『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第204回
少々不服は残ったものの、トレーニングルームで元気に遊び終え、此之葉の部屋を訪ねた紫揺。
「食べられました?」
「・・・はい」
後半は醍十に鼻をつままれてイヤでも口を開けずにはいられない状態にまでされた、とは言えない。 何故ならその醍十が此之葉の部屋で夜景にはまだ少し早い風景を眺めているのだから。
「ちゃんと全部食べました」
窓の外を見ながら涼しい顔で醍十が言う。
一瞬醍十の背中を見た二人。 他のお付きなら背中を見せたまま紫揺に話さないだろう。 どちらも苦笑いしかない。
「温泉に行きません?」
「え?」
「大浴場でゆっくり浸かって疲れをとりましょう? 露天もあるみたいだし、少なくとも今日の連絡はない筈ですから、そんな時にゆっくりしなくちゃ、ね」
「おお、それはいい。 此之葉、中まではついて行ってやれないが、入口までは抱っこして行ってやるから、ゆっくりと浸かってこい。 紫さま、あとは此之葉を頼みます」
「え? 入口まではって、此之葉さんそんなに具合が悪いの?」
「いいえ、醍十が大袈裟なんです」
紫揺にそう言うと、醍十に目を移した。
「醍十、紫さまにご心配をお掛けするようなことを言わないでください。 ちゃんと歩けます」
「そっかぁ? 一人で歩いて行けるかぁ?」
食事の時のアーンではないが、醍十が此之葉のことを大切にしているのがよく分かる。
「醍十さん大丈夫です。 ちゃんと私が見てますから」
「では、くれぐれも頼みます。 此之葉、阿秀の部屋に居るから、風呂から戻ってきたら知らせるんだぞ」
紫揺と此之葉の部屋はそれぞれ阿秀と同じ階である。
「・・・分かりました」
醍十が出て行くと此之葉が大きく溜息を吐いた。
「醍十さん、此之葉さんのことが心配なんですね」
「赤子扱いです」
顔色が悪かった時に簀巻きにされたことが頭をよぎる。 そしてアーンだ。
「その・・・食事の時からずっと醍十さんが居たんですか?」
「はい」
「何ともないんですか?」
「何とも? とは?」
小首をかしげる。
「えっと、一人になれないとか、見張られてるみたいだとか・・・」
紫揺の言いたいことが分かった。
「一人になりたい時もありますが醍十はそれを邪魔しません。 醍十が居ても気にならないと言いましょうか、ですから見張られているとも思いません」
「そうなんだ」
「醍十に甘えているとは思っています」
「え? どうしてですか?」
「特に食事のことは。 シノ機械に居る時には少しでも私の口に合うようにと、醍十が添加物のない手作りのお店を探して買ってきてくれていましたし、さっきもそうです。 疲れるとこちらの物をあまり食べたくなくなるのを醍十は知っています。 醍十に心配をかけているのは分かっているんですけど、それに甘えてしまっています」
「そうなんだ」
「紫さま? 他の者もそうです。 醍十が私を心配してくれているように、みなが紫さまを安じています。 どうか、見張られているとはお考えになられませんように」
心の内を読み取られたようだ。
「うーん・・・。 努力します。 じゃ、行きましょうか。 具合が悪くなりそうならいつでも言って下さいね」
「有難うございます」
此之葉の部屋を出た醍十。 隠れ潜んでいた若冲と梁湶に声を掛ける。
「紫さまは此之葉と一緒に温泉に行かれるぞぉ」
この日の若冲と梁湶の拷問が終わった。
此之葉に疲れがなくなったのか、紫揺を朝食に誘いに来た。 バイキング方式のレストランで朝食を済ませ、ホテルの庭を散策することにした。 此之葉がついているということで、お付きは誰も付くことは無かったが気が気ではいられない。
「北の脅威がなくなったはずだと言ってもなぁ・・・」
悠蓮が窓越しに紫揺と此之葉を見ている。
「ああ、何をなさるか分からんからなぁ」
こちらの方が北の脅威よりすさまじいかもしれない、悠蓮の横に立つ梁湶が心の中で言う。
「阿秀はどうしたんだ?」
悠蓮と梁湶から離れてソファーに腰を掛けている野夜が言う。
「パソコンをいじってた」 正面に座る湖彩。
「調べることなんてもうないだろう」 湖彩の横に座る若冲。
「知らないよ。 それより醍十は?」
「朝風呂ならず朝温泉。 空いてるだろうって。 泳いでくるとかって言ってたな」 醍十と同部屋の若冲。
「あんなデカイのが泳いだら温泉がなくなっ・・・」
湖彩が言いかけて途中で止めた。
三人が目を合わし、背もたれから背を外すと前屈みになって顔を突き合わせるようにした。
「どうしてそんなことを醍十が急に言うんだ?」
ある仮定を頭に置きながら野夜が疑問を若冲に呈する。
「そうだな。 今までそんなことをしたことがない。 ・・・夕べ、紫さまと此之葉が温泉に入った後、醍十と此之葉が話してた・・・よな?」
こちらも仮定が頭をかすめる。
「まさか・・・」
「昨日の温泉で・・・」
「紫さまが泳がれた・・・?」
三人の頭がガクッと落ちた。
領主の家にボストン型のスポーツバッグを置いてきたのは失敗だった。 寝る時にはホテルの浴衣を着ればいいし、Gパンは洗濯したものに穿き替えられなくても我慢は出来る。 薄手の長Tは部屋に戻ってすぐに洗って干しておけば乾くが、残念ながら下着の替えがない。
夕べは浴衣一枚で寝て、下着も洗って干しておいたが、温泉から上がって脱いだ下着をまたつけるというのは気持ちのいいものではなかった。
そしてそれを見ていた此之葉が今朝、客室係に下着を売っている所を教えて欲しいと言うと、客室係がすぐに地図と真新しい下着を一セット持ってきた。
「こちらで宜しければお使いください。 お気に召されないようでしたら、こちらの地図の赤い印の所で売っております」
客室係は此之葉の替えと思ったのだろう。 此之葉は見るからにAカップ。 そして紫揺も間違いなくA。 似た体形で事がおさまった。
そんな話をし、笑いながら始まった散策は、紫揺が先に領土を出た後、此之葉が再度唱和の元に向かい細かな話を聞いたものを紫揺に聞かせながらの硬い表情となる庭の散策であった。
そしてそれから三日後まで、此之葉が紫揺に付くことで、紫揺の暴走を見ることなく治まっていた。
その三日後、阿秀は塩見夫人の目があるかもしれないと、梁湶と二人でレストランに入り、あとの者は全員で、紫揺と此之葉は連れ立ってレストランに入った。 それぞれが朝食を終わらせ部屋に戻る途中の廊下で阿秀のスマホが鳴った。 画面には “北” と出ている。
後ろの方で紫揺が此之葉と談笑しながら歩いている。
「北からだ。 紫さまを私の部屋まで先にお連れしてくれ」
梁湶にカードキーを渡す。
梁湶が紫揺に向かって走り出したのを見て、更に後ろを歩いていた五人が走り寄ってきた。
「紫さま、連絡がありました。 急ぎ阿秀の部屋にお願い致します」
頷いた紫揺が壁に向かって立っている阿秀の後を走りぬく。 残された此之葉の顔には緊張が浮かんでいる。
「はい。 紫さまの代理で御座います」
『あ・・・シユラさ・・・ムラサキ様はいらっしゃいませんか』
「すぐに折り返しこちらからお掛け直し致しますので、そちらでお待ちください」
『・・・はい、お願い致します』
スマホを切ると此之葉を気にしながら歩いてきた醍十に「此之葉も私の部屋に連れて来てくれ」 と言い残して足早に自分の部屋に向かった。
部屋に戻るとすぐにかかってきた番号に掛け直し、スマホを紫揺に渡した。
コール音が一つ目の途中でセノギが電話に出た。
「セノギさん?」
『はい。 お待たせして申し訳ありませんでした。 一時間ほど前に戻ってきました。 疲れが激しかったので、今まで休ませておりましたが、もういつでも動けるとのことです』
「分かりました。 今からここを出ますので・・・」
チラッと阿秀を見た。
口パクで一時間半と言い、指を一本と、三本にして立てた。
「一時間半後くらいにそちらに着くと思います。 影の人達と桟橋で待っていてください」
『セキはどう致しましょう』
前回来た時に紫揺がセキとガザンに会うと言っていたが、何があるのか全く分からないし、影をセキに見せるわけにいかない。
「セキュリティー代わりのドーベルマンはどうなりました?」
忌々しい犬のことと分かった六人が目を合わす。
『こちらにはもう居りません』
「じゃあ、ガザンを連れて門のところで待ってもらえるように言ってもらえますか? そうですね・・・、セノギさん達が来る時間から二時間ほど後に。 何もかも終わったらセキちゃんとガザンに会いたいので。 待たせるかもしれないって言っておいてください」
『承知いたしました。 他に何かご御座いませんか?』
「そうですねぇ・・・。 その影と言われる方々に女性はいらっしゃいますか?」
「はい。 二名が女性です」
本領での封じ込めを解かれた後の唱和の姿が頭に浮かぶ。
年齢的なことがあったのかもしれないが、痛みは引いたはずなのに、足元も及ばず立つことすらもままならない程だった。 それにかなりのショックを受けていた。 それを見かねた四方が唱和を横にならせたほどで、唱和自身も暫く意識を遠くに預けていたほどだった。
「ちょっとショックがあるかもしれませんから・・・バスタオル・・・いえ、タオルケットか何かを。 身体を包み込めるものを二枚と・・・タオルを五枚お願いできますか?」
『承知いたしました。 以上で宜しいですか?』
「はい」
他に何か言わなくちゃならないことがあるだろうかと考えるが、思いつきそうにない。 どうして事前に考えていなかったのかと、自分を罵ってしまいそうになるが、何を言っても後の祭りだ。
『では、お待ちしております』
スマホを阿秀に返す。 携帯の切り方など知らない。 阿秀が通話を切る。
「ではすぐに出ましょう」
梁湶がタクシーを呼ぶようにフロントに連絡を入れる。
「このままチェックアウトをする。 フロントで待ち合わせだ」
ここに戻ってくる気はないようだ。 それぞれが荷物を取りにエレベーターに向かった。
「紫さまもお荷物をお持ちください」
部屋から出てきた紫揺と此之葉を連れて阿秀がフロントに現れた。 まだ六人は来ていなかったが、タクシーが三台並んでいるのが見える。
すぐに六人もフロントまでやって来て阿秀がチェックアウトを済ませるとタクシーに乗り込んだ。
タクシーを降り桟橋に行くと若冲の第一声がいとも嬉しそうに口から出た。
「操縦しがいがあるなぁ」
操舵席を見上げて言う。
ずっと乗っていたクルーザーもそこそこの大きさだが年式が違う。 これは新艇に近い。
「お借りしているものだから丁寧に頼むぞ」
キーを若冲に渡す。
「了解」
全員が船に乗り込むことが必要かと考えたが、いくら北に紫揺を攫う意思がなくなったとはいえ、やはり安心できるものではない。 全員で船に乗り込むこととした。
紫揺と此之葉はラウンジに居る。 男たちはデッキに出ている。
「此之葉さん、五人だけど大丈夫?」
「唱和様がかけられていたものと同じであればなんという事はありませんが、唱和様のかけられた術に、東の先代師匠に教わった術が少しでも入っていれば簡単にはいかないかもしれません」
着替えた後それが気になり、東の領土を発つ前に唱和に確認に行ったという。 だが当の唱和は、眉間にある皺を更に寄せてそこのところは曖昧だと言ったという。
「唱和様に掛けられていた封じ込めは完成されていませんでした」
「・・・」
「最後の言葉を北の “古の力を持つ者” に伝承されなかったのか、忘れてしまったのかは分かりませんが、きっと唱和様の身に術が解けかけてきては何度か封じ込めをかけられたと思います。 その為に完成されていない術だと言っても、二重三重になれば強固なものになります。 それが原因で記憶が混濁されているのだと思います」
「そんなことまで分かるんですか・・・。 じゃあ、その度にご自分の名前を?」
「はい、そうだと思います。 最初に御名だけはと思われた抵抗が強かったのでしょう。 何度かけられても、御名だけはお忘れにならなかったのだと思います」
「そんな強い力を持った唱和様がかけた封じ込めだったら・・・」
「今から考えても詮無いこととは分かっておりますが・・・」
(そうか、それでホテルに来た時に沈んだ顔だったのか)
たしかに疲れもあっただろうが、不安が更に疲れの背を押していたのかもしれない。
「何にも協力できなくてごめんなさい」
「そ、そのようなことは」
慌てて首を振る。
「でも、やっぱり此之葉さんはすごい。 唱和様は二重三重にかけられたんでしょ? で、それは強固なものになった。 それを簡単に解いちゃったんだもん」
「あ、いいえ、言葉を間違えたかもしれません」
まるで自分の力が大いなるものと言ったようなものだ。
「私は目の前で見たんですよ? こういうのって本人より第三者の方がよく分かるんじゃないかな。 ほら、客観的に見られるし」
「東の “古の力を持つ者” の伝承が素晴らしいのでございましょう」
「だから、それを操れる? 出来る? なんて言っていいんだろ。 とにかく、此之葉さんはすごいんですって。 自信をもって下さい」
「師匠と同じことを仰います」
くすくすと笑いながら此之葉が言う。
「独唱様と同じことですか?」
「私に足りないのは自信だといつも言われております」
「あはは、私とよく似てる」
「え?」
「北に居る時に散々言われました。 自覚が無いって。 自分を信じること、自分を覚ること。 似てますよね?」
指を一本ずつ立てて今はピースの状態だ。
「手を出して下さい」
似てないかなぁ、と言いながらピースを閉じて自分の両手を此之葉の前に出した。
此之葉がそっと両手を出す。 その両手を紫揺の手が包み込む。 緊張からか冷たくなっていた此之葉の手が温められる。
すると紫揺の包み込んでいる指の間からふわりと純白の小さな花の蕾が顔を出した。 そして五枚の花弁を開き花芯は紅色であるが、毒々しさはなく落ち着ける色である。 その茎が十センチほどに伸びた。 緑の丸みを帯びた葉が細い茎に従っている。 それと同時に他の指の間から何本も同じ花が顔を出す。 中には薄くピンクがかった色をしている花もある。
此之葉が驚いて息を飲んだ。
「此之葉さんは出来るんだから、ね? お花が証明してくれてます」
花を見ていた此之葉が目を大きくして紫揺を見る。
「ウソの励ましなんて無いのと一緒だし、白々しいし。 それにそんなの好きじゃないし。 でね、此之葉さんの手を握った時に此之葉さんの手に心の中で訊いたの。 此之葉さんは自信が無いんだって。 だから此之葉さんに力があるなら返事してって」
「・・・」
「これが返事みたいですよ」
今は手の上で一つの花束になっている。 まるで二人でブーケを持っているようだ。
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少々不服は残ったものの、トレーニングルームで元気に遊び終え、此之葉の部屋を訪ねた紫揺。
「食べられました?」
「・・・はい」
後半は醍十に鼻をつままれてイヤでも口を開けずにはいられない状態にまでされた、とは言えない。 何故ならその醍十が此之葉の部屋で夜景にはまだ少し早い風景を眺めているのだから。
「ちゃんと全部食べました」
窓の外を見ながら涼しい顔で醍十が言う。
一瞬醍十の背中を見た二人。 他のお付きなら背中を見せたまま紫揺に話さないだろう。 どちらも苦笑いしかない。
「温泉に行きません?」
「え?」
「大浴場でゆっくり浸かって疲れをとりましょう? 露天もあるみたいだし、少なくとも今日の連絡はない筈ですから、そんな時にゆっくりしなくちゃ、ね」
「おお、それはいい。 此之葉、中まではついて行ってやれないが、入口までは抱っこして行ってやるから、ゆっくりと浸かってこい。 紫さま、あとは此之葉を頼みます」
「え? 入口まではって、此之葉さんそんなに具合が悪いの?」
「いいえ、醍十が大袈裟なんです」
紫揺にそう言うと、醍十に目を移した。
「醍十、紫さまにご心配をお掛けするようなことを言わないでください。 ちゃんと歩けます」
「そっかぁ? 一人で歩いて行けるかぁ?」
食事の時のアーンではないが、醍十が此之葉のことを大切にしているのがよく分かる。
「醍十さん大丈夫です。 ちゃんと私が見てますから」
「では、くれぐれも頼みます。 此之葉、阿秀の部屋に居るから、風呂から戻ってきたら知らせるんだぞ」
紫揺と此之葉の部屋はそれぞれ阿秀と同じ階である。
「・・・分かりました」
醍十が出て行くと此之葉が大きく溜息を吐いた。
「醍十さん、此之葉さんのことが心配なんですね」
「赤子扱いです」
顔色が悪かった時に簀巻きにされたことが頭をよぎる。 そしてアーンだ。
「その・・・食事の時からずっと醍十さんが居たんですか?」
「はい」
「何ともないんですか?」
「何とも? とは?」
小首をかしげる。
「えっと、一人になれないとか、見張られてるみたいだとか・・・」
紫揺の言いたいことが分かった。
「一人になりたい時もありますが醍十はそれを邪魔しません。 醍十が居ても気にならないと言いましょうか、ですから見張られているとも思いません」
「そうなんだ」
「醍十に甘えているとは思っています」
「え? どうしてですか?」
「特に食事のことは。 シノ機械に居る時には少しでも私の口に合うようにと、醍十が添加物のない手作りのお店を探して買ってきてくれていましたし、さっきもそうです。 疲れるとこちらの物をあまり食べたくなくなるのを醍十は知っています。 醍十に心配をかけているのは分かっているんですけど、それに甘えてしまっています」
「そうなんだ」
「紫さま? 他の者もそうです。 醍十が私を心配してくれているように、みなが紫さまを安じています。 どうか、見張られているとはお考えになられませんように」
心の内を読み取られたようだ。
「うーん・・・。 努力します。 じゃ、行きましょうか。 具合が悪くなりそうならいつでも言って下さいね」
「有難うございます」
此之葉の部屋を出た醍十。 隠れ潜んでいた若冲と梁湶に声を掛ける。
「紫さまは此之葉と一緒に温泉に行かれるぞぉ」
この日の若冲と梁湶の拷問が終わった。
此之葉に疲れがなくなったのか、紫揺を朝食に誘いに来た。 バイキング方式のレストランで朝食を済ませ、ホテルの庭を散策することにした。 此之葉がついているということで、お付きは誰も付くことは無かったが気が気ではいられない。
「北の脅威がなくなったはずだと言ってもなぁ・・・」
悠蓮が窓越しに紫揺と此之葉を見ている。
「ああ、何をなさるか分からんからなぁ」
こちらの方が北の脅威よりすさまじいかもしれない、悠蓮の横に立つ梁湶が心の中で言う。
「阿秀はどうしたんだ?」
悠蓮と梁湶から離れてソファーに腰を掛けている野夜が言う。
「パソコンをいじってた」 正面に座る湖彩。
「調べることなんてもうないだろう」 湖彩の横に座る若冲。
「知らないよ。 それより醍十は?」
「朝風呂ならず朝温泉。 空いてるだろうって。 泳いでくるとかって言ってたな」 醍十と同部屋の若冲。
「あんなデカイのが泳いだら温泉がなくなっ・・・」
湖彩が言いかけて途中で止めた。
三人が目を合わし、背もたれから背を外すと前屈みになって顔を突き合わせるようにした。
「どうしてそんなことを醍十が急に言うんだ?」
ある仮定を頭に置きながら野夜が疑問を若冲に呈する。
「そうだな。 今までそんなことをしたことがない。 ・・・夕べ、紫さまと此之葉が温泉に入った後、醍十と此之葉が話してた・・・よな?」
こちらも仮定が頭をかすめる。
「まさか・・・」
「昨日の温泉で・・・」
「紫さまが泳がれた・・・?」
三人の頭がガクッと落ちた。
領主の家にボストン型のスポーツバッグを置いてきたのは失敗だった。 寝る時にはホテルの浴衣を着ればいいし、Gパンは洗濯したものに穿き替えられなくても我慢は出来る。 薄手の長Tは部屋に戻ってすぐに洗って干しておけば乾くが、残念ながら下着の替えがない。
夕べは浴衣一枚で寝て、下着も洗って干しておいたが、温泉から上がって脱いだ下着をまたつけるというのは気持ちのいいものではなかった。
そしてそれを見ていた此之葉が今朝、客室係に下着を売っている所を教えて欲しいと言うと、客室係がすぐに地図と真新しい下着を一セット持ってきた。
「こちらで宜しければお使いください。 お気に召されないようでしたら、こちらの地図の赤い印の所で売っております」
客室係は此之葉の替えと思ったのだろう。 此之葉は見るからにAカップ。 そして紫揺も間違いなくA。 似た体形で事がおさまった。
そんな話をし、笑いながら始まった散策は、紫揺が先に領土を出た後、此之葉が再度唱和の元に向かい細かな話を聞いたものを紫揺に聞かせながらの硬い表情となる庭の散策であった。
そしてそれから三日後まで、此之葉が紫揺に付くことで、紫揺の暴走を見ることなく治まっていた。
その三日後、阿秀は塩見夫人の目があるかもしれないと、梁湶と二人でレストランに入り、あとの者は全員で、紫揺と此之葉は連れ立ってレストランに入った。 それぞれが朝食を終わらせ部屋に戻る途中の廊下で阿秀のスマホが鳴った。 画面には “北” と出ている。
後ろの方で紫揺が此之葉と談笑しながら歩いている。
「北からだ。 紫さまを私の部屋まで先にお連れしてくれ」
梁湶にカードキーを渡す。
梁湶が紫揺に向かって走り出したのを見て、更に後ろを歩いていた五人が走り寄ってきた。
「紫さま、連絡がありました。 急ぎ阿秀の部屋にお願い致します」
頷いた紫揺が壁に向かって立っている阿秀の後を走りぬく。 残された此之葉の顔には緊張が浮かんでいる。
「はい。 紫さまの代理で御座います」
『あ・・・シユラさ・・・ムラサキ様はいらっしゃいませんか』
「すぐに折り返しこちらからお掛け直し致しますので、そちらでお待ちください」
『・・・はい、お願い致します』
スマホを切ると此之葉を気にしながら歩いてきた醍十に「此之葉も私の部屋に連れて来てくれ」 と言い残して足早に自分の部屋に向かった。
部屋に戻るとすぐにかかってきた番号に掛け直し、スマホを紫揺に渡した。
コール音が一つ目の途中でセノギが電話に出た。
「セノギさん?」
『はい。 お待たせして申し訳ありませんでした。 一時間ほど前に戻ってきました。 疲れが激しかったので、今まで休ませておりましたが、もういつでも動けるとのことです』
「分かりました。 今からここを出ますので・・・」
チラッと阿秀を見た。
口パクで一時間半と言い、指を一本と、三本にして立てた。
「一時間半後くらいにそちらに着くと思います。 影の人達と桟橋で待っていてください」
『セキはどう致しましょう』
前回来た時に紫揺がセキとガザンに会うと言っていたが、何があるのか全く分からないし、影をセキに見せるわけにいかない。
「セキュリティー代わりのドーベルマンはどうなりました?」
忌々しい犬のことと分かった六人が目を合わす。
『こちらにはもう居りません』
「じゃあ、ガザンを連れて門のところで待ってもらえるように言ってもらえますか? そうですね・・・、セノギさん達が来る時間から二時間ほど後に。 何もかも終わったらセキちゃんとガザンに会いたいので。 待たせるかもしれないって言っておいてください」
『承知いたしました。 他に何かご御座いませんか?』
「そうですねぇ・・・。 その影と言われる方々に女性はいらっしゃいますか?」
「はい。 二名が女性です」
本領での封じ込めを解かれた後の唱和の姿が頭に浮かぶ。
年齢的なことがあったのかもしれないが、痛みは引いたはずなのに、足元も及ばず立つことすらもままならない程だった。 それにかなりのショックを受けていた。 それを見かねた四方が唱和を横にならせたほどで、唱和自身も暫く意識を遠くに預けていたほどだった。
「ちょっとショックがあるかもしれませんから・・・バスタオル・・・いえ、タオルケットか何かを。 身体を包み込めるものを二枚と・・・タオルを五枚お願いできますか?」
『承知いたしました。 以上で宜しいですか?』
「はい」
他に何か言わなくちゃならないことがあるだろうかと考えるが、思いつきそうにない。 どうして事前に考えていなかったのかと、自分を罵ってしまいそうになるが、何を言っても後の祭りだ。
『では、お待ちしております』
スマホを阿秀に返す。 携帯の切り方など知らない。 阿秀が通話を切る。
「ではすぐに出ましょう」
梁湶がタクシーを呼ぶようにフロントに連絡を入れる。
「このままチェックアウトをする。 フロントで待ち合わせだ」
ここに戻ってくる気はないようだ。 それぞれが荷物を取りにエレベーターに向かった。
「紫さまもお荷物をお持ちください」
部屋から出てきた紫揺と此之葉を連れて阿秀がフロントに現れた。 まだ六人は来ていなかったが、タクシーが三台並んでいるのが見える。
すぐに六人もフロントまでやって来て阿秀がチェックアウトを済ませるとタクシーに乗り込んだ。
タクシーを降り桟橋に行くと若冲の第一声がいとも嬉しそうに口から出た。
「操縦しがいがあるなぁ」
操舵席を見上げて言う。
ずっと乗っていたクルーザーもそこそこの大きさだが年式が違う。 これは新艇に近い。
「お借りしているものだから丁寧に頼むぞ」
キーを若冲に渡す。
「了解」
全員が船に乗り込むことが必要かと考えたが、いくら北に紫揺を攫う意思がなくなったとはいえ、やはり安心できるものではない。 全員で船に乗り込むこととした。
紫揺と此之葉はラウンジに居る。 男たちはデッキに出ている。
「此之葉さん、五人だけど大丈夫?」
「唱和様がかけられていたものと同じであればなんという事はありませんが、唱和様のかけられた術に、東の先代師匠に教わった術が少しでも入っていれば簡単にはいかないかもしれません」
着替えた後それが気になり、東の領土を発つ前に唱和に確認に行ったという。 だが当の唱和は、眉間にある皺を更に寄せてそこのところは曖昧だと言ったという。
「唱和様に掛けられていた封じ込めは完成されていませんでした」
「・・・」
「最後の言葉を北の “古の力を持つ者” に伝承されなかったのか、忘れてしまったのかは分かりませんが、きっと唱和様の身に術が解けかけてきては何度か封じ込めをかけられたと思います。 その為に完成されていない術だと言っても、二重三重になれば強固なものになります。 それが原因で記憶が混濁されているのだと思います」
「そんなことまで分かるんですか・・・。 じゃあ、その度にご自分の名前を?」
「はい、そうだと思います。 最初に御名だけはと思われた抵抗が強かったのでしょう。 何度かけられても、御名だけはお忘れにならなかったのだと思います」
「そんな強い力を持った唱和様がかけた封じ込めだったら・・・」
「今から考えても詮無いこととは分かっておりますが・・・」
(そうか、それでホテルに来た時に沈んだ顔だったのか)
たしかに疲れもあっただろうが、不安が更に疲れの背を押していたのかもしれない。
「何にも協力できなくてごめんなさい」
「そ、そのようなことは」
慌てて首を振る。
「でも、やっぱり此之葉さんはすごい。 唱和様は二重三重にかけられたんでしょ? で、それは強固なものになった。 それを簡単に解いちゃったんだもん」
「あ、いいえ、言葉を間違えたかもしれません」
まるで自分の力が大いなるものと言ったようなものだ。
「私は目の前で見たんですよ? こういうのって本人より第三者の方がよく分かるんじゃないかな。 ほら、客観的に見られるし」
「東の “古の力を持つ者” の伝承が素晴らしいのでございましょう」
「だから、それを操れる? 出来る? なんて言っていいんだろ。 とにかく、此之葉さんはすごいんですって。 自信をもって下さい」
「師匠と同じことを仰います」
くすくすと笑いながら此之葉が言う。
「独唱様と同じことですか?」
「私に足りないのは自信だといつも言われております」
「あはは、私とよく似てる」
「え?」
「北に居る時に散々言われました。 自覚が無いって。 自分を信じること、自分を覚ること。 似てますよね?」
指を一本ずつ立てて今はピースの状態だ。
「手を出して下さい」
似てないかなぁ、と言いながらピースを閉じて自分の両手を此之葉の前に出した。
此之葉がそっと両手を出す。 その両手を紫揺の手が包み込む。 緊張からか冷たくなっていた此之葉の手が温められる。
すると紫揺の包み込んでいる指の間からふわりと純白の小さな花の蕾が顔を出した。 そして五枚の花弁を開き花芯は紅色であるが、毒々しさはなく落ち着ける色である。 その茎が十センチほどに伸びた。 緑の丸みを帯びた葉が細い茎に従っている。 それと同時に他の指の間から何本も同じ花が顔を出す。 中には薄くピンクがかった色をしている花もある。
此之葉が驚いて息を飲んだ。
「此之葉さんは出来るんだから、ね? お花が証明してくれてます」
花を見ていた此之葉が目を大きくして紫揺を見る。
「ウソの励ましなんて無いのと一緒だし、白々しいし。 それにそんなの好きじゃないし。 でね、此之葉さんの手を握った時に此之葉さんの手に心の中で訊いたの。 此之葉さんは自信が無いんだって。 だから此之葉さんに力があるなら返事してって」
「・・・」
「これが返事みたいですよ」
今は手の上で一つの花束になっている。 まるで二人でブーケを持っているようだ。