大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第205回

2023年09月29日 21時18分41秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第200回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第205回



マツリが紫揺の座っている寝台に腰を下ろす。

「リツソ君に何かあったの?」

そうきたか・・・。

「まだ会っておらん」

「どうして?」

「今日までが婚姻の儀、まだリツソには時が必要だ」

「そうか・・・」

そう言われればそうだ。 マツリは馬車の中で逆撫でしかねないと言っていた。 完全に婚姻の儀が終わるまでは、それから数日過ぎるまでは何を言っても逆撫ででしかないのだろう。

「うん、分かった」

紫揺がリツソのことを気にかけているとマツリは知っている。 婚姻の儀が終わって話に来てくれたのだろう。 進展のない報告だったが。

「報告聞いた。 有難う」

マツリの力が抜けそうになる。
足に片肘をついて顔を覆う。

「報告とは・・・我が報告に来たと思っておるのか」

「うん?」

ようやっと顔を上げて首を捻じると紫揺を見る。

「夜伽のことは聞いておろう」

「・・・・・・え?」

かなりのタイムラグである。
頭の隅からさえもなくなっていた言葉。
ヨトギ。

どういうことだろう。
もうなくなっていたはずのヨトギがどうして復活してくるのか?
もしかして・・・今日がヨトギ開会式なのか? いや、もうそんなことは無いと思っている、思っていた。

なんで? と言いかけた紫揺の口にマツリの唇が重ねられた。 ゆっくりとマツリの唇が離れる。

「よいか、六都に戻るまでこれからは毎夜だ」

「は?」

「ややが出来るまで、五色が出来るまで。 よいな」

紫揺の身体が倒されていく。

どれくらい経っただろうか。

夜陰にゴン! と鈍い音が響いた。


“最高か” と “庭の世話か” がいそいそと紫揺の部屋の襖外、回廊に座る。
耳を澄ますが起きている様子はない。

「まだ寝ていらっしゃるみたいね」

「お疲れなんでしょう」

「あら、姉さんったら、言うようになったじゃない」

「な! そんな意味で言ったんじゃないわ!」

「世話歌、お静かに」

きっと襖を開け中に入ると、紫揺は恥ずかしそうに顔を伏せているはず。 その横にマツリもいるだろう。 どんな顔をして紫揺を迎えてやろうか、どんな声をかけてやろうか。
四人がそれぞれに考え出そうとした時、バン! と勢いよく襖が開いた。

「あ・・・紫さ・・・」

四人が仰け反っている。

「お早うございますっ」

恥ずかしそうにしているどころか、キレているようだ。

「お、お目覚めで御座いましたか・・・」

それに一人で着替えたのか。

「シキ様の所に行ってきます」

ドンドンと怒りの足音を立てて去って行く。 パッと見、長い衣装だから分からないが、衣装の中の足が完全にガニ股なのを四人が見てとった。 いつもより更に身長が低くなっているし、紫揺も分かっているのだろう、前の裾を踏まないように手で持っている。 そしてどうしてか帯が縦結びになっている。
あ! と、ようやく我に戻った “最高か” と “庭の世話か” すぐに二手に分かれる。 紫揺を追う “最高か” と、部屋の中に居るであろうマツリの様子を見るための “庭の世話か”。

“庭の世話か” が部屋に入り奥の部屋に問いかける。

「マツリ様? 居られますでしょうか」

シュッと、袖を通す音がした。 マツリの着替えに介添えは要らないのを知っている。

「ああ、居る」

襖は閉められている。 マツリのくぐもった声が返ってきた。

「その、紫さまが・・・」

襖が開けられた。 昨日用意しておいた空色の狩衣に似た衣裳を着たマツリが姿を現したが、いつもきちんと括っている銀髪が括られていない。 それどころかサラリとした銀髪が顔半分にかかったままである。
確か夕べはきちんと括っていたはず、紐をどこかに失くしたのだろうか。 いや、失くしたにしても新しい紐も準備しておいた。

「姉上の所に行ったのだろう、好きにさせてやってくれ」

「朝餉はいかがいたしましょう」

婚姻の儀の中日を終わらせた後は、次の満の月まで新婚の二人だけで食事をとることになっている。 それからは四方家族と卓を囲む。
中日の日の夜はマツリが杠を呼びに行き、よってその後の三日間は、朝餉も夕餉も杠が膳を運びマツリ一人で食を摂り、夕餉の後は杠を呑みに付き合わせていた。

「そうだな・・・杠に我の房に運んでくれと言っておいてくれ」

夜伽をすることは杠に言っている。 さすがに今日の朝餉を取りには行っていないだろう。

「承知いたしました」

紫揺と朝餉を食べないらしい。
顔を真っ赤にしている世和歌とどういうことだと言う顔をしている丹和歌に低頭され、マツリが自室に足を向けた。

一方、ガニ股でドンドンと足音を鳴らして回廊を歩いていた紫揺。 運よく誰にも会わなかったが、こんな所を見られては堪ったものではない。

「紫さま、どうぞお静かにお歩き下さいませ」

彩楓が紫揺を止める一方で紅香がシキの部屋を先に訪ねていた。 シキが起きているのか、着替えを済ませているのかどうかも分からないのだから。
シキの部屋の前まで来ると数人の従者と昌耶の姿が無い。 もうシキが起きているのは確実だ。
回廊に座しているシキの従者に中継ぎを頼む。 従者がそっと襖を開けると紅香が来たことを告げる。
シキも昌耶も “最高か” と “庭の世話か” のことは良く知っている。
天祐の手を引いていた昌耶がシキに伺いを立てることなく、すぐに紅香を中に入れた。

他の従者達の目がある中、紅香が昌耶に紫揺の様子を耳打ちする。 すぐに話の筋を理解した昌耶が奥の部屋に居たシキに伝える。

「分かりました。 みな房から出てもらってちょうだいな」

どういうことだろうという目をした従者たちが昌耶に言われ回廊に座す。 昌耶も天祐の手を引いて回廊に出ると天祐を他の従者に任せた。
間一髪ですぐに紫揺がやって来た。

何度も彩楓に言われたのだろう、ドンドンと音は立てていないが、後ろを歩く彩楓には今もガニ股なのは明らかであった。 衣裳の中にガニ股が隠れていると言っても、まだいつもの紫揺の身長より更に低くなったままなのだから。

「シキ様がお待ちで御座います」

紫揺が襖の前に来る寸前に昌耶が立ち上がり襖を開け、そのまま襖内に座る。
紫揺の姿を見止めた天祐が「むちゃちゃき」 と紫揺を呼び、襖内に入りたそうにしているが従者たちがなんとかそれを止め、気を逸らすために抱きかかえ場所を変えた。

「紫、お早う」

「シ、シキ様ぁー」

先程の紅香の話で夕べが最初の夜伽だと聞いた。 想像はつく。 杠と初めて会った時のことを思い出す。 紫揺は何も知らないはず。 きっと東の領土で教えられただろうが、言葉で言われて分かるものではない。

「不安だったわね」

紫揺が何度も頷く。

「・・・イィ・・・イタイィ・・・」

紫揺を椅子に座らせ背中をさすってやる。 こうして頼って来てくれたことが嬉しい。

「よく我慢をしたわね」

「ううぅ・・イタイィィ・・・」

地下に潜って腕に痣を作って戻ってきた時も、手を怪我したと晒を巻いていた時にもこんなことは言わなかったのに。

「御免なさいね」

驚いて紫揺が顔を上げた。 どうしてシキが謝るのか。

「シ、シキ様・・・?」

「マツリがもっと優しくしていれば良かったのに」

そんなことは無いだろうとは思っている。 だが何もかもをマツリのせいにするのが一番だろう。

「シキ様ぁぁー」

椅子から下りるとシキの膝に抱きついて泣いた。
分かっている、マツリのせいではない。 葉月からもコンコンと言われていた。

『めっちゃ痛いですからね、特に紫さまは。 そこのところをよーく覚悟をされておくように』

「紫? 義姉上よ?」

可愛らしい紫揺。 二十六歳とは思えないが、本当に紫揺が義妹になってくれて嬉しい。
シキの目に縦結びになっている帯が映った。


朝餉を手にマツリの部屋を訪ねた杠。 マツリが胡坐を組んで左の頬に濡れた手巾をあてている。

「どうなさいました?」

座卓に朝餉の盆を置く。

「やられたわ」

手巾を外すと頬に青痣が出来ていた。
杠が止まる。

手巾の面を変え、再び手巾を頬にあてる。

「ま・・・さ、か」

マツリがギロリと杠を睨む。

「頬に色を塗ってまで杠を騙す理由などないであろうが」

マツリの決断は正しかったようだ。 こんな顔で大勢の民の前に三日間も姿を晒すところだったのか。

「桶に水を汲んでまいります」

頷いてみせると左手で手巾を押さえたまま、右手に箸を持ち朝餉を口に運ぶ。
すぐに戻ってきた杠が別の手巾を桶で濡らしマツリの横に座ると持っていた手巾と交換する。

「まぁ、分かっていたことでもあるからな」

初犯ではない。 可能性は分かっていたが、その手を押さえられなかったことが悔やまれる。

「だがどうして平手ではないのであろうな」

平手であればここまで酷くならなかったのに。

「ああ、噛む度に疼くわ」

面を変えて頬にあてようとした時に杠の手が伸びてきて濡らした手巾と交換する。

「あの・・・」

「なんだ」

「一つお訊きしても宜しいでしょうか」

「なんだ」

「二言で終わらせます。 宜しいでしょうか」

「だから何だ」

「その・・・もしかして・・・」

「なんだ、はっきりと言えば良かろう」

「・・・下手?」

わずかに下がったマツリの瞼。
そのマツリがゆっくりと箸を置く。

ゴン!

鈍い音がマツリの部屋に轟いた。


婚姻の儀を終わらせ疲れていようマツリが何故だか朝から杠と鍛練を行っている。 回廊を行く誰もがその様子を目にする。
組みあった時、杠が口を開いた。

「よくもこんな手を考え付いたものですね!」

「頭は使うためにあるのだからな」

「己の立場をお考え下さらなかったのですか!」

「だから本気で来いと言っておろうが」

要するに二人の顔の痣はこの鍛練でついたということにするということだが、これは杠にとっては歓迎しがたいことである。 言ってみれば、婚姻の儀を終わらせた途端、マツリの顔に痣を作った犯人となるのだから。
それに杠としては鍛練は隠れてやりたかった。 杠が身体を動かせることをあまり人に見られたくない。 マツリもそれを知っているというのに。

杠がマツリを本気で投げようとしたが、身体をかわされてしまった。

「かわすとは卑怯な!」

「卑怯と言うか? それに投げられただけでどうして頬に痣が出来ねばならん」

「好き勝手をおしゃらないで下さい! ええ、ええ、分かりましたっ、巻き込まれた以上は本気でいきますからね!」

杠が次々と拳や足を出してくる。
マツリが防戦一方になる。

「だっ! おい! 我は疲れておる、少しは加減を・・・」

腹に杠の回し蹴りが入った。

「ぐぅ・・・。 杠ぁ・・・」

「降参ですか?」

「杠ぁ、やけくそかー!?」

言った途端今度はマツリの攻撃が始まった。

回廊で見ていた者たちが思わず息を止めて見入っている。

「すごい、迫力ですわね・・・」

女官たちが囁き合っている。

「まだまだマツリ様もお若いなぁー」

下男と下足番が手を止めている。

「おや? 杠殿の目の周りに痣が見えるぞ?」

やって来た植木職人が杠の痣に気付いた。

「おい、マツリ様の頬に痣が・・・」

見回りをしていた武官がマツリの痣に気付く。

「わぁ、いくら鍛練でも。 杠官吏は官吏を下ろされるのではないのか?」

マツリの思い通り噂はあっという間に広がった。 これで晴れて堂々と痣の付いた顔で過ごせる。

「杠は強かったのだな・・・」

マツリと互角ではないか。 そんな相手に勝てるわけなどない。 それも左手一本と言われたのにあっという間に負けてしまった。

「鍛練を積み重ねておられましたから」

杠のことはマツリの元に来た時から知っている。

「・・・我ではシユラを守れんということか」

「勉学に励んでおられるとお聞きしました。 鍛練もされてはいかがでしょうか」

「リツソ、鍛練するのか?」

肩の上でカルネラが問う。

「・・・考えておく」

しんどいのは得意ではない。 それに・・・もう紫揺は居ない。

「尾能・・・」

「はい」

「もう我は大丈夫だ。 沢山の話に礼を言う」

リツソが踵を返した。
一つの大きな壁を乗り越えたようだ。 尾能が辞儀でリツソを見送った。

息の上がった二人が鍛練を終わらせ汗を拭きながら小階段に腰を下ろした。 二人の顔をチラチラと見ていく者たちが何人もいる。
今のマツリは首の後ろで銀髪を括っている。

「己は今日、六都に戻ります。 それ以上痣を増やされましても誰も庇えませんよ」

「分かっておる」

杠が大きく溜息を吐く。

「それにしても己は殴られたことなどありません、いったいどうして・・・」

「我も、だっ! 今まで一度たりともないわ! 相手が相手だからだっ!」

「童のような言い方をされるのでは御座いませんよ」

そこに桶を持ったシキの従者がやって来た。 手巾を二枚濡らすとマツリと杠に渡す。

「いったい朝から何をしているの」

呆れたようなシキの声が回廊から聞こえてきた。 二人が振り返るとシキと紫揺が居る。

振り返った二人を見た紫揺が驚いた顔をした。 マツリの痣は知っている、痣を付けた犯人は紫揺自身なのだから。 だが杠の痣のことは知らなかった。

「杠!」

階段を駆け下りると杠の痣に手をやる。

「大丈夫? 目、見えてる?」

杠の痣は目の周りである。

「ああ、何ともない。 それより紫揺、己ではなくマツリ様の御心配が先だろう?」

チラリとマツリを見るとブスッとふくれている。 どうして杠の方が先なのかという目をして。

「ちゃんと謝ったか?」

小声で紫揺に訊くと僅かに首を振った。
杠はマツリの頬の痣の理由を知っているのだろう。

「悪いと思っていれば謝らなければ、な?」

これも小声で。
杠が紫揺に耳元で何か言っている。 イチャイチャしているようにしか見えない。 マツリの不機嫌オーラが増しに増していく。

杠の持っていた濡れ手巾を手に取り杠の目にあてると、次にマツリの持っていた濡れ手巾も手に取りマツリの頬にあてた。

「マツリ、ごめん」

杠の次と言うのが気に食わないが、いつまでも不貞腐れているわけにはいかない。
紫揺の手の上から自分の頬を押さえる。

杠が紫揺の手を外させ己で手巾を持ち、立ち上がると手巾を渡したシキの従者に頭を下げ小階段を上がる。

「これで落ち着きますでしょう」

そっとシキに告げる。

「巻き込んで御免なさいね」

シキは分かっていたということか。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第204回

2023年09月25日 22時19分03秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第204回



明日からマツリが来る。
夜伽(よとぎ)に。

「・・・嫌だぁ・・・」

そのままポテンと卓に伏せた。

あと一辰刻(いちしんこく:二時間)と二刻(にこく:一時間)で月の雫の儀の刻となる。
回廊からそっと襖が開けられた。 ススススと “最高か” と “庭の世話か” が紫揺の部屋に入って行く。
すると目の前の卓に紫揺が伏せたまま眠っているではないか。

「まぁ、どう致しましょう!」

まさか寝ているとは思いもしなかった。

「紫さま! お目覚めになって下さいませ!」

慌てて紫揺を起こし、もう少しすれば真丈が来るからと、しっかり目を開けるようにと指で目をこじ開ける。

「目・・・目が乾く・・・」


真丈が月の雫の儀式の流れを説明した。 それは特に難しいものでは無かった。
要は敷物の上を静々と歩いてマツリのすることを真似ればよいだけということである。 それを真丈は最後に言ったのだが、ちゃんと細かいことを言っていた。
難関は誰も手を添えてくれない階段の上り下りで転ばないかどうかだった。

説明が終わると身体を湯に浸けに行き、用意されていた部屋で月の雫の儀式の衣裳に着替える。
真っ白の衣装で銀糸で縫われていて派手さも何もなかったが、その後ろの裾は今までになく長い。
化粧も髪飾りもしないということであった。

真丈に手を取られ、いつの間に敷かれていたのだろうか、大階段の下には真っ白な長細い敷物が大階段から垂直に真っ直ぐに敷かれ、そこから右に直角に曲がっている。 暗闇の中その先は見えないが、真丈の話からすると延々と敷かれているのだろう。

東の領主が居る。 その横に此之葉と秋我。 少し離れて女官たちが敷物の両端にずらりと並び皆が頭を下げている。
大階段を降りるとそっと真丈が手を離し深く頭を下げた。
ここからこの敷物の上を一人で歩いて行く。
この敷物の先にマツリが居て二人で階段を上がる、真丈からそう聞いている。
白い敷物は宮内に延々と続いている。

東の領主に頭を下げると一歩を出した。 誰に何の文句も言われず東の領主に頭を下げられるのはこれで最後である。 この儀式から戻ってくれば東の領主より高い位置に居ることになるのだから。

この白い敷物もそうだが、いつの間に光石も置かれていたのか。 この闇の中、まるで光石が紫揺を誘導ように次々と足元を照らしていく。

(夕の宴が終わってからこれだけの用意をしてたんだ・・・)

そんなことも知らず卓に突っ伏して寝ていた。

何度か曲がりながら光石と白い敷物に導かれ進むと、紫揺の全く知らないところに出た。
曲がり角を曲がり、真っ直ぐに前を見ると目の先の階段のすぐ前にマツリが立ってこちらを見ているのが見える。 白い衣装が輝くように光石の中に浮いている。

(マツリ・・・)

真丈から声を出してはいけないと言われている。
言われなくとも、さすがにこのシチュエーションでマツリ! と叫ぶことは無いが。
マツリの前までゆっくりと歩く。

『宜しいで御座いますか、マツリ様のお姿を見られたからと、歩みを変えてはなりません』

よく見ると白い敷物が平行にもう一筋あった。 きっとマツリはその敷物を歩いて来たのだろう。 紫揺とは違うルートで歩いて来て階段を正面にした時に二本の白い敷物が隣り合って階段まで敷かれている。
マツリの前まで来るとマツリを見上げた。 そしてゆっくりとマツリの右に立つ。
マツリは無表情だ。

マツリが階段に向き階段を上がる。 一歩遅れて裾を持った紫揺も階段を上がる。

『裾は上げ過ぎず、だからと言って踏まれませぬように』

月の雫の儀式。
宮内の奥に五段の階段がしつらわれた台が作られており、その台には腰の高さの卓が置かれている。 そしてその卓の上には盥(たらい)の大きさの磨かれた黒曜石の水盤が置かれている。 そこに月の雫と言われる水が入っていて月の姿を映している。

『紫さまの側には一段の台が御座います。 その台に上がって下さいませ』

ようはマツリの腰の高さの卓が置かれ、その上に置かれた水盤の水をすくわなければいけないのだ、紫揺の背の高さでは届かない、若しくは零してしまうからと、これも苦肉の策だったのだろう。

黒曜石の両横には柄杓が置かれてあり、その柄杓で黒曜石の中の月の雫と言われる水に映った月の姿をすくう。
柄杓をそのまま口に付けると、すくった水を一口飲む。
それだけのことであった。

『よろしいですか、必ず両手で行いなされませ。 そして―――』

紫揺側にある台の上に上がって月を見上げる。
白く欠けることの無い丸い月が見下ろしている。 月の周りには雲ひとつ見えない。

紫揺が月を見上げているのを感じているのだろう、マツリがじっと紫揺を待っている。
声を出すなと言われていた、だから息を大きく吐くこともしてはならないのだろう。 そっと息を吐くと黒曜石に目を転じた。

(・・・え)

一瞬にして時が止まったように感じた。

『そして月で御座いますが―――』

(月が・・・)

―――蒼い。

黒曜石の中に映る月が蒼い。

『まずまず頭上に浮かぶ月、月の雫には白の月を映して御座いますが、もし蒼い月であれば、それは初代本領領主からの言祝ぎで御座います』

(初代本領領主からの・・・言祝ぎ)

もしこれが日本であったのならば、どこかに仕掛けやタネが隠されていないかと探すだろう。 だがここは日本ではないし、冗談で済まされる場でもない。
ここに、東の領土も然り、本領には日本で暮らしていれば信じられないことが山ほどあった。
蒼い月が初代本領領主からの言祝ぎと言われたとて、疑う余地など持ち合わせていない。
こんな・・・こんな日本で生まれ育った自分を祝って下さっているというのか。

『ですが蒼い月でなくとも気になさることは御座いません。 もう何代もそのようなことは御座いません。 書にも初代に近い頃だけにあったと書かれておりますので』

(蒼い月・・・)

月の雫に映る蒼い月をじっと見ている。

(・・・あ)

初代本領領主からの言祝ぎ。

(もしかして・・・)

東の領土の五色である初代紫は初代本領領主に匹敵するほどの力を持っていた。
初代本領領主は一人で五色を操る五色だったと聞いている。 だが他の領土と違い本領には五色が何人もいる。 それは一人で五色を操る五色も何人もいたということ。 その中で一番力の有った五色が初代本領領主となった。 その子孫が本領に居る。 その本領から東の領土の初代紫はやって来た。

(初代東の領土の五色は・・・紫は)

初代本領領主の筋・・・直系。 先祖を辿れば初代本領領主に行きつく?
初代紫だけではない、その子孫である紫揺も同じである。 だから初代本領領主からの言祝ぎがある?

紫揺が蒼い月に気付いたようだ。 話は聞いているだろう。 マツリが僅かに口角を上げたが、まだ黒曜石の中の蒼い月に見入っている紫揺が気付くことは無かった。
マツリが柄杓を手に取り黒曜石の中の蒼い月をすくうと、その柄杓に口を付け元に戻す。
柄杓の中に水は残っていない。

『マツリ様は柄杓の中の月の雫を全てお飲みされると思いますが、紫さまはご無理をされることは御座いません。 柄杓の中に残っていてもお気になさらないよう。 一口飲む、口を付けるだけでよろしいので』

マツリが動いたことで我に戻った紫揺が柄杓を手にした。 両手で柄杓を持ち黒曜石の中に浮かんでいる蒼い月の姿に柄杓を入れる。
月の姿が揺れる。
手の位置を変え透明な水、月の雫が入った柄杓を口に運ぶ。 全て飲むつもりだったが、口の横から垂れてしまいそうだ。 諦めてほんの僅かだけを飲んだ。
甘くまろやかな水だった。
水が零れないよう、そっと柄杓を戻す。

そして向きを変えるとまるで巻き戻しのテープのように互いに戻って行った。 来た時と違うのは階段正面の敷物を曲がるところが来るまでマツリと歩いたことであった。

大階段前では真丈と女官が同じ姿で待っていた。 違っていたのは東の領主と此之葉と秋我が居なかったことだが、その場所を埋めていたのは四方と澪引であった。
きっと蒼い月のことはマツリが報告するだろう、紫揺から何を言うこともないだろう。

ひと眠りすると、早朝から今日の運びの説明を聞いた。
初代領主への婚姻の誓いという儀式では、途中までは介添えとして真丈が付いてくるが、建物の深奥までは介添え者が入ってはならないらしく、所作を覚えなくてはならなかった。

いくらか繰り返し所作を習うと、夕べとは違った真っ白な衣装に身を包み、真丈の介添えでマツリの後ろから宮内を長く歩いた。
足元も夕べと違って端に六色(ろくしょく)の色が入った白い敷物が敷かれ、今回も後ろに引きずる裾を持つ必要はない。
六色というのは五色(ごしき)に紫色が加わっている。 これは決して紫揺を表しているのではなく、初代本領領主の力がそうだったからである。

敷物から外れた左右には文官長・武官長と四方の従者が頭を垂れて並び、女官が敷物の左右からマツリと紫揺の後をついてくる。
初めて見る建物の戸が自動ドアのように手動で開き、足を入れると一人二人と後ろに付いていた者たちが退いて行き、最後に真丈が手をそっと引いた。

最終的にマツリと二人だけで深奥に入ると、祭壇の前に立ったマツリがそこに置かれていたものをひろげ長々と何やら言っていた、いや、読んでいた。
その中でマツリが「本領の民、東西南北の領主からも言祝ぎを受け・・・」 と言っていたが、北の領主代理と南の領主、そして紫揺の親代わりとなる東の領主と此之葉と秋我、この本領で一番最初に言祝いでくれた見張番以外は皆、首を傾げていたが、そこは無かったものにしたようだ。 それとも決まり文句なのだろうか。

その後に初代領主へ婚姻の誓いの言葉をそれぞれが言った。 少なくとも紫揺は夕べの蒼い月を思い出しながら。
書いてあるものを読むだけで良かったものの、覚えろと言われたらどうしようかと思うくらいの難しい言葉遣いであった。
所作は・・・きっと間違っていなかったと思う。

昼餉を終わらせると、裾が下にすらない薄い色合いの衣装に着替え、多くの武官を引き連れ馬車で代々が眠る陵墓に行き、初代本領領主の陵墓の前でマツリが婚姻の報告をした。 これが代々の領主への報告ともなる。
紫揺はマツリの横で辞儀をするだけでよかった。

これでひと段落である。 あとは明日から馬車で民の前に出るだけである。 疲れる着替えもしなくて済む。
だが・・・。
今日から夜伽がある。
気のせいか、夕餉を終わらせた湯浴みではいつも以上に、四人の手によって徹底的に磨かれたような気がする。
それに、くん、と腕の匂いを嗅げば、今までと違った香りがするような気がする。

いつもなら紫揺を寝かせる刻限になると寝台に寝かせ四人で居なくなるのに、今日は紫揺を寝台に入れると、回廊に面している部屋の襖内に座っている。
マツリが来るのを迎えるらしい。

時計があれば秒針の音がずっと鳴っていただろう。 長針が動き、続いて短針が動く音も聞こえたかもしれない。

「おかしいわね・・・」

「どういうことかしら」

いくら待ってもマツリが来ない。

そのマツリは杠の部屋を訪ねていた。

「は?」

どうしてこの刻限にマツリがここに居る?

「何をしておるのか、言ったであろう、今日も我の房に来るようにと」

確かに聞いた。 昨日酒を吞みながら。 だが・・・。

「え? 本気だったのですか?」

紫揺の元に行かないのか?

「どうして我が杠に嘘をつかねばならんのか」

「いや、ですが・・・」

夜伽をせねばなるまい?

「言ったであろうが」

聞いた。 だが本気だとは思ってもいなかった。

「我の房に来い。 用意をしておる。 呑むぞ」

「あ? え?」

夕べマツリが言った。

『紫の房にはいかん』と。

驚いて訊き返した。

『は? どうしてですか!』

『考えてもみろ。 東の領土で夜伽のことを聞いたとしても、あれだろう? 民の前に行くのに不貞腐れられても困る。 それならまだしも睨み据えられそうだ』

『まあ、有り得なくは無いでしょうか』

笑って聞いていたが、それが本気だったとは思ってもいなかった。 酒の席でのことだけだと思っていた。

「嘘だろぉー・・・」

仕方なく、マツリのあとに続いた。

ドギマギして待っていた紫揺だったが、いつのまにか寝てしまった。
そして朝を迎えるといつも通りに “最高か” と “庭の世話か” を見た。

「私、寝ちゃったみたいですけど、マツリ、来たんですか?」

そう訊く紫揺の心が折れていると思う四人。 その四人は徹夜。

「あ・・・それが・・・何かあられたようで」

「はい?」

「その・・・来られては・・・」

「来なかったんですか?」

はっきりと言ってくれる。 こちらの心が折れそうだ。

「きっと何か・・・ええ、何か御座いましたのでしょう」

「御座い・・・そっか、御座ったんだ!」

「は?」 素っ頓狂なカルテット。

「今日も明日も御座ってくれたらいいな! ずっと御座ってくれたらいいな! うん、御座るだろう! よしっ!」

何故だ、その満面笑みは。 どうしてだ、その目の輝きは。 握られた拳はなんだ。
だがどうやら空元気ではなさそうだ。 紫揺の心は折れていないらしい。 だがだが・・・御座ってくれたら、御座るだろうとは・・・どういう意味だろう。

夕べのことを思うと打って変わった紫揺の表情を見ながら、朝餉と着替えを済ませると少しして馬車に送った。 言祝ぎの時には朝はゆっくり出来ていたが、昨日からとこれからの三日間は朝が早い。
杠が紫揺に言っていた通り紫揺と杠が言葉を交わすことは無かったが、ちゃんと紫揺の目に映るように見送っていた。
前後を人馬共に武装した武官と馬に挟まれた馬車にマツリと紫揺が並んで座る。
馬車が動き出した。

「リツソが―――」

までマツリが言うと紫揺が言葉を被せた。

「リツソ君どう?」

「まだ会ってはおらん。 尾能がついてくれておる」

「そうなんだ・・・」

杠はマツリに任せればいいと言っていた。

「今、我がリツソに顔を見せれば逆撫でしかねぬ。 そこのところを尾能が抑えてくれておる」

「・・・うん」

「もっと早くに、我がリツソと話をしなければならなかった。 悪かった」

「マツリには時が無かったもん。 六都のことで一杯だったでしょ?」

「リツソには寂しい思いをさせ、紫には恐い思いをさせた。 六都のことなど言い訳に過ぎん」

紫揺の手を取る。 リツソによって握り締められた手首。 まだリツソの指の痣が残っている。
“最高か” と“庭の世話か” そして着替えをさせてくれる女官には隠し通した手首。

「痛い思いをさせた」

「そんなことない」

今日のルートは本領の北東にある四都の手前まで行く。 宮都の民が手を振っている。 紫さま! マツリ様! お目出とう御座いますと叫びながら。
二日目は宮都の西にあたる一都手前まで。 そして三日目の最終日は北方向にあたる三都手前まで。
最終日、三都手前まで来た時、知っている顔が見えた。

「マツリ、あっち」

耳打ちをされて紫揺の目の先を追ったマツリ。 そこに柳技と芯直と絨礼の姿があった。 大きく手を振っている。 それに応える紫揺。

「あいつら・・」

憎々し気に言ったが、この三人は今のところ特別な動きをしなくてもいいはず。 その三人が来ているということは、六都に対して安心していいということだろう。 きっと享沙がこの三人を出したのだろう。

「六都、大丈夫みたいね」

思いもしないことを紫揺が言った。

「そのようだな」

何もかも分かってくれている。 こんな紫揺だから安心して思いのままできているのかもしれない。 改めて紫揺の懐の深さを知った。 紫揺のそれはきっと無意識なのだろうが。
東の領土のお付きたちが聞くと『その懐には穴が開いているかもしれません』 と言うかもしれない。

宮に戻った後、四方と澪引に婚姻の儀を無事終わらせたと、マツリと共に報告に上がった。

そして同じことが三日続いた違う事情の “最高か” と “庭の世話か”。
四日目を迎え、この三日間と同じように紫揺を寝台に置くと半ギレになって襖内に座っている。

「どうしてお渡りが無いの!?」

「マツリ様は何を考えていらっしゃるのかしら!」

この三日間、寝ずに過ごしていた。 とうとう目の下にクマを作って。

「我がどうした」

襖の外からマツリの声がする。
驚いて襖を開けるとそこにマツリが立っていた。

「マツリ様・・・」

「入って良いか」

「も、勿論に御座います」

直ぐに彩楓が奥の部屋に居る紫揺に声をかける。

「マツリ様に御座います」

「え? マツリ?」

こんな時間に何の用だろうか。
紫揺の中では完全に夜伽は嬉しい消滅となっている。

「お開けしても宜しいでしょうか」

「あ・・・はい」

彩楓が奥の間の襖を開ける。
マツリを迎えることなく足を前に出して寝台に座っている。 まるで今から前屈でもしよう体勢だ。

「どうしたの?」

マツリにとって想定内の反応。

彩楓が手を着き深く辞儀をすると襖を閉め、四人で紫揺の部屋を出た。
回廊側の襖を閉めると、やっと四人がホッとした顔を見せる。 唯一、世和歌が頬を赤く染めている。
無言で回廊を歩く四人であった。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第203回

2023年09月22日 21時15分28秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第200回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第203回



翌日も声のよく通る文官の進行で言祝ぎが始まった。 今日も知っている者は一人もいなかった。
衣裳は昨日と同じく一日で二回着替えた。 今日も舞台の上で合計三着を着たことになる。 今日の最後には可愛らしい赤色が無くなり落ち着いた赤色となり、新しく青系の色が加わっていた。

昨日と同じ刻限に杠が訪ねてきて、少しは落ち着いていた紫揺の様子を見ると安心したように部屋を出て行った。

「杠殿、お待ちくださいませ」

紅香が襖から出てきて杠を止める。

「はい」

「夕べのことで御座いますが、いったい紫さまに何が御座いましたのでしょう?」

昨日はあまりのことに眉をピクピク・・・いや、驚いたし、杠の言うように紫揺の目を冷やすのが何よりも先決だった。 杠を止めて訊くことなど出来なかった。
紅香たちが心配するのは分かる。 それにそれは紫揺に付く者の任でもある。 だが話せることではない。
あの時は四人の耳があるからもっとぼやかして言いたかったが、紫揺を治めるにあの言い方しかなかった。

「紫揺・・・紫さまをご心配されるのは尤もでしょう。 ですが紫さまだけの問題では御座いませんので、どうぞご勘弁を。 明日も参ります、夕べのようなことの無いよう気を配りますので」

そう言って頭を下げられてしまった。 紫揺だけの問題であれば問いただすところだが、昨日の杠の話ではマツリや尾能の名前まで出ていた。
仕方がない。

「承知いたしました。 くれぐれも紫さまのことをお頼み申し上げます」

「ご配慮、痛み入ります」

紅香が戻って来て首を振る。 それだけで意味が分かる。
紫揺を寝台に入れると「お休みなさいませ」と言って四人が紫揺の部屋を出た。 そっと襖を閉め、そそくさと回廊を歩く。
そろそろいいかと彩楓が口を開く。

「何と仰ってたの?」 杠は。

「紫さまだけの問題ではないから、どうぞご勘弁をって。 明日もこられて、夕べのようなことの無いよう気を配りますと仰ったわ」

「いったい何があったのかしら」

「昨日の早朝、杠殿が宮に戻って来られたと思っていたけれど、あのお話のしようでは、早朝ではなく、夜に戻って来られていたようね」

「そうね」

「何があったのかしら」

自分達が夕べ紫揺を寝かせた後に・・・そして朝を迎える前に。
マツリの名が出るのはともかく尾能の名まで出るとは。

「尾能殿に訊いても口が堅いわよね」 杠と同じく。

「これがリツソ様なら簡単なのに」

「そうよね」

“最高か” と丹和歌の声はするが、世和歌の声がしない。

「世和歌? どうしたの?」

なにかを考えていた様子を見せていた世和歌が三人の顔を見る。

「あれからリツソ様が来られていないわ」

「あ? ええ、そうね」

「勉学に励んでいらっしゃるって聞いたわよ?」

「姉さん、それがどうしたの?」

「あの時のリツソ様を思い出してみて。 それに何かあったのは婚姻の儀が始まる前日」

「何が言いたいの?」

「丹和歌、分からない?」

「待って、世和歌、それはもしかして・・・」

「え? 嘘でしょ!」

「え? 待って! 何なの? 何を言ってるの姉さん?」

「丹和歌、リツソ様よ」

「え?」

「私たちが紫さまのお部屋から出た後、リツソ様が紫さまのお部屋に来られたのかもしれないということよ」

「・・・え!?」

あの時のリツソを思い出す。 有り得なくはない。
恋愛トンチキの世和歌だがこんなところは鋭いようである。

「以前、尾能殿が紫さまに四方様の従者をお付けしていたでしょう?」

「ええ」

「あんなことがあったのよ、リツソ様が紫さまをマツリ様の御内儀様と認められないと仰ったことが。 尾能殿のこと、すぐに耳に入れられておられたはず。 どこかであのリツソ様を見られて、リツソ様か紫さまに従者をお付けしたのではないかしら」

「尾能殿が紫さまをお守りしていたって言うこと?」

「考えられるでしょう?」

言われてみればそうだ、丹和歌が慎重に頷く。

「そこに杠殿が偶然かどうか、いらしたということね」

「ええ、そうだと思うの」

そうだろう、今の自分たちの知る範囲ではそれしか考えられない。
杠は紫揺に安心するようにと言っていた。 何も案じることは無いとも。 ことは治まったのかもしれない。

「それに紫さまが、泣いていなかったかと杠殿に訊かれたわ」

“泣く” そのワードはリツソに当てはまる。

いくら事が治まったかもしれないといっても万が一がある、リツソから紫揺を守らなければ。 四人の拳が握られた。

そして三日目。 今日で言祝ぎが終わる。 一度目の着替えを終わらせたすぐ後に南の領土の者たちが言祝ぎに現れた。

「此度は誠にお目出とう御座います」

「南の領主さん、遠路、有難う御座います」

真丈からは “ありがとう” と言うだけで良いと言われていた。 それは “御座います” を付けないようにという意味でもあった。 今までは頑張って “御座います” を付けなかったが、身に付いているものは仕方がない。 ついうっかり出てしまう。

「驚きました・・・あっと、これは失礼なことを」

「そうですよ、領主」

異(い)なる双眸を持つ青色と赤色の瞳を持つシャダンと、もう一人の異なる双眸を持つ薄い黄色と黒の瞳を持つメイワ、そして黄色の双眸を持つジェイカが、マツリに言祝ぎを終わらせ、領主を押しのけて紫揺の前に来た。

「紫さま、お目出とう御座います」

「シャダン、メイワ、ジェイカ!」

「あら、覚えていてくれたのね、嬉しいわ。 紫さま、お目出とう御座います」

「領主も言ったけどホントにびっくりしちゃったわ、あの時にはそんなことを言ってなかったのに。 でも何よりね、お目出とう御座います」

「有難う。 シキ様の婚姻の儀以来ですもんね。 あの時にはこんな風になるとは思ってもいませんでした」

「あら、そうだったの?」

「はい。 どっちかって言うと喧嘩ばかりして全然でしたから」

三人が目を合わせて笑い出した。

「紫らしいわ」

「え? そうですか? あれからメイワとジェイカは五色が生まれたんですか?」

「残念ながらよ」

「ええ、シャダンだけね」

「そうなんだ・・・」

「だからまだまだ五色として働かなくっちゃいけないわ」

コホンとわざとらしい咳が聞こえた。 南の領土の ”古の力を持つ者” である。
三人がペロッと舌を出すと「紫さま、またお話しましょうね」と言い残し東の領主と此之葉の元に移動をした。
南の領土の ”古の力を持つ者” からも言祝ぎをもらい、また知らない人たちが続いたが、南の領土の五色と話せたことは大きかった。 笑顔が自然に出てくるようになる。

二度目の衣装を変えた。 これで衣裳替えは終わりである。 最終の色合いは紫揺の名にちなんだのか、紫系の濃紺色に差し色が赤色で仕上がっていた。 紫揺にしてはかなり大人っぽい色合わせであった。 そして毎回着替える度に髪飾りも紅もさしかえていたが、どれも大人っぽい色合わせとなっていた。

衣裳替えを終わらせ、またもや知らない人達から首を捻ねられ言祝ぎを受けていたが、暫くして北の領土の領主代理であるセノギとセッカが現れた。

「しゆ・・・・紫さま」

「セノギさん!」

「領主から聞かされた時には驚きました。 お目出とう御座います。 ニョゼも喜んでおります」

「有難うございます。 ニョゼさんはお元気ですか?」

「はい」

二人の間にセッカが入ってきた。

「紫さま、お目出とう御座います」

「セッカさん、有難うございます。 その、あの時には逃げ出してごめんなさい」

「まぁ、もうそんなことは忘れて下さいな。 こちらが悪かったのですから。 せっかくの祝いの席で御座いますわ。 マツリ様とお幸せになって下さい」

「はい」

こんな風に会えるなんて思ってもみなかった。 トウオウのことを思いだし、鼻の奥がツンとする。

「きっとニョゼも今ごろは赤子を抱いて言祝いでおりますわ」

「え?」

「女子(にょご)を生みましたの、ね、セノギ」

「わ、お目出とう御座います!」

「これは・・・紫さまのお祝いの時に。 勿体ないお言葉を頂き、有難うございます」

「紫さまも本領の方になられたのですから、いつでも北の領土に入れますのでしょう? いつでもニョゼに会いに来てやってくださいませ」

「あ・・・はい!」

ニョゼに会える。

「きっとニョゼも喜びますわ」

東の領主がちらりと横目でセノギを見た。 シキの婚姻の儀で会っていて、その顔とどの領土の人間かを知っている。

「領主」

領主と同じくセノギを知っている此之葉が窘(たしな)めるようにそっと領主を呼ぶ。

「分かっておる」

セッカがチラリと東の領主を見た。

「お子を楽しみにしておりますわね。 それではムロイに代わって謝罪をして参りますわ」

セッカが東の領主の元に足を向けた。

「紫さま、どうぞいつまでもお幸せに。 いつでもニョゼに会いに来てやってください」

「はい」

セッカの言葉が気になり領主とセッカを見ていると、頭を下げるセッカを静かに領主が受けていた。
シキの婚姻の儀のおりには領主代理のセノギが謝ったが、五色であり北の領主であるムロイの嫁が頭を下げた方が重いだろう。
それを東の領主が受けた。
これでやっと終わったのだろう。 いや、終わらさなければいけない。 長かった北と東の領土の確執を。
目を正面に戻す。

「いっ!」

知らない間にアマフウに睨まれていた。

「い・・・とはどういうことかしら?」

「あ、いえ、特に意味は・・・」

今にも北風が舞いそうだ。

「アナタ・・・」

そこまで言って瞼を半分下げた。 そして手を繋いでいる小さな手を目に映すと、ゆっくりと瞼を上げる。
馬車の中・・・come back・・・。 紫揺の顔が引きつる。

するとアマフウが意外なことを言ってきた。

「紫さまを初めて見た後、トウオウが爺に何を言ったか。 トウオウから聞かれました?」

紫揺をアナタではなく、紫さまと呼び、尚且つ、敬語。 紫揺をマツリの御内儀様として扱ったということ。 それはそれで嬉しいがコワイ。 アマフウの変わりようにただ首を振ることしか出来ない。 髪飾りがシャランシャランと鳴る。

短髪の紫揺の髪に無理くり付けた髪飾り、余裕などない。 陰から見ていた女官が首を振るなじっとしていろ、などと念じていることなどは紫揺は知らない。
アマフウは何が言いたいのだろうか、トウオウが何と言っていたのだろうか。 ようやく紫揺の首が止まった。

「リリース」

「・・・え?」

「トウオウは紫さまを北から逃がすつもりでした」

「トウオウさん、が・・・?」

「ご婚姻おめでとうございます。 羽音? こちらが紫さまよ」

「あ・・・」

薄い黄色の瞳。 それは・・・。

トウオウ。

目の前に座る紫揺の目から次々と涙が零れている。 その意味が分からない。 どうしたらいいのだろうか。
羽音にアマフウが優しく微笑む。

「トウオウのことは知ってるでしょう?」

「はい」

永遠の眠りにつく前に会った。 優しくあとを継ぐ五色と認めてくれた。

「今ね、トウオウからの言祝ぎを言ったの。 だから次は羽音が言祝ぐのよ」

様子がおかしいと気付いた女官がすぐに手巾を持って紫揺の後ろから差し出す。

「北の領土五色の羽音と申します。 紫さま、お目出とう御座います。 いついつまでもマツリ様とお幸せに」

アマフウが羽音と名乗る少女の手を握っている。 あのアマフウが。 そして少女はトウオウの跡を継ぐ者。 きっとアマフウがこの少女を、羽音を大切にしているのだろう。 まだ言祝ぎなど知らない年齢。 きっとアマフウが教えたのだろう。

ゴシゴシと手巾で涙を拭く。
その拭き方に女官が卒倒しそうになった。
今の時代のようにマスカラを付けていたらどんな顔になったか分かったものではない。 おしろいだけで済んで良かった。

「ありがとう。 トウオウさんのように人に添える五色になってね」

「はい!」

アマフウに手を引かれ、羽音が東の領主の元に移動すると紫揺の前にキノラが現れた。

「お目出とう御座います、紫さま」

「あ、有難うございます」

「五色としてはもうお目覚めに?」

「はい。 その節はご指導有難うございました」

「まぁ、もう本領の、マツリ様の御内儀様ですのよ? もっと堂々とされませんと」

「はい。 でもあの時キノラさん達が仰って下さっていたことがよく分かりました。 力のあることを自覚しなくては先には進めませんでした」

大事子と言われた時もそうだった。 マツリに言われてすぐに自覚が出来なかった。
キノラが首を振る。

「紫さまは東の領土の紫さま、そして今は本領の御内儀様。 出過ぎたことを申しました。 いつまでもお幸せに」

「有難うございます」

キノラが目の前から去って行くと、次にセイハが現れた。

「セイハさん」

「意外だったって言うか、考えもしなかった」

マツリとのことである。

「あ、私も」

「なにそれ? 当事者がそんなこと言うの?」

「何がどう転ぶか分からないなって」

日本でない所で結婚をして、何度もお色直しをして、こんなに盛大な結婚式を挙げるなんて、考えもしなかったのだから。

「ま、とにかく御目出とう。 さっきのキノラとの話からすれば自覚が出来たみたいだから力も出せるんでしょ?」

「はい」

「はい、か。 堂々と言ってくれちゃって」

「セイハさん?」

「こんなこと言いたくはないんだけど、私の力、衰えてたの」

「え?」

「今は修行してるわ」

「修行?」

「そっ、力の修行。 まだまだ大きくは領土の役に立ててないけどね」

紫揺が微笑んだ。

「大きいも小さいもありません。 セイハさんが力の修行と思うのなら、そうなのでしょう、ですが結果的に民の役に立っています。 民の喜ぶ顔が見られることが何よりです」

「ぷぷ、シユラったら五色みたい」

「五色ですから」

「何言ってんの、婚姻の儀が整ったら、五色の前に御内儀様だよ? そこんとこ自覚してる?」

「はい」

セイハが影の無い笑みを紫揺に送る。

「そっか。 じゃ、紫さま、お目出とう御座います」

「セイハさん・・・有難うございます」

セイハのあとには知らない者たちの言祝ぎが続き「ありがとう」だけを言っていた。
結局言祝ぎをもらい、心から喜べたのは南と北の領土の人間からだけだった。

今日は昨日一昨日より終わりを告げる声が遅かった。 全員からの言祝ぎが終わらなければいけないのだから当然のことである。
ようやく部屋に戻ると、シャダンたちやセノギやセッカたちに会えたのが嬉しかったようで、この二日間のように着替えさせられている間に寝台に倒れ込むことは無かった。

夕餉を食べ湯浴みを終えると今日も杠が来た。

「今日は元気そうだな、少しは慣れたのか?」

初日だけのつもりだったが、初日の紫揺の様子を見て放っておけるものではなかった。 紫揺の前の椅子に座る。

「今日は知ってる人が来てくれたの、南と北の領土の人達」

「そうか、それで元気なんだな。 良かったな」

知らない者たちに言祝がれても嬉しくも楽しくもなかったのだろう。

「元気そうで安心した。 明日からは来られないが大丈夫だな?」

「え? どうして? 婚姻の儀の間は居てくれるんでしょ?」

「ああ、居るよ。 ちゃんと紫揺が馬車で出る時には見送るし、戻ってきた時には迎える。 明日のことを女官殿から聞いていないか?」

「・・・あ」

そうだった。

「でも・・・」

「でもも何もないぞ? 明日になれば紫揺は晴れて御内儀様だろ?」

夜中には闇に浮かぶ月明かりの中、月の雫と言われる水をいただき、早朝には祭壇のようなものがしつらわれている建物に入り、初代領主への婚姻の誓いという儀式が執り行われる。 午後には陵墓に足を運び代々の領主に報告をする。
月の雫をいただきマツリの正式な内儀となる。

そして明日の夜からは紫揺の部屋にマツリが来る。

もう己の出る幕ではない。 紫揺の頭を撫でてやると椅子から立ち上がった。

「明日は今までのように座って言祝ぎを受けるだけではないだろう? しっかりと疲れを取っておけよ」

「杠・・・」

「そんな顔をしてどうするんだ? ん? マツリ様を困らせるんじゃないぞ?」

これから三辰刻(さんしんこく:六時間)もしない内に月の雫の儀式がある。 それまで紫揺の身体を休ませたい。 早々に紫揺の部屋を出た。
今夜も呑みに誘われている。 それも月の雫の儀式が終わってからと。 だが今日が最後だろう。

杠が出て行くと月の雫の儀式のことがある。 杠が考えたように “最高か” と “庭の世話か” も紫揺をゆっくりと休ませたいと思っている。 床に入るよう促したかったが、どうやら思いにふけりたいようだ。 身体を休めさせることより今はそっとしておく方が良いかと、椅子に座りじっとしている紫揺を置いて、そっと四人が襖戸から出て回廊に座した。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第202回

2023年09月18日 21時11分55秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第200回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第202回



回廊下を覗こうとした紫揺だったが、紫揺の手首を引っ張ってリツソが止める。 あの可愛らしいリツソの力とは思えないほどの力である。

「紫揺をお放し下さい」

「杠」

こんな所を他の誰かに見られるわけにはいかない。 大きな声は出せない。

「杠か、お前に何を言われることなどない」

「己はマツリ様付きで御座います。 マツリ様の御内儀様となられる紫揺をお守りするのも己の任で御座います」

「たしか・・・シユラが兄と慕っていると聞いたが?」

「己も紫揺のことを妹と思っております」

「では我の義兄となるということか」

「そのような事は御座いません。 紫揺はマツリ様の御内儀様に御座います」

「勝手なことを言うでないわ!」

声が掠れていると言えど立場の違うリツソの大喝にびくともしない杠。

「リツソ様、如何で御座いますか? ここで己を倒されれば己は諦めましょう。 見なかったことといたしましょう。 紫揺をお連れになるのでしたら、今だけではなくこれからも紫揺を守らなければならないのは必需で御座います」

杠の言う通りだ。 このまま紫揺を連れて逃げれば武官が探しに来る。 武官だけではなくマツリ自身も来るかもしれない。 尾能が言っていたようにマツリや武官たち以外にも盗賊からも紫揺を守らなければいけない。

杠はマツリ付の官吏であり武官ではない。 四方の仕事も手伝っていたと聞いている。 どちらかと言えば文官に近いだろう。

紫揺と二人で暮らせるように勉学に励んだ。 鍛練は受けていないが、それでも勉学をしていない時には自分なりに身体を動かしていた。 マツリには到底及ばないが勉学ばかりしていた官吏風情には負けはしない。

「その言葉忘れるな」

紫揺の手を離すと小階段を降り杠に対峙する。

「己の方が歳が上で御座います。 左手一本でお相手させて頂きましょう」

「ば! 馬鹿にしおって!!」

闇雲にリツソがかかっていったがあまりにも呆気なく終わった。
宣言したように左手一本を軽く腹に入れ、前屈みになったところに背中に左肘を入れた。 倒れてくるリツソをこれまた左腕だけで支える。

「杠・・・」

杠が戦ったところなど初めて見た。 杠が強いのかリツソが弱いのか分かりもしないが、それでも無駄な動きが無かった事は分かる。 でも腹に入れてそれで終わっていればよかったのではないか? どうして背中まで打つのか。

「大丈夫だ、少しリツソ様が落ち着かれるまで待っている。 明日に備えて寝ておいで。 尾能殿、申し訳ありませんが紫揺・・・紫さまをお房にお願い致します」

「は、はい」

呻いているリツソを肩に担ぎ上げ、懐に入れていた光石を手に取ると回廊から離れている東屋に向かった。
光石を卓の上に置き、まだ呻いているリツソを椅子に座らせる。

「申し訳御座いませんでした。 どこか具合の悪いところが御座いませんか?」

肘を打ちつけた背中をさすってやる。

「う・・・うるさいわ! うう・・・」

呻きの声の中から力なげに言い返す。
さすっていた手を止め、もう一つの椅子に座りリツソが落ち着くのを待っていると、そのうちリツソが杠を睨みだしてきた。

「お力がお戻りになったようで」

「お前は・・・官吏であろう」

「はい」

「それなのに、どうして」

「官吏で御座いますので己が主であるマツリ様をお守りするのも、己が妹であり御内儀様をお守りするのも己の任で御座います。 その為の鍛練は欠かしてはおりません」

鍛練をしていたのか・・・。 早くそれを言え。
プイッとリツソが横を向いた。

尾能が言っていたのがこの事なのだろうか。
『女人が選ばれたお相手は、私よりずっと女人をお守りできる方。 私などお相手の方ほども女人をお守りできません』
『武術に長け、知恵もお持ち。 賊に入られれば私などすぐにやられてしまいます。 ですがお相手の方は、最後まで女人をお守りできるお力をお持ち』
『女人をお守りできないのであれば、心を苦しめるだけではなく身体も苦しめてしまうことになりかねません』
もし賊に入られてしまっていては、こうしてリツソが呻いている間に紫揺が何をされるか分からない。
それに賊は今の杠のように丸腰ではないのだから。

「我は・・・我ではシユラを守ってやれないということか」

「鍛練をお積になれば宜しいかと」

「・・・」

悲しい顔で紫揺が笑った。
『シキ様にはかなわないけど、それでもリツソ君のお姉さんになってもいい? 頑張るから』
頑張るから・・・。
さっきも紫揺の顔が曇った。
これも尾能が言っていたことなのだろうか。

『私が何かを言えばその女人が苦しむだけ。 想っている女人を苦しめたくは御座いません』
『想っていればこそ、その者の幸せを願いたいもの。 そう思われませんか?』

・・・分かっている。 尾能に言われて分かっていた。 でも・・・。

「我は・・・シユラを苦しめておるのか」

「それはリツソ様がお考え下さい。 ですが己は紫揺の幸せを願っております。 そのような者が一人でも多くなればと思っております。 それが紫揺の幸せに繋がりましょう」

目に涙が溢れてくる。
ぽたぽたと卓の上に幾粒もの涙が沁みを作る。

杠が回廊に立ち、離れた所からリツソが部屋に戻るのを見送った。
後方では回廊の隅から人影が出てきた。 背で気配を感じていた。 誰かは分かっている。

「手間をかけたな」

尾能が止めきれなかった時には出て行くつもりだったが、まさか六都から戻ってきた杠が偶然にも遭遇するとは。

ゆっくりと杠が振り返る。

「お休みになられておられなかったのですか」

杠を宮に戻すためにぎりぎりまで六都で働き、明日からは大変だというのに。

「杠が戻って来なかったのでな」

正式ではないにしろ、婚姻の儀への出席は勿論のこと、事前に紫揺と会わせてやりたくて今日中に戻って来いと言っていたのに、こんなに遅くまで六都に留まっているとは。

「何かあったのか?」 六都で。

「いいえ、気の済むまで居たというだけです」

「それなら良いが。 リツソはどんな具合だ?」

「お分かりになられたのではないでしょうか」

もうあんなことはしないだろう。 それに明日からは婚姻の儀が始まる、諦める以外にないであろう。

「紫揺はどうでした?」

尾能が紫揺を部屋に戻す時にマツリも見ていたはず。

「ああ・・・まあ、あんなものだろう」

「あんなものって・・・」

この刻限である、さすがの杠も紫揺の部屋を訪ねることなど出来ない。

「心配はいらんだろう。 どうだ? 呑まんか?」

この言い方であれば、深刻に紫揺の心配は要らないようだが。

「明日からのことをお考えになって下さい」

「夕刻に少し寝た。 杠が疲れているというのなら別だが?」

一つ息を吐くと両の眉を上げて答える。

「明日、酒臭くならない程度にですよ」


昼少し前から婚姻の儀が始まった。

本領で辺境に居た五色や遠方から来た者たちは宮都の宿に泊まっていて、昼前には宮に入っている。
西南北の領土の者たちは朝一番に領土を出て宮に入った。
岩山の下に造られていた建物には驚いた顔を見せていたが、見張番からここから正式な輿入れが始まったと聞かされ、誰もが頷いていた。

シキの時とは違って都司や郡司までもが来ている。 その五百人を超す招待客が舞台を見ている。

今日の為に作られた宮内の舞台にはマツリと紫揺は勿論のこと、マツリから少し離れて四方と澪引。 紫揺から少し離れた所に居るのは四方と此之葉。 通常なら両親が付くが親代理の領主である四方と、紫揺が五色だということは招待状に書かれていて誰もが知っている。 ”古の力を持つ者” が同席するのは不自然なことではない。
そしてマツリの斜め後ろには止まり木にとまったキョウゲンが居る。

マツリと紫揺の間はかなり空いている。 領主と此之葉の方がよほど近い。 それはシキの時に見ていて知っていたが、いざ舞台に上がると一人でいる気分だ。

初日の最初の衣装は輿入れの時と同じく赤と桃色が基調となっていた。 額の煌輪は外され、小さな飾り石が髪にちりばめられている。 今日もおしろいと紅がさされた。

よく声の通る文官によってマツリと紫揺の紹介がされ、続いて四方からの挨拶があった。

(おっさん、こんな時にもエラソー)

本領領主なのだから「遥か遠路を」とか言ったり、へこへことはしない事は分かっているが。 それでももうちょっと言いようがあるだろうに。 そう考えるのは紫揺だけなのだろうか。

今日は朝一番に紫揺だけで四方と澪引に挨拶に行った。 その時にも結構エラソーだったことを思い出す。

宮での決まごとの挨拶口上があるらしく、今日は一人で朝餉を終わらせると真丈と名乗る女官がやって来て紙に書かれた口上を見せられ、この真丈が今回の婚姻の儀の裏を取り仕切る一人だと聞いた。

夜衣から朝餉を食べていた衣装、そして挨拶に向かう衣装、戻ってからはもう一度朝餉を食べていた衣装に着替え、婚姻の儀が始まる前には今着ている衣裳に着替えた。 あと二度着替えるらしい。 試着を除いて一日に六度も着替えるのは初めてである。

一人で色々と考えている間に進行はどんどん進んでいき、いつの間にか舞台の最前に椅子が用意されていた。
これもシキの時に経験済みである。
何故舞台の最前に座るかは、一人一人から言祝ぎを受ける為である。 そして招待客が婚姻の儀を行っている者たちより頭が高くならないために、少し高めの椅子が用意される。
さほども高い舞台ではない。 学校の体育館の舞台ほどだろうか。 背の高い者は背を丸めていたのを思い出す。
紫揺はこの身長である。 当然に座高も低くなる。 背を丸める者の人数が多くなるだろう。

澪引は四方に手を取られ、紫揺は女官に手を取られ、此之葉が領主に手を取ってもらい最前に置かれた椅子に座る。 紫揺の椅子の下には足置き台が置かれていた。 見た目が不細工だが、足をブラブラさせるよりよほどましであると判断したのだろう。

マツリと紫揺だけではなく、四方夫妻と東の領主と此之葉にも言祝ぎが行われる。
マツリと紫揺の椅子が先程より随分と近くに置かれたが、それでも隣り合って座っているという感覚ではない。

招待客たちの卓にどんどん料理が置かれていく。 その一方で四方夫婦、マツリ、紫揺、東の領主と此之葉という順に言祝ぎが行われていった。 紫揺を知らない者たちは紫揺の前に来ると誰もが首を傾げていた。
言いたいことは分かっている。 澪引やシキと大きな違いだと。 ましてやお義婆様であるご隠居の奥を知っていれば尚更だろう。

(これが三日続くのか・・・)

気が遠くなりそうである。
見たことも会ったこともない者たちから、どこどこの何兵衛ですと自己紹介をされたのち、順々に言祝がれ、それに笑顔で応える。
真丈からは話さなくてもいいと言われた。 「ありがとう」の一言で良いと。 それだけは助かった。

二度場を外し着替えに入る。 その時に紫揺にも舞台に上がっているマツリたちにも、軽い食が用意されていた。 そしてその間の言祝ぎはストップされているらしい。
二度目に着替えた衣裳には桃色がなくなっていて、薄い緑系の色が入ってきていた。

空が茜色に染まる頃には、今日の言祝ぎはこれまでとされ、明日明後日に持ち越され、紫揺の今日のお仕事はこれまでとなる。

そして招待客には夕刻になれば『夕の宴』として夕餉が用意され、あちこちで楽が流れ、手妻や軽業が行われたりとする。
『夕の宴』を終わらせたのち宿に戻ったり、家に戻ったりとしてまた明日明後日と来るということになる。 東の領土の領主と此之葉は勿論だが、西南北の領主と五色 ”古の力を持つ者” は宮に泊まる。

「つ・・・疲れたぁ・・・」

ポテンと寝台に倒れ込んだ。

「まぁ、紫さま」

「ささ、お疲れでしょうが、まだお着替えの途中で御座いますよ」

「あと少しご辛抱下さいませ」

丹和歌が微笑みながら茶の用意をしている。

「みんな、よくじっと座ってられる・・・」

紫揺は着替えに立つことが出来たが、マツリも四方夫妻も領主も此之葉も座りっぱなしである。

「お尻痛くならないのかなぁ」

グズグズ言いながら立ち上がると手際よく着替えさせられた。

「領主さんたちの所に行っていいですか?」

「領主様と此之葉様はまだ戻っておられません。 たしか・・・」

「ええ、お知り合いの方と会われたとかで、そのまま夕の宴に残られていらっしゃるかと」

「お知り合い? 誰だろ」

ポテンと寝台に座る。 本領で知り合いなどいるはずが・・・。

「あ! 南の領主さんたちかな」

「申し訳御座いません、お伺いしておりません」

「北の領主は来たんですか?」

互いに見合うが首を振る。

「どなたがいらしておられるのかは存じ上げなく」

シキの時のようにセノギが来たのならニョゼも来ているかもしれないと思ったが。

「あ、いいです。 大丈夫です」

言祝ぎの時に分かるだろう。

「このままちょっと寝ちゃいそうですけど・・・」

「お疲れで御座いますものね」

「茶を飲んでお眠り下さいませ」

丹和歌が紫揺に茶を握らせる。 紫揺の好きな茶の香りがする。 コクリと飲むつもりがコクコクと一気に飲んでしまった。 喉が渇いていたようだ。

「お替わりをお淹れいたしましょうか?」

「大丈夫です」

「では夕餉までお休みくださいませ」

結局昨日はリツソのことがあってまともに寝られなかった。 甘い茶を飲んだからだろうか、眠気が一気に襲ってきた。

「はい、起こして下さ・・・」

“い” まで言えなかった。


夕餉の用意が整い彩楓が紫揺を起こす。 泥のように寝ていた紫揺がゆっくりと目を開ける。 紫揺を起こす時にはパンチが飛んでくるかもしれないというアマフウの危惧など彩楓は知りもしない。

「夕餉の用意が整いまして御座います」

「・・・あ、はい」

ぼぉ-ッとした頭で起き上がると寝台を下りる。
四人に囲まれ夕餉と湯浴みを済ませると杠が訪ねてきた。 杠が特別であることを四人は知っている。 他の者であれば通すことなどないが、快く部屋に入れた。

「杠!」

「紫揺」

杠が両手を広げると紫揺がその腕の中に入って杠に抱きつく。 それを諫めることは無いが、たとえ杠と言えど座を外すわけにはいかない。 四人が襖内に座った。

「昨日は有難う」

昨日? 何のことだと四人が首を傾げる。

「あれからどうなったの?」

「紫揺が心配することは何もない。 落ち着かれた。 それとこれはマツリ様には内緒だがマツリ様も居られた」

「え? マツリが?」

「ああ、身を隠しておられたが、尾能殿ではどうにもいかないとなったら姿を現されていたそうだ」

マツリに尾能? いったい何のことであろうか。

「あ・・・あの日はマツリに会っちゃいけないって言われてたから、だから、か。 ・・・泣いてなかった?」

「もう落ち着かれたんだ、紫揺が案じることは無い」

眉を八の字にしている紫揺を見て杠が相好を崩して続ける。

「ようやくだな。 おめでとう」

情けない顔で紫揺が微笑む。

「うん、有難う」

杠に椅子に座るように勧めるが杠が首を振る。

「一言いいたかっただけだ。 今日は慣れないことで疲れただろう。 まだ続く。 ゆっくり休むといい」

「まだ宮に居るの?」

「ああ、婚姻の儀の間、宮に居られるようにマツリ様が奔走して下さった。 それであれだけ宮に戻られるのが遅くなられた。 己のせいだな、紫揺には寂しい思いをさせてしまった」

紫揺が首を振る。

「杠が居てくれて嬉しい」

もう一度杠にしがみ付くと顔を埋めて声を殺して泣きだした。
それがリツソへの涙と分かる。 そんな気持ちがありながら今日の婚姻の儀を過ごしていたのか。

四人の眉がピクピクと動く。 どういうことだ、いったい何があったのか。

「紫揺が気に病むことは無い。 めでたい席だぞ? そんな風に泣いてどうする」

何度も何度も頭を撫でてやる。

「う、え・・・ひっく・・・」

婚姻の儀の途中である、あまり紫揺の部屋に長居をしたくはなかったが致し方無い。

「紫揺? 椅子に座ろうか、な?」

紫揺を椅子に座らせるがまだ杠にしがみ付いている。 すぐ隣に椅子をつけて杠も座った。
まずは紫揺の気の済むまで泣かせてやろう。 その間、背中をさすってやろう。
グスングスンと言いながら、ようやく納まってきたようだ。

「少しは落ち着いたか? うん?」

背中をさすっていた手を止めて覗き込む。

「・・・うん」

「明日目が腫れたら大変だぞ?」

背中をさすっていた手を頭に持っていくと頭を撫でてやる。

「うん・・・」

「マツリ様にお任せするといい」

「・・・うん」

「明日もある。 目を冷やしてもらってからもう今日は寝た方がいい」

「うん」

「いい子だ」

最後にもう一度頭を撫で立ち上がると、襖内に座る四人に目を向け、紫揺の目を冷やしてもらうようにと言い部屋を出て行った。

マツリに今日も呑むのに付き合えと言われている。 マツリの部屋に足を向ける。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第201回

2023年09月15日 21時37分14秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第201回



暫しの時を設けることが出来、頃合良く女官が声をかけてきた。
正面の襖が開けられる。 大きく開けられた襖の向こうには、いつの間にか立派な馬車二台が正面に停まっていた。

紫揺が手を取られ静々と階段を降りる。 履き物を履くとすぐに控えていた女官が裾を持つ。 一台の馬車に紫揺が乗り込むと、もう一台に領主と秋我、此之葉が乗り込んだ。
来た時には地に足をつけていた武官たちが馬上で姿勢を正している中、横を見ると見張番たちが手を振っている。 この辺りは自由にして良いようだ。 紫揺も手を振り返す。 さすがに東の領土で此之葉に諫められたように大声は出さない。

武官の馬が何頭も先頭を切り歩き出すと、紫揺の乗る馬車、そして領主と秋我、此之葉が乗る馬車と続き、その後にも武官の馬が続いた。

ふと気になって、後ろを振り返り岩山を見上げると、五人の見張番が紫揺が振り向いたことに気付き大きく手を振っている。 少し体を捻じり手を振り返す。
後ろの馬車からその様子を見ていた領主が「心ある者に見送られて本当に良かった」とこぼしている。

誰も居ない馬道を走るといつものように左に折れるはずが右に折れた。
あれ? と思ったが、その意味が分かった。 宮の塀が終わり、宮都の中を馬車が走っている。 先に触れがあったのか、宮都の民たちが紫揺を一目見ようと押し合いへし合いになっている。

「紫さま!」 「御目出とう御座います!」 「こっち向いて!」

紫揺を知らない民から色んな声が上がる。 手を振られる、手を振り応える。

澪引もこうだったのだろうかと、紫揺が考える。
紫揺にしては実体験の経験こそないが、仕事から帰ってプチっとつけたテレビで、平成天皇と令和天皇のパレードの再放送を何度も見ていた。 想像ができなくはない。 だが澪引はそうでは無かっただろう、ましてや辺境の出。 紫揺以上に何も知らなかったはず。

「澪引様・・・」

身体が弱く、紫揺と同じく宮のことを全く知らない。 いや、少なくとも紫揺は何度か宮に足を運んでいる。 澪引は輿入れが初めての宮入りだと聞いている。

「お一人でクリアされたんだ・・・」

どれだけ世界が一転しただろう。
いや、待て・・・。
確か澪引は輿入れの時には四方が付いていたと言っていた。
一転したにはしたのだろうが・・・。

「マツリのヤロー・・・」

顔を引くつかせながら民に手を振った。

ようやく馬車が大門を潜り宮に入る。
宮で待ち構えていた女官に手を取られ馬車を降りると、すぐに裾を持つ女官たち。 ここでも “最高か” と “庭の世話か” の姿が見られない。

(いい人が見つかって宮を出たのかな・・・)

寂しいと思ってはいけない。 応援をすると言ったのだから喜ばしいと思わねば。

下男たちの姿はなく女官たちが頭を下げる中、紫揺に与えられた一室に通された。 これからはここが宮での紫揺の部屋となりいつでも自由に使える。
そこに叩頭した “最高か” と “庭の世話か” が待ち構えていた。 いい人が見つかったわけではなかったようである。

「御方様がすぐにいらっしゃいます」

紫揺の手を取っていた女官がそう言って紫揺の手からそっと手を引く。 御方様・・・澪引のことである。 知っている者は紫揺に御方様とは言わない、澪引様と言う。
女官が出て行くと “最高か” と “庭の世話か” が頭を上げ、同時に紫揺が四人の名前を呼ぶ。

「彩楓さん、紅香さん、世和歌さん、丹和歌さん!」

「紫さま、誠に御目出とう御座います」

四人が再度叩頭する。

ついさっきこの四人がいい人を見つけて宮を出たと思った。 それなのに・・・。
じわじわと紫揺の目に涙がたまる。

「紫さま!」

四人が立ち上がり紫揺の元へと駆け寄る。

「ご、御免なさい・・・居て下さると、ヒック、思わなかったから」

すぐに四つの手巾が出され二枚が紫揺の片目ずつを拭きあとの二枚が・・・左右の鼻穴の鼻汁を拭く。
リツソなら願い下げだが紫揺の鼻汁なら拭ける。

「紫さま、お泣きにならないで下さいませ」

「ご安心下さいませ、わたくしたちはずっと紫さまと居ります」

「ええ、ええ、お目出たいことで御座います。 お泣きになりませんよう」

「お疲れで御座いましょう、茶をお淹れいたします」

“最高か” と “庭の世話か” に背中をさすられ、やっと涙と鼻汁が止まった。

「御免なさい・・・」

「何を仰います、お目出度い時に」

「何もお考えになられませんよう」

「いつでも、わたくしたちが居ります」

紅香が茶を淹れている。

慣れた宮のつもりだった、それなのにこの不安は何なのだろうか。 訳が分からない押し寄せる不安の波がある。
座らされた卓に茶が置かれる。

「紫さまのお好きな茶で御座います」

紫揺の好きな甘い茶。 紅香としては落ち着きをもたらす他の茶を淹れたかったが、ここは紫揺の好きな甘い茶が良いと思われた。
目の前に置かれた茶を一口飲む。
甘い。 好きな味が身体に浸透していくようだ。

「美味しい・・・」

「それは、よう御座いました」

ぶえっとまた紫揺の目に涙がたまる。 ポロポロと涙が零れる。

「紫さま?」

「どうなさいました?」

何度も鼻を啜るとようやく声にする。

「わ・・私でいいのかな・・・」

四人が驚愕の顔を浮かべる。

「何を仰います!」

素晴らしく感嘆符の付いたカルテットであった。


澪引が紫揺の部屋を訪ねた時には涙と鼻汁を徹底的に拭かれたあとである。

「紫、よく来てくれました」

「澪引様・・・」

「道中、驚いたでしょう? それにマツリが迎えなくて御免なさいね」

言われればそうだ。 四方のように輿入れに付けとは言わないが、宮に迎え入れることくらいすればどうなのか。 そうであれば泣かなかったもかもしれないのに。
文句はあるがそれを澪引に言うわけにはいかない。

「いいえ、東の領主が居てくれましたので」

“最高か” と “庭の世話か” に泣いたことは秘密にしておこう。

澪引も輿入れの時には両親と兄が付いてくれていた。 だが紫揺には両親がいない事を聞かされている。

「東の領主はよくしてくれているのね」

「はい」

澪引が紫揺を抱きしめる。

「澪引様?」

「婚姻の儀が始まれば、義母上と呼んでもらえるかしら?」

「はい」

「紫がわたくしの義娘になってくれて嬉しいわ。 いついつまでもマツリと幸せにいてね」

「・・・はい」

澪引からの言祝ぎである。 心に沁みる。
澪引の抱(いだ)きに、安堵を寄せた紫揺であった。

まだ婚姻の儀が始まったわけではない。

婚姻の儀が始まれば最初の三日は、招いた客たちから一人づつ言祝ぎを受け、四日目の婚姻の儀の中日である日本でいうところの午前零時を過ぎた満月の元での婚姻の儀を済ませると、ようやく宮内での婚姻の儀が整ったこととなりこの日から宮の者となる。 言ってみれば正式にマツリの内儀となるのは中日の午前零時を過ぎた頃ということである。

その中日の満月の日には闇に浮かぶ月明かりの中、月の雫と言われる水をいただく。 その後少しの睡眠をとり、早朝には祭壇のようなものがしつらわれている建物に入り、初代領主への婚姻の誓いという儀式が執り行われる。 午後には陵墓に足を運び代々の領主に報告をするということである。
残りの三日は馬車で民の中に入り、お披露目をするだけということらしいが、これも宮の者としての必要な婚姻の儀の一つになるということであると聞かされた。

領主と秋我、此之葉と一緒に昼餉を済ませた。 その後からはシキが付いての仕上げられた衣裳の試着が始まった。

「帯が長すぎたわね、これくらい短くしてちょうだいな」

「この色合わせは紫には合わなかったようね。 これには・・・青・・・空色を合わせてちょうだい」

「あら、身に付けると衣裳の飾り石が目立ちすぎるわね、小さな物に変えてちょうだいな」

「この色の衣ではお袖が長すぎたようね、少し短くしてちょうだい」

「この衣装にその髪飾りは大きすぎたわ。 もう少し小さいものを」

紫揺にはチンプンカンプンである。
シキの注文が今日明日で仕上がるのだろうか。

「せわしくて御免なさいね」

通常なら輿入れ前に女官が何度も足を運んで済むことである。 澪引も輿入れ前には何度も女官たちが足を運んでいたということであった。
だが紫揺は東の領土に居て本領の女官たちが東の領土に入るわけにはいかない。 せわしなくなっても仕方のないことであろう。
東の領土であれば「いや、ここまでしなくても」と言ったであろうが、ここは本領そして宮。

この立場になってもまだ価値観が理解し切れない。
六都でまともに生活をしていていない者がいる。 その中で税のことがある。 紫揺に用意されたものは税で出来ているのだろう。
税に甘える気はないが宮としての生き方もあるだろう。
ナカナカに難しい。

試着がようやっと終わり領主、秋我、此之葉と夕餉を囲んでいる。
女官たちは食べることもせず仕立て直しをしているのだろうか。

そして翌日の夕刻近くになり、仕立て直された物の試着と飾りが身に付けられた。

「お母様、如何かしら?」

「ええ、どれも宜しくってよ。 紫によく似合っているわ。 ね、此之葉はどう思って?」

昨日の試着に此之葉は呼ばれていなかったが、今日はしっかりと呼ばれ仕立て直したものを着た紫揺が目の前にいる。

「はい、どれも素晴らしく紫さまによくお似合いで御座います」

それにしても仕立て直したものだけでこの数。 いったい何着作ったのだろうか。

「東の領土の ”古の力を持つ者” にそう言ってもらえれば安心だわ。 紫、疲れたでしょう?」

試着には結構体力を使う。

「明日から婚姻の儀が始まるわ、今日はもうゆっくりしてちょうだいね」

「あの、マツリ様は・・・」

紫揺が訊きたいだろう。 訊きにくかろう紫揺に代わって此之葉が訊いた。
シキもそれは分かっている。 此之葉に一つ微笑むと紫揺に向かって話し出す。

「今朝ようやく戻って来て朝から衣裳を合わせていたわ。 今は婚姻の儀の運びの説明を聞いているんじゃないかしら」

マツリの寸法は分かっている。 マツリが居なくとも仕立て上がっていた。

「紫、寂しい思いをさせて御免なさいね、四方様も呆れていらしたわ」

紫揺が首を振りかけたがそれより先にシキが澪引に続く。

「ええ、本当に。 紫を放って、信じられませんわ」

「きっと六都が忙しいんだと思います」

だからと言って、とシキが言うと大きく息を吐き次を続ける。

「それでね、言いにくいのですけれど・・・婚姻の儀の前日は互いに会うことは相成らん、ということが決められているの」

昨日まではマツリと会っても良かったが、今日一日マツリと会ってはいけないということ。

「紫、本当にごめんなさいね。 昨日までに互いの気持ちを確かめ合うものなの」

「それでなくてもマツリと紫はそんなに会っていないというのに。 本当にマツリったら」

「紫? こんなマツリでもいいかしら・・・」

紫揺がニコリと微笑む。

「そんなマツリだからいいです、六都を放って来られた方が・・・放ってくるマツリだったらシラケちゃい・・・頼り甲斐を感じませんから」

「ま・・・」

澪引くが口に繊手をあて、シキがコロコロと笑い出す。

「やはりよく似ているのね。 ・・・有難う、紫」

「いいえ、私の方こそ。 何もかも澪引様とシキ様にお願いしっぱなしで・・・」

首を振ったシキが紫揺を抱きしめる。

「明日からは義姉上と呼んでちょうだいね」

「はい」

澪引を義母上と、シキを義姉上と呼ぶ。 もし澪引とシキが言ってくれなければ、いつからそう呼んでいいのか分からなかった。
紫揺の心の内を読んで澪引とシキが言ってくれたのか、二人とも心からそう思っているのか、両方なのか、紫揺には分からない事であった。
だが・・・四方もそうなのだろうか。

「あの、四方様にはいつから・・・義父上とお呼びすればいいんでしょうか」

「四方様にも明日からそう呼んでちょうだい」

婚姻の儀が整った中日以降ではないらしい。

東の領土の者が揃い、紫揺が東の領土の五色として最後の夕餉を食べた。 明日からは東の領土の五色ではなく、まだ正式ではないがマツリの内儀扱いとなる。 東の領土に戻ると言っても本領の人間となっている。

湯浴みを済ませ “最高か” と “庭の世話か” に手伝われ夜衣に着替える。
“最高か” と “庭の世話か” は紫揺付きの従者となったそうだった。 澪引とシキが決めたそうだが、今までのことを考えるとマツリも反対はするまい。 紫揺自身も最初に聞かされた時には大層喜んだ。 「でも、いつでも婚姻をして下さいね」とは付け加えていた。

寝台に座り常夜灯の光石に照らされた部屋を見回す。 朧気だが見ることは出来る。 シキの部屋と変わらないつくりである。 回廊から入ってすぐに一部屋があり、そして奥に寝台の置かれたこの部屋がある。 窓があり、ちょっとした物を入れるのだろう、抽斗の付いた棚もある。 押し入れや箪笥は見当たらない。 そういうところに入れる物は従者の手によってどこか他に入れられるのだろう。

ほぅ、と息を吐いた。

「明日から始まるんだ・・・」

もし日本で結婚式を挙げるようなことがあったのならば、その前日はこんな気持ちだったのだろうか。
・・・多分、違うだろう。
あんな宮ミニチュアまで用意され輿入れパレードをして、何枚もの試着をして。 お義父さん、お義母さんと呼べばいいところを、義父上、義母上と呼ぶ。 ましてや日本なら一日で終る結婚式が明日から七日間もある。

「それなのに、こっちから一銭も出してないし・・・」

やはり金銭は気になるところでだる。 沁みついている事はそう簡単に消すことは出来ない。
シキの婚姻の儀の時に二日間宮に泊まったが、朝昼晩と立派な食事が出ていた。

「あの人数にあれだけの食事を出すんだもんな・・・」

気にはなるが東の領土に金は存在しない。 だからと言って食材を持ってくることもままならない。
本当に体一つで宮に来た。

「うん?」

何か声がしたように聞こえたが気のせいだろうか。 だが耳を澄ますと回廊に面している襖が開いたような音が聞こえた。

「マツリ? ・・・んなわけないか」

決めごとを破るような人間ではないし、今頃はバタンキューだろう。
“最高か” か “庭の世話か” かとも思ったが、聞こえてくる足音は一人分だけ。 その足音が襖の前で止まった。

「シユラ? 起きておるか?」

「え・・・? リツソ、君・・・?」

声が掠れて声音も違っているが紫揺と呼んでいる。 この宮内で紫揺のことを紫揺と呼ぶのはリツソとカルネラ以外居ない。 だがカルネラではないことは分かっている、足音がしたのだからリツソに間違いない。
寝台から立ち上がり襖を開ける。 するとそこにはマツリほどではないが、見上げなくてはならないリツソが立っていた。

「・・・リツソ、君?」

面差しは幼さを失っている。 ふっくらとしていた頬が全く無くなり、丸かった顔が面長になっている。 声が掠れていたのは声変りの途中なのだろう、小さかった肩が幅を持っている。

ずっと見上げていた紫揺を見下ろす。 今までのように紫揺に抱きつくのが・・・憚られる。 紫揺はこんなに小さかったのか。

「シユラ、今ならまだ間に合う」

「リツソ君?」

「我の・・・我の奥になってくれ」

「リツソ君・・・」

「今、今なら間に合うから」

「リツソ君・・・お願い、お姉さんにならせて? ね?」

「姉上は一人だけでいい」

リツソが紫揺の手首をつかむ。

「リツソ君?」

紫揺の手首をつかんだまま部屋を出て回廊を歩く。 光石が次々と点灯していく。

「リツソ君、どこに行くの?」

無言で歩いていたリツソが足を止めた。

「宮を出る」

「え?」

「どこかで・・・二人で暮らそう」

リツソはそんなに思い詰めていたのか。
紫揺の顔が一瞬にしてサッと曇る。

「リツソ君・・・何の話もしなかったね、ゴメンね。 少し話そう」

再びリツソの足が動きかけた時、僅かに走ってくる足音が聞こえた。

「リツソ様」

尾能であった。
リツソが四方に言ってきてからは、四方の従者を一人リツソに気付かれないように付けていた。 とくに紫揺が来てからは昼夜問わずに。 そしてリツソが紫揺の部屋に入って行ったという報告を聞いて慌ててやって来たのだった。

「リツソ様、お手をお離しくださいませ」

「尾能・・・」

「私のお話を分かって下さったのではないのですか?」

何度も何度も尾能と話した。 尾能も嫌がることなく何度同じことを訊いても快く答えてくれていた。

「・・・」

「リツソ様? どうぞお手をお離しくださいませ」

「・・・そこをどいてくれ」

「リツソ様、お願い致します」

「リツソ様」

回廊下から声がした。

・・・この声は。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第200回

2023年09月11日 21時34分26秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第200回



翌日、かなり疲れていたのだろう、夕刻まで寝ていた紫揺。 生きているのだろうかと、此之葉が何度も紫揺の息を確かめていた。
そしてその翌日から紫揺の辺境の旅が始まった。

少なくとも二週間後には戻って来なくてはいけない。 紫揺とてギリギリまで辺境を回るという浅はかな考えはない。 天候も含み、いつ何が起こるか分からないのだから。 それを思うとどれだけ頑張っても辺境の全てには回れない。

道中、祝いに来てくれていた何人もの民や、間に合わなかったという民と会うことが出来た。 誰もがまさか紫揺に会えるとは思っていなかった様で、言祝ぎを言えたことに喜んでいた。 紫揺にしてみればこれだけでも大きなことであった。

「紫さま、戻りましょう」

阿秀の声が最後の日を告げる声となった。

「・・・はい」

辺境では誰もが婚姻を喜んでくれた、それを伝えてくれた、そしてそれが民の喜びとなっていることも。 それをよくよく知った。

―――離婚は・・・有り得ない。

日本では離婚というものがあるが、本領や東の領土にもあるのだろうか。
いや、それ以前である。 民たちの喜びようを見ていれば、離婚など出来ない。

(・・・マツリ・・・今何してるのかな)

お転婆の背に揺られながら帰路に向かった。


辺境での報告に領主の家に行くと、辺境に出たあとすぐにシキが来ていたらしい。
輿入れの時の衣装を手にし、その日の打ち合わせにやって来たということであった。 紫揺が辺境に出ていると聞いてかなり驚いてはいたらしいが、最後には紫らしいと言っていたという。

「紫さまとマツリ様はよく似ていらっしゃると仰っておられました。 マツリ様もまだ宮に戻っておられないそうです」

「うわぁ・・・完全に澪引様とシキ様頼りってことかぁ。 それにしても六都でまた何かあったのかなぁ・・・」

大きな独り言に耶緒が「笑わせないで下さいませ」と腹を抱える。 耶緒の腹の中の赤子はいつ生まれてもおかしくないのだから、腹に力を入れたくないのだろう。

「紫さま・・・」

呆れたように紫揺の名を呼ぶと領主が続ける。

「今はその様なご心配の時ではありませんでしょう、お輿入れは目の前で御座いますよ」

「あ・・・はい」

自覚が足りなかったようだ。

十の月の満の月まであと十一日。 輿入れの日まであと五日。 五日後の早朝には東の領土を発たなくてはいけない。 そして翌日は衣装合わせがあり手直しがあれば翌々日までに終わらせるということであった。 そして輿入れから三日後に婚姻の儀の一日目が始まる。
耶緒が大きなお腹でシキの持ってきた輿入れの時の衣装を広げる。

「う、わぁ・・・」

それは東の領土で婚礼の祝いの時に作ってもらった和洋折衷とは違い十二単に近いが、もっとサラリとしている。 宮で借りる衣裳より数段豪華であるし、帯が長めなような気がする。 それに何とも可愛らしい色合わせである。 紫揺のショートヘアに合わせた髪飾りも付いている。

「ん? え? これ着て東の領土の山も上れませんし、本領の岩山も下りられませんよね?」

破って汚してもいいなら話は別だが。

「これが本領内なら、宮からの迎えの馬車に乗って済む話でしょうが、生憎とそうはいきませんので、いわゆる形です」

「形?」

「はい。 簡単に言いますと、輿入れする前に渡した、ということでしょうな。 岩山を降りたところに着替える為の房を建てて下さっているということです。 そこから迎えの馬車に乗っての輿入れとなるそうです」

そういうことか。 納得。
何もないあんな所まで馬車で木を運んで建ててくれたんだろうな。 着替える為の掘っ立て小屋とは言え、プレハブでもあれば楽だっただろうに。

「でも勿体ないですわね、これ程の衣を紫さまがお召しになって民に見てもらえないのは」

「ああ、お輿入れ前にでも一度お召になって民の前に立たれるのもいいが・・・着せ付けが分かるか?」

「・・・分かりません」

どの順に着せるものか全くわからない。 それに帯も本領の結び方があるのだろう、どう結べばいいのか分からない。

「わわ、やめてください。 いま耶緒さんに力を入れさせたくないですよ」

「そうでしたな。 辺境に行かれてお怪我などはされておられませんでしょうな?」

「それは全然ありません。 ね、阿秀さん」

「今頃お付きたちは全員倒れていると思います」

「可笑しな言い方しないで下さい」

大体想像はつく。 色々やりかけたのをお付きたちが身体を張って止めたのだろう。 かすり傷一つ付けさせてはならないのだから。
それにしても、もう二十六の歳になっているというのに、いつ落ち着くのだろうか。 婚姻を切っ掛けに落ち着いてくれればいいがと、切に願う領主であった。

そして家の中に閉じ込められ、五日目となった。
まさかあんな仕打ちが待っているとは思いもしなかった。 退屈が爆発寸前になったのが昨日だったが、輿入れは明日に迫っていると此之葉に言われ、しぶしぶ部屋の中でガザンとゴロゴロとしていると葉月がやって来て、最後の性教育をされた。

『以上です。 分かりましたか?』

『・・・』

『紫さま?』

『しなくちゃ・・・いけないのかな?』

『今更何を言っているんです。 お転婆でもしたというのに』

『・・・そっか、そうだよね』

試しにお転婆のことを言ってみただけだったが、効いたようだ。

『マツリ様にお任せすればよろしいだけです。 決して殴ってはいけませんよ』

『・・・はい』

『紫さま? 次代紫さまをお産みになるんでしょ?』

『うん・・・』

鬱々とした夜を迎え、そして夜が明けたのだった。
お付きたちは交代の二十四時間体制で、紫揺の部屋の前と外の窓に張り付くだけで、精神がやられなかった分、朝から清々しい顔をしていた。

出来れば新調した馬車で民に見送られ本領に向かわせたいと誰もが思っていたが、本領と繋がる洞の山のことは民に知られてはならない。 朝餉を済ませると目立たぬように此之葉と今までの馬車に乗っての輿入れスタートとなった。
洞の山に着くと馬車に乗り込んできていたガザンの頭を何度も撫でてやった。

「暫く戻って来ないと思うけど、いい仔にしててね」

お付きたちとガザンだけの見送りという寂しい輿入れとなった。 そのお付きたちに見送られ紫揺と領主と秋我、此之葉が山の中に消えて行った。

此之葉のことを考え、何度か休憩を入れながら山を上がって洞の前まで来ると、領主の息が少々上がっているようだ。 此之葉はしっかりと息が上がっている。 秋我が領主と此之葉に水を用意している。

「お二人とも大丈夫ですか?」

此之葉も心配だが、領主は七十二の歳になる。 領土の中を歩きまわってはいるが、日頃から山に登っているわけではない。 平地を歩くと山を上るのは大きな違いである。

「私もこれで最後でしょうか。 もう次にはきついでしょうな」

そう言うと紫揺をじっと見て続けた。

「最後がこのような祝いにして下さり、本望で御座います・・・」

「領主さん・・・」

「父さん、言ってみれば今は御輿入れの途中ですよ。 湿っぽいことはやめましょう」

シキが持ってきた輿入れの時の紫揺の衣装など一切を手にしている秋我は平気な顔をしている。 やはり若さというものは強い。

「そうだったな、紫さま行きましょう。 此之葉、歩けるか?」

領主と紫揺が話している間に幾分息が整った。

「はい」

秋我が二人に水を差し出す。

先頭を歩く領主が岩に手を入れると目の前がさっと変わった。 岩だった向こうに洞が見える。

洞を抜け岩山を下りて行くと見張番たちが待っていた。 それも全員。 この刻限であれば朝当番の者しかいないはずなのに。
紫揺を見止めると整列している全員がスッと頭を下げる。

領主、紫揺、秋我、此之葉が見張番たちの前に立つ。 すると剛度の声が響いた。

「東の領土五色、紫さま、本領への御輿入れ、誠に御目出とうございます」

「あ・・・」

まさか見張番からこういうことをされるとは思ってもいなかった。 どう返事をすればいいのだろうか。
領主にしてみれば『東の領土五色、紫さま』 と言われたことが嬉しかった。 今まだ紫揺は東の領土の五色なのだから。

「誠に有難うございます」

紫揺に代わって領主が応え、慌てて紫揺も応える。

「あ、有難うございます。 えっと、婚姻の儀を終わらせても本領と東の領土を行き来します。 まだまだお世話になりますが宜しくお願いします」

紫揺の子供っぽい言いように誰かがプッと息を漏らしてしまったようだ。 それに続いてクックッと笑いを堪えている声が聞こえる。 頭を下げているから誰かは分からないが、きっと肩が揺れている者だろう。

お前ら! と言いたいのを我慢し、剛度が馬を持ってくるように言うと用意をしてあったのだろう、すぐに馬が曳いてこられた。 だが何故かそれは必要以上の頭数である。

「お聞きとは思いますが、馬に乗られるのはこの岩山を下りる間だけです。 下には馬車が待っております」

紫揺には飾り立てられた天馬が連れてこられた。

「手間をお掛け致します」

百藻に続いて三人の見張番が続きその後ろに剛度が付いた。 またその後ろに領主、紫揺、見張番と二人乗りの此之葉、秋我と続く。 東の領土は領土なりに、紫揺と “古の力をある者” を守るために真ん中に置いている。 そして見張番に五人が残り、他の者たちが秋我に続いた。 殿(しんがり)は瑞樹である。

決して万が一の危険がないようにというだけで、この人数で付いていたのではない。
今日のことは分かっている。 見張番たちは早朝から何度も岩山を降りたり上がったりして警戒を怠らなかったし、他の岩山も遠見鏡と呼ばれる望遠鏡でずっと見張っていた。 抜かりはない。
だが紫揺が東の領土からやって来るのであれば、いつもと同じようにしてやって来るのであろう。 そんな寂しい輿入れなどない。
誰が言い出したということなく、見張番たちが下りて行ったのは紫揺の輿入れを見送るためだった。

岩山を下りて行くと見たこともない建物が建っていた。

「え・・・」

「・・・これは」

百藻と三人の見張番が横に広がると剛度が後ろを向いて「正面に回ります」 と言う。

「正面って・・・」

紫揺たちが見ていたのは裏のようで、ぐるりと回るとそこには四色の鎧を着た武官たちが並んでいた。 建物の横を過ぎても真っ直ぐに馬を歩かせている。 遠目に建物を見られるように剛度が謀ったのだろう。
やっと馬を止めて馬首を変えると、そこには掘っ立て小屋でもプレハブハウスでもなく、まるで宮のミニチュアのような建物が建っていた。

「このまま前にお進みください。 あとは武官がご案内いたします」

「ご案内痛み入ります」

領主が剛度に言うと紫揺を促す。 これから先は紫揺が先頭である。

領主に促され、目を瞑り息を深く吸いゆっくりと吐いた。
領主を見て一つ頷くと天馬を歩かせる。 距離を置いて領主、秋我、此之葉と続く。

目の前には回廊に座す者と大階段とまではいかないが五段ほどの階段の下に女官が居る。
建物の前まで来ると武官によって台が用意され、台を使って紫揺が馬を下りる。 すぐに他の武官もやって来て天馬を預かる。

「こちらに」

数歩あるくと階段の下に居た女官に手を取られた。 そのままスッと履き物を脱いで階段を上がりたかったが、いかんせん長靴である。 もたついてしまった。

(サイアク。 恥ずかし・・・)

領主と秋我、此之葉のところにも台が置かれ、三人が馬から下りる。 秋我の持っていた紫揺の着替えを女官が預かり、高く上げながら恭しく運んでいる。

再度女官に手を取られ紫揺が階段を上がる。
回廊に座していた女官たちがみな手を着いて頭を下げている。 紫揺の後を少し離れて着替えを持った女官が歩いている。
正面の襖が開かれた。 手を取られたまま襖の中に入ると既に数人の女官が中に居た。 着替えを持った女官があとから入り襖が閉じられた。

領主と秋我と此之葉も武官に先導され階段下まで来ると、その先は女官に先導され違う階段から回廊に上がるとそれぞれ別の一室に入れられた。

「紫さまの御輿入れにあたり、東の領主様にもお召替えのご用意をして御座います」

このことは事前にシキから聞いていた。 全員の着替えを持ってくるとなると山を上がるのに荷物ばかりが増えてしまう、有難いことであった。

「お手添えをさせて頂きます」

別の部屋でも、秋我と此之葉も同じことを言われていた。

此之葉が上流の女人の衣に着替えるとその部屋に茶が運ばれてきた。
領主と秋我が束帯に似た衣裳に着替えると、秋我が領主の居る部屋に通され茶が運ばれた。

「紫さまの御衣裳替えが終わられるまで、こちらでお待ちくださいませ」

そう言い残して女官が部屋を出る。
女官を見送った秋我が思わず口を開いた。

「父さん・・・」

「ああ・・・やることが違うな」

「こんなこと、思いもしませんでしたよ」

「私もだ、宮でしか考えられんだろう。 だがお寂しい輿入れとなると思っていたが・・・有難いことだ」

「ええ、それはそうですけど・・・。 この衣装もそうですけど、いつから建てていたのでしょうか」

部屋の周りを見回す。 宮と変わらない内装である。

「さあなぁ、だがそれなりの日数を要しただろうなぁ」

「この日の為だけだと知られると、きっと勿体ないと仰いますよ」

あの紫揺のことだ。

「今頃は仰っておられるかもしれんな」

領主と秋我が言うように・・・とはいかなかった。

“最高か” や “庭の世話か” とは違い「失礼をいたします」という以外は殆ど無言で着替えさせられている。 着替えの前には軽くおしろいを塗られ紅をさされた。
手際よく着替えさせられた本領の衣装は、シキが輿入れにと持ってきていた衣裳である。 赤と桃色が主役を張っていて帯は金糸銀糸で仕上げられていて、変わった飾り結びなのだろう、帯を引きずるように仕上げられた。

着替えを手伝っていた女官たちがスススと引き上げて行く。 いつの間にか髪飾りも付けられていたようだった。

「あ・・・額の煌輪」

知らない間に外されたのかと、額を触るとちゃんと額に残っていた。 まだ東の領土の五色である、勝手なことは出来ないということだろう。

引いていった女官と入れ替わるように、一人の女官が茶を持って入ってきた。 部屋の中にあった丸卓に茶を置く。

「東の領土の領主様と秋我様 ”古の力を持つ者” 此之葉様には寛いでいただいております。 あと少ししましたら、こちらにお呼びいたします。 それまでごゆるりとなさって下さいませ」

椅子を引いて紫揺を座らせる。

「有難うございます・・・」

女官が出て行った。

ぽつねん。

あくまでもミニチュアであって馬鹿ほど広いわけではない。 決して狭くはないが。 だが・・・秋我と同じように辺りを見回す。 本物の宮に劣らず、ほぅっと、ため息が出そうなほどの内装である。
茶を一口飲む。

「領主さんと秋我さんや此之葉さんが他の部屋に居るってことは、この宮ミニチュア、二部屋あるのかな? あ、いや、お茶を用意する部屋もあるのか」

―――この日の為だけに。

紫揺は知らないがそれだけの部屋数では無い。 少なくとも四部屋はある。
これから自分が嫁ぐところの凄さを改めて知ることとなった。

「失礼をいたします」

女官の声が聞こえて襖が開けられる。 その襖は紫揺が入ってきた襖とは違う。 横を向くと束帯に似た衣裳をつけた領主と秋我、本領の上流の女人が着る衣装に身を包んだ此之葉が入ってきた。

「わ、すごい」

領主と秋我、此之葉を部屋の中に入れるとすぐに三人分の茶を置き、一刻(三十分)ほどの休憩後、ここを出るということを告げられた。
三十分後に本領での輿入れが始まるということである。

「お二人ともすごくお似合いです。 それに此之葉さんも」

秋我と此之葉は宮の服を借りて着たことはあったが、これはまた違うものである。

「私たちではないでしょう? 紫さま、よく見せて下さい」

秋我が言うと紫揺が立ち上がり手を広げて一回りする。
領土で着た衣とは全く違うが、こちらもよく似合っている。 言ってはいけない事なのだろうが、紫揺の子供らしさを前面に出している。

―――二十六の歳だというのに。

きっとこれから嫁ぐ紫揺がまだまだ子供だということを表しているのだろう。 そして婚姻の儀の中で、どんどん大人の紫揺を表していくのかもしれない。

「よくお似合いです」

「ええ、本当に」

秋我と此之葉の言葉に反して領主が急に目に涙を浮かべた。

「領主さん?」

紫揺の声に秋我が領主を見て「父さん・・・」と口の中で言うと、領主が目頭に指を当て息を深く吸う。

「紫さまとは、まだ数年しかお会いしておりません。 初めてお会いした時のことを思い出します。 何もお分かりにならない中で東の領土に献身して下さり・・・。 ですが・・・僭越ですが・・・娘を出すというのはこのような気持ちなのかと・・・」

息子しかいない領主は娘を持ったことは無い。

「と、父さん、僭越も甚だしいですよ」

領主の言葉を聞いて今度は紫揺の目に涙がたまってきた。

「秋我さんそんなことないです。 領主さん・・・東の領土において私のお父さんは領主さんです。 何も知らない私を東の領土にガザンと一緒に入れてくれました」

「・・・滅相も御座いません」

紫揺と領主の話を聞いた秋我が口の端を上げる。

「父さん、紫さまをお泣かしさせてどうするんですか。 紫さまも涙をお拭きになりませんと」

こんなこともあろうかと考えていたのだろう、此之葉には手巾が持たされていた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第199回

2023年09月08日 21時09分45秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第199回



おおよそ半月後、宮から狼の模様が入った招待状と、紫揺のことが大まかに書かれた紫揺を表す鈴の花が型押しされた文、その文に寄り添うようにキョウゲンの形を型押しされたマツリの名前だけが書かれた文を携えた早馬があちらこちらに走り、東西南北の領土にはシキが文を携えて飛んだ。
最初に飛んだのは東の領土であったが、同じ狼の模様が入っていても内容は違うものである。
言わば東の領土の領主は紫揺の父親代理となる。 単なる御招待客ではないのだから同じ内容ではない。 それに四方直筆の文であった。

シキが領主と紫揺、秋我夫妻を前に口上を告げ、恭しく四方からの文と装飾された大きな飾り石、いくつかの高級な反物、本領でしか採れない茶葉を領主に渡す。
これは結納ではなく通常なら両親に渡されるものである。 したがって東の領主である丹我が受け取ることとなる。
堅苦しいことを終わらせると今どれ程準備が進んでいるかなどの話をし、シキが本領に戻って行った。

「紫さまの誕生の祝いの日に頂くとは、感慨深いものがありますな」

四方からの文を広げて領主が言う。

「紫さま、改めましておめでとう御座います」

耶緒が言うと、ついさっきの一連が紫揺の頭に浮かぶ。

「有難うございます。 なんだか・・・やっと結婚をするんだなって気になってきました」

ついうっかり出てしまった “結婚” という日本の言葉だが、ここに居る誰もがその言葉を知っているし、それを咎める者はいない。

「東の領土でも祝いの準備がありますからこれからは忙しくなりますよ。 嫌でも結婚をするという気になられます」

祝い事である。 紫揺に要らないことを考えさせたくはない。 紫揺に合わせて結婚という言葉を使った。

「まぁ、秋我ったら、嫌でもだなんて」

秋我が言ったように本領から正式に婚姻の儀の知らせが来たのだ、東の領土でも民に知らせることが出来る。 これからは紫揺の婚姻に向けて民に知らせていかねばならないし、まだ先ではあるが祝いもしなければならない。

「そうだな、まずは紫さまの誕生の祝いを終わらせ落ち着いてから民に知らせようか」

「それが宜しいでしょうか、浮足立った民に混乱を招いてはどうにもなりませんからね。 で、祝いはどのようにいたしましょう」

領主にしても秋我にしても、五色の婚姻などということは初めての経験である。 その上、相手が本領次期領主である。
相手が東の領土の者なら、大々的に東の領土で婚姻の儀をすることになるが、そうはならない。 あくまでも婚姻の儀は本領で行われる。
相手、つまりはマツリ不在で婚姻の儀ではなく、婚姻の祝いをするということになる。

「まずは・・・紫さまの衣を作らんといかんな」

「そうですね、時がかかりましょうから」

「勿体ないですよ。 いつもの衣でいいんじゃないですか?」

「そんなわけには参りません! いいですか、紫さま。 民がどれ程紫さまのお幸せを願っているか、それに応えるにも衣は大きいんです。 ましてやマツリ様がいらっしゃらないんですよ、紫さまがいつも通りの衣でいらっしゃっては、紫さまが寂しいと思われていると民が心配をしてしまうかもしれません。 ああ、そうだ、父さん。 馬車も装飾を変えて造りましょうか」

「おお、そうだな」

領主と秋我が二人で話し込みだした。

「・・・耶緒さぁん」

耶緒が微笑んで紫揺に答える。

「お義父さんと秋我に任せましょう? さ、紫さまは今日のお誕生の祝いの祭があります。 ご準備に此之葉が待っていますよ」

耶緒に言われ家に戻ると衣を広げて此之葉が待っていた。

「え? また作ったんですか?」

身長が伸びてもいなければ、悔しいが此之葉のように胸のサイズが変わってきたわけではない。 去年の衣で良いだろうに。

「職人がこんな時しか作れませんからと」

領主と秋我の会話を思い出すとこれから忙しくなるというのに。 何着作るかは知らないが。

昼餉夕餉と食し、風呂に入ると着替えをして月が上がると紫揺の誕生の祝いが始まった。
櫓を中心に民たちと踊る。
一カ月前に東の領土の祭で似たようなことをしたというのに、民たちは飽きずに踊っている。
一切の娯楽を行わない東の領土では、年に二回行われる祭というのが最大の娯楽なのだろう。

考えるとこれが独身最後の祭になる。
独身最後・・・自分の生活の中でそんな風に考えるだなんて思いもしなかった。

―――結婚するのか。

厳密に言うと今日は誕生日ではないが、それでも今夜は夜空を見上げよう。 父と母に報告しよう。 そして産み育ててくれたことに感謝の言葉を贈ろう。
もう・・・謝罪の言葉は口にしない。


北の領土はもちろんだが南の領土でも紫揺の存在は知っている。 東の領土の五色、紫であると。
シキの持って来た招待状に北も南の領主も目を丸くした。

「すぐにセノギを呼んできてくれ!」

「あら? どう致しましたの?」

「シユラ様が婚姻される」

「え? どういうことですの? 今いらしたのはシキ様でマツリ様の婚姻と仰っておられ・・・え?」

「そうだ、そのマツリ様とシユラ様が婚姻される」

「えー!」

南の領土でも領主が叫んだ。

「え!? 東の領土の五色である紫さま? ええ? あの!? ・・・嘘だろ!! ご! 五色たちを呼んできてくれ!」


一か月後、東の領土で領主の口から紫揺の婚姻が告げられた。
それは口から口に渡りすぐに辺境にまで届いた。

「紫さまが? 本領に輿入れされる?」

「ああ、だがよ婚姻の儀を終わらせたのち、こちらに戻って来られるらしい」

「どういうこった?」

「おめぇら、涙が出んど」

「な、なんだ?」

「東の領土のことを気になさって、マツリ様と別々に暮らされるそうだ」

「・・・え?」

「本領と東の領土にってことか?」

「そうらしい」

「おい、いいのか、そんなこと!」

「そうだ、紫さまがお寂しくなられる!」

「だがそれでも、紫さまがオレらを選んで下すった」

元々、紫揺の株は上々だった。 何十年も見つからなかった紫が見つかった。 その紫は民とよく触れ合ってくれる。 辺境にも自ら馬に乗って回ってくれる。
辺境の年寄りたちは、この辺境では今代紫さまが初めて来られた紫さまとまで言っている。 馬に乗って辺境を回る紫さまなど紫揺以前にいなかったのだから。 馬車で回れるような辺境ではない。
その紫揺の株が辺境だけではなく、またどんどんと上がっている。

紫揺の婚姻を発表した領主が秋我と共に婚姻の祝いの準備に忙しくしている。 衣のことは耶緒と此之葉と葉月が衣職人と話をし、飾り石職人にも衣に付けるものを考えてもらっている。

「どうして此之葉さんまでなのよ・・・」

ここでも紫揺は蚊帳の外である。

「それに三人でキャッキャキャッキャって・・・」

その上「いやぁ・・・飾りって要らないんじゃないですか?」とか「そんなに布を使わなくても。 勿体ないですよ」などと言って、数日前に放り出されてしまっていた。

「紫さま、お暇なようですね」

塔弥である。
お付きたちも、職人が作る馬車造りに手を貸したりと、この数日出払っていた。

「お転婆で出かけましょうか」

「うん!」

阿秀の言った通りかなりヒマにしているようだ。

「泉に行っていい?」

山の中を駆け回られることを思えばずっといい。

「泳がないと約束して下さるのなら」

「するする」

・・・軽い。 かなり怪しい。 白々しく「ア~レ~」とか言いながら泉にボチャンとしそうだ。

「ガザンも連れて行きましょう」

紫揺にピッタリと付いてもらおう。
塔弥の思いが伝わったのか、ガザンは頭が良く紫揺に何があるのかをよく分かっている。 泉につくとしっかりと泉側の紫揺の横に付いていた。

「ガザン、引っ付き過ぎだよ、歩きにくい」

その様子を見て安心し、お転婆の手綱を木に引っ掛けていると急に紫揺の声が聞こえた。

「あれぇー? お転婆どうしたの? 尻尾上げて。 犬みたい」

そう言われればいつもに比べずっと大人しい。 まさかっ!? っと思った塔弥だったが遅かった。 まだ手綱を引っ掛けていなかった塔弥の馬はもう止められない。 お転婆だけは逃げないようにと素早く手綱を木に括りつけると、紫揺目がけて紫揺の目に馬たちが映らないように走り、前に立つと様子が見えないように目の前を塞いだ。

「ん? なに? どうしたの?」

「あー、いやぁー、そのぉー・・・」

「変なの」

紫揺がひょこっと上半身を横にすると、それに合わせて塔弥もひょこっと場所をズレる。
紫揺が左右にひょこひょこ。 塔弥が左右にひょこひょこ。

紫揺が目を眇めて塔弥を見る。

「塔弥さん・・・いったい何なの?」

「あ・・・えっと。 その、今、お転婆と俺の馬がですね・・・子作り中と言いましょうか・・・」

顔を真っ赤にしている。

「は?」

「言っときますけどっ、お転婆から誘ったんですからね!」

「え? ・・・いやだって、塔弥さんの馬の仔供って二頭いるよね? それなのに・・・浮気? その浮気相手がお転婆?」

そろそろいいだろうと塔弥が振り返ると、二頭とも何もなかったようにしている。 塔弥の馬はお転婆と違ってふらふら歩きだしたりはしない。

「二頭とも俺の知らない間に勝手に作らされてたんです!」

踵を返して自分の馬の手綱をつかむと今更だがお転婆と離れた所に繋いだ。 それにしても全然そんな素振りを見せていなかったお転婆なのに。
それに紫揺にも驚く。 何も知らなかったのに結構平気な顔をしている。 隠すより輿入れ前に見せた方が良かったのだろうか。

「えー!! ちょっと待って! 今お転婆が・・・その、えーーー!?」

平気な顔ではなく分かっていなかったようだ。 見せなくて良かった。


暑い時を過ぎ、東の領土では過ごしやすい時期に入った。 そして十の月に入ると、紫揺の婚姻の祝いが始まった。
本領で婚姻の儀が行われる十の月の満の月はまだ先である。
朝早くから引かれた縄にしがみ付くように民の列が出来ている。

新調された衣は絹で出来た輝くような白。 襟元は幾重にも重ねられたように見える合わせ襟で、飾り石がデザイン的にちりばめられている。 裾は葉月の発案なのだろうか、腰部分から裾広がりになって、東の領土では見かけない後ろで引きずるタイプに仕上がっていた。

多分、紫揺を想い日本のウエディングドレスに似せたのだろう。 帯は紫を表す紫色が使われ中には金糸銀糸が織り込まれ、複雑な飾り結びで仕上がった。 まるで和洋折衷のドレスである。
額には額の煌輪が輝いている。 額の煌輪の邪魔をしないように、髪には小ぶりの丸い飾り石がちりばめられた。

紫揺の手を此之葉が取り、引きずる裾の後ろをお付きたちの姪が持った。 カチコチになってロボットのように歩いている。
まずは独唱への挨拶である。 独唱は八十四の歳になっている。 年齢的に身体を弱くしてはいたが、塔弥に手を取られなんとか家の外まで出てきていた。

「独唱様、お伺いいたしましたのに・・・」

「とんでも御座いません。 わしから祝いを申し上げに行かせてもらわねばならんところを、紫さまには足を運んでいただき」

独唱がゆっくりと話し出した。 紫揺が話に耳を傾ける。

「紫さま・・・わしの力不足で紫さまには堪えてばかり頂きました。 此度も東の領土に残って下さると領主から聞きました」

独唱が深く深く頭を下げた。 その意味がどういうことなのか分かる。
私が選び決めた事ですから、そう言いたいが言うべきではないのであろう。 僅かに頭を下げじっと待つ。
ゆっくりと独唱の頭が上がってくる。 紫揺に目を合わせると頬を緩めた。

「マツリ様とのご婚姻、誠におめでとう御座います」

紫揺が微笑む。

「有難うございます」


設置されていた台の上に上がると、お付きの姪たちが紫揺の裾を広げる。 此之葉が紫揺の後ろに控える。 民が見たこともない衣に溜息を吐いた。
領主が紫揺とマツリとの婚姻が相成ると囲んでいた民に告げると、改めて民たちから歓声が上がった。
マイクも無ければメガホンもない。 領主が腹の底から声を出し、本領での婚姻の儀の日取りや、紫揺への今までの労いともとれる話を民に聞かせた。

「それでは、これより馬車にて紫さまがお出ましになる」

裾を持ってもらい台上から馬車に移動する。
紫揺が座したオープンとなった馬車は丸みを帯び、側面は精緻な彫刻が入り金細工師による金細工が施されている。
お付きの姪たちは紫揺が馬車に乗ると、一旦ここで休憩に入る。

「疲れたでしょう、ゆっくり休んでてね」

疲れるほどのことはしていないが慣れないことをしたのだ。 後ろでロボットのように歩いていたことには気付いている。
六歳前後の女の子たちである。 事前にこの子たちのことは聞いていた。 一人一人が誰の姪かの紹介もあった。 誰の姪でもそれは紫揺にとって関係の無いこと。
たった六歳前後の子が紫という立場の者の裾を持つ、それだけでどれだけ緊張することか。 それも大々的な婚姻の祝である。 事前に葉月に頼んでプリンを用意してもらっていた。

「とっても美味しいの。 疲れも吹き飛ぶよ」

先頭と後方をお付きたちの馬に守られ、綱で仕切られた両サイドに並ぶ民の間を四頭立ての馬車がゆっくりと進む。

「紫さまー! おめでとう御座いますー!」

そう言う声を左右に聞き、その声に応える。 声をかけてくる一人一人の名が分かる。 何をして働いているのかも知っている。

(あれ? いや、いま収穫期だよね?)

紫揺の名を呼び、おめでとう御座いますと叫んでいる男達の集団。

「収穫はいいのー!?」

おめでとう御座いますの声に負けないように、紫揺が叫んだが、すぐに隠れるように座っていた此之葉に制せられた。

「紫さま・・・そのようなことはお控えください」

そして続いて

「大声は出されませんように」

座って手を振り、笑顔を振りまくだけにしておけと言われてしまった。 しっかりと事前に聞かされていた話に釘を刺されてしまった。

「はい・・・」

民たちが作る人垣を潜るには一日では足りなかったが、グルリと回って張られていた綱が終わってしまった。 もう陽が傾いている。
馬車が戻ってくるとお付きたちの姪が、此之葉に手を引かれ降りてきた紫揺の着る衣の裾を持つ。

「ありがとね」

こんなことは日本に居ては有り得なかっただろう。 万が一にもどこかの財閥の御曹司と結婚をしなければ。
台に戻ると婚姻の祝の終わりを領主が告げた。

「お疲れになりましたでしょう」

一日中、馬車に乗って手を振っていたのだ、確かに疲れている。

「まだ人垣が続いていましたよね? どうするんですか?」

「婚姻の祝はこれまでで御座います。 全ての民に応えていては終わりがありませんので。 明日からは本領に輿入れされるまでお疲れをお取りになられますよう」

疲れている。 うん、確かに。 でも・・・。

「明日・・・」

「はい?」

「多分、明日一日中寝ると思います」

紫揺ならそうであろう。

「でもまだ、本領に行きませんよね? 明後日から辺境に行きます」

「はい?」

行きつけなかった人垣の中に辺境の者が居たのを見た。 わざわざ出てきてくれていた。

「輿入れまで辺境を回ります」

「は?」

「ギリギリまで回ります。 阿秀さんにそう言っておいてください」

「紫さま! 御身をお考え下さいませ!」

「え? 元気ですよ? 至って」

此之葉が崩れ落ちそうになる。
その後、紫揺の部屋では阿秀の説得にも塔弥の説得にも耳を貸さなかった。

「だからー、辺境に行くの。 顔を見せるだけだけど、お礼をしなくっちゃいけないでしょ?」

紫揺にもお付きにも馬がいる。 だが辺境の者には馬はいない。 噂を聞いてずっと歩いてここまで来てくれたのだ。

「紫さま・・・」

阿秀の分も塔弥が大きく息を吐いた。

「まだ本領に行かなくていいんだから、いいでしょ?」

「行くではなく、輿入れと言って下さい」

「同じことよ」

「紫さま、婚姻の儀は七日間も続きます。 ましてや本領でです。 お疲れは量り知れません」

「うーん、確かにね。 私も想像は出来ないけど。 だからと言って辺境からきてくれた人に・・・民に応えられなかったんだから辺境を回る。 阿秀さん、明後日から辺境を回ります。 満の月はまだ先です」

塔弥を飛ばして阿秀の名を呼んだ。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第198回

2023年09月04日 21時04分22秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第198回



湯に浸かるとしっかりと四人に囲まれ、衣装の着心地から六都であったことを色々と訊かれた。
杉山で杉と話したことや怪我をしたことは言わない。 怪我をしたことなど言ってしまえばまた泣かれてしまう。

湯から上がると着替えを手伝ってもらいながら四方のことを訊く。 戻ってきたことを報告しなくてはいけないだろう。
そんな事も分かっている “最高か” と “庭の世話か”。 すでに四方の従者に訊いている。

「まだお仕事をしていらっしゃいますので、手が空かれれば従者殿が呼びに来て下さいます」

この辺りは尾能が従者を紫揺に付かせたというところが大きいだろう。 そして紫揺が戻って来ることは分かっていた、客間を使うことの許可は既に取っている。

「それまでお房でゆっくりとなされませ」

「澪引様とシキ様は?」

後ろでキュッと帯が締められる。

「四方様にご挨拶が終わられればいらっしゃいましょう」

婚姻の儀の準備で忙しいのだろうか。 手伝わなくてはとは思うがいつ四方に呼ばれるか分からない。
客間に行くとすぐに茶と菓子が用意されたが、同時に四方の従者から呼ばれた。 従者の後ろを歩くと執務室に連れられて行き、その執務机にはまだ書類が広げられていた。 尾能に丸卓に座るように言われるとすぐに四方も手を止め丸卓に座した。

座っていた紫揺が立ち上がり「先ほど戻りました」と告げる。
四方が頷き、座るようにと目顔を送る。

「六都はどうだった」

「マツリが手掛けている杉山と硯の山に行きましたが民は落ち着いています。 良い方向に進んでいると思われます。 杉山の方は安定して収入があるようですし、硯の方は明日、杠が宮都の硯職人に出来上がったものを見てもらいに持って行くと言っておりました」

「ほぅー、硯が出来てきたのか」

「私が見た限りではそこそこの数がありましたが、どれだけが硯職人に認められるかまでは分かりかねます」

「他の民はどうだった」

「他の民とは話すことはありませんでしたが、マツリの咎が厳しいようで杠からは以前の六都とは違ってきたと聞きました。 ですがまだ咎人が居ないということではないようです。 武官さんが少ないことは厳しいようですが、自警の群の協力は大きいようです」

「自警の群? あの六都にか」

そんなことはマツリから聞いていなかった。 一体あの六都でどんな流れで自警の群が出来たというのか。

「はい、決起の時にもかなりの協力があったそうです」

「・・・そうか」

少しずつ変わってきているということか。

「マツリはまだ戻っては来ないようか」

「はい。 まだ全面的に安心出来るということではないようです」

なんだろう、と四方が思う。 これは完全に六都の報告である。 確かに質問しているのは四方であり、六都のことを最初に訊いたのは四方なのだからそれで間違いは無いのだが、そういう意味で訊いたのではない。 これがもし澪引なら四方が何を訊きたいかを察しただろうし、それにこんな風に六都の報告としての返事は出来なかっただろう。
紫は・・・澪引とは違うのか。

「マツリとゆっくり出来たのか?」

意外なことを訊いてきた。 こんなことを四方が言うなんて。

「・・・はい。 昨日、滝に連れて行ってもらいました」

「滝?」

「杠が市にでも行けば良いと言ってくれましたが、市には興味が無いので」

「滝に興味があるというのか」

「山は好きなので。 滝を見たいと言いましたら、滝のある所に連れて行ってくれました」

「・・・そうか」

女人ならば市に行って欲しい物でもあるだろうに。

「お仕事、お忙しそうですね」

「あ? ああ、決起のことで他のことが止まっておったからな」

「お忙しいのに手をお止め頂き、申し訳御座いません」

「東の領土にはいつ戻る」

「明日に」

「そうか、では明日はもうよい。 下がって良い」

明日の挨拶は要らないということ。
はい、と返事をすると立ち上がり辞儀をして執務室を出た。

はぁー、疲れるおっさん、と思いかけて結構そうでは無かった事に気付いた。

(あれ? 意外と楽だったかな)

六都の報告だったからだろうか。 こういうことは東の領土でもしている。 それに自分が見聞きしたことを話すというより、マツリや杠の言っていたことを伝えたようなもの。

「マツリ、自警の群のことを言ってなかったんだ」

言わない方が良かったのだろうか。

「はい? 何か仰いまして御座いますか?」

思っていたことが口に出てしまったようである。

「あ、何でもありません」

回廊を歩き客室に戻ると澪引とシキがいた。 挙句に部屋の中は反物と飾り石だらけである。

「紫、疲れている所を悪いのだけれど」

シキが言うと、襖内に座っていた千夜がいったん閉じられていた襖を開けて女官を呼ぶ。
楚々と女官が入ってくると、あれよあれよという間に紫揺の寸法が測られていく。

「お裾はどれほどの長さが宜しいでしょうか?」

「そうね・・・」

「お袖の長さは・・・」

「ここまでくらいかしら」

「お色はどうお合わせいたしましょうか?」

「この合わせ方で御座いましたら、帯はどのような色が宜しい御座いましょうか?」

「この時の飾り石は・・・」

澪引とシキも立ち上がって女官たちとあれやこれやと話している。 その内に千夜も入ってきたものだから思わず “最高か” と “庭の世話か” も入ってきた。
当の紫揺は真ん中で、手旗信号のように手を上げ下げさせられている。

(こ、これはもしかして、言ってみればウエディングドレスのオーダーで寸法を測ってるようなもの?)

日本に居ては有り得ない事である。 仮に結婚できたとして、結婚式を挙げられたとしてもレンタルに違いない。

女官が紫揺の顔の横に飾り石を持ってきた。
飾り石と言っても日本に居れば宝石と言われる代物である。

「そうね。 その色よりそちらの色、そちらを合わせてみて」

女官が澪引の指さした飾り石を紫揺の顔の横に持ってくる。

「ああ、そちらの方が紫のお顔に良く映えるわ」

「ではこのお色の時にはこちらを髪飾りに」

「ええ、そうして頂戴。 他にも・・・ああ、あちらを合わせてちょうだい」

澪引とシキ、いや、全員が嬉々として話している。 取り残されているのは紫揺だけである。

「母上、これで五着で御座います」

「あら、まだ五着なの?」

何着作るというのだろうか・・・。

「紫? そろそろ疲れたかしら?」

「あ・・・あははは・・・」

笑うしかない。

「そうね、戻ってきたところでしたわね。 続きは明日に致しましょうか」

明日もあるのか・・・。 東の領土に帰るのは夕刻になるかもしれない。 それ以上伸ばす気はないが、それは無責任なのだろうか。 澪引とシキに丸投げにしてしまうことになるのだろうか。

女官が広げられていた反物や飾り石をサササと片付けていく。 見事な動きである。 そして反物も飾り石も女官もあっという間に居なくなった。 残っているのは襖内に座る “最高か” と “庭の世話か” だけである。

「帰ってきたところに騒がせてごめんなさいね」

「あ、いいえ、そんなことは。 あの、リツソ君はどうですか?」

「あの時は騒がせてごめんなさいね、大事は無いわ。 気にしないでちょうだい」

「はい・・・」

「リツソは勉学に励んでいるようよ、母上の言う通り紫が気にすることは無いわ」

「勉学、ですか?」

「ええ、毎日よくやっていると師から聞いているの」

「そうよ、だからリツソのことは気にしないで、今は婚姻の儀のことだけを考えてちょうだい? 母上は紫に色んなものを着せたいの」

「シキの時もそうだったけれど、何よりも楽しみよ」

リツソのことは分かった。 勉学に励んでいるのは何よりだ、だがそれだけでは終われない。

「あ、えっと、こちらのことが何も分かりませんし、とくに宮のことは。 東の領土からは何を用意したらいいんでしょうか?」

領主に伝えなくてはいけないだろう。 だが東の領土で宮に見合うものが用意できるだろうか。

「何も用意することは無いわ」

「え?」

「わたくしの時もそうだったのよ。 全て義母上がご用意して下さったの」

そう言えば澪引は辺境の出である。 辺境の者が宮に見合うものなどを用意できるはずはない。

「わたくしもよ。 全て母上がご用意して下さったの、邸は父上ですけれどね。 波葉様は何もされていないわ。 宮の者との婚姻の儀は全て宮がするの。 東の領主にもそう伝えてあるから紫が心配することは無いわ」

「そう、なんですか」

そんなものなのか。

「輿入れの馬車は東の領土までは出せないけれど」

それはそうだろう。 あの岩山をどうやっても馬車は上れない。

「でも東の領土を出る時の衣装は、こちらで用意をするから心配しないでちょうだいね」

そんな所からの用意なのか。

「紫はどんな物とか、どんな色が着たいということはあるかしら?」

「うーんと・・・特にはありません」

「ではシキとわたくしで全て決めて宜しくって?」

「はい、お願いします。 その、何も分からなくて、お願いしてばかりですみません」

「あら、紫、気にしないでちょうだい。 母上もわたくしも楽しくってよ」

そう聞いてはいたが、やはりそういうものなのだろうかと疑問に思ってしまう。

「マツリとはゆっくり出来て?」

「はい、昨日、滝を見に連れて行ってくれました」

「た」
「き?」

「はい、私が滝が見たいと言いましたので」

「紫がそう言ったのならば、それが良いのでしょうけど・・・」

「マツリったら・・・」

いくら紫揺が滝を見たいと言っても、もっと気の利いた所に連れていくことは出来なかったのか。 宮にあるものほど優れてはいないが、市に行き髪飾りの一つでも買ってあげればいいものを。

「あ、お伺いしたいことがあります」

「何かしら?」

二人が目を輝かせて紫揺を見る。

「えっと、日本ではお互いに・・・物を贈ったりするんですけど、こちらにはそういう風習って言うか、そんなものはあるんですか?」

“最高か” と “庭の世話か” が居る。 日本、というところは声は小さくなっている。
お付き合いという言葉が此処にあるのかどうかわからない。 かなり短縮して言ったが通じただろうか。

シキと澪引が目を合わせる。
可笑しなことを言ったのだろうか。 それとも短縮しすぎて通じなかったのだろうか。

「マツリが何か紫に贈ったの?」

良かった通じていたようだ。

「いいえ? 単にそういう風習があるのかなって」

澪引とシキが溜息を吐く。

「四方様でも会いにいらっしゃる度に何かくださっていたわ」

「波葉様もそうですわ」

「あ? え?」

“四方様でも” “でも” ?

「マツリは今までに何も贈っていないの?」

「えっと・・・私は何も欲しくは無いので。 もらっても困ってしまいますし。 あの、じゃ、澪引様とシキ様はなにかお返しになったんですか?」

「いいえ、辺境で時にはそんなところも見かけましたけど、あまり無かったかしら。 宮では女人から何かを贈ることは無いのよ」

「そうなんですか・・・。 それって決まり事なんですか?」

「どういうことかしら?」

「女人から贈ってはいけないんですか?」

「どうかしら・・・。 四方様からは贈ることは無いと、そう聞いたのだけど」

「ええ、わたくしも父上と母上からそう聞いて・・・」

四方がシキにまで言ったのならば、澪引の生活を慮ってということではないのであろう。 女から男に何かを贈るということは下品になるのだろうか。

「そうなんですね。 分かりました」

マツリに贈る時にはひっそりと渡そう。

「あ、それとご招待の文に鈴の花を入れて頂きましたけど、マツリにも何かあるんですか? その、マツリを表す模様のような物が」

家紋ではないがマツリ紋なるものがあるのだろうか。

「ええ、あるわ。 フクロウよ」

「え?」

「言ってしまえばキョウゲンね。 わたくしはロセイであるサギよ。 マツリが父上に代わって領主になれば、いま父上が使っていらっしゃる狼になるの」

「じゃあ、四方様は?」

「領主になる前に使っていた山猫になるわ、カジャね」

そういうことか。 領主になっている間は狼の紋でその時以外は供の紋になるのか。

「澪引様は?」

「わたくしは桜の花よ。 義母上が決めて下さったの」

澪引の義母、言い換えれば四方の母も澪引を見て桜をイメージしたようだ。

「四方様のお母上はどんな方だったのでしょうか」

「義母上は秀麗のお花を持っていらしたわ。 とてもご立派で美しい方だったのよ。 辺境出のわたくしを温かく迎えて下さったの」

それからは僅かな時ではあったが、夕餉の支度が整ったと言われるまで四方の母上の話を聞いた。

そして翌朝、昨日の話で思い出した、すっかり忘れていたご隠居の所に挨拶に行くこととなった。 四方はどうしても同行できず、最近身体の調子が良い澪引とシキと紫揺の三人で馬車に乗って出掛けた。

「四方様、宜しいのですか?」

「澪引が行けば父上も機嫌が良かろう」

四方の言う通り、澪引に紫揺を紹介され何度も首を傾げていたご隠居だったが、澪引が来ただけで上機嫌で「身体の具合は良いのか?」という労わりの言葉も付いている。

そして紫揺と話している内に気に入ったのか、ご隠居の供の老山猫が紫揺に懐いたからなのか「ほぅー、マツリも見る目があるのぉ」と言い出した。
多分、老山猫が懐いたからだろう。
決して澪引の時のように一目で気に入ったようではなかったが、結果オーライでOKだろう。

ご隠居の奥であり、秀麗の花を持つ四方の母の肖像画を見せてもらうと、澪引が言っていたように秀麗という言葉そのもののような人だった。

(あのお婆様に澪引様、その後に私って・・・キツイだろ・・・)

涙が出そうである。 そして文句が出る。

(マツリのバカヤロー)

ご隠居の邸を辞してからは宮に戻り昼餉を食べる以外は、またまた衣裳の反物が広げられた。
夕刻近くになり、やっと解放されて卓の上に茶と菓子が置かれる。

「お疲れ様で御座いました」

「はいぃ、疲れましたぁ」

正直に言う紫揺に “最高か” と “庭の世話か” がクスクスと笑っている。

「でも澪引様とシキ様の方が大変なんですよね」

「楽しんでおられますから」

「ええ、それにシキ様もずっと宮に居られて澪引様と時を共にお出来になって喜んでいらっしゃいます」

「え? ずっとですか? 邸に戻られていないんですか?」

「はい。 波葉様も宮にお泊りで御座います」

思いもしなかった。 波葉にも相当迷惑をかけているようだ。

「お役御免となられるまでは、ずっと南と東の領土に飛んでおられましたから」

「紫さまだからこそ、シキ様もこうされておられるのでしょう」

「そうなのかな? でも波葉様にご迷惑をおかけしているんですよね?」

「決してそのような事は。 波葉様も昼時には天祐様とお会いになれて喜んでおられます」

「ですからその様なご心配はご無用で御座います」

「ええ、それに紫さまでなければシキ様もここまでされておられなかったでしょう」

「澪引様とシキ様は喜んでおられているので御座いますよ?」

「どうぞ紫さまはお気になさらず」

「ささ、菓子を食べてお疲れをとって下さいませ」

言われるままを信用していいのだろうか。 一つ手に取り口に入れる。
オイシイ。

「いつものことですけど、すごく美味しいです」

紫揺の顔がニヘラァ~と緩むと、四人が相好を崩した。
菓子と茶で一息つくと着替えて大階段を下り大門に向かう。 シキと澪引には先程辞する挨拶を済ませている。

「婚姻の儀の前にまた来て頂けますか?」

「あ・・・ちょっと分かんないです」

四人があからさまに肩を落とす。

「あ、えっと・・・婚姻の儀で七日間もこちらに居るので。 それにその後すぐに東の領土に帰るわけにはいかないでしょうから・・・」

頼む、それで許してくれ。

「え? 婚姻の儀が終わられても宮に居て下さるのですか?」

シキから聞いた。 紫揺が東の領土に帰ると。

「どれくらいかは分かりませんが」

四人の落としていた肩が上がる。
有難いことだ。 こんな自分なのに。

「私が完全に宮に入った時に皆さんが居て下さったら、色々教えてください。 いい人が見つかったら教えてください。 応援します」

「まっ、紫さま」

「必ず教えてくださいね。 皆さんの良いところをアピ・・・全面押し出してお相手に言っちゃいます。 って、皆さんが認めた方だったら、何もかも分かっていらっしゃるのでしょうけど、それでも応援しますから」

“最高か” も “庭の世話か” も年頃を過ぎているかもしれない。 自分より年上なのだから、と考える紫揺だが、四人とも紫揺より年下である。
何の疑いもなく大きな勘違いを持ったまま紫揺が “最高か” と “庭の世話か” に見送られ天馬に乗って大門を潜った。 上空にはキョウゲンが飛んでいる。

「私たちのご心配をして下さるなんて・・・」

四人がよよよと涙を流した。

「リツソ様、お戻りしましょう」

「・・・」

肩にカルネラを乗せたリツソ。

「リツソ? シユラハ帰った。 勉学ガあるだろ」

リツソから流れてくる色んなことが楽しい。 紫揺にヨシヨシをされなかったのは寂しいが。

「分かっておる」

あの日から、マツリが紫揺を奥にすると聞かされた時から部屋に籠っていた。 朝餉も昼餉も夕餉も部屋に運ばせた。
師からリツソのことを聞いて大事は無いとは分かっていたが、澪引とシキが何度もリツソの部屋を訪ねたが、リツソが襖を開けることは無かった。 リツソの部屋に入ることが出来たのは師だけであった。

(兄上にシユラは渡さん)

リツソが踵を返した。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第197回

2023年09月01日 21時47分31秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第197回



川の流れる音がする。 それも盛大な音。 それが段々と近づいてくる。 いや、自分から近寄っている。
岩の影から二人乗りの馬が姿を現した。

「わぁ・・・」

見たこともない滝であった。 複雑に水の道を描き三段に分かれている。 そして最後の最後には五つの滝に分かれている。 それもどれも立派な滝。

「すごい・・・」

粒になった水飛沫が虹を作っている。

「降りていい?」 馬から。

「ああ、待っておれ」

先にマツリが下りると手を差し伸べて紫揺を下ろす。

「こんな滝見たことない」

マツリが適当な出っ張りに手綱を括りつける。

「泳ぐでないぞ」 滝壺で。

「足をつけるだけだったらいい?」

「薬草を塗っておろうが」

そうだった。
仕方がない、手だけでも滝壺から流れている川に浸ける。

「そんなに滝が良いのか?」

「うん、どうしてか分かんないけど」

日本に居る時にはそんなことは無かった。 いや・・・思い返すとそうでは無い。 シノ機械で働いている時、滝の話を聞いた。 夏場に家族で行ってきたと。
それから滝を思い浮かべるようになった。 行ったこともない滝。 せいぜいテレビで見るだけだった滝。 どこの滝とか、どんな滝とか考えることなく、とにかく滝を見たいと思った。 滝のある所に行きたいと思った。 だがそれも父母を失くした自責の念から消されていた。

「滝が好きみたい」

「そうか」

泉も好きだと言っていた。 それは五色の力に関係するのだろうか。 そうであるのならば、白である秋の力の天と沢の力か、黒の力である冬の力の水の力か。 それとも両方か。
だが紫揺は紫の力を持っている。 紫の力の基本は赤と青の力。

紫揺は五色というものをまだまだ理解しきれていない。 それなのに紫という力を持っている。 それを思うと白と黒の力も大きいのかもしれない。
高妃の時には黄の力を使ったと言っていた。 砂土ではなく天位の力を。
東の領土で生まれ育っていればその力を理解できただろう。 理解し、それでも力に押されそうになれば初代紫が手を貸しただろう。 今の紫揺にしていたように。 だが今の紫揺はまだよく分かっていない。 迷いや分らない所が多々あるだろう。 初代紫がどうして手を貸してくれないのか迷う時もあるだろう。

「紫は滝が好きなのだな」

どうして滝が好きか分からない紫揺の頭を撫でてやる。

「どうしてなどと要らぬのではないか? 紫が好きならばそれで良いではないか」

「うん・・・」

「我も滝を好きになろう」

辺境において滝は人の命を奪うこともある。 杠の両親が奪われたように。

「うん」

マツリの心の内など知らぬ紫揺。 杠の両親がどうやって亡くなったのかという話は聞いていたが、目の前の滝と直結して思い出せなかった。
だが現場を見ていたマツリはそうでは無い。 杠の両親が滝に流されたところを見たわけではないが、結果を今も鮮明に思い出せる。
それでも滝を好きになろうと言う。

滝の前で握り飯を食べ色んな話をした。 杠とマツリと一緒に居て楽しい。 でも杠の言うようにマツリと二人っきり、こういう時も必要なのかと思った。 はっきりとしたものは分からないが、それでもマツリの何かに触れられるような気がする。

「え? じゃ、九の歳から他出してたの? キョウゲンに乗って?」

「ああ、まだ最初は本領内だけだったがな。 リツソは我が十の歳から出ていると思っているようだ」

「リツソ君って・・・いくつだっけ?」

「十八の歳だ。 婚姻の儀を上げる頃には十九の歳になろう」

「まだカルネラちゃんとも上手くいってないよね・・・」

マツリとキョウゲンの関係には程遠い。

「二つ名もまだだ。 どうしたものやら」

二つ名どころか足し算引き算も危ういではないか。
そういえば今回やって来てリツソと会っていない。

「背が伸びてたよね。 また伸びたみたい?」

「我がリツソと最後に会ったのは紫と同じ時だ」

それはマツリがリツソに紫揺とのことを言った時ということ。 他の言い方をすれば高妃のことがあった時ということになり、それは半年以上も前の話になる。

「そう言えばコウキは?」

「父上が文で頼まれて ”古の力を持つ者” の長が引き取ってくれた。 力を失くしたとはいえ五色として生まれた。 “古の力を持つ者” の元に居るのが一番良いだろう」

「うん、そうだね・・・。 幸せになってくれるといいな」

マツリが紫揺の頭を撫でる。

「なる。 紫がそう導いたのだからな」

「うん・・・」

「さ、そろそろ戻ろう。 光石を持っておらんからな、こんな所で遅くなっては戻るに戻れなくなる」

「・・・うん」

紫揺の返事の歯切れが悪い。

「どうした?」

「何でもない」

立ち上がるとお尻をパンパンとはたいた。
チューをしないのか。 だからと言って自分から言えるものではない。 おムネが大きくなるドキドキを逃してしまった。
紫揺がそう思っている一方でマツリも思っていることがある。 本当なら今にも抱きしめて口付けたい。 だがそうなれば今までの口付けで終りそうにない。 今の紫揺にそれはまだ受け入れられないだろう、と。


宿に戻ると杠が麦酒を呑んでいた。 昨日と逆である。

「お帰りなさいませ。 お先に頂いておりました」

「ああ、気にするな。 だが珍しいな? 何かあったのか?」

しっかりと紫揺が杠の隣に座る。

「久しぶりに肉体労働をしまして冷たいものが欲しくなってしまいました」

「肉体労働?」

訊いてきたマツリに詳しく話をしだそうとした時に給仕がやって来た。
今日も『今日のおすすめ夕餉』 を頼んだ。

杠が続きを話し出す。 男達が仕上げた硯に最後の工程を終わらせ、それを順に馬車に運んだということであった。

「それだけで肉体労働と言うのか? 我よりずっと若いのに」

「それが馬車に積みますのに一苦労で御座いまして」

平たく並べるだけでは硯同士が当たってしまうかもしれない、それに平たく並べては場所が足りなくなってしまう。
結果、馬車の中に納まる棚を宿所を作った時の木片で作ったと言う。

「杉山の者のようだな。 そんな事は杉山に居た者たちに作らせれば良かったものを」

「それが紫揺の作った硯を見て一刻でも硯の方を作りたそうな顔をしておりましたので」

「え? 私の?」

それまで黙って聞いていた紫揺が鳩が豆鉄砲を喰らったような目をして訊き返してきた。
杠に言わせると、紫揺の入れた模様は鈴の花であったが、それがいたく気に入ったようらしい。

「まずは使える硯を作るのが先だというのに、模様を入れたがってな。 ああそうだった、紫揺の作った硯を仕上げておいたぞ」

横に置いていた包みの中から紫揺の作った硯を出すと紫揺に渡す。

「わっ、硯らしい色になってる」

「墨を何度か塗ってその上から漆を塗っている。 仕上がったものを見ないのもな、と思って持ってきた」

「そうなんだ、有難う」

するとマツリの手が伸びてきて硯を手に取った。

「あ・・・」

「ほぅー、これは良いな」

裏を返したり面を触ったりして、最後に鈴の花に指先を這わせている。

「我にくれんか?」

「あ、マツリ様それは。 岩石の・・・硯の山の者たちの反感を買うだけで御座います」

記念に置いておきたいと言っていたのだから。 
マツリが半眼で杠を見るが、杠が当たり前の顔をして答える。

「民と敵対しては、今までのことが全て流れましょう」

「・・・分かっておる」

絶対に心の底から納得をしていないな、と紫揺と杠がマツリに視線を送る。
そう言えば日本では恋人同士の間でプレゼントを渡しあうというシステムがあるが、ここではどうなのだろうか。

『今日のおすすめ夕餉』 が運ばれてきた。 今日のおすすめは川魚定食のようだ。

食べながら紫揺が明日帰ろうと思っていると言うと、そろそろという気がしていたマツリと杠が頷いた。

「では明日は己が杉山に行きましょう。 岩石の山は今、硯を作ることに集中しておりますので、何も問題は無いでしょう」

杉山で何かあっても杠はあくまでもマツリ付の官吏、喧嘩を止めることなどしないが、武官が止めるだろうし、杉山の者達同志でも止めるだろう。
武官の中には杠が官吏の試験を受けた時の体術を目にした者はいるが、それでも身体を動かせるところを人前で見せないようにしている。 万が一にも俤と疑われては困るからである。

「喧嘩は始まらんとは思うが・・・」

それでも突発的に何があるか分からない。 そうなれば武官だけではなく、杠が動かねばならないこともあるだろう。 だからと言って紫揺一人で洞を潜らせたくはない。

「宮まで武官さんに送ってさえもらえれば一人で帰れるから」

宮までの道案内が居ればそれでいい。

「そういうわけにはいかん」

「そんなことを言ってたら簡単にこっちに来られないじゃない」

マツリと杠がどういうことだという目を紫揺に送る。

「私が来たり、特に帰る時に必ずマツリが付いてなきゃいけないだなんて、マツリの邪魔になるだけでしょ?」

紫揺の言っている意味が分からない。
民と宮での感覚の違いはあるが、男が女人を守るのは当たり前のこと。 そしてそれは特に宮にある。

「何を言っておる?」

「邪魔になりたくないの」

「邪魔?」

「マツリはマツリのやりたいことをして。 杠もそう。 だから私が来たからってやりたいことを曲げないでほしい」

「そういうわけにはいかん」

守るということもあるが、東の領土との関係もある。 紫揺を一人帰すことなど出来るわけがない。

「じゃ、来ない」

「は?」

マツリと杠の初のデュオ。

「もう来ない」

「どういうことだ!」

マツリの怒声に周りに座って、夕餉を食べていた民が驚いた顔を見せ、同じく夕餉をとっていた武官たちが震撼した。

「マツリのやりたいことに迷惑をかけるんだったらもう来ない。 杠にしてもそう」

「迷惑などとあろうはずがなかろうが!」

「じゃ、明日帰る時には武官さんをお願い。 マツリも杠もいいから」

「一人で洞を抜けるというのか!」

「マツリ様、声を抑えて下さいませ」

杠は武官の目を気にして言ったがそれだけではない。 民に洞のことを聞かせてはならない。

「紫揺、マツリ様はご心配をされている。 それを受けろ」

「私はマツリにしたいことをして欲しいと思ってるだけ。 それを邪魔したくないだけ」

「だがマツリ様は気にされている」

「マツリとキョウゲンが気にし過ぎ」

キョウゲンは洞に入るとすぐに先に飛んで行って洞の様子を見ている。 マツリに感応しているキョウゲンなのだから仕方はないが。

「杠、杉山を頼む」

「だから、やめてって言ってるでしょ!」

「明日送って行く」

「そう、だったらもう二度と本領に来ない。 マツリのしたいことを妨げるだけなら奥になる理由が無い」

杠が紫揺! と言いかけた時に他から声が上がった。
夕餉を食べていた武官達だった。

「マツリ様!」

え? っと思ってマツリと杠が首を回す。

「紫さまが本領に来られないとはどういうことでしょうかっ!」

「御内儀様になられないということは、どういうことでしょうかっ!」

どやどやと武官たちに囲まれてしまった。 二人の間では済まない、ややこしいことになってしまった。 マツリが頭を抱えた。


翌早朝、マツリと杠に見送られた紫揺が六都を出た。 上空にはキョウゲンが飛んでいる。

夕刻、武官と共に宮に戻ってきた紫揺を待ちかねていたように “最高か” と “庭の世話歌が” が大門にいた。

「え? どうして?」

有難うございましたと言い、月毛の馬を武官に預けると四人の元に近寄る。 いつものことだが馬が恐いのであろう、少し離れた所に居る。

「見張番殿に聞きましたので」

見張番である百藻と瑞樹には、少なくとも五日間は戻って来ないので岩山に戻っていて下さいと伝えていた。 それを聞いたということだろうか。

「じゃ、昨日も待っていて下さったんですか?」

「当然に御座います」

さも嬉しそうに応える。 大門から迎えられるのは初めてなのだから。

「あ、そうだ。 有難うございました。 驚きました!」

そう言うと手を左右に広げ大の字になってクルリと回る。 着ているのは四人が作った衣である。 今日は柿色のキュロットと緑系の上衣を着ている。 もう足に晒は巻いていない。
紫揺の仕草が幼子のようで、武官が顔だけで笑いながら袈裟懸けにしていたものを、一番近くに居た世和歌に渡した。 もう一着の衣である。
賑やかしさに百藻と瑞樹が出てきた。

「お帰りなさいませ」

「あ、ただ今戻りました。 お待たせしました」

紫揺の言いようはどういうことだろうか。

「紫さま?」

「まさか、今から東の領土にお戻りになるなどと・・・」

「今から戻ってきたご挨拶をして、間に合いますよね? 陽は落ちませんよね?」

紫揺の声に耳を傾けていた百藻と瑞樹に刺すような視線を感じた。 完全に “最高か” と “庭の世話か” に睨まれている。 要らないことを言うのではないと。 なんと返事をしていいか分かっているのだろうな、という目で。
瑞樹がソッポを向いた。 あとは百藻に任せるといった具合に。 その様子が百藻の目の端に入る。

ゴホンと白々しい咳をしてから百藻が口を開く。

「東の領土に入られる頃には陽が落ちてしまっているでしょう。 明日にされてはいかがですか?」

「あ・・・でも」

東の領土でもお付きたちが待っているはず。

「マツリ様もおられないようですし、お一人でしょう? お一人では危険です」

「キョウゲンがいるから大丈夫です」

「え? キョウゲンが?」

どこにも見えないがどこかの木の枝にとまっているのだろう。 供と主の関係を詳しく知らない百藻であるがそれでも驚くことである。 キョウゲンがマツリから離れるなどと。

「はい、だから大丈夫です」

「見張番殿?」

なんとか言えと丹和歌が座った視線を百藻に送る。 紫揺にバレないように。

「あ、ああ、そうですね。 ・・・ですが陽が落ちてしまっては足元が危ないので」

「あ・・・そっか」

キョウゲンが居てくれているといえど、山を下りるのに足元が見えなくてはすっ転んでしまうかもしれない。 それこそ六都で流されたドンクサ噂を実行してしまうかもしれない。

「そうで御座います」

「ええ、ええ。 見張番殿の言う通りで御座います」

「ささ、お疲れで御座いましょう」

「湯浴みの用意がして御座います」

“最高か” と世和歌に背中を押されて大階段に向かって歩きだした後ろで、丹和歌が振り返り百藻に礼を言う。 抜け目がない。
そして顔だけで笑っていた武官達にもしっかりと紫揺に代わって礼を言う。 紫揺はどんな相手にも必ず有難うというのだから。

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