『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第11回
「あんなのがムラサキか? よく見積もっても親を亡くした迷子の仔ギツネじゃないか。 本当に間違いがないのか?」 かったるそうにネクタイを緩めると、ソファーにドカリと座った。
「領主もお確かめになられたではありませんか。 早季様のお子様であり、ムラサキ様のお孫様だと」 座るムロイの斜め後ろに立つ。
「ああ、確かにそうだが。 注射が効きすぎて頭がおかしくなったんじゃないだろうな」
「注射のことは私の知りえるところではありませんでしたから、そのことには正しく返答をしかねますが、私の見る限りでは注射の影響はないと思えます」
「ふん、まるで俺が指図したような言い方をするんだな」
「いえ」
「まぁいい。 だがアレではあの者達を押さえるどころか尻に敷かれるだけじゃないか」
「・・・それは確かに」
「早季を間に挟んだのがいけなかったのか? 早季という者は何も出来なかったようだからな」
「それは・・・早季様がシユラ様をお産みになったのですから。 早季様なくしてシユラ様をお迎えすることは出来ませんでした」
「はっ、物は考えようだな」 嘲弄する目を斜め後ろに立つ男、そのセノギに向ける。
「この後はどうなさいます?」 ムロイの視線などは意に介さずといった具合に次に進める。
「そうだな・・・。 さっき言った通りだ。 あの迷子の仔ギツネがもう少しマシになれば屋敷に移る。 今はまだ無理だ。 今動けば仔ギツネが・・・ヒナにもなりかねない。 ヒナになられてはどうにもならん」
「東はどういたしましょうか?」 東とは東の領土の者の事。
「放っておけ。 東のすることなんぞ甘ったるいことだ。 だが、その甘ったるい東にこの場所を探られんように蜘蛛の糸を張っておくように」
「はい」
「言いたくはないが、東は古の知 (いにしえのち) が未だにある。 油断はするな。 ・・・古い教えを今もまだ持つなんぞ・・・」 嘲笑で吐き捨てた。
「・・・夕食はどうなさいます?」
「ああ、運んでくれ」
軽く会釈をすると部屋を出て別の部屋に入った。 ムロイの夕食の用意を伝えるためであった。 その後すぐに階上に上がった。
最上階ではいくらもしない内にホテルのワゴンを押す女性と先程の男、セノギが紫揺のいる部屋に入ってきた。
「シユラ様、これからはこの者がシユラ様のお世話をさせて頂きます」
女性がワゴンから少し離れると 「ニョゼと申します」 と、背筋が伸びたきれいなお辞儀をした。 青灰色 (せいかいしょく) の瞳に薄化粧がよく似合う婉然な容姿の持ち主ではあるが、どこか凛としたものを感じさせる
深々と頭を下げるグレーのスーツを着た女性は自分と同い年くらいだろうか、と紫揺が思ったが、誰が見ても紫揺よりずっと年上に見える。 というか、紫揺が実際の歳より幼く見え過ぎるのが原因だ。
「必要なことがあればこのニョゼにお申し付け下さい。 では、わたくしは失礼いたします」
ボォッとした頭で男を見送った紫揺が音に気付いて振り返ると、ニョゼと名乗った女性が白い猫足のテーブルにワゴンに乗っていた食事を次々と置いている。 その量たるや見たこともない量である。 紫揺がソファーの上で背中を丸めて前屈みになると自分の足首を掴んだ。 顔を膝の上に置く。
(お母さん・・・どうして私こんなところに居るの?) ギュッと目を瞑る。
(どうしたらいいの・・・?)
「・・・さま?」
(いったいどうなってるの・・・あの人が言ってたことは本当なの?)
「・・・ユラさま?」
(お婆様が過ごす筈だった所って・・・)
「シユラ様?」
「え?」 足首を掴んだまま顔を上げた。
「お食事のご用意が整いました」
「あ・・・」
「冷めないうちにどうぞお召し上がりください」
「あの・・・」 足首を離すと背を伸ばしたが、顔は下を向いている。
「はい」 ニョゼが膝をついて紫揺の目の高さに合わす。
紫揺が首を捻じりテーブルに目を送ると、顔を戻した。
「ごめんなさい。 何でもないです」 言うとソファーから立ち上がり、白い猫足テーブルに向かった。
「紫揺様、カーテンをお開けしてもよろしいですか?」 問われ、コクリと頷く。 すると隅に置いてあったリモコンを持ち、カーテンを開けた。
(あ・・・リモコンで開くんだ)
開けられたカーテンの向こうはさっき見た空とは違う色をしていた。 先程はまだかろうじて明るかったが今は太陽がその身を完全に隠していた。
遠くに白やオレンジの光を身に纏った星空のような夜景が見える。 あの光は少し前に見たビルの窓から出ている光なのだろうか。 暗闇に足元が消されて、今いる高さが分からない。 恐れることはなかった。 少し怖いが。 だから、窓に背を向けて座った。
椅子に座ると見たこともなければ食べたことのないようなフルーツがズラリと並び、色んな形をした可愛らしいパン、リゾット、スープにサラダがテーブルにのっていた。
「お身体のお調子が今ひとつ分かりませんでしたので、軽いものと思いまして油ものは控えました。 もし、他にお食べになりたいものがござい―――」 ここまで言うと紫揺が言葉を重ねた。
「いいです、いいです。 これで十分です」 慌てて顔の前で手を振った。 そして
「あの・・・ニョゼさんは食べたんですか?」
「え? わたくしでございますか?」
「あ、ごめんなさい。 なんでもないです」
こんなに沢山食べるなんてこと出来ない。 でも残すなんてことも作ってくれた人に悪い。 ニョゼがまだ食べていないのなら一緒に食べて欲しいと言いたかったが、まだそんな風に話すことが出来なかった。 今の自分の位置が分からない。 『様』 呼ばわりされる覚えなんてない。 何がどうなっているのか分からない。
椅子に座るも頭を下げてじっとしている。
「シユラ様?」
「・・・はい」
「お気に召されませんでしたか? すぐにお下げして別の物をお持ちしましょうか?」
「あ、いえ。 そうじゃないです。 これでいいです。 いただきます」 選ぶことなくパンを手に取った。
ニョゼが身を引き、紫揺の斜め後ろについた。
チビチビとパンを食べていると 「お飲み物をお入れしましょうか?」 ニョゼが聞いた。
「あ、大丈夫です。 このお水で」
「シユラ様は普段どのようなものをお飲みになるのですか?」
「・・・お茶です」
「緑茶でございますか?」
「玄米茶・・・です」
「パンを召し上がる時には?」
「玄米茶です」
「失礼いたしました」
そう聞こえたあとで何やら後ろで音がする。 と、湯呑に入ったお茶がコトリと置かれた。
「・・・あ」
「生憎と玄米茶はございませんが、玉露でございます。 お気に召して頂ければよいのですが」
「・・・有難うございます」 一口コクリと飲む。
「美味しい・・・」
「お気に召して頂けましたか?」
「はい」
「玄米茶はすぐに御用意をしておきます」
「あ・・・。 あ、いいです。 このお茶で。 美味しいですから」
家族三人で卓を囲んで飲んだ玄米茶。 父と母と一緒に飲んだあの味が今は宝物になってしまっている。 宝物はずっと心の中にしまっておきたい。 一人で宝物をたしなみたくない。 心の中が涙で溢れる。
結局、クルミが練り込まれた小さなパン一つとお茶を一杯飲んだだけで食事を終えた。
「あの・・・沢山残してしまって、作ってくれた方にゴメンナサイって・・・」
ニョゼがお気になさらず。 お腹が空いたらいつでもお呼び下さい。 と、ニョゼを呼ぶベルの場所を教えるとワゴンを押して部屋を出ていった。
離れた所から開けられたカーテンの向こうにソロっと目をやる。 遠くにオレンジの光が見える。 高層ビルなのだろうか。 見下した地上には満天の星が如く光輝くものが見えるのに、夜空には星のただの一つも見えない。 唯一、飛行機から放たれる点滅した明かりだけが見えていた。
「何がどうなってるの・・・お父さん助けて。 ・・・お母さん教えて、お婆様、どうすればいいんですか・・・」 涙が頬を伝う。 その場に座り込んで声を押し殺して泣いた。
「紫さまじゃ・・・」 広げられていた日本地図に集中する。 片膝をついていた塔弥が慌てて独唱の横に立つ。
「な・・・なんじゃ・・・?」 紫揺を感じた独唱が首を傾げ眉を顰める。
阿秀から連絡を受けた塔弥がすぐにその旨を独唱に伝えた。 するとその日からまた独唱が岩屋の中で地図を広げていた。
「・・・紫さま・・・お泣き下さればよいものを、何に耐えておられる」
紫揺が今いる場所を特定するのには確かに紫揺が感情的になればすぐにでも分かる。 だが、そのことを言っているのではなかった。 北に攫われたであろう紫揺が何を耐えているのか、それが心配でならなかった。
塔弥が地図から独唱の顔に目を移した。
「ショウワ様・・・」
「ハンか」 目を眇めて壁を見る。
壁に影が現れると人型をとった。
「ムロイはどうしている」
「今もムラサキ様とホテルに投宿されております。 ムラサキ様には至誠に接していらっしゃいます。 今日よりニョゼをムラサキ様付にされておいでです」
「ニョゼか、そうか。 ニョゼならばムラサキ様に非礼を行うことはあるまい。 まぁ間違いはない。 それにしても至誠とは、あのムロイがいつまで持つものだろうかな」 嘲るように鼻で息を吐くと、吐き捨てるように言う。
「ムラサキ様にとんでもないことをしおって!」
「・・・申し訳ありません」
「ハンを責めているわけではない」
「ゼンが己の手落ちと唯々、頭を垂れております」
「さすがのゼンも想像が出来なかったということか。 いや、ゼンだけではない。 わしも気付かんかった。 そこまでするとはな。 ムロイがこれ以上、ムラサキ様に無礼極まりないことをしすればすぐに報告せよと、いや、すぐにでも止めよとくれぐれもゼンとダンに伝えておいてくれ。 ご苦労であった。 ハンはしばし休んでいるとよい」
「御意」 人型をとっていた影が壁に消えていく。
「カミ、ケミ、おるか?」
「ここに」 またしても壁から現れた影が人型をとる。
「ムラサキ様に何かあってはどうにもならん。 この屋敷に来られるまでムラサキ様をお守りするよう。 くれぐれもムロイの手からムラサキ様をお守りせよ」
「仰せのままに」 この2つの影も壁に消えてなくなった。
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「あんなのがムラサキか? よく見積もっても親を亡くした迷子の仔ギツネじゃないか。 本当に間違いがないのか?」 かったるそうにネクタイを緩めると、ソファーにドカリと座った。
「領主もお確かめになられたではありませんか。 早季様のお子様であり、ムラサキ様のお孫様だと」 座るムロイの斜め後ろに立つ。
「ああ、確かにそうだが。 注射が効きすぎて頭がおかしくなったんじゃないだろうな」
「注射のことは私の知りえるところではありませんでしたから、そのことには正しく返答をしかねますが、私の見る限りでは注射の影響はないと思えます」
「ふん、まるで俺が指図したような言い方をするんだな」
「いえ」
「まぁいい。 だがアレではあの者達を押さえるどころか尻に敷かれるだけじゃないか」
「・・・それは確かに」
「早季を間に挟んだのがいけなかったのか? 早季という者は何も出来なかったようだからな」
「それは・・・早季様がシユラ様をお産みになったのですから。 早季様なくしてシユラ様をお迎えすることは出来ませんでした」
「はっ、物は考えようだな」 嘲弄する目を斜め後ろに立つ男、そのセノギに向ける。
「この後はどうなさいます?」 ムロイの視線などは意に介さずといった具合に次に進める。
「そうだな・・・。 さっき言った通りだ。 あの迷子の仔ギツネがもう少しマシになれば屋敷に移る。 今はまだ無理だ。 今動けば仔ギツネが・・・ヒナにもなりかねない。 ヒナになられてはどうにもならん」
「東はどういたしましょうか?」 東とは東の領土の者の事。
「放っておけ。 東のすることなんぞ甘ったるいことだ。 だが、その甘ったるい東にこの場所を探られんように蜘蛛の糸を張っておくように」
「はい」
「言いたくはないが、東は古の知 (いにしえのち) が未だにある。 油断はするな。 ・・・古い教えを今もまだ持つなんぞ・・・」 嘲笑で吐き捨てた。
「・・・夕食はどうなさいます?」
「ああ、運んでくれ」
軽く会釈をすると部屋を出て別の部屋に入った。 ムロイの夕食の用意を伝えるためであった。 その後すぐに階上に上がった。
最上階ではいくらもしない内にホテルのワゴンを押す女性と先程の男、セノギが紫揺のいる部屋に入ってきた。
「シユラ様、これからはこの者がシユラ様のお世話をさせて頂きます」
女性がワゴンから少し離れると 「ニョゼと申します」 と、背筋が伸びたきれいなお辞儀をした。 青灰色 (せいかいしょく) の瞳に薄化粧がよく似合う婉然な容姿の持ち主ではあるが、どこか凛としたものを感じさせる
深々と頭を下げるグレーのスーツを着た女性は自分と同い年くらいだろうか、と紫揺が思ったが、誰が見ても紫揺よりずっと年上に見える。 というか、紫揺が実際の歳より幼く見え過ぎるのが原因だ。
「必要なことがあればこのニョゼにお申し付け下さい。 では、わたくしは失礼いたします」
ボォッとした頭で男を見送った紫揺が音に気付いて振り返ると、ニョゼと名乗った女性が白い猫足のテーブルにワゴンに乗っていた食事を次々と置いている。 その量たるや見たこともない量である。 紫揺がソファーの上で背中を丸めて前屈みになると自分の足首を掴んだ。 顔を膝の上に置く。
(お母さん・・・どうして私こんなところに居るの?) ギュッと目を瞑る。
(どうしたらいいの・・・?)
「・・・さま?」
(いったいどうなってるの・・・あの人が言ってたことは本当なの?)
「・・・ユラさま?」
(お婆様が過ごす筈だった所って・・・)
「シユラ様?」
「え?」 足首を掴んだまま顔を上げた。
「お食事のご用意が整いました」
「あ・・・」
「冷めないうちにどうぞお召し上がりください」
「あの・・・」 足首を離すと背を伸ばしたが、顔は下を向いている。
「はい」 ニョゼが膝をついて紫揺の目の高さに合わす。
紫揺が首を捻じりテーブルに目を送ると、顔を戻した。
「ごめんなさい。 何でもないです」 言うとソファーから立ち上がり、白い猫足テーブルに向かった。
「紫揺様、カーテンをお開けしてもよろしいですか?」 問われ、コクリと頷く。 すると隅に置いてあったリモコンを持ち、カーテンを開けた。
(あ・・・リモコンで開くんだ)
開けられたカーテンの向こうはさっき見た空とは違う色をしていた。 先程はまだかろうじて明るかったが今は太陽がその身を完全に隠していた。
遠くに白やオレンジの光を身に纏った星空のような夜景が見える。 あの光は少し前に見たビルの窓から出ている光なのだろうか。 暗闇に足元が消されて、今いる高さが分からない。 恐れることはなかった。 少し怖いが。 だから、窓に背を向けて座った。
椅子に座ると見たこともなければ食べたことのないようなフルーツがズラリと並び、色んな形をした可愛らしいパン、リゾット、スープにサラダがテーブルにのっていた。
「お身体のお調子が今ひとつ分かりませんでしたので、軽いものと思いまして油ものは控えました。 もし、他にお食べになりたいものがござい―――」 ここまで言うと紫揺が言葉を重ねた。
「いいです、いいです。 これで十分です」 慌てて顔の前で手を振った。 そして
「あの・・・ニョゼさんは食べたんですか?」
「え? わたくしでございますか?」
「あ、ごめんなさい。 なんでもないです」
こんなに沢山食べるなんてこと出来ない。 でも残すなんてことも作ってくれた人に悪い。 ニョゼがまだ食べていないのなら一緒に食べて欲しいと言いたかったが、まだそんな風に話すことが出来なかった。 今の自分の位置が分からない。 『様』 呼ばわりされる覚えなんてない。 何がどうなっているのか分からない。
椅子に座るも頭を下げてじっとしている。
「シユラ様?」
「・・・はい」
「お気に召されませんでしたか? すぐにお下げして別の物をお持ちしましょうか?」
「あ、いえ。 そうじゃないです。 これでいいです。 いただきます」 選ぶことなくパンを手に取った。
ニョゼが身を引き、紫揺の斜め後ろについた。
チビチビとパンを食べていると 「お飲み物をお入れしましょうか?」 ニョゼが聞いた。
「あ、大丈夫です。 このお水で」
「シユラ様は普段どのようなものをお飲みになるのですか?」
「・・・お茶です」
「緑茶でございますか?」
「玄米茶・・・です」
「パンを召し上がる時には?」
「玄米茶です」
「失礼いたしました」
そう聞こえたあとで何やら後ろで音がする。 と、湯呑に入ったお茶がコトリと置かれた。
「・・・あ」
「生憎と玄米茶はございませんが、玉露でございます。 お気に召して頂ければよいのですが」
「・・・有難うございます」 一口コクリと飲む。
「美味しい・・・」
「お気に召して頂けましたか?」
「はい」
「玄米茶はすぐに御用意をしておきます」
「あ・・・。 あ、いいです。 このお茶で。 美味しいですから」
家族三人で卓を囲んで飲んだ玄米茶。 父と母と一緒に飲んだあの味が今は宝物になってしまっている。 宝物はずっと心の中にしまっておきたい。 一人で宝物をたしなみたくない。 心の中が涙で溢れる。
結局、クルミが練り込まれた小さなパン一つとお茶を一杯飲んだだけで食事を終えた。
「あの・・・沢山残してしまって、作ってくれた方にゴメンナサイって・・・」
ニョゼがお気になさらず。 お腹が空いたらいつでもお呼び下さい。 と、ニョゼを呼ぶベルの場所を教えるとワゴンを押して部屋を出ていった。
離れた所から開けられたカーテンの向こうにソロっと目をやる。 遠くにオレンジの光が見える。 高層ビルなのだろうか。 見下した地上には満天の星が如く光輝くものが見えるのに、夜空には星のただの一つも見えない。 唯一、飛行機から放たれる点滅した明かりだけが見えていた。
「何がどうなってるの・・・お父さん助けて。 ・・・お母さん教えて、お婆様、どうすればいいんですか・・・」 涙が頬を伝う。 その場に座り込んで声を押し殺して泣いた。
「紫さまじゃ・・・」 広げられていた日本地図に集中する。 片膝をついていた塔弥が慌てて独唱の横に立つ。
「な・・・なんじゃ・・・?」 紫揺を感じた独唱が首を傾げ眉を顰める。
阿秀から連絡を受けた塔弥がすぐにその旨を独唱に伝えた。 するとその日からまた独唱が岩屋の中で地図を広げていた。
「・・・紫さま・・・お泣き下さればよいものを、何に耐えておられる」
紫揺が今いる場所を特定するのには確かに紫揺が感情的になればすぐにでも分かる。 だが、そのことを言っているのではなかった。 北に攫われたであろう紫揺が何を耐えているのか、それが心配でならなかった。
塔弥が地図から独唱の顔に目を移した。
「ショウワ様・・・」
「ハンか」 目を眇めて壁を見る。
壁に影が現れると人型をとった。
「ムロイはどうしている」
「今もムラサキ様とホテルに投宿されております。 ムラサキ様には至誠に接していらっしゃいます。 今日よりニョゼをムラサキ様付にされておいでです」
「ニョゼか、そうか。 ニョゼならばムラサキ様に非礼を行うことはあるまい。 まぁ間違いはない。 それにしても至誠とは、あのムロイがいつまで持つものだろうかな」 嘲るように鼻で息を吐くと、吐き捨てるように言う。
「ムラサキ様にとんでもないことをしおって!」
「・・・申し訳ありません」
「ハンを責めているわけではない」
「ゼンが己の手落ちと唯々、頭を垂れております」
「さすがのゼンも想像が出来なかったということか。 いや、ゼンだけではない。 わしも気付かんかった。 そこまでするとはな。 ムロイがこれ以上、ムラサキ様に無礼極まりないことをしすればすぐに報告せよと、いや、すぐにでも止めよとくれぐれもゼンとダンに伝えておいてくれ。 ご苦労であった。 ハンはしばし休んでいるとよい」
「御意」 人型をとっていた影が壁に消えていく。
「カミ、ケミ、おるか?」
「ここに」 またしても壁から現れた影が人型をとる。
「ムラサキ様に何かあってはどうにもならん。 この屋敷に来られるまでムラサキ様をお守りするよう。 くれぐれもムロイの手からムラサキ様をお守りせよ」
「仰せのままに」 この2つの影も壁に消えてなくなった。