『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第73回
「安心せよ。 この仔はちゃんとこの場に送り届ける。 娘の場所を教えてもらいたいだけだ」
「それでは、自分で探せ」
母ヒトウカが冷たく反駁(はんばく)する。
「こんな子供に何度も何を頼るのか? お前たちの役はお前たちが為せ」
母ヒトウカの言葉は、まさにシグロから言われたと同じだった。
ヒオオカミが何を言うのかという顔をした。
母ヒトウカが歎息を吐く。
「少し前にこの仔に案内させただろう。 斥候に」
あの時は首長からも言われ、仕方なく協力をさせたが今回はたとえ首長から言われようと協力をさせる気はない。
「・・・ッ! あの時の仔か!」
反論など出来るはずがない。
「・・・母さん」
小さな声が母ヒトウカの身体の下から聞こえた。 母ヒトウカが首を捻って下を見ると、自分の身体の下から首だけを出している我が仔の顔が見えた。
「会いたいんだ。 もう一度。 ちゃんと帰って来るよ。 道が分からなくなってもヒオオカミが送ってくれるって言っただろ? 駄目?」
仔ヒトウカは、まだ山の中をよく知らない。 それに紫揺たちが北上していた時は、群れは南下を止め、何日もかけてゆっくりと北上する移動を始めだしたから、紫揺を追うことが容易であったが、今回は余りに群れから離れ過ぎていた。
群れは北上するのに紫揺は南下していた。 群れと紫揺の移動する場所がどんどん離れてしまい、一昨日は途中で迷ってしまって紫揺の元に行けなかったどころか、群れにも帰ることも出来なかった。 山の中をよく知らないが故、臆病になってしまうが今回は狼たちが居る。 どうしてもあの人間に会いたい。
「あと少し・・・あと少ししたら、母さんと離れてしまうのよ。 それなのに母さんと離れるって言うの?」
あと半年もすればこの仔は雄の群れに入る。
「人間の手って暖かいんだよ。 オレ、もう一度あの手に触れて欲しい」
「何を馬鹿を言ってるの!」
人間など下等な動物に触れる必要などない、と言い切る。
「母さんは知らないんだよ。 あの人間は・・・違うんだ」
確かにこの仔ヒトウカは、紫揺の移動に沿って遊んでいた。 紫揺に話しかけられ、その後は遊ぶ範疇を越えて紫揺を追った。
ずっと遠目に見ているうち、紫揺に母の温かさを感じていたのだから。
群れに戻って母にその話をした。 すると母から首長、そしてヒオオカミに話がいってしまった。
斥候を連れて紫揺の前に出た時、この地に災いを持たす人間ではないという事を知らせたかった。 斥候から紫揺を守ろうと紫揺の元に行った。
抱きしめてくれた。 暖かい手で。 母のような心の温かさで。
紫揺が災いを持たすことがないと思ってはいたが、ヒオオカミから目をつけられた人間が、ヒオオカミの牙の下に置かれるかもしれないと思った。 だから二度目も紫揺に走り寄った。
だがその後その思いは憂慮に終わっていた。 偶然にもシグロが紫揺を助けてくれたのだから。
「母さん、おれは男だよ。 危険があると逃げることは出来る。 でもあの人間はおれに危害をおよばさない。 おれを信じてくれている」
「あと少ししか母さんと一緒にいられないんだよ。 それなのに・・・」
「帰ってきたらずっと母さんの傍に居る。 遊びにでないよ」
「・・・」
遠目に見ていた三頭が焦れて一歩出した。
「時がない。 案内してくれ」
仔ヒトウカが母ヒトウカの腹の下から更に首を出した。
「母さん、安心して。 必ず帰って来る。 おれ、あの人間の手にもう一度触れて欲しいんだ」
「触れて欲しい!?」
母ヒトウカが目を吊り上げ、まだ言うのかと言いたげに上げた前足をドンと置いた。
「誤解しないで。 あの人間の温かさをちゃんと知りたいんだ」
「暖かさ・・・?」
「あ・・・おれたちは暖かいことなんて関係ないけど、母さんがおれに思ってくれていると同じ温かさ。 あの人間は・・・母さんたちの言う人間とは違うって思うんだ」
「なにを・・・」
「おれ、母さんが一番好きだよ。 必ず帰って来る」
「・・・」
「必ず帰って来る」
「お前も・・・男たちの群れに行く準備を始めたんだね・・・」
寂しそうな目を向けると、母ヒトウカが遮っていた足を戻した。
「行っておいで」
言うと仔ヒトウカを残して四、五歩あるくと、背を向けその場に身を横たえた。
「必ず帰って来る。 その後はずっと母さんと一緒に居るから」
そう言い残すとヒオオカミを見ることなく走り出した。 狼が仔ヒトウカの後を追う。 残されていた三頭の狼もその後を追う。 力は充分にチャージされた。
仔ヒトウカの走る道筋は崖も意とせず、そこに岩があれば飛びながら走り切る。 狼にそれは出来ない。 地を選んで大回りをして走る。 目に小さくなっていく仔ヒトウカを必死で追う。
やっとアマフウが食べ終え、馬車に乗りこむ。
御者と紫揺が目を合わせる。 途端、御者が頭を下げながら言う。
「大丈夫です」
「馬は・・・馬に負担がかかりませんか?」
御者は下げていた首を振り、今までのぎこちなさから比べると滑らかに言う。
「たまには走らせませんと」
紫揺がその言葉の裏を見る。 走らせて無理をさせるのは明らか。
「アナタ! 早く乗りなさい!」
先に乗り込んでいたアマフウの声が響く。
「馬です。 赤子が泣くのが仕事と同じです。 馬は走るのが仕事ですから」
アマフウの声に怯えることなく低頭したまま言う。
「すみません。 御者さんの大事な馬なのに。 無理のない範囲でお願いします」
御者という名詞を教えてもらっていて良かった。 と、秘かに心で思った。
御者が馬を走らせる。
馬車の中はいつもの通りの形をとった人と無声。 アマフウのことは確かに気になる。 自分の失態でとんでもない時間になってしまった挙句、食後すぐに馬車に乗ったのだから。 どれだけ言われようと覚悟はできている。 が、アマフウの姿勢はいつもとまるで一緒だ。 何を考えているのだろうか。
紫揺がコソリと上目遣いにアマフウを見る。 眉の位置もいつもと同じだ。 多分。
ソロっと窓を開ける。 来た時に馬車から見た同じ風景が流れている。 荒涼とした土地。 人間が作ったものが何もない土地。 雑木が自由に伸び土が草に場を与える。
馬たちは固められた地を走る。 その横には自由を与えられた雑木と草が生えている。 窓から見える下を見た。
(あれ?)
気付いた。
(馬車の走ってる道、固められてる)
という事は、この道筋を走るのは、自分だけの時ではないようだ。 それも雑草も生えていないという事は、そんなに間隔を空けず誰かが馬車を利用したというのではないか。
(もしかして、馬たちは通い慣れてる?)
御者が馬に鞭を入れる音がした。 馬の足が速くなる。
(御者さんが馬と一緒に通い慣れてる?)
だから、目測をつけて大丈夫と言ってくれたのだろうか。
「アナタ・・・」
唐突に後頭部にアマフウの声が刺さった。
「・・・あ!」
思わず小窓を閉めて前を見る。 アマフウがそれまでにあった体勢を崩してこちらを見ていた。
「さ、寒かったですか?!」
「洗濯女と仲が良さそうね」
「へっ!?」
「屋敷に居る間、洗濯女と長い間一緒に居るわね」
唐突な質問。
「あ・・・それは、セキちゃんとガザンと一緒に居たくて・・・み、見てたんですか?」
「屋敷にそれ以外の友達が居ないからとでも言いたいの? 洗濯女と話さないようにと言ったはずだけど」
『自分がどんな立場にあるのか詳しく知らなくとも、少なくとも屋敷の使用人と話すなんてしない事ね』 そう言われたのは覚えているが、それに遵守する気も随順する気もない。
「人と話すことに強制されたくはない。 セキちゃんはとっても優しいし―――」
「嘘を言うんじゃないわよ」
「嘘なんかじゃないっ!」 何を根拠に言うのか!
「領土を見てどうだった?」
「はっ!?」
話が飛びすぎる。
「トウオウは領土に残るって言ってたけど」
話の筋のイミがワカラナイ。
「アナタもここに居たいと思うの?」
このセンテンスは分かった。 セキのことを言われたのは腹立たしいが、思わず首を大きく振る。
「私は、お父さんとお母さんと一緒に過ごした家に帰りたいだけ」
「学校に通っていた家・・・?」
「え?」
アマフウが一つ紫揺を見据えるといつも通りの体勢に戻った。
(なに!? 何が言いたいの?)
でもそれをアマフウにぶつけられない。 アマフウのあの体勢は誰も受け付けないという意思表示であることを分かっている。
(ここにトウオウさんが居てくれたら、それなりに言ってくれるんだろうな)
無駄にここでトウオウに甘えたくなる。
馬は今までになく足を運んでいる。
仔ヒトウカの後を追う狼たちが目を合わせた。
「待て!」
先頭を走っていた狼が足を速め、仔ヒトウカに近づくと制止させる。
「まだこれ以上南に行くというのか?」
「そうだよ」
狼たちが再度、目を合わせる。 もう無理だと言わんばかりに三頭が首を垂れる。
狼にとってこれ以上気温が上がるところは避けたい。 ヒオオカミといわれるだけあって暖かいところでは、ヒトウカが寒さを作ってくれている所にしか居ていられない。
大人のヒトウカなら時々休みを入れて、辺りを冷やしてくれるだろうが、それでもその気温くらいでは厳しいほどだ。 ましてや仔ヒトウカ。 止まったときの足元に僅かな霜が出来る程度。 これ以上気温の高い所に行くには身体がもたない。 とは言え、人間にとっては充分に低い気温である。
「あとどれくらいだ」
「今走って来たよりかはまだ走る」
後ろで聞いていた三頭がゲンナリした様子をあらわに見せる。
「お前は何ともないのか。 その、寒くなくても」
狼たちは寒くないかもしれないが、人間にとっては充分寒い。
「おれはまだ子供だけど、ヒトウカだよ」
何を言っているのかと目を向ける。
「あ、まぁ、そうだが・・・」
ヒトウカは自分自身を冷やすことが出来る。 狼たちのように第三者、若しくは冷蔵庫などに冷やしてもらわなければならないのではない。
とは言え、ヒトウカにも限界があるだろう。
「だが、もういい加減お前も―――」
「あの人間に会うためだったら何ともない」
初めて紫揺を見つけた時、あの日は群れが南に下がりきっていた時だった。
「この辺りが限界か」
首長が言う。
「はい。 これ以上の南下は子供たちにもよくありませんでしょうね」
振り返ると子供たちがいるにはいるが、数頭が母親の身体の下に入ってしまっている。 母に頼ることなくいる仔ヒトウカの脚がヨロついている。 暖かさに弱ってきているのだろう。 どれだけ群れで冷やしても、もう追いつかない状態だ。
「ここで休んで引き返す」
群れが歩を止めると辺りが段々と寒々しく冷えてくる。 仔供を腹の下に入れていない雌ヒトウカたちが前歯で木の皮を剥いだり葉を食みだした。 腹の下に仔共を入れている母ヒトウカはその場に留まり、仔ヒトウカが自ら腹の下から出てくるのを待つ。
冷えている土地が故に葉の茂りが良くない。 よって、こうして食む場所を移動する。 雄は北に、メスは南に向かって移動するという決め事は昔から決まっていた。 雄と雌が移動している間に、自分たちの居場所と定めている所に草葉が茂る。 その頃にまた帰る。
「母さん、遊びに行ってもいい?」
「遊びって・・・。 お前、身体は大丈夫なの?」
「身体? なんで?」
「暑くはないの?」
「ぜんぜん?」
「おかしな仔だね」
「ねぇ、遊びに行ってもいいでしょ? 今日は此処で寝るんでしょ?」
「そうだけど・・・きっと誰も一緒に遊びに行かないよ」
「おれ一人で遊んでくる。 初めての場所なんだからあちこち見たい」
「・・・遠くに行かないって約束するなら」
「約束する」
今にも走り出しそうに、四肢をパカパカと動かしている。
「それと、人間の居る所には降りて行かない。 山を下りて人里に行かない。 いい?」
「分かってる!」
そう言い置くとすぐに走り出した。
始めてきた土地。 ジッとなんてしていられない。 冒険したいのだから。 もっと南に行ってみたい。 山の中を走りに走った。 だが、山の中は何処もそんなに変わらなかった。 同じ木々があったり、大小の違いがあるだけの岩があったり。 ただそれだけ。 つまらなくなってきた足がゆっくりとなりだした。
「山を下りたら人間が居るのかなぁ・・・」
これまでは一直線に走って来た。 だが、山を下りる、麓を見るという事はどこかで曲がらなくてはいけない。
人間と会うのは恐い。 でも山の麓がどうなっているのか見てみたい。 人里に行かなければいいだけじゃないのだろうか。 逡巡する。 前足をトントンと上げては下ろす。 そして恐怖より好奇心が勝った。
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「安心せよ。 この仔はちゃんとこの場に送り届ける。 娘の場所を教えてもらいたいだけだ」
「それでは、自分で探せ」
母ヒトウカが冷たく反駁(はんばく)する。
「こんな子供に何度も何を頼るのか? お前たちの役はお前たちが為せ」
母ヒトウカの言葉は、まさにシグロから言われたと同じだった。
ヒオオカミが何を言うのかという顔をした。
母ヒトウカが歎息を吐く。
「少し前にこの仔に案内させただろう。 斥候に」
あの時は首長からも言われ、仕方なく協力をさせたが今回はたとえ首長から言われようと協力をさせる気はない。
「・・・ッ! あの時の仔か!」
反論など出来るはずがない。
「・・・母さん」
小さな声が母ヒトウカの身体の下から聞こえた。 母ヒトウカが首を捻って下を見ると、自分の身体の下から首だけを出している我が仔の顔が見えた。
「会いたいんだ。 もう一度。 ちゃんと帰って来るよ。 道が分からなくなってもヒオオカミが送ってくれるって言っただろ? 駄目?」
仔ヒトウカは、まだ山の中をよく知らない。 それに紫揺たちが北上していた時は、群れは南下を止め、何日もかけてゆっくりと北上する移動を始めだしたから、紫揺を追うことが容易であったが、今回は余りに群れから離れ過ぎていた。
群れは北上するのに紫揺は南下していた。 群れと紫揺の移動する場所がどんどん離れてしまい、一昨日は途中で迷ってしまって紫揺の元に行けなかったどころか、群れにも帰ることも出来なかった。 山の中をよく知らないが故、臆病になってしまうが今回は狼たちが居る。 どうしてもあの人間に会いたい。
「あと少し・・・あと少ししたら、母さんと離れてしまうのよ。 それなのに母さんと離れるって言うの?」
あと半年もすればこの仔は雄の群れに入る。
「人間の手って暖かいんだよ。 オレ、もう一度あの手に触れて欲しい」
「何を馬鹿を言ってるの!」
人間など下等な動物に触れる必要などない、と言い切る。
「母さんは知らないんだよ。 あの人間は・・・違うんだ」
確かにこの仔ヒトウカは、紫揺の移動に沿って遊んでいた。 紫揺に話しかけられ、その後は遊ぶ範疇を越えて紫揺を追った。
ずっと遠目に見ているうち、紫揺に母の温かさを感じていたのだから。
群れに戻って母にその話をした。 すると母から首長、そしてヒオオカミに話がいってしまった。
斥候を連れて紫揺の前に出た時、この地に災いを持たす人間ではないという事を知らせたかった。 斥候から紫揺を守ろうと紫揺の元に行った。
抱きしめてくれた。 暖かい手で。 母のような心の温かさで。
紫揺が災いを持たすことがないと思ってはいたが、ヒオオカミから目をつけられた人間が、ヒオオカミの牙の下に置かれるかもしれないと思った。 だから二度目も紫揺に走り寄った。
だがその後その思いは憂慮に終わっていた。 偶然にもシグロが紫揺を助けてくれたのだから。
「母さん、おれは男だよ。 危険があると逃げることは出来る。 でもあの人間はおれに危害をおよばさない。 おれを信じてくれている」
「あと少ししか母さんと一緒にいられないんだよ。 それなのに・・・」
「帰ってきたらずっと母さんの傍に居る。 遊びにでないよ」
「・・・」
遠目に見ていた三頭が焦れて一歩出した。
「時がない。 案内してくれ」
仔ヒトウカが母ヒトウカの腹の下から更に首を出した。
「母さん、安心して。 必ず帰って来る。 おれ、あの人間の手にもう一度触れて欲しいんだ」
「触れて欲しい!?」
母ヒトウカが目を吊り上げ、まだ言うのかと言いたげに上げた前足をドンと置いた。
「誤解しないで。 あの人間の温かさをちゃんと知りたいんだ」
「暖かさ・・・?」
「あ・・・おれたちは暖かいことなんて関係ないけど、母さんがおれに思ってくれていると同じ温かさ。 あの人間は・・・母さんたちの言う人間とは違うって思うんだ」
「なにを・・・」
「おれ、母さんが一番好きだよ。 必ず帰って来る」
「・・・」
「必ず帰って来る」
「お前も・・・男たちの群れに行く準備を始めたんだね・・・」
寂しそうな目を向けると、母ヒトウカが遮っていた足を戻した。
「行っておいで」
言うと仔ヒトウカを残して四、五歩あるくと、背を向けその場に身を横たえた。
「必ず帰って来る。 その後はずっと母さんと一緒に居るから」
そう言い残すとヒオオカミを見ることなく走り出した。 狼が仔ヒトウカの後を追う。 残されていた三頭の狼もその後を追う。 力は充分にチャージされた。
仔ヒトウカの走る道筋は崖も意とせず、そこに岩があれば飛びながら走り切る。 狼にそれは出来ない。 地を選んで大回りをして走る。 目に小さくなっていく仔ヒトウカを必死で追う。
やっとアマフウが食べ終え、馬車に乗りこむ。
御者と紫揺が目を合わせる。 途端、御者が頭を下げながら言う。
「大丈夫です」
「馬は・・・馬に負担がかかりませんか?」
御者は下げていた首を振り、今までのぎこちなさから比べると滑らかに言う。
「たまには走らせませんと」
紫揺がその言葉の裏を見る。 走らせて無理をさせるのは明らか。
「アナタ! 早く乗りなさい!」
先に乗り込んでいたアマフウの声が響く。
「馬です。 赤子が泣くのが仕事と同じです。 馬は走るのが仕事ですから」
アマフウの声に怯えることなく低頭したまま言う。
「すみません。 御者さんの大事な馬なのに。 無理のない範囲でお願いします」
御者という名詞を教えてもらっていて良かった。 と、秘かに心で思った。
御者が馬を走らせる。
馬車の中はいつもの通りの形をとった人と無声。 アマフウのことは確かに気になる。 自分の失態でとんでもない時間になってしまった挙句、食後すぐに馬車に乗ったのだから。 どれだけ言われようと覚悟はできている。 が、アマフウの姿勢はいつもとまるで一緒だ。 何を考えているのだろうか。
紫揺がコソリと上目遣いにアマフウを見る。 眉の位置もいつもと同じだ。 多分。
ソロっと窓を開ける。 来た時に馬車から見た同じ風景が流れている。 荒涼とした土地。 人間が作ったものが何もない土地。 雑木が自由に伸び土が草に場を与える。
馬たちは固められた地を走る。 その横には自由を与えられた雑木と草が生えている。 窓から見える下を見た。
(あれ?)
気付いた。
(馬車の走ってる道、固められてる)
という事は、この道筋を走るのは、自分だけの時ではないようだ。 それも雑草も生えていないという事は、そんなに間隔を空けず誰かが馬車を利用したというのではないか。
(もしかして、馬たちは通い慣れてる?)
御者が馬に鞭を入れる音がした。 馬の足が速くなる。
(御者さんが馬と一緒に通い慣れてる?)
だから、目測をつけて大丈夫と言ってくれたのだろうか。
「アナタ・・・」
唐突に後頭部にアマフウの声が刺さった。
「・・・あ!」
思わず小窓を閉めて前を見る。 アマフウがそれまでにあった体勢を崩してこちらを見ていた。
「さ、寒かったですか?!」
「洗濯女と仲が良さそうね」
「へっ!?」
「屋敷に居る間、洗濯女と長い間一緒に居るわね」
唐突な質問。
「あ・・・それは、セキちゃんとガザンと一緒に居たくて・・・み、見てたんですか?」
「屋敷にそれ以外の友達が居ないからとでも言いたいの? 洗濯女と話さないようにと言ったはずだけど」
『自分がどんな立場にあるのか詳しく知らなくとも、少なくとも屋敷の使用人と話すなんてしない事ね』 そう言われたのは覚えているが、それに遵守する気も随順する気もない。
「人と話すことに強制されたくはない。 セキちゃんはとっても優しいし―――」
「嘘を言うんじゃないわよ」
「嘘なんかじゃないっ!」 何を根拠に言うのか!
「領土を見てどうだった?」
「はっ!?」
話が飛びすぎる。
「トウオウは領土に残るって言ってたけど」
話の筋のイミがワカラナイ。
「アナタもここに居たいと思うの?」
このセンテンスは分かった。 セキのことを言われたのは腹立たしいが、思わず首を大きく振る。
「私は、お父さんとお母さんと一緒に過ごした家に帰りたいだけ」
「学校に通っていた家・・・?」
「え?」
アマフウが一つ紫揺を見据えるといつも通りの体勢に戻った。
(なに!? 何が言いたいの?)
でもそれをアマフウにぶつけられない。 アマフウのあの体勢は誰も受け付けないという意思表示であることを分かっている。
(ここにトウオウさんが居てくれたら、それなりに言ってくれるんだろうな)
無駄にここでトウオウに甘えたくなる。
馬は今までになく足を運んでいる。
仔ヒトウカの後を追う狼たちが目を合わせた。
「待て!」
先頭を走っていた狼が足を速め、仔ヒトウカに近づくと制止させる。
「まだこれ以上南に行くというのか?」
「そうだよ」
狼たちが再度、目を合わせる。 もう無理だと言わんばかりに三頭が首を垂れる。
狼にとってこれ以上気温が上がるところは避けたい。 ヒオオカミといわれるだけあって暖かいところでは、ヒトウカが寒さを作ってくれている所にしか居ていられない。
大人のヒトウカなら時々休みを入れて、辺りを冷やしてくれるだろうが、それでもその気温くらいでは厳しいほどだ。 ましてや仔ヒトウカ。 止まったときの足元に僅かな霜が出来る程度。 これ以上気温の高い所に行くには身体がもたない。 とは言え、人間にとっては充分に低い気温である。
「あとどれくらいだ」
「今走って来たよりかはまだ走る」
後ろで聞いていた三頭がゲンナリした様子をあらわに見せる。
「お前は何ともないのか。 その、寒くなくても」
狼たちは寒くないかもしれないが、人間にとっては充分寒い。
「おれはまだ子供だけど、ヒトウカだよ」
何を言っているのかと目を向ける。
「あ、まぁ、そうだが・・・」
ヒトウカは自分自身を冷やすことが出来る。 狼たちのように第三者、若しくは冷蔵庫などに冷やしてもらわなければならないのではない。
とは言え、ヒトウカにも限界があるだろう。
「だが、もういい加減お前も―――」
「あの人間に会うためだったら何ともない」
初めて紫揺を見つけた時、あの日は群れが南に下がりきっていた時だった。
「この辺りが限界か」
首長が言う。
「はい。 これ以上の南下は子供たちにもよくありませんでしょうね」
振り返ると子供たちがいるにはいるが、数頭が母親の身体の下に入ってしまっている。 母に頼ることなくいる仔ヒトウカの脚がヨロついている。 暖かさに弱ってきているのだろう。 どれだけ群れで冷やしても、もう追いつかない状態だ。
「ここで休んで引き返す」
群れが歩を止めると辺りが段々と寒々しく冷えてくる。 仔供を腹の下に入れていない雌ヒトウカたちが前歯で木の皮を剥いだり葉を食みだした。 腹の下に仔共を入れている母ヒトウカはその場に留まり、仔ヒトウカが自ら腹の下から出てくるのを待つ。
冷えている土地が故に葉の茂りが良くない。 よって、こうして食む場所を移動する。 雄は北に、メスは南に向かって移動するという決め事は昔から決まっていた。 雄と雌が移動している間に、自分たちの居場所と定めている所に草葉が茂る。 その頃にまた帰る。
「母さん、遊びに行ってもいい?」
「遊びって・・・。 お前、身体は大丈夫なの?」
「身体? なんで?」
「暑くはないの?」
「ぜんぜん?」
「おかしな仔だね」
「ねぇ、遊びに行ってもいいでしょ? 今日は此処で寝るんでしょ?」
「そうだけど・・・きっと誰も一緒に遊びに行かないよ」
「おれ一人で遊んでくる。 初めての場所なんだからあちこち見たい」
「・・・遠くに行かないって約束するなら」
「約束する」
今にも走り出しそうに、四肢をパカパカと動かしている。
「それと、人間の居る所には降りて行かない。 山を下りて人里に行かない。 いい?」
「分かってる!」
そう言い置くとすぐに走り出した。
始めてきた土地。 ジッとなんてしていられない。 冒険したいのだから。 もっと南に行ってみたい。 山の中を走りに走った。 だが、山の中は何処もそんなに変わらなかった。 同じ木々があったり、大小の違いがあるだけの岩があったり。 ただそれだけ。 つまらなくなってきた足がゆっくりとなりだした。
「山を下りたら人間が居るのかなぁ・・・」
これまでは一直線に走って来た。 だが、山を下りる、麓を見るという事はどこかで曲がらなくてはいけない。
人間と会うのは恐い。 でも山の麓がどうなっているのか見てみたい。 人里に行かなければいいだけじゃないのだろうか。 逡巡する。 前足をトントンと上げては下ろす。 そして恐怖より好奇心が勝った。