大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第39回

2019年04月30日 02時38分43秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第39回



「はい。 本当に」

紫揺の目にはトウオウの表情が穏やかに見えた。 そうか、と納得できた。 今はアマフウに言われて自分にトウオウがついていてくれていたのかもしれないが、アマフウはいつもこのトウオウの表情に癒されていたのかもしれない、と。

「寝る? 布団まで連れて行ってやろうか?」
椅子を少し離れた紫揺の横に移動させ座った。

どこまで優しいのだろうか。 ずっとそれに気付かなかった。

「大丈夫です。 もう一人で歩けます。 それに、眠気が無くなりましたから」

「眠気が無くなった?」

「はい」

「んじゃ、ちょっと話していいか?」

「え?」

「話をしてもいいか? 訊きたいことがあるんだ」

「はい、いいです」

トウオウが自分に何を訊きたいのだろうか、全く想像がつかない。

「・・・んっと・・・」

話しずらそうに、さすっていた手を納める。

「・・・シユラ様の服だけど」

「服?」
思いもしない話の始まり。

「ああ。 ・・・その服ってどうしたの? シユラ様の着てるその服」 紫揺の服を指さす。

「えっと、セノギさんに言って揃えてもらいました」

「でもクローゼットに服があっただろ? 靴も」

「はい。 でも、私はあんな服は着ないので。 それに靴も。 いつもこんな風にジャージとスポーツシューズですから、セノギさんにお願いしたんです」

「あんな服?」

「はい、ヒラヒラした服です」

屋敷のクロ―セットにあったフリフリのボンボリ付きのリボン付きの服、どれも紫揺の趣味ではない服。 
『動きにくい服ばっかり・・・それに、これって我が儘なロリコン男が可愛い彼女に着せたいと思うような服じゃないの?』 と思った服。

トウオウが落ち込むように、指を額に当てるとそのまま下を向いた。 

咄嗟にトウオウが何を考えているのかが分かった気がした。

そして確かに紫揺の思ったように、実際あの服はトウオウが揃えたものであった。 紫揺であるシユラ様がどんな人物かもわからなかったが、近々、紫揺でありシユラ様であるムラサキ様がこの屋敷に来ると聞いて、その年齢と身体つきを聞いたトウオウがセノギに言って揃えた物であった。

「え? あれって・・・あの服って、もしかしてトウオウさんが?」

即座に返事はなかった。 ワンテンポもツーテンポもスリーテンポもおいて「・・そうだ」 と返事があった。

「あ・・・あの、ゴメンナサイ。 その、変な意味じゃなくて、えっと、そうじゃなくて、えっと、どれも可愛かったし、あのその、全部可愛かったけど、その、可愛いから私には似合わないっていうか、私はジャージが好きだから、えっと・・・」

「もういいよ」 

「あ・・・あの」

「シユラ様の好みじゃなかったってことだろ?」

まだ下を向いたままである。
言い訳は諦めた。

「・・・はい」
頭を垂れ、上目遣いにトウオウを見る。

紫揺の視線には気づいているのであろうが、目を合わせようともせず、僅かに顔を上げた。

「・・・アマフウを見過ぎていたからかな」

「アマフウさん? アマフウさんはあんな服・・・あ、じゃなくて、ヒラヒラが好きなんですか?」
納得がいかない。 

トウオウ曰くの、コスプレ姿のアマフウ。 確かに毎日紫揺には考えられないような色んな服を着ている。 それでもヒラヒラを着たのを一度も見たことがない。

「着たいんだけど、着ないんだ」

「え? どうしてですか?」 

あれだけ信じられないような服を着ているのに。 ましてや初めて会った時には花魁姿だったのに。 ヒラヒラより、花魁姿になる方がよっぽど勇気がいるだろうに。

紫揺の質問にトウオウは答えなかった。 それはトウオウが答えるべき話ではないと判断したからだ。

「ね、シユラ様?」
少しの間をおいてトウオウが顔を上げ、その異なる双眸を紫揺に向けた。

こんな近くで、それもアマフウのいないときにトウオウの目を見ることなど、ついぞ無かった。 さっき、トウオウに覗き込まれた時には、漠然とトウオウの顔を、表情を見ただけで、ここまで目を見なかった。 トウオウの双眸は右が赤く澄み、左が薄い黄色に澄んでいる。 その双眸に魅入られると、暗示にかかってしまいそうになるかと思うほどに流麗であった。 黒い瞳を持つ紫揺とは全く違った。

「はい?」

「アマフウってさ・・・」

「え?」

「・・・ああ、何でもない。 それよか、どう? 具合は良くなった?」

さっき 『痛みはなくなりました。 それにドヘドも全く治まりました』 と言ったし 『本当に?』 と紫揺の顔を覗き込んだトウオウに 『はい。 本当に』 と言ったのに、それを忘れたわけではないであろう。 更に念を押して訊いてきたのであろう。 それとも言いかけた話を逸らすためなのか?

「自分でお布団に行けます」
チラッと奥の畳間を見て続けた。

「あの・・・さっき」

「ん? なに?」

「腰をさすってくれてありがとうございました」

「ああ、いいよそんなこと。 若いのに腰の具合が悪いのか?」

「悪いって程ではないんですけど、初めて馬車に乗ったからだと思います」

「ああ、振動が腰にきたのか。 向こうみたいにアスファルトが敷いてあるわけじゃないし、それにあの馬車だもんな。 慣れないと腰にもくるよな」

コクリと首肯する。 でもそんなことを言いたかったわけじゃない。


― 手当 ―

それをしてくれた礼を言いたかっただけだった。


「んじゃ、オレは退散してもいいかな?」

「はい。 有難うございました」

「礼は何度も言わなくていいよ。 それに言われるほどのことはしてないからな」 そう言うと椅子から腰を上げ、そのまま部屋を出て行きかけると 「あれ?」 と一言漏らした。

「雨戸を閉めてないな」

「え?」

「冷えるから雨戸を閉めなくっちゃな」
掃き出しの窓に向かって歩き出したトウオウの先の窓を見る。

「いいです」

「え?」 振り返り紫揺を見る。 「雨戸をしなくちゃ冷えるぞ」

「今はこれくらいでいいんで、あとで自分で締めます」

「ふーん、そっか? んじゃ、シユラ様のいいようにしな。 じゃ、今度こそオレは退散するから」

ただの一度も振り返らなかったトウオウを見送った紫揺。

「眠れない・・・」

紫揺のいる離れの廊下の片隅で二つの影がドロリと流れるとその影が人型をとった。

「ケミ、ここまでくれば吾らの範疇は終わった」

「ああ、ショウワ様からのお言いつけは、ここまでだからな」

ムロイの家に来れば、紫揺が落ち着くであろう、そして今のこの領土の状況を考えると、下手にムロイが紫揺に何かを言うことはないだろう、何かをするわけではないであろうという事を二人は言っていた。
何かをしようにも仕切れない領土の中、それにここまできて注射などという事はしないであろうし、揶揄や嘲弄という何かも、領主のあの様子からはそんな余裕はないであろう。

「今までを見ると、少なくとも離れに居る間は何もないであろうな」

「ああ、吾もそう思う。 それにあの様子では領土にいる間は何もないであろう」

「ムロイに余裕がなくなっておるからな。 それに明日から数日帰ってこないと話しておったからな」
紫揺の乗った馬車がここにつく前、カミが先回りして領主たちの話を聞いていた。

「ああ、明日から乱れを直しに出るのだろうし、そう簡単には帰ってこられまい」

「それにショウワ様にヒトウカのことを報告せねばな」

紫揺がヒトウカを抱きかかえたことを言っているのではない。 あの時には紫揺がもう寝るだろうとその場から居なくなったのだから。 そうではなく、セイハと紫揺が見たヒトウカのことである。

「それでは一旦引き上げるか?」

「諾(だく)」

二つの人型がドロリと動き、何処しれることなくなくなっていった。


「テレビもないし、本もない・・・」

この眠れない目をどうやって過ごそうかと考えるが、どこにもその当てがない。 今いる部屋には椅子とテーブル、それに暖炉だけ、隣の和室には布団が敷かれているだけ。

「最小限の電力って言ってたから・・・」 と、考えた時に、あれ? と思った。

部屋に電気がついていたのだ。 今までは角灯で過ごしていたのに、ここには部屋に電気が点いていた。

「そう言えば、さっきの部屋にも電気が点いてた気がする」 

皆が居た最初に入った部屋のことだ。 紫揺はアマフウ曰くドヘドを吐くことなく、腰痛を堪えるしかなかった時の話。

「最小限の電力って部屋の電気の事なのかなぁ?」

片肘をついて頭を巡らす。
今日の小休憩の時に考えた 『電気って・・・電気の存在って大きいんだ・・・。 改めてずっと生きていた場所のことを顧みた。 贅沢をしてたのかな・・・』 と考えていたことを思い出す。
と、セイハが言っていた 『屋敷の方がいいってこと。 ほら、ここって何か辛気臭いじゃない』 という言葉が頭をかすめた。 
それっていうのは、電力の事なのだろうか。 たしかに、現代に生きていれば、電気が無くては生き辛いな、と思った時、もう一つの言葉を思い出した。 たしか 『ふね』 という言葉を言っていた。 あの時は身体が辛くてまともに聞けなかったけれど 『屋敷』 という言葉もあったように思う。 どんな話だったか思い出せない。

「ああ・・・。 何もかもごちゃ混ぜになってしまってる」 考えがまとまらない。

片肘をついていた掌で頬をさする。

部屋には廊下越しの窓がついていた。 正面に見えるその窓は腰高の窓。 首を右に90度捻れば掃き出しの窓、左に90度捻れば入って来た引き戸、そして後ろを見れば畳の部屋がある。

右目の端に何かが見えた。

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虚空の辰刻(とき)  第38回

2019年04月26日 23時29分41秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第38回



「こんなことになったのはムロイのせいなの。 ムロイが領土を疎かにしたからなのよ」

「え?」

「まぁ、ムロイの気持ちも分からなくもないけどね。 私だってここに居たくないんだもの。 ほら、シユラにも分かるでしょ? ここの寒さ。 それにここには何もないんだもん」

「何もない?」

「うん、何もない。 屋敷に行けば屋敷から船―――」

「・・・フネ?」

紫揺の片言にシマッタと思った。 屋敷のことを紫揺は何も知らなかったのだった。 そのことに素知らぬ顔で言いかえる。

「屋敷の方がいいってこと。 ほら、ここって何か辛気臭いじゃない。 それより、どう? 少しは落ち着いた?」

「あ・・・はい」 立ち上がり、胃と腰をさする。

「どうだった? アマフウとの甘い時間は?」

ジロリとセイハを見る。

「あ、甘くなかったみたいね」 悪びれることもなく、なんなく言ってのける。

「じゃ、ほら、寒いから入ろう」

セイハに背中を抱かれて歩き出した。
中に入ると今までの草葺屋根の家とは全く違った様相であった。
まず、玄関がある。 それも玄関扉は二重扉になっている。 玄関で靴を脱ぐと置いてあったスリッパ代わりのモノを履くように促され、そのまま廊下伝いのドアを開け中に入ると、囲炉裏の代わりに暖炉があり、木で出来た長椅子に分厚いクッションが置かれている、さながらソファーとテーブルがあった。

「あら、シユラ様どうなさったの?」
ドアの正面のさながらソファーに座るセッカが紫揺を見た。

「気分が悪いんだけど、まぁ、多少は良くなったみたい」 セイハが紫揺の代弁をする。

「あら、それは大変じゃない? ムロイ、シユラ様をご案内したら?」 前に座るムロイに言う。

セイハにアマフウの機嫌を取るように言われていたムロイだが、何故かセッカの正面に座るキノラの横に座っている。 アマフウもさることながら、キノラも相当にヘソを曲げているようだった。 廊下を歩いている時にキノラの訴えが聞こえていた。

ここに来るまでに何日もかかってしまった。 その上、明日からもここから先の領土を歩き周り乱れを正していくというのだから、一刻も早く屋敷に戻って仕事をしたいキノラがヘソを曲げてしまっても仕方のないことだろう。

奥でカチャカチャと皿を動かす音がする。 きっとダイニングになるのだろう。 そこでアマフウが夜食を摂っているのだろうと分かる。 多分その隣にはこのリビングに居ないトウオウが座っているのだろうと、まだ気分のすぐれない紫揺の頭がかすめた。

「ああ、そうしよう」
セッカに向かって言うと、目先をキノラに戻す。

「キノラ、お前の一番の仕事はここだということを忘れるなよ」 

キノラのいう仕事とは屋敷内のファイナンスをチェックすることであった。 株を動かしているだけにその流れは毎日激しく動く。 言ってみればキノラは屋敷の金庫番であった。

返事のないキノラを睥睨(へいげい)するとその視線を紫揺に転じる。

「シユラ様、ご案内いたしますが、夜食の方は本当によろしいのですか?」

「はい、今は何も食べたくないので」

何処に案内されるのか分からず、少々の不安がありながらチラリとセイハを見て言うが、そのセイハは紫揺から手を離して、キノラの隣に座ろうとしていた。

「では、こちらへ。 歩けますか?」

ムロイが紫揺の手を取ろうとした時、奥のダイニングから声が聞こえた。

「オレが支えてやるよ」 声の主はトウオウであった。

大股で紫揺の横にやってくると、腰に手を回し紫揺をかかえるように自分の身に寄せた。

「ほら、ムロイ先に歩けよ」

ここはムロイの家。 いや、領主の家である。 勝手に歩き回るわけにはいかない。
今は料理を作る人間こそ居れ、他の使用人たちは領主が帰って来たと聞かされ、慌てふためいて部屋を整え待っていたが、領主であるムロイの言によって今はそれぞれの家に帰っていた。

今まであまりにも空けられていた領主の家には、使用人が空気の入れ替えにたまにやってくる程度であった。 その使用人というのは、あくまでも領土の人間であって、雇われているわけではない。 専属のハウスキーパーが居るわけではない。

トウオウに支えられて紫揺が歩を進める。 その先をムロイが歩く。
セッカがムロイの後姿を見て方眉を上げ、キノラが口を歪める。 そしてセイハは後姿を見送ることはなかった。

入ってきたドアからリビングを出ると玄関に背を向け、またしても廊下を歩き、右に直角に曲がった。 暫く歩くと先に見えたドアをムロイが開ける。 渡り廊下であった。 両面が硝子戸になっていたが寒さ避けからなのか、もう夜だからなのか雨戸が閉められていた。 薄暗い灯りだけを頼りに歩く。 長い渡り廊下の正面にドアが見える。 そのドアを開けると右に曲がった。 右手にはまたしても廊下が見えたが、建物の中になったようで、右手に雨戸の閉められた窓が見え、左手は家の中の壁になっている。 廊下を歩き左に曲がると左手に二つの引き戸がある。 一つは今ムロイが立っている横に。 もう一つはその奥に。 ムロイが横にある引き戸を引く。

「シユラ様はこちらでお過ごしください」

早い話、離れであった。

二つの引き戸の部屋、それぞれの部屋は二間あり、引き戸から入ってすぐの一間は木張りの部屋で椅子とテーブルが置かれている。 その右手横に8畳ほどの畳間の寝室。 寝室にはすでに布団が敷かれていた。 ムロイに言われ、使用人が既に敷いていたのであろう。 それぞれの部屋には外に出られるように、木張りの部屋に入った正面に掃き出しの窓がついている。 そしてもちろん部屋には暖炉がある。 すでに暖炉の火は灯っていた。

紫揺をかかえていたトウオウが紫揺を椅子に腰かけさせる。

「ムロイ、シユラ様のことはオレが見てる。 キノラが暴れないようにもう一度話したらどうだ? キノラが暴れたらアチコチ土だらけになるかもしれないぞ」

「・・・ああ、そうだな」
顔を投げ、心労の渦に浸かった心身をほぐしたいと思う気持ちを諦めたように頷く。

「それではシユラ様、何かありましたらトウオウに―――」

間の長さにじれったくなったトウオウが言葉を被せた。

「ああ、ああ、いいよ、オレが見てるからって」

言われたムロイがトウオウに胡乱な目を向ける。

「あれ? なにそれ? オレって信用ないわけ?」

「アマフウについていなくていいのか?」

「今頃テーブルの上でヨダレ垂らして寝てるよ」

トウオウの言葉に尊大な態度で応えると紫揺に目を転じ 「では、失礼します」 と軽く頭を下げてその場を辞した。

パタリと閉じられたドア。 それを見定めたトウオウ。 紫揺は椅子に座らされた途端、テーブルに突っ伏し、座している。

「かなり悪いみたいだな」

ここまで歩いて来るのが精一杯、返事をする気力がない。 胃液が口にまで躍り出てくることはなんとか治まったように思えるが、それでも吐き気は収まらない。 腰痛は今も続いている。 胃と腰、前面からはムカムカとする吐き気、背面からは痛み。 ムカムカと痛みは全く異なる感覚。 その両者に挟まれ自分の身体を調整することをしなかった自分に切歯する。

それでも、このままで終わるわけにはいかない。 なんとか体面を繕わなければ。 自分の身体の管理が出来なかったのは自分のせいなのだから。 それに一人になりたかった。 一人になって苦悶に喘ぎたかった。 さっさとトウオウに出て行ってほしかった。 その為にはここで返事をしなくては。

「いえ、大丈夫です・・・あの、アマフウさんの所に戻って下さい」

紫揺の返事を聞きながらもう一つの椅子に座る。

「さっき言ったの聞こえなかった? アマフウは今頃ヨダレ垂らしてるから。 それより、オレに何か出来ることはないか? アマフウから言われんだけど?」

「え?」

「シユラ様が、ドヘドを吐くかもしれないから何とかしてこいって」

「ドヘドって・・・」
腰の痛みを忘れて頭が痛くなりそうである。

「吐き気は随分収まりましたから、大丈夫です」

「んじゃ、疲れただろう? 寝る?」

「え?」

「ここに時計がないから時間が分からないかもしれないけど、もう深夜になってるんだ。 どう? 布団に入るんだったら隣の部屋に連れてってやるけど?」

「深夜?」

「シユラ様は空に浮かぶ月や星の位置で時間が分からないだろうけど、もう十分深夜。 って、今日は雲が多いから、月も星もほとんど見えないけどな」

「・・・ここでちょっと休んで自分でお布団に入ります」

「なに? オレが要らないってこと? それって心外なんだけど?」

「あの・・・」
頭を上げた途端の腰の痛みに苦悶して、思わず腰に手を当てた。

「あれ? もしかして腰が痛いの?」 

言った途端、立ち上がり紫揺の後ろに椅子を移動させると、腰に当てていた紫揺の手を撥ね、トウオウが紫揺の腰に手を当てさすりだした。
驚いた紫揺。 勿論その手に甘んじる気はなかったし、この腰の痛みは外科的な痛み。 故にさすったところで痛みが引くはずはない。 なのに・・・。
紫揺の心に思いもしない言葉が浮かんだ。 手当とはこういうものなのだろうか、と。


 ― 手当て ―
手を当てる。 それだけで痛みが和らげられる。 不思議だった。 でも、どこか遠くの記憶に同じことがあったそれに触れた。 ずっと遠くの記憶、紫揺の忘れていた記憶。 それは母の早季の手当てであった。 紫揺が肩を脱臼したあの日、顧問の車で帰ってきた紫揺に、早季がその肩に触れたあの時の記憶がまざまざと蘇ってきた。

(お母さん・・・)

痛みはあった。 だが顧問の前でも誰の前でも痛みによる涙など見せたくなかったし、ましてや小さなころから自分の身体を案じていた早季には特に見せたくなかった。 なのに、早季がギプスの上をそっと触り、痛みのある肩の下に触れると痛みがジンワリと引いていくような気がした。 外科的な痛みがそんなことで引くわけはないと思いながらも、思い過ごしかもしれないと思いながらも、それでも引いていった。 全く痛くなくなったわけではなかったが。

紫揺の目に大粒の涙が現れ出てきた。 気付かれまいとして顔を伏せたが、しっかりとトウオウに見られた。

「シユラ様? そんなに痛いのか?」

ゆっくりと腰をさするトウオウの掌が温かい。

「ムロイに言って医者を呼ぼうか?」 簡単には来られないが。

「・・・大丈夫です」 そう答えることしか出来なかった。

トウオウが何かを悟ったのかそれ以上何も言わなかったが、その手はずっと紫揺の腰をさすっていた。

どれだけの時が経ったのだろうか、トウオウの掌の温かさにウトウトしていた自分に気付いた。
紫揺の腰は反らすと痛みが走る。 それと反対に前屈にすると痛みが和らぐ。 今は椅子に座りテーブルに突っ伏している。 よって反らすことではなく、痛みが和らぐ姿勢でもあった。 その上にトウオウの掌がある。

「有難うございました。 痛みはなくなりました。 それにドヘドも全く治まりました」 顔を上げて姿勢を正す。

腰にあったトウオウの手が止まる。

「本当に?」
紫揺の顔を覗き込んだ。

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虚空の辰刻(とき)  第37回

2019年04月22日 23時35分47秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第37回



「もっと地理の勉強をしていればよかった・・・」

風はないが、痛い寒さを覚える。 髪が凍らないようにフードを被り、白い吐息を吐きながらポケットに手を入れる。

「・・・いい。 うん、地理も社会も勉強なんていい。 有ることを受け入れればいいだけ。 うん、そう。 分かった。 寒いのは寒い。 だからどこの地域かなんて考えなければいい。 ココは寒い所それだけでいい」 あっさりと考えることを断念した。

有りのままを受け入れるしかない。 いや、受け入れよう。 そうでなければ前に進めない。

「分からない不思議なことも有るんだから、無い頭を絞っても仕方がない。 全部受け入れるしかないんだから」 

ここが何処なのか、この寒さはどうしてなのか、分からない不思議なことは何なのだろうか、そんなことを考えても答えはない。 教えてもらうしかない。 でも誰もそれを教えてはくれない。 ではそれを疑問に思うことはやめよう。 すべて受け入れよう。
そう思った瞬間、紫揺の目が座った。

「来るなら来なさいよ。 なんでも受けてやるから」
殆どやけくそに近いが、それでも腹の底からの思いであった。 と、その時アマフウの声が響いた。

「アナタ! いい加減に戻りなさい!」

「うわっ・・・またあの時間が始まるんだ・・・」 
サイテイな時間、サイテイな空間。 あの時間、空間だけは受け入れられない。 腹の底からの思いが瓦解しそうになる。

馬車の中の小窓に暮色が差し込む。

(もう夕方になる。 今日も領土の中心ってとこに行けなかったんだ) 瞼を伏せると小窓をそっと閉める。


小窓から見える風景は特別何も変わらなかった。 段々と草葺屋根が増えてきたことはあるが、冷え冷えとした土地に畑が広がり、枝先の枯れた木々が以前より多少は多く見えるだけであった。

ただ、辺境の地と言われた最初の場所と違ったのは、馬車の走る横が枝先が枯れてはいるが、木々で埋め尽くされた林となっていた。 だがそれはアマフウ側の小窓から見える風景であって、紫揺の側からは見えなかった。
そして最初に見た正面に見える山にもかなり近くなっていた。

「入ったわね」 突然アマフウの声が降ってきた。

「え?」

「やっと着いたのよ。 今日こそゆっくりできるわ」

「・・・それって、領土の中心っていう所に来たってことですか?」

紫揺を一瞥(いちべつ)する。

「アナタ・・・何をしたいの?」

「え?」

「この領土に来て何をしようと思ってるの?」

思いもしない質問であった。 いや、それ以上に話しかけられるなどとは思ってもみなかった。

「え・・・それは・・・」 

アマフウに対して答えられる材料なんてない。 お婆様の紫が来るはずだった場所を見てみたかったなどと言っても、そんなことはアマフウには関係のないことだ。 それに、力がないとか、自覚がないとか、そんな風に言われたことに対してどうにか思ったなどとも言えない。

「どうなの?」

「・・・誤解を解きたいから」

「誤解?」

「アマフウさんの袂を燃やしたって言われてるけど、そんなことをした覚えがないから」
当のアマフウを目の前にして少々言いにくく、チラッとアマフウを見て続ける。

「それに、トウオウさんが私のことを紫だって言うし、他の人も。 お婆様に何があったのかは分からないけど、私はお婆様の名前ではないんだから、何かを誤解されてる。 それにお婆様も何も言われることなんてなかったはず。 それとセイハさんもここに来て色々言ってたけど、それって全部誤解だからって証明したくて。 えっと・・・」
何が言いたいのか分からなくなってきた。

取って付けた理由だったが、だがそれは嘘ではない。 このことは心の片隅にあったのだから。

「セイハが何を言ったの?」

「えっと・・・沢の水とか、冷水とかで炎を消せるとか、火を扱ってもいいとか、土とか・・・」

「で? アナタはそれをしたの?」

「出来るわけないです」

「そう」
言ったっきりアマフウがソッポを向いてしまった。

(ナニ? これって、どうよ! 聞くだけ聞いて無視!? 信じられないワガママ! って、あれ? えっとさっき、着いたって言ってた。 領土の中心に着いたの?)

小窓を開けるが、辺りはもう薄暗く何も見ることが出来なかった。

その後も馬車の中は沈黙が流れ、馬車の外はいつもならとうに馬車が止められる暗闇になっても、角灯で照らしながら進んでいた。

おもむろにアマフウが御者台にある窓を開ける。

「中が暗すぎるわ。 一旦止めて灯りを入れなさい」

御者がすぐに馬車を止めてまだ灯りの点いていない角灯に灯を移し、馬車の中に吊るした。 吊るし終えた御者にアマフウが言う。

「あたりに気をつけなさい。 ヒトウカを見たらすぐに言うのよ」

「は、はい」 御者がこわばった声音で返答する。

暗闇にヒトウカを見つけることは安易なことというのは紫揺も知っている。 光り輝くヒトウカなのだから。

(・・・アマフウさんはヒトウカって言ってるけど、ヒオオカミのことを考えてるんだ。 ヒトウカもヒオオカミもその生態は分からないけど、基本狼は夜行性のはず。 ヒオオカミと狼が同じ生態なら、この暗闇が危ないって思ってるんだ)

背筋に目に見えない恐ろしいものが走る。 人をオモチャにすると言われるヒオオカミの影が頭をかすめる。
暗くなってから随分と走った。 勿論、闇夜で休憩など取れるはずはなく、紫揺の胃と腰は限界を迎えていた。 向かいに座るアマフウはそんなことなど知る由もなく、欠伸をしている。

(・・・もう限界)
と思った時、馬車が止まった。 痛みと吐き気に襲われていた顔を思わず上げて、小窓を開ける。 外は暗闇だが、それでもその暗闇が流れていることはない。 御者台から御者が降りて、閂を外す音がする。 すぐに小窓を閉めるとウッカリと前を見てしまった。 アマフウと目があう。

「アナタ・・・」

「は・・・い」
激しい揺れにやっと居場所を見つけた胃が別の意味で吐きそうになる。

「顔色が悪いわよ」 

暗に自分の目の前で吐くんじゃないわよ、と言われているのだろう。
御者が戸を開けるとすぐにアマフウが荷台から降りた。 さも、この先に起こるかもしれない紫揺の口から溢れ出る滝の饗宴を見たくもないと言わんばかりに。

紫揺はといえば、アマフウに言い返すことなく、胃と腰を押さえながら、まるで婆さまのように荷台からのそのそと降りた。
先に歩くアマフウを見ると、角灯が灯されている木の扉の向こうに消えていくのが見えた。 それ以外は辺りは真っ暗で何も見えない。 と、アマフウを扉の奥に見送った灯が紫揺の方に寄ってくるのが見えた。 角灯を持った御者であった。 次に紫揺の足元を照らそうと思っているのだろう。 何も言わずじっと角灯を持っている。

「すみません、ちょっと待っててください」

しゃがみ込み何度も胃液を飲み込む。 その合間に腰をさする。
すると扉が開き誰かが角灯を持って紫揺に近づいてきた。

「シユラ、大丈夫?」 セイハであった。

「あ・・・はい。 もう少ししたら落ち着くと思います・・・。 ウプ」 思わず口を押えたが、何が口から登場することもなかった。

「そう? 辛そうだけど?」

紫揺に向けて言うと、今度は御者に向かって言葉を投げた。

「ここはいいわ。 私が見てるから。 下がっていいわよ」

御者が一つお辞儀をすると、足元台を持ちそのまま馬車を動かし厩に帰っていった。

「・・・ここって、領土の中心ですか?」
切なる思いだった。 もうこれ以上馬車に乗りたくなかったのだから。

「うん、そうよ。 暗いからあまり分からないけど、紫揺が明るい時に見た所とは随分・・・とまでいかないけど、ちょっとは変わってるわよ」

と、また扉が開き、今度はムロイが出てきた。

「シユラ様、どこかお身体の具合が?」

「あ、大丈夫です。 ・・・はい」

「ムロイー、シユラは気分が悪いんだって。 私が見てるから心配しないで。 それよりシユラ、夜食になっちゃうけど食べられる?」

「・・・あ、無理です」

「ってことらしいわよ。 シユラのご飯の用意を止めれば?」 紫揺から目を外してムロイに言う。

「シユラ様、ご無理でも食べて頂かなくては―――」

「シユラは無理だって言ってるのよ。 乙女はダイエットのことを考えたら、1食や2食くらい食べなくても大丈夫なんだから。 まっ、今のシユラはダイエットどころじゃなくて気分がすぐれないんだろうけどね。 ほらムロイ、戻ってアマフウの機嫌を取っておけば? 相当機嫌悪そうだったじゃない」

言い重ねるセイハを一瞥する。

「それではシユラ様、ご気分がよくなれば中へお入りください」
シユラ様を頼んだぞ、とセイハに言い添えると扉に向かって歩き出した。

ムロイの後姿を追うセイハの目が僅かに嘲笑を帯びた。

「ムロイ、必死なんだね」

「え?」

「領土がおかしくなってるから必死なのよ。 あんなムロイ、オカシイったらないわ」

「セイハさん?」

ムロイが必至になる領土、そこはセイハも同じ思いなんじゃないのかと思っていた。 勿論セイハだけでなく、他の4人も。 それを 『オカシイ』 という。 ムロイと同じ思いではなかったのだろうか? それは自分の勝手な思い過ごしだったのだろうか。
それとも単に、ムロイの必死さを 『オカシイ』 といっただけで、深い意味はないのであろうか。

セイハさん? という紫揺の問いかけにセイハが眉と口角を上げた。

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虚空の辰刻(とき)  第36回

2019年04月19日 22時29分05秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第36回



「何もって?」

「確かにアマフウはヒトウカもヒオオカミも見なかったって言ってたけど、それも怪しいし、私たちがあれだけ忙しかったのよ。 炎や水の一つも見たでしょ? アマフウはそれを放っていたの?」

ヒトウカと言われて心臓が飛び出そうになる。 顔色を変えないように、何気ないように答えなければ。 あの可愛いヒトウカが何かされないように。

「馬車の中では私が外を眺めるために、ちょっとだけ窓を開けてたくらいで、アマフウさんは外を見てませんでしたし、私は何かの違いが分かるわけではないですから」

「・・・へぇ、そうなんだ」

紫揺を一瞥すると胡乱な目を闇夜に向ける。

「セイハさん?」

「シユラ、身体を洗おうよ。 この石鹸はいい香りがするのよ。 自然石鹸だしね。 私の香りが入ってる石鹸をシユラも使うといいよ」

湯船から手を伸ばして木桶の中にあった石鹸を見せる。

「セイハさんの香り?」

「うん。 使用人たちが私たちそれぞれの香りの石鹸を作ってるの。 私の香りは 『春』」

それぞれの香りと言う意味は分かる。 それぞれ5人、もしくはムロイを入れての6人だろうと。 でも 『使用人』 と言う言葉には相変わらず引っかかる。

「春? それって春をイメージしたんですよね? こんなに寒いのにここにも春があるんですか?」

「殆ど寒冷地で春と夏は短いけどね。 それなりにあるよ」

「へぇー、そうなんだ。 セイハさんの春の香りってどんな感じなんですか?」

「匂ってみるといいよ。 結構気に入ってるの」

セイハから渡された石鹸は嗅いだことのない匂いだったが、暖かみのある何かの花の香りだと分かった。 とは言え、どんな香りもきっと花から抽出されるものなのだろうと漠然と思うが。

「これって花の香りですよね? 何の花ですか?」

「ここの領土の春に採れるハシュって花。 そうね、向こうで言う所のジャスミンの香りと似てるかな?」

「ジャスミン? 知らないけど甘くてとってもいい香り」

「気に入った?」

問われ大きく頷く。

「明日は私とシユラが同じ香を持って動くのね。 明日も今日と同じようにアマフウとシユラが馬車でしょ? ・・・ククク、馬車の中のアマフウの顔を是非とも見たいわ」

(それって超最悪・・・) シユラが苦笑いを送った。

風呂から上がるとセイハと別れて自分に充てられた家に戻った。
紫揺が入るのを見届けた影が今日はもうよいだろうと互いに頷き合いドロリと姿を消した。

「セイハさんのお蔭で随分と身体が温まった」

言いながらも囲炉裏の前に座る。 せっかく温まった身体を冷やしたくないが、そのまま布団にもぐる気になれない。 今日一日に色々ありすぎた。 いや、正しく言うと今日一日ではない。 連れ去られた時から・・・いや、もっと遡ると、両親が亡くなったときから・・・。

「お父さんとお母さんが亡くなったのは・・・」
ずっと言葉に出していたものを飲み込む。 それに、以前にそれを乗り越えたはず。

「うん・・・お母さんが励ましてくれた」
あの時の声が支えになっている。

『―――守っているから。 見ているから。 ―――ね、紫揺ちゃん』 確かに母の声を聞いたのだから。

そう、だから今の始まりは連れ去られた時から始まっている。 だが今はそんなことを考えるときではないだろう。
連れ去られたから連れ去られる前に戻りたい、確かにそうではあるが、それだけで元に戻れるはずがない。 それに気になる事があるのだから。
自覚が無いとか何だとか、アマフウの袂を燃やしたとか何だとか。 それに枯れた芝生が緑になったことも。 それをハッキリとさせたい。 勿論それは以前にも思っていたが、今もそのことは頭から離れない。 それをハッキリとさせてから元の生活に戻りたい。
囲炉裏で暖まりながら色んなことが頭の中を錯綜する。
と、その時、家の外で何かの音がした気がした。

「誰?」 外に居る誰に話しかけるわけでもなく独語を呟く。

一瞬迷った。 何も分からない土地の夜。 家の戸を開ける勇気が自分にはあるだろうかと。 だがそれは一瞬だった。 すぐに腰を上げ、戸口に向かうとソロっと戸を開けた。
戸の向こうには誰も立っていない。 納得できない。 身体を戸の外に出すと辺りを見回した。 外は灯もない漆黒の世界。 そのはずが、木の陰である一点だけが光り輝いていた。

「・・・ヒトウカ?」
間違いない、あの時に見たヒトウカだ。 数刻前に見たヒトウカが紫揺を直視している。

「どうしたの? お母さんの所に帰ったんじゃなかったの? ここに居たら危ないの、お母さんか、仲間の所に帰って」

誰かが家から出てこないか警戒しながらヒトウカに少しずつ歩み寄る。
と、離れた所に大きな影が進み出てくるのを目にして、思わず息を飲んだ。

闇に同化する見たこともない影だった。 だがその大きさは、小さなヒトウカを簡単にかみ殺すことが出来る獣であると判断できる。 ヒトウカが紫揺の方に走り寄ってきた。 紫揺がヒトウカを抱きしめる。
野生のシカが人を頼らねばならない相手とはいったい誰なのだろうか。 どんな獣なのだろうか。 そんなことを考える間には逃げなくてはならないだろう。 支離滅裂なことを考えながら目を大きく開けて前を見る。 ピキピキと足元で音がしているが、今は前を見るだけで精一杯、そんな音には気づいていない。

ヒトウカが手の中に居るがため、目の先には光輝くものどころか灯さえもなく、獣とおぼしきものの姿を確認できない。 家の戸を開けた自分の周りに僅かな角灯の明かりしかない。
待て、冷静にさっきまで聞かされていた話を思い出せ。 ヒトウカの天敵はヒオオカミだということを。 と、その影が消えていくのが僅かに見えた、いや、感じた。 見間違いではないのだろうかと、もう一度目を大きく開け凝視する。 だが、目に見えない漆黒ではあるが、その先に生ある者の息も何も感じない。
手の中でヒトウカが身じろぎをした。 すぐに抱きしめていた手を緩めると、ヒトウカが漆黒の闇の中に走り出した。

「あ・・・」
何も言葉に出来ず、光り輝くそれを見送ることしか出来なかった。

足元には僅かに光るものが残った。 紫揺の足元ではなく、さっきまで居たヒトウカの足元。 そこには僅かな氷が張っていた。


馬車に揺られながらアマフウと共に同じ時間を共有している。 アマフウは昨日と同じ様に、乱れというものには我れ関せずといった具合に、足の上に肘をつきその上に顎を乗せ、狭い四角い空間のどこを見るともなく無言である。

(この時間って、サイテイ。 ・・・あ、でもセイハさんの香りに気付いてないのかな?)

アマフウは馬車に乗る時も、乗っている今までも香りのことを何も言わない。 自分の身体から香りが消えたのだろうかと、腕をクンと匂いでみる。 僅かだがあの石鹸の香りがする。

でもそういえば、自分もアマフウの香りに何も気づかなかった。 この狭い空間なのに何故だろうかと思う。 自分の鼻がイカれてしまったのだろうか、という不安はなかったことにしてアマフウの香りに集中してみる。 すると僅かにセイハの石鹸とは違った香りがする。 少なくとも馬の匂いではないことは分かる。 心地いい甘さの香り、これがアマフウの香りなのだろうか。 セイハの香りとは違った甘い香り。 何の花の香りなのだろうか。

「・・・あの」

紫揺の問いかけに、手にのせていた顔を上げると鬼の形相になる。

「また吐くって言うんじゃないでしょうね!」

「あ、違います・・・」

「じゃ、なんなの!?」

「その・・・アマフウさんの香りは何の香りですか?」

「は!?」

「えっと、セイハさんの石鹸の香りは『春』ハシュの花の香りって聞きました。 だからアマフウさんのこの香りは何なのかなって」

「アナタ、昨日セイハの石鹸を使ったわね」

「・・・はい」

「どうりでずっと嫌な匂いがプンプンしているはずだわ」
そう言うとまた肘をつきソッポを向いてしまった。

(やっぱりこの空間、サイテイ)


この日の朝ごはんは粥であった。 そして食べ終えてからすぐ馬車に乗ったわけではなかった。
ムロイを含む5人は朝ごはんを食べると、早々に馬に乗りこの地を後にしたが、アマフウがなかなか動こうとしないので、アマフウと紫揺の乗る馬車は他の5人から随分と遅れてこの地を後にした。 だがそのお蔭か、昨日に比べれば馬車で揺られても胃の中の物が踊ることはなかったし、一晩寝て腰も随分とよくなった。 今日は気を付けて腰の骨に負担を与えないように、筋肉を緊張させているだけで良かった。 紫揺が言う所のサイテイの空間ではあるが。

昨日、ムロイが 『順当に行けば明後日には着くでしょう』 と言ったが、2日とも全くもって順当にはいかなかった。
そして4日目、結局この日も領土と言われるところには行けず、草葺屋根に泊まり、また翌日にアマフウと共に馬車に乗り込むことになった。

5日目となるこの日も確かに馬車の歩みは遅い。 それはアマフウが御者にゆっくりと、そして休憩を入れながら走らすように言ったからであったが、領土の中心に行けなかったのはそれだけが理由ではない。 あまりにも乱れが多すぎたからだ。 アマフウを除く4人が小さな乱れを正していく。 その数があまりに多すぎて足止めをくっていた。

そんなことも知らず、馬車の小窓から辺りを見るだけしか出来ない紫揺であったが、道中、小休憩が何度かあった。
アマフウは馬車から降りないが、紫揺は馬車から降りて風景を見渡す。 左手は相変わらずの雑木林から続く山だが、右手には雑木林はとうに消えていて、その代わりに広い土地が見える。  そこには人家が増え、畑が目に付くようになってきていた。 その畑には何が植わっているのかは分からない。 遠目に人影は見えるが、馬車の行く道には人っ子一人居なかった。 そして過ぎた方向を振り返ると、ぽこぽこと山があるのが見える。

「ここって、まだ中心じゃないのかな?」 辺境ではないと思うが、中心と言われるほどには何も発達しているようには見えない。

「あ・・・電力が最小限っていってたっけ・・・。 電力・・・電気って大きいもんね。 それじゃあ・・・」

もう一度、辺りを見回す。
畑と家と遠くに山以外何も見えない。 それでも、辺境の地と言われたところより、家も畑もある。 それに今まで見えなかった水車が見える。 でも・・・道にアスファルトも敷かれていなければ、水路の壁が土で出来ている、コンクリートではない・・・と考えた瞬間、自分の思ったこと、それは何もかも電気が必要なものだと気づいた。

「電気って・・・電気の存在って大きいんだ・・・」

改めてずっと生きていた場所のことを顧みた。

「贅沢をしてたのかな・・・」

有難さという感慨にふけると、ではここは何処なのかという疑問が大きく広がる。
前にも思った。 ここの寒さは屋敷で過ごしてきていた寒さと違う。 その屋敷がどこなのかは分からない。 でもこの寒さは北の最果てとしか考えられない。

「北の最果て・・・そして電気がほとんど使えない地域・・・」 頭を捻る。

「それって・・・どこよ」 全く心当たりがない。

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虚空の辰刻(とき)  第35回

2019年04月15日 22時41分42秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第35回



「ヒオオカミに対峙できるのはアマフウだけです」

「え?」
急にムロイの口からアマフウと名前が出たのに驚いた。

「もちろん他の者も対峙できますが、数秒とかけず向かい合えるのはアマフウだけなんです」

その言葉に紫揺以外の全員が納得するように、そしてそれと反対に反駁(はんばく)する言葉を喉の奥にのみ込んだ。
ムロイの言いように何も言い返せないのだから。 それはある意味受け入れがたい思いだったが、今はそのことを口にしたくない。 自分に力が足りないと言われるだけなのだから。
いつもなら何か言うセイハも黙っている。 その中でトウオウが口を開いた。

「ああ、出来てもセッカがヒオオカミを焼くことくらいしか出来ないからな。 焼かれている間にきっと暴れるだろうし、その間に何がどうなるのか分からないからな。 それにセイハも青の瞳を持っているけど、アマフウみたいに切るような風を起こせないしな」

言われたセイハが口を歪める。

「そうね、私はそんなことには関係がないわ。 ヒオオカミの目に土を飛ばせるくらい。 せいぜい、自分の身を守るくらいかしらね」
黄の瞳で土を操るキノラが悔しがる様子もなく言ってのける。

「ま・・・待ってください。 それって、切るって・・・」
ここに来るまでに切られた木のことが頭をよぎる。

「ああ、アマフウは気に入らなければすぐに切るんだよ。 まぁ、切るならマシかな。 落雷を落とすこともあるからな。 そうだな、どちらかと言えばヒオオカミが現れれば、その身を二つに切るだろうな」

「・・・それって、以前に何かに・・・生き物にしたことがあるんですか?」
あまりの怖さに絶対にアマフウを見て問うことが出来ない。

「生き物? 生き物だったら、えっと・・・アマフウ、今までに何を切ったっけ? たしか、気に入らなかった馬と、山から下りてきた野犬と・・・」

「あ!・・・いいです。 聞かなくていいです」 今にも吐きそうになった。

「ちょっと、トウオウ、気に入らなかった馬じゃないでしょ!」

(だから、言ってくれなくっていいってば・・・) またしても胃液が上がってきそうだ。

「あれ? そうじゃなかったっけ?」 ワザとらしくシラをきるように言う。

「違うわよ!」

「もう止めてくださらない? 切るとか切らないとか、聞いていて気分が悪くなるわ。 あなた達の言い合いは、あなた達二人だけでいる時にして下さらないかしら」
ウンザリした顔を二人に向けるセッカ。

トウオウの話からこれ以上何も聞きたくないと、自分の手の中にある椀を見た。 豆乳鍋なのだろうかと、白い出汁に入った椀をじっと見ていた紫揺。 肉は入っていなさそうだが、鍋の中には肉らしきものが見える。 きっと紫揺が来る前にムロイから、紫揺の椀には肉を入れないように言われていたのだろう。

「シユラ、安心していいよ。 その肉はヒトウカでもヒオオカミのものでもないから」

「ヒ! ヒオオカミ!?」

「まぁ、セイハったら、シユラ様をからかうんじゃないありませんことよ。 シユラ様、鍋の中の肉は山鳥の肉ですから安心してくださいませ。 鳥なら大丈夫でしょ? 肉を入れましょうか?」

会話を聞いていた女が部屋の端で腰を上げかける。

「いいです。 これで、これで十分です」
セッカに向かって言うと、次に腰を上げかけている女の方を向き軽く首を振った。

鳥であろうがなんであろうが、切る切らないの話を聞かされては肉を食べる気になどなれない。
アマフウが根菜を口に入れながら、紫揺を見るともなしに目の端に映している。


「シユラ、一緒にお風呂に入ろうよ」


食事を終えた後、それぞれが近くに立つ草葺屋根に散った。 紫揺が案内された草葺屋根の家は戸を開けるとその幅分の土間があり、右には上がり框がある。 角灯に火がともされ薄暗い中に囲炉裏のある板間、その奥には4畳ほどの畳敷きの部屋があり、そこには布団が敷かれ火鉢も置いてあった。 

案内したムロイが言うには、全員同じような造りの家に散ったということであった。
囲炉裏には火が点いていて、赤々とした炭の入った火鉢もある。 この家の戸を開けた時に女が一人居てすれ違いに出て行ったが、きっと火の番をしていたのだろう、と想像できる。 外を歩いて来た紫揺にとっては十分に温められている家。 きっと長い間、囲炉裏に火が点いていたのであろう。 

囲炉裏の中の隅に置いてある十能を指さし、寝る前には囲炉裏の火に灰をかけるようにと、言い残したムロイが去って一人残された。 板間に上がると囲炉裏に手と足を当てながら、今日一日を振り返った。
セイハが手の動きで竜巻みたいに水を操ったり、石を粉々にして飛ばしたり、風で炎を消したり。 そしてアマフウが、木を切ったり・・・。

「私の頭がおかしいのかな・・・」 それとも、と考える。

「頭を切り替えればいいのかな・・・」

まるで本や映画の世界のように、不思議な所に迷い込んだと思えばいいのかな、そこの住人があの5人だと考えればいいのかな。 そしてその5人を統率しているのがムロイなのかな。 と。

ムロイが言っていた 『お前たちの力と領土の人間の力は違うんだ。 お前たちが当たり前に思っている力は領土の人間にとって思いもしない力だと思え』 と。 だから、あの5人だけにしか備わらない力なのだろう。

・・・それでも疑問が残る。 セイハが言った自分のしたことを見ていた紫揺にそれと同じことをやってみるといいと。 それに 『シユラなら、沢の水でも消せるのにな』 と。
それはどう意味なのだろうか。 いや、言っている言葉の意味は分かる。
それにセイハもみんなもアマフウの袂を燃やしたのは自分だという。
もしかしてここも頭を切り替えればいいのだろうか。 自分がアマフウの袂を燃やしたと認めれば、話が早い。 話がつく。

「いや、つくわけないし」
自分の頭の中に突っ込みを入れ、違うことを考える。

ムロイの言葉からすると、お婆様がここに来るはずだったと言う。 でもそれは全否定できる。 お婆様と会ったことはないけれど、母親から聞いていたお婆様の話からすると、絶対にここではなかったはず。 花を愛で、虫や生き物を愛したお婆様。 あんな荒涼とした地にお婆様の愛でるものはないはず。

「・・・って、まだその季節じゃないのかなぁ? それとも領土の中心と言われるところに行けば何か変わるのかなぁ?」
そう思いはするが、これからどんどん寒くなると言われた。 と言うことは、花がどれほど愛でられるのか。

「・・・私の知らない花があるのかな。 寒い時に咲く花とか・・・」 頭が混乱してきた。

そんな時に、戸を開けセイハが入ってきたのだった。


「お風呂? お風呂があるんですか?」

「うん、絶好のお風呂。 星を見ながら入れるよ」

頭をスッキリとさせたい。 それに土臭い、これを洗い流したい。

セイハと共に寒い中を少し歩くと、草葺の家々からは垣根のように木で遮断されたその先に湯気が見える。 垣根を回り込むと、4隅の柱に角灯が下げられ、その中央には淵に岩がありその中で暖かそうな湯がホワホワと湯気を立てている。 

「え? 露天風呂?」

「最初は冷えた身体には熱いかもしれないけど、慣れてくると丁度いい温度なんだ。 ほら、あそこの小屋で服を脱いで入れるから」

指さされた小屋は木で作られた簡素な小屋であった。 そしてセイハから手拭いを渡された。

「ここにはタオルなんてものはないからね。 勿論バスタオルも。 シユラ、手拭いを知ってる?」

「・・・写真とかで見たことがあるような。 でも使ったことはありません」
あまり水を吸わなさそうだなと、手渡された手拭いをマジマジと見る。

「タオルと同じように使えばいいから。 ほら、寒いけど小屋に入って服を脱いで、身体の芯から温まろ」

使い慣れない手拭いを持つと、セイハと共に服を脱ぎ風呂に入った。
確かにセイハの言うように、最初は足先を入れただけで、熱湯に足を入れたのかと思うほど熱かったが、それでなくても身体中が寒くてならない、少々足先が熱くても身体を湯につけたいと思うのは当前だ。 ジンと足先のその熱さが我慢できるほどに変わってくると、すぐさまドボンと湯に浸かった。

「熱っつい・・・」 身体を丸くして両手に抱え込む。

「ふふ、最初だけよ」

確かにセイハの言った通り、身体が慣れてくるとその暖かさが肌に肉に骨に沁みる。

「ふわぁ~、あったかい」 丸めていた身体を伸ばすとセイハに目を向けた。

「でしょ? ゆっくり浸かって、身体の芯から温めるのよ」 慣れない紫揺と違ってすぐに湯に浸かっていたセイハが言う。

「他の人たちは?」
アマフウが来るのだろうかという心配があったからだ。

「みんなサッサと入って上がっていったよ。 もう寝てるんじゃないかな? 結構今日のことは疲れたからね」

「あ・・・ごめんなさい。 セイハさんは私に付き合ってくれたんですね・・・」

「え? そんなことないよ。 私も用事を済ませてから入りに来たんだから。 ムロイって男でしょ? きっとお風呂の事とか、女性の気にすることをシユラに言わなかったんじゃないかな? って思って誘っただけなんだから」

セイハの身体が温まってきたのだろう、腕を軽く上げ反対の手でさすっている。 今日のセイハを見ていて、腕が疲れたのだろうと察することが出来る。

「そうなんだ。 誘ってもらって嬉しい。 とっても気持ちいいです」

紫揺の笑顔にセイハが笑みで応える。

「ここって、温泉ですか?」

「そっ、今は暗くて見えないけど、あっちに火山があるの。 そこからの湯」

指さされた方向には、瞬く星の明かりで黒く山影が見える。

「火山?」

「うん。 ほら、今日ムロイが言ってたでしょ? 進み続けると冷えているはずの地があるはずなのに、炎が上がっているというのはおかしいって。 その炎の大元があの火山なんじゃないかな」

「えっと・・・火山があるから温泉がある、それは分かります。 でも、全く分からないんですけど、火山って噴火するから炎を吐いて溶岩が流れるんじゃないんですか? 噴火した風には思えなかったんですけど」
実際、火山噴火をしていれば、こんなに悠長に温泉に浸かっていられないだろう。

「そうなのよね。 そこのところが分からないの。 突然、地から火が噴いてるんだもん。 まっ、そんなに大した火じゃなかったみたいだけどね。 ほら、シユラもやってみればいいって言った火があったでしょ? あれくらいだったみたいよ。 リスの尻尾くらいの火」

「リスの尻尾?!」
あまりの例えの可笑しさに、哄笑を上げた。

「え? そんなに笑う?」 眉を顰め頭を傾げる。

言われた紫揺はまだ腹を抱えている。

「ね、それよりアマフウと何か話したの?」

「え?」
いつまでも笑っていては失礼だと思い、ゴホゴホと笑いを抑える。

「馬車の中で」

「・・・無言でした」 笑いを抑えるために一つ息を飲んでから答えた。

そして吐きそうになった時の事と、吐いたあとのことは言わないでおこう、と考えた。

「有り得ない。 アマフウが無言? 信じられないんだけど?」

「私と喋るのが嫌みたいです」

「はっ? 嫌だったらそれなりに嫌味を言うはずなんだけどな。 それに何もなかったの?」

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虚空の辰刻(とき)  第34回

2019年04月12日 23時04分42秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第34回



数刻前まで阿秀(あしゅう)が呆然としていた。 

領主に報告し終わった塔弥から連絡が入った。 紫揺が北の領土に入ったという連絡が。
塔弥は独唱から聞いた紫揺の話を、阿秀にすぐ連絡することが出来なかった。 
一番に領主に報告に行くと、ずっと領主が頭を垂れてしまっていたからだった。

最初は、紫揺が北の領土に入ったかもしれないということだったが、塔弥が独唱を追って東の領土に入ると、それが疑いの無いことだと分かった。
勿論、塔弥においてもそうだった。 独唱から聞かされた時、呆然としすぐに領主の元に行けなかったのだから。

領主が頭を垂れている間に阿秀に連絡などできない。 ただただ、領主が頭を上げるのを待っていた。

遅れて連絡を受けた阿秀もまた、すぐには次のことを考えられなかった。 長い間スマホを握ったままその腕をテーブルに置いているだけだった。 ドアのチャイムが鳴ったことでやっと我に返った。

入ってきたのは野夜だった。 阿秀に言われていた調べを終わって報告にやって来た。

「阿秀? どうかしました?」 阿秀の様子がおかしい。

「・・・野夜か」

「顔色が優れませんが?」 

「ああ。 塔弥から連絡があった」

「・・・まさか?」 グッと肝に力が入る。

「・・・紫さまが北に入られた・・・」

野夜もまた言葉にならなかった。
その野夜を横目に三々五々散らばっていた者たちに、一斉送信のメールを打ち始めた。



馬車が止まった。

紫揺は知らないが、御者が戸を開けた途端、紫揺が吐き戻しに出たとき、アマフウが御者に言ったことがある。

『アノコが吐き終えるまで待ってから出発して。 さっさと戸を閉めてちょうだい。 寒いったらないわ。 ああ・・・それと―――』

慌てていた御者が戸を閉めかけた時 『ああ・・・それと―――』 と、アマフウの言葉が続き、手を止めた。

『―――それと、今度アノコが帰ってきたら常歩(なみあし)にして。 ああ、常歩より遅いぐらいでもいいつもりで時々休みを入れてちょうだい』

紫揺が思っていた腰への振動が和らいだのは、自分が姿勢を正したのだというのは、全てとは言わないが勘違いであった。 紫揺は背中の筋肉を緊張させ座っている。 筋肉を緊張させているから、腰への衝撃が随分とマシになった気がしていたのだが、それだけではなかった。 アマフウの気遣いと言っていいのだろうか、だがアマフウは紫揺が腰の痛みを持っていることを知らないし、単に吐かれては困ると思ったのだけかもしれない。
でもそれが大きかったから、腰への衝撃が和らいだのだった。 だが、紫揺はそれを知る由もなかった。

アマフウに言われ、御者が驚き頷いて戸を閉めた。 あの少女に気遣っている言葉なのだと思った。 あの見たこともない衣を着ている少女はいったい誰なのだろう。 このアマフウが気遣う相手など今まで居なかったのに。
そのくせ、あの少女がナカナカ馬車に戻ってこないとなると、いつものアマフウが出る。 御者は御者台で馬を操りながらずっと考えていたが、その答えに到達する前に今日の目的地に着いてしまった。

御者台から足元台を持ち下に置くと、荷台の戸を開けた。

開けられた戸の向こうは既に陽が傾きかけていた。 あと数分で陽の光が山の向こうへと消えるであろう。

御者がすぐにアマフウの顔色を見て心なしホッとした。 粗相はなかったようだ。 そしてすぐに紫揺を見た。

「何をしているの?」

まるでアマフウの声が天から降ってきたように御者に降った。 アマフウは自分が見られていないことに気付いたようだった。
慌てて御者が首を振り、頭を下げるとアマフウが降りるのをじっと待った。 荷台からアマフウが足元台に足を下しそのまま降りると、続いて紫揺が降りてくる。
見たこともない衣を着た少女が降りたのを目にすると、そっと戸を閉め閂をかけた。 そして足元台を持つと、そのまま厩の方に馬とともに消えていった。

馬車が去っていくのを見ながらキョロキョロと辺りを見ると、あちらこちらに草葺屋根の家が見える。 井戸や窯、畑なども見渡せる。 遠くに最初に見た3方の山とは違う山の影も見える。 もう暗くなるからであろうか、人の姿は見えない。

アマフウが紫揺に振り返ることなく、目の前にある草葺屋根の家に向かって歩き出している。 その家の周りには、いくらも離れず数件の草葺屋根の家と木々がある。 アマフウが向かった家には人心地があるように見える。 きっとムロイと他の4人が既にここに来ているのだろう、そう思いながらアマフウの後を紫揺が追う。
そして間違いなく、そこにはムロイと4人が囲炉裏を囲んでいた。 昼間と同じように囲炉裏には鍋が掛けられてある。

「アマフウ! 遅い!」 入ってきたアマフウに一噛みしたのはセイハだった。

「は? セイハがコノコの子守をしなくちゃいけなかったのよね。 それをコッチに振られて迷惑この上ないわ! どれだけ辛気臭い道のりだったと思うのよ!」

「セイハ黙っていろ。 アマフウ、取り敢えず座れ」 目でも座るように促すと続けて言った。

「ヒオオカミは出なかったか?」 

「出なかったわよ!」

「ヒトウカもか?」

「ええ!」

その会話に紫揺がゴクリと唾をのむ。 自分が見たヒトウカ。 そのヒトウカにアマフウは気付かなかったのだと。
アマフウがトウオウの横に座るのを見ると、次に紫揺を見て少し顔色を変えているのにムロイが気付いた。

「シユラ様はこちらに。 ・・・何かありましたか?」 自分の横にある円座に座るよう促した。

他の者はもう食事がすんでいたのであろう、椀も皿も何もなかったが、今回も板間の隅に座っていた女が、囲炉裏にかけられた鍋から二人の椀に野菜一杯の具材を入れると、紫揺とアマフウの前に置いた。 そして今回は大皿にナンのような物は置かれていなく、白飯が目の前に置かれた。

「・・・いえ、なにも」
言った途端、アマフウに吐いたことを言われると思った。 が、アマフウの口からは何も出なかった。
茶碗にのせられた箸を持つと、少しずつ数刻前まで踊っていた胃の中に入れる。

「そっちは何か出たの?」 アマフウがムロイに問い返す。

「ヒトウカもヒオオカミも出なかった」

「乱れは?」

「そこここにあった。 だが全て抑えることが出来た」

「あれくらい抑えるまでもないだろう」 トウオウが言う。

「お前たちの力と領土の人間の力は違うんだ。 お前たちが当たり前に思っている力は領土の人間にとって思いもしない力だと思え」

「それくらい分かってるよ。 で? アマフウとシユラ様は何をしてたんだ? オレ達が小さな乱れにクッソ忙しくしていた間?」 少々イヤミったらしく言う。

「馬車に乗ってただけよ。 それより、なに? そんなに数が多かったの?」 

紫揺が吐いたことがまるで無かった事のように言うアマフウを一瞬見た。 だが、アマフウは全くこちらを見る気配がない。 自分が吐いたことなどは、アマフウの眼中にないのかと、ある意味ホッとしかけたが、これって弱みを握られたということなのだろうか、と心の中で二つの想いが錯綜する。

「ああ、洪水でも起こして止めたかったぐらい。 それなのにムロイがそれを許さないから、こっちはチマチマと動いて疲れたこの上ない」 これ見よがしに自分の肩を揉む。

「何を言ってるんだ、洪水なんて起こしたら余計ひどくなっただろ。 でもお前たちには悪かったが、ヒオオカミの動きを見たかったからな」

ヒオオカミという言葉に全員が無言になる。

「あの・・・?」 少しの間を見て紫揺がムロイを見た。

「はい?」

「ここが領土の中心なんですか?」

「ここからまだ先に行ったところが中心になります。 今日はもう陽が落ちましたからここで寝ますが、順当に行けば明後日には着くでしょう」

「そうなんですか・・・」
どれだけ行けば領土の中心と言われるところに行けるのだろうか。 明日も馬車に乗って吐かなければいけないのだろうか。 それに今もまだある腰痛にも。

「どうされました?」

アマフウが冷えた目線で見るとはなしに紫揺を斜交いに見る。 そのアマフウを同じように斜交いに見ているトウオウ。

「いえ、何でもないです。 ・・・あの」

「はい?」

「ヒオオカミはそんなに悪い狼なんですか?」

紫揺の質問に全員が呆気にとられ、紫揺からしてみれば意味の分からない暫くの沈黙があった。

(あれ? 変なことを言ったのかな?)

一番に口を開いたのは勿論ムロイであった。

「悪い悪くないではありません。 私たち人間にとって一番畏れる獣です。 先程お話しましたが、ヒオオカミはヒトウカを見るとすぐに牙を立てます。 それはヒトウカがヒオオカミの好物だからと聞いています。 でもヒオオカミは好物だけ・・・食するものだけに牙を立てるのではありません。 ヒオオカミがヒトウカの次に牙を立てるのは私たちにです。 私たち人間に」

「人間を食べるんですか?」 胃の中の白米が今にも飛び出しそうだ。

「食べません。 人間のことを玩具だと思っています」

「玩具って・・・オモチャ? 人をオモチャだと思っているんですか?」

「はい」

「待ってください、それならさっきの家でムロイさんが言ったことはおかしいです。 ヒトウカの天敵であるヒオオカミが減ってきたのかもしれないって言ってたじゃないですか? それなら、人が襲われることが無くていいんじゃないんですか?」

「それは勿論その通りです。 ですが、ヒオオカミの数が少なくなるとヒトウカが増える。 領土が止まることを知らずどんどん冷えていくんです。 ヒオオカミが増えるのもヒトウカが増えるのも領土としてどちらも困るんです。 ヒトウカが人里に下りてこなければヒオオカミも下りてこない。 ヒオオカミもまずは食ですから」

ムロイの話すヒオオカミの話は、まだ全て話し切っていないことがある。 それは今の紫揺にはまだ言うべきではないのかと5人が暗黙に了解した。

「それっていうのは・・・ヒオオカミが人をオモチャにするっていうことを知っているっていうことは、今までにヒオオカミが人里に下りてきたことがあるんですか?」

「ええ。 私の生きている間にはありませんでしたが、過去にはあったそうです。 そのときにヒオオカミが人間を・・・。 ですから、ヒオオカミを人里におろしてはならないんです。 山の中でヒトウカとヒオオカミがそれぞれ弱肉強食でやっていってくれればそれで治まる話なんです」

ムロイは言わなかったが、ヒオオカミが人を噛んだという祖父から聞いたその過去の話は、領土の中であちこちに乱れが生じたときでもあったらしい。
祖父さえも又聞きだったらしいが、それが前兆ではなかったのかと、後になって気付いたという。

今まさにこの領土で乱れが生じている。 領土を見た今になってショウワが言っていたことが身にしみてわかった。

『領主の責に置いてお前の目で見に行くがいい』 その言葉を思い出していた。


ヒオオカミが人をオモチャにする。 紫揺にとってその言葉は衝撃的であった。

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虚空の辰刻(とき)  第33回

2019年04月08日 21時29分45秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第33回



それにしても馬車とはなんて胃が踊る乗り物なのだろうか。 それに腰椎にも大きな衝撃がくる。 乗り出してすぐから、高校時代の部活で痛めた腰椎が馬車の車輪からの振動を受けきれずにグズグズ言い出したが、それに気を使うことをしなかった。 そしてやっと気づいたのが遅すぎた。

(しまったー、もっと腰に注意をしなくちゃいけなかった・・・。 腰・・・イタ) 

気付いた時すぐに注意を向けていれば、こんなに脱力して座ることをしなかっただろう。 筋肉を緊張させ、腰椎に負担をかけるような座り方をしなかっただろうが、何を言っても後の祭り。 腰椎の痛さは段々と増してくる。
その上、胃が踊るどころか今は馬車に乗る前に食べた物が胃の中で大回転を起こしている。 馬車というものはどうしてタイヤではないのか。 車のタイヤとまでは言わないが、せめて自転車のように中にチューブが入っていて振動をやわらげてくれたらいいのに、などと考えていたが、そろそろ限界だ。

「・・・あの」

「・・・」
紫揺の言葉に斜交いに座り、片肘をついているアマフウが無視を決め込む。

「・・・吐きそうなんですけど」

その一言でアマフウが顔色を変えた。 片肘をついてその上に置いていた顔を紫揺に向ける。

「は!?」

「・・・あと少しで出そうです」
口に上がってきたものを呑み込む。

「バッ! バッカじゃない!?」

「・・・すいません」 

何と言われようと、どんな罵声を浴びせられようと自分が悪いのは分かっている。 吐くなんて・・・。 それに腰が痛いのも自分の不注意なのだし。 まぁ、それはアマフウには関係のない話なのだが・・・。 それでも素直に謝るしか出来ない。

アマフウが御所台にある小窓を開け、すぐに馬を止めるように言うと、何を言われるのかと顔色を青く変えた御者が馬を止め、すぐに荷台の閂を外し戸を開けた。 途端、紫揺が外に飛び出した。

御者が紫揺を振り返ることなく、アマフウを青ざめた目で見て、どうしていいのか分からず戸を開けたままにしている。
その様子にうんざりしたアマフウが片肘をつきながら静かに言った。

「アノコが吐き終えるまで待ってから出して。 さっさと戸を閉めてちょうだい。 寒いったらないわ。 ああ・・・それと―――」

何か粗相をしてしまったのかと青ざめていた御者が、聞き終えてから上がっていた肩を落としてそっと戸を閉め、いつ何時何を言われるか聞こえるように、戸に耳を張り付かせた。

「どうして私がこんな目にあわなくちゃいけないのよ」
馬車の中ではアマフウが一人毒ずいている。

馬車を飛び出た紫揺。 すぐに目に入った木の元に走っていき、先程食べた物を全部吐いた。 吐くことによって多少胃は軽くはなったが、口の中にイヤな味が残る。 どこかに水道があるわけでもない。 仕方なくその味を受け入れるしかない。

「気持ちワル・・・」

まるで水道のない西部劇の荒野にでも来た気分だ、と頭で考えた時に、そうだ、ここは辺境の地だったんだ。 似たようなものか・・・と納得せざるをえなかった。

(やっぱり来るんじゃなかった・・・) 
ジワリと目が潤む。 自分は何て馬鹿なことを考えていたんだろう。 自分が何事も完ぺきに考えられる人間だと思ってはいなかったが、これほど浅はかだとは思わなかった。 と、その反対に浅はかとか以前に、これって異常な話じゃない? 誰も思いつかないでしょう? と、今度は屈みながら腰の痛みと戦った。

(イタ・・・。 立てるかな)
目をギュッとつむり、腰をさすりながら自問する。

馬車の中ではアマフウがイライラしながら指を動かしている。 無理に馬車に入れと言えば、この空間でまだ残っているものを吐かれることになるかもしれない。 その臭いを想像しただけで自分が吐きそうになる。 紫揺を待つしかない。 そうは思うが、イライラと指を動かすのを止めることが出来ない。
下を向いていた紫揺が腰に手を当てながら立とうと決心した時、綺麗な輝きを持ったナニカが目の端に映った。

「え?」 頭を上げる。

それは数刻前に見たナニカだった。

「ヒトウカ・・・」
5メートルほど離れた木の端に立っていた。
ヒトウカはじっと紫揺を見ている。

「小さい?」
仔共のヒトウカだろうか。 それなら親がどこかにいるはず。 周りを見るがそれらしい輝きが見られない。

「・・・ヒトウカ、ここに居ちゃいけないでしょ? お母さんは?」 

紫揺にとって信用できないアマフウが気付いたら何をするか分からない。 特に今は自分がアマフウを苛立たせているのは分かっている。
痛みを抑えて立ち上がり、ヒトウカと向き合う。

「あなたがここに居るとヒオオカミも居るかもしれないの。 ね、危ないの。 お母さんの所に帰ろう」

ヒトウカの身体は微塵も動かず、ずっと紫揺を見ている。 ただ紫揺の言葉に耳を傾けようとしているのか、その耳だけはピクピクと動いている。

いつまで経っても戻ってこない紫揺に、とうとう堪忍袋の緒が切れたアマフウが小窓を開け、辺りを見た。 だが小窓は顔を出して見るには小さすぎた。 まったくどこに紫揺が居るか分からない。
だから、その小窓から手を出して青の強膜の力で風を送った。 それは全く優しい風ではない。 カマイタチが起こすような、刃物のような、今では斧のようだった。 一本の細めの木の幹がスパンと切れ、先の枯れた枝が近くの木にぶつかりながら、幹が音を立てて倒れていく。
驚いた紫揺が振り返ると、木が倒れていくのが目に入った。 同時にアマフウの怒りの声が耳に入る。

「アナタ! いい加減にしなさいよ! これ以上待たせるとアナタもあの木のようにしてやるから!」

御者が驚いて自分の身を隠すように戸に張り付く。
アマフウが怒っているのが明らかに分かる。 というか、アマフウの力を初めて目にした。

『まだアナタが出来ないことを私がするまで』 あの時、アマフウとセキに初めて出会った時、セキに対してアマフウがしようとしていたのがこのことなのだろうか。 何をどうすればそんなことが出来るのだろうか。 何も分からないが、とにかくアマフウを怒らせると、とんでもないことがあるのだと分かった。

すぐに振り返ってヒトウカを見た。 が、先程まで居たヒトウカがそこに居なかった。

(良かった、お母さんの所に帰ったんだ)
腰の痛みを思い出しさすりながら、これ以上アマフウを怒らせることのないように、腰に負担を掛けないよう、馬車に向かって歩き出した。

揺れる馬車の中、これ以上腰の痛みがこないように背中の筋肉を緊張させ座っている。 筋肉を緊張させているからなのだろうか、腰への衝撃が随分とマシになった気がする。
胃の方は、吐く物はもう何もないと言えど、胃液が時々上がってくる。 その度に苦し気に口を動かす。 決してアマフウがずっと紫揺を見ているわけではなかったが、その様子は空気感で分かる。 紫揺が口を動かす度にアマフウの眉間の皺が増えていく。
いつアマフウに怒られるだろうかと思いながらも、気を紛らわすために少し前から小さく開いた小窓の外を眺めていた。

「そろそろ窓を閉めなさい」 突如馬車の中にアマフウの声が響いた。

「え?」

「まだ吐くのなら別だけど、治まってきたのなら窓を閉めなさい。 もう少し温度が下がってくるんだから」

「え? まだ寒くなるんですか?」
シマッタ、また敬語を使ってしまったと後悔したが、確かに今は自分が迷惑をかけている自覚がある。 無理に言葉で逆らうこともないか、と自然の流れに任せることにする。

「いま私の言ったことが聞こえなかったの?」 冷たい視線を紫揺に流す。

怒られる、と咄嗟に思いそれ以上何も言わず、すぐに小窓を閉めた。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。 腕時計はつけてこなかった。 馬車の中に時計があるわけでもないし、アマフウが腕時計をしているのかどうかも分からない。 それに腕時計をしているのか、あとどれくらいで着くのかなどと訊く勇気もない。

気の落ち着けることが出来ない相手と密閉空間。 ましてや斜交いと言えど、向かい合って座っている。 明り取りがあるとはいえ、決して大きくはない。 薄暗い中ではたったの1分が10分にも1時間にも感じる。 その重苦しさから空っぽになっている胃がキリキリと痛み出してくるようだ。 

何か他のことを考えないと、起きかけているこの痛みを完全に胃というベッドから起こしてしまいそうだ。 そう、何か他のことを、楽しいことを・・・。 思った時すぐに1人と1匹が頭に浮かんだ。

(セキちゃんとガザン、今日もお散歩してるかな・・・) 今日も一緒に散歩をしたかった。

(セキちゃんが最初にガザンに私のことを言ってくれたおかげでガザンが懐いてくれた)
とは言っても、まだまだセキが居ない所でガザンと向き合う勇気はない。 ガザンが舐めてくれたのは嬉しかったし、きっと心を開いてくれたんだと思う。 それでも何故勇気がないか。 きっと自分の心の中に引っかかる所があるから。 1人と1匹を利用しようとしているからだ。

(屋敷に帰ったら、ちゃんとセキちゃんとガザンに話さなくちゃ。 協力してくれる? って。 でも、セキちゃんが嫌だって言ったら・・・ガザンが私の計画通り動いてくれなかったら・・・)
瞑った瞼の裏にガザンの姿が浮かぶ。 寒い中でも陽の光の中で伏せをして、ゆっくりと日光浴を楽しんでいる姿が。


「あれ? どうしたの? ガザン?」

今日は5人が居ない。 ガザンを洗濯場まで連れて来ている。 
セキが物干し竿にシーツを干し、次を取りに行こうとガザンの横を通り過ぎようとした時、それまで大人しく伏せをしていたガザンが急に立ち上がり、どこか遠くを見だした。 だが、その目線の先はいつもの屋敷の敷地の中。 ただいつもと違うのは、今日は使用人と呼ばれている人間が堂々と行き来しているのが見えるだけだ。 
木の選定をしたり、回廊の掃除を念入りにしたり、馬場の柵を付け替えていたり、テニスコートでは枯葉一枚残さないように念入りに掃除をしている。

「ガザン? どこを見てるの?」 

あちらこちらの人の動きを見ているのだろうか、その先にガザンの気に食わない人でもいるのだろうかと、ガザンの目線に合わせて視線の先を追うが、特に誰も見えるわけではない。 強いて言えば、その先に紫揺と歩いたお散歩の道があるだけだ。

「ガザン・・・もしかしてシユラ様がいらっしゃらないから寂しいの? 今日は一緒にお散歩できなかったものね。 ・・・でもね、領土に行かれたの。 あと何日でここに帰ってこられるか分からないの。 シユラ様とは少しの間お散歩できないよ」

開け放たれていたドアからセキの母親が顔を出した。

「セキ、何をしてるの? 早く洗濯物を干してちょうだい」

今日は帰ってこないだろうが、それでも気が変わっていつ帰ってくるか分からないムロイと紫揺、そして5人のシーツを全て一気に引っぱがし、朝から洗濯をしていた。

「うん」 ドアに振り向き返事をすると 「ちゃんとシユラ様は帰ってこられるからね」 ガザンに一言残して中に入って行った。

今日の屋敷は中も外も使用人がアチラコチラに見える。 5人が居ないからである。 5人のいない内に、いつも目に映らないように、隠れながらしていたやりにくい掃除や洗濯を堂々としているからであった。

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虚空の辰刻(とき)  第32回

2019年04月06日 10時49分46秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第32回



セイハがヒトウカのことを話し始めた。 その話しを受けて今度はセッカがそこここで小さな爆発があり炎が上がっていたことを話し始めた。 セッカの言葉をついで、キノラが、だがそれは麓だけであって、山の奥には無かったという。

セッカとキノラの報告を聞いて意味はよく分からないが、両手に持った椀に入れられた具材を見ながら、炎が上がっていれば、ヒトウカで土地が冷えるなんてことはないんじゃないのだろうか、と思いながら目は椀に、耳はこれからの話に傾けている。

「・・・乱れか」
そう言うと持っていた椀と箸を置き、後ろに手をつくと大きく息を吐いた。

ムロイはセッカと行動を共にし、火のことは知っていたがヒトウカのことは知らなかった。
領土に来た時、あの場所に湿気があったのをおかしく思った。 それにいつもより温度も低かった。 あの場所は吐息も見えないはずだった。 ヒトウカの仕業だったのかと納得が出来た。

「乱れ?」 セッカが言う。

「ああ。 あの辺りにはヒトウカは現れないはずだ。 我が領土で一番暖かいのだからな。 それは分かっているだろう」

セッカのみならず、紫揺を除く全員がコクリと頷く。

「単に繁殖が過ぎたくらいで、あそこにヒトウカが現れるというのはおかしな話だ。 いくら増えてもあそこにだけは来ないはずだ。 それに、いるはずのない所にヒトウカが現れて地を冷やし、進み続けると冷えているはずの地があるはずなのに、炎が上がっているというのはおかしい。 そこの地が温められてきているということになるのだからな」

「それで乱れてるって言うの?」 セイハが言う。

「ああ。 寒暖の場所がおかしくなってきている」
何故なんだといわんばかりに、後ろについていた手を顔に押し付け何度もさする。

「オレ達が領土を空けすぎたからなのか?」
オレ達という複数形を本当ならムロイ、というたった一人の名詞に当てはめたかったが、さすがに今は非常識になるだろうと思い、敢えてオレ達といった。

「それも一因かもしれない。 もっとこまめに手を入れていれば、どうにかなっていたのかもしれないが、それも今更だ。 それに他にも何か原因があるのかもしれない。 だが、なににしてもこれからのことを考えなければいけない」
顔をさする手を止め、足の上にダラリと手を投げ出す。

「それって、このまま暫く領土にいるってことになるの?」
箸を止めて聞いたアマフウの言葉にキノラがピクリと眉を動かす。

「そんなことになったら私は嫌よ。 屋敷に帰ります。 大体、今回のことに私はあまり必要ないでしょ? 大きく爆発があったわけじゃないんだから」
黄色の瞳で土を操ることが出来るが、それは今回あまり役に立たないと言っている。

「えー? それってなにー? 一人で一抜けしようって魂胆?」 セイハが声高に言う。

「アマフウさっきまで壊したいって言ってたのに、領土に居るのがいやなのか? 屋敷に帰ったら破壊なんて出来ないぞ」

「もう破壊は充分して気が済んだわ。 トウオウは居たければここに残るといい。 でも私は残らないからね」

たしかに。 沢の水がその道筋からはみ出して、まるで池のようになってなっている所が、ここに来るまでにかなりあった。 その度に小さな雷を落として地を割り、溢れていた水を地の中に入れてきた。 そんな手荒なことをしなくてもいいのだが、気が済むまで散々アチコチを破壊してきた。 小さな雷と寂しい話だったが、数をこなせば大きな一つとなる。 気は済んだようだった。

「あーら、トウオウも嫌われたものだわね。 ・・・あら? シユラ様お食べにならないんですの?」
じっと椀を見つめていた紫揺の椀をセッカが覗き込んだ。

「ちょっと前に動くヒトウカを見たばっかりだもんね。 そのお肉って言われて食べられるはずないっか・・・」

アマフウの眉が僅かに動いた。

「おい、セイハ。 誰もヒトウカの肉だとは言っていない」
セイハへ一瞥を送ると紫揺に言う。
「ご安心ください、ヒトウカの肉ではございません。 山鹿の肉です。 ヒトウカの肉などまず食べることなどありませんから」

先程からのムロイの取って付けたような話し方にセッカが鼻で笑う。

「・・・はい。 あの、でも・・・」 食べる気にはなれない。

「んじゃ、汁だけでも啜れば? 身体があったまるから。 それにほら、これなら食べられるでしょ?」

大皿に積まれていた小麦で出来たナンのような物を一つ取ると紫揺に手渡した。 煙突のある竈で焼いたものであろう。

「シユラ様、これからどんどん冷えます。 体調を壊しては屋敷に戻るに戻れなくなります。 おい、シユラ様に肉を抜いた椀を入れなおして、肉の入っていない何かを用意しろ」

板間の隅に座っていた女が慌てて新しい椀に汁と野菜だけを注ぎ紫揺に手渡したが、その手が緊張で震えている。 ムロイが紫揺を特別扱いしているのが分かったのだろう。 粗相があっては何をされるか分からないとでも思っているのだろうか、あの時のセキのように。 

その間に戸口に立っていた女がすぐに家を出て、走って帰って来るとまたもや震える手で皿を紫揺に差し出した。 皿にはチーズらしきものが乗っていた。 少し離れた所に建っていた草葺屋根の家から持ってきたのだろうと憶測がつく。
食べてみると形こそ違え、それは完全にチーズだった。 チーズとナンらしきもの、それは簡単に喉を通ったが、肉を抜かれた椀に入ったものを胃に入れようとすると、この汁の中にさっき見たヒトウカと同じような鹿の肉汁が入っているのかと思うだけで、一口を喉に送り込むのにむせそうになった。

食事を終えると暫くは空き時間となった。
何事かを考えているムロイの顔を横目に見ながら、勇気を出して訊いてみた。

「ムロイさん・・・ヒトウカはどうなるんですか?」

「ええ・・・。 少なくともあの場所に置いておくのは宜しくありません。 繁殖が過ぎたというのはセイハの憶測であって正しいかどうかはわかりませんし、まずはそこのところをハッキリさせていきませんと」

紫揺の頭が垂れる。

「それに、それだけでは終わりません。 例えばヒトウカに天敵がいなくなった、又は数が減ったことも考えられます。 そちらも考えなくてはなりません」

「ヒトウカの天敵?」

「ええ、分かりやすく言うとオオカミです」

「狼? 狼ってそんなに簡単に居ないんじゃないんですか?」

「ああ・・・オオカミの親戚と言った方が分かりやすいでしょうか」

「親戚?」

「ええ。 オオカミより随分と大きいです。 ここではヒオオカミと呼んでいます。 セイハから聞かれたと思いますが、ヒトウカは足の下したところに氷を張ります。 群れでいるとその群れの居る場所が氷で張られます。 そのオオカミの親戚は足の裏に氷に滑らない肉球と肉球の間に針のような毛を持っていると言い伝えられています。 氷を握り込むような立派な爪も。 ヒトウカに目を付けたなら喉元を一噛みで殺すとも」

「もしかして・・・その狼が今歩いて来たところにも居たんですか?」 想像しただけで恐怖が走る。

「もし、ヒオオカミが・・・いや、そんなことはない筈だ」 眉根を寄せて手を額に添える。

「もし、狼が? ・・・あ、じゃなくてヒオオカミが?」

「セイハの見たあの場所までヒトウカを追ってきたのなら・・・ヒオオカミに何かあったのかもしれません」

不思議だった。 いま紫揺の質問に対してムロイは的確に答えていない。 でもこうしてムロイと話すことにムシズが走らない、嫌悪感も覚えない。 それどころか、質問に答えて欲しいとも思わない。 ムロイの言うことに耳が傾けられる。 何故なんだろうか。

「ああ、すみません。 シユラ様の言う通りです。 もしかしてヒオオカミが居たかもしれません。 シユラ様を危険な目に遭わせてしまっていたかもしれません。 ですが、これからは・・・そうですね。 ・・・アマフウに馬車に乗ってもらいましょう。 万が一、ヒオオカミが現れてもアマフウならすぐにヒオオカミを遠ざけるでしょう」

(サイテイ・・・) アマフウと聞いて有無を言う間もなく心の中で呟いてしまった。

「アマフウ、分かったな」

アマフウを見て言うムロイに目を合わせることもなく知らぬ顔をしているが、充分に聞こえていただろう。

遠くで馬の嘶く声が聞こえた。

「おっ、来たな」
トウオウが一番に腰を上げると、筒ズボンを長靴(ちょうか)の中に入れた。

紫揺はてっきり皮で出来た暖かいハーフブーツかと思っていたが、それは長靴であったようだ。 続いてアマフウ以外の他の者も腰を上げ、同じ動作をしている。

ムロイが紫揺に、どうぞ、という具合に立ち上がり歩くことを促す。
皆の後をついて家を出るとそこには6頭の馬と、決してカボチャの馬車が変身したような立派な馬車ではない、それどころかカボチャの馬車の方が随分とマシだろうと思える2頭引きの、粗末な木で出来ただけの真四角の荷台が引かれている馬車があった。 御所台にはその身に沢山の布を巻き付けた見たこともない男が座っている。

アマフウと紫揺が馬車に乗り込んだ。 騎乗してもらえなかったアマフウの馬は、今連れてきた馬番の一人がそのまま騎乗し連れ帰ることになるようだ。

アマフウが何の文句も言わず馬車に乗り込んだことを不思議に思った紫揺だったが、よく考えると、破壊は充分にして気が済んだ、とさっき言っていたことを思い出した。

馬車の外ではムロイが他の者たちに声を掛けている。
「いいか、ヒオオカミが居るかもしれない。 くれぐれも辺りに注意しながらやっていくんだぞ」

領土の中心に行くまで、ここまで来たように乱れのある所を正していく。 それは馬に騎乗しながらなのか、下馬してなのかは紫揺の知るところではなかった。 アマフウは自分は関係ないといった具合に、荷台の中で片肘をついて馬車に落ち着いている。

馬の蹄の音が聞こえたと思うとすぐに馬車も走り出した。 アスファルトではないからだろう、ゴトンゴトンと左右に揺れる。

荷台は4人が乗れるくらいの広さだった。 荷台の枠に添って両横に二人が座れるほどの木で出来た簡素なベンチのような椅子があり、その上に敷物が敷かれているが、座布団のような分厚ささえない。 そして3辺に木で出来た小さな引き窓があった。 左右にしつらえられた座席の後ろに一つずつと、御者に何かを言う窓。 それぞれ窓の両横には明り取りがあった。
後ろには窓がなく、その代わりに外から閉められる閂(かんぬき)の付いた両開きの戸があるだけだった。

どれくらい走ったのだろうか。 アマフウに怒られないくらいに身体を捻じり、自分が座っている側の小窓をそっと開ける。 外の景色が流れていくのが見える。 だが、どれだけ見ていてもここに初めて来た時とさほど変わりない荒涼な風景が流れているだけ。 

ここはまだ辺境の地と呼ばれている場所なのだろうか、領土とはどれだけの広さなのだろうか、と頭を傾げる。

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虚空の辰刻(とき)  第31回

2019年04月01日 22時16分49秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第30回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第31回



「ここに居ちゃダメなんですか?」

「うん・・・。 ヒトウカは人の居ないところに住むはずなの」

「人の居ない所? でもムロイさんの話ではここは辺境の地でしょ? それならここに居てもおかしくないんじゃないですか?」

「うん、でもここら辺りは辺境って言っても、とても特別な場所なの。 ここにヒトウカが居るのはあり得ない。 現れるということは繁殖が過ぎていることかもしれない。 さっき言ったけど、ヒトウカの足をおろすところは冷えてくるの。 氷になるからね。 繁殖が過ぎたらそれが広がっているっていうこと」

「えっと・・・意味が分からない」

「単純に言うと、領土が冷えてきているっていうこと。 特にここは領土の中で一番暖かいところなんだから」

「え!? こんなに寒いのに?」
ポケットに入っていた軍手をしてはいたが、それでも寒い。 しっかりとポケットの中に手を入れていたけれど、顔の寒さはどうすることも出来なかった。

「うん。 信じられないだろうけど」

ここはとっても寒い、もう5月に入っているのに。 ここが北の最果てならこの時期にこの寒さであってもおかしくはないだろう。 でも屋敷でガザンの散歩をしている時には、ここまで寒くなかった。 屋敷から徒歩で此処に来たのだから、突如北の最果てに来たとは思えない。 

「領土が冷えるって・・・それがいけない事なんですか?」

「いけないこと? ・・・ハッ!」 言うと投げるようにセイハが笑った。

「シユラは北の事を何も知らない。 さすがに・・・」 言いかけてすぐに口を噤んだ。

「なに?」

「なんでもない。 シユラは何も知らないんだなって言いたかっただけ」 そう言い放つと 「アッ!」 っと声を撥ねた。

「シユラ、あそこで火がはねてる。 あれを抑えられる?」
嬉しそうに木々の間にたっている火に近づく。

「無理言わないでください」
眉を寄せてゲンナリした表情を作りあとに続く。
確かにさっきは挑戦するのも一つかと思ったが、実際に小さくはあるが火を見ると火傷をすることしか思い浮かばない。 

「シユラなら、沢の水でも消せるのにな。 ああ、それにあの火自体を抑えてもいいし、あのくらい小さいのなら土でも風でも―――」
セイハの言葉の途中に紫揺が声を被せた。
「無理です」
せいぜい、この新しい靴でその火を踏み消すくらいしか浮かばないが、靴の裏面を溶かしたくない。

「アマフウに火を放ったときみたいにやってみればいいのに」

「そんな記憶はありません」

「ま、ね。 小さな火だったらしいから、そんな力じゃ無理だろうけどね」

チラリと紫揺を見たセイハが大きく両腕を横に広げ、フッと息を吐くと、その腕を伸ばしたまま身体の前で掌を合わせる。 合わせた時に指を組むと腕を曲げ胸元に持ってくる。 そして左手を不要にして右手を大きく動かした。 するとどこからともなく突風が吹いてきてその火を消した。

「デコレーションケーキの蝋燭を消すようなものよ。 シユラもやってみればよかったのに」 紫揺に振り返ったセイハが言う。

「だから、無理です」
蝋燭と炎では全然違うでしょ、と言いたい。 それに火を抑えるっていう意味さえ分からない。

「シユラ急ごう。 そろそろお昼になる」

「あの・・・」 足早に歩くセイハの背中に尋ねる。

「なに?」 セイハは振り返り紫揺を見るが、その足を止めることはない。

「ヒトウカ・・・どうするんですか?」

「う・・・ん。 分からないけど、今日のことはムロイに報告をする。 人の前に出てくるヒトウカの群れが大きかったら、狩りをすることになるかもしれないかな?」

「かり?」

「うん。 その群れを木っ端みじんにするの。 肉はそのまま食用、皮は・・・敷物になるかな?」

「え?」

「弱肉強食じゃないけどね」

「・・・でも、ここで生きてるのに?」

「確かにね。 ヒトウカはこの領土だけに住まう生き物。 大切にしなきゃなんない事ではあるわ。 でも、だからと言ってヒトウカたちの住まう所から溢れ出てきたことを無視するわけにはいかないの」

「ヒトウカは救えないんですか?」 

「それはムロイ次第ね。 それにヒトウカを救う救わないの話じゃないよ。 人間を、ここの北の領土の人間を救うかどうかの話になるのよ。 これ以上この土地が冷えてしまったら、人間が生きていけないんだもん」

「人間優先なんですか?」

「当たり前でしょ? 何を言ってるの? ほら、シユラ、みんなに遅れをとってるんだから、しっかり歩いて。 温かいお昼ご飯を食べなくっちゃ」

太陽の位置から、そろそろ昼時になってきているのがわかる。
セイハと紫揺は木も草もない土の上を歩いていた。 他の者たちは歩きにくいであろう雑木林の中を歩いているというのに。

(あ、もしかしてセイハさん、私に気を使ってくれてる?) 思いながらも 『いいよ。 疲れるだけだもん』 という言葉を思い出した。
(どっちがホントだろ。 それとも気を使わせないように、ああ言ったのかな・・・)

行く道々から雑木林を覗くと、既に他の者達が何かをしたのだろう、不自然に違う色の土が盛られていたり、焦げた木に水がかけられたあとがあり、煙がくすぶっている跡などが見られた。
どんどん歩いてくと、二軒の家が目に入った。 この領土に来て初めて見る家。 その家は教科書の中にあった写真で見たことのある草葺屋根の家とそっくりであった。 そしてそれぞれの家の横には煙突のような物がある小さな窯が見える。 その煙突からは煙が出ている。

「わぉ、もう何か出来上がってるみたい」 セイハが草葺屋根の家を指さして言う。

昼ご飯の目的地が目の先に見える草葺屋根の家だと分かった。
と、その家の一軒から見知らぬ人が2人出てきた。 身に幾重にも布を重ねた服を着ている。 遠目にも女性と分かった。 その二人が少し離れた所に建っていたもう一つの草葺屋根の家に足早に歩いて行く。

「あ・・・初めて見る人」

「ああ、アイツ等は家に付いてるの」

「ついてる?」

「うん、そうね、言ってみれば管理人兼・・・うんっと・・・屋敷で言うところの使用人ってところね。 料理を作り終えて家を出て行ったんだと思うよ。 で、この先にある厩番に私たちが帰ってきたと言うことを伝令者に知らせに行ったんでしょうね」

「で・・・伝令者? 電話じゃなくて?」

「ムロイが言ってたでしょ? ここは最小限の電力だって。 シユラは馬に乗れる?」

この話の筋からその質問の意味が分からない。 どうして今、馬なのか?

「食べ終わるころにはそれぞれの馬がここに連れてこられるはずなんだけど、ムロイはシユラのことをどう言ったのかしら? ・・・もしかしたら馬車かもね」

「え? やっぱり馬車?」
私は白雪姫か! と一人突っ込みを入れたくなった。 が、シンデレラの間違えであったことには気づいていない。

「ムロイさんに馬車の話をされましたけど、自分の足で歩くと言いました」

「それは今歩いてきた道程のことだと思うよ。 この先から領土の中心までは簡単に歩ける距離じゃないから。 だから私たちも馬に乗るんだから」

たしかに、この領土に来てもう4、5時間くらい経っているであろう。 領土の中心という所はまだまだ先にあるのかと溜息さえ出てくる。

「あの女の人達はどうして料理を作ってくれたんですか?」

「ん? どういう意味?」

「ムロイさんが言ってました。 私が事前にここに来ると分かっていたら馬車を用意できたって。 電話がないんでしょ? だったら今日この時間に皆さんが来ると言うことは、あの女の人達には分からなかったはずです」

「ああ、そういう意味。 ほら、セッカが火をつけたのを見た? 炎だったけど」
あの時のセッカの顔を思い出すと、プッと笑い出しそうなのを堪えた。

「あ・・・火をつけたところは見てないです。 ドアを出た横にあった枝に火が点いていたのを見ましたけど」

「ああ、セッカが火をつけたところを見なかったんだ。 まぁ、いいけどね。 あの火をつけた時に上がる煙が、私たちが領土にやって来たっていう知らせになるの。 言ってみれば狼煙(のろし)ね。 あの狼煙を見て使用人がすぐにご飯の用意をするの」

言われて納得が出来た。 でもそれは電話連絡もしなかったのに、ご飯の用意が出来た理由に対してだ。 『使用人』 と言う言葉に対して納得をしたわけではなかった。

「シユラ、寒くない?」

そう言われれば、何も着けていない顔に寒さを感じていた。 吐息が濃い白にもなっている。

「これからもっと寒くなるからね。 しっかりと食べて身体を温めるよ」


草葺屋根の家に入ると、すでにムロイと他の4人が囲炉裏を囲んでいた。 戸口に女が1人立ち、その対角線上の板間には靴を脱いだもう1人の女が座っており、囲炉裏を囲んでいる者達を見るともなしに、その場に存在を消しているかのように居る。 部屋の四隅には角灯が吊るされているがどこか薄暗い。

「セイハ、遅すぎる」 円座に座るキノラが言う。

「あら、キノラお姉さまゴメンナサイ。 でも誰も子守をしなかったでしょ? 私がずっとしてたんだから、褒めてもらってもいいくらいだと思うんだけどな?」

子守りと言われて紫揺の眉がピクリと動く。

「セイハが連れてきたんでしょ!? それに自分から来ると言っておいて遅れをとるってどういうことよ、役立たずもいいところね! そうよソノコだけじゃなくてアナタ達二人が役立たずよ!」 アマフウが言う。

「おい、アマフウ。 腹が減ってるのか? ほら、オレの肉をやるから落ち着け」

「お肉でどうこうって話じゃないわよ! ホンットにアナタ達にはイラつく!」

「トウオウ、アマフウを黙らせろ。 シユラ様、どうぞこちらにかけてください」
ムロイが自分の横に座るように促した。

見たこともない一人の女が、囲炉裏に下げられた鍋から椀に炊き物を入れると、紫揺とセイハが座るであろう場所に置いた。

「シユラ様、暖かいうちにお召し上がりください。 今日の肉は鹿肉だそうです」

「え?」

鍋の中には小刻みにされた鹿肉の他に白菜、ゴボウ、春菊、人参、大根などと見慣れた野菜が沢山入っていて味噌味の鍋である。 ちなみにキノコ類は初めて見る形であった。 

「ふーん、鹿肉ってもしかしてヒトウカの肉?」
座りながらムロイと紫揺の会話にセイハが入ってきた。

「え? ヒトウカの?」
セイハの言葉を受け、驚いて紫揺がセイハを見るとすぐにムロイを見た。

「え? シユラ様はヒトウカのことをご存じなんですか? ・・・お前が話したのか?」 セイハを見る。

「うん。 そのことで話があるんだ」

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