大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第73回

2019年08月30日 23時03分16秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第70回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第73回



「安心せよ。 この仔はちゃんとこの場に送り届ける。 娘の場所を教えてもらいたいだけだ」

「それでは、自分で探せ」

母ヒトウカが冷たく反駁(はんばく)する。

「こんな子供に何度も何を頼るのか? お前たちの役はお前たちが為せ」

母ヒトウカの言葉は、まさにシグロから言われたと同じだった。

ヒオオカミが何を言うのかという顔をした。

母ヒトウカが歎息を吐く。

「少し前にこの仔に案内させただろう。 斥候に」

あの時は首長からも言われ、仕方なく協力をさせたが今回はたとえ首長から言われようと協力をさせる気はない。

「・・・ッ! あの時の仔か!」 

反論など出来るはずがない。

「・・・母さん」

小さな声が母ヒトウカの身体の下から聞こえた。 母ヒトウカが首を捻って下を見ると、自分の身体の下から首だけを出している我が仔の顔が見えた。

「会いたいんだ。 もう一度。 ちゃんと帰って来るよ。 道が分からなくなってもヒオオカミが送ってくれるって言っただろ? 駄目?」

仔ヒトウカは、まだ山の中をよく知らない。 それに紫揺たちが北上していた時は、群れは南下を止め、何日もかけてゆっくりと北上する移動を始めだしたから、紫揺を追うことが容易であったが、今回は余りに群れから離れ過ぎていた。

群れは北上するのに紫揺は南下していた。 群れと紫揺の移動する場所がどんどん離れてしまい、一昨日は途中で迷ってしまって紫揺の元に行けなかったどころか、群れにも帰ることも出来なかった。 山の中をよく知らないが故、臆病になってしまうが今回は狼たちが居る。 どうしてもあの人間に会いたい。

「あと少し・・・あと少ししたら、母さんと離れてしまうのよ。 それなのに母さんと離れるって言うの?」

あと半年もすればこの仔は雄の群れに入る。

「人間の手って暖かいんだよ。 オレ、もう一度あの手に触れて欲しい」

「何を馬鹿を言ってるの!」 

人間など下等な動物に触れる必要などない、と言い切る。

「母さんは知らないんだよ。 あの人間は・・・違うんだ」


確かにこの仔ヒトウカは、紫揺の移動に沿って遊んでいた。 紫揺に話しかけられ、その後は遊ぶ範疇を越えて紫揺を追った。

ずっと遠目に見ているうち、紫揺に母の温かさを感じていたのだから。

群れに戻って母にその話をした。 すると母から首長、そしてヒオオカミに話がいってしまった。

斥候を連れて紫揺の前に出た時、この地に災いを持たす人間ではないという事を知らせたかった。 斥候から紫揺を守ろうと紫揺の元に行った。

抱きしめてくれた。 暖かい手で。 母のような心の温かさで。

紫揺が災いを持たすことがないと思ってはいたが、ヒオオカミから目をつけられた人間が、ヒオオカミの牙の下に置かれるかもしれないと思った。 だから二度目も紫揺に走り寄った。

だがその後その思いは憂慮に終わっていた。 偶然にもシグロが紫揺を助けてくれたのだから。


「母さん、おれは男だよ。 危険があると逃げることは出来る。 でもあの人間はおれに危害をおよばさない。 おれを信じてくれている」

「あと少ししか母さんと一緒にいられないんだよ。 それなのに・・・」

「帰ってきたらずっと母さんの傍に居る。 遊びにでないよ」

「・・・」

遠目に見ていた三頭が焦れて一歩出した。

「時がない。 案内してくれ」

仔ヒトウカが母ヒトウカの腹の下から更に首を出した。

「母さん、安心して。 必ず帰って来る。 おれ、あの人間の手にもう一度触れて欲しいんだ」

「触れて欲しい!?」

母ヒトウカが目を吊り上げ、まだ言うのかと言いたげに上げた前足をドンと置いた。

「誤解しないで。 あの人間の温かさをちゃんと知りたいんだ」

「暖かさ・・・?」

「あ・・・おれたちは暖かいことなんて関係ないけど、母さんがおれに思ってくれていると同じ温かさ。 あの人間は・・・母さんたちの言う人間とは違うって思うんだ」

「なにを・・・」

「おれ、母さんが一番好きだよ。 必ず帰って来る」

「・・・」

「必ず帰って来る」

「お前も・・・男たちの群れに行く準備を始めたんだね・・・」

寂しそうな目を向けると、母ヒトウカが遮っていた足を戻した。

「行っておいで」

言うと仔ヒトウカを残して四、五歩あるくと、背を向けその場に身を横たえた。

「必ず帰って来る。 その後はずっと母さんと一緒に居るから」

そう言い残すとヒオオカミを見ることなく走り出した。 狼が仔ヒトウカの後を追う。 残されていた三頭の狼もその後を追う。 力は充分にチャージされた。

仔ヒトウカの走る道筋は崖も意とせず、そこに岩があれば飛びながら走り切る。 狼にそれは出来ない。 地を選んで大回りをして走る。 目に小さくなっていく仔ヒトウカを必死で追う。



やっとアマフウが食べ終え、馬車に乗りこむ。

御者と紫揺が目を合わせる。 途端、御者が頭を下げながら言う。

「大丈夫です」

「馬は・・・馬に負担がかかりませんか?」

御者は下げていた首を振り、今までのぎこちなさから比べると滑らかに言う。

「たまには走らせませんと」

紫揺がその言葉の裏を見る。 走らせて無理をさせるのは明らか。

「アナタ! 早く乗りなさい!」

先に乗り込んでいたアマフウの声が響く。

「馬です。 赤子が泣くのが仕事と同じです。 馬は走るのが仕事ですから」

アマフウの声に怯えることなく低頭したまま言う。

「すみません。 御者さんの大事な馬なのに。 無理のない範囲でお願いします」

御者という名詞を教えてもらっていて良かった。 と、秘かに心で思った。

御者が馬を走らせる。

馬車の中はいつもの通りの形をとった人と無声。 アマフウのことは確かに気になる。 自分の失態でとんでもない時間になってしまった挙句、食後すぐに馬車に乗ったのだから。 どれだけ言われようと覚悟はできている。 が、アマフウの姿勢はいつもとまるで一緒だ。 何を考えているのだろうか。

紫揺がコソリと上目遣いにアマフウを見る。 眉の位置もいつもと同じだ。 多分。

ソロっと窓を開ける。 来た時に馬車から見た同じ風景が流れている。 荒涼とした土地。 人間が作ったものが何もない土地。 雑木が自由に伸び土が草に場を与える。

馬たちは固められた地を走る。 その横には自由を与えられた雑木と草が生えている。 窓から見える下を見た。

(あれ?)

気付いた。

(馬車の走ってる道、固められてる)

という事は、この道筋を走るのは、自分だけの時ではないようだ。 それも雑草も生えていないという事は、そんなに間隔を空けず誰かが馬車を利用したというのではないか。

(もしかして、馬たちは通い慣れてる?)

御者が馬に鞭を入れる音がした。 馬の足が速くなる。

(御者さんが馬と一緒に通い慣れてる?)

だから、目測をつけて大丈夫と言ってくれたのだろうか。

「アナタ・・・」

唐突に後頭部にアマフウの声が刺さった。

「・・・あ!」

思わず小窓を閉めて前を見る。 アマフウがそれまでにあった体勢を崩してこちらを見ていた。

「さ、寒かったですか?!」

「洗濯女と仲が良さそうね」

「へっ!?」

「屋敷に居る間、洗濯女と長い間一緒に居るわね」

唐突な質問。

「あ・・・それは、セキちゃんとガザンと一緒に居たくて・・・み、見てたんですか?」

「屋敷にそれ以外の友達が居ないからとでも言いたいの? 洗濯女と話さないようにと言ったはずだけど」

『自分がどんな立場にあるのか詳しく知らなくとも、少なくとも屋敷の使用人と話すなんてしない事ね』 そう言われたのは覚えているが、それに遵守する気も随順する気もない。

「人と話すことに強制されたくはない。 セキちゃんはとっても優しいし―――」

「嘘を言うんじゃないわよ」

「嘘なんかじゃないっ!」 何を根拠に言うのか!

「領土を見てどうだった?」

「はっ!?」

話が飛びすぎる。

「トウオウは領土に残るって言ってたけど」

話の筋のイミがワカラナイ。

「アナタもここに居たいと思うの?」

このセンテンスは分かった。 セキのことを言われたのは腹立たしいが、思わず首を大きく振る。

「私は、お父さんとお母さんと一緒に過ごした家に帰りたいだけ」

「学校に通っていた家・・・?」

「え?」

アマフウが一つ紫揺を見据えるといつも通りの体勢に戻った。

(なに!? 何が言いたいの?)

でもそれをアマフウにぶつけられない。 アマフウのあの体勢は誰も受け付けないという意思表示であることを分かっている。

(ここにトウオウさんが居てくれたら、それなりに言ってくれるんだろうな)

無駄にここでトウオウに甘えたくなる。

馬は今までになく足を運んでいる。



仔ヒトウカの後を追う狼たちが目を合わせた。

「待て!」

先頭を走っていた狼が足を速め、仔ヒトウカに近づくと制止させる。

「まだこれ以上南に行くというのか?」

「そうだよ」

狼たちが再度、目を合わせる。 もう無理だと言わんばかりに三頭が首を垂れる。

狼にとってこれ以上気温が上がるところは避けたい。 ヒオオカミといわれるだけあって暖かいところでは、ヒトウカが寒さを作ってくれている所にしか居ていられない。

大人のヒトウカなら時々休みを入れて、辺りを冷やしてくれるだろうが、それでもその気温くらいでは厳しいほどだ。 ましてや仔ヒトウカ。 止まったときの足元に僅かな霜が出来る程度。 これ以上気温の高い所に行くには身体がもたない。 とは言え、人間にとっては充分に低い気温である。

「あとどれくらいだ」

「今走って来たよりかはまだ走る」

後ろで聞いていた三頭がゲンナリした様子をあらわに見せる。

「お前は何ともないのか。 その、寒くなくても」

狼たちは寒くないかもしれないが、人間にとっては充分寒い。

「おれはまだ子供だけど、ヒトウカだよ」

何を言っているのかと目を向ける。

「あ、まぁ、そうだが・・・」

ヒトウカは自分自身を冷やすことが出来る。 狼たちのように第三者、若しくは冷蔵庫などに冷やしてもらわなければならないのではない。
とは言え、ヒトウカにも限界があるだろう。

「だが、もういい加減お前も―――」

「あの人間に会うためだったら何ともない」



初めて紫揺を見つけた時、あの日は群れが南に下がりきっていた時だった。

「この辺りが限界か」

首長が言う。

「はい。 これ以上の南下は子供たちにもよくありませんでしょうね」

振り返ると子供たちがいるにはいるが、数頭が母親の身体の下に入ってしまっている。 母に頼ることなくいる仔ヒトウカの脚がヨロついている。 暖かさに弱ってきているのだろう。 どれだけ群れで冷やしても、もう追いつかない状態だ。

「ここで休んで引き返す」

群れが歩を止めると辺りが段々と寒々しく冷えてくる。 仔供を腹の下に入れていない雌ヒトウカたちが前歯で木の皮を剥いだり葉を食みだした。 腹の下に仔共を入れている母ヒトウカはその場に留まり、仔ヒトウカが自ら腹の下から出てくるのを待つ。

冷えている土地が故に葉の茂りが良くない。 よって、こうして食む場所を移動する。 雄は北に、メスは南に向かって移動するという決め事は昔から決まっていた。 雄と雌が移動している間に、自分たちの居場所と定めている所に草葉が茂る。 その頃にまた帰る。

「母さん、遊びに行ってもいい?」

「遊びって・・・。 お前、身体は大丈夫なの?」

「身体? なんで?」

「暑くはないの?」

「ぜんぜん?」

「おかしな仔だね」

「ねぇ、遊びに行ってもいいでしょ? 今日は此処で寝るんでしょ?」

「そうだけど・・・きっと誰も一緒に遊びに行かないよ」

「おれ一人で遊んでくる。 初めての場所なんだからあちこち見たい」

「・・・遠くに行かないって約束するなら」

「約束する」

今にも走り出しそうに、四肢をパカパカと動かしている。

「それと、人間の居る所には降りて行かない。 山を下りて人里に行かない。 いい?」

「分かってる!」

そう言い置くとすぐに走り出した。

始めてきた土地。 ジッとなんてしていられない。 冒険したいのだから。 もっと南に行ってみたい。 山の中を走りに走った。 だが、山の中は何処もそんなに変わらなかった。 同じ木々があったり、大小の違いがあるだけの岩があったり。 ただそれだけ。 つまらなくなってきた足がゆっくりとなりだした。

「山を下りたら人間が居るのかなぁ・・・」

これまでは一直線に走って来た。 だが、山を下りる、麓を見るという事はどこかで曲がらなくてはいけない。

人間と会うのは恐い。 でも山の麓がどうなっているのか見てみたい。 人里に行かなければいいだけじゃないのだろうか。 逡巡する。 前足をトントンと上げては下ろす。 そして恐怖より好奇心が勝った。

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虚空の辰刻(とき)  第72回

2019年08月26日 22時19分25秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第70回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第72回



ベンチコートに身を包んだ紫揺が暗闇の家から出て暗闇の外で数刻を過ごした。

結果、狼は来なかった。 最後の日だからと頑張ったが徒労に終わった。

もう少しすれば夜が明けるだろう。 体感で時刻を確認することが出来るようになってきた。 スゴスゴと家の中に戻る。

ドン、バン、ドテと、音を立てながら布団があるであろう場所に足を運んだ。

「狼、コナカッタ」

一人カタコトを残すと冷えた身体をそのまま布団に預けた。


「アナタ! いい加減になさい! 起きなさい!」

どこかで何かが聞こえる。 うん、この声音はアマフウ。 アマフウは何を怒っているのだろうか?

え?

『いい加減になさい! 起きなさい!』

聞いたことがある台詞。

微睡(まどろ)んでいる頭の中が台詞を追った後、過去を思い出し真っ白になり、その声音の真髄が頭に響いた。

「ワッ!」

今回は誰に邪魔されず跳び起きることが出来た。

離れた所にアマフウが鬼の面(おもて)をして座していた。 前回は頬にパンチを食らった。 過去からの学びである自己防衛だろう。


外に出ると陽が煌々と射している。
今までに見たことがない程、嫌味のように清々しく紫揺の頭上で燦燦としている。

これは昼に近いということ。

アマフウの後について外に出た紫揺の首がガクンと落ちる。

「絶対、今日中に帰れない・・・」

自分は一日くらい遅れてもいい。 でも、イコール、アマフウも帰れない。 またしてもトウオウとの時間を割いてしまう。 もしかして紫揺に付き合うかもしれないムロイと残りの4色も。

これ以上なく肩を落とす紫揺。 アマフウに続いて馬車に乗ろうとした時

「必ず着かせます」

低頭していた御者の口から聞こえた。

「え?」

「厳しいかもわかりませんが、それでもよろしいですか?」

「アナタ、何をしているの! さっさと乗りなさい!」

馬車に乗るに、二の足を踏んでいた紫揺にアマフウの声が聞こえた。

「あ、はい!」

答えながら声の主である御者を見る。

「行けますか?」

「休憩を挟まずに行きます。 厳しくなりますが宜しいですか?」

「・・・お願いします」

肝を据えた。

肝を据えたのは己自信の身体の事情もあったが、多分、御者が厳しいと言ったのはもちろん紫揺に対してだろうが、真の心の中は馬の事だろうと思った。 馬を休みなく走らせるのだろう。

それに合わせて紫揺が休みを取らなくてもいいのなら、馬車に揺られている、それだけでいいのなら。 そう考えているのだろう。

だが、馬は際限なく足を動かさなくてはいけない。 重い馬車を引いて。

御者が馬のことを意の一番に思った後に、次に紫揺のことを想うことを知っていて 『お願いします』 と言った。

ワガママこの上ない。 分かっている。 休憩に入った馬が桶から水をがぶ飲みしている姿を何度も見た。 その馬に無理を強いる。 一日くらい遅れても何も変わらないことは分かっている。 それなのにワガママを通してしまう自分が居る。

『絶対、今日中に帰れない・・・』 そう言った自分の声に応えてくれた。

誰も自分に応えてくれなかったのに応えてくれた。

甘えたい。

御者が声を掛けてくれたそれに甘えたかった。

誰かに甘えたかったのかもしれない。 ヒトリが悲しくなってきたのかもしれない。 そんな弱い自分じゃなかったのに。 ましてや誰かに迷惑をかける我儘なんて。 あれだけ喉を乾かしている馬。 疲れている馬に鞭を振るう。 イタイ。 でも、馬の全てを分かっているだろう御者の言葉に甘えたかった。


(悪い。 頑張ってくれ)

御者が到着地を目指して鞭を入れる。
馬が疲れた足を動かす。
ガタゴトと地道に馬車が揺れる。


どれだけ頑張ろうが昼休憩は入れなくてはならない。

馬車が着いた時には、既に五色達はその場を発っていた。 ただ、ムロイは別だった。

朝、発つとき

「お前たちだけで見回れるか?」

「へっ?」

トウオウが間の抜けた声を出した。

「どういう意味ですの?」

セッカが横に目を流す。

「ちょっと・・・な。 どうだ? 見回れるか?」

「造作もないでしょう」

「キノラ、トウオウ、セイハどうだ?」

「さっさと掃除をして屋敷に帰るだけよ」

「出来るだろ。 子供じゃないんだし」

「疲れるけどね」

「では、それでやっていってくれ。 私は引き返す」

「引き返す?」

セッカが訊き返した。

「ああ・・・いやな予感がする」

「だからと言って、ムロイが引き返したところで何の力もないでしょうに」

「そういう問題じゃない。 ・・・とにかく、後は頼んだ」

セッカに合鍵を渡した。


大急ぎで昼飯を食べた紫揺。 だが、アマフウはゆっくりと食している。 



「は!? どういうことだ?」

茶の狼から黄金の狼であるシグロが報告を受けた。

「・・・ですからして・・・」

睨みをきかされて次の言葉が出ない。

「ハッキリと言え!」

茶の狼が言いたいことは分かっている、今聞いたのだから。 でも、信じるに程遠い。 訊き返さずにいられない。

「あ、あの・・・あの、その、リツソ様が気にかけておられた・・・」

「シユラだろう! シユラがどうしたのだと訊いているんだ!」

リツソがシユラと言っていた。

「あ、の。 ヒ・・・ヒトウカが言うに・・・」

最初の報告はこうであった。

『ヒトウカが言うに、娘が領主の家から出たらしいです。 ですが、歳浅い仔ヒトウカが言ったそうなので―――』

と、ここでシグロに声を被せられたのだった。

「なんだって!?」

「その、仔ヒトウカが見たそうです」

「何をだ!」

「娘が領主の家をでて、南に向かって行ったと」

「どうしてだ!?」

「仔ヒトウカが会いに行こうとして、母ヒトウカに止められたそうです」

「馬鹿か! そんなことは訊いていない! どうしてあの娘が南へ向かったのかを訊いているんだ!」

「そ、それは・・・」

「それは?!」

「・・・分かりません」

「分からない・・・?」

シグロが怒りにも似た息を鼻から吐いた。

「お前たち、そんなことでこの領土を守っているつもりか。 ヒトウカからの情報頼りばかりで、お前たち自身が足を使っておらん証拠じゃないのか!?」

シグロの目の前にいる茶の狼が足の間に尻尾をまき、遠目に見ていた他の茶の狼が数歩後ろに下がった。

「お前たちに探すことが出来なければ、仔に頼れ」

これ以上なく皮肉を籠めて言う。

「ヒトウカの移動を留めよ・・・そしてその仔ヒトウカを走らせその後に続け。 あの娘がどこに行くか報告せよ」

「ですが、ヒトウカの群れを留めるには・・・」

群れを留めておくには至難の業がいる。

チッと牙の隙間から音の出る空気を出した。

「親ヒトウカを留め、仔ヒトウカを自由にさせよ」

ヒトウカの群れは一匹でも足並みが揃わなくては移動はしない。

「仔ヒトウカを信じるという事ですか?」

「お前がそう報告したのではないのか?」

「微塵の報告です」

聞いて、見て、それを報告するのが役目。

「お前の報告に誰が微塵と唱えた?」

「そ、それは」

「お前の報告は嘘か?」

「み、微塵ではありますが、嘘ではありません!」

「では、アタシの言ったように動け。 分かったな!」

茶の狼が顎を引くと踵を返した。 その後を三頭の茶の狼が追った。

茶の狼が走り去るのを見てシグロが残っていた茶の狼たちに、お前たちも己の動きを考えろ、 と言葉を残した。

リツソのお気に入りの娘が領主の家から居なくなったという事を告げねばならない。 それはあくまで短期間かもしれないが、最近のリツソと紫揺の在り方を知らないシグロは、現状をハクロと共にリツソにではなく、マツリに知らせねばならない。

「何を考えているだか・・・」

紫揺のことである。

取り敢えずは次の報告を待ってから動こうと、残っていた狼たちに睨みを利かせた。

茶の狼たちが互いに目を合わせる。 どうしたものか、と。


茶の狼がヒトウカの群れに入った。 ヒトウカの群れている所は足元に氷が張っている。 それに呼応するように、下葉や木々にも氷が張り巡り、とてもじゃないが人が気軽に入ることのできる様相では無い。

「娘のことを言ったヒトウカ、どこに居る?」

母ヒトウカが長い首を捻じり振り返った。 他の母ヒトウカは狼が来たというのに、警戒する気配さえ見せない。

この群れには雄はいない。 雄と雌は分かれて過ごしている。 ここに居るのは雌ヒトウカと、二年までの雄の仔ヒトウカだけだ。 二年を過ぎた雄の仔であったヒトウカは此処を出て雄の群れに入る。

「お前か」

後を追ってきた三頭の狼がその場に止まる。

茶の狼がノソリとそちらに向かう。 振り返った親ヒトウカの足元に仔ヒトウカが居る。 親ヒトウカが仔ヒトウカを守る様に身体の下に入れた。

ゆっくりと群れの中を歩いてきた茶の狼が、親ヒトウカの身体の下に居る仔ヒトウカを見て言う。

「娘の後を追えるか?」

それを聞いた途端、抱きしめてもらった人間に会いに行ける。 仔ヒトウカの目が輝いた。 親ヒトウカの下から足を一歩出すと、親ヒトウカがそれを遮るように足を動かした。

「邪魔をするな」

茶の狼が親ヒトウカを睨み据えるが、そんなことに怯む母ではない。 狼に噛み千切られようと、我が身から仔を離したくない。

この数日、元気なこの仔は群れから離れて遊びに出ていた。 そしてとうとう、一昨日は帰って来なかった。 母ヒトウカは半狂乱になり、仔ヒトウカの名を呼び山の中を駆け巡った。 仔のない雌も一緒に探し回った。 心が千切れるほど狂いそうになるほど仔ヒトウカを探し回った。 そして夕べ見つけた。 あんなことは二度としたくない。 仔どもを我が身から離すことなど絶対にしたくない。

見つけられた時に詳細を訊かれた。 また人間の所に行ったのかと厳しく母に怒られ、今度は首長にまで怒られた。 そしてその話が狼に伝わったという事だった。

茶の狼がヒトウカの凍らした氷の上に立ち続ける。 力が充満する。 北の領土ではこの氷が身を震わすほどに身体に力をみなぎらせる。

『ヒオオカミの好物がヒトウカ』 などとは人間の勘違いも甚だしい。

ヒトウカが居なくてはヒオオカミはまともに生きていけない。 だが力を失ったヒトウカには確かに牙を立てる。

氷を作れない、狼たちのエネルギー源を作れないヒトウカは狼たちの牙に落ちる。 それはヒトウカが年老いたからではない。 邪心を持ったヒトウカにはヒオオカミのエネルギー元となる氷は作れないからだ。 この地に災いを持たす者を生かすことは出来ない。 それはヒオオカミたちから排除の選別を受ける。

『ヒオオカミがヒトウカに牙を立てる』 それはヒオオカミに排除の選別を受けたヒトウカだけだ。

だが人間はそのことを知らない。 ヒオオカミがヒトウカに牙を立てたところを見て、ヒオオカミはヒトウカに牙を立てると考えた。 その昔、邪心を持った人の影響をヒトウカが受け、その邪心がヒトウカの間に幾重にも広がり、ヒオオカミが何頭ものヒトウカの喉元に牙を立てた。 それを見た人間が勝手にヒオオカミの好物はヒトウカだと思い込んだ、玩具にしているとも。 何も知らない人間が勝手に決めただけだった。

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虚空の辰刻(とき)  第71回

2019年08月23日 22時28分06秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第71回



アマフウがコトリと箸を置いて茶を啜る。

「なんだ? もういいのか?」

「ええ」

「んじゃ、遠回しに早く風呂に入れって言われてるから、風呂に入るとするか?」

「なによー、そんなこと言ってないでしょ」

「ムロイ、先に入ってもいいか?」

セイハの訴えなど耳に入らないと言った具合にムロイに尋ねる。

「ああ、好きにしろ」

「では、遠慮なく。 お姉さまたち、お先に入らせてもらいまーす」

わざとお道化るように言う。

セッカが緩慢な動きでムロイを見て、キノラが瞼を伏せることで了解の合図を出した。

「アマフウ、行こうぜ」

立ち上がりながらワントーン低い声で言う。 先程のお道化た声ではない。

肩に手を置かれたアマフウが誰にも目を合わせることなく立ち上がり、二人で三和土に下りた。

アマフウとトウオウが風呂に入り、そのあとムロイとセッカ、そしてキノラの順に風呂に入った。


ポチャン。

露天の檜の湯。 湯気が上がる温泉は一人では大きすぎるが、四人入ると肌が触れ合うだろう大きさだった。 並んで湯に浸かる。

「え? ムロイさんとセッカさんが一緒にお風呂に入ったんですか?」

アマフウとトウオウのことは何気に気付いていたが、風呂に一緒に入るとまでは思っていなかった。 生まれてこの方、一度も彼氏のイナイ紫揺が赤面しかけたが、それ以上にムロイとセッカのことに驚いた。 ムロイもセッカも大人だ。 だからと言って、混浴する仲だとは全く知らなかった。

「うん。 婚前混浴だね」

「こ! 婚前!?」

「あれ? 知らなかった?」

「はい・・・」

「言わなかったっけ?」

「私の記憶が正しければ」

「あれ? 言ってなかったんだ。 半年後に結婚らしいよ。 セッカもムロイのどこがいいんだか」

「ってことは、セッカさんの方が積極的ってことですか?」

ある意味恋バナ。 他人のだが。 だが、それでも女子はそれが好きだ。 御多分に漏れず、紫揺も興味があるようだ。

「セッカが積極的ってことじゃないよ。 多分ね。 そんなトコ見たこともないし、そんな雰囲気じゃなさそうだし。 ムロイはどうなのかな? せいぜいムロイは跡継ぎを作らなくちゃならない、ってとこだろうね。 って、大体、領主が五色と結婚するってのが可笑しいんじゃないのかな」

湯につけていた手を覗かせると、人差し指を下唇の下にあてた。

「どうしてですか?」

紫揺が首を傾げる。

「だって、生まれた子がセッカの力を持ってるかもしれないんだよ。 その子が領主になるって可笑しいじゃない?」

「そういうものなんですか?」

セッカの力と言われても分からないし、その子が未来の領主になると、どう可笑しいのだろうか。

「だって、領主自ら火を扱うって・・・可笑しいと思わない?」

「どうなんでしょうか」

可笑しいと思わない? と水を向けられてもこの土地の常識を知る由もない。

「だって領主って、五色を先導するんだよ。 その先導人が先導される人たちと同等って可笑しいじゃない?」

それを早く言って欲しかった。 心の中で短い歎息を吐く。

「そういうことですか・・・。 じゃ、質問です」

チャパンと音を立てると、右手の肘を曲げ、手を上げる。

「はい、シユラ君」

紫揺の仕草に乗って、セイハが教壇の上に立つ教師のように紫揺を指さす。

「先程、セッカさんの血を引いて産まれてくるかもしれないって仰いましたが、セッカさんが産んだ子供は、全員セッカさんのような力を持って生まれてくるんですか?」

上げていた手が風にさらされてすぐに冷えた。 湯の中に戻す。

「あ! あ、そっか」

教師面は何処へやら。 頭の上に豆電球でも点灯したかのように頓狂な声を上げた。

「じゃないってことですか?」

「言われてみればそうだった。 一人しか力を持って生まれてこないんだった」

「ってことは、二人なり三人なり産んだら、他の子供が領主になれるんですよね。 領主になるのは男の人って決まってるんですか?」

「うううん、そんなことない」

「じゃ、女の子ばっかり生まれても大丈夫ですね」

「わっ、解決」

「もう一つ訊いていいですか?」

「なに?」

「さっきも言いましたけど、セッカさんの血を引いて産まれてくるかもしれない、という事は逆に産まれてこないかもしれないんですか?」

「うん。 って、あっそうか! 産まれるとは限らないんだった」

「産まれてこなければどうなるんですか?」

「いつかは産まれるよ」

「え?」

「孫か曾孫かわららないけどね」

そういう事か。 紫揺が持ち得る脳みそをフル回転させた。
五色と呼ばれる人間はそのDNAを継ぐが、継がない時、ホップステップじゃないけど、子に継がなくとも、孫、曾孫に継がれるのかと。

「シユラって頭が回るんだね」

「そんなことないです」

万が一、セッカが一人しか子供を産まなくて、その子に力というものがあったなら・・・。 それも考えられるが、今は黙っていよう。

恋バナが遠く離れた所に置いて行かれた。

「ねぇ、ずっとアマフウと一緒じゃない? 疲れない?」

「うーん、結構そうでもないです」

嘘であり嘘ではない。 確かに気を使う所もあるが、長く一緒に居たからなのか、最初の時のような刺々しさは感じていない。

「ほら、前は何も話してないって言ってたけど、これだけ長く居るんだから、今はそうでもないんじゃない? なに話してんの?」

「うーんと。 馬車の中から煙が見えたから、火事かなと思って訊いたら、炭を作ってるか、鋳造か、ガラスを作ってるだけだろうって教えてくれたり―――」

次に言いかけると、セイハが声を重ねた。

「うそっ! アマフウが、そんなことを言ったの!?」

今にも落ちそうなほど目を見開いている。

「色々教えてくれます。 ご飯には何が入っていたか訊いたら教えてくれますし、他にも―――」
またセイハが声を重ねる。

「いい、いいわ。 これ以上アマフウの事なんて聞きたくないから」

ウザったそうに手を振る。 訊いたのはセイハの方なのに。 心の中に恨み節が出る。

「力の使い方や、出し方なんか教えてもらってないの?」

「え?」

「力よ。 チ・カ・ラ」

「そんなこと全然!」

先程セイハが手を振った以上に左右に、それも両手を振る。

「そうなの? どうしてだろ。 直接には無理でも、切っ掛けになるようなことを教えてあげれば良いのに。 アマフウってイジワル。 って言うか、アマフウってシユラに負けるのが恐いから、教えないのかしら?」

「負けるだなんて・・・」

アマフウが木を切ったときのことを思い出す。 正しく言えば切ったところは見ていないが。 どうやったのかは分からないが倒れ行く幹を見た。 そしてアマフウの声。 『アナタ! いい加減にしなさいよ! これ以上待たせるとアナタもあの木のようにしてやるから!』 どう考えてもあの木を倒したのは、幹を切ったのはアマフウだ。 そんなアマフウが自分のどこに負けるというのか。

「きっとそうだよ。 だからだよ。 だって、何にも力のことは話さなかったんでしょ?」

再度訊かれ、紫揺がコクリと頷く。

セイハの青い瞳が投げるように横に移動した。 そして先程までと違う冷めた顔。

このセイハの表情の変わり方を時々見る。 どんな会話をしていた時だっただろうか頭を巡らせようとした時、ザバンと音を立ててセイハが立ち上がった。

「そろそろ上がろうか。 湯だりそう」


茅葺屋根の中、火を消して丸まっている。 まだ時間が来ていない。 誰かが動いている音がする。

「明日、向こうに帰るんだから今日でチャンスは終わり。 狼、来てくれないかなぁ」

どこからみても、もう寝ているように見せかけるために火を落とした。 だから寒い。 でもそれも今日で終わり。 今日に賭けるしかない。 狼たちと会っている所は誰に見られても困る。 自分が寝ていないと分かれば、女たちがずっと起きているかもしれないのだから。 ましてや人前に出てこない狼たち。 女たちに起きていてもらっては困る。

紫揺の居る茅葺屋根の家を見ていたゼンとカミの元にダンが合流した。

「寝たか?」

領主のことだ。

「多分、もう寝るだろう」

「多分?」

「領主はセッカの家に入ったのだからな。 明日迄は出てこんだろう」

「セッカの家にケミがついているという事か?」

まだ戻って来ないケミがついているのだろう。

「ああ。 ケミは朝まで動きがないか見ておくと言っておった」

「徹夜か。 ご苦労なことだ」

黙っていたカミが言い捨てる。

ダンとゼンが乾いた目を合わせる。

「ムラサキ様はもうお眠りか?」

ずっと領主の家を見張っていたダンが訊く。

「灯りが消えて久しい。 もうお眠りになられているであろう」

「では、吾等はこれで引こうか」

「そうだな」

言うと、三つの人型が影となり、ドロリと消えた。


「・・・! ヒトウカ!」

喉の奥でグッと音が鳴った。
木の枝から、遠くにヒトウカの輝きが見えたからだ。

「チッ、こんな時に」

思わず舌打ちが出る。

ヒトウカの様子を見に行けばここに誰もいなくなる。 万が一、領主がでてきて紫揺の元に行ってしまっては取り返しがつかない。

ヒトウカの輝きを目で追う。 木に邪魔をされては輝きが見えたり隠れたりする。

「仔どもか?」

距離を考慮しても、輝きはさほど大きくない。

「親がどこかに居るのか?」

輝きから目を外して辺りを見回すが、それらしき輝きは見えない。 元の輝きに目を戻す。

「これ以上、群れがこの先に来てもらっては困る」

ヒトウカが屋敷への出入り口である建物の近くに来られては不都合が出てくる。
ショウワ達がこの領土を出ていることを本領に知られては困る。 ヒトウカの居る所には狼が居る。 狼は本領の密偵。

来た時に、一番暖かいであろう屋敷への出入り口である建物の周りが凍っていた。 それがヒトウカによるものなのかどうかは分からなかった。 だが建物から離れてはいるが、今回久しく来た時に見た、あの場所に居るはずのないヒトウカの姿を。 そして今ここにも。

「ここまでもヒトウカが来ているのか・・・」

頭を垂れる。 垂れたとて何も変わらない。 ショウワに知恵を頂くしかない。

と、どこからかもう一つの輝きが走って来た。 木に覆われていて輝きに気付かなかったのだろう。 随分と大きな輝き。

「うん? 親か。 あの仔どもは迷子といったところか」

早く連れ帰れと、二つの輝きを見る。

二つの輝きが一つになって、より一層大きな輝きとなる。 と、次には離れてそれぞれの大きさの輝きになりと、それを繰り返している。

そして暫く経つと二つの輝きはケミの願い通り山の奥深くに帰っていった。

「仔どもが駄々をこねていたか」

ホゥっと息を吐いてセッカの居る家の戸を眇めた。

ケミの想像通りとは若干違うが、それでも結果的に迷子になっていた仔ヒトウカであったが、紫揺に逢いに行こうとしていた。 そこまでケミは想像が出来なかった。 単に迷子になったと考えただけだ。 だが、仔ヒトウカは確かに途中道が分からなくなったが、目的地をつかまえていた。

ケミがそこまで想像を膨らませられなかったのは、ムラサキという人物を迎えたことがなかったからだ。

だから単なる迷子が駄々をこねていた程度としか見ることしか出来なかった。

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虚空の辰刻(とき)  第70回

2019年08月19日 22時39分45秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第60回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第70回



アマフウの黒目がゆっくりと紫揺に動く。

「文句があるの?」

思ってもいなかった返答。 何かを説明してもらえると思っていた。 いや、そんなに簡単には教えてくれないだろうとは思っていたが。 だけどこんなにあっさりと、それも反問されるとは思わなかった。

アマフウから目を外した。 甘い考えを持った自分に心で叱責を吐いた。

「・・・ありません」

アマフウの黒目が今度はサッと座に収まった。
でもトウオウはアマフウに付き合わされたわけだ。 その付き合わされる理由ってナニ?

「言いたいことがあれば言えば?」

疑問符が付いた。 だが相変わらずの姿勢、幾分紫揺の方に身体を開いているが。 この所、馬車の中では比較的応えてくれた。 外に見える風景のことも教えてくれたし、窓を開けていても文句を言われなかった。 そして今も、聞く耳を持つような言いようだ。

何処を見て紫揺に問いかけているのだろう。 何処とは、先程までとは違った方向ではあるが、先の見えない馬車の中の木には変わりない。 訊いたら答えてくれるかもしれないが、やはりさっきのような直球じゃ駄目だろう。

「・・・じゃ、訊きます」

紫揺の座った声にアマフウがピクリと眉を動かした。 それを見逃さなかった紫揺。 考えなくては・・・。

紫揺が大きく息を飲んだ。

「トウオウさんをどうして止めたんですか?」

明らかに直球だ。 やはり捻るということは出来なかった。

「アナタには関係のないことだわ」

「教えてもらえないってことですか?」

「私の言葉を聞かなかったの?」

「はい?」

「言いたいことがあれば、言いなさいと言ったはずよ」

「へっ?」

「訊いていいなんて、一言もいってない筈よ」

「・・・あ」

さっき 『・・・じゃ、訊きます』 と言った時にアマフウの眉がピクリと動いたのはそういう意味だったのか、と相手の心を忖度できなかった自分に呆れる。

トウオウを止めたことに何かを言いたいわけじゃない。 トウオウに何か伝えられればと思っただけだ。 今はもうこれ以上、トウオウのことは止めよう。 代わりに訊きたいことがある。 今度こそ教えて欲しい。

「あの・・・教えて欲しいことがあります」

「・・・」

返事をしてもらえない。

「訊いていいですか?」

「・・・」

ゆっくりと大きく息を吸って、そして言った。

「アマフウさんの匂いの元って何ですか?」

「ハッ!?」

思わずアマフウが手を顎から離し全身で紫揺に向きかえった。

「えっと・・・ずっと気になってたから」

馬車の中はこの数日、ずっとアマフウの石鹸の香りで満ちていた。

「あ、アナタってっ!」

「いい香りですよね」

「馬鹿にもほどがあるわ! 今ここでどうしてその話なのよ!」

「気になってたから教えて欲しくって」

セイハの甘い石鹸とは違う。 どこか爽やかさがある。 だが今そんな話をしてどうする。 分かっている。 でも気になっていることは確かだし、ワンクッション置いてトウオウのことを訊こうと思っていたがどうも雲行きが怪しい。

「とぼけたことを言って! アナタこそ・・・!」

シマッタというようにすぐに口を噤んだ。

御者が御者台から慌てて振り返る。 手綱を持つ手に力がこもる。

「私? 私が何ですか?」

「・・・何でもないわ」

プイと完全に元の形に戻った。

「あ・・・」

一瞬にして目に見えない防壁を造られた。 ハンマーで壊す勇気はない。

アマフウの大声が納まった。 ホッと息を吐き手綱を握っていた手から力を抜いた。


馬を休ませるために休憩に入った。

いつもの如く、アマフウは馬車の中に入ったまま、紫揺は身体をほぐす為に外に出る。

腰の高さの位置から、マジックより太い数本の水が岩の間から流れ出ている。 御者が木桶を二つ持ってその水の下に置き、馬用の水を溜める。 溜まったところで馬の前に置いてやる。 いかにも喉が渇いていたと言わんばかりに、馬たちがガブガブと水を飲む。 その姿を見ると、如何に自分が迷惑をかけているのだろうと思う。

屋敷には馬場もあると聞いていた。 こんなことになるのなら、馬の乗り方を教えてもらっておけばよかったと思う。

あくまでも今後、役に立つとは思えないが。 と、この時には思った。 未来のことなど知る由もないのだから。

紫揺の姿を横目に見ていた御者。 この娘が一体どういう娘なのか・・・。 確かめるには今を逃してしまうと後に無いだろう、そんなことが浮かんだ。

(ば、馬鹿な。 何を考えているんだっ!) 御者が自分を叱責する。

きっとこんな風に思うのは、紫揺の態度が余りにも五色と違うからだ。 だから・・・訊いても許されるように思ってしまったのだろう。
もう一度紫揺を盗み見ると、当の紫揺はいつも通り可笑しな体勢をとっている。

(はぁー、ずっと身体を緊張させてるのって疲れる)

ゴムもチューブもない木の車輪。 身体に大きな振動を与える。 胃と腰に衝撃が来ないように、ずっと背筋を伸ばして筋肉を緊張させて座っているのは、この上なく疲れる。 

「ぐぅぅ・・・」

直立状態から前屈をして筋を伸ばす。 続いて脊柱起立筋を伸ばす。 アマフウとの会話からか肩も凝った。 僧帽筋も伸ばす。 骨盤の位置も歪んだろう、股関節の運動もする。

いつもながら不思議なことをしている、と御者が身体を開いて紫揺を見る。 横で馬が満足したように木桶から顔を上げた。

視線を感じた紫揺が御者を見た。 御者が慌てて紫揺から目を外す。

またか・・・。 と思いかけた時、いや、この御者はずっと一緒に行動をしている。 女たちとは違う。 だから、すぐに声が出た。

「あ、私、変なことをしてますよね」

自覚があるからそんな言い方になった。 自分のするストレッチは見る人によっては、信じられないらしい。 高校時代、他の部からよく言われた。 『タコ踊り』『蒟蒻畑』『ワカメが波に煽られる図』 ナドと。

「あ・・・」

突然そんなことを言われ、御者が言いあぐねる。

「御免なさい。 気に障ることをしたんでしょうか?」

あくまでも馬に対して。 自分が身体を動かすことのよって、水を飲んでいる馬に茶々を入れてしまったのかと、馬が思う存分水が飲めなかったのかと思った。 それしか考えられないから。 

紫揺の言いたいことは御者には通じなかったが、言葉は通じたようで、言った意味を誤解したようだ。 自分に気に障ることをしたのかと言われたのかと思った。

「と、とんでもないです!」

紫揺は 『―――気に障ることをしたんでしょうか?』 と訊いた。 それは馬に対して言ったことだったが、馬と言葉にはしなかった。 御者が自分に対して言われたと思い違っても、仕方がないだろう。

だが紫揺はそれに気付いていない。 馬に対して何もなかったと、御者が返事をしたと思っている。

紫揺が御者に視線を送ると馬の元に寄る。 乾いた喉を湿らせて今はほっこりしている。

「喉が潤ったみたいですね」

馬を見た後、御者に笑顔を送った。

思いもしないことを言われた御者。

未だ御者と紫揺、互いに思い違いがあることを理解していない。

問罪を示唆されるかもしれない、咎めらるかもしれない、それでも御者が紫揺の笑顔に甘えようと、勇気を百倍振り絞って問うた。

「ム・・・ムラサキ様は・・・」

駄目だこれ以上出ない。

「私?」

御者が命を賭けた思いに対して軽く答えるが御者の様子がおかしい。 だからハッキリ言おう。 それが御者の言いたい道筋を妨げているドアを開けることになるのならば。

「私は今更ですけど迷子です」

あなた達の領主に攫われてきたなどとは言えない。

「・・・っえ!?」

言われた意味が分からない。

「でも、迷子で終らせたくはないんです」

迷子? どうして? 言っている意味が分からない。 御者の目線が踊りかける。

「私、元に帰りたいんです」

切実な紫揺の声音。 分からなくともいい。 御者が紫揺の心に添おうと思う。

「ど・・・何処から来られたか分からない?」

「はい。 全く。 それに此処が何処かもわからないんです」

そうか、と納得できるところがある。 あのアマフウは迷子に対してのみ少々優しいのかと。

つい前、アマフウの大声が聞こえたが丸く収まったようだった。 それは迷子に対して苛立つことがありながらも、治めることにしたんだろうと考えられる。 だが、領主からムラサキ様とお呼びするようにと教えられた時点で、その辺りの迷子ではないと思える。

「領主から、ム・・・ムラサキ様と教えられました。 領主ならムラサキ様の元の場所をご存知なのでは・・・」

それは御尤も。 完全正解。 紫揺を攫った主犯はムロイなのだから。 だが、ムロイに聞けるはずもないし、帰してもくれないのも分かっている。 そしてそのことをこの御者は知らない。 でも・・・御者は紫揺のことを案じてくれているのだろう。 だから、そう言ったのだろう。

「はい・・・。 いつかは帰れると思います。 それより、ムロイさんから聞きました。 今日、明日にでも最初に迎えにきてもらった場所に戻れるって」

最初にムロイが言っていた。 『4,5日で屋敷に着きますよ』 と。

「はい。 今日はもう着けないでしょうが、明日には着けると思います」

返答をしながら、頭の片隅に不思議なものを感じる。 五色達と領主が気を使っている、この娘と今こうして当たり前に話している。 一言吐くだけで、全身が強張るはずなのに、この心の安堵感は何だろう。 それは何とも不思議なことだ。

最初に持っていた御者の疑問は不発に終わったが、一つの回答を知ることが紫揺の返答を聞いて分かった。

目の前にいるこの娘は、迷子である。 どうして迷子がムラサキ様と呼ばれるのかは、分からないが。 そしてアマフウは言葉は冷たいけれど、子供に優しいのだろうと思った。

そう思うと忘れていた過去の記憶から、それもあり得るかと思った。 それは今はもう誰もの記憶の縁にしかない事。 だが、御者はそれをしっかりと記憶している、聞かされている。 今更にしてその事を思い出す。

アマフウが幼子を救ったことを。

御者が瞼を半分下した。

「明日には着きます。 必ずそう運びます」

確信の言葉を紫揺に送った。
それに紫揺が笑顔で応えた。


全員で夕飯を囲む。
いつもの如く鍋だ。

「久しぶりに大盤振る舞いの肉じゃない。 この肉はなに?」

鍋の中には野菜を押しのけて、これでもかという程、肉が入っている。 まだ箸をつけていないセイハが女に訊いた。

「イ、イノシシでございます」

低頭して女が答える。

トウオウが僅かに眉を顰めた。

「シユラ、良かったね。 ヒトウカの肉じゃないって」

アマフウがピクリと眉を動かした。 それは誰にも分からない僅かな動きだが、たった一人は気付いていた。 トウオウだ。

「あは。 ・・・はい」

自分のことを思ってくれているセイハに濁して返す。 自分の思いは口に出来ない。

ヒトウカの肉じゃないと言われても、その他の肉であればイイノカ・・・・。 無理だ。 ここに来て馬も見た。 だから馬肉は無理。 イノシシの肉と聞いたが、今まで食べたことがないけど、いや、無理。

今まで鶏、豚、牛肉は食べていたけれど、ヒトウカのことを知った後すぐに、鍋の中にある肉がヒトウカの肉かもしれないと言われた時点で、口が、胃が、肉を受け付けなくなってきていた。
鍋をしてもらっても、野菜しか食べられない、肉を食べたくない。

生きていた動物の肉を食べるという事に躊躇を覚えたが、それ以上に命を途中で止めた。 それも人間の勝手で。 それは受け入れられない。 生きとし生けるものの命をどうして止め、口に入れられるのか。 自分が野生に生きていれば、野生社会ならそれはあるかもしれない。 だがそうではない。 今の日本の飽食の人間社会に生きていてそうでは無い。

どうして生を止めるのか・・・。

鍋から野菜だけを箸に取り自分の持つ椀に運ぶ。

「シユラ、明日には屋敷に帰りたいね」

「はい。 馬車を・・・運転してる人? が、明日には着きます。 必ずそう運びますって言って下さってたから、着けると思います」

御者と会話をしていたのをアマフウは知っているはずだ。 屋敷に居る時に、使用人と話をするなと言われたが、あの後、馬車に乗り込んでも何も言われなかったから、御者と会話をしてもいいのだろう。 でも自信がない。 チラリとアマフウを見る。 眉一つ動かさず、野菜を口に運んでいる。 大丈夫のようだ。

「え? それって御者のことだよね。 御者と話したの?」

馬車の運転手ではなく御者というのか、と、マヌケな物言いをしたことに顔が赤くなりそうだ。

「はい。 その、そろそろ着くのかなと思って訊いてみただけです」

そんなことはない。 他にも話した。 やはり気になる。 アマフウをもう一度見る。 今度も目のあたりの表情筋はどこも動かさず、顔の下半分だけを動かし、見たこともない茸を口に入れている。

「プッ、シユラ様、なにアマフウの事チラ見してんの?」

トウオウが持っていた箸を指の中で踊らすと握り込み、その手を顎の下に入れ、頬杖ならず、顎杖をついた。

「え?」

見られているとは気づかなかった。

「やだ、トウオウ。 私がシユラと話してんだから、割り込まないでよ。 ねー、シユラ」

『ねー、シユラ』 の後に八分音符でもつきそうに言うと頭を傾けた。 見ようによっては可愛い仕草。

「そっ、じゃ御勝手に」

声はセイハに向けて。 だが、視線は紫揺から外していない。

セイハとトウオウを交互に見る紫揺。 どうしていいのか分からない。

トウオウが片方の口角を上げると、やっと手を顎から外しゆっくりと紫揺から視線を外した。

「そう。 トウオウは黙ってて。 あ、そうだ。 ね、今日一緒にお風呂に入ろうよ。 屋敷に帰ったら一緒に入られないんだから。 ね、そうしようよ」

「あ、はい」

またアマフウをチラッと見てしまいそうになる視線を、誤魔化すように上に向ける。
セイハの石鹸は借りられないな、勧められたらどうやって断ろうかと、頭を悩ませる。

「じゃ、決まりね。 最後に入ろ。 迎えに行くから待ってて」

「はい」

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虚空の辰刻(とき)  第69回

2019年08月16日 23時19分55秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第60回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第69回



「あの時の私・・・」

何をどう考えたかを再考する。
ガザンの不遇に小学生時代の犬たちを思い出した。 そしてガザンを抱きしめた。

「じゃ、今は?」

ニョゼのことを思い出した。 ニョゼの入れてくれるお茶を飲みたいと思った。

「・・・じゃない」

じゃなくは無いが、じゃない。 じゃないのは、その後に思ったことがある。
ニョゼの顔を声を思い出し笑みをこぼした。 そして心が温かくなった。 その暖かさに浸かっているとどこからか音が耳に入った。

「単純にまとめると・・・」

掌を開いて面前に出した。

「ガザンを抱きしめた」

目の前にある親指だけを折った。

「ニョゼさんのことを思い出し、暖かくなった」

人差し指を折った。

「・・・」

イミがワカラナイ。
だからどう。

「あ・・・」

府には落ちないが、掠(かす)って思い当たることがある。

「これって、いわれ無きままに言われる、自覚がないっていうやつ?」

でも、でも。 と頭の中に記憶のある映像を映す。 それはセイハが火を消していた姿。 姿というよりその力。

「・・・全然違う」

セイハは火を消した。 でも自分は・・・。
枯れた芝生を青くした。 枝に花を咲かせた。
これって、全然違う。

花を咲かせたり芝生を青々とさせたりしたのは、自分と思うのは思い違いだろうか。 自分が花を咲かせられるはずがない、枯れた芝生を青々とさせることなど出来るはずがない。
と、記憶にもなかった自分の言葉を思い出す。
『もっと生のある木々なら何か教えてくれるのに』 ムロイの家の裏に初めて行った時に漏らした言葉。 あの時そう言ったが、あの時にもどうしてそう言ったのかが分からなかった。 そして今、思い出してもその真実が、意味が未だに分からない。 どうしてそんな言葉を言ったのか。

「・・・バカじゃない」

思考を停止した。 せざる終えなかった。 想像を広めても想像にしかない。 現実ではないのだから。

だから考えないんだ、考えないんだ! と考える。 ありがちなパターンに嵌まってしまった。
確かに目の前に枯れた芝生が青々とし、葉も花もつけていなかった枝から葉が生まれ、花が開いた。

その場に確かに自分が居た。 芝生の時にはガザンとセキが居た。 何もない枝から葉と花が咲いた時には自分しかいなかった。

「遠隔ナントカ・・・」

誰かが、遠くから操作している。
考えられなくもない。 でも・・・それは何故? どうしてそんなことをするのか?
それをしたところで何がどうなるのか?
困るのは紫揺だけだ。 それが目的? そして、自分の知らない所で五色と言われる皆も惑わせているのだろうか。

頭の中はポジティブに考えられない。

まるで鳴門の渦潮の中心にいるかと思えるように、頭の中がグワァングワァンする。

回る頭の中を抑え一度、否定を肯定にしようとチョイスする。 ならば辻褄が合うかもしれない。

セイハもセッカも『自覚』 という言葉を言った。 トウオウにしては、つい前、アマフウの話から続けて『それ以外の所はそろそろ考えているのかな?』 と言われた。
そして続く『全くゼロみたいだな。 いいよ。 ・・・でも』 顔を上げると紫揺を直視し『力の加減を知らないと、シユラ様が困るんじゃない?』 そう言った。

「私が困る・・・」

現に今困っている。 だが今あることには直結できない。
ただ不思議な現象を見ただけ。 それに自分が介しているとは何度考えても到底思えない。 だからそこを肯定して・・・まで思うと声が聞こえた。

「・・・さま」

微かな声が戸の向こうから聞こえる。
飯の用意が出来たと女が呼んでいるのだろうとすぐに分かった。

「はい! 今行きます」

大きな声で返事をすると、立ち上がり靴を履いて戸に走った。


木の枝には一つの影がある。 残りの一つは茅葺の屋根の上に居、もう二つは分かれて小屋の裏側と側面についている。


皆で食事をとる。
本当なら一人で食べたいところだったが、我が儘を言っては女たちに手を掛けさせてしまう。

「どうだった?」

「ああ、特にぶり返してるところはなかった」

アマフウとトウオウの会話。 来た時に消して来た火が特に再燃していないらしい。

「特に?」

アマフウと紫揺がトウオウの言葉に気付いた。

「小さいものが幾つかあった」

「それは、消した後の所の後に・・・同じ所にという事?」

「ああ」

アマフウが大きく溜息を吐いた。 紫揺は箸をすすめながら話を聞く。

「消し損ねてたってことはないの?」

「オレは無いよ」

「偉そうによく言うわ。 アマフウがしたのは、ほんの最初だけじゃない」

セッカが口をはさんだ。

微かにアマフウの口元が歪む。

「よせ」

ムロイが間に入る。

「これって、誰の責任だろうね」

箸を咥えたまま、両手で顎に手枕を作り、見えない空を見るようにトウオウが言う。

「・・・私と言いたいのか?」

ムロイが箸を置きトウオウに目線を送った。

「それ以外に誰が居るの? ムロイ、領主だろ?」

同じ姿勢で箸を咥えたまま目だけをムロイに送る。

「では、領主からお前たちにずっとここに居るようにとでも下知を出そうか」

箸を持っていたキノラの手がピクリと動いた。 が、すぐに口を開いたのはセイハだった。

「冗談じゃないわ! これ以上ここに居たくない!」

持っていた箸ごと拳を握りしめてその拳をドンと荒々しく叩きつけた。
あまりの激昂に誰もが驚いたが、紫揺だけは鍋から取り入れた受椀の白菜を口に運んでいる。

(この白菜、絶妙かも) などと味を堪能している。
別に白菜に心奪われたわけではない。 セイハがそういう事は今までの会話から安易に分かっていた。 驚くことではない。 でも気になる人間が若干一名いる。 そこに上目遣いに隠れた視線を送る。

その相手、キノラは黙々と食している。 屋敷に帰りたいという事をセイハに預けたのだろう。

「・・・思い直すときかもしれんな」

ポツリとムロイが言う。

「思い直す? どういう事よ!?」

「五色全員、若しくは幾色かここに残る」

「は!?」

「言っておくが、私はお前たちに屋敷に居て欲しいなどと一度も言った覚えはない。 お前たちが勝手に屋敷に居着いただけだろう。 ならばいい機会だ。 領土に居残りたい者はこのまま領土に残る。 それともくじ引きでもするか? 全員が残るか、誰かが残るか」

確かに五色は領土より屋敷を選んだ。 それも前代から。 そして前の領主も屋敷住まいを選んだ。 ムロイも然り。

「それって、誰も此処に残らないって言って、私が貧乏くじを引いたら私が此処に残るってわけ?」

「そうなるな」

ここで傍観していたキノラが口を開いた。 紫揺が横目でキノラを見た。

「その必要があるのかしら」

「どういうことだ?」

「私たちが居なくても、皆なんとかやってるわ」

「火がまわってきているんだぞ?」

「でも中央には火が無かったでしょ? 辺境に火が上がっても中央には関係ないわ。 それに火が大きくなれば慌てたヒトウカの足跡が火を消すわ」

「他力本願」

口から箸を取ったその口の中でトウオウが言う。

「何十年とこの形でやって来たのよ。 今更何を変えるというの?」

誰かに何も変えられたくない。 キノラは屋敷での仕事を我が人生の宝物(ほうぶつ)と考えているのだから。 それを取り上げられる謂れはない。

キノラの言い分を聞いて尚且つ、ムロイが言う。

「誰かここに残りたいと思っているか?」

誰もムロイを見なければ黙々と箸を動かしている。 気は五色同士、互いを覗っているであろうことはあからさまに分かる。 ・・・つもりのムロイ。

「誰もいないか・・・」

「いるわけないじゃん」

ムロイがトウオウに目線を置く。

「此処にどんないいことがあるわけ? ムロイもそうだろ? そうだから屋敷に行くんだろ? 皆も同じだよ」

「お前は・・・お前は屋敷で何もしていないのに何を言うのか?」

「それって何? ムロイやキノラみたいに屋敷で仕事をしてないってこと?」

「そうだ」

「まっ、言われたら確かにね。 でも、オレもアマフウも何もしないけど屋敷に居たいと言ったのを了解したのはムロイだろ?」

「・・・」

その時は笑う程に株が次々と当たった。 何もかもが簡単に手に入った。 だから、あの地が楽しく思えた。 今も株の状況はいい。 でも領土の現況を見ると紫揺につなげる前にどうにかなっては後先もない。

「状況は変わる」

「ああ、そうだよね。 時は流れてんだもんね。 でも、二言はないよな?」

疑問符をつけて訊かれるが、それが脅しに近い。

「何が言いたい?」

「オレ達をあの地に引き入れたのはムロイだろ」

「学を持たねば何も出来ないからだろう。 あの地の学校に行かしてもらっただけでも感謝しろ」

アマフウが顔を背ける。

「ムロイ・・・何も分かってないんだな」

「何が言いたい?」

「いい。 これ以上話したくはない」

「お前は残るという事か?」

「ああ、オレは此処に残る。 言っておくが、これ以上オレに何も話さないようにな。 保身を考えろよ」

砂を浴びせるという事だろうか、それとも火か。

ムロイが口を歪めた。 どうして領主である自分が五色に脅されなくてはならないのか。

「トウオウ」

アマフウがトウオウに顔を向けた。

「なに?!」

かなり不機嫌な顔をアマフウに向ける。

「それ、もう少し待ってくれない?」

「は?!」

トウオウに向けていた顔をムロイに転じた。

「今トウオウが言ったことは今すぐではないわ。 あと少し経ってからの事。 今回はトウオウも屋敷に帰るわ」

ムロイが怪訝な目をアマフウに送る。

「おい! 何勝手に―――」

「いいわね」

ムロイに言ったのか、トウオウに言ったのか、反駁しかけたトウオウを見ることなく、ムロイに合わせていた目を眇める。

「・・・勝手にしろ」

返事をしたのはムロイ。 アマフウの目に負けたわけではない。 これ以上のゴタゴタは御免だ、と投げ出しただけであった。

「あと少し付き合ってちょうだい」

ムロイに向けていた目をトウオウに向けた。

箸を止めてアマフウを見ていた紫揺。

(どういう事? もう少し待つって・・・その先に何があるの?)

アマフウが言ったことと、自分の考えに何の関係性もないだろうが、自分がいつまでこの状況にいなくてはならないのか、異論を唱えたい。 が、そんなことを言っては、先にある計画に損傷をきたしてしまうかもしれない。 今は口を閉じておこう。

それにしても怪訝な目でアマフウを見るトウオウが気になるし、トウオウの視線を意ともせず、すました顔で箸を口に運ぶアマフウが何を考えているのかが分からない。

あとでトウオウにアマフウのことを訊かれたらどう答えようか・・・その為には馬車の中でアマフウに疑問を投げかけた方がいいのであろうか・・・。

小芋を箸で取り、口に入れた。 粘りは日本の小芋を彷彿とさせるものがあった。 紫揺の知る小芋ではなかったようだ。

その日はゆっくりと湯に浸かり身体を温めたが、しっかりと狼を探すためにその身体を冷えさせた。 だが翌日はきちんと朝を迎えることが出来た。


「あの・・・」

「・・・」

いつもの如く目の前の先の見えない簡素な馬車の板を見ながら足を組んで、その足に頬杖をついているアマフウ。 紫揺が呼びかけてもピクリとも動かない。

だからと言って、引き下がるわけにいかない。 トウオウには借りがある。 トウオウとしては貸しを作った気などないだろうが。

でも、少なくとも『手当』 をしてもらった。 それ以外にもある。 だから、あの時トウオウが『おい! 何勝手に―――』 と言いかけた言葉の続きを請け負いたいと思った。

それにはどんな訊き方をしていいのか。 この天邪鬼なアマフウに。 頭を捻る。 どんな修辞をもって婉曲に・・・。

「・・・」

―――無理だ・・・。 

器械体操では簡単に捻れても、この天邪鬼に対して頭を捻ることなどできない。
だから

「あの、昨日の話、何を考えてるんですか? トウオウさんを屋敷に帰して何をしようとしてるんですか?」 

結果、直球を投げた。

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虚空の辰刻(とき)  第68回

2019年08月12日 21時54分16秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第60回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第68回



この日は少々のズレがあるものの、遅れることもなく、宿泊する茅葺屋根に着いた。

暗い中、辺りをキョロキョロするが、人気が感じられない。

「・・・ムロイ達ならまだよ」

御者が持つ角灯に導かれて前を向き歩き出したアマフウが言う。 慌てて後を追う紫揺。

「え? 抜かしちゃったんですか?」

「聞いてなかったの?」

ジロリと紫揺を斜に振り返る。

「今朝の食事の時に、全員で散らばって点検しながら移動してるって言ってたでしょう」

語尾に怒りが込められている。

「・・・あ、聞いてませんでした」

自分の腹具合ばかり気になって、会話など聞いていなかった。 シュンと頭を垂れる。

「考えてもごらんなさい。 馬が人を一人乗せて走るのと、二頭引きの馬車に三人が乗っている。 抜かすなんて、馬たちがどれ程馬車に合わせてノロノロ歩かなくちゃいけないと思ってるの」

そう言えば馬車の中に居る時、馬車を引いている二頭の馬の地を蹴る音しか耳にしていなかった。

「馬たちだけで帰るのなら、早掛けでとうに着いてるわ」

「はい。 御尤も(ごもっとも)です」

そんなこと考えてもいなかった。 救いは言われて考えることが出来る。
よって、遅れることもなく、どころではない。 先に着いたようだった。

角灯を持った女が一人出て来て 「先に召しあがられますか?」 と、アマフウに問うた。

「いいわ。 もう少ししたらムロイ達も来るでしょう。 先に湯に浸かるわ」

女がお辞儀をしてアマフウの足元を照らしながら歩き出す。 それに続くアマフウ。

「あの、こちらへ」

いつの間にか後ろに立っていた御者が、紫揺の足元を照らしていた。

「あ、はい」

この御者が今晩の宿泊小屋に案内してくれるのだろうと、照らされるままに足を出した。

「あ、馬はいいんですか?」

「ご案内した後に・・・」

「すみません」

一人で何もできない。 クシュンとへこたれそうになる。

いくらか歩くと御者が戸を開け、紫揺を茅葺屋根の小屋に招き入れる。 中には女が一人居て、火の番をしていたようだ。 開けられた戸から暖気が溢れ出てくる。

「それでは」

いつもなら言わない言葉を言って、いつものように頭を下げ戸を閉めかけた時に紫揺が振り返った。

「有難うございました。 馬たちに遅くなったことを謝っておいてください」

一応、飼育係。 遥か昔だが。 時折の休みがあるとはいえ、一日中馬車を引いていたのだ。 すぐにでも飼葉や水を欲しかっただろうにと、元飼育係は思ってしまう。

御者が下げていた頭を更に低頭し、疑問が更に増幅した。

紫揺が中に入って行くと、囲炉裏の火が光々と燃え、囲炉裏端に座布団が置かれ、部屋の角には花瓶と思えるそれに一挿しされた枝があった。 女が熱い茶を盆に載せ囲炉裏の傍に置いた。 横には座布団が置かれている。

「・・・め、飯が出来ておりますが」

顔を伏せたまま口を開く。

「さっき、アマフウさんがみんなが帰ってきてからって言ってましたから、私もその時でお願いします」

女が返事をするように下げていた頭をもう一段下げる。

「ここは・・・お風呂はどうなっていますか? 今はアマフウさんが使っていらっしゃるみたいなんですけど」

早い話、個々に別の風呂があるのか、大浴場なのかを聞いている。

「は、はい。 大風呂もありますが、この裏に小さな風呂があります」

「裏のお風呂って温泉ですか?」

そうなら、いつでも入ることが出来る。

「は、はい」

「勝手にいつ入ってもいいんですか?」

「はいっ・・・!」

手先が震えている。 まるで説教を食らっているように応える。 これ以上何かを言えば余計に委縮するだろう。 とは言っても、このまま尻切れトンボでは終われない。

「有難うございます。 それじゃ、好きな時に入らせてもらいます。 今はここでお茶を頂いているので、食事の時に呼びに来てもらえますか?」

今度は返事もなく、深々と頭を下げて小屋から出て行った。

「・・・はー、疲れる・・・」

閉められた戸にお辞儀をするように腰を折った。

目を大きく開かれることには慣れたが、会話は・・・気を使う。 腰を伸ばすと靴を脱ぎ、囲炉裏端に置かれていた座布団に座る。

囲炉裏の火は暖かく場を温め、横には盆の上で湯気を立てている湯呑がある。 飾り気といえば、右手の角に花瓶に添えられた枝があるだけで、後方には布団が敷かれているだけだ。

「せんべい・・・」

馬車で長い間揺られていた尻が座った座布団は、期待を裏切らずせんべい座布団だった。

せんべいの上でベンチコートの中に足を折りながら入れる。 手は一度囲炉裏にかざして温めてから、横に置かれていた盆の上の湯呑を取る。 両手で湯呑から伝わってくる温かさを包み込む。

ふと、今朝のトウオウとの会話を思い出した。

「トウオウさんって・・・」

優しいんだか、どうなのか分からない。 ・・・続きは口には出さず思った。 

でも、あの時も優しかった。 ムロイの家に着いた時、アマフウ曰くのドヘドを吐くかと思った時


―手当―

もしてくれた。 気遣ってもくれた。

「優しいのかな・・・」

では、基本、優しいとは何をもってそう思うのだろう。 自問自答。 考えかけた時、フッと息が抜けた。

「笑う。 一人禅問答」

攫われホテルにいた時から、この日まで長い間一人でいて若干ゲストはいたが、一人遊びが上手くなったようだ。

「ニョゼさんどうしてるのかなぁ」

対する相手が居るわけではない。 どれだけ思考が飛ぼうと、誰からも責められるわけではないし呆れられることもない。

冷め始めた茶を一息に飲むと湯呑を盆の上に置いた。

「ニョゼさんの入れてくれたお茶が飲みたいなぁ」

折っていた足を抱え込むと膝頭に顎を乗せた。

玄米茶ではなかったが美味しかったお茶。 一度だけ男がニョゼに変わって 『ニョゼの様には上手く淹れられているかは分かりませんが』 と言って持ってきたが、全然味が違った。

紫揺の知るところではない、睡眠薬が入っていたこともあるが、淹れ方の問題が味の違いをほぼ占めているだろう。

「ずっと気を使ってくれてたのに、私ったら最初まともに話さなかった・・・よね」

誰に話しかけているわけではない。

ニョゼとの会話を思い出す。

「お姉さんみたいに優しかった・・・」

膝頭に乗せていた顎を引いて代りに額を置く。 目の前が暗くなる。

ニョゼの顔を声を思い出す。 知らず笑みがこぼれる。 心が温かくなる。 その暖かさに浸かっているとどこからか音が耳に入った。

「え?」

膝頭から額を上げる。

耳を澄まさなければならない程の僅かな音。 どこから聞こえてくるのかが分からない。

「・・・狼?」

戸に目をやる。

狼が地を踏み拉く音かと思ったがそれではない。 そんな音ではない。

「なに?」

輝ける音。 息を吐く音。 産まれる音。 弾く音。

耳に感じた。

そんな音がこの地のどこから聞こえてくるのか。

探る。 目を瞑って音を感じる。 何処からそんな音が聞こえてくるのか。

すると右の耳から聞こえる。 右の耳がその先を伝える。 温まっていた心がそれを受け取る。

ハッとして右を見た。

部屋の角、そこには花瓶と思える物があった。 そこに一挿しの枝があったのを記憶している。

小屋に入った時、その花瓶を見たのだから。 凝視したのは花瓶だけではあったが、頭の片隅に枝の記憶がある。

その微かな記憶にある枝と今は違う枝の様相をしている。

紫揺の記憶の片隅にあった枝は、少々太い枝が細い枝をつけているだけだった。 それなのに今は細い枝に葉と花の蕾をつけている。

「え?」

紫揺が見るなか、蕾が次々とまるで満開の桜のように咲いていく。

「・・・なんで?」

さっきまでは少々太い枝に細い枝しか見られなかったはず。 花の蕾など微塵もなかったはず。
それなのに。 ・・・蕾が開いた。

可愛らしい桃色の桜のような花。

「何の花・・・?」

いや、そうじゃない。 いや、そうである。 

頭が混乱する。

桜はこれだけ寒ければ咲かない。 だから 『いや、そうじゃない』 でも、この花は何処からどう見ても桜。 だから 『いや、そうである』 とは言え、紫揺の知らない花は五万とある。 セイハの石鹸の素になっている花は紫揺の知らない花だったのだから。

頭が再乱する。

頭を抱えかけたが今はそうする時ではないと思った。

桜と思える花を、枝を、葉を見た。

次第にイキイキとしていた葉が、花が枯れるように萎(しぼ)んでいく。 一つ二つと枯れ落ちる。

「え・・・」

単に花が萎む、枯れるという姿を見せられると心寂しくなる。

「どうして? ・・・」

咲いたことへの疑問など吹き飛ばして、花の色を褪せさせ枯れて落ちる葉と花びらを目で追った。

桜なら満開に咲いて、その中を風に吹かれて人を惑わすように、否、日本人の感覚にある、咲いて見事に散る様に、花の舞をみせるかの如く咲散るはずなのに。

「待って!」

せんべい座布団から尻を上げ、手の届かない花瓶に手を伸ばす。
だが花弁は待ってはくれない。 一瞬にして何枚もの花弁と葉が褪せて落ちた。

「どうして・・・」

どうして花が散るのか。 どうしてこのタイミングで花が咲いたのか。 そうじゃない。 どうして自分の心に花が寄り添ってくれないのか。

どこかで冷めた心が疑問を持つ。
疑問が多すぎる。

――― 寂しい。

「やだ、どうして・・・」

そんなことを思うのか。 ニョゼが入れてくれる茶を飲みたいと思った。 そしてニョゼの顔と声が浮かんだ。

それだけなのに。

――― それ程に大きい。

反する思いが右往左往する。
そんな自分を律したい。

問題は咲くはずのない花が咲いた、そして散った。 それも色褪せて。

「感情に流されちゃダメ。 考えるんだ、おかしなことを」

自分に言い聞かせる。 でないと、ニョゼに逢いたくて涙が出てしまう。 今はそんな時ではないのは分かっている。

「枝が・・・枯れ枝とも思える枝が花瓶に生けてあった。 花瓶には水が入っているだろうから、枝は生きてた。 その枝に葉も蕾もついていなかった。 なのに葉をつけ花が咲いた」

この際、何の花かは二の次だ。

首を傾げる。 花が咲く前と咲いた時の事を考える。

環境の違いは分からない。 急に温度が変わったとか。 でも我が身に実感はない。 囲炉裏から離れると相変わらず寒い。 花瓶は囲炉裏から離れた所にある。

「人気があったから咲いた?」

いや、紫揺が此処に座する前から女がここに居た。

うーん・・・。 と考える。

「あの枝の・・・」

花瓶に刺された枝を見る。

「気の迷い? 木ならではの、木の迷い?」

ボケてみるしかないが誰も突っ込んではくれない。 それに・・・結構本気。

ボケた目ではなく、本気で枝を見る。 枝は何も言わない。

頭を下げた。 途端、思い出す。

「あ・・・あの時にも」

セキからガザンの過去を聞いた時である。 そして紫揺が初めてガザンを撫でた時でもある。 ガザンが紫揺を拒否しなかった日。

あの時のガザンの目を思い出す。 何かを言いたそうにしていた目。 それを読み取ることが出来なかった紫揺の顔をベロンと舐めたガザン。

「ガザン・・・なにが言いたかったの・・・」

忘れていた過去を思い出しながら呟いたが、今はそこに留まっているわけにはいかない。

「あの後・・・」

小学校時代の飼育係のことを思い出したはず。

『私は飼育係です。 やらなきゃならないことをする。 先生にばっかりさせない』 と言った。
小学校では迷子の犬や近隣から飼えなくなったという犬を預かっていた。 預かりながらも、新しい飼い主を探していた。 その犬の世話は飼育係ではなく、飼育係担当教師がしていた。 それは、良い環境に無い犬を生徒に預けては危険が生じるという事からであったが、見事に紫揺はそれを撥ね退けた。 飼育係は動物全般のお世話をするのだからと。

そしてまだ怯えたり威嚇をする犬たちに接していた。 その犬がやっと慣れてくれた時、紫揺を見かけて尻尾を振ったり、すり寄ってきたり、何よりも顔を舐めてくれた時には心底嬉しかった。

ずっと怯えていた仔が、威嚇を繰り返していた仔が、心を開いてくれた。 それを思い出した記憶がある。

そしてその思いのままガザンの身体に手をまわし、ガザンの顔に自分の顔をくっ付けた。

すると枯れていた芝生が青々と見せた。

「うん、あの時も・・・」

そんなことがあったと心で言った。 そしてそれはどうしてなったのかは解決できないままだった。

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虚空の辰刻(とき)  第67回

2019年08月09日 21時15分51秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第67回



翌朝、外の音、人の声で目が覚めた。 と言うか、朧気に眠りから意識に片足を突っ込んだくらいのものだ。 すると現実の寒さに布団の中で身を縮める。

「ん・・・?」

布団を頭から被り隙間なく抱え込みながら気付いた。
違う。 白いもやが広がる頭の端で、何かに引っかかった。

「これって・・・」

布団の中でパチリと目が開く。

「朝!」

朝と願いながら、昼ではないことを希望しながら、布団を撥ねた。

「痛った!」

まだ節々や、筋、筋肉が痛い。 
だが今はそんなことを言ってられない。 ベンチコートを着たまま布団に入っていた。 したがって布団から出ても何も羽織るのもはない。

そのまま三和土に下りて靴を履くと戸のあるとこまで走り、勢いよく、と言うか、勢いをよくして等と考える余裕なく、力任せに戸を開けた。 木で作られた戸は、紫揺の力に呼応し、素早く視界を広げた。 が、呼応の力はすさまじく、跳ね返ってまたもや視界を塞いだ。

外に出ようとしていた紫揺が、戸に顔面を打ちつけた。

「つぅ・・・」

特に額と鼻を手で押さえる。

こんな時、鼻が高かったら、額など打たないはずなのに。 などと今必要でないことを心の端で訴えた。

「・・・滑りいいんだ」

再度戸に手をかけると、今度はゆっくりと開けた。

完全に朝だ、と思う。 日が横から射している。 真上ではない。 が、もしかしてこれは夕日か? 東西南北の位置が分からない。 それでもこれが西に沈む夕方の日ならこれ程に輝いていないであろう。

東雲(しののめ)。

戸口に立つ紫揺を見止めたひとりの女が紫揺に走り寄ってくる。

「も、申し訳ありません。 あ、朝飯は・・・もう少し・・・。 あ、あの、今作っております」

深々と頭を下げた。

女の言葉からして、間違いなく朝と分かる。 ドッと胸だけならず、腹までもドンと安堵が落ちて、やっと人心地が着いた。

「あ、いいです。 全然急いでいません。 あ、じゃなくて、目が覚めただけですから気にしないでください。 全然、朝ごはんを急いでもらわなくていいです」

両掌を広げて胸の辺りで振る。
変に人心地が着いたのだろうか。 余りに自分自身に安堵している。 余裕が出る。

女が急ぎ足で紫揺の前から姿を消した。 その姿を追うと、相手に対しては台詞的に無駄、いや、余計と急かす的な迷惑この上ない余裕だったかもしれない。

だが言った言葉はなかった事には出来ない。 前言撤回が出来ない。 では、一歩二歩下がって出来ないやり直しをするのではなく、先を考えよう。 まずはホゥと息を吐く。

「良かった。 朝だ」

そう言った途端、自分が虫のような小さな存在に思えた。

「・・・」

決して人間だから大きいとか、でも象より小さいとか、そんな話ではない。

「何に媚び売ってるのよ・・・」

言った自分に驚いた。 媚び!? 自分がそんなことをするはずない。 そんなものは毛嫌いの対象なのだから。 誰かに媚びを売るなんて・・・。 途端、あ、じゃないと気づく。

誰に媚びを売っている、と思ったのではない。 何に媚びを売っているか、と自分に言った。

何に・・・。

戸に背を預ける。

「私・・・どうなってる・・・?」

確かに失礼なことは言いたくないし、そんな気も毛頭ない。 少々の失礼なら、聞き流すことも出来る。 でも今は違う。 自分が相手に、先程の女に思いやる行動をとらなかったのだ。 まさか見られているとは思っていなかったが、その上で発した言葉を考えた。

何故?

・・・いや、失礼なことなど言っていないはず。 思ったままを言っただけだ。 それを聞いた女が急いで走り去った。 それは紫揺が先を急かしたと考えたのだろう。 早い話、優しく言いながらさっさと朝飯作れよ! って言われたのだと思ったのだろう。

それって、心外。

あ・・・。 と気づく。

誰に媚びを・・・じゃない。

自分が自分に媚びを売ってる・・・。
自分が満足するように自分を対象者と重なり合わせて、対象者に自分と同じに考えさせようとしている。 自分と同じに考えさせようと決定している。 これって、相手に自分と同じことを思うように感じろよ、考えろよ、同調しろよと強制しているのと同じである。

でも対象者は紫揺のそんな思いなど知らない。 対象者は己の考えで行動を起こしている。

「バカだ・・・バカどころじゃない。 自己中満載」

自分が 『すみません』 と謝れば、相手に大きな怒りが無ければ済まされる。 でもこの地では、紫揺に対して誰も怒っているようには思えない。 何を謝罪されたのかとも分からないままに。 『すみません』 の言葉がスルーしている。

自分が 『有難うございます』 と言えば、感謝される場ではないのに、どうしてそんなことを言われるのかと疑問に思われながらも場を過ぎていた。

思い返せば、ずっとそうだった。
例外もあったが。

「バカの骨頂じゃない。 自己中この上ないじゃない」

この地に来て、もう帰ろうとしている時に気付くなんて。
うな垂れそうになった。

だが、この地の誰もが紫揺のその言葉に大きく目を見開いていたのを紫揺は知らない。 単に、誰もが紫揺を恐がっていたから目を見開いたとしか認識していなかった。
この地で紫揺に接した誰もが紫揺を意識したのを紫揺は知らない。


「やっ、シユラ様。 もう起きたの?」

驚いて顔を上げた。 目の前に見慣れた服装ではない、ここ数日の服を着たトウオウが居た。

「あ・・・」

「お早う」

お早う・・・間違いなく朝だ。 『良かった。 朝だ』 に、太鼓判を押す。

「お早うございます」

「早起きだね」

イヤミだろうか。

「今日は」

続けられた言葉に、やっぱり嫌味だと句点を置いた。

「トウオウさんは早起きなんですね。 いつもですか?」

トウオウの言葉に挑戦的に返す。 善良な悪市民を演じたい。 此処に居て市民かどうかは分からないが、自分に媚びを売りたくないから、敢えてワルをチョイスした。 が、他から見ればワルともいえない、些細ともいえない言い訳に近い。

「オレ? オレは、その時の気のまま」

ワルをスルーされたような返事。 相手にされていないのだと分かる。

「ここには爺が居ないから自由でいい」

爺・・・トウオウが言うところの爺はトウオウ付きであるが、どちらかと言えば教育係だ。 トウオウの幼少の頃から付いているが、高齢になってきたが故、若いトウオウ付きが別にいる。 お付きは領土に帰る時にはついてこない。 屋敷で待っている。

爺の存在など知りもしない紫揺が一つ口を引き結び頑張る。

「アマフウさんは?」 

「へっ?! アマフウ? まだ寝てんじゃないかな?」

いつも下げていた顎をツイと上げていた紫揺、それにいつもと口調が違う、余りにいつもの紫揺と態度が違うのを感じる。

当の紫揺はトウオウから返された言葉に次の言葉が出ない。

媚びている自分に、そうではないと示したかったのに、悪態を吐きたかったのに、次の言葉が出てこない。

「シユラ様?」

「・・・」

顔を覗き込んでくるトウオウに無言で応える。

「なに無理しんての?」

「え?」

「アマフウに何か言われた?」

「え・・・?」

「ふ・・・ん。 アマフウが言うわけないか。 ・・・でもここの所のアマフウは怪しいかな・・・」

一人ごちるトウオウに、紫揺が顎を引き眉を上げる。

「そっ。 それでいいんだよ」

「え?」

意味の分からない答えを発するトウオウ。

「シユラ様はシユラ様」

深く何も考えなくてもいい。 紫揺に不必要なことを考えなくてもいいと言っている。
紫揺の表情や言動を見れば聞けば、紫揺が無理をしているのが分かる。

ぶっきら棒ともいえなければ投げ出すでもない。 これまでも今までこんな風に話したことが無いのに、急にそんな話し方をされ、どこか戸惑う紫揺。

アマフウに何か言われたのかと思ったが、今のアマフウを考えると有り得るだろうが、やはり、アマフウが何かを言うわけない。 だからそう言ったが、紫揺はそれを掴みきれていないようだ。 だが今はこれでいいだろう。 紫揺が逡巡するのを目にしながら続けて言う。

「それ以外の所はそろそろ考えているのかな?」

「え?」

益々わからない。

皆が言うところのそろそろ自覚を持てという事なのだが、紫揺には通じていないようだ。

「全くゼロみたいだな」

トウオウが俯いて大きく歎息を吐いた。

「え? なんですか?」

「いいよ。 ・・・でも」

顔を上げると紫揺を直視した。

「力の加減を知らないと、シユラ様が困るんじゃない?」

え? と言いかけた紫揺の前に言葉が浴びせられた。

「困る? 彼女がこの先困ろうと、そんなことどうでもいいことじゃなくて?」

紫揺とトウオウが横を向いた。 いつの間にかセッカが歩み寄って来ていた。

「困っているのは、今現在、彼女以外の者が困っているわね」

「なんだよ、セッカ」

「ああら、言われたものね。 歳上に対する礼儀的口の利き方がトウオウにはないのかしら」

「それは失礼。 それではお姉さま。 こんなに朝早く起きられまして、お早うございます」

言うと続けて、小声であくまでもセッカにも聞こえるように言う。

「ああ、そうか、歳をとると早起きになるというのは存外嘘ではないわけだ」

「トウオウ!」

「聞こえましたか? それは失礼、聞きかじった一般論を言っただけです。 お姉さま」

セッカがキッと眉根に力を込めた途端、違う声が混じってきた。

「朝から何を揉めている」

疲れが取れていないといった風に、気怠く前髪をかき上げる。

ムロイだ。

「へぇー、早起き」

何もなかったようにトウオウが言う。

ジロリとトウオウを見るとその目線を紫揺に送った。

「お早うございます」

起因である紫揺が取り残されそうになりかけた時のムロイの介入。

「あ、お早うございます」

言葉と同時に会釈をする。

「アマフウはまだ寝ているようですが、シユラ様はもう起きて大丈夫ですか?」

「え?」

やっぱりアマフウがまだ寝ている?

「あ、あの。 あ、はい。 大丈夫です」

「それは何よりです」

紫揺を見て言うと、次にセッカを見た。

「話がある」

顎で先を示すと先に歩き出した。 歎息を吐いたセッカが渋々と後に続く。

二人を見送った紫揺。 顔を元に戻す。
昨日、馬車を早く走るように言って、アマフウに無理をさせたのだろうか。 気になる。 トウオウを見る。

「なに?」

「アマフウさん起きてないんですか?」

「・・・ムロイがそう言ってんだから、そうなんじゃないか?」

別の家で寝ているアマフウのことを、どうして自分に訊くのかと疑問を覚える。

「朝、まだアマフウさんと会ってないんですか?」

「会ってないよ」

それでいいんですか、と言いたかったが、咄嗟に口を塞いだ。

「なに?」

再度トウオウが訊く。

「あ、何でもありません。 ・・・私に合わせてもらっていたから、疲れたのかなって」

「疲れるわけない」

冷めたような小声に冷笑を浮かべながら言う。

「アマフウは、そんなことでヘバるようなやつじゃない」

何かとってもアマフウに対して失礼なことを言った気になる。 アマフウのことを虚弱と言ってしまったことになるのだろうか。 前言は失言なのだろうか。 たぶん、失言なのだろう。 でもここは失言に対して謝る場ではないだろう。

「そうですか。 私が疲れさせていたのでは無ければ―――」

ここまで言いかけると、トウオウが言葉を被せた。

「無いよ」

「・・・はい」

そう言うしかなかった。
トウオウは誰よりもアマフウのことを分かっているのだから。


「セッカ」

足を止めたムロイが振り返る。

離れた所には紫揺とトウオウがそれぞれに歩き出す姿が見える。

「なに」

「シユラ様に構うな」

「シユラ様? 仔ギツネじゃなかったのかしら?」

妖艶な目をムロイに送る。

ムッとした顔を作ると、再度言った。

「いいか、今はまだシユラ様に構うな。 いいな」

妖しい目をムロイから外すと一息吐き、無言でその場を後にした。


ゴトゴトと揺られる馬車の中。 全くの無声。

今日は顔も洗って歯も磨けた。 朝ごはんも食べた。 出されたもの全部は食べきれなかったが、胃の受付もさることながら、気持ち的に出されたものを全部食べてしまえば、怪しい状態になるだろう。 よって、食べ残した。

今回も女に謝る。 いつも通りに驚いた顔を見せられる。 もう・・・慣れた。

小窓を開ける。

流れる風景は、一昨日まで見ていた家並みがぎっしり詰まっているのと違って、数軒の塊がありその周りに田畑があり、農作業をしている何人もの人影が見える。 ぽつんぽつんと山が見える。

また風景が流れる。 田畑から離れた所にまた数軒の塊があり、牛や羊を放牧している様子が見られる。

中心と言われる所の端の方に当たるのだろうか。

馬車を降りると生活の音が聞こえるのだろうか。 無言に包まれたの馬車の中に聞こえるのは二頭の馬が地を蹴る音と、ゴトゴトと揺られる音だけであった。

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虚空の辰刻(とき)  第66回

2019年08月05日 21時44分13秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第66回



ガバッと上体を起こした。

「イタッ!」

勢いで起こした上半身。 その歪められた腰が不満を訴える。 もう少しゆっくり起きられないのか、それにこれ以上は曲げられないと。

「ム、ムラサキ様・・・?」

今の紫揺の短い叫びに女が臆したようだ。

「あ、すみません。 お願いします。 すぐに出ます」

ゆっくりとうつ伏せから仰向けに返して、手を添えて起き上がる。

「サイアク・・・これってお婆さんじゃない・・・」

そう言えば自分の体力のなさを考えていたんだ。 それなのに考えが簡単に違うことにスライドしてしまっていた。
四つん這いで囲炉裏の横を這って土間に足を下した。


久しぶりの風呂は別に建てていた風呂だけの建物の温泉だった。

女に聞くと、ムロイと四色たちは風呂に入らなかったらしい。 ただ一人、アマフウが紫揺の前に入っていたらしい。 そう言われれば、風呂に入った途端、アマフウの香りがした。

アマフウが領土の人間が作ったと言われる石鹸を持ってまわっていたのか、それとも各所の女たちがアマフウの石鹸を作って置いていたのかは、紫揺の知るところではない。

ポチャンと浸かる。 初めてセイハと入った温泉は露天で岩に囲まれていたが、今回は木で作られた風呂だった。 日本で言うならば、檜風呂と言った感じだ。 全体が木で作られている。

手拭いはもらった。 石鹸は・・・誰の香りの石鹸なのだろうか。 木の上に置かれている。
シャンプーとコンディショナーはやっぱり無い。 前回と同じくこの石鹸で終らせるしかないらしい。 終わらせるしかないと言ってしまえば、良い言い方に聞こえないかもしれないが、そうではない。
手作りの石鹸は、肌に潤いを上げ、髪の毛を軋ませるどころか、潤いさえ持たしてくれていた。

ここは遠慮するところだろうが、久しぶりに贅沢に石鹸を使い、身をサッパリとさせ、温かい湯に浸かる。

「私・・・図々しくなってきたな」

両手で湯をすくうとその手を開放した。 湯が元の仲間の元に戻る。

湯に横たえた体に、さっき考えていたことが思い出される。

頭を振る。 考えない。 お父さんとお母さんのことを今は考えない。 家に帰ってから・・・。

え? ・・・家に帰ってから? 家に帰ってお父さんとお母さんのことを考える? それも自分を悲しめることを? と思った瞬間に、自分が父と母を死に追いやったことから逃げ出そうとしている、そう思った。

何をどう考えてもどうにもならない。 父と母へ死の道標へ誘(いざな)ったのは自分。 それは逃げようにもない事実。 事実はそれだけだ。

湯に顔をつける。 口から少しずつブクブクと息を吐く。 このまま息が吸えずに死ねればいいのに・・・。

吐いた息が止まる。 水泡が消える。 時が静かに流れる。 外で風が起きている。 寒さに耐えていた幾枚の雑木の葉が風に煽られて手に力を入れる。 まだ幹から離れたくないと。

プハッ! 湯から顔を上げる。

「だから・・・言ってるじゃない!」

自分に怒りをぶちまける。

今を見ようと、そう決めたはず。 何を迷っているのか。 父と母のことはいつも心の中にある。 それでも、今は今を見ようと心に決めたはず。

それなのに何をブレているのか。 湯から上げた濡れた顔の温泉湯を手で取り除く。

「弱気になってきてる・・・」

そんな自分が許せない。

「狼たち・・・」

今の状況に切り替える。
ザっと湯から立ち上ると、身体を拭いた。

風呂屋と呼ばれる家を出ると、来た時と同じように灯りを持った女が立っていた。 寒い中、紫揺が風呂から上がるのを待っていたのであろう。

どれだけ体が冷えただろうか。 かける言葉が見あたらない。 会釈だけをすると、女が先導して家に導いてくれた。

さほど方向音痴ではない。 出てきた家には一人で帰られるが、女が無言で先導する姿に甘えることにした。

「有難うございました」

戸際で女に声を掛ける。 女が一礼してその場から去った。
きっと身体の芯から冷えたことだろう。 あとで女も温泉に入るのだろうか・・・。 詮無いことを頭に浮かべながら戸を閉めた。


「今日はこれまでか」

ダンがゼンに目を合わせて言う。

「ああ、もう床につかれるだろう」

カミとケミはこの場に居ない。 紫揺より先に風呂に入ったアマフウの様子を見ている。 ムロイが紫揺に対して何かをする、言う、という事が一番懸念されていたし、ショウワからは紫揺に対するムロイに警戒をするように言われていた。 だが今は紫揺と行動を共にしているのはアマフウだ。 ケミならずともカミも、ムロイからアマフウにシフトするのが賢明だということは分かる。 それにムロイはとっくに床に入っている。

「ゼン、あの時の話だが・・・」

「ああ・・・」 思い当たる。

ゼン、ダン、ケミ、カミで紫揺を見ていた時

『で、どうする』 とゼンがダンに問うた時

『何か言いたそうだな。 そうだな、お前はどう考えておる?』 そうダンが問い返しをした。

その時はケミに邪魔をされたが。

「ケミは吾らの存在の在り方を・・・否定しておるのではないのか。 それにお前も・・・」

『分かっておらぬのは―――』 言いかけたケミの言葉を聞き終ることなく言ったのはゼン。

『吾たちと言いたいのか?』 そう言った。 そのことを言っているのであろう。

ましてや

『そうか・・・そうかも知れぬな』 そう言ったのだから。

「お前もケミと同じことを考えておるのか?」

「・・・」

「語れぬのか?」

「・・・まだ、吾の中で迷いがある」

「迷い?」

「ああ」

「それは―――」

「分かっておる。 吾らが一番持ってはならぬこと」

「ゼン・・・」

「ケミのことは少々見逃してやってはもらえぬか? アレはまだ迷いの中だ。 それに乗ってしまった吾も修行が足りん」

そんなことはない。 ずっと感じていた疑問を飲み込んでいた。 それをケミが言葉にした。

ダンからの返事はなかった。

ゼンに迷いがあると聞いた。 そんなものは吾等には必要ない、持つことさえ要らぬことなのに。 ゼンの迷いとは何なのだろう。 ケミが何の中で迷っているのだろう。

「ケミもカミもそのまま帰っているだろう。 吾らも帰るか」 ゼンが言う。

「ああ」

訝しみながら返事をする。

「なんだ?」

「いや。 戻ろうぞ」

先に姿を消したダンに続いてゼンがドロリと姿を消した。 きっと後には此処にケミが来るだろうと思いながら。


囲炉裏の傍で掛布団を身に引き込んでコッポリと被っている。 掛布団と対になる魅惑的な敷布団に誘惑されてはいけない。 それでも風呂上がりの身体を冷やしたくない。 よって、ベンチコートを横に置き、掛布団を身に纏っている。

「まだ人が動いてるかもしれない」

狼を迎える姿を人に見られてはいけない。 あと少し、どんな音も聞こえなくなって、それから暫く経って外に出る。 そういう計画。 計画ともいえないものだが。

外の音を聞こうと耳に全てを集中させている。 冷たい風が吹く音、それに煽られる葉擦れの音、誰かが地を踏みしめる音、それはきっと紫揺の後に女が風呂に入った後の足音だろう。 風呂に浸かったのか、浸からず単に風呂の後片付けをしたのかは紫揺の知るところではない。

人の気配のする音がなくなってから大分待った。

「そろそろ」

離したくない掛布団を身体から剥がす。

風呂に入り、そのあと掛布団を纏っていたホコホコとしていた身体が一気に冷めていく。
囲炉裏に火があると言えどそれは小さな火。 一瞬にして寒さが身に沁みる。

「サブ・・・」

すぐに横に置いていたベンチコートを見に纏う。

ベンチコートを着ても寒さは軽減されない。 身を縮めて三和土に下りる。 今回は落ちるなどという失敗はしない。 その為に囲炉裏の火は消さなかった。

前回は寝たふりをするために囲炉裏の火を消して三和土に下りるところから失敗をした。 だが今回はまだ起きていると思われてもいい。 見えない不都合を回避するために小さな火を置いていた。 靴を履いて戸の前まで歩く。

戸を開けると更に寒いだろうと、当たり前のことを頭に浮かべる。 戸を開けよとしていた手が無意識に止まる。

寒さに覚悟するようにグッと唇を一文字にした。

布団にくるまって気が緩んだ。 ぬるま湯に浸かっていてどうする。 思うことをするんだ。 寒いなんて言ってられない。

気を奮い立たすためにガラッ! と勢いよく戸を開けたいが、今は憚かれる。 戸に手を添えるとそっと横に引いた。

目の前は辺り一面・・・墨汁を落としたような漆黒。

身体が強張る。 目の前に恐怖が両手を広げて待っているようだ。 だがそれに怖じ気づいている場合ではない。 棒に振った昨日がある。

明るさにどれだけ励まされているのか、この恐怖を拭い去ってもらっているのか、漆黒を見るたびに実感する。

「私って記憶力がないなぁ・・・」

漆黒に二の足を踏んだ自分に呆れる。

「夜だからって、明かりがないからって、お化けも出ないし幽霊も出ない。 ・・・狼が出るだけ」

自分を言いきかせる。 それにその狼を待っているのだから。

あの時、夜ではなかったが、不穏な音を聞いて戦慄を覚えた。 恐怖などとは程遠い戦慄を。 だが、呆気なくリツソと初めて会った時が思い出される。

「怖いなんて、明るい時も一緒。 今は明るい時に目に見えてたものが見えないだけ。 それだけ」

自分に言い聞かすと一歩を出した。

勘で数歩歩くと歩を止めた。 が、危うい足取り、殆ど家から離れていない。

「居ないかなぁ・・・」

暗闇に目を這わせる。

対象物が見えないだけに、遠近感さえ分からない。 って言うか、遠近感が此処で必要か? と突っ込み程ではなく考える。 考える必要があるのだろうか。 そんなバカなことを考える自分にガクリと肩を落とす。

漆黒は目のすぐ前に何かがあるような、ずっと先にも何もないような。 でも、吐いた息が何にも遮断されていない、何にも跳ね返ってこない。 きっと目の前に何もないのだろう。

その場で膝を折り腰を折った。 所謂(いわゆる)体操座りをすると自分の膝を抱えた。


座るまでの長い時間、そして座ってからも長い時間と思われる時間、手首にもどこにも時計はない。 どれだけの時が過ぎたのだろうか。

待つという事は、何かをしながら待てば何ともない時間。 だが、何もしなければ1時間待ったつもりが、ほんの15分程度ということがある。
今はその上、寒さがある。

膝を抱えてその膝頭に顎を置き、目は前を見据えている。 顔を動かそうものなら、自分から寒気を混ぜるようなもの。 顔を動かすことさえ憚りたい。 狼の気配を思わせる音がすれば、眼球を動かすだろうが、その音さえない。

「・・・もう無理かも」

手も足も、胃から腸から何もかもが冷え切ってしまっている。 これで心臓が凍ってしまえば楽に逝けるだろう。
いや、逝くためにここに居るんじゃない。

重く長く白い息を吐いた。

「限界」

冷えた身体を立ち上がらせようとしたとき、今迄の身体の故障が思い出したように悲鳴を上げた。

足首が、膝が、腰が、手首が肘が肩が・・・足の裏の筋から手足の指の関節も痛い。

「ウグ、冷えすぎた・・・」

温まっていた身体が天国からの地獄へまっしぐら。 余りにその時間が急過ぎた。 もう少し徐々に冷えれば何とかなったものを・・・。 と思いながら、そうなのか? と苦悶の中で一人突っ込みを入れる。

「言ってられない・・・」

特に軋む身体の部位を押さえながら、無理矢理に動かし家に向かう。

その後ろ姿を目にしたケミ。

「ムラサキ様は・・・床に入られる前に外に出られるのか?」

小首を傾げる。

前回もそうだった。 この寒いのに、と再度頭を傾げる。 だが、毎日ではない。 再再度頭を傾げる。
ケミが何を考えようとも訝ろうとも、紫揺はノソノソと家に入って行った。

閉められた戸。 これ以上ここに居ても意味がない。 いや、これ以上ここに居ると意味を成してしまう。 カミやゼン、ダンから何を言われるか分からない。

そう言えば・・・ゼン。 ゼンは何を考えているのか。 ゼンの僅かな言葉が頭を駆け巡る。

『ケミ、お前の言いたいことは全てとは言わぬが・・・』

『僅かでも分かっておるというのか』

『確かに、このままではムラサキ様のご健康が損なわれる。 だがそれはショウワ様から下された命ではない』

『ムラサキ様のお身体があってのことだ』

『ずっと見張られているのだぞ』

「・・・見張ってなど―――」 イナイとは言えない。

ケミがコトリと頭を項垂れた。

「見張ってなどいない。 ショウワ様からのご命令でムラサキ様を・・・」

そうじゃない。 最初はそうだった。 そう育てられた。

ケミが頷くように顎を引いた。 そして紫揺が閉めた戸をもう一度見て姿を消した。

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虚空の辰刻(とき)  第65回

2019年08月02日 21時34分28秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第60回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第65回



よく自分の臭いには気付かないというが、今の自分、多分・・・大丈夫。 いや、そんなことを考えていてどうする。 充分気になるけど。 それでも今はそうじゃない。 先を急がなければ、領主たちに追いつかない。 追いつかなければまた時間のズレた夜を過ごさなければいけない。 早い話、狼たちと会える時間が無くなるという事だ。 胃は・・・今のところ大丈夫。

クイと顎を上げた。 頭には懐かしいと言っていいほど、アマフウに敬語など使わないという思いを持ちながら。

「あの!」

思いもしなかった自分の大きな声が耳に入ってきた。 自分でちょっとビックリした。

その大きな声に煩いと言わんばかりに、アマフウが眉間に皺を寄せながら目だけで紫揺を見た。

皺が寄ったという事は紫揺の声が聞こえたという事。 こっちを見たが、こっちを見ようが見まいが話を進めようではないか。 敬語なしに。

「馬の足を速めてもらえますか?」

言って可笑しいと思った。 『ますか?』 しっかり敬語だ。

「なに?」

アマフウが掌に置いた顎を軸に紫揺の方に向ける。
紫揺から見ればとっても怖い顔。

「あ・・・あの」

「何をもって急にそんなことを言っているのかと訊いているの」

「え・・・あ・・・」

アマフウの目に口淀んだが、初心貫徹。

「あの、早く走ってもらえたら他の人達に追いつく・・・から。 ご飯も一緒に食べられる、から・・・」

微妙な貫徹。

「私はアナタに迷惑をかけてもらいたくないのだけれど」

そのままの姿勢でアマフウが答える。
吐く事を言っている。 完全に言っている。 それしかない。 紫揺が心の中で一人ごちた。

「は! 吐きません!」

完全に初心を貫徹できなかった。

今迄、吐いたことを誰にも言わなかったし、アマフウも吐いたという事実を知っていながら、誰にも言わなかった。 だから正直に言えたけど・・・コワイ。 でも、腹は括れている。

「追いついてどうするの」

また疑問符がない。

「あ・・・えっと。 ・・・みんなと一緒にご飯が食べられるし・・・」

「それはさっき聞いたわ。 そうじゃなくて何を考えているのかを訊いてるの」

えっと、早々にご飯を食べて元気になって、欲を言うならお風呂にも入って、その後、狼たちに会うべく時間を設けたい。 それが正直な話だが、後半は言えることではない。

「アマフウさんに・・・これ以上迷惑を掛けたく―――」

「嘘を言うんじゃないわ」

「え?」

「アナタが私のことを考えているはずないでしょう。 嘘をつくなら尤もらしい嘘をつきなさい」

「・・・あ」 この時点で、この一言でアマフウの言っていたことを認めたことになった。 アマフウのことなど考えていなかったという事に。

諦めよう。 正直に話そう。 でも、最後の最後は言えない。

「ご飯を食べて、お風呂に入りたい・・・です」 初心をドブに捨ててしまった。

はっ! っとアマフウが息を吐いた。

「その程度・・・。 考えて損をしたわ」

考えて? 何を考えたのだろうか?

何を? と、問いかけようとした時には既にソッポを向かれていた。

改めて思う。 こんな人間は初めてだ。 自分の人生の中でこんな人間はいなかった。 同級生においても、初めて出た社会の会社においても。

自然と上げられた紫揺の掌に額が乗る。 無意識の仕草。

分かってはいたが、アマフウの性格は初めて会う性格。 アマフウの年齢を考えると余りにも固定された性格。 小学生や中学生とは違う。 これから柔軟に他を受け入れる姿勢が何もない。

紫揺自身も似たようなところがあるが、でも、柔軟性には欠けていないと自負している。 その自負が勘違いでないことを祈るが。

結果、紫揺とアマフウは相容れない。

アマフウが御者台に通じる窓を開けた。

「早く行きなさい。 前に追いつくぐらいに」

御者が驚きに目を丸くした。 いいんですか? と、問いたかったが、それは愚問以上の反問になる。
御者が馬に鞭を入れる。 タラタラと常歩で歩いていた馬が驚いて地を蹴った。

アマフウの行動が有難くも贅沢に腑に落ちない紫揺が上半身を正す。 決してアマフウに向けられたものではない。 吐かないため、腰を痛めないため。 それだけ。

ガタゴトと揺られる馬車の中で紫揺が考える。

もしかしてアマフウは一時も早くみんなと合流して・・・みんなではない、トウオウと合流、そして逢いたいのではないか。

あ、っと今更ながらに思う。 自分はどれだけアマフウとトウオウの時間を割いてしまっていたのだろうかと。

先に走る馬たちがどれだけの速度で走っているかは分からないが、どれだけ馬車が急いでも単体で走る馬には追い付けないであろう。

でも、それでも、時間が惜しかった。

結局、ムロイ達が昼飯を食べ終え、更に休憩を入れ、これから発とうという時に、ようやく馬車が着いた。

「ムラサキ様はごゆっくりと」 ムロイ達が発つ前の言葉だった。

追いつけなかった。 紫揺が唇を噛む。

女に案内され、家の中に入った。
ムロイ達の残り物ということなく、紫揺たち用の昼飯がちゃんと用意されていた。

自然な流れでアマフウが席に着く。 どこに座っていいか分からない紫揺は女に誘導され席に着く。

(どうしよう・・・)

お昼ご飯を食べてすぐに出発したら、馬車に揺られて昨日と同じことになる。 それは避けたい、でも休憩ばかり取っていては同じ結果になる。

(どうすればいいんだろう・・・)

紫揺が黙考する間にアマフウが箸を動かしている。

と、アマフウが箸を止めた。

「食べなさい」 

「へぇ?」 間の抜けた声を返す。

「食べなさい」 再度言う。

「あ・・・」

目の前に出されている料理が湯気を上げている。 レンジなどないであろうこの地。 でも、いま目の前にある料理から湯気が上がっているという事は、ムロイ達が立ち去った後に慌てて作り直したのだろう。
有難く箸を持ち、咀嚼を繰り返す。

白米に芋の煮物、根菜の汁ものからこの寒さを蹴散らす湯気が上がっている。 焼いた鶏肉は塩がよく効いている。

満遍なく全てに箸をつけた。 が、いつもなら残さず食べるところを、全てを少しづつ食べただけで箸を置いた。

箸を口に送りながら紫揺にアマフウが怪訝な視線を送ってきた。

紫揺がグッと全身を強張らせる。

「あの、アマフウさん」

呼びかけられたアマフウは素知らぬ顔で箸を口に送る。 その態度をガン無視して続ける。

「アマフウさんさえ良ければ、食後すぐに発ちたいんですけど」

「・・・」

アマフウからの返事はない。

「駄目ですか?」

挑戦的ではない。 心許なげに問うた。

「・・・」

問われても返事をせず、今も箸を動かしている。

「あの・・・?」

「食べないの?」

「あ・・・。 食べると吐いちゃうかもしれないので・・・」

「そう」

そう言いながら箸をすすめている。 紫揺の訴えを理解しているのだろうかと疑いたくなるほど、素知らぬ顔で食べている、

だがアマフウがどれだけ食べようと紫揺の言いたいこととは別だ。 それに昼飯はバカ程出されているわけではない。 完食しても普通の量だ。 決してアマフウが大食漢ではない。

「・・・あの」

紫揺からしてみれば、今すぐにでも発ちたい。 なのにアマフウが悠然と昼飯を食べている。 早く食べ終って欲しい、それを伝えたいのに上手い言葉が見つからない。

「なに」

「・・・何でもありません」

アマフウが食べ終わると女が食器を下げに来た。

「残してごめんなさい」

立ち上がる際、女に言うと同時に頭を下げた。 もれなく女が目を見開いた。 今までなら 『またか』 と思っただろうが、今はそんなことはどうでもいい。

母の作る食事はいつも残さずちゃんと食べていた。

『紫揺ちゃん、作ってくれた人のことを思おうね。 他所でご飯を残しちゃダメよ。 お茶もお水もね』 母の言葉が頭の中でグワンと響く。

(お母さん、ごめんなさい)

有難くも紫揺の進言を聞いてくれたのか、アマフウが食べ終えるとすぐに馬車に乗った。 呼ばれた御者は大慌てで二人を荷台に乗せ、自分も御者台に座った。

スッカリ御者のことは頭になかった。 御者も休憩を入れたかったろうにと、自分を荷台に乗せてくれる時に 「無理を言ってすみません」 とペコリとお辞儀をした。 が、下を向いていた御者には紫揺が頭を下げた所など目に映っていない。 下げていた頭を更に下げるだけだった。

その御者が目を見開き、頭を下げながら思った。

(この方が、出ると言われたのか・・・それをアマフウ様が聞かれた・・・)

御者が紫揺に対しての疑問、ムラサキ様とはいったい誰なのだろう、それを更に印象付けた。

馬車に揺られる中、紫揺が口を一文字に結んでいる。 小窓を開ける仕草さえない。
アマフウはいつも通りに、組んだ足に頬杖をついている。
御者が荷台に乗る二人を気にかけ、何度も振り返っていた。


ガタゴトと揺られながら、ようやっと次の場所に着いた時にはムロイ達は夕飯を食べ終えていたらしく、食事の席は終わっていた

それに無事、吐くことなくこの場にいる紫揺。

もうとうに、ムロイと五色に一色たりない四色はそれぞれの家で寝入っているようだ。

あらたに作られた夕飯は紫揺とアマフウの二人分であった。

昼飯を十分に食べなかっただけあって、腹がグゥーと食を催促する。
馬車に座っているだけなのに、どうしてこんなに胃の訴えがあるのかと、自分の胃の根性の無さに思わず拳骨で胃を押さえた。

簡単に夕飯を済ませ、家を案内されて今ポツネンと一人居る。

根性なしの胃は、あれだけ訴えを起こしておきながら、いざ食べ始めるとすぐに音を上げるという二重塗に仕上げた根性なしだった。 よって、簡単にしか夕飯を食べることが出来ななかった。 またしても女に 「残してすみません」 と頭を下げて、驚かれてしまった。

ハァーっと、肺の中にあった息を全て吐き出すように、囲炉裏の横で猫の背の形からうつ伏せになった。

囲炉裏から離れた所には魅惑的な布団が敷かれている。 あの布団に今すぐ入って寝たい。 横目でチラッと見る。 でも入ったが最後、狼たちを待つ時間に起き上がることも出来ず、そのまま寝てしまいそうだ。 布団を視界から外した。

「まだ、外に出たら怪しまれる・・・」

まだ女たちが片付けをしているだろう。

座りっぱなしで馬車に揺られていただけなのに、どうして疲れているのだろうか。

「体力無さすぎ・・・」

高校を卒業してからのことを考える。 高校時代は体力があった。 その体力を維持し続けたわけではない。 それでも少々のブランクがあっても筋力も体力も簡単になくならない筈。 あれ程鍛えていたのだから。 それなのに、どうして。

父と母の顔が、笑顔が思い出される。

「お父さん・・・お母さん・・・」

僅かな水気がジワリと瞑った瞼の下を湿らせる。 これ以上瞼の下を湿らすことはしたくない。 先を思い出す。 ・・・思い返す。

両親を亡くして二か月経った頃に偶然見つけたシノ機械に就職をした。 それから一年半くらいして、会社のお使いに出た帰りに思いがけないことに遭遇してしまった。

それは誘拐と言っていいのではないか、と思うが余りにも優遇されていた。

それに自分を誘拐して何の得もない筈。 なのにどうして。 それに、この領土に来てほしいと知らないお婆さんが言う。 ムロイは自分のお婆様が来るはずだったと言う。 おまけでアマフウ達が言う所の自分の持つ力への自覚。

ワカラナイ。

頭が混乱する。 整理がつかない。 でも、言えることがある。 思えることがある。 それが自分の筋だ。 目の前にあることに沿うて行く、反していく。 自分が選んだことに歩んでいく。 おまけのことは沿いようにも意味が分からないのだから、これは置いておこう。

自分は誰に惑わされることなく、自分が信じた道を行く。 誰に何と言われようとも曲げることなどしない。

それにはまず原点に戻る。 父と母と暮らした家に戻るということ。 父と母と飲んだ玄米茶を飲んで父と母に話しかける。

父と母に話しかけたい。 でも、父と母の遺影に話しかけることしか出来ない。 それが現実。

そしてそんな事態を生んだのは・・・自分。

とうとう瞼の下を湿り気どころか涙が溢れだした。

父の同僚の佐川にも、特に警察の坂谷にも自分のせいではないと言われた。 でもそれは・・・慰め。 自分に責を負わせぬ為の・・・子供扱いした大人の言葉。 ・・・当時はそう思っていた。 だから佐川にも坂谷にも感謝はしている。 大人の言葉がなければ、あの時、自分は立つことさえ出来なかっただろう。 今思うに感謝している。

でも今は違う。 大人の言葉を大人の言葉と理解してしまった。 それは父と母に対する直線的なことではない。 屈曲して自分に降りかかってきている。

今の状態は自分のせいではないと思っている。 それは間違いない筈。 どこかで勝手に何かが動いている。 それに巻き込まれた。 自分に何の非もない筈。 あのまま会社に勤めていれば、安逸に暮らせたはず・・・。

じゃない。 全然、そうじゃない。 安逸? 有り得ない。 いつも父と母のことを思っていた。 自分を責めていた。

坂谷と佐川の言葉を受けてはいたが、心に響かせていなかった。 ・・・それは知っていた。 知っていて響かせているつもりだった。 あの時から。

「逃げてただけなんだ・・・」

今更ながらに思う。 心のどこかで分かっていたことを。

喉の奥が熱くなった、その時、戸の外で声がした。
「ムラサキ様」 と。

紫揺がうつ伏せの状態から顔を上げた。 突然のシーンの切り替えに瞼を上げると同時に次に瞼へ流れようとしていた水気が引いた。

勝手に口が開く。

「はい?」

紫揺の返事に安堵したように、声の主が続ける。

「風呂のご案内をいたします」

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