆けてきた。 目の前に紫の光が入ってくる。 その光が徐々に薄くなっていった。

紫揺が頭を垂れた。 この短い時にかなり精神を消耗した。

『大丈夫ですか?』

塔弥が前に回って紫揺の顔を覗き込んできた。

『うん。 ちょっと疲れただけ。 それより・・・』

顔を上げ辺りを見回す。
塔弥が頷き『もう香山猫はいない! 誰かいるか!?』 と大声を上げた。 すると家々の中から恐る恐る何人もが顔を出してきた。
家人が欠けている者たちは、大声で叫びながら欠けている者の名を呼びだす。 口を塞がれていた子がその手を緩められ、恐怖の光景を続いて見ているように泣きだした。

お付きたちが倒れていた者の息を確かめたが、もう事切れていたようだった。 食い千切られていた者は、見ただけで生きていないと分かった。
阿秀の指示のもと、お付きたちが男達と共に川下の河原に上げてきた者たちや、河原で事切れている者たちを運んだ。
誰一人息が無く、男女、子供も合わせて十二名の遺体がむしろに寝かされた。

阿秀が男達に話を聞くと、今日もこの数日も何の変りもなくいつも通りだったと言う。 どうして香山猫が急にやって来たのかは分からないということだった。
急に山の上の方から聞き慣れない咆哮が聞こえたかと思ったら、見たこともない獣がこちらをめがけて走って来た。 誰かが「獣だ、家に入れ!」と叫び、この辺りに居た者は誰の家と問わず飛び入ったという。

山の中で暮らしていて色んな獣と鉢合わせをすることもあったが、初めて見る獣、そしてあれほどの頭数を目にしたのは初めてだったという。
水を汲みに川に出ていた者たちは逃げ場を失くして襲われたのだろう、ということだった。
阿秀が話を聞いている間、紫揺が泣いている民を、沈んでいる民を慰めていたという。


「ふむ・・・」

顎に手を当てたマツリが返事とも言えない声を出し、少しの間をおいて今度こそ返事と言える声を発した。

「よく分かった」

この説明で紫揺の何がよく分かったというのだろうか。

「紫は乗り越えたようだな」

領主と秋我が目を合わせる。

「もう紫の力のことで案ずることは無いだろう」

「はぁ・・・」

「新たなことがない限りはな」

はぁ、と答えた領主がギョッとした顔をする。

「まぁ、そうそうあってもらっては困るがな」

紫揺のトンデモを思いながら「はい」と応える領主。

「だが唱和が亡くなったのは残念だ」

「・・・はい」

僅かの間しかこの地に居られることが出来ませんでした。 そう続けかけて口を噤んだ。 心の底からそれを残念と思っているが、聞く人間の立場によっては酷に聞こえる。

「独唱はどうしておる」

「未だ涙一つお零しになっておられません。 気丈なお方で御座います」

「そうか。 独唱も歳だ。 労わってやってくれ」

「はい」

マツリが腰を上げかけようとした時、領主が口を開いた。

「マツリ様、前に来られた時には、いかようなお話がありましたでしょうか?」

「あ、ああ。 あれか・・・」

延期にしようと思っていた。 よく分からない紫の力を有したまま誰彼と、などと考えないだろうと思っていたからだ。
だが今の話しからすればそうでは無くなったようだ。 まさかこんなに早く力を使えるとは思っていなかった。

「そうだな・・・。 ああ、よい。 またいつか話そう」

塔弥がチラリとマツリを見たが、素知らぬ振りをしている。

「紫に訊きたいことがある」

いま話したことについてだろうと、領主が頷き塔弥を見た。 紫揺を呼んで来いということである。

「よい。 我がゆく」

残っていた茶を飲み干すと立ち上がった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第112回

2022年11月04日 20時34分04秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第110回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第112回



あの時、すれ違う者達には何とか見られず誤魔化して過ごせたが、とは言っても奇異な目では見られていた。 いつも上げている前髪を左の頬にかかるように垂らしていたのだから。 それでもすれ違う程度の相手である。 立ち止まって話し込む相手ではない。
話し込む相手、四方と澪引などは見てはいけないものを見てしまったように、見ていないという風を装って目も合わせてこなかった。 リツソにおいては口を開きかけた時点で拳骨を落としておいた。

「そのように。 して、これから忙しくなりますが、まだすぐというわけでは御座いません。 己は明日から動きますが、マツリ様は一度、紫揺の様子を見に行かれてはいかがですか?」

「もう身体も戻ったことだ、よかろう」

「当分お会いできなくなりそうなのに?」

「・・・」

「紫揺には、はっきりと言ってやらねば伝わりません。 少なくとも当分は訪ねられないと言っておく方がよろしいのでは?」

「そうか」

はっきりと言う。
『我の想い人は、紫ただ一人』 東の領土の山を下りた時に言った。 あながち間違ってはいなかったようだ。

「まあ・・・そうだな。 それにあの時は東の領主に紫のことを言うつもりで行ったが、言えずじまいに終わってしまったか」

「今度こそ東の領主に仰るおつもりで?」

「・・・延期にするか」

紫揺がどこの誰とも分からない者を領主に紹介する前にと思っていたが、紫揺も当分はそれどころでは無いだろう。 よく分からない紫の力を有したまま誰彼と、などと考えられないだろう。

「だがそうだな、紫のところへは一度行っておく、か」

「それが宜しいかと」

「そうだ、紫と言えば面白い話がある。 今日、地下に行ってきた」

地下と言われれば紫揺とのことを思い出す。 印象深いことが沢山ある。 紫揺が初めて抱きついてきたのも地下だ。

「如何で御座いました?」

だから、御座いましたはやめろ、と言ってから続ける。

「共時が動いておやっさんのようにまとめていくと言っておった。 宇藤が共時の手足となってよく動いているようだ。 それと隠れ手下か? それらも宇藤がしっかりと掴んでいるみたいだ、当分心配は要らんだろう。 それでな、面白いことを訊かれた・・・」

マツリが時折地下を歩いているのは宇藤もよく知るところである。 そこで紫揺のことを知らないかと訊いてきたというのだ。 どう考えても不思議でならないと。

「で? 何と仰ったんですか?」

「あれは偶然入ってきた女人だ、坊ではない。 その一言だけで目を丸くしておった」

杠が腹を抱えて笑い出した。

「これは、これは、良い笑い種を頂きました。 当分あの時の紫揺を思い出しながら六都で暮らせそうです。 ククク・・・。 己も坊と思っていましたし、それに歳を聞かされた時には驚きました」

坊の衣装を着た紫揺を思い出す。 本当に坊にしか見えなかった。
紫揺の指示で紫揺が塀を跳ぶ手伝いをした。 屋敷の中では合図を送ってきていた。 二人で地下を走った。 ほんの僅かな時しか一緒に居なかったのに、思い出すことは山ほどある。

ひとしきり笑い終えた杠にマツリが酒杯を口にして改めて問う。

「どうだ? あの六人の感触は」

「マツリ様が選ばれたのです、間違いはないでしょう」

「巴央は少々やっかいだが、いけるか?」

「似た歳ですのでやりにくい所はありましょうが、その分やり甲斐があるというものです」

ましてや杠の方が歳下だ。

「頼もしいことだな」

「六都は長い間まともではなかったですから、根こそぎとはいかないでしょうが」

「ああ、どこの都も全く争いごとが無いということではないからな、そこまでは無理だろう。 六都はまず民の性根の叩き直しだ」

下手をすればこれからの地下より性質(たち)が悪いかもしれない。


「杠殿」

早朝、宮を出ようとしていた杠に後ろから声がかかった。
振り向くとそこに朱禅が立っている。

「これは朱禅殿」

「六都に赴かれると伺いましたが」

「はい、これから宮を出ようかと」

「そうですか・・・ほんの少しの時をいただけませんでしょうか?」



「おかしい・・・」

夕刻の空を眺めながらポツリと塔弥が漏らした。
塔弥の勘ではとっくにマツリが来ていてもおかしくないはずだった。 紫揺が本領から戻って来て何日も経っている。 いやそれどころか一ヵ月以上経っている。
とうとう紫揺を部屋の中に括ることが出来ず、朝から昼から放牧状態だ。 あれほど退屈だのなんだのと言っていたお付きたちが、毎晩バタンキューと寝床に潜っている。

塔弥も例外ではないが、少々、野夜には恨みがある。 野夜が一番に寝床に入った時には、他のお付きたちに教えてもらった4の字固めをお見舞いしてやった。 教えたお付きたちが疲れを見せながら笑っていた中、意趣返しは成功した。 野夜が眠りの中から悶絶の叫びを起こしていた。

「どうしてだ」

もし東の領土の山を下りた時にマツリが紫揺に言ったことを聞いていれば、塔弥の勘も違っていたかもしれないが、残念ながら紫揺から聞くことは無かった。
ただ、葉月から聞かされたことだけは、部屋に括っておいた成果が出たと感じている。


マツリの良い所を書いた紙をずずい、と葉月の前に差し出した。

『え? これだけ? ・・・ですか?』

毎日紫揺を訪ねてきている内、大分と言葉が崩れてきてしまっているのを感じていた。 このまま頭に乗っていると此之葉から雷が落ちそうだ。
“力の事を教えてくれる” 紙にはそう書かれていた。
でも考えようによっては最大かもしれない。 紫揺に一番必要なのは紫としての力の事だ。 この領土の者は誰一人として紫の力の事は知らない。
代々もそうであったが、代々の紫はこの地で生まれ育っている。 肌で分かることがある。 だが紫揺は違う。 この地に来てからも、紫の力を知ってからもまだ三年も経っていない。

葉月の問いに小首を傾げる。

『ん? 他にあるんですか?』

『分からないの』

『どういうことですか?』

『マツリが分からない』

『紫さま・・・』

葉月が言うには、心のどこかでマツリへの恋心に気付きだしたということであった。 だがそこにはまだ壁が立っている。 その壁に気付いただけ上等だ、ということであった。

『じゃ、今度マツリ様が来られた時に訊きたいことを書きだしましょう。 安心してください、私は見ませんから。 紫さまの想いを自由に書いて下さい。 それをマツリ様に訊いて下さい』

『訊きたいこと?』

『はい。 何でもいいですから』


「マツリ様が来て下さらなければ始まりもしない」

それに紫揺がせっかく考えたであろう事柄が褪せていってしまう。 紫揺がマツリに冷めていってしまうかもしれない。
恋をしていると分かっていれば、募る想いもあるだろうが、まだはっきりと意識できていないのだから想いへの意識が薄い。
今日も見上げる夕刻の空にキョウゲンの姿が映ることは無かった。 顔を下ろすと独唱の家に足を運んだ。



「杠と申します。 宜しくお願い致します」

六都の官所(かんどころ)に入った杠が名乗り頭を下げる。 帯門標は宮以外では必要ない。 見せることなく名乗るだけで終る。

六都は都司がコロコロと変わる。 あまりに荒(すさ)んでいるから、やってられないという具合だ。
都司は官吏ではない。 通常その都の豪族が都司となっているが六都は例外である。 いつからか豪族が退き、読み書きのできる者が都司となっていたが、それでもコロコロと代わっていた。

都司を補佐するために派遣されるのは官吏である文官。 それは文官所長と兼任である。
今、補佐でもなく文官所長でもなく、六都官所の一人の文官として杠は居る。

「何か分からないことがあったらヤツに訊けばいい」

文官所長が言った。
“ヤツ” 文官が言う言葉ではない。 それに “ヤツ“ と言われた男は、怪しげな口元をしている。
思ったように官吏である文官がまともでないようだ。
だが同じ官吏でも武官の方は、四色の武官六都長が居る、四人も居ればそうそう何かを自由には出来ないし、武官が誤魔化して何かを自由にしようと思っても、せいぜいロクでもない民が何かをした時に、見ていなかったこととして金をせしめたりするくらいだろう。 武具を横流しにしたりすればすぐに露呈してしまう。
それでも文官が何かをするよりは小さなことだ。 文官はもっと大きなことを動かすことが出来る。

「はい、宜しくお願い致します」

“ヤツ” と言った文官所長は、ここで必要以上に幅を利かせているのだろう、 そして “ヤツ” と言われ、怪しげな口元をしたのがその配下だろう。
だがこの二人だけとは限らない。
まずは誰が何をし、宮にどう書類を上げているか。
そこでどれ程、税を誤魔化すために目減らしをしているか。 私腹を肥やしているか。 他に何があるか。

「何も分かりませんのでご享受願います」

“ヤツ” が口の端を上げた。


薄闇がより濃くなった官所に一人の影が動いた。
二重帳簿があるはずだ。

文官所長が誤魔化しを一人でしていれば、杠が来た時に「何もせんでいい」と、頭ごなしに口頭で済ませるだろう。
だが “ヤツ” と呼ばれた者がいた。 ロクでもないことをしているのは文官所長一人ではないらしい。 少なくとも手駒に “ヤツ” を持っている。 簡単な誤魔化しでは賄えきれない程の裏の俸給を与えているのだろう。

文官所長が粗忽者であり、一人であれば徹底的に頭ごなしにして私腹を肥やしていただろうが、そうではない。 そうなると帳簿が必要になってくる。
本領に提出した書類と同じ数字を書き誤魔化した帳簿と反対に、現にあった金の流れを書いた裏帳簿があるはず。
それとも文官所長は何も知らないで、単に “ヤツ” に任せているだけの可能性も捨てきれない。 “ヤツ” と言ったのは、この六都に暮らしていて口が悪くなっただけかもしれない。

「まぁ、あの顔からは殆どそんなことは無いだろうがな」

小さな光石を手に持ち、まずは帳簿が並ぶ棚にかざした。



この数日シキからの痛い視線を受けながら夕餉を終え、ことりと湯呑を置いた。

「どういうことで御座いましょうか?」

「あ、や、・・・ですから、なにも案じず、ややのことだけを案じて欲しいと杠が・・・」

杠が宮を出たと聞いた数日後。 これ以上は誤魔化せないと、波葉がシキに現状を話した。

「それはマツリが東の領土に行けないということでしょうか?」

マツリが大きなことで動き出すと言った。

「・・・そうなるやもしれません」

いや、完全にそうだと杠から聞いている。
シキが大きなため息をついた。

「紫のことをどうするつもりなのかしら・・・」

東の領土で泣いていた紫揺。 その紫揺を抱きしめた。 その後、紫揺が倒れたと聞き、この本領にマツリが連れて来たと聞いてすぐに宮に戻った。
なかなか会えない紫揺にようやっと会えたと思ったら紫揺が泣いていた。 その後、マツリが添うて紫の力の事を教え、紫揺がそれを知ったとは聞いたが、あまりに事の展開が早く大きい。 紫揺はついていけているのだろうか。
心配はどんどん募るだけ。 その中で杠も宮を出たと聞いた。 宮内でマツリと紫揺の間のことで意見できるのは杠だけ。 その杠が宮から居なくなったのはイタイ。

「ロセイと飛びましょうか・・・」

「それだけはおやめ下さい!!」

邸に入れてもらえていた波葉が声をひっくり返して叫んだ。



夜の月明かりが木々に話しかけるように、そしてそれに応えるように木々が葉を揺らす。 その中に独唱と塔弥の姿が光石に浮かんでいる。

「お加減はいかがでしょうか」

神妙な声で塔弥が言った。
独唱が首を横に振る。

とうとう唱和が臥せってしまった。 今、横たわる唱和の横には此之葉がついている。

「紫さまには感謝をしておられた」

「独唱様、お顔のお色が宜しくありません。 ご無理をされておられるのでは?」

訳も分からず、生死さえも分からず何十年と引き裂かれていた姉妹。 ひと時も離れたくはないのだろうが、年老いている独唱が唱和に付いていれば疲れもあるだろう。

「姉上のお傍におられることに無理などないわ」

それより、と声をひそめて言う。

「此之葉には ”古の力を持つ者” としてのことは、わしの知る限り全て教えたつもりだ」

何を言い出すのかと塔弥が眉をひそめる。

「だが、わしも知らん事がある」

それは何だろうかと、塔弥が静かにそして小さく頷く。

「紫さまのことは・・・五色様のことはわしも先代から教えてもらっておらん」

そんな時間など無かった。
先代はただただ、居なくなってしまった先の紫を探すことだけを教えていた。 その中に “古の力を持つ者” の手法が入っていた。 まだ小さな独唱であった、単に紫を探すだけの手法だけを教えたとてそれは単なる付焼刃にしかならない。 真に “古の力を持つ者” の手法、心の在り方を教えなくてはならなかった。
先代には時が限られていた。 老いていたこともあるが身体を悪くしていた。 “古の力を持つ者” として紫と共に居る為に紫のことを教える時はなかった。

「それにそれだけではない、今代紫さまは」

「どういう事でしょうか?」

「今代の紫さまは彼の地に居られた」

彼の地・・・それは日本。

「帰って来て下さった今代紫さまの道先案内をしなければならんのはわし。 だがそれが出来ん・・・」

独唱の言いたいことが分かった。
日本で育った紫揺は余りにもこの地の育ちと違っていた。

「わしは彼の地のことを何も知らん、東の領土の中で年老いた。 だから此之葉に任せた、僅かでも此之葉は彼の地を踏んだのだからな。 だがその此之葉も戸惑っておる」

たしかに独唱が紫揺を探すために座り続けたのは日本の地である。 だがそこは洞。 日本のことなど爪の先ほども見ていない。
塔弥が静かに頷く。

「塔弥から見て此之葉はこの先もやっていけそうか?」

「・・・此之葉は頑張っております」

紫揺と同じような年ごろの此之葉。 ”古の力を持つ者” としての才はあるが、対紫としての経験は浅い、紫揺が来てからだけである。
浅くとも五色がこの地に育っていれば何ということは無いはずだった。 だが紫の力を持つ紫揺はこの地で育っていない。
はっきり言って・・・ハチャメチャだ。 日本を見る目を眇めたくなるくらいに。

「そうか・・・」


二日後、唱和が東の領土の地から去った。 八十三年生きていて、生まれた東の領土で暮らしたのは十年にも満たなかった。 記憶に蓋をされ、北の領土の者として生きた年数の方が比べ物にならないくらい長かった。

唱和が葬送されるまではずっと独唱がついていた。
唱和の野辺送りは静かに行われた。

独唱のことを知っている民はたんと居るが、唱和を知る者はほんの一握り。 それでも領主から「“古の力を持つ者” 唱和の葬送」と言われれば、民は誰もが頭を下げた。
唱和は歴代 ”古の力を持つ者” の墓に順じて、先代 ”古の力を持つ者” の墓の横に埋葬された。

此之葉が塔弥の分も泣き崩れ、その塔弥が涙をのみ、一筋の耀く糸を失くした独唱が毅然としていた。

幼き頃に分かれた姉。 その姉と邂逅できた。 希望を捨てたわけではなかったが、思いもしなかった事だった。
その邂逅は紫揺が発端であった。
まるで雨上がりのあとの蜘蛛の糸に雨粒が輝いたような出来事だった。

「姉上・・・」

やっと人知れず独唱が涙したのは、それから半年ほどが経った頃だった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする