『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第64回
「起きなさい」
「・・・」
「起きなさい」
「う・・・ん」
まるで何かを払うように手を上げる。 途端、パンと小気味いい音とともに「イタ!!」 という声が聞こえた。
「・・・へ?」
微睡(まどろ)みの中から覚醒しつつある紫揺の声が上がったが、鮮明なものでない。 籠った声。 まだ眠りと覚醒の中で迷子状態だ。
「いい加減になさい! 起きなさい!」
布団を思いっきりめくり上げられた。
「・・・」
「まだ起きないっていうの? サイアクね!」
あれ?・・・この声はどこかで聞いたことが・・・。 と思った時、クシュンとくしゃみが出た。 それが発火剤になったかどうかは分からないが、紫揺が大きく目を見開き目の前に見えるものを凝視した。
目の前は壁があるだけで特に何があるわけではない。 グルリと首を回すと、頬を赤くしたアマフウの鬼のような面(おもて)が目に入った。 一瞬何が起こっているのか分からなかったが、寝ぼけた頭にアマフウの顔が覚醒スイッチを押した。
「ワッ!」
跳び起きかける。
「ッグ!」
次いで悲鳴にならない悲鳴を上げる。
ワッ、ッグとは何であろうか、と突っ込みたいがそれは愚問であるが説明しよう。
驚きに跳び起きかけた身体。 次いで起き上がろうとした腰。 その腰の痛みに耐えかねて喘いだ声。 そのミックスがワッ、ッグである。 昨晩の冷えからのせんべい布団。 腰にきても可笑しくはない。
アマフウが居る。 急がなくてはと思う。 何を言われるか分からないのだから。 でも仰向けから上体を上げられない。
こんな時は焦ることなく、落ち着いていつものように身体を捻って手を着き、上体を起こす。 それが正解だ。 そう思う。 腰に合わせてゆっくりと上体を起こす。 それが仇となった。
「・・・いい加減になさいよ」
この家を見ていた女たちが、入れ代わり立ち代わり、家の外から何度紫揺を呼んでも起きてこない。 女たちが家の中にまで入って紫揺を起こすことなど出来るはずがない。
紫揺と同じ馬車で移動するアマフウがたまりかねて起こしに来て、寝ぼけた紫揺から頬に平手を食らったという事だ。
「あ・・・あの」
「此処に残っているのはアナタと、アナタに付き合わされている私だけよ!」
「え?」
「サッサと馬車に乗りなさい!」
「あ・・・はいっ!」
とにかく、馬車に乗らなければいけないらしい。 それはまだ鈍い動きをしている脳みそでも理解できた。
「今すぐ! 来なさい!」
言い残すと土足で上がって来ていたままの姿で、サッサと家を出て行った。
「あさ・・・。 朝なんだ」
アマフウの開け放した戸から陽光が射している。
「って、アマフウさんに起こされた!?」
この数秒に起こったことを思い返し、慌てて布団を畳み外に躍り出た。
馬車の中で。
「あの・・・皆さんは?」
組んだ足に頬杖をついていたアマフウの目だけが水平に動いて紫揺を捉える。
「あ・・・何でもありません」
俯く。 ガタゴトと揺れる馬車。 馬が土を蹴る音が昨日までと違って早く聞こえる。 そっと窓を開けてみる。
まだぎっしりと詰まった家並みが見える。 溜息をついてそっと窓を閉める。
御者が馬を操りながら、背の後ろにある小窓にそっと振り返った。
馬の為に僅かな休憩だけをとって走り続けた馬車。 馬の為の休憩であるが、ご多分に漏れず、紫揺も外に出て腰を伸ばしていた。 痛みはまだ大丈夫だ。 来た時のような失敗はしない。 気を張って座っている。
昼飯を兼ねた休憩。 先に出発していたムロイ達は小一時間ほど休みをとったが、遅れてやってきた紫揺たちは、その半分ほどの時間になってしまった。
ムロイがおもむろに座を立つと、長靴を履き立ち上がる。 そして紫揺に向き直るとこう言った。
「私たちは先に出ますが、シユラ様は胃の具合が納まれば出てください」
アマフウがムロイを睨め付ける。 ムロイは素知らぬ顔をしている。
「アマフウ、そうしろよ。 馬車に揺られて疲れただろ?」
三人の様子を覗き見ていた紫揺。
アマフウがムロイを睨め付けていた目を、チラッとトウオウの曲げた膝頭に送ると前を見た。 オカシイ。 トウオウの目を見ない。 何故なんだろう? 小首を傾げ、次に目線をキノラに送ると気色ばんでいる。 慌てた紫揺。
「あ! ・・・あの!」
「なに?」
マサカのマ。 トウオウから返答がくるとは思っていなかった。
「あ・・えっと」
トウオウが首を傾げる。 が、紫揺が気に病んでいるアマフウもキノラも、ついでにムロイもトウオウほど紫揺の言葉を聞く気配はない。
「あの、大丈夫ですから。 どうもありませんから、一緒に出発出来ます」
トウオウが紫揺を見てからアマフウを見る。 アマフウの表情は先程から1ミリも動いていない。
「いいか?」
「ええ」
ムロイと四色、残る一色のアマフウと紫揺が同時に出発した。
それが失敗だった。
馬車の中で胃液が食道まで上がってくる。 あと少しで噴水を吐く。 吐きたくない。 何度もゴクリ、ゴクリと胃液を飲む。
「アナタ・・・」
紫揺の異変に気付いたアマフウ。
今は聞きたくないアマフウの声が聞こえる。
はい。 と言いかけて 「ブァイ」 と返答する。
アマフウが御者台に通じる小窓を開けた。
「止めなさい」
御者が慌てて手綱を引く。
調子よく歩を運んでいた馬が、急に手綱を引かれて地を何度も踏む音がし馬が止まる。
「開けなさい」
開けっ放しにされていた御者の背にある小窓に言を吐いた。
御者が慌てて御者台から跳び下り閂を外すと、ほぼ同時に紫揺が馬車から飛び出した。 御者が紫揺の後姿を目で追う。
「いい加減にしてほしいわ」
馬車の中から聞こえてくる声に、御者がアマフウを見て更に疑問を大きくした。
スッキリとは言えないが、胃の中が90%ほど落ち着いた。 あとの10%が心配だが、それでも90%は胃から脱出願えた。
副産物として口の中が苦い。
再度馬車に乗り込んだ時、御者からの視線が余りにも熱い。
「・・・すみませんでした」
紫揺からしてみれば、迷惑この上ないという視線を感じたからだが、反面そうではないと感じていた。 でもそれを認めると、天狗になっているような気がしたから、自分にそれを認めなかった。
御者はただ単に、自分に対して謝りの言葉を発した紫揺に驚いていただけだったが、そこまで子細に紫揺が知る由もない。
それからは何とか堪え、午後からの道中、馬車を止めることはなかった。
「・・・失敗」
一人で入った家で歎息を吐く。
早い話、今は一人。
夕食は口に運べなかった。 見るのも気分が悪くなるほどになっていた。
女に案内してもらって、やっと今ここに居る。
今頃、五色とムロイは夕食をとっているだろう。 談笑しているのだろうか。 いや、無いだろう。 でも、報告はあるだろう。
アマフウが自分のことをどう言っているのか気に・・・ならない。 うん、きっとアマフウは、自分のことを言わないであろう。 此処に来た時のように。
ブフ、思わず口を押える。 気分を害する胃液が上がってくるが、もう何も吐く物はない。 胃液と混じった僅かな唾液が口の中で踊っている。
「サイテイ・・・」
口を抑えながら吐く。 吐瀉物(としゃぶつ)ではなく、言葉を。
昨日とさほど変わらない家。
囲炉裏の傍に寝ころぶ。 反らされた胃から問われる。
「ううっ」 っと応える。
その返答に何故か納得した胃がゆっくりと治まっていく。
「どうして、こんなだろ」
自分に歎息しか吐けない。
何を嘆いても、舗装もされていない地道を、タイヤもチューブもない馬車の車輪で揺られれば紫揺に限らずそうなるだろうが、それに甘んじていては駄目だろう。 それに夜の予定がある。
「今晩、頑張れるかな・・・じゃない。 寝てる場合じゃないんだから」
重い腰ならず、内臓を立ち上げた時、クラっとめまいがした。 そしてそのまま囲炉裏の傍で、意識が遠のいていった。
意識を戻した時には、たった一つある窓から朝日がサンサンと輝いている様子が見えた。
「・・・うそ」
顔面蒼白になる。
慌てて昨日全員が集まっていた家を訪ねると、アマフウだけが居た。
「アナタ・・・」
アマフウから糾問を有難くいただく前に謝った。
「はい・・・すみません」
勿論、その場に誰もいなかった。 ムロイと五色達は既に発っていた。
「アナタを起こすのに、どういう手が必要なのかしらっ!?」
昨日、紫揺から平手を食らったアマフウは紫揺を起こすことはせず、それを知らない女たちも戸の外から紫揺を起こそうとしても何の返答もない。 結果、この時間まで紫揺は寝ていたという事だ。
「サッサと馬車に乗りなさい!」
昨日のことを考えると、陽の方向から憶測するに、先に出ているであろうムロイ達に相当遅れているだろう。
ショボショボとアマフウの後をついて馬車に乗り込もうとした時、アマフウの石鹸の香りがフワっと香った。 そういえば、昨日も今朝も顔を洗っていない。 歯も磨いていない。 それは自業自得だと分かっている。 けど、口の中がネバネバする。 顔は・・・百歩譲ろう。 顔がネバネバするわけではないから。 ・・・お風呂にも入っていない。
「何をしてるの、早く座りなさい」
片足だけ入れた状態の紫揺が、アマフウに急かされて席に着く。 馬車がガタゴトと音を立てて走り出した。
アマフウはいつも通り足を組み、その足に頬杖をつくと、その先に御者が居るだろう方向、だが何も見えない、何の動きも見せない板の方を向いた。
紫揺のことは視野に入っていないだろう。 ここぞとばかりに、そっと自分の腕を鼻の近くに持ってきてクンと嗅ぐ。 夕べ着たまま寝てしまったベンチコートのファスナーをちょっと開けて布地を引っ張り隙間を作ると、顎を引きその隙間からクンと嗅いだが、怪しい匂いはしない。
この狭い空間で怪しい匂いがしては、どんな嫌味を言われるか分からない。 勿論アマフウに。 でもそれ以上に、一応、紫揺もレディー。 他人がどう思うかはさて置き、香りならまだしも、自分の放つ臭いは気になる。
「アナタ・・・」
「は! はい!」
ベンチコートを引っ張ったまま顔を上げる。
「何をしてるの」
最後の 『の』 のあとに疑問符などつかない。 平たく投げられた。
「あ・・・お風呂に入ってないから、その・・・」
まさか気付かれるとは思っていなかった。
「・・・匂いが気になるっていうこと?」
疑問符がついた。
頬杖をついたままゆっくりと顔を紫揺に向ける。
「・・・はい」
歯を磨いてない、顔を洗っていないことは告白しないでおこう。
「・・・」
間の抜けた格好のまま返事をする紫揺に溜息さえ出ない。
「に・・・臭いますか・・・?」
「セイハが誘いに行かなかったってことね・・・」 呟くように言う。
「え?」
聞き返す紫揺を、その前に言った質問すらも聞こえなかったと言いたげに、また元の形に戻った。 いつもの形。 先が見えない板だけを見る。
「・・・」
今度は紫揺が黙ってしまった。
そしてそのまま沈黙の森に足を踏み入れてしまった。 紫揺が身動き出来ない沈黙が続くなか、突然アマフウが前を見たまま喋り出した。
「二、三日入らないくらい、此処じゃ当たり前よ。 一週間くらい入らなくてもね」
「え?」
「気にすることはないわ」
安堵したい言葉だったが、臭くはないとは言われなかった。 アマフウの目を盗んでもう一度自分の手首の辺りの匂いを嗅いだ。
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「起きなさい」
「・・・」
「起きなさい」
「う・・・ん」
まるで何かを払うように手を上げる。 途端、パンと小気味いい音とともに「イタ!!」 という声が聞こえた。
「・・・へ?」
微睡(まどろ)みの中から覚醒しつつある紫揺の声が上がったが、鮮明なものでない。 籠った声。 まだ眠りと覚醒の中で迷子状態だ。
「いい加減になさい! 起きなさい!」
布団を思いっきりめくり上げられた。
「・・・」
「まだ起きないっていうの? サイアクね!」
あれ?・・・この声はどこかで聞いたことが・・・。 と思った時、クシュンとくしゃみが出た。 それが発火剤になったかどうかは分からないが、紫揺が大きく目を見開き目の前に見えるものを凝視した。
目の前は壁があるだけで特に何があるわけではない。 グルリと首を回すと、頬を赤くしたアマフウの鬼のような面(おもて)が目に入った。 一瞬何が起こっているのか分からなかったが、寝ぼけた頭にアマフウの顔が覚醒スイッチを押した。
「ワッ!」
跳び起きかける。
「ッグ!」
次いで悲鳴にならない悲鳴を上げる。
ワッ、ッグとは何であろうか、と突っ込みたいがそれは愚問であるが説明しよう。
驚きに跳び起きかけた身体。 次いで起き上がろうとした腰。 その腰の痛みに耐えかねて喘いだ声。 そのミックスがワッ、ッグである。 昨晩の冷えからのせんべい布団。 腰にきても可笑しくはない。
アマフウが居る。 急がなくてはと思う。 何を言われるか分からないのだから。 でも仰向けから上体を上げられない。
こんな時は焦ることなく、落ち着いていつものように身体を捻って手を着き、上体を起こす。 それが正解だ。 そう思う。 腰に合わせてゆっくりと上体を起こす。 それが仇となった。
「・・・いい加減になさいよ」
この家を見ていた女たちが、入れ代わり立ち代わり、家の外から何度紫揺を呼んでも起きてこない。 女たちが家の中にまで入って紫揺を起こすことなど出来るはずがない。
紫揺と同じ馬車で移動するアマフウがたまりかねて起こしに来て、寝ぼけた紫揺から頬に平手を食らったという事だ。
「あ・・・あの」
「此処に残っているのはアナタと、アナタに付き合わされている私だけよ!」
「え?」
「サッサと馬車に乗りなさい!」
「あ・・・はいっ!」
とにかく、馬車に乗らなければいけないらしい。 それはまだ鈍い動きをしている脳みそでも理解できた。
「今すぐ! 来なさい!」
言い残すと土足で上がって来ていたままの姿で、サッサと家を出て行った。
「あさ・・・。 朝なんだ」
アマフウの開け放した戸から陽光が射している。
「って、アマフウさんに起こされた!?」
この数秒に起こったことを思い返し、慌てて布団を畳み外に躍り出た。
馬車の中で。
「あの・・・皆さんは?」
組んだ足に頬杖をついていたアマフウの目だけが水平に動いて紫揺を捉える。
「あ・・・何でもありません」
俯く。 ガタゴトと揺れる馬車。 馬が土を蹴る音が昨日までと違って早く聞こえる。 そっと窓を開けてみる。
まだぎっしりと詰まった家並みが見える。 溜息をついてそっと窓を閉める。
御者が馬を操りながら、背の後ろにある小窓にそっと振り返った。
馬の為に僅かな休憩だけをとって走り続けた馬車。 馬の為の休憩であるが、ご多分に漏れず、紫揺も外に出て腰を伸ばしていた。 痛みはまだ大丈夫だ。 来た時のような失敗はしない。 気を張って座っている。
昼飯を兼ねた休憩。 先に出発していたムロイ達は小一時間ほど休みをとったが、遅れてやってきた紫揺たちは、その半分ほどの時間になってしまった。
ムロイがおもむろに座を立つと、長靴を履き立ち上がる。 そして紫揺に向き直るとこう言った。
「私たちは先に出ますが、シユラ様は胃の具合が納まれば出てください」
アマフウがムロイを睨め付ける。 ムロイは素知らぬ顔をしている。
「アマフウ、そうしろよ。 馬車に揺られて疲れただろ?」
三人の様子を覗き見ていた紫揺。
アマフウがムロイを睨め付けていた目を、チラッとトウオウの曲げた膝頭に送ると前を見た。 オカシイ。 トウオウの目を見ない。 何故なんだろう? 小首を傾げ、次に目線をキノラに送ると気色ばんでいる。 慌てた紫揺。
「あ! ・・・あの!」
「なに?」
マサカのマ。 トウオウから返答がくるとは思っていなかった。
「あ・・えっと」
トウオウが首を傾げる。 が、紫揺が気に病んでいるアマフウもキノラも、ついでにムロイもトウオウほど紫揺の言葉を聞く気配はない。
「あの、大丈夫ですから。 どうもありませんから、一緒に出発出来ます」
トウオウが紫揺を見てからアマフウを見る。 アマフウの表情は先程から1ミリも動いていない。
「いいか?」
「ええ」
ムロイと四色、残る一色のアマフウと紫揺が同時に出発した。
それが失敗だった。
馬車の中で胃液が食道まで上がってくる。 あと少しで噴水を吐く。 吐きたくない。 何度もゴクリ、ゴクリと胃液を飲む。
「アナタ・・・」
紫揺の異変に気付いたアマフウ。
今は聞きたくないアマフウの声が聞こえる。
はい。 と言いかけて 「ブァイ」 と返答する。
アマフウが御者台に通じる小窓を開けた。
「止めなさい」
御者が慌てて手綱を引く。
調子よく歩を運んでいた馬が、急に手綱を引かれて地を何度も踏む音がし馬が止まる。
「開けなさい」
開けっ放しにされていた御者の背にある小窓に言を吐いた。
御者が慌てて御者台から跳び下り閂を外すと、ほぼ同時に紫揺が馬車から飛び出した。 御者が紫揺の後姿を目で追う。
「いい加減にしてほしいわ」
馬車の中から聞こえてくる声に、御者がアマフウを見て更に疑問を大きくした。
スッキリとは言えないが、胃の中が90%ほど落ち着いた。 あとの10%が心配だが、それでも90%は胃から脱出願えた。
副産物として口の中が苦い。
再度馬車に乗り込んだ時、御者からの視線が余りにも熱い。
「・・・すみませんでした」
紫揺からしてみれば、迷惑この上ないという視線を感じたからだが、反面そうではないと感じていた。 でもそれを認めると、天狗になっているような気がしたから、自分にそれを認めなかった。
御者はただ単に、自分に対して謝りの言葉を発した紫揺に驚いていただけだったが、そこまで子細に紫揺が知る由もない。
それからは何とか堪え、午後からの道中、馬車を止めることはなかった。
「・・・失敗」
一人で入った家で歎息を吐く。
早い話、今は一人。
夕食は口に運べなかった。 見るのも気分が悪くなるほどになっていた。
女に案内してもらって、やっと今ここに居る。
今頃、五色とムロイは夕食をとっているだろう。 談笑しているのだろうか。 いや、無いだろう。 でも、報告はあるだろう。
アマフウが自分のことをどう言っているのか気に・・・ならない。 うん、きっとアマフウは、自分のことを言わないであろう。 此処に来た時のように。
ブフ、思わず口を押える。 気分を害する胃液が上がってくるが、もう何も吐く物はない。 胃液と混じった僅かな唾液が口の中で踊っている。
「サイテイ・・・」
口を抑えながら吐く。 吐瀉物(としゃぶつ)ではなく、言葉を。
昨日とさほど変わらない家。
囲炉裏の傍に寝ころぶ。 反らされた胃から問われる。
「ううっ」 っと応える。
その返答に何故か納得した胃がゆっくりと治まっていく。
「どうして、こんなだろ」
自分に歎息しか吐けない。
何を嘆いても、舗装もされていない地道を、タイヤもチューブもない馬車の車輪で揺られれば紫揺に限らずそうなるだろうが、それに甘んじていては駄目だろう。 それに夜の予定がある。
「今晩、頑張れるかな・・・じゃない。 寝てる場合じゃないんだから」
重い腰ならず、内臓を立ち上げた時、クラっとめまいがした。 そしてそのまま囲炉裏の傍で、意識が遠のいていった。
意識を戻した時には、たった一つある窓から朝日がサンサンと輝いている様子が見えた。
「・・・うそ」
顔面蒼白になる。
慌てて昨日全員が集まっていた家を訪ねると、アマフウだけが居た。
「アナタ・・・」
アマフウから糾問を有難くいただく前に謝った。
「はい・・・すみません」
勿論、その場に誰もいなかった。 ムロイと五色達は既に発っていた。
「アナタを起こすのに、どういう手が必要なのかしらっ!?」
昨日、紫揺から平手を食らったアマフウは紫揺を起こすことはせず、それを知らない女たちも戸の外から紫揺を起こそうとしても何の返答もない。 結果、この時間まで紫揺は寝ていたという事だ。
「サッサと馬車に乗りなさい!」
昨日のことを考えると、陽の方向から憶測するに、先に出ているであろうムロイ達に相当遅れているだろう。
ショボショボとアマフウの後をついて馬車に乗り込もうとした時、アマフウの石鹸の香りがフワっと香った。 そういえば、昨日も今朝も顔を洗っていない。 歯も磨いていない。 それは自業自得だと分かっている。 けど、口の中がネバネバする。 顔は・・・百歩譲ろう。 顔がネバネバするわけではないから。 ・・・お風呂にも入っていない。
「何をしてるの、早く座りなさい」
片足だけ入れた状態の紫揺が、アマフウに急かされて席に着く。 馬車がガタゴトと音を立てて走り出した。
アマフウはいつも通り足を組み、その足に頬杖をつくと、その先に御者が居るだろう方向、だが何も見えない、何の動きも見せない板の方を向いた。
紫揺のことは視野に入っていないだろう。 ここぞとばかりに、そっと自分の腕を鼻の近くに持ってきてクンと嗅ぐ。 夕べ着たまま寝てしまったベンチコートのファスナーをちょっと開けて布地を引っ張り隙間を作ると、顎を引きその隙間からクンと嗅いだが、怪しい匂いはしない。
この狭い空間で怪しい匂いがしては、どんな嫌味を言われるか分からない。 勿論アマフウに。 でもそれ以上に、一応、紫揺もレディー。 他人がどう思うかはさて置き、香りならまだしも、自分の放つ臭いは気になる。
「アナタ・・・」
「は! はい!」
ベンチコートを引っ張ったまま顔を上げる。
「何をしてるの」
最後の 『の』 のあとに疑問符などつかない。 平たく投げられた。
「あ・・・お風呂に入ってないから、その・・・」
まさか気付かれるとは思っていなかった。
「・・・匂いが気になるっていうこと?」
疑問符がついた。
頬杖をついたままゆっくりと顔を紫揺に向ける。
「・・・はい」
歯を磨いてない、顔を洗っていないことは告白しないでおこう。
「・・・」
間の抜けた格好のまま返事をする紫揺に溜息さえ出ない。
「に・・・臭いますか・・・?」
「セイハが誘いに行かなかったってことね・・・」 呟くように言う。
「え?」
聞き返す紫揺を、その前に言った質問すらも聞こえなかったと言いたげに、また元の形に戻った。 いつもの形。 先が見えない板だけを見る。
「・・・」
今度は紫揺が黙ってしまった。
そしてそのまま沈黙の森に足を踏み入れてしまった。 紫揺が身動き出来ない沈黙が続くなか、突然アマフウが前を見たまま喋り出した。
「二、三日入らないくらい、此処じゃ当たり前よ。 一週間くらい入らなくてもね」
「え?」
「気にすることはないわ」
安堵したい言葉だったが、臭くはないとは言われなかった。 アマフウの目を盗んでもう一度自分の手首の辺りの匂いを嗅いだ。