『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第205回
マツリが紫揺の座っている寝台に腰を下ろす。
「リツソ君に何かあったの?」
そうきたか・・・。
「まだ会っておらん」
「どうして?」
「今日までが婚姻の儀、まだリツソには時が必要だ」
「そうか・・・」
そう言われればそうだ。 マツリは馬車の中で逆撫でしかねないと言っていた。 完全に婚姻の儀が終わるまでは、それから数日過ぎるまでは何を言っても逆撫ででしかないのだろう。
「うん、分かった」
紫揺がリツソのことを気にかけているとマツリは知っている。 婚姻の儀が終わって話に来てくれたのだろう。 進展のない報告だったが。
「報告聞いた。 有難う」
マツリの力が抜けそうになる。
足に片肘をついて顔を覆う。
「報告とは・・・我が報告に来たと思っておるのか」
「うん?」
ようやっと顔を上げて首を捻じると紫揺を見る。
「夜伽のことは聞いておろう」
「・・・・・・え?」
かなりのタイムラグである。
頭の隅からさえもなくなっていた言葉。
ヨトギ。
どういうことだろう。
もうなくなっていたはずのヨトギがどうして復活してくるのか?
もしかして・・・今日がヨトギ開会式なのか? いや、もうそんなことは無いと思っている、思っていた。
なんで? と言いかけた紫揺の口にマツリの唇が重ねられた。 ゆっくりとマツリの唇が離れる。
「よいか、六都に戻るまでこれからは毎夜だ」
「は?」
「ややが出来るまで、五色が出来るまで。 よいな」
紫揺の身体が倒されていく。
どれくらい経っただろうか。
夜陰にゴン! と鈍い音が響いた。
“最高か” と “庭の世話か” がいそいそと紫揺の部屋の襖外、回廊に座る。
耳を澄ますが起きている様子はない。
「まだ寝ていらっしゃるみたいね」
「お疲れなんでしょう」
「あら、姉さんったら、言うようになったじゃない」
「な! そんな意味で言ったんじゃないわ!」
「世話歌、お静かに」
きっと襖を開け中に入ると、紫揺は恥ずかしそうに顔を伏せているはず。 その横にマツリもいるだろう。 どんな顔をして紫揺を迎えてやろうか、どんな声をかけてやろうか。
四人がそれぞれに考え出そうとした時、バン! と勢いよく襖が開いた。
「あ・・・紫さ・・・」
四人が仰け反っている。
「お早うございますっ」
恥ずかしそうにしているどころか、キレているようだ。
「お、お目覚めで御座いましたか・・・」
それに一人で着替えたのか。
「シキ様の所に行ってきます」
ドンドンと怒りの足音を立てて去って行く。 パッと見、長い衣装だから分からないが、衣装の中の足が完全にガニ股なのを四人が見てとった。 いつもより更に身長が低くなっているし、紫揺も分かっているのだろう、前の裾を踏まないように手で持っている。 そしてどうしてか帯が縦結びになっている。
あ! と、ようやく我に戻った “最高か” と “庭の世話か” すぐに二手に分かれる。 紫揺を追う “最高か” と、部屋の中に居るであろうマツリの様子を見るための “庭の世話か”。
“庭の世話か” が部屋に入り奥の部屋に問いかける。
「マツリ様? 居られますでしょうか」
シュッと、袖を通す音がした。 マツリの着替えに介添えは要らないのを知っている。
「ああ、居る」
襖は閉められている。 マツリのくぐもった声が返ってきた。
「その、紫さまが・・・」
襖が開けられた。 昨日用意しておいた空色の狩衣に似た衣裳を着たマツリが姿を現したが、いつもきちんと括っている銀髪が括られていない。 それどころかサラリとした銀髪が顔半分にかかったままである。
確か夕べはきちんと括っていたはず、紐をどこかに失くしたのだろうか。 いや、失くしたにしても新しい紐も準備しておいた。
「姉上の所に行ったのだろう、好きにさせてやってくれ」
「朝餉はいかがいたしましょう」
婚姻の儀の中日を終わらせた後は、次の満の月まで新婚の二人だけで食事をとることになっている。 それからは四方家族と卓を囲む。
中日の日の夜はマツリが杠を呼びに行き、よってその後の三日間は、朝餉も夕餉も杠が膳を運びマツリ一人で食を摂り、夕餉の後は杠を呑みに付き合わせていた。
「そうだな・・・杠に我の房に運んでくれと言っておいてくれ」
夜伽をすることは杠に言っている。 さすがに今日の朝餉を取りには行っていないだろう。
「承知いたしました」
紫揺と朝餉を食べないらしい。
顔を真っ赤にしている世和歌とどういうことだと言う顔をしている丹和歌に低頭され、マツリが自室に足を向けた。
一方、ガニ股でドンドンと足音を鳴らして回廊を歩いていた紫揺。 運よく誰にも会わなかったが、こんな所を見られては堪ったものではない。
「紫さま、どうぞお静かにお歩き下さいませ」
彩楓が紫揺を止める一方で紅香がシキの部屋を先に訪ねていた。 シキが起きているのか、着替えを済ませているのかどうかも分からないのだから。
シキの部屋の前まで来ると数人の従者と昌耶の姿が無い。 もうシキが起きているのは確実だ。
回廊に座しているシキの従者に中継ぎを頼む。 従者がそっと襖を開けると紅香が来たことを告げる。
シキも昌耶も “最高か” と “庭の世話か” のことは良く知っている。
天祐の手を引いていた昌耶がシキに伺いを立てることなく、すぐに紅香を中に入れた。
他の従者達の目がある中、紅香が昌耶に紫揺の様子を耳打ちする。 すぐに話の筋を理解した昌耶が奥の部屋に居たシキに伝える。
「分かりました。 みな房から出てもらってちょうだいな」
どういうことだろうという目をした従者たちが昌耶に言われ回廊に座す。 昌耶も天祐の手を引いて回廊に出ると天祐を他の従者に任せた。
間一髪ですぐに紫揺がやって来た。
何度も彩楓に言われたのだろう、ドンドンと音は立てていないが、後ろを歩く彩楓には今もガニ股なのは明らかであった。 衣裳の中にガニ股が隠れていると言っても、まだいつもの紫揺の身長より更に低くなったままなのだから。
「シキ様がお待ちで御座います」
紫揺が襖の前に来る寸前に昌耶が立ち上がり襖を開け、そのまま襖内に座る。
紫揺の姿を見止めた天祐が「むちゃちゃき」 と紫揺を呼び、襖内に入りたそうにしているが従者たちがなんとかそれを止め、気を逸らすために抱きかかえ場所を変えた。
「紫、お早う」
「シ、シキ様ぁー」
先程の紅香の話で夕べが最初の夜伽だと聞いた。 想像はつく。 杠と初めて会った時のことを思い出す。 紫揺は何も知らないはず。 きっと東の領土で教えられただろうが、言葉で言われて分かるものではない。
「不安だったわね」
紫揺が何度も頷く。
「・・・イィ・・・イタイィ・・・」
紫揺を椅子に座らせ背中をさすってやる。 こうして頼って来てくれたことが嬉しい。
「よく我慢をしたわね」
「ううぅ・・イタイィィ・・・」
地下に潜って腕に痣を作って戻ってきた時も、手を怪我したと晒を巻いていた時にもこんなことは言わなかったのに。
「御免なさいね」
驚いて紫揺が顔を上げた。 どうしてシキが謝るのか。
「シ、シキ様・・・?」
「マツリがもっと優しくしていれば良かったのに」
そんなことは無いだろうとは思っている。 だが何もかもをマツリのせいにするのが一番だろう。
「シキ様ぁぁー」
椅子から下りるとシキの膝に抱きついて泣いた。
分かっている、マツリのせいではない。 葉月からもコンコンと言われていた。
『めっちゃ痛いですからね、特に紫さまは。 そこのところをよーく覚悟をされておくように』
「紫? 義姉上よ?」
可愛らしい紫揺。 二十六歳とは思えないが、本当に紫揺が義妹になってくれて嬉しい。
シキの目に縦結びになっている帯が映った。
朝餉を手にマツリの部屋を訪ねた杠。 マツリが胡坐を組んで左の頬に濡れた手巾をあてている。
「どうなさいました?」
座卓に朝餉の盆を置く。
「やられたわ」
手巾を外すと頬に青痣が出来ていた。
杠が止まる。
手巾の面を変え、再び手巾を頬にあてる。
「ま・・・さ、か」
マツリがギロリと杠を睨む。
「頬に色を塗ってまで杠を騙す理由などないであろうが」
マツリの決断は正しかったようだ。 こんな顔で大勢の民の前に三日間も姿を晒すところだったのか。
「桶に水を汲んでまいります」
頷いてみせると左手で手巾を押さえたまま、右手に箸を持ち朝餉を口に運ぶ。
すぐに戻ってきた杠が別の手巾を桶で濡らしマツリの横に座ると持っていた手巾と交換する。
「まぁ、分かっていたことでもあるからな」
初犯ではない。 可能性は分かっていたが、その手を押さえられなかったことが悔やまれる。
「だがどうして平手ではないのであろうな」
平手であればここまで酷くならなかったのに。
「ああ、噛む度に疼くわ」
面を変えて頬にあてようとした時に杠の手が伸びてきて濡らした手巾と交換する。
「あの・・・」
「なんだ」
「一つお訊きしても宜しいでしょうか」
「なんだ」
「二言で終わらせます。 宜しいでしょうか」
「だから何だ」
「その・・・もしかして・・・」
「なんだ、はっきりと言えば良かろう」
「・・・下手?」
わずかに下がったマツリの瞼。
そのマツリがゆっくりと箸を置く。
ゴン!
鈍い音がマツリの部屋に轟いた。
婚姻の儀を終わらせ疲れていようマツリが何故だか朝から杠と鍛練を行っている。 回廊を行く誰もがその様子を目にする。
組みあった時、杠が口を開いた。
「よくもこんな手を考え付いたものですね!」
「頭は使うためにあるのだからな」
「己の立場をお考え下さらなかったのですか!」
「だから本気で来いと言っておろうが」
要するに二人の顔の痣はこの鍛練でついたということにするということだが、これは杠にとっては歓迎しがたいことである。 言ってみれば、婚姻の儀を終わらせた途端、マツリの顔に痣を作った犯人となるのだから。
それに杠としては鍛練は隠れてやりたかった。 杠が身体を動かせることをあまり人に見られたくない。 マツリもそれを知っているというのに。
杠がマツリを本気で投げようとしたが、身体をかわされてしまった。
「かわすとは卑怯な!」
「卑怯と言うか? それに投げられただけでどうして頬に痣が出来ねばならん」
「好き勝手をおしゃらないで下さい! ええ、ええ、分かりましたっ、巻き込まれた以上は本気でいきますからね!」
杠が次々と拳や足を出してくる。
マツリが防戦一方になる。
「だっ! おい! 我は疲れておる、少しは加減を・・・」
腹に杠の回し蹴りが入った。
「ぐぅ・・・。 杠ぁ・・・」
「降参ですか?」
「杠ぁ、やけくそかー!?」
言った途端今度はマツリの攻撃が始まった。
回廊で見ていた者たちが思わず息を止めて見入っている。
「すごい、迫力ですわね・・・」
女官たちが囁き合っている。
「まだまだマツリ様もお若いなぁー」
下男と下足番が手を止めている。
「おや? 杠殿の目の周りに痣が見えるぞ?」
やって来た植木職人が杠の痣に気付いた。
「おい、マツリ様の頬に痣が・・・」
見回りをしていた武官がマツリの痣に気付く。
「わぁ、いくら鍛練でも。 杠官吏は官吏を下ろされるのではないのか?」
マツリの思い通り噂はあっという間に広がった。 これで晴れて堂々と痣の付いた顔で過ごせる。
「杠は強かったのだな・・・」
マツリと互角ではないか。 そんな相手に勝てるわけなどない。 それも左手一本と言われたのにあっという間に負けてしまった。
「鍛練を積み重ねておられましたから」
杠のことはマツリの元に来た時から知っている。
「・・・我ではシユラを守れんということか」
「勉学に励んでおられるとお聞きしました。 鍛練もされてはいかがでしょうか」
「リツソ、鍛練するのか?」
肩の上でカルネラが問う。
「・・・考えておく」
しんどいのは得意ではない。 それに・・・もう紫揺は居ない。
「尾能・・・」
「はい」
「もう我は大丈夫だ。 沢山の話に礼を言う」
リツソが踵を返した。
一つの大きな壁を乗り越えたようだ。 尾能が辞儀でリツソを見送った。
息の上がった二人が鍛練を終わらせ汗を拭きながら小階段に腰を下ろした。 二人の顔をチラチラと見ていく者たちが何人もいる。
今のマツリは首の後ろで銀髪を括っている。
「己は今日、六都に戻ります。 それ以上痣を増やされましても誰も庇えませんよ」
「分かっておる」
杠が大きく溜息を吐く。
「それにしても己は殴られたことなどありません、いったいどうして・・・」
「我も、だっ! 今まで一度たりともないわ! 相手が相手だからだっ!」
「童のような言い方をされるのでは御座いませんよ」
そこに桶を持ったシキの従者がやって来た。 手巾を二枚濡らすとマツリと杠に渡す。
「いったい朝から何をしているの」
呆れたようなシキの声が回廊から聞こえてきた。 二人が振り返るとシキと紫揺が居る。
振り返った二人を見た紫揺が驚いた顔をした。 マツリの痣は知っている、痣を付けた犯人は紫揺自身なのだから。 だが杠の痣のことは知らなかった。
「杠!」
階段を駆け下りると杠の痣に手をやる。
「大丈夫? 目、見えてる?」
杠の痣は目の周りである。
「ああ、何ともない。 それより紫揺、己ではなくマツリ様の御心配が先だろう?」
チラリとマツリを見るとブスッとふくれている。 どうして杠の方が先なのかという目をして。
「ちゃんと謝ったか?」
小声で紫揺に訊くと僅かに首を振った。
杠はマツリの頬の痣の理由を知っているのだろう。
「悪いと思っていれば謝らなければ、な?」
これも小声で。
杠が紫揺に耳元で何か言っている。 イチャイチャしているようにしか見えない。 マツリの不機嫌オーラが増しに増していく。
杠の持っていた濡れ手巾を手に取り杠の目にあてると、次にマツリの持っていた濡れ手巾も手に取りマツリの頬にあてた。
「マツリ、ごめん」
杠の次と言うのが気に食わないが、いつまでも不貞腐れているわけにはいかない。
紫揺の手の上から自分の頬を押さえる。
杠が紫揺の手を外させ己で手巾を持ち、立ち上がると手巾を渡したシキの従者に頭を下げ小階段を上がる。
「これで落ち着きますでしょう」
そっとシキに告げる。
「巻き込んで御免なさいね」
シキは分かっていたということか。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第205回
マツリが紫揺の座っている寝台に腰を下ろす。
「リツソ君に何かあったの?」
そうきたか・・・。
「まだ会っておらん」
「どうして?」
「今日までが婚姻の儀、まだリツソには時が必要だ」
「そうか・・・」
そう言われればそうだ。 マツリは馬車の中で逆撫でしかねないと言っていた。 完全に婚姻の儀が終わるまでは、それから数日過ぎるまでは何を言っても逆撫ででしかないのだろう。
「うん、分かった」
紫揺がリツソのことを気にかけているとマツリは知っている。 婚姻の儀が終わって話に来てくれたのだろう。 進展のない報告だったが。
「報告聞いた。 有難う」
マツリの力が抜けそうになる。
足に片肘をついて顔を覆う。
「報告とは・・・我が報告に来たと思っておるのか」
「うん?」
ようやっと顔を上げて首を捻じると紫揺を見る。
「夜伽のことは聞いておろう」
「・・・・・・え?」
かなりのタイムラグである。
頭の隅からさえもなくなっていた言葉。
ヨトギ。
どういうことだろう。
もうなくなっていたはずのヨトギがどうして復活してくるのか?
もしかして・・・今日がヨトギ開会式なのか? いや、もうそんなことは無いと思っている、思っていた。
なんで? と言いかけた紫揺の口にマツリの唇が重ねられた。 ゆっくりとマツリの唇が離れる。
「よいか、六都に戻るまでこれからは毎夜だ」
「は?」
「ややが出来るまで、五色が出来るまで。 よいな」
紫揺の身体が倒されていく。
どれくらい経っただろうか。
夜陰にゴン! と鈍い音が響いた。
“最高か” と “庭の世話か” がいそいそと紫揺の部屋の襖外、回廊に座る。
耳を澄ますが起きている様子はない。
「まだ寝ていらっしゃるみたいね」
「お疲れなんでしょう」
「あら、姉さんったら、言うようになったじゃない」
「な! そんな意味で言ったんじゃないわ!」
「世話歌、お静かに」
きっと襖を開け中に入ると、紫揺は恥ずかしそうに顔を伏せているはず。 その横にマツリもいるだろう。 どんな顔をして紫揺を迎えてやろうか、どんな声をかけてやろうか。
四人がそれぞれに考え出そうとした時、バン! と勢いよく襖が開いた。
「あ・・・紫さ・・・」
四人が仰け反っている。
「お早うございますっ」
恥ずかしそうにしているどころか、キレているようだ。
「お、お目覚めで御座いましたか・・・」
それに一人で着替えたのか。
「シキ様の所に行ってきます」
ドンドンと怒りの足音を立てて去って行く。 パッと見、長い衣装だから分からないが、衣装の中の足が完全にガニ股なのを四人が見てとった。 いつもより更に身長が低くなっているし、紫揺も分かっているのだろう、前の裾を踏まないように手で持っている。 そしてどうしてか帯が縦結びになっている。
あ! と、ようやく我に戻った “最高か” と “庭の世話か” すぐに二手に分かれる。 紫揺を追う “最高か” と、部屋の中に居るであろうマツリの様子を見るための “庭の世話か”。
“庭の世話か” が部屋に入り奥の部屋に問いかける。
「マツリ様? 居られますでしょうか」
シュッと、袖を通す音がした。 マツリの着替えに介添えは要らないのを知っている。
「ああ、居る」
襖は閉められている。 マツリのくぐもった声が返ってきた。
「その、紫さまが・・・」
襖が開けられた。 昨日用意しておいた空色の狩衣に似た衣裳を着たマツリが姿を現したが、いつもきちんと括っている銀髪が括られていない。 それどころかサラリとした銀髪が顔半分にかかったままである。
確か夕べはきちんと括っていたはず、紐をどこかに失くしたのだろうか。 いや、失くしたにしても新しい紐も準備しておいた。
「姉上の所に行ったのだろう、好きにさせてやってくれ」
「朝餉はいかがいたしましょう」
婚姻の儀の中日を終わらせた後は、次の満の月まで新婚の二人だけで食事をとることになっている。 それからは四方家族と卓を囲む。
中日の日の夜はマツリが杠を呼びに行き、よってその後の三日間は、朝餉も夕餉も杠が膳を運びマツリ一人で食を摂り、夕餉の後は杠を呑みに付き合わせていた。
「そうだな・・・杠に我の房に運んでくれと言っておいてくれ」
夜伽をすることは杠に言っている。 さすがに今日の朝餉を取りには行っていないだろう。
「承知いたしました」
紫揺と朝餉を食べないらしい。
顔を真っ赤にしている世和歌とどういうことだと言う顔をしている丹和歌に低頭され、マツリが自室に足を向けた。
一方、ガニ股でドンドンと足音を鳴らして回廊を歩いていた紫揺。 運よく誰にも会わなかったが、こんな所を見られては堪ったものではない。
「紫さま、どうぞお静かにお歩き下さいませ」
彩楓が紫揺を止める一方で紅香がシキの部屋を先に訪ねていた。 シキが起きているのか、着替えを済ませているのかどうかも分からないのだから。
シキの部屋の前まで来ると数人の従者と昌耶の姿が無い。 もうシキが起きているのは確実だ。
回廊に座しているシキの従者に中継ぎを頼む。 従者がそっと襖を開けると紅香が来たことを告げる。
シキも昌耶も “最高か” と “庭の世話か” のことは良く知っている。
天祐の手を引いていた昌耶がシキに伺いを立てることなく、すぐに紅香を中に入れた。
他の従者達の目がある中、紅香が昌耶に紫揺の様子を耳打ちする。 すぐに話の筋を理解した昌耶が奥の部屋に居たシキに伝える。
「分かりました。 みな房から出てもらってちょうだいな」
どういうことだろうという目をした従者たちが昌耶に言われ回廊に座す。 昌耶も天祐の手を引いて回廊に出ると天祐を他の従者に任せた。
間一髪ですぐに紫揺がやって来た。
何度も彩楓に言われたのだろう、ドンドンと音は立てていないが、後ろを歩く彩楓には今もガニ股なのは明らかであった。 衣裳の中にガニ股が隠れていると言っても、まだいつもの紫揺の身長より更に低くなったままなのだから。
「シキ様がお待ちで御座います」
紫揺が襖の前に来る寸前に昌耶が立ち上がり襖を開け、そのまま襖内に座る。
紫揺の姿を見止めた天祐が「むちゃちゃき」 と紫揺を呼び、襖内に入りたそうにしているが従者たちがなんとかそれを止め、気を逸らすために抱きかかえ場所を変えた。
「紫、お早う」
「シ、シキ様ぁー」
先程の紅香の話で夕べが最初の夜伽だと聞いた。 想像はつく。 杠と初めて会った時のことを思い出す。 紫揺は何も知らないはず。 きっと東の領土で教えられただろうが、言葉で言われて分かるものではない。
「不安だったわね」
紫揺が何度も頷く。
「・・・イィ・・・イタイィ・・・」
紫揺を椅子に座らせ背中をさすってやる。 こうして頼って来てくれたことが嬉しい。
「よく我慢をしたわね」
「ううぅ・・イタイィィ・・・」
地下に潜って腕に痣を作って戻ってきた時も、手を怪我したと晒を巻いていた時にもこんなことは言わなかったのに。
「御免なさいね」
驚いて紫揺が顔を上げた。 どうしてシキが謝るのか。
「シ、シキ様・・・?」
「マツリがもっと優しくしていれば良かったのに」
そんなことは無いだろうとは思っている。 だが何もかもをマツリのせいにするのが一番だろう。
「シキ様ぁぁー」
椅子から下りるとシキの膝に抱きついて泣いた。
分かっている、マツリのせいではない。 葉月からもコンコンと言われていた。
『めっちゃ痛いですからね、特に紫さまは。 そこのところをよーく覚悟をされておくように』
「紫? 義姉上よ?」
可愛らしい紫揺。 二十六歳とは思えないが、本当に紫揺が義妹になってくれて嬉しい。
シキの目に縦結びになっている帯が映った。
朝餉を手にマツリの部屋を訪ねた杠。 マツリが胡坐を組んで左の頬に濡れた手巾をあてている。
「どうなさいました?」
座卓に朝餉の盆を置く。
「やられたわ」
手巾を外すと頬に青痣が出来ていた。
杠が止まる。
手巾の面を変え、再び手巾を頬にあてる。
「ま・・・さ、か」
マツリがギロリと杠を睨む。
「頬に色を塗ってまで杠を騙す理由などないであろうが」
マツリの決断は正しかったようだ。 こんな顔で大勢の民の前に三日間も姿を晒すところだったのか。
「桶に水を汲んでまいります」
頷いてみせると左手で手巾を押さえたまま、右手に箸を持ち朝餉を口に運ぶ。
すぐに戻ってきた杠が別の手巾を桶で濡らしマツリの横に座ると持っていた手巾と交換する。
「まぁ、分かっていたことでもあるからな」
初犯ではない。 可能性は分かっていたが、その手を押さえられなかったことが悔やまれる。
「だがどうして平手ではないのであろうな」
平手であればここまで酷くならなかったのに。
「ああ、噛む度に疼くわ」
面を変えて頬にあてようとした時に杠の手が伸びてきて濡らした手巾と交換する。
「あの・・・」
「なんだ」
「一つお訊きしても宜しいでしょうか」
「なんだ」
「二言で終わらせます。 宜しいでしょうか」
「だから何だ」
「その・・・もしかして・・・」
「なんだ、はっきりと言えば良かろう」
「・・・下手?」
わずかに下がったマツリの瞼。
そのマツリがゆっくりと箸を置く。
ゴン!
鈍い音がマツリの部屋に轟いた。
婚姻の儀を終わらせ疲れていようマツリが何故だか朝から杠と鍛練を行っている。 回廊を行く誰もがその様子を目にする。
組みあった時、杠が口を開いた。
「よくもこんな手を考え付いたものですね!」
「頭は使うためにあるのだからな」
「己の立場をお考え下さらなかったのですか!」
「だから本気で来いと言っておろうが」
要するに二人の顔の痣はこの鍛練でついたということにするということだが、これは杠にとっては歓迎しがたいことである。 言ってみれば、婚姻の儀を終わらせた途端、マツリの顔に痣を作った犯人となるのだから。
それに杠としては鍛練は隠れてやりたかった。 杠が身体を動かせることをあまり人に見られたくない。 マツリもそれを知っているというのに。
杠がマツリを本気で投げようとしたが、身体をかわされてしまった。
「かわすとは卑怯な!」
「卑怯と言うか? それに投げられただけでどうして頬に痣が出来ねばならん」
「好き勝手をおしゃらないで下さい! ええ、ええ、分かりましたっ、巻き込まれた以上は本気でいきますからね!」
杠が次々と拳や足を出してくる。
マツリが防戦一方になる。
「だっ! おい! 我は疲れておる、少しは加減を・・・」
腹に杠の回し蹴りが入った。
「ぐぅ・・・。 杠ぁ・・・」
「降参ですか?」
「杠ぁ、やけくそかー!?」
言った途端今度はマツリの攻撃が始まった。
回廊で見ていた者たちが思わず息を止めて見入っている。
「すごい、迫力ですわね・・・」
女官たちが囁き合っている。
「まだまだマツリ様もお若いなぁー」
下男と下足番が手を止めている。
「おや? 杠殿の目の周りに痣が見えるぞ?」
やって来た植木職人が杠の痣に気付いた。
「おい、マツリ様の頬に痣が・・・」
見回りをしていた武官がマツリの痣に気付く。
「わぁ、いくら鍛練でも。 杠官吏は官吏を下ろされるのではないのか?」
マツリの思い通り噂はあっという間に広がった。 これで晴れて堂々と痣の付いた顔で過ごせる。
「杠は強かったのだな・・・」
マツリと互角ではないか。 そんな相手に勝てるわけなどない。 それも左手一本と言われたのにあっという間に負けてしまった。
「鍛練を積み重ねておられましたから」
杠のことはマツリの元に来た時から知っている。
「・・・我ではシユラを守れんということか」
「勉学に励んでおられるとお聞きしました。 鍛練もされてはいかがでしょうか」
「リツソ、鍛練するのか?」
肩の上でカルネラが問う。
「・・・考えておく」
しんどいのは得意ではない。 それに・・・もう紫揺は居ない。
「尾能・・・」
「はい」
「もう我は大丈夫だ。 沢山の話に礼を言う」
リツソが踵を返した。
一つの大きな壁を乗り越えたようだ。 尾能が辞儀でリツソを見送った。
息の上がった二人が鍛練を終わらせ汗を拭きながら小階段に腰を下ろした。 二人の顔をチラチラと見ていく者たちが何人もいる。
今のマツリは首の後ろで銀髪を括っている。
「己は今日、六都に戻ります。 それ以上痣を増やされましても誰も庇えませんよ」
「分かっておる」
杠が大きく溜息を吐く。
「それにしても己は殴られたことなどありません、いったいどうして・・・」
「我も、だっ! 今まで一度たりともないわ! 相手が相手だからだっ!」
「童のような言い方をされるのでは御座いませんよ」
そこに桶を持ったシキの従者がやって来た。 手巾を二枚濡らすとマツリと杠に渡す。
「いったい朝から何をしているの」
呆れたようなシキの声が回廊から聞こえてきた。 二人が振り返るとシキと紫揺が居る。
振り返った二人を見た紫揺が驚いた顔をした。 マツリの痣は知っている、痣を付けた犯人は紫揺自身なのだから。 だが杠の痣のことは知らなかった。
「杠!」
階段を駆け下りると杠の痣に手をやる。
「大丈夫? 目、見えてる?」
杠の痣は目の周りである。
「ああ、何ともない。 それより紫揺、己ではなくマツリ様の御心配が先だろう?」
チラリとマツリを見るとブスッとふくれている。 どうして杠の方が先なのかという目をして。
「ちゃんと謝ったか?」
小声で紫揺に訊くと僅かに首を振った。
杠はマツリの頬の痣の理由を知っているのだろう。
「悪いと思っていれば謝らなければ、な?」
これも小声で。
杠が紫揺に耳元で何か言っている。 イチャイチャしているようにしか見えない。 マツリの不機嫌オーラが増しに増していく。
杠の持っていた濡れ手巾を手に取り杠の目にあてると、次にマツリの持っていた濡れ手巾も手に取りマツリの頬にあてた。
「マツリ、ごめん」
杠の次と言うのが気に食わないが、いつまでも不貞腐れているわけにはいかない。
紫揺の手の上から自分の頬を押さえる。
杠が紫揺の手を外させ己で手巾を持ち、立ち上がると手巾を渡したシキの従者に頭を下げ小階段を上がる。
「これで落ち着きますでしょう」
そっとシキに告げる。
「巻き込んで御免なさいね」
シキは分かっていたということか。