『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第188回
「紫さま、本領はいかがでしたか? やはり宮を出られたのですか?」
「はい、マツリとはすれ違いだったけど、楽しかったです」
「え? 一緒に居られたのではないのですか?」
「一緒に居たのは・・・どれくらいだっけ?」
「ゆるりとしたのは、今日と・・・あとは時を合算して一日はないか」
「え!? 何日も本領に行ってらしたのに、それだけですか?」
「はい、行った途端すれ違いだったから」
「本領でお忙しくされておられるのですか?」
「ああ、それもあって母上と姉上が待っておられんということでな、準備を進めていくということになった。 我も紫も蚊帳の外だ」
「御方様と仰いますと・・・御方様はリツソ様と、と仰っておられましたが・・・」
「最初は我もそう聞いておった。 だがいつからかは知らんが姉上と一緒に我に紫をと考えておられたようだ」
「そうで御座いましたか」
声に出しては言えないが、罵倒の仕合さえなく、どのみち輿入れをするのなら、リツソよりマツリの方が随分といい。
「悪いが我がそうそうこちらに来ることは相成らん。 今回は紫が長く本領に居たのに、僅かの時しかゆるりと出来なかった。 再々とは言わんが紫を本領に寄こしてはくれまいか」
「承知いたしました。 お蔭さまで東の領土は落ち着いております。 一回りされた後にまた本領に行かれましょう」
婚姻の儀のあとも別々に暮らしてしまうのだ。 東の領土の民の為に。 可能な限りの時を二人で過ごさせたい。
領主とて恋愛を知らないわけではない、もう亡くなってしまった妻との時を思い出す。
「領土が落ち着いているということは良いことだ。 領主が上手くまとめておるからだろう」
「紫さまのご存在が大きいですし、本領のように広くはありませんので」
「まぁ、本領は広すぎるか」
音夜がコクリコクリと始めた。
「可愛いのぉ。 そろそろ眠いか?」
音夜を抱きなおすと立ち上がり、一つ二つ背中を叩いてやってから耶緒に返す。
「では、紫を送り届けた」
「有難く存じます」
紫揺が見送りに立とうとすると、マツリが「よい、報告があるだろう」と言ったが、領主が送りに行けと言わんばかりに、手を仰ぐようにして動かしている。
「送る」
領主の手の動きを読んで紫揺がマツリの後に続く。
「宮に戻るの?」
「いや、六都に行く」
杠が寝不足から目の下にクマを作っているのはマツリから聞いている。
「杠によく言っといてね、しっかり寝てって」
誰のせいだとは言っていない。 それに紫揺のせいではない。 武官たちが勝手に毎夜毎夜何度も何度も呪詛のような願い事をしているだけなのだから。 それにあの部屋に己が戻ればそれもなくなるだろう。
「ああ、伝えておく」
マツリを送り終えた紫揺が振り返ると阿秀が居た。
「マツリ様からのお話で大体わかったということですが、紫さまから何か仰られることがありましたら領主の家に、無ければお疲れでしょうから家に戻られるようにということです」
「はい、まあ、報告って程のこともありませんし・・・」
高妃のことも決起のことも東の領土には関係の無いこと。
「ではこのまま家に戻りましょう。 此之葉が待っております」
此之葉はまたおムネが大きくなったのだろうか。 阿秀が踵を返したところで、あの時おムネがドキドキしたことを思い出し、おムネにタッチしてみる。
ペタン。
・・・。
葉月の言っていたように、一回だけでは変化はないようだ。
マツリが宿にやってくると、己の泊まっていた部屋の近くまで来て足を止めた。
二人の武官が手を合わせドアに向かって・・・お願い事なる低い声で呪詛のように言葉を吐いている。
「どうか、どうか、子取り鬼が紫さまを返して下さいますよう」
「どうか、どうか、紫さまが子取り鬼に食われていませんよう」
そして二人で合唱するように
「お願いで御座いますぅぅーーー」
縋るような二人の合唱は不気味なモノがあった。
誰が子取り鬼だ。
それにしても・・・登場しにくい。
踵を返すとまだかろうじて開いている食処に下りる。 そう言えば夕餉を食べていなかった。
(紫に大きくなれないと言われるか・・・)
「残っているものでよい、それと・・・麦酒はあるか?」
「麦酒はよく冷えて御座いますが、かけ飯くらいしか残っておりません、それで宜しいでしょうか?」
「ああ、構わん」
すぐに出されたかけ飯には鯛の身が乗っていた。 所謂(いわゆる)鯛の出汁のきいた茶漬けのような物である。
「珍しい、海魚か」
六都で海魚は滅多にある物ではない。
「はい、今日はたまたまで御座います」
よく冷えた麦酒も卓に置く。
「ここのところ武官殿がよく来られますので飽きることなく色んなものを仕入れるようにいたしまして」
紫揺効果だろうか。
「どうぞ、ごゆっくり」
武官がよく出入りする関係であろうが、六都の者にしては物腰が丁寧である。
麦酒を煽っていると二階の階段から先程の武官達が下りてきた。 何気に見ていたが目があってしまった。
いっ! と一声上げると礼をとりそのまま去って行く。
それにしても毎晩毎晩あんなものを聞かされていては杠も眠れないだろう。
よく冷えていた麦酒を置き、かけ飯をかっ食らう。 自覚は無かったが、こうして口に運ぶとかなり腹が空いていたようだ。 それに出汁がよくきいていて美味い。 あっという間に食べてしまった。
「悪いがかけ飯、もう一杯できるか?」
隅に立っていた先程の給仕に言ったところで、丁度入り口から入ってきた武官二人がマツリを見た。
うわっ! と声を上げ礼をとると回れ右をして戻って行った。
噂が広がるまでは誰なとが足を運んでくるかもしれない。 あの呪詛の中で寝なくてはいけないのか・・・。
「お気に入って頂けましたでしょうか」
給仕がお替わりを持ってきた。
「ああ、美味い」
「有難うございます」
「杠は戻ってきたようか?」
ここの宿には現在、杠と宮都からの硯職人しか泊まっていないはずだ。 ましてや杠は長い、杠のことは分かっている。
「いえ、まだお見掛け・・・ああ、戻って来られたようです」
入り口を振り返ると丁度杠が入ってきたところだった。 マツリに気付いた杠がすぐにマツリの元にやって来る。
「お帰りなさいませ」
「夕餉は?」
「まだで・・・」
すぐに給仕を見ると給仕が頷いた。
「酒か麦酒はどう致しましょう」
卓を見ると珍しくマツリが麦酒を呑んでいる。
「ああ、では麦酒で」
マツリの前に座ると給仕が頷き奥に入って行った。
「こんな刻限まで何かあったのか?」
「いいえ、何ということは御座いません。 官別所が例の咎人で満杯になっておりますので、新たな咎人を入れる場所を探していただけで御座います」
新たな咎人・・・。
「どのような咎だ」
「暴れたりと、いつものようなもので御座います」
良かった、岩石の山の事や杉山のことではなかったようだ。
そこに、かけ飯と麦酒が卓に置かれた。
「あと一杯分のかけ飯が残っております」
給仕の言った意味が分からなかったが、かけ飯を口に入れると何と美味いことか。 思わずお替わりを頼んだ。
「例のあの者たちを咎にかけんといかんか」
だがまだどの都も咎の言い渡しはしていない。 それどころか、まだ柴咲も呉甚も手にかけていた都を回りきれていない。 良くてようやく二都が動き出したところだろう。
「今更の話で御座いますが、六都は今までまともに咎人を収容しなかったようです」
今回のことで武官達からそんな話を聞いたという。
いくら武官が捕まえたとしてもあとの事は文官長か都司の仕事となっていたが、咎人はすぐに放免にされていたという。
「かなり憤って話しておりました」
それはそうだろう、捕まえてきたのに放免にされるのだから。
百二十七名が溢れ返っている、今までの六都の咎人は百人や二百人ではないだろう。 そういうことだから収容する場所も少なかったということか。
「そういうことか。 で? 場所は見つかったのか?」
これまではそれまでの咎人を武官所に移動させ、それ相応な場所に押し込んでいると聞いていたが限界がきたのだろう。
「いいえ、適する所は御座いませんでした。 今のままでは新たに建てるしかないかと」
他の都がどうするか分からない現状で百二十七名に咎を下すとすれば、殆どの者が悔しいかな口頭で終るだろう。 その後に官別所が空になる。 新しく官別所を建てるのは無駄にしかならない。
官別所は簡単に建てることは出来ない。 宮都の工部から出てきてもらうことになる。 材料も杉だけでは収まらない。 これ以上、宮都に借金を作りたくない。 だがそれを避けるためには早々に咎を言い渡すこと、早い話、口頭で反省を促すだけのことをしなくてはならなくなる。 だが反省などとこの六都にはない。 それなりに肉体労働をしてもらわなければ困る。 たとえ二日三日であろうが。
二日三日であれば、なんとか官別所のやりくりが出来るだろう。 だがそれは他の都との足並みを乱すことになるかもしれない。 他の都が口頭で終らなければそれでいいのだが。
どうしたものか・・・。
「新しく建てるのは考えものだな」
そうですね、と返事をする杠も分かっているようだ。
残っていたお替わりのかけ飯をかっ込むと腕を組んだ。 ・・・食べ過ぎたようだ。 腹がいっぱい過ぎて頭が回らない。
前を見ると杠もお替わりに手を出した。 きっと杠も同じ状態になるだろう。
マツリが食べ終わるまでに、数組の武官たちが回れ右をしていた気配を感じていた。
「子取り鬼だが」
杠が喉を詰めかけた。 四方のようにマツリの顔にばら撒くことは無かったが、かなり咳き込んでいる。
「大丈夫か?」
「は、ぶっ、は、い・・・」
ゴホゴホと咳をしながらマツリに問い返す。
「それが、どう致しました・・・ごほごほ」
「我の泊まる部屋の前で武官が子取り鬼が紫を返して下さいますようとか、紫が子取り鬼に食われていませんよう、などと言っておった。 どういうことだ」
杠の目の下のクマを見てマツリに詰められ、夜な夜な武官が呪詛のような願い事しているという話はした。 だがマツリが武官達に子取り鬼扱いされていることは言っていなかった。
子取り鬼の正体はマツリ様です、などと言えるものでは無い。
「いや・・・それは・・・。 なんで御座いましょうか? 聞いたことは御座いません。 マツリ様の聞き違いとか?」
「いや、しかりと聞いた」
(武官の馬鹿が、どうしてマツリ様の居る時に紫揺の名を出して言うのか)
「己は聞いたことが御座いませんので・・・」
明日にでも確認いたします、などとは言えたものではない。
「し、紫揺とはどうで御座いましたか?」
話を逸らすしかない。 紫揺のように単純に乗ってくることはないだろうが、それでも徐々に。
「紫か・・・それが母上と姉上が・・・」
乗ってきた。 マサカのマだ。 マツリには有り得ないと思いながら話を聞いていると、六都のことが疎かに考えられているようで、マツリはそこを懸念しているようだ。
「父上にまで早々に婚姻の儀を挙げるようにと言われた」
「婚姻の儀までどれ程の準備期間がいるのでしょうか?」
己も乗ってしまったと思いながらも大切な事。 六都のことにしても紫揺のことにしても。
「我には分からん。 姉上の時には全く関知しなかったのでな」
「硯の岩石の山をどうされますか?」
杠も事を動かさないように考えたようだ。
「杠から見てどうだ」
杠がフゥーっと大きく息を吐く。
「今日、金河から聞いたのですが杉山で面倒が起きているようです」
「面倒?」
「岩石の山に通う者たちが通うことを忌(い)とんでいると」
「・・・宿所を建てるということか」
まだ数日だ、それほどまでに問題にはなっていないだろう。 だが見過ごすことは出来ない。
「岩石の山に行きたいと思う者がどれ程に居るのか」
「全員ではありませんが、岩石の山の方だけに行きたいという者が四分の一というところでしょうか。 決めかねている者が四分の二ほど、残りは杉山だけを選んでいます」
「その四分の三の者たちが忌とんでいると?」
「いいえ、四分の一、岩石の山の方にだけと思っている者たちだけです」
「宮都からの硯職人はその者たちの手を何と言っておる」
「まぁ・・・まだまだというところですが、それでもやっていけば上物は先のこととして安価なものは作れなくは無いだろうと」
「杉のように切るだけではいかんからな・・・」
「問題が起きる前に建ててしまえばどうでしょうか」
「ああ・・・やる気があるのであればそれが一番でもあることだしな。 建てるにあたり杉の調整は杠に任せる」
予約が入っている杉もある。 それを無視してこれから建てる岩山の宿所に回すわけにはいかない。
「承知いたしました」
「明日は七都と八都に行ってくる。 二都も回るかもしれん」
「はい」
お替わりを食べ終えた杠に苦しそうにしている様子は無かった。 背丈も身体の幅もそんなに変わらないのに、やはり五つの年齢差は大きいのだろうか。
七都では二百八十九名、八都では三百十二名、二都で二百三十七名の咎人が捕まったということであった。
それぞれの都司は一度にこれだけの咎人は初めてということで、やはり口頭で終わらせるということを臭わせていた。
『宮に乗り込むという意味も分からなかった者も多いようです、祭気分だったのでしょう』 ということであった。
捕えた人数はすぐに四方の元に届いているはず。 四方はこの人数を聞いてどう考えているのだろうか。 すぐに宮都に飛んだ。
「今のところ分かっているだけで八百三十八名、六都を合わせると九百六十五名。 たとえ十年以上かけてゆっくりと動いていたとはいえ、これだけの民に気付かんかったとは百足も・・・」
四方が溜息を吐きたい気持ちは分かるが、訊きたいのはそこではない。
「各都ともに咎を合わせなくてはいけませんか?」
「それはそうだろう」
「ニ七八都はよく知らなかった者には口頭で終わらせるようです。 六都の者に口頭で反省を促し、その後無罪放免はあとあとにひびいてくるのですが」
「六都か・・・」
「他の都の者は六都のことなど気にしますまい」
「六都だからこそ、六都の民が何か言うだろう。 こんな噂はすぐに広まる」
「宮都にしてもそうですが、まだ分らない都のこともあります。 どれだけの人数が出てくるかは分かりませんが、それこそ何かよく知らなかった者には、二・・・いや、三日の労役咎、それを父上から言ってはいただけませんか」
「そのような者が一つの都に三百人でも出てみろ、その者たちに何人の武官が付くことになると思う」
「六都の民ではないのですから、何とかなりましょう?」
「馬鹿を言うな、それに祭気分だった者もいるそうではないか。 そのような者に労役咎など与えられん」
「宮を潰されるところでしたのに・・・」
「だからこそ余計にだ。 逆撫でして同じようなことを画策されては、それこそどうにもいかん。 ん? いや、待て」
「はい?」
「六都は他の都と違って飾り石を手にしたことで捕まえたのであろう?」
「・・・あ」
すっかり忘れていた。
「・・・決起という言葉に踊らされておったか」
「・・・はい、そのようで」
「何をぼぉーっとしておるか。 とっとと婚姻の儀を挙げんからそういうことになる」
数日前の言いようとはえらい違いだ。
だが何を言われても、解決の出口を見つけた。 それこそ明日からとっとと咎を下していける。
あのやり方がこんな所で役に立つとは思ってもみなかった。
「決起のことをどれだけ分かっていたかで咎が違ってくるだろうが、それは各都で多少のばらつきが出るであろう。 何も知らなかった者に労役は与えられんが、どれだけ分かっておったのかは都司の判断次第ということになる」
飾り石の窃盗に関してはマツリの判断でよい。 だがその後、呉甚と柴咲が六都に回って来た時には決起のことで再度捕らえ、他の都とある程度の足並みは必要ではあるが、何も知らなかった者を除き、都司不在の六都ではマツリの判断で咎を言い渡して良いということであった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第188回
「紫さま、本領はいかがでしたか? やはり宮を出られたのですか?」
「はい、マツリとはすれ違いだったけど、楽しかったです」
「え? 一緒に居られたのではないのですか?」
「一緒に居たのは・・・どれくらいだっけ?」
「ゆるりとしたのは、今日と・・・あとは時を合算して一日はないか」
「え!? 何日も本領に行ってらしたのに、それだけですか?」
「はい、行った途端すれ違いだったから」
「本領でお忙しくされておられるのですか?」
「ああ、それもあって母上と姉上が待っておられんということでな、準備を進めていくということになった。 我も紫も蚊帳の外だ」
「御方様と仰いますと・・・御方様はリツソ様と、と仰っておられましたが・・・」
「最初は我もそう聞いておった。 だがいつからかは知らんが姉上と一緒に我に紫をと考えておられたようだ」
「そうで御座いましたか」
声に出しては言えないが、罵倒の仕合さえなく、どのみち輿入れをするのなら、リツソよりマツリの方が随分といい。
「悪いが我がそうそうこちらに来ることは相成らん。 今回は紫が長く本領に居たのに、僅かの時しかゆるりと出来なかった。 再々とは言わんが紫を本領に寄こしてはくれまいか」
「承知いたしました。 お蔭さまで東の領土は落ち着いております。 一回りされた後にまた本領に行かれましょう」
婚姻の儀のあとも別々に暮らしてしまうのだ。 東の領土の民の為に。 可能な限りの時を二人で過ごさせたい。
領主とて恋愛を知らないわけではない、もう亡くなってしまった妻との時を思い出す。
「領土が落ち着いているということは良いことだ。 領主が上手くまとめておるからだろう」
「紫さまのご存在が大きいですし、本領のように広くはありませんので」
「まぁ、本領は広すぎるか」
音夜がコクリコクリと始めた。
「可愛いのぉ。 そろそろ眠いか?」
音夜を抱きなおすと立ち上がり、一つ二つ背中を叩いてやってから耶緒に返す。
「では、紫を送り届けた」
「有難く存じます」
紫揺が見送りに立とうとすると、マツリが「よい、報告があるだろう」と言ったが、領主が送りに行けと言わんばかりに、手を仰ぐようにして動かしている。
「送る」
領主の手の動きを読んで紫揺がマツリの後に続く。
「宮に戻るの?」
「いや、六都に行く」
杠が寝不足から目の下にクマを作っているのはマツリから聞いている。
「杠によく言っといてね、しっかり寝てって」
誰のせいだとは言っていない。 それに紫揺のせいではない。 武官たちが勝手に毎夜毎夜何度も何度も呪詛のような願い事をしているだけなのだから。 それにあの部屋に己が戻ればそれもなくなるだろう。
「ああ、伝えておく」
マツリを送り終えた紫揺が振り返ると阿秀が居た。
「マツリ様からのお話で大体わかったということですが、紫さまから何か仰られることがありましたら領主の家に、無ければお疲れでしょうから家に戻られるようにということです」
「はい、まあ、報告って程のこともありませんし・・・」
高妃のことも決起のことも東の領土には関係の無いこと。
「ではこのまま家に戻りましょう。 此之葉が待っております」
此之葉はまたおムネが大きくなったのだろうか。 阿秀が踵を返したところで、あの時おムネがドキドキしたことを思い出し、おムネにタッチしてみる。
ペタン。
・・・。
葉月の言っていたように、一回だけでは変化はないようだ。
マツリが宿にやってくると、己の泊まっていた部屋の近くまで来て足を止めた。
二人の武官が手を合わせドアに向かって・・・お願い事なる低い声で呪詛のように言葉を吐いている。
「どうか、どうか、子取り鬼が紫さまを返して下さいますよう」
「どうか、どうか、紫さまが子取り鬼に食われていませんよう」
そして二人で合唱するように
「お願いで御座いますぅぅーーー」
縋るような二人の合唱は不気味なモノがあった。
誰が子取り鬼だ。
それにしても・・・登場しにくい。
踵を返すとまだかろうじて開いている食処に下りる。 そう言えば夕餉を食べていなかった。
(紫に大きくなれないと言われるか・・・)
「残っているものでよい、それと・・・麦酒はあるか?」
「麦酒はよく冷えて御座いますが、かけ飯くらいしか残っておりません、それで宜しいでしょうか?」
「ああ、構わん」
すぐに出されたかけ飯には鯛の身が乗っていた。 所謂(いわゆる)鯛の出汁のきいた茶漬けのような物である。
「珍しい、海魚か」
六都で海魚は滅多にある物ではない。
「はい、今日はたまたまで御座います」
よく冷えた麦酒も卓に置く。
「ここのところ武官殿がよく来られますので飽きることなく色んなものを仕入れるようにいたしまして」
紫揺効果だろうか。
「どうぞ、ごゆっくり」
武官がよく出入りする関係であろうが、六都の者にしては物腰が丁寧である。
麦酒を煽っていると二階の階段から先程の武官達が下りてきた。 何気に見ていたが目があってしまった。
いっ! と一声上げると礼をとりそのまま去って行く。
それにしても毎晩毎晩あんなものを聞かされていては杠も眠れないだろう。
よく冷えていた麦酒を置き、かけ飯をかっ食らう。 自覚は無かったが、こうして口に運ぶとかなり腹が空いていたようだ。 それに出汁がよくきいていて美味い。 あっという間に食べてしまった。
「悪いがかけ飯、もう一杯できるか?」
隅に立っていた先程の給仕に言ったところで、丁度入り口から入ってきた武官二人がマツリを見た。
うわっ! と声を上げ礼をとると回れ右をして戻って行った。
噂が広がるまでは誰なとが足を運んでくるかもしれない。 あの呪詛の中で寝なくてはいけないのか・・・。
「お気に入って頂けましたでしょうか」
給仕がお替わりを持ってきた。
「ああ、美味い」
「有難うございます」
「杠は戻ってきたようか?」
ここの宿には現在、杠と宮都からの硯職人しか泊まっていないはずだ。 ましてや杠は長い、杠のことは分かっている。
「いえ、まだお見掛け・・・ああ、戻って来られたようです」
入り口を振り返ると丁度杠が入ってきたところだった。 マツリに気付いた杠がすぐにマツリの元にやって来る。
「お帰りなさいませ」
「夕餉は?」
「まだで・・・」
すぐに給仕を見ると給仕が頷いた。
「酒か麦酒はどう致しましょう」
卓を見ると珍しくマツリが麦酒を呑んでいる。
「ああ、では麦酒で」
マツリの前に座ると給仕が頷き奥に入って行った。
「こんな刻限まで何かあったのか?」
「いいえ、何ということは御座いません。 官別所が例の咎人で満杯になっておりますので、新たな咎人を入れる場所を探していただけで御座います」
新たな咎人・・・。
「どのような咎だ」
「暴れたりと、いつものようなもので御座います」
良かった、岩石の山の事や杉山のことではなかったようだ。
そこに、かけ飯と麦酒が卓に置かれた。
「あと一杯分のかけ飯が残っております」
給仕の言った意味が分からなかったが、かけ飯を口に入れると何と美味いことか。 思わずお替わりを頼んだ。
「例のあの者たちを咎にかけんといかんか」
だがまだどの都も咎の言い渡しはしていない。 それどころか、まだ柴咲も呉甚も手にかけていた都を回りきれていない。 良くてようやく二都が動き出したところだろう。
「今更の話で御座いますが、六都は今までまともに咎人を収容しなかったようです」
今回のことで武官達からそんな話を聞いたという。
いくら武官が捕まえたとしてもあとの事は文官長か都司の仕事となっていたが、咎人はすぐに放免にされていたという。
「かなり憤って話しておりました」
それはそうだろう、捕まえてきたのに放免にされるのだから。
百二十七名が溢れ返っている、今までの六都の咎人は百人や二百人ではないだろう。 そういうことだから収容する場所も少なかったということか。
「そういうことか。 で? 場所は見つかったのか?」
これまではそれまでの咎人を武官所に移動させ、それ相応な場所に押し込んでいると聞いていたが限界がきたのだろう。
「いいえ、適する所は御座いませんでした。 今のままでは新たに建てるしかないかと」
他の都がどうするか分からない現状で百二十七名に咎を下すとすれば、殆どの者が悔しいかな口頭で終るだろう。 その後に官別所が空になる。 新しく官別所を建てるのは無駄にしかならない。
官別所は簡単に建てることは出来ない。 宮都の工部から出てきてもらうことになる。 材料も杉だけでは収まらない。 これ以上、宮都に借金を作りたくない。 だがそれを避けるためには早々に咎を言い渡すこと、早い話、口頭で反省を促すだけのことをしなくてはならなくなる。 だが反省などとこの六都にはない。 それなりに肉体労働をしてもらわなければ困る。 たとえ二日三日であろうが。
二日三日であれば、なんとか官別所のやりくりが出来るだろう。 だがそれは他の都との足並みを乱すことになるかもしれない。 他の都が口頭で終らなければそれでいいのだが。
どうしたものか・・・。
「新しく建てるのは考えものだな」
そうですね、と返事をする杠も分かっているようだ。
残っていたお替わりのかけ飯をかっ込むと腕を組んだ。 ・・・食べ過ぎたようだ。 腹がいっぱい過ぎて頭が回らない。
前を見ると杠もお替わりに手を出した。 きっと杠も同じ状態になるだろう。
マツリが食べ終わるまでに、数組の武官たちが回れ右をしていた気配を感じていた。
「子取り鬼だが」
杠が喉を詰めかけた。 四方のようにマツリの顔にばら撒くことは無かったが、かなり咳き込んでいる。
「大丈夫か?」
「は、ぶっ、は、い・・・」
ゴホゴホと咳をしながらマツリに問い返す。
「それが、どう致しました・・・ごほごほ」
「我の泊まる部屋の前で武官が子取り鬼が紫を返して下さいますようとか、紫が子取り鬼に食われていませんよう、などと言っておった。 どういうことだ」
杠の目の下のクマを見てマツリに詰められ、夜な夜な武官が呪詛のような願い事しているという話はした。 だがマツリが武官達に子取り鬼扱いされていることは言っていなかった。
子取り鬼の正体はマツリ様です、などと言えるものでは無い。
「いや・・・それは・・・。 なんで御座いましょうか? 聞いたことは御座いません。 マツリ様の聞き違いとか?」
「いや、しかりと聞いた」
(武官の馬鹿が、どうしてマツリ様の居る時に紫揺の名を出して言うのか)
「己は聞いたことが御座いませんので・・・」
明日にでも確認いたします、などとは言えたものではない。
「し、紫揺とはどうで御座いましたか?」
話を逸らすしかない。 紫揺のように単純に乗ってくることはないだろうが、それでも徐々に。
「紫か・・・それが母上と姉上が・・・」
乗ってきた。 マサカのマだ。 マツリには有り得ないと思いながら話を聞いていると、六都のことが疎かに考えられているようで、マツリはそこを懸念しているようだ。
「父上にまで早々に婚姻の儀を挙げるようにと言われた」
「婚姻の儀までどれ程の準備期間がいるのでしょうか?」
己も乗ってしまったと思いながらも大切な事。 六都のことにしても紫揺のことにしても。
「我には分からん。 姉上の時には全く関知しなかったのでな」
「硯の岩石の山をどうされますか?」
杠も事を動かさないように考えたようだ。
「杠から見てどうだ」
杠がフゥーっと大きく息を吐く。
「今日、金河から聞いたのですが杉山で面倒が起きているようです」
「面倒?」
「岩石の山に通う者たちが通うことを忌(い)とんでいると」
「・・・宿所を建てるということか」
まだ数日だ、それほどまでに問題にはなっていないだろう。 だが見過ごすことは出来ない。
「岩石の山に行きたいと思う者がどれ程に居るのか」
「全員ではありませんが、岩石の山の方だけに行きたいという者が四分の一というところでしょうか。 決めかねている者が四分の二ほど、残りは杉山だけを選んでいます」
「その四分の三の者たちが忌とんでいると?」
「いいえ、四分の一、岩石の山の方にだけと思っている者たちだけです」
「宮都からの硯職人はその者たちの手を何と言っておる」
「まぁ・・・まだまだというところですが、それでもやっていけば上物は先のこととして安価なものは作れなくは無いだろうと」
「杉のように切るだけではいかんからな・・・」
「問題が起きる前に建ててしまえばどうでしょうか」
「ああ・・・やる気があるのであればそれが一番でもあることだしな。 建てるにあたり杉の調整は杠に任せる」
予約が入っている杉もある。 それを無視してこれから建てる岩山の宿所に回すわけにはいかない。
「承知いたしました」
「明日は七都と八都に行ってくる。 二都も回るかもしれん」
「はい」
お替わりを食べ終えた杠に苦しそうにしている様子は無かった。 背丈も身体の幅もそんなに変わらないのに、やはり五つの年齢差は大きいのだろうか。
七都では二百八十九名、八都では三百十二名、二都で二百三十七名の咎人が捕まったということであった。
それぞれの都司は一度にこれだけの咎人は初めてということで、やはり口頭で終わらせるということを臭わせていた。
『宮に乗り込むという意味も分からなかった者も多いようです、祭気分だったのでしょう』 ということであった。
捕えた人数はすぐに四方の元に届いているはず。 四方はこの人数を聞いてどう考えているのだろうか。 すぐに宮都に飛んだ。
「今のところ分かっているだけで八百三十八名、六都を合わせると九百六十五名。 たとえ十年以上かけてゆっくりと動いていたとはいえ、これだけの民に気付かんかったとは百足も・・・」
四方が溜息を吐きたい気持ちは分かるが、訊きたいのはそこではない。
「各都ともに咎を合わせなくてはいけませんか?」
「それはそうだろう」
「ニ七八都はよく知らなかった者には口頭で終わらせるようです。 六都の者に口頭で反省を促し、その後無罪放免はあとあとにひびいてくるのですが」
「六都か・・・」
「他の都の者は六都のことなど気にしますまい」
「六都だからこそ、六都の民が何か言うだろう。 こんな噂はすぐに広まる」
「宮都にしてもそうですが、まだ分らない都のこともあります。 どれだけの人数が出てくるかは分かりませんが、それこそ何かよく知らなかった者には、二・・・いや、三日の労役咎、それを父上から言ってはいただけませんか」
「そのような者が一つの都に三百人でも出てみろ、その者たちに何人の武官が付くことになると思う」
「六都の民ではないのですから、何とかなりましょう?」
「馬鹿を言うな、それに祭気分だった者もいるそうではないか。 そのような者に労役咎など与えられん」
「宮を潰されるところでしたのに・・・」
「だからこそ余計にだ。 逆撫でして同じようなことを画策されては、それこそどうにもいかん。 ん? いや、待て」
「はい?」
「六都は他の都と違って飾り石を手にしたことで捕まえたのであろう?」
「・・・あ」
すっかり忘れていた。
「・・・決起という言葉に踊らされておったか」
「・・・はい、そのようで」
「何をぼぉーっとしておるか。 とっとと婚姻の儀を挙げんからそういうことになる」
数日前の言いようとはえらい違いだ。
だが何を言われても、解決の出口を見つけた。 それこそ明日からとっとと咎を下していける。
あのやり方がこんな所で役に立つとは思ってもみなかった。
「決起のことをどれだけ分かっていたかで咎が違ってくるだろうが、それは各都で多少のばらつきが出るであろう。 何も知らなかった者に労役は与えられんが、どれだけ分かっておったのかは都司の判断次第ということになる」
飾り石の窃盗に関してはマツリの判断でよい。 だがその後、呉甚と柴咲が六都に回って来た時には決起のことで再度捕らえ、他の都とある程度の足並みは必要ではあるが、何も知らなかった者を除き、都司不在の六都ではマツリの判断で咎を言い渡して良いということであった。