大福 りす の 隠れ家

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虚空の辰刻(とき)  第64回

2019年07月29日 22時03分58秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第60回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第64回


「起きなさい」

「・・・」

「起きなさい」

「う・・・ん」

まるで何かを払うように手を上げる。 途端、パンと小気味いい音とともに「イタ!!」 という声が聞こえた。

「・・・へ?」

微睡(まどろ)みの中から覚醒しつつある紫揺の声が上がったが、鮮明なものでない。 籠った声。 まだ眠りと覚醒の中で迷子状態だ。

「いい加減になさい! 起きなさい!」

布団を思いっきりめくり上げられた。

「・・・」

「まだ起きないっていうの? サイアクね!」

あれ?・・・この声はどこかで聞いたことが・・・。 と思った時、クシュンとくしゃみが出た。 それが発火剤になったかどうかは分からないが、紫揺が大きく目を見開き目の前に見えるものを凝視した。

目の前は壁があるだけで特に何があるわけではない。 グルリと首を回すと、頬を赤くしたアマフウの鬼のような面(おもて)が目に入った。 一瞬何が起こっているのか分からなかったが、寝ぼけた頭にアマフウの顔が覚醒スイッチを押した。

「ワッ!」

跳び起きかける。

「ッグ!」

次いで悲鳴にならない悲鳴を上げる。

ワッ、ッグとは何であろうか、と突っ込みたいがそれは愚問であるが説明しよう。
驚きに跳び起きかけた身体。 次いで起き上がろうとした腰。 その腰の痛みに耐えかねて喘いだ声。 そのミックスがワッ、ッグである。 昨晩の冷えからのせんべい布団。 腰にきても可笑しくはない。

アマフウが居る。 急がなくてはと思う。 何を言われるか分からないのだから。 でも仰向けから上体を上げられない。

こんな時は焦ることなく、落ち着いていつものように身体を捻って手を着き、上体を起こす。 それが正解だ。 そう思う。 腰に合わせてゆっくりと上体を起こす。 それが仇となった。

「・・・いい加減になさいよ」

この家を見ていた女たちが、入れ代わり立ち代わり、家の外から何度紫揺を呼んでも起きてこない。 女たちが家の中にまで入って紫揺を起こすことなど出来るはずがない。

紫揺と同じ馬車で移動するアマフウがたまりかねて起こしに来て、寝ぼけた紫揺から頬に平手を食らったという事だ。

「あ・・・あの」

「此処に残っているのはアナタと、アナタに付き合わされている私だけよ!」

「え?」

「サッサと馬車に乗りなさい!」

「あ・・・はいっ!」

とにかく、馬車に乗らなければいけないらしい。 それはまだ鈍い動きをしている脳みそでも理解できた。

「今すぐ! 来なさい!」

言い残すと土足で上がって来ていたままの姿で、サッサと家を出て行った。

「あさ・・・。 朝なんだ」

アマフウの開け放した戸から陽光が射している。

「って、アマフウさんに起こされた!?」

この数秒に起こったことを思い返し、慌てて布団を畳み外に躍り出た。


馬車の中で。

「あの・・・皆さんは?」

組んだ足に頬杖をついていたアマフウの目だけが水平に動いて紫揺を捉える。

「あ・・・何でもありません」

俯く。 ガタゴトと揺れる馬車。 馬が土を蹴る音が昨日までと違って早く聞こえる。 そっと窓を開けてみる。 
まだぎっしりと詰まった家並みが見える。 溜息をついてそっと窓を閉める。

御者が馬を操りながら、背の後ろにある小窓にそっと振り返った。

馬の為に僅かな休憩だけをとって走り続けた馬車。 馬の為の休憩であるが、ご多分に漏れず、紫揺も外に出て腰を伸ばしていた。 痛みはまだ大丈夫だ。 来た時のような失敗はしない。 気を張って座っている。


昼飯を兼ねた休憩。 先に出発していたムロイ達は小一時間ほど休みをとったが、遅れてやってきた紫揺たちは、その半分ほどの時間になってしまった。

ムロイがおもむろに座を立つと、長靴を履き立ち上がる。 そして紫揺に向き直るとこう言った。

「私たちは先に出ますが、シユラ様は胃の具合が納まれば出てください」 

アマフウがムロイを睨め付ける。 ムロイは素知らぬ顔をしている。

「アマフウ、そうしろよ。 馬車に揺られて疲れただろ?」

三人の様子を覗き見ていた紫揺。

アマフウがムロイを睨め付けていた目を、チラッとトウオウの曲げた膝頭に送ると前を見た。 オカシイ。 トウオウの目を見ない。 何故なんだろう? 小首を傾げ、次に目線をキノラに送ると気色ばんでいる。 慌てた紫揺。

「あ! ・・・あの!」

「なに?」

マサカのマ。 トウオウから返答がくるとは思っていなかった。

「あ・・えっと」

トウオウが首を傾げる。 が、紫揺が気に病んでいるアマフウもキノラも、ついでにムロイもトウオウほど紫揺の言葉を聞く気配はない。

「あの、大丈夫ですから。 どうもありませんから、一緒に出発出来ます」

トウオウが紫揺を見てからアマフウを見る。 アマフウの表情は先程から1ミリも動いていない。

「いいか?」

「ええ」


ムロイと四色、残る一色のアマフウと紫揺が同時に出発した。
それが失敗だった。

馬車の中で胃液が食道まで上がってくる。 あと少しで噴水を吐く。 吐きたくない。 何度もゴクリ、ゴクリと胃液を飲む。

「アナタ・・・」

紫揺の異変に気付いたアマフウ。

今は聞きたくないアマフウの声が聞こえる。

はい。 と言いかけて 「ブァイ」 と返答する。

アマフウが御者台に通じる小窓を開けた。

「止めなさい」

御者が慌てて手綱を引く。
調子よく歩を運んでいた馬が、急に手綱を引かれて地を何度も踏む音がし馬が止まる。

「開けなさい」

開けっ放しにされていた御者の背にある小窓に言を吐いた。

御者が慌てて御者台から跳び下り閂を外すと、ほぼ同時に紫揺が馬車から飛び出した。 御者が紫揺の後姿を目で追う。

「いい加減にしてほしいわ」

馬車の中から聞こえてくる声に、御者がアマフウを見て更に疑問を大きくした。

スッキリとは言えないが、胃の中が90%ほど落ち着いた。 あとの10%が心配だが、それでも90%は胃から脱出願えた。

副産物として口の中が苦い。

再度馬車に乗り込んだ時、御者からの視線が余りにも熱い。

「・・・すみませんでした」

紫揺からしてみれば、迷惑この上ないという視線を感じたからだが、反面そうではないと感じていた。 でもそれを認めると、天狗になっているような気がしたから、自分にそれを認めなかった。

御者はただ単に、自分に対して謝りの言葉を発した紫揺に驚いていただけだったが、そこまで子細に紫揺が知る由もない。

それからは何とか堪え、午後からの道中、馬車を止めることはなかった。

「・・・失敗」

一人で入った家で歎息を吐く。
早い話、今は一人。

夕食は口に運べなかった。 見るのも気分が悪くなるほどになっていた。 

女に案内してもらって、やっと今ここに居る。

今頃、五色とムロイは夕食をとっているだろう。 談笑しているのだろうか。 いや、無いだろう。 でも、報告はあるだろう。

アマフウが自分のことをどう言っているのか気に・・・ならない。 うん、きっとアマフウは、自分のことを言わないであろう。 此処に来た時のように。

ブフ、思わず口を押える。 気分を害する胃液が上がってくるが、もう何も吐く物はない。 胃液と混じった僅かな唾液が口の中で踊っている。

「サイテイ・・・」

口を抑えながら吐く。 吐瀉物(としゃぶつ)ではなく、言葉を。

昨日とさほど変わらない家。
囲炉裏の傍に寝ころぶ。 反らされた胃から問われる。

「ううっ」 っと応える。

その返答に何故か納得した胃がゆっくりと治まっていく。

「どうして、こんなだろ」

自分に歎息しか吐けない。

何を嘆いても、舗装もされていない地道を、タイヤもチューブもない馬車の車輪で揺られれば紫揺に限らずそうなるだろうが、それに甘んじていては駄目だろう。 それに夜の予定がある。

「今晩、頑張れるかな・・・じゃない。 寝てる場合じゃないんだから」

重い腰ならず、内臓を立ち上げた時、クラっとめまいがした。 そしてそのまま囲炉裏の傍で、意識が遠のいていった。


意識を戻した時には、たった一つある窓から朝日がサンサンと輝いている様子が見えた。

「・・・うそ」

顔面蒼白になる。

慌てて昨日全員が集まっていた家を訪ねると、アマフウだけが居た。

「アナタ・・・」

アマフウから糾問を有難くいただく前に謝った。

「はい・・・すみません」

勿論、その場に誰もいなかった。 ムロイと五色達は既に発っていた。

「アナタを起こすのに、どういう手が必要なのかしらっ!?」

昨日、紫揺から平手を食らったアマフウは紫揺を起こすことはせず、それを知らない女たちも戸の外から紫揺を起こそうとしても何の返答もない。 結果、この時間まで紫揺は寝ていたという事だ。

「サッサと馬車に乗りなさい!」


昨日のことを考えると、陽の方向から憶測するに、先に出ているであろうムロイ達に相当遅れているだろう。

ショボショボとアマフウの後をついて馬車に乗り込もうとした時、アマフウの石鹸の香りがフワっと香った。 そういえば、昨日も今朝も顔を洗っていない。 歯も磨いていない。 それは自業自得だと分かっている。 けど、口の中がネバネバする。 顔は・・・百歩譲ろう。 顔がネバネバするわけではないから。 ・・・お風呂にも入っていない。

「何をしてるの、早く座りなさい」

片足だけ入れた状態の紫揺が、アマフウに急かされて席に着く。 馬車がガタゴトと音を立てて走り出した。

アマフウはいつも通り足を組み、その足に頬杖をつくと、その先に御者が居るだろう方向、だが何も見えない、何の動きも見せない板の方を向いた。

紫揺のことは視野に入っていないだろう。 ここぞとばかりに、そっと自分の腕を鼻の近くに持ってきてクンと嗅ぐ。 夕べ着たまま寝てしまったベンチコートのファスナーをちょっと開けて布地を引っ張り隙間を作ると、顎を引きその隙間からクンと嗅いだが、怪しい匂いはしない。

この狭い空間で怪しい匂いがしては、どんな嫌味を言われるか分からない。 勿論アマフウに。 でもそれ以上に、一応、紫揺もレディー。 他人がどう思うかはさて置き、香りならまだしも、自分の放つ臭いは気になる。

「アナタ・・・」

「は! はい!」

ベンチコートを引っ張ったまま顔を上げる。

「何をしてるの」 

最後の 『の』 のあとに疑問符などつかない。 平たく投げられた。

「あ・・・お風呂に入ってないから、その・・・」

まさか気付かれるとは思っていなかった。

「・・・匂いが気になるっていうこと?」

疑問符がついた。

頬杖をついたままゆっくりと顔を紫揺に向ける。

「・・・はい」

歯を磨いてない、顔を洗っていないことは告白しないでおこう。

「・・・」

間の抜けた格好のまま返事をする紫揺に溜息さえ出ない。

「に・・・臭いますか・・・?」

「セイハが誘いに行かなかったってことね・・・」 呟くように言う。

「え?」

聞き返す紫揺を、その前に言った質問すらも聞こえなかったと言いたげに、また元の形に戻った。 いつもの形。 先が見えない板だけを見る。

「・・・」

今度は紫揺が黙ってしまった。

そしてそのまま沈黙の森に足を踏み入れてしまった。 紫揺が身動き出来ない沈黙が続くなか、突然アマフウが前を見たまま喋り出した。

「二、三日入らないくらい、此処じゃ当たり前よ。 一週間くらい入らなくてもね」

「え?」

「気にすることはないわ」

安堵したい言葉だったが、臭くはないとは言われなかった。 アマフウの目を盗んでもう一度自分の手首の辺りの匂いを嗅いだ。

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虚空の辰刻(とき)  第63回

2019年07月26日 22時20分38秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第63回



「無理して走ったようね」

「え?」

「ムロイも早く屋敷に帰りたいんでしょう。 初日からこんなに暗くなるまで走らせることは今までになかったと思うわ」

今日のアマフウは究極に機嫌がいいのであろうか口数が多い。 セイハなどと比べると断然少ないが。

各地点の狼煙の上げ方でムロイ達が何処を過ぎたか、何処で飯をとったかは、領土の人間は把握している。 各所で次はここだろうと思うと飯の準備下ごしらえはしているが、何処で休むか、何処で宿泊するかは分からない。 やってきたムロイ達を迎える前に、急ごしらえで飯の用意をしなければならない所も出てくる。

閂(かんぬき)の外す音がした。 次に両開きの戸が開けられる。 御者台に乗っていた男が開けた。 足元台が下に置かれている。 数日前に何度も見た男と足元台である。

先にアマフウが降りる。 次に紫揺が降りると角灯を持った男が下げていた頭を僅かに上げて紫揺を見た。

「有難うございました」

紫揺が言うと男が目を大きく開けて完全に顔を上げた。

またか・・・。 と一瞬思ったが、そういえばと思い返す。 来た時には具合を悪くしていて降りる時にこんな言葉を言う余裕など無かった。 非礼な態度をとっていたのは自分の方だったと再考した。 結果、ちゃんとお礼を言わなければ、に到達した。

「あの」

まさか声を掛けらるとは思っていなかった男が肩を大きくビクつかせた。

「来た時にはお礼の一つも言えなくてすみませんでした。 その、具合が悪かったことを言い訳にしたくはないんですけど、気がまわりませんでした。 ・・・ゴメンナサイ」

90度以上に腰を折った。

男はただただ、唖然としている。 開いた口が塞がらない・・・という諺とは意味が違っているが、現在の男は現実に口を開け、閉じることが出来なかった。 諺ではなく、まんまを表わしていた。

「あ・・・あ」

喉の奥から出た男の声はこれだけだった。

男が何を言いたいか、いや、言いたいんじゃない。 言えないんだ。

こっちが男の声に壁を作っていたんだ。 そしてこの領土の人間は勝手に五色と呼ばれる人間に壁を作っている。 その五色と同じに自分は扱われている。 でも、壁を作られても仕方ないだろうと、五色達を見ていて思う。 けど、自分は五色とは違う。 何も出来ないのだから。 アマフウに自覚のことを言われたが、仮に自覚を持ったとしても五色達と同じことは出来ない。 袂を燃やしたとか何とか言われてるけど、それって・・・トウオウの仕業じゃないのか? と、根も葉もないことを考えている。

それにしても、この今の状況を開放させてほしい。 男が余りにも自分を見ている。 これは苦しい。

仕方なく軽く会釈をして、もう見えなくなったアマフウの後を追う。 目の前にある家から明かりが漏れているから行き先は分かる。 その家に行けばいいだけだ。 角灯など必要なく歩いて行ける。 蹴躓(けつまず)いたが。

男が紫揺の後姿を見送りポツンと漏らした。

「やっぱり・・・」 

男がどう思ったのかは分からない。 だが、あの時に思ったことを男が脳裏に浮かべたことは確かだ。

『あの見たこともない衣を着ている少女はいったい誰なのだろう。 このアマフウ様が気遣う相手など今まで居なかったのに。
そのくせ、あの少女がナカナカ馬車に戻ってこないとなると、いつものアマフウ様が出る』 と。

「アマフウ様の足元を照らさなかったのに、お怒りが無かった。 いったい・・・誰なんだ・・・」 御者である男が呆けたように口にした。


家には夕飯が用意されていた。 夕飯と言っても屋敷で食べていた物と若干ではなく大きく違う。 これがセイハの言う不服なのだろうと思う。

主食はない。 ただ囲炉裏にぶら下げられた鍋の煮もののみだ。

言い訳をするのなら、ここの領土の人間、すなわち、ムロイ達の移動の度に世話をする人間は、ムロイ達が身を休める仮家の留守を預かっている。

その家は距離を置いてかなりの数が点在していて、場所により家の大きさは違ってはいるが、その点在の一塊の家はそれぞれ八軒ある。 今紫揺が居るのがその一つの塊である。 一軒は皆が集まって囲炉裏を囲め、別にもう一間寝室がある家が二軒と、小さめな囲炉裏があり、その場所で寝泊まりする小さめな家が六軒。 早い話、囲炉裏のある部屋のみの家である。 その八軒が寄り固まって建てられていた。

一つの塊、それぞれの留守を預かっている場所を通り越した時点で、また、休憩や食事、宿泊を終えた時点で、狼煙を上げて次の留守を預かる人間に知らせている。 それは上げられた狼煙の色でわかるようになっていた。

今回紫揺たちが身を寄せた家ではもう遅いので、ここの前の地点で食事及び宿泊をするだろうと思われていた。 が、それが行われなかったと狼煙で知り副食を鍋にぶち込んだ。 主食となる米を炊いたが現時点で間に合っていない。 何故なら、余りにも慌ててしまって、女が米釜をひっくり返してしまったのだ。 いや、正しく言うと体当たりをしてしまった。 米を拾い集め綺麗に洗ってから再度炊き始めたのだが、残念ながら努力が無駄になりそうな気配である。

食材は無限にあるわけではない。 とくにこの北の領土は食材に欠けている。 贅沢に予想の範疇以上に食材を使うわけにはいかない。

「シユラー、ご飯が無いんだって」

セイハが紫揺を抱きしめるようにして迎え入れる。

「あ・・・」

領土の火を消すために皆が奔走している時に勝手に帰ってきたセイハ。 そのセイハが皆に受け入れられているのだろうか、疑問が頭をかすめる。

「シユラ、お腹空いてるでしょ?」

セイハの態度に誰も何も言わない。 目を辺りに巡らせるとアマフウが完全無視の色を出している以外は、ムロイも五色と呼ばれる二色欠けた三色も特に何もなさそうだ。

一人苦労か・・・、じゃない、ほんの数秒の一人相撲だったのかと自分に呆れた。
一人相撲と言ってしまえばセイハに失礼に当たるだろう。 訳も分からず屋敷に来た時、セイハが食べることから紫揺にお膳立てしてくれた。 その後も紫揺の疑問に答えてくれたセイハだ。

ただ、セイハと自分の波長が違うのではないかとどこかで感じていた。 それはセイハの言葉の端々にある、聞こえない何かであった。

「シユラ?」

「あ、はい。 ・・・あの、私、お腹は空いてません」

セイハに逆らうために言ったのではない。 ただ正直に言っただけである。


ポツネン。


敷かれた布団に一人仰向きに寝ている。 囲炉裏が横にあるが、もう既に消した。 真っ暗で何も見えない。 板間にせんべい布団が腰に痛みを覚えさせる。

「・・・そろそろいいかな」

腰の痛みで腹筋では起きられない。 横を向き手を着いて身体を起こす。 上半身を起き上がらせると、そのまま前屈をして腰の筋や骨、筋肉を引っ張る。 筋が引っ張られ、痛気持ちいい。 ボキッと腰の骨が鳴る。

「このお布団、厳しいかも・・・」

言いながら身体を90度捻って手を着くと膝を曲げた。

ムロイと五色達は各々違う家で寝ている。 よって、紫揺も一人で此処に宿泊している。

真っ暗な中を四つん這いになって這い出す。

「えっと・・・と、あと少しで上り框があるはず」

暗闇に手を這わす。 途端、四つん這いの前線の腕であり、その最前線の掌がカクンと落ちた。 それに従って肩をはじめとした四半世紀ならず、四半身が下に落ちる。

「グヘッ」

三和土(たたき)に落ちた。 いや、落ちかけた。 上がり框の角でしたたかに胸を打ち、思わず声を上げた。

カエルがゲロゲロと鳴こうとして、喉に何かが引っ掛かって、鳴くのを失敗したような鳴き方の声。
頭はすれすれ三和土とゴッツンコすることはなかった。

「もう・・・間取りの感覚が分かんないんですけど・・・」

胸から下はかろうじて板間にいる。 で? それが何の救いになるのかは分からない。

両親と暮らしていた家の間取りは考えずとも覚えている。 身に染みている。 が、唐突に現れたこの現象? 紫揺から見れば人工的に歪んだ元にあるこの間取りは覚えきれない。 それは言い過ぎか。

単に短時間しか居ることのなかった場所など、感覚的に覚えられるはずがない。 ましてや囲炉裏がある。 そんなもの今までの生活に無かったし、上がり框が高すぎる。 囲炉裏を上手く迂回して、上手く三和土に下りなければならない。 だが見事に失敗をして三半身だけが板間に居るわけだ。

両掌を土間に着く。 板間に残っている片足を柔軟に上げ、続いて残りの足も上げ倒立をすると、半身を捻りゆっくり片足ずつ土間に下りる。 これは目を瞑っていても出来る、こんな時の簡単脱出法である。 あくまでもそれは紫揺に限ったことであるが。

とにかく今は夜だ。 狼に自分の仕掛けたセットの事を話さなければいけない。 もうここまできてリツソと直接に話は出来ないだろうと諦めている。 だが残した物は、セットしておいた物には気づいて欲しい。

アチコチ打ちながら家の外に出る。 月明かりは乏しい。

「狼・・・来て」

来られたらコワイ。 それが一般常識であろう。 だが、今の紫揺は一般の常識から逸脱している。 本当なら逸脱などということはしたくはないけれど今は歓迎である。

辺りを見回すが、獣の気配も暗闇に光る眼も見ることは出来ない。

「どうしてよ・・・」

戸に背を預けて座り込む。 寒さが沁みる。 手を袖の中に入れて膝を抱え込む。 膝頭に顎を乗せると、暗闇を睨みつけるように見る。 耳を澄ます。 葉擦れの音しか聞こえてこないが、それでもその中に違う音を探す。

どれだけの時間が過ぎただろう。 寒空の空気の中でウトウトとし始めた。

(はは・・・これって雪山で “おい! 寝るな!” って言われる世界かなぁ。 バカだ・・・私って、ホント、バカだ)

コトンと身体が落ちた。


「どうする?」

領主が寝入ったことを確認して戻って来たゼンが言う。
木の枝に立つゼンの隣のダンの目を見、次に横の枝に立つカミとケミを見た。

「領主が寝たのであれば、領主は関わっていないことだ」 ダンが答えた。

「ああ、このままで良いであろう。 吾らはこれで―――」 

ケミが言葉を遮った。

「お前等は阿呆か!」

ケミの言にカミが責めるように言う。

「ケミ、吾らはムラサキ様を領主からお守りするように言われているのだぞ!」

それを分かっているのか!? という具合にケミの横でカミが問いただす。

「お前たちは・・・」

ゼン、ダン、カミの三人を見回して吐くように言った。

「吾らの存在は―――」

カミの言葉を継ぐように、ゼンが言いかけるとケミがその言葉に被せた。

「分かっておる!」

「何を言うか! 分かっておらぬからお前は迷いごとを吐くのではないか!」 カミがケミを睨みつけて言う。

「分かっておらぬのは―――」

言いかけたケミの言葉を聞き終ることなく言ったのはゼン。

「吾たちと言いたいのか?」

穏やかに言うゼンをカミとダンが驚いて見た。

「ああ! そうだ!」

ゼンを睨みつける。

「そうか・・・そうかも知れぬな」

ケミを見ていた目を伏し目がちにしたゼン。

「ゼン! 何を言うのか!?」

「カミ、カミだけではないケミもだ。 声を抑えろ。 ムラサキ様に聞こえるではないか」

ダンが言うと、カミとケミが口をひん曲げた。

「で、どうする」 ゼンがダンを見て言う。

「何か言いたそうだな。 そうだな、お前はどう考えておる?」 ダンが問い返しをする。

「吾は思うに・・・ムラサキ様をこのままにして―――」

「それが阿呆と言っておるのだ!」

「ケミ!」

声を殺してダンが言う。 それを睨みつけるケミ。

ゼンがケミを見て何か言いたそうにゆっくりと首肯した。

「ケミ、お前の言いたいことは全てとは言わぬが・・・」

「なんだ、分かるというのか」

「・・・。 分かっているかどうかは分からぬ。 だが少なくとも今の状態だけで言えば、ムラサキ様をこのままにしておいてはどうだ。 それでよかろう? ダン?」 

「何も分かってはおらぬではないか!」

「ケミ、そう先走るな」

「先走ってなどおらぬわ!」

「ではまず、声を抑えろ」

グフっと喉の奥から音を上げ、その後に大きく肺に空気を送った。

「吾は、ムラサキ様のされたいように、させてさし上げればいいと言っておる」

「何が言いたい?」

「確かに、このままではムラサキ様のご健康が損なわれる。 だがそれはショウワ様から下された命ではない。 吾らには関係のないことだ。 だが、ケミ、お前はムラサキ様のされたいことが一番と考えておるのではないのか? ムラサキ様が気の済むまでされて、その後にムラサキ様のご健康を考えればいいのではないか?」

「・・・なにを!」

「何を考えておるのかと問いたいのか?」

二人の会話にカミとダンが眉を顰める。

「ずっと見張られているのだぞ。 手を出さなくてよいところでは、ムラサキ様のされたいようにさせてさしあげれば良いのではないか? ずっと部屋に籠っておられたのだろう? それに今吾らが手を出しては、吾らの存在がムラサキ様に分かってしまうのではないか?」

睨み合うゼンとケミの間に沈黙が続く。

その沈黙を破ったのはケミ。

「あと・・・半時」 渋面を作りながら吐くように言う。

ゼンが首肯し、ダンとカミに顎を上げて退却を促す。

「では後を頼んだ」

ゼンが言い残すと影となり、ドロリとその場を後にする。
ダンとカミが互いに目を合わせゼンの後を追った。

三人が消えた後を見ることなくケミは紫揺の姿を目に映している。 遠目であるし暗がりでもあるが、影であるケミの視力はすこぶる良い上に夜目がきく。 ゆっくりと枝の上にしゃがむ。

「こんな寒空に・・・何を考えておられるのか・・・」

ゼンの言った言葉、ずっと見張られているのだから好きなようにさせて差し上げれば良い・・・。 そんなことは分かっている。 だが、どうしてこんな寒空にわざわざ家から出てくるのか。 紫揺は何を欲しているのか。

ケミが紫揺を見ていた目線を落とし、次いで頭を下げる。

「吾はどうして・・・」

どこかでケミ自身は分かっていたが、自身に問わなければ気が済まなくなっていた。

紫揺を不憫に思っていることは確かだ。 だが、だからと言って影という存在同士がどうして言い合うほどまでになってしまったのか。

影となってからのことを思い出そうとするが何も思い当たらない。 更に遡って自分の過去を記憶から引っ張り出そうとする。 それは何度も何度も試みたことだが、記憶を辿ろうとすると頭痛がして何も考えられなくなってしまう。

そして今も遠くで頭痛が起きている。 これ以上思い出そうとすると、段々とその痛みが大きくなってくるのは目に見えている。

「・・・無駄か」

思い出すことも出来ず、痛みだけが残るのは御免だ。 と、顔を上げたケミの目に映った紫揺が動いた。

「・・・気が付かれたか」

「さっぶ」

余りの寒さに目覚めノソリと立ち上がると、フラフラと家の中に入って行く姿が目にとれた。

風邪をひく心配がなくなった。

「では、吾も退却するとしようか」

木の枝に立ち上がると影となり、ドロリと溶けるように居なくなった。

所謂プライベートを犯さぬようにとショウワから言われている。


ゴン!

家の中で大きく脛を打つ音が響いた。 気温の低い時は爽やかに音が良く響く。

「・・・!!」

あまりの痛さに声さえ出ない。 上がり框に脛を打ってしまった。

「もう無理・・・」

涙目でドロドロになりながらも布団に這って行った。

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虚空の辰刻(とき)  第62回

2019年07月22日 21時54分31秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第62回



「今日の午後、昼ご飯を食べてから此処を出ます。 今度はスムーズに帰ることが出来るでしょうから四、五日で屋敷に着きますよ」

「え、でも・・・」

「でも? 何かあるのですか?」 下唇を触っていた指が止まる。

「あ・・・あの、皆さんお疲れなんじゃないのかな・・・と思って」 苦しい言い訳。

「ええ、疲れてはいますよ。 ですがここに長居したからといって、完全に疲れは取れませんからね。 せいぜい今日、全員が昼前まで寝れば多少疲れが取れるでしょう。 それで十分です。 そして屋敷に帰る、という事です」

「そ、そうなんですか」

ムロイの予定を変えてもらうわけにはいかない。 そんなことを言ったら、理由を訊かれることは明白なのだから。 そうなると一刻も早く部屋に戻って行動に移さなくてはならないことがある。 よって、これ以上ムロイと話していても何の益もない、無駄なだけである。

「それじゃあ・・・えっと、使っていた部屋の片づけをしてきます」

「ああ、気にしないでください。 そのままにしておいてくださって結構ですので」

言いながらも紫揺が辞することを止めないのは明らかに分かる。 ペコリとお辞儀をするとリビングを出て足早に離れに向かった。


「さて、どうしようか」

要望した材料は女が揃えて持ってきた。 その材料をテーブルの上に並べ、腕を組んでひと睨みすると、掃き出しの窓の外を見た。


時計があれば3時間ほど経った頃、昼食の用意が出来たと先程の女が呼びに来た。 今日は全員そろって台所で食べるようだ。

「あの、さっきは有難うございました。 これお返しします」

部屋のドアを開けると借りていた物を差し出した。

女がにこやかな顔で受け取る。 紫揺から発せられる言葉が嬉しくて仕方がないのだ。 紫揺の立場の人間が自分に “有難う” と言ってくれる。 それも “ございました” までつけて。

「入れ物、本当に返さなくてよかったですか?」

今更、返してほしいと言われては困るが。

「はい。 もう使わなくて放りっぱなしにしていた物ですから」

たしかに、要らなくなった容れ物が欲しいと言ったが、念を押さなければ気になる。

「じゃ、遠慮なく使わせてもらいます」

正しくは使わせてもらいました、なのだが。


昼食が終わるとムロイが腕時計を見ようと手を目の前にして、その腕に時計が無いことに片眉を上げた。

「もう何日もここに居るのに、何をしてらっしゃることやら」 セッカが失笑する。

そのセッカを一瞥し口を開きかけた時に、トウオウが先に口を切った。

「ムロイ、今日、皆を引き連れて屋敷に帰るつもりだろ? でも、ムロイは此処に残っていなくていいのか?」

「は!?」 睨むようにトウオウを見る。

「だって、今の領土はおかしいだろう。 領主として此処に残った方がいいんじゃないか?」

ムロイが眉間に皺を寄せてトウオウから視線を外す。

「そういうお前はどうなんだ?」

「うーん、オレね。 どうしようかなぁ」

「残るというのか?」

「まぁ、この領土がどうなろうとオレの知ったこっちゃないし、オレは領主でもないからなぁ」 まで言うと隣に座るアマフウを見た。

「アマフウを一人にしたくないのよね」

言ったセイハをアマフウが睨め付ける。

「何が言いたいの?」

「アマフウ止せ。 セイハには勝手に言わせておけ」

「あーら、ラブラブなこと」

「いい加減にしてもらえない? ムロイ、いつここを発つの!? 向こうで一人辞めたんだから、新しい人材の教育が待ってるのを分かってるでしょ! 私は今すぐにでもここを発ちたいんだけど!」

キノラの雄叫びに近い難詰に嫌気をさすようにムロイが答えた。

「食後すぐに馬に乗っては・・・な」

キノラに限らず、誰もの声がうるさそうにムロイが言う。

ムロイは暗に紫揺のことを言っている。 紫揺が顔色を悪くしていたのを忘れていたわけではないし、それが馬車に揺られたせいだという事は簡単に想像できる。 馬車に揺られるだけで顔色が悪くなるのだ。 食後すぐに馬車に揺られれば尚更であろう。

そう言ってしまえばムロイが紫揺の身体のことを心配しているように聞こえるが、全くもってそうではない。 紫揺が具合を悪くすると、馬車に同乗しているアマフウの機嫌が悪くなるからだ。 ムロイにとってアマフウの機嫌は少なくとも事を左右する。 セイハの機嫌など二の次だ。

「ねぇ、わたくしも此処に長くいたくないんだけれど? 夕に発つなんて事は言わないでしょうね?」 セッカが言う。

「ああ。 それはない。 日が落ちかけた時にここを発っては後にひびく」

「じゃ、じゃあ、皆さん言いたいことがあるんだから、明日にすればいいんじゃないですか? 明日の朝から発てばいいんじゃないですか?」

今まで目を白黒させながらも黙っていた紫揺が得たと思い、言を吐いたが、結果、頓珍漢珍なことを言っただけであった。

領主が大きく溜息をつき、セイハ、セッカ、キノラが白い目を紫揺に送る。

「あ・・・」

今の紫揺はリツソのことしか考えられなかった故、間違ったことを言ったみたいだということが分かった。

「す、すいません。 何でもないです」

肩をすぼめて下を向く。 その頭の中で考える。
出来る限りでのことはセットした。 だがそれは直接のリツソとの別れが出来ないわけである。 今日ここを発つのであれば、タイムリミットまでこれ以上に何もできない。 そんなことは声に出して言えないが。

結局、多数が一日も早く屋敷に帰りたいと言っているのに、トンチンカンな言を為しただけであった。

紫揺の言にムロイの考えが蹴躓(つまず)いたように玉砕しかけたが、考えは自分に正しく遂行する。

「シユラ様・・・あと二時間くらいでここを出ます」

それは紫揺が馬車に揺られても胃が暴れまくり、顔色を悪くすることはないだろうという判断であった。 それは本来、最低でも三時間と言いたかったが。

少しでも早くこの土地を後にしたかったからというのもあったが、紫揺が食後一時休んだだけで、馬車に乗って顔色を悪くしないだろうことは考えられなかったから二時間にした。

馬車に乗らず少しでもこの場所に長く居れば、紫揺の胃が落ち着いたであろうが、二時間を、二時間が我慢ならない五色が居る。 五色は・・・でなない、トウオウとアマフウ以外は、今すぐにでも馬を駆って屋敷に帰りたいと思っている。 だから三時間とは言えなかった。

「二時間?」

余りの驚きに “ですか?” は省かれてしまった。

「ええ」

応えるムロイの態度に、それ以上は引き延ばせないという事を感じた。
それはアマフウとトウオウを除く三色に対してなのだが、紫揺はそこまでは分かっていない。

「シユラ様は部屋に戻ってゆっくりしていてください。 ああ、ここから追い出しているのではないで―――」

「分かっています」

言いかけたムロイの言葉をはじいた。 ムロイの言いたいことが分かっていたからだ。

「じゃ、発つまで部屋で休んでいます」 椅子から腰を上げた。

「そう願います」

セイハが去り行く紫揺を嘲笑の目で送った。

「セイハ」

紫揺を見ていたセイハがアマフウに視線を変える。

「残念だったみたいね」

先程セイハがシユラに対して送っていた嘲笑の目と同じものをセイハに送る。

「なに? どういうこと?」

「何もしなかったらしいじゃない?」

言いながら、視線をもう居ない紫揺が去った後に送った。

「何のことだか分からない」

「そっ、じゃあいいんだけどね」 僅かに口の端を上げて冷笑を浮かべた。

「何が言いたいの?」

「べつに」

「アマフウ止めろ」 間にトウオウが入った。


いま紫揺の目の前にはアマフウが居る。 しっかり馬車に揺られながら無言の時を過ごしていたが、とうとうじっとしていられなくなった。 上目遣いにアマフウを見る。 見られたアマフウは紫揺のことなど知らぬ存ぜぬ顔で、組んだ足に頬杖をつき進行方向を向いている。 その進行方向には景色など見えない。 ただ、この馬車と呼ばれる荷台をかたどっている組まれた木しか見えない。

アマフウに何か言われないかとドキドキしながら、紫揺が身体を捻りソロリと背後の窓を開けた。
冷気が風となって勢いよく窓から入ってくる。 すかさずアマフウを見たが、眉間に皺もよっていないどころか、表情筋を僅かにも動かしていない。 ただ、ウエーブのかかった長い髪が風に揺れているだけだった。

来た時と同じく、ここまでは許されるようだ。

来た時に見ていたのは、まだ領土の中心と言われない所しか見ていなかった。
窓の外に目をやる。 明るい陽光を受けながら、過ぎ去る平屋の家並みと所々に見える畑。
此処に着いた時にはもう暗闇だったから、馬車の中から見ることは出来なかった風景が目の前に広がっている。

領主の家にいた時に見た風景とさして変わらなかったが、大きな音がするかと思えば数件の家から煙が見える。 それは黒煙であったり白煙であったりする。 領主の家にいる時には、料理だろうと思われる白煙は見たが、黒煙もボリューム最大の音も聞くことはなかった。

(何の音だろ? それに黒煙ってあんまり良くないんじゃないのかな・・・)

屋敷を出る前にセットしておいたこと、リツソのことも気になりながらも、油が燃えてるから黒煙になる。 そんな単純な知識しかないが、ふと思ってしまった。
窓から目を外し、アマフウをそっと見る。 ピクリとも動かずずっと同じ体勢をとっている。 機嫌は悪そうではない。

「あの・・・」

頬杖をついたまま眼球さえ動かさない。

「黒い煙が出てるんですけど、あれって火事とかじゃないんですか・・・?」

紫揺の目にアマフウがゆっくりと瞼を閉じたのが見えた。 そのアマフウの顔が頬杖をついたまま紫揺に向けられる。 揺れていた髪の毛が先程までと違った動きを見せる。 そして長いまつ毛を揺らしながら瞼が開けられた。

「墨を作ってる」

「へっ?」

唐突に開けられた口から発せられるアマフウの言葉の意味が分からない。

アマフウが大きく息を吐いた。 それもとってもダルそうに。

「アナタ、物を作るところを見たことが無いの?」

ついていた頬杖を解除して背筋を伸ばしながら言う。

「モノを作る? え? あ・・・ガラス細工の工房を社会見学で行きましたけど・・・あとは・・・ビール工場?」

疑問に疑問を返してどうする。 が、アマフウが何を言いたいのかが分からない。

「社会見学・・・ね」

「・・・はい」 

「それって、学校に行ってるならではよね」

「え?」 さっき 『はい』 と返事はしたものの、もっと分からなくなった。

「・・・黒煙は火事ではないから何も考えることはないわ。 墨を作ってるだけだから。 アナタが何処を見ていたのかは知らないけど、白煙は料理でもしているのかしら? それとも鋳造かしらね、アナタがさっき言ったガラスを作っているかもしれないわね」

余りのアマフウの口数の多さに紫揺が目を丸くした。 途端、アマフウがさっきまでの体勢に戻り、荷台をかたどっている組まれた木しか見えない先を見た。

「あ・・・はい」

とにかく紫揺が心配した火事は無いようである。
と共に、窓を開けていても何も言われないだろうと心に太鼓判を押し、ほんの少し上がっていた肩を落とした。

窓の外を見る。 仕掛けてきた、じゃない、セットしてきたことが気になる。 茶の狼か、白銀、黄金の毛を持つ狼の誰かを探してセットのことを伝えたかったのだが、その姿が全く見えない。

(お願い、現れて・・・) ギュッと口を結んで辺りを見回した時に思い出した。

狼たちは人に見られないようにしているのだったと。 そしてなにより狼って夜行性だった。 頭をガクンと落とすと窓に激突した。 打ったおでこを抑えながら、アマフウを見ると眉間に皺が寄っていた。
ごめんなさい、と謝ろうかと思ったが、ここは黙っている方が得策だろう。 おでこを数回さするとまた窓の外に目を移した。

(夜・・・どこかに泊まったときに出歩くしかないか)

この領土の人間は狼たちのことをヒオオカミと呼び恐れているが、今の紫揺は恐れるどころか話をする仲だ。 とは言え、茶の狼とは話したことはない。 少々不安が残る。

紫揺の思いなど知らず馬車は走る。 そして紫揺の胃は逆らうことなく、従順に馬車の揺れにそっている。 あくまでも今の段階で。

暫く外を眺めていたが、フードを被っているにも拘らず、寒風に耳を引きちぎられそうな感覚を覚え、そっと窓を閉めた。 そして身体を元に戻し、前に座るアマフウを見ると目が合った。 アマフウが紫揺を見ていた。 身体が硬直する。

「さ・・・さ、寒かったですよね。 ・・・すみません」

「・・・アナタ」

「はっ、はい!」

蛇に睨まれた蛙の気持ちというのは今の状況のことを言うのだろうか。 だったら、自分は誰よりも蛙の気持ちが分かる。 などと思いながら、敬語なんて使うものかと思ったことを思い出し、苦虫を噛んだように顔を歪め、自分の考えに筋を通せない己に大きく歎息を吐いた。 勿論心の中でだけ吐いたのだが。

「・・・その顔はなに?」

紫揺の歪めた顔のことを言っている。

「あ・・・」

一言漏らして両手で頬をさすって続ける。

「何でもないです。 あの、何でしょうか・・・」

紫揺の 『何でもない』 という言葉に相反するように歪めていた顔、それに頬をさすった仕草。 アマフウには理解しきれない小動物としか思えない紫揺に、目を落とし細く長い息を吐く事しかできなかった。

そのアマフウを不思議そうに見る紫揺の視線を感じる。 ハッと一息吐いて頭を上げると紫揺を正面から見て問う。

「アナタ、少しは自覚が出来たの?」 

口調はあくまで “問う” だが、紫揺にしてみれば詰問されたに近い。 またこの話かと思う反面、ハッキリスッキリ思ったことを正直に言うと、この話しはスッカリ忘れていた。
一応、目の前の事だけに対峙していこうとは思っていたが、リツソが現れなくなってからはリツソのことしか頭になかった。

「・・・そう言えば、そんなこと言われてましたね」

しっかりと失念していたことを認め、誤魔化すことなくクソ正直に応えた。

今度は細くもなく長くもなく、声も交じって大きく歎息を吐いた。 

「中心を見に歩かなかったそうね」

全く違う話を唐突に訊かれた。 それともそれが自覚とやらに結び付くのだろうか。

「はい」

「何故」

「特に理由は・・・」

「特に理由はじゃなくて、特に興味がなかった、じゃないの」

「・・・」

この地の人間に、この地に興味がないとは言いにくい。

「ムロイは最終的にあなたを此処に住まわせようと思ってるわ」

「・・・はい。 そんな風なことを聞かされてました」

本当はお婆様が来るはずだったと。

「そう、聞いていたの。 でも、アナタに目覚め・・・自覚をもってもらわなくては始まらない事よね」

「・・・」

それっきりプイと横を向き、最初にとっていた体勢になおった。

何とも言えない空気の中で思考を巡らす。
自覚? いや、目覚めとも言っていた。 自覚にしろ目覚めにしろ、何を言われても、何度考えても分からないものは分からない。

それより、策は練っているとはいえ、屋敷に帰ってからの事の方を考えなくてはならない。 その策が余りにも大雑把すぎるから。
ああでもない、こうでもないと考える。 が、どう考えてもまとまりがつかない。 というか背景が見えてこない。 結局、

(無理・・・その時になってみないと分からない) と、締め括った。

自分の思考回路に抗うことなく正直に従うと、下がっていた頭を上げ、ふと明り取りの窓を見た。 外はもう既に暗くなっているようで、窓からは光が射していない。 そんなに長く考え込んでいたのかと、身体を捻じって自分側の窓をそっと開ける。 間違いなくこちら側も先が見えず真っ暗であった。

馬が歩を止めたのはそれから少し経っての事だった。

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虚空の辰刻(とき)  第61回

2019年07月19日 22時31分46秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第60回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第61回



既に木の枝に座っていた人型の横に、ドロリと影が現れ人型をとった。

「領主は寝たようだ」 領主の様子を見ていたゼンが言う。

一時前、ゼンだけが帰って来た。 ゼンとダンはカミと合流できたが、まだ火が残っていることを気にしているカミにダンが手を貸すことになり、ゼンだけが帰って来た。

「・・・そうか」

顔を上げることもなければ、目を合わせることもなく、一点だけを見つめてそう返した。

閉められた雨戸の向こうにある紫揺の部屋を見ているのだと分かる。 ケミを見下ろす目を眇 (すが)めた。

「・・・お前、何を考えているのか?」 ゼンがケミに問う。

「考え?」

「以前のお前ではない」

「そうか」

「ああ」

「それは、お前の気のせいだろう」

やっと顔を動かしたと思ったら、僅かに下を向いて目先を落としただけだった。

「領主は寝た。 ムラサキ様のことはもうよかろう」

「ああ」

ケミが眉を顰め考える。 ホテルにいる時、ケミが紫揺に付き過ぎたのかもしれない。 そうカミに言われた。 確かにそれが一因かもしれない。 だが一因という言葉に背負わせるような感情ではない。 それが何かが分からない。 気が揺らぐ。 そんなことが頭によぎったが、そうではないと一度頭を振る。

「お前も疲れただろう。 この先は吾が見る。 帰って休め」

「否(いな)」 顔を上げゼンを見るとハッキリと言った。

「何故か?」

「何をたわけたことを言っておる? 領主はもう寝たのだ、ムラサキ様は何ともないのであろう。 今お前がそう言ったであろうが。 吾だけでなくお前も帰って休むがいいのではないのか?」

真っ直ぐにゼンを見る。

僅かに片眉を顰(しか)めたゼン。 
少なくともケミは呆けているわけではないようだ。 己の言をしかと耳にしているのだから。 では、ケミは何を考えているのか?

「・・・ケミ―――」

言いかけたが、目線を再度、雨戸に向けたケミがその言を絶った。

「明朝はお前に任せる。 領主は疲れておるだろうし、ムラサキ様はゆるりと寝ておられる故、払暁(ふつぎょう)からこちらに来る必要もないであろう」

言うとフッと息を吐き続けて言った。

「吾は帰る。 お前も早々にこの場を去れ」

言うと座ったままの姿でドロリと姿を消した。

ケミの姿を見送るゼンが一瞬目を瞠(みは)ると息を吐いた。

「ケミ・・・」

一言ケミの名を口にすると頭をもたげた。

「カミの言いたいことはそういう事か・・・」

具体的に何かが分かったわけではない。 そしてカミもそうだ、何かを分かっているわけではない。 ゼンとダンがカミと合流した時、カミからケミの様子を聞いていた。 ただケミが今までとは違うという事を言い、それは多分、紫揺に関することだと言っていた。

ケミが紫揺の部屋をずっと見ていた目は、ゼンが知るケミの見張りの目ではなかった。
木の枝に立ったまま、こめかみを押さえ沈思黙考する。 が、答えが出ない。

「ケミ、どうしたというのか・・・」


領主たちが帰って来たことは知っていたが、セイハが顔を出すことはなかった。

「クソ。 シユラは・・・何を考えてるのよ!」

布団に入ったセイハが歯噛みをして吐いた。
セイハたちが居ない間に、紫揺が自分の力を試していると思っていた。

「一人でいたのにどうしてなにも試さなかったの!」

あれほど自分の力を見せつけたのに。 紫揺にも同じ力があると言ったのに。 そう言われれば紫揺に限らず、誰もが自分の力を試す筈なのに。

「どうしてよ!」

布団に入ったはずが、全く寝られる状態ではなかった。


トウオウがアマフウの家の前に立つと目の前に下がっている紐を引いた。 引かれた紐は玄関から家の中を伝って二手に分かれると、台所と寝室の二か所で鐘が鳴った。

何度も考えたが、結局、紐を引いた。 迷っていた理由は、アマフウはあまりの疲れからもう寝ているかもしれないと思ったからだ。 

今回のことで一番疲れたのはアマフウであるとトウオウは思っている。 そしてそれは間違いのないことであった。 キノラが何を言おうとも、一番手を打ったのはアマフウであった。
だが、手を打ったこととは別に、セイハのことを気にしているのは明らかに分かっていた。 そのセイハの動向を気にして未だに床につけないでいようと判断し、紐を引いた。

少し待つと玄関ドアが開かれた。

「悪い、寝てたか?」

「寝られるはずないじゃない」

さっきのアマフウとは違う、いつものアマフウだ。

「で? どうだったの?」

明らかにずっと起きていてトウオウからの報告を待っていたのが分かる。

「セイハがシユラ様に何かを言ったか、したかっていう気配はなかった。 それにシユラ様に限らず誰にも」

「それはトウオウの目落ちじゃなくて?」

疲れているはずのアマフウが鋭い目をトウオウに向ける。

ムッとした顔でアマフウを見るが、それはいつものアマフウだ。 先刻、気弱なアマフウを見てしまってトウオウの中の振り子が狂ってしまったようだ。 固まりかけた表情筋を緩める。

「じゃないつもりだが?」

アマフウが下を向き、口元に手をやると思案する表情をみせた。 トウオウがアマフウの言葉を待つ。 10を数えたあと。

「何を考えても、セイハに限ってそんなことはない筈だわ」

トウオウが大きく息を吐くと次に頭を掻いた。

「確かに何もなかったとは言わないよ。 でもアマフウが考えているようなことはなかったってこと」

「それは何?」

怪訝な目でトウオウを見る。

「さぁ・・・。 でもそうだな、どうして帰って来たセイハをシユラ様がすぐに迎えに出なかったのかってことかな?」

アマフウが鋭い視線をトウオウから外したが、その視線の鋭さは変わっていない。

「セイハを早々に迎えに出なかったのは、出なかったじゃなくて、シユラ様が何かをしていて出られなかった。 そう思ったのかもしれない。 オレたちがここに居ない間にもシユラ様は何もしなかった」

「セイハがアノコにそう言ったの?」

トウオウの話した最後の方ではなく、最初に言ったセイハを迎えに出られなかったとセイハが思ったのかもしれないという所を訊いた。 視線をトウオウに戻す。

「シユラ様はそんな風には言ってないよ。 でも多分、そうだろうと思う。 で、セイハはシユラ様の態度を見て、シユラ様が何もしてなかったと思ったんだろう。 何も問い詰めなかったみたいだ」

「なにもしなかった?」

「ああ、俺たちが居ない間に、シユラ様は何もしなかったのか? ってセイハが訊いたみたいだ。 で、シユラ様は何を言われているのか分からなかったみたいだ」

「それでセイハが納得したと?」

「ああ。 間違いない」

「・・・そう」 

トウオウの言葉を信じたのだろう。 目線を暗闇に流した。

「これで寝られるか?」

両方の眉を上げると、頭を僅かに傾げる。

すぐに返事はしなかったが、暗闇を見ていた目を下におろすと、僅かながらの溜飲を下げた。

「ええ・・・」

「考え過ぎだって」

「そうね。 ・・・有難う」

トウオウが眉尻を下げる。

「んじゃ、俺も疲れたから帰る。 アマフウも、もう寝ろよ」

そう言い残すと、この場を後にした。

トウオウの姿を見送ることなく、玄関の戸を閉めたアマフウ。 台所に行き、冷たい水を一気に飲んだ。


「どうしよう・・・」

トウオウを見送った後、掃き出しの窓までやって来て、窓の外を見るが、そこにリツソの姿はやはり無い。

「何も言わないで帰るわけにはいかない。 何か方法を考えなくちゃ」 

短い日数だったと言っても色んなことがあった。 それに 『待っていればちゃんと迎えに来る』 と言われたのに、放っておくわけにはいかない。 もし、明日帰るにしても明後日だったとしても、黙って帰るわけにはいかない。 万が一、会えなかった時の事を考えて何かを講じなくては。


翌日、遅い朝食を終えた紫揺が食器を返しに行ったとき、領主自身も先程起きたばかりだと、昨日、紫揺を呼びにきた女が自ら話した。 女は昨日よりいくらか緊張をした様子は取れていたようだ。

「それじゃあ・・・ムロイさんがご飯も終わって、落ち着かれたぐらいに呼びに来てもらってもいいですか?」

「はい」

ほんの僅かにほほ笑んだように見えた。 だから自分がもう一つ頼みごとをしても尊大な態度には見られないだろうと、いや、居丈高とみられてもいい。 今は自分がどう見られるかなんてことを考えている時ではない。

「あの、お願いがあるんですけど・・・」

紫揺の頼みごとに快く受け取る表情をみせると 「はい、ご用意できます。 すぐお部屋にお持ちします」 と言った女の顔がパァっと明るくなった気がしたのは紫揺の気のせいだろうか。

いくらも経たないうちに紫揺の要望したものが部屋に用意された。
紫揺は知る由も無いが、女は紫揺に頼みごとをされたことを快く思っていた。 連日たった一人でいる紫揺の役に立ちたいと思い始めていたからである。


「お疲れさまでした」

数刻前に台所から居間を後にした紫揺が、また居間に入って来て声を掛ける。

ほんの一瞬目を丸くしたムロイ。 まさかそんな言葉が第一声だとは思ってもいなかった。 この場にセノギが居ればそう言うだろうが。

「どうも」

此処に来た時と同じ服装のムロイが驚きを隠すように、さながらソファーに掛けるよう、紫揺に目で促した。

チョコリンと軽く座る。 長々と話す気はない。 取り敢えず長旅から帰ってきたことへの労いの挨拶と、これからどうするのかを訊きたいだけなのだから。

此処に来る時以外はずっとスーツ姿のムロイしか見なかったから、いま目の前に座るムロイの姿はまだ見慣れない。 来た時と同じ服を着ている。 長旅の間もこの服だったのだろうから、着替えればいいのにと思った時、そういえばと考える。
セイハも此処に来た時と同じ服を着ていた。 長旅から帰ってきて着替えもせずに自分を呼び出したからなのだろうが、ジャ-ジを着慣れている者からしてみれば、とてもじゃないがリラックス出来そうな服ではない。

それとも特別に五色と呼ばれ、それにムロイは領主だ。 他の人達のように布を巻いたような服は着ないのだろうかと頭をかすめた。

「長い間、退屈をさせてしまいましたね」

前屈みになって正面に座った紫揺を見る。

「いえ、そんなことより、大変だったそうですね」

そんなことはないです、などと嘘や社交辞令的なことを言っても仕方のないこと。 紫揺が領土の案内を断ったことを既に聞いているはずだ。 それを踏まえてムロイが “退屈をさせた” と言っているのだろうから。 

それにリツソのことが無ければ、誰が考えても明白に退屈この上ない生活を送っていたのだから。

「誰かに訊いたんですか?」

相変わらず慇懃無礼な態度をとっている。

「大変だった、とだけですが」

誰から訊いたとは言わない。

ムロイが片眉を上げ、身体を起こすと背もたれに背中を預けた。

「セイハが私たちより早く帰って来たらしいですが?」

紫揺の口からセイハから聞いたと言わせたいのだろうか、と考えるが、それを訊いてどうするのか皆目見当がつかない。 小首を傾げた仕草を見せる紫揺にムロイが続けた。

「まぁ、それはいいです。 ええ、思った以上でした。 大変という言葉に値するでしょう」

話し終ると紫揺から視線を外し、足を組んで小さく溜息を吐いた。

まだ疲れが残っているのだろう。 迂遠な態度で紫揺に辞するよう言っている態度のように思えるが、訊ききたいことがまだ訊けていない。

「まだ火が消せていない所があるんですか?」

「ごく僅かな小さな火です。 自然に消えるでしょう」

肘立てに肘を立てるとその指先で口元をなぞる。

目を合わせないムロイがどんな態度を示そうと、知ったことではない。 確かに疲れてはいるだろうが、それも知ったことではない。 訊きたいことは、訊かなければいけないことは、ムロイがどんな状態であろうと絶対に訊く。

「それじゃあ、明日からどうするんですか?」

今日からどうするとは訊かない。 早く屋敷に帰りたいと焦っているように思われたくないから。

紫揺が早く屋敷に帰りたいと思っているのであれば、もう用が済んだのだ、紫揺の意に沿おうと考えるかもしれない。 それにキノラが早く屋敷に帰って仕事をしたがっているだろう、早々に屋敷に引き上げようという話になるかもしれない。

それにもう一つ。 セイハが此処を気に入ってなさそうなことを言っていた。 それも後押しするかもしれない。 結果、早々に此処を引き上げるかもしれない。

そうなるとリツソとの別れの挨拶が出来なくなるかもしれない。 それは困る。 

いま自分は色んな迷いがある。 色んな問いがある。 でもそれはさておきと以前に考えた。 余りにも分からないことが多すぎるのだから、ただ目の前のことに相対すると決めたのだから。

そして今、目の前のことはリツソの事だけなのだから、リツソの事に誠心誠意向き合おうと思う。
だからして明日からどうするのかと訊いた。 最短でも明日帰るのなら、何なりと出来るであろうし、今日リツソが来るかもしれないのだから。

「明日ですか? 明日はここに居ません」

「え!?」

予定にもなかったことに虚を衝かれた。

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虚空の辰刻(とき)  第60回

2019年07月15日 21時43分02秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第50回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第60回



夜になり、馬の蹄の音とともに領主と五色と呼ばれる四人が帰って来た。 五色の内の一人、セイハは既に帰ってきている。

下馬した領主と他の四人の馬の馬番がそれぞれの馬を曳く。

疲れ切った顔の領主と、怒りを込めた目をしているキノラ、そしてキノラと違って他の3人は事を終えただけ、という状態であった。

その3人の内のセッカは疲れた様子を見せることもなく、無言でさながらソファーに腰を落ろし、相変わらず機嫌のよくないアマフウの横にはトウオウがついている。

セッカに続いてキノラ、アマフウ、トウオウがさながらソファーに腰を下ろした。 途端キノラが一言吠えた。 茶を出そうとしかけた女の手が驚きに止まる。

「ムロイ! セイハはどうしたのよ! どこに居るのよ! まさか先にここに帰ってきてることなんてない筈よね!」 

冷静沈着であり、物事を計算で見てきたキノラが吠えた。 キノラにとって有り得ない事であった。

女が震える手で全員の前に茶を置く。

指名されたムロイがダルそうな表情をみせながら一人用のさながらソファーに腰かけると 「トーンを落としてくれ」 と、一言いった。

だがそれを許さないキノラ。

「トーンを落とせ? ・・・ハッ! ムロイが何をしたっていうの!? こっちはもうクタクタなのよ! セイハがすべきところが何もされていなかったのよ! それを全部私がやったんじゃない! どれだけ疲れたと思ってるのよ!」

「へぇー、それだけ大きな声を出せれば充分じゃないの?」

アマフウの隣に座っているトウオウが言う。

「トウオウ、黙っていろ」

「あら、トウオウに黙っていろ? じゃ、ムロイがキノラに何某かを言うのかしら?」

冷ややかな目で見ていたセッカがムロイに一言いうと視線を流し、目の前にある湯呑を手に取った。

「何某とは何だ」

俯いたままこめかみを押さえ、唸る様に問い返す。

「キノラが納得できる話よ。 それに私もそれを聞きたいわ」

説明を求めているのはキノラだけではない、ということだ。
こめかみから手を離すとうつむいていた頭を上げ、まずはセッカを見てから次にキノラを見た。

「お前たちと一緒に行動してたんだ。 セイハのことが分かるわけがないだろう」

いつの間にか居なくなったセイハに誰も気付いていなかった。

「セイハに何かあったとは思えないね。 先に家に帰ってるんじゃない?」

黙っていろと言われたトウオウが言う。

「トウオウの言う通りじゃない? きっと先に家に帰ってるのよ。 セイハらしいじゃない」

トウオウの隣に座るアマフウも言った。

「セイハらしい? らしいで終らせる問題じゃないわ!」
言うと、アマフウからムロイに視線を移し続けた。

「セイハが途中で居なくなったのはムロイの管理不足ではないの? そこを自覚してくれているのかしら?!」

先程迄とは違って少々、冷静さが伺える。 それに管理不足という言葉が数字ばかり追っている姿を思わせる。

「ああ、悪い。 それは分かっている」

ほとんど投げ出すような気持でムロイが言ったが、言葉は淡々と言っている。

「セイハのことだもの・・・」

誰に言う事もなく、アマフウが小声で言うと、その肩に置いていたトウオウの手に若干力が入った。

「アマフウ、疲れただろ? 飯はいいだろ、帰って寝るか?」

疲れているのはキノラだけではない。 さっきキノラが言ったセイハのするべきところを全てキノラがやったというのはあながち間違えではない。 だが、キノラのすべきところを全てとは言わないが、殆どアマフウがやっていた。 アマフウの力は強いが、それだけ力を消耗する。

「うん・・・そうね」 

余りにも正直にアマフウが言を為す。 そのアマフウに誰知れず心の底でトウオウが驚いた。
今まで見ていたいつも攻撃的なアマフウの中にこんな正直な感情があったのかと、窺い知ることなどなかった。 

あまりにもの疲れから気弱になってしまったのかと思うアマフウの言葉に、茶化すような目線を送る。

「クッ、気になるのか?」

アマフウの返答に苦笑を押さえながらトウオウが訊いた。

「・・・セイハが余計なことをしていなければいいんだけど」

「分かったよ」

アマフウの耳元で囁くように言うと、未だに互いの主張をしあっている三人の内の誰を見ることなしに言った。

「オレとアマフウは家に帰る」

キノラに口を開けかけたムロイがトウオウを一瞥する。

「ああ、今夜はゆっくり休んでくれ」

いつも通り労いの言葉もなしか、と思いながらもその場を出て玄関までアマフウに寄り添う。

「じゃ、いいか?」

「ええ」

「足元、時々ふらついてんだから、気を付けて帰れよ」

この五日間、誰もが出せる力を出した。 だがアマフウは誰にもその疲れを見せないよう努めていた。 それが今にきて尾を引いてきた。 それを分かっているのはトウオウだけだ。 本来ならそれを一番に分かっていなければならないのは、ムロイでなければいけないのに。 

「トウオウも疲れてるのにゴメン」

これからトウオウが向く先は分かっている。 自分の言葉に応えてくれる為という事も。
アマフウの言葉を聞いたトウオウにしてみれば、こんなアマフウは初めてだった。 アマフウに何か言おうとしたが言えなかった程に。

玄関を出て行ったアマフウを見送り、ドアを閉めるとトウオウが踵を返し歩き出した。


「シユラ様、起きてるか?」

アマフウを一人で帰らせたトウオウの向かった先は離れであった。

昼間に疲れることが無い故、勿論十分に起きている時間であった。
掃き出しの窓から外を見ていた紫揺が、聞き覚えのある声に思わず振り向き引き戸を見た。

「トウオウさん?」

口の中で言うと、すぐに小走りに引き戸まで行くとその戸を開けた。

「ごめんなさい、帰ってきてるって知らなくて出迎えに出なかった」

どうしてそんなことを言うのだろうか、とトウオウが首を傾げかけたが、僅かに片方の眉が上がった。

「入っていいか?」

「え?」

驚く紫揺を意ともせず、そのまま部屋に入り軽く部屋の中を見まわすと、数日前に座ったと同じ椅子に座った。

「あ、あの・・・」

トウオウの後に続いて歩く紫揺。 借りているとはいえ、いったい誰の部屋か分かったものではない。

「シユラ様も座れば?」

数日前に紫揺が座っていた椅子を指さす。

紫揺にしてみれば色んなことが気になり、おちおち座ってなどいられる気分ではない。 いつリツソが現れるかもしれない。 それに今目の前にトウオウは居るが、他の人達を出迎えていない。

「あ、あの、お疲れさまでした。 他の人達にも挨拶に行かないと―――」

「いいよ、そんなの。 それにアマフウは家に帰ったし、他の三人は睨みあってるから」

テーブルに肘をつき指を組んだ。

「睨み合ってる? ムロイさんたちが?」

「ああ」

「珍しいですね。 セッカさんやキノラさんがムロイさんと睨み合うなんて」

少し戸惑って椅子を引くと浅く腰かけた。

迎えに出なくていいと言われ、椅子に座るように促された。 それを否とする抗弁など必要ない。 掃き出しの窓をチラリと見た。

紫揺の返事を聞いてその中にセイハがいないことが分かる。 という事は、既にセイハがここに帰ってきていて、尚且つ、誰かが帰ってくれば紫揺が迎えに出なければならないようなことを言ったのであろう、と憶測できる。

「セイハ、シユラ様に何か言った? ちゃんと迎えに出ろとか?」

「別に何も言われてません」 

迎えに出なければいけないのかと思ったのは紫揺が勝手に思ったことだ。 とくにセイハに何を言われたわけじゃない。 ただ、セイハが帰ったときに呼ばれ、それに応えるのが遅かったから 『遅いー』 と言われた。 だから迎えに出なければいけないと思っただけの事である。

「あの、じゃ、私どうすればいいんですか?」

「なにも」

組んだ手に顎を乗せると頭を傾げて両眉を上げる。

「なにも?」

「ああ、何もしなくていいよ」

「あの、じゃ、トウオウさんは何しにここへ?」

「一応、シユラ様に帰って来た挨拶をしに来たんだけど、気にくわない?」

組んだ手から顎を外すと肘をついていた腕を開放する。

「気にくわないなんてないですけど・・・」

「けど?」

またチラリと掃き出しの窓の外を見て下を向いた。 掃き出しの窓を見たのは勿論、リツソのことが気になってのことだ。

「あの・・・」

「なに?」

「皆さんが帰って来たという事は何もかも落ち着いたんですか? その、全部の火を消せたんですか? 水も」

もしそうなら、自分なりに段取りを組まなくてはと思った。

「全部って言われたらどうかな?」
小首を傾げながら続ける。

「領土の端から端まで見るなんてことは、こんな日数じゃあ出来ないからな。 少なくとも大きな火は消してきたつもりだけどね。 まぁ、落ち着いたっていうよりも、ムロイの判断でそれでいいってことになったから帰ってきたってとこだな」

「じゃ、これからどうするんですか?」

「これから?」

「明日からは何をするんですか?」

紫揺の様子におかしいと感じた。 こんなに自分から話すようなことは今までなかった。 早く屋敷に帰りたいのか、他に何かがあるのか、それともセイハが絡んでいるのかと勘繰る。

「シユラ様、どうしたの?」

「え?」

「オレ達の居ない間に何かあった?」

紫揺の心臓が撥ねそうになる。 それは勿論リツソの事であるし、狼たちの声が聞こえたという事でもある。 ついでに思うとマツリの事、キョウゲンが身体を大きくしてマツリを乗せていたこと。 でも、マツリのことはどうでもいいし、狼たちのことも今はどうでもいい。 ただ、リツソの事だけが気になる。

「何かって・・・なにもないです。 ただ、明日にでも帰るのかなと思って」

「まぁ、帰りたいだろうな、こんな所にずっといてたらな。 で? シユラ様は毎日何をしてたわけ?」

「セイハさんと同じことを訊くんですね」

「セイハが同じことを訊いたのか?」

「四日間も一人で毎日何をしてたの? って」

四日間という言葉に、自分たちが帰って来た前日に帰って来ていたのだと分かった。

「ふーん・・・それから?」

「えっと・・・何も試さなかったの? って。 私の力を試さなかったのかって」

「で? シユラ様は何て言ったの?」

「どういうことですかって言ったら、何でもないって。 それで、大変で忙しかった、って」

「他にセイハとどんな話をした?」

「特になにも」

「ふーん・・・。 じゃ、セイハが誰かと話してたとかって見た?」

セイハをずっと見ていたわけではないが、セイハの話からそれは有り得ないと思った。 あったとしても、この領土の人間が罵倒されていただけだろう。 だがそれを見たわけでも聞いたわけでもない。

「私は気付かなかったけど・・・セイハさんは疲れてたみたいだったから、誰とも話してないんじゃないかな、って思います」

「そっか」

「あの、それより明日帰るんですか?」

「さぁ、オレには分からない。 明日にでもムロイに訊いてみれば?」

トウオウは軽く言うが、明日急に帰ると言われたら困る。 では、トウオウを味方につけては? リツソのことをトウオウに話して、ちゃんとリツソと別れが出来るように計ってもらえばいいのではないかと一瞬よぎったが、すぐにそれを打ち消した。 自分の考えが及ぶような環境ではないような気がしたからだ。 

単にセイハの言うところの紫揺の力というものが、当たり前に自分の生活の中にはない。 それに、狼たちの事やキョウゲンのことも、今までの生活にはない。 そんな中で生きてきているであろうトウオウに何かを言う気にはなれなかった。

「じゃ、オレも疲れたから家に帰る」

言うと椅子から立ち上がり、歩き出した。

「あ、はい。 お疲れさまでした」 トウオウの背中に言う。

普通ならお休みなさいだろうが、ついうっかり仕事言葉の 『お疲れさま』 が出てしまった。

部屋を出たトウオウが歩きながら考える。 紫揺からはセイハが特に何か言った様子は見受けられなかった。 だが、紫揺の気付いていない所でセイハが何かを感じ取ったのではないかと沈思する。

紫揺に何も変化がないことを見取り、それであっさりと紫揺から引いたのかもしれない。 あのセイハのことだ、もし紫揺に何か異変を感じていたのなら、紫揺の部屋である離れに居座っていたはずだ。

目視で離れにセイハが居ないことは分かっている。 己の目で確かめた。 だが、もし陰に隠れていたのなら、紫揺の態度から分かるはずだ。 紫揺にそんな様子は伺えなかった。 何故か窓の外を気にしていたようだったが、この寒空にセイハが隠れているはずはない。 それに紫揺の言いようから、領土の誰とも話していないだろうと思える。

(アマフウの取り越し苦労だな) 心の中で一言漏らした。

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虚空の辰刻(とき)  第59回

2019年07月12日 21時21分02秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第50回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第59回


前に投げ出している自分の足を見ながら眉尻を下げた。 でも何もしていなかったわけじゃない。 その間リツソと話をしていた。 それは一日の内の僅かな時間であったが、その僅かな時間に色んな話をした。 色んなことを見て聞いた。 それがこれから自分が生きていくに必要なことかどうかは分からないが、考えさせられたところも十分にあった。

「でも、必要ないし・・・」

それは主にキョウゲンのことを言っている。

肩に乗るフクロウが、大きくなって人間を乗せるなど、紫揺の生きていく世界に必要な知識ではない。
前に投げ出していた両足を大きく開くとそのまま前に身体を倒していく。

「でも、リツソ君のことは気になる」

あの横柄な態度の兄上、そのマツリからリツソを開放してやりたいと思う。

「マツリ・・・」

気にくわない。 いっその事、マツリから教育をしてやろうかとさえ思う。
勿論、自分の考えがすべて正しいとは思っていない。 でも、あのマツリの言葉を思い出すと、兄という存在にドップリ浸かって分厚い座布団に座って、弟を軽視しているのではないかと思える。

「でもこれって、兄姉がいたら当たり前の事なのかな・・・」

倒していた身体を少し元に戻すと頬杖をつく。

そう言えば友達も言ってたな、と頭を巡らせる。
夜中のトイレに付き合わされるとか、使い走りをさせられるとか、何が気にくわないのか急に頭を叩かれるとか。

「けっこう文句を言ってたっけ・・・」

記憶の端に埋もれていた友達の言葉を掘り上げてみるが、その図が浮かばない。 到底一人っ子の紫揺には分からない話であった。


そしてこの日もリツソは来なかった。


「カミが居らん・・・」

人型をとった三つの内の影の一つが辺りを見回すが、どこをどう見渡してもカミの姿が見られない。 
ケミがゼンとダンを引き連れて帰って来た。

「アヤツめ! ムラサキ様を一人にしおって!」

憤慨するケミの肩をダンがグイと引いた。

「待て、ケミ」

今にもカミに噛みつきそうなケミに言う。

「カミはカミの考えがあって此処を離れたのではないのか?」

「考え?」

ジロリとダンを睨む。

「確かに・・・。 カミに考えがないとは言わん。 だが、ムラサキ様を一人置いて場を離れるという事は有り得ん」

「だが、お前の話からすると今領主はここに居ないという話だろう? 領主が居なければ、ムラサキ様を守る必要がないであろう」

ケミがダンをひと睨みする。

「確かにショウワ様からはそう言われておる」

「ではそれで―――」 言いかけたダンを畳み込むようにケミが言う。

「それだけではなかろう!」

ケミの気迫に押されダンが息を飲んだ。

「ケミ、何が言いたいのだ」 ゼンが言う。

ケミがダンとゼン二人を睨みつけるように目を流した。

「・・・よい。 悪かった。 今は二人でカミを探してくれ。 吾はムラサキ様の元にいる」

ゼンとダンが訝しく思いながらも、目を見合わせ互いに首肯するとその場から消えた。

「カミめ・・・」 ケミが一言吐いた。


翌日、朝から女たちがキッチンで忙しく働いている。 紫揺の居る離れの部屋までその音や声は聞こえないが、いつもリツソがやって来る窓を開けると、何某かの音や声が聞こえる。 楽しそうな話し声とその中の一つの音に、きっと裏手に回って薪でも割っているのだろうという音があった。

以前、皿を返しにキッチンを覗いた時、コンロらしきものは見当たらなく、その代わりとでもいうように、数個の置き竈(かまど)らしき物と七輪が見えたのを記憶している。 時折聞こえる会話から、きっと竈用の薪を割っているのだろうと想像がつく。

と、その時 「駄目よ帰ってきなさい!」 と慌てる声が聞こえた。 

声の方に目をやると見知らぬ男の子がこちらに走って来るではないか。 まだ3、4歳くらいだろうか。 寒さ避けに何枚もの布を身体に巻き付けてはいるが、それを撥ね退けるようにして走って来た。 そしてその男の子を追いかけるようにウダが走り出てきた。

男の子を追いながらも、紫揺の存在が気になっていたのであろう。 すぐ窓辺に立つ紫揺に気付いた。

「も! 申し訳ありません!」 

すぐに足を止め深く頭を下げたが、以前と比べるとずっと声が大きい。 外で何かをしていたのだろうか、薪を割っていたのがウダなのだろうか、以前、室内で見た時より厚着をしている。 何枚もの布を身体に巻き付け、頭にも髪の毛を収めるように布がまかれていた。

ウダの言葉に男の子も固まってしまい、その場に呆然と立っている。

「すぐに連れ帰りますので」

男の子の横に走り行き、その手を取る。

「いいですよ。 皆さん忙しそうだから、落ち着かれるまで私が見ていましょうか?」

紫揺の言葉にウダがこれ以上なく驚いた顔を見せた。 

「ウダさんのお孫さんですか?」

言いながら外に出ると男の子に近寄りしゃがみ 「お名前は?」 と聞く。

ウダも男の子もただただ硬直している。

「あ・・・、私じゃ駄目かな・・・」

まさかこんな小さな子にまで怖がられているのか、と、此処での自分の存在を掃き捨てたくなる。

「と、とんでもございません! は、はい。 私の3人目の孫です。 初めての男の孫で・・・ミノモ・・・と言います」

「ミノモ君ですか」

ウダからミノモと呼ばれている男の子に目を移した。

「ミノモ、ご挨拶なさい。 この方はちゃんと聞いてくださるから」

どういう意味かと首を傾げながら紫揺がミノモを見る。

「さぁ、ご挨拶は?」 ウダがミノモに促す。

「お・・・お早うごじゃいましゅ」

まだ歳幼い、たどたどしい発音で言葉を向けた。
ウダがミノモを見守る様に視線を向け、自然と握っている手に力がこもった。

「まぁ、お早う。 ちゃんとご挨拶ができるのね。 えらいね」

知らぬ間に自分がどれ程、恐がられているのかを計ろうとしていたが、幼児が懸命に挨拶する姿を見て、純粋にミノモに話しかけた。

「ミノモ君ってお名前ね。 お婆ちゃんは優しい?」

ミノモがウダを見た。 見られたウダが、お返事をしなさいというように、コクリと首肯する。

「ウダバァ大しゅき。 ウダバァお嫁しゃんにするの」

ウダにしては思いもしなかった言葉であった。

「ミ・・・ミノモ」

嫁である母親に気付かう気持ちは勿論あるが、それより何より、ただただ驚くだけだった。

「そう、ウダさん・・・ウダバァさんは優しいものね」

「うん」

「ミノモ君は幸せだ」

心からの笑顔を見せるとウダに向き直った。

「皆さんお忙しいんじゃないんですか? ミノモ君を見てますよ」

食べさせてもらってばかりでは気が引ける。 子供の相手が得意だとは決して言えないが、少しの間なら自分でも見られるだろうと思った。

「と、とんでもございません。 こうしてご挨拶させて頂いただけでも身に余ることです。 それに今日、領主と五色の皆さまが帰って来られます」

「え?」

紫揺の驚いた顔にウダがコクリと首肯する。

「今は長旅の皆様のお食事の用意をしております」

「あ・・・」

今まで聞こえなかった音や声が聞こえてきたのは、そういう事かと理解できた。

「あの、お忙しいとは思いますけど、ちょっと時間を割いてもらってもいいですか?」 

今、食事と聞いてセイハの台詞を思い出した。 『もっとまともな物が作れないのかしら』 という台詞を。 もし、これから食事のことでまたセイハが同じようなことを言ってしまったら、作ったものは気を悪くするだろう。 聞くチャンスを逃すかもしれない。

「・・・はい」 

何事かと思いながらも、紫揺と初めて話した時のことがある。 それはウダから見て紫揺は謹直と思える人柄であった。 それにセキのことも。 セキが紫揺に心開いて話していることも大きくウダの心を動かしていた。 だからウダから見て多少なりとも心置きなく話せると思える紫揺であるし、セキのことを教えてくれた、自分と対等に話してくれたその紫揺に何でも協力したい、浅くはあるが自分が知り得ることは提供したいと思う気持ちがあった。

「私から見て皆さんは私を恐れているみたいです。 それはどうしてなんですか? 私、皆さんに何かしたんでしょうか?」

「そんな! ムラサキ様が何かをされたなどという事はありません!」

思いもしない質問であった。

「でも、皆さん私のことを恐がっていますよね?」

「そ、それは・・・」

「どうしてだか教えてもらえませんか?」

「・・・ムラサキ様が・・・」

「・・・私が?」

私はムラサキではないと言いたかったが、今そんなことを言っている場合ではない。

「五色の方々と同じではないかと・・・」

ウダの言葉に驚きながらも、頭の中に記憶していたものを総動員して整理した。
そして、そうか、と分かった。

一つにアマフウと馬車で移動していた時の事を思い出した。 
カマイタチが起こすような、刃物のような、斧のような風を起こしたと瞬間、 一本の木の幹がスパンと切れ、先の枯れた枝が音を立てて幹が倒れていったことを。 それだけではない。 ヒオオカミのことが話題になったときのこともそうだ。 アマフウは気に入らなければすぐに切るということを聞いた。 
『たしか、気に入らなかった馬と、山から下りてきた野犬・・・』 と言うトウオウの言葉を途中で切った話を思い出した。

そうか、あの人達と一緒にされているのか。 アマフウだけではないであろう。 セイハの食事に対する言葉もどこか態度に出ているのかもしれない。 それともあれだけハッキリと言いたい性格のセイハだ。 『五色の方々』 と呼ばれる人間から食事のことで何か言われれば、肝が上がるだろう。 だから 『五色の方々』 が恐がられている。 そして行動を共にしている自分も同じように怖がられていたのか。 下を向くとゴクリと唾を飲み込んだ。

紫揺の表情を見て、悟ってもらえたと分かったウダだが 「ですが」 と言葉をつなぎ、五色の力によってこの領土は守られている、と言った。

それはここに来るまでのセイハたちのしていたことを考えると十分に分かる。 だが紫揺の聞きたかったことはどうして恐れるのかだ。 ウダからはそれに対する直接的な返答はなかった。 今紫揺が思ったことは紫揺の想像でしかない。

「ウダさん、五色と呼ばれる人たちによって、この領土が守られているのは分かりました。 でも、どうして守ってくれている人を恐れるんですか?」

「それは・・・。 あの・・・ムラサキ様は五色の方々とは違います。 私はそれを分かっています」

濁されたと思った。 正直に言ってくれるかと思ったが、問いには答えてくれない。 自分の知らない何かがあるのだろう、それは分かった。 でも言葉を言いなおそう。 『それは分かった』 ではなく 『それが分かった』 という言葉に。 そしてこれ以上の追及は無理だという事も。

「お忙しいのにごめんなさい。 有難うございます」

紫揺が言うとウダが深く頭を下げ、ミノモと呼ばれる男の子の手を引いて去って行った。
ウダとミノモの後姿を追い、その姿が消えると一言漏らした。

「今日みんな帰って来るんだ」

誰が帰ってこようがどうでもいいこと。 でも、そんな中にリツソが現れたらどうしようかと考える。

「リツソ君・・・」

一時でも早く現れて欲しい。 そしてこの状況を説明したいのに、あの日から姿を見せてくれない。

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虚空の辰刻(とき)  第58回

2019年07月08日 21時46分20秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第50回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第58回



「え? セイハさんですか?」

「は、はい」

「皆さん帰って来られたんですか?」

「あ、いえ。 セイハ様だけ・・・」

顔を下げたまま恐る恐る上目遣いに紫揺を見た。 紫揺の言葉遣いにある種の違和感を覚えたからだ。
こんな風に紫揺と話すのは初めてのことであった。 それどころか 『いただきます』 と 『ごちそうさまでした』 くらいしか紫揺の声など聞いたことがなかったのだから。

「え? セイハさんだけですか?」

女と紫揺の目が合った。 女が目を泳がす。

(あ! しまった。 睨んだように見えたかな・・・)

高圧的な態度をとっていると思われたくない。

「分かりました。 呼びに来て下さって有難うございます。 居間ですよね。 すぐに行きます」

一旦部屋に戻った紫揺の後姿を見送ると、女が上がっていた肩を落とすと小さく呟いた。

「ウダの言う通りかもしれない・・・」

五色と全く違う話し方。 領主さえ気を使っている紫揺が、自分たちにあんな風な言葉遣いをするなんて。 それに 『お早うございます』 『有難う』 と言った。


「シユラー、遅いー!」

さながらソファーに腰を下ろしていたセイハが前のめりになって、リビングに入って来た紫揺に向かって言う。

「ごめんなさい」

「何してたの?」

「暖炉の火が気になったから」

紫揺の袖口を見ると微かに灰がついていた。 まだ慣れていないのだろう、手早く暖炉の火を扱うことが出来ないということが分かる。

「ね、こっちこっち」

セイハが自分の座っている横をポンポンと叩く。

「お帰りなさい。 疲れたでしょう?」

「疲れたなんてものじゃなーい。 もう、クッタクタのボッロボロ」

隣に座った紫揺に甘えるように抱きつく。

「そ、そうですよね」

抱きつかれて驚いたが、返す言葉がこれしかない。
ここに来るまでにセイハのやっていることは見てきた。 精神の集中だけでも疲れるだろうに、何日も帰ってきていなかったんだから。 連日あんなことをしていては、精神も肉体もボロボロに疲れているだろう。 だが今のセイハの態度には引き気味の紫揺である。

「あ、あの、お腹は空いてないですか?」

「お腹?」

言うならブランチの時間である。

「私、まだ朝食を食べてないんです。 私の分を食べます? 出してもらいましょうか?」

「要らない」

言うと呆れたような顔をして続ける。 

「もっとまともな物が作れないのかしら」

紫揺に回していた手を解いて座りなおした。

「キノラじゃないけど、とっとと屋敷に帰りたい」

これ以上食事の話は出来ないと思った。 食事を作ってくれている人間が聞いているのだから。

「あの、他の人達は?」

セイハがピクリと眉を動かす。

「知らない」

「え? 知らないって・・・別行動だったん―――」 

「シユラは何をしてたの?」

紫揺の言葉を最後まで聞かず、セイハが言葉を重ねてきた。

「え? 何って?」

「だって丸四日一人だったでしょ? 毎日何をしてたの?」 前に置かれていた茶を手に取り一口飲む。

「別にこれと言って何も」

ハクロ達のことは言えない。 『我らが人の前に姿を現すのは魔釣が決まったときだけだ。 むやみやたらと人の前に姿を見せるわけにはいかない』 そう言っていたのだから。 それにリツソのことも。 リツソは本領の人間なのだから、黙っているに越したことはないだろう。

「家の周りを歩いたりもしましたけど、殆ど部屋の中にいただけですから」

「じゃ、部屋の中で練習してたの?」

「練習?」

「うん。 シユラの出来ることの練習」 コトリと茶を置く。

「私の?」 

確かにハンドスプリングからの前宙、単発の側宙、後方系はバク転やバク宙を単発や狭いながらも側転から繋いではいたが、そんなことをしているとは一言もセイハに言っていない。 とすれば、ストレッチのことだろうか? いや、ストレッチを練習とは言わないだろう。 それにストレッチをしていることもセイハは知らないはずだ。 頭を傾げる。

「練習って・・・何もしてませんけど」

「え? 何もって? 四日間も一人だったのよ。 何も試さなかったの?」 捻った身体を紫揺に向ける。

「え?」

「自分の力を試さなかったの?」

「どういうことですか?」

全く意味が分からない。
目を眇めたセイハに紫揺の表情には隠し事がないと分かる。

「ああ、なんでもない」 そう言うと身体を元に戻して 「アチコチに火が出て大変だったわ。 忙しいったらなかった」 そしてチラリと紫揺を見ると 「ムロイたちもそろそろ戻ってくるんじゃない?」 感情なく言った。


セイハが自分の家に帰ると紫揺も部屋に戻った。 手には遅い朝食の盆が乗っている。 盆を机に置くと箸を手に持った。 今日はご飯、魚の煮つけにお浸しと漬物。 いつもとそんなに変わりはないが、味噌汁ではなく濃厚な汁物がついていた。

「お味噌汁じゃないよね・・・」

ドロンとした椀の中に箸を突っ込んだ。
さっきのセイハとのことを思う。 セイハには屋敷に来た時から優しくしてもらっているという気持ちがある。 でも、どこか違うと感じる。

「これって、私の精神が歪んでるのかな・・・」

個々それぞれの性格の違いなのだろうが、それをそうと受け取ることが出来ない自分の性格が歪んでいるのだろうか。
ドロンとした椀の中で何度も箸をまわした。


「どうしよう・・・セイハさんがいるんだ。 それにこれから他の人達も帰ってくる・・・」

朝食を食べ終え、盆を返した紫揺が憂いているのはリツソのことである。 ハクロ達はその姿を現さないであろうが、リツソはそうではないだろう。 本領のリツソがこの北の領土に姿を現してはいけないという事を誰かに聞いたわけではない。 でも何故かリツソの姿がこの領土に現れてはいけないように思える。

「明日、リツソ君が来たら・・・」 と思う頭の隅にリツソの言葉が浮かぶ。

『暫くは逢えないから寂しくなるかもしれないけど、待っていればちゃんと迎えに来る。 オレは勉強してシユラの思う男になる!』
そう言っていた。

『迎え』 という言葉の深さはさておき、ここ数日一日に一回ここに来ていたリツソの台詞。 あのシチュエーションで 『待っていればちゃんと迎えに来る』 という言葉。 普通なら数か月、数年だと思えるが、今までのリツソを思うと 『暫く逢えない』 とは、数日のことかもしれない。 いやいや、時間単位かもしれない。 今朝来たのだから、明日の夜までということかもしれない。

「どうしよう・・・」

もしもリツソが現れたら誰に何と言い訳しようか、それともそんな言い訳は必要ないのであろうか。 考え過ぎなのだろうか。
よく考えると此処での在り方が分からない。
だが、紫揺のその心配をよそに、翌日リツソは姿を現さなかった。



その頃、本領では

「これは、兄上。 今日もどこかへ行かれるのですか?」

回廊でマツリとリツソが出会った。 リツソの後ろには初老の男が控えていた。
リツソの言葉にマツリが眉を顰める。

「リツソ・・・」

期待していたとはいえ、余りにも早い初老の男の存在がおかしい。

「はい、何でしょうか?」

「お前には毎日あの娘の所に行っていいと言ったはずだが?」

マツリに命じられたハクロが足になるべくずっと回廊下に控えている。

「はい、然と聞きました」

「では何故ここに居る?」

「それは、決まっているではありませんか」

「決まっている?」

「勿論です。 我は師に教えを乞うているのですから」

リツソの後ろで初老の男が恭(うやうや)しく頭を下げる。
今までこの初老の男から逃げ回っていたというのに、何が起きたのかと一瞬目を大きく開けたが、それを飲み込んだ。 やる気になったのか。 まさにマツリの思惑通りになったのかと。

「そうか。 では勉学に励め」

「はい、言われずとも」

言葉に乗って挑戦的な目が送られてくるかと思ったが、なぜか穏やかな視線が送られてきた。

「・・・リツソ?」

「はい、まだ何か?」

「あ、いや・・・何でもない」

(どうして俺に挑戦しない? あの時、娘の元に行ったとき、リツソは俺に歯向かった。 どうして同じように俺に歯向かってこない? 時が過ぎているからなのか?)

あの時リツソが歯向かってきたのは、簡単に言ってしまえば嫉妬からであった。 だが、いくら 『恋心』 で恋のことを学んだとはいえ、恋をしたこともないマツリがそれを嫉妬と心の底から知るには少々難がある。

(ああ、いや、何を考えているんだ、リツソが思いのほか早々にあの娘によって物事を考えることが出来る人間になったんじゃないか。 そう、これからを期待出来るじゃないか)

そうだったじゃないか 『恋心』 に書いてあったことをと思い直す。
恋をすると人は変わるのだと。 相手によく見られようと努力をしだす。 相手に合わせるために自分の知らないことを勉強し始める。 等々と。
それが頭にあってリツソを紫揺の元にやったのだ。 それがついうっかり、リツソが歯向かってきた時の事が頭に残って、くだらないことを考えてしまったようだ、と頭を軽く左右に振ると 「では、頼む」 と初老の男に言い、回廊を歩きだした。

ほんの束の間、マツリの後姿を目で追ったリツソが向き直りながら 「変な兄上だ」 と、リツソのこぼした言葉を聞いて初老の男が相好を崩した。



狼煙が上がった。 それは明日ムロイ達が帰って来るという合図であった。 女たちが食の準備に足早に動く。

離れではストレッチの前屈をしながら窓を気にする紫揺の姿がある。 昨日来なかったリツソ、今日は来るかもしれない。

「あ、そう言えば・・・」

昨日、セイハの言っていた言葉を思い出す。 

『自分の力を試さなかったの?』 言われてすぐんはピンとこなかったが、落ち着いてみるとそれが何のことかの想像はついた。 そしてその前の言葉を思い出す。

『え? 何もって? 四日間も一人だったのよ。 何も試さなかったの?』 

「そっか・・・四日間もこんなにじれったいことをしてたんだ」

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虚空の辰刻(とき)  第57回

2019年07月05日 22時14分50秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第50回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                        



- 虚空の辰刻(とき)-  第57回



早朝、掃き出しの窓を叩く音がした。
木張りの部屋の椅子に座っていた紫揺が窓を見ると、リツソが口パクで何かを言っている。

リツソが口パクで言っているのは、ハクロが口酸っぱく大声を出さないようにと言ったのであろう。 それを見てとれて相好を崩したが、オカシイと思う心がありながら歩き、掃き出し窓を開けた。

「シユラ!」

リツソがこの上なく嬉しい表情で紫揺を呼ぶ。

「なに? どうしたの?」

紫揺の訝しむ思いが顔に出る。

「え? なにって? 何か無くてはいけないのか?」

リツソの言葉に更に紫揺の表情が硬くなる。

「だって、今の時間は学校に行ってるはずじゃない? どうしてここに来るの? 学校を休んだの?」

紫揺の言っている意味が分からない。 学校などというものはリツソの世界にはないのだから。


夕べ、ハクロの背に跨って帰って来たリツソを迎えたマツリ。 そのリツソの目が生き生きとしていたのを見た。 

(ほう、それ程までに・・・)

悪戯ばかりをして宮の者を困らせてばかりのリツソには閉口していた。 だが、閉口で終れるはずはない。 今のままでは四方の手伝いなど全くもってできるはずがないし、それに民へも示しがつかない。

リツソのことは宮の者以外も勿論知っていたが、一番知られては困る地下の者も知っている。
だが、そんなリツソにこれからが期待できると思った。 あの娘、紫揺の存在がリツソを変えてくれると思った。 だから今日も紫揺の元にリツソを送った。 が、今日は午前の時間帯であった。


「シユラ? 何を言っているのか?」

「リツソ君・・・。 リツソ君には色んなことを学んでほしいの」

「色んなこと・・・」

「うん、そう。 色んなこと」

「前に言っていたことか?」

「うん。 お勉強も勿論、相手が何を言いたいか、何を考えているか、それを考えて、感じて欲しいの」

「シユラ、それは前に聞いた」 

「リツソ君、お友達と色んなことを話して欲しいの」

紫揺から聞いていた友達という言葉。 紫揺がどこか寂しさを持ちながら逢いたいと言っていた友達。

「シユラ言ってたよな? 友達って財産だって」

「うん、そうよ。 お友達が色んなことを一杯教えてくれたの。 お友達が教えてくれたことは教科書から学ぶ以上のことよ。 だからリツソ君もお友達から一杯学んでほしいの。 学校で教えてもらう以外、以上のことを教えてくれるから。 学校から帰ったらお友達と遊ぶ時間を作らなきゃ。 それに学校も休んじゃダメよ。 だから・・・毎日来ちゃダメ」

毎日来てはいけない? 来てはいけない? どういうことだ? 小さな胸いっぱいに不安が広がる。 でも、その不安を片隅に押しやって紫揺に問い直す。

「友達は・・・色んなことを教えてくれるんだな?」

「そうよ。 色んなことを教えてくれて、色んな経験が出来るの」

「経験・・・前にも言ってたな」

「私の話をちゃんと覚えてくれてるのね」

ちゃんと覚えている。 紫揺の言葉は一語一句漏らさず全部覚えている。 でも・・・隅っこに押しやった筈の不安がまたジワリと胸に広がる。 胸が痛くなる。 頭を下げると口を引き結んだ。

「どうしたの?」

リツソの心の内など知る由もない紫揺がリツソの顔を覗き込む。 

「それが・・・もし、それが悲しい経験であってもか? 寂しい経験であってもか?」

どうしてだろう、何故こんなことを聞いてしまったんだろう。 小さな胸で考えるが、余りにも不安で仕方が無かった。 それが悲しみや、寂しさという言葉に変わって口に出てしまった。

急に何を言い出すのかと、紫揺が目を丸くした。

「友達とは楽しいものなのだろう? それなのに悲しみや寂しさを教えてもらわなくてはならないのか?」

「そうね。 ちょっと寂しくなっちゃうけど、それが経験なの。 友達と意見が合わなかったら、とっても悲しくなるし、寂しくなるの。 こんな気持ちになりたくないって思うの。 だから自分の悪いところを認めて、ゴメンねって謝る勇気も育ててくれるの。 それに相手に同じ思いをさせないようにって考えられるでしょ? 何よりそれを乗り越えたら、一つ自分が大きくなれると思うの」

「・・・」

「リツソ君?」

「オレはそんな友達なんか要らない」

さっきまですがる様に紫揺を見ていた視線を下げた。

「そうね、楽しいことは良いけど、悲しさや寂しさなんていやよね。 でもね、自分が経験することで相手の心を推し量ることを教えてくれるのよ。 それは大切なことなの」

今リツソの頭の中では色んなことが交差しているだろう。 小さいなりにもこれ以上この話をするときっと辛苦を味わうだろう。 そう思うと紫揺が莞爾(かんじ)として笑うと 「でもね、たしかにね、お勉強も大切だけどね」 と、続けた。

「べ? 勉強が大切か?」

思わず頭が上がった。 今日も言われたかと汗が出る。 ずっとずっと、逃げ回っていた勉学なのだから。 さっきまでの不安が汗と共に身体中から蒸発していく。

「うん。 友達からは勉強は教えてもらえないからね」

「だが、だが。 えっと・・・」

頭を捻る。

「父上が領土を治めておられるし、姉上兄上が領土を見てまわっておられるから、我が学ぶことはないのではないか?」

「え? それって駄目じゃない?」

「へっ?」

「それじゃあ、いつまで経っても兄上に意見できないわよ。 勝てないわよ」

「あ・・・兄上に勝てるなど・・・」

言いながらもあの時の事が頭をかすめる。 初めて兄上が紫揺の元に行った時の事を。 己は頑張ったのに、兄上に負けて紫揺に涙を預けてしまった。 ちなみに言えば、紫揺が兄上に 『黙りなさい。 早い話うるさいって言ったのよ』 と言ったことも思い出し、そして紫揺が言った
『だって、相手は半端なく恐い兄上なんだもん。 それに、歳も違い過ぎるわ。 ねっ、リツソ君はこれからなんだもん。 これからたくさん経験して勉強して、色んなことを学んでいくんじゃない? 兄上に勝てるのはそれからよ』 そう言っていた。 それもちゃんと覚えている。

「それに勉学・・・勉強・・・は」 

己に必要ないのだから・・・。 いや、勉学というものをしたくないのだから。 だが、二度も紫揺に言われた。 紫揺は己に勉学をしてほしいのか・・・。  でも、と眉根を寄せる。 よく考えると紫揺の言う通り、勉学をすれば兄上に勝てるかもしれないのか?  うううん、しれないじゃなくて紫揺がそう言ってる。 そうだ、紫揺の伴侶としていつまでも兄上に負けてばかりはいられないではないか。

「オレ・・・勉強する」

垂れていた手の拳をギュッと握り締め、そしてクイッと顔を上げる。

「オレはシユラの思う男になる!」

オレは紫揺の伴侶として最高の男になる、と心に誓った。



玄関の戸が開いてドカドカと足音が聞こえた。 紫揺の朝食の準備をしていた三人の女たちが驚いてダイニングから顔を出すと、居間にセイハが入って来て「お茶!」 と言いながら、さながらソファーにドカリと座り込んだ。

「ちょっと、シユラはどうしたの?」 ダイニングから顔を覗かせている女たちに訊いた。

「え?」
という顔をして女たちが目を合わせる。

「ああ、シユラって言っても分からないか。 ムラサキよ!」

「あ・・・あの、ムラサキ様はまだ寝ておいでで・・・」

「はぁ!? まだ寝てる!?」

思いっきり顔を歪める。

いや、実際は寝てなどいない、起きてリツソと話している。 が、紫揺がウダに言ったことがあった。 食事は紫揺が台所に取りに来ると。 今朝はまだ朝食を取りに来ていない。 だからまだ寝ているのだろうと思ったまでだ。

「こっちが毎日朝早くから夜遅くまで、クタクタに疲れるほど身体を使っていたっていうのに、ここで好き勝手しててまだ寝てるっていうの!?」

背もたれに預けていた上半身を起こした。
今にもその手を動かして何かをされるのではないかと、三人の女たちが緊張した面持ちで顔を下げる。

「ふん、あなた達に言っても仕方のないことね。 とにかく今すぐ起こしてきなさい」

もう一度背もたれにもたれた音がした。 女たちがほっと息をつくが、それで終わりではない。

「で、ですが・・・」

セイハに逆らうのもこの上なく勇気のいることであるが、領主でさえ気を使っていた、寝ているであろう紫揺を起こしに行くなど、とんでもない話である。 とにかく背もたれにもたれかかったのだ、幾分怒りは納まっているだろうと女が言うと、ジロリとセイハに睨まれ肝が上がる。

「起こしてきなさいよ!」

女達が互いに目を交わす。 ここにウダがいればウダが行くだろうが、残念ながら今日の朝食の用意にウダはいない。

「さっさと行きなさいって言ってるでしょ!! それにお茶はまだなの!?」

これ以上セイハを怒らせるわけにはいかない。 何をされるか分かったものではない。 仕方なく一番年上の女が他の二人にコクリと頷くと、ダイニングからリビングを通って廊下に出た。 ウダから紫揺は五色とは違うと聞いていたし、実際食事を取りに来たり返しに来たりしている紫揺には五色に感じるような恐怖はない。 それでも女の足取りは重かった。



「へ? 私の思う男って?」

「暫くは逢えないから寂しくなるかもしれないけど、待っていればちゃんと迎えに来る」
自分の言葉に大きく頷く。

「え? 迎えにって・・・」

「オレは勉強してシユラの思う男になる!」

言い切ったかと思うと後ろを振り向いた。 木の陰から様子を見ていたハクロが素早くリツソの横に走ってくると颯爽とハクロに跨った。 そのハクロが横目でチラリと紫揺を見るとリツソを乗せて走り出した。

呆然としてそのリツソの後姿を見送った。 落ち葉を踏むハクロの走る音が消えると意識なく言葉が口から出た。

「今の台詞って、ナニ?」
自分の声で我に返り、思わず歎息する。

「ちゃんと学校に行って勉強をしてくれるのならそれでいいけど・・・」
小首を何度も傾げると窓を閉めた。

しゃがんで冷えた身体を暖炉で温めていたその時、何かが聞こえたような気がした。 顔を巡らせ耳を澄ましたが、何も聞こえない。 気のせいか、と顔を戻すと掌を暖炉に向けて温まりかけた時、やはり薪が爆ぜる音とは違う何かが聞こえた。 戸をじっと見て耳を澄ますと、蚊の鳴くような声が聞こえた。 立ち上がり戸に近づくとソロっと戸を開けた。 すると戸が開いたことに驚くように身体を硬直させ、顔を引きつらせた女が一人立っていた。

(・・・またか)
どれだけ自分は恐がられているんだろうと、心の中で歎息を吐く。

「お早うございます」
呆れた表情を出さないように挨拶をしたが、紫揺のその顔さえ見ていない。

「あ・・・あの」 女が下を向いて言い淀む。

「はい?」

「ご、五色の・・・セイハ様がお呼びです」

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虚空の辰刻(とき)  第56回

2019年07月01日 21時26分33秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第50回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


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- 虚空の辰刻(とき)-  第56回


「あ、そうだった。 兄上の話の途中だった」

「シユラ・・・兄上のことを名だけで呼ぶのはジジ様と父上、母上そして姉上だけだ。 その他の者はオレを除いて皆、マツリ様と呼んでいる」

「マ、マツリ様!?」

「ちなみに教えてやろう。 リツソ様のことをリツソ君と呼ぶのはお前だけだ」 ハクロが厭味ったらしく言う。

「え? リツソ君って・・・」

「本領領主のお子であり、シキ様とマツリ様の弟君だ」

「え!?」


「眠れない・・・」

布団の中で何度も寝返りを打っている。 結局、マツリをどう呼ぶかは決まらなかった。

「リツソ君が本領領主の子供・・・そしてあの・・・」

マツリの顔を思い浮かべながら考える。

本領領主というのはそれ程にエライものなのだろうか。 ウダがムロイのことを領主と呼んでいた。 そしてリツソがさっき言っていたのは、ここは北の領土であり、本領は東西南北の領土を統治し、東西南北の領土は本領の元にあると。 という事は、ムロイより、本領領主の方がエライということになる。

本領領主とは、各種大臣それとも総理大臣並みなのだろうか? まさか、天皇陛下並みではないであろう。

リツソのことを思う。 そう言えばリツソの喋る言葉は紫揺にしてみればこまっしゃくれて聞こえるが、正しく人を導く者の立場であるのならば、あの喋り方で問題ないのかもしれない。 でも・・・

「無理・・・あんまりにも多すぎる」 疑問が多すぎる。

リツソのことだけではない。 何度も考えるセイハの言ったことや、アマフウのこと。 自分自身のこと。 どれをとっても何一つ解決をしていない、納得をしていない。

「どうしてこんな風になったんだろう」

言ってはみるが分かっている。 あの誘拐された時から納得のいかないことが始まっている。 細かいところで言うとリツソの服装にさえ納得がいかない。 今の時代に子供があんな時代錯誤なお稚児さんが着るような着物だなんて。

それに、最初は何とか脱出をしようと思っていた。 父母と過ごした家に帰ろうと思っていた。 なのにそれを忘れていた。

「何やってんだろ・・・」

でもいま家に帰ることなんて到底できない。

あれもこれも考えることなんて出来ない。 それに到底考えても分かることじゃないのだから。 だから今は・・じゃない、いつも目の前にあることだけを考えよう、と改めて思った。

今はリツソとのことを考えることだけに集中しよう。 それ以外のことはその時になれば考えられるだろうし、そうでなければ何をどう考えても答えなど見つからないのだから。 だから、今目の前にあることだけを考えよう。

「本領って言うのがどれだけのものか分からないけど、東西南北の領土を統治しているって言ってた。 統治・・・」

考えるが何も浮かばない。

「マツリ・・・リツソ君はマツリの弟。 弟君ってハクロが言ってた。 単なる弟じゃなくて弟君・・・」

起き上がって太腿に肘をつくと、その掌で顔を覆った。

「そんな存在に、チビって言いまくったって・・・」

大臣の子か総理大臣の子かも知れない子に、こんな迷子の平民が言ってしまっていた。
大きく落ち込みかけそうになりかけた時、掌から顔を外した。 頭を、顔をブルブルと振る。

「どれだけエライさんでも、子供の教育は必要よ。 うん、私は間違っていない」

そして気付いたことがあった。

「あれ? さっき私・・・マツリって言った・・・。 マツリ・・・か」

マツリ君でもマツリさんでもなければ、マツリ、その名前だけ。 マツリ様などとは言いたくない。 だって、尊敬もしていなければ、崇拝もしていないのだから。

「ん、っと。 リツソ君が言ってたっけ。 マツリって呼ぶのはジジ様と父母姉だけだって・・・」

マツリの冷ややかな目が頭に浮かぶ。 それに、魔釣の面も。

「エラソーに呼び捨てにしたら魔釣られるんだろうかな・・・」

魔釣られてヒオオカミに噛み殺されるのかな、それともマツリ自身に魔釣られるのかな。 疑問が生じた時、淡白に答えが出る。

「どうでもいい」

決して投げやりに言ったのではない。

「私は私の感性と想いを信じる」

そして続ける。

「ね、お母さんそうでしょ? 私っていっつもそうだったよね? お父さんがそれを分かってくれてたんだよね?」

母と父の姿を脳裏に浮かべると涙がジワリと瞼を覆う。 泣くもんか。 今だけを見るんだから。 その私をお母さんとお父さんは見てくれているんだから。 自分を信じてくれてたお父さんと、お父さんの言葉を信じてくれたお母さんに恥じない娘でいるんだから。

「お母さん、私は私でいる」

母親への想いはいついまでも忘れられない。 こんな時、父親とは寂しいものである。

「マツリ・・・マツリでいい」

マツリに魔釣られてヒオオカミにかみ殺されようが、マツリ自身に魔釣られてもいい。

自分はマツリの親や姉でもないけど、マツリをマツリと呼ぶ。

何故なら、マツリのあの冷ややかな目が許せない。 たとえ年上であろうと。 あんなに冷ややかな目で見られなければならない程、私が何をしたというのか? 私は問罪も糾問も受けることはなにもしていない筈。 うううん、絶対にしていない。 それなのに理不尽に向けられた目。 だからそれに応えてやろう。

「アナタはマツリ」

紫揺の中で理不尽なことは言っていないと結論づけていたけれど、十分に理不尽なことを言っていた。
本領領主の息子であるマツリに 『黙りなさい。 早い話うるさいって言ったのよ』 と言っていたのだから。 

でもそれは頭上の棚に置いておこう。 だってそれを言ったら話がまとまらなくなるから。 紫揺のその言葉より、マツリの冷たい目の方がよっぽど罪だ。 そう結論付ける。


紫揺とは
ただただ、身体を動かすことが大好きな少女であった。 誰かに何かを言うという事などとは遠い話であった。 なのに、ここにきて誰かに意見するなどとは想像もしなかったことであった。

「アイツ・・・今度会ったら」

顔を上げる。

「絶対に私が魔釣ってやる」

紫揺の思う『魔釣り』 が何なのかはわからないが、きっと口攻撃であろう。 マツリの次元とはかけ離れたところにある。 分かってはいるが、負けてなんていられない。


離れの外で二つの影がドロリと動き人型をとった。

「ムラサキ様は中に居られるようだな」

今日はもう引き上げようと、紫揺の確認をする。

一旦屋敷に引き返したカミとケミがショウワに報告をすると離れに戻ってきた。
紫揺の居る離れの外にいる。 言葉の内容までは聞き取れないが、影でなければ聞くことが出来ない紫揺の僅かな声が聞こえる。

「ああ」

ずっとホテルで紫揺の独り言を聞いていたケミが答えた。
ケミもカミも紫揺についていたが、ホテルにいた時にも屋敷にいた時にも部屋に入ることは禁じられていた。

だからいつも部屋の外から紫揺の動向を見ていた、聞いていた。 特にケミはホテルにいる時には長く紫揺についていた。 紫揺の独り言が大きいのは充分に知っている。

紫揺がリツソや狼たちと接していた時にはまだここに来ていなかった。 それにまさか、そんな状況があるとは思ってもみなかった。

「まだ帰っていないのか?」

問うカミにケミがジロリと目を向ける。

「それは領主のことか? お前は五色たちの家を見てきた。 その五色たちが帰ってきていないという事は、領主も帰っていないという事であろう? 領主の部屋を見てきた吾に何を問うているのか?」 ケミが片眉を上げてカミに訊く。

カミ、ケミ共に紫揺の居る離れを見る前にカミが五色の家を見に行き、その間にケミは領主の部屋を見ていた。

「ああ、いや・・・」 

「乱れが酷いのであろうな」 言葉を濁すカミを横目にケミが言った。

「ああ、そうであろうな。 ・・・では、これからどうする?」

「これからとは?」

「領主が居ないのであれば、吾らがムラサキ様についてる意味はない。 吾らは領主からムラサキ様を守れと言われているのだからな」

「ああ」

「現状をもう一度ショウワ様に報告に戻ってもいいだろう」

「では、どちらが戻る?」

「ふむ・・・」 と、カミが逡巡する。

「どうした?」

「どうした、とは?」

「お前に迷いなどない筈だが?」

「当たり前だ、迷いなどありはせぬ」

「では何故、即答せぬのか?」

「それはお前が・・・」

「吾が? なんだ?」

「いや、お前が何か言いたそうだと思ったからだ」

「吾が? 吾が何を言おうとしたか?! 何を思ったか?!」

「・・・悪い。 そんなことはない」

「ああ、お前の思い違いであろうな」 斜にひと睨みの目線を送る。

「・・・では、吾がムラサキ様を見ておる。 ケミがショウワ様の所に行ってくれ。 そうだな、帰って来る時にはゼンかダン・・・いや、多い方がいい。 ショウワ様のお許しがある可能な限り連れ帰ってくれ」

「それはどういうことだ?」

「乱れの目落としがないかの確認をしたい。 一人でも多い方が早く済む」

「ああ、そういうことか。 分かった。 では、吾はショウワ様の元に向かう」

一つの影がドロリと動いた。 事が決まればやることは早い。

その影を横目で見たカミ。

「ケミめ・・・」

その夜はずっとカミが戸の外から紫揺の様子をうかがっていたが、特になにといった変化はなかった。

紫揺の様子に耳をそばだてていたが、紫揺の声がしない。 多分、ぐっすりと寝ているのだろう。

「領主も五色もまだ帰ってこぬか・・・。 では取り敢えず、吾も乱れを見に行くか・・・」

今はまだ夜中。 紫揺はいつも夜明けにも起きてこない、それどころかぐっすりと寝ている。 時は長くある、その間に乱れを見に行こうと思った。 どこかで領主なり、五色を見かければ踵を返せばいいのだから。

とくに領主がここに居なければ紫揺を見ていなければいけないことはない。 領主から紫揺を守れと言われているのだから、領主の居ないここに居ても意味がない。
人型をとっていた影が歩を出した。

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