『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第123回
「それなら・・・私もしたことがあります」
「ふーん、いつ?」
「高校時代にです」
「え? 自転車? 電車通学だったよね? それにクラブの休みは簡単に無かった筈だよね?」
「どうして知ってるんですか?」
眉を顰めて小首を傾げる。
「あ・・・。 そ、それは・・・」
「それは?」
「それは・・・みんな知ってるよ」
「みんな?」
「そ、そう。 紫揺ちゃんのいたクラブは正月三が日以外休みがないって。 それに紫揺ちゃんの・・・」
「・・・私の?」
「ああ、もう! ハッキリ言うよ。 紫揺ちゃんに振られた同級生がいるし、情報通の奴もいた。 紫揺ちゃんの登校ルートも聞いてた。 その登校ルートに他の学校の奴が合わせていたってことも聞いてた」
「え? どうして先輩が聞くんですか?」
「聞くって・・・その時の流れで耳に入ったりするし、付き合いで話もするから」
「そうなんだ・・・」
そうなんだ、で終わらせられてしまうのか? ハッキリ言ったのに。
「だからっ! その情報では紫揺ちゃんが自転車をこいでた情報が無かったんだけどっ!」
「わ、甘い情報ですね」
「あ・・・どういうこと?」
「私、二駅分自転車こいでました」
「え?」
「その方が、定期代が安くなるから」
「・・・ちょっと待って」
その頃の話を訊きたいとは思うが、今は今だ。 どうしてそこまで倹約していた生活なのに、此処に居るのか? それが分からない。 前に訊きかけたが答えをもらえるまでには至っていなかった。
「何をどう訊いていいのか分からないけど・・・それに前に、言いたくないって言ってたけど、答えられる範囲でいいから教えてくれる? 紫揺ちゃんはどうしてここに居るの?」
「自転車をこいでた話からそこですか?」
「あ、いや、悪い」
「いえ、謝ってもらわなくていいです。 でもそこは言えません。 私にも未だに納得できる理由が分からないですから」
攫われたなどと簡単に言えないし、攫われた理由があることも分かっている。 でもそれはあまりに複雑すぎる。 簡単に人に言えないし、この複雑さが尚も複雑になる気配を感じている。
「そうなんだ。 でも、それでいいの?」
「良くないからここを出たいんです」
「だよね。 でも、それを伸ばしたいってことだよね?」
「・・・はい」
「う・・・ん。 俺には分からないことがあり過ぎるけど、まぁ、紫揺ちゃんの言うとおりにするよ。 それに俺の思うインサイダーはその程度だから気にしないで」
真実は全然その程度ではないが。
「あ、そうでした。 信号無視の話でした」
「いや、それはいいよ。 紫揺ちゃんのタイミングで言ってくれればいいから。 ま、でも急に今日と言われては困るけどね」
「はい、それは分かっています」
「ねぇ、ガザン? ニョゼさんのことをどう思う?」
紫揺の知っている限り、ガザンとニョゼは一度会っている。 知らない時にも会っているかもしれないが、それは多分ないだろう。
何故なら、紫揺が花を咲かせた時にガザンが徹底的にニョゼの匂いを嗅いだからだ。 その時のニョゼの態度が顔を引きつらせながら、片方の掌でもう一方の掌を握り口元で合わせ、ピクリとでも動けば噛まれると思っているようで微動だにしなかったからだ。
「ブフッ」 と、ガザンが鼻から息を吐いた。 相手にもしないということのようだ。
「そうなの? ・・・ってことは、ガザンはニョゼさんに敵対心を持ってないってこと?」
訊くが何も答えてはくれない。 でもそれが答えだ。
「ガザン・・・。 セキちゃんとニョゼさんを守ってくれる?」
ガザンの黒目が動いた。 紫揺をジッと見る。
「守ってくれる?」
「ブフ―」 と呆れたような息を吐くと、紫揺のいない方に顔を向け、そのまま前足に顎を置いた。
分かりきっていることに、何をたわけたことを言っているのだと言っているかのように。 だがそれはセキとニョゼに対してではない。
でも人間にそれは伝わらない。 そしてガザンにとって厳しい次が待っている。
「ねぇ! ガザン! 守ってくれるの!? こっち向いてよ!」
グギッとガザンの頭をこちらに向かすと、至近距離で目を合わせた。
「守ってくれる? セキちゃんとニョゼさんのこと」
ガザン曰く。 「近すぎるだろう」 その表現が目を逸らすことになった。
「ガザン! ちゃんとこっちを見て! 守ってくれる?」
ガザン曰く。 「いや、だから・・・オレが守るのは」 ちらっと眼を合わせると大きく溜息を吐いた。
「やだ、それ。 なに? 私に呆れたって言ってるの?」
大きな遠回りだが、多分通じたようだ。
翌日、紫揺の部屋に朝食を持ってきたニョゼ。
「今日はコックの焼いたパンでございます」
「え? どうしてですか?」
「わたくしは素人です。 連日素人の焼くパンをシユラ様にお出しすることは・・・」
そう言いながらワゴンから皿を次々に出す。
そんなことないです! ニョゼさんの焼くパンが食べたい! そう言いたかったが口を閉じた。
今はそんな我儘を言ってニョゼとの別れを・・・ニョゼがどう思うか知れないが、思い上がっているならばそれでもいい。 ニョゼは自分と別れたくないと思っているだろう。 自分はそれ以上に思っている。 それでもニョゼと別れようとしている。 そんな時に下手な我儘言葉を言う必要などは無い。
「ニョゼさん?」
「はい」
皿を出す手を止め、両手を前に合わせて紫揺に向く。
「あ、手を止めてもらう程の事じゃないですから、どうぞお願いします。 って、私それくらい自分でします」
席を立ちかけるとニョゼが慌てて止めた。
「これはわたくしの仕事です。 わたくしから仕事を取らないでくださいませ」 冗談交じりに言うと 「では、お話をお聞きしながら」 と手を動かし始めた。
「はい・・・。 あの、ニョゼさん?」
「はい」
「ニョゼさんはこれからどうするんですか?」
「これからと申されますと?」
「ムロイさんが帰ってくる様子もないし。 その、ニョゼさんのいうお仕事をどうするんですか?」
一瞬、ニョゼの手が止まったが、最後の皿を置くとワゴンを引き紫揺の横に膝をついた。
「あ、椅子に座って下さい。 それにこんなに食べられません。 一緒に食べませんか?」
「わたくしはもう戴きましたので」
嘘と分かる。 でも、嘘でしょ? とは言えない。
「じゃ、せめて椅子に座って下さい」
紫揺の言いたいことは分かる。 膝をつかれては話がしずらいのだろう。 分かってはいるが、ムラサキと呼ばれる紫揺と同じ目の高さに座るなど、簡単に出来るものではない。
以前、紫揺が部屋の中を壊した時には致し方なく椅子には座った。 あの時はその方がいいのだろうと思ってのことだった。
だが今、紫揺は同じ目の高さになりたがっている。
「では、失礼いたします」
そう言うと腹を据えたように紫揺の正面に座った。
「セノギと話しました」
「セノギさんと?」
「はい。 シユラ様のご助言を受けてセノギと話しました」
「え? 助言って?」
「北の領土のお話しをしました」
「え・・・?」
そんなこと言いましたっけ? そう訊きたかったが、余りにも欠け過ぎる記憶、そう簡単に訊けない。
「あの・・・それで?」
「セノギは・・・北の領土に帰りたいようです。 セノギ自身、まだハッキリとは言い切れないようですが」
「で? ニョゼさんは?」
「わたくしは・・・シユラ様に言っていただいたことが身に染みております」
「え?」
何を言ったんだろう? 一切記憶にない。 次にどう質問していいのだろうか。
そう逡巡する紫揺を置いてニョゼが話した。
「シユラ様が言って下さった、両親に会いたいというのは・・・きっとわたくしの心の声だとおもいます」
徐々に記憶が蘇ってくる。 遠くに聞こえていた波のように。
『私の思い上がりなら笑ってもらってもいいです。 でも、ニョゼさんが私のことを想って下さっているのは、私のことを妹のように思って下さっているからではないのですか? それと同時にご両親にお会いしたい・・・うううん、ご両親と過ごしたい、ずっと一緒に居たいと思っているんじゃないんですか?』 そう言ったことを思い出した。
どうしてそんなことを言ったのかは分からない。 でもあの時、確信があった。 それに
『ニョゼさんに気に留めてもらって嬉しい。 でも、ニョゼさんを自由にしてあげたい。 私の傍に居てもらうのは嬉しいけど、居て欲しいけど、それはニョゼさんの自由を括ることになってしまう』
そうも言ったことを思い出した。 どうしてそう思ったのか、そう言ったのか全く分からないし、そんな大切なことを言ったのを忘れていた事にも自分自身で驚く。
そう言えば思い出すことがある。 あの時、どうしてそんなことを自分が口にしてしまったかとうろたえた時、ニョゼが言った。
『シユラ様はお優しい。 ですがムラサキ様はお優しさも厳しさも持っておいでと聞いております。 ムラサキ様のお心が目覚められたのではないでしょうか?』
そう言っていた。
それは・・・これもムラサキの力なのか?
ニョゼとの先を考えようと思っていたが、既にそこで言っていた?
ニョゼを自由にしたいと。 ニョゼに居て欲しいけどそれはニョゼの自由を括る事、奪うことになると。
気を改めよう。 甘えてばかりではいけない。 自分はムラサキではないが、ムラサキの血があるのかもしれないが、自分は紫揺。 自分自身で考える。 甘えてばかりじゃいけない。 それがニョゼにとって一番であろう。
こんな時ムラサキだったらどう言うのだろうか、そう思ったら頭の片隅がボウっとした。 何だろうと思いながら紫揺なりの言葉を紡ぐ。
「セノギさんの具合はどうですか?」
「随分と良くなりました」
「北の領土に帰られそうですか? その、ムロイさんを見に行くとかって」
「長時間、馬に乗るにはまだ難しいでしょうか」
「そうなんだ・・・。 ニョゼさんは馬に乗れるんですか?」
「はい。 米国に居る時に馬術を習いましたので」
「わぁ、ホントに何でもできるんだ」
「ですが磨かれた馬に乗っていましたので、北の領土の馬に乗れるかどうかは・・・」
「ニョゼさん?」
「はい?」
「セノギさんと一緒に一度北の領土に帰りませんか? セノギさんは馬車でどうですか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい。 此処から追い出そうとしてるわけじゃないんです。 でも・・・どうしてだろ。 急に頭の片隅がボゥッとして・・・。 その、ニョゼさんが以前に言って下さったムラサキの力が目覚めたって・・・。 それを感じようと思ったら、ムラサキの気に添おうと思ったらボゥッとしちゃって、勝手なことを言っちゃいました・・・。 私、まだまだ駄目だぁ・・・」
そう言うと頭を項垂れた。
紫揺の中で、紫の目覚めと紫揺自身の想い、考えがなかなか一致しない。 これがずっと東の領土に居れば、迷いが生じれば導く者が居て、こんなことにはならなかった。 だが紫揺はそれを知らない。 ニョセも然りである。
「そんなことは御座いません。 わたくしをムラサキ様の目で見て下さったのでしょう。 この身に有難く思います」
ムラサキの目と言われたのは心外ともいえず、心寂しい。 ムラサキの目はシユラの目ではないのだから。
紫揺がそう思ったのを知ってか知らずか、ニョゼが続けた。
「でもこうしてシユラ様の言葉で語って下さるのは、何よりも代えがたい嬉しさがございます」
「え?」
「シユラ様のお言葉から、今すぐではありませんがいつかはセノギと領土に帰ります」
「領土に帰って・・・どうするんですか?」
領土に帰ったら、ニョゼは二度と此処には戻って来ないだろう。 その感覚はムラサキから受けているし、紫揺自身も分かっている。 だが紫揺としての我が儘が出る。
「セノギはここを引き上げるのが良いと考えているようです」
「え?」
「そしてわたくしにも領土に帰るのが良いと思っているようです」
「・・・そうなんだ」
寂しそうに俯いた。
「シユラ様?」
「あの、あの! 御免なさい! 今の私ってニョゼさんにとっても我が儘を言ってますよね? 言ってなくても・・・言ってるけど、思っているのはバレてますよね」
支離滅裂だ。
「シユラ様・・・」
「前にも言いましたけど、自分に言い聞かせる為にも、もう一度ハッキリ言います。 私、ニョゼさんとずっと居たい。 でもニョゼさんは北の領土に帰らなければいけない。 ニョゼさんは北の領土の人間だから。 私は北の領土に行きたくない。 分かっていてもニョゼさんと居たいと思う。 だって、私、この世に肉親も誰も居ないんですもん。 ニョゼさんを大切なお姉さんと思っています。 だからニョゼさんと別れたくない。 でもそれは私の我儘だと分かっています。 ニョゼさんにはお父さんもお母さんもいらっしゃいます。 ニョゼさんがご両親にお会いしたいということを誰よりも分かっているつもりです。 だから・・・」
「シユラ様・・・」
「・・・だから、大切なニョゼさんに幸せになってもらいたい。 ニョゼさんを北の領土に送り・・・たいです」
紫揺が破壊を行った日に遡る。
紫揺に強く言われ、ニョゼがセノギに付くことになった。 そのニョゼがセノギの部屋を訪ねた。
「セノギ、横になっていなくてもいいのですか?」
椅子に腰かけていたセノギに尋ねた。 顔色は少し前に会った時よりも悪くなっている。
「ああ、これでも此処に帰って来たころに比べると随分よくなったからな。 それよりシユラ様は?」
ニョゼにも椅子に腰かけるよう目で促した。
「ムラサキ様としての目覚めがあられるように思います」
言い終わると椅子を引き、ゆっくりと腰をかけた。
「力の加減を分かっていただかなくてはなぁ」
「はい。 あのようなことが何度もあっては・・・」
そう言うといったん言葉を切り続けた。
「力と関係するかどうかは分かりませんが、シユラ様ご自身にムラサキ様の目覚めがあるように見受けられました」
「どういうことだ?」
「ムラサキ様の血がどのようなものかは、わたくしの知るところではありませんが、明らかにわたくしの知っているシユラ様ではない所が見受けられたということです」
「具体的には?」
「わたくし自身さえ気付かなかった、わたくしの心の思いを見抜かれました」
「え!?」
「ムラサキ様にはそのようなお力があるのですか?」
「いや、それは私にも分からない。 五色のお力は春夏秋冬と季節の循環であり、東西南北と中央の力でもある。 我が北の五色様方は基本はお一人づつがその力を持っておられるが、そのお力をお一人で持っておられるムラサキ様には、もしかして相互作用のお力も持っていらっしゃるのかもしれない」
五色の力がそんな風になっているとは知らなかった。 幼い時に北の領土を出て、領土のことは何も知らない。 五色とは十五の歳を過ぎてこの屋敷で初めて会ったが、ムロイからは五色だと聞いて、ある程度のことは聞いたが、五色のシステムのことは聞かなかった。
ニョゼが首を振った。
「セノギ・・・わたくし、シユラ様に北に帰るように言われました」
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「それなら・・・私もしたことがあります」
「ふーん、いつ?」
「高校時代にです」
「え? 自転車? 電車通学だったよね? それにクラブの休みは簡単に無かった筈だよね?」
「どうして知ってるんですか?」
眉を顰めて小首を傾げる。
「あ・・・。 そ、それは・・・」
「それは?」
「それは・・・みんな知ってるよ」
「みんな?」
「そ、そう。 紫揺ちゃんのいたクラブは正月三が日以外休みがないって。 それに紫揺ちゃんの・・・」
「・・・私の?」
「ああ、もう! ハッキリ言うよ。 紫揺ちゃんに振られた同級生がいるし、情報通の奴もいた。 紫揺ちゃんの登校ルートも聞いてた。 その登校ルートに他の学校の奴が合わせていたってことも聞いてた」
「え? どうして先輩が聞くんですか?」
「聞くって・・・その時の流れで耳に入ったりするし、付き合いで話もするから」
「そうなんだ・・・」
そうなんだ、で終わらせられてしまうのか? ハッキリ言ったのに。
「だからっ! その情報では紫揺ちゃんが自転車をこいでた情報が無かったんだけどっ!」
「わ、甘い情報ですね」
「あ・・・どういうこと?」
「私、二駅分自転車こいでました」
「え?」
「その方が、定期代が安くなるから」
「・・・ちょっと待って」
その頃の話を訊きたいとは思うが、今は今だ。 どうしてそこまで倹約していた生活なのに、此処に居るのか? それが分からない。 前に訊きかけたが答えをもらえるまでには至っていなかった。
「何をどう訊いていいのか分からないけど・・・それに前に、言いたくないって言ってたけど、答えられる範囲でいいから教えてくれる? 紫揺ちゃんはどうしてここに居るの?」
「自転車をこいでた話からそこですか?」
「あ、いや、悪い」
「いえ、謝ってもらわなくていいです。 でもそこは言えません。 私にも未だに納得できる理由が分からないですから」
攫われたなどと簡単に言えないし、攫われた理由があることも分かっている。 でもそれはあまりに複雑すぎる。 簡単に人に言えないし、この複雑さが尚も複雑になる気配を感じている。
「そうなんだ。 でも、それでいいの?」
「良くないからここを出たいんです」
「だよね。 でも、それを伸ばしたいってことだよね?」
「・・・はい」
「う・・・ん。 俺には分からないことがあり過ぎるけど、まぁ、紫揺ちゃんの言うとおりにするよ。 それに俺の思うインサイダーはその程度だから気にしないで」
真実は全然その程度ではないが。
「あ、そうでした。 信号無視の話でした」
「いや、それはいいよ。 紫揺ちゃんのタイミングで言ってくれればいいから。 ま、でも急に今日と言われては困るけどね」
「はい、それは分かっています」
「ねぇ、ガザン? ニョゼさんのことをどう思う?」
紫揺の知っている限り、ガザンとニョゼは一度会っている。 知らない時にも会っているかもしれないが、それは多分ないだろう。
何故なら、紫揺が花を咲かせた時にガザンが徹底的にニョゼの匂いを嗅いだからだ。 その時のニョゼの態度が顔を引きつらせながら、片方の掌でもう一方の掌を握り口元で合わせ、ピクリとでも動けば噛まれると思っているようで微動だにしなかったからだ。
「ブフッ」 と、ガザンが鼻から息を吐いた。 相手にもしないということのようだ。
「そうなの? ・・・ってことは、ガザンはニョゼさんに敵対心を持ってないってこと?」
訊くが何も答えてはくれない。 でもそれが答えだ。
「ガザン・・・。 セキちゃんとニョゼさんを守ってくれる?」
ガザンの黒目が動いた。 紫揺をジッと見る。
「守ってくれる?」
「ブフ―」 と呆れたような息を吐くと、紫揺のいない方に顔を向け、そのまま前足に顎を置いた。
分かりきっていることに、何をたわけたことを言っているのだと言っているかのように。 だがそれはセキとニョゼに対してではない。
でも人間にそれは伝わらない。 そしてガザンにとって厳しい次が待っている。
「ねぇ! ガザン! 守ってくれるの!? こっち向いてよ!」
グギッとガザンの頭をこちらに向かすと、至近距離で目を合わせた。
「守ってくれる? セキちゃんとニョゼさんのこと」
ガザン曰く。 「近すぎるだろう」 その表現が目を逸らすことになった。
「ガザン! ちゃんとこっちを見て! 守ってくれる?」
ガザン曰く。 「いや、だから・・・オレが守るのは」 ちらっと眼を合わせると大きく溜息を吐いた。
「やだ、それ。 なに? 私に呆れたって言ってるの?」
大きな遠回りだが、多分通じたようだ。
翌日、紫揺の部屋に朝食を持ってきたニョゼ。
「今日はコックの焼いたパンでございます」
「え? どうしてですか?」
「わたくしは素人です。 連日素人の焼くパンをシユラ様にお出しすることは・・・」
そう言いながらワゴンから皿を次々に出す。
そんなことないです! ニョゼさんの焼くパンが食べたい! そう言いたかったが口を閉じた。
今はそんな我儘を言ってニョゼとの別れを・・・ニョゼがどう思うか知れないが、思い上がっているならばそれでもいい。 ニョゼは自分と別れたくないと思っているだろう。 自分はそれ以上に思っている。 それでもニョゼと別れようとしている。 そんな時に下手な我儘言葉を言う必要などは無い。
「ニョゼさん?」
「はい」
皿を出す手を止め、両手を前に合わせて紫揺に向く。
「あ、手を止めてもらう程の事じゃないですから、どうぞお願いします。 って、私それくらい自分でします」
席を立ちかけるとニョゼが慌てて止めた。
「これはわたくしの仕事です。 わたくしから仕事を取らないでくださいませ」 冗談交じりに言うと 「では、お話をお聞きしながら」 と手を動かし始めた。
「はい・・・。 あの、ニョゼさん?」
「はい」
「ニョゼさんはこれからどうするんですか?」
「これからと申されますと?」
「ムロイさんが帰ってくる様子もないし。 その、ニョゼさんのいうお仕事をどうするんですか?」
一瞬、ニョゼの手が止まったが、最後の皿を置くとワゴンを引き紫揺の横に膝をついた。
「あ、椅子に座って下さい。 それにこんなに食べられません。 一緒に食べませんか?」
「わたくしはもう戴きましたので」
嘘と分かる。 でも、嘘でしょ? とは言えない。
「じゃ、せめて椅子に座って下さい」
紫揺の言いたいことは分かる。 膝をつかれては話がしずらいのだろう。 分かってはいるが、ムラサキと呼ばれる紫揺と同じ目の高さに座るなど、簡単に出来るものではない。
以前、紫揺が部屋の中を壊した時には致し方なく椅子には座った。 あの時はその方がいいのだろうと思ってのことだった。
だが今、紫揺は同じ目の高さになりたがっている。
「では、失礼いたします」
そう言うと腹を据えたように紫揺の正面に座った。
「セノギと話しました」
「セノギさんと?」
「はい。 シユラ様のご助言を受けてセノギと話しました」
「え? 助言って?」
「北の領土のお話しをしました」
「え・・・?」
そんなこと言いましたっけ? そう訊きたかったが、余りにも欠け過ぎる記憶、そう簡単に訊けない。
「あの・・・それで?」
「セノギは・・・北の領土に帰りたいようです。 セノギ自身、まだハッキリとは言い切れないようですが」
「で? ニョゼさんは?」
「わたくしは・・・シユラ様に言っていただいたことが身に染みております」
「え?」
何を言ったんだろう? 一切記憶にない。 次にどう質問していいのだろうか。
そう逡巡する紫揺を置いてニョゼが話した。
「シユラ様が言って下さった、両親に会いたいというのは・・・きっとわたくしの心の声だとおもいます」
徐々に記憶が蘇ってくる。 遠くに聞こえていた波のように。
『私の思い上がりなら笑ってもらってもいいです。 でも、ニョゼさんが私のことを想って下さっているのは、私のことを妹のように思って下さっているからではないのですか? それと同時にご両親にお会いしたい・・・うううん、ご両親と過ごしたい、ずっと一緒に居たいと思っているんじゃないんですか?』 そう言ったことを思い出した。
どうしてそんなことを言ったのかは分からない。 でもあの時、確信があった。 それに
『ニョゼさんに気に留めてもらって嬉しい。 でも、ニョゼさんを自由にしてあげたい。 私の傍に居てもらうのは嬉しいけど、居て欲しいけど、それはニョゼさんの自由を括ることになってしまう』
そうも言ったことを思い出した。 どうしてそう思ったのか、そう言ったのか全く分からないし、そんな大切なことを言ったのを忘れていた事にも自分自身で驚く。
そう言えば思い出すことがある。 あの時、どうしてそんなことを自分が口にしてしまったかとうろたえた時、ニョゼが言った。
『シユラ様はお優しい。 ですがムラサキ様はお優しさも厳しさも持っておいでと聞いております。 ムラサキ様のお心が目覚められたのではないでしょうか?』
そう言っていた。
それは・・・これもムラサキの力なのか?
ニョゼとの先を考えようと思っていたが、既にそこで言っていた?
ニョゼを自由にしたいと。 ニョゼに居て欲しいけどそれはニョゼの自由を括る事、奪うことになると。
気を改めよう。 甘えてばかりではいけない。 自分はムラサキではないが、ムラサキの血があるのかもしれないが、自分は紫揺。 自分自身で考える。 甘えてばかりじゃいけない。 それがニョゼにとって一番であろう。
こんな時ムラサキだったらどう言うのだろうか、そう思ったら頭の片隅がボウっとした。 何だろうと思いながら紫揺なりの言葉を紡ぐ。
「セノギさんの具合はどうですか?」
「随分と良くなりました」
「北の領土に帰られそうですか? その、ムロイさんを見に行くとかって」
「長時間、馬に乗るにはまだ難しいでしょうか」
「そうなんだ・・・。 ニョゼさんは馬に乗れるんですか?」
「はい。 米国に居る時に馬術を習いましたので」
「わぁ、ホントに何でもできるんだ」
「ですが磨かれた馬に乗っていましたので、北の領土の馬に乗れるかどうかは・・・」
「ニョゼさん?」
「はい?」
「セノギさんと一緒に一度北の領土に帰りませんか? セノギさんは馬車でどうですか?」
「え?」
「あ、ごめんなさい。 此処から追い出そうとしてるわけじゃないんです。 でも・・・どうしてだろ。 急に頭の片隅がボゥッとして・・・。 その、ニョゼさんが以前に言って下さったムラサキの力が目覚めたって・・・。 それを感じようと思ったら、ムラサキの気に添おうと思ったらボゥッとしちゃって、勝手なことを言っちゃいました・・・。 私、まだまだ駄目だぁ・・・」
そう言うと頭を項垂れた。
紫揺の中で、紫の目覚めと紫揺自身の想い、考えがなかなか一致しない。 これがずっと東の領土に居れば、迷いが生じれば導く者が居て、こんなことにはならなかった。 だが紫揺はそれを知らない。 ニョセも然りである。
「そんなことは御座いません。 わたくしをムラサキ様の目で見て下さったのでしょう。 この身に有難く思います」
ムラサキの目と言われたのは心外ともいえず、心寂しい。 ムラサキの目はシユラの目ではないのだから。
紫揺がそう思ったのを知ってか知らずか、ニョゼが続けた。
「でもこうしてシユラ様の言葉で語って下さるのは、何よりも代えがたい嬉しさがございます」
「え?」
「シユラ様のお言葉から、今すぐではありませんがいつかはセノギと領土に帰ります」
「領土に帰って・・・どうするんですか?」
領土に帰ったら、ニョゼは二度と此処には戻って来ないだろう。 その感覚はムラサキから受けているし、紫揺自身も分かっている。 だが紫揺としての我が儘が出る。
「セノギはここを引き上げるのが良いと考えているようです」
「え?」
「そしてわたくしにも領土に帰るのが良いと思っているようです」
「・・・そうなんだ」
寂しそうに俯いた。
「シユラ様?」
「あの、あの! 御免なさい! 今の私ってニョゼさんにとっても我が儘を言ってますよね? 言ってなくても・・・言ってるけど、思っているのはバレてますよね」
支離滅裂だ。
「シユラ様・・・」
「前にも言いましたけど、自分に言い聞かせる為にも、もう一度ハッキリ言います。 私、ニョゼさんとずっと居たい。 でもニョゼさんは北の領土に帰らなければいけない。 ニョゼさんは北の領土の人間だから。 私は北の領土に行きたくない。 分かっていてもニョゼさんと居たいと思う。 だって、私、この世に肉親も誰も居ないんですもん。 ニョゼさんを大切なお姉さんと思っています。 だからニョゼさんと別れたくない。 でもそれは私の我儘だと分かっています。 ニョゼさんにはお父さんもお母さんもいらっしゃいます。 ニョゼさんがご両親にお会いしたいということを誰よりも分かっているつもりです。 だから・・・」
「シユラ様・・・」
「・・・だから、大切なニョゼさんに幸せになってもらいたい。 ニョゼさんを北の領土に送り・・・たいです」
紫揺が破壊を行った日に遡る。
紫揺に強く言われ、ニョゼがセノギに付くことになった。 そのニョゼがセノギの部屋を訪ねた。
「セノギ、横になっていなくてもいいのですか?」
椅子に腰かけていたセノギに尋ねた。 顔色は少し前に会った時よりも悪くなっている。
「ああ、これでも此処に帰って来たころに比べると随分よくなったからな。 それよりシユラ様は?」
ニョゼにも椅子に腰かけるよう目で促した。
「ムラサキ様としての目覚めがあられるように思います」
言い終わると椅子を引き、ゆっくりと腰をかけた。
「力の加減を分かっていただかなくてはなぁ」
「はい。 あのようなことが何度もあっては・・・」
そう言うといったん言葉を切り続けた。
「力と関係するかどうかは分かりませんが、シユラ様ご自身にムラサキ様の目覚めがあるように見受けられました」
「どういうことだ?」
「ムラサキ様の血がどのようなものかは、わたくしの知るところではありませんが、明らかにわたくしの知っているシユラ様ではない所が見受けられたということです」
「具体的には?」
「わたくし自身さえ気付かなかった、わたくしの心の思いを見抜かれました」
「え!?」
「ムラサキ様にはそのようなお力があるのですか?」
「いや、それは私にも分からない。 五色のお力は春夏秋冬と季節の循環であり、東西南北と中央の力でもある。 我が北の五色様方は基本はお一人づつがその力を持っておられるが、そのお力をお一人で持っておられるムラサキ様には、もしかして相互作用のお力も持っていらっしゃるのかもしれない」
五色の力がそんな風になっているとは知らなかった。 幼い時に北の領土を出て、領土のことは何も知らない。 五色とは十五の歳を過ぎてこの屋敷で初めて会ったが、ムロイからは五色だと聞いて、ある程度のことは聞いたが、五色のシステムのことは聞かなかった。
ニョゼが首を振った。
「セノギ・・・わたくし、シユラ様に北に帰るように言われました」