大福 りす の 隠れ家

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第93回

2022年08月29日 21時03分08秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第93回



昼餉時には民に呼ばれ、まるでピクニックのように皆で屋外で食べた。

「紫ちゃま、ガザンは?」

母の膝に居た幼子が訊いた。

「え? ガザンを知ってるの?」

幼子が頷き、母親が説明をする。

「時々とも言えない程ですけどこの辺りまで何度か。 最初はみんな恐がっていたんですけど、ガザンの噂は耳にしていましたので。 それで男がガザンの前に出ましたら、ガザンに臭いを嗅がれただけで終って。 それからはこの辺りの全員がガザンの前に出ました。 噂のガザンの合格の印を押してもらわなくてはと。 するとどうしてか子供たちがガザンを気に入りまして。 ガザンが来るたびに子供たちがガザンに付いて歩くようになりました」

こんな所にまでガザンは来ていたのか、それも何度か。

「そうだったんですか。 ここまで来ているとは知りませんでした」

そこまで言って幼子に目を合わせる。

「ごめんね、今日ガザンは一緒じゃないの」

一瞬目を丸くした幼子だが、紫揺に声を掛けられて喜んでいる。

「ガザンは紫さまのことが心配なんでしょう。 ガザンがあちこち見回っているのを誰もが知っていますから」

「だったら、今日もついて来てくれればよかったのに」

「お転婆に預けたんでしょう」

すかさず塔弥の言葉が入った。

「預けるって・・・」

そのお転婆は長い綱を木に引っ掛けられてはいるが、結構自由にして砂浴びなどをしている。

他の馬は時々誰かが乗って運動をさせたりしているが、お転婆だけは紫揺でなければならない。 万が一、紫揺が長くここを空けるということにでもなれば、塔弥か阿秀がなんとかするだろうが、紫揺が居る以上は塔弥も阿秀も避けて通っている。

陽が沈む前に厩に戻ってきた。 無事今日一日が終わった。 今日、紫揺をお転婆で出すことにはかなりの勇気がいったが成功に終わったようだった。
お転婆も特に走り回るということは無かったが、久しぶりの外ということで満足したようだ。 紫揺がお転婆の手入れが終わるころには夕餉の刻となっていた。


川の清流に足をつけると、しっとりとかいた汗が流される。 それが気持ちの良い季節となってきた。 東の領土の短い夏が始まろうとしていた。

数日前に降った雨が、川の水嵩を多少深くはしていたが濁りなく流れている。 木々の葉は深緑に染まり、瑞々しさが葉を生き生きとさせている。


「あんたー!!」

悲鳴にも似た女の声が頭上から聞こえた。
紫揺とお付きが上を見上げる。


今日は久しぶりの遠出だった。 遠出だというのに珍しくガザンが付いてきていた。 紫揺はもちろんお転婆に騎乗してのことだ。
一番近くの辺境近くまで足を向けている途中で、広い滝壺で休憩を取っていた時のことだった。

紫揺たちが見上げた滝の上、水が落ちてきている横から人影が落ちてきていた。
長靴を脱いで下穿きを膝までたくし上げ、川に足を着けていた紫揺も、川の水を手ですくっていたお付きたちの目も大きく開いた。

見上げた時には普通のスピードで見えていたが、誰もが目を見開いてからは、影がゆっくりと落ちてくるように見えた。

「落ちてくる!」

誰が言ったのだろうか、途端スピードが戻った。
落ちてくる影が男だと分かる。 手足をバタつかせている。

落ちる前なら、自分達が上にいたなら、手を伸ばして助けられたかもしれない。 だが今は助けようがない。
全員が目を逸らそうとした時、落ちてくる人影に向かって紫色の一筋の光が発せられた。
光は落ちてくる男を捉えると包むようにして広がり、男を包み込むとゆっくりと地に下ろした。 男が地に身体を着けると輝くように紫の光が消えた。

呆気に取られているお付きたち。 そっと地に下ろされた男も何があったか分からない顔をしている。
頭上では男の女房だろう、女が身を乗り出して固まっていた。
その中で大きな声が響いた。

「紫さま!!」

塔弥の声であった。

ゆっくりと首をそらして後ろに倒れてゆく。 倒れゆく紫揺を腕に抱いたのは近くにいた阿秀であった。


溜息をつきながらあと少しで夕刻という空を見上げた塔弥。 その目にこちらに向かってくるキョウゲンの姿が映った。

「くそっ、どうしてこんな時に」

一瞬にして声に出してしまったが、こんな時だから良かったのかもしれない。 全くどうなっているのかが分からないのだから。
領主の家に走った。

すぐに秋我がマツリを迎えに出る。 マツリがいつも降りる緑が広がる草の上に降り立った。

「マツリ様、如何されましたでしょうか」

「ああ、四の月の満の月、紫の誕生の祭はどうだった?」

まさか開口一番そんなことを訊かれるとは思いもしなかったし、まずこのタイミングでマツリが来るとも思ってもいなかった。 領主である父親と口裏合わせをする間もなかった。

「ええ・・・民が紫さまのお姿を見て喜んでおりました」

「二十三の歳の祭だったな」

「・・・はい」

秋我の歯切れの悪さにチラリと視線を送ったが、特に何を言うこともなかった。

「領主に話があるのだが」

何の話かと思う一方でホッと胸を撫で下ろす。 領主との話であれば紫揺のことは関係ないだろう。 今マツリが紫揺の話をしたのは時候の挨拶のようなものだろう。 紫揺のことで何を問われることもないだろう。

「はい、今は家には居りませんでしたので、呼びに行っているところです。 どうぞ我が家に腰を下ろして下さい」

「ふむ、邪魔をさせてもらう。 耶緒の具合はどうだ? あれから調子は良いか?」

「はい、ご心配をお掛け致しました。 あれはいったい何だったのだろうと思う程に落ち着いております」

紫揺の話しから遠ざかり更に胸を撫で下ろす。

領主の家に入りいつも紫揺たちが話している席に着いたマツリ。 領主はまだ戻って来ていないようだ。
マツリの斜め前に座り、明るい所でマツリの顔を見た秋我。

「マツリ様、お顔の色が優れられておられないようですが?」

奥から耶緒が盆に茶を乗せて入ってきてマツリの前に置く。

「ああ、暫く本領が忙しくてな。 だがもう落ち着いた」

考えればリツソが攫われたことから始まった。 紫揺を地下に入れ杠を助け出した後に色んなことが判明した。
咎人を捕らえたり、その後は立ち合いが続き、攫われた者たちが売られた後を探したり、滞っていた四方の仕事の手伝いと怒涛のような日々だった。 だが疲れはもう取れたつもりであったが、まだ見た目に残っていたのだろうか。

「耶緒、息災のようだな」

見ると遠慮がちに腹が膨らんでいる。

「ご心配をありがとう存じます」

「大切な身体故、無理をすることの無きよう」

「はい」

微笑み、辞儀をすると奥に入って行った。

「領主にお話ということですが、何か御座いましたでしょうか」

「・・・ああ、まぁな」

今度はマツリの歯切れが悪い。 そんな時に領主が家に入って来た。

「お待たせいたしまして申し訳御座いません」

「いや、急に来たのは我の方。 気にすることはない」

領主がマツリの前の席に着いたが走って来たのだろう。 少々息が上がっている。 奥から耶緒が出て来て領主の前にも茶を置く。
マツリが茶に口をつける。 そうしなければ領主が茶を飲むことが出来ないからだ。

「お気遣い有難うございます」

そう言って領主がごくごくと一気に飲み干した。 すぐに替わりの茶を耶緒が用意する。

「申し訳御座いません。 このような歳になりますと少々走っただけで息が上がってしまいまして。 若い頃には想像も出来ませんでした」

「いや、走らせたのは我だ気にせずともよい」

領主が頭を下げる。

「して? 今日はどのようなことで?」

「ああ・・・」

目を宙にやるマツリ。 ゆっくりとその目を下ろしてくると大きく息を吐く。
どうしたことかと領主が秋我を見たが、秋我も首を振るしかない。

「紫のことだが」

領主がグッと喉を閉め、秋我が唇に力を入れる。
二人の表情になにか異なるものを感じた。

「どうした?」

「あ、いえ・・・その、紫さまのことで何か・・・」

マツリが眉間に皺を寄せた。 己の気を集中させ探し物をする。

(・・・おかしい、紫の気が弱い)

どうして気付かなかったのか。

「紫に何かあったか。 いや・・・倒れておる、か・・・」

一瞬、顔を歪めた領主が諦めたように話し出す。
一昨日の出来事を。

「紫の光?」

「はい。 紫さまの額にあった紫水晶からです」

その紫水晶は紫揺の為に作られた額の煌輪と呼ばれるもので、飾り石職人が最初に手にしたときより、紫揺が一目見た時から輝きを増しているらしいと説明をした。

「その後に紫さまが倒れられまして・・・」

「そのまま起きてこないということか?」

「はい・・・」

「一昨日か・・・どこか異変は? 熱は」

「いつもの眠られている紫さまで御座います。 変わったところなど見受けられないとのことで、お熱も御座いません」

領主の返事を聞いて分かった。 今まで紫揺に付いていたのだろう、少しの時を惜しんで。 言い変えればそれほどに紫揺の状態が分からないのだろう。

「此之葉はなんと?」

「此之葉も全く分からないようです。 此之葉が師である独唱様と唱和様にも訊ねましたが、お二方とも分からないと」

「ふむ・・・」

マツリが指を曲げ顎に添え目を瞑る。 今まで読んできた五色についての本の頁をめくる。

「・・・心当たりがなくもない」

「え?」

マツリが腰を上げた。

「紫を本領に連れ帰る」

「マツリ様!」

「気に病むことは無い。 東の領土から紫を取り上げるのではない。 一旦本領に連れ帰るが、紫が落ち着けば東の領土に帰す。 ・・・紫は」

そこでマツリの口が止まった。

「マツリ様?」

大きく息を吐いたマツリ。

「・・・余りにも力が強いようだ。 東の領土の初代五色に匹敵するかもしれん。 だが初代は自覚があった。 何もかも分かっておった。 しかし今代の紫は違う」

マツリの言わんとしていることは分かる。 紫揺は未だに領土のイロハさえ分かっていない。 それは仕方のないことだ。 この領土で生まれ育っていないのだから。 この領土で生まれ育っていれば、幼少の頃から紫としての色んなことを肌で感じ ”古の力を持つ者” お付きの者、そして民から声を聞く。 それが紫としての勉強になり自覚ともなる。 だが紫揺にはそれが無かった。

「このまま東に置いてはおけん。 何が起きるか分からん。 一旦、紫を本領で引き取るだけのこと、案ずることは無い」

紫である五色の故郷は本領なのだから、五色の力を知りつくしているのは本領。

それでなくてもこの東の領土では、先の紫が突然いなくなった。 紫揺に紫の力を指南出来る者などいない。 “古の力を持つ者” の独唱や唱和の師なら言えたかもしれないが、師にはそれを伝え聞かす時がなかった。 独唱も唱和も幼過ぎた。 それに当時は襲われた先の紫の気を追うことを、唱和より更に歳浅い独唱に教えるので精いっぱいだった。

マツリが歩き出すと秋我がその後を追う。
既に紫揺の家には行っている。 どこが紫揺の家かは分かっている。 秋我の先導など必要ない。

「入ってよいか」

紫揺の部屋の前で声を掛ける。
此之葉が大きく目を開けた。 マツリの声だ。 マツリが来たとは聞いていたが、まさかここにマツリが来るとは思ってもいなかった。

「あ・・・」

きっとマツリが来たと聞いた領主が、何もかもをマツリに話したのだろう。
此之葉が戸を開けるとそこに間違いなくマツリが立っていた。

戸を開けられ、大股に歩き紫揺の寝かされている布団の横に片膝をつく。

「薬湯を飲ませたか?」

「いいえ、お目覚めになられませんので、お飲みいただくことが出来ておりません」

「そうか・・・。 ふむ、それで良い」

マツリが紫揺から目を離した。 紫揺の枕元にはサークレット、額の煌輪が絹の座布団の上に置かれている。

「これか・・・」

領主が言っていたもの。 無造作にそれを手にする。 そして見る。 その輝きを視る。
マツリの目は魔釣と身体の状態を視るだけの目ではない。 力を視るということも出来る。

「この石は紫と共鳴できるようだな」

「え・・・?」

ふとマツリが視線を上げる。

「あの紫水晶は?」

以前来た時には無かったはずだ。 大きな紫水晶が絹のお座部の上に座っている。 紫揺が花冠を置いていた所に置かれている。

「飾り石職人が採掘しました。 あの石を紫さまの飾りにと職人が思ったのですが、紫さまは削ることを厭われてここに置かれました」

「・・・そうか」

この石が削られなくて良かった。 この石が削られてしまっていれば、取り返しがつかなかっただろう。

この石は紫揺の・・・紫の為にある石。

初代紫が後の紫の為に力を宿した石。 紫揺はそれをどこか肌で感じたのだろうか。
初代紫の力が想像以上だということを思い知らされる。 五色の、一人で一色を持つ者、この東の領土での初代紫は、その強大な力に苦悩があったのかもしれない。

紫揺の顔を見る。 血色が悪いようには見えない。 領主が言ったように、ただすやすやと眠っているようだ。

「領主には申した。 紫を本領で預かる」

此之葉が何かを言いかけたが、それを畳み込むようにマツリが言う。

「案ずるな。 紫が落ち着けば東に戻す。 これらも預かる。 良いな」

これらとは額の煌輪と大きな紫水晶。
石も額の煌輪も持っていくことに否と言う気はないが、紫揺の身は・・・。

「紫さまにお仕えするのはこの私です」

「では明日にでも此之葉も本領に来るがよい。 本領が拒むものではない。 だがそうそう早くに紫は返せんだろう。 紫がいないこの領土を、力のある者が空けるというのには感心せんがな」

此之葉の言い分も分かる。 “古の力を持つ者” として尤もなのだから。 だが紫揺を預かっている間に東の領土に何かあれば、いや、何かある前に異変を感じられるのは此之葉だ。 事前に何か手を打つことが出来るかもしれない。
東の領土は長い間安定をしている。 万が一などとは考えられない程に。 だが災害はいつ起こるか分からない。

「これは精緻な故、何かに包んだ方が良かろうな」

言われてしまった此之葉が額の煌輪を手巾で包んだ。 勿論大きな紫水晶も。

「秋我、書くものを借りたいのだが」

「すぐにご用意いたします」

マツリが何やら書き終えると片手に持ち、手巾に包まれた額の輝輪と大きな紫水晶を懐に入れた。
布団を剥ぐと紫揺は夜衣のままだ。

「マツリ様!」

思わず秋我が叫んだ。

「紫を包むものを」

此之葉の手から薄い布が渡された。 薄い布にはしたくなかった。 だが季節を考えると厚物にしては紫揺が茹ってしまう。
渡された布で紫揺を包むと抱きかかえる。

「東の領土から紫を取り上げる気はない。 だが今の紫をこのまま置いておくと、東の領土にも紫にも良いことは起きん。 良いことどころか、紫が良いと思ってしたことが、紫自身を徐々に潰していくことになりかねん」

「・・・え?」

「それほどに紫の力は強い。 この力を抑えることを教える。 五色の郷の責として」

「マツリ様・・・」

マツリが紫揺を抱えて家を出ると、領主が頭を下げて待っていた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第92回

2022年08月26日 21時00分46秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第92回



「厩でよく働いたんですってね」

盆を卓に置くといつも通りに紫揺に湯呑を渡す。

「紫さまに厩の掃除をさせるなんてね」

此之葉は見ていないが、葉月はどこかで見ていた民に聞いたのだろうか、放っておけない事である。
五色である紫に厩の掃除などさせていたなどと、民が怒ってしまうかもしれないという懸念をいだく。

「誰から聞いたの?」

「ああ。 民じゃないから。 塔弥から聞いたから安心して」

塔弥と聞いて此之葉がホッと息をつく。

「此之葉ちゃんって、心配性なんだから」

此之葉に向かって言うと、何のことかという顔をしている紫揺に声を掛ける。

「いくらでもどこでもお揉み致しますよ。 一番はどこですか?」

「あ、取り敢えず・・・腰かな」

「はい。 では湯呑のものを全部飲んでうつ伏せて下さい」


塔弥が独唱と唱和の元に行ったが “何か大きなものを感じる” やはりそれは漠然としていて掴みきれないという。
ただ、ここのところ僅かにだが、日に日にその大きさが増しているようになっているという。 そして未だに悪しきものか良きものかが分からないと。
独唱と唱和が言ったことを葉月に伝えることは出来ない。 葉月が今よりもっと不安に思うだろうから。 だが領主には報告しなくてはならない。 重い足を領主の家に向けた。

「それは・・・まさか、紫さまの憂いに繋がるのではないのか?」

紫揺の憂いは何なのか塔弥と葉月は聞いている。 だが領主にも此之葉にも言っていない。 それは塔弥の判断だった。

「・・・え」

「紫さまはまだ憂いのことは話されていないのか?」

「・・・はい」

答えにくそうにした塔弥の様子を、まだ訊けていないことへの責不十分と理解したのかもしれないと、領主が慌てて手を振る。

「いや、塔弥を責めているわけではない」

領主に言われて初めて気付いた。 独唱と唱和の言うところの “大きなものを感じる” それは紫揺とマツリの関係なのだろうか。

五色の力を持つ紫揺。 大きく花を咲かせ民を驚かせた。 力の使いようが少しづつ分かる中で雨が続いた辺境に行くと、地盤が緩んできていると地から水を上げ川に戻すこともあった。
塔弥らには計り知れない力がある紫揺。 それにマツリの力も全く分からない。 知っているのは魔釣の力があるということだけだ。 そしてそれがどういうもので、どれだけ大きいのかを知らない。

その二人が、紫揺から聞いた話からどうにかなってしまっていれば・・・敵対してしまっていれば、それとも葉月の言うように紫揺がマツリに心を寄せていれば、大きな力が働くのかもしれない。 それとも紫揺が己にマツリのことを話したことで、何かが変わったのだろうか。

「・・・申し訳ありません」

色々考えた。 だがここにきても紫揺とマツリのことは言えない。 
紫揺の戸惑いを思うと言いたくない。 お付きとして失格だということは分かっている。 お付きどころかこの領土の民としても。

「いったい何が起きているのやら・・・」


数日後、お付きたちが次々に戻ってきた。 その疲れは顔を見ただけで分かる為、紫揺には見せることは無かった。

「どうだった」

領主が最後に戻ってきた阿秀に訊く。

「どこにも異変はなさそうでした」

阿秀が一番遠くに行っていた。 まずは領主の元に行く前に他のお付きたちからの報告を聞いた。 領主にしても戻ってきた順にお付きたち一人一人から聞いている。

「領土に異変がない。 だが “古の力を持つ者” 皆が何かを感じている・・・」

「・・・紫さまでしょうか」

疲れた顔を領主に向けると続ける。

「紫さまに異変は?」

「特には無いと見える。 塔弥からも秋我からもそう聞いておるし、遠目で見ている私の目からもそう見える」

「その後 “古の力を持つ者” は何か仰られましたでしょうか」

「・・・大きくなっていると」



「マツリ様、お顔のお色が優れないようですが?」

「そのようなことはない。 それより父上にこき使われているようだな」

四方に括られているマツリと杠が回廊を歩いている。

「勉学になります」

「六都はどうだ?」

「諍いが多すぎるかと。 税もまともではないようです」

「税? 父上からそんなことは聞かなかったが?」

「四方様は他のところに目をお移しになられているかと。 下九都(したここと)は色々と苦しいようですが」

「下九都?」

以前、四方から聞かされていた。 辺境からの横やりがあったと。 まだ落ち着いていないということか。

「六都は官吏が怪しいということか?」

「まだ時が浅いので、そこのところは何とも」

杠自身は時が浅いと言うが、この短期間で気付いたというのは大きいのではないだろうか。 杠の才もあるだろうが、六都の納税がまともでないのが目立っているほどなのだろうか。

「杠は算術・・・書類に長けているようだな」

その杠は四方にとって良い片腕になるだろうが、四方の片腕に据える気はない。

「いいえ、己の思い違いかもしれません」

「そうか。 杠、いつまでも父上の元に置いているつもりはない」

「はい」

「もう少し待ってくれ。 今は片手にも足らんが杠の配下の者を集めている」

「配下?」

「杠に下を付けるということだ」

杠が顔を強張らせる。

「己は、己がマツリ様の手足となりたいと申し上げました」

「ああ、分かっている。 十分に手足となってもらう。 その頭領にな」

「・・・頭領?」

「その為の官吏の資格、杠の隠れ蓑だ。 それにその資格があると動きやすいだろう。 単純に門の出入りにしても、いちいち誰何され、俺の許可の確認などというようなことをしなくて済む」

宮の大門ではなく、官吏の門から出入りさえすれば、誰何されることもマツリの許可を取らなくても済む。
それに杠はマツリ付の官吏である。 武官としての試験は受けたが文官の二次試験は受けてはいない。 だがマツリ付であれば、本格的に文官に就くというわけでなければそんなところも簡単に融通できる。

「他にも利点が山ほどある。 これからは前より動いてもらいたい。 だがそれは杠の手足となる者を動かすということだ。 杠には基本宮に居てもらう。 だが・・・」

そう言うとマツリが口角を上げて続ける。

「杠が宮に居ては肩が凝ると思えば宮を出てもらって構わない」

「・・・え?」

「走り回ってもいい。 俺の心配をかけない程度に」

「マツリ様・・・」

「さっきも言ったが、悪いがもう少し待ってくれ。 杠の下に置く者を徐々に集めている」

杠が息を吐いた。

「マツリ様、今晩はゆるりとされますでしょうか?」

地下の者たちや官吏、見張番たちの咎を下した。 それからは杠と体術の稽古が出来るはずだったが、四方の溜まった仕事の手伝いをマツリと杠が分担してままならなくなってしまった。 本領と各領土を回りながらのマツリのしたことは雑用だったが。 その雑用が下の者を見る目を養わせ、杠は四方の目の前から淡々と書類を減らしていっていた。

「おお、稽古か? そうだな、そろそろ父上に開放してもらいたいな。 それに明日には晴れよう。 
父上に申し出よう、明日からは就業の太鼓がなれば解放してくれと。 そうだな、それでは今日はどこで・・・」

今日は雨だ。 外での稽古は出来ない。
マツリが頭の中を巡らせていると杠の声がした。

「稽古もお願いしたいのですが少々の時でかまいません、お話を。 それに稽古はもう少しお顔のお色が優れてからに」

顔色と二度も言われて少々口を歪めたが何の話だろう。

「話?」

「我が妹を迎えに上がられないかどうかのことで」

マツリが暗い空を見上げた。
ここのところ雨が続いていた。 今も雨雲が空に鎮座している。

「そう焦るな。 ・・・アレは東の領土で良い伴侶になろう者を見たとして、それを領主には簡単には言わんだろう」

「何故にで御座いますか?」

「俺がアレの首筋に口を合わせたことは言ったな」

マツリが杠を見る。

「はい」

「その時言ったことも言ったな」

「はい」

杠にどんな動揺も見られない。

「きっとアレは俺が言ったことは約束事だと思っているはずだ」

日本で言うところのプロポーズではなく、強制結納らしきものだと。

杠が眉を上げた。 約束事?
杠は紫揺が日本に居たことなど知らない。 そしてこの領土にそんな約束事があるわけないことを知っている。

「どういう事でしょうか」

「焦ることは無いと言っておる。 今はアレには時が必要だろう。 俺も少々・・・というか、無鉄砲だったからな」

「だからと言ってその間に何かがあり、紫揺が心奪われてしまうような事があっては」

あの可愛い妹はどうしてだか片意地を張っている・・・いや、単に頑張っている、頑張り過ぎている。 知らない事には疑問を呈し、知っていることに、特に戦う肉体に関しては異常に詳しくその判別をしている。

紫揺の知らないことに何でも答え、紫揺の是とする肉体を持っている者が万が一にも、紫揺の危機を救ったりすれば、紫揺の心がどう動くか分からない。 五色としてだろう、頑張っているだけに疲れた心の隙間があるはずだ。
だからと言って紫揺を信用していないわけではない。

だが事情が変わった。

杠の憂う気持ちがマツリにもあったことはあった。 だがマツリは早急にとは思っていない。 マツリ自身が言うようにまだ時が必要と思っている。

「それほどに紫に会いたいか?」

杠が頭を下げる。

「会いたいかと問われ、否、とは申しません。 我が妹、肉親に会いたいのは当然の事。 ですが我が妹には責が御座います。 己が会うことが出来ないのは、マツリ様に願い出ることが出来ないのは、妹が責を遵守しているのが分かっているからのこと」

「分かっておるではないか」

「ですがそれは己のこと。 マツリ様はそれで宜しいのですか?」

「・・・」

そんなことを言われるとは思ってもいなかった。

「地下の者の咎が終わり、その後のことも多少ですが道筋を得ました。 己から妹を呼ぶことは出来ません。 仮に呼ぶとして、マツリ様にお願いすることしか出来ません」

己は紫揺に会いたい、それは隠しきれない想いだ。 だがそれは紫揺の責に横やりを入れること。 紫揺は東の領土の五色。 二度と会えなくて当前。

だがマツリはそうでは無い。 マツリにも何らかの考えがあるのだろうが、誰かがマツリの背を押さなければマツリは簡単に動かないだろう。 その誰かはこの本領に己しかない。

マツリが勾欄に手をつくと、もう一度暗い空を見上げた。

「杠・・・今晩吞もう。 いや、早々に吞もう。 そうだな、我の房で夕餉を食べながら始めよう」

杠が深く頭を下げた。


マツリと話す前、官吏たちの食事室で昼餉を食べていると司令塔からの使いが来た。

『杠殿』

『これは、波葉様』

互いの呼び方はマツリと酒を呑んでいる時に確かめ合った。
ただ波葉に関してはあくまでも波葉は官吏である。 波葉殿と呼ばなければいけないが、マツリ付となった今では杠から見れば、官吏以前にマツリの姉のシキの夫君である。 マツリが義兄上と呼ぶのだから波葉殿とは言えない。

杠の袴の帯には、今までに見たこともない色と形の帯門標が付けられている。 マツリ専属の官吏として新たな帯門標が作られた。
バックの色は落ち着いた色合いの黄色、形は丸く、中には鳥の顔が描かれている。 ザックリとキョウゲンの顔を模されているのである。

立ち上がろうとする杠に手を上げて構わないと示すと、杠の隣の椅子に座った。 キョロキョロと辺りを警戒しながら小声で杠に言う。

『シキ様がマツリ様はまだ動かれないのかと言っておられてな』

何のことかは訊き返さずとも分かる。

『まだのご様子ですが、尤もかと』

『それでは困る』

どういうことかという目を波葉に送る。

『今シキ様を苛立たせたくなくてな。 と言うか、シキ様が苛立たれると昌耶に私が睨まれるのだよ』

それは邸に居ると針の筵のようだと言う。

『私もまだ時が必要と申したのだが、そんな間に何かがあり、紫さまが誰かに心奪われてしまうような事があっては、と今度は憔悴されるしでな・・・』

シキが憔悴しても昌耶に睨まれると言う。

さっき杠がマツリに「だからと言って、その間に何かがあり、紫揺が心奪われてしまうような事があっては」 と言ったのは、この時の会話をそのまま引用させてもらっていた。

『ですが慌ててしまっては良い芽が悪く出てしまうかもしれません』

『いや、そこを何とか上手い具合に。 頼む、杠殿っ』

苛立ちも憔悴もどちらにせよ、とうとうハッキリとシキから言われたという。 マツリを動かすようにと。

『実はな・・・』

波葉が事情を話し出した。

『え・・・』

『誰にも口外せぬようにな』

そんな会話があった。
だから事情が変わったのだ。



―――ふるふるふるふる

寝ていた此之葉がとび起きた。 当たりを見回す。 何もない。
だが・・・感じる力は増々大きくなっている。
キュッと胸元を握りしめた。


「え? じゃあ、お転婆に乗っていいの?」

初日の厩の掃除から五日後、まだアチコチが痛い体をおいて目を輝かせて紫揺が塔弥を見た。

「襲歩は厳禁です。 あくまでも息抜きの常歩(なみあし)です。 それを守って下さる―――」

「守る守る!」

塔弥の言葉に被せて言う。

「お転婆は不服だろうけど」

ちびーっと、自分の不服を乗せて言ったが事実お転婆は不服であろう。 そんな言葉は耳朶にも触れないという顔をした塔弥。

「ではお着替えが済まれましたら厩の方にお願い致します」

他のお付きたちはまだ起き上がれないだろう。 阿秀においては見るからに疲労困憊というところだ。 少なくとも今日一日はゆっくりさせてやりたい。 その為にも紫揺の声が聞こえないように心配の根源を遠ざけるのが一番だろうし、紫揺もそろそろ限界が近くなってきているだろう。 このままズルズルと誤魔化していっては何をするか分かったものではない。

塔弥の乗る馬と並んでお転婆が歩いている。 今日ガザンは不参加のようだ。
外に出ていた民たちから「紫さま」と声が聞こえる。 その声に気付いていなかった他の者も子供たちも紫揺に振り返る。 紫揺が手を振ってそれに応えている。

「ね、この辺りは歩いて回ってたところだから早く抜けない? 歩いて回ってた先に行こうよ。 ほら、遠くの人にはまだお祝いのお祭のお礼も言えてないし。 軽速歩くらいなら構わないでしょ?」

塔弥が横目で紫揺を見る。

「なに、その目・・・」

「最初っからそのつもりで額の煌輪をしてきたんでしょ」

民に額の煌輪を見せるために。

紫揺が瞳を上に上げる。 どれだけ上げても見えない額にある紫水晶。
そろっと瞳を下ろすと塔弥を見る。

「えへ」

「えへじゃありません」

これ見よがしに大きなため息をついた。
紫揺が厩に来た時に額の煌輪をつけていた。 その時から薄々・・・いや、完全に分かっていたことである。

紫揺にしてみればこの領土の職人の手を見てもらいたいのと、これを見てもらうことで民への祝いの祭のお礼と思っているのは分かっていることだ。

あれほど石を削るのを嫌がっていたのに、とどこかで思うところはあるが、飾り石職人にしてみれば嬉しいことだろう。

「いいですか、軽速歩が限界です。 駈歩などしないように。 約束して下さるのでしたら―――」

「するする! 約束する!」

塔弥に最後まで言わせず、言ったかと思うとすぐにお転婆の足が軽速歩になった。 それに合わせて紫揺が鐙(あぶみ)を使って体を上下させる。 お転婆への負担を軽くするための軽速歩である。

「はー・・・。 いくつになったら落ち着かれるのか・・・」

塔弥が足に力を入れた。

今日は馬で出る為、秋我はついて来ていない。 いくら目立つことなくついてきたとしても完全にバレるのは目に見えている。 今日一日だけを塔弥一人で乗りきるつもりだ。 明日からは他のお付きを狩り出すつもりなのだから。

久しぶりのお転婆に満足しているのか、紫揺は落ち着いてお転婆の背に乗っている。 徒歩で来ていたところを過ぎると常歩に変え、民が近づいてくると下馬し、額の煌輪の紫水晶を揺らせながら祝いの祭の礼を言っている。
民も紫揺と話せたこと、そして額の煌輪を見られたことに目を輝かせていた。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第91回

2022年08月22日 21時13分04秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第90回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第91回



「父さん、紫さまを信じて下さい。 紫さまはお付きに止められる以外は、民の元に足を運ばれていました。 民は落ち着いて紫さまを迎えます」

「・・・秋我」

「私を、お付きを信じて欲しいとは言いません。 ですが紫さまを信じて下さい」

切羽詰まった空気が流れている。
そんな時に

「いや・・・秋我さん、それはないです。 領主さん、秋我さんもお付きの皆さんも私以上に、この領土の皆さんから信用があります。 秋我さんとお付きの皆さんを信用してください。 万が一・・・そんなものは無いけど。 億が一? 兆が一? その上は京だったっけ? もしそんなことがあっても皆さんが私を守ってくれます。 民の皆さんと一緒に」

「え?」

「あったとしたら不可抗力でしょう? 秋我さんとお付きの皆さんに頼ることは許してもらうにしても、民と呼ばれる方に怪我を負わせたくはないです。 私も領主さんと一緒の想いです。 でも皆さんが守ってくれます。 誰もかもを」

紫揺を守る、守りたいのは当り前のことだ。 誰もがそう思っている。 だが民を守るのは領主。 その思いを五色の紫、紫揺が分かっていたのか。

「紫さま・・・」

「いいですよね? 皆さんが待ってるから行ってきます」

台を跳び下りた紫揺。 此之葉が慌てるが到底紫揺には追い付けない。 秋我とお付きは無言の承知で走る紫揺の周りを固めながらも、紫揺が民と接することが出来るように、将棋倒しにはならないように陣形を組んでいる。

お付きや我が息子に囲まれながら走り去るその姿を遠目に見た領主。
民たちが喜んで紫揺を迎え入れている。 櫓の上から音楽が鳴りだした。

「紫さまはこの短期間で民の心を掴まれたか・・・」

もみくちゃにされることも将棋倒しになることもなく、紫揺が輪の中に入った。 その紫揺の額に揺れる紫水晶を見た民。

「紫さま・・・それは?」

「額の煌輪っていうの。 職人さんが作ってくれました」

金細工にかかっていた髪の毛を少し上げて金細工を見せるようにする。

「よく似合っておいでです」

職人の手を褒めるでもなく紫揺に似合っていると言う。 やはり職人の手が素晴らしいことを民たちは知っているようだ。

「ありがとう。 職人さんのお蔭です」

寄ってくる民一人一人に額の煌輪を見せるようにしていると、櫓の上からも見たくなったのだろう。 楽を奏でていた数人が櫓から大きく身を乗り出して覗き込んできた。 音楽に乱れが出来たが民は気にする様子もない。
紫揺が櫓を見上げ手を振る。 その額には金細工が光り真ん中の紫水晶が耀いていた。 楽が息を吹き返したように音楽を奏で始める。

月光の元に行われた紫揺の誕生の祭は、民が幸せに踊る姿を月に映していた。


領主の杞憂に終わった紫の誕生を祝う祭。

「独唱様も唱和様も見ておいでだったと?」

「はい」

そう答えたのは葉月だった。
紫の誕生を祝う祭なのだからと、独唱と唱和の元に軽くつまめる物を持って行き、その時に額の煌輪のことを話したという。
そこに丁度民の大きな波打つ声が聞こえてきた。
きっと紫さまが民の元に行かれたんでしょうと、葉月が言うと独唱と唱和が目を合わせたと言う。

「独唱様も唱和様も民と共にいらっしゃる紫さまを見たいと仰って」

「それで? そう仰ったのか?」

葉月が領主の元に来たのには理由があった。 つい先ほど言ったことがその理由だった。

『独唱様と唱和様が遠目ではありましたが、紫さまを見られた時、何か大きなものを感じると。 その事を領主に伝えるようにと』

そう言ったのだった。

「何か大きなものとは?」

「独唱様にも唱和様にもお分かりにならないようでした。 それに紫さまご自身にというより、どこかで、と仰っておられました」

「それは良きことか悪しきことか」

「それすらもお分かりにならないと」

領主が腕を組む。

「此之葉は何か言っておったか?」

此之葉も独唱と唱和と同じく “古の力を持つ者”だ。

「ふるふるとしたものを感じると少し前から言ってました。 ですがそれがよく分からないと」

「ふるふる?」

「此之葉ちゃん、独唱様と唱和様に言ったそうなんですけど、独唱様も唱和様も頷いておられたということです」

「“古の力を持つ者” が同じものを感じているということか・・・」

年齢の差で表現が違うのだろうか、それとも個々の感じ方だろうか。
良きことがあるならまだしも、万が一にも悪しきことがあるのなら対策に取り組まねばならないが、あまりにも漠然とし過ぎている。 ましてや良きことかもしれない。

「まさかとは思うが、紫さまは何か仰ってはおられないのか?」

「それとなく此之葉ちゃんが訊いたそうなんですけど、何のことかも分からない様子だっ・・・ご様子だったと」

「そうか・・・」

此之葉がそれとなく訊いたのは正解だろう。 紫揺に心配事を聞かせると何をしでかすか分かったものではない。 だがこのことを口に出しては言えない。

「それでは・・・当分、紫さまには遠出に行かれないように。 そうだな・・・、塔弥を残して他のお付きに辺境を含み領土を見て回るようにさせる。 此之葉にとっては紫さまにお付きするのが塔弥一人では心許ないだろう。 葉月も付いてくれ」

葉月が頷くと「阿秀を呼んでくれ」と言われ領主の家を出て阿秀を呼んだ。

阿秀が領主の家に来た時には秋我も同席していた。
領主から説明を聞いた秋我と阿秀。

「ふるふる、とは・・・それに何か大きなもの」

秋我が口の中で言う。
阿秀も首を傾げている。

「ああ。 良きことならそれに越したことは無いが、今の段階では何も分からん。 万が一を考えて領土の中を見て回るに越したことは無いだろう」

「それでは私も行きます」

秋我が言う。
それに否と言ったのは阿秀であった。

「塔弥一人では荷が重すぎます。 お付きたちで領土の中は回りますので秋我は紫さまを頼みます」

知らない人が聞くと、紫揺はいったいこの領土で何をしでかしているのだろうか、そう考えるだろう。
領主が頷く。

「秋我より阿秀たちの方が道をよく知っている。 秋我の知らない所の辺境もな。 お前が行くより阿秀たちに任せる方が事が早く済むだろう。 それに一日二日で領土の中を回れるものではない。 その間の紫さまのことを考えて葉月も付けると言っても、紫さまが大人しくして下さっていればいいが、もし突拍子でもないことをされれば、あ、いや、紫さまの場合は意とせず何かがあるかもしれん。 塔弥と秋我だけでも大変なことだ」

酷い言われようだが事実は消しようもない。 数年しかいない間にそんな過去を数多持ったのだから。

秋我は色んな話を聞いてはいるが、身をもって知っているわけではない。 お付きをぶっちぎって突然お転婆と走りだしたり、木に上ったり川に飛び込んだり等々。 それに一番怖いのが領主の言った “意とせず” だ。 紫揺はこの領土で何度も倒れている。 塔弥一人では心臓が幾つあっても足りないだろう。 納得せざるをえない。

「分かりました」

秋我の返事に阿秀が顎を引くようにキレよく頭を下げる。

「それではすぐにでも出ます」

「ああ、頼む」

阿秀が桶を持っていた塔弥に声を掛けると、二人でお付きの部屋に入って行った。


「え? どういうこと?」

此之葉と紫揺が朝餉を終えゆっくりとしているところだった。 此之葉は葉月から事前に聞いていたが、素知らぬ顔をして聞いている。 そしてその此之葉の斜め後ろに塔弥がいて、紫揺の気に入らないことを口にしているのだった。

「ですから当分遠出はお控えください」

「いや・・・ずっと控えてたんですけど?」

阿秀に言われて。
だが祭も終えてそろそろ解禁なのではないのか? そう問うたら、こんな返事だ。

「まだ民に祭の余韻が残っています。 まずは民の浮いた足を地に着けさせねばなりませんので近場から」

「なにそれ?」

「紫さま、塔弥の言うことは尤もです。 近場から徐々に遠くを見て回り、民に落ち着きを取り戻してもらう方が混乱を生みません」

「混乱?」

「近くにいる者がまだ足を浮かせているのに、遠くの者の所へ先に行かれては心が治まりません」

「あ・・・まぁ、言いたいことは分かりますけど。 でも―――」

「でもも何もありません。 お転婆に乗りたいだけでしょう」

冷たく塔弥が言う。
しっかりと心の中を読まれてしまっている。 頬を膨らませるしかない。

「三日間は近くを回って頂きます。 その後は長らくされていなかったお転婆の世話。 ああそうだ、己も手が行き届いていませんでしたので、厩も綺麗にしてあげてください」

「塔弥、厩の掃除を紫さまになんて」

「あ、それは全然何ともないです。 ってか、そうだった。 ここんとこ塔弥さんに任せっぱなしだった。 うん、今日からお転婆のお世話をする」

「今日からではありません。 四日後からです。 今日からの三日間は徒歩で民を回って下さい。 己が付いて行きますのでしっかりと歩いていただきます。 覚悟をしておいてください」

「・・・覚悟って」

「歩けるところまで歩きますから」

「他の人は?」

「己だけでは不服と仰いますか?」

「いや、そういう意味じゃないけど」

「ではもう少し休まれたらお迎えに上がります」

戸を閉め塔弥が出て行った。

「横暴・・・」

紫揺のつぶやきが耳には入ったが聞こえぬふりをした此之葉。 その此之葉が部屋の中を見渡す。


三日間民に声を掛け続け足が棒のようになったが、額の煌輪を付けて民を回ると皆が喜んでくれた。

「足をお揉みしましょう」

足を投げ出し脹脛を揉んでいた紫揺の足元に座ると此之葉が声を掛けた。

「あ、大丈夫です」

この繊手で揉まれては罰が当たる。

「葉月です」

戸の向こうから声が掛かった。

「入って」

すっと戸が開くと盆を手にした葉月が入って来た。

「あれ? 紫さま足がだるいの?・・・ですか?」

「うん。 塔弥さんって鬼!」

「あはは、今日も歩き回らされたんだ。 じゃ、今日も私にも責任があるね」

葉月の言いように睨みを入れる前に、どういうことだろうという目をしている此之葉。 その様子から葉月は塔弥とのことを此之葉に言っていないのだと分かった。 下手に口を滑らせないようにしなければ。

盆を座卓に置くと湯呑を持ち紫揺に持たせる。

「蜂蜜が入ってます。 甘くて疲れが取れますよ」

そう言うと此之葉の横に来て「此之葉ちゃんどいて」と、紫揺の足元をぶん取り、紫揺の脹脛を揉みだした。

「張ってるぅ、今日もかなり歩かされたんですね」

「うん。 あれは鬼よ鬼! うぅ、気持ちいぃ・・・」

「一気に飲んじゃって、それからうつ伏せに寝ころんで。 しっかりと揉んであげる、ますから」

遠慮をしなければと分かっているが、葉月の魔法の手の気持ちがいいことこの上ない。 ゴクゴクと湯呑の中の甘い茶を飲むとうつ伏せに寝ころんだ。 葉月が両方の脹脛を揉む。

今の段階で塔弥の作戦は成功しているようだ。 歩いて歩いて徹底的に疲れさせる。 そうすれば突拍子もないことをしないであろう。 そして明日からは厩の掃除、お転婆の世話。 疲れに輪がかかるだろう。

・・・とっても卑怯な手だ。 だがそうでもしなければ、周りにお付きがいない事を不審に思ったりする隙が生まれてしまう。
お付きたちがいない事を知ると理由を訊かれるだろう。 そしてその理由を知ったら何をしでかすか分からない。

だからと言って疲れさせて放りっぱなしというのもどうか。 それで塔弥は毎夜、葉月を紫揺の家に行かせている。 ちなみに秋我は陰に隠れて紫揺と塔弥のあとを歩いている。 そして何故か秋我の疲れようを見かねた領主が毎夜、秋我の脹脛を揉んでいる。

「塔弥の足は・・・人間の足では無いのかもしれません」

揉まれた姿勢のままでポツリと漏らした秋我だった。


そして翌日。

「お転婆! 放ったらかしにしててゴメン。 すぐに掃除するね。 その後に体を拭こうね」

お転婆の首に手をまわす。 ついて来ていたガザンがそれを見てゾッとした。 お転婆の首では何ともないのだろうが、ガザンがそれをされると完全にヘッドロックになってしまう。 何度やられたことか。 こちらに被害が及ぶ前にそそくさと厩を出て行った。

塔弥は手が行き届いていなかったと言っていたが、お転婆の房は特に汚れてはいなかった。 何のかのと言って塔弥が掃除をしてくれていたのだろう。
とにかくお転婆の房を掃除し身体を拭いてやらなければ。

掃除が終わると台に上がり首筋をゴシゴシしてやると、気持ちよさそうにお転婆が目を瞑る。

「気持ちいい?」

声を掛けながら手を動かす。 お転婆からの声の返事は無いが、目を瞑り気持ちよさそうにしているのが何よりもの返事だ。

他の馬の房を箒で掃いていた塔弥が手を止めてその様子を見た。 己には見せないお転婆の表情だ。 紫揺がお転婆のことを気に入っているのはともかく、お転婆がどれほど紫揺に気を許しているのかが分かる。
それとも・・・。

「ん? 俺の世話が下手くそなのか・・・?」

箒を片手にがっくりと肩を落とした。

結局今日一日は塔弥に言われ、他の馬の房の掃除と世話まで手伝った紫揺だった。 陰で見ていた秋我が腰を抜かしそうになりながら「いくら何でも、それは!」 と塔弥に訴えたが、「突拍子もないことをされるよりいいでしょう」 そう言われてしまった。


「んんん?」

そう言ったのは、夕餉もとっくに終わった紫揺の部屋に盆を持ち入って来た葉月だった。

「紫さま? どうしたんですか?」

「あ、いや。 腕やら肩やら腰やら・・・」

スゴク不細工な格好で自分で自分の身体をあちこち揉んでいる。 此之葉の目の前で。 その此之葉は「お揉みいたします」 と言っても断られるだけで、どうしたものかという目を葉月に送っている。

今日のことは塔弥から聞いている。

『そろそろ紫さまを縛る理由がなくなってきた。 だから今日は徹底的に動いて頂いた。 これで二、三日は大人しくされるとは思うが、今まで以上にお身体がお疲れだと思う』 と。

そしてあと三日もすればお付きたちが戻ってくるだろう、とも言っていた。

『分かった。 塔弥は? 大丈夫なの?』

『え? あ、ああ。 これくらい何ともない』

『無理しないでね・・・とは言えないか。 紫さまのことだもんね』

そう言って蜂蜜入りの茶を塔弥の前に置いた。

『ね、疲れてるところ悪いんだけど、出来るならでいいよ。 独唱様と唱和様の所に行ってもらえる?』

『唱和様のお加減が悪いのか?』

間接的に紫揺に付いている葉月であるが、阿秀が居ない今、此之葉が紫揺を見ている時には葉月がメインで唱和と独唱を見ている。

『うううん。 唱和様は落ち着かれたみたい。 塔弥があっちの料理を作るように言ってくれたから』

あっちとは日本の料理のこと。

『いや、それは葉月が作ってくれてるだけで俺は何もしてないから』

葉月がフフっと笑った。

『お加減はいいの。 でも・・・』

笑っていたはずの葉月の顔がかげった。

『葉月?』

『何か大きなものを感じる・・・。 そう仰ったのを覚えてる?』

『ああ』

『それが日に日に大きくなってくるって仰って・・・。 塔弥・・・怖いの』

『え?』

『それがどんな悪しきものかは知らない。 でも・・・紫さまがまたどこかに行かれるかもしれない・・・』

塔弥と葉月しか知らない話。
マツリが紫揺を許嫁と言ったこと。 いや、紫揺は塔弥と葉月に話はしたが、その相手がマツリとは言っていない。 チョンバレだが。

紫揺が高熱を出して倒れた時、偶然にもやってきたマツリが紫揺の看病をした。 ましてや一度本領まで薬湯を取りに帰ってまで。
あの時、どうしてそこまで紫揺を案じるようなことをするのだろうかと、心のほんの片隅に思ったがその理由が明らかになった。

葉月は意味も分からなく紫揺が居なくなる恐怖と、マツリに、本領に、嫁ぐかもしれないと思っているのだろう。

『葉月・・・』

『・・・本領には逆らえないんでしょ?』

『紫さまが・・・紫さまが我らを置いて行かれると思うか?』

『・・・』

葉月が頭を項垂れる。

『紫さまはその様な方ではない』

優しく葉月に語るが葉月が首を振る。

『葉月?』

『あの時の紫さまを塔弥は見なかったの?』

『え?』

『あんな話の内容だったら、あんなに険悪な関係だったら、それにあんなに何も知らない紫さまだったら、私たちに話してくれた時の目はもっと違うものだったと思う』

『え?』

『紫さまは本領に・・・マツリ様の元に行かれるかもしれない。 紫さまは・・・マツリ様のことを想われているかもしれない』

塔弥が葉月を見ていた目を外し横を向いた。

『葉月の・・・気のせいだ』

『塔弥・・・』

『・・・うん、分かった。 独唱様と唱和様の所に行く。 また何か分かられたかもしれないからな。 紫さまのあとの事は頼んだ』

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第90回

2022年08月19日 22時19分33秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第90回



両手でサークレットを持つ。 目の前に近づけ、ぐるりと金細工を見る。

「すごい・・」

金細工師が顔を輝かせた。
暫く金細工を見ていたが正面から紫水晶を見る。

「これが、あの紫水晶?」

「はい。 やはりあのままでは少々。 ですので曲線には削らせていただきましたが、必要以上には削っておりません」

にわかに信じられない。 周りに有るか無いか分からない程の金細工に囲まれている紫水晶は、綺麗に曲線を描きカットはされているが、それだけでこれほどに輝きが出るものなのだろうか。

「きれい」

「はい。 紫さまがこの石を選ばれた時から、わしと目が合った時以上に輝いております」

「え?」

紫水晶から目を離して飾り石職人を見た。

「紫さまがその石をお気に召されたと同じ様に、その石も紫さまを気に召したんでしょう。 紫さまに相応しい石になりたいと思ったんでしょうか、それとも紫さまにお気に召されたことへの喜びが内から輝きと出ているのか。 そこまでわし等には分かりませんが、わしの手元に戻って来た時には、石に輝きが増したのだけは分かります」

そんなことがあるのだろうか。 でも輝きが全く違うのは分かる。 目が紫水晶から離れない。

「いかがですか?」

「・・・いかがなんてもんじゃないです」

「はい?」

「私には勿体ないほど・・・。 本当にこれを私に?」

飾り石職人が相好を崩し「もちろんでございます」と答え、その横でも金細工師が頷いている。

「有難うございます。 大切にします」

「紫さま、おつけしましょうか?」

紫揺の後ろに座っていた葉月が言う。
本来なら此之葉が居るはずなのだが、数日前から此之葉が独唱の家に入って出てこない。 此之葉に代わって葉月が紫揺に付いていた。

「あ、うん」

そっと紫揺から受け取ると此之葉が紫揺の頭につける。 巧緻な金細工が隠れてしまって勿体ないが、横と後ろの髪の毛を上から被せる。

額に巧緻な金細工に囲まれた紫水晶が輝いた。
職人二人が納得したように頷く。

微調整に来た時にはこうして客観的に見ることは無かった。 あくまでも職人としての目でサークレットと紫揺の頭部だけしか見ていなかった。

「よくお似合いです」

飾り石職人が言う。
そして職人二人が何度も頷く。

「ホントに特注ね、すごく似合ってる」

前に回って来た葉月も言う。
こうして頭に付け紫揺全体で見ると、金細工の巧緻さも輝ける紫水晶も、紫揺の体の一部のようにさえ見える。

「そんなに見られたら・・・恥ずかしいんですけど・・・」

葉月が手鏡を持って来た。 受け取り我が身の顔を映す。 自分で自分の顔を鏡で見ているなんてところを人に見られるなんて恥ずかしいが、どんな姿を見られているのかが気になる。

「あ・・・」

石は決して大きくもなく派手なものではなかったけれど、それでも素晴らしいものだった。 だが今この鏡の中に映っているものは、自分の額の上にあるものは素晴らしいというものではない。 高嶺に咲く花だと感じていたがそうではなく、ただただ凛として不動を感じさせる。 そしてまるで今までずっと額にあったようにさえ。

(私に馴染むように作ってくれた? これが職人の手?)

「ご自分で見られてどうですか?」

そっと葉月が訊いてきた。

「・・・見た時とつけた時と違う」

然もあらん、と職人が頷く。

手鏡を下ろすと再び職人を見た。

「あの、本当に素晴らしいです。 有難うございます」

お辞儀をしかけて葉月に止められた。 此之葉からの入れ知恵であろう。

「いつでも工房の方にお越し下さい。 お気に召されたものを使いお作りいたしますので」

「はい、有難うございます」

「あ、それとこちらは大きな紫水晶の敷物です。 お使いください」

絹で出来たお座部。 木箱から大きな紫水晶を出した時に下に手巾を敷いていたが、ちゃんとしたものを作ってくれたようだ。

紫揺がそれを受け取ると、これを切っ掛けに紫揺から何かを作って欲しいと言ってもらえたらと期待しながら、職人二人が満足そうな顔をして部屋から出て行った。

少しして「葉月・・・」と戸の向こうから塔弥の声がした。

「塔弥? どうぞ」

戸が開くと塔弥が座していた。

「あの・・・言いにくいんだけど、お付きたちが見た・・・」

紫揺の額にはまだサークレットがつけられている。 それが目に入ったのだろう。 塔弥の言葉が途中で止まった。

お付きたちは職人が帰っていくのを待っていたのだろう。
紫揺と葉月が目を合わせる。
止まっていしまった塔弥の言葉は、お付きたちがサークレットを見たいと言っている、そういう事なのだろう。

「あ、じゃ、外して―――」

「いえ!! そのままで!!」

塔弥の爆音声が響いた。 上げかけた紫揺の手が止まる。
塔弥の爆音声がスターターピストルになったのか、ドドドと後ろからお付きたちがなだれ込んできた。 塔弥が下敷きになっている。

一人二人と立ち上がると紫揺の部屋に入る。 最後に湖彩が立ち上がり部屋に入ると、押しつぶされていた塔弥が「お前ら・・・」と憎々し気に口にする。

塔弥の言うことなどに聞く耳を持たず、座卓を挟んでお付きたちが座し、目の前の紫揺の額に目を注いでいる。
ゴクリと誰かが喉を鳴らした音がした。 それほどに静かだ。 さっきのなだれ込んできた音が遥か彼方のことだったように。

なだれ込んできたことに呆気に取られていた紫揺だったが、ふと一人で行った書蔵の時のことを思い出した。 あの時はまだこの領土に残るか残らないかも決めていなかった時だった。

一人書蔵にいて、そろそろ戻ろうかとした時、書蔵の扉が勢いよく開いてそこに額から汗をにじませ肩で息をしていた阿秀がいた。 その後に塔弥も入ってきて膝に手を付き、荒い息を繰り返していた。 と思ったのも束の間。 突き出した塔弥の尻に二人がぶつかり塔弥が前につんのめった。 その後にもお付きたちがなだれ込んできていた。

(まるであの時と同じ。 そう言えばあの時、塔弥さんは額と鼻の頭から血を出してたっけ)

そんなことを考えていたが今はそんなことを回想している時ではない。 我に返り、静かに下りていた帳を破る。

「あ・・・あの、梁湶さん、有難うございました。 こんなにいいものを作ってもらいました」

サークレットを外そうと手を動かしかけた。

「いえ!! そのままで!!」

塔弥と同じことを言われてしまった。 一言一句違わずに。 そしてこちらも爆音声で。
どうしたらいいものかと葉月を振り返る。

葉月にしても遡ればお付き達に部屋に入って良いなどと一言も言っていない。 此之葉ならそこを窘(たしな)めただろう。 だがお付きたちの気持ちが分からないでもない。
紫揺に頷き、一つ溜息を吐いた葉月。

「梁湶、紫さまの仰ったように、思いもしないほどの物が出来た、ました。 紫さまも納得、ご納得され喜んで・・・おられます。 梁湶のお蔭よ、です。 サークレット、職人は “額の煌輪(こうわ)” と呼ぶようにするということです」

此之葉であればこう言うだろうと頭に置きながら話したが、言葉尻が葉月と此之葉がミックスされてしまった。
だがそんなことも気にすることの無いお付きたち。

「煌輪・・・まさに」

ぽつりと梁湶が言った。
単なる首輪や腕輪と違う、単なる額の輪ではない。

「紫さまがおつけになった時と、額の煌輪だけ見る時とでは全く違うの・・・ます」

「え?」

葉月に話しかけられていてもずっと紫揺を見ていたが、この時初めて葉月を見た。

失礼を致します、と言って葉月が紫揺から額の煌輪を取った。

「あ・・・」

と言う声が誰かから漏れた。

葉月が絹の座布団に額の煌輪を置き、すっと木箱を滑らせた。 お付きたちが額の煌輪を近くで見る。
葉月の言っていたことが何となく分かる。

この額の煌輪は単体で見ると素晴らしく精巧で緻密な金細工、そして光り輝く紫水晶が見てとれる。 だが・・・紫揺がつけるとそれ以上になる。 輝きが煌になり、金細工はまた違ったものに見える。

自分の額からサークレットである額の煌輪が外され、お付きたちの目から逃れられた紫揺。

「職人さんの手ってすごいですよね。 つけてて全然違和感がないし、身体の一部って言うか、生まれた時から・・・あ、それは言い過ぎか。 でもそれに近いくらいずっと一緒だったみたいな気がする」

「紫さまにそう仰っていただければ職人冥利に尽きますでしょう」

額の煌輪を正面に見ていた梁湶が言う。

「うーん、お世辞とかじゃなくて事実だからなぁ。 それ以外の言葉がないですから」

「それが何よりもでしょう」

どうしてかこんな時に、ふと思い出したことがあった。 葉月が言ったことだ。

梁湶なら女に頬なり額にキスをするだろうと。 そう言われればそんな気がする。 梁湶はいつも落ち着いている。 焦るところを見たことがない。 余裕を持っているのだろうか、それが女の人との事にも繋がるのだろうか。 それに阿秀のように相対する姿勢がスマートだ。 阿秀と違うところと言えば、どこか影を持ったような微笑みではなく・・・いや、そういう目で見ると多少似ているか。 だが阿秀は誰もに対してそうだが、梁湶は紫揺に対してだけだ。 梁湶は対、紫と言う目で見ているのだろう。 それは気遣いだろう。 阿秀とは違うモノ。

「どうされました?」

「え・・・」

梁湶の声が耳に入った。

「いえ、じっと一点を見られていたので」

その一点は己の顔だが。

「あ、何でもないです」

葉月が笑いを抑えるように横を向いた。 紫揺の心の中が丸見えだった。


塔弥と葉月はあの時、何もかもを聞いた。 いや、正確には誰がということは聞いていないが。

『首筋って・・・』

マツリと紫揺の関係・・・紫揺が言った互いに怒鳴り合うことから考えると、さすがの葉月もそれはどうかと考える。

『えっと、その後、口はなかったんですか?』

『は!? どうしてそうなるの!? そんなことしたら赤ちゃんが!』

『はい?』

はい? と訊いた葉月に、紫揺が紫揺の知る定説を恥も外聞もなく、正々堂々と説いた。 口同士でキスをすると赤ちゃんが出来ると。

『はぁ?』

葉月の呆れた声と反対に塔弥の顔がどんどん赤くなる。

『えっと・・・紫さま? 赤ちゃんがどこから生まれてくるか知ってる?』

『・・・お尻の穴からじゃない事は知ってる』

どうして塔弥の居る前でそんなことを訊かれなければいけないのか・・・。

小学校低学年の性教育のスライド授業で習った。 その感想文で “お尻の穴から赤ちゃんが生まれるって知りました” と書いた。 戻ってきた感想文の返事には “よくスライドを見ていなかったみたいね。 スライドではお尻の穴じゃありませんって言っていましたよね” と書かれていた。 だからお尻の穴から赤ちゃんが生まれるのではないと知っている。

葉月がどうしたものかと溜息を吐いた。 ここでアレコレと教えるいいチャンスなのか、今はそんなことはどうでもいいことなのか。 塔弥を見たいが、きっと顔を下げているかアワアワしているだけだろう。

紫揺は相手がマツリとは言っていない。 だが言わずとも、本領とこの領土のルールを知りたいと言っていた。 この領土というのは本領一つに絞らない為のカモフラージュだろうし、本領から帰って来てから紫揺の憂鬱は始まったのだ。 それにマツリが山の中を徒歩で送ってきたことはお付きたちから聞いている。 紫揺が言わなくとも相手が誰かは塔弥でも・・・いや馬鹿でも分かる。

マツリのことがある。 マツリとこれからどうなるかは分からない。 そんな時に口にキスをされて、想像妊娠になどに結びつかれては困る。 それにマツリのことがなくなったとしてもこれからのことがある。 この無知を放ってはおけないだろう。

『とにかく・・・どこにキスをしようとも、じゃなくて、されようとも、それが許嫁となる証にはなりません』

紫揺の訊きたがっていたことはこれだろう。

『そうなの!?』

はい、と言って頷くと、それより、と葉月が続けた。

『紫さま? 生理があるでしょう?』

『うん』

『血はどこから出てるか知ってる?』

『えっと・・・アバウトに』

『アバウトって・・・それじゃあ、日本に居る時、生理の時はどうしてたの?』

『ナプキンを適当に当ててぇ・・・そしたら大体の位置が分かるから、次に当てる時は真ん中に命中するように当てる』

『はぁ?』

『えっとね、中学卒業間近で生理が始まったの。 でもすぐに高校でクラブを始めたら止まったの。 再度始まったのは高校卒業前。 半年に一回くらいだったかな? いまもまともにないし。 三,四カ月に一回だし。 だからまだそんなにナプキンのスペシャリストになってないの』

『スペシャリストとかそんな問題じゃなくて・・・基本・・・』

言い終えた葉月の口からは溜息しか出ない。
塔弥がどんな顔をしていいのか分からないが、所在なげにどんどんと下を向いているだろうことは想像できる。 それも顔を赤くして。

『塔弥、いいわよ。 あとは私が話すから』

葉月がそう言って塔弥が席を外し、その後に葉月から性教育を受けた。 それは信じられないものだった。

『紫さまの歳まで知らなかったらショックは大きいだろうけど、これは知らなくちゃならない事ですから』

そしてこうも言った。

『いいですか、これで男を嫌いにならないで下さい。 世の中の夫婦はみんなそうして子供を授かっているんです。 汚いものでも毛嫌いするものでもないんです。 子を残すに必要なことなんです』

そう言いながらずっと背中をさすってくれていた。
葉月が気遣う程には傷ついてはいないつもりだ。 単にショックが大きかっただけ・・・。 自分の愚かさに。

よく考えればわかる話だったではないか。
恋人同士がキスをして子供が生まれるわけではない。 あ、いいや、その時には婚姻届けを出していないからだとどこかで思っていた。 結婚をした者同士がキスをすると子供が生まれると思っていた。
だがそうであったのならば、おかしなことが沢山あったではないか。 浮気して子供が出来たとか、シングルマザーとか、ワイドショーで色々言っていたではないか。

全てを繋げて考えることが出来なかったということだ。

それに地下の城家主の屋敷の屋根裏でも見た春画。 駅のホームで電車の中で畦道で、いやらしいと吐き捨てる写真や挿絵を目にしていた。 そしてテレビに映るドラマでも。
あれがそうだったんだ。

何も考えようとしなかった、気付かなかった。 そんな自分の愚かさに。

話を聞き終えたとき

『欲しい子供の数だけしなくちゃいけないってことなんだ』

そう言ったら 『どうでしょう?』 と少し笑った葉月だったが、それ以上言及する元気はなかった。



本領で楽しく過ごしその後に思いもしないことがあったが、紫揺に何があろうとそれでも日は過ぎていく。
東の領土の祭が終わり一月経った満月の夜がきた。
数日前に立てられていた櫓(やぐら)、それと紫揺が上がる台。

民が年に二度、三月と四月に作るものだ。 各領土でも本領でも三月を三(み)の月、四月を四(よ)の月というらしい。

三月生まれの紫揺だから誕生の祝いの祭は三月にあってもよさそうだが、東西南北の領土において、この東の領土は春を治めている。 春は三月。 だからして三月は領土の祭が行われる。

三月に領土を上げての祭があるが故、三月生まれの紫揺の誕生祝は翌月に繰り越される。 そして祭の日は満月の日と決められている。

台の上に紫揺が上がった。 そして祭が始まった。 櫓の上で音楽が奏でられる。 日本にはない楽器で。 民が思い思いに紫揺への誕生の祝いを身体で踊りで表現している。 日本の盆踊りとは全く違うが、櫓の周りを周って移動しているのは同じだ。

この光景を初めて見たのは、まだこの地に残るということを決めていない時だった。 それを知らない民が、紫揺が紫として東の領土に帰って来た、紫揺に会えた喜びを表現した踊りが三日続いた。
一日目はそんなこととは知らず見ることがなかったが、二日目、三日目は目にした。 そして昨年の誕生の祝の祭。 今年でこの踊りを四度見たことになる。

踊り終わった民が紫揺の反応を待つ。 初めての時には花を咲かせ、二度目の時には声を張り上げて有難うと言った。 そして昨年の祭でも声を張り上げこう言った。

『紫は領土に居ます、これからもずっと。 皆の幸せを願っています』 そう言った。

櫓の周りには踊り終えた民がいる。 額の煌輪は遠くにある櫓からでは見えない。
紫揺が声を張り上げる。

「今から皆さんの所に行きます! 一緒に踊りましょう!」

先月の領土の祭の時にも民と踊っていたが、今回は紫揺の誕生祝の祭だ。 領土の祭は楽しく過ごす。 紫揺の誕生祝の祭は・・・。 何十年と待ってやっと戻てってきた紫なのだ。 紫さまの誕生を祝いたい、ただそれだけが民の想いだった。 紫揺はそれを分かっている。

紫揺の声に民が歓声を上げる。

「紫さま、それは!」

昂揚してしまった民が紫揺に雪崩れ込むかもしれない、紫揺に危険が生ずる。 紫揺が台を下りようとしたのを領主が止めた。

「大丈夫です。 先月も一緒に踊りましたから」

「ですが! 春の祭と紫さまの祝いはまた違います!」

「額の煌輪を皆さんに見て欲しいんです。 職人さんの手を皆さんに見て欲しいんです」

「職人の手の良さを民は知っています!」

「うーん・・・。 でもこの額の煌輪は今までになかったものと思いますよ?」

「父さん」

領主と紫揺の声を静かに聞いていた我秋が進み出た。

「職人が初めて紫さまに作った物です。 そして今までになかった額の煌輪です。 それを民に披露しても良いのではないですか?」

「・・・」

「ご心配なく。 お付きと私が紫さまにお付きします」

「紫さまに万が一が無いように出来るか」

「はい。 なだれ込む全てを止めます。 この身を呈して紫さまをお守りします」

いや、そんな仰々しいものじゃないから・・・そう言いたかったが言える雰囲気ではないし、そんなことで口論していたらいつまで経っても皆の元に行けない。 額の煌輪を見てもらえない。

いつの間にか秋我の後ろについていたお付きたち。 そのお付きたちが頷く。

「領主さん、えっと・・・皆さん弾けることなく迎え入れてくれると思います・・・よ?」

「紫さま・・・」

領主がこめかみを押さえる。 “・・・よ?” では困る。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第89回

2022年08月15日 22時18分11秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第89回



口を尖らせ、そのまま振り返り葉月を見る。

「ここは、この領土とか本領は、女の人のどこかにチューをしたら・・・結婚しなくちゃいけないの?」

マツリからチューのことをここでどう言うのか聞いていた、忘れたわけではないが、ちょっと重い気がして口にするのを憚った。
塔弥が全く何が何だか分からない顔をしている。 葉月は笑いを噛み殺しているのだろう、肩を揺らせている。

「葉月ちゃんっ!」

意を決したというのに、葉月が笑っているのは明らかだ。

塔弥が葉月を見る。

「葉月?」

塔弥に問われた葉月が肩を揺らしながら言う。

「チューが結納代わりと思ったの? あ、じゃなくて、思われたのですか?」

「葉月、ちゅーとは?」

「接吻のこと」

塔弥を見てサラリと言うとまた紫揺を見る。
サラリと言われた塔弥が一瞬にして顔を朱に染め俯いてしまった。

「結納か・・・婚約指輪替わり?」

「結納もなければ婚約というものも、言葉もここにはありません。 指輪はありますけどね。 だけど婚約指輪と言う言葉も概念もありません」

「こ、婚約とは?」

未だ顔を朱色にしている塔弥が訊く。

「うーんと・・・。 今の私と塔弥のような関係の期間。 想い人同士が婚姻するまでの期間って言えばいいかな。 それを約束するように男が女に指輪を送るの。 それが婚約指輪。 まっ、結納も形を変えた似たようなもの」

ここには金というものが存在しない。 その結納金で嫁入り道具をそろえるなどという説明も要らないだろう。

「そ・・・そうか」

口の中で何かモグモグと言っていたが、こんな所で止まってしまってどうする。 紫揺も話す様子がない。 己から話さなくては。

「どうして・・・せ、せ・・・接、吻など・・・と?」

葉月はよくこんな言葉をサラリと言ったものだ、と引きかけていた朱がまた顔に広がる。

「口と口じゃなくても接吻って言うの?」

これまた気軽に紫揺が口にしてくれる。 塔弥が葉月を見る。 説明してくれというように。

「そうですねぇ・・・」

人差し指を口に当てると眼球を上に上げる。

「日本みたいに、って言うか、外国みたいに人前でチュッチュ、チュッチュしませんから、ここでは。 外国って挨拶代わりにキスをするでしょ? それは日本ではありえないけど、ここではもっと有り得ません。 だからって言うんじゃないですけど、一括りにして接吻って言います。 敢えて分けて考えないって言うのかなぁ・・・」

紫揺に対しての葉月の説明で、キスもチューと同じく接吻のことだと塔弥が理解した。

「じゃ、葉月ちゃんと塔弥さんみたいに、お互い好きって言い合ってるならともかく、言い合ってもいなければ単なる・・・知り合い同士って言えばいいのかな、そんな人が相手の人にチューするってことは無いの?」

どうしてここで、接吻の話しで己と葉月のことが出てくるのだ、それも “ともかく” とはどういう意味だ・・・。 塔弥の顔にさした朱は全く引く様子を見せない。

「うーん・・・、難しいなぁ」

葉月が腕を組む。

「なんて言えばいいかなぁ・・・」

「ってことは、有り得るってわけ?」

腕を組んだまま葉月が紫揺を見る。

「私がさっき言ったのは基本的な所です。 男が女に告白をして女がそれを受けた時に、男が頬なり額なりにキスをすることはあります。 でも少ないかな? そうだなぁ・・・分かりやすく言うと・・・相手が嫌と思っていない限りは梁湶ならキスをするだろうし、あとは・・・野夜はどうだろかな? ま、取り敢えず醍十と塔弥みたいなのはしません。 あ、阿秀もするか」

「え?」

二人の声が重なった。
この部屋には三人しかいないのだから、声を出したのが誰かははっきりしているが、塔弥は “塔弥みたいなの” と言われて声が出てしまったのだ。
そして紫揺はオマケのように簡単に付けられた名前、その人物が?

「阿秀さんが?! 有り得ないんだけど。 全然わかりやすくない」

あの堅物の朴念仁がどうして。

「ああ、朴念仁ぽくしてますからね。 でも阿秀って女の扱いが上手いらしいんですよ。 梁湶以上だって梁湶が言ってましたし、私にも結構・・・うーんどう言えばいいかな、まぁ、他の男たちと違ってスマートに接してくれるって言うのかな」

一瞬にして紫揺の顔色が変わった。
そんな男に此之葉をけしかけさせてしまった。

「紫さま、どうかしたの?」

「あ、いや・・・。 まさか阿秀さんがそんなだって。 その知らなかったから・・・」

「ああ、そういうこと。 安心して。 あくまでも日本でってことだから。 梁湶曰く、必要に迫られてってことらしいから。 この領土ではまともに女と口を利いたのを見たことないくらい。 どうしてでしょうね、別に朴念仁を演じなくてもいいのに」

え? どういうことだ?

阿秀が言っていたことを思い出す。

『此之葉は “古の力を持つ者” です。 何の才もない私などと』

そうか・・・。 阿秀はずっと此之葉のことが好きだったんだ。 だから領土の女と話すことがなかったんだ。

最初はセノギモドキと思って毛嫌いしていた阿秀だが、話してみると優しいし、細かな所によく気がついてくれていた。 連れ帰ったガザンのフードにしても、よく気付いて用意してくれたものだと思う。

それによく思い出してみるとセノギは実直、謹直、誠実そんな言葉が良く似合う。 セキもセノギのことが好きだと言っていた。 きっとセノギはセキと話す時に目の高さを合わせていたのだろう。
だが阿秀はそんなことをしないだろうし、今まで見たこともない。

阿秀と二人だけで日本で行動した時、一緒に飛行機やタクシーに乗った。 気遣いはしてもらっていた、その事に文句を言うつもりも何もないし、それどころかあの時に阿秀を見直したほどだった。

阿秀は飛行機以外ではずっと片手にスマホを持っていた。 その時の受け答えを思い出すと、とても柔らかな言いようだった。 セノギにはない柔らかさだった。 言い方を悪くすれば相手を好きにさせることが出来る話し方、ついウッカリ相手が惚れてしまう話し方。

そんな阿秀なのだ、此之葉のことを一途に想っていたのなら、他の女に優しくしたり口をきいたりしないだろう。 あの優しさは、話し方は惚れられるだろう、阿秀自身がその事に気付いていたのかもしれない。

紫揺が領主の家で此之葉と話すようにとお膳立てをしなかったら、阿秀はどうしていたのだろうか。

それによく考えると阿秀の所作はスマートだし、それこそ醍十や塔弥のように言葉も詰まらすということがなくスムーズだ。 さっき葉月が言ったように阿秀は女の扱いに慣れているのかもしれない。
そう思うと、あの日あの純な此之葉を上手くリードしてくれたのかもしれない。 もしかして葉月の言うように此之葉の頬に口付けたかもしれない。

あの時のトウオウのように。

セノギがニョゼと結婚をしたと聞いたが、きっとセノギはニョゼにプロポーズをしたときに、ニョゼの返事を聞いて「有難う」と言っただけのような気がする。

セノギと阿秀は全く違う。

先ほど阿秀のことを “そんな男” と思ったことを粉砕し安堵の溜息を吐いた。

「だから有り得なくはないんですけど。 やっぱり少ないでしょうね。 辺境なんかに行くとまずないでしょうけどね」

遠くから葉月の声が耳に入って来た。
そうだった、今は阿秀の話しでも此之葉の話しでもなかったのだった。

「あ、そ、そうなんだ」

「こんな返事じゃ、紫さまの疑問に答えられていません?」

「あ・・・そんなことないけど・・・」

「少しでも納得してもらえてたらいいんだけど。 私のことは気にしないで塔弥と話して下さい。 分からないことがあったらいつでも訊いてくれたらいいから。 おっと、いいですから」

そう言って塔弥の方を指さす。
え? と思うと、いつの間にか塔弥に背を向け葉月に向かい合っていた。

「あ・・・ごめん。 いつの間に後ろ向いちゃったんだろ」

言いながら向きを変える。
さっきから何だ、といった目でガザンが紫揺を見る。

「いえ、お気になさらず」

口にしながら思い出したことがあった。 そう言えばガザン・・・。
塔弥がガザンのことを考えている間、紫揺も頭を悩ませていた。

結納でも婚約指輪の代わりでもなかった。 ではどうしてあんなことを。 何のために。 分けの分からないことをしたマツリのことをどう言えばいいのだろう。

ポクポクポクポク・・・。

まるで木魚の音でもしそうなくらい、何とも言えない時が流れる。

その空気を切ったのは紫揺ではなく塔弥だった。

「あの、質問しても宜しいでしょうか」

「はいっ! なんでも!」

助かる。 何でも訊いて欲しい。 自分からはどうにも上手く言えないし、話が逸れればそれに越したことは無い。

「紫さまが本領から戻ってらしたとき、ガザンがマツリ様のにおいを嗅いだだけで吠えませんでした」

紫揺が病み上がりのときに考えていたことを口にした。

自分の名を出されガザンの耳がピクリと動く。

「え?」

マツリと聞かされてドキッとしたが、あの時はあんなことがあったすぐ後だったから、ガザンがどうしていたのかなど目に入っていなかったし、入っていたとしても記憶にない。

「え? そうだったっけ? 覚えてない」

「覚えておられないのであれば、それはそれでいいんですけど、あとでお付き達で話してたんです」

基本ガザンは紫揺に害をなす者以外には吠えないし、かかってもいかない。 だが最初に警戒の目はかなり向ける。

「ガザンにとってマツリ様が東の領土の者でないとか、時期本領領主などとは関係の無いことです」

「うん」

何を言いたいのだろか。

「ですが紫さまに害をなす者でないにしても、紫さまが是とされない方に対してなのに、ガザンは警戒すらもしなかった」

「・・・」

「その、勝手にマツリ様のことを紫さまが是とされないと言ってしまっていますが、此之葉から聞くに、紫さまとマツリ様はお顔を合わせられると、その、言い争いをなさるとか。 それから考えると、あの時のガザンの様子が腑に落ちないのですが、お心当たりは御座いませんでしょうか?」

「その時のことを憶えてないけど、塔弥さんがそう言うんだからガザンは吠えなかったんでしょうし、警戒もしなかったんでしょう。 でもそれがどうしてかは分からない」

あの時は許せないと思っていた程なのに。

「ガザン・・・守ってくれないの?」

ガザンの口元の肉を引っ張る。 不愉快そうにガザンが半目を開けたがまたすぐに閉じた。

紫揺のこの言いようでは全く心当たりがないのだろう。 叶うことならマツリが紫揺を視ている時のガザンの様子を言って考えてもらいたいが、それはマツリから止められている。

「ガザンは紫さまが心開かれている者を感じ取っています」

阿秀からは紫揺が心開いた者だけに、ガザンは許しを持っていると聞いていた。 それがお転婆と己だけと。

紫揺が頷く。

「感じ取り許しています」

「許す?」

「阿秀が言っていたのですが、ガザンの目にかなったのはお転婆と己だということです。 そしてお転婆と己を許していると。 その、ガザンは他の者が言っても聞かないことを、己が言うと聞いてくれます。 それが許すということではないでしょうか」

「えっと・・・だから?」

だから、マツリが紫揺の身体を診ていた時に、ガザンの手を動かしてもガザンが唸らなかったのではないか・・・。 言いたいのに言えない。 これでは質問をまとめられない。

「その・・・、マツリ様も許されているのではないかと・・・」

言葉尻が萎んでいく。 何の説得力もない。
ガザンが唸ったり吠えたりしなかったのは、紫揺に害をもたらす者ではないと言うだけで、許しているわけではないのだから。

「マツリに心開いた覚えなんてないけど」

ないだろうか。 いや、無くはない。 マツリの持つ力と紫の力が似通っていると思った時、その力のことを教えて欲しいと思ったことがある。
耶緒の時でもそうだ。 本領に居た時にどうして力の使い方をマツリに訊かなかったのかと後悔した。
それが心開いたというのかどうかは分からないが・・・。

(うん?)

まだ何かあったような気がする。 何だっただろう。

「そうですか・・・」

塔弥からはこれ以上何も言えない。 それに話してくれるという約束があっただろう。 さぁ、話して下さい、とも言えない。
それを感じ取ったのか、葉月が紫揺に話しかけた。

「紫さま、ちょっといい?」

塔弥との話だと言うのに。
だがこのままでは紫揺はこれ以上何も言わないであろう。

「うん、なに?」

「さっきのキスの話。 どうしてあんな質問をしたの? ですか?」

「あ・・・えっと。 ここの・・・本領とこの領土のルールを知りたくて」

「ルール? どうしてルールなんて知る必要があるんですか? それもキスの」

「・・・その、チューって、ここではどんな風に考えられているのかなって」

「ふーん。 じゃ、質問を変えますね。 紫さまは誰にキスをされたんですか?」

紫揺が虚を突かれた顔をして、塔弥が何のことかと思いながらも驚いた顔をした。

「だ、誰って! そんなっ!」

「あ、じゃあ訂正。 紫さまは誰にキスをしたんですか?」

「すっ! するわけないしっ!」

「じゃ、されたんですね?」

紫揺が下を向いてしまった。

あとは任せたと伝えようとして、葉月がチラリと塔弥を見ると塔弥が真っ青になっている。
たかがキスくらいで・・・。 二人に大きなため息を送った。



此之葉が眉を顰めた。 この数日前から何かを感じる。 ふるふる、と。

「いったい何なのかしら・・・」



明日が満月。
明日、月が顔を出せば紫揺の誕生を祝う祭がある。

飾り石職人と金細工師が、仕上がったものを持って朝から紫揺の部屋を訪ねて来ていた。

首輪や腕輪と違ってきちっとしたサイズが必要である。 葉月が紐に印を入れていて職人に渡していたが微調整が必要である。 一度微調整に来ていたが、今日は誕生の祝いのしるしとして持って来たのである。

「お気に入って下さればいいのですが」

微調整の時には紫揺に見えないようにしていたので、紫揺には感覚しかなかった。

『痛くはないですか?』

『大丈夫です』

そんな会話しかなかった。

蓋を開け恭しく差し出された木箱の中には、絹で作った座布団の上にサークレットが鎮座している。
五ミリほどの幅に繊細な金細工が施され、その先端に紫水晶が煌いている。

繊細な金細工は、風が吹くとしなやかに揺れるように静かな穏やかな時を思わせ、その中に包まれるように紫水晶が身を置いているようだ。 だがその紫水晶は包まれていることに静謐さを感じさせるだけではなく、その身の気高さを表すように輝かせてもいる。 触れてはいけないような、こんなに小さいのにまるで高嶺に咲く花のように。

紫揺が目を瞠った。

「・・・これ」

「お気に召されましたでしょうか? どうぞ、お手に取ってみて下さい」

ゆっくりと紫揺が手を伸ばす。 指先に金細工が触れた。 少しでも力を入れれば壊れそうなほど巧緻(こうち)な金細工。 そっと金細工に触れる。

金細工師がゴクリと喉を鳴らす。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第88回

2022年08月12日 21時10分09秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第88回



「それで? それで、葉月ちゃんは何て言ったの?」

ふふ、っと笑って紫揺から目を離して前を見た。

「塔弥ったら、此之葉ちゃんと私の幸せが紫さまの幸せに繋がるって言うの。 紫さまのお幸せの中に私の幸せがあるって。 これってプロポーズじゃなくて脅しに近いでしょ? ルール違反もいいところ恐喝よ」

「まさか・・・まさかそんな返事をしたんじゃ・・・」

顔から血の気が引いていく。 もしそんな返事をされていれば、塔弥はどれほど傷ついただろうか。 塔弥を煽ったのは紫揺自身だ。 謝って済むものではないほどに傷ついているかもしれない。

「もちろん、そう言ってやりました」

目眩がする。 このまま後ろに倒れてもいいだろうか。 ああ、でも薬膳は嫌だ。

「塔弥さん、傷ついてた?」

敢えて訊こう。 一縷の望みを持って。

「笑ってました」

は?

「恐喝や脅しに屈する葉月じゃないだろう、って」

あの塔弥が? そんなことを? 阿秀と同じく朴念仁だと思っていた塔弥がそんな言い回しを? 言い方によっては、聞き方によってはキザったらしい台詞ではないか。 最後にbaby? と付いても可笑しくないではないか。

「だから売られた喧嘩は買うって言いました」

「え・・・あ? え?」

喧嘩?
プロポーズを受けたということなのか? YESと言ったということなのだろうか? それともそのキザったらしい言い方の喧嘩に乗ったということなのか?

「でね、その塔弥から聞いたんだけど、塔弥が私に言うのと交換に紫さまも塔弥に何かを言うって」

何か。 塔弥からは紫揺の憂いのことだとは聞いていたが、それは伏せておいた方がいいだろうと思い、何かと言った。

「ちょ、ちょっと待って。 あの、その、結局、葉月ちゃんは塔弥さんのプロポーズを受けたの?」

「あれ? 言い方がまずかったですか? はい。 受けました」

あの朴念仁が冗談のきかない塔弥が、さっきの葉月の返事を正しく受け取ったのだろうか。 紫揺の心配をよそに葉月が続ける。

「此之葉ちゃんの結婚を見てからだといつになるか分からないから、今は先のことなんか分かりませんが」

塔弥は此之葉と阿秀のことを葉月に言っていないようだ。 下手にここで紫揺が言ってしまうと、どうして言ってくれなかったのかと、塔弥が葉月に迫られるかもしれない。 此之葉と阿秀のことは言っていない事にしておくのがいいだろう。

「ってことで、塔弥から言われた私からの報告は終わり。 で、塔弥を呼んもいいですか?」

「あ、うん・・・」

約束をしてしまったからといって簡単に話したくない。 でも訊きたいことはある。

「あんまり乗り切じゃなかったら明日にでもしてもらいましょうか? そろそろ戸の向こうで待ってると思いますから私から言いましょうか?」

「え? 居るの?」

「紫さまをお待たせすることは出来ませんから」

逡巡にいくらか要した。 だが明日に伸ばそうが明後日に伸ばそうが、何が変わるわけではない。

黙って紫揺を見ていた葉月。 憂いは簡単に人に言えるような事ではないようだ。
我が姉、此之葉には悪いが、紫揺と塔弥は見えない糸で繋がっているような気がしている。
紫揺が落ち着いた時に塔弥の両親と弟、親戚筋には会わせている。 紫揺の祖父であり四代前の塔弥は当時まだ独身だったため、直系に繋がる血縁関係はいないが、それでも紫揺には親戚がいる、天涯孤独でないことを知ってもらっている。

紫揺は日本では親戚というものがいなかったから、いや、正確には付き合いがなかったからと喜んではいたが、やはりどこか塔弥との接し方と違っていた。

紫揺と塔弥の関係は、紫揺が一方的に塔弥のことを血縁、遠い親戚と思っているだけではなく、塔弥も紫揺のことを思っているはず。 塔弥がずっと気にしていた曾祖伯父の存在があったのだから。 忘れ去られようとしていたその存在が、何処に行ったか分からなかった存在が紫揺の祖父だったのだから。

本来なら紫である紫揺には、此之葉が繋がっていなくてはいけないのに・・・。 それだけに塔弥の存在は大きい。

(塔弥、責任重大だからね)

逡巡している紫揺を見ながら心の中で思う。

「・・・入ってもらって」

以前阿秀は女が誰も居ない部屋でたとえお付きといえど、紫揺と男が二人っきりになることは許されないと言っていたが、誰の目からも塔弥だけは許されていた。 もちろん阿秀からも。

戸の外に座していた塔弥と入れ替わるように、戸から離れた廊下に葉月が座する。 戸の近くに居ると中の会話が聞こえるからだ。 紫揺に対しての話し方は此之葉にお叱りを受けるが、こういうところはちゃんと心得ている。

「葉月ちゃんに言ったんだってね」

口が綻びそうになったのを抑えた塔弥が頷く。

「で? 返事はどうだったの?」

塔弥は間違いなく葉月の返事を受け取っているのだろうか。

「売られた喧嘩は買うと言われました」

いや・・・だからそれは分かってる。 それをどう理解したかを聞きたいから訊いてるのに。

「それは葉月ちゃんから聞いた。 塔弥さんはどう理解したの?」

「え? 言葉そのままでしょう?」

理解していないのか?

「悪いけどYesかNoかで答えてくれる?」

「いえすかのぅ?」

・・・塔弥には英語が通じなかったのだった。 それどころか日本のあれこれも通じないのだった。 お付きもそうだが、葉月とは言葉選びをすることなく会話が出来ていたから、つい気が緩んでしまっていた。

「あ、えっと。 葉月ちゃんの返事をどう受け取ったの? 簡潔に教えて。 葉月ちゃんは塔弥さんの気持ちを受け取ったの?」

紫揺の言葉を聞いて塔弥が耳まで赤くした。
Noであれは、蒼白になるだろう。 紫揺が期待を込める。

「葉月は此之葉と違って自由奔放な元気な女人です。 葉月らしい返事だと思っています。 葉月が受けてくれたと思っています」

分かってたんだ。 あの返事で。 この朴念仁が。 だが思っていますと言うのは少々不安が残る。 念を押そう。

「うん。 葉月ちゃんが受けたって言ってた」

「知っておられたのに・・・」

どうして己に訊いたのか、そう言いたかったがその先を口にすることは無かった。 その代わり

「言葉は難しいと思います」

「え?」

「言葉は大事ですけれど、思っただけでは通じないことを言葉が伝えてくれます。 その言葉をどう理解するかによって、変わることもありますが」

一つ息を吐いて続ける。

「葉月の返事をどう理解するか。 色んな捕らえ方があります。 ですが己は諾と受け取りました。 それは葉月を見て、葉月の目を見て、葉月の表情や声音を見て聞いて分かりました」

目を見て表情を見て声を聞いてその真意が分かる、塔弥はそう言っている。
日本に暮らしていて、目や表情を見て何かが分かるようなことがあっただろうか。

『だからぁー、シユって天然過ぎにも程がある。 タイミングとか空気感とかってあるじゃん。 どうしてあのタイミングであんなこと言うのかなぁ』

あれから何日後だっただろう。 そんな風に言われた。
あのタイミング。 あの時はお昼のお弁当を食べ損ねていた。 どうして食べ損ねたのかは覚えていないが、六限目の授業が終わってすぐに “あのタイミング” と言われたことがあった。

空手部の咲綾(さあや)と佳乃(よしの)の喧嘩が勃発したのだった。 最初は口だけの言い合いだったが、咲綾が佳乃の鞄をはじき勢いよく机から落としたのだった。

これは事が大きくなると思ったクラスメイトたちが二人を止めようとし、近くの席に座っていた紫揺が巻き込まれないように “天然過ぎにも程がある” と言ったバスケ部が避難させた。

あの時、別にお腹が減っていたわけではなかった。 だがこれから担任がやってきてショートホームルームが始まればその後すぐに部活だ。 何かを腹に入れておきたかったし、せっかく母親が作ってくれたお弁当に手を付けず持って帰るのも嫌だった。

だから席に戻って鞄の中から弁当を出した。 咲綾と佳乃の言い合いが止まり周りにいたみんなの動きも止まった。

“お弁当食べる“ そう言った。

『いくらお腹が空いてても、あんな場面で言う? まぁ、そのお蔭で二人の喧嘩が治まったには違いないけど。 でも空手部同士だよ? あの二人、本気全開モードの目をしてたじゃない。 シユみたいな小っちゃい体が下手して巻き込まれでもしてたらどうなってたと思うの。 完全、病院送りだったよ』

“本気全開モードの目” そう言ってた。 そう言われればあの時目なんて見ていなかった。

でも悲しい目は人一倍分かっているつもりだ。 だからリツソに人を慮(おもんばか)ることを知ってと言ったのだから。

だがいま塔弥が言ったのは葉月が嬉しい目をしていたのだろうか。 そんな動作を見せたのだろうか。
特に恋愛に関して経験はないが、そんな謎かけのような返事をされては「意味分らない、ハッキリ言って」 と自分なら言うだろう。 それなのにこの朴念仁は言わなかった。 それどころか確認をすることなく、葉月の返事を正しく受け取っていた。

―――どうして。

「紫さま?」

顔を下げてしまっていた紫揺。

どうしてもっとハッキリと言って欲しいと訊き返さなかったのだろう。 どうして目で声で判断できたんだろう。 思い上がりと思わなかったのだろうか。

「紫さま?」

訊き返すどころかハッキリと言われた。 それに首筋に・・・。 それが許せない。 一方的で・・・

「こっちがどう考えているか訊きもしない!」

急に紫揺が顔を上げ叫んだ。

「あ? え?」

「意味が分からない! なに? 自分の言いたいことだけ言えばそれでいいって言うの!? こっちがどう考えるか関係ないって言うの!? 自分勝手もいいとこ!!」

廊下に座していた葉月が驚いて顔を上げた。
紫揺の目の前で塔弥の顔が固まった。

この雑言、きっとマツリに対してだろう。 己の言葉の何が切っ掛けになったのかは分からないが、腹に据えかねて爆発したのだろう。
どれだけでも吐いて治まってもらえればそれでいい。 それで少しでもスッキリとするならば。 吐くだけ吐いてもらおう。
が、紫揺の声が止まった。 勢いを持って上げていた顔がまた下を向いた。

「紫さま?」

「ごめんなさい急に・・・」

「いえ。 お怒りがあるのでしたらいくらでも仰ってください。 口に出してスッキリすることも必要です。 紫さまは我慢をし過ぎです」

日本に戻れないことがどれほど紫揺の心にのしかかっているだろう。 それにこの憂いのことも。

「我慢?」

塔弥を見る。

「あ、誤解なく。 心の中での我慢です」

肉体的にはもっと我慢をして欲しいが、今この状況でここまで言ってはいけないだろう。

「我慢なんてしてないから」

再度下を向いてしまった。

「そうですか」

そう言うのなら認めよう、口だけは。

「あの、訊きたいことがあります」

「なんなりと」

「・・・」

紫揺の口が止まった。 いくらでも待つ。 紫揺の話したい時が来るまで。
誰かが家を出たのだろうか、それとも入って来たのだろうか。 玄関の戸が開いた音が聞こえる。 閉める音が聞こえない。

「・・・結納って分かります?」

勢いよく顔を上げた。

「は? ゆいのう?」

聞いたこともない言葉。 どうしてマツリとの諍いに、聞いたこともない言葉が出てくるのか。 東の領土といっても本領と言葉の違いはないはず。 もしかして日本の言葉なのだろうか。
その言葉は何なのか。 その言葉が紫揺の憂いの根源なのだろうか。

「・・・申し訳ありません、分かりかねます」

高校時代、歳の離れた友達の姉が嫁ぐことになった。 そこで結納が執り行われたと聞いた。
当時はお金の無駄遣いとしか思えなかったが。

「えっと・・・どう言えばいいのかな。 約束ごと?」

「約束は分かりますが・・・」

「そっか・・・。 だよね。 もっとこの領土のことを分からなくっちゃいけないか」

ということは日本の言葉なのだろう。

「葉月を呼んでも宜しいでしょうか?」

「え?」

「葉月なら紫さまの仰りたいことが分かると思います」

葉月に隠し事をしたいとは思わない。 もちろん此之葉にも。 だがこの事はどうしてか誰にも知られたくない。

紫揺が戸惑いを見せる。

「あ、では己が葉月に訊いて参ります。 紫さまのお言葉に度々部屋を出て葉月に訊いても宜しいでしょうか」

葉月をこの部屋に呼ばないと言っている。 戸惑いを見せた自分への塔弥の配慮。

「うん。 ごめん」

塔弥が部屋を出て行った。
改めて言葉のチョイス、選択、語彙の少なさを痛感する。

「私って呆れるほどに言葉知らずだったんだ・・・」

葉月から説明を受けたのだろう、塔弥が部屋に戻って来た。

「結納なる物は、この領土に御座いません」

「そっか・・・」

「領土は・・・民は心を通わすだけです。 領土には昔あったと言われる金は今は御座いませんし、馬や牛をお相手の家に差し出すこともありません。 この領土は基本、皆で協力し合って生きているので。 共同生活、葉月がそう言っておりました。 好き合った者は心を繋げたいだけで御座います。 親兄弟はそれを是とします」

『必ず “好き合った” って言うのよ、日本ではそう言うんだから』
領土で『好き』 と言うのは子供が使う言葉だったが、葉月にそう念を押されていた。

「そうなんだ・・・誰もみんなを信用してるんだ」

良いことだと思う。 この領土の民にとって。

「それはこの領土でのことだけ?」

「はい?」

「本領には違いがあるとか? 無いとか?」

(・・・やはりマツリ様か。 何を言われたのだろう)

「領土も本領も違いは御座いません。 日本では結納なる物があるらしいですが、各領土も本領もそのような物は御座いません。 本領の宮のことになると、どうなのかは分かりませんが、奥を取るにも奥の物は全て宮が用意すると聞きます。 特別、結納なる物は無いのではないでしょうか」

「そうなんだ・・・」

「紫さま?」

「・・・葉月ちゃんを呼んでもらえる?」

葉月を通訳にと回りくどいことはしたくないが、自分のボキャブラリーがあまりに乏しすぎる。 その上、この領土との語彙の違いに今は少々ストレスを感じてしまっている。 残念だが半分まで言えばすべてを分かってくれる葉月や他のお付きたちと違って、日本を知らない塔弥には通じにくい。

塔弥は日本を知っている葉月に聞かなければ分からないし、紫揺にしてみれば言いたいことを葉月に説明してもらわなければならない。 その度に塔弥が部屋を出て行くことは無駄な時でしかない。

部屋に入ってくるといつもなら紫揺の隣に座る葉月だが、いま自分は言ってみれば通訳的だと心得ている。 紫揺と塔弥との間の話しなのだから、紫揺の真横ではなく斜め後ろに座っている。

「えっと、いいんですか? 塔弥とのお話じゃないんですか?」

何故かその葉月と一緒にガザンが入って来た。 さっき玄関の戸を閉めなかったのはガザンだったのか。 足を拭き部屋に入ろうとしたのを、今まで葉月に止められていたのかもしれない。 そのガザンが紫揺の横に伏せた。 思わずガザンの頭を撫でてやる。

「うん。 そのつもりだったけど・・・。 言葉の壁って言うのを感じて」

ほんの少しの単語の違いだけなのに通じ合えない。

「葉月、悪い。 己は日本のことを知らないから紫さまの仰ることが、言葉が分からない時がある」

さっきの結納のように、と続ける。

ずっと独唱に付いていたのだ。 日本のことを知らなくても当然だ。

「あ、塔弥さんのせいじゃないから」

日本の言葉を知らなければと思ってはいたが、なかなか実践に繋がることはなかった。 それを今更ながらに悔やむが、あの時は食べ物のことに対する単語を葉月やお付きたちに教えてもらっていた。 憶えた単語と言ってもそれは食べ物の単語。 今のことに繋がらない。

頭を下げていた塔弥が紫揺を見る。

「その、結納なる物がなにか?」

「あ、うううん。 そっか。 結納代わりじゃなかったんだ・・・」

「・・・紫さま?」

「あ、うん。 話すって約束したよね」

塔弥が頷く。

紫揺が意を決して言う。

「チュー」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第87回

2022年08月08日 22時01分32秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第87回



職人の手に木箱が返された。
職人に伝えた塔弥。 言葉足らずではいけない、葉月が横にいる。

「え? ではこの大きな紫水晶はこのままで?」

塔弥が葉月を見る。

「はい。 紫さまが紫水晶のそのままの姿を愛でていたいと」

「他のものは今の説明の物で?」

塔弥がなんとか説明しようと頑張ったが、葉月からすれば残念な説明だ。

「うーん、ちょっと違うかなぁ」

チラリと塔弥を見ると、情けない顔で俯いた。
日本のアレコレを知らない塔弥。 紫揺が作って欲しいと言ったのは日本で見た物だった。
それはお付きが提案したものである。


少し前、職人を呼びに行った葉月。
紫揺と職人の間には葉月に呼ばれた此之葉が同席していた。 葉月はそのままお付きたちの部屋に入って行った。

「お呼びとお伺いしましたが、お気に召されませんでしたでしょうか?」

「いいえ、違います。 その事じゃなくて葉月ちゃんから聞いたんですけど、飾り石の・・・職人さんは飾り石と話が出来るって・・・その、なんて訊いていいのかな・・・」

「ああ、そのことで」

紫揺の言わんとすることが分かったようだ。

「師匠から手先のことはもちろん教えてもらいますが、それと同時に・・・いや、それより先に、月が満ちて次の月が満ちるまでずっと石を持たされるんです」

「え?」

手先のことより手で石を感じろということらしい。

約一ヵ月、ずっと毎日石を手にしているだけ。 それから手先のことに入るということであったが、石を感じるのはそう簡単なことではない。 一ヵ月そこらで何が分かるわけではないが、毎日毎日、最初の一ヵ月のことを思いながら石を触っていると、石がどんな風に削って欲しいかが分かってくるという。

「そうですねぇ・・・、朧気に分かるのに早くて十の年、は、いりますか。 それから次には採掘の時に。 わしらは石と目が合うって言うんですけど、目があった石はわしに削ることを許した。 目が合わなければそのままにしておきます」

「・・・目が、合う?」

「何ですかねぇ、気のせいなのかもしれませんが、それでもわしは、他の者もそうですけどそれを信じてますんで」

「あの大きな紫水晶もですか?」

「はい、目が合ったどころじゃありませんでした。 殆ど睨まれたと言っていいくらいでして」

「え?」


職人と話を終えた紫揺。
職人が辞すると塔弥に木箱を持ってくるように言い、葉月にも紫揺の部屋に来てくれるように言ったが、何故か他のお付きもついてきた。

葉月から今職人が紫揺と話していると聞いていたので、紫揺が飾り石を削ることに納得したと分かり、意気揚々と紫揺の部屋に入って来たのだ。
大きな男たちが七人も入ってくると狭くて仕方ないが、それぞれにアイデアがあるらしい。

紫揺があらためて木箱の中の飾り石を見、その横でお付きたちがそれぞれに紫揺の身に付ける物のアイデアを出した。
その一つに紫揺が反応した。

「あ、それって何かで見たことがありますけど・・・海外の物でしょ? ここでは派手じゃないですか?」

そう言っていた紫揺だが、推し手である梁湶に負けて納得をした。

「派手なものではなく、ハチマキを巻くと思えばいいんです。 石は一つ。 この中から。 あとは金細工師の腕と言えば職人も納得するでしょう」

飾り石を削る者も金細工を作る者も数人いるが、皆、同じところに居る。 飾り石の削り師と金細工師は違うが、互いに良い刺激を受け合い敵対しているものではない。 この東の領土では。

紫揺が最初に言った “石は一つ” その言葉が大きかった。
飾り石の職人と話をしたと言っても、やはり石は削りたくない。 あるがままの姿でいて欲しいし、それに掘っても欲しくない。 そう思っているのだから。

掘るから目が合う。 掘らなければ目など合わないはず。
飾り石の職人が言っていた “睨まれた” は少々気になるが。 だからというわけではないが、大きな紫水晶は暫く紫揺の部屋に置くことにした。


塔弥を置いて葉月が職人に説明をする。
初めての品に職人が目を丸くしているが、かまわず説明をし

「飾り石職人と金細工師の腕の見せ所。 この石を使って紫さまがどれだけお似合いになるかなんだから」

それが腕の見せ所だと言う。
職人が頷いた。 葉月の説明で分かったのだろう。 たった一つの飾り石を使って金細工でその飾り石を目立たせる。
その物を知らない職人にとってイメージがわかない。 それだけに簡単な注文ではなかったが、紫揺がチョイスした飾り石は削らずともいいくらい良い形をした親指の先ほどの紫水晶であった
それをチョイスした紫揺の先見の目に職人が頷いた。


「葉月・・・」

「うん?」

「あ、いや、」

職人が目の前から居なくなっていた。 塔弥と葉月、二人だけの空間。

「なに?」

「・・・」

「用が無いなら、料理を作りに行かなくちゃいけないんだけど?」

「あ・・・あの、紫さまのこと」

「え?」

「その・・・飾り石のこともそうだけど、いや、それが一番大きいけど。 その、職人の話をしてくれたし・・・しゅ・・・しゅーくりーむ、それにぷりんも」

「ああ、ぶにゅぶにゅで甘過ぎるやつね」

うっかり塔弥が言ったことだ。
その塔弥が大きく息を吐いた。
そして改めて深く深呼吸をする。
葉月が冷めた横目でそれを見ている。

「紫さまが俺の想いを言うと、交換に紫さまの憂いを仰って下さると言って下さった」

「は?」

「でも紫さまとの交換の話ではない。 その、葉月が・・・あの、葉月が、その・・・」

「交換ってなに?」

「いや、だから、交換ではなくて・・・」

「何なの? はっきり言いなさいよ」

「いや、だから・・・」

この場にこの二人しか居ないと思っているのは、塔弥と葉月だけである。 あちらの物陰、こちらの物陰に蠢く噂好きの影が潜んでいる。

「その、今回は紫さまのことで葉月には大きく手を貸してもらった。 お付きとして礼を言う」

「お付きとして? それって、阿秀からじゃないの? って、そんなことを言って欲しいなんて思ってないけど?」

「・・・そうだな」

「は?」

「そんな葉月だから・・・」

「なに」

「俺の・・・俺の嫁になって欲しい」

「へ?」

「い! 言っておく! 紫さまとの交換条件でどうのこうのじゃない! 俺が・・・俺が葉月を想っているってことだけだ!」

陰で見ていた六人分の双眸が大きく目を開けた。

「・・・塔弥」

「紫さまが、その、早く言わないと葉月が誰かの元に行くかもしれないと言われたけど・・・。いや、そうじゃないくて、葉月が・・・えっと、葉月が・・・。 紫さまに心を寄せている。 きっと葉月はこの領土の五色の紫さまだからじゃなくて、一人の紫さまに心を寄せている。 それが、その・・・」

「それが、何?」

そこが重大だ。

「葉月は・・・紫さまでなくとも、その、人の心に添える。 そんな葉月が・・・」

「そんな私が?」

「あ、え? ・・・その・・・そんな葉月に添うてもらいたい。 あ、いや、俺も添いたい。 その、俺に添うては貰えないだろうか・・・」

「・・・」

「葉月?」

「結局、塔弥は何なの?」

「え?」

「塔弥は私のことを想ってくれてるの?」

「あ、当たり前だ。 だから、だから言っている」

「じゃ、どうして紫さまのことを考えなくてはいけない、この大事な時にそんなことを言うの?」

塔弥が一度顔を下げた。

「・・・葉月」

いつもにこやかにしている葉月。 その葉月が顔を歪めている。

「塔弥なら紫さまのことを何でもわかると思ってたのに、私以下だったなんて!」

プリンを作ってもシュークリームを作っても泣いてばかりいる紫揺。 そんな時に。
駆けだそうとした葉月の腕を塔弥がとった。

「葉月! 分かってる! 知ってる!」

「分かってない!」

塔弥に腕を取られ身動きできない葉月。 大きくもない塔弥なのに力がある。

「紫さまは無条件に花を手折りたくない。 木々の成長の為と伐採も仕方がないとはいえ、それに心を痛めていらっしゃる。 飾り石もそうだ。 紫さまは自然の形をかえたくないと思っていらっしゃる」

そこまでは葉月も知っていること。

「紫さまは・・・葉月に幸せになってもらいたいと仰ってる」

「・・・」

「紫さまは葉月と此之葉のことを気にかけておられる。 葉月と此之葉に幸せになってもらいたいと。 いま紫さまは憂いておられる。 憂いておられるのに葉月のことを気にかけておられる。 紫さまのお気持ちを受けられんか? いや、俺にどうのということではない。 紫さまのお幸せの中に葉月の幸せがあるということだ」

葉月の顔が真っ赤になる。 ついさっき自分はなんと言った。 塔弥は紫揺のことを何もかも分かっているはずなのに、そう思っていたのに、それも自分以上に。 それを疑うようなことを言った。
いま塔弥が言ったことが紫揺の何もかもとは限らないが・・・それでもいま塔弥が言ったことは大きいのではないだろうか。

「・・・塔弥」

「葉月は紫さまの仰りたいことを、何もかも分かって説明できる。 俺には出来ない。 葉月は紫さまに限らず、誰もの考えることに柔軟に耳を傾けることが出来る。 あ、いや・・・そんなことはどうでもいい。 いや、それが重大なんだが。 ・・・その、俺が葉月に・・・俺がそんな葉月の心の支えとなりたい。 それに俺は・・・葉月を誰にも渡したくない」

「・・・塔弥」

「今は紫さまのことで色々なことがある。 それは確かだ。 葉月の言うように今言うことではないだろう。 だが・・・さっき飾り石の職人に、俺の言葉足らずを葉月が補ってくれた」

「それは・・・塔弥が日本をよく知らないから」

「そうだな。 うん。 俺は紫さまが過ごされた日本をあまり知らない。 紫さまの基本は日本だ。 俺の知らない日本をさっきのように補っては貰えないか?」


「クッサー、塔弥があんなことを言うか?」

お付きの部屋に戻ってきた六人。

「ってか、塔弥の想い人は紫さまだって言ってたのは誰だ?」

「いや、そんなことは今どうでもいい。 そいつをボコっても、いま目の前のことは変えられないんだから」

「塔弥と葉月か・・・」

「いや待てよ、一番年下の塔弥に先を越されるかもしれないってか!?」

「あれぇ? もしかして紫さまと塔弥って言ったのは俺だったかぁ?」

全員が醍十を睨む。

「今はそんなことはどうでもいい。 なによりも塔弥に先を越されたってことだ」

「だが葉月は何も答えてないぞぉ。 塔弥がフラれるかもしれんだろうぅ」

またもや全員が醍十を見た。

「あの葉月の目を見れば一目瞭然だろうがっ!」

「んじゃ、悠蓮も梁湶もお相手の女人の気持ちを分かってるのかぁ? あ、若冲もかぁ?」

全員の目が若冲に向かった。 悠蓮と梁湶の話は以前、醍十から伝わっていたが、まだ若冲の話は伝わっていなかった。

「若冲―・・・」

醍十と若冲を除く四人の目が若冲に注がれる。

「あ、いや、その・・・」

朴訥とした醍十にお付きの誰もが心の内を、耐えきれないものをポロリと喋ってしまっていた。 それが仇となったのか。


飾り石職人が木箱を手に工房に戻った。 木箱の蓋には数滴の雨粒が染み込んでいる。
待ち構えていた者たちが職人の元に集まる。

「紫さまは何と仰っておられましたか?」

一人が代表して言うと他の者も目を輝かせている。
職人が台の上に木箱を置くと蓋を開け、たった一つの、親指の先ほどの紫水晶を手に取った。

「飾り石はこれだけを使って、あとは金細工師の手で作って欲しいと」

飾り石職人が肩を落とす。 あの大きな紫水晶ではなかったのか。 紫揺と話し、いま目の前に居る飾り石職人たちの師。 その師が見つけたあの大きな紫水晶ではなかったのかと。 その石は今木箱の中にはない。 紫揺の部屋に置いてきた。

「みな、この石を手に取れ」

金細工師もな、と付け加えて木箱から取ったそれを一人に手渡す。

「この石はな、輝いとる」

それは当たり前だろう。 金細工師が思う。

「今は、だ」

石を手にしていた飾り石の職人が顔を上げた。

「師匠、どういう意味ですか?」

「言わんと分からんか?」

そう言い始めた師匠が話し出した。
この石は小さいと言えど、特に目にとまるものがあった。 採掘した時に目が合い、己の想いに頷いてくれた。
そんな思いがあって小さいといえど、木箱の中に入れたが、その後、紫揺と出会ってそれまで以上に光り輝いたということであった。

その石を手にしている光石の職人がまじまじと見る。

「あ・・・」

最初に見た時と違う。 たしかにこの石は内から輝いていた。 だが今はその輝きが何倍にもなっている。

「師匠!」

「分かるか?」

この石が紫揺と出会って更に輝きを増したということだ。 石が飾り石職人と出会って目を合わせた以上に、紫揺と目が合いその輝きを増した。

「はい」

隣に居る者が石を覗き見る。 その手に石を渡す。
金細工師が目で追っているが、その輝きというのが分からない。

「紫さまがこの石を選ばれ、この小さな石が金細工師の手によって、どれだけ映えさせることができるか」

金細工師が深く頷く。

領土に来て今まで金細工のことも飾り石のことも一切、何も言わなかった紫揺。 ここにきてこれだ。 腕に力が入る。
とはいっても、石を選んだのは間違えなく紫揺だが、出来上がりの品の提案は紫揺ではなくてお付きなのだが。


日に日に月が満ちてきた。 あと数日で満月だ。

雨の日が続いた後、阿秀からは数日で家を出ることを了承してもらったが、それでも一時間でもじっとしているのが辛い紫揺にとっては長い日々だった。 そして阿秀からの注文は付けられていた。

「いいですか、お転婆に乗るのは厳禁です。 この辺りで大人しくしていてください」

「なんか・・・塔弥さん並なんだけど」

「お褒めに預かりまして」

「・・・」

しぶしぶガザンを連れて、あちこちをウロウロするだけの日々となったが、それでも部屋の中でじっとしているより随分とマシである。

そんなある日、夕餉を食べ終えた紫揺の部屋に葉月が訪ねてきた。

「なに? 何か用?」

紫揺に代わって此之葉が問う。 ちょっと機嫌悪く。
先日、葉月がシュークリームを作ったのはいいが、結局あの日、紫揺は七つもシュークリームを食べて夕餉が腹に入らなかった。
『紫さまにお勧めするに程度というものを考えなさい』 と此之葉にコンコンと叱られてしまったのだ。

茶をすすりながら上目遣いに葉月を見ていた紫揺。 あ、と気付いた。

どうしようか。 ここに此之葉を同席させていてもいいのだろうか。 葉月自身がどう思うかということもあるが、その後で塔弥と話すことは此之葉にも葉月にも知られたくない。 だが葉月が塔弥から何某かを聞いていれば、この場で問われることになるかもしれない。 それは避けたい。

「うん、ちょっと」

少々口を歪めながらだが、しっかりと此之葉を見て応える。
叱られたことは認めている。 調子に乗って勧め過ぎたのには自覚があるのだから。

此之葉が紫揺を見た。

「あ、えっと。 どんな話かな・・・その、二人だけの方がいい?」

いいと言って欲しいと願いを込めて訊ねる。

紫揺の言いようにそう言えば、と此之葉が気付く。 葉月が何か言いにくそうな雰囲気を持っている。

「あ、此之葉ちゃん誤解しないで。 叱られたことは自分が悪いと思ってるから。 反省してるから。 そんなことでじゃなくて、紫さまとだけちょっとお話があって。 その話の内容の相手がね、まだ誰にも聞かれたくないって」

お付きたちはまだ塔弥を冷かしてはいないようだ。

「そうなんだ。 此之葉さんいい?」

「はい。 膳を洗ってまいります」

紫揺と自分の食べ終えた膳を持つと立ち上がった。 戸は葉月が開けた。

「ごめんね、此之葉ちゃん」

此之葉が微笑んで首を振る。 気にしなくていいと。

「紫さまのお茶をお願いね」

「うん」

此之葉が出て行き戸を閉めると紫揺の横に座った。 相変わらずだ。
急須を手に取る。

「紫さま、お替わりは?」

「まだあるからいいよ」

チラリと葉月を横目で見る。

「やっと構想が固まったみたいで、職人が頑張って作り始めてるよ」

イメージとして葉月が伝えていたが初めて作るもの故、職人の間で案の出し合いをしながらやっと決まったということであった。

「そっか。 手を煩わせちゃったね」

「職人はそれが生き甲斐だから。 無理難題を言われる方が職人にとっては嬉しいもんよ」

「そうなのかな」

「職人ほどじゃないけど、私も紫さまに色んなものを作って喜んでもらえるのは嬉しいもん。 ここにはね、お砂糖も前にも言ったけどチョコレートもないの。 言ってみれば日本のオヤツとかスイーツっていうのは同じレシピで作れないの」

「あ? え? そうなんだ。 じゃ、どうやってプリンとかシュークリームを?」

「ふふ、お砂糖の代わりは蜂蜜で何とか誤魔化せたけど、あ、それでもあれやこれやと手は加えたよ。 チョコレートは試行錯誤してる最中。 作り手ってそれが楽しいのよ。 だから職人たちも同じ。 煩わせてなんていないから気にしちゃ駄目よ」

「・・・そうなのかな」

わかっている。 我が儘を言ってるってことは。
どれでもいいから飾り石を手に取って前例のあるものを作って欲しいと、何でもいいから適当に言ってしまえばいいと。
でもそれが出来ない。

「あ、ほら、沈まないの。 ちゃんと前を向いて。 これからいいことを聞かせるから」

そうだった。 葉月からの話を聞かなくてはいけないのだった。 話を聞く前に心配をかけてどうする。

「いいこと、なの?」

塔弥はちゃんと言えたのだろうか。

「はい。 紫さまが飾り石のことで職人とお話したあの日なんですけど、塔弥がね、添うて欲しいって、支えになりたいって。 誰にも渡したくないって」

驚いてしまう。 あの塔弥がそんなにストレートなことを、それもそんな言葉数を言ったのか。 いや、あの塔弥だから回りくどいことを言えなかったのだろうか。

それにしても職人と話したのは何日も前のことではないか。 塔弥はそ知らぬふりをして紫揺に接していたということか。

―――けっこう狸かもしれない。

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第86回

2022年08月05日 22時29分37秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第86回



「紫さま?」

「え?」

「どうされました?」

目の前に此之葉がいる。 いつの間に・・・。

「もう赤みは引いておられますが、まだお首が痛いのでしょうか?」

言われ気付いた。 無意識に首に手をやっていたようだ。

「あ、うううん。 もう大丈夫。 確認しただけ」

此之葉が頷く。

「では塔弥の一任で宜しいでしょうか?」

なんのことだろう。

「なにがですか?」

此之葉が小首をかしげながら言う。

「飾り石のことです」

もしかして憎々しいマツリのことを考えている間に、そこそこ時が過ぎていたのかもしれない。 その間に何があったのか気を向けなかったのかもしれない。 間抜けもいいところだ。
塔弥と飾り石と言われて記憶はある。

「あ、はい。 塔弥さんの思うままで」

木箱を前にして腕を組む七人。
お付きの部屋の中である。
塔弥は紫揺の返事を持って飾り石の職人のところに戻ろうと思っていたが、他のお付きがそれを止めた。

「代々の物は手首に付ける腕輪だったから、今度は二の腕に付けるってのはどうだ?」

「なんか・・・異国っぽいな」

「ああ、足に鈴なんかつけて今にも踊り出しそうだ」

なんのことかと塔弥が首を捻る。

「大体、今まで紫さまがお付けになってたのは、先の紫さまのその前の先代紫さまのだろう?」

「ああ。 先の紫さまと同じお考えで、何も新しく作る必要は無いとお考えだから」

「で? 去年は何も言わなかったのに今年になって、それもお誕生の祝いの前になって急に言ってきたってわけか?」

「採掘してたら大きなのが出てきたってのもあるし、小さいのは以前から紫さまにお作りしたかったけど、紫さまが新しく作るのを拒んでいらしたから」

「で、大きいのが出てきたから、小さいのも持って来たってことか」

木箱の中の小さいものに目を移す。 小さいと言ってもミリ単位ではない。

「冠なんてのはどうだぁ?」

「ここは日本じゃないんだから、冠なんて不自然だろうが」

「それに王様やお妃やミス何とかじゃないんだからな」

「あ、勲章! ドーンとその大きなのを付けて。 どうだ?」

「なんの受勲だよ・・・」

塔弥は何一つ分からない。 今までにあったものだと、作らなくてもあるからいい、と紫揺は言うだろうから、全員か何か新しいものを考えていることは分かるが、その一つ一つが全く分からない。

「大体、どれにしても、このデッカイのをどうやって付けるんだよ」

「それは職人の腕だろう」

「まず紫さまは削るのを嫌がっておられるんだろ?」

塔弥が頷く。

「だが削らなくてはどうにもいかんだろう」

「自然のものを自然の姿のままでとお考えになっておられるから」

「まあ、常日頃がそうだからなぁ」

「それに飾り物にあまり興味をお示しになられないし」

「職人泣かせだよなぁ」

六人が紫揺の住んでいた日本での借家を思い出す。 裕福ではなかっただろう。 必然的に宝石には興味が向かなかったのだろう。
職人の意を汲んでやりたい七人がまた腕を組んだ。

「入るよー」

葉月の声がして戸が開けられた。 手には布をかけた盆を持っている。

「あ、みんな揃ってんだ。 丁度良かった。 塔弥じゃアテになんないし。 ん? なにこれ? 大きい紫水晶」

座卓に置かれている木箱に目が吸い込まれる。

「ああ、職人が紫さまにこれを使って何かを作りたいんだそうだが、紫さまが削るのをあまりよく思われないそうなんだ」

「ああ、そうだろうね」

木箱から塔弥に目を移す。

「ちょっと端に寄せてくれる? これ置きたいから」

塔弥が無言で端に寄せる。 アテにならないと言われたのだから。
葉月がチラリと塔弥を見る。

「汚しちゃいけないから、蓋しといて」

またもや無言で蓋をする。

葉月が手に持っていた盆を座卓に置くと被せてあった布をはいだ。

「ああ? なんだ? シュークリーム?」

「どうしたんだ?」

塔弥を除く全員が葉月を見た。

「オーブンがないしレシピもないからちょっと不安なんだけど窯で焼いたの。 試食してみてもらえる?」

これがシュークリームかと、まじまじと見ている塔弥の前に六本の腕が伸びた。

「どう?」

何故か無言で食べている六人。
醍十がかじった横からぶにゅりとカスタードクリームを出して口の周りに付けている。

「醍十、クリームを落とさないでよ」

言いながら一つを手に取ると、はい、と言って塔弥に渡した。

「ね、どう? 駄目? シュークリームには思えない?」

自分でも試食をした。 遠くは無いと思うのだが・・・。

「うん・・・と。 皮が硬めかな」

言った梁湶を一蹴する言葉が飛んだ。

「それがいいんだろが」

嬉しいことを言ってくれたのは悠蓮だ。

「大体、梁湶なんて基本甘い物を食べないんだから、流行りのシュークリームも知らないんだろが」

「え? そうなのか? 硬いのがいいのか? それがあっちでの流行りか?」

「たしか、窯焼きシュークリームって言ったっけ? 昔みたいにやわやわのシューじゃないんだよ。 葉月、いける。 美味しいぞ」

「やった!」

「俺的には、もっとカスタードを甘くしてもらってもいいけどな」

「悠蓮の口は甘い物を欲しがり過ぎるんだよ。 俺は丁度いい。 美味いぞ」

他の者も頷きながら「葉月、美味い」と言う。 少々怪しげな二人がいるが、その者は梁湶と同じく酒を飲み甘い物に詳しくない者たちだ。

無言でかじっていた塔弥がなんとも言えない顔をしている。

「なに、塔弥。 その顔」

「ぶにゅぶにゅだし、甘過ぎだし・・・。 紫さまはこんなものがお好きなのか?」

甘い物が好きだとは聞いていたが、これ程に甘いとは。

塔弥が言っているのは、カスタードクリームのことだろう。

「こんなもので悪かったわね! 塔弥なんてもう知らない!」

プイと横を向く葉月だが、塔弥は初めて食べたんだから仕方がないだろう、許してやれ、と男たちが葉月を宥めるが、葉月が最初に言っていたように、塔弥はアテにはならなかったようだ。

プリンの時には女たちに試食を願った。 出来栄えとして間違いなく出来たつもりだったから、余裕ブチかましで女たちに試食を願えた。 女たちが喜んで食べ、この領土の新しいオヤツとなったほどだ。

プリンは感覚で作れる。 だがシュークリームはシューを作るに細かな量を書いたレシピがないし、オーブンではない窯を使う。 自分ではよく似た物が出来たと思っても、シュークリームを知る人間に確かめて欲しかった。

葉月がまだシュークリームが残っている盆に布をかけ、盆を持つと立ち上がった。

「塔弥以外のみんな有難う。 紫さまに持っていく」

「だからー、塔弥のことをそう言ってやるなって」

「知らない」

塔弥からプイッと顔を逸らせた葉月が出て行った。

未だに二口かじっただけのシュークリームを手にしている塔弥。 誰かの手が伸びてきてそのシュークリームを取り上げた。

「塔弥ぁ、葉月の気持ちも考えてやれよぉ。 これがどんだけ美味いか分からないのは仕方ないけど、言い方ってもんがあるだろうぅ」

口の端にカスタードクリームを一杯に付けた醍十が、手にしたシュークリームを口に放り込んだ。
醍十がそんなことを言うかと、他のお付きが目を丸くしている。

「葉月です」

戸の向こうで声がした。

「入って」

応えたのは此之葉だった。
戸が開いて葉月が姿を現す。

「此之葉ちゃん居たんだ」

「当たり前です」

盆を座卓に置くと紫揺の横に座る。

「葉月・・・」

此之葉が何と言おうとも今は関係ない。 いつもだが。
盆の布を取り払う。

「あ? え?」

目の前の盆にシュークリームが胡坐をかくように座している。
紫揺が葉月を見た。

「さっきお付きたちに味見をしてもらったら美味しいって言ってくれたの、紫さま、食べてもらえる?」

「葉月!」

「あ、食べてもらえますか?」

「葉月ちゃん・・・」

「ね、食べてみて。 ・・・下さい」

此之葉が睨みをきかせている。

紫揺が手を伸ばすとシュークリームを手にした。 心地よい硬さ。
母親が幼い頃は柔らかいシューだったと聞いたことがあったが、その母親の若い頃から硬いシューがあちこちに出回りだしたと聞いたことがあった。
部活帰りになけなしのお小遣いでコンビニで買ったシュークリーム。 あの口当たり、味が蘇ってくる。

かじってみる。 サクッと良い音がした口当たり。 その後にトロリとカスタードクリームが口に入ってくる。
葉月が不安げに見ている。
一口入れたシュークリーム。 カスタードクリームの控えめな甘さが鼻に抜ける。

「・・・美味しい」

やった! と声を上げかけた葉月が止まった。

「紫さま?」

紫揺の目に一瞬にして涙が溜まった。

「やだ、紫さま、どうしたの、じゃなくて、どうしたんですか?」

「紫さま?」

此之葉も紫揺の名を呼ぶ。

「あ、ごめん。 あの・・・。 ・・・美味しいの」

だから食べる度に涙が、と声が詰まって最後まで言えない。

「あ・・・そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、どうして・・・」

シュークリームを手にしている紫揺の手からそっとシュークリームを取って盆に戻した。

「紫さま? 無理して食べなくていいから。 辛いことがあるの? 日本に戻りたいの? ・・・えっと、戻れないけど。 でも何でも言って。 紫さまには此之葉ちゃんとお付きがいるんだから。 私もよ。 一人で考えないで。 一人で悩まないで」

プリンを食べていた時にも泣いていたのだから。 日本が恋しいのかもしれない。

「・・・無理なんてしてない。 それに美味しい。 今まで食べた中で一番おいしいシュークリー・・・」

一番おいしいシュークリームだもん。 また声が詰まって最後まで言えなかった。
そんな紫揺をシキのように抱きしめることが出来る者などこの領土には居ない。

「紫さま・・・その、プリンの時もそうだったけど・・・作らない方がいい?」

葉月の言いようにピクリと此之葉の眉が動くが今は黙っていよう。 葉月の言うようにプリンを食べた時にも紫揺は泣いていたのだから。 何かを、その理由を言ってくれるかもしれない。

「うううん、そんなことない。 プリンの時には・・・塔弥さんが私の言ったことを憶えていてくれたんだと思ったら、嬉しくなって・・・それで・・・つい」

言葉を詰まらせながら続ける。

「それにプリンもそうだけど、このシュークリームも美味しいし、葉月ちゃんが頑張ってくれたんだと思うと、どうしても涙が出ちゃって・・・。 その、日本のことは心配しないで、戻りたいとは思ってないから。 ただ・・・美味しいんだもん」

「紫さま・・・」

「ゴメン、ゴメンね。 せっかく作ってくれたのに辛気臭いこと・・・」

涙を振り払うようにしてかじっていたシュークリームを手にした。 一口一口を味わうように食べる。

「美味しい。 本当に美味しい。 葉月ちゃんって天才」

「良かった、紫さまにそう言ってもらえたら自信が出来そう。 他の物にもチャレンジできる」

振り払われた涙は見なかったことにする。 紫揺がそれを望んでいるのだろうから。

「まだあるから、気のすむまで食べて」

盆を紫揺に近づける。

「うん。 いくらでもお腹に入る」

未だ続けられる葉月の言いように睨みを入れたかった此之葉だがそっと部屋を出た。 今は葉月に任せる方がいいのかもしれない。

三つのシュークリームを食べた紫揺が四つ目に手を伸ばした時に葉月がおもむろに訊ねた。

「飾り石を削るのが嫌なんですってね」

「あ、うん。」

手が止まった。

「あ、気にしないで食べて。 食べてくれると嬉しいから。 食べながら話してもらえます?」

分かったと言うように、しっかり四つ目を手にして口に頬張る。

「紫さまが飾り石のことを考えるのは分かるんです。 意外かもしれないけど私もそうだから」

「え?」

葉月がイタズラな目を紫揺に送る。

「人間の勝手で形をかえたくないですよね。 紫さまを見ていると私と同じ。 きっと紫さまも考えられると思います。 花を手折ってプレゼントされるの、それって嬉しいけど手折って欲しくないって思いますよね」

民が花を摘んで紫揺にプレゼントしてくれる。 初めて領土に来た時もそうだったし今だにそれがある。
民の心を考えると花を手折って欲しくはないとは言えなかった。

「手折られた飾り石です」

「え?」

「木箱の中の飾り石を見られたんでしょ? その飾り石は手折られたんです。 お花と一緒です。 お花には数日でもお水を与えることでお花の息を永らえることが出来ます。 でも地から切り離された飾り石は、お水を与えたところで地と結び合って生きることは出来ません。 それどころかお花のように枯れることもありません。 でも飾り石は生きているんです。 水も何も要らない状態で」

「葉月ちゃん、何を言いたいの?」

花のことで葉月の言いたいことは分かる。 自分自身がそう考えているのだから。 でも・・・。

「職人は飾り石の声を聞きます」

「え?」

「飾り石が選びます」

「選ぶ?」

「飾り石がどうしたいかを」

「えっと、ごめん。 意味がわからない」

葉月が頬を緩める。

「塔弥が持ってきたでしょ? あの木箱」

「あ、うん」

「あの木箱の中の飾り石は職人の声を聞いたんです」

「え? だって、さっきは職人さんが飾り石の声を聞くって」

「分かりやすく言うと、職人と飾り石で会話が出来てるんです。 職人があの飾り石を見た時に紫さまに何かを作りたいと思った。 その声を飾り石が聞いて、飾り石が職人の為になりたいと思った。 紫さま? この地の職人を舐めちゃいけないですよ。 職人は飾り石が嫌がるのを無理矢理削るんじゃないんですから」

「・・・あ」

「究極に短縮して言うと、飾り石が紫さまの為に身を削ることを許したってことです。 ってか、そんなことすらも考えていないでしょうけど。 考える以前の問題だから」

暫しの沈黙。

葉月が紫揺の考える時をもうけた。
いつまで経っても紫揺が声を出さなければ声を掛けるつもりだが、可能な限り紫揺に負担がかからない限りまで待つ、そう腹をくくっていた。

紫揺にしては、それは人の身勝手な解釈なのではないだろうか。 誰が身を削られたいと思うだろうか、と思う。
だが何を考えても未だにこの地のことが分からない。 一つ一つ疑問が浮かんでは解決しているつもりだが、それは小さなことだった。 それでも小さなことが分からなければ大きなことに結び付かないと、今まで子供たちに女たちに色んなことを訊いていた、教えてもらってきた。

「葉月ちゃん・・・」

紫揺の中で何かの整理がついたのだろう。

「はい」

「職人さんとお話したいんだけど」

「すぐに呼んで来ます」

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辰刻の雫 ~蒼い月~  第85回

2022年08月01日 22時09分04秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第80回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第85回



紫揺がお転婆に乗った。

「紫さま、お願いですから辺境は・・・」

塔弥が言う。

「分かってます。 辺境にはいかないです。 ちょっと離れた所に行くだけ。 ゆっくりお転婆で歩いて行きます。 お転婆は不服でしょうが」

お転婆の気持ちを代弁しただけなのか、お転婆のせいにした紫揺の思いなのかは疑問なところである。
そのお転婆の横に今日ガザンは付いていない。
ガザンは大きく伸びをして、定位置の紫揺の家の外に伏せている。

紫揺がお転婆の首を宥めるように叩いてやる。

お転婆の後ろについている馬に乗ったお付きが、辺境にはいかないようだと、胸を撫で下ろした。
お転婆の前の馬に乗る阿秀が振り返って紫揺に訊く。

「どちらに向かわれますか?」

「どこに行こうかなぁ・・・。 どのへんに長く行ってませんでしたっけ?」

「中心ですと・・・光石の採掘場所には最近行っておられませんが」

「ああ・・・、力仕事をしてもらってるんですよね。 それじゃあ、そこに行きます」

最近の中心では子供たちと遊びながらも食が気になり、田畑と陶器や鍋などを作ってくれている工房にしか行っていなかった。
お付き達の進言で鉱山にはあまり足を踏み入れていない。 とくに光石の採掘場所には、紫揺が東の領土に来てほんの数回しか行っていない。

光石の採掘場所はとくに足場が悪い、よって、お付きたちは紫揺をあまり行かせなかった。

その光石を有する山は本領と東の領土にだけある。

光石がないなら無いなりに生活も出来るが、それには油が必要になってくる。 日本のように簡単に油がとれるわけではない。 その油が魚油になってしまっては、敏感なものは思わず鼻をつまむだろう。 それを思うと光石の力は大きい。

阿秀の馬が先頭を走り、お転婆の道先案内をする。

何日かぶりに外の空気を吸った紫揺。 空気が美味しい。 葉月の作ってくれたプリンとはまた違った味がする。
ボゥッとそんなことを考えながら紫揺がお転婆に騎乗している。

葉月がチョコレートに似た物をまだ探し得ていないと言っていたが、シュークリームはなんとかなりそうだと言っていた。

『いいよ、葉月ちゃん。 プリンが食べられただけでも幸せだから』

『ぜんっぜん良くないです。 ああ、もう悔しい! どうして他の物が作れないだろう。 ね、紫さま、紫さまの仰るパフェってチョコレートパフェですか?』

『え? うん』

紫揺にしてみればチョコレートの無いパフェなどパフェではないのだから。

『やっぱりー』

単なるパフェなら色々誤魔化して作ろうと思っていたが、まずはチョコレートを食べたいと言っていた紫揺だ。 そんな人間が単なるフルーツパフェで終るわけが無いと踏んで質問をしたが見事的中した。

出来ればフルーツパフェで終わって欲しかったが、やはり終わることは出来なかった。
単なるフルーツパフェなら何とかなったものを・・・。 それにケーキにもまだ手を付けられていない。
ベーキングパウダーと同じ働きをするものを探しきれていない。

お転婆の後ろを走っていた塔弥の馬が紫揺の横に付いた。

「紫さま、お身体が揺れておられますが」

甘い物に気をとられていたみたいだ。

「あ、ゴメンなさい。 なんともない。 ちょっと考え事」

塔弥が眉をひそめる。

「あ、いや。 難しいことなんて考えてないし。 葉月ちゃんの作ってくれたプリンのことを考えてただけだから」

葉月と言われて塔弥がすぐに馬の足を緩めた。
紫揺の片眉が撥ねる。

(塔弥さんまだ葉月ちゃんに何も言ってない、か・・・)

阿秀が先頭をきり紫揺の後にお付きの馬が走る。 民に紫揺が見えるようにと、左右は固めていない。
その間にも小さな子が「紫さま!」 と、お転婆に寄ってくる。 その子たちに馬上から声を掛け手を振る紫揺。 お転婆を止めることはしない。 お転婆に近寄らせ何かあっては困る。

歴代の紫が馬に乗ることなど無かった。 それは “紫さまの書” に書かれているわけではない。 敢えて馬に乗ることは無いと書かれているのではなく、その様なことが書かれていなかった。 馬車に乗って辺境に行ったと書かれているだけである。 紫色の瞳のこともそうだが、そういう意味でも、紫揺は歴代の紫を覆したのかもしれない。

馬たちを休憩させている時、まだ年若い者が幼子の手を引きながら寄って来た。

「紫さま」

顔が緊張している。

「うん? なに?」

「どこに行かれるのですか?」

「今日はあそこの山に行くの。 山で一生懸命働いている人のところに」

紫揺の指した方向を見てから視線を戻す。

「また帰って来て下さいますか?」

「え? もちろんよ?」

どうして当たり前のことを訊かれたのだろうか。
年若い者が幼子を見て安心するようにと目線を送る。

「お山に行かれたら、紫さまがお元気になるの?」

年若い者に手を引かれていた幼子が言った。 呂律が怪しいが幼いからだろう。

「え?」

自分は、紫揺は充分元気でいる気である。 それなのに、どうしてそういうことを言われなければいけないのだろうか。

「私は元気だよ?」

幼子の頭を撫でる。

「すみません・・・」

年若い者がこれからの紫揺の行幸のことを思い頭を下げる。

「あ、ぜんぜん、すみませんじゃないから。 この子は私を思ってくれているだけだから」

と思う。

「あの、この子はちょっと・・・。 その、紫さまのお幸せを願っているだけですので。 お気を悪くされないで下さい」

隣に居た阿秀が幼子を見て眉をひそめた。 『この子はちょっと・・・』 年若い者が言った意味が分かった。

「いや、全然そんなことは無いから、気を悪くなんてしてないから大丈夫」

どうして気を悪くしなければいけないのか、その意味が分からない。

「紫さまは気にしておられん。 気に病むことは無い」

阿秀が年若い者に言うと紫揺を見る。

「紫さま、先を急ぎましょう。 遅くなっては帰るに帰られなくなります」

「あ、はい」

紫揺が幼子の頭をもう一度撫でて、顔を覗き込むようにした。

「私、元気だから。 心配しないでね」

幼子に目を合わせた。 あ、っと思った。 顔つきがどこか違う。
きっとこの子は大きくなっても字が書けないのかもしれない、それとも空間認識が出来ないのかもしれない。 その分、感受性が高く、一つに優れた所があると聞いたことがある。
『この子はちょっと・・・』 とはそう意味なのだろう。

年若い者に目を移して「この子をお願いします」 そう言ってお転婆に騎乗しトンと合図を送った。
本当は「感受性が高い子ね、どの道で伸びるのかな、これからが楽しみ」 そう言いたかったが、今の自分にそんなことは言えない。

あの子に・・・感じさせてしまったのだろう。

お転婆の前を走る馬上の阿秀が憂惧を顔に浮かべた。 感情に敏感な幼子に紫揺の憂いが伝わってしまっている。



曇天の空の下、武官舎の外に何人もの武官が集まり、一人の武官と杠を取り囲んでいる。

「お願いします」

杠の声が静かに響いた。

「始め!」

その声に “時の刻み(砂時計)” が上下逆に返される。
何人もの武官の目の前、その前には四方も四人の武官長もいる。

構えた杠だが己から動こうとはしない。 緑に染めた皮衣を着た相手も構えたままジリジリと回りこむ。 それに合わせて杠も回る。

杠に隙が無い。

武官長や四方、周りで見ていた武官達にもそれが分かるが、だからといっていつまでもこのままではどちらにも良いわけがない。 だが・・・先に動いた方が負けるということは分かる。

杠に対峙して構えていた武官。 武官には武官としての面子がある。 このままでは手を出すことなく、時間オーバーとなって終わりを告げられてしまう。
始め、と言われた時に “時の刻み” は返されている。
武官としての矜持がある、そして指名された者としてそれだけは避けたい。 どこかに隙があらわれないか、そう考えることで己に隙が出来ないように気を張る。

互いに同じことを考え気を張っていることは分かっている。 どちらが先に僅かの隙を作ってしまうか。

武官が足を止めた。
杠も同時に止まる。

杠もそろそろ決着をつけたいはずだ。 武官が構えていた腕を下ろし、それまでの緊張をほぐすかのように手を動かし何度か足を踏みかえた。
杠に対してわざと隙を作ったということもあるが、これ以上構えていれば咄嗟に動けそうになかったからだ。

相対している杠は武官の作った隙には飛び込まなかった。 これを力のない者がすれば飛び込んだだろうが、この武官はそうではない。 誘いの罠であるのは見え見えである。

構え直した武官。
もう時は限られている。 自分の方がリーチがある。 それに掛けるしかない。

すでに武官の間合いに入っている。 武官より小柄な杠の間合いではない。
素早い動きで一歩を出し、腰を落としながら次の足を杠の足元に入れ腕を伸ばした。 それは一瞬に近い動きだった。 足元を弾かれ前傾した杠の腹に腕が入るはずだった。

だが杠は足元に片足を入れられた時、すでに相手の懐に入るように動き、そして伸ばされてきた腕の下で武官の腹に拳を入れた。 あまりにも早く、いつ懐に入ったのか誰の目にも映らなかった。
拳を寸手で止める。 “時の刻み” が最後の一粒を落とした。
武官がうずくまることは無かった。

あまりに呆気ないものだった。

「そこまで!」

四方が笑みを浮かべる。

互いに肉体の痛みがあったわけではない。 治療も要しない。
すぐに移動して次に行われた面接では、試験の時の体術のことを訊かれた。 四方がわざと訊いたのだ。 何故かその席には文官だけのはずが、四色の皮の衣を着た四人の武官長も座っていたからである。

「あまりに呆気なかったが?」

「武官殿に不利な状況だったからではないでしょうか」

「それはどういう意味か」

「四方様が居られ、武官長殿もお揃いになられ、他の武官殿の目も御座いました。 己のように肩に荷など負っていない状況ではなかったかと」

「ふむ。 責に負けたということか?」

「いいえ、決してそのようなことでは。 武官殿にはどこにも隙が無く、己は動こうに動けない状態でおりました。 時の刻みが落ちていく中、限られた時で御座います。 それを打ち破って下さったのが武官殿です。 あの時、先に手を出した方に不利があると分かっておられたにもかかわらず、四方様、武官長殿の御前で時の刻みで終了を告げられるのを避けられたのだと思います」

四色の皮衣を着る屈強な体躯の持ち主である武官長たちが、それぞれの反応をした。 特に反応が大きかった緑に染めた皮衣を着た武官長は天を仰ぐように上を見た。

武官長たちは杠に隙が無かったことは分かっている。 手を出せなかったのは武官も杠も同じ。
杠に負けた武官は、少なくとも緑の衣を身に付ける緑翼軍(りょくよくぐん)では一、二位を争う強者だ。

武官長たちがどうしてそんな反応をしたのか。
杠の言ったことは武官が考えたことに間違いなかった。 試験という戦いのあと、武官が緑翼軍の武官長にそう言っていたのだから。

それに他の武官長もいま己らは武官長とはいえ、武官長に従う武官時代があった。 武官長の前で武官が何を考えるのかは分かっている。
武官の経験がないにもかかわらず、それをあっさりと言ってのけた杠。 考えを巡らせるということが出来、相手の立場になって考えるということが出来るということだ。

四方が武官長を見る。 四人が四人とも頷く。 武官長が杠の人間性を納得したということである。

「文官からは何かあるか」

四方が問う。

「そうですね、読み書きは?」

「出来ます」

「辺境の出とあるが、何処で教えてもらった」

杠の出身や簡単な履歴を書いたものを、手の内でピラピラとしながら問うているが、それは殆ど白紙に近い。 杠には何も書くことがないのだから。 普通ならどこで何を学び、または誰に従事したなどと詳しく書かれる。

「マツリ様に教えていただきました」

文官からこのような質問が飛んできたなら、正直にマツリに教えてもらったと言ってよいと、事前に四方から聞かされていた。

文官の手が止まる。

「え?」

文官が四方を見る。

「読み書き算術、何年前だったか、必要なものは全てマツリが教えた。 よくもあの短期間で覚えたと驚いておる。 ああ、それに体術もな」

最後に付け加えられた言葉に武官長が一瞬驚いた顔をしたが、次には苦い顔を作ったり、額に手をあてている。
小声で「先に仰って下さればよかったのに」 などと聞こえてくる。

「他には」

文官を見て四方が問う。

「ああ、いえ。 十分で御座います」

「それではこれにて終るということで、体術は合格ということで良いな」

武官長を見て言うが誰の目にも負けたのは明らかだ。 これで不合格とは言えないし言う気もない。 四人の武官長が頷く。

「では文官、面合わせの合否はいつ知らせが入る」

「学の方ではマツリ様からのお教えがあるのでしたら、何の異存も御座いませんし、受け答えもしっかりとしたもので御座います」

それに四方のお墨付きだ。
四方を見てそこまで言うと武官長を見る。

「武官長、先ほどの四方様と杠の受け答えをどう見ましたか? そちらの方は私にははかりかねるのですが」

「立場というものを慮ることが出来ると見ました。 十分かと」

緑の皮衣を着た武官長が答える。
文官が頷く。

「では、この場は私に任されておりますので」

四方に言うと杠を見た。

「今この場で合格を言い渡す。 官吏という職に恥じることなく精を出すよう。 証明や帯門標はおって渡す」

「有難うございます」

そつのない杠だ。 面接では内容の振り方次第でこうなることは分かっていた。 明日から己の仕事を手伝わすのもいいか、などとどこかで考えている四方だった。



ゴロン、ゴロン、ゴロン、ドン。
バフゥ・・・。
ジロリとガザンに睨まれた。

「あ、ごめん」

光石の採石場から戻ると、今度は阿秀に暫く家から出ないようにと言われてしまった。

「今日は雨だから諦めがつくけど、いつまで居なくちゃなんないのよー」

「少なくとも泥の中を走られては困ります」

戸の向こうで声がした。

「え?」

「塔弥です。 よろしいでしょうか」

「あ、うん」

戸がすっと開いた。

「かなり不満が溜まっておられるようで。 大きな声が聞こえてきました」

「あ・・・」

よいしょ、と言って厚みの無い木箱を座卓の上に置く。

「なにこれ?」

「昨日、飾り石の採掘場で見つかったそうです。 紫さまのお誕生の祝いまでに作りたいと、職人が持ってきました」

むやみやたらに採掘するわけではない。 飾り石の職人がコレ、と思ったものを採掘している。
塔弥が木箱の蓋を開けると、そこには見事な大小の紫水晶と、そして他の色をした飾り石が並べてあった。

「わっ、なにこれ、大きい」

大きいだけではない。 紫揺の目では分からないが上質だ。

「はい。 これをどんな形に削ってほしいか、他のどの飾り石と合わせて欲しいか、何を欲しいか。 職人が紫さまのご要望を聞いて欲しいと言ってきました」

「何を欲しいかって?」

「腕輪であったり、髪飾り・・・えっと、己は男なので想像が乏しいですが、ほかに紫さまが思われる物があれば」

そんなことを言われても、塔弥とほぼほぼ変わりのない紫揺である。

「腕輪も髪飾りもあるよ?」

「それは紫さまの代の物ではないでしょう。 職人は紫さまにお作りしたいと言ってます」

「・・・この石を削るの?」

「はい」

どうしてだろう、それは悲しい。 なぜ今のこの姿のままではいけないのだろうか。 どうして削られねばいけないのだろうか。

「削らなきゃいけない?」

「え?」

「他の石も」

塔弥が微笑んだ。 紫揺ならそう言うだろう。

「職人には厳しい返事でしょうね」

木箱に蓋をし、そう言い残すと部屋を出て行った。 塔弥でなくとも紫揺が何を考えているかは、手に取るようにわかる。

「・・・あ」

さっさと出て行ってしまった塔弥。 葉月とのことを訊きたかったのに。
もし塔弥が葉月に告白していれば、マツリのことを言わなければいけない。 言いたくないが。 それなのに葉月とのことが気になる。

―――言いたくないのに。

「ちがう」

いや、違わない。 相談したい。 許嫁とはなんなのか。 首筋に唇を合わせることで許嫁となるのか、そういう約束事がこの地にはあるのか。
この領土の、本領のルールが分からない。

もう赤くない首に手をやる。

首筋に唇を合わせたマツリ。 『まだ接吻はせん。 だがもうお前は俺の許嫁だ』 マツリがそう言った。

そうなのか? 首筋に唇を合わせることで許嫁となるのか? それを教えて欲しかった。
もしそうなら取ったもん勝ちになるではないか。

「マツリ・・・」

憎々しいマツリ。

マツリの言ったことがもし本当なら・・・首筋に唇を合わせることで許嫁になると言うのなら、この首をとりたい。

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