大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

ハラカルラ 第6回

2023年10月30日 21時08分11秒 | 小説
ハラカルラ    第6回




「ど、どうなってるんだよ・・・」

呆気にとられるがここでじっとしているわけにはいかない。 ドアを開けようとインナーハンドルを引くがドアが開けられない。 シートを移動して反対も試してみるがこちらも開けられない。

「くそっ! チャイルドロックかよ!」

チャイルドロックがかかっていれば、内からは開けられず外からしか開けられない。

「前から出るしかないのか」

子供ならまだしも、自分の身体の大きさを考えるとかなり無理があるが、今はそれしか方法がない。
フロントシートに右半身を滑り込ませた時、カチャリとリアのドアが開けられた。

「え?」

水無瀬がまるでカエルのような姿勢でドアを見る。

「しっ」

合わせの襟を着た見たこともない中年男が口の前で人差し指を立てている。

「助ける。 このまま奴らに見つからないように逃げる。 早く」

早くと言われても、このカエル状態は簡単には解除できない。 とは言え、このままあちこちぶつけながらフロントシートに落ちて、最悪にもクラクションを鳴らしてしまうようなことになるより、今の状態になったのを巻き戻す方が無難に済む。

上げていた足を引っかかりながらもフロントシートのヘッドレストから外し肩頭と、天井にぶつけながら潜らせる。 
フロントシートから身を開放すると、僅かに開けられたドアから身を潜らせる。 ドアを開けたことによってルームライトが点いたが、誰もそれに気が付いていないようだ。

「車の陰に隠れながら移動する」

「あ・・・あの」

「今は逃げることだけを考えろ。 いいか、声は出すな、俺の後に続け」

男が身を屈めながら先を行く。
ついて行っていいのだろうか。
男が振り返り早く来いというように欧米風に腕を振る。

今は車に戻るかこの男について行くか、それとも自力で逃げるしかない。 三つに一つ。
車に戻ったとして車に居た奴らの手口はもう見た、経験した。 自力で逃げると言ってもここがどこか全く分からない。 ましてや街灯も見当たらないこの夜陰。 ならば・・・。

(為せば成る。 って、どう成るのかなぁ・・・)

男の後についた。

屈んだまま車の陰に隠れて移動していると、男が急に水無瀬の胸を押した。 タイヤに縫い付けられる。

「なっ!」

今度は口を押さえられた。

「くそっ! あのガキ!」

この声は・・・挨拶を返してきたサングラスをかけた男の声。

「あの馬鹿ヤローが、どうしてこっちに誘導するんだ」

水無瀬の口を押さえている男が憎々し気に小声で漏らす。

「テンメー、どこのモンだ!」

サングラスをかけた男であり、挨拶返しの男が叫びながら水無瀬たちの前を走って行く。 何故か顔にはカオナシに似た面を着けている。
状況を把握したと思ったのか口から手が離される。

「こんな時に自己紹介なんてする奴いないだろ」

それにどこの者か知っているだろう。 喧嘩上等のノリで言ったのだろうが、もっと他に適切な言葉取りがあっただろうに。
若い男の声だ。 首を捻って挨拶返しの男の後を追って見てみると、その先に車のライトに照らされた・・・。

―――キツネ。

(なっ!!)

一瞬驚いたが、よく見るとキツネの面を着けた細身の身体がそこにあった。 隣にいる男がまるで忍び装束のような服装に対し、こちらは何かの上に尻の下までの合わせ襟を着て、下半身はピッタリとしたズボンのようである。

「うーん、おじさん動き悪いね」

「なんだとー!!」

「競争!」

踵を返して走って行く。

「クソガキがー!!」

すぐさまそれを追って走る挨拶返しの男。

「あの馬鹿が、簡単に声を晒すんじゃないっての・・・」

どうやら再々馬鹿と言われているキツネの面を付けた細身の男は、今目の前に居るこの男の仲間のようだ。
男が水無瀬に振り返る。

「行こうか」

どこかでカンだろうか、キャンだろうか、そんな音がしている。 それは今までに聞いたことの無い音。

男に誘導され水無瀬が車の後部座席に潜り込むと男が助手席に乗り込んだ。 運転席には既に一人座っている。
騒ぎの中からかなり離れている。 隠してあった車のようだがエンジンをかければすぐにバレるだろう。

「ぶっ飛ばす。 捕まっていろよ」

エンジンをかければバレるだろうの話ではなかった。 エンジンをかけた途端の急発進で、思いっきりキキーという音をたてた。

「誠司!」

名前を呼ばれ誠司が車の中の確認に走る。

「い・・・」

目を大きく開けた誠司が振り返って大声を出す。

「居ない!」

「なんだとー!!」

「逃げた! 追えー!!」

「追わせるかよ!」

追えー! 行かせるか! 正反対の声が混じり合う。
追おうと車のドアに手をかけた途端、カンという音をたて、手の甲を刺すものが飛んでくる。 車に向かおうと走る足元にグサグサと飛びモノが飛んできて地に刺さる。 手刀の落とし合い、剣戟の音も止まない。
その中で一台の車が水無瀬たちが乗った車を追って走り出した。
カン、カンといくつもの音がタイヤを狙うが、それが分かっていたかのように蛇行運転で狙いを外させ走り去っていく。

「どれも外したか・・・」

手に持っていた弓を下ろすと、木の上から見える状況を見渡す。 これ以上の車を追わせるわけにはいかない。 まずはこの位置から可能な限りの車のタイヤを狙って射る。

「追手がかかったようだな」

「え?」

荒い運転に助手席のヘッドレストにしがみ付いたまま後ろを振り返ると、車のライトが上下しながら追ってきている。

「免許持ってるか?」

「あ、はい。 車もバイクも普通免許を持ってます」

「バイクの普通免許?」

「あ、昔で言うところの中免です」

「へー、今は中免って言わないのか。 オートマ限定か? 今はそんなのがあるらしいって聞いたことがあるが」

「車もバイクもオートマ限定ってのは確かにありますが、俺が持ってるのはどっちもミッションです」

なんだ、この緊迫した空間でこの会話は。

「ならこの車も運転できるな」

「はい?」

「行こうか」

助手席の男が運転席に向かって言うと、予告も無く急ブレーキがかけられた。

「ぐえっ」

思いっきりヘッドレストに顔を埋め込ませる。
運転席の男が何かを持って躍り出る。

「ナビは設定してある。 このままナビに従って走らせろ。 車は下りたらそのままにしておけばいい、鍵も差したままにしておけ。 早く移動しろ!」

今まで話していた男がそう言い残すと、同じように何かを持って運転席にいた男を追うように車を出て行った。
水無瀬がすぐに車を降りて運転席に乗り込む。

「ゲッ・・・うそだろ」

ミッション・・・それもコラム。
確かに数秒前にオートマではなくミッションの免許を持っていると言った。 だが教習所の車はコラムではかったし、何よりミッションなんて教習所以来運転なんかしたことがない。

「この時代に何でミッションなんだよ! ましてやコラムって!!」

コラムのチェンジ方向など知らない。
シフトレバーを覗き込むとシフトチェンジの方向が書かれている。 クラッチを踏んでカラ状態にし、書かれている方向にシフトレバーを入れ替えてみる。

「こっちにローでこっちにセコ、サードでトップにバック」

手に感覚を覚えさせるために何度も入れ替える。

「よし、あとはエンストさえしなけりゃなんとかなる」

後方から走ってくる車に二方向からフロントガラスを目がけて懐から出したものを投げた。 フロントガラスに蜘蛛の巣のようなひび割れが走る。

「うわ!」

ハンドルを大きく切り木にぶち当たった。 メリメリと音をたてて木が倒れていくと同時に、車の中からカオナシに似た面を着けた、こちらも忍び装束のような服を着た二人が手に獲物を持って躍り出てくる。 その姿の前にキツネの面を付けた男二人が対峙する。 こちらも手に獲物を握っている。
その後方では・・・。
プスン。

「あーん、またエンスト」

殆ど半泣きである。 半クラから上手く繋げられない。
キツネ面の男一人が目だけで振り返るが、まだ車は発進しそうにない。 何度も何度も車が揺れているだけである。

「くっそ、もうちょいふかし気味にしたら・・・」

キキーと音をたてての急発進。

「ギャーー!」

思わずブレーキを踏んで・・・プスン。

「あ・・・クラッチ・・・」

クラッチを踏んでいなかった。 なのでエンスト。

「何やってんだ・・・」

プスンと聞こえる度にエンジンをかけ直している。 このままでは車がイカレてしまい逃がすどころではなくなってしまうが、この場を離れるわけにはいかない。
キツネ面の男が前に現れた二人に集中する。 相手も構えている。 それぞれが手に鎖鎌と忍刀(しのびがたな)を持っている、懐には飛び道具が入っているだろう。 その飛び道具でタイヤを狙われては逃がすことが出来なくなる。 どうしてもここで阻止しなければ。
ジリジリと互いが間合いを詰めていく。

間合いを掴んだと判断したのか、カオナシに似た面を着けた一人の男が高く跳び上がり懐から獲物を投げつけ、同時にもう一人がキツネ面の男を目がけて向かってきた。
キツネ面の男達もそれぞれの相手を瞬時に見極め、一人は投げつけてきたものを手に持っていた忍刀で落とし、すぐに相手に向かって走り出す。
もう一人のキツネ面の男が走って来た男に対峙しようとしかけた時、男が鎖鎌の分銅を投げてきた。 屈んで分銅をかわしたその瞬間、ヒュッと空気を切る音がした。
目の前の男が分銅を投げたと同時に、車のリアタイヤ目がけて既に手に持っていたモノを投げたのだった。

(しまった!)

振り返ることが出来ない、次にいつ分銅か鎌が飛んでくるか分からない。
後ろで何度もプスンプスンと聞こえていた音が軽快なエンジンの回る音に変わった。

「おしっ、発進!」

今までそこにあったリアタイヤが回転してゆっくりと前進していく。 飛び道具がリアタイヤに刺さることなく夜陰に飲み込まれていく。
アクセルを踏み込みスピードを上げると、もう一度クラッチを踏みシフトをセカンドに入れ替え、クラッチから足の重みを引くと緩めていたアクセルを踏み込む。 更にスピードが上がる。

「おっしゃー、これでエンストとおさらばだ」

ローさえ乗り越えれば何とかなる。

対峙していたカオナシに似た面を着けた男たちが足を後ろに引いていく。 水無瀬が居なくなってしまったのだ、ここで戦うことが無駄と判断したのだろう。
ある程度離れると向きを変えて走り出した。
キツネ面の男二人も構えを解く。

「発進に時間がかかったな」

「まぁな、慣れてない車だったらそうなるだろう」

車によって半クラの状態は違う。 アクセルとクラッチの繋がる位置は車によって多少違うということである。 慣れていなければエンストは致し方のないこと。

「あの二人が元の場所に戻るまで迎えは来そうにない、か」

あのカオナシに似た面を着けた二人が戻れば、水無瀬を追うことが出来なかったと分かる。 そうなれば互いが引いていくことになる。 その時に連絡が入るだろう。

「時間がかかりそうだな」

ここまでかなり車を走らせた。 たとえ鍛えていると言えども人の足、そこそこかかるだろう。

「まぁ、それまでゆっくりしようや」


「たー、何だよこの道」

この道と言われても単なる山道である。

「いつの間にこんなとこまで来てたんだよー、どこの山ン中なんだよー」

運転になれていない、その上での山道。 泣きたくなる。



「もう、死んだ・・・」

靴は履いていなかった。 汚れた靴下を脱ぐとそこいらに投げる。
なんとかナビの案内のままアパートに戻ることが出来た。 今は寒いも何も感じる事さえ出来ない状態だ。
部屋の中で大の字になって寝転がるが、こたつが邪魔である。

車にはナビどころかETCもついていて、ましてやカードまで差されていた。 お蔭で高速料金を気にすることなく走ることが出来た。 なにせ部屋の中から連れ去られたのだ、金など持っていなかったのだから。

高速を降り一般道路に入ると嫌でも信号が出て来る。 赤信号で止まる度に何度かエンストを起こしたが、それでも最後にはあの車にも慣れた。 余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で、急発進も半クラでの徐行も出来るようになっていた。

『車は下りたらそのままにしておけばいい、鍵も差したままにしておけ』 と言っていたが、どこに停めればいいのか分からず一応アパートの前に停めている。
行き先、言ってみればアパートの場所がナビに入れてあったのだ、下手にパーキングなどに停めてしまっては探さなくてはならなくなるだろう。

「って、やっぱパーキングに停めに行くか?」

駐禁を取られるかもしれない。
だがキーを差したままにしておくようにと言われた。 パーキングでそんなことをしていれば即行車ごと盗まれてしまう。
それにETCカードも差したままである。 車にキーを差したままなのだからドアロックもかけていない。 コラムの車なんて今ごろ盗まないかもしれないが、それでもカードや部品取りが簡単に出来てしまう。 取られるようなステキなオーディオは無かったが。

「・・・にしても」

あの連れ去った連中もそうだが、逃がしてくれた連中もこの部屋の場所を知っていた。 知らない人間が自分の部屋の場所を知っているというのは、気持ちのいいものではない。 とはいえ、簡単に引っ越しなど出来るものではなく、それ以前にこんな安アパートがそう簡単に見つかるとは思えない。

「あ、そうだ」

むくりと上半身を起き上がらせ後ろに身体を捻じる。 ベッドのある部屋との境の襖は開けられたままである。

「ん? 割られてはいない?」

ベランダに通じる掃き出しの窓を割って入ってきたのかと思ったが・・・いや、そう言えばあの時、窓を割るような音は聞こえなかった。 何か物音がした程度だった。 それから掃き出しの窓を開ける音がしたのだった。
身体を捻じって立ち上がり、ベッドのある部屋に進むと掃き出しの窓の前に立つ。

「あ・・・」

今居た部屋からこぼれてくる明かりでも状態を十分に見て取れる。 窓の鍵、クレセント錠の周辺の部分のガラスが丸く小さく切られている。

「ここから手を突っ込んで窓の鍵を開けたってことか・・・」

チャイムを鳴らして玄関の方に誘い出したすきに、ガラスを切っていたということか。
それにしてもここは二階だ。 どうやって上がってきたのか。

「まぁ、上がれなくはないだろうけど」

あちこちに手足をかければ上がってはこられるだろうが・・・。
厚みのある紙を探してガムテープを手に持つ。 紙をガラスに当てペタペタとガムテープを貼っていく。 一応の修理ではあるが、少なくともここを出ていく前にはちゃんとガラス屋に来てもらわなければいけないだろう。

「くそっ、修理代請求すんぞ」

何処にしていいかは分からないが。
立ち上がってしまっては、キーを差しっぱなしの路駐の車が気になる。 ピッと音をたててガムテープを切り、そのガムテープを所定の位置に戻すと玄関に向かう。
裸足の足にサンダルを履く。 ドアスコープを覗き耳を澄ませ外の様子を窺うとチェーンを外し鍵を開ける。 そっとドアノブを回す。 顔を出し左右を見ても誰も居ない。 正面に見える道路を見下ろす。

「あ!」

後姿の男が丁度車に手をかけたところだった。
玄関を走り出て廊下の手すりにしがみ付くと、時間も考えずに叫んだ。

「おいっ! 勝手に―――」

水無瀬の声に気付いたのか、男が振り返り片手を上げた。

「え・・・」

男はキツネ面を付けていた。
そのまま車に乗り込むとエンジンをかけ去って行った。

「なん・・・なんなんだよ・・・」

何も言わず車を回収して、あのお面の男たちはいったい何をしたいのか。

「でもまぁ、車は返せた」

これで路駐の心配がなくなった。
身体の向きを変えると隣の部屋の台所の窓が目に入った。 電気がついている様子は見えない。

「まだ戻ってないのか」

手すりに身体をもたれかせ自分の部屋の台所の窓を見る。 窓から薄く部屋の明かりが漏れている。 台所の電気が点いていなくとも部屋の明かりが窓から漏れて見える。
もう一度隣の部屋の台所の窓に目を転じる。

「いや、もう戻ってきて奥の部屋に居るとか」

玄関に通じる部屋の電気が消えていて、奥の部屋の襖が閉まっていれば台所の窓から漏れてくる明かりはない。

「待てよ」

また自分の部屋の台所の窓を見る。

「ってことは、俺が家にいるか居ないか、寝ているか、全部バレバレってことじゃないかよ」

今までそんなことは考えもしなかったが、こんな状況に嵌まってしまうとそんなことを考えてしまう。

「ストーカーに怯える女子の気分じゃないか」

ストーカーどころではない。 相手は一人ではなかった、団体さんだった。 それに予告されていた通り手荒な真似を簡単にしてきた。

―――どうすればいいのか。

ビジネスホテルどころかカプセルホテルに泊まる金などない。 一泊ならまだしも何日かかるかも分からない状態だ。
あの手荒な真似を身に受けてしまっては、実家を巻き込むわけにはいかないと強く思うし、雄哉も巻き込めない。 雄哉の部屋に転がり込むことも出来ないし、これからは送り迎えも固辞しなくては。

「警察に頼むにも・・・」

証拠も何もない、あるのは汚れた靴下だけ。 頭がイカレているか、良くても単なる被害妄想と言われるだけだろう。
手すりから身を外すと部屋の中に入って行った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハラカルラ 第5回

2023年10月27日 21時13分57秒 | 小説
ハラカルラ    第5回




スピーカーからスマホの着信音が聞こえてきた。

「はいはーい」

電話のようだ。

「え? まだそんなとこかよ」

『なに贅沢言ってんだ』

「いや、もうそろそろかなと思ってジャケット着たとこだったし」

『大体、なんで俺が男を迎えに行かなくちゃなんないんだよ』

「うーん・・・主催者だから?」

『言ってろ! ジャケット着たんなら駅に向かって来いよ』

「いや、それがねー、そうはいかないんだわ」

『なんだよー、それって』

「だからー・・・ね、お願い。 文句言わないから迎えに来てハート」

『なんだよそのハートって』

「絵文字」

スマホの向こうから厭味ったらしい溜息が聞こえてきた。

スピーカーから流れてくるのはあくまでも水無瀬の声だけだが、どこかに出かけるにあたり迎えを要請していたようである。

「用心はしていたってことか」

「学生の一人や二人、十人だって無駄だけどな」

再びスピーカーから声が聞こえる。

「あと十分くらいだな」

『んなわけあるかい』

「はい?」

『出てこいや』

「いや、だからお部屋までお迎えに来て―――」

『ハートは要らねーからな』

今度はウインクにしようと思っていたのに。
と、カンカンカンと鉄筋階段を上がってくる音がする。 廊下を数歩歩く音。 そしてドアノブをガチャガチャと回す音。
一瞬にして足がすくむ。 硝子戸の向こうの玄関ドアを見る。

手荒なこと―――。

頭の中でその言葉が浮かぶ。
ドアに鍵がかかっていると分かったのだろう、ドンドンドンとドアを叩く音が聞こえる。

「おらー!! 水無瀬―! 開けんかーい!!」

「え・・・」

スマホと玄関の両方から聞こえてくる雄哉の声。

「あ? え? ちょっと待って、今ドアの前に居るの雄哉?」

「鍵なんか掛けてんじゃねーよ!」

「わー、分かった分かった。 分かったから静かにして。 ご近所迷惑だからぁ」

玄関まで走って行きチェーンを外し鍵を開けると、ノブを回す間もなく外からドアが開けられた。

「迎えに来させておいて締め出しかよ」

静かに言うのが怖い。

「いや・・・なんか変な日本語」

玄関の電気を手探りで点ける。

「あーん? ナニその態度?」

「だってほら、さっき五分ほど前に駅に着いたって言ってたから、さ?」

「さ? じゃねーよ。 ウソに決まってんだろ。 あーもー、ホンット面倒臭せー。 もういいわ、行くぞ」

「さすがは雄哉さん。 器が広い」

「うっせ」

「待ってて、鍵取ってくる」

「財布もな」

部屋の電気を消しかけてUSBスティックに気付いた。 こたつの上に置いてあった鍵とボディバッグを手に取り部屋の電気を消す。

「なぁ、雄哉、これ雄哉の?」

「うん? USBスティック?」

「うん」

「俺んじゃねーな。 白いUSBスティックなんて買わないし。 USBスティックは黒だろ」

どういうこだわりなのだろうか。

「そっか」

靴を履きながらUSBスティックをボディバッグのポケット部分にしまいこむ。 ここに入れておけば財布を出し入れしても落とすことは無い。

「なに? 誰のか分かんないのか?」

「うん」

玄関の明かりは点けたままにしておく。

「新しく買ったのを忘れてんじゃね? 水無ちゃん時々忘れっぽいし」

「そこまでボケてない」

ガチャリと玄関の鍵をかけるとドアノブを回して鍵がかかったことを確認する。 それがいつもの水無瀬の癖だとは知っているが今日はやけに念入りだ。

「なー、水無ちゃん、もしかしてさっきチェーンまでかけてた?」

鉄筋階段を下りきると雄哉が訊いてきた。

「あ、うんまぁ」

「ふーん・・・なんかあった?」

「なんで?」

「ほら、迎えに来てハート、とか、さっきも鍵がかかってたかどうかいつもより厳重に確認してたし」

「あー、うん、まぁ色々と」

「言えないこと?」

「うーん・・・もうちょっとはっきりしたら相談するかも」

「そっ、か。 まぁ、迎えにくらい来るわさ」

雄哉とはこういうやつだ。

「さんきゅ」

そして雄哉主宰の飲み会は十五人ほどが集まり、呑み屋の梯子からカラオケと、最後まで全員参加のままでオールとなり、最終的に数人でのファミレスブランチとなった。

「た、ただ今戻りました」

昼の光が射す中、車のドアが開かれる。

「お疲れだったな」

「都会の若者はかなり元気が有り余っているようです」

ドシンと座り込むとドアを閉めるが、ドシンと座り込んだことでその疲れが伝わってくる。

「みたいだな、こっちはボリュームを絞ってた」

たとえバッグの中に入っていたとはいえ、カラオケでの騒ぎは耳に耐えがたかった。

「接触はなかったようだ」

盗聴器であるUSBスティックからはそれらしいことは聞こえてこなかった。
まさか盗聴マイクを持って出るとは思ってもいなかった誠司がスマホで連絡をもらい、少々離れていても様子が分かると聞いた時には驚いたが、水無瀬はUSBスティックを盗聴器とは気付いていないのだ。 単なるUSBスティックと思っているのなら持ち歩くこともあるだろう。 決してその機能はないが。

「そうですか。 呑み屋でもカラオケ店でも、戻ってくるまでにそれらしい姿は見えませんでした」

「敵はまだアイツに気づいていないということか?」

「どうだろうかな。 何か食べたか?」

「あ・・・いいえ」

「近くにコンビニくらいあっただろうが。 機転が利かねーな」

助手席から呆れたような声が割って入ってくる。

「サンドイッチかお握り、どっちがいい?」

「あ、自分で買ってきます」

「いいよ、疲れてんだろ。 買ってきてやる。 どっち」

既に後部座席のドアが開けられ半身が出ている。

「あ、じゃあ、お握りをお願いします」

「売り切れてたらサンドイッチかパンな」

ドアがバンと閉められた。

助手席でスマホの着信音が鳴った。 タップをして電話に出る。

『今からそちらに向かう』

「了解」

何もなければ夕方には着くだろう。 今度こそ予定通り。

「今夜決行」

誠司の目が伏せられた。


「で?」

ファミレスを出たあと 『お迎えをした以上は送ってやんよ』 と、雄哉が水無瀬の部屋まで送り、そのまま二人で意識不明。 早い話、二人で水無瀬の部屋で寝てしまった。
雄哉がこたつに足を突っ込み目の前でホットココアを飲んでいる。 このココアは甘党の雄哉用に買ってあるものである。

「うん、数日実家に戻ろうかなって」

「それで俺にも戻らないかって? まだ単位を残してる俺に?」

「だって、近所じゃん」

近所と言っても小中学校の校区は違う。 雄哉とは高校で初めて一緒になった。

「近所って・・・一駅分離れてるだろ。 って、それになんで俺が実家に戻んなきゃなんないんだよ」

「俺が退屈だから」

「断る。 そんな理由で水無瀬に付き合う気はない」

雄哉が水無ちゃんではなく、水無瀬という時は結構本気の時だということは知っている。
実家に戻る予定はなかった。 金の無駄使いになるし、実家に用があるわけでもなかったのだから。 だが “手荒なこと” この一週間ほど何もなかっただけに、どうしてもそこに引っかかりを感じていた。 そろそろなのではないだろうかと。
おじさん曰く 『兄ちゃんが拒もうが逃げようが、こっちに来てもらうことになる』 ということらしいが、何かの組織じゃあるまいし、まさか実家の場所まで知らないだろうと踏んだわけである。

「確かにサボり過ぎたけどダブル気はないからな」

「ダブル気がないんなら、もっと真面目に取り組んでたら良かったのに」

「ほっとけ。 まぁ、それにさ、楽しみが出来たっつーか、お近付きになりたい人と・・・うふふ、ハート、って感じでさ」

「は? なんだよそれ、え? そんな人が居たの? いや、聞いてないけど? 誰よそれ」

「今はまだ、ナ・イ・ショ。 もっとお近付きになれたら話すわ。 楽しみに待ってて~ん。 ってなわけで」

残っていたココアを一気に飲み干し雄哉が立ち上がった。

「水無ちゃん一人で実家にお帰りなさい」

親孝行しておいで~、と捨て台詞を残してドアが閉められた。 カンカンカンと階段を降りていく音が聞こえる。

「くっそ、雄哉め。 何にも知らないで」

何にも言っていないのだから何も知らないのは当たり前だが、そう文句も言いたくなる。 よく考えると実家に戻っても何もやることがない。 雄哉がいるかどうか以前の問題だ。
だが更によく考えると水無瀬のプライバシーをよく知っていた。 それを考えると万が一にも実家の場所を知っていたら・・・実家を突き止められていては、手荒なことに両親を巻き込むようなことになる。 そうなってしまっては笑うに笑えない。

「うー・・・とにかく暗くなる前に今晩の飯の補充」

まだ夕方にはなっていないとはいえ、夏ほど陽が長いわけではない。 明るい内に外に出る用事は済ませたい。

夜になり袋麺のラーメンを啜っている。 これで何日ラーメン続きだろうか。 ああ、いや、昨日は呑み屋にカラオケ、ファミレスとリッチな生活をしたのだった。 そのお蔭で更に財布が寂しくなったのだが。
財布事情からバイト復帰を考えるが、そう簡単に出歩くことをしたくない。
それに・・・。

―――目。

魚と目が合った。
あれから何度か海と思える中に入った。 入ったと考えていいのかどうかは分からないし、淡水なのか海水なのかも分からない。 ただ、見える生き物からして海の中と捉えた方が間違いはないだろう。

「淡水でも海水でもどっちでもいいんだけど」

あの状態がバイト中に起きてしまっては、どうしていいのか分からない。
ドアを開ける音とカチャリとドアの鍵を閉める音が聞こえた。 新人さんの方の部屋だ。

「ん? こんな時間にお出掛け?」

女子が。

「って、そう言えば隣、静かだなぁ」

その存在さえ忘れていた程だ。 前に居た男とはえらい違いである。

「やっぱ女子って何をするにも物静かなのかな」

長いストレートの黒髪はしっかりと見た。 そこに想像が付加されていく。
長く黒いストレートの髪の毛で物静かな女子とくれば美人に決まりだろう。 美人で物静かとくれば細く少し高めでそれでいて落ち着いた声。 はにかむ表情には潤んだ瞳。
そう言えば雄哉が 『お近付きになりたい人と・・・うふふ、ハート』 と言っていた。 先を越されてたまるか。

「くー、お話ししてみたい~」

彼女の居ない男子はこんなものだろう。


児童公園に数台の車が停まった。
既に停まっていた車の中から誠司が出て来る。 誠司はいわゆる留守番役だった。 他の三人は今停まった車の中に居る。 既に合流し、この先のことを話し終えているということである。

「変化は」

「ありません。 いつも通り部屋に居ます」

「じゃ、行くとするか」

そう言った男が助手席に乗り運転席にもいつもの男が乗り込んできた。 おじさんと呼ばれた男も運転席の後ろに乗り込む。


ピンポーンとチャイムが鳴った。

「え・・・」

こんな夜更けに・・・。 頭に過ることは一つしか無い。
恐る恐る硝子戸を開ける。 そっと玄関に降りドアスコープを覗く。
誰も居ない。
奥の部屋、ベッドのある部屋で何か音がした。

「え?」

思わず振り返り玄関に上がると硝子戸に近寄る。
続けて掃き出しの窓を開ける音が聞こえた。 掃き出しの窓の外は小さくはあるがベランダがあり、物干しになっている。
途端、ベッドのある部屋との境の襖が開けられた。

「よー、お初」

誰だ?
サングラスをかけた知らない男が片手を上げ 『よー、お初』 ?

「だ、誰だよ・・・」

「自己紹介はあとで。 聞いただろ? お迎えに上がるって」

お迎え? お迎えに来てくれるのは雄哉であって・・・。 と、まるで風圧を受けたように水無瀬の短い髪の毛が踊った。
目の前の男がニヤリと笑う。 多分目も笑っているだろう、サングラスをしていてわからないが、完全に口角が上がっている。
チャリ、カチャリ、と二つの音がしたと思うと冷たい空気が背中を撫でていく。
これは・・・。 ゆっくりと首だけを捩じって振り返る。
ドアが開けられている。 そこにあの気弱そうな青年がいる。 その後ろにも幾人かの影が見える。

「誠司の早さは目にとまらないからな」

セージ? なんだよそれ、ハーブか? ハーブの香りは目にとまらないんじゃなくて目には映らない、だろ。 男の方に顔を向きなおらせる。

「ってことで来てもらおうか」

サングラスをかけた男が一歩二歩と近づいてくる。 靴を履いたまま。
水無瀬も一歩二歩と後ずさるが後ろにはあの青年がいる。 それにまだ靴を履いていない。

「お願い、このまま大人しくついて来て」

背中で声がする。

「痛い思いをさせたくないから」

思わず体全身で振り返った。
あの気弱な青年と目が合う。 と、見たこともない男が青年を押しのけた。 ほかにも幾人かの男の姿が見える。

「誠司、どいてろ」

セイジ? セージではなかったのか。 この青年はセイジというのか。
たとえこの青年が味方に付いてくれたとて多勢に無勢。 玄関からは逃げられない。 サングラスの男に背を向けたまま、立てかけてあった傘を思いっきり後ろに投げたと同時にベランダに向かって走りだす。 ここが二階だということは分かっている。 ベランダから跳び下りたらどうなるかの想像はつくが、極度の運動音痴ではない。 それなりに着地が出来るだろうつもりだ。

「おっと、この程度で逃げられると思ってるのか?」

腹に何かが撃ち込まれた。
うっ、と声を上げて背中が丸まる。 腹に膝が入っている。 あのサングラスの男の膝だ。
顔を上げると男の片手に傘が握られている。 水無瀬の投げた傘を掴んだということか。 傘の石突きが顔に当たるように投げた、それもこの短い距離。 掴めるはずなんてないはずなのに。

「挨拶の返事をさせてもらおうか」

挨拶?
途端、丸めた背中に肘を入られた。 背骨に痛みが走ったと思ったら息が詰まって呼吸が出来なくなった。
そうか、挨拶・・・傘を投げたことか・・・。
ズルズルと膝が折れていく。

「そこで止めておけ」

誰かの声が・・・いや、多分この声はおじさんの声だ。 声が遠くに聞こえる。

「手応えがなかったな、この程度か。 何も時間をかける必要はなかったんだ」

「同意があるに越したことは無い」


何だろうこの振動は・・・。
ああ、電車に乗って・・・いや、電車になんて乗ってない。 もう暫くは大学に行くことは無かったのだから。 地震? いや、もっと小刻みな振動。

(うぅ、背中が、痛い・・・。 何だよこの痛み・・・ああ、そうだ、たしか挨拶の返事とか・・・)

ドン、と横跳びに飛んだような衝撃。 ガツンと頭を打った。

「痛って・・・」

「よー、お目覚めか?」

薄っすらと目を開ける。

「ろくでもないタイミングで目が覚めたもんだな」

「あの、ごめん。 頭大丈夫だった?」

なんなんだよ、あちこちから意味の分からないことを言って。
目を完全に開けようとした時にまた大きな衝撃で前に投げ出されかけた。 というか、思いっきり前にぶつかった。

「あああ・・・ごめん・・・」

今にも泣きそうな声がしたかと思うと、手が伸びてきて水無瀬を元の位置に戻す。

「誠司、放っておけ」

セイジ? どこかで聞いた覚えが・・・。

「限界だ、迎え撃つ」

急ブレーキがかけられまた前に突っ込みかけたが、横から伸びてきた手が水無瀬を突っ込ませないように押さえている。

「あ、あの・・・逃げないでね。 その、車から出たら危ないから」

「早く来い!」

顔なしのような面を手に取り助手席に座っていた男が外に出て行く。
誠司の座る側のドアが外から開けられ、おじさんに続いて誠司が面を手に取ると飛び出して行った。

なに? 車と言ったか?
三つのドアの閉まる音がした。
打った頭を撫でながらようやく目を開ける。

「あ・・・」

ここは・・・車の中?
水無瀬はリアシート、運転席の後ろに座っていた。 車は道に対して斜めに止まっている。 前に数台の車も見える。
後ろを振り向くと後ろにも車がある。 どの車もライトを点けたまま停まっている。

「え?」

ライトに照らされて・・・。

「喧嘩?」

いや、喧嘩どころじゃない。

「なんだよアレ・・・」

どうして剣戟(けんげき)が聞こえてくるんだ、ライトに照らされ黒く踊る影に剣が舞っている。
顔を後ろに前に横に振る。
幾人もの走る影、何かを投げる影、追う影、手刀を打ちあう影が見える。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハラカルラ 第4回

2023年10月23日 21時15分31秒 | 小説
ハラカルラ    第4回




上目遣いだった目を半分伏せ、小さく頷いてみせている。 間違いなくあのことの話しらしい。

「えと・・・分かり合っている者同士で暮らせばいいんじゃないかな。 他の人には分かってもらえないし・・・」

そりゃそうだ。 たとえ雄哉であろうとそう簡単には信じてはくれないだろう。

「俺についてくれば分からないことが分かる、そう言ったのはこういうこと。 まぁ、まだまだ詳しく話せるけどな。 でもそれはついて来てからのことだ」

思わず反対隣を見た。
おじさんがニヤリと笑っている。

「前に言ったように衣食住にも困らん。 バイト、きつかっただろ。 大学ももう殆ど行かなくていいんだろ? あとは卒論くらいだろ」

何を言っている、どうして知っている、どこまで何を知っているというのか。

「ここまで来て中退ってのもなんだしな、卒論さえ提出すればいい話なんだろ? 行き先はちょっと遠いんでな、送り迎えくらいするよ」

「い、いったい何なんですか!」

人のプライバシーに勝手に入り込んできて送り迎えやらなんやら、勝手が過ぎるだろ。

「あ、あの、落ち着いて。 その、手荒なことになりたくないんだ」

気弱そうな声が背中に突き刺さる。 手荒って何だよ。

「はぁ?」

思わず反対隣を見る。 右に左にと忙しい。 出来れば二人並んで座っていてほしかった。

「君が快く承諾してついてさえ来てくれれば・・・その、穏便にというか・・・。 それに気になるでしょ? ・・・水のこと」

気になるさ、ああ気になるよ。 お前が何を言ってるのかがなっ。 何だよ手荒とか穏便とか。

「まぁ、そう睨んでやってくれるな。 こいつ気が弱いんだ、ビビらせないでくれ」

それは顔に出ていて大体わかる。 今度はおじさんを睨んでやる。

「おっと、そんな顔しちゃいい男が勿体ない。 まぁ、俺もこいつも口が下手でな、そこんとこは許して欲しい」

お道化るように言ったかと思うと今度は真顔になった。 だからと言って水無瀬がビビるわけではない。

「でもまぁ、事実なんだ、血の気が多いのがいてな。 こいつが言ったように俺も手荒なことはしたくない。 だから、分かるだろう? 兄ちゃんが拒もうが逃げようがこっちに来てもらうことになる。 それなら最初っから兄ちゃんの足で来ないか?」

「・・・なんだよそれ。 変な宗教かよ」

おじさんがクックと笑う。
馬鹿にされていない事は分かるが、水のことを考えると冗談ではなくそんな風に考えてしまった。 よく 『あなたの後ろに何か良からぬものが見えます。 我らが神がそれを救ってくれます。 どうぞこのお水をお飲みなさい。 我らが神からの御恵みです』 とかって聞くから。 だが笑われた。 宗教と言ったのが失敗だったか。

「宗教でも何でもない。 薬や壺を扱う関係でも自衛隊でもな。 まぁ、怪しいと思うだろうが一度来てみないか?」

「一度? 一度で済むはずは無さそうなんですけど?」

まだ半分笑っていたおじさんの顔が真顔になった。

「そうだな・・・」

正面を見て一度下げた頭を持ち上げて、まるで最後の宣告をするかのように水無瀬に目を合わせる。

「兄ちゃんが迷ってる猶予はない」

「猶予?」

「今この場で返事をもらいたい」

「何を勝手なことを。 そっちの勝手な猶予でしょう、それがあるか無いかなんて俺には関係ない」

立ち上がると今度は抑えられることは無かったが、代わりに気弱そうな声が耳に入ってくる。

「お願い、一緒に行こう? そうすればちゃんと説明できるから」

その顔、声、殆ど泣き落としじゃないか。 だからと言ってそんなことに絆(ほだ)される俺じゃない。

「断る」

水無瀬を見上げている目を見てはっきりと言うと次におじさんを見た。

「これが返事です」

おじさんが寂しそうな顔をして笑った。 そしてゆっくりと正面を見るとポツリと言う。

「そうかい。 じゃ、悪いが手荒にさせてもらうよ」

出しかけた足を止めた。

「悪いと思ったことはやらない、俺はそう教えられましたけどね」

このままでは逃げ去るような気がして言い返してやった。 そして何気に手荒なことはしないで欲しいと、気付かれないように言葉に懇願を含ませる。

「大人の世界はそう簡単にいかないんだ」

言い返したのに説教じみたことを言われてしまった。 言葉に包んだ懇願も届かなかったようだ。
もう何も言うまい。 俺はそのまま歩いて行った。 手荒なことと言っていたからには、この陽の高い時に何かがあるわけじゃないだろう。

アパートに戻り鉄筋階段を上がり切った時、丁度隣の部屋のドアが閉まったのが目に入った。 一瞬だったが黒くストレートの長い髪の毛の束が踊るのが目に入った。

「あ、もう隣に誰かが入ってきたんだ」

引越したその日に次の人が入ってくるとは、アパートの家主はウハウハだろう。

「ふーん・・・今度は女子か」

髪の毛を括っていてその束が踊るのが目に入った。 おばさんならあそこまで髪を伸ばしていればもっと髪の毛が傷んでいるだろうし、高い位置で括ってもいないはず。

「って、偏見か?」

そんなおばさんも居るかもしれない。 少ないだろうが。 それにこの安アパートに若い女子が入ってくるのも有り得ないのではなかろうか。 もっとオートロックとかある洒落たマンションとかを選ぶのではないだろうか。
それもそれで偏見だろうか。

「ま、隣に誰が住もうと関係ないか」

今の時代、隣に越してきたからと挨拶があるものでもなく、この安アパートで長く住むとは限らない。 それに壁一枚で仕切られているだけで生活の音がよく聞こえる。 ある程度の音や声でどんな人物かは想像できる。 とんでもない人物でなければそれでいい。
鍵を開けると部屋に入った。

どこかでおじさんが言っていたことを気にしていたのだろう、部屋の中が荒らされていなかったと、どこかホッとしている自分がいる。
でもよく考えると水無瀬自身に用があるようなのだから、部屋を荒す意味はないだろう、何かを盗む必要もないだろう。

「ったく、なんだよ」

リュックを下ろしダウンジャケットを脱ぐ。 こたつのコンセントをさすと玄関横にある小さな台所にある電気ポットに水を入れる。 湯が沸く間にインスタントコーヒーをカップに入れる。

「まだ暫くは寒いなぁ・・・」

カチッと音を立て電気ポットのスイッチが上がり、湯をカップに注ぐとすぐにこたつに足を突っ込んだ。

「電気ストーブ・・・買おうかなぁ」

エアコンなどという発想はない。
ああ、そう言えばと思い出す。 隣りに挨拶に行けばよかったと。 隣りはいい年をしていた、電気ストーブの一つくらいあったかもしれない。 引っ越し先にはエアコンを買っているだろう、要らなくなった物だったら貰っておけば良かったと。

「って、もう荷造りが終わってたんだから遅いか」

要らない物なら既に処分していただろう。
カップを握りしめ手を温める。

「あー、侘(わび)しい生活・・・」

衣食住に困らん・・・おじさんの言葉が甘く脳内を走る。

「いやいや」

自分を諭すように首を振る。

「あと一年バイト生活。 それで晴れて社会人。 ちゃんとした給料が入ってくる。 そしたらこの安アパートともおさらば」

そしてエアコンのある生活をするのだ。 夏の扇風機ともおさらばだ。

「社会人になりたいみたいだな」

「そのようだ」

児童公園に横付けされている車中での会話である。 水無瀬の独り言が車内にひびいている。

「さて、失敗に終わったからにはこっちに任せてもらおうか」

運転席の後ろに座っているおじさんがブスッとした顔で腕を組む。 口は閉ざしたままである。

「あの・・・上は何て?」

後部座席から気弱な青年が助手席に座っている男に訊ねる。 自分たちが断られたと知るとすぐに連絡を取っただろう。

「爺さんらか。 ああ、とっとと連れてこいってさ。 万が一を考えて応援をよこすってことだから、今日明日ってとこだろうな」

「そうですか・・・」

「で? 水に反応したのは確かなんだな?」

「はい・・・」

「水も認識したか」

ハンドルに手を乗せながら運転席の男が言う。

「そりゃ、魚を見れば誰でもそこに水があるって思うだろうよ」

「どうかな・・・。 俺たちはそれを当たり前だと分かっているが、知らない者は空を飛ぶ魚だと思うかもしれない」

「けっ、マンガじゃあるまいし」

そこにスマホの着信音が鳴った。 水無瀬の部屋から流れてくるスピーカーのボリュームを下げると助手席の男がスマホに出る。

「ああ、ああ」 と何度か言い頷いている。

「分った。 それじゃ、次の連絡を待ってる」

受話器を置く画面をタップしスピーカーのボリュームを上げる。

「なんて?」

「爺さんが一人スッテンコロリン。 よって応援に向かうのが遅れるらしい」

「爺さん一人にか?」

「長だ」

「長・・・って、爺さん呼ばわりするなよ。 紛らわしい」

「爺さんには間違いないだろ。 救急車で運ばれたってさ」

救急車と聞いては尋常な転び方ではなかったのだろう。

「どうする?」

運転席の男がミラー越しに後ろに座るおじさんと呼ばれた男を見る。

「いったん戻ったほうがいいか・・・」

「何言ってんだ、その間に敵にすっぱ抜かれたらそれで終わりだろう。 それに戻って来いとは言われなかった」

水無瀬の部屋から着信を知らせる音が響いてきた。 誰もが口を閉ざす。
短い着信音、メールかラインであろうことが分かる。

「ちっ、電話なら良かったのに」

電話なら相手の声が聞こえずとも話している内容が多少なりともわかるが、文章のやり取りではこっちには何も聞こえてはこない。

「ん? 雄哉か」

スマホを天板から持ち上げたような音がする。

「ふーん・・・」

ふーん、だけでは何が書かれているのか分からない。

「そうだな・・・。 ま、いっか」

何がいいのか。
返信を打っているのだろうか声が止んだがすぐ後に「ほい、送信」 という声が聞こえた。
スタンプだけを送信したのか、短い文章を送信したのか、それならばいったいどんな内容を送信したのか。

「どうする? 明日から学校には行かないようだし、バイトもまだ休むってことだ」

日常が今までとは随分と変わってくる。 そうなればこんなに離れたところに居ては水無瀬の行動を把握しかねる。
ミラー越しに視線を感じ、隣りの座席からは様子を窺うようにチラリと視線をこちらに向けられたのが分かった。

「そうだな・・・。 俺と誠司は面が割れてる。 お前ら二人が物陰にでも隠れて見張ってるか?」

「物陰に隠れるんなら、面が割れていようがなかろうが関係ないだろうよ」

「どうせ昼間のことだけだ。 向こうだって今日のことを考えると暫くは夜に出歩いたりしないだろう。 物陰に隠れるのが嫌だったら少し離れたところに居ればいい。 部屋を出た時には盗聴器で分かる、その時にはすぐに連絡を入れる」

「けっ、爺さんのせいで計画が崩れる」

「長だ」

一言いい残すと運転席に座っていた男が車から出ていった。

「あ・・・」

小さな声がスピーカーから漏れてきた。 三人が聞き耳を立てるが、それからは何も聞こえてこない。

水無瀬の目の前が揺らめき、まるで水の中に居るような錯覚に襲われる。 と、段々と周りの風景が違ってきた。 水無瀬の部屋の中であったはずなのに、テレビも硝子戸もまるで消されたかのように徐々にその存在がなくなっていった。
顔を下げると座っている自分の足が見える。 さっきまで触っていたスマホはどこに行った? 足を突っ込んでいたこたつは?
そんなことを考えていると違ったものが目に映ってきた。
岩、それにくっついているイソギンチャク。 揺れる藻。 その藻の中で何かが泳いでいる。 小さな魚だろうか。

(ここは・・・海?)

自分は海の中に居るのか? 海の中で座っている? 身体が浮くこともなく?
上を見上げる。 何かが見えるということは光があるということ。 海だとしたらその光源は太陽としか考えられない。 太陽であるのならば上にしかない。
燦燦と光が落ちてきている筋が見える。 だが・・・太陽だろうか。 太陽には違いないだろうが確信がない。
今の自分の状況を考えると、当たり前のことが当たり前と受け取れなくなってきた。

(・・・息)

思わず息を止めた。 だがよく考えると今の今まできっと知らず息をしていたはず。 そっと息を吐く。 泡となった空気が口から出ない。 だが息を吐いているのは間違いない。 息を吐く勇気はあっても吸う勇気はないが、いつまでも息を止めてはいられない。 そっと息を吸ってみた。

(吸える・・・)

どういうことだろうか、ここは海の中ではないということなのだろうか? それならどうして藻が揺れている? イソギンチャクの触手も揺れている? 何かが泳いでいる?
だが何と言っても息の心配はなくなった。 指を一本立て、その指を口に咥えてみる。 海水の味がするかと思ったが、単なる指の味でしかなかった。 指の味というのも何なのだが。

(・・・あ)

どうしてさっきまで気付かなかったのか、いく匹もの魚が泳いでるのが見える。

(いや・・・気付かなかったというより、今初めて見えたような・・・)

これだけの魚の数に気付かなかったはずはない。 きっと最初に部屋の中が段々と違ってきたように、そして最後には一切の部屋の中が消えたように、それと反対のことが起きている。 段々と違う風景が見えてきている。

(なんで?)

『俺についてくれば分からないことが分かる』 『お願い、一緒に行こう? そうすればちゃんと説明できるから』
二人の言っていた言葉が思い出される。 ついて行けばこの状況の説明をしてもらえるのだろうか。
魚が正面から泳いできた。 その身体を水無瀬の真正面で九十度変え・・・目が合う。 口角が上がっている。

(また・・・)

水無瀬のことをじっと見ながらゆっくりと泳いでいく。
前に見た時とは違う魚。 釣りもしなければ魚の種類も知らないが、全く違う魚だということは分かる。

(え・・・)

何匹もが水無瀬の前を泳ぎながら水無瀬と目を合わせていく。 と言うより水無瀬を見ている。
完全に認識されている。
・・・魚に。
思わず立ち上がろうとして思いっきり膝を打った。
ガン、という音が響き、目の前にこたつが現れた。

「痛ってー!!」

膝を抱えようとしてもう一度打った。 こたつの場所が段々とずれていく。

車中では三人が耳を押さえている。 何も聞こえなくなったが為、ボリュームを最大限に上げ、尚且つ、スピーカーを三人の間に置き、ほとんど耳をくっ付けていた状態だったからである。

「こんの・・・馬鹿ヤロウが! ただの捕獲で終わらせられると思うなよ!」

勧誘だった筈なのに捕獲に変わっている。 かなり手荒なことになりそうである。 後部座席の誠司が痛む耳を押さえながら、それでなくても下がっている眉尻を更に下げた。

「と! とにかくボリューム! ボリュームを下げろ!」

ボリュームの調整はフロント座席側を向いている。
痛ってー痛ってー、とまだ叫んでいる声が段々と小さくなっていく。

「隣・・・賑やか」

「・・・みたい」

二対の瞳が呆れたように水無瀬の部屋との境の壁を見ていた。

それから一週間が何もなく過ぎ去った。 いや、何もなくというのは決して何もなかったわけではない。 あれから何度もあの光景を見た。 何も無かったというのはおじさんや誠司が言っていた手荒なことということである。
そして膝の痛みもこの一週間で引いていった。 恨みつらみを言いたい膝痛だったが、あれがあったが為、分かることがあった。

目の前に現れる光景はあくまでも見えるだけというもので、逆に自分の居る場所にあるものが見えなくなっても、ただ見えなくなったということでそれらは存在している。 だから見えなかったこたつで膝を打ち、あの光景が海の中ならば海に沈んでいるはずの自分の指が塩辛くなかった、息も出来たということになる。
だがどうしてそんなものが見えるのか。 それを考えると分からなくなってしまっていた。
魚が水無瀬を認識していたということは、水無瀬はそこに居たということになる。 そこというのは海の中のはず。 だが水無瀬はそこに居なく。 といった具合にグルグルと迷走していた。

「おっと、時間」

それからワンテンポ遅れてダウンジャケットを羽織った音が聞こえる。
車中でそれぞれの目つきが変わった。
夜に出歩くなどこの一週間に無かった。 それもそうだろう、手荒なことをされるかもしれないと分かっているのだから。
だが今日はまだだ。 連絡では明日応援が来るということになっている。

「この一週間で気が緩んだか。 丁度いいじゃないか、明日も出かけてくれると捕獲しやすい」

「じゃ、俺行ってきます」

助手席の後ろのドアが開けられた。 今日、水無瀬を尾行するのは誠司である。

「ああ、顔を晒すんじゃないぞ」

この二人の顔は水無瀬に知られている。 昼間の尾行であれば顔を知られていない二人がするが、夜ならば夜陰に隠れることが出来るということで、夜の場合は顔の割れている二人のどちらかがすることになっていた。
尾行の理由は、水無瀬が逃げたとしてもその後を追えるようにということと、敵の接触がないかということを見る為である。

「はい」

パタンとドアが閉められる。 ドアの閉め方も大人しいものだ。 だがいくら気弱な顔をしていても大人しくても、以前に助手席の男が言ったようにあくまでも肉体派である。 ドアを閉めたと同時にまるで風のように走り出す。

「けっ、相変わらず早いな」

身の軽さも一番であるが、他の二人がそんなことを言えば助手席に座るこの男はへそを曲げるだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハラカルラ 第3回

2023年10月20日 21時33分00秒 | 小説
ハラカルラ    第3回




部屋の電気は点けっぱなしで、その部屋と玄関との境は硝子戸。 薄明りにはなるが、靴を履くには十分な明かりであったため玄関の電気は点けていなかった。
慣れた位置に手を持っていき玄関の明かりのスイッチを入れ、半畳ほどの三和土に目をやる。 すると見慣れない白色のUSBメモリースティックが落ちているではないか。
拾い上げ目の前にかざすが、誰かのUSBスティックを預かった覚えもなく、やはり見慣れないUSBスティック。 少なくとも自分のものではない。

「雄哉のかなぁ?」

この部屋に遊びに来るのは雄哉くらいなものである。

「にしても、最近は来てないし」

もしUSBスティックを失くしていたのなら、とっくに訊いてきただろう。
内容を見て持ち主が分かるのなら見てみようかとも思うが、見られて困るものなら見られたと知っていい気はしないだろう。

「ま、失くして困ってるんならいつか訊いてくるだろうけど、何でここに落ちてたんだ?」

気付かない間に鞄かポケットにでも入ってしまっていたのだろうか。
USBスティックを手に握りこむと玄関の電気を消し硝子戸を開け、こたつのコンセントをさし、USBスティックをこたつの天板の上に置いて、ダウンジャケットを脱ぐとこたつに足を入れた。 コンビニ袋からお握りと温かい茶の入ったペットボトルを出す。

コンビニ袋がたてるガサガサという音が車内に広がる。
一台の車がスッとアパートの前に停まった。 既に三人が車の中にいたが、そこへ一人の男がやって来て運転席の後ろのドアを開けると乗り込んだ。

「どうだった?」

「見たようだな」

「返事は?」

「逃げられたが、まぁそうだろうよ」

急にあんなことを言われれば、普通の人間なら誰でも逃げ出すだろう。

「言い方の問題じゃなく?」

助手席に座っていた三十過ぎくらいの男がルームミラーを動かしながら、運転席の後ろに座った男の顔をミラー越しに見て言った。
ルームミラーに映っている、さっき水無瀬に声をかけ、おじさんと呼ばれた男が助手席に座る男をミラー越しにじろりと睨む。

「俺はお前より人当たりがいい」

口は上手い方ではない。 言葉の選び方がどうだったのかは、逃げられたのだから上手くはなかったのだろうが。

「さいで」

男がソッポを向くと、運転席から手が伸びてきてルームミラーを調節し直しながら、こちら側の報告をする。

「投げ入れたUSBスティックを見つけたようだ」

おじさんと呼ばれた男が眉を上げる。

「やっとかい」

「あの年齢だ、玄関なんてそう気にしないだろうよ」

「まぁな。 で? よく聞こえるか?」

「ああ、部屋に持って入ったようだ。 今は・・・多分食ってるんだろうな」

少し前まで聞こえていたガサガサという音がしていない。
USBスティックとは、その姿をした盗聴器である。

それは水無瀬が音がしたと、玄関の戸を開けた時に投げ入れたものであった。 勢いをつけてドアを開いたがため、深夜のシンとした空気が鼓膜にひびいて投げ入れられた音に気付かなかった。 いや、殆ど音もなく投げ入れられていた。

投げ入れたのは、アパートの二階の廊下外側にぶら下がりながらのことであって、水無瀬の足元をかすめる様に玄関に吸い込まれていった。
水無瀬は左右しか見なかった。 まさか廊下に人がぶら下がっているなどとは考えもしなかったのだから。

「とにかく、こっちが接触しようとしていることには気付かせた。 あとはこっちに来るかどうかだが・・・」

「脈としてどうだった?」

「そうだな・・・不審がられたのは確かだが・・・。 説得すればどうにかなるか、ならないか。 そんなところだろう」

「興味本位で動く青年じゃないってことか」

ここまで運転席に座る男とおじさんと呼ばれた男だけが話していたが、助手席から声が入ってきた。

「根性もないかもな」

生活を変える根性、そう言いたいのだろう。
水無瀬が大学生だということは調べがついている。 大学三年生で、このままいけば余裕をもって卒業が出来るということも。 だが今すぐにその生活を捨て新たな居住地で生活をするなどと、今までの三年間を棒に振るなどと簡単に出来ることではない。 それこそそれなりの根性がいるだろうが、水無瀬に限らずとも誰もがそんなものを持ち合わせているはずはない。

「根性がなくとも・・・縁、だろう」

「縁? 笑わせる」

助手席の男が鼻で笑ったが、おじさんと呼ばれた男はそれ以上何も言わなかった。

「あ、あの、それでどうします? これから」

隣に座るおじさんと呼ばれた男を見ながら始めて声を発したのは、助手席の後ろに座っていた一番若い男、水無瀬より二、三歳年上だろうか、男と言うより青年である。 この青年がドアにぶつかり音をたてたあと、すぐさま廊下にぶら下がりUSBスティックを投げ入れた。

「そうだな・・・」

「お前の感じた手ごたえ次第で―――」

「勧誘の仕方がかわる」

運転席に座る男が言うのに被せて助手席に座る男が言った。

「勧誘って・・・」

その言葉の裏に隠された意味を知っている青年が思わず小声で言ったが、助手席の男は気にも留めていないようだ。 それとも小声だったが故聞えなかったのか。

「取り敢えずあと何度か接触する。 それで受けてもらえないのならば、その時に考える」

「余裕があるわけじゃない」

「・・・分かってる」

この男、おじさんと呼ばれた男はいわゆる穏健派である。

「誠司も連れて行けばどうだ?」

誠司も穏健派である。 穏健派と言っても派閥が分かれているわけではない。 単なる性格別というところである。

「え・・・」

誠司と呼ばれた助手席の後ろに座る青年が思わず運転席の男を見る。

「この中でお前が一番歳が近い。 あっちも少しは気を許すだろう」

「あ・・・でも・・・俺、そんな上手く言えないし・・・」

穏健派というよりは単に性格的に大人しい口下手という方が合っているかもしれない。
助手席から鼻で笑うような音が聞こえ、続けて投げ捨てるような言い方の声がする。

「強制でいいじゃないか」

「それは最後だ。 じゃ誠司、あと一回俺が接触する。 それでも駄目な時は頼む。 何を言うかは俺が考える。 って、俺も口が上手いわけじゃないけどな」

「あ・・・はい・・・」

「ま、誠司も俺も口派じゃなく肉体派だからな、上手く言えるはずもないだろうが期待してるよ、誠司くん?」

またもや助手席からの声である。 最初は普通の口調だったが、最後の方はどこか蔑(さげす)んだような言い方。
運転席の男が助手席の男を一瞥するとアクセルを踏む。

「これだけよく聞こえるんだから少し離れたところに移動する」

「ああ、そうだな」

水無瀬を狙っているのは自分達だけではない。 今となっては敵となってしまった相手はまだ水無瀬に気づいていないようだが、敵の動きが分からない以上、万が一のことがある。 敵に姿を晒すようなことがあってはならない。
車がゆっくりとアパートの前から姿を消して行った。

「うーん、あと一個買ってくればよかった」

お握り二つでは腹は満たされなかった。

「って、今からまた外に出たくもないし。 寒いし・・・さっきのおじさんがまだ居るかもしれないし」

まるでマイクに向かって話している状態なのだが、そんなこととは露知らず独り言が口から突いて出る。

「いったい何なんだよ、分からないことが分かるとか衣食住の保証だとか」

そんなことを言ったのかと、車内の空気が何となく白々しい雰囲気に包まれる。

「まぁ、嘘ではないし事実だな」

場の雰囲気を変えようとしたかったのか、運転席からの声である。
車が児童公園に横付けされる。

「ここら辺りでいいだろう」

盗聴器からの声はまだ十分に聞こえる。

「こっちはあと一年で卒業なんだよ、それにこれから就活に専念したいってのに誰がついて行くかよ。 自衛隊に入りませんか? じゃないだろ。 たとえ自衛隊でも何かの宗教の勧誘でも入らないっつーの」

”勧誘” という言葉に車内では一瞬四人が止まり、次に誰もが吹き出しそうにしている。 いや、一人だけ助手席では声を上げて笑い出した。 笑いながら「あいつ、勧誘されたいみたいだな」 などと言っている。

「そりゃ、特別な何かをやりたいことがあるわけじゃないけど・・・。 それでも」

大学で学んだことを生かしていきたい。 自分にはそれしかないような気がするし、好きだから、興味があったからその学部に入ったのだから。

“それでも” と言った切り音声が流れてこない。

「おいおい、それでもなんなんだよ。 それによっちゃあ、強制勧誘になるだろうが」

強制勧誘、言葉的に受けるイメージより実際はもっと強烈なものになる。

寝ころんだのだろうか、その様な音が流れてきた。

「魚・・・」

車内の四人の目が一瞬にして厳しくなる。

「何だったんだろ。 それに水も・・・。 あ、待てよ」

ガバリと起き上がる。
あの時、コンビニから出てきたとき魚と目が合って、ちょっと振り向いた隙に魚が居なくなっていた。 だからあの時 “どこかに泳いでいった” そう考えた。

「なんであの時そんな風に考えたんだ」

そう考えるのはおかしいことだろう。 目の前に魚が泳いでいて・・・それなのにどうしてそれが当たり前のように、そんな風に考えたのだろうか。

「あ、そう言えば学食でもだったんだ・・・」

学食で目の端に何かが見えた、気がした。 だがそこには食べたり談笑している学生がいただけだった。 なのに “不自然なものはない” と捉えてしまっていた。
目の端に何かが見えたような気がしただけなのに、そこに不自然なものがあるはずだと思ってしまっていたということになる。

「なんで・・・どうしてだ?」

当たり前の風景を見て不自然なものはないと捉えたり、道路に泳ぐ魚がどこかに泳いでいったとか、どうしてそんな風に考えてしまったのだろうか。

「けっ、なんかチューニングの合ってないラジオを聞いてるみたいだな」

要点が掴めない、文章で言うならば全文が分からない。

「ああ。 だが少なくとも見えているからだろう、だから混乱を起こしている」

フロントシートで話されていることを耳にしながら、おじさんと呼ばれた男がヘッドレストに後頭部をあずけ目を瞑る。

(その内に気が触れてくるかもしれないな)

それに猶予がないのも分かっている。 向こうがそろそろ水無瀬に気付いてくる頃かもしれない。


翌朝テレビを見ているとスマホの着信音がどこかで鳴った。

「ん?」

スマホ・・・どこに置いたっけ? 考えるが記憶がない。

「あ・・・」

昨日はボォっとしていてどこにもスマホを持って出なかったのかもしれない。 ということは。
立ち上がり奥の部屋のベッドまで歩いて行くとあった。 やはり枕元に置きっ放しにしていたようだ。

スマホを開くとラインが二件入っている。 その内の一件が今の着信音で、二件供が大学からだった。
最初の一件目は休講を知らせるものだったが、ボォッとしていたから着信音に気付かなかったようで、残念ながら見ていなく昨日大学まで行ってしまっていた。
そして今着信があったのは、代理の教授の元で授業があるという知らせだった。

「おー、よしよし」

これで単位が取れる。

「昼前からだな」

と言ってもそろそろいい時間。

隣の部屋から物音が聞こえてきた。 そこそこの音である。

「そう言えばちょっと前から色んな音が聞こえてきてたっけ」

大きな音ではなく気に留めるほどではなかった。
ピンポーンと、隣の部屋のくぐもったドアチャイムの音が聞こえてきた。 そしてドアを開ける音に続いて会話が聞こえてくる。

「お早うございます。 ワンニャン引っ越しです」

「うっす。 よろしく頼んます」

「ああ、引っ越しするのか」

聞こえていた音は荷物をまとめていた音だったのか。
端部屋になる隣に住んでいたのは、三十を少し越したさえない男だったが、一度話したことがある。 その時に賃貸ではなく分譲を買う金を貯めるために、この安アパートに住んでいると話していた。 ということは戸建てないしマンションの部屋でも買うことが出来たのだろうか。

「言っても広くはないだろうな」

とはいえ分譲である。 羨ましいことだがローンに苦労するだけだろう。 実家がまさにそうであるように。

「まぁ、それもこれも俺の授業料のせいだけど」

だからせめてもと考え、二年になった時に仕送りを断ってバイトに励んでいた。
スマホで時間を確認するとそろそろ家を出なくてはいけない時間になっている。 今日で最後の講義になる。

「USBスティック・・・」

どうしようか、持ち主に訊かれたらすぐに返すことが出来るように大学に持っていこうか。 でなければいちいち取りに帰らなければいけない。 若しくは日を改めて出直さなければいけない。 それも面倒である。 もう今期は大学に行くことは無いのだから。

今は本棚の上に置いてあるUSBスティックをちらりと見るが、この持ち主が大学の誰かとは限らないし、持って出て落としてしまってはそれなりに責任を感じてしまう。

「まっ、いいか」

置いていっても。
ジャケットを羽織りリュックを背に部屋を出ると、引っ越し業者が隣の部屋から荷物を抱えて出てきた。

「お早うございます、お騒がせしてスイマセン」

爽やかな笑顔と共に軽く頭を下げた。

「あ、いえ」

ワンニャン引っ越しと胸元に書かれたつなぎを着ている。 水無瀬を通り過ぎると斜め前に見える鉄筋階段をカンカンという音をたてて降りていったが、背中にはワンワンとニャンニャンの大きな絵が入っていた。 きっと初めて袖を通した時には恥ずかしかっただろう。

それにしても教育がなされている。 水無瀬のバイト先のアイツとはえらい違いである。
もう一人も荷物を抱え出て来て同じように挨拶をしていった。 そしてアパートの前に停められてあった軽ワゴンに積み込んでいる。
一人身は荷物が少ないから軽ワゴンで十分事足りることは身をもって知っている。 特に隣は金を貯めるためにこのアパートに居たのだから、要らないものなどは買っていなかっただろう。

隣に挨拶をしようかどうか束の間逡巡したが、一度しか話したことが無いのだ、必要ないだろうと鍵をかけ鉄筋階段を降りていった。

授業を終え駅を出て憩いの広場を通り過ぎようとしたが、何となくベンチに座ってゆっくりとしたいという思いに駆られた。
四年間で終わらせる授業を三年で終わらせ、その最後の授業を終えたという満足感からなのだろうか、広いところでゆっくりとしたくなったのかもしれない。 寒いけど。

ポケットに手を突っ込んだままベンチに座る。
今日も手袋を忘れた。 急いでもいなかったのに。
結局誰にもUSBスティックのことを訊かれなかった。 持って出なくて正解だったが、いったい誰のものなのだろうか。

「今日あたり中を見てみるか?」

いや、あのUSBスティックがあそこにあったことに気付いてまだ何日も経っていない。 せめて一週間は待った方がいいだろう。 一週間前から玄関にあったとしても。
芝生の広がる広場では小さな子供が遊んでいる。 それを見守るように見ているベビーカーを横に置いてベンチに座っている母親、子供と一緒に小さなボールで遊んでいる母親、家から作ってきたのだろうか、弁当を手にしている親子もいる。

「子供って元気だよなー」

寒いのに外で遊んだり、わざわざ外で弁当を食べたりして。
いつもなら夜のバイトに控えて今ごろは寝ているか、提出のレポートを書いているかだった。 これだけのんびりとしたのはいつぶりだろうか。

「詰め過ぎてたよな」

学生同士の付き合いがなかったわけではない。 誘われればそこそこ行き、そこそこ断っていた。 せっかく大学に通っているのだからキャンパスライフも楽しみ、友達付き合いもしたかったし、それなりに興じたかった。 だが自分から誘うことは無かった。

「よう、兄ちゃん」

後ろから声をかけられた。
振り向こうとした時には隣に座られていた。 それも両隣に。

「あ・・・」

見覚えのある顔。 思わず腰が上がる。

「そう逃げることもないだろう」

肩を抑えられベンチに尻を落とすが、そう強く抑えられたわけではない。

「こないだは急に変なことを言って悪かったな」

どう返事をすればいいんだ。 “いいえ” とは言いたくないし “はい” と言ってしまえば謝罪を受けることになる。 それも言いたくない。

「だけどな、事実なんだよ」

「え?」

おじさんが小さく顔を振る。 水無瀬の反対に座る男・・・青年に合図を送るように。 そしてそれは確かに合図だったようだ。

あと一度このおじさんが水無瀬に接触をし、駄目だった時にこの青年と一緒にと言っていたがフライングとなった。
青年が下を向いたまま話し出す。

「あの・・・俺も見えます」

え? え? 見えますって?

「君一人じゃないから・・・見えるの」

はい? はい?

「だから・・・一緒に居れば、その、心強いって言うか・・・」

「え? あの?」

やっと口から出たのがこれだけ。

「水、見たでしょ・・・?」

ようやく顔を振り水無瀬を見た、が、上目遣い。 水無瀬と同いくらいか、気の弱そうな顔立ちをしているからなのだろうか一つ二つ歳下とも感じられる。

「み、ず・・・?」

あのことを言っているのか?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハラカルラ 第2回

2023年10月16日 21時12分27秒 | 小説
ハラカルラ    第2回




クシュン。

後ろから伸びてきた腕が水無瀬の腕に絡みついてきた。 この感触は確かめなくても誰かはすぐに分かる。

「よっ、水無ちゃん風邪?」

腕を絡めてきた相手が水無瀬の顔の前にひょっこりと顔を突き出してくる。

「って、ナニその顔!?」

目の下にはクマが出来、目が潤み、鼻の頭が赤くなっているだろうことは想像できる。
あれから寝られなかった。 あれやこれやと解決できないことが頭の中を駆け巡り、気付けば小学生の声が聞こえてきた。 小学生の登校時間となっていた。 それからウトウトとしだして、いつしか天板に顔をあずけたまま寝たようだった。 ほんの一、二時間だろうか、その間に見事に鼻風邪をひいたようだ。

「寝不足の働き過ぎの、寝たから鼻風邪」

「いや、それってどっか矛盾してね?」

「してないからここに居る」

「してるって。 寝不足の寝たから鼻風邪って。 ま、そこはどうでもいいか」

「いいのかよ」

「うん、いいのいいの。 次の水無ちゃんの講義中止だから」

「は?」

「インフルだってよ」

雄哉の声が遠くに聞こえる気がする。

「はいー?」

「当分、休みだってよ」

ウソだろ。 今日はこの一講義だけに来たっていうのに。 バイト先のあのお気軽なアイツの言ったことが思い出される。

『バカンス? ハワイとか?』

バカンスどころかハワイどころか行き先は地獄じゃないか。 重い身体に鞭打って駅まで歩き電車に乗って来たというのに。

「まぁそう落ち込むなよ。 って、どこまで落ち込むんだよ」

リュックを背負った俺は膝を曲げて座り込んだ。 一回生の時から寿司詰め状態講義を盛り込んだ。 入学して半年ほどが経った頃には、生活の資金繰りに深夜のバイトにも励んだ。
うちの大学は二月いっぱいまで講義がある。 だから今月中にこの講義さえクリアすれば単位がパーフェクトになるはずだった。 早々に自己卒業が出来るはずだった。 あくまでも卒業論文が合格すればだが。

「そっか、そうだよな。 水無ちゃん頑張ってたもんな」

他地方から出てきた高校の同級生である雄哉は水無瀬のことをよく分かってくれている。

大学に入ったのは肩に背にそれなりの箔をつけ、それなりの常識範囲の知識をつけたかったから。 入学をしたのは国立でもなく公立でもなく、有名私立大学でもなかったが。

もしかしてこれは母親が大卒で、父親が高卒だったのが理由かもしれない。
高卒と言っても父親曰く 『高校入試の時には自分の名前が書けて、面接の時にはお父ちゃんとお母ちゃんの名前が言えればいいなんて世間では馬鹿にされてたけど、まさかそこまで馬鹿高校じゃなかった』 という高校だったらしい。

恋愛だとは聞いていたが、父親は多様な言葉を知らなかった。 母親はいつも噛み砕いて父親に話していた。 それも自然に聞こえるように。 そのどこかに疲れを見せ出していたが、父親はそれに気付いていなかった。 水無瀬はそれが悲しかった、父親が憐れだった、父親の気付かない母親の疲れが分かって水無瀬もしんどかった。

決して父親を軽視しているわけではない。 どれだけ仕事に疲れていても明るく笑顔を絶やさず母親を大切に思い、家庭を守ってくれている父親。 家庭を持つ男として一番必要な心構えを持っている。
だけど父親のようにはなりたくない。 彼女が出来ればその彼女に見下されることの無いよう知識を入れたかった。 言葉も然り、専門的なことも。

「卒業まで日はあるって。 ってか、水無ちゃん俺より余裕じゃん?」

たしかにな。 雄哉、お前サボりすぎだし。
膝に力を込めて立ち上がる。

「おっ、復活」

「してねーよ、帰って寝る」

パンパンとダウンジャケットを叩くと、ポロリとポケットからアレが落ちた。

「ん?」

雄哉が拾い上げて畳まれていたそれを開こうとするのを止めた。 が、遅かった。

「なにこれ? これって古代文字?」

「え?」

取り上げようとした紙を更に開いていく。

「なんで水無ちゃんがこんなものを持ってるわけ?」

紙が全開された。
こんなもの? それってどういう意味だ?

「・・・雄哉、お前これが分かるわけ?」

「馬鹿か。 分かるわけないだろ」

顔が引きつり膝が笑う。

「だって・・・古代文字って・・・」

今様にしか考えられなく、古代とは考えもつかなかった、発想に無かった。 せいぜいマークに見えるものを象形文字と考えたくらいだった。

「うーん、分かんねーけど、どっかで見たことがあるんだよな。 これと似たような感じで」

気のせいかなというが、そんな気のせいはないだろう。
俺は雄哉の胸ぐらを掴んだ。

「思い出せよ」

あ、あんまり力(りき)み過ぎると鼻提灯が膨らみそうだ。

「おいおい、それってセクハラじゃね?」

「それを言うならパワハラだろ」

「俺と水無ちゃんの間にパワーバランスの優劣はない」

言われてみればそうだし、それにどちらにしろ正鵠を射ている気がしない。 胸ぐらを掴んだままお願いをする。

「雄哉さん、お願いだから思い出して」

「それがお願いする態度?」

言われてみればそうか。 手の力を抜いて雄哉の胸ぐらから手を離し再度お願いする。

「雄哉さん、思い出してみて?」

ついでに頭を下げてみる。 う・・・鼻水が・・・。 それにさっき力を入れたからだろうか、目のウルウルが酷くなってきた。

「苦しゅうない、頭(こうべ)を上げい」

「はい」

俺は目と鼻から流れるものをキラキラと輝かせて雄哉を見た。

「うーん、無理」

「は?」

「思い出せなーい」

「てめー!!」

紙を取り上げ蹴りを食らわせてやった、が、逃げられた。

「とにかく、講義は休講。 バイトのし過ぎじゃね? 身体を休めろよー。 それと鼻水拭け」

手を振って逃げ去って行く。
ある意味有り難い友達だ。 だが、はぁー、っとため息が出ると共に鼻水も流れてきた。 ポケットからポケティを出しチーンと鼻をかむ。

「休講か」

あのまま寝ていればよかった。 あ、そうしたら鼻風邪どころではなかったか。

「ん?」

雄哉はどうして休講のことを知っていたのだろうか。

「って、雄哉だもんな」

疑問はすぐに消された。
同じ学部ではないが、人懐っこく人見知りなどとは程遠く誰とでも話すことが出来、あちこちに顔の利く雄哉である。 教授とも色んな学部の学生とも交流がある。

「だから・・・古代文字なんて言葉も出てきたのか」

言葉だけではなくどこかでそれらしいものを見たのかもしれない。 いや、見たと言っていた。
思い出してくれよー、と言いたいが、きっとそれらしい感じの文字を見た止まりなのだろう。 読み解くまでには至らない範囲。
だがあの雄哉のことだ、気にかけてくれているはず。 そして思い当たる人物に接触して何かを訊いてくれるか俺に紹介してくれるはず。 今はそれを待つしかない。

「って、これに囚われたくないなー」

どうしてポケットから落ちてきたのか。 いやそれよりどうして夕べポケットに戻してしまったのか。 そう思いながらも再び二つをポケットにしまい込んで気付いた。 ポケティを何度か出し入れしていたから落ちたのか、と。 ポケティを反対のポケットに入れ替える。

アパートに戻るとさすがに眠気に襲い掛かられた。 顔も重い。 微熱こそないが、きっと鼻風邪のせいだろう。
こたつでぬくぬくと眠りたかったが、さすがに一度踏んだ轍(てつ)は踏まない。 買って帰った鼻風邪用の薬を飲んでスウェットに着替えると、ベッドで布団にくるまった。

よく眠れたのだろう、目が覚めるとスッキリとはしていたが漆黒の闇だった。

「うわ、豆球も付けなかったのか」

さほどの自覚は無かったが、かなりのバタンキューだったようだ。 手探りで電気の紐を探す。 左右に動かす手の甲に紐が当たりその紐が弾かれる。 すぐに手を返し弾かれ戻ってきた紐を掌に収め下に引っ張る。
電気が点き一瞬眉をしかめる。 まぶしい。 二度紐を引っ張り豆球にすると薄闇の中、隣の部屋に移動する。 豆球の明かりを元に電気の紐を引っ張る。 電気が点くと何故こっちで寝なかったのかと、こたつが煌々と自己主張をしているようだ。

「腹減った・・・」

時計を見ると午前二時を回っている。 昨日は何も食べていない。 ダウンジャケットを着こむと鍵と財布を持って玄関に向かう。 ダウンジャケットの下に見える下穿きはスウェットだが、この時間だ気にすることは無いだろうし、冬物のスウェットだ、寒さにも耐えられるだろう。
スニーカーを履き外に出るとドアに鍵をかける。 あの時聞いた気になる音がある、ドアノブを回し鍵をかけたことを再度数回確認する。

「よし」

廊下を歩きカンカンカンと音を鳴らして鉄筋階段を降りていく。 向かうはアパートから一番近い二十四時間営業のコンビニ。 自分の働いているコンビニではない。 そこまで行くと廃棄があるかもしれないが、今は金にものを言わせてでも近場で済ませたい。
だが近場と言ってもそこそこ歩かねばならない。

「うー・・・寒いぃぃ」

身を縮こませて歩いていると後ろから声をかけられた。

「よっ、兄ちゃん」

「はい?」

アパートの近場に “兄ちゃん” と呼ばれる顔見知りなどいない。 水無瀬の働いているコンビニ近くであったのなら、客ということで有り得なくもないが。
“兄ちゃん” と呼んだガタイのいい男が水無瀬の横に並んだ。

「この寒いのにどこにお出掛け?」

俺がどこに行こうがお前に関係ないだろう、とは思うが、こんな所で喧嘩を吹っかけてもあとが面倒臭いだけだ。

「あ、そこのコンビニまで」

行き先は言った。 こっちは病み上がりなんだ、とっとと消えろ。

「そっかー、コンビニか」

「あの、おじさんもコンビニですか?」

おじさん、と呼んでもいいのだろうか。 だが完全に中年だし許されるだろう。 それにコンビニではないと答えて欲しい。

「コンビニは便利だよな」

「あ、はい」

そんな返事を期待していたわけではないのだが。

「若いもんはコンビニがなくちゃ生きていけんだろう?」

「あ・・・どうでしょうか」

水無瀬はそのコンビニで働いているのだから、そう言えなくもないが。

「なぁ、俺について来んか?」

「え?」

「コンビニが無くても不自由はない」

現コンビニバイト店員としてそれは避けたい話しである。

「え? あの?」

「衣食住に困ることは無い」

衣食住に困ることが無いのは迎え入れたいところだが、何を言ってるんだこのおじさんは。

「あ、あの・・・あ、そこのコンビニなんで、じゃ」

コンビニの明かりを指さすと走った。
コンビニで僅かに残っていたお握り二つとホットの茶をレジに通し自動扉の前に立った。 ウィーンという音をたてて扉が開いていく。 目に映る範囲におじさんが待っていないかどうかを確認する。

居ない。

ホッと安堵の息を吐く。

「考え過ぎか。 これが被害妄想ってやつなのかな」

肩の力が、どこか強張っていた力が抜けていく。 思わずそんな自分に呆れて鼻で笑ってしまった。

「あ・・・」

目に・・・目の端ではなく、目に、正面に・・・。
魚と目が合った。

「え・・・」

横姿を見せた魚が水無瀬の前を泳いでいく。 だがその目は水無瀬をじっと見たままで、進行方向に反して眼球が後ろにずれていく。

「なん、で?」

魚の眼球は動くのか? そんなことは知らない。 だけどまるでスローモーションのように泳いでいる魚、その魚の眼球が動いている。 その視線の先には水無瀬がいる。 早い話、ずっと水無瀬と目が合っている。 ましてや口角が上がって・・・笑っているように見える。

(魚の口角が上がるって・・・)

有り得ないだろう。
有り得ない、だから目をこすった。 何度も何度も。

「あのぉ、お客さん」

後ろから声がかかった。
こすっている手を止める。

「出るか出ないか、どっちなんすか」

ぶっきらぼうな言い方だった。 うちのコンビニのアイツのような。

「あ・・・」

自動ドアが開けっ放しになっていた。 寒風が店内に入っている。

「あ、すいません、出ます」

軽く振り返り店員に言い、前を見ると目の前に居た魚はもう居なかった。 どこかに泳いでいった・・・。

(え?・・・)

どうして・・・。 どうして道路と交差して・・・いや、道路が水の中にあるんだ・・・。
出しかけた足を止めた水無瀬に店員が呆れた声でもう一度声をかけてきた。

「お客さん」

「あ・・・あ、はい」

何がどうなっているんだ。 ゴクリと唾を飲み込んだ瞬間、水が消えた。

「え・・・」

「お客さん、具合悪いの?」

こいつも敬語を知らないのか。

「いや・・・何でもないです」

もう一度振り返り店員に言うと前を見た。 いつもの道路が目に映る。 いつもと何ら変わりはない。
自動扉を出てそのまま足を動かす。

(何なんだ、さっきのはいったい何なんだ・・・)

俺の勘違いか?
勘違い? あれが? そんなわけはない。 完全に目が合った、笑っていた・・・魚が。
それに水の中に道路があった。

(水? 水の中に道路?)

どうして自分はそう思ったのだろうか。
水は透明でそれと分かるものではない。 それなのにどうして。 顔を俯けて考える。

(・・・揺らめいていた?)

そうだ、揺らめいていた。

(それって、波が立ったということか?)

いや、そうではない。 波など見えない、もっと深くの水の中。

(どうして、どうしてそう思うんだ)

それと分かる何かを見たわけではないのに。
いや・・・見た。
何かを。

(俺は何を見た?)

顔を上げた時、おじさんが目の前に居た。

「え・・・」

どうしてここに居る? ここで何をしている?

「なぁ、俺についてくれば分からないことが分かる。 どう?」

分からないことが分かる? さっきは衣食住に困ることは無いと言いながら、なんなんだそれは。

「結構です」

俺は走った。 走って走ってアパートまでたどり着いた。 後ろを振り返るとあのおじさんの姿は見えない。 追ってはこなかったようだ。
息を弾ませたまま音を立てて鉄筋階段を駆け上がり部屋に飛び込むと、鍵をかけチェーンをかける。 その途端、ドアを背にまるで尻もちをつくようにズルズルと座り込んだ。

「なんなんだよ、いったい・・・」

掌で額を覆ってみるが、何一つとして分かるはずなどない。
目の前を泳いでいく魚。 その魚がじっと水無瀬を見て笑っていた、そして一瞬の間に居なくなった。 見慣れた道路が水の中にあった。 だがその水も唾を飲んだ途端に消えた。 知らないおじさんが声をかけてきた。 それも水無瀬が戸惑っているのを見透かしたように、おじさんについてくれば分からないことが分かるなどと言って。 ましてや衣食住に困らないなどとも言って。

「くそっ!」

額を覆っていた手を膝に着くと勢いよく立ち上がり、スニーカーを撥ねるように脱いで玄関に上がった時、コンっと何かの音がした。 撥ねたスニーカーがその何かに当たったようだ。

「ん?」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハラカルラ 第1回

2023年10月13日 21時49分19秒 | 小説
ハラカルラ    第1回




何かが聞こえた
何の音だろう
顔を巡らせる
キラキラと光るモノが見える
あの音は何処から聞こえてきたのだろうか
キラキラからだろうか
それともずっと続く広いどこかからだろうか
悲しい声が聞こえる
ゆらゆらゆら

「どうしたの?」
遥か彼方を指さす。
目の前に水平線が広がっている。 もう陽が落ちている。 見たこともない満天の星空。
「綺麗なお星さまね」



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「んじゃ、お疲れー」

今日のコンビニバイトが終わった。
店内はまだ温かい。 羽織ったダウンジャケットのジッパーはまだ上げていない。
こんな深夜の時間帯なのに数人の客が本の立ち読みをしている。 もう二十分近くになるのではないだろうか。 だがそんなことも珍しい話ではない。

「ほーい、お疲れ。 あ、水無瀬(みなせ)っち明日から連休取るんだったよな?」

煙草の補充をしていた手を止め、後ろを向いていた少し太った身体をこちらに向けている。

「ああ、しばしの身体休め」

「バカンス? ハワイとか?」

「んなわけないだろ」

そんな金などない。 実家に帰るわけでもなく何の予定があるわけでもない。 ただどうしてかここのところ身体の調子が悪い。 身体というか、正しく言うと目の調子ということになる。

「らっしゃーせー」

自動ドアが開き客が入ってきた。 こいつはちゃんと “いらっしゃいませ” とは言えない奴だ。

「休まれるとシフト厳しいんだよなぁ」

こいつは俺と同じく大学生ではあるが、俺より一年年下なのにあまり敬ってもらっていない。 と言うか、店長にもこんな調子で言いたいことを言っている奴だ、入ってまだ二ヵ月ちょっとしか経っていないというのに。
それに誰が水無瀬っちだ。 水無瀬さんと呼べないのか。 まず敬語を知らないし、俺は黒髪なのにこいつは茶髪だ。 まぁ、髪色は関係ないか。

「言ってろ。 店長には許可もらったから、せいぜい俺の居ない間にシフト入って小金貯めろ」

「言ってろ」

文句を言いながらもどこか笑っている。 小金を貯めたいらしい。 まぁ、身体はキツイだろうが、せいぜい働け。
品出しや納品されてきたものの検品、発注、客がレジに並ぶ合間を見てやらなければならないことが無いわけではない。 って、それは全部こいつが来る前に俺が済ませているわけで、こいつは何もしていなかったわけだが。
まぁ、発注はまだ新人には任せられないだろうから店長が来てするだろう。 あと検品や品出しはお前がしろ。 新人でもそれくらい出来るんだからな。 それにレジ前でじっと立っているのも、それなりにキツイだろうしな。

さっき入って来た客がレジに並んだ。 ここ数日この深夜に見かける客で、いつもキンキラの派手なスタジャンにニットキャップを被っている。 年齢的に俺より一つ二つ下のどこかの学生かフリーターか。 きっと深夜から朝にかけてのバイトに行くのだろう。 バイトの前に腹ごしらえをしているようで、いつも店内をぐるりと回って、結局はお握りとペットボトルの茶だけを買っていくが、そうならばコンビニ若しくは食べ物屋でのバイトをお勧めする。 廃棄がタダで食えるからな。

レジを見ながら心の中でお勧めをし自動ドアが開いて外に出る。 数歩歩くとドアの閉まる音が聞こえる、と同時に「あざーす」 というアイツの声も。
レジが終わったのだろう。 “有難う御座いました” と言えんのか。

店を出ると寒さが身に沁みて一気にジッパーを引き上げる。
今は深夜。 目の前の道路には日中の車が吐き出す喧騒はないが、広いコンビニの駐車場には喧騒を吐き出す本体となる車が数台停まっている。
さっきの客が店を出てきて俺を追い抜いていく。 前後に振られている袋を見ると、形状からしてお握りとペットボトル。 やはり今夜も同じものを買っていったようだ。

「そう言えば、今日は比較的客が少なかったかな?」

まぁ、いいか。 客が多かろうが少なかろうが、忙しかろうが暇だろうが、時給にひびくわけではない。 今日一日が終わった、ただそれだけ。
ふっ、と白い息を吐いた時、右目の端に何かが映った。 そっと首を捻じりそちらを見てみる。
何もない。

(また・・・)

目の調子が悪い、そう思っているのがこの現象だ。
目の端に何かが見える、映る、大体が右目の端。 映ったそれが何なのかはっきりとしない。 時には光っているようにも見えることがある。

(いったい何なんだよ)

眼科に行くほどのことは無いだろうし、医者に説明するにもあまりにも漠然として上手く説明できそうにない。 それに説明できたとしても、その程度のことで眼科に来るか? とか、精神の方を疑われた胡乱な目をされそうなだけである。

歩を出しながらこの現象がいつからかを考える。

「半年ほど前からかなぁ?」

たしか最初にその現象があったのが、バイトの帰りだったような記憶がある。 だがそれも曖昧だ。 目の端に何かが見えたような気がした、そんなことがいつからかなど気にもしないこと。

「たしか・・・雄哉と話したのが・・・」

まだ暑い時季、真夏だった。 それは確かだ。 だがそれが七月だったか八月だったか。
七月だろうと八月だろうと、それならアバウトに半年ほど前と考えると、それより前からだから半年以上前ということになる。 ただ、初めてその現象がうっとうしいと感じてからはそんなに経ってはいなかったはず。


『うん? どした?』

学食で雄哉と話していた時だった。

『ん、いや・・・ここんとこなんか・・・』

目をこすりながら右を確認する。 何もない。 学生が食べながら、話ながら、笑いながらそこに居る。 なにも不自然なものはない。


「不自然・・・」

たしかあの時そう思った。 どうしてそんな風に思ったのだろうか。


『そう言や、ここんとこよく目をこすってるよな』

『ん? そうか?』

『うん、右目。 眼科に行けば?』

『金がかかる』

『目が潰れてからじゃ遅いんじゃね?』

『勝手に潰すな』


こうやって思い出せば雄哉は “ここんとこ” と言っていた。 あの時にはすでに頻繁に・・・いや、頻繁と言うほどではないだろうが、それなりにあの現象が現れていたということになる。
あのあと雄哉は何と言っていただろうか。
頭を絞って思い出す。


『あ、広世さん』

『は?』

『あっち、四年の広世さんだ』

俺と話していたはずなのに、俺の目を心配してくれていたはずなのに、雄哉の視線は違う方に向けられていた。

『ああ、カッコイイよな』

がっしりとしたスポーツマン体形に、爽やかで整った顔。 見た目ももちろんだが、声もちょっとした所作も同性の男から見ても憧れる。

『だよなぁー、話してみたいなぁ』

『雄哉ならいけんじゃね?』

雄哉がポリポリと人差し指で頬を掻いた。 これは困った時の雄哉の癖だ。

『どした?』

『うーん、オーラがありすぎて他の人みたいにいけないんだよなぁ』

人見知りという言葉を知らないどころか、コミュ力満載の雄哉なのに真剣に悩んでいるということか。

『あ、そっ』


思い出すとしょうもない会話だった。
寒さに手がかじかんできた。 今日は慌ててアパートを出て来て手袋を忘れてしまっていた。 来た時は走って来たから気にもならなかったが、深夜のこの寒さの中、ボォッと歩いていては手が凍傷にあいそうだ。
ポケットに手を突っ込む。

カサリ。

手に何かの感触があった。
まだ感触を感じることが出来るようだ。 凍傷には程遠そうである。

「ん?」

ポケットからそれを出してみる。

「なんだこれ?」

もし去年、このダウンジャケットをクリーニングに出していれば、クリーニング店から手にあるものを渡されただろうが、金のない学生であるが故、衣替えの時にクリーニングに出すなどと贅沢なことはしていない。 洗濯機で回した程度である。 従って今目の前に掲げたそれは、歪に固まって乾燥した紙の塊となっている。

「ゴミか?」

ゴミなどをポケットに入れるだろうか。

「あ・・・」

思い出したことがある。

「あの時」

あの時、受け取らされた紙。

「すっかり忘れてた」

この紙を受け取らされポケットに入れたはいいが、その存在をすっかり忘れていた。
あの時・・・何が何だかだった。
大学からの帰り急に後ろから現れた見知らぬ男、少し田舎臭さを感じる中年男性。 目の下にクマを作り、切羽詰まった顔をしてこの紙を突き付けてきた。

『君だ! やっと見つけた、これを頼む!』

男性は誰かに追われていたのか、来た方向に一度目をやると無理矢理それを手に握らせ、水無瀬の肩を掴んで続けて言った。

『あとを頼む』

そしてもう一度来た方向を見るとすぐに踵を返して走り出した。

『いや、頼まれても―――』

すぐに物申そうとしたがそこには誰も居なかった。 走り去るその男性の後姿が無かった。
思わず寒気がした。
どこかの通りに曲がったのかもしれない、そう考えればすむ話だろうが、そんなに一瞬で曲がれる通りなどないし、なによりそこは大学の行き帰りに通る広く芝生の敷かれた憩いの広場だったのだから。

あまりの気持ち悪さに捨てるに捨てられず、ポケットにしまい込んだのだった。 アパートに帰ってもポケットから出す気にもなれず、目のうっとうしさもあってそのままになっていつの間にか忘れていた。

「あ、そっか。 あの時すでに目がうっとうしかったんだ」

うっとうしく感じ始めていた時だった。 そして去年は暖冬で、例年より早くダウンジャケットを脱ごうかどうか迷っていた時だ。 ということは、この目の現象は半年どころではない、一年若しくは一年以上経っていることになる。
歪に固まって乾燥した紙を改めて見ると、もう一度ポケットにしまい込む。
アパートに戻って今度はちゃんと見てみよう。


四苦八苦しながら固まってしまった紙をようやく広げることが出来た。 所々破れてしまったのはご愛敬と考えよう。

「うーん・・・」

こたつの天板の上に広げたそれは厚めの紙、と言っても画用紙ほど厚めではなく、安いメモ用紙ほどには薄くない。 お高めのコピー用紙または広告ほどであろうか。 大きさはB5ほどだろう、縮んでしまってはっきりとは分からないが、用紙の大きさなどどうでもいい。 裏に広告の宣伝は書かれていないから、きっとコピー用紙か薄く引かれた罫線なら洗濯によって消えてしまったと考えるとそれなりの厚みのある便箋か。
書かれていたのは文字らしきもの。 その文字らしきものがなかなかに難解である。

「これって日本語か?」

それにマークのようなものもある。
角のある文字らしきものはなく、象形文字ではなさそうだがアルファベットでもなく、どこかで見たようなどこかの国の文字でもなさそうだ。 見たこともない文・字。 そうとしか考えられない。

誰か知っていそうなやつが居るだろうかと何人かの顔が浮かぶが、どの顔もとぼけた奴ばかり、知っていそうな顔はない。
腕を枕にごろりと仰向けに寝ころぶ。
“頼む” “あとを頼む” そう言われた。 そして “君だ! やっと見つけた” とも。

「いったい何だってんだよ」

この紙のことを思い出した時、あの時すぐに見なかったことを少し反省したが、すぐに見たとしても同じ結果だっただろう。 一年前の自分だったらこの文字を読み解くことが出来たなどとは到底考えられない。

「ん?」

玄関ドアの向こうで何か音がしたような気がした。 身体を起こして耳を澄ましてみる。 何も聞こえない。

「気のせいか」

目だけではなく耳もおかしくなってきたのだろうか。

『目が潰れてからじゃ遅いんじゃね?』 雄哉の言葉が思い出される。

「目も耳もって・・・笑えないよな」

いやいや、何を考えているんだ、見えるのも聞こえるのも気のせいだ。

ガタン。

今度は完全に聞こえた。 ドアに何かが当たったような音、気のせいなどではない。
こたつから出て立ち上がると玄関との境の硝子戸を開ける。

この硝子戸は右の硝子戸を開けると玄関に繋がり、左の硝子戸を開けると狭い台所に繋がる。 早い話、もし二人住まいでお互いがそれぞれのガラス戸を開けると、二人ともが相手が開けたことにより硝子戸に挟まってしまうということである。

「誰かいるのか?」

玄関ドアに向かって言うが何の反応も返ってこない。
二歩進み何も履かずそろりと玄関に下りドアスコープを覗いてみる。 ドアスコープの見える範囲には誰も居そうにはない。
こんな状況で、ましてやこんな時間にそっとドアを開けるというのは、どこか薄ら寒さを感じる。 よって勢いよく開けるに越したことは無い。
そしてこんな時には自分への鼓舞も必要になってくる。

(誰も居ない誰も居ない)

心の中で強く呟くと音がしないように鍵を開け、ドアノブを握りしめると勢いよくドアを開けた。 シンとした冷たい空気の振動が鼓膜にひびく。 勢いをつけすぎたか・・・。

誰も居ない。

何も履かないまま一歩廊下に出て左右を見るが人影も何もない。

誰も居ない事でどこかホッとする一方で、この静けさに不穏を覚える。 確かに音がした、それもついさっき。 そうであれば誰も居ないということはあり得ない。

水無瀬の部屋は二階にあり、このアパートの二階は四部屋。 外階段になる鉄筋階段は中央に付いている。 そして一階も四部屋。 合計八部屋のアパート。

もし両隣のどちらかがこのドアに当たったあと自分の部屋に入ったとすれば、そのドアの開け閉めした音が聞こえる。 その隣の隣になる端部屋にしてもそうだが、時間を気にしてそっと閉めたのならば聞こえないが、日常を考えるとそれは有り得ない。 その端部屋には一人身の粗暴な奴が住んでいて日頃からうるさい。 だがその音は聞こえなかった。
だから両隣のどちらかでもその隣の端部屋でもなく、鉄筋階段を降りる足音もしなかった。 だから人影がないことは有り得ない。

「う、寒っ」

考えるのならまず戸を閉めよう。 そしてこたつに戻ろう。 それからでも遅くはない。 戸を閉めると鍵をかけ、いつもはかけないチェーンもかけると身を縮まらせこたつに戻った。
こたつに足を入れると、もう一度天板に広げられた紙を見る。 やはり分からない、読めない。 あの男性の切羽詰まった顔を思い出すと捨てるに捨てられない。

「ま、とりあえず見たんだもんな」

訳は分からずとも読めなくとも、義理は果たせたような気がする。 折り畳むと傍らに置いてあったダウンジャケットのポケットに戻す。
ある意味、無意味な一巡だった。

“頼む” と言われて一年かそこらが経っている、その間に何かがあったわけではない。 深く考えなければいけないことは無いだろう。
玄関の外で聞こえた音はこれ以上探りようがない、考えても無駄なことだ。

「明日は・・・」

午後からの講義である。 取り敢えずゆっくりと寝られる。
そのままこたつでゴロンとする。 ホカホカと温かい。 奥の部屋のベッドに移動する気になれない。
ゆっくり寝るのだ、目を瞑る。
目を瞑る。
目を・・・。

「って! 寝られるはずないし!」

ガバリと身体を起こす。 考えても無駄なことと思いつつも、やはりあの音が気になって寝られない。

「かぁー、俺って小心者なのかなぁ」

天板にポテンと片頬をつける。 溜息しか出てこない。 首を捻じって今度は顎を乗せる。 もう一度溜息。

「・・・ん」

まただ。
右目の端に何かが映った。 眼球だけ動かして見てみる。

「え・・・」

動いた。 確かに今、何かが動いた。 頭を持ち上げてすぐに右を見る。

「尾・・・びれ?」

それはすぐに空気の中に吸い込まれるように、空気と同化するように消えた。

「なに? なんで?」

どうして部屋の中に尾びれが? それとも尾びれというのは気のせいで、尾びれではなかった?

「って、尾びれでもなんでも・・・」

どうして消えた?
どこから現れた?

「え? え?」

部屋の中を見回すが、どこにもそれらしい物は何も見当たらない。 それはそうだろう、自分の部屋なのだから、それらしい物を置いていればすぐにそれと気付くはずだ。 というか、フィギアやモデルガンなどの趣味があるわけではなく、テレビと本を並べているだけの本棚があるだけの殺風景な部屋である。

部屋の外で影が揺れた。

「尾びれと言ったか」

「ああ」

他の二人も頷く。

「間違いないな」

「かなり小さな声だったが、四人が四人ともそう聞いている。 間違いはない」

「すぐに報告を」

四つの影が互いに頷き合うとその場から消えた。

「ん?」

こんな時間にエンジンをかける音が聞こえる。 このアパートの住人の元に来ていた客人が帰ったのだろうか、ではその住人は誰だろうか。
少なくともこの二階の住人の誰かではないだろう。 この静けさだ、戸を開け閉めする音も廊下を歩く音も鉄筋階段を降りる音も聞こえなかった。 一階の誰かの客人だったのだろうか。 それとも向かいに建つどこかの戸建て住宅の客人だったのだろうか。
どうしてそんなことが気になるのだろう。

「ああ、さっきの音が気になるからか」

でもどれを考えてもこのアパートの二階には関係ない。

「ああー・・・、輪廻転生、じゃない・・・」

頭の中で考えがぐるんぐるんと回る。 だが何を考えても、音も尾びれも解決に辿り着けない。

「寝らんねー・・・」

天板に顔を預けた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~ を書き終えて

2023年10月09日 20時53分22秒 | ご挨拶
今回も全207回と、前章となる虚空の辰刻(こくうのとき)全216回に続く長編となりました。
長くお読みいただき有難うございました。

”虚空の辰刻を書き終えて” で

『書き終えて暫くすると番外として続きを書きたいと思い、書き始めていたのですが、到底番外にはならず完全に続きという形になりました』

こう書いていました通りとても書きたかったのですが、あまりにも長くなり過ぎ

「もうお願い、早く結婚して」

と懇願しながら書いていました。

アップをするに読み返していると婚姻の儀から、特に最後の三回は駆け足になってしまっている感がとてもあったのですが、付け足すことも出来ずそのままのアップとなりました。



次回からは先に書き出していたものが完全にストップしてしまい、次に書き出したものをアップしていきたいと思います。
(今頑張って書いていますが、なかなかストップした先が浮かんでこない状態です)



では、最後にもう一度

長い間 辰刻の雫 ~蒼い月~ をお読みいただき有難うございました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第207最終回

2023年10月06日 21時40分14秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第200回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第207最終回



おムネがどんどん大きくなってきて「うへへへ~」と喜んでいた紫揺に九の月に入った深夜、陣痛がやってきた。
すぐに産婆が呼ばれ出産の用意を整えたが、それから丸一日半かかってようやく元気な泣き声を上げる赤子を出産した。

お付きたちだろうか、赤子の声が聞こえたのだろう、外では歓声が上がっているようだ、それが遠くに聞こえる。

長い時がかかり過ぎた。 外では様子を確かめることも出来ず、誰もが不安を消すことが出来なくなっていた時であった。 それだけに喜びはひとしおである。
紫揺はクタクタになり、そのままウトウトと寝かけた時に後産が始まった。

産湯に浸かり、おくるみに巻かれた我が子が産婆の手によって横になっている紫揺の腕に乗せられた。
初めての我が子。
マツリにも自分にも似ていない。 おサルさん。

「紫さま、元気な男の子ですよ」

此之葉が言った。
葉月から男なら元気な男の子と、女なら可愛い女の子と言うようにと言われていた。

「男の子・・・」

五色ではなかった。
でも残念ではない。 初めての我が子。
秋我から紫揺が懐妊したことを四方に言いに行った時のことを聞いていた。 跡継ぎが産まれたのだ、きっと四方は喜んでくれるだろう。

「初めまして」

紫揺が我が子に言った初めての言葉だった。

産婆が家から出て来ると、家の周りに居た者たちがゴクリと唾をのむ。

「男の赤子をお産みになられた」

男、男、とあちこちで声が上がる。 男ならばその子は本領に行ってしまう。

「紫さまはお疲れにはなっておられるが、お元気にしておられる」

紫揺が元気と聞いてそんなことは飛んでいったのか、再度歓声が上がった。
精神的に疲労困憊となっていた秋我とお付きたちと見守っていた男達に女たちが酒をふるまう。 果実酒である。 祝いであるのだから、女たちもほんの少し口を付ける。

産屋の中から手伝いをしていた耶緒が出て来た。

「耶緒! どうだった?」

「ええ、お元気な男の赤子です。 紫さまはお疲れのご様子ですけど、お元気にしておられます」

「そうか、良かった」

果実酒をグイっと呑んだ秋我が耶緒に杯を渡す。

「なんだ? 秋我、もう終わりか? せっかくの祝いなのに」

「本領に報告に行かねばならんからな」

「ああそうか。 ご苦労さんだな」

さすがの紫揺も数日は大人しくしているだろう。 お付きたちも秋我と同じく寝不足ではあるが、この後ゆっくりと寝られる。


秋我の報告を聞いた四方の喜びようはただ事ではなかった。

「仕事などしておれん!」

「は? 四方様それはっ!」

止める尾能を振り切って自室に戻った四方。

「カジャ! 東の領土に行く!」

のそりと部屋の奥から出て来たカジャが下から上に舐めるように四方を見あげる。

「なんだ?」

「・・・お太りになられ過ぎかと」

「あん?」

「わたしの背が折れるでしょう」

「・・・」

追ってきた尾能が笑いたい喉を押さえている。

「四方様、丸一日半かかったということで御座います。 まだ紫さまはお疲れでしょう。 少なくとも・・・三日後にされてはどうでしょうか」

結局、この日は秋我を帰し、三日後に東の領土に行くということにした。

紫揺が男の子を生んだと聞いたリツソが四方と共に東の領土に行きたいと申し出た。

「馬に乗れんだろう」

こんな所で鍛練をしなかったことが引っ掛かってくるなんて。 まだカルネラにも乗れないのに。

「まだ水干であったのなら二人乗りも考えられるが、狩衣で二人乗りは宮としてはな・・・」

迂遠な言い方である。 それは子供であれば二人乗りをしても良いが、もう大人として扱われる十六の歳をとうに超えた大人となっているのに、二人乗りは宮として恥ずかしいということである。

「・・・はい」

鍛練をしなかった自分が悪い。


秋我から聞いた見張番が三日後に四方が乗るための岩山の馬を連れて来た。 宮の馬に岩山は登れない。
馬道を駆けさせ岩山を上ると下馬をして徒歩で洞を抜け東の領土の山を下りる。 そこに東の領土の馬車が待っていた。
秋我が馬車を用意しておくと言っていたが、馬車などでチンタラ走ってなどいられない。 三日も待ったのだから。
馬に跨り、そうしてようやく紫揺の家に着いた。

「昨日からマツリ様がおられます」

秋我が来た時、すぐに尾能が早馬を走らせていた。
紫揺の部屋に通されるとマツリが我が子を抱いていた。

「紫、ようやった。 疲れただろう」

思った通り四方が喜んでくれている。 それに労ってくれた。 あの四方が。
涙が浮かんでくる。

「義父上・・・」

「目出度い席で泣くではない。 どうだ? 無理はないか?」

「はい・・・」

ようやっと四方がマツリの手の中に居る我が孫を見る。

「マツリ、よこせ」

「よこせとは・・・」

「昨日から来ておったのだろうが、充分抱いたであろう、よこせ」

上下関係のある静かな玩具の取り合いが始まった。
しぶしぶマツリが赤子を渡すが、手から手に移動しても泣く様子が無い。

「どうだ? 夜泣きなどないか?」

リツソも天祐も生まれてすぐからよく泣いていた。 特に夜になると酷いと澪引もシキも言っていた。

「昨日もよく眠っておったなぁ?」

授乳以外はよく寝ている。

「うん。 今のところ夜泣きに困らされるようなことはありません」

「そうか、それは何よりだ。 名を考えんといかんな」

代々、幼名は祖父が考え、供と二つ名を父親となった者が考える。

「なんですか、まだお考え下さっていないのですか? 三日も経っているというのに」

「見てからであろう」

結局、必要以外は夕刻まで四方が赤子を抱いていた。 そして後ろ髪を引かれるように本領に戻って行った。

今はマツリが抱いている。
抱き癖がつくのでは、と思った紫揺だったが、四方もマツリもそうそう抱くことが出来ない。 泣かれる覚悟をしておこう。
紫揺が立ち上がると棚の中から何かを出してきた。

「マツリ、これ」

差し出された物を見るとそれは硯であった。

六都から戻り東の領土に帰ってすぐに硯のことを訊いた。 よく考えると領土を回った中で硯の工房なり、岩石の山も見たことがなかったからである。 だが硯があるのだから硯の岩石の山があるはず。
すると東の領土では必要があった時に幾つかまとめて硯を作るということであった。 それは岩石があるということ。
すぐに岩石を取りに行き硯作りを始めていた。

「これは?」

「作ったの。 プレゼント」

わざと日本の言葉で言った。

「ぷれぜんと?」

「大切な人に心を込めて贈る物っていうこと」

それは以前に作った実用性のない硯ではなく、そしてそこにはキョウゲンの羽ばたく姿が彫られている。

「キョウゲンには見えないかもしれないけど」

羽ばたいているキョウゲンの足に硯が握られているように彫られている。

「紫・・・」

「澪引さ・・・義母上に訊いたら本領では女から男に物を贈らないみたいだね。 東の領土に帰ってから訊いても同じようなことを言ってたけど、日本ではそうじゃなかったから」

マツリが首を振る。

「有難く受け取る。 大切にする」

「ちゃんと使ってね」

「簡単に使えるものか。 大切にする」

そんな風に言ってもらって、喜んでいいのか、どうなのか。
複雑な顔をしてから、マツリが来た時から言いたかったことをようやく口にする。

「五色じゃなくて残念だったね」

紫揺の言葉に眉を上げて紫揺を見ている。
こうしてずっと抱っこをしてくれていても、即答しないということは多少なりともそう思っているのだろう。

「まあ、残念だが、それはそれ、というところか」

「ん? どういうこと?」

「どちらにしても我がややには違いない。 それに父上も喜んでおられただろう、本領の跡継ぎが生まれたんだ」

「うん・・・ごめん」

マツリにすれば、跡継ぎは第二子で良かったはず。

「紫が謝ることではない。 それに、ややが聞いておるぞ?」

「うん」

「三の月頃に六都を引き上げられそうだ」

あと半年。

「え? そうなの?」

「いつどんでん返しが来るか分からんから、まだはっきりとは分からんがな、だが飛尾伊がよくやってくれておる」

マツリが何を言いたいのか分かっている。
本来なら生まれた子は本領に居なければならない。
だがマツリは今、六都に居る、これから先も。

「一の歳」

「・・・うん」

「その頃に迎えに来る」

半年後に六都のことを終わらせて本領に戻るというのに、半年の猶予をもらえたということ。

この子は宮で育てなくてはならない子。 それもマツリの手によって。
宮では基本、跡継ぎが跡継ぎを育てる。 母親はその補佐につく程度。 マツリも四方に徹底的に育てられた。 シキは澪引に育てられ、と言ってもシキは殆ど澪引の手を煩わせなかった。 そしてリツソは四方と澪引によって甘やかされた。

九歳でキョウゲンに乗って本領を見回っていたマツリ。 本領領主の跡継ぎとなればそれくらいせねばならないのだろう。 紫揺にはそんな風に育てられない。 本領領主の血というものも分からない。

「・・・うん」

一年後に分かれてしまう。

「そんな顔をするでない。 紫が会いに来ればよいことだ」

「うん・・・」

「我もそれまでには何度も此処に来る。 ややに顔を覚えてもらわなくてはならんからな。 天祐のように泣かれるばかりでは何も出来ん」

紫揺の選んだ道はマツリに色んな障害を及ぼしているのではないのだろうか。
良く考えて半年後まではマツリは六都に居るのだから、今のままで良いとしてもそこからが違ってくる。
紫揺が我が子と宮に居ればマツリが我が子を育てる補佐が出来る。 だが東の領土を選んでいる紫揺にはそれが出来ない。 マツリの言うように宮に行けばいいのだろうが、ずっと宮に居るわけにはいかない。 
それに・・・我が子にも寂しい思いをさせてしまう。
それでも・・・東の領土を選んだ。
それでも、東の領土を選ぶ。

「マツリ?」

「うん?」

「五色を生む」

生んだあと何年一緒に居られるか分からない。 数年後に五色の我が子と離れなくてはいけない。 でも・・・離れることを選ぶのは五色である我が子。
それは五色としての我が子の成長。

片手で我が子を抱き、空いていた手で硯を持っていたが、その硯を置き紫揺を引き寄せる。

「殴らんか?」

「あれから殴ってない」

傷に塩を塗られたことは見逃した。

「そうだったな」

危険な場面は多々あったが自覚がないようだ。


幼名をハヤテと名付けられたマツリと紫揺の子が四カ月になった時、阿秀と此之葉、塔弥と葉月、その他一組の婚姻が整った。
四人ともが紫揺が婚姻の儀を終わらせるまではと思っていたし、その後にすぐ紫揺の懐妊が分かった。 そうなれば残りの一組も加わり無事な出産を見届けるまではと思っていた。 安産とはいかなかったが、無事にハヤテが生まれすくすくと育った。
そんな時に領主が口を開いたのだった。

『とっとと婚姻を済ませんか! えーい、面倒臭い合同だ! 合同!』 と。

そうして、六人の親兄弟親戚が集まり合同婚姻の儀となった。 それは宮ほど時を取るものではない。
代々領主が持っている初代紫を表す紫水晶に触れ、各々の誓いの言葉を言うだけである。

ハヤテと紫揺もその場の証人となり拍手を送った。
沈没してしまった悠蓮、湖彩、梁湶が乾いた拍手を送り、元々その気の無かった野夜と醍十が改めて誰かを射止めないと、と強く思ったのは秘密である。
阿秀と塔弥と共に婚姻を済ませた若冲のお相手は、葉月とよく一緒に居た女だった。

「若冲のヤロー、いつの間にだよ」

「言えてるなぁ」

「おい、醍十。 此之葉が阿秀の嫁になったんだ、どうすんだよ」

寂しい五人の男たちの話が始まった。


六都を引き上げたマツリがハヤテを迎えに来た。 予定より一ヵ月ほど遅れてはいたが、跡取りとしてのハヤテの成長に影響を及ぼすほどではない。 だがそれだけ六都の治まりが遅れたということだろう。

「六都、いいの?」

「ああ、飛尾伊に任せられる」

不穏な空気を感じたハヤテが「はーうえ?」と言って紫揺にしがみ付く。
まだ一歳を一カ月過ぎただけだというのに、紫揺のことを “母上” とはまだ言えないが、それでも “はーうえ” と呼ぶ。 足元は危なげもなくしっかりと歩いている。 これがマツリの血なのだろうか。
そんなハヤテを抱きしめる。

「ハヤテ? 父上と宮で過ごせるわね?」

宮の話はずっと聞かせていた。 まだ一歳に満たない時から。 それに何度か宮に行っている。 四方と澪引によく懐いている。
抱きしめられたハヤテがマツリを見る。 そのマツリが紫揺の言う父上、自分の父上だと分かっている。

「あい」

「送って行くわね。 一緒に行きましょうね」

ハヤテを抱きしめる紫揺の目に次々と涙の粒が溢れる。

「はーうえ?」



翌年、紫揺が第二子を生んだ。

「え・・・」

我が手にやって来た、生まれたての我が子の瞳。 僅かに開いた瞼。 そこに紫の瞳を見た。
紫揺の目から滂沱の涙が溢れ出る。
何があったのかと産婆や耶緒が驚く中「東の領土の紫が生まれました」紫揺がそう言った。

紫揺の母親の日記を思い出す。

『紫が揺れた』そう書かれていた。

母は自分に同じものを見たのだろう。



そして六年後。
紫揺の髪の毛が随分と伸びている。 ロングヘアーが似合うわけではないが、それでも少しずつ伸ばしてきた。

「お母様、まだまだ未熟ですが私が東の領土を守ります。 お母様には長く居て頂き感謝をしています。 お父様とお兄様の元に行って下さいませ」

我が第二子がそう言った。
この子がこの地に残るということは分かっていた。 宮に行くハヤテには宮の呼び方で “母上” と呼ばせ、この子には・・・次代紫には東の領土の呼び方で “お母様” と呼ばせていた。

第二子を連れ何度か宮に行っていた。 兄妹としての認識は持っているし、仲良くもしてくれている。 マツリに育てられたハヤテは、きっとマツリの小さな頃はこのようだったのだろうと思わせるくらいに、肩に鷹を乗せ成長をしている。 そのハヤテは妹を大事にもしてくれた。 そして第二子にもマツリは何度もハヤテと共に会いに来てくれていた。
此之葉が五色として教育してくれた我が第二子。 立派に五色として育ってくれた。

紫揺はこの日まで東の領土の紫であり、今代紫としてあちらこちらに出向いていた。 そして第二子である次代紫の母としてしてきたことは、自分の経験したことを我が子に聞かせるだけであった。
五色としての云々(うんぬん)を、教えることは出来なかったが、この六年間の間に、いや、生まれてからすぐにではないのだから正しくは六年ではないが、紫揺が経験したことを全て伝えた。

第二子の次代紫としての成長には驚いた。 生まれてたった一年とちょっとしか経っていなかったのに、五色としての目覚めがあった。
それから徐々に色んな話を聞かせた。 第二子は紫揺と違って幼年にもかかわらず落ち着きがあり、しっかりと紫揺の話すことを聞いていた。
紫揺は書にも残した。 第二子が負うであろう、次代だけでは終わらないであろう、紫の力のことを。

「そう、ではお願いね。 お婆様からお預かりした大切な東の領土をお願いするわね」

その夜、初代紫の力が宿っていた大きな紫水晶が割れた。
サークレットは母体を失くしてしまったがその姿に変化はない。 代々、受け継がれるものとなった。


此之葉と葉月、女達や子供たちが涙をながし見送った紫揺の鉄壁が眠る墓前、今も毎日、花が手向けられているガザンの墓前。
墓前に手を合わせた紫揺。
数年前、ガザンは紫揺に看取られ静かに天寿を全うした。
その後ろに民が立っている。 女達だけではない、男達も。 その中から「紫さま、行かないで下さい」そう言う声が次々と上がった。
東の領土には我が子、紫が居る。 それなのに。

・・・マツリの言っていたことがこのことなのか。
次代紫の邪魔をするのではないと言われたことがこれなのか。
立ち上がった紫揺が民に振り返ると頬を緩め首を振る。

「みな、紫をお願いね」

懇願の目を向けている民を見回すと微笑みを残し、第三子を腕に抱いたマツリの待つ馬車に乗り込だ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰刻の雫 ~蒼い月~  第206回

2023年10月02日 21時22分14秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第200回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第206回



ようやくマツリと紫揺が向かい合って食をとることとなった。
“最高か” と “庭の世話か” がホッと胸を撫で下ろす。

「杠戻っちゃったね」

あれから杠が六都に戻ると聞いた。

「ああ、硯の山が気になっておろうからな」

杠から聞いた。 ずっと岩石の山と言っていたが、紫揺が硯の山と言っていたことから今では硯の山と呼ぶようになったと。

「杠から聞いた。 杠が婚姻の儀の間、宮に居られるようにマツリが奔走してくれたって。 だから宮に戻ってくるのも遅くなったって」

「大したことはしておらん」

「杠が居てくれて嬉しかった。 マツリ、有難う」

喜んでいいのやらどうやら・・・。 だが紫揺と杠が喜ぶと思って運んだこと。 素直に礼を受けるところだろう。

「それは良かった」

痣の偽理由が出来たのだ、今は正々堂々と痣を見せ銀髪を高く括っている。
チラリとマツリの頬を見る。

「痛かったよね・・・ごめん」

「一度聞いた。 もうよい。 だが今晩は願い下げだからな」

「あ・・・」

そうだった、六都に戻るまで毎夜と言っていた、五色が出来るまでと・・・。 あんなことを毎夜? 今晩から傷に塩を塗るようなことをしなくてはいけない?

ヤメテクレ。

「マツリはいつ六都に戻るの?」

今日にでも戻れば? と付け足したい気持ちを抑える。

「明日から暫く宮都を回らねばならんからな」

「え? 宮都?」

どういうことだ。

「婚姻の儀に紛れて何か起こっておっては困るからな」

地下にも回るがそれを紫揺に聞かせるわけにはいかない。

紫揺の食欲が一気に失せた。


杠が朱禅の墓前に花を置いた。 紫揺とマツリには六都に戻ると言っていたが、その前に秀亜郡に眠る朱禅に報告に来ていた。

「朱禅殿、マツリ様と紫揺・・・紫さまのご婚姻が無事滞りなく行われました」

朱禅に見てもらいたかった。

「そして・・・」

朱禅からの言葉でマツリとの間にあった張り詰めた一線を緩めることが出来た。

「有難うございました」

それは杠が望んでいたことではなくマツリが望んでいたこと。 杠としては決してそのようなことは望んでいなかった、張り詰めるべきものと思っていた。
六都でのことだった。 マツリは学び舎を焼くと聞いた時も、紫揺から得た決起の情報の時にも、その他の時にも、杠と六都を見回りながらその話をしている時に民に聞かせてはならない言葉を何度も口にしていた。

『烏滸(おこ)の陥穽(かんせい)か』 『衆愚の野合とはな』 他にも色々と言っていた。 そんな言葉を宮で言うならまだしも、どこに耳目があるか分からない六都の中で言っては民がマツリにどんな印象を描いてしまうか分かったものではない。 その度に『マツリ様、そのようなお言葉はお控えください』 と止めていた。 その内に『マツリ様』 だけで終わっていたが、もし朱禅の言葉が無ければ止められていただろうか。

六都に赴く寸前、朱禅から声がかかった。

『六都に赴かれると伺いましたが』

『はい、これから宮を出ようかと』

『そうですか・・・ほんの少しの時をいただけませんでしょうか?』

それは言葉通りのほんの少しの言葉だった。

『マツリ様に献言できるのは杠殿だけです。 それをお忘れなきよう』

言われた時にはその意味が深く分からなかった。 今までマツリとはマツリの欲しい情報の内容を聞く、その情報を集めるとマツリに報告する、それは人知れず話していただけだった。 言ってみれば杠が紫揺に言ったように『あの方は気骨があり温情の深い方』 そういう風にしか見ていなかった。

だが六都に行き毎日をマツリと過ごしているとマツリのいろんな面が見えてきた。 朱禅はそれを分かっていた、だから杠に忠告をしてきた。 四方の従者ではあるが尾能のように四方に付いているのではなく、少し離れて外堀から見ている、そんな朱禅だからこそマツリを見ることが出来たのだろう。 そしてその朱禅に従者としてのことを教えられた尾能もまた、四方の許可なく時に応じて紫揺やリツソに従者を付けていた。

「尾能殿は朱禅殿の教えを着実に追っておられます。 己もその後を追えるよう粉骨砕身いたします」

一礼すると踵を返した。

後に四方もやってきたが、その時に婚姻の儀のあと杠が来ていたことを聞くと驚いた顔をし「先に杠に報告されたか」とポソリと言っていた。


昼餉を終えると、マツリと共に東の領主の元に足を運んだ。

「ど・・・どうされました?」

マツリの頬のことである。

「今朝の鍛練でやられた。 我もまだまだのようだ」

紫揺が明後日を向いている。 この話が葉月か塔弥に伝わるとチョンバレだな、と思いながら。
そこに此之葉と秋我がやって来た。 婚姻の儀を見届けこれから東の領土に戻る。 今までと違って岩山の下までは馬車が用意されている。 本領からの土産の荷物は既に馬車に乗っている。
秋我と此之葉もマツリの顔を見て驚いたようだが、それを口にすることは無かった。

「それでは紫さま、先に領土に戻っております」

「はい」

「急ぐことは御座いません、領土は落ち着いております。 万が一にも何かあれば秋我を寄こしますのでマツリ様とごゆっくりなされて下さい」

「・・・はい」

東の領主として、紫揺の親代理として四方夫妻への挨拶は終わっている。

「それではマツリ様、紫さまをお願い致します」

マツリが深く頷く。
秋我と此之葉もマツリと紫揺に辞儀をすると三人で大階段を下りて行く。 紫揺はもう宮の人間となった、大階段を降りて見送るわけにはいかない。


それから二十日間、朝から夕刻までマツリが宮都を回り、紫揺はその間に澪引とまだ邸に戻っていないシキから宮のことを教わった。 そして残りの時間はほぼ新婚生活にあてられていた。

マツリが居ない間、宮のことを教わりながら手芸も教わっていた。 日に日に紫揺の指に巻かれる晒が増えていく。
そこへ早目に戻ってきたマツリが現れると、自慢げに紫揺の作品を見せられた。

「な、なんとも・・・面妖であるな」

「面妖って・・・どういう意味よ」

「いや・・・これは、なんだ?」

「コースタ・・・茶、茶托に決まってるでしょ。 麦酒の杯の下に敷く物」

これではグラついて倒れるだろう・・・。

「そ、そうか」

マツリに新たな鍛錬が必要になってきた。 麦酒の杯を倒さずこの托の上に置くという鍛錬が。

「ちょっと皺が入ってるけど」

ちょっとか?
それに隠れようともしていない堂々とした縫い目。

「紫は・・・硯もあのように器用に作る、書も上手い・・・」

なのにどうして。
マツリが何を言いたいのか分かる。 それなりに自覚があるのだから。

「敵が布っていうのが不得意なだけ」

敵・・・。
布は敵なのか?
二人の会話を聞いていてふとシキが気付いた。
そう言われればシキの部屋に泣いて入って来た時、帯が縦結びになっていた。
この托置きにしてもそうだが、これはかなりの時が必要になってくる、それこそ鍛練が必要である。
あくまでも教える側の忍耐という鍛錬が。



リツソのことはすでに尾能から聞いていた。 聞いてから五日後にマツリがリツソの部屋を訪ねると殊勝にも手を着いて頭を下げてきた。

『母上と姉上がご心配をしておられる。 ちゃんと食事房で食せ』

『・・・はい』

『ずっと紫が心配をしておる』

『・・・まだ・・・シユラの顔を見られません』

『無理にとは言わんが、紫はいつまでも宮に居るわけではない』

『え?』

『あと・・・半の月ほどで東の領土に戻ろう』

己が宮に居る間は戻らないだろう。 戻るとしたら六都に行く時だろう。

『どういうことですか・・・?』

『暫くは宮と東の領土を行き来する。 紫は東の領土の民にとってなくてはならんからな』

次代五色のことは話し辛い。 リツソも年頃である。

『・・・分かりました』

マツリが立ちあがった。 リツソは座っていたが、それでも分かるし、あの日も陰からではあったが見ていた。

『暫く見ん間に背が伸びたな』

そう言い残してマツリがリツソの部屋を出て行った。
そして三日後、昼餉をとり終えた紫揺の元にリツソが訪ねてきた。
“最高か” と “庭の世話か” が紫揺を守るように卓に近いところに座る。

『御免なさい、リツソ君と話があるの。 外で待っててもらえますか?』

そんな! と言いたかったが、四人がリツソを疑っているということを紫揺は知らない。 それにリツソの雰囲気に怪しいものを感じない。 どちらかと言うと、いつもの勢いさえなくしている。 仕方なく襖外に控えた。

襖を閉められたのを見ると、立ち尽くしていたリツソに椅子に座るように勧めた。

『いい、謝りに来ただけだから』

『謝るだなんて、謝らなきゃならないのは私の方。 リツソ君―――』

『シユラが謝ることなんてない。 謝られた方が・・・辛い』

『リツソ君・・・』

『手・・・手首、痛かったろ』

『何ともないよ』

『・・・ごめん、あんなことして』

紫揺が首を振る。

『何ともない。 それより背が伸びて肩幅も広くなって力も強くなって・・・声も変わったね。 驚いた』

『・・・』

リツソが口を利かない。 これはチャンスとばかりに、リツソの肩の上でカルネラが口を開いた。

『シユラ、我も変わった』

『そうなの?』

『カルネラ!』

『リツソは黙ってろ。 シユラに見せてやる』

リツソの肩からスルスルと下りると、カルネラがうーん、と頬を膨らませて力を入れる。 するとどうしたことか、スカンクの大きさを越して、小振りの中型犬の大きさになった。

『え? え? すごい!!』

目を輝かせてリツソとカルネラを交互に見遣る。

『まだこの大きさだから乗れないけど』

たしかにまだまだだが、それでもリツソとカルネラが順調に共鳴できているということ。

『すごいよ! リツソ君もカルネラちゃんも頑張ってるんだ!』

『シユラ、カルネラすごい?』

そう言って紫揺にすり寄ってくる小振りの中型犬サイズのリス。 自分が小さくなったような気がする。
そして十日余りが経ち、マツリが紫揺を東の領土に送るとそのまま六都に発った。


それから四カ月後、秋我によって宮に報が持たらされた。
東の領土ではめったに見ない雪が降る中を岩山から宮に入る。 一人で宮に来たのは初めてであった。
四方に目通りを願うとすぐに四方がやって来た。 秋我一人が来るなどと何かある以外にないのだから。

その報は吉報だった。

「紫が懐妊した!?」

「順調にいけば八の月の終わり頃から九の月にかけて頃と聞いております」

紫揺が宮に居た間に妊娠したようだ。 まぁ、それはそうだろう。 でなければ誰の子だということになってしまう。

「それで!? 紫はいつ来るのか!?」

「やっと安定を致したというところで御座います。 これから腹が大きくなってこられましょう。 山に上ることは出来ませんので宮に来ることは出来かねるかと」

四方とて東の領土の山のことは知っている。 到底無理に来いとは言えない。 腕を組んで、むぅっと唸る。

「待つしかないのか・・・」

「必ずや東の領土で元気な赤子を」

その日すぐにマツリの元に早馬が走った。


そしてそれから更に二カ月後、お転婆が元気な仔を産んだ。

「かぁー、塔弥の馬は百発百中だな」

「変な言い方すんなよ」

「だってそうだろが、あいつらだって塔弥の馬の仔なんだからな」

「ああ、二頭として二頭とも生んだんだからな。 それで三頭目のお転婆もだ」

お付きたちが話す中、此之葉の叫び声が聞こえた。

「紫さま! 走っては!!」

お付きたちが振り向くと紫揺がこっちに向かって走って来ている。 慌てて塔弥が走って紫揺を止める。

「紫さま! 走ってはいけませんと言っているでしょう!」

「だって、お転婆が赤ちゃん産んだんでしょ!?」

懐妊が分かってからはお転婆に近づきもさせてもらえなかった。

「走ったところで何も変わらないでしょう!」

「もう立ったの?」

出産は深夜のことだったと聞いている。

「とっくに」

「見たかったのに・・・、どうして起こしてくれなかったのよ」

腹も目立ってくれば少しは大人しくなると思ったが、そうでは無かった。 相変わらず自由奔放であった。


三月の東の領土の祭にはマツリがやって来て紫揺の腹を撫でていた。

「大人しくしておるか?」

「うーん、まだ蹴ってない」

「いや・・・紫がだ」

「え? ああ、うん・・・まぁ、ね」

してないな。

「秋我どうだ?」

「お付きたちに言わすと―――」

「秋我さん!」

「・・・まあ、そういうことで御座います」

よく分かった。

「紫、大きな声を出すのではない、腹の中で驚いておるぞ」

そこに三つになった音夜がやって来た。

「音夜、久しいな。 やや・・・赤子はどうだ?」

抱き上げるマツリをはにかむように見て「ひなた」と答える。 名前を教えてくれたようだ。

「陽杕(ひなた)は元気か?」

秋我も跡取りが生まれて安心していることだろう。

「うん」

「音夜、はい、だろう?」

秋我が優しく正す。 優しい父親をしているようである。


そして翌月の紫揺の誕生の祝いでは、懐妊の祝いを兼ねていた。
お付きたちに抑え込まれ、櫓に行くことが出来なかった紫揺に民たちが次々と花を持って来ていた。


六都では飛尾伊が副都司となっていた。
まだまだ飛尾伊に全面的に任せるわけにはいかない、憎まれ役はマツリがかって出なければ。

硯の山では最初に杠が宮都の硯職人のところに持ち込んだものが全て売り物になると言ってもらえていた。 だが高値で売れるものでもないと。
試しに紫揺の作ったものを見てもらうと、小振りではあるがかなり高額で売れる、譲って欲しいとまで言われた。
その違いを尋ねると、鈴の花が彫られているのが大きいこともあるが、かなり丁寧に仕上げられているということであった。
それからは硯の山では丁寧に仕上げるということをモットーに硯を作り、徐々にではあるが、売れるようになってきていた。

飛尾伊も自覚があるようで、杉山にも硯の山にも出向き山の者たちと上手くやっていた。
そして飲み込みが早く文官たちとも上手くやっている。

咎人の数も大分少なくなってきた。 言ってみれば普通と言ったところだろう。 今後飛尾伊に厳しい咎が言い渡せるかどうかにかかっているところはあるが、官吏たちが飛尾伊をどう受け取るかでも変わってくる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする