大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第90回

2019年10月28日 21時42分45秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第90回



身を低くして人里から離れると山の中を走る。 山に入ると今度は先程より近くでキョウゲンの声がする。

「チッ、開いたところがないねぇ」

木々が空を覆っていてキョウゲンの下に姿を出せない。

「二手に分かれるよ」

言うと違う方向に足を向けた。
頷いたハクロ。 二匹が各々に走る。

シグロがいくらも走らないうちに、陽の光が射すところを見つけた。

「ここらでは、あそこしかないかね・・・」

幾つもの岩を跳び越える。 時々陽の光が背中にあたるのを感じる。
その一瞬を見逃さなかったのはキョウゲン。

「居りました」

言うとシグロの走る方向に翼を乗せる。

「・・・あそこに姿を出そうとしているのか」

シグロの姿は見えないが、キョウゲンの飛ぶ方向からしてその場所が分かったようだ。 木々がなく開けた場所がある。

「そのようです。 一度下りられますか?」

「ふむ・・・そうだな」

「では」

スピードを上げて木々のないところまで飛ぶ。 そして地をめがけて滑空すると、マツリが跳び下りた。 キョウゲンは一つ大きく縦に回ってマツリの肩にとまった。
あと大きな岩五つ分迄やってきたシグロがマツリの姿を見止めた。

「さすがはキョウゲンだね、既にアタシを見つけたのか・・・」

岩五つを難なく跳び越えマツリの前に出た。

「話は聞いた。 セノギのことはさておいて、領主の様子はどうだ」

「かなり良くないと民が話しているのを聞きました」

現段階シグロには民からのほんの少しの情報しかない。 夜にでもなれば忍んで詳しく話声を聞くことが出来るが。

「生死にかかわるという事か」

「民には詳しいことは分かりますまい。 その様なことは聞きませんでした。 ですが中心まで連れて行くことすら出来ないようで、今まだ医者も来ていない状況です。 が、数刻前に薬師がやってまいりました」

「・・・そうか」

「山の中を馬で歩かせていたようです」

マヌケ三匹がそう言っていた。

「そういうことか・・・」

本領に向かっていたという事か。

「馬が倒れて置き去りにされておりましたので、落馬をしたものと思われます」

頬に手を当て何度も擦る仕草を見せる。

「マツリ様?」

初めて見るマツリの仕草に何事かと、シグロがマツリの名を呼んだ。

「あ? ああ、そうか。 うむ、承知した。 セノギのことだが、セノギの言伝は聞いた。 セノギが何故そのような言伝をいったのやら・・・。 何か他に聞いておるか」

「いいえ」

「セノギはどこに行った」

「申し訳ありません、領主の後を追っていただけで、まだ茶の狼たちに何も聞いておりません」

「そうか。 何か分かったらすぐに知らせてくれ。 領主の具合を見に行く、案内を頼む」

キョウゲンがマツリの肩から飛びあがった。

この間にハクロを呼ぼうと口を開けかけて止めた。

『ハクロのやつ・・・今度会ったら問答無用に叩きのめしてやる!』 それがいつ叶うかは分からない。 叩きのめすわけではないがもう少し走らせておこう。 そしてそれで勘弁してやろう。

ハクロにしてみれば何もしていないのにいい迷惑である。 だがシグロにしてみればその何もしていないことに腹を立てている。

麓まで走ることはキョウゲンも知っている。 その先の案内が必要なのだから。 マツリがキョウゲンに乗るより先に地を蹴り上げた。
シグロは先程走って来た道を逆走する。 今は山の中、人間の姿は見えない。 だが、麓に下りると人間の世界に出る。

麓近くまで出ると既にキョウゲンは上空を旋回していた。
麓に目をやるとこの辺りの民は皆、わけの分からない状態の領主の元に集まっているのだろう。 人っ子一人見つからない。

シグロがどの辺りまで案内するか・・・。 己の姿を見られては困る。 それにマツリはどうやって近づこうとしているのか。

「マツリ様はどう考えておられるのか・・・」 

目のまだまだ先に何棟もの茅葺き屋根が見える。 シグロが足を止め、身体を茅葺屋根の方に向け、物陰で伏せの体勢を取る。 これ以上は近づけないという事だ。

「あの辺りか?」

いくつもの点在する茅葺屋根が見える。

「あそこか?」

マツリの向けた視線の中に民が群れかえっている家がある。

「そのようです。 ですが民が居ります。 どういたしましょう」

「そうだな・・・。 ふむ、構わん行ってくれ」

「御意」

(あのままで行かれるおつもりか・・・)

呆気にとられるが、祭の時にはその姿を現している。 その時に一部の民はマツリの姿を見て、その姿を知らないわけではない。 とは言っても、祭の時以外にもキョウゲンに乗って北の領土を見回り飛び回ってはいるが、まず上を向くものはそうそう居ない。 上を向いてみたとして、大きな姿の梟、キョウゲンが見えるくらいである。 キョウゲンの背に乗ったマツリの姿など、ハッキリ見ることはないのだから。 ましてやキョウゲンから跳び下りるところなど見たことが無いだろう。

点在する茅葺屋根の一つに目を絞ったシグロ。

「・・・そろそろ疲れたかねえ」

ゆっくり歩きだすと山の中に入りハクロを呼んだ。


「ヒィ・・・」

一人の男が声にならない声を発した。

その声を訝しく思った他の民達が、その視線の先に目をやる。 誰もの目が大きく見開かれた。 風が起きたと思ったらマツリが空から降って来た。 そして先程までの巨鳥がクルリと一回転すると小さくなってマツリの肩に乗ったのだから。

「マ・・・マツリ、様?」

ざわめきが起きる。
今のキョウゲンを見ればマツリ以外いないであろう。

「領主の具合はどうだ」

「は・・・はい、それが・・・わしらには何も分かりませんです」

「薬師が来たそうだな」

「は、はい、な、中に居ります」

家に張り付くようにしていた民が波を引くように戸口までの道を開けた。 一人がそっと戸を開ける。 民たちの戦(おのの)きなど意に介さず戸口まで歩く。 開けられた戸から中に入ると、そっと戸が閉められた。

布団に横にされた領主に寄り添うように薬師が居る。 手元では何かを水で溶いている。

「どんな具合だ」

薬師が驚いて振り返る。

「こ! これは、マツリ様!」

振り返ったのが、祭の折に顔を合わせた若い薬師と分かる。 マツリと同じ歳ほどの薬師。

「傷には薬を塗りまして血は止まっております。 分かるところだけですが、骨を折っている所には添え木をしました。 顔色から頭を打ったかも知れませんが、今のところ吐瀉(としゃ)は御座いません」

いつ吐瀉があってもいいように、顔を横に向けているのであろう。 チラリと視線を動かすと、領主が着ていた皮の服だろう、泥まみれになって置いてある。

領主に視線を戻すと右足と右肩に添え木がまかれている。 塗り薬は顔にも身体中のあちこちにも塗られている。 皮の服を着ていたといえど、顔や手先は服で隠されてはいない。 そこには切り傷が見えるが、あとは皮の服が切り傷からは守ってくれたようだが、打ち身の跡が見える。

「一度でも気は戻ったか?」

「私が来てからは一度もありません。 民からも同じことを聞いております」

言いながらその場をマツリに譲る。

マツリが掌をムロイの頭にかざした。

「打ったのは打ったが、軽いたんこぶ程度で終っているだろう。 あとでそこを見つけて冷やしてやれ」

「は、はい」

頭は撫でてまわったつもりでいたが、たんこぶに気付かなかった。

マツリの掌がそのままゆっくりと下におろされていく。

「鼻にも添え木を。 折っておる」

「鼻? 鼻でございますか?」

「見てみろ」

まじまじと見ると、本当だ。 僅かだが歪んでいる。 顔は酷く腫れていて薬を塗っていたが、まさか折っているとは思わなかった。

そのままゆっくりと掌を移動させる。 左右の腕と胴が終ると左右の足にも掌をかざした。

「ふむ、あとは喉がやられておるな。 それも軽いものだ。 後で見てやれ。 薬のことは分からぬが、腫れを引かすものを塗れば良いと思う。 五臓も、六腑も心配ない」

「では、どうして目覚められないのでしょうか」

「身体の痛みもあろうが、まずは疲れが溜まっているのだろう」

「は?」

思いもしない言葉に素っ頓狂な声を出す。

「悪運があるやもしれんな。 寝ていると思えばよい」 

身体の切り傷、打ち身からは想像できない程、内臓が元気である。 マツリの掌がそう判断した。

薬師から全身の力が抜けた。

薬師もそうだが、マツリも少々気が抜けたところがある。 己の発した言によってであろう、領主が倒れていたと聞いてきたのだから。 その責任を感じここまで来たのだから。
まぁ、骨を折らせてしまったことには重々責任を感じてはいるが。

「よい見立てをした・・・と我からは見える。 良い薬師になれるだろう。 不安であるならばこれからは熱は出るであろうが、熱を気にしながら中心に運ぶとよい。 医者も居よう。 それ以外はどこにも障はない」

少なからず、マツリはこの薬師を気に入った。

「は、はい」

踵を返したマツリ。

「ああ、そうだ」

と言って振り返る。

「頼まれてはくれんか」

「なんなりと」

「領主が目覚めたら伝えて欲しい。 待つ、と」

「待つ・・・それだけでよろしいのですか?」

「ああ、そうだ。 では頼んだ」

今度こそ踵を返して家を出た。

民の見る中、堂々とキョウゲンに乗り、暫く飛んでいるとシグロとハクロが姿を見せた。
低く飛んできたキョウゲンの背からマツリの声が飛んでくる。

「領主の心配はない。 戻って良い」

言い残すと再び空高く舞い上がった。



セノギの容態は芳(かんば)しいとは言えなかった。

確かに膝頭に打ち身の後はあるが、頭を打ったわけでもなければどこかを骨折をしているわけでもない。 膝の靭帯はかなり傷めてしまったようだが、それより何より意識が目覚めない。

医者曰く

「おかしいなぁ・・・。 どうして意識が戻らないんだ」

MRIやCTなどの検査でも異常は見られなかったし、体温は低くはあるが、他のバイタルも安定しているのに、この三日間ピクリとも動かない。

担当医は首を捻るが、そうだろう。 この地には無いものにあたったのだから。
ヒオオカミの居る深山の中に入ったという事は、時間差があるにしろ、ヒトウカもそこに足を運んでいたという事だ。

ヒトウカの作る冷えすぎる冷えにあたったのだから。 だからと言って単純に体温が奪われるだけではない。 ヒトウカの作る氷の上に立つとヒオオカミには力がみなぎる。 足元は氷ってはいなかったが、言ってみればヒトウカの作るその力の残滓にあたってしまったのだ。 ヒオオカミはヒトウカの力を己に取り込み力とするが、到底人間にそんなことが出来るはずはない。

「ふぅ・・・」

担当医が出て行った後に、特別室のソファーに座ったセッカが溜息をもらす。

特別室を指定したのはセッカである。 パイプ椅子なんかに座っていられない。 というのが一番の理由であった。

屋敷からスーツを着た男がやって来たが、その中にセッカを除く五色はいなかった。

「心配じゃないのかしら」

疑問符はつかない。

「それにしても、ショウワ様は何を考えていらっしゃるのかしら」

男がやって来た時、付き添いを代わってもらえると思ったのだが

「ショウワ様からのご伝言です。 領主のご婚約者として、このまま病院に居られるようにとのことです」

そう言って、ご丁寧にもセッカの着替えを手渡された。

セノギは領主の片腕である。 これからのことを考えて他の者に威厳を示せと言っているのだろうとは分かるが、チラッとセノギを見た。

「退屈この上ないわ・・・」

どこかが悪いのだったら心配もするが、医者が首を傾げる状態だ。 買い求めた雑誌をパラパラとめくった。 と、その時僅かにセノギの声が聞こえた気がした。 雑誌を横に置くとセノギの横に立った。

「セノギ?」

腰を折ってセノギの顔を見る。

「う・・・ぅ」

すぐにナースコールを押した。



やっとダンが屋敷に戻った。

「どうした?」

疲れ切ったようで、時折ふらついているようだ。
実は領主を受けとめた時に、身体にそれなりの衝撃を受けていた。 大の大人が転げ落ちてきたのだ。 それを受け止めたのだから。

「は・・・このような姿で申し訳ありません。 領主が山の中で馬と共に倒れ、そのまま昏倒してしまいました」

「なんと!」

「もう少し近くに居ればよかったのですが離れ過ぎておりました。 自力で馬から抜け出た後、斜面を転がって来たところを吾が受けましたが意識はありませんでした」

「それでどうした」

「馬車道まで運びまして、その後は領土の者が運ぶのを確認いたしました。 そこまででございます」

「では、領主の容態は分からんのか?」

「少なくとも意識なく手足の骨折と出血があちこちから見られましたが詳しいことは」

「そうか、お前もハンと共に休んでいろ」

「ハン? ハンがどうかしたのですか?」

「ヒトウカにあたって、未だ目が覚めん。 同じくヒトウカにあたったセノギは先程目覚めたと連絡があった」

「セノギも・・・。 ヒトウカにあたったとは、二人ともそんな深山の奥まで行ったという事でございますか?」

「お前を見ている限りはムロイはそこまで行かなかったようだな」

「はい」

「とにかく休め。 苦労であった。 ムロイのことは他の者に見に行かす故、心配することはない」

「・・・御意」

「ゼン」

「此処に」

ゼンが現れたのを見るとダンの人型が揺らぎ、ドロリとその場からなくなった。

「疲れは取れたか?」

「これしきで疲れたなどと」

セノギを此処まで運び、その後はハンも運んできた。 だが、先程のダンと違って洞窟までは馬で運んでいる。 ダンとの疲れの差は雲泥の差である。

「今、ハンを見ているのは?」

「カミでございます」

「ではケミを連れてムロイの元に行ってくれ。 ケミ」

「ここに」

ゼンの横に影が人型をとる。

「頼んだぞ」

「御意」「仰せのままに」 二人が言うとその影がドロリと消えた。

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虚空の辰刻(とき)  第89回

2019年10月25日 22時23分09秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第89回



数日前の事。
ホテルの一室に集まっていた東の領土の者達。

「阿秀(あしゅう)!」

全員がその名を呼ぶ。 次の指示をくれという事だ。

紫揺が北の領土に行く前、怪しい島があると聞いていたが、その後すぐに紫揺が北の領土に入った。 それを聞いた全員が肩を落とし島に探りを入れることをしなかった。 いや、しなかったという言葉ではない。 呆然とした。 そして何もかもを諦めた。

「止まった時間を動かす。 若冲(じゃくちゅう)、湖彩(こさい)、一番にあの島をあらってくれ。 他の者はあのリストに従って走ってくれ」

全員が頷きすぐに部屋を出て行った。

そしてその夜。

「阿秀、すみませんでした」

阿秀の部屋を訪ねた醍十が腰を折ると、醍十の身体にすっぽり隠れていた野夜が見える。

「もういいのか?」

「此処に来るまでに野夜に説教されました」

(俺の話は説教かよ!) 口を曲げたが、特に何も言わなかった。

「で?」

「何を言いたいのかは分かりませんでしたが、とにかく紫さまをお探しすることが出来ると」

野夜がアングリと口を開いた。 あれ程話したのに、何を言いたいか分からなかった? 今ここで背中に蹴りを入れたい心境を抑える。

「そうか。 野夜、ご苦労だった」 醍十の後ろに声を掛ける。

スッと醍十の後ろから横に出た野夜。

「もう、お探しに出ているんですね?」

「ああ」

「独唱様は何と?」

「紫さまのお力がもう少し強く長く続けばピンポイントでお分かりになるようだが、まだ少々お力が弱いという事だ。 先日も僅かなお力が出られたそうだが、場所を特定されるに至らなかったそうだ」

「そうですか・・・」

「塔弥が独唱様のお身体を案じている」

「ご無理をされているという事・・・」

「ああ」

「で? 俺はどうすればいいんです?」

阿秀と野夜の会話に土足で踏み込んでくる・・・ではない、靴を履いていることすらも自覚のない醍十が訊く。

阿秀と野夜が目を合わせ、尚且つ、互いに口角を上げる。

「醍十は此之葉付きに戻る様に。 梁湶(りょうせん)の身のあるうちに代わってくれ」

「は?」

醍十が言ったが、その背中を叩く野夜。

「前にも言っただろ。 此之葉付きはお前にしか出来ん。 梁湶を解放してやれ」

「野夜は湖彩たちの応援に行ってくれ。 万が一のことがあってはならん。 船を出せるようにこちらで手配をする。 こまめに連絡をしてくれ」

また紫揺が北の領土の入ってしまうことが何よりも危惧される。

「分かりました」



シグロに言われ茶のオオカミ達がハクロ目指して本領に入った。 そしてしかと門番に止められた。

「ハクロを呼んでもらえるだけでいい」

そう先頭に立っていた茶のオオカミが言うが「先程、狼は帰った」と門番に言われた。
門番は狼を恐れることは無いが言葉は解せない。 一方的に言うだけだ。
三匹に本領での力はない。 勿論、ハクロもシグロもだが。 だがそれ以上に茶のオオカミには力がない。

「北の領土の狼に本領をうろつかれては困る。 すぐに北に帰れ」

予定に無かったことを門番に言われる。 だがおめおめと帰るわけにはいかない。

門番から宮中にその話が伝わった。

「北の狼が来ているらしいぞ」

「またマツリ様に会おうとしているのか? それともリツソ様か?」

「どちらかは知れんが、北は北で解決すればいいことを・・・」

宮の庭でそんな会話が交わされた。

その会話がリツソと共に廚に向かっていたマツリの耳に入った。 先を歩いていたマツリの足がピタリと止まる。 後ろを歩いていたリツソがぶつかりかけた。

「兄上! 急に止まらないでください!」

リツソが言った途端「先に廚に行け」と一言残して目の前からマツリが居なくなった。

「ハレ? 兄上?」

目を丸くして残像の残らない、さっきまで居たマツリの場所を見る。
マツリは既に回廊を下り庭を走っていた。


「通せ」

一言門番に言う。

「マ、マツリ様!」

内門番が言う。 だが、茶のオオカミ達を止めているのは門の外側の外門番だ。

「オオカミが来ておるのだろう」

「は、はい。 ですがいつものオオカミと違うようで」

「構わん。 門を開けろ」

静かに言われるが厳しい。

「はっ! すぐに!」

高見台に座っている門番に視線を送ると横木の閂を滑らす。

視線を送られた高見台に座っていた門番が外門番に「門が開く」と告げる。 外門番が驚いて高見台を見たが、誰かが中から出てくるのかもしれないのかと頷き「そこをどけ」とオオカミを一瞥しながら言うと身を翻した。

高見台に座る門番が横木が抜かれたのを見ると「開けよ」ともう一度大きな声で言った。 内側から門を押し、外側から門を引く。 ゆっくりと開かれる大きな木の門。 茶のオオカミ達が開くはずのない門に驚いた顔をしているが、それより門の向こうにマツリが居たことに驚きを隠せない。

「マ・・・マツリ様・・・」

「ハクロは帰った。 何用か?」

「は・・・」

茶のオオカミ達は直接マツリと話したことなどない。 緊張が走る。

「り・・・領主が、血まみれで倒れていたということ、そして深山に入ってきたセノギからマツリ様へのご伝言が」

「セノギから?」

セノギを知らないわけではない。 祭に行くといつも北の領主に付いている者と認識している。北の領主のムロイの右腕と。 眉を顰める。

「ムラサキ様を今すぐお連れすることは出来ませんが、もう少し時が欲しいと、そう申しておりました。 それをハクロに伝えるようシグロから言いつかりました」

たとえ緊張しているといえど、マヌケ三匹ならこうはいかなかっただろう。

「領主は何処で見つかった」

「馬車道です」

「そうか。 で、お前は今セノギがそう申していたと言ったな」

「はい」

「では、そのセノギの言をお前が聞いたのだな」

「はい」

「何故セノギがそんなことを言った」

「申し訳ありません。 己が走ったのは、偶然セノギの姿を見た一匹がシグロに報告し、シグロから言いつかった己が走りました。 ですがその時には既にセノギが深山まで入っておりました。 何故深山まで入りそんなことを言ったのかは分かりかねます」

「深山まで・・・そうか。 では、その後セノギはどうした」

「再々、申し訳ありません。 己一匹でありましたのでマツリ様へのご伝言と聞いて、すぐにシグロの元に走りました」

「お前一匹? シグロはそんなことをしないはずだが」

「然に―――」

次に、狼員不足だったと言いかけたが、マツリの言が聞こえその口を閉じた。

「ふむ・・・」

茶のオオカミの言いたいことは分かった。 その時、他に狼が居なかったという事かと。
現に今後ろに控えている二匹は一言も発していない。 シグロに報告した後、此処、本領に来るだけについて来た二匹だろう。

シグロはそうだ。 可能な限り常に三匹で行動させる。 何かあった時には一匹を残して二匹が報告に走る。 残った一匹はその後の動向を見る。 そして走った二匹がシグロの元に帰るまでに何かあれば一匹がその場に残る。 そして最後の一匹がシグロの元に走る。 シグロのやり方だ。

セノギにどういう考えがあったのか。 それに北の領主ムロイが血まみれで馬車道に倒れていたという。

セノギとムロイが二人で来ていたが、途中でムロイが怪我をしたのか、それとも二人で麓まで来た時に何某かがあったのか、それとも二人が別行動だったのか、それが全く分からない。
だがそれはマツリの範疇ではない。 マツリには結果が必要なだけである。

「その話ハクロはシグロから既に聞いておろう。 お前たちは北に戻るがいい。 そして我にこの話をしたとシグロに伝えよ」

茶のオオカミが頭を垂れるとすぐに踵を返した。

「門番、邪魔をした」

そう言い残すとすぐに廚に走ったが、まだリツソは来ていなかった。

「マツリ様」

マツリの動きを邪魔するまいと、木に止まっていたキョウゲンがマツリの肩に乗った。

「なんだ」

前を見据えている。

「お足元が」

言われ足元を見ると何も履かず飛び出したが為、足袋が汚れていた。 汚れているのならば履き替えればいいが、このまま廚に入っていくと水も沁みてくるだろう。 マツリが顔を歪めた。 そしてやっとキョロキョロとしながら回廊を歩くリツソの姿が目に入った。



ハクロとシグロが領主が運ばれる後を追っていた。
茶のオオカミを走らせたあと、暫くするとハクロがやって来た。 完全にすれ違ったようだ。

「あの様子じゃ、中心には帰られないね」

「そうだな」

チラリとシグロがハクロを見た。 それに気付いたハクロ。

「なんだ?」

「いや、別に」

『ハクロのやつ・・・今度会ったら問答無用に叩きのめしてやる!』それがお預けかと見ただけだった。

「どれ程の怪我かは分かっているのか?」 今更だが訊く。

「山の中を馬に歩かせていたみたいだ」

問うハクロへの直接的な答えではないが、次に続くのだろうと耳を寄せる。

「山の中を?」

「ああ」

「有り得んだろう」

山の中は足場が悪い。 野生の動物ならまだしも、家畜となった馬にはまともに歩くことさえ出来ないはずだし、野生の馬であっても歩けないはずだ。

「それを領主がしている・・・と、マヌケ三匹が報告してきた」

「マヌケ?」

「ああ。 あの三匹のことは知らんだろうがな」

「なんのことだ?」

「これからは、アンタも身をもってアイツ等のことが分かるさ。 で、アタシが人間たちから聞いた限りではかなり悪いらしい」

「・・・中心まで連れて行かねば医者が居らん。 だが中心まで行けそうにない、という事か?」

「ああ、医者は馬を早駆けなどさせられんからな。 薬師に頼るしかないだろうね」

「薬師か・・・」

「薬師も捨てたものではない。 薬の判断は医者以上だろう。 内臓がやられていれば薬師が何なりとするだろうさ。 それに出来た薬師なら骨折をしていれば多少なりとも添え木も出来るだろうが・・・まぁ、元の真っ直ぐにといくかどうかは分からんがな。 だが、それも想像だ。 領主の子細な具合は分からん。 アンタがこの領土に戻って来るちょっと前にアタシも領主の状態を知ったんだからね」

「領主には現段階で跡取りが居らん」

「ああ」

「ここで万が一があっては困る」

民がうろたえるという事を言っている。

「そうだな。 だがそれはアタシらの知ることじゃない」

シグロの言うことは尤もだ。 だが、考えずにはいられないし、きっとシグロも口には出さないが同じことを考えていたはず。 でなければ領主の後など追わない筈だ。

「マツリ様はご存知か?」

「まさかアンタが領土に帰って来るとは思わなかったからね。 アンタの元に三匹走らせた」

「さっきお前の言ったその三匹か?」

シグロがハクロを睨みつける。

「アイツ等を走らせられるかっ!」


どれだけの時が経ったのか、人間から姿を隠すように二匹がずっと身を伏せている。 目の先の茅葺屋根の家では入れ代わり立ち代わり民が出入りをしている。
そこへ馬を走らせてきた者がいた。 馬には沢山の荷を積んでいるのが見える。

「やっと来たようだね」

「若い薬師だな」

「そうだね。 まぁ、年寄ではあんなに馬を走らせられないだろうね。 後から年寄が来るんじゃないかね?」

若い薬師が馬から跳び下りすぐに茅葺屋根の中に入った。 そこに居た民が荷を解き下ろしている。

「へぇー・・・」

「なんだ?」

「ああ、いや。 なんでもない」

実はさっきから感心していたことがあった。 領主のことを心配するように、この領土の民が身の置き場がなさげに家を出入りしていたからだ。
民は領主の土で汚れた顔や身体を拭き、血を清潔な布で拭き取る。 それくらいしか出来ない。 その先どうしていいのか分からなかったからだ。

そしてやっと現れた薬師。 少しでも手を貸そうと薬師の荷を下ろしている姿。

「領主も・・・」

「領主がどうした?」

「・・・いや」

捨てたものではないという事か、とは言えなかった。


遥か遠くにキョウゲンの声がした。

「マツリ様だ!」

二匹が上空を見たが、何処にもキョウゲンの姿が見えない。 最初に動いたのはシグロ、続いてハクロも身を動かす。 すぐには走り出せない。 そっとそっと、人間に見つからないよう、身を低くして動く。

茶のオオカミ達であったらここまで近づけないだろう。 否、マヌケ三匹なら近づいたかもしれない。

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虚空の辰刻(とき)  第88回

2019年10月21日 21時10分43秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第88回



「シユラが、シユラが、元の場所に帰ることが出来るかもしれないと?」

「その様だな」

リツソには簡単に答えたが、これはどういう事だろうと考える。

「我に、お友達を作ってねって、そしてお勉強頑張ってねって?」

「ああ」

グスンと垂れてきた鼻水を右手で拭う。

「シユラが、シユラが・・・」

目には大きな雨粒のようなものが溜まっていく。 それが堰を切った。 ボロボロと頬に次から次と雨が流れる。
リツソが耐え切れなくなった。

「ヴワァーーーン!!」

顔を天井に向け口を大きく開けると大声で泣いた。 目からは洪水がおきたように雨が限りなく流れている。

「こ、これ、リツソ」

マツリからリツソが紫揺に恋心を持っていると聞かされてはいたが、これほどに収拾がつかなくなるとは思っていなかった。

「こ、これ。 泣き止め。 そ、その者のことは、北の領土で探しているようだからして・・・」

「ヴワァーン、ヴワァーン」

「リツソ、だからして安心して・・・」

襖の外から声がする。

「マツリ様にございます」

リツソの泣き声で懐から出てきていたカルネラ。 どうしてリツソが泣いているのかと首を傾げている。

「おお、そうか。 通せ」

リツソのこれに初めて一人で対峙した四方がどうしたものかと手をこまねいていた時だった。 願ったり叶ったりである。 

「父上」

マツリが四方を見ると軽く会釈しリツソを見た。 リツソをキョウゲンに預けたマツリが回廊を悠々と歩き、四方の部屋にやって来たのだ。

「悪いが、頼めるか」

リツソに移した目先を再度四方に移して頷く。

「リツソ、まずは口を塞げ」

言っても聞く耳を持たない。 いや、ただ泣いているだけ。
うるさい。

「カルネラ!」

カルネラの全身が総毛だって耳と尾が引っ張り上げられる。

「リツソの口を塞げ」

キョトンとするカルネラ。

「口だ、リツソの口を塞げ」

マツリが己の口を指さして一文字にした。
ようやく通じたのか、肩から移動して頭の上に乗る。 そして後ろ脚でリツソの髪を掴むと前足だけで顔を下りていく。

リスが木を下りていくように、リツソの顔の中心にカルネラの身体が伸びる。 リツソの唇を小さな手で持つ。 右手に上唇、左手に下唇。 それを合わせるように引っ張る。

「ヴワァ―――・・・ヴュヘ、ヴフ・・・」

完全に口は塞げていないが、大口ではなくなった。

「リツソ!!」

マツリが雷のような声を出した。

リツソの声が止まる。 それ以上に、カルネラが固まった。 持っていたリツソの唇を掴んだまま。

「フヘ・・・あにゃふへ」

中途半端に開いてる口から『兄上』と聞こえる。

「お前は今、父上と話をしているのであろうが。 それなのにその失態は何たるものかっ!」

「フヘ・・・へも」 『でも』と言いたかったが言えなかった。

「カルネラ、手を離してよい」

カルネラはガタガタと震えているだけで動く様子がない。

「手を離せ!」

ピー、と鳴いたかと思うと、唇から手を離し、リツソの鼻汁でいっぱいの鼻にしがみ付いた。
リツソの唇が定位置に戻った。 そのリツソがヒックヒックとまだしゃくり上げている。 カルネ
ラの身体はまだリツソの顔の中心に伸びている。

「・・・カルネラ」

マツリが眉を寄せる。

客観的に見ればかなり笑える状態。

「ピィ!」

静かな深いマツリの声に、なおもリツソの鼻にしがみつく。

「・・・リツソの顔から離れよ」

眉間に皺が寄っている。
言ってもカルネラはリツソの鼻にしがみ付いているだけだ。

仕方なく震えるカルネラをマツリがつまみ上げリツソの肩に乗せた。 鼻汁まみれのカルネラがリツソの肩から懐に入った。

「リツソ、きちんと父上と話せ。 父上の質問にしかと答えよ」

「・・・はい」

グスンと鼻水を啜った。

さすがにこんな場面で四方が「では」とは登場しにくい。

「マツリ、お前から訊いてくれ」

マツリに預ける。

「はい」

頷くとリツソに問う。

「お前が知っているあの者のことを父上にお話せよ」

「え? シユラの事?」

思いもしなかった事に、しゃくり上げが止まった。

「そうだ」

「うん・・・と」

シユラとの会話を思い起こす。

「シ・・・シユラはお友達を大切に思ってた。 財産だって言ってた、色んなことを教えてくれるって言ってた。 それに色んなことを経験できるって。 だから我にもお友達を作って一杯学んでほしいって。 お友達はゴメンって謝ることを教えてくれるって言ってた。 ・・・それに・・・ガッコウって言ってた。 ガッコウに言ってお友達と遊びなさいって。 だから毎日シユラの所に来たら駄目だって。 それとお勉強も大切だって。 カルネラのことも気に入ってました。 キョウゲンよりもずっと可愛いって」

最後の言葉に途端、マツリの口元が歪んだが、肩にとまっているキョウゲンは素知らぬ顔だ。

かいつまんで話したが、紫揺の細かい台詞を正確に全部覚えているようだ。

「ほぅ・・・そのシユラという者はそんなことを言っておったのか?」

思わず四方が言が、相変わらず聞き慣れない方言が混じっているようだ。 だが何を言おうとしているのかは分かる。

マツリにおいては苦々しい顔を作っている。

「リツソのことをよくわかっておったのだな」

「え? そうなのですか? 我のことをシユラが分かってくれていたのですか?」

「ああ」

大きく頷くとリツソの頭を撫でた。

「その者が気に入ったカルネラを大事にしろ。 お前の供はカルネラだ。 その者の言うお友達と同じだ。 それに・・・その者に言われておったから、勉学に励んでおったのだな?」

「はい」

「では引き続き勉学に励みなさい」

「でも、シユラはもう居ません」

「その者の後は北が追ってい―――」

四方がリツソにそう答えかけた時、マツリが言葉を挟んだ。

「父上」

「・・・」

リツソに対しての返事を誤ったようだ。 後はマツリに任せる方が良いであろうと口を噤んだ。

「リツソ、お前はその者が居なくては何も出来ないのか、その者が居なければ、言ったことに応えなくていいのか、その者がリツソに言ったことは、居なくなったことでなくなるのか」

「そんなことはありません!」

「では、我にそれを証明しろ」

「あ、兄上に?」

「父上はあの者の姿をご覧になったことがない。 まぁ、そんなことは関係ないが、少なくとも我はあの者を見ておる。 話してもお―――」

最後まで聞かず、リツソが叫んだ。

「何を! シユラは我のもの! 兄上に何を言われることはありません!」

「では、その者から言われたことをやり通せ」

「あ! 当たり前です!」

そこへリツソが帰ってきたことを聞いた澪引(みおひ)が飛んで入って来るとすぐにリツソを抱きしめ、リツソ、リツソと何度も呼んだ。

「母上ご心配をお掛けしました。 母上? ちゃんとお薬は飲まれましたか?」

「あ・・・」 声を漏らしたのは四方だ。

自分の薬のことなどどうでもいい。 澪引はリツソの腹の心配をした。

「お腹が空いたでしょう、今すぐ―――」

「お腹は空いてございません」

「え?」

「廚(くりや)で毎日食べておりました」

「ま、まぁ・・・」

口に手を当てた澪引が四方に目を送ると、四方が頭を抱えていた。 つい先ほど、側付きから聞かされた話があった。

『厨での話を小耳にはさんだのですが、ここのところ作ったものが幾つか無くなっているらしいのです。 もしや、この宮に賊などが入っているのでは・・・』

賊対策を考えねばと思っていた矢先に、その賊が目の前に居るとは頭も抱えたくなる。

そしてマツリにおいては目を吊り上がらせて

「この! 大馬鹿者がー!」 と、叫んだ。

廚人からこの数日作ったものが無くなっている、と聞かされていた。 悪気はないのだが、遠回しにハクロではないかと言われていた。 姿を隠していたと言えど、ハクロが居ることは宮の者は知っていた。 そのハクロが何日も食べないのは可笑しいと思われていた。

北に居る時にはハクロたち狼はヒトウカから力をもらう。 たまに野鼠などを捕ることはあっても必要以上に口から物を入れない。 ハクロはヒトウカからの力を温存していた。 マツリは知っていても宮の者はそれを知らない。

「父上、少々時を頂いてもよろしいでしょうか?」

「なんとする」

「廚に連れて行き謝らせます」

「そんな・・・。 それはわたくしから廚に・・・」

澪引が可愛いリツソをまだ両の腕に抱きながら言う。

「母上、リツソには己(おの)が責をしかと取らせます。 父上、宜しいでしょうか?」

「然に」

マツリに答えると次にリツソを見た。

「その者が言っておった『ごめん』を言えるか?」

ついさっき、リツソが紫揺の話をしたことを言っている。

「あ・・・」

「『ごめん』を言う大切さを教えてくれたのだろう?」

「はい!」

四方へのリツソの返事を聞き、マツリがリツソに背を向け言った。

「廚に行くぞ」

「はい!」

元気に返事をするリツソを背に、どこかで納得できないものを感じた。

「マツリ様?」

マツリの肩に乗っているキョウゲンがマツリの顔を覗き込む。

「ああ、何でもない」


マツリとリツソを見送った四方夫妻。

「心配せずともよい。 これでリツソも少しは変わるだろう」

そうなってもらわねば困る。

「薬は飲んだか?」

我が奥を覗き込む。

「・・・あ」

口に手を当てる。

「リツソのことが心配なれば、其方は薬を飲まねば・・・」

言うとパンパンと手を叩いて「薬を持て」少し大きな声で言うと、襖の向こうから女の声で 「ただいま!」という返事が聞こえた。

「ところで波葉(なみは)とのことなのだがなぁ」

我が奥に椅子を引いて座るよう促す。

「はい」

願ってもいない話だ、引かれた椅子に腰かける。


廚に行く途中、回廊下に伏しているハクロを呼んだ。 マツリから呼ばれ回廊下からハクロが躍り出た。

「リツソのことは終わった。 リツソが世話になった」

「とんでもございません」

「お前は人間ではない。 俺に気を使う必要などない」

「・・・」

頭を垂れるしか出来ない。 こんな時、シグロならどう返事をするのだろうか。

「北の領土に戻ってくれ。 シグロが手をこまねいているだろう」

シキとマツリを見た狼が飛び跳ねたのを目にしている。

「御意」

厨での濡れ衣は晴らされて・・・ハクロはそんなことを知らないが、何よりもリツソから無罪放免となった。 北の領土に向かって走る。


丁度その時、シグロは走っていた。
『ハクロのやつ・・・今度会ったら問答無用に叩きのめしてやる!』
と、グデングデンと回廊下で呑気にしているハクロの姿が浮かんではいたが、今は状況が違ってしまっていた。

直前に、あの間抜け三匹から領主が山の中で馬を歩かせているということを聞いた。

「山の中で馬を歩かせている?」

あり得ない話だ。
深山迄は入ってはいないようだが聞いた場所は足元の悪い場所。 あの難しい山の中に馬を歩かせるなど。

「はい」

「間違いないのか!」

「我らは、小さな失敗をします。 ですが、見たものを見間違えることはありません」

さもどうだ、と言わんばかりにスンと三匹が顎を上げる。

シグロが心の中で歎息を吐いた。 どこが小さな失敗だ、と。 だが、そういう者こそ見たままを伝えられることもある。

「それでどうした?」

「どうした・・・と言われましても」

「ハッ!?」

「見たままをご報告した―――」

見たままを報告しただけであります、と最後まで言わせてもらえなかった。

「後を追わなかったのか!?」

「ご報告が先だと」

「三匹も居て・・・何をしているのか!!」

そしてシグロがすぐに走り出していたという具合だ。

聞いた場所に行ってみると馬がピクリとも動かず倒れていた。

「落馬したのか・・・?」

辺りの臭いを嗅ぐが領主が先を歩いた臭いは無い。

「確認をしておくか・・・」

マヌケ三匹ならここで終るだろうが、シグロならずとも他の狼であっても領主の姿を確認する。 安易に山の中に入って来られては困る。 肢を麓に向けた。

そして得た情報は、北の領主ムロイが血まみれになって馬車道で倒れていたという事だった。

実際、遠目ではあったが木戸に乗せられ、ゆっくりと運ばれていく領主の姿も見た。 余りにも人の動きが激しく、姿を見られてしまうかもしれないと一旦山の中に戻ってきた時、シグロの匂いを嗅ぎつけたのだろうか、セノギを見張らせていた茶のオオカミが前から走って来た。

茶の狼はあったこと聞いたことをシグロに伝えた。

「セノギがその様なことを?」

茶のオオカミが頷く。

「マツリ様へのご伝言か・・・。 ハクロに任すしかないね。 あと二匹、どこかで捕まえてハクロの元へ走っておくれ。 今の伝言と、領主が馬車道で血まみれになって倒れていたとね」

頷くと走りかけた茶のオオカミの足が止まった。 シグロに止められた。

「言っておくが、足が速いだけのマヌケを連れて行くんじゃないよ」

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虚空の辰刻(とき)  第87回

2019年10月18日 22時38分12秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第87回



『春樹』 と書かれた名札をじっと見る。

「寮で荷物の整理をしてもう一度ここに戻って下さい。 そこから仕事が始まります」

此処とは屋敷の四階。 すでに四人が無言でパソコンに向かっている。
すぐに来てほしいと言われ、翌日にアパートを出て自力で行けない所からは迎えに来てもらった。 手に持った僅かな荷物を持ったまま簡単に寮の説明を受け、荷物を置いたままこの部屋に連れられて来た。 そしてこの日が初出勤の日となるらしい。

荷物と言ってもインスタントコーヒーとお茶の葉と、カップと湯呑。 他に文具道具くらい。 必要な物は最初からついていると聞いていたし、食事は食堂で供給される。 トースターやレンジを持ってきたとしても、その中に入れる食材を簡単に買いに行くことが出来ない。 洗濯は出しておけばしてもらえるらしいし、下着などはランドリーに行って勝手に洗濯機を使っていいらしい。

まずはこの寮でやっていけるのかというお試しのように考えて、アパートは引き払っていない。 荷物はアパートに置いたままだ。

「あ、それと」

後姿を見せた春樹にキノラが言う。

「他の階には行かないように。 貴方の仕事場は四階ですから間違えのないように。 それと、くれぐれも、いま上ってきた階段を使うように」

「はい」

当たり前に分かっています! と、言いたがったが声を押さえた。

当たり前のことをどうして念を押されなければいけないのか? 悪戯に四階までのどこかに何か不思議な物があるのだろうかと考えてしまう。

それに名札のことも。

『コチラでは貴方の苗字はただお一人だけのお名前ですので、ご理解ください』 そう言われて名札を渡された。

「一人や二人同じ苗字があっても可笑しくはないけど、俺の苗字はそう易々と誰かと被るはずはないのに」

そう、今まで学校で過ごしてきて同じ苗字の人間はいなかった。
階段を下りながら不思議に思うことを考える。

「此処・・・どこかヤバイのかも。 就職の選択ミスったか?」

それに、あの雲渡がどこか生気のある顔をしていたが、それがやけに肌にピリピリと嫌なものを感じる。

下りてきた階段を小さく振り返る。



ハンが腕の中のセノギを見る。

「あたったか・・・」

一言漏らす。

「だが、セノギ安心せよ」

セノギを肩に担ぎゼンの居る所まで可能な限り走った。
その姿を見止めたゼンが驚き、意識の無いセノギを馬に乗せる。

「セノギ、あたったやもしれん」 喉の奥からハンが言う。

「と言うことは、お前もか?」

「・・・そうやもしれんな」

薄い笑いを浮かべると、見てきたことを拙く話しその場に崩れ落ちた。

「すぐに迎えに来る」

セノギが乗ってきていた馬の手綱を握ったゼンが馬を走らせた。



北の領土の民たちがどうしたらいいのかと、右往左往と動き回っている。 領主が血まみれになって馬車道に倒れていたからだ。

「医者! 医者を呼ばねば!」

「医者は簡単にこの場所に来られない! 薬師! 先に薬師を呼ばねば!」

民が領主を見つけたことを確認すると、ダンがすぐに屋敷への道を辿った。 これ以上己が居ても何の役にも立たない。 ショウワに報告するのが先決だ。 走りたいところだが領主を抱えて山を下りて此処まできたのだ。 体力がいくらも残っていない。



「此処へ」

ショウワがゼンに言う。
ゼンの腕には傷さえ見えないセノギが抱えられている。

「外傷は見られませぬが、どこか悪くしているやもしれませぬ」

セノギをソファーにおろす。

「何があった?」

「セノギは領主のことをヒオオカミに伝えました。 ですが、その後に昏倒してハンが山の中から下ろしてきました。 その後は吾が運びました」

「ヒオオカミ?」

「セノギがそれしかないと申して」

「まぁ、ヒオオカミは本領の足元だからな。 はて、それで伝えたとは?」

「心より伝えることしか出来ないと申しておりまして、倒れる前に大声でマツリ様に伝えて欲しい、ムラサキ様を今すぐお連れすることは出来ない。 もう少し時が欲しいと。 そう叫んでおったそうです」

「ふむ・・・ヒオオカミは言葉が分かるのか?」

「吾には分かりませんが言葉を発し、セノギの言う心より伝えると言ったところではないでしょうか。 確かにセノギが言い終わった後、ヒオオカミが走り去る音を聞いたとハンが言っておりました」

「ほう・・・」

感心するように言うとセノギを見た。

「医者に診せるに越したことはないという事か?」

「そのように思います」

「そうか」

そう言うといつもなら当人のセノギを呼び出すが、当のセノギのことだ、呼び出すことがままならない。 ムロイもこの場に居ない。

「セッカを呼べ」

「御意」

もちろんハンが直接セッカを呼ぶことなどできない。 セッカをこの場に導くように計った。
ソファーに横たわっているセノギを見て、驚いた目をショウワに向けるセッカ。

「セノギの状態は分からんが、お前は何も知らない振りをしておけ。 あの地に行って病院へ運ぶよう」

ショウワの言う意味が分からないが、やらねばならぬこととは分かる。

すぐに側付に命じてセノギを運び病院に行った。 病院ではあれやこれやとセノギのことを聞かれる。 だがセッカはセノギがこの地で作った細かなことを知るわけがない。

「御免なさい。 分かりませんの。 わたくしの婚約者の天涯孤独の秘書ということ以外は」 そう言って誤魔化した。



「セキちゃん!」

情報を小耳にはさんだ紫揺がセキの元に来た。

「シユラ様!」

野花のことを話したいが今は紫揺の話が先だ。

「セノギさんが救急に運ばれたらしいの」

「え?」

「どこか怪我をしたのか、病気かどうかも分かんないんだけど」

「・・・どうして?」

あの優しいセノギが・・・。



回廊下でハクロが伏せをしている。

北の領土から帰って来てすぐにリツソが行動を起こすと思っていたが・・・。 何故かリツソが隣りでハクロと同じように、出した手の上に顎を乗せて伏せをしている。

「・・・リツソ様?」

何度かかけた声。 だが、毎回返事がない。
それなのにハクロが動こうとすると「どこに行く。 じっとしておれ」と言う。

とにもかくにも、マツリにこのことを知らせようとリツソが居なくなった隙にマツリを探し回ったが、何処にも見当たらなかった。

「このようにしていては何も運びません。 娘からの文に間違いはないのでしょう?」

「・・・」

「間違いがなければ、どなたかに―――」

「言うでない!」

「リツソ様?」

「シユラは、シユラは・・・オレにサヨナラなんて言わないんだからっ!」

漢字が読めない。 紫揺からと思われる文が読めない。 だから、本領に帰って誰かに読んでもらおうと思った。 でも、この文を読んでしまうと何もかもが終わってしまうと思った。

「いつまでも、このままこうして居られるのですか?」

「・・・」

「四方様がご心配されておられます」

「父上はお仕事でお忙しい」

「お母上もご心配されておられます」

「・・・母上が?」

「勿論に御座います」

「・・・母上はお薬を飲まれたのだろうか?」

「ご自分でお訊きなされば?」

途端に母上である澪引の身体が気になった。

「母上の所に行く」

伏せていた身体を立てて拳を握った。

「そのように」

走り去るリツソを見てハクロが鼻から大きな息を吐いた。

「宮に帰ると仰ったから肩の荷が下りたと思ったのに。 ・・・長かった」

出来るものならばヘソ天になって寝ころびたい気分である。


リツソが回廊を走る。 リツソの供であるカルネラがその姿を見た。 走ってリツソに追いつくと肩にスルスルと上がった。

途端にその後ろ衿を掴まれた。 足がふわりと浮く。

「誰じゃ! 不届き者が!」

後ろ衿を持たれたまま半周まわされた。

「ッイ!」

目の前に兄上であるマツリが居た。 マツリを怖がったカルネラが慌ててリツソの懐に入った。

「またもや父上にご心配をお掛けしているようだな」 

「そのようなことはっ!」

「三晩帰って来なかったそうだな」

「あ・・・」

「阿呆がっ!」

言うと後ろに、回廊の外にリツソを大きく投げた。

今回はかなりマツリに憤りがある。 マツリもリツソを探し回っていたのだから。 地下が関係しているのだろうかと、地下の者に攫われたのかと地下にも潜り込んでいたのだから。 そのリツソが宮に居た。

「へっ!?」

マツリの肩の上でキョウゲンが歎息を吐き、すぐにその肩から飛び立った。 リツソに合わせて身体を大きくする。 そして足でリツソを掴むとそのまま四方の元に飛んだ、


「リツソ・・・何処におった?」 精魂尽き果てたシホウが訊く。

「回廊の下に・・・」

「は?」

宮の中にいた? てっきり、というか、前回から思うと当たり前に宮の外と思って、従者たちに宮の外を探させていた。

前回はご隠居の所に居て、まる一日に近い話だったが今回は数日の事。

今回もご隠居のところかと門守に訊ねたが、来ていないということ。 マツリが顔色を変えて地下の者にリツソが攫われたかと思い地下に入ったり、本領内でキョウゲンを飛び回らせていた。

「宮の回廊の下にいた? という事か?」

「最初は、シユラの所に行きました。 でもすぐに帰って来て回廊の下で待つハクロの隣に居りました」

門番からはハクロと一緒に戻ってきたとは聞いていた。 だがリツソが居なくなったのはそのあとの事だと思っていた。 ハクロと一緒に居たとは思いもしなかった。

ハクロもハクロだ、どうして報告に来なかったのか、とは思えない。 このリツソ相手である。 ハクロがどういう状況に置かれていたのかは想像ができる。

シホウが自分の額をペシリと一つ叩いた。
宮の外と思いこんだのは自分の思い込みだ。 これをリツソに責めるわけにはいかない。

「宮に居たのならばどうして帰って来なんだのだ?」

「・・・」

「リツソ?」

「シ・・・シユラが・・・」

「シユラとは・・・北の領土の迷子と言われている者だな」

シキとマツリから聞いている。 そしてそれが紫だと。

「はい」

「で? どうしてその者に会いに行って回廊下でハクロと居たのか?」

紫揺が居ないことは聞いて知っていたが敢えて聞く。

「シユラが・・・シユラが居りませんでした」

「ほぅ・・・何故か?」

「分かりません」

「分からない?」

「シユラは・・・これを残して・・・」

「これとは?」

懐を掴む。

「此処に・・・」

四方が手を出す。 懐から出せと言っているのである。

リツソがユルリと懐に手を入れた。

「我は漢字が読めません」

「ふむ」

「父上、読んで下さいますか?」

「わしが読んでも良ければな、容易いこと」

リツソが懐から箱を出すと紫揺の手紙を出し四方に渡した。

「文か」

「・・・はい」

「再度訊く。 良いのか?」

「お願い致します」

「それでは・・・」

と言いながら、何か不都合なことが書かれていないかと、サッと文に目を先ばせる。 そして (ほぅ)っと、心の中で言った。

「読むぞ」

俯いているリツソがコクリと頷く。

「『りつそ君へ。
りつそ君、お別れが出来なくてごめんね。
私は元にいた場所に帰ることが出来るかもしれません。
りつそ君ともっといろいろ話がしたかった。 かるねらちゃんの話も聞きたかったけど、それが叶いません。
いっぱい伝えたいけど、時間(ときま)? がありません。
りつそ君、沢山お友達を作ってね。 そして兄上に負けない程にお勉強・・・(?)頑張ってね。
紫揺』 」

リツソが潤ませた目を大きく開けてシホウを見た。

「そのように書かれておる」

コホンと一つ咳払いをする。

手紙の代読だと言ってもこの歳の者、ましてや若くはないが一応男である。 そのような者が声を出して言うには恥ずかしい台詞が紛れていた。

それに“時間(ときま)” とは何のことだろう。 そしてリツソの名の後ろにつけてる“君” と、勉学ではなく勉強・・・どこの方言にあたるのだろうか。 キュウシュウというところの方言だろうが、聞いたことが無い。

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虚空の辰刻(とき)  第86回

2019年10月14日 22時52分31秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第86回



ひたすらに馬を走らせたが、馬の足が段々重くなってきているのだろう。 そのスピードは明らかに落ちてきている。

そしてとうとうトボトボと歩き出した。

鞭など入れないし拍車などもない。 足で走る様に命令するがそれももう利かなくなった。 今はまだ歩いてくれているが、いつ歩く足を止めるかもわからない。

「・・・下りるしかないか・・・」

それしか選ぶ道はない。
そんな時、ゼンの声がした。

「ここまで来れば、ヒオオカミが居るはずだ」

そう言うゼンだが、今年はヒトウカが今までになく南下していた。 それを知らないゼン。 既にセノギの姿はヒオオカミに見られていた。 そしてその情報がシグロの元に寄せられ、そのシグロから命を受けた一匹がセノギの居る場所に走っている状態だ。

「え? 近くに居るんですか?」

「いや、辺りには居らんようだ。 だがヒオオカミたちはこの辺りから北にかけてうろついているはず」

「このまま進めばいいという事ですか?」

「否、山に入れ」

「山?」

「このまま人里の道を走ってもヒオオカミには会えん。 ヒオオカミは山に居る」

「分かりました。 山の中に入るといいのですね」

「そういう事になる」

ゆっくりと馬を歩かせた。 馬も疲れているだろうし、水を飲ますことなく歩かせた。 沢か小川を見つければそこで水を飲まそう。 その先はそこに馬を置いて己の足で歩けばいい。 馬がヒオオカミを見て暴れ出すことは間違いないのだから。

暫く歩くと沢が見えた。 馬に水を飲ましてやる。 いざ、その場を去ろうと思うと手綱以外何もない。 留めておく綱がない。

「・・・失態」

馬をこのまま放っておくわけにはいかない。

「吾が見ておく」

ゼンの声がするとその姿が目の前に現れた。

「この先はハンだけがお前に付く」

ハンもいてくれたのだと初めて知る。

「よろしく頼みます」

北の領土では馬は大切な足。 捨ておくなどできない。

セノギが歩き始める。 歩き進めるうちに、上り坂に段々と足が重くなるが、今まで馬上に居たのだ、贅沢なことを言っていられない。 歩く速さを変えることなく登り続けた。
足場が悪くなってきた。 馬が歩けるような道ではない。 馬に乗って来たとしてもすぐに降りなければならなかっただろう。

奥に入るほどに、大きな岩をも越えるか迂回しなければいけない。 地もぬかるんできた。 その傾斜がきつくなってきたと思うのは気のせいだろうか。 そして気温が急激に下がってきたと感じたのも気のせいだろうか。

「ヒオオカミ・・・どこに居るのか」

そう思った時、気が散漫したのか、ぬかるんだ地に足を滑らせて岩で膝を打った。

「っう!」

膝の皿は割れていないことが分かるが、打った後で変な角度に膝が曲がってしまった感覚がある。 膝頭を何度もさする。 ゆっくりと角度が正しい位置に戻っていったような気がする。

「こんなことでどうする」

膝を打ったくらいで何だというのか。
撫でていた手を止め足を動かす。 すると膝に違和感がある。

「これしきのこと・・・」

膝の靭帯をおかしくしてしまったようだが、それが外か内か、前か後ろの十字靭帯かは分からない。 元よりそこまでも考えていない。
歩いているうちに今にも大腿骨から脛骨が離れようとする感覚を感じた。

「うぅ!」

歩を止める。

「情けないっ!」

感じるだけで、実際に大腿骨から脛骨が外れるはずがないのに、今にも膝の存在がなくなりそうで足を止める。 ・・・これ以上歩けない。
止まってしまったが故か、かいていた汗が一瞬にして引いていく。 一気に体の体温が下がる。

「ハン! 聞こえますか?」

「ああ」

ハンの姿は見えない。

「ヒオオカミたちは近くに居ますか?」

「否。 だがあと少し歩け。 さすれば腹の底から声を出せば届くやもしれん」

「分かりました」

足が動かなくなれば腕で這って行けばいい。 そう思いながらも膝が無くなりそうだ。 もう歩けないと思った自分を叱咤する。 気がするだけだ、と。

重い足を一歩ずつ大事に歩を進める。 いい加減に地に足をつけてしまうと良からぬことが起きそうな気がするからだ。 だがそれも気がするというだけ。 走れるかもしれないが、今は無理は禁物だと思う。 這ってでも行けばいいなどとは、自分への威勢にしか過ぎない。 こんな岩やぬかるみを這って進んだとしていくらも進めない。

どれくらい歩いたのだろうか。 どれくらい進んだのだろうか。 余りの過呼吸に頭がボゥっとしている。

喉が渇いた。 乾いたどころではない。 喉の粘液がなくなり、乾ききった粘膜が貼り合わされているようにさえ思える。 貼り合わされていればこれ程の息などできないはずだが。 これもそんな気がするという事かと『気がする』という言葉に嫌気がさす。 自分は何と弱い人間なのだろうかと。

「セノギ」

ハンから声が掛かった。

はい、と答えようとしたが、からからに乾いている喉からは声が出なかった。

「まだヒオオカミに十分とは近づけておらんが、あれらは耳が良い。 腹から声を出せば聞こえるまでには近寄っておるだろう」

コクリと頷くとその場でゆっくりと膝を折り手を着いた。

ハァハァと喘いでいる呼吸を整えようとするが、そう簡単にはおさまらない。 ついている膝に違和感がある。

ほんの少しだが荒い息がマシになった。

いつまでもこんなことをしていては、ヒオオカミがどこかに行ってしまうかもしれない。 姿勢を整える。 『腹からの声』今のセノギには厳しい。 が、やるしかない。

まずはまだ喘いでいる呼吸を落ち着かせる。 乾いた喉には厳しいが、少しでも深く長く息をしようとするが、喘ぐ息はなかなか収まらない。 それでもするしかない。

息を吸う時には鼻から吸い口から吐く。 吸う時には口は閉じておく。 少しでも口の中を湿らせたい。 しかしそれすらもなかなかできない。 少しずつ息を整える。 口の中に唾液が溜まるようにする。

此処で時を取りたくはないが、ここで時を取り、充分にヒオオカミに聞こえる声を出すのが今の一番の良策。 焦ることはない。 息を整えるのに、一時間もかからないのだから。 自分を言い聞かせる。

どれだけ経っただろう。 大分息が落ち着いてきた。

何も考えず飛び出て、ただ馬だけを走らせた自分に猛省する。 馬を繋ぎ置くための綱も持たなかったのも勿論だが、どうして水一つを持って出なかったのだろう。 と。
そんなことを考えながら、僅かに溜まった唾液をゆっくりと嚥下する。 良し、と思い腰を伸ばし立ち上がった。

一つ大きく深呼吸をした。 もう一度口に溜まった僅かな唾液をゆっくりと喉に流す。
そしてもう一つ肺に大きく空気を送って腹から大きく声を出す。

「ヒオオカミ! 姿を見せずともいい! だが、聞こえているならば、聞いて欲しいことがある!」

葉が風に煽られる。 セノギの髪も同時に煽られた。 そう言えば風があったのか。 ここまで歩いて来て風など感じなかったが、きっとずっと風があったのだろう。

今の己の言葉をヒオオカミが聞いてくれたのならば、こちらに注意が向くはず。 言葉の内容が聞き取れない離れた所に居るのならば、こちらに近づいているはず。 焦らなくともいい。 四つ五つ六つとゆっくり息をする。 唾液をためる。 僅かな唾液を喉に広げるようにゴクリと再度飲みこむ。

「マツリ様に伝えて欲しい! ムラサキ様を今すぐお連れすることは出来ない! もう少し時が欲しいと!」

風が葉を揺らす。 葉擦れの音が響く。 その中に獣の声が聞こえた気がした。

「聞いてくれたか?」

ヒオオカミからの返事と受け取った。 いや、ヒオオカミからの返事ではないかもしれない。 だがこの現状で受け取ってくれたと思う以外に希望はない。 ユラリと身体が傾いだ。

「ッツ!」

踏ん張っていた足から大腿骨が膝ではなく、股関節から外れようとした。 痛みに顔を歪める。 と共に、身体が傾きかけたが、なんとか持ち直しゆっくりと姿勢を正した。 ゴキンと大腿骨が股関節に嵌まる音がした。 

「クッ!」

体勢が傾く。 身体が傾いでいく気がした途端、ゴン! と音が聞こえた。
何もかもが目の前から消えた。



「そう簡単に本領に着けるはずがない」

馬上の領主が泡のような汗をかいている馬を歩かせている。
マツリもシキも飛んでくるのだから、そんな文句も出るであろう。 

「駄馬・・・とは言わないが」

彼の地の馬に比べるとそれに近い馬。 ましてや山になど慣れていない。

その時、馬の身体が傾いだ。

「え?」

そう思った時には、身体が傾いていた。 手綱をギュッと握り引っ張る。 だがそれがいけなかった。

馬は山の道に対応しきれずよろめいた。 そんな時に手綱を引っ張られ、止まらなければと思った。 足を踏ん張ろうとしてその細い足が歪んだ。 ドゥっと右に倒れる。 手綱を持ったままの領主が共に倒れた。 右足に馬体がのしかかる。

「ガッ!」 思わず声が出る。

馬が何度も立とうとするがそれが叶わない。 球節を骨折した。 馬が立とうとして暴れて身体を起こす合間に領主が足を抜いた。 その足を抱えて山の斜面を転げ落ちる。 転げ落ちながらまばらにある岩に身体をぶつける。 その度に「ウッ!」と声を上げる。



セノギの聞いた、ゴン! という音。 それは岩に側頭部を打ちかけたセノギを間一髪でハンが岩に膝を打ちながらもセノギを抱えた時、ハンの膝が岩にぶつかった音だった。

「薄弱な」

一言漏らすとセノギを抱え山を下りた。



ダンが蒼白になった。 領主が山から転げ落ちてくるのだから。

「間を空けすぎたか!」

まさかそんなことになるとは思わず領主から距離をとっていた。
領主の乗っている馬が傾いたのを目にするとすぐさま地を蹴ったが遅かった。 領主が転げ落ちてきた。

「ック、どうする」

領主は影の存在を知らない。 手を添えることなどできない。 だが、領主の様子を見ていて「もう、意識はないか?」 そう思えた。

転げ落ちてくる領主の身体を受けとめる。 確かに意識はないようだ。 どこかで頭を打ったのかもしれない。

「馬は使えないか・・・」

もんどりうっている馬を一瞥すると、仕方なく領主を抱えた。



屋敷ではキノラが新人に説明をしていた。

「此処は年功序列など関係ありません。 出来る者だけを雇っていくということです。 出来なければすぐに此処から立ち去っていただきます」

そう言うキノラが辺りを見渡した。

「一人を除き、全員三年以上になります。 除かれた一人は一年前に入りました。 貴方の前に雇われた雲渡(うんど)さんです。 そうですね、分からないことがあれば、私か雲渡さんに訊いて下って結構です・・・。 ああ、そうでした、運渡さんは貴方と同じ専門学校を卒業されていましたね。 仕事の事もそうですが、寮のことも私より雲渡さんの方が訊きやすいでしょう」

そう言うと、雲渡の成績は今までの誰にもなく優秀だと聞かされた。 だから、貴方も追いつくようにと。

「はぁ」

見覚えのある顔、雲渡。 だが性格上、全然合わない―――はずだ。 出来れば話したくもない相手だ。 どうして奴が此処に居るのだろうか。 雇った側を疑いたくなる。 とは言え、雲渡とは話したこともないが。

でも人というのは話さなくても何かを感じるものがある。 自分はそっちに重きを置いている。

「貴方は・・・下の名前、姓ではなく名で登録します。 コチラでは貴方の苗字はただお一人だけのお名前ですので、ご理解ください」

キノラにそう言われて名札を渡された。

(お一人だけのお名前ってどういう意味だよ) そう思いながらも渡された名札を手に取る。 そ
こには『春樹』と書かれていた。

合否の連絡があったときに、今日にでもすぐに来てほしいくらいだと言われた。
その初出勤の今、キノラから名札を渡された。

面接の後、一両日に連絡があると聞いていたのに、すぐに合格の連絡があった。



専門学校はとうに卒業していたが就職はしていなかった。 バイトで身を立てていた。 そこにフラリと専門学校に顔を出した時

「おっ、フリーター。 どこかに就職したか?」

当時の進路の教師、尚且つ今も進路担当教師である。

「残念でした」

「なんだよ、その言いようは」

「先生、どっかいいとこない? 高給。 バイト代じゃちょっと厳しいし、高給。 仕送りが止まって痛いんだよなー。 ね、高給」

「なんだよ目を落としてみ目を落としてみ

「心の叫び」

進路担当が呆れたような顔をして抽斗から一枚の紙を出した。

「急募が来てるんだ。 どうだ? 今の時期じゃ学生に声もかけられないし気に入ったんならお前に譲るよ」

手渡された求人募集の用紙に目を落としてみると、書かれている内容はスコブル高いものであった。

「え? これって・・・美味しすぎません?」

寮住まいという所は頂けなかったが、寮費がかからないというところが魅力的だった。 それに給与もいいし娯楽も楽しめるらしい。

「今までに何人かの卒業生が行ったが、全員満足してたぞ。 ただ・・・」

「ただ?」

「飽きるらしい。 それと・・・人間関係か。 でもどこに就職しても人間関係からは逃げられないからな」

「飽きるって?」

「環境がずっと同じだから、って言ってたな」

「ふぅーん・・・」

「フリーターのままなんだろ? お前の言う高給に入ると思うけど? 今のバイトでやっていけないんだったら、受けるだけ受けてみろよ」

「はぁ・・・」

求人募集の用紙を見ながら生返事をしていると後ろから声が掛かった。

「あれ? 春樹?」

振り向くと同じクラスだった誠也が立っていた。
相変わらず髪の毛を触るのに凝っているようで、今日も女の子が付けるヘア―ピンを器用に使って髪の毛を飾り立てている。

誠也は苗字ではなく名前だが、皆がそう呼ぶ中、春樹だけは名前ではなく苗字で呼んでいた。

前に誠也から『どうして春樹は俺のことを苗字で呼ぶんだ?』と訊かれたことがある。 返事は単純なものだった。

『名前より苗字の方が珍しいから』

その誠也に向かって進路担当が声を発した。

「っとに、フリーターが雁首揃えて」

「え? お前も?」 狙ったわけでなく、二人の声がハモった。

「あ、でも残念。 俺はこれから此処の試験受けるから、フリーターじゃなくなる」

「お、その気になったか?」

「雁首揃えたくありませんから」

「え? どういうことだよ」

「一歩違いだなー、お前がもう一歩早かったら、その求人募集はお前の手にあっただろうな」 進路担当が簡単に事を終わらせる。

「なんだよそれ、受かるとは限らない」 誠也が言う。

「何を言うんだか。 受かるに決まってんだろ」

「フリーターの台詞とは思えない」

「それはお前も一緒だろーがっ!」

「なら、万が一にも受かったら連絡寄こせ」

と、互いに連絡先を教えた。



高校を卒業して経済関係の専門学校。 特にヘッジファンドが得意であった。 それを買われたのかもしれない。 居を寮に移すことは戸惑われたが、専門学校の教師に勧められるまま試験を受けた。
すると試験に合格しそしてその後の面接でも受かった。 それも一両日に合否があると言っていたにもかかわらず、面接後いくらも経たない内に連絡があった。 その上、すぐにでも来てほしいとのことだった。

「ホンットの急募だったんだな」

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虚空の辰刻(とき)  第85回

2019年10月11日 23時18分03秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第85回



「もう少し・・・見極めたい。 待ってくれる?」

「ふ・・・アマフウが感じたのなら見極めなんて要らないだろうに」

「だって・・・あの子よ」

「やっぱりね。 シユラ様のことか」

「あら? そんなことも分からなかったの?」 トウオウに振り返った。

「分かってたよ。 でも確信がなかった」

「どうして?」

「どうしてだろうね。 でも、深入りはするなよ」

見極めなくても分かるのだから。 初めて紫揺を見た時からトウオウはもう決めていたのだから。
だがアマフウはトウオウのように紫揺だけではなく、セイハのことを考えているのだろう。 相手にしなければいいのにと思うが、簡単にアマフウには言えない。 アマフウがセイハのしようとしていることを、どれ程毛嫌いしているのかは知っている。 それにどれだけ傷ついたのかも。

「トウオウの言う深入りって誰に対してなの? 何に対してなの?」

突っかかるような言い方、トウオウが心の内で思ったことが分かったのだろうか。

「・・・やめろよ、そんな言い方。 嫉妬深い女みたいだ」

本当に嫌だというように顰め面を作る。

「悪いと思ってる。 トウオウは領土を見たいと思ってるのに、付き合ってもらって」

「領土を見たいだなんて一言も言ってない」

「私に隠し事は出来ないって分かってるでしょ? 私はトウオウのことをずっと見てるんだから。 トウオウが領土のことを心配してるのは分かってる」

「・・・だとしよう。 そうだとして、それなのにどうして付き合ってくれと言うんだ?」

言葉は穏やかだが、真に隠されたものがある。

「トウオウが私一人を置いて行けるはずないでしょ? それにトウオウも気になっているだろうし。 その理由を私が作ってあげているだけよ」

ブスッとした顔で組んでいた手を外す。 確かに領土では頭に来てああ言ってしまったが、やらなければいけないことが残っている。

「でも見極めた結果によっては、トウオウの思うように動くと思うの」

「どういうことだよ」

「事はまだ動いていないから今は何とも言えない。 でも、付き合ってくれるでしょ?」

「・・・アマフウ」

「待ってもらえない?」

「いや、待つよ。 アマフウのことを知ってるのはオレだけなんだし」

やらなければいけない事、それは爺に言ったこと。 それを思うとまだ領土には帰れない。



五色は領土で過ごすべきだった。 だが、先代領主が学の必要性を感じ五色を屋敷に呼んだ。 そして屋敷の地があるこの日本に足場を置いて学ばせることにした。 アマフウ以外は海外で学ばせた。 海外であれば黒い瞳を持っていない四人が不思議がられることはない。 アマフウは黒い瞳を持っていたから最初は日本で学ばせていたが、のちにトウオウの居る海外に行くこととなった。

日本には異分子を受け入れる器を持っていない者が多すぎたからだ。 強膜の青いアマフウはどこに行っても気持ち悪がられた。 オッドアイのトウオウもアマフウほどではないが、敬遠されていた節があった。 その二人を近くに置いたのだった。

紫揺が馬車の中で社会見学のことを話した時、

『それって、学校に行ってるならではよね』 アマフウがそう言った。 すぐに登校拒否となったアマフウは社会見学になど行ったことがない。 同級生がポストに入れた栞を手にするだけだった。

日本で生活をし、いや、させられ、いいことは何もなかった。 ただ制服が着られた。 それだけが当時のアマフウの喜びだった。 それからは色んな服を目にしては、着てみたいと思った。 北の領土に無い服。 それが今のアマフウのコスプレに繋がったのかどうかは分からない。 アマフウだけが知ることだ。


アマフウが可愛いと思ってその服を手にし、体に当ててミラーを見た時、ミラーの後ろで誰かが言った。

「わっ・・・なにあの目。 気持ち悪い」

三人連れの同年代の女の子達が声を殺して言ったのが聞こえた。

「アレって異常じゃない?」

「ってか、服が可愛そうよ。 可愛いフリルの波も恐怖の大波にしか見えないよ」

そう言って三人は去って行った。

顔を伏せたアマフウ。 そっとハンガーをラックに掛けると、店先に居た店員がアマフウの帰る道を作った。
普通店員は客に帰る道など作らない。

アマフウがその場から逃げるようにして居なくなった。

そしてその日からフリルの付いた服を着なくなった。


アマフウは何処にも受け入れてもらえなかった。 それを知らないムロイ。 トウオウだけが知っている。


「で? 具体的に何をしようとしてるんだ?」

「分からない。 それにさっきも言ったけど見極めたいの。 見極めて駄目だったら、トウオウの思うようには動かさないわ。 私は」

「ふ・・・そうか」

(あとは勝手にしろということか。 アマフウらしい)

「トウオウ?」

「いいよ。 付き合うよ」

「ありがとう」

「にしても、あれは先々こまるだろう」

顎で窓の外を示す。

「・・・ええ。 信じられない程、自覚していないんだから」

ほとほと、呆れたという具合に歎息を吐いた。

「どうしたものかな。 五色のことが外に漏れては困る」

トウオウも吐きたい嘆息を堪えて外を見る。



「シユラ様・・・これは?」

「分からない」

一面芝生のはずだったのに、野花が一面に咲いている。
ガザンが大きく鼻から息を吐いた。 そして立ち上がると後ろにいた紫揺に身体全身で振り返り紫揺に顔を近づけた。

「なに?」

「ガザン!」

あの時の心臓が止まりそうになった時のことを思い出す。 するとガザンがまたもやベロンと紫揺の顔を舐めた。

今回は前回よりもガザンの唾液が多かった。
思わず「ぶへっ」 っと声が出てしまった。

「シユラ様!」

紫揺を心配するセキの声が聞こえる。

「何ともない、何ともないよ。 ちょっと唾液が多かっただけ。 でも、ガザンに舐めてもらって嬉しい。 それより・・・これ、何だろね?」

今も尚、野花が咲いている。 

「前にもありましたよね? 枯れているはずの芝が青々となったことが」

「・・・うん」

「でもあの時はすぐに消えました」

「そうよね」

だがいまだに野花は咲いている。

「何がどうなってるの?」

一面に咲く花を見渡す。
と、その時ガザンが紫揺越しに何かを見たように、睨み据えたかと思うと「グググゥ」 と喉を鳴らすように唸った。

「なに?」 「どうしたのガザン?」 紫揺とセキが同時にガザンに目を向けた。
言った途端、野花が枯れ芝生だけとなった。



昨日も今日も僅かな休みだけを馬にとらせるだけで、ずっと馬を走らせていた。 馬の足はもう遅くなっている。 その馬上に居るセノギに影が声を掛けた。

「セノギ」

「どういたしました?」

「もう少し行くとヒオオカミが居るはずだ」

手綱を引いた。 馬もクタクタに疲れている。 やっと足を止め口から泡を吹いた。

「近くですか?」

「いや、さほど近くではないが、そこからがヒオオカミの回る範囲だ。 いい加減休ませてやれ」

馬のことを言っているのが分かる。

「充分に身体を休められたのは昨日の夜だけだったであろう」

今朝も夜が明けるとすぐに走り出している。
馬の身体を見る。 体中から泡のような汗が出ている。

「・・・そうですね」

悪かったと言いたげに馬の首をポンポンと叩いた。 そこからいくらもしない所に北の領土に戻った時のための休憩家があるのは分かっている。 馬を歩かせる。

狼煙が次々に上げられたのだろう。 女たちが忙しく動いているのが目に入った。

「汗を拭いてやらねば」

そして水も飲ませて飼葉も食べさて・・・昨日よりは長い休みを取らせなければ。 昨日はまともにそんなこともしてやらなかった。

そんな反省を思いながら休憩家につくとすぐに身体を拭いてやり水と飼葉を与えた。

女たちがそんなことは自分たちがすると言ったが、馬を無理に走らせたのは自分だ。

「乗った者がするのは当然です」 と断った。

女たちが驚いた顔をしていた。 当然だろう。 領主たちとこの領土に帰って来た時には女たちに頼んでいたのだから。 馬にかまけている時間がなかった。 領主と五色達の対応に追われていたのだから。

だがいつも気にはなっていた。 そして初めて一人で領土に帰って来て気になっていたことをようやくできた。 いや、それ以上にこの馬には無理を強いてしまった。 心から身体を拭いてやりたかった。

馬のことを全部終わらせた時には、女たちの作った鍋が囲炉裏の上に出来上がっていた。
一口入れる。 確かに屋敷の地で食べるものは全て美味い。 それと比べると雲泥の差である。 だが

「この味だ」

一口ごとに素材の味を噛みしめる。 何の隠し味があるわけでもなければ、味覚をくすぐるような、驚かすような味もない。 だが、味覚と違うどこかで満足する何かがある。 香辛料や油を多用することもなければ深みのない味。 それでも、この味がこの地の味だ。

「ムラサキ様は・・・。 この地のお人では・・・ない」


馬にしてみればまだ休憩を取りたかったかもしれないが、それでも余りにグズグズとはしていられない。

「悪いですがあと少し頑張ってください」

そう声を掛けると馬に跨った。

ハンとゼンが目を見合わせる。

「あの馬、行けるか?」 ゼンが言う。

「どうだろうか・・・」

「無理をさせ過ぎではないか?」

「だが、ヒオオカミの範疇まではなんとか行けよう」

「ギリギリで馬から下りさせるのか?」

「それしかなかろう」



三匹の茶の狼がシグロに雷を落とされたその日の夜、また三匹が人里で失敗を踏んだようだった。
一匹がソロリと近づいた民の家。 そこまでは良かったが聞き耳を立てようと、木の板の端を踏んだ。 それもジャンプして木の板の上に飛びあがったのだ。 そうすれば聞き耳を立てやすいと思ったらしい。 だがその木の板の真ん中部分には石があった。 石に斜めに立てかけられていたのだ。 言ってみればシーソーのようになっていた。

その板を踏んだ狼。 板がバンと跳ね上がり大きな音を立て、尚且つ、板に上がれるつもりが地面に落ちてしまった当の狼が「ウヴ!」 と声を上げ、反対の板の端を腹の下に入れていた二匹目に、上がってきた板が腹に辺り、これもまた言い訳の出来ない声を上げた。 そして三匹目が助けに行こうとして、置き忘れられていた桶を蹴って大きな音を立てたという。

呆れたシグロがクドクドと三匹に説教をする中、人間で言うところの中年の茶の狼が進み出た。

「セノギが馬を走らせているようです」

舌を垂らしハァハァと息を荒くして報告する。

若い三匹の狼たちに向けていた足を報告をしにきた茶の狼に向ける。

「セノギが? 一人でか?」

「はい。 かなり急いで馬を走らせていたようです。 遠目ではありますが馬が疲れている様子がしかと見えました。 その後、馬を手放し山の中に入ってきました」

今も口からは舌がダラリと出ている。

「何用か・・・」

領主とマツリたちの会話を聞いていないシグロ。 まず聞く必要もないのだから。 だが、そこで聞いていれば何なりと想像がついただろうが、それとて狼たちには関係のないこと。

「今も誰かセノギに付いているのか?」

「いえ、己一人でいましたもので」

マヌケ三匹とは違う。 一匹で昼間でも己らの地を守っている。

「まだ走れるか?」

ここにはマヌケ三匹しかいない。 他のオオカミもこの狼と同じく山の中を歩いている。
とその時、一匹が帰ってきた。

「・・・はい」

未だ口の中に舌が収められない。

「無理なようだね。 アイツに場所を教えてお前は休んどきな」

「いえ、これしき・・・」

「無理は必要ない。 オイ!」

帰って来た狼を呼ぶ。

「コイツから場所を聞いてすぐに走れ」

若い茶のオオカミがコクリと頷くと中年の狼を見た。

中年の狼が場所を説明をする。 それを片耳で聞いていたシグロが口をはさんだ。

「え? 深山の手前? そんな所に来たのか?」 普通ではありえない。

「はい」

「お前、場所は分かったかい?」

若い茶のオオカミに問う。 若い茶のオオカミはコクリと頷く。

「すぐに走れ!」

再度コクリと頷くと茶の狼はその場を後にした。 そしてマヌケ三匹に振り向いたシグロ。

「お前たちは、鍛練せよ!」

小言は終わったようだと三匹がホッと胸を撫で下ろす。

「セノギは深山に入ろうとしているのか・・・」

確かに、狼たちは民を見張っている。 夜ごと民の家に耳を傾けてはその動向を見聞きしているが、五色と領主、そして領主の片腕と言われるセノギ、古の力を持つ者ショウワには耳を傾けていない。 歴代、そこまで本領がかかわることでは無いと、それは決められていたことだった。

したがって、領主と五色、そして領主の片腕と言われるセノギ、古の力を持つ者ショウワには見張りをつけていない。 あくまでも民を見る。 それは昔からの通例であった。

「イヤな予感がするね・・・」

ゴクリと唾を飲んだ。

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虚空の辰刻(とき)  第84回

2019年10月07日 22時02分49秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第84回



馬車に揺られていた身体を丸一日ゆっくりと休め、翌日ブランチを済ませた紫揺がセキに会いに行った。 勿論、ガザンにも。

「セキちゃん!」

「シユラ様! お帰りなさいまし!」

紫揺が帰って来ていたことは知っていた。 だがすぐに会いには来てくれなかった。 疲れているのだろうと寂しさを紛らわしていた。 その紫揺が会いに来てくれた。 嬉しさに破顔する。

「うん、ただいま」

セキにつられて紫揺も満面笑みである。

「お洗濯物終った?」

何時だと思っているのであろうか。

「はい」

「お話していい?」

「勿論です」

辺りを見回す。 五色が居ない。

「ね、セキちゃん、ウダさんって知ってる?」

「ウダおばさん?」

「うん、ウダさんとお話してきた」

「え!?」 驚きを隠せない。

「あのね、セキちゃんの歌っている歌のことを訊いてきたよ」

「ウダおばさん・・・元気にしてましたか?」

「うん。 お孫さんもいたよ」

「え!?」

「元気な男の子」

セキが両手で顔を覆う。

その姿を見て悲しく思う。 会いたいのに会えない。 それをこの屋敷が阻んでいるのではないのだろうか、この屋敷が原因なのではないか、と。

「あのね、セキちゃん言ってたじゃない? シクタクって何の事だろうって」

~とんがり山の向こうにはー、シクタク鮮やか花乱れ~

セキが紫揺に教えた歌だ。

「・・・はい」

顔を覆っていた両手をゆっくりと開ける。

「シクタクじゃなくてシキタクだって。 小さな子には難しい言葉だから覚え間違ったのねってウダさんが言ってた。 色沢って、色が沢山あるっていうこと。 尖山の向こうには色鮮やかな花が沢山あるっていうことらしいよ」

「え?」

歌を歌った。 教えてと言われて紫揺に歌を教えた。 その時に、シクタクという意味が分からないと紫揺に言ったのは確かだ。 だが、それを紫揺が覚えていて、ましてや歌を教えてくれたウダに訊いた? 訊いてくれた?

「どう? 納得いけた?」

紫揺が笑顔を向ける。

納得とかそんなものではない。 確かに単純に言えばそうかもしれないが、相手はシユラ様と呼んではいるが本来は五色であるムラサキ様だ。 確かにムラサキ様は他の五色とは違っていた。 だが、こんな民の一言に応えるはずがない。 それなのに応えてくれた。 小さなセキの小さな心のやり場がない。

「セキちゃん?」

「あ・・・あ」

座っていたセキが立ち上がる。

「セキちゃん?」

動こうとしないガザンのリードを無理に引っぱってその場を退こうとする。

「セキちゃん?」

立ち上がった紫揺が呼ぼうともセキは紫揺を見ない。 ただひたすらにリードを引っ張る。 ガザンがノソリとそれに応える。 セキとガザンがその場から居なくなった。

「・・・間違ったことを言ったの?」

取り残された紫揺が口からこぼす。

重たいガザンのリードを引きながらも、セキが目に涙をためている。


昨日から一晩明けた。

「セキちゃんと、ちゃんとお話がしたい」

いつも通り部屋で朝食を済ませた紫揺がセキの元に向かった。
昨日のセキの態度がどうしても気になる。 自分が悪いのであれば謝らなければ。 セキはもう洗濯物を干し終えてガザンのお散歩に出ただろうか。

ドアを開け回廊を回ると庭を見渡すがセキもガザンも居ない。

「まだ洗濯をしてるんだ」

回廊を歩き続け洗濯干し場を覗くと、そこにセキが居た。

セキが洗濯物を干している姿が目に入った。 一旦下を向き一つ頷く。 そして歩を出す。

「セキちゃん、お早う」

「あ・・・お早うございます」

紫揺の顔を認めると、どこか暗い顔をする。

「セキちゃん、ちょっといい?」

「今は・・・洗濯物があるから・・・」

「あ、ごめん。 じゃ、待ってていい? ガザンと一緒に待ってていい?」

「え・・・」

「駄目?」

ガザンはセキの母親とセキ以外には、なついていなかった。 それなのに紫揺には吠えることもなく噛もうとすることなく、それどころか紫揺の顔をベロンと舐めた。 ガザンが紫揺に顔を近づけた時にはセキが心臓の止まる思いをしたものだ。

「ガザンは・・・シユラ様に会いたがってます」

紫揺が居なくなってガザンが遠い目を何度もしていた。

「え!?」 思いもしない言葉だった。

コクリとセキが頷く。

「じゃ、ガザンと一緒に待ってるから、お洗濯物が終わったら来てくれる?」

再度コクリと頷く。
紫揺が嬉し気にガザンの元に走る後姿を見送る。 そのセキの目の奥には喜びが満ちていた。

「シユラ様・・・」

ウダのことを話してくれた。 ウダが元気にしていることも、ウダに孫が生まれていたことも。 ウダが教えてくれた歌のシクタクの意味が分からないと言ったことも覚えていてくれた。 その意味をウダに訊いてくれた。

こんな洗濯女と言われる自分に。

「ちゃんとお礼を言わなくちゃ」

パンパンと洗濯物の皺を伸ばして物干しに掛ける。 ふと気づいた。 たまにアマフウが来るが、通常ならこんな場所に五色も領主もこない。 手が止まる。

「あたしのバカ」

紫揺が五色達と違うと分かっていたのに、それなのに余りに紫揺の言葉が普通過ぎた。

「有難いのに、どうして昨日あんな態度をとってしまった・・・」

記憶を探る気など無かった。 だが、辿ってしまった。

「アマフウ様・・・」

そう。 いつ頃からか時折アマフウがここに姿を現すようになっていた。 そして紫揺が来てからは事あるごとにアマフウがセキの前に出て来ていた。

「・・・違う。 アマフウ様とシユラ様は違う」

顔を上げると大急ぎで洗濯物を干した。


「セキちゃん!」

走って来るセキを見止めてガザンの横に座っていた紫揺が思わず声を上げた。
走って来たからだろう。 セキが息を乱し肩を上下させながら頭を下げる。

「え? 何?」

「ゴメンなさい!」

「え? セキちゃん、何?」

思わず立ち上がり、再び膝を折ってセキに目線を合わす。

「ウダおばさんの事、有難うございました。 その・・・とっても嬉しかった」

「え?」

自分が粗相をしたと思っていたから謝ろうと思っていた。 それなのに反対に謝られた。

「ちょっと待って。 じゃなくて、私が悪かった筈、ちゃんとセキちゃんの気持ちを考えられなかったから私が悪いの」

「シユラ様は悪くなんてないです!」

「え?」

「シユラ様は考えてくれる。 想ってくれる」

「あ・・・あの、でも、昨日・・・」

「シユラ様が私の言葉を覚えてくださっていたとは思わなかった。 その、シキタク」

「え? だって、セキちゃんが色沢の意味が分からないって言ってたから記憶にあったし」

「ウダおばさんのことも、そう」

「向こうで、セキちゃんを知ってる人に偶々会っただけよ」

「そんなことない!」

セキが何度も大きく首を振る。

「シユラ様は、民の声を聞いてくださる」

「た・・・たみ?」

声がひっくり返る。 と、同時に 「あっ!」 っと声が出た。

ずっと伏せていたガザンがノソリと立ち上がったからだ。

「ガザン?」 紫揺とセキの声が重なった。

すぐにセキが棒に掛けられていたリードを外して手に持った。

「ガザンどうしたの?」

「分かりません」

ガザンがノッシノッシと歩く。 そのリードを持つセキ。 その後を歩く紫揺。 と、ガザンがいつもの散歩のように庭まで出ると腰を下ろしゆっくりと伏せた。

紫揺とセキが目を合わす。
ガザンの視線の先、そこは芝生の先に西の小門が見えるだけ。

「セキちゃん? ガザンは何か言いたいの?」

「わ、分かりません」

「そう・・・」

と言い置いて、二呼吸置くと、セキを呼んだ。

「セキちゃん・・・」 ワントーン落とした声でセキを呼ぶ。

「はい」 セキはリードを握りしめている。

「ガザンが何を考えているかは分からないけど、お願いしたいことがあるの」

「え?」

「ガザンを貸してほしいの」

「貸す?」

どういうことだろう、全くもって意味が分からない。

「理由を言ってしまうと、セキちゃんが問われるかもしれないから理由は言えない。 でも、一日・・・うううん、二日ガザンを貸してもらえる? それがいつになるかは分からないけど」

「ガザンを貸す?」

「うん」

「シユラ様?」

「駄目? 駄目だったら言って」

セキがその歳に似合わない笑みをこぼす。

「シユラ様はガザンのお友達です。 ガザンがシユラ様をお友達に選んだんですから。 ベロンってシユラ様のお顔を舐めました。 ガザンに用がある時にはシユラ様がガザンに言ってください」

自分の許可など要らないと言っている。

「でも、ガザンだけじゃなくて、私にも何か言ってください、お手伝いします」

紫揺の目が驚きを見せる。

「え?」

「あ、その時にはガザンの許可は要りません」

「セキちゃん・・・怒ってないの?」

「怒るなんて!」

「私の言い方が悪かったんじゃないの?」

「そんなことありません。 ただ、シユラ様の言葉が有難くって、あんまりにもビックリしただけで・・・」

「じゃ、怒ってないって思ってもいい?」

「もちろんですっ!」

両手で拳を作って胸の前に当てた。
余りに懸命になるセキの姿が可愛く「ありがとう」 と呟く。 セキもその言葉に笑みで応えた。

「シユラ様?」

「うん?」

「ガザンはどうしてここに伏せていると思いますか?」

可愛らしい目を紫揺に向ける。 その手には今もしっかりとリードが握られている。

「・・・どうしてだろ」

眉根を寄せ、さらに首を捻る。

「セキちゃんはどう思う?」

「分かりません。 こんなことなかったから。 でも、あの小門は・・・」

小門に目を転じた。

「うん。 あの門の向こうに獅子がいるよね」

「知ってるんですか?」

驚いた顔で紫揺を見た。

「うん。 ムロイさんから聞いた」

ニコリと応える。

この内容で普通なら二コリとは応えないだろう。 でも、紫揺には考えていることがある。
この屋敷からの脱走計画。 それを考えるとニコリとなってしまう。 完全に出来るはずだから。 何の不安もない、自信がある。 ガザンが協力してくれるはずだ。 ガザンを上から見る。 ガザンはただ前を見据えている。 その目には小門しか映っていないはずだ。

(お願いねガザン)

心の中で言いながらも不安などないのだから、脱走計画に対して心が満ちる。

(家に帰る。 帰ることが出来るはず)

まずは両親の遺骨に、位牌に手を合わせたい。 両親に会える。 目を瞑ると、より一層先のことに心が満ちた。 先のことが具体的に何かあるわけではないが、家に帰ることが出来る。 何か月も放ってしまっていた両親の遺骨。 心配事が一つづつ片付いていくのではないかと思う。 それに気になっていた会社のことも。

瞑った目の中であれやこれやと片付いていく様が見える。 いや、決して両親の遺骨を片付けたいと思っているのではない。 ただ、放っておいたことが何よりも気がかりだった。 それが解決できる。

「シ・・・シユラ様・・・」

セキの呼ぶ声に紫揺が目を開ける。
今は五月も下旬になっている。 目の前の芝が生き生きとしているのは当たり前なのだが。

「な! 何これ!?」

一面芝生のはずなのに、可愛らしい野花が咲いている。
ガザンが野花に鼻をくすぐられ迷惑そうな顔をしていた。


屋敷の窓からその様子を見ていたトウオウとアマフウ。

「シユラ様も困ったもんだな」

「分不相応とはこのことね」

「ホントにそう思ってる?」 アマフウを振り返りトウオウが言った。

「そのものじゃない」

窓に一歩進み出る。

「そうかな?」 頭の後ろに手を組む。 「で?」 とアマフウを凝視すると続けた。

「あと少し付き合ってちょうだい、って言うのはどういう事かな?」

自分は領土に残ると言った時、それを反対したアマフウが言った台詞。

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虚空の辰刻(とき)  第83回

2019年10月04日 22時11分07秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第80回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第83回



「いい加減にしなよ」

三匹の狼たちを目の前にしてシグロが目を光らせながらも歎息を吐くという、とーっても恐い表情を作った。
目の前の三匹の茶の狼が尻尾を股に入れている。

「お前たち・・・」

茶の狼たちが更に更に必要以上に尻尾を股に押し込む。

「何度言ったらわかる!」

茶の狼たちが垂れていた頭を更に垂れ前足を突っ張る。

「マツリ様をご案内できたのもギリギリ。 尚且つ、領主の居た家を見ていたお前はマツリ様とシキ様の気配も感じず・・・ましてや飛び上がったなど無様な姿を見せおって!」

茶の狼の一匹はマツリとシキの姿を見て飛び上がった狼だったが、他の二匹は領主を探せと言われ、その足取りをとった足の速いだけが取り柄の二匹だった。 そこまでは良かったがこれが間の抜けた報告だった。

「お前たち三匹は! 何度言っても!」

シグロが特に日中、寝る間を惜しんで指導している足だけが速い間の抜けた三匹だった。

「領土の土地も未だに頭に入っていないのだろう!」

「・・・」

返せる言葉などない。

「お前たちは! 当分領土の中を歩け! 昼夜に構わずな!」

と言った途端、昼に歩きまわっては、この間抜けな者たちは民に見つかるかもしれない。

「昼は山の中、夜に人里を歩き回れ!」

尻尾を丸めたまま茶の狼が下がる。

「全く!」

こんな指導は自分ではなく、他の者がするべきだろうと鼻息を荒くする。

「ハクロのやつ・・・」

グデングデンと回廊下で呑気にしている姿が浮かぶ。

「今度会ったら問答無用に叩きのめしてやる!」

これを八つ当たりと言うのだろう。



北の領主に言い放った後、マツリとシキが宮に戻った。 キョウゲンとロセイも巣に戻っている。

「どうぞ」

シキがマツリに茶を出した。

二人が居るのは茶室。 基本板間の作りの宮であるが、茶室と領主家族と従者の居る各部屋、接待をする部屋の一室だけには奥に畳が敷かれている。

「有難うございます」

右手で椀を取ると一気に飲み干した。

「あら、喉が渇いていたの?」

目を真ん丸にしている。

「アレコレと考えていましたら・・・。 ですが、いつも姉上が淹れてくださる美味い茶でありました」

ちゃんと味わったと主張する。

「いいのよ。 そんなことを言わなくても」

言うとまたマツリの為に茶をたて始めた。

「それに堅苦しくのまなくていいのよ」

そんなことが苦手なマツリに一言添える。

シキの気遣いに顔をほころばせながら疑問を投げかける。 ただ、その疑問より先にシキのことを想うと他に訊きたいことはあったが、こちらの方を先に訊かなければ話が出来ない。

「姉上、北の領主は紫を隠しているとお思いですか?」

「ええ。 隠しています。 それはマツリも分かっているでしょう。 ですが・・・」

と、怪しげな目をマツリに送る。

「分かっていることをどうして訊くのですか?」

「あ・・・いえ。 我はその、姉上の言う・・・娘という者に会いました。 到底、五色とは思えない娘でした。 いえ、姉上を疑っているのではありません。 ですがあの娘が五色の、東の紫と言われましても納得いくことが出来ず・・・」

「マツリを視ようとは思いません。 ですが、マツリの見たその娘が紫に間違いはありません。 そして紫を隠しているのは北の領主です」

マツリの前に茶を出す。 お辞儀をしたマツリが椀を持つ。

「勿論です。 姉上に間違いなどありません。 ですがどこに隠しているのでしょう?」

「そこまでは分かり得ませんでした。 ・・・何か霞がかかったようで」

「姉上が視ることのできない霞がかかった場所? そこにあの糞生意気・・・いえ、あの娘が居ると仰るのですね」

そう、あの娘が本当に紫なのかを確認したかった。 あの娘が五色などと、ましてや東の領土と共にシキも待っていた紫などと有り得ないと思ったからだ。

「こんな、霞がかかったようなことは今までにありませんでしたが・・・」

「そうですか。 姉上のお考えもありましょうが、三日と期日を切りました」

「霞がかかっているような場所よ。 それに私たちは飛ぶことが出来るけれども、領主は紫を連れて馬に頼った後、歩かなければなりません。 三日では本領に来られないでしょう?」

あの時、三日では無理でしょう? と問いかけたかったが敢えて口を噤んだ。 マツリに何か考えがあるかもしれないと。

「はい、敢えて三日と言いました」

「どういうこと?」

手の中にある茶を一口飲む。

「娘を連れてこられなくても良いのです。 ですが、三日以内に申し開けばいいのです。 あの北の領主ならばそれを考えるでしょう」

「そういうこと・・・」

北の領主とは今まで通ずることがなかったが、視たことによって、今回初めてまともに話したことによって、ある程度の人となりが分かったつもりだ。

「姉上」

「なぁに?」

「どうして・・・」

言いかけて口を噤む。

「どうしたの? 言ってごらんなさい」

「・・・どうして、北の領主を責めなかったのですか?」

それが一番の疑問だった。

「え?」

「東の領土の紫が居なくなって何十年。 東の領土の民がどれだけ悲しんでいるのかを姉上は誰よりもご存知です。 なのに北の領土は紫を隠していました」

マツリが言いたいのは、どうやって時の本領領主の目から逃れたのか、崖から落ちた紫を見つけた北の領土の人間がそのまま紫を囲い、そしてあのクソ生意気な娘が崖から落ちた紫の子孫だとすれば、東の領土の民のことを思うシキにすれば、責めても責め足りないだろうと言っている。

「マツリ?」

「はい」

「あなたは誤解しているわ」

「どういうことですか?」

「もちろん、東の領土に紫を返してほしい。 一日も早く。 ・・・東の領土の民のことを思うと、私のしたことは愚昧だったのかもしれません。 マツリが思うように。 ですが、東の領土さえ良ければそれで良いということにはなりません。 北の領主に分かってもらわなくてはなりません。 一日でも早く東の領土に紫を返したい、それはもちろん私も思っています。 ですが、それだけでは済まないこともあります」

「姉上・・・」

己の短慮を恥じた。

「それに北の領主を視た時に霧がかかったと言いましたね?」

「あの糞生意気な娘を視た時ですね?」

「え?」

「あ・・・。 紫という娘を視た時ですね?」

「え・・・ええ」

マツリの顔を見るが、シキと目を合わせないようにしているのか、視線を逸らせている。

「はい、霞がかかったようだと仰っておられましたが?」

明後日を見ながら言う。

「ええ、そうなの」

「霞がかかっていなければ、姉上がすぐにアイツ・・・紫を迎えに行ったのですか?」

言葉を重ねる度に紫揺に対して憤りを感じる。 何故だろう・・・。

「あいつ?」

「いえ。 聞き違えでしょう。 霧がかかっていなければ姉上は紫を迎えに行ったのですか? そう言いました」

「それは・・・無いでしょう」

「あれ程に東の領土の民のことを思っているのに?」

「先程も言いました。 東の領土の民だけのことを考えてはなりません。 ですが場所を特定はしたかったのですが・・・」

「姉上・・・」

場所を特定したいというのがシキの何もかもの本音なのだろう。



「隠し通すしかない。 あの地にムラサキを囲っていればいいのだから」

だが、紫揺がどこに居るかは分からなくとも、領主のその心を視られる。

「伏せるしかない」

紫揺がこの北の領土に娘と呼ばれる者として入ってきたことは既に視られた。
その後、本領にこの北の領土を自由に探せと言った。 何故なら、紫揺は既にこの領土に居ないのだから。 異界のあの地に居るのだから。 異界に居てはあの視気と言えど紫揺の居所はつかめない様だった。

「心を穏やかに持てばいい。 それだけのこと」

視気をやり過ごそう。

腰を上げた。 だがこの地からあと二日以内に本領に行くにはかなり厳しいものがある。

「厭な期日を設けたものだ」

出来ることをやるしかない。  馬に乗ると今までとは違った方向に手綱を引く。

「山に走れ」



馬が走る後ろで木々の枝が揺れている。

「飛ばし過ぎだろう」 ゼンが言う。

「馬が疲れると言いたいのか、お前が疲れたと言いたいのか?」

影が一瞬木の幹に姿を現すとすぐに消え、先の場所に姿を現す。 それを繰り返している。

「吾が疲れたなどとは言っておらん。 あの馬、潰れるやもしれんぞ」

セノギが休みなく馬を走らせている。

「たしかに、このままいくと潰れるやもしれんな」

「どうする?」

「・・・」

「止めた方が良かろう」

「確かに」

その時、セノギが馬を走らせながら大声で呼んだ。

「ゼン、聞いておられますか?」

「然に」

「私が明日までに本領に行くのはあいなりません。 ヒオオカミに使いをしてほしいのですが、それは可能ですか?」

領土の者が畏れているヒオオカミ。 茅葺屋根でムロイが紫揺に言わなかったことがこれだった。
ヒオオカミがマツリの足元にあるという事。 だが言葉が通じるまでは知らない。

「・・・ヒオオカミ? ・・・吾等の手中にはない」

「そうですか・・・」

「ヒオオカミに使いとは?」

「どうすればいいのかは分かりません・・・」

ゼンたちにはヒオオカミと通ずる何かを持っていると、どこかで思っていたがそうでは無かったようだ。

「・・・心より伝えることしか出来ません」

ゼンとハンが目を合わす。 ゼンがゆっくりとセノギを見た。

「そうか。 だが、ヒオオカミの存在があればそれを教えることは出来る」

「ゼン!」

セノギに聞こえない声でハンが続ける。

「万が一があったらどうする!」

二人でヒオオカミからセノギを守ることなどできない。

「その時はその時。 セノギも本望だろう」

「・・・冷たいやつだ」

馬上から声が聞こえる。

「願ったりです! 存在があれば教えてください!」

「承知。 だが馬を止めよ」

「え?」

「このまま走らせると潰れる。 休みを入れよ」

分かっていたがそれが出来なかった。

「ですが! 間に合わなければ―――」

「このまま走らせるほうが見通しが無いに等しくなる」

「・・・分かりました」

手綱を引き馬を歩かせる。

休憩家まで歩かせると水を飲ませ、僅かな時の休みを取らせただけで、またただひたすらに馬を走らせた。

ヒオオカミが己の存在を見て訝し気に思えばそれに越したことはない、そのことしか頭になかった。

「ヒオオカミ! 出てくれ」

馬上で身体を揺らせながら歯を食いしばって言う。

結局、辺りが暗くなり殆ど視界が利かなくなるまで馬を走らせた。 そしてようやく休憩家についた。

久しぶりの乗馬、身体中が痛かったが馬は自分以上に疲れただろうと思う。

「あと・・・明日だけ、頑張ってくれ」

水をがぶがぶと飲んでいる馬を見ると、悪いと思いながら腰を曲げると組んだ両腕に額を当てた。



「で? 紫さまは今どこに?」

電車に揺られながら醍十が尋ねる。

「あの怪しい島に居られるかもしれん」

「怪しい島? かもしれん?」

「言っておく! 情報は入ってくるが、俺は塔弥から聞かされたお前を迎えに行くので精一杯だった。 お前に時を割くより一時でも紫さまをお救いしたいのに! お前が邪魔をしたんだからな!」

「あ・・・悪い」

「・・・呑気な」

これ見よがしに大きく溜息を吐くが、何時ものことと分かっている。 それにこれが醍十だ。 分かっている。

「怪しい島って・・・」

「ああ、紫さまが北に行かれたと聞かされた直前に分かった島だ」

「その後、島を見に行かなかったのか?」

「お前・・・何を人ごとのように言うんだ?」

「いや、怪しいと思ったのにその島を探さなかったのか?」

「行けるわけがないだろう! 動けるはずがない! 紫さまが北の領土に入られたと聞いたんだから! 全員の力が抜けたんだから! お前なんて最たるものだろう!」

「え?」

「え、じゃないよ! トボトボと領土に帰って崖近くを彷徨い歩いてたんだろうがっ」

「あ・・・」

「あ、って・・・」

野夜が頭を抱える。

「とにかく、今頃一から出直して動いているはずだ」

「そ、そうか」

そういえばと思い出す。

「此之葉はどうなった?」

「俺も詳しくは知らないが此之葉のことだ。 仕事のシステムを分かり得て、ハローワーク に行ったそうだ」

「はろーわーく?」

「そこで目を光らせていたら、適任を見つけたらしい」

「え? もしかして古(いにしえ)の力を使ったってことか?」

古の力でその者を紫揺の居た会社、紫揺と此之葉の後任にするのは容易いことであったが、その力を簡単に使うことはない。

「使っていない。 多分使えば簡単だったろうがな」

「ではどうやって?」

あの、口数の少ない此之葉がどうやって引き込んだのだろう。

「俺もよく分からない。 あの会社の給料はさして高くはないが、社員たちの人となりを説明したのだろう」

「それだけで、あの会社に入ったというのか?」

「此之葉は言葉数は少ない。 だが心がある。 それを受けたのだろう。 受ける心を持った者を見抜けるのも此之葉だ」

「・・・そういうことか」

「そうだ」

「今、此之葉はどこに居るんだ?」

「紫さまの居られた家を守っている」

「そうか・・・」

「此之葉のことを中途半端にして、お前しっかりしろよ」

「お、おう。 任せておけ」

野夜がもう一度頭を抱えた。

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