『---映ゆ---』 目次
『---映ゆ---』 第1回から第95回までの目次は以下の 『---映ゆ---』リンクページからお願いいたします。
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「え?」 デスクから顔を上げた。
「なに? どうしたの?」 隣に座る樹乃が言う。
「あ、ごめん。 何でもない」 樹乃が頭を傾げながら、再びキーボードを打ちはじめた。
(なに? シノハさんに何かあった?) 激しく打つ鼓動が鳴りやまない。
(シノハさんの声が聞こえた気がした・・・そんなことあるわけないのに)
「渉?」 動かない渉に顔を戻した樹乃が渉を呼ぶが、ピクリとも動かない。
「渉!」 声を押さえて呼ぶと肩を揺する。
「え? あ・・・」 樹乃を見る渉の顔が真っ青だ。
「ちょっと、渉どうしたの? 真っ青よ」
「・・・分からない」 呆然と答える。
「分からないって、何のことを言ってるの・・・。 渉、おかしいよ。 ・・・早退する?」
「・・・」 どこを見るとなく一点を見ている。
「おかしいよ、早退しな」 渉の様子に尋常ではないことをさとった。
渉の脇を抱えると、腑抜けになったクソジジイに早退の旨を告げ、ロッカーまで渉を連れて出た。
「大丈夫? 一人で帰れる? 家に連絡入れようか?」 着替えを手伝いながら樹乃が言うが、それにも答えない。
「渉! どうしちゃったのよ、しっかりして!」 肩を揺する。
「あ・・・うん・・・。 大丈夫」
「大丈夫じゃないしっ! 家に連絡入れようか?」
「うううん。 一人で帰れる」
変わらず顔色は悪いが、それでも受け答えが出来ている。
「本当に?」 樹乃が渉の顔を覗き込む。
「うん。 ・・・もしかして、明日休むかも」
「分かった。 その時には私からクソジジイに言っておくから」
「・・・うん。 ありがと。 じゃね」 ふらりと身体を揺らせロッカーを出た。
「あんなに元気だったのに、急にどうしちゃったの・・・」
電車に揺られる。
(シノハさん・・・シノハさんどうかしちゃったの?・・・そうじゃないの? 私がどうかしちゃったの?) 俯いて顔に両手を被せる。
(シノハさんに逢いたい・・・) 今にも涙が出てきそうな思いを押さえると、顔を上げ席を立った。
神社への駅を降りるとバス停に行きかけたが、平日の日中はバスの運行が少ないことを思い出した。
「バスよりタクシーで行こう」 バス停に行きかけた足を止め、タクシー乗り場に向かう。
「あれ? あの子、たしか奏和と一緒にいた・・・なんて言ったっけ? へぇー、スーツなんて着るんだな」 バス停に行きかけた渉がタクシー乗場に向かっていく姿を、順也が目で追った。
すぐに来たタクシーに乗り込むと、神社から少し離れた所で降りた。
「平日だから神社に入ったら目立っちゃうな・・・」 神社の下まで歩き、ソロっと階段の上を覗き込んだ。
「小父さんも小母さんもいるのかなぁ・・・」 階段の端をゆっくりと歩く。
階段を上がりきり、鳥居に身を隠しながら前を見ると閑散とした境内が目に入った。
「やっぱり平日は誰も来ないのかなぁ・・・目立っちゃう」 自分の着ている紺のスーツを見た。
「グレーのスーツを着てくればよかった。 そしたら保護色になったかも知れないのに」 神社の砂利と一体化になれると思ったようだが、少々無理がありそうだ。
と、その時、宮司の家の玄関が開く音がした。 思わず鳥居に身を隠す。
「じゃ、お父さんお願いしますね。 遅くなりますから夕飯は食べておいてくださいね」 玄関の戸を閉めると足早に鳥居を抜け、隠れている渉に気付かず雅子が階段を下りて行った。
「小母さん今日は遅くなるんだ。 小父さんは家の中か・・・」 階段を下りて駐車場に向かった雅子を見送ると一気に山に入る入り口まで走った。
「良かった、小父さんが出てこなくて・・・」 後ろを振り返り呟くと、足早に山の中を歩く。
「シノハさんに何かあった? ・・・うううん、そんなことはない。 きっと私の考えすぎ」 磐座までに心が逸る。
磐座の前に着くといつものように手を合わせ、まずは磐座に感謝の念を伝える。 そして
「シノハさんに逢いたい」 そう告げると、言葉に出すより一層シノハに逢いたい気持ちが広がる。
サラサラと川の流れる音が聞こえた。 目を開ける。 いつもなら目の前にシノハが居るか、シノハの声で振り返るのに目の前にシノハが居ない、シノハが呼ぶ声もしない。
「シノハさん・・・」 不安がよぎる。
川を見渡すと川に向かってシノハが背を丸くして座っている姿が見えた。
(シノハさん!) 一瞬心が躍ったが、すぐに不安で胸がいっぱいになった。
「シノハさん・・・」 丸まったシノハの後姿を暫く見ていたが、そっと歩を進めた。
岩陰に居たアシリとロイハノは、シノハばかりを見ていて渉が現れたことには気づかなかったが、シノハへ歩み寄る渉にやっと気付いた。
「ロイハノ、あの衣を着た者は?」
「私も初めて見た・・・」
「シノハさん・・・」 渉の声に驚いたようにシノハが振り返った。
「ショウ様!」 思わず立ち上がる。
ロイハノに緊張が走る。
(シノハ、お願い・・・)
「シノハさんどうしたの? 目が真っ赤」
泣いて泣いて泣きつくした。
「あ、何でもありません。 ・・・ちょっと目が痛くてこすってしまいました」
「大丈夫? お医者さんに行かなくちゃ」
逢いたい渉が目の前にいる。 今は何も考えたくない。
「我が村は薬草の村。 いくらでも薬草があります。 これくらいなら緩い薬草で治ります」 シノハの笑顔に安堵を覚える。
「そうなんだ。 薬草かぁ・・・漢方薬みたいなものね。 じゃ、大丈夫なのね」 渉の微笑みに我が身が吸い込まれそうになったが、すぐに渉が表情を変えた。
「さっきまでね、会社に居たの。 仕事をしてたの。 そしたらシノハさんの声が聞こえた気がして・・・シノハさんに何かあったような気がして・・・」 眉尻を下げてシノハを見上げる。
「ショウ様・・・」 安心して下さい、と頬を撫でてあげたい。 でも出来ない。
「ショウ様が我のことを考えて下さったのは我の喜びです」 どこか寂し気な笑顔に渉の眉尻が下がったままだ。
(ショウ様が我の声を聞いてくださった・・・) 喜びと悲しみが交差する。
「シノハさんどうかしたの?」
「え? 何でもありません。 ショウ様、今日は川の水が澄んでいます。 座って共に川の流れを見ませんか?」 シノハの笑みに渉がコクリと答える。
いつもほどの嵩がなく落ち着いた流れの中、沢山の水鳥がプカプカと浮いている。
対岸から小動物が岩を伝ってこちら側にやってきている。 そこへコロコロコロと鳴きながら青い小さな鳥が飛んできた。
渉が鳥に目をやる。 目の下に赤く丸い模様がある。 まるで頬紅を塗っているようだ。
鳥が川の中にある岩におりると、ピョンピョンと撥ねて歩き、小さな青い尾羽を広げ赤いくちばしで川の水を飲んだ。
「綺麗な青色・・・あの鳥は?」
初めて見る鳥だ。 小さくて可愛らしいが、水を飲むときには小さくはあるがクジャクのように後ろの羽を広げている。
「ジョウビキといいます」
「綺麗なのに可愛らしい」 ジョウビキに目を引かれる。
「姿に見合わず気が強いのですが」
「そうなの?」 シノハを見た。
「はい。 馴らそうとしてもなかなか馴れてくれません」
「野生の鳥なんだもの、そう簡単に馴れないでしょう?」
「ははは、そうでもないですよ。 オロンガの鳥達はあまり人を警戒していないので、すぐに馴れるところがあるんです」
「へぇー、そうなんだ」
「他の村は鳥を狩るので、鳥も警戒をしているようですが」
「オロンガでは狩をしないの?」
「はい。 オロンガでは肉を食べませんから。 あ、と言っても他の村に行って肉を出されれば食べます」
「そうなんだ。 基本的にはベジタリアンなんだ」
「座りましょう」 腰につけていた布を下に敷いた。
「ありがとう」 渉が腰を下ろすとその横にシノハが座った。
見守っているロイハノの心臓がはち切れそうになる。
「今日は少しはゆっくりできるのですか?」
「うん」 渉がシノハの目を見て答える。
「オロンガの川に魚はいるの?」
「はい、います。 沢山の種類の魚がいますよ。 あ、ほら、今ハネました」 シノハが先を指さすが、渉はシノハの顔をずっと見ている。
「ショウ様?」
「シノハさん、何か隠してる?」
心の的をつかれたが表情には出せない。 渉の問いに笑みを返す。
「いえ、なにも隠し事などはありません。 時にはこうしてショウ様とゆっくり話をしてみたいと思っていました」
「そういうことじゃなくて・・・」
「ショウ様、我はショウ様と共に居たいと思っているだけです。 それ以外には何もありません」 もう泣きつくしたはずなのに、喉の奥が締め付けられてくる。
「シノハさん・・・」 渉の眼差しに心が砕けそうになるのを堪える。
「ショウ様、先程仕事をしていたと?」
「あ、うん・・・投げ出してきちゃった」 ペロッと舌を出す。
「あ・・・あはは。 良かったのですか?」 シノハの顔に僅かに寂しさがなくなったような気がした。
「うん。 たまにはいいの」
「ショウ様はどんな仕事をされているのですか?」 渉の言葉に両の眉を上げながら聞く。
「事務」
「ジム? それはどういったことをするのですか?」
「あ、そっか・・・オロンガには・・・ここにはそんな仕事がないのか・・・うーん、なんて言ったらいいのかなぁ?」
「織物や籠を編んだりはしないのですか?」
「織物? 編む?」
「はい」
「ムリ、絶対に無理」 あまりの拒否のしように、シノハが握った手を口に当てクックと笑いだした。
「あ・・・シノハさん、笑っちゃうの?」 そう言いながらも、芯から出たシノハの笑い顔に渉も微笑むことが出来た。
「もしかして・・・ショウ様は不器用なのですか?」 笑いを押さえながら聞いた。
「・・・ハッキリ言わないで」
「我はけっこう器用なのですよ。 我の器用さをショウ様にお分けしたい」 いつもいつも優しい目。
「そうなんだ。 シノハさんって器用なんだ。 ・・・そっか、まだまだシノハさんのことを知らない。 もっとシノハさんを知りたい」 渉の言葉にシノハが目を細めて言う。
「ショウ様に何かお作りしたい・・・何か欲しいものはないですか?」
「え? ほしいもの? なに? ストラップとか?」
「それはどういったものですか?」
「あ、そっか・・・。 うーん・・・」 頭を捻る。
「うん。 シノハさんが思うものならなんでもいい。 シノハさんが思うものが欲しい」 渉の言葉に両の口の端を上げシノハが頷いた。
渉とシノハは陽が落ちる寸前まで、初めて長い時を過ごした。
「そろそろ暗くなっちゃうね。 ここには街頭もないからシノハさんも帰らなくっちゃね」
「ショウ様・・・」
「シノハさん明日は?」
「明日も来て下さるのですか?」 シノハの目の中が輝いた。
「来られるように頑張る」
「はい。 お待ちしています」
「泊まれないもんね。 パパとママが心配しちゃう」 言ったかと思うと、渉の姿が歪み、そして下に敷いていた布だけが残った。
「ショウ様・・・」 渉の残像を目で追うと、立てていた膝の間に顔を入れた。 枯れたはずの涙が次から次に落ちた。
「あの様に去るのか・・・」 初めて見た光景に驚き、ロイハノが一人ごちると、時に飽きていたアシリが振り向いた。
「どうした?」
「・・・なんでもありません。 村に帰りましょう」
ロイハノがセナ婆の元に帰ると見たままを伝えた。
「そうか。 それではその娘は何も知らんようじゃな。 シノハはその娘に何も伝えない気でいるか・・・」 大きく息を吐いた。
「じゃが、それでは済まん。 いつかは娘の手を取るじゃろう」
「ですが、婆様」 ロイハノが初めてセナ婆に反する言葉を投げた。
「女子(にょご)ではないとは見えましたが、娘でもないように見えました」 ロイハノはシノハがオロンガの女と同じ道を歩もうとしているのを認めたくなかった。
「それは有り得ん。 シノハと同じ年のはずじゃ」
「・・・オロンガの女の話とは、違うのではないでしょうか」
「ロイハノ・・・お前がオロンガの女の話にシノハを置きたくないのは分かる。 じゃが、心しろ。 お前は“才ある者” このオロンガを背負わなければならんのじゃ。 シノハを特別な目で見るな」
「・・・ですが、婆様。 シノハは幼子の頃より婆様の言葉を聞いております。 シノハに限って・・・」
「オロンガの女の語りは寂しく悲しい。 その中にシノハを置きたくない気持ちはよく分かる。 じゃが、天はシノハを選んだのじゃ」
「ですが!・・・」
「ロイハノ、心を静めろ」
「婆様・・・なぜ天はシノハを選んだのでしょうか」 泣きごとのように言う。
「ロイハノ、天を恨むでない。 天から見ればシノハも誰も同じじゃ。 じゃがその中でシノハが選ばれたんじゃ。 いや、シノハが天に申し出たのかもしれん。 シノハが後退するか進むのか・・・天はシノハに進むことを願っておるじゃろう」
「婆様・・・」 ロイハノの目に涙が浮かぶ。
「シノハが天に顔を向けられるように、我らがシノハに添おう」
「・・・はい」
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- 映ゆ - ~Shou / Shou & Shinoha / Shinoha~ 第98回
「え?」 デスクから顔を上げた。
「なに? どうしたの?」 隣に座る樹乃が言う。
「あ、ごめん。 何でもない」 樹乃が頭を傾げながら、再びキーボードを打ちはじめた。
(なに? シノハさんに何かあった?) 激しく打つ鼓動が鳴りやまない。
(シノハさんの声が聞こえた気がした・・・そんなことあるわけないのに)
「渉?」 動かない渉に顔を戻した樹乃が渉を呼ぶが、ピクリとも動かない。
「渉!」 声を押さえて呼ぶと肩を揺する。
「え? あ・・・」 樹乃を見る渉の顔が真っ青だ。
「ちょっと、渉どうしたの? 真っ青よ」
「・・・分からない」 呆然と答える。
「分からないって、何のことを言ってるの・・・。 渉、おかしいよ。 ・・・早退する?」
「・・・」 どこを見るとなく一点を見ている。
「おかしいよ、早退しな」 渉の様子に尋常ではないことをさとった。
渉の脇を抱えると、腑抜けになったクソジジイに早退の旨を告げ、ロッカーまで渉を連れて出た。
「大丈夫? 一人で帰れる? 家に連絡入れようか?」 着替えを手伝いながら樹乃が言うが、それにも答えない。
「渉! どうしちゃったのよ、しっかりして!」 肩を揺する。
「あ・・・うん・・・。 大丈夫」
「大丈夫じゃないしっ! 家に連絡入れようか?」
「うううん。 一人で帰れる」
変わらず顔色は悪いが、それでも受け答えが出来ている。
「本当に?」 樹乃が渉の顔を覗き込む。
「うん。 ・・・もしかして、明日休むかも」
「分かった。 その時には私からクソジジイに言っておくから」
「・・・うん。 ありがと。 じゃね」 ふらりと身体を揺らせロッカーを出た。
「あんなに元気だったのに、急にどうしちゃったの・・・」
電車に揺られる。
(シノハさん・・・シノハさんどうかしちゃったの?・・・そうじゃないの? 私がどうかしちゃったの?) 俯いて顔に両手を被せる。
(シノハさんに逢いたい・・・) 今にも涙が出てきそうな思いを押さえると、顔を上げ席を立った。
神社への駅を降りるとバス停に行きかけたが、平日の日中はバスの運行が少ないことを思い出した。
「バスよりタクシーで行こう」 バス停に行きかけた足を止め、タクシー乗り場に向かう。
「あれ? あの子、たしか奏和と一緒にいた・・・なんて言ったっけ? へぇー、スーツなんて着るんだな」 バス停に行きかけた渉がタクシー乗場に向かっていく姿を、順也が目で追った。
すぐに来たタクシーに乗り込むと、神社から少し離れた所で降りた。
「平日だから神社に入ったら目立っちゃうな・・・」 神社の下まで歩き、ソロっと階段の上を覗き込んだ。
「小父さんも小母さんもいるのかなぁ・・・」 階段の端をゆっくりと歩く。
階段を上がりきり、鳥居に身を隠しながら前を見ると閑散とした境内が目に入った。
「やっぱり平日は誰も来ないのかなぁ・・・目立っちゃう」 自分の着ている紺のスーツを見た。
「グレーのスーツを着てくればよかった。 そしたら保護色になったかも知れないのに」 神社の砂利と一体化になれると思ったようだが、少々無理がありそうだ。
と、その時、宮司の家の玄関が開く音がした。 思わず鳥居に身を隠す。
「じゃ、お父さんお願いしますね。 遅くなりますから夕飯は食べておいてくださいね」 玄関の戸を閉めると足早に鳥居を抜け、隠れている渉に気付かず雅子が階段を下りて行った。
「小母さん今日は遅くなるんだ。 小父さんは家の中か・・・」 階段を下りて駐車場に向かった雅子を見送ると一気に山に入る入り口まで走った。
「良かった、小父さんが出てこなくて・・・」 後ろを振り返り呟くと、足早に山の中を歩く。
「シノハさんに何かあった? ・・・うううん、そんなことはない。 きっと私の考えすぎ」 磐座までに心が逸る。
磐座の前に着くといつものように手を合わせ、まずは磐座に感謝の念を伝える。 そして
「シノハさんに逢いたい」 そう告げると、言葉に出すより一層シノハに逢いたい気持ちが広がる。
サラサラと川の流れる音が聞こえた。 目を開ける。 いつもなら目の前にシノハが居るか、シノハの声で振り返るのに目の前にシノハが居ない、シノハが呼ぶ声もしない。
「シノハさん・・・」 不安がよぎる。
川を見渡すと川に向かってシノハが背を丸くして座っている姿が見えた。
(シノハさん!) 一瞬心が躍ったが、すぐに不安で胸がいっぱいになった。
「シノハさん・・・」 丸まったシノハの後姿を暫く見ていたが、そっと歩を進めた。
岩陰に居たアシリとロイハノは、シノハばかりを見ていて渉が現れたことには気づかなかったが、シノハへ歩み寄る渉にやっと気付いた。
「ロイハノ、あの衣を着た者は?」
「私も初めて見た・・・」
「シノハさん・・・」 渉の声に驚いたようにシノハが振り返った。
「ショウ様!」 思わず立ち上がる。
ロイハノに緊張が走る。
(シノハ、お願い・・・)
「シノハさんどうしたの? 目が真っ赤」
泣いて泣いて泣きつくした。
「あ、何でもありません。 ・・・ちょっと目が痛くてこすってしまいました」
「大丈夫? お医者さんに行かなくちゃ」
逢いたい渉が目の前にいる。 今は何も考えたくない。
「我が村は薬草の村。 いくらでも薬草があります。 これくらいなら緩い薬草で治ります」 シノハの笑顔に安堵を覚える。
「そうなんだ。 薬草かぁ・・・漢方薬みたいなものね。 じゃ、大丈夫なのね」 渉の微笑みに我が身が吸い込まれそうになったが、すぐに渉が表情を変えた。
「さっきまでね、会社に居たの。 仕事をしてたの。 そしたらシノハさんの声が聞こえた気がして・・・シノハさんに何かあったような気がして・・・」 眉尻を下げてシノハを見上げる。
「ショウ様・・・」 安心して下さい、と頬を撫でてあげたい。 でも出来ない。
「ショウ様が我のことを考えて下さったのは我の喜びです」 どこか寂し気な笑顔に渉の眉尻が下がったままだ。
(ショウ様が我の声を聞いてくださった・・・) 喜びと悲しみが交差する。
「シノハさんどうかしたの?」
「え? 何でもありません。 ショウ様、今日は川の水が澄んでいます。 座って共に川の流れを見ませんか?」 シノハの笑みに渉がコクリと答える。
いつもほどの嵩がなく落ち着いた流れの中、沢山の水鳥がプカプカと浮いている。
対岸から小動物が岩を伝ってこちら側にやってきている。 そこへコロコロコロと鳴きながら青い小さな鳥が飛んできた。
渉が鳥に目をやる。 目の下に赤く丸い模様がある。 まるで頬紅を塗っているようだ。
鳥が川の中にある岩におりると、ピョンピョンと撥ねて歩き、小さな青い尾羽を広げ赤いくちばしで川の水を飲んだ。
「綺麗な青色・・・あの鳥は?」
初めて見る鳥だ。 小さくて可愛らしいが、水を飲むときには小さくはあるがクジャクのように後ろの羽を広げている。
「ジョウビキといいます」
「綺麗なのに可愛らしい」 ジョウビキに目を引かれる。
「姿に見合わず気が強いのですが」
「そうなの?」 シノハを見た。
「はい。 馴らそうとしてもなかなか馴れてくれません」
「野生の鳥なんだもの、そう簡単に馴れないでしょう?」
「ははは、そうでもないですよ。 オロンガの鳥達はあまり人を警戒していないので、すぐに馴れるところがあるんです」
「へぇー、そうなんだ」
「他の村は鳥を狩るので、鳥も警戒をしているようですが」
「オロンガでは狩をしないの?」
「はい。 オロンガでは肉を食べませんから。 あ、と言っても他の村に行って肉を出されれば食べます」
「そうなんだ。 基本的にはベジタリアンなんだ」
「座りましょう」 腰につけていた布を下に敷いた。
「ありがとう」 渉が腰を下ろすとその横にシノハが座った。
見守っているロイハノの心臓がはち切れそうになる。
「今日は少しはゆっくりできるのですか?」
「うん」 渉がシノハの目を見て答える。
「オロンガの川に魚はいるの?」
「はい、います。 沢山の種類の魚がいますよ。 あ、ほら、今ハネました」 シノハが先を指さすが、渉はシノハの顔をずっと見ている。
「ショウ様?」
「シノハさん、何か隠してる?」
心の的をつかれたが表情には出せない。 渉の問いに笑みを返す。
「いえ、なにも隠し事などはありません。 時にはこうしてショウ様とゆっくり話をしてみたいと思っていました」
「そういうことじゃなくて・・・」
「ショウ様、我はショウ様と共に居たいと思っているだけです。 それ以外には何もありません」 もう泣きつくしたはずなのに、喉の奥が締め付けられてくる。
「シノハさん・・・」 渉の眼差しに心が砕けそうになるのを堪える。
「ショウ様、先程仕事をしていたと?」
「あ、うん・・・投げ出してきちゃった」 ペロッと舌を出す。
「あ・・・あはは。 良かったのですか?」 シノハの顔に僅かに寂しさがなくなったような気がした。
「うん。 たまにはいいの」
「ショウ様はどんな仕事をされているのですか?」 渉の言葉に両の眉を上げながら聞く。
「事務」
「ジム? それはどういったことをするのですか?」
「あ、そっか・・・オロンガには・・・ここにはそんな仕事がないのか・・・うーん、なんて言ったらいいのかなぁ?」
「織物や籠を編んだりはしないのですか?」
「織物? 編む?」
「はい」
「ムリ、絶対に無理」 あまりの拒否のしように、シノハが握った手を口に当てクックと笑いだした。
「あ・・・シノハさん、笑っちゃうの?」 そう言いながらも、芯から出たシノハの笑い顔に渉も微笑むことが出来た。
「もしかして・・・ショウ様は不器用なのですか?」 笑いを押さえながら聞いた。
「・・・ハッキリ言わないで」
「我はけっこう器用なのですよ。 我の器用さをショウ様にお分けしたい」 いつもいつも優しい目。
「そうなんだ。 シノハさんって器用なんだ。 ・・・そっか、まだまだシノハさんのことを知らない。 もっとシノハさんを知りたい」 渉の言葉にシノハが目を細めて言う。
「ショウ様に何かお作りしたい・・・何か欲しいものはないですか?」
「え? ほしいもの? なに? ストラップとか?」
「それはどういったものですか?」
「あ、そっか・・・。 うーん・・・」 頭を捻る。
「うん。 シノハさんが思うものならなんでもいい。 シノハさんが思うものが欲しい」 渉の言葉に両の口の端を上げシノハが頷いた。
渉とシノハは陽が落ちる寸前まで、初めて長い時を過ごした。
「そろそろ暗くなっちゃうね。 ここには街頭もないからシノハさんも帰らなくっちゃね」
「ショウ様・・・」
「シノハさん明日は?」
「明日も来て下さるのですか?」 シノハの目の中が輝いた。
「来られるように頑張る」
「はい。 お待ちしています」
「泊まれないもんね。 パパとママが心配しちゃう」 言ったかと思うと、渉の姿が歪み、そして下に敷いていた布だけが残った。
「ショウ様・・・」 渉の残像を目で追うと、立てていた膝の間に顔を入れた。 枯れたはずの涙が次から次に落ちた。
「あの様に去るのか・・・」 初めて見た光景に驚き、ロイハノが一人ごちると、時に飽きていたアシリが振り向いた。
「どうした?」
「・・・なんでもありません。 村に帰りましょう」
ロイハノがセナ婆の元に帰ると見たままを伝えた。
「そうか。 それではその娘は何も知らんようじゃな。 シノハはその娘に何も伝えない気でいるか・・・」 大きく息を吐いた。
「じゃが、それでは済まん。 いつかは娘の手を取るじゃろう」
「ですが、婆様」 ロイハノが初めてセナ婆に反する言葉を投げた。
「女子(にょご)ではないとは見えましたが、娘でもないように見えました」 ロイハノはシノハがオロンガの女と同じ道を歩もうとしているのを認めたくなかった。
「それは有り得ん。 シノハと同じ年のはずじゃ」
「・・・オロンガの女の話とは、違うのではないでしょうか」
「ロイハノ・・・お前がオロンガの女の話にシノハを置きたくないのは分かる。 じゃが、心しろ。 お前は“才ある者” このオロンガを背負わなければならんのじゃ。 シノハを特別な目で見るな」
「・・・ですが、婆様。 シノハは幼子の頃より婆様の言葉を聞いております。 シノハに限って・・・」
「オロンガの女の語りは寂しく悲しい。 その中にシノハを置きたくない気持ちはよく分かる。 じゃが、天はシノハを選んだのじゃ」
「ですが!・・・」
「ロイハノ、心を静めろ」
「婆様・・・なぜ天はシノハを選んだのでしょうか」 泣きごとのように言う。
「ロイハノ、天を恨むでない。 天から見ればシノハも誰も同じじゃ。 じゃがその中でシノハが選ばれたんじゃ。 いや、シノハが天に申し出たのかもしれん。 シノハが後退するか進むのか・・・天はシノハに進むことを願っておるじゃろう」
「婆様・・・」 ロイハノの目に涙が浮かぶ。
「シノハが天に顔を向けられるように、我らがシノハに添おう」
「・・・はい」