大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第204回

2020年11月30日 22時03分24秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第204回



少々不服は残ったものの、トレーニングルームで元気に遊び終え、此之葉の部屋を訪ねた紫揺。

「食べられました?」

「・・・はい」

後半は醍十に鼻をつままれてイヤでも口を開けずにはいられない状態にまでされた、とは言えない。 何故ならその醍十が此之葉の部屋で夜景にはまだ少し早い風景を眺めているのだから。

「ちゃんと全部食べました」

窓の外を見ながら涼しい顔で醍十が言う。

一瞬醍十の背中を見た二人。 他のお付きなら背中を見せたまま紫揺に話さないだろう。 どちらも苦笑いしかない。

「温泉に行きません?」

「え?」

「大浴場でゆっくり浸かって疲れをとりましょう? 露天もあるみたいだし、少なくとも今日の連絡はない筈ですから、そんな時にゆっくりしなくちゃ、ね」

「おお、それはいい。 此之葉、中まではついて行ってやれないが、入口までは抱っこして行ってやるから、ゆっくりと浸かってこい。 紫さま、あとは此之葉を頼みます」

「え? 入口まではって、此之葉さんそんなに具合が悪いの?」

「いいえ、醍十が大袈裟なんです」

紫揺にそう言うと、醍十に目を移した。

「醍十、紫さまにご心配をお掛けするようなことを言わないでください。 ちゃんと歩けます」

「そっかぁ? 一人で歩いて行けるかぁ?」

食事の時のアーンではないが、醍十が此之葉のことを大切にしているのがよく分かる。

「醍十さん大丈夫です。 ちゃんと私が見てますから」

「では、くれぐれも頼みます。 此之葉、阿秀の部屋に居るから、風呂から戻ってきたら知らせるんだぞ」

紫揺と此之葉の部屋はそれぞれ阿秀と同じ階である。

「・・・分かりました」

醍十が出て行くと此之葉が大きく溜息を吐いた。

「醍十さん、此之葉さんのことが心配なんですね」

「赤子扱いです」

顔色が悪かった時に簀巻きにされたことが頭をよぎる。 そしてアーンだ。

「その・・・食事の時からずっと醍十さんが居たんですか?」

「はい」

「何ともないんですか?」

「何とも? とは?」

小首をかしげる。

「えっと、一人になれないとか、見張られてるみたいだとか・・・」

紫揺の言いたいことが分かった。

「一人になりたい時もありますが醍十はそれを邪魔しません。 醍十が居ても気にならないと言いましょうか、ですから見張られているとも思いません」

「そうなんだ」

「醍十に甘えているとは思っています」

「え? どうしてですか?」

「特に食事のことは。 シノ機械に居る時には少しでも私の口に合うようにと、醍十が添加物のない手作りのお店を探して買ってきてくれていましたし、さっきもそうです。 疲れるとこちらの物をあまり食べたくなくなるのを醍十は知っています。 醍十に心配をかけているのは分かっているんですけど、それに甘えてしまっています」

「そうなんだ」

「紫さま? 他の者もそうです。 醍十が私を心配してくれているように、みなが紫さまを安じています。 どうか、見張られているとはお考えになられませんように」

心の内を読み取られたようだ。

「うーん・・・。 努力します。 じゃ、行きましょうか。 具合が悪くなりそうならいつでも言って下さいね」

「有難うございます」


此之葉の部屋を出た醍十。 隠れ潜んでいた若冲と梁湶に声を掛ける。

「紫さまは此之葉と一緒に温泉に行かれるぞぉ」

この日の若冲と梁湶の拷問が終わった。


此之葉に疲れがなくなったのか、紫揺を朝食に誘いに来た。 バイキング方式のレストランで朝食を済ませ、ホテルの庭を散策することにした。 此之葉がついているということで、お付きは誰も付くことは無かったが気が気ではいられない。

「北の脅威がなくなったはずだと言ってもなぁ・・・」

悠蓮が窓越しに紫揺と此之葉を見ている。

「ああ、何をなさるか分からんからなぁ」

こちらの方が北の脅威よりすさまじいかもしれない、悠蓮の横に立つ梁湶が心の中で言う。

「阿秀はどうしたんだ?」

悠蓮と梁湶から離れてソファーに腰を掛けている野夜が言う。

「パソコンをいじってた」 正面に座る湖彩。

「調べることなんてもうないだろう」 湖彩の横に座る若冲。

「知らないよ。 それより醍十は?」

「朝風呂ならず朝温泉。 空いてるだろうって。 泳いでくるとかって言ってたな」 醍十と同部屋の若冲。

「あんなデカイのが泳いだら温泉がなくなっ・・・」

湖彩が言いかけて途中で止めた。
三人が目を合わし、背もたれから背を外すと前屈みになって顔を突き合わせるようにした。

「どうしてそんなことを醍十が急に言うんだ?」

ある仮定を頭に置きながら野夜が疑問を若冲に呈する。

「そうだな。 今までそんなことをしたことがない。 ・・・夕べ、紫さまと此之葉が温泉に入った後、醍十と此之葉が話してた・・・よな?」

こちらも仮定が頭をかすめる。

「まさか・・・」

「昨日の温泉で・・・」

「紫さまが泳がれた・・・?」

三人の頭がガクッと落ちた。


領主の家にボストン型のスポーツバッグを置いてきたのは失敗だった。 寝る時にはホテルの浴衣を着ればいいし、Gパンは洗濯したものに穿き替えられなくても我慢は出来る。 薄手の長Tは部屋に戻ってすぐに洗って干しておけば乾くが、残念ながら下着の替えがない。

夕べは浴衣一枚で寝て、下着も洗って干しておいたが、温泉から上がって脱いだ下着をまたつけるというのは気持ちのいいものではなかった。

そしてそれを見ていた此之葉が今朝、客室係に下着を売っている所を教えて欲しいと言うと、客室係がすぐに地図と真新しい下着を一セット持ってきた。

「こちらで宜しければお使いください。 お気に召されないようでしたら、こちらの地図の赤い印の所で売っております」

客室係は此之葉の替えと思ったのだろう。 此之葉は見るからにAカップ。 そして紫揺も間違いなくA。 似た体形で事がおさまった。

そんな話をし、笑いながら始まった散策は、紫揺が先に領土を出た後、此之葉が再度唱和の元に向かい細かな話を聞いたものを紫揺に聞かせながらの硬い表情となる庭の散策であった。


そしてそれから三日後まで、此之葉が紫揺に付くことで、紫揺の暴走を見ることなく治まっていた。

その三日後、阿秀は塩見夫人の目があるかもしれないと、梁湶と二人でレストランに入り、あとの者は全員で、紫揺と此之葉は連れ立ってレストランに入った。 それぞれが朝食を終わらせ部屋に戻る途中の廊下で阿秀のスマホが鳴った。 画面には “北” と出ている。
後ろの方で紫揺が此之葉と談笑しながら歩いている。

「北からだ。 紫さまを私の部屋まで先にお連れしてくれ」

梁湶にカードキーを渡す。
梁湶が紫揺に向かって走り出したのを見て、更に後ろを歩いていた五人が走り寄ってきた。

「紫さま、連絡がありました。 急ぎ阿秀の部屋にお願い致します」

頷いた紫揺が壁に向かって立っている阿秀の後を走りぬく。 残された此之葉の顔には緊張が浮かんでいる。

「はい。 紫さまの代理で御座います」

『あ・・・シユラさ・・・ムラサキ様はいらっしゃいませんか』

「すぐに折り返しこちらからお掛け直し致しますので、そちらでお待ちください」

『・・・はい、お願い致します』

スマホを切ると此之葉を気にしながら歩いてきた醍十に「此之葉も私の部屋に連れて来てくれ」 と言い残して足早に自分の部屋に向かった。

部屋に戻るとすぐにかかってきた番号に掛け直し、スマホを紫揺に渡した。
コール音が一つ目の途中でセノギが電話に出た。

「セノギさん?」

『はい。 お待たせして申し訳ありませんでした。 一時間ほど前に戻ってきました。 疲れが激しかったので、今まで休ませておりましたが、もういつでも動けるとのことです』

「分かりました。 今からここを出ますので・・・」

チラッと阿秀を見た。
口パクで一時間半と言い、指を一本と、三本にして立てた。

「一時間半後くらいにそちらに着くと思います。 影の人達と桟橋で待っていてください」

『セキはどう致しましょう』

前回来た時に紫揺がセキとガザンに会うと言っていたが、何があるのか全く分からないし、影をセキに見せるわけにいかない。

「セキュリティー代わりのドーベルマンはどうなりました?」

忌々しい犬のことと分かった六人が目を合わす。

『こちらにはもう居りません』

「じゃあ、ガザンを連れて門のところで待ってもらえるように言ってもらえますか? そうですね・・・、セノギさん達が来る時間から二時間ほど後に。 何もかも終わったらセキちゃんとガザンに会いたいので。 待たせるかもしれないって言っておいてください」

『承知いたしました。 他に何かご御座いませんか?』

「そうですねぇ・・・。 その影と言われる方々に女性はいらっしゃいますか?」

「はい。 二名が女性です」

本領での封じ込めを解かれた後の唱和の姿が頭に浮かぶ。
年齢的なことがあったのかもしれないが、痛みは引いたはずなのに、足元も及ばず立つことすらもままならない程だった。 それにかなりのショックを受けていた。 それを見かねた四方が唱和を横にならせたほどで、唱和自身も暫く意識を遠くに預けていたほどだった。

「ちょっとショックがあるかもしれませんから・・・バスタオル・・・いえ、タオルケットか何かを。 身体を包み込めるものを二枚と・・・タオルを五枚お願いできますか?」

『承知いたしました。 以上で宜しいですか?』

「はい」

他に何か言わなくちゃならないことがあるだろうかと考えるが、思いつきそうにない。 どうして事前に考えていなかったのかと、自分を罵ってしまいそうになるが、何を言っても後の祭りだ。

『では、お待ちしております』

スマホを阿秀に返す。 携帯の切り方など知らない。 阿秀が通話を切る。

「ではすぐに出ましょう」

梁湶がタクシーを呼ぶようにフロントに連絡を入れる。

「このままチェックアウトをする。 フロントで待ち合わせだ」

ここに戻ってくる気はないようだ。 それぞれが荷物を取りにエレベーターに向かった。

「紫さまもお荷物をお持ちください」

部屋から出てきた紫揺と此之葉を連れて阿秀がフロントに現れた。 まだ六人は来ていなかったが、タクシーが三台並んでいるのが見える。
すぐに六人もフロントまでやって来て阿秀がチェックアウトを済ませるとタクシーに乗り込んだ。

タクシーを降り桟橋に行くと若冲の第一声がいとも嬉しそうに口から出た。

「操縦しがいがあるなぁ」

操舵席を見上げて言う。
ずっと乗っていたクルーザーもそこそこの大きさだが年式が違う。 これは新艇に近い。

「お借りしているものだから丁寧に頼むぞ」

キーを若冲に渡す。

「了解」

全員が船に乗り込むことが必要かと考えたが、いくら北に紫揺を攫う意思がなくなったとはいえ、やはり安心できるものではない。 全員で船に乗り込むこととした。
紫揺と此之葉はラウンジに居る。 男たちはデッキに出ている。

「此之葉さん、五人だけど大丈夫?」

「唱和様がかけられていたものと同じであればなんという事はありませんが、唱和様のかけられた術に、東の先代師匠に教わった術が少しでも入っていれば簡単にはいかないかもしれません」

着替えた後それが気になり、東の領土を発つ前に唱和に確認に行ったという。 だが当の唱和は、眉間にある皺を更に寄せてそこのところは曖昧だと言ったという。

「唱和様に掛けられていた封じ込めは完成されていませんでした」

「・・・」

「最後の言葉を北の “古の力を持つ者” に伝承されなかったのか、忘れてしまったのかは分かりませんが、きっと唱和様の身に術が解けかけてきては何度か封じ込めをかけられたと思います。 その為に完成されていない術だと言っても、二重三重になれば強固なものになります。 それが原因で記憶が混濁されているのだと思います」

「そんなことまで分かるんですか・・・。 じゃあ、その度にご自分の名前を?」

「はい、そうだと思います。 最初に御名だけはと思われた抵抗が強かったのでしょう。 何度かけられても、御名だけはお忘れにならなかったのだと思います」

「そんな強い力を持った唱和様がかけた封じ込めだったら・・・」

「今から考えても詮無いこととは分かっておりますが・・・」

(そうか、それでホテルに来た時に沈んだ顔だったのか)

たしかに疲れもあっただろうが、不安が更に疲れの背を押していたのかもしれない。

「何にも協力できなくてごめんなさい」

「そ、そのようなことは」

慌てて首を振る。

「でも、やっぱり此之葉さんはすごい。 唱和様は二重三重にかけられたんでしょ? で、それは強固なものになった。 それを簡単に解いちゃったんだもん」

「あ、いいえ、言葉を間違えたかもしれません」

まるで自分の力が大いなるものと言ったようなものだ。

「私は目の前で見たんですよ? こういうのって本人より第三者の方がよく分かるんじゃないかな。 ほら、客観的に見られるし」

「東の “古の力を持つ者” の伝承が素晴らしいのでございましょう」

「だから、それを操れる? 出来る? なんて言っていいんだろ。 とにかく、此之葉さんはすごいんですって。 自信をもって下さい」

「師匠と同じことを仰います」

くすくすと笑いながら此之葉が言う。

「独唱様と同じことですか?」

「私に足りないのは自信だといつも言われております」

「あはは、私とよく似てる」

「え?」

「北に居る時に散々言われました。 自覚が無いって。 自分を信じること、自分を覚ること。 似てますよね?」

指を一本ずつ立てて今はピースの状態だ。

「手を出して下さい」

似てないかなぁ、と言いながらピースを閉じて自分の両手を此之葉の前に出した。
此之葉がそっと両手を出す。 その両手を紫揺の手が包み込む。 緊張からか冷たくなっていた此之葉の手が温められる。

すると紫揺の包み込んでいる指の間からふわりと純白の小さな花の蕾が顔を出した。 そして五枚の花弁を開き花芯は紅色であるが、毒々しさはなく落ち着ける色である。 その茎が十センチほどに伸びた。 緑の丸みを帯びた葉が細い茎に従っている。 それと同時に他の指の間から何本も同じ花が顔を出す。 中には薄くピンクがかった色をしている花もある。

此之葉が驚いて息を飲んだ。

「此之葉さんは出来るんだから、ね? お花が証明してくれてます」

花を見ていた此之葉が目を大きくして紫揺を見る。

「ウソの励ましなんて無いのと一緒だし、白々しいし。 それにそんなの好きじゃないし。 でね、此之葉さんの手を握った時に此之葉さんの手に心の中で訊いたの。 此之葉さんは自信が無いんだって。 だから此之葉さんに力があるなら返事してって」

「・・・」

「これが返事みたいですよ」

今は手の上で一つの花束になっている。 まるで二人でブーケを持っているようだ。

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虚空の辰刻(とき)  第203回

2020年11月27日 21時53分22秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第203回



そろりそろりと陰から姿を現した梁湶。

「あ・・・ええ。 そろそろ」

姿を現したのもそろりそろりなら、台詞もそろりそろりと言いながら歩き出し、阿秀の元までやって来た。

「あら、あなたは確か・・・」

「ええ、一度お目にかかっておりますかと。 昨夜はこの梁湶と夜のクルージングを楽しませて頂きました。 二人でだけでしたのに、あのような立派なクルーザーをご用意下さいまして」

「まぁ、早速でしたのね。 楽しまれました?」

梁湶を見て言う。

「ええ、充分に」

どんなご立派な船だったんだよ、と今にも突っ込みたくなる。

「本当に仲がおよろしいのね。 ご婚約おめでとう。 海外に発つ前に日本海を見ておきたかったそうね。 阿秀は気にしているようだけど、気にせず使ってちょうだい」

「有難うございます。 阿秀、時間が」

阿秀に合わせて言うが、なんの時間だよっ! と言いたくなる。 ってか、ご婚約? はい?

「では、申し訳ありません。 色々と準備がございまして」

「気にしないで。 わたしが勝手に訪ねてきたのですもの」

コンシェルジュに目を合わせた阿秀。 すぐにコンシュルジュがやって来た。

「女性が持たれるには少々重いでしょう。 お運びしてさしあげてください」

「畏まりました」

コンシュルジュが頷き、塩見夫人に向き直った。

「では、後ほどご連絡を」

「待ってるわ」

阿秀が梁湶の背中を押すと二人で歩き始めた。 若冲がまるでその辺りを歩いている者の振りをして二人の後を追う。

阿秀の部屋に戻ると若冲は立ち聞きしていたことを責められるかと思って口を閉ざしていたが、梁湶はそんなことなど頭の片隅にもなく、反対に阿秀を責めたてた。

「阿秀、どういうことだよ。 付き合ってたのか!」

「どういうことかと、付き合っていたのか、ということは別の質問か同じ質問かどっちだ」

「たー! なんだよそれ。 付き合ってたのか!?」

「いいや」

たったの一言で答える。

「じゃ、じゃあ、どういうことだよ!」

「別々の質問だったようだな」

「どうなんだよ!」

梁湶の物言いに、若冲の背中に一本の冷たい汗がすっと走る。

「船を借りた。 あの船着き場周辺にも連絡をしてみたんだが空いている船がなくてな。 彼女の夫はマリンクラブを幾つか所有している。 で、頼んだということだ。 有難くもあの船着き場まで移動してきてくれた。 礼の一つもするのが筋だろう」

「あ?」

「・・・そういうことです、か」

黙っていた若冲がやっと声を出した。

「なんだと思った?」

さっきまで梁湶を見ていた阿秀の目が若冲を見る。

「い、いや、俺を見ないでくださいよ。 責めるんなら梁湶にして下さい」

「立ち聞きしていたのは二人だと思うんだが?」

「それならそうと始めったから言ってくれればよかったんですよ。 若冲なんか、阿秀がドップリと浸かってるんじゃないかって心配してたんですから」

落ち着いたのだろうか、梁湶の物言いがいつもに戻っている。

「先に言っていても、立ち聞きをしてただろう。 違うか?」

「ま・・・まあ、そうかも・・・ウグッ」

若冲の肘鉄が梁湶の横腹に入った。

「立ち聞きのことは謝ります。 すみませんでした。 その、阿秀は領土に帰るんですよね?」

「当然だ」

「それを聞けて安心しました」

阿秀が表情を和らげて若冲に言う。

「当たり前だろう。 この土地でずっと臭い台詞を吐いているとでも思ったのか?」

阿秀に対して “クッサー” と言った若冲の台詞が聞こえていたらしい。

「あ・・・」

明後日を向くしかない。

「梁湶、梁湶が婚約をしてその祝いに私と数日海に出ることになっている。 そのあとは結婚をして海外で暮らす。 万が一にも彼女と出くわすことがあれば合わせてくれ」

「は?」

「金はどうなってる」

この人数、ホテル代や移動代はかなりのものだ。
つい先ほどまでのことも、今のことすらも無かったように急に振られた梁湶。 その梁湶も阿秀と同じように仕事の顔になった。

「これが最後でしょう。 十分に残ってます」

北のことが終わればもう日本に足を踏み入れることは無い。 金など要らない。 だが誰もが同じことを考える。 その時に紫揺がどちらを選ぶのか。

「そうか。 悪いが私の方の残金が尽きてきている。 早急にいくらか入れておいてくれ」

今回のように紫揺と共に行動した阿秀は、もちろん阿秀が金を出しているが、全員で行動している時にも阿秀が出している。

阿秀と別行動では梁湶が全員の分の金を出しているが、前回のように船着き場からそれぞれバラバラに動いたような時にはそれぞれの口座から金を出している。
カードを使う者、現金のみの者とそれは自由だ。 そして口座に残金が少なくなってくれば、金の管理をしている梁湶に要請して振り込んでもらうようになっているが、阿秀以外にはそんなことは今までに無いことである。

全員で動く時には阿秀が全ての支払いをしているということは、領土を出てから紫揺と会えるまではずっとホテル生活をしていたのだから、ホテル代も高くついただろう。 阿秀の口座の残金が少なくなってきても仕方のないこと。 今回のホテル代も全員の分が阿秀の口座から落ちるのだから、補充しておかねばならないだろう。

「了解」

ホテルにATMなどなかったはずだ。 どこかの銀行に走るしかない。

阿秀に対して梁湶や若冲その他の者も、決して決められた主従関係ではないが、阿秀の指示に待ち従うという依頼心がある。 それは自立心がないのではなく、阿秀に向けられた信頼、信用である。

「いい時間だな、そろそろ紫さまが退屈になられるだろう」

若冲の顔色から一気に血の気がなくなる。

「若冲では厳しいか・・・。 野夜と悠蓮を湖彩と共に紫さまにつかせるように言ってくれ」

「了解」

有難くも己を省いてもらった若冲が返答をする。

そして数分後、間違いなく紫揺が部屋のドアを開けたのだった。


「此之葉さん大丈夫?」

紫揺の逃亡も奇行もなく、単に物珍しくホテルの中を歩き回っただけで終り、湖彩をはじめとする以下二名が胸をなでおろした、その後の夕飯のルームサービスの席である。

紫揺は自分の部屋でさっさと食べ終えたが、こういう時には必ず此之葉が部屋を訪ねてくるはずだ。 その此之葉が来ないことを気にして、紫揺が此之葉の部屋を訪ねたということである。

「紫さまにご心配をお掛けするなどと・・・」 

「だから、そんな固いことは言わないで。 此之葉さんまともに食べていないんでしょ? 醍十さんから聞きました。 これからのことを考えて下さい。 食べなきゃ、力が出ないでしょ?」

「・・・この地のものは・・・」

「え?」

「この地のものをあまり食したいとは思いませんので、食欲があまり出なくて」

「・・・それって、どういう意味なんですか?」

「領土とあまりにも違いますので」

味の好みはあるだろう。 紫揺が食べた東の領土の食事は日本の食材に近いとは言い難いが、此之葉が言うように “あまりにも” ほどではないのではなかろうか。

「確かに違うようですけど、食べられなくも無いと思いますけど?」

北の領土で食べたものも、東の領土で食べたものも、日本の料理とはかけ離れていた。 だが食べられないということは無かった。

「例えて言うなら葉の味が違います。 葉の種類も違いますし、この地の葉は生きておりません」

「え?」

葉が死んでいるとでも言いたいのだろうか。

呼び鈴が鳴った。

「誰だろ」

立ち上がりかけた此之葉を制して紫揺がドアを開けた。

「あ、これは紫さま。 此之葉の具合が悪いんですか?」

醍十であった。 普通なら此之葉が出てくるはずだ。

「違いますけど・・・」

紫揺が後ろを振り返る。

「またワガママを言ってるんですか」

失礼いたします、と言って部屋に入ってしまった。

「此之葉」

「あ・・・」

目の前に置かれた食事に手をつけた痕跡がない。 

「食べなきゃならんと言ってるだろうがぁ」

スプーンを手に取り、スープをすくうと此之葉の口元に運ぶ。

「ほら、口を開けろ」

「子供ではありません」

「なら、自分で食べろ」

スプーンをくるっと回して此之葉が持てるように差し出した。
観念したのか、大きく溜息を吐いてスプーンを手に取るとスープを口に入れる。

後ろから見ていた紫揺が笑みを零して部屋を出た。 醍十は自分より此之葉のことをよく分かっているようだ。 醍十に任せておけばいいだろう。

「さて、あそこに行こうっと」

ホテルの中を歩いている時に見つけた楽しそうな場所があった。

「おい」

「ああ、今度はどこに行かれるのやら」

野夜に声を掛けられた湖彩が眉尻を下げる。

「じっとするということをご存じないのか?」

「じっとされる時は倒れられた時だ。 どっちを選ぶ?」

悠蓮に問われた野夜。

「・・・」

腕を組んで考えるが、どちらも選び難いようだ。

「おい、そこで考えるなよ。 行くぞ」

すでに湖彩の背中は遠い。

紫揺の向かった先は宿泊客が使えるようになっているトレーニングルームだった。 ルームランナー、バランスボール、バーベル、ハードル、マルチポジションベンチと他にも色々揃っている。

誰も居ない。 最初に紫揺が選んだのはヨガマットであった。 部屋の中で十分に柔軟体操はしていたが、ベッドの上でするのは納得のいけるものではなかった。
身体を曲げながら頭の中で色々と考える。

(確かに見たこともない種類の野菜が多かったけど、葉っぱの味かぁ・・・)

そこからどんどんと広がっていく。

(お婆様が子供のころ食べてた葉っぱ)

決して雑草ではない。 此之葉は “葉” と言ったのだから。

(単純に考えて農薬とかかなあ)

それだけではなく土壌や気候もあるだろう。

祖母の十歳の時の顔が頭に浮かんだ。 続けて遺影の両親の顔。 両親を別々の遺影にはしたくなかったから、両親が寄り添い微笑んでいる姿の写真を遺影としていた。

(お父さんお母さん・・・)

鼻の奥がツンとした。 それを振り切るように見上げたバーに目を移し立ち上がった。
懸垂でもする為の物だろう、見た目はぶら下がり健康器に似ているが固定されている。 その足元には台が置いてある。 台を移動してぶら下がる。

「おいおいおいおい・・・」

野夜が頭痛でもしたかのように額に手をやる。

「湖彩どうする? 懸垂くらいでは終わらないぞ」

湖彩が指示を出さなければいけない。 とんでもないことをして怪我などされたら、ましてや病院搬送にでもなったら、目も充てられない。

「・・・少し様子を見てから」

以前にそれで失敗をしている。 だが紫揺にはしたいことをさせてやりたい。

「・・・了、解」

紫揺が身体を前後に揺すった。

「だぁー、やっぱり」

野夜がガクリと肩を落とす。

少々の揺れでは何ともないのを確認して、もう少し大きく身体を振ってみた。

「いけるな」

確信するとすぐに蹴上がりで上がった。 上を見上げる。

「倒立は無理かぁ」

ほんてん倒立をしようと思うが、上に何やらぶら下がっている。 それもそうだろう、あくまでも懸垂用なのだから。 それに固定されているとはいえ、ほんてんをしたときの力に耐えられないであろう。
ゆっくり体を下ろすと順手のままで懸垂を三回してギブした。 懸垂は苦手であった。

フラットベンチの上に立つ。

「それは上に立つ物じゃないだろ・・・」

野夜がもう半分泣きそうになっている。

平均台に見立ててターンやバランスを行うが、巾的に平均台を何台も並べることになるし、高さは何分の一であろうか。

――― 面白くない。

「この長さでいけるかなぁ」

端っこに立ち過ぎるとフラットベンチがひっくり返ってしまうだろうと、フラットベンチの脚のある上に立つと、長い方に背を向け両手片足を上げる。 そのままブリッジをして着いていた残りの足がゆっくりと上がる。 前後開脚の倒立状態でいったん止まる。 いわゆる後方ブリッジ。

「・・・湖彩」

さっきから野夜があれこれと言っていたが、とうとう悠蓮も声を出した。

「あの低さだ、お怪我な・・・どっ!」

バク転をした。

勢いを殺して足はついたが、手を着いた時にフラットベンチが小声で苦情を訴えた。

「潰しちゃったらどうしようもないか」

次はバク中をしようと考えていたのに。 残念だ。
紫揺がフラットベンチから離れた。 湖彩の腰が砕けそうになっている。

「なにしてるんだ?」

後ろから声が掛かった。 若冲と梁湶である。
二人仲良く銀行に行っていた。 そこで梁湶の昔の知り合いに会って少々立ち話をしたのが運のつきだったのだろうか。

「むら―――」

野夜が言いかけた時に悠蓮が止めた。

「いや、ちょっとな。 んじゃ、湖彩、野夜行こうか」

今にも腰を抜かしそうな湖彩の脇を抱えると、野夜にも抱えろと目で合図を送り、両側から脇を抱えた湖彩を引きずるようにしてその場を後にしたかと思うと、悠蓮が振り返った。

「湖彩からだ。 後は頼むということだからな」 と言って、トレーニングルームを指さしたが、本当に湖彩が言ったかどうかは怪しいものである。

若冲と梁湶が目を合わせてからトレーニングルームを覗き込むと紫揺が居た。

「おい・・・ウソだろ・・・」

梁湶が言い、若冲は頭を抱え込みその場に座り込んでしまった。

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虚空の辰刻(とき)  第202回

2020年11月24日 21時19分05秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第202回



次に連絡があるまでホテル生活だ。 明日にでも此之葉は来るのだろうか。 阿秀の話では最初に乗ったプロペラ機、アレを逃すともう今日中にこっちには来られないということだった。

船を下り待たせてあったタクシーに乗り込むと、ホテル目指してアクセルが踏まれた。

紫揺が阿秀の様子を見ていると、機内を除いて紫揺と話す以外は殆どパソコンかスマホを手にして、どこかと連絡を取ったり、画面をクリックしたりタップしたりしている。
葉月の言葉ではないけれど、ここで生活していると、こういうものが手放せないのだろうかと思ってしまう。

紫揺自身はパソコンや携帯など一度も持ったことが無いが、タクシーの中で阿秀にスマホを借り春樹とセノギに連絡を取ることが出来た。 あの連絡が取れなかったら、未だに島に上がることが出来なかったかもしれない。

「はぁー」

思わずため息が出る。

「どうなさいました?」

やっと連絡が終わったのか、阿秀がスマホを内ポケットにしまった。

「いえ、阿秀さんって忙しいんだなって」

阿秀が微笑みを返事に代える。

「夜食になりますが何か食べていきましょうか?」

「そんなにお腹は空いてませんけど・・・」

「紫さまは小食ですね。 コンビニでお買いになったのも、サンドイッチと飲み物だけでした。 寝る前の食事は身体にいいとは言えませんが、それでももう少し何かお食べ下さい」

タクシーの運転手に、ホテル近くでこの時間に空いている食事処がないかと訊いたが、生憎とこんな時間に空いているのはこの周辺にはどこにもないと言う。 二十四時間空いているのはやはりコンビニだけだということだった。

仕方なくタクシーのままコンビニに寄って、阿秀は軽く食べると言ってサンドイッチを選び、紫揺の手にしたものを見て 「それ? で宜しいんですか?」 と思わず訊いてしまった。
紫揺は生とカスタードのダブルのクリームが入ったシュークリームと玄米茶のペットボトルを手にしていた。

「美味しそうだったから」

「栄養にはなりかねないと思いますが」 脂肪にはなるだろうが。

「はい、分かってます」 脂肪になることは。

「お疲れになられたのでしょうね」

甘いものが好きな人は、疲れた時には甘いものを食べたくなると聞いたことがある。
再度タクシーに乗りホテルに向かうとそれぞれの部屋に入った。


次の日、午後三時半ごろにやって来た此之葉とお付きたち。 その此之葉と塔弥を除く六人のお付きが阿秀の部屋にやって来た。

「塔弥はもう紫さま付きに戻ったのにどうして来なかった」

この部屋に来なかったということではなく、領主の屋敷で足を止めたということだった。
醍十が野夜にジロリと目を流す。

「醍十どうした」

「野夜が要らないことを言ったんです」

「俺だけじゃない。 湖彩もだ」

「おれは野夜ほど酷くなかった」

「待て、何を言ったんだ」

「都会の恐ろしさを聞かせただけです」

「なに? どういうことだ」

「車がバンバン走って、あっちこっちで事故が起きてて、人がはねられて、時々上から飛行機が落ちてくるぅー。 慣れていないと簡単に巻き込まれて紫さまを道ずれにしてしまうー。 アーレーって。 な、野夜」

大袈裟にアクションを入れながら再現VTRのつもりだろうか、醍十が野夜の真似でもしていると見えなくもない。

「・・・野夜」 

「ちょっとからかっただけです。 まさかあんなにドン引きするとは思ってなくて・・・冗談だって言っても信じてもらえなくて」

「まぁ、もう北は手を出してこないだろうから、七人も雁首を揃える必要はないが・・・塔弥をからかう事は以後するんじゃない」

「はい・・・」

「北が? 手を引いたんですか?」

「そうならざるを得んだろうな。 本領に紫さまのことと、この地のことを知られた。 そして残っている者を引き上げさせ、洞を潰すようにと言われたんだからな。 今はあの島の片付けで忙しいだろう。 ああ、ちなみに我が領土もだ。 洞を潰さなければならない。 領主から何も聞かなかったか?」

「此処に来る理由は大まかに聞きましたけど、俺らもあの後すぐに領土を出ましたから、詳しい話を聞いていません」

「ああ、そうだったな。 まぁ、そういう事だ。 北と違ってこちらには事情がある。 洞のことは領主が紫さまのお気が決まるまで、待っていただけるようにと本領に申し入れをされたみたいだ」

六人全員が互いの目を合わせる。 紫さまはどうされるのかと。

「それで、紫さまはなんと?」

六人を代表するかのように若冲が訊く。

「今は北のことだけをお考えになられておられるようだな」

「二つのことを一度にお考えになられないということかぁ。 お身体はあんなに自由にお動きになられるのになぁ。 不思議だぁ」

言わずと知れた醍十だが、前半はどうあれ後半のことには全員が首を縦に振る。

「そう簡単には決められんだろう。 紫さまのお立場になってみろ。 今でこそ慣れた日本だが、初めて日本に来た時のことを思い出してみろ、醍十は本当は日本の人間でした、待っている人が大勢います。 などと言われ連れて行かれてそのまま日本に居られたか?」

「うーむ・・・。 親父からある程度は聞いてたとは言え、車にもビックリしたし、まず家に鍵をかけるなんて考えられなかったからなー。 そんな時にそんなことを言われてもなぁ」

「きっと紫さまもそうだろう。 移動手段が馬車や馬。 電灯ではなく光石。 核家族の構成だったのに他人が家の中にいる。 我らが領土で生活していた以上の物がこちらには当たり前に溢れている。 それだけに我らがこちらに来て驚いた以上のことが紫さまにおありになるだろう。 人であれ物であれ、色んなものを手放さなければいけなくなる」

「そーかー。 うん、そうだよなぁ。 言われてみればそうだ。 車もそうだが、飛行機や電車を見た時にはびっくりしたし、野夜と離れることになるということかぁ」

「何で俺だよ」

「いま隣に居るから」

何だよそれ、と言いながら、野夜が横目で醍十を見てから阿秀に目を戻す。

「阿秀、さっき紫さまは北のことだけを考えてるって言ってましたけど」

「ああ」

「紫さまは先の紫さまのことを知って・・・それなのに北のことを考えられているということですか?」

野夜から目を外し長い息を吐き、一呼吸おいて口を開いた。

「紫さまからうかがったわけではないが、まず一つに、この事はあくまでも東の領土 “古の力を持つ者” からの願いということ。 そしてもう一つ、紫さまが五色様であられるということだろうな」

野夜のみならず全員が首を傾げる。

「紫さまは確かに東の領土の五色様だが、そのお心は民のことを考えておられるということだ。 領土に括られることなくな」

「それって・・・北の領土の民もってことですか?」

不服そうに訊き返した野夜だが、きっと他の者もそう考えているだろう。
阿秀が頷き続ける。

「五色様が生まれもって持たれているお心だ」

「そっかぁー、紫さまは仕返しなんてことを考えられないのかぁ」

「そうだ。 ま、わたしの推測だがな。 わたしたちはまだ五色様をよく知らんからな。 とにかく紫さまのお心は今、北の者にある。 東に戻って来て頂けるかどうかは分からない。 日本を選ばれるにしても、私達は今の紫さまのお心に添うことをせねばならん。 北の者から次の連絡があるまでは何もすることがない。 次の連絡があり次第あの島に行くが、私たちが何をするわけでもない」

「ちょっと前とエライ違いだな・・・」

紫揺を探し求めて船と車に分かれてあちこちを移動していたちょっと前。

「まあな。 だからと言って紫さまと此之葉だけという訳にはいかないからな。 此之葉はどうしている?」

そこに部屋の電話が鳴った。 梁湶が電話に出る。 横目に見ていた阿秀だが、目先を戻すと阿秀の問いに湖彩が答える。

「移動に疲れたみたいでしたから、あのあと部屋に入れました。 横になっているんじゃないでしょうか」

紫揺に挨拶を済ませた後ということである。

「そうか」

「阿秀、フロントからです」

電話を持ち上げて梁湶が言う。
眉を上げながら立ち上がり電話に出ると、何やら受け答えをし終えて電話を切った。

「ちょっと出てくる。 湖彩は紫さま、醍十は此之葉、それぞれメインで付いてくれ。 あとの者は時に応じて二人の指示で動いてくれ」

「了解」

言い終えるとベッドのヘッドボードに置いていたセカンドバッグを手に取り、中から何かを出して確認でもしているのかその何かを見ているようだが、こちらには背中を見せている。 何をしているのか、はっきりとは分からない。
セカンドバッグを元に戻す。

「キーは持って出る」

カードを見せると部屋を出て行った。 その姿を六人が無言で追っていた。

「フロントから何だって?」 若冲が訊く。

「いや、阿秀は居るかって、それだけだ」

「ふーん・・・」

「なんだろうな」 悠蓮が言う。

「阿秀が言ってただろ。 湖彩も醍十もそれぞれ紫さまと此之葉に付けよ。 特に湖彩、紫さまは何をなさるか分からないぞ」 梁湶だ。

「言えてるな。 今もお部屋にいらっしゃるかどうかわからんな」 若冲。

「や、やめてくれよ」

顔色を変えた湖彩が部屋を飛び出て行った。

「此之葉はまだ横になっているだろうな」

「ああ、昼飯をまともに摂らなかったからなぁ。 それは気になるんだけどなぁ・・・」

「夕飯まで横にならせておいてやる方がいいだろう」

「そうかなぁ・・・」

「ま、醍十の自由にすればいいさ。 まだこの部屋に残るのか?」

若冲が残っている者に訊いた。 阿秀が事前に取っていた部屋は全員この部屋とは階が違う。

「ああ、そうだな、戻るとするか。 移動は疲れる。 野夜、戻ろう」

野夜と同部屋の悠蓮が言う。

「ああ、そうするか」

「んじゃ、俺も戻ろぉー。 若冲、行こうぜぇ」

「そうするか」

「おれはここでもう少し湖彩を待っておく」

ウソか本当か分からないが、湖彩と同部屋の梁湶はここで湖彩を待つらしい。
梁湶を残して全員が出て行った。


「阿秀様、ご用意が出来ました」

阿秀の肩越しにコンシュルジュが小声で声を掛けた。

阿秀が頷くと「少し失礼いたします」 と、目の前に座る相手に言い残して席を立つと、目の前の相手は嫌な顔もせず、ただ鷹揚に頷いただけだった。
歳の頃なら三十代前半。 男女の関係で考えれば三十代半ばの阿秀とは釣り合いが取れている。 身綺麗にしていて髪はアップにまとめ上品な面立ちである。

「誰だよ、アレ」

若冲が言う。

醍十と部屋に戻った若冲だったが、醍十が部屋に入るなりベッドに飛び込んで大イビキをかいて寝だした。 梁湶が何か悪巧みを考えていることは分かっていた。 すぐに阿秀の部屋に戻ったということである。
そして戻ってきた若冲を見て梁湶が言ったのは 「やっぱりな」 であった。

「どっかで見たことがあるような気がするんだけどなぁ・・・」

「思い出せよ」

うーん、と言って梁湶が眉間に皺を寄せるが、思い出せそうにない。

「あ、阿秀が戻って来た・・・って、なんだよ、アレ!?」

若冲が目を剥いた。
阿秀はバカほどデカい薔薇の花束を抱えていた。

先ほど鷹揚に頷いた相手は今、阿秀に背中を向けている。 花束を抱えている阿秀が歩いて来るその姿を見ることは無い。 それを計算に入れて阿秀が相手にその席に座らせたのかどうかは、誰も知るところではない。

「塩見様」

名でなく、姓で呼んだ。
塩見様と呼ばれた女性が振り返る。 目に大きな薔薇の花束が映った。

「まぁ!」

「少し早くはありますが、ご結婚記念日おめでとうございます」

「・・・どうして?」

どうして知っているのかと訊いている。

「私とのお話の中でお聞かせくださいました。 数日早くはありますが、今月がご結婚記念月。まさかこちらに来て頂けるとは思っておりませんでしたので、このようなものになってしまいましたがお受け取り頂けますか?」

「このようなものだなんて・・・」

塩見様が両手を出して花束を受け取った。

「結婚記念日? どうして阿秀が花束を贈らなくっちゃいけないんだ?」

「シオミ・・・シオミ・・・。 どっかで聞いたことがある気がする」

「だから! 思い出せよっ!」

若冲と梁湶の言い合いは阿秀と塩見様には聞こえない。 若冲が怒鳴ってはいるが、かなり声を抑えているし、梁湶にしてもそうだ。

「主人から花束など貰ったことはありませんわ」

塩見夫人は目を輝かせて大きな花束を抱きかかえ見ている。

「それはご主人様が誠意をお持ちでいらっしゃるからでしょう」

「え? どうして?」

「塩見様の関心を物でなどとは考えていらっしゃらない。 心から愛していらっしゃるのですから」

塩見夫人は常から主人が何もプレゼントをしてくれないと言っていた。 だが自由にさせてくれているとも言っていた。

「塩見様? あれが欲しい、これが欲しいと仰っておられませんね?」

「え? ええ。 言わなくてもカードで買えますから」

「一度、お花が欲しいとご主人様に仰いなさいませ」

「え?」

「この花束よりずっと大きな花束を抱えて来られますよ」

塩見夫人がしっとりした表情で阿秀を見る。

「くっさー、聞いてられるかっ!」

若冲が言った途端、梁湶が声を上げた。 しかししっかりと小声で。

「思い出した!」

若冲が梁湶を見ると梁湶が続ける。

「言ってただろ。 阿秀の仕事が何なのか。 その客だ」

阿秀の仕事はホスト。 それもかなり高級な。

「は?!」

「仕事を辞めて何年にもなるが、未だに繋がっていたとはなぁ・・・」

「おい、それってドップリ浸かってるんじゃないだろうな・・・」

目の先にいる塩見様に。 信じられないし、信じたくもない。

「いや、まさか。 領土に帰るんだろうし」

「帰るん、だろう、し?」

「あ、いや、帰るはずだし」

「はずだし?」

「俺を責めんなよ!」

陰に隠れた二人が小声で言い合っている時、唐突に声が割って入った。

「ああ、梁湶もう時間か?」

若冲と梁湶が目を合わせた。 阿秀の声で梁湶と言われた。 そして “もう時間か?” と。

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虚空の辰刻(とき)  第201回

2020年11月20日 22時12分06秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第201回



「シユラ様がこの番号に?」

「はい、何度こちらに電話を入れても誰も出てくれなかったからって」

「どうして君が?」

シマッタ、と思った。 この展開では完全に携帯で連絡を取っていたことが分かるではないか。

「あ・・・それは・・・」

「セノギさん早く。 シユラ様が会いに来てくれるんだから」

「あ、ああ。 じゃ、仕事部屋に行こう。 セキもおいで」

セキのお蔭で難を乗り越えられた、春樹がそっと息をつく。

仕事部屋の電気をつける。 当たり前だが、雲渡(うんど)の姿はない
セキと春樹を座らせると、セノギが背を向けメモを見ながら子機のボタンをプッシュする。 すぐに相手、紫揺が出たようだ。

『もしもし』

「シユラ、様・・・?」

セキのことを疑っていたわけではないが、この屋敷から脱走したというのに、連絡を取ってくるなどと信じられなかった。

『セノギさん、良かったー、やっと連絡が取れた』

「あの・・・いったい何がどうなって・・・」

ショウワから紫揺は東の領土に行ったと聞かされていた。 領土にいては此処と連絡など出来るはずはない。

『どうして屋敷の電話に出てくれなかったんですか? バカ程かけたのに』

紫揺ではなく阿秀が、だが。

「あのお電話は全てシユラ様?・・・」

この口調からすると、まだ自分を取り戻せていないようだ。

『言ってみればそういう事になります』

見守っていたのだから、こういういい方でもいいだろう。

「申し訳ありません。 まさかシユラ様だとは思わず。 キノラが電話には出てくれるなと言っていましたもので」

その意味が紫揺には分からないが、春樹にはピンとくるものがある。

『キノラさんが? じゃ、仕方ないか。 まぁ、こうして連絡が取れたから良かったです。 それでですね、今そちらに向かっているんですけど、セノギさんにお渡ししたいものがあるんです』

ようやっと心が今に追いついたセノギ。
今は東の領土に居るのではなく、東の領土から日本に来たというのは電話が通じていることから分かるが、自分に渡したいものがあるとはどういうことだろう。

「私にですか?」

『はい。 とっても大事なものです』

桟橋でしたっけ? と紫揺が誰かに訊く小さな声がする。 返事の声は聞こえなかった。 訊かれた相手が頷いたのだろう。

『えっと、屋敷の桟橋まで出て来てもらえますか?』

「犬のことがありますから、すぐにとはいきませんが」

訓練師に言って犬を集めさせなくてはならない。

『こっちもまだそちらに着くことはできませんから大丈夫です』

携帯ごしに男の声で何かを言っている声が聞こえた。

『そちらに行けるのは十一時半くらいになるみたいです』

「承知いたしました」

『えっと、その時にセキちゃんと・・・先輩はそこに居ますか?』

「せんぱい?」

セノギが上半身を捻って青年を見る。

「あ、僕のことです。 春樹って言ってもらえれば分かります」

先輩と言われ、片手を軽く上げている。

“春樹” と書かれたネームプレートを思い出した。 それに面接の前から春樹の苗字は気になっていた。
邑岬春樹。 それが彼の姓名だった。

また元の姿勢に戻って話し出す。

「春樹さんですか?」

『そうです。 セキちゃんと先輩を一緒に連れて来てほしいんです。 セキちゃんは眠たいかもしれないけど』

「承知いたしました」

『じゃ、お願いします』

「お気を付けて」

そう言って電話を切ったものの、全く何がどうなっているのか分からない。

「シユラ様いつ来られるんですか?」

「十一時半ごろだって。 セキは起きていられるかな?」

「絶対に起きてます!」

「そうか。 じゃ、それまで部屋に戻っておいで。 父さんにこのことを話しておくんだよ。 私が迎えに行くから」

「はい!」

紫揺に会えると思うと眠気など飛んだのだろう、とっても元気な声だ。

「君にも来てほしいと仰っていた。 時間はまだあるから部屋で休んでいるといい。 セキを呼びに行ったときに君にも声を掛ける」

「お願いします。 じゃ、セキちゃん戻ろうか」

「はい!」

二人が出て行ったあとにセノギが大きく息を吐いて、机に尻をもたれかけさせた。

「いったい何があったんだ。 それに私に渡したいものとは・・・」

分からないことを悩んでいても仕方がない。 とにかく一日も早くここを出て洞を潰さねばならないのだから。 その前に片付けなければいけないことが山積している。

屋敷に戻って来て一番に五色に話をした。 アマフウとトウオウはどちらでも、という顔をしていたが、キノラとセイハが飲めない話だと言った。
二人には説得も必要だろうが、そんなことに時間をかけている余裕などない。 屋敷や仕事の整理をすれば否が応にも領土に帰るだろう。

「彼らにも戻ってもらわなくてはいけないな」

春樹の出て行ったドアを見る。
キノラの下で働いていた者たち、コックと訓練師、急に首を切られて嘆くだろう。 領土に帰るのだからこの地の金など必要ない。 次の仕事が見つかるまで食べるのに困らないくらいは積んでやらねば。
不動産は叩かれようが構わないが、地下は潰さなければいけない。 ムロイが代表を務める会社をたたんで馬の行き先を決め、すぐにでも引き取ってもらわなければならない。 ここに置きっぱなしにして餓死させるほど薄情には出来ていない。

「そうだ、獅子もいるんだった」

額を一撫でした。

「明日すべて同時進行か」

今日屋敷に戻ってきた時には役所が閉まっている時間になっていた。 その時間から出来るのは犬の訓練師と相談して、犬の行き先を決めたことだけだった。

本領がこんな事情など知るはずもなく、あまりにも日をかけ過ぎては、なにかを疑われるかもしれない。 あくまでも地下、洞を埋めるのは最後になる。

自分の望んでいた形になったとはいえ、何もかもがこれほど急にとは。 領土から帰って来た疲れもあるが、まずは訓練師のところだ。 机から離れると部屋を出て行った。


「あ、あれじゃないですか?」

さざ波の音だけが聞こえる漆黒の闇の中に、波をかき分ける音をたてライトが上下しているのが見えてきた。

「そうですね」

桟橋にはライトが取り付けてある。 その桟橋に一直線に向かってきているのだから、あの船に間違いはないだろうが、本当に紫揺があの船に乗っているのだろうか。

「セキちゃん寝ちゃいましたね」

待っている間にうつらうつらとしだしたセキ。 桟橋に椅子やベッドなどない。 春樹が抱きかかえている。 セノギがセキの寝顔を見て微笑む

「必要であればシユラ様がお起しになるでしょう」

春樹の眉が上がった。 訊いていいでしょうか、と前置きをして疑問を口にする。

「気になっていたんですけど、紫揺ちゃんのことを “様” 付けで呼んだり、敬語を使われてますよね? それって紫揺ちゃんがここで地位のあるっていうか、そういう人だからですか?」

「ここでという訳ではありません」

「どういう意味でしょうか?」

結局紫揺からは何も聞かされなかったのだから、紫揺が何故ここに居たのかも知らない。

「お話するには難しいですね」

そう言ったセノギと春樹が横を向いた。 船のライトが二人の顔を照らしたのだ。

ゆっくりと桟橋に付けられるレンタルクルーザー。 阿秀たちが所有しているクルーザーはあの船着き場にはないのだからレンタルしかない。 阿秀が初めて使った伝手という手段でレンタルをしていた。

阿秀の勤めていた店の客にマリンクラブを所有している旦那様を持っている女性が居た。 万が一を考えて日本で動く時には必ず客の名刺を持っていた。 極力伝手は使いたくなかったが、最後の最後で致し方なく使った。 小型のボートで良かったのだが、客が張り切って良いものを用意してくれたようだ。

「迎えに来てくれたここの船も立派ですけど、これもすごいな」

春樹が操舵席を見上げながらセキを抱え直す。

「疲れたでしょう、代りましょう」

「あ、いいです。 まだ大丈夫です」

手紙まで書いていた紫揺の可愛がっているセキだ。 そのセキを今まで抱っこしていたのだから、その努力を泡になどしたくない。

( 『わぁ、先輩、セキちゃんをずっと抱っこしててくれたんですか? 嬉しい。 セキちゃんに代わってお礼です。 Chu』 有り得る。 十分にあり得る。 その時にはなんて言おうか。 わっ、紫揺ちゃん、人前で恥ずかしい、とか何とか? いや、もっと大人らしくだな・・・)

「シユラ様!」

(そう、その紫揺ちゃんにChuってされて、って、え?)

妄想族が現実に戻ってきた。

いつの間に降りてきたのだろうか、桟橋に紫揺が立っている。 阿秀が船を止め、紫揺を下ろそうとした時には、すでに紫揺が船べりに足をかけて跳び降りる体勢だった。 そして止める間もなく跳び下りたのだった。

「お久しぶりです。 その、無断で屋敷を抜け出してしまってすみませんでした」

言ってからでは抜け出せられなかったが。

セノギにすれば紫揺が謝ることではないと考えている。 そして唱和から紫揺が東の領土に入ったことは聞いていた、紫揺はもう何もかも知っているのだろう。

「・・・こちらが・・・私どもが許されないことをしたのですから、謝罪しなければならないのは私どもの方です」

後ろに春樹が居るのだ、私どもではなく北の領土です、などとは言えない。

「じゃ、お互い様ってことで。 湿っぽいことはやめましょう。 これ、唱和様からです。 預かってきました」

ショルダーバッグから手紙を出すとセノギの前に差し出す。

「ショウワ様から? どういう事でしょうか。 ショウワ様は、本りょ・・・あちらに行かれているはずでは?」

セノギが春樹のことを気にしているのが分かった。

「詳しいことは後で分かります。 それよりこれを先に読んでください」

まだセノギが手紙を手にしていない。 はい、と言って更に手紙を差し出すとセノギが手紙を受け取った。

「今読んで、すぐに行動を起こして下さい。 時間がありません」

セノギが懐かしい領土の折り方をした封筒から手紙を出して読み始めた。

「・・・どういう事でしょうか」

一通り読んだセノギが問う。

「私はそのお手紙を読んでいませんが、唱和様からどのような内容が書かれているかは聞いています。 潰される前にしなくてはいけない事なんです。 すぐに影っていう人に伝えてください。 そして全員が揃ったらもう一度あの番号に連絡をください。 また来ます。 その時に全てをお話します。 セノギさんへの用というのはこの事です」

ポカンとしている春樹に視線を移す。
またもやショルダーバッグから封筒を出すと、セノギの横を通り過ぎて春樹に向かって歩く。
移動中、コンビニで夕飯になる物を買いに入った時に封筒も一緒に買った。 そこに阿秀から借りた六万五千円を入れた。

「先輩、長い間お借りしっぱなしでスミマセンでした。 あの、本当にありがとうございました。 お金のことなんて頭になかったから、すごく助かりました」

両手で封筒を持ち、頭を下げながら春樹に差し出した。

「あ、いや、気にしなくて良かったのに」

ここで見栄を張らなくて男と呼べようか。
そして封筒を受け取りたいが、そろそろ腕が限界だ。 ここで片手を離してしまえばセキを落とすことになるかもしれない。

「あの、紫揺ちゃんちょっと待ってね」

セノギと代わってもらおうと思いセノギを見たが時遅し。
手紙を読み返し、自分が今何をしなくてはいけないのか。 疑問など二の次だと思ったセノギ。

「すぐに知らせてきます。 春樹さん、戻ってきますのでそれまでここに居てください」

そう言って屋敷に向かって足早に戻っていった。

(あ“あ”あ“――― 腕があぁぁ―――)

「先輩どうしました?」

「あ、あは。 そのちょっと。 えっと、わざわざありがとう。 その、ズボンのポケットに入れてくれる?」

後ろを向いて尻のポケットに封筒を入れるように言う。

(ああ・・・情けない、情けなさ過ぎだろう、この姿・・・)

紫揺が尻のポケットに封筒を差し込むと、春樹に抱かれていたセキの顔が見えた。 スヤスヤと眠っている。

「やっぱり起きてられないよね、いっつも朝早くから働いてるんだから」

セキのプクッと膨らんでいる頬をツンツンと指で押すと弾力よく指がかえってくる。

「紫揺ちゃん座ろうよ。 セノギさんが戻ってくるまで」

そうすればセキを膝の上に座らせることが出来る。 腕への負担は大きく減る。
セキを落とさないようにクルーザーを背に、ゆっくりと桟橋に座って足を海に向けて下ろす。 その振動がセキに伝わったのだろうか、セキがうっすらと目を開けた。

「・・・ん」

目をこする。 いやに明るい。

「・・・ん?」

顔を上げると目の前にクルーザーがある。

「ん? ・・・」

「あ、セキちゃん起きた?」

紫揺が春樹の背に話しかけるようにセキに話しかけた。

「・・・シユラ様!」

春樹の身体の上で立ち上がった。

「え? わっわっわ!」

春樹が体勢を崩して

ドボン。

間一髪で紫揺がセキに手を伸ばして、セキが落ちるのは避けられた。

「先輩! 大丈夫ですか?」

浮いてきた春樹が桟橋の脚を持つ。

「だ、大丈夫」

「お手紙のお兄さん・・・ごめんなさい」

「気にしなくていいよ。 ・・・ここ上れそうにないから」

腕はまだ痺れている、上ることなど出来ない。 開き直って岸まで泳いでいった。 岸に上がるとこちらに向かって歩いてきている紫揺とセキに悟られないように、尻のポケットを触った。 封筒の感触はある。 落とさなかったようだ。 良かった。

(それにしても最悪の再会じゃないか・・・)

尻を向けたのも落ちたのもそうだが、わっわっわ、と叫んでしまったのだから。

「お手紙のお兄さん、ずぶ濡れ。 ホントにごめんなさい」

「気にしなくていいって。 目が覚めた?」 

「はい」

「会えてよかったね」

セキが嬉しそうに紫揺を見上げる。

「紫揺ちゃん、受け取ったよ」

ポケットの封筒を抜き取って紫揺に見えるようにする。

「有難うございました。 早くお返ししなきゃって気にはなっていたんですけど、先輩に書いてもらったメモを落としちゃったみたいで」

「うん、杢木からそう聞いた。 杢木がメモを拾ったみたいだよ」

「え? じゃ、船の中で落としたのかなぁ」

「で? どうやって番号が分かったの?」

「え? あ、えっと。 あの、友達伝いで・・・それで時間がかかっちゃって」

阿秀から教えてもらったとは言えない。

「そうなんだ。 気にしなくて良かったのに。 って、連絡をくれたことは嬉しいけどさ。 さっきのあの番号は紫揺ちゃんの番号だよね?」

紫揺の番号ゲットだぜ、と一瞬は思ったが、セノギに教えるため番号をメモに書いている時に不安に思った。 不安のまま終わらせたくなどない、確認しなくては。

「違います。 あれは借りたんです」

そう言って操舵席を指さす。
操舵席には長身痩躯な男がこちらを斜に見て立っていた。 桟橋に取り付けているライトがその角度からでも端麗な顔を露わにしている。
やはり紫揺はスマホを手にしていなかったのか。

「だれ?」 敵か?

「ちょっとした知り合いで・・・」

「ふーん」 敵ではない?

「あ、先輩、杢木さんの連絡先を教えてもらえますか?」

「杢木の? どうして?」

「おじさんに良くしてもらったんです。 改めてお礼を言いたいので」

「部屋に戻らなくっちゃ分からないけど・・・」

「じゃ、メモに書いてセノギさんに渡しておいてもらえませんか? またセノギさんに会いますので」

チラッと春樹の背後に目を移した。 セノギがこちらに向かって走って来ている。

「シユラ様、またこちらに来られるんですか?」

「うん。 ここまでだけど。 その時がいつになるか何時になるか分からないけど、あんまり遅い時間じゃなかったら、セキちゃんと一緒にガザンを連れて来てもらえるかな?」

「はい! 遅くてもいいです! 今度は寝ません!」

「ふふ、こんな時間になっちゃってごめんね。 元気にしてた?」

「はい、シユラ様とニョゼさんが居ないのが寂しいけど」

「ニョゼさんなら元気にしてたよ。 セキちゃんも、もうちょっとしたら会えるからね」

「ニョゼさんもうちょっとしたら、戻って来られるんですか?」

「どうだろ?」

ニッコリと笑って答えた。

「シユラ様は?」

「今度会えるといいね」

セキの頭を優しく撫でてやると膝を折り、そっとセキを抱きしめた。

「セキちゃん大好きよ」

(どうして俺の目の前でそんなことをするのかなっ。 それを俺に言ってくれ、俺にそうしてくれ)

女々しいことを考えているのは分かるが、思わずにはいられない。

紫揺がセキを手から離し立ち上がると、やって来たセノギを見た。

「先ほど出て行きました」

影の誰かがケミを連れ戻しに北の領土に向かったということだ。

「有難うございます。 戻ってこられたら、またあの番号にご連絡をください」

セノギが頷く。

「じゃ、先輩、わざわざ来てもらってすみませんでした。 セノギさんに預けても良かったんですけど、直接お礼を言いたくて」

「いや、会えてよかったよ。 安心した」

「ご心配かけちゃって。 それじゃあね、セキちゃん」

「必ず、遅くなっても呼んでください。 ガザンも連れてきます」

「ありがとね」

桟橋を走って行くと、クルーザーに跳び乗る。 阿秀が溜息を吐くとエンジンをかけた。

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虚空の辰刻(とき)  第200回

2020年11月16日 22時05分26秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第190回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第200回



無事に搭乗手続きが終わり、ギリギリでプロペラ機に乗ることが出来た。

「お急ぎさせて申し訳ありませんでした」

「これくらいなんともありません。 必要ならいつでも走るように言って下さい」

「そう言っていただけますと、少しは気が楽になります」

「悠蓮さんは一緒に来なかったんですね」

「次に来る者のために車を運ばなくてはいけませんので」

「あ、そっか」

日本では何代かの車を見たが、この土地ではあの一台しか目にしていない。 きっとここではあの一台しかないのであろう。 男たちの存在にしても住まいにしてもそうだが、目立つことがないようにしているのだろう。

「でもそんなに急がなくちゃいけないんですか?」

「一時間でも早く着きたいと思っています。 この後、那覇空港から羽田空港に向かい次に小松空港に向かいます。 そこからタクシーに乗って船着き場まで行きます」

そうだった、道のりは長かったのだ。

「何時くらいに着きそうなんですか?」

「今が十六時前ですから、船着き場には二十三時くらいでしょうか」

「二十三時って、夜の十一時に着くんですか? それからセノギさんに会うって・・・」

船着き場からどれだけ船に乗っているのかは分からないが、それでも普通に考えると、夜分に申し訳ありません、でも許せるような時間帯ではない。

それに領土から戻って疲れているだろうし、戻ってからも洞を潰すに動き回っていて疲れて寝ているのではないだろうか。 電話の音などで起きられない程、寝入ってしまっているのではないだろうか。

だからと言って一日でも伸ばすことがないように運ばなくてはならない事は分かっている。 少しでも早くセノギと連絡を取らなければいけないと。

「あちらの屋敷の電話番号は調べております。 私の声では怪しまれるかもしれませんので、紫さまから事前にご連絡を入れて頂けますか?」

その手があったのだった、文明の利器をすっかり忘れていた。 だが・・・。

「はい。 それはいいですけど、此之葉さんがまだなのに」

「領主からお聞きした限りでは、洞を抜けてからケミという者のいる北の領土の唱和様のご自宅まで、普通の者で数日かかると唱和様が仰っていたそうです。 影と呼ばれる者たちは普通の者より早く動けるということですが、呼びに行き戻ってくる。 一往復ですから、いくら早く動けると言っても数日かかりましょう」

セノギと接触し洞を潰すのを止め、まずは一刻も早くケミを屋敷に連れ帰らなければならない。 その時までは此之葉が居なくてもいいのだった。 まずは紫揺がセノギと接触するのがいの一番だったのだ。

「あ、そういうことか。 分かりました。 そう言われればそうでした。 洞窟を抜けてから何日も馬車に揺られてたんでした。 あの建物があったでしょ?」

「あの建物? で御座いますか?」

「馬を下りて岩の中に入ったあの場所の向かいの崖の上にあった建物です」

「あれで御座いますか。 はい」

北の領土にある建物、それは領土と日本を行き来するたびに目にしていた。

「北の領土の洞窟を抜けたあと、あの建物から出て領土に入ったんです」

「え?」

「洞窟とあの建物が繋がってるってことですね。 で、あそこは辺境って呼ばれてて、中心って呼ばれる所に行くんですから遠かったです」

「あの建物が・・・」

位置から考えるに北と東の洞は殆ど真正面にあったということか。

「だから私、北の領土に始めて行った時に、さっきの岩を北から見ました。 まさか中をくり抜いてあったとは思ってもいませんでした」

「・・・やはり北は先の紫さまを探している時に洞を見つけたということです、か・・・」

「同じような所にあったんですからそうでしょうね」

と言ったあと、ん? と気づいたことがあった。
洞のことではない。 気に入らなかった阿秀と気楽に話をしているのに気付いたのだ。 セノギモドキとさえ思っていたのに。 思い返せば春樹の電話番号も教えてくれたのだった。

(やっぱり悪い人じゃないよね。 最初の出会いが悪すぎただけかな・・・。 ん? 電話番号・・・。 先輩?)

大切なことを思い出した。

「阿秀さん!」

ガバッと背もたれから身体を起こすと、身体ごと阿秀を見た。

「はい?」

「お金貸して下さい!」

阿秀にがぶり寄りするか如くの紫揺の勢い。

「は? ・・・は、い」

紫揺のあまりの勢いに、倒れるはずのない背もたれを押してのドン引き状態の阿秀。

「六万三千円! 持ってますか!?」

「はい・・・」

「家に帰ったら返します。 必ずっ! あ・・・、六万五千円でもいけます?」

利子を付けよう。

「・・・はい」


那覇空港でプロペラ機を降り、足早に手続きを済ませると羽田行きに乗り、さらに羽田空港から小松空港に飛ぶ。
座席は離れてしまったが、待ち時間はそれ程には無く小松空港に降り立った。

紫揺のスポーツバッグは東の領主の屋敷に置いてある。 持っているのはスポーツバッグに入れてあったミニショルダーバッグのみ。 阿秀にしてもパソコンバッグだけである。 そこにはパソコンだけが入っているのではなく、その中にセカンドバッグも入っているようで、少々太っているパソコンバッグだが、機内席に持ち込んでいる。 荷物が流れてくるのを待つ必要などない。 すぐにタクシーに乗り込んだ。

那覇空港から羽田空港行きに乗り換える間に阿秀が何度か屋敷に連絡を入れたが、誰も電話に出ることは無く、更に羽田空港に着いてからも何度電話をしても誰も出なかった。 今もタクシーの中でコール音を鳴らすが誰も出ない。

「連絡つかないみたいですね」

すでに船の手配はしていたようで、スマホを耳に当てている阿秀を見て言う。

「仕方ありませんか・・・」 

タクシーの中で一瞬沈み込みかけた時、あっ!っと紫揺が声を上げた。

「阿秀さん、今から言う番号にかけてください」

そう言うとショルダーバッグの中からメモを取り出した。 それは阿秀の記憶にある番号だった。
コール音が鳴る。 阿秀が紫揺にスマホを手渡す。
コール七度目。

『はい』

春樹の声だ。

「先輩?」

『あ、え? 紫揺ちゃん?』

杢木から春樹の携帯番号を書いたメモを紫揺が落としていったと聞いていたが、諦めきれずにいつも切っていた電源を仕事が終わった後に入れていた。

「先輩!」

『あ・・・杢木から紫揺ちゃんがメモを落としたって聞いてて・・・。 その、無事に家に帰れた?』

諦めきれずにいたものの、メモを落としたのだから期待は夢だと分かっていた。 それなのに連絡があった。 あまりの突然に淡白になってしまう。

「はい、有難うございます。 ちゃんと家に帰りました」

『良かった』

「それで、お金をお借りしてるままなのに、また頼み事があるんですけど・・・」

『うん。 OK、何でも言って』

「有難うございます。 これからそちらに向かいます。 それにあたって、セノギさんと連絡を取りたいんです。 何度屋敷に電話をかけても誰も出てくれなくて」

『せのぎ? キノラさんじゃなくて?』

「はい、セノギさんです。 男の人」

『あ・・・ああ、夕方にキノラさんに会いに来た人がいたけど、その人かなぁ?』

「その人かもしれません。 先輩、本当に申し訳ないとは分かっています。 その上でお願いしたいんです。 セキちゃんにお手紙を渡してもらえたんですよね?」

春樹はセノギのことをあまり知らないと判断した。 そして咄嗟にセキのことを思い出した。 手紙のことはニョゼから受け取ったと聞いている。

『うん』

「そのセキちゃんはセノギさんを知っています。 電話をこのままにしてセキちゃんにこの電話を渡してもらえませんか?」

『出来なくはないけど、もう寝てるんじゃないかな』

紫揺に言われた時からセキを気にしていて、その部屋はどこにあるか知っている。

「寝ててもいいです。 私からって言ってもらえばすぐに起きてくれるはずです。 お願いします」

『う、ん。 分かった。 じゃ、このままでいいんだね?』

「はい」

スマホの向こうで立ち上がった気配を感じる。 戸を開ける音と階段を上る音がする。 そしてノックの音。

『夜分にすみません。 セキちゃんをお願いしたいんですけど』

春樹の声が聞こえる。
戸が開いた音がした。

春樹がスマホを後ろ手に持つ。

『アンタ・・・たしかキノラ様のところの』

セキの父親だろう声が遠くに聞こえる。

『はい。 キノラさんの下で働いています』

『そんな人がどうして、うちのセキに?』

『紫揺ちゃんがセキちゃんに―――』

『シユラ様!?』

部屋の奥から声が聞こえた。
パタパタと走ってくる音に続いて春樹に見覚えのあるセキが顔を出してきた。

『あ・・・お手紙のお兄さん』

セキの可愛く高い声が父親の声より随分と近くに聞こえる。 春樹のことをお手紙のお兄さんと呼んでいるのかと、紫揺が小さく微笑んだ。

『ちょっといいかな? 紫揺ちゃんからの連絡があるんだけど』

セキを見て言うが、父親にスンゴク疑われている目を送られているのを感じる。
いや、ロリコンの趣味はありません、と言いたかったが、それは挑発することになるだろう。

『シユラ様から?』

『うん、ちょっと出てもらえる?』

禁止されている携帯の存在を知られたくない。

『あの、すぐにお帰ししますので。 ほんの数分』

父親に向かってそう言うと、部屋を出てきたセキに先に階下に降りるように言った。

『安心してください。 すぐにお帰しします』

そう言って踵を返したが、背中に痛いものを感じる。

父親にしてみれば、セキがシユラ様と呼ぶ相手が誰なのかは知っているし、セキが大事にしている紫揺からの手紙を渡してくれた、お手紙のお兄さんと言っていたのも知っている。 だからと言って、我が娘をたぶらかして良いとは言わない。

セキに遅れて階下に降りた春樹。 スマホをセキの前に出した。 スマホなど、電話など知らないセキ。 意味が分からないと言った顔をする。

『えっと・・・これを、ここを耳に当ててもらえる?』

手渡され、言われた通りに耳に当てる。

「セキちゃん?」

紫揺の声がする。 驚いたセキがスマホを耳から外した。

『どうしたの、大丈夫だよ。 単なる電話。 紫揺ちゃんがセキちゃんに用があるって』

まだ小さい子。 それにこんな隔離された島にいるのだ、スマホを知らないのだろうかと思い言う。

「セキちゃん、セキちゃん! 紫揺よ! お願いだから電話に出て! 頼みたいことがあるの!」

耳にしなくとも紫揺の声がスマホから聞こえる。 セキがそっとスマホを耳に充てた。

『シユラ様?』

「セキちゃん・・・」

分かってくれたかと大きく息を吐いた。

「セキちゃん、お手紙読んでもらえた?」

『はい』

「ニョゼさんにも渡してくれたんだよね。 ありがとう。 今日、ニョゼさんと会って聞いたよ」

『ニョゼさんと?』

「うん。 それでね、もう少ししたらセキちゃんにも会えるかもしれないの」

『え!?』

「会ってもらえる?」

『もちろんです! シユラ様と会いたいです!』

「うん。 私も会いたい。 でね、その為にもセノギさんに連絡を取りたいの」

『セノギさんに?』

「うん。 この電話を持っていたお兄さんに番号を教えてもらって、その番号にすぐにセノギさんから連絡を入れて欲しいの」

『番号?』

意味が分からない。

「うん。 それはあとでお兄さんに話すから大丈夫。 今すぐセノギさんを探してほしいんだけど眠くない? お願いできる?」

『はい』

「もし、セノギさんが辺りに居なかったら、五階の部屋に居ると思うから。 じゃ、お兄さんにこの電話を渡してもらえる?」

『はい』

セキがスマホを耳から離して春樹に差し出した。

『紫揺ちゃん?』

スマホを受け取った春樹が言う。

「先輩、この番号に折り返しセノギさんから連絡が欲しいんです。 セノギさんにはセキちゃんが会ってくれます」

『分かった』

春樹の返事は短かく、スマホを切った。
紫揺の番号が分かったのだ。 焦ることは無い。 いや焦るなど必要ない、反対に余裕ブッコキではないか。 今は取り敢えず急いでいるようなのだ、紫揺の用件とやらを済ませるのが先だろう。

(ふっ、これこそ大人の男の余裕ってもんだ)

スマホを尻のポケットに入れる。

「セキちゃん、一度部屋に戻ってお父さんに紫揺ちゃんからの連絡ごとで “せのぎさん” に会いに行くって言ってきて」

疑いからは逃れたい。 ロリコンではないのだから。

「はい」

元気よく階段を上がって行く。 寝てなどいなかったようだ。 その間に部屋に戻り、かかってきた番号をメモする。

書き終えてふと手が止まった。 今自分が書いた番号をじっと見る。
紫揺のスマホの番号と思っていたが、今までスマホを持っていなかった紫揺が急にスマホを手にするだろうか。 一人で契約など出来るのだろうか。 それに何より、ここから出るにお金さえ持っていなかった。
ボールペンをことりと置いてメモを手に取る。

「紫揺ちゃん、何がどうなってるんだよ」


セキが屋敷の周りを歩くがセノギの姿が見えない。 勇気を振り絞って洗濯室から屋敷の中に入った。 だが屋敷の中には誰も居ない。

「セノギさんどこに居るんだろ・・・」

一階のあちこちをくまなく探したが、セノギの姿は無かった。
紫揺が言ったことを思い出す。 『セノギさんが辺りに居なかったら、五階の部屋に居ると思うから』 そう言っていた。
階段を上がるしかないようだ。
大階段に足を踏み入れる。

「セキちゃん、そこは駄目だよ」

振り向いたセキの目に春樹が映った。
こんな夜遅くに小さい子を一人で歩かすわけにはいかない。 セキの後ろを春樹が歩いてきていた。

「あっちの小階段から上がろう。 何階に行くの?」

「えっと、五階。 そこにセノギさんが居るってシユラ様が」

「五階か。 未知の階だな。 一緒に行こう」

そして五階に上がると偶然セノギが部屋から出てきた。

「あ、セノギさん!」

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虚空の辰刻(とき)  第199回

2020年11月14日 08時16分23秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第190回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第199回



唱和が言った。 北の領土に我が手で封じ込めをした五人が残っていると。

「封じ込めを? ・・・唱和様が?」

「師匠に言われましたことで御座います。 “古の力を持つ者” と公に言うことが出来ないのだから、その手足となる者、影と呼ぶ者を付けるようにと」

だが今こうなってはその五人を解放してやりたい。 それに協力してほしいとのことであった。

「でもどうやって?」

「その五人、影のことを知っているのはセノギだけで御座います。 そしてそのセノギは東の “古の力を持つ者” 此之葉のことを知りません。 セノギが知っているのは紫さまだけで御座います。 ニョゼは北の領土に居りますが、マツリ様に洞を潰すようにと言われたセノギはそろそろ日本の屋敷に戻っている頃かと。
洞が潰される前に屋敷に残っている影と、北の領土に一人残っている影をお助け願いたく。 解くことが出来るのは “古の力を持つ者” のみ。 ですがわしはもう動けませぬ」

そこで言葉が切られた。 言いたいことが終わったのだろう。

東の領土の人間である紫揺も此之葉も北の領土に足を踏み入れることは出来ない。 それは何度も聞いて知っている。 だから唱和が封じ込めた人間を北の屋敷に全員揃えて、此之葉が封じ込めを解く。 そういう事なのだろう。

「えっと・・・仰りたいことは分かりました。 とにかく封じ込めされた方が五人いて、その内の四人の方が屋敷に居て、お一人が北の領土にいらっしゃるんですね」

ケミは北の領土に残り、身体を悪くしたハンをゼンとダンで迎えに行くように言った。 ゼンとダンは既に屋敷に着いているだろう。 セノギが屋敷にいる者たち、使用人や五色達を洞から抜け出させた後に、ハンを抱えてゼンとダン、そしてハンを見ていたカミに洞を潜るようにと言っていた。
現状を説明した唱和が次に頼みごとの具体的な説明をする。

「紫さまが屋敷にてセノギに会っていただき、これを渡して頂きたく」

前に出されたのは手紙であった。

「これにはセノギが屋敷に居ります影の誰なとに、領土に残るケミを呼び戻すようにと、そして戻ってきたケミとハン、ゼン、ダン、カミが紫さまの前に姿を現し、紫さまの指示に従うようにと書いて御座います。 封じ込めのことは書いて御座いません。 あとは此之葉に封じ込めを解いてもらいたく思っております」

唱和が影の名をはっきりと言った。 その名はケミ、ハン、ゼン、ダン、カミ。

唱和の言った説明は本領に決められた何にも足を外すことではない。
そしてさっき唱和はセノギはもう屋敷に戻っている頃だろう言っていた。 ということは、時が限られているということだ。
マツリから直接洞を潰すように言われたセノギだ、用を終わらすと早々に洞を潰すだろう。 潰されてからでは遅い。 洞を潰される前にしなくてはいけない事だ。

「此之葉さんどう?」

「紫さまの思し召し(おぼしめし)のままに」

「ワガママ言ってもいいですか?」

「そのようなことは御座いません」

紫揺が此之葉から唱和に目を転じた。

「此之葉さんの力を借りて、唱和様のお力になりたいと思います」

「紫さま・・・」

そう言ったのは独唱である。

「独唱様、安心してください。 本領で此之葉さんは見事でした。 これからすぐに此之葉さんと北の屋敷に向かいたいと思います」

唱和と独唱が無言で頭を下げた。

「領主さん、北の屋敷に行きます」

「有難う存じます」

領主が手を着いた。 その表情に安堵の色があったのは紫揺の気のせいではないであろう。
きっと領主は紫揺がこの話しを受けるかどうか不安だったのだろう。
北の領土の者のことを紫揺がどう考えているかなど分からない領主だが、紫揺が北の領土の者から逃げていたことは知っている。 それに先の紫である紫揺の祖母が北の領土の者に攫われたことは領主自身が話した。
紫揺が北の領土の者に心を寄せなくて然(しか)るべきと考えていたのだろう。
だからあんなに暗い面持ちで、話をするに歯切れが悪かったのだろう。

「宜しくお願い致します」

額がこすれるかと思うほどに頭を下げる。
領主とて、北の領土の者、その影とやらに心を寄せているわけではない。 唯々、唱和の気がかりを取りたいと思っているだけである。
だがここでも紫揺が唱和のことをどう考えているのかも分からなかった。 なのに紫揺は唱和の力になりたいと言った。
その紫揺はまだ東の領土に居ると決めたわけではない。 厳密に言うと今はまだ日本人。 東の領土の五色、紫として領土の者に寄り添い憂いを取る務めも責務なども無いのに。
領主に出来ることは頭を下げること以外なかった。

領主が下げた頭を上げると遅れて唱和と独唱も頭を上げた。
領主に頷いてみせた目を唱和に向ける。

「唱和様、本領におられた時と全然違います。 お顔のお色もいいし、すごくお元気になられたみたいです」

「そ、それは・・・恐れ入ります」

「独唱様とお会いになれて良かったですね。 独唱様もお声に張りが出られました」

独唱に目を転じた。

「なんとも・・・有難きこと・・・」

独唱と唱和が目を合わせ、互いに頬を緩ませると手を付いて再度頭を下げた。

「じゃ、お預かりします」

手紙を手に取ると立ち上がった。
自分が行き来する洞をいつ埋められるか、潰されるかなど二の次だ。 まだあの時のことに囚われている人がいるならば解放しなくては。
でなければ祖母が嘆く。

今の自分がやらなくてはならないことは、紫という存在が発端で起こったことを片付けること。 時を戻すことはできないけれど、今からでも囚われの身となっている者を解放すること。

独唱の家を出る。 「まずは着替えですね」 半歩後ろを歩く此之葉がコクリと頷いた。

「脱ぐだけだから一人で出来ますので、此之葉さんも着替えてきてください」

着るのは手を貸してもらわなくてはいけないが、というより、着せてもらわなければいけないが、脱ぐくらい自分で出来る。 取り敢えず破らないようにすればいいだけなのだから。

部屋に戻ると久しぶりにGパンを穿いた。

「やっぱりこっちがいい。 スカートなんて足がスースーする」

ボストン型のスポーツバッグを肩にかけ襖を開けると、目に入ったのは部屋の前で座して待っていた阿秀であった。

「お持ちいたします」

紫揺が肩にかけていたスポーツバッグを手に取ると続けて「ご案内いたします」 と言い、スポーツバッグと共に紫揺の前を歩く。

「此之葉さんは?」

「すぐに参ります。 紫さまにおかれましては、ご様子がどう変わられるか分かりませんので」

来た時のように洞の中で倒れるかもしれないし、洞までにもそれがあるかもしれない。 それを懸念しているのだ、とすぐに分かった。

「多分・・・大丈夫です」

来る時に洞で倒れたのだ。 阿秀に言われても仕方がないことだと自覚はしている。
玄関を出ると人間は塔弥以外が居た。 塔弥が此之葉を連れてくるようだ。 そして馬がいる。

「急ぎますので馬に乗って頂きます」

紫揺が少し眉を上げた。 阿秀は詳しいことを事前に聞いていたのだろう。 他のお付きにしてもそうかもしれない。 時間が無いのだ、この領土の洞がどこにあるかも知らなければ、移動の段取りなど自分には考えられないのだから。
梁湶が阿秀の持っていた紫揺のスポーツバッグに手を伸ばした。 阿秀が手渡す。

「一人で?」

自分一人だけで馬に乗るのか?
驚いたり恐がったりして訊いているのではない。 しっかりと目を輝かせている。

「私の前に座って頂きます」

紫揺が考えたように阿秀もお付き達も領主からこの話を聞いていた。 その段取りの一つである乗馬。
事前に誰の前に座らすかでひと悶着あったが、最終的に全員がソッポを向いてしまい、自動的に阿秀と二人乗りをすると決まってしまった。 阿秀の肩がどれほど落ちたのか、全員が見てみぬふりをしていた。

阿秀とは違う理由で同じ様にがっくり肩を落とした紫揺だったが、元々一人で馬に乗ることなど出来ないのだから、何を言えたものでもなかった。

台が用意され馬に跨る。 今度はGパンだ、此之葉に窘められないだろう。 横座りから跨いで乗るということに、ステップアップした気分である。

「馬に乗られたことは御座いますか?」

「本領の行き帰りに」

日本では経験がないということだ。

「それは馬が歩いたので御座いますか?」

「ちょびっと走った感じかな? えっと、速度で言ったら自転車の早漕ぎ? そんな感じです」

自転車の早漕ぎにしろ単に自転車を漕ぐ速さにしろ、人それぞれだが大体わかった。

「承知いたしました。 では、動きます」

動き出した馬の後ろを悠蓮と梁湶の二人乗りが追ってくる。 湖彩、醍十、若冲は徒歩のようだ。 野夜は此之葉と塔弥とくるのだろうか、二頭の馬をひいて場所を移動し始めた。

紫揺が馬の鬣(たてがみ)を持っていた。 横座りの時よりずっと馬の揺れのタイミングがとりやすい。
阿秀が段々とスピードを上げるが、なんということは無い顔をしている。 駈歩(かけあし)で走り出しても、紫揺の様子が変わることは無かった。

馬は数日前に紫揺が身体をほぐしに来た緑が一面に見える場所を走り抜け、どんどんと進む。 碧天に草の緑が映える。 いつの間に上り坂になっていたのだろう。 今は一部を除いて地平線は緑一色となっている。 その一部である地平線の手前に見える大きな岩めがけて真っ直ぐに走っているようだ。

(あれ? あの岩・・・)

先に目を凝らす。 緩い上り坂を上がり切ったようで、地平線となって見えていた緑の向こうに裂けたように大きく口を開けた崖壁が見え、その先に建物が見える。 それは遠くではあったが見覚えのある建物。

「あ・・・」

あの建物は北の屋敷から洞窟を抜けて出てきた建物だとすぐに分かった。 そしてこの岩は建物の裏を回った時に見た岩だということも。
大きな岩の前で馬が止まった。 今はもう岩にすっぽりと隠れて先は見えない。
ここには踏み台はない。 先に降りた阿秀が手を伸ばして紫揺を下ろそうとする。

「大丈夫です。 そこどいて下さい。 蹴っちゃいますよ」

馬の首の後ろで片足を上げてくるりと直角に回転すると、そのまま反動をつけて飛び降りた。
後ろを付いてきていた二人が仕方がないといった表情を阿秀に向ける。 段々と紫揺に慣れてきたようだ。 阿秀もそう思うが、馬車の馭者台からの時にしろ、今回にしろ、自分の手で下ろすよりは格段にこちらの方がいい。

「ここまでで、体調不良は御座いませんか?」

そう言われて思い出した。 ここに来る手前で気を失ったことがあったのだった。 ヨダレを垂らした男の顔が脳裏に浮かび・・・。 頭をブルンと振った。

「大丈夫です」

紫揺と阿秀と同じように二人乗りをしていた悠蓮が、紫揺のスポーツバッグを持ったまま馬から降り、馬に乗ったままの梁湶が紫揺と阿秀の乗っていた馬の手綱を預かった。 厩に連れ帰るのだろう。

阿秀が懐から何かを取り出すと、大きな岩にあるへこんだ部分にそれを差し込み何やらしている。 それと同じことをもう二か所に施すと、持っていたものを口に咥えると岩を押した。 岩は岩でないかのように、まるで戸のように中に開いていった。 光石が点灯する。
口に咥えていたものを再び手にし「どうぞ」 と、岩の中に身体を入れた阿秀が言う。

中は男が四人ほど入るとそれ以上は入れない狭さだ。 岩をくりぬいているのだから、仕方のないことであろう。
阿秀が地に向かって先程と同じようなことをして、三か所に何かを施すと、見ようによっては取っ手に見えるものを持ってそれを引っ張った。 それはいわゆる蓋のようであって地中に向けて下り坂があった。

ドーム型で完全に人間の手で掘られた坂。 進行方向として今来た道を戻るような形である。 その坂の足元には板が敷いてあり、滑らないようになのか、横木が何本も通してある。 そして急な下り坂だからなのか、両横には有難くも手すりがついている。

地中に向かうドームの高さは醍十がまっすぐに立ってギリギリ頭を打たないくらいで、幅も醍十が軽く両手を開いて手すりを持てるほど。 決して醍十に合わせた特注ではないが、簡単に言って醍十サイズと言っていいだろう。

「足元にお気を付けください」

幾つもあるドームの端に吊るされていた懐中電灯を一つ取ると紫揺に渡し、阿秀も懐中電灯を手に先に坂を下り始めた。
振り向くと、後ろでは悠蓮が岩のドアを押し閉め、懐から何かを出し、阿秀と同じように三か所に何かを施している。

(カギ、だな)

紫揺が阿秀に続いて坂を降り始めた。 いくらか下りるとドームがなくなり、開け放たれた空間となった。 坂の上に敷かれていた板も階段に形を変えていた。 洞窟の中を降りて行く形になる。 足がすくむほどの高所ではないので難なく階段を降りることが出来た。 洞窟の中を振り返って懐中電灯で照らしてみると先にあの砂利が見える。

「あ・・・あそこ」

「はい。 あちらが当時の洞の出入り口となります」

「この階段を通り過ぎてたんだ。 気付かなかった」

「時間がありません。 参りましょう」

足早に歩く阿秀に小走りで後ろに続く。

洞窟を抜け屋敷に戻ると葉月が居た。

「すぐに着替えてくる。 それまで茶をお出ししておいてくれ」

阿秀は領土の服だ。 このまま飛行機になど乗れないのであろう。
遅れてやって来た悠蓮も紫揺のスポーツバッグを置くと着替えに走って行った。

葉月が茶を淹れ紫揺の前に置く。

「領土はどうでした?」

しっかり忘れず紫揺の横に座っている。

「うーん、良いも悪いも考える余裕もないくらいだった。 退屈はしたんだけどなぁ」

「ふふふ、まだ慣れてないからですよ。 こっちとあっちは違いすぎますからね。 って、ここも領土とあんまり変わらないけど」

南に浮かぶ島。 コンビニも無ければ映画館もスーパーもない。

「葉月ちゃんはこの島を出たことあるの?」

「ありません。 私にその必要はないから。 でもテレビや車、レンチン、パソコンそれに携帯。 領土からしたら考えられないものばかりです」

「それを知ってどう思う?」

「うーん、便利は便利ですよね。 レンチンなんかいつ誰が来るか分からないから大助かりだし、携帯も離れていても連絡がつくし、退屈しのぎのテレビだってあるし、なによりもネットでお買い物とレシピが見られるのがいいですね」

「ネットでお買い物? 葉月ちゃん、そんなことしてるんだ」

高校時代や会社にいたときに聞いたことはあるが、紫揺はしたことがない。 まず家にパソコンなどないし、今にしてもスマホも持っていないのだから。

「はい。 ほら、前に言ってたでしょ? ハルさんにお料理を教えてもらってたって」

「うん」

美味しかった。 優しい味付けだった。

「お料理は好きだから、阿秀にパソコンの使い方を教えてもらって、時々この島の子供たちにお菓子を作ってるんです。 って、大人達も食べてますけど。 ここってお洒落なお菓子ってないから、喜んでくれています。 ハルさん達にもそうだけど、この島の人達にほんの少しにしかなりませんけどご恩返しのつもりで。 で、そのレシピも見られるしネット注文で材料も買うことが出来るってわけです」

「そうなんだ」

「でもここだから必要であって、領土に帰ればそんなものは必要ないですから」

「どういうこと?」

「家の者が帰ってくる時間なんて大体決まってますし、連絡だって急いでしなくちゃいけない事なんて、それ自体がまずありませんし、退屈なんてしませんし・・・って、紫さまは退屈だったんですよね。 まぁ、それは慣れてないからってことで」

「そう言われればそうかもしれないね」

急ぎの連絡があったかどうかは知る由もなく、時間こそ分からなかったが、食事は定刻に出されていたと思うし、自分は働きもしていなかったのだから退屈だったのは当たり前だ。

「これから家に帰られるんですか?」

「後にそうなるかもしれないけど目的はそうじゃないの。 って、此之葉さん遅いな」

「此之葉ちゃんも?」

「うん、用があるのは此之葉さんなの。 私は橋渡し役」

「ふーん・・・」

「紫さま、お車のご用意が出来ました」

呼びに来たのは悠蓮だ。

「此之葉さんを待たないんですか?」

「後でやって参りますので急ぎ紫さまだけで」

「そうなんだ。 じゃ、行ってくるね」

残っていた茶を一気飲みして車に乗り込んだ。

来た時と違って少々荒れた運転を阿秀がしている。 そんなに急いでいるのか、車を下りたらこれは走るな、と心の中でほくそ笑んでいる。 いつもすましている阿秀がどんな走り方をするのだろうか、楽しみだ。

案の定、車を止めて飛び出すと阿秀が一人で走って行った。
脇を閉め手を左右に振った女走りに近い走り方かと思っていたが、いやいやなんの。 どちらかと言えばカッコイイ走り方だ。

―――以外だ。

後ろのドアが開けられた。

「紫さまもお急ぎください」

運転席に回った悠蓮が車のエンジンを切ってキーを抜く。 そして車を置いたままドアを閉めた。 都会なら考えられない。 後ろからクラクションが鳴り響いているだろう。
悠蓮が足早に歩き出す。

だから追い抜いた。

「は?」

「急ぐんですよね。 どこに行けばいいんですか?」

振り向きざまに言うと闇雲に走り出す。

「わわ、そっちじゃありませーん」

どうして方向を変えるのか。

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虚空の辰刻(とき)  第198回

2020年11月09日 22時03分20秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第198回



最後に残った紫揺たち東の領土ご一行を見送った “最高か” と現在新参者の丹和歌が、とぼとぼと東の領土の者たちがいた部屋に戻ってきた。

「はぁー、紫さまが居られなくなるなんて・・・」 と、紅香。

「分かっていたことじゃないですか」 これは丹和歌。

「だからと言って割り切れるものじゃないもの」 そして一番沈んでいる彩楓。

「灯が消えたみたいだわ・・・」

最後の声に三人が振り返った。

「世和歌!(せわか)」 “最高か” の声が重なった。

「姉さんがどうして?」

世和歌は丹和歌の姉である。

「とっても純粋なお方だもの。 シキ様とは違ったお慕いを想うわ」

世和歌は唱和とニョゼが本領に来た時に、案内役として後ろを歩いていたシキの従者である。 案内をする相手が女人であるということもあったが、四方の従者は男であるからして、部屋の案内が終わるとその後を引き継ぐためだった。
その時に紫揺がニョゼの腕に飛び込んで唯々泣いていたのを見ていた。

「彩楓と紅香は紫さまの後ろから見ていたけど、間横で見ていると、本当に綺麗な涙を流されていたのよ」

そしてそのまま唱和とニョゼに付いていたが、唱和が横たわる床に来ては唱和を気遣い、ニョゼにくっついて、ニョゼに話しかけていたという。

「話しかけていらっしゃったって、どんなことを?」

「何か説得をされてたみたいだったわ。 ニョゼ様が泣いておられる頬をそっと拭いておられて。 お小さいのに・・・それがまた愛らしくて」

紫揺を何歳だと思っているのだろうか。

それを聞いた “最高か” が襖の外に居て、紫揺のその姿を目にすることが出来なかったことに少し唇を噛んだ。

「あら、姉さん役得でしたわね。 羨ましいこと」

少々ドスの聞いた視線を横目で流すと、あっ、と何かを思い出したように口と目を開けた。

「聞き間違いかもしれませんけど、小耳にはさみんだところによりますと、お方様とシキ様が紫さまをリツソ様の許嫁にと考えておられるようですわ」

“最高か” の思いなど知らず、丹和歌がとんでもない情報を放り込んできた。

「本当なの?」

「そうなれば、こちらにいらっしゃるということ?」

「紅香、そう言われれば、紫さまがリツソ様のお部屋に入られた時、リツソ様が宝物を渡しておられたわね」

「そうね、リツソ様が紫さまを慕っておられるのは明白なこと。 あとは紫さまがリツソ様のことをどう思われているか」

四人が目を合わせた。 そして。 落胆した。

「あのリツソ様でしょう?」

「紫さまにご無理を強いることはお気の毒というもの」

「他に方法はないのかしら」

「紫さまがこちらに来られるということは、東の領土を出られるということよね?」

「簡単なことではないわー」

最後は四人が同時に言って、大きく溜息を吐いた。



東の領土ではロセイに乗っていた唱和が領土の土を踏んだ。
すぐに領主と紫のお付き五人が駆け寄ってきて唱和を迎える。 野夜が独唱に仕えている塔弥に知らせるために走り、塔弥が独唱の手を引いて唱和と対面した。
互いに変わってしまった姿だったが、面影が残っている。 無言で抱き合い涙した。

「領主、くれぐれも頼みますね」

「もちろんに御座います。 シキ様におかれては大きなお力添えを頂き、なんと申し上げてよいものやら」

「礼なら紫に」

「え? どういう事でございましょう」

「唱和が東に帰ることは本領からの命として、決まってはいましたが、北の領主代理を説き伏せたのは紫です。 北が飲み込まなければ、唱和も快くこちらに帰ってはこられなかったでしょう」

「・・・なんと」

「民の様子はどうですか?」

「はい、まだまだ落ち着いてはおりませんが、もう一度紫さまが民にお姿を見せて頂ければ少しは落ち着くかと」

「そう。 それでは安心ね。 わたくしが本領を出た後に紫たちも本領を出たでしょう。 迎えてやってちょうだいな。 ではまた様子を見に来ます」

最後の一人を乗せてきたロセイ、本領に帰って籠を下ろしてもらえば一仕事が終わる。
ロセイの後ろをキョウゲンが飛んでゆく。



昼食を終えてから本領を発った紫揺たち。 相変わらず此之葉は馬にはなれないようで、後ろに座る男にしがみ付いていた。
一方、横座りの紫揺は跨って一人で乗りたい気分になっている。

(屋敷で馬に乗ってればよかった)

日本の北の屋敷には馬場があったし馬もいると聞いていた。 そうなると、きっと教える者もいただろう。

(領土に帰ったら、教えてもらおうかなぁ)

そう思った自分に驚いた。
“領土に帰ったら”

(帰ったら? 領土に?)

東の領土から本領に来たのだから、東の領土に “帰る” それで間違いなどないのだが。 一考する。 だが答えなど出ない。

(・・・とにかく日本には帰らなくちゃ。 帰って先輩にお金を返さなくっちゃ)

「どうしました?」

身体を捻り鬣(たてがみ)を両手で持っている紫揺の後ろから声が聞こえた。

「え?」

「何かお気になる事でも?」

紫揺の後ろに乗り馬を操っている男だ。 来た時と同じ男である。

「いえ・・・。 馬に乗れるようにはどれくらいかかるんですか?」

「人それぞれですが、きちんと調教さえされていれば乗って歩かせるだけならすぐですよ」

「こんな風に走らせるには?」

「それも人それぞれ。 飲み込みというところを除けば、比較的男の方が早いですな。 やはり力の差がありますから」

「力?」

「足にも手綱を引く腕にも力が必要です」

「そうなんだ」

「さて、もう山を登りますから、考え事をされていては危ないですよ」

「はい」

鬣(たてがみ)から手を離して大人しく座った。

馬で岩山を登り、見張番の居るところで馬を下りると丁寧に礼を言い、洞を抜け東の領土に入った。 これから山道を降りて行かねばならない。

「道、覚えてるかな」

秋我が不安になるような独り言を言う。

「大丈夫ですよ。 三人いれば」

ここは全く手が入れられていなく、木々が自由に生えているし、岩や石もゴロゴロとしている。 草の生えていない一本道を歩いてきたわけではない。 それに行きと帰りでは見えるものも違ってくる。

「あ、私はずっと下ばかり向いていたので、何も覚えておりません。 お役に立てず申し訳ありません」

「あ、いや、そんなこと気にしないで下さい。 要らぬことを言ってしまいました。 きっと周りを見れば分かるでしょう」

「まかして下さい。 枝や岩を見たら私も分かると思います」

「枝や岩ですか?」

「あ、あは。 何でもありません」

あの岩の上に上がりたいとか、あの枝に跳びつきたいと思ったから覚えているとは幼稚すぎて言えない。 それなりに自覚はある。

「さ、行きましょう」

秋我を先頭に山を下り始めた。
秋我が迷った時には、偶然に紫揺が跳びつきたかった枝を見つけて 「こっち。 あの枝の下を歩きました」 などと、秋我と紫揺の二人がかりで、ようやく山を下りた。

此之葉にしては、下りであるから上りほど息が切れることなく、秋我が迷えば足も止めていた。 上りより随分と楽な下山であった。

「いや、紫さま助かりました。 あの時、私一人で帰っていれば完全に迷いました」

領主が本領に残り自分が領土に帰ると言った時のことである。

「そんなことないです。 ほとんど秋我さんの後ろを歩いていただけです」

そんなことは無いと言いたいが、こんなことを言い合っていても仕方がない。
木々の間から顔を出すと二台の馬車が待っていた。

「お疲れ様でございました」

阿秀と塔弥が紫揺を迎える。
馬車を見てホッとしたのか、此之葉がようやく人心地ついたように息を吐いた。

(色々あったんだもの。 疲れただろうし、一人になりたいだろな)

阿秀の後ろに控えている馬車を見ると、既に御者台に座った塔弥の横に秋我が座ろうとしているのが目に入った。

「阿秀さん、あんなのってありなんですか?」

紫揺の視線を追う。

「ええ。 御者台には二人座れますから」

単に塔弥と秋我のことを訊かれたと思ってそう答えたが、あとで後悔をしたのは言うまでもない。

「じゃ、私もそうします。 此之葉さんを乗せてあげて下さい」

「はい?」 と言った時にはそこに紫揺はいなかった。
取り敢えず今にも崩れそうな此之葉を乗せ、すぐに御者台に回るとすでに紫揺が座っているではないか。

「いったいどうやって――――」 上られたのですか。 と訊く必要はなかった。
紫揺のことを知らないわけではないのだから。 普通の女人なら上ることの出来ないところも上るだろう。 あの短い衣装ででも。 その衣装だから、阿秀が御所台に来る前に上ったのだろう。

「こちらでよろしいのですか?」

「こちらがいいです」

気付かれないように短く息を吐いて、オープンにしていた馬車の扉を閉める前に、紫揺は御者台に座っているからと此之葉に告げた。 予定ではオープンのまま走ることになっていたが、その必要はなくなったようだ。
それに此之葉の様子を見るとその方が良いかもしれない。

阿秀が馬を歩かせると、後ろから塔弥の操る馬も歩き出した。

「唱和様はどんな感じですか?」

「今は独唱様と落ち着いてお話をされています。 塔弥と独唱様の憂いが取れました。 これで塔弥は紫さま付きに戻ってきます」

領主から聞かされた。 塔弥は見つからなかった曾祖叔父のことを、独唱も忽然と居なくなった唱和のことをずっと気にしていたと。 図らずも塔弥の曾祖叔父と唱和は同じ日に居なくなった。 塔弥が唱和に寄り添っていたのはそれが理由だったと。

唱和が忽然と居なくなったことを知っていた、同じ日に兄を失った塔弥の曾祖父。 その曽祖父が塔弥の名を引き継ぎ紫付きとなり、唱和のことは代々の領主と塔弥にのみ口伝されていたが、他の者たちは先の紫を探すことに懸命になっていて、唱和のことを知らされなかった。
よって名を引き継いできた者は、この時きかされるまで唱和の存在さえも知らずにいた。
独唱もまた、同じ日に居なくなった塔弥の曾祖叔父を案じる代々の塔弥を案じていたのだという。

「ああ、さっき申しましたことはあまりお気になさらないでください。 あくまでも紫さま付きということです」

紫付きであって紫揺付きではないと言っている。 紫揺にはまだどうするのか選択権があるのだから。

「はい。 でももうそろそろ決めなくちゃいけないですよね」

四方がいつまでも洞を潰さないわけがない。 そうなるとその時そこに居た土地で一生を過ごすということになる。 もう一方の土地には行けなくなるのだから。

「私から申し上げられることは、あちらでのことは分かりかねますが、東の領土の民は紫さまという存在を待っておりました。 そして今も祭でお会いできた紫さまを待っております。 ただそれだけです」

「ズルイです。 その言い方は」

「そうでしょうか?」

「だって、向こうでは私のことを誰も待っていません」

「そんなことはありませんでしょう。 お父上の僚友である佐川様、そして警察の坂谷様、シノ機械の方々もそうです。 よくお考えになられると他にもいらっしゃるでしょう」

「どうかな・・・」

「では敢えて申しますと、あちらで過ごされた生活というものがあります。 あちらは便利です。 あちらに慣れておられれば領土の暮らしは不便なものです。 刺激も何もありません。 退屈なだけです」

「どうしてそんな風に言うんですか?」

「私はあちらに行って驚きました。 ですから紫さまはその反対でしょう」

「そうなんだ」

「少し遠回りになりますが、民が浮足立っていますので、紫さまのお姿を民に見せてやって頂けますか? このまま馬車で民の居る所を走るだけですのでなんのご心配もいりません」

そう言うと馬車を端に寄せながら速度を落とした。 塔弥の操る馬車が前に出ると、また元の位置に戻りスピードも戻った。
しばらく走っていると民の声が聞こえてきた。 祭をしていたあの場所に民がたくさん集まっている。

「うわぁ・・・」

ゲッソリしそうな声を上げる。

「ご安心ください。 誰も紫さまを引きずり降ろしはしませんから」

これが此之葉なら、にっこり笑って下さればそれで宜しいかと。 と言っているだろう。

民の集まる中に入って行くと歓声が沸き起こった。 先に走っている塔弥の操る馬車が人の波をかき分けている。
紫さま! と呼ぶ声があちらこちらから聞こえる。 待ってくれていたんだと思うと自然と笑みが出る。 そして紫さまと呼ぶ声の中に「お帰りなさいませ」 という声が聞こえた。

(お帰りか・・・) 向こうに帰って誰がそう言って迎えてくれるだろうか。

頑張って笑みを向けようとヒキガエルの顔になった。
阿秀の肩が震えている。


「お帰り・・・なさいませ」

領主と紫付き六人が迎えに出てきていた。 領主の声が一瞬止まったのは、御者台に紫揺が乗っていたからだ。
民たちにはいつになるかは分からないが、祭の場所での迎えのみと言ってあった。 こちらまで入ってくる不届き者はいない。

「一番疲れたのは此之葉さんです」

言うと衣の裾を手で押さえて御者台から跳び下りた。
若冲がアワアワ言い出して野夜に頭をはたかれた。 阿秀が仕方ないと言った顔で御者台から降り、此之葉を下ろすために後ろに回る。

「此之葉さん立派でした。 その分凄く疲れていると思います。 休ませてあげてください」

そこに秋我もやって来て紫揺の言葉に加勢するように言う。

「ええ、堂々として、それまでの此之葉と同一人物とは思えない程でした」

「独唱様に自慢して聞かせたいほどでしたよね?」 紫揺が秋我を見上げると、「全く以って」 秋我も紫揺を見て答える。

「そうで御座いますか・・・」

領主の歯切れが悪い。

「秋我、本領であったことを訊きたい。 先に家に帰っていてくれ」

「・・・はい」

秋我に向けていた顔を紫揺に戻す。

「唱和様がお話をされたいとのことです。 紫さまの仰られますように此之葉を休ませたいのですが、此之葉と共に唱和様のお話をお聞きいただけますでしょうか」

この時には此之葉が紫揺の斜め後ろに立っていた。 紫揺と此之葉が目を合わす。

「此之葉さん、大丈夫?」

「はい、馬車の中でゆっくりと出来ましたので」

「じゃ、行きましょうか」

領主が先頭になって独唱の家に向かう。 領主は既にどんな話かを聞かされているのだろう。 その面持ちは暗い。

独唱の家に入り、通された部屋に入ると独唱と唱和が居た。 その二人が手を付いて頭を下げた。 そしてそのままの体勢で独唱が言う。

「紫さまには何十年と離れておりました姉上を探して頂きました。 どれほどの礼の言を尽くしても足りない思いでございます。 誠に有難うございます」

「あ、いや。 ・・・はい」

偶然ですから、とはこの場には合わないだろうと言わなかった。
そして同じように頭を下げたままの唱和が言う。

「紫さまには道理に叶わぬことを申しました。 お許し願いたく存じます」

(えっと・・・意味ワカリマセン)

北の領土をお守りください、そう言ったことを言っているが、紫揺には分からなかったようだ。
唱和の言葉の意味が分からない。 だが話しはまだ続くようだ、取り敢えず黙って聞いていよう。

「許しを乞う身でありながら、紫さまにお頼み事が御座います」

(頼み事? いやなモノでなければいいし、楽しいものなら歓迎ですけど?)

「姉上の気がかりを取ってさしあげたく、わしからも願い申し上げます」

(いやいや、聞くけど、それって殆ど泣き脅しに近いし) そう思いながらも顔には出していない。

「取り敢えず、頭を上げてください」

やっと出た言葉がそれだった。

唱和、独唱姉妹が同時に頭をゆるりと上げる。 こうして見ると本当によく似ている。 あの時、北の屋敷で見た時は恐いとさえ思った唱和の顔なのに、今はそんなものなど感じない。 恐いと感じたのは、知らない屋敷で何も分からない状況で二人っきりにされ、頭を下げた姿で迎えられたからかもしれない。 勝手に一人で怖れを感じていただけなのかもしれない。

「それはいったい何なんですか?」

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虚空の辰刻(とき)  第197回

2020年11月06日 22時03分27秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第197回



何が起きたのか分からなかった唱和がなんとか抵抗を試みるが、到底五歳。 ウーウーと猿轡から声を漏らすことしか出来なかった。 だがそれすらも疎んだその男が、唱和に何かの匂いを含んだ手巾を顔に被せた。
唱和の記憶はここで一旦途絶えている。

男の話し声が聞こえてうっすらと目覚めた。 頭がぼんやりとしている。 猿轡はとられていたが、まだ身体は縛られていた。 誰かが、何人かが出入りのする音も聞こえてきた。 波に揺れてはいない。 それに畳の上にいる。 船の上ではないのが分かる。

何が起こったのか、ここはどこなのか、どうして縛られているのか、何も分からない。 不安が黒い点となり果てしなく心の中に広がっていく。 涙が出そうになるのを口を一文字にして堪える。 だんだんと頭の中がはっきりとしてきて、男たちの話す内容も聞き取ることが出来る様になってきた。

『ムラサキを取り逃したらしい』

『どういうことだ』

『崖から落ちたらしい』

また戸が開いた。

『様子はどうだ?』

『まだ目覚めていません』

『 “古の力を持つ者” を持って帰ってこられたんだ。 ムラサキを追わせろ』

『ですが、崖から落ちたと』

『ああ、だから崖の下を探す。 少しでも息があれば “古の力を持つ者” なら分かるだろう。 東より先に見つけねばならんのだからな』

(紫さまが崖から落ちられた?)

驚いて身体を動かした拍子に足元にあった小卓に当たってしまい、その上に置いてあった筆がばらばらと音をたてて落ちた。

『起きたようだな。 お前の後を継ぐ者だ。 しっかりと鍛え上げろ』

戸の閉まる音がしてそれ以上何も聞こえなくなった。

(後を継ぐ?)

意味が全く分からない。

唱和が横たわっている部屋の障子が開いた。

『目が覚めたか』

初めて見る男だ。

『ここはどこですか、どうしてこんなことをするのですか』

『お前はこれから北の領土の “古の力を持つ者” として生きていく』

軽く持ち上げられると立たされた。 男が背筋を伸ばして目の前に座った。
人差し指と中指にフッと息を吹きかけた。

(封じ込まれる!)

そう思った瞬間、自分の名前に精神を集中させた。 いつか自分のことを分かってもらえるために、いつか自分自身で封じ込めを破るために、それには名しかない。

―――唱和。

額に人差し指を充てられた。



唱和の瞼に続いて頭がゆっくりと上がる。

「いかがで御座いますか? 痛みはなくなりましたでしょうか? 頭痛だけではなく、腹の底からの痛みも」

頭痛以外にそんな所に痛みがあるなどとニョゼは知らなかった。 だがよく考えると、ショウワが背中をさすってくれと言っていたのがその痛みだったのだろうか。

唱和の顔が上がった。 その目には二筋の涙が零れていた。

「唱和様、お帰りなさいませ。 お迎えがこれほどに遅れましたこと、師匠と共に深謝いたします」

ニョゼが居る “古の力を持つ者” 独唱と共に深謝するとは言えない。

四方がシキを見た。 終わったということなのだろうか、という目をしている。


別部屋に敷かれた布団に唱和が横臥し、その横にはニョゼがついている。
そのニョゼの耳に唱和の口から聞かされたことは、四方が言っていたことを裏付けするものだった。
唱和は東から攫われてきた “古の力を持つ者” だった。

今は中休憩ということになり、唱和の疲れが取れてからこれからのことを話すということになっている。

紫揺たちはいつも食事をとる部屋に戻り三人で茶を前にしている。

「凄かったですね、此之葉さん」

「ええ、本当に。 堂々としていて。 驚きました」

「いえ、そんな・・・あの、紫さま・・・」

「はい?」

「先ほどは有難う御座いました」

「あの時は此之葉さんの付き人のつもりで行きましたから、何にも気にしないでください」

唱和に手を携えたことを言っている。

「付き人だなんて、紫さまにそのようなことをお考えさせてしまい申し訳ありませんでした。 私が不甲斐ないばかりに」

「何を言ってるんです。 いつも此之葉さんにお世話になってるんですから、それと比べれば手を取ったことくらい、私のしたことなんてノミみたいなものです」

「ノミ?」 訊き返した秋我が声を大きくして笑った。

「まぁ、秋我ったら」

「いや、申し訳ありません」

謝ったのにまだ笑っている。

「紫さまが手を携えて下さったのもそうですが、あの時、ニョゼ様に私を信じるようにと言って下さったこと。 とても嬉しくて。 落ち着いて解けたのも紫さまのお言葉添えがあったからです」

「本当のことを言っただけですから」

悪びれることもなく言う。

「紫さまはご自分のお力にまだお気づきになっておられないようですが、紫さまのお一言がどれだけ大きなものか。 此之葉はよくよく分かったと思います。 私もですが」

笑いを収めた秋我が言い、此之葉が頷く。

「思ったことを言ってるだけです。 前言撤回もきっと簡単にしますし・・・あ、するかなぁ? どちらにしても口と頭が直結しているみたいです」

「口と頭が直結? それはどういう意味でしょうか?」

「思ったことをすぐ口にして、考えてないってことです」

秋我がまた大きな声で笑った。 見た目も領主によく似ているが、声帯も似ているのだろう。 良く響く声である。

「あら、また秋我様の笑い声」

「どんなお話をなさっているのかしら」

「襖に耳をくっ付けましょうか」

襖の向こうで三人が話している。
ん? 三人?
先の二人は “最高か” だ。 だが、その二人に混じって一人の存在がある。
その一人は、紫揺と此之葉と秋我、それぞれに違う茶を出した者でその時に紫揺に 『・・・すごい』 と言わせたシキの従者。 いわゆる紫揺派新参者である。

「まぁ、丹和歌(にわか)ったら、そんなことを言っては、はしたないわよ」

と言う彩楓の耳は襖に近寄っていく。

「そうよ。 そんなはしたないことをシキ様がお知りになったらお嘆きになるわ」

紅香の耳がピタリと襖にくっ付けられた。

「あら、お言葉とされていることが違いますが?」

丹和歌の耳も襖にくっついた。


「唱和はどちらを選ぶと思う」

長年いた北の領土か、生まれ故郷の東の領土か。 シキとマツリがそれぞれに考える様子を見せる。

「咎を与えなければいけない時がある」

唱和の選ぶそれによっては、それなりの咎を考えなくてはならない。

「攫われたのに咎ですの?」

「この何十年かは、何も知らなかったのだから仕方のないことだ。 それに唱和がしたくてしたことではない。 そこに咎はない。 だが攫われたことを知った、そのあとに選ぶ道の咎だ」

「攫われ、北の領土の者ではないと知っても、北の領土を選んだ者への咎ということですか?」

マツリが言う。

「そうだ。 唱和の身に起こったことはあってはならぬことだ。 だがそれを知っても尚 『各々の領土に足を踏み入れぬこと』 それを犯すと言うならば、それなりの咎を考えねばならん」

「父上、ですが・・・」

「シキ、唱和は攫われた時のままの童女ではない。 領土のことも本領のことも、よくよく把握しておる。 その上で唱和がどちらかを選ぶのだからな」

「それは今日中にということですか?」

マツリが問う。

「ああ。 東の領主が言っておった。 すぐにでも唱和を連れ帰りたいと。 唱和が東の領土の人間だと分かったその時点で、唱和を東に帰すのが尋常一様。 だが、あまりにも北に居た時が長すぎる。 唱和に選ばすのも筋であろう。 それは今日中に。 そして唱和が北を選んだ時の咎を考えておくのが本領たるもの。 北と東が洞を見つけ報告が無かった事に対しての咎も未だ出しておらん。 唱和のことが明らかになったからには、そちらの方もすぐに考えねばならん」

「そちらの件はどうなさいます。 北の領主はまだ動けない状態でございますし、簡単に本領のように労働、罰金というわけにはいきません」

「だからといって咎が無かった事には出来ん」

東西南北の領土が独立して初めての咎である。 それまでなら、各領土とも本領とも行き来があり、各領土とも互いの本領や領土を行き交うに金も持っていた。 だが各領土が独立にするにあたり金は本領が没収している。

金を造っていたのは本領であるということと、金があるから問題が起きるという理由からであった。 独立前は咎があれば罰金や本領に赴かせ労働を強いていたが、今はそれがままならない。

「謹慎と言う事では治まりませんか?」

「謹慎?」

「北は領主が動けません。 その上に唱和のことがあります。 これからを考えてゆかねばならないでしょう。 東は東の領主が言っていたように、紫が現れて民が浮足立っているかもしれません。 そんな時に領土を離れるのは考えものです。 本来なら本領での労働が望ましいところではありますが、今回は領土独立後初めてということで大赦として領土内での謹慎。 それではいけませんでしょうか」

四方が腕を組んだ。

「父上、マツリの言うのがよろしいかと」

「・・・緩いな」

「父上!」

「シキ、そう怒るな。 今は今回のことを除けば各領土が落ち着いておる。 だが領土が荒れたならばそんな緩いことは言っておられん。 過去にこれほど軽い咎があったではないかと言われたならばどうする」

「そうは言わせません」

問われたシキではなくマツリが応える。

「なにを根拠に」

「我が代々の祖、そして父上より引き継ぐ本領と各領土を平静に保ち、のちの世も争いなきよう我が身を粉にしてそう致します。 よって、その様な言(げん)を吐く者はおりません」

「・・・マツリ」

あまりにも早い言葉の出だった。
本領では本領領主の跡を継ぐ者が、本領と各領土の先ことを考えて己の身を削ることを宣言した時が代替わりである。 そしてその事は代替わりをしてから知らされる。 よってマツリは今その事を知らない。
だがマツリは代替わりにはまだ若すぎる。

「自信があるというのだな?」

「はい」

自信ではない、その様に力を注ぐだけだ。

「ではマツリの言うように」

「有難うございます」

「唱和のことはどう考える」

「一切の咎は無いものと」

「何もかも分かっていて北の領土に残ると言ってもか」

「いいえ、唱和に選ばせることが酷かと思います」

「どういうことだ?」

「唱和は迷うでしょう。 ですから本領から東へ帰るようにと言えばよろしいかと」

「唱和が迷うとは限らん。 それに北に残りたいと思っておっても本領が東へ帰れというのか」

「父上、それこそ緩いのではありませんか?」

四方が意外な目をした。 見方を変えるとそうなるのか。

「・・・そうかもしれんな」



「ははは、結局は全てマツリにしてやられたということか」

「そういうことになります」

四方が事の顛末をご隠居に報告に来ていた。

「だが、マツリのそれは若さがゆえ出てきた言(げん)だろう」 

『我が身を粉にしてそう致します』 と言ったマツリの言のことを言っている。

「お前もまだ五十の歳じゃ」

「四十九でございます」

「一つくらいどうでもないであろうが。 それにそう言うならば “まだ五十の歳” より更に歳が足らんということ。 マツリにおいては領主どころか、男としてまだまだの二十四じゃ。 『己の身を削ることを宣言した時が代替わりである』 代々のそれにはまだまだ当てはまらん。 あまりマツリの言うことを優先せず、お前の手で決めよ」

「私の歳を間違えて、マツリの歳を違いなく覚えておられるとは、如何ともしがたいですな」

「そんなことはどうでもいいじゃろうが。 それで? 唱和は納得して東に帰ったのか?」

「納得も何もありませんでした。 ただ頷いただけでございました。 あまりに心配になり視気(シキ)に視させましたら、北への想いは微塵もなかったようです」

セノギに『わしは、別段此処を気に入っておるわけではない。 だからと言って北の領土も気に入っておるわけで・・・』 と言ったそのままだった。
此処というのは日本にあるムロイの屋敷のことである。

咎のことを考えた時が無駄だったか、と四方はどこかでそう思ったが、マツリとシキと問答することも大切な時である。

少しの溜息で済んだものだった。
だが、それだけではないことを四方は知らなかった。

官吏が罪人への咎を迷った時には、何の迷いもなく四方が咎を与える。
シキはそれをいつも心に病んでいた。 だがシキの知らないところで、こうして四方が深く考察していたのかと知ると、四方の言に心病んでいたことを猛省する思いであった。
シキがそんなことを考えていることなど知りもしない四方であった。

「で? 結局は当時のことを何も覚えておらんということか」

唱和の身体が楽になった後、四方が唱和に当時のことを訊いたが、唱和は何も聞かされていないということであった。

「覚えていないのではなく、知らされなかったということでしょう」

ご隠居が言ったように年齢なことというより、当時の北の領土内のことを何も見聞きさせられなかったということだった。

「当時の北の領土のことはこれで糸が切れたということでしょう」

「致し方あるまい。 それに過ぎたことだ」

「はい・・・」

その四方は “古の力を持つ者” に対して思うことがあった。 それをご隠居に聞かせる。
本領には “古の力を持つ者” は辺境にしかいない。 その力を目にすることなどそうそうない。

此之葉が封じ込めを解いたあと、唱和がニョゼに支えられ別部屋に行った後、四方が此之葉に訊いた。
何十年とあったものが、あれだけの言葉で解けたというには、なんとも理解しがたいのだが、と。

此之葉の説明はこうだった。
唱和に掛けられた封じ込めは、これからどんな人間として生きていくかというだけのことであった。 それは唱和を見た時にすぐに分かったという。
たしかに『お前は北の民』 と封じ込めの最初に命じられていたが、東への望郷をも封じ込めたわけではなかった。
残念ながらそれが表に出てくることは無かったが、どこかでそれを感じ、北の領土に思い入れを持っているわけではないと思っていたのだろう。

もしこれが独唱や此之葉が同じ言葉で封じ込めをしたとすれば、望郷も何もかも一つ一つを詳しく命じずとも、全てを封じ込めることが出来、逆にそれを解こうとするならば、あんな短い言葉や時では済まなかったということであった。
時の北の領土の “古の力を持つ者” は、東の持つ力の足元にも及ばなかったようである。

「ふむ。 過程を考えるとなんとも寂しいものがあるが、時を戻せるわけではない。 時の北の “古の力を持つ者” の力が弱かったお蔭で丸く収まったと考えるしかないのう。 で、領主代理とやらは?」

「最初は肩を落としておりましたが、それが唱和の一番の道であろうと、北に帰り領主にその旨をしっかりと伝えると言っておりました。 代理が男ならよかったのですが・・・女の涙は見たくありませんなぁ」

ニョゼが先に本領を発った。 帰る時にはニョゼは涙にむせんでいたという。

「なんじゃ、美しかったのか?」

「そんな意味では御座いません」

美しかったが。

「怪しいもんじゃ。 それで? 北と東に咎の言い渡しに行っておるのか?」

「今頃は唱和を東の領土に降ろしていることでしょう。 今日はロセイが三度も籠を乗せ飛んだことになります。 キョウゲンもまた連日の陽の高い中で、今日は最初に様子を見に行ったのが一度、ロセイについて陽の高いうちを三度も飛び、シキとマツリが休ませたいと言いまして」

「ロセイのことは前代未聞じゃ。 主以外を乗せるなどと、身体どころか精神を休ませても仕方があるまい。 まぁ、キョウゲンも昼日中に連日で飛んでいては目も効かんようになってしまうかもしれん。 どちらも致し方ないことか」

「明日には飛ばせます」

「ああ、そうじゃな。 それでいいじゃろう。 それで・・・」

ご隠居が先程までと違って厳しい表情を見せて四方を見る。

「リツソが来年十五の歳になる。 二つ名は考えておるのだろうな」

二つに一つ、厳しい顔をする方を間違っているのではないか。 まぁ、もう今は領主ではないのだから、領主としてのことを考えなければならないことは必要ないとは分かっているが、それにしてもここにきてリツソの二つ名の話しとは。 四方が大きな溜息を吐く。

「なんじゃ考えておらんのか」

「リツソにはまだ何の才も見当たりません。 考えようもありません」

二つ名を決めるにあたって生まれ持っての才能に合わせて決めるが、リツソにはそれが全く見えない。

「お前が見落としているだけではないのか」

「まだ勉学すらもままならない状態です」

「では何と申すか、十五の歳を迎えても幼名で過ごさせるということか」

「そう焦られずともまだ時があります」

「そんな呑気なことを言って―――」

襖の向こうから声がして、すっと開くと四方の側付きが座っていた。

「お話のところ申し訳ありません。 四方様に官吏から急ぎ相談があるとのことで・・・」

「ああ、そうか。 すぐに行く。 それでは父上、失礼いたします」

「しかと考えておけよ」

笑顔で応えた。

ご隠居の屋敷を出ると振り返り側付きに礼を言う。

「助かった。 言いたいことは言えたし、あれ以上になれば止めることも出来んかったわ。 良い頃合いだった」

「それはよう御座いました」

官吏からの相談というのは真っ赤な嘘である。 ご隠居の屋敷に入る前に、リツソなりシキなり澪引の話が出れば、呼び出しが来たと四方を助け出すということを画策していたのであった。

四方が馬に跨った。

「さて、仕事が溜まっておるのぉ・・・」

考えただけでゾッとする。

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虚空の辰刻(とき)  第196回

2020年11月02日 22時04分35秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第190回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第196回



キョウゲンが空中を旋回している。 その下に大きな姿を見せたロセイが翼を盾のように広げ風を受けると、静かに地に下りた。
すぐにキョウゲンも下降してきてマツリがキョウゲンから跳び下りる。

ロセイが翼にシキを乗せるとゆっくりとシキを地に降ろす。 その後ろでは階段状の脚立のようなものを立て、四方の従者たちがそれに乗りショウワとニョゼを籠から下ろしている。

「ロセイ、疲れたでしょう。 しばらく休んでちょうだい」

ロセイの首を撫でながら労をねぎらうが、ロセイの方からもシキを心配する声が出る。

「シキ様こそ、いつもと違う場所にお座り願って大事は御座いませんか?」

「有難う。 私は大丈夫よ。 すぐに籠を取ってもらうわね」

シキが言うまでもなく、籠からショウワとニョゼが降りた途端、反対側から職人たちが腹帯を緩め、籠の取り外しにかかっていた。

「大事はなかったですか?」

階段から降りてきたショウワとニョゼにシキが声を掛ける。

「籠の中にうずくまっておりましたから何とも御座いません」

隣でニョゼも頷く。

「ショウワ、久しいのぉ」

シキが次に言いかけた時に、四方から声が上がった。

「これは四方様」

ショウワに倣ってニョゼも深々と頭を下げる。

「この老体を手厚く迎えて下さり礼を申し上げます」

シキとロセイに禁を破らせたのだ。 気にするな、などということは言えたものでは無い。

「まずは慣れぬことに疲れたであろう。 茶でも飲んでゆっくりすると良い」

四方の従者が「こちらで御座います」 と案内に先を歩き、シキの従者が一人すぐに進み出てその後ろに付く。 案内をする相手が女人であるからである。

四方が振り返り視線を変える。

「シキ、大事なかったか?」

「ええ、わたくしは」

「ロセイか?」

ショウワとニョゼが居る中、ロセイの羽の具合を見るわけにはいかず、二人の後姿が遠のいた今やっと羽の具合を見ることが出来る。

「ご心配が過ぎます。 なんという事も御座いません」

「だれか、手巾を」

すぐにシキの従者が差し出す。 もう濡れてはいない翼を拭いてやる。 次に反対に回り翼の先を丁寧に見る。

「良かった、傷ついていないようね」

「あれしきのことで傷をつけることは御座いません」

籠が取り払われた。

「大事は無かったのだな?」

「ええ」

「ではロセイ、また頼まねばならん。 それまで身体を休めておくよう」

「畏まりました」

ロセイがなんともなかったことを知ると、マツリが肩にキョウゲンを乗せてその場から去った。

ショウワとニョゼが従者たちの輪から出てくるのを見た此之葉と秋我は深く頭を下げている。 その前を四方の従者が案内役にショウワとニョゼの前を歩いている。

「え?」

紫揺のその声にニョゼが横を見た。

「え・・・シユラ、様?」

ショウワが驚いてニョゼの視線の先を見る。

「ニョゼさん?」

いつも見ていたスーツ姿と違い、北の領土の民が身に付けていたものを着ている。 すぐにピンとこなかった。

「シユラ様」

「ニョゼさん!」

紫揺が走り寄ってニョゼにしがみ付いた。

「二度とお目にかかれないと思っておりました。 お会いできるなど・・・」

あとは喉が詰まって声にならない。

紫揺にしてもニョゼの名以外の言葉などでない。 ニョゼに回した手でニョゼを感じることしか出来ない。
最初は驚いていた案内役が、「ニョゼさん、ニョゼさん」 と泣く紫揺につられてか、意味も分からずもらい泣きをしている。
急に走り出した紫揺の裾をうっかり手放してしまった “最高か” が何でもなかった様に紫揺の裾を持った。

シキと四方が歩き出したことによって、従者の輪が横に広がり道を開けると、そこにニョゼと紫揺の姿があった。

「あれは?」

四方が言う。

「あら、ご紹介したかったのに」

「どういうことだ?」

「ニョゼと申しまして、ショウワの世話をしている者です。 紫が北に攫われてからは紫の世話をし、紫も心を打ちとけ姉のように慕っている者です」

「そのような者が領主代理か?」

領主代理の選別はマツリに任せていた。

「領主代理という所は何故ニョゼにしたのかは、マツリにしか分からないところですが、紫からはニョゼの人となりを聞いております。 そこだけで申し上げますと充分かと。 それにしても・・・」

「ん? なんだ?」

「少々、妬けますわ」

「は?」

「お母様とリツソがここに居なくて正解でしたわ。 父上、参りましょう」


「少しはゆるりと出来たか」

改まった席である。 四方の横にシキ、マツリと座り、シキの前にショウワ、隣にニョゼが座っている。

「お陰様で」

「今からショウワにとって初めて耳にすることを話す。 無論、ニョゼもだ。 北の領主もまだ知ることではない。 北の領主の代理であるニョゼは漏らすことなく、これからのことを聞き見守り、北の領主に報告するよう」

「畏まりました」

「では心平静にして聞くよう・・・」

時は東の領土で先の紫が襲われたところから始まった。 その時に “古の力を持つ者” の弟子である姉妹の内、当時五歳の姉が忽然と姿を消した。

姉は先の紫にそれまでの五年間可愛がってもらっていた。 姉は先の紫の “気” を知っている。 妹は当時三歳であった。 紫の “気” を姉ほどには濃く覚えてはいないが、東の領土の古の力は東西南北、どの領土より優れた力を持っていた。

東の領土の師匠である “古の力を持つ者” が、紫が襲われる前より、同日に姉が姿を消す前より、床に臥せっており、襲われた紫を追う力を持ち得ていなかった。 いや、持っていたとしても、あの地に入り込んだ紫を追うことなど出来なかった。

領土とあの地が繋がっているのは洞だけであって、その他のことは遮断されてしまうからである。

床に臥せりながら師匠は妹の弟子に紫の追い方 “気” を教え込んだ。 それを受けた妹が八十の歳を手前にして、やっと先の紫の孫である紫揺を見つけたが、その目の前で北の領土の者に紫揺を攫われてしまった。

四方が口を閉じ、大きく息をした。

「実はこのことを知ったのは、ほんの数日ほど前だ。 東の “古の力を持つ者” の弟子の姉が姿を消したことも、弟子が姉妹であったことすらも本領は知らなかった。
“古の力を持つ者” とは会うが、そんなに幼い弟子とは会うことがないからな。 それが数日前、紫が東の領土に入り、東の “古の力を持つ者” を見た時に気付いた事があった。 “古の力を持つ者” に姉妹はいないかと尋ねた。
紫は北の者たちが住むあの地の屋敷でよく似た者を見た。 同じ気を発している者を見たと言い、東の領土がそれを聞き本領に申し立てておる」

ショウワもニョゼも瞬きすら忘れたようになっている。 何をどう理解していいのか分からない。 北の領土が東の領土の入った年数から考えると、年齢的に言ってそれではまるでショウワがその忽然と居なくなった姉と言っているようなものではないか。

ショウワが目を閉じゆっくりと息をした。

「なにを仰るのかと思えば。 そのようなことを聞かせるために、お呼びになったと仰せになるのですか」

「それが東の領土の者の申し立てだ。 私から幾つか訊きたいことがある」

「なんなりと」

「ショウワ、父母(ちちはは)はどこに住んでおった」

「・・・物心がついた時には師匠と住んでおりましたから、父母のことは記憶には御座いません」

「ショウワの瞳の色は北の瞳の色とは違う。 だがそれはずっと家に引きこもっていたからだと思っていたが、それはどう思っておった」

「たしかにわしだけは濃い色だとは思っておりましたが、気に留めるようなことではありますまい。 このニョゼにしても他の者より青みがかかっております」

「北の領主はショウワのことを “古の力を持つ者” とは知らなかったようだが、それは知っていたのか」

ニョゼが驚いて伏せ気味にしていた瞼を上げた。

「領主が辺境から来た者と代わり、民もヒオオカミを畏れ、領土の中は混乱状態だったと聞いておりました。 辺境から来た新しい領主は領土のことを何も知らず、民は領主とは打ち解けられず、師匠から古の力を持っていることを黙っているようにと言われておりました。
領主が落ち着けばその時に、とは言っておりましたが、師匠が生きている間に落ち着くことが無かったのでしょう。 領主に何も告げられず身罷りました」

「その時にもそんなに領主や民は荒れておったのか」

「わしから見てはそんな風には見えませなんだが、師匠が何をもって落ち着くと言っておられたのかは知り得ませんのでな」

「紫を見つけた時という意味でもあったということか」

「全く分かりません。 わしは何も知らんようです。 つい先日、その昔に北が東の領土に足を入れ、ムラサキ様を攫おうとしたことがあるとセノギから聞いたところです。
何十年も前のことをわしは全く知りませなんだ。 わしが追っているムラサキ様が東のお方だとも知りませなんだ。 師匠からは気を追うようにと言われておっただけです。 ムラサキ様が北の領土を救うのだからと」

首を何度も振って大きな溜息を吐いた。

ニョゼが憂心の目でショウワの手元を見た。 どれ程辛い顔をしているか、顔を見ることなど出来ない。

「そうか」

目の前にある湯呑に手を伸ばして一口飲み、間を計ったように再び口を開いた。

「東の領土から “古の力を持つ者” が来ておる」

ショウワが首をかしげる。

「会うことを許したのは私だ。 その者から説明を受けよ」

四方の声に側付きが襖を開け、外に控えていた紫揺と此之葉、秋我が入ってきた。
今の紫揺は自分の立場など忘れ、ほとんど此之葉の付添人の気分である。
入って来ると大きな卓に歩み寄り、さらにショウワとニョゼに近づいた。

「ショウワ様、お久しぶりです。 その節は失礼な態度を取ってすみませんでした」

付添人気分とは言え、先頭を歩くのは立場的に致し方がなく、此之葉より先に紫揺が声を掛けペコリと頭を下げる。 先に声を掛けたのは、第一声を此之葉に預けるには荷が重いだろうと思ったからだった。 その紫揺はまだ本領の衣装のままである。

紫揺が頭を上げるのを見ると此之葉が口を開いた。

「東の領土 “古の力を持つ者” の弟子に御座います。 師匠は本領まで足を運ぶことが出来ず、若輩ながら私が代理で参りました」

北の領土の人間であるニョゼが居る。 あくまでも名を名乗らない。

「東の領主の長男で御座います。 本来なら領主が居らねばならぬところ、私のような者でご勘弁を申し上げます」

ショウワが立ち上がろうとするのを、すかさずニョゼが支えた。

「北の領土 “古の力を持つ者” ショウワに御座います」

先程、紫揺が自分の名を呼んだ。 今更名乗らなくとも後の祭だ。

「この者は、北の領土の才知の持ち主で御座います」

ショウワに手を携えながらニョゼが辞儀をする。

北と東の者の間に小ぶりの卓が出されてきた。 互いに向かい合い座る。 上から卓だけを見ると“上” という字の三画目がない形となっている。

五人が席についた。 これからはショウワと此之葉だけの会話だ。 あとの三人は見守るだけであり、さらに本領はその五人を見守るだけである。

「唱和様、まず “古の力を持つ者” として “封じ込め” はご存知で御座いましょうか?」

「封じ込め? もちろん知っておる」

そう、知っている。 己自信もそれを使っているのだから。 だがこの東の領土の “古の力を持つ者” が言っているのは、違う意味であろう。 単に言葉の意味を訊いているのではなく・・・。

「この席で封じ込めの・・・」

唱和の声が止まった。
小さく顔を振り、もう一度口を開ける。

「封じ込め・・・封じ・・・ふうじ・・・」

ショウワが顔を歪めた。
ニョゼがすぐに懐から丸薬を出し、ショウワに飲ませようとする。 すかさずその様子を見た此之葉。

「それは?」

「頭痛が酷くいらっしゃい、その折に飲んでいただいております丸薬に御座います」

ニョゼの返事を聞き頷くともう一度唱和を見た。

「唱和様、少しの時です。 我慢が出来ましょうか? そのあとに頭痛を取らせていただきます」

「ああ。 少しの間なら」

頭痛を取る? どういう意味だと思いながらも、それを考えると更に頭痛が酷くなる。

「ですが・・・」

「ああ、ニョゼ構わん」

せっかく先程はニョゼと言わず、才知ある者と言ったのに、頭痛についウッカリ名を呼んでしまった。 だがその前に紫揺が大きな声で名を呼んでいた。 此之葉も秋我もしっかりと聞いている。

「我が東の領土 “古の力を持つ者” の姉上、御名は唱和様に御座います」

ニョゼがショウワを見ていた目先を此之葉に転じた。 ショウワは頭痛を我慢しながらも、俯いていた目を大きく開けた。

「北の領土先代 “古の力を持つ者” から “封じ込め” を受けられ、その抵抗として御名を残された、東の領土 “古の力を持つ者” 唱和様。 ここに “封じ込め” をお解き致します」

此之葉が立ち上がり唱和に向かって一歩を出す。

「待て、それはどういう・・・ウグ・・・」

頭痛のあるなか、また重く巨大な文鎮のようなものが、腹の底から浮き上がろうとしている。 それが身体を痛める。

「ショウワ様!」

「せ、背を・・・」

ニョゼが慌ててショウワの背中をさする。

「その痛みは “封じ込め” に抗おうとした時に起こるもので御座います。 同時に “封じ込め” の力が弱まってきていることでも御座います」

此之葉がショウワの隣に立った。

「お立ち願えますか?」

「今のショウワ様のお身体では立ち上がる事など、ままなりません」

「ではお手をお添え下さい」

紫揺が走ってニョゼの反対からショウワの腕をとる。

「ニョゼさん、一刻も早く痛みを取ってもらいましょう。 これ以上我慢をされることなどありません。 ね、ニョゼさん。 そっちを持ってあげて。 此之葉さんを信じて!」

此之葉・・・此之葉本人も四方もその名を言わなかったのに、しっかりと紫揺が言ってしまった。 四方が口を歪めたが、紫揺にしてみれば悪気があって言ったわけではないし、そんなことは知ったことではない。

初めて此之葉と聞かされたニョゼ、それは誰を指すのか、この状況では一人しかいない。
迷った表情をみせた後に口を引き結んで頷くと、背中をさすっている手を止め両手でショウワの腕を取った。

「唱和様、最後のお力でお顔をお上げ願えますか?」

もう痛みに何がなにやらわからない。 声に誘導されるように僅かに顔を上げた。 これが限界だ。
此之葉が人差し指と中指の二本の指を立てるとフッと息を吐きかけ、前に立つ唱和の額にその二本の指を充てた。

「幼き日、そなたの泉に深き落ちしもの、ゆるりと浮上し水面(みなも)に上がり、そなたの泉と溶けあい、其がそなたのものとなる」

此之葉の指が唱和の中を探っているかのように僅かにも動かない。
暫くはその状態であったが何かを確信したのか、素早く指を離すともう一度二本の指に息を吹きかけ額に充てる。

「そなたの深淵、我が閉じし」

ゆっくりと滔々(とうとう)と此之葉の声が静まりかえる部屋に鈴の音のように響く。

「そなたの痛み、其はそなたのものでは無く、抗うことなく浮上させ水面より霧消させなむ」

しばらく置いていた指をゆっくりと唱和の額から離した。

「どうぞお座りください」

紫揺とニョゼで唱和を座らせる。 此之葉が屈んで唱和を覗き込もうとしたのを見て、紫揺が場所を譲った。 紫揺に軽く頭を下げ唱和の横に屈むと、その手を唱和の手に重ねた。



『ムラサキか?』

両手で桶を持ち、水汲み場に行ことしていた時だった。 正面から男がやって来てそう訊いてきた。

『見たことの無い顔ですね。 それにその衣。 どこの者ですか』

『ムラサキかと訊いている』

『紫さまはここには居られない』

五歳とは思えぬ凛としたものである。

男が唱和の出てきた家に目を転じた。

『あそこにいるのか?』

『あの家は “古の力を持つ者” の家。 紫さまはおられない』

運悪く、この辺りの殆どの者が紫に付き添い花を愛でに行っている。

『 “古の力を持つ者” ?』

男が嫌な笑いを顔に貼り付け、そのまま進もうとする。

『どこへ行く! 師匠は床に臥せられておる!』

『師匠? ・・・お前は “古の力を持つ者” か?』

唱和が男を斜に見た。

男が満面の笑みを見せて、唱和を抱え上げその口を押えた。
凛としてはいても、身体は五歳。 簡単に男に捕まってしまった。

『 “古の力を持つ者” も持って帰ることが出来るとはな』

唱和を抱えたまま走って船まで戻り、用意してあった縄で唱和を括りつけ猿轡を噛ませた。

『あとは紫のみ』

そう言うと呪われたような目で東の領土を振り返り、船の上に立ちあがった。

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