大福 りす の 隠れ家

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国津道  第57回

2021年07月30日 22時48分22秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第57回



少しすると長治が振り向いて浅香に話しかけた。

「浅香君、運転免許は持ってるか?」

てっきり失念していた。 もし自分たちに何かあった時のことを。

「え? はい」

「これ、運転できそうか?」

ペーパードライバーなら論外。 運転できるとしても、免許を取った後に軽しか運転したことが無いのであれば、ペーパードライバーに毛が生えたようなもの。 アルファードの運転は難しいだろう。
家にいる者を呼べばそれでいいが、残念ながら長治と次郎以外で昼間家にいて運転免許を持っているのは女たちだけである。

アルファードをこの山道の左側、少し広い所に停めても、家の女たちにはそのスペースだけでは方向転換が簡単には出来ない。
次郎が方向転換をした状態で停めればいいのだが、そうなれば村から車を走らせた時に、その車の走行が左側ではなく右側という図が出来てしまう。

決してアルファードが右側走行をしているわけではないし、停車しているのだが、ここを通る全ての村の者たちはそれを嫌がっていた。 正面に見える車が自分の走行の左側にあるというのは座り心地が悪いということである。 だから方向転換をして停めておくことは出来ない。

万が一のことがあったときには、後ろから追ってくる軽トラたちがなんとかしてくれるだろうが、出来るならば頼りたくはない。 ほらみろ、などと舌を出されたくない。

「僕、救急隊員なので救急車を運転しています。 ある程度狭い道にも入りますので、運転は可能かと」

救急車もアルファードもそんなに大きさは変わらないはず。 いや救急車の方が全長は長いかもしれない。
長治に質問され、何となく長治が何を言いたいのかが分かった。 不必要なことではあるが、安心してもらうために運転できることを言った。

「え? 浅香君、救急隊員なのか?」

「あ、言ってませんでしたっけ?」

長治が頬を緩める。

「大蛇の話しばかりだったからな」

大婆が僅かに頷いた。 話を聞いていたのだろう。 どこか暗い雰囲気が漂った。 これから先のことに不安を感じているのかもしれない。

「そうですね。 でも山にも社にも大蛇は居ません。 心配なんて必要ありませんよ」

「・・・そうか」

長治が顔を戻す。

「案ずるより産むがやすしです」

長治の後頭部に浅香の声が囁(ささや)く。

「昔語りは・・・」

浅香の話では大蛇は・・・花生は山には居ないということ。
だがどこでどう違ってしまったのか、大蛇は社に居るとも語られている。 それを払拭したい。 大婆も長治も。

長治が何かを言いかけたが、そこから続く言葉が見つからないようだ。 まだ不安を拭えないのだろう。

浅香の言うことを信じようと思っても百パーセント信じられるものではない。 小さな頃から長年聞かされてきた昔語り、その昔語りを我が子にも聞かせてきたのだから。 そして次郎が出来てから聞かされた話も。
それに死ぬ覚悟は出来ていると言っても、自分だけならまだしも我が曾祖母を犠牲にしなくてはならない。 その覚悟はまだ出来ていない。 簡単に覚悟できるものではない。

「昔語りは否定しません」

どういうことだ。 僅かに長治が振り返る。

「偶然なんですけど本がありまして」

浅香が何を言おうとしているのか分かった詩甫がすぐにバッグから本を取り出す。 朱葉姫の事が書かれている頁をめくる。

「今日、お初にお目にかかりました祐樹君の友達が購入していた本なんですけど」

玄関先でだが、大婆の家で祐樹の紹介は終わっている。 祐樹と三太がそのまま庭に遊びに行き、浅香と詩甫は客間に上がらせてもらい親族との話し合いの様子を聞いていた。 もちろん、親族以外の村の男たちが後に付いてくるという話も聞いた。

詩甫が朱葉姫の頁をめくって浅香に渡すと、それを長治に渡す。

「本?」

「ええ、ここに朱葉姫の事が書かれています」

「え!?」

長治が手にした僅かながらだが、朱葉姫のことが書かれている文に目を落としている。

「ほぼ五十年前の本です。 ですが最近になりまた出版されたようです」

重版などと言っても分からないだろう。 説明も面倒臭い。

「どういうことだ」

二人の会話を聞いていた大婆が訊いてくる。

「朱葉姫ではなく、他のお姫様のことで加筆されて出版されたようですが、そこにも朱葉姫の事が書かれています」

「それが?」

「この村、この地域以外の人が朱葉姫のことを知ったということです。 紅葉姫社の事も」

大婆が大きく目を見開く。
だが後部座席に座っている浅香にそれを見ることは出来ない。

「朱葉姫は昔語りの姫様ではないということになったのではないでしょうか。 ここに昔語りは書かれていません。 この本を読んだ人は昔語りを知りません。 朱葉姫の名を知り紅葉姫社を知ることになった」

「それは・・・」

「朱葉姫は今も民を見ているということです」

大婆がぐっと喉を鳴らす。

詩甫が浅香を見ると詩甫に頷いて見せる。 朱葉姫を信用しろと。

「僕が以前に言ったのは僕の勝手な推量です。 その昔、大蛇が・・・いつの時代にどんな話でそうなったかは分かりません。 ですがずっと朱葉姫は民を見てこられている、お社を守っておられる。
こんな風に本が出回るというのはそういう事ではないんでしょか? 神業とでも言いましょうか、神様が朱葉姫を見てこられた、だからこんな風に本が出回った。 そんな風に僕は考えます。 神様を信じる者にとってそれは当たり前に考えることであるかと。 だからお社のある山に大蛇は居ません」

他の村の昔語りは山神が大蛇を遣わしたとあったが、その詳しいことを大婆が知るのかどうかは知らないが、こんな時は言い切るに限る。 それに他の村の昔語りを大婆は出してこないだろう。

薄のことは話せない。 過去の中で無かったことに、うやむやにするしかない。 だがそれは嘘になる。 薄によって命が途中で止められた者が居るのだから。 たとえそれが何十年前、何百年、千年以上も昔の話だろうと。
死んだ者は納得が出来はしないかもしれない。 朱葉姫を想い行動に移したのに殺されたのだから。
浅香が首を振る。
そこに囚われていては先に進めない。
薄はもう昇天したのだ。 今までのことを悔い改めているはず。 それが亡くなった方々に届くはず。

「安心して下さい。 僕がアルファードを運転することはありません」

アルファードが少し広い所に車を停めるよりも早く、後を追っていた三台の軽トラが広い所で路駐をした。 そこから六人の男たちが急ぐことなく、歩いてアルファードの後を追っている。

次郎がバックミラーで男達を確認しながら、ゆっくりと車を走らせている。 男達が軽トラを停めた場所は、これから次郎が車を停める場所からそうは離れていない。

男達を確認し車を停めると長治に言われて次郎が大婆を負ぶった。
次郎を巻き込まないために、てっきり長治一人で負ぶうつもりだったかと思っていたが、違っていたようだ。

次郎の顔も長治の顔も緊張しているようだ。
次郎に負ぶわれた大婆の隣に長治が立つ。

「なんちゅう顔をしとるか!」

大婆が手を伸ばして長治の頭をはたいた。 ついでに「お前もだろ」と言って次郎の頭を後ろから勢いよくはたく。
その大婆の顔が緊張を隠しているように見えるのは気のせいだろうか。 いや気のせいではないだろう。 だがその緊張が何に対してなのかは分からない。 これから起こるかもしれないことに対してなのか、紅葉姫社に行けることに対してなのか。

「野崎さん、祐樹君と先を歩いてもらえますか?」

「え?」

てっきり浅香が先頭を切ると思っていた。 その後に詩甫と祐樹がつくだろうと思っていたのだから。

「万が一、階段や坂でバランスを崩して落ちかけるようなことがあってはいけませんので」

そういうことか。 負ぶっているのだ。 浅香は万が一の時のことを考えて大婆の後ろを歩くということか。

「不安であれは僕の後ろに―――」

浅香は先を歩いてもらえますかと言った。 それは先頭を歩けということだ。 先頭を歩く、大蛇はもう居ないということを信じろ、そして大婆たちに信じさせろ、ということだ。 浅香に最後まで言わせなかった。

「はい、わかりました。 じゃ、紙袋を」

浅香が持っていた供え物が入っていた紙袋だ。 万が一のことを考えると邪魔になってしまう。

「すみません、お願いします」 と浅香が詩甫に紙袋を渡す。 この袋の重さを祐樹は知っている。

「祐樹、行こ」

単に紙袋を持つわけではない。 階段を上がって坂を上がらなければならない。

「姉ちゃん、オレが持つよ」

「重くなってきたら代わって」

いくら男の子といっても祐樹には重いだろう。 花束も和菓子も二セットだ。

詩甫が祐樹の手を取って、既に歩き出している長治たちを抜いて前を歩く。
詩甫が振り向きながら長治に訊ねる。

「山に入るのは初めてですよね?」

「ああ」

「ご案内します」

浅香が口端を上げ下を向く。

(上手い言い方をするな)

詩甫が先頭を歩くに良い言い訳だ。

詩甫と祐樹に続いて長治、大婆を負ぶっている次郎がそれに続き、殿(しんがり)は浅香。 その列が山からの砂の乗ったアスファルトを歩き、木々が立つ山の入り口に向かう。

新緑の生い茂る季節なら木々の葉に入り口を見逃しかけないが、今はまだ新しい命が芽吹きだしたばかりの頃である。 山の入り口は木々がぽっかりと開いた所ですぐに分かる。 だがそれは入り口を知っているから分かるのであって、知らなければ行き過ぎるだろう。

詩甫が山の入り口に足を入れると長治と次郎もそれに続く。
後を追っていた男達が互いに目をやる。

「おい、本当に行くみたいや」

「昔語りを・・・」

「ああ、その昔語り。 それを大婆が払拭するとは聞いたが・・・」

「とにかく・・・おれらも山の中に入らんことには」

男達が目を合わせる。 誰が先頭を行くのか。

山の入り口から山の中に詩甫が後ろを気にしながら先を歩く。 そのまま進んでいくと階段が見える。

「あの階段を上がっていきます。 そうですね、私の足で・・・三十分はかからないと思います」

階段でどれくらいかかり、その後に坂がありその坂でどれくらいかかるかは、事前に大婆の家で浅香が説明していたが、改めて詩甫が言った。

「浅香君は十五分程と言っていたが?」

「浅香さんと私とでは違いますので。 大婆さんを負ぶわれていますから、どちらかと言えば私の方に近いかと」

長治が振り向いて次郎を見る。 話は聞こえていただろう。

「なんてことはない」

次郎がいともあっさりと言ってのける。
長治が腕時計を見る。

「十五分後に交代だ」

「このまま社まで行く」

長治が鼻で笑った。


誰もが無言で階段を歩く中、次郎の息が荒くなってきたのだけが聞こえる。 長治が腕時計を見る。 十三分を経過していた。
長治が振り返り次郎の横に付く。

「な、なんだよ」

「交代だ。 大婆、わしの背に負ぶされ」

浅香が万が一を考えて大婆の背中に手を伸ばす。 触れる寸前で止める。

「交代なんか要らねーって」

言った途端、後ろからはたかれた。 決して浅香ではない。

「って!」

「はぁはぁはぁはぁ言いおって。 わしがどれだけ重いと言いたいかっ」

「浅香君、手伝ってくれるか」

こんな所で万が一のことがあってはなんにもならない。 大蛇どころでは無くなる。 浅香は救急隊員と言っていた。 人の身体に触れるのに嫌な気はないだろう。 それがたとえ大年寄りでも。

「はい」

浅香が大婆の尻に手をやり、次郎の背中でノソノソと大婆が移動を始めると、無事長治の背中に移った。

「なかなかええ尻をしとるだろ?」

「大婆! こんな時にまで何を言っとる!」

「久しぶりに若い男に尻を触られたんや、訊くくらい―――」

「わしの背中で大人しいしとれ」

浅香が「ははは」と愛想笑いをし、祐樹がキョトンとしている。 そしてその会話に参加していなかった次郎が、ゆっくりと腰を伸ばす。

「親父、気を付けろよ。 けっこう脚腰に来るぞ」

平地は普段から歩いてはいるが、長い階段を上ることなどついぞない。 ましてや大婆を負ぶっているのだ、腰を曲げた上に負荷がついている。 息が上がっても仕方がないだろう。

大婆たち御一行が階段を上がって行くのを見ていた男達。 階段が曲がっていき、とうとうその姿を見ることが出来なくなった。

「ここで待っていればええんやな・・・」

「ああ、大婆が落ちてこんかったら、長治たちが負ぶって下りてくるはずやからな」

大婆が落ちてこなければ、それは社に大蛇が居るということ。 社にいる大蛇に大婆が睨まれ、後に大婆の家に不幸が訪れる。
大婆が山から落ちてくるのであれば、山にいる大蛇に大婆が睨まれ山から落とされたということ。

いずれにしても大蛇は居るということ。 だが・・・無事に山を下りてきた大婆の家に不幸が訪れなければどういう事になるのだろうか。

全員がゴクリと唾を飲む。

自分達の代で大蛇の昔語りを証明することになるのか、単なる昔語りであったことを証明することになるのか。
互いに目を合わせる。 きっと同じことを考えているのだろう。

「家の誰かに不幸が訪れるってのは・・・」

一人の男が目を半分泳がせながら言うと、隣にいた男が頷きながら応える。

「ああ、それってどれくらいの期間にや?」

不幸などいつかは訪れるもの。 いつ病気になるか、いつ事故に遭うかなど誰にも分からない。 そしてそれは大蛇によってもたらされたものかどうかも誰にも分からない。
全員が首を振る。 そこまでは昔語りに無いということである。


階段を上り切り、坂を上がっていた。

「親父、大丈夫か?」

長治が足を止め顔を歪めている。 腰にきているのであろうか、それとも脚か両方か。
坂は四分の三を越えていた。

次郎は何度も代わると長治に言っていたが、その度に長治が首を横に振っていた。 だがもうそろそろ限界だろう。

長治が薄っすらとあることを頭の中に描いた。 それは背中に籠を背負い、その中に年寄りが入っているという想像の映像であった。 籠を背負っている男は黙々と山を登っている。

(姥捨て山とは・・・昔の人は足腰が強かったんだな・・・)

今は軽トラに頼っているが、それこそ昔は手で収穫物を運んでいたか、良くても荷車だろう。
畑仕事をし、収穫物を軽トラに乗せ次には下ろす。 それを持って作業小屋に入る。 その作業をしているのだ、大婆など簡単に背負えると自負していたが、到底そうではなかった。

次郎の心配そうな声に詩甫が足を止め振り返った。 自然に祐樹も振り返る。

「無理をされない方がいいですよ。 次郎さんに代わってもらえばいかがですか?」

最初に聞いていた長治の言葉がある。

『大婆が歩けんのだったら、わしが負ぶって行ってやる。 わしも本家の血筋だ。 二人ともとっとと花生の手にかかるわな』 そう言っていた。 きっと次郎をそんな目に遭わせないようにと考えているのだろう。

「お爺ちゃん、大蛇は居ないよ? 朱葉姫を信じて」

「え・・・」

浅香でもなければ詩甫でもなく詩甫の隣にいる祐樹が言う。 朱葉姫を信じろと。 それはどういうことだ。

車中、浅香が朱葉姫のことを言っていた。 朱葉姫が今も民を見ていると。 だが実際の話ではそんなことは有り得ない話しだ。 ただそう考えるのならば大蛇の存在も有り得ない話。

―――分かっている。

長治が首を振り自分よりずっと背の低い祐樹を見る。

「今はまだわしが家長だからな。 まだまだ次郎に継がせる気はない」

それは大婆を背負うことにも繋がるのだと言っている。
と、後ろからパシンと頭をはたかれた。

「なーにが家長だ。 男ばかり産みおって」

「わしは産んどらん」

そういう問題だろうか・・・。
それにしても長治にしても次郎にしても、大婆から何か言われた時の返しがなかなかに面白い。 それも真面目腐った顔で言っているのだから。

ゆっくりと長治が歩きだす。
次郎に譲る気はないようだ。 詩甫が浅香を見ると浅香が頷いてみせる。 このまま行こうということだ。

「祐樹、行こう」

「うん・・・。 お爺ちゃん大丈夫かなぁ」

詩甫と手を繋ぎ歩きながら詩甫を見上げる。

「浅香さんが後ろから見てくれてるし、次郎さんも見てくれてるから大丈夫よ。 それにあとちょっとだから」

坂を見上げるとずっと続いていた坂の先が切れ、社のある平地の木々が見えだしている。

「うん」

暫く歩くと後ろからズッという音がして、同時に浅香の声が聞こえてきた。

「おっと」

詩甫と祐樹が振り向くと浅香が大婆の背中を支えていた。 長治の隣を歩いていた次郎が長治の腕を引き上げている。

「大丈夫ですか?」

「ああ、すまん。 足が滑った」

浅香に支えられている大婆がニヤニヤとしている。 もしかして長治と共に坂を転がり落ちていたかもしれないというのに、緊張感が全く見られない。

「もう坂の終わりは見えています。 あと少しです」

長治が頭を上げた。 目の先で坂が終わっている。 ずっと木々に覆われていたのに、青い空が見える。 今までずっと下ばかり見ていたことに初めて気付いた。
頷き足を進める。


ようやく坂を登りきった。

「あれが・・・紅葉姫社」

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国津道  第56回

2021年07月30日 22時39分34秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第56回



浅香から日曜日に社に行くと連絡を受けていた。
祐樹と共にいつもの電車に乗る。 一駅乗ると浅香が乗ってきた。

「お早うございます」

挨拶をする浅香に詩甫と祐樹が応える。
祐樹の隣に座った浅香。

「どうなった?」

小声で祐樹に訊く。

どうも二人の間で秘密ごとがあるらしい。 詩甫が素知らぬ顔をする。
いつの間に・・・と、詩甫が考えるが、そう言えば浅香に借りてきたと単行本が増えていた。 その時だろうか。

「上手くいった」

「そうなんだ、良かったじゃん。 貰うもん貰って」

「なんだよ、それ」

「いいえ、別に」

絶対にチョコを貰ったことを言っている。

「いい迷惑ってのがあるんだよ」

「わぁー、上から目線ー」

「浅香ッ! ―――」

祐樹が大声を出しかけたのを詩甫が止める。 部屋の中では無い、電車の中で言い争いは避けてほしい。 素知らぬ振りもここまでだろう。

「祐樹、電車の中よ」

「あ、うん」

でも浅香が、とは言わなかった。
二人の間にどんな話があるのだろうか。 そう思いながらもバッグから本を出す。 供え物をする日に持っているA4 サイズがすっぽりと入るショルダー型のバッグである。 そこにはクリアファイルに入れられた半紙も入っている。
詩甫がバッグから取り出した本を浅香に差し出す。 朱葉姫の事が書かれている頁をめくって。

「これ、祐樹のお友達がネットで購入した本です。 中古で売り出されていたらしいです」

浅香が開けられたページに目を落とす。

「え・・・」

「朱葉姫の事が書かれています」

それっきり詩甫は口を閉じ浅香が読み終えるのを待った。
本に書かれていたのは浅香たちの知っている裏の話しではない。 花生の名は出ているが、朱葉姫の義姉としてだけ。 薄の名は勿論出ていない。

「これって・・・」

少なくともこの本を読んだ中の何人かは、朱葉姫のことを知っているということだ。 朱葉姫の名を知っているのは、あの地の村の中だけではないということ。

「姫伝説、この本には色んなお姫様の事が書かれています。 その中で購入した祐樹のお友達は朱葉姫のことを凄いと言っていたそうです」

この本がどれだけ出回っているのかは分からない。 だが少なくとも購入した内の一人は朱葉姫のことを知った。 沢山ある姫の中から朱葉姫を凄いと言った。

浅香が本の発行日を見ると、おおよそ五十年前であった。 五十年前に発行された本。 それを誰かが読んで・・・。 だが社には行かなかったということだろうか。 それとも数人は足を運んだのだろうか。

「これは初版です」

「え?」

詩甫も浅香と同じような疑問を持った。 だからスマホで調べた。

「最近になり重版が出たようです」

「重版?」

「初版の数が少なかったのもあったんでしょうが、水面下で人気があった・・・読まれていたみたいです。 重版は他のお姫様の加筆があったみたいです」

「その水面下はその加筆されたお姫様のことに関して?」

「多分そうだと思います」

「けど、そこには朱葉姫の事も書かれている」

詩甫が納得するような顔を見せた。 浅香は何も言わずとも分かってくれる。 そういった表情だった。

「あの土地以外の人が朱葉姫を知った・・・いいえ、少なくともこれから知っていくことになる可能性が高い、もちろん紅葉姫社のことも」

「はい」

本を閉じた浅香が祐樹を見て親指だけを立たせて見せる。
同じ指で祐樹が応える。

「気合を入れていきましょう」

大蛇は居ない。 居ないとは分かっていても不安があって先週社に行った。 直接的なことは何もなかった。 詩甫も睨まれるということは無かったと言っていた。

だが朱葉姫が帰るべきところに戻ると言っていた。 それを曹司に阻止せよと浅香が言った。 詩甫には花生が朱葉姫を留めると言っていた。

社に朱葉姫が居るのかどうかが分からない。 浅香と詩甫が気合を入れても朱葉姫がそこにいなければ、何の意味も持たない。

「朱葉姫・・・居てくれるでしょうか」

「曹司はどうか分かりませんが、花生さんを信じるようにと言ったのは野崎さんですよ?」

浅香が詩甫に笑顔を向ける。


駅を降りタクシーに乗ると大婆の家の住所を言った。

「え? 今日はそこで?」

助手席の後ろに乗った浅香が運転手の顔を覗き込む。

「あ、運転手さん」

浅香と詩甫に交互にタクシーの支払いをすればと助言をくれ、大蛇の話を聞かせてくれた運転手だった。

「先日は大蛇のお話しを有難うございました」

「ま、話したのが良かったのか悪かったのか・・・」

「いいえ、そのお蔭でこちらのお宅に伺うことが出来ましたので」

「大婆のところだね」

住所だけで大婆のところと分かったようだ。 もしかしてこの運転手は大婆と同じ僧里村に住んでいるのだろうか。

「はい」

運転手がアクセルを踏む。

「珍しいな」

「はい?」

「大婆のところだねって俺は言ったけど?」

「ええ、そうです」

「長治じゃなくて?」

よく知っている。 やはり僧里村の者なのだろうか。 それとも他の村も大婆と長治の存在を知っているのだろうか。

「大婆さんと長治さんです」

「大婆とも会うってこと?」

「はい」

どういうことだろうか。

「大婆がこの土地の者以外と会うって・・・俺の知ってる内じゃ、二人目・・・お嬢さんを入れて三人か」

「え? どういうことですか?」

「大婆は・・・いくつになるのかなぁ」

「以前お会いした時に、大婆さんの娘さんが九十の歳手前で亡くなったと聞きましたが」

「え? 前にも会ったことがあるの?」

「はい、今日で三度目です」

「あの大婆が・・・」

「運転手さん?」

「ああ、いや、悪い。 あの大婆は誰とも話すのを疎んじててな」

年齢を考えると、村の者以外と話すのは面倒臭い所があったのかもしれない。
それに山に大蛇が居るか社に大蛇が居るか、大婆にとってそこが問題だったのだろう。  村人と話すのを疎んじていたのは、社に大蛇が居るという昔語りが気に食わなかったのかもしれない。 大婆は身を挺して社に大蛇が居ないと示すつもりなほどだったのだから。

「そうなんですか? そんな風には感じませんでしたけど。 今日は大婆さんと長治さんとであのお社に行くんです」

「えっ!?」

「運転手さんからは大蛇のことを教えてもらいましたけど、運転手さんも大蛇の伝説を信じていらっしゃらないんですよね?」

だから何の不信も持たないだろう? と含みをもって言った。 だが運転手がどこかで大蛇を信じていることは知っている。

「あ、え・・・そう、だけ、ど」

「大婆さんからも昔語りを聞かせていただきましたが、僕も彼女も何度もお社に行きました。 ですが何もありませんでした。 大婆さんもそうだろうと、そんなことはある筈ないと仰っておられました」

「大婆が?」

「はい。 大蛇など居ないと」

今は山にも社にも大蛇などいない。

「い、いや、だけど、昔語りが・・あ、ああ、何でもない」

かなり焦っているようだ。
それはそうだろう。 今は村ではなくなっているとは言え、僧里村の元村長が誰だかは知らないが、少なくとも大婆は本家筋である。 そこそこ知られているのだろうし、なんと言っても長命である。
村という括りで考えた時に、老齢であるほどに敬われているだろう。 その大婆が山に登る。 ましてや山に大蛇など居ないと言っているのだから。

「そ、それより大婆が山になんて登れる?」

「長治さんが負ぶうことになっています」

「長治が? 長治もそろそろ歳だろう」

浅香と詩甫が二人の間にいる祐樹を飛ばして目を合わせる。 そういえば長治は何歳なのだろうか。

二人の様子に祐樹が眉を寄せる。

「お孫さんが・・・小学生だったから」

詩甫が三太と呼ばれていた少年を思い浮かべながら言う。

「ですよね、お幾つくらいかな」

瀬戸が書いていたものには長治のことは書かれていなかった。 あくまでも瀬戸は次郎止まりだった。 その次郎から割り出そうと考えた時にタクシーの運転手の声が入る。

「もう、五十かそこらになるんじゃないかな」

「五十歳でお孫さん?」

それも小学生の。
女性にはしばしば聞く話だが、男性にはそうそうない話では無いのではなかろうか。

「あそこは結婚が早いんだよ。 と言っても、次郎だけは遅かったか・・・たしか二十歳の時に結婚したか」

二十歳で遅い結婚・・・。
浅香が落ち込む前に詩甫がズンと落ち込む。

「すぐに子供が出来なくてね。 本当ならもっと早く孫を見ていた筈だったんだけど。 長治じゃなくて次郎が大婆を負ぶえば良いのに。 長治、腰を痛めるんじゃないかな」

「そう伝えておきます」

詩甫に先を取られ落ち込むことも出来ずに、タクシーの運転手と会話を続けた寂しい浅香であった。

タクシーを降りると大婆の家の前に立った。 家の前と言ってもチャイムを鳴らすに敷地の中に入らねばならない。 門も無ければ車一台通れるような道に沿って庭があるのだから。 その庭とて広い。 タクシーも勝手知ったるなのか、庭を利用してUターンして戻って行った。
その庭に今まで見たこともない車が停めてある。

「運転手さん、長治さんのことに詳しかったですよね。 歳まで知ってるって」

以前、昔語りの発端がいつなのだろうかと考えた時、詩甫と運転手は五十歳を超えているだろうと話していた。 それは数字にするためにアバウトなものであった。

「長治さんの同級生か、それに近いんでしょうか」

「同級生ではなく近いんでしょうね」

同級生であればすぐに長治の年齢をはっきりと言ったはず。

「行きましょうか」

「はい」

「姉ちゃん・・・」

知らない人の家に入るということを不安に思っているのか、詩甫を見上げてきた。

「ん? どうしたの?」

「浅香に騙されてないか?」

「おーい、祐樹君、それってどういうことかなぁー」

「浅香、長治ってヤツ、ホントに居るんだろうな」

浅香がこれでもかというくらい頭を下げた、いや、落とした。

「祐樹、お姉ちゃん、ちゃんと話したよね?」

祐樹は関わっているのだ。 祐樹の居ない時にあったことはちゃんと話している。 大婆の家に行って話したこともちゃんと話した。

「お姉ちゃん、長治さんと話したって言ったよね?」

「・・・うん」

「お姉ちゃんを信じてくれないの?」

「・・・姉ちゃんは信じてる。 でも浅香は・・・」

「なに? 僕が何?」

「・・・オレを置いて姉ちゃんを見ただろ」

いつのことだ。 多々あり過ぎて分からない。

「祐樹・・・」

「・・・分かってるよ。 ちょっと言いたかっただけ」

ちょっと、何を言いたかったのか、それを訊こうと浅香が口を開きかけたが、そこに明るい声が入った。

「いいなぁー」

三人が振り返る。

「オレも兄ちゃんか姉ちゃんが欲しかったなぁ」

「お前・・・誰だよ」



長治が大婆を負ぶっている。
大婆は玄関の三和土(たたき)を下りるまでは、長治の嫁に手を取られゆっくりと歩いて来たが、さすがに玄関には下りられなく、そこから長治が大婆を負ぶった。
先に玄関を出た詩甫たちは散々に犬に吠えられている。

長治の後ろには次郎がついている。 長治の交代員である。
タクシーの運転手から言われたことを浅香が伝えたわけだが、その時には長治は首を横に振っていた。

「次郎にまで何かあってはこの家はどうにもならんからな」 と。

だが今、次郎が後ろからついている。 浅香の言ったことを次郎が聞いたわけではない。 次郎自らやって来た。

次郎が言うには、長治が疲れれば次郎が大婆を負ぶうと言うことであったが、その交代員の話は詩甫たちが犬に散々に吠えられる中、玄関の中で話し出された。

「わしはそんなに重とうない!」

などと長治に負ぶわれながらやっと玄関を出てきた大婆が次郎に言っていたが、山の中に入れば上り階段と上り坂がある。

「太郎うるさいわ!」

大婆に怒鳴られ、太郎と言われた犬が耳を倒してやっと大人しくなった。 どうやらこの太郎は大婆がこの家のトップだということを分かっているようだ。

次郎が進み出てきた時には長治も驚き、首を縦にはふらなかったが、食い下がる次郎を見て仕方がないと思ったようだ。 それは浅香が言ったことを信じてのことなのか、それともたとえ山の中に入っても次郎だけは巻き込ませないと思ってのことなのか。

次郎は三太から何かを聞いたのかもしれない。 もしかすれば長治に追い返された後も話を聞いていたのかもしれない。 それを次郎に話したのかもしれない。

「大婆、おれだって跡を継いどる」

「まーだ、尻に卵の殻を付けとるのにか」

長治に負ぶわれながらのその台詞は少々威信に欠けていたが、そこはスルーしようと思った浅香と詩甫。

「おれは卵から生まれとらん」

本気で爬虫類でもなければ鳥類でもないと言っているのであろうか、それとも冗談なのだろうか。 顔が笑っていないからどちらか分からない。

そこに遊び終えた三太と祐樹が少し離れた所にやって来た。

「うわぁ・・・父さんやってる・・・」

「ん? どういうこと?」

三太が言うには、大婆は三太の父親である次郎を、まだ子供扱いしているということであった。 実際には、大婆からしてみれば次郎は孫の孫であるのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。

「父さん・・・頑張ってるんだ」

どういう意味だろうか。

「なにを?」

「大婆の跡は取れないけど、それでも頑張って家を残そうとしてるんだ」

祐樹が首を傾げる。 全く意味が分からない。

「この家は・・・女の子が産まれなくちゃいけないんだ」

「え?」

「お爺ちゃんのお婆ちゃんから女の子が生まれてないんだ」

祐樹の知る親族で考えた。 お爺ちゃんのお婆ちゃん・・・見たことも無ければ、知りもしないがきっと生きてはいないだろう。 想像が難しい。

「三太!」

急に父親から名を呼ばれ、祐樹と二人で次郎の元に走り寄る。

「なに?」

「お前が父さんの跡を継ぐんだぞ」

「え・・・」

「何かあった時にはな」

詩甫と浅香が目を合わせる。
次郎は覚悟をしているということだ。

これで大蛇が居れば美しきかな家族愛、などと考えられるが大蛇は居ない。 大婆も勿論のこと長治も次郎も無事に帰って来る。
ただそこに朱葉姫がいるかどうかが分からないだけ。

それでも・・・。

詩甫が笑みを作る。 浅香がそれに応える。
誰が何を考えているのか・・・でもその繋がった線の最終地点には朱葉姫が居る。 紅葉姫社がある。
きっとそこに朱葉姫が居てくれる。

そう信じる。

花生は分かってくれているはず。
花生を信じる。

ついでに曹司も。

「父さん・・・」

少年が不安な顔を見せる。
三太と呼ばれるこの少年も昔語りを聞かされているのだろうから。
父と息子の今生の別れとなるかもしれない図の横で、大婆が長治の頭をパシパシと叩きだした。

「さっさと行かんか!」

とってもお元気なようである。
そのお元気は先の不安を消す為のものなのか、覚悟が出来ているものなのか、浅香と詩甫には分かりえるものではなかった。

長治が無造作に庭に止めてあったアルファードに足を向ける。

「まだ来んか」

長治の背で大婆が言う。

「いや、道で待っとる」

大婆をセカンドシートに乗せると長治自身はその横に座った。 次郎がハンドルを握り、浅香と詩甫と祐樹はサードシートに座った。 助手席は空席である。
次郎が車を発進させ庭を出てすぐに右折をする。 左折をしていれば待っていた軽トラの列に衝突しただろう。

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国津道  第55回

2021年07月26日 22時39分03秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第55回



浅香が社に着くと詩甫の姿はなかった。 まだ社の中に居るのか、それとも・・・。
浅香の背筋に寒気が走った。 詩甫を放ったまま曹司から逃げたのだった。

「まさか・・・」

辺りを見回すが詩甫の姿はない。
このままここで待つか階段の下まで見に行くか。 階段の下まで見に行って何もなければそれでいいが、またここまで上がって来るには数分で終わる話ではない。 その間に何かあったら・・・。
逡巡する。

「くっそ・・・」

浅香が蹴り出そうとした時、声がかかった。

「浅香さん?」

え? と、浅香が社を振り返ると、そこに詩甫が立っている。 

「野崎さん・・・良かった・・・」

腰をかがめ膝に手を着いた。 今の一瞬で残っていた精神力を使い果たしてしまったような気分だ。

「あ、ごめんなさい、心配をかけちゃいました?」

大きく息を吐いて、腰を伸ばす。

「いえ、僕が勝手に曹司と走りだしたのが悪かったんです」

「曹司、戻って来ました」

「ええ、とっとと朱葉姫を止めて来いって言いましたので」

浅香も曹司から朱葉姫たちがここを出るという話を聞いたのか。

「・・・どうしましょう」

「止めさせますよ。 いえ、止めますよ。 曹司だってそれを望んでますから。 それに朱葉姫だってこんな状態のお社を放っては行きたくないでしょう。 潰れるなら潰れるで見届けたいはずです」

「それじゃあ、どうして・・・」

どうしてと聞かれても、朱葉姫がどう考えてそういう結果を出したのかは分からない。

「朱葉姫が何故そう決心したのかは分かりませんけど、必ず曹司が止めます。 それで、朱葉姫に訊いてきてもらえました?」

曹司のことは浅香がそういうのならばそうなのだろう。 それならば今は実体のない不安をチョイスするのではなく、先に進むことが必要だ。

「はい、薄さんは全てを朱葉姫に話して・・・呪者からの呪を朱葉姫が解いて帰るところに戻ったと仰っていました。 そこが何処なのかは分かりませんが」

そうか、薄は全てを話したのか。 浅香が一つ頷いてみせると詩甫の疑問に応えるように一つの世を口にする。

「ああ、いわゆる・・・あの世ですかね?」

「あの世・・・」

「天国とか浄土とか死後の世界とか色々言われてますけど、そこじゃないかな?」

「そうか、そうですね。 そこで疲れた心を癒しているだろうって仰ってました」

「長すぎましたもんね」

人を憎むのに千年以上も憎み続けられるものなのだろうか、そんな風に思ってしまう。 花生が言っていた、薄は花生に対してのことなどより、薄自身が作ってしまった念に執着してしまっていると。 だがその根底にあるのは花生への憎しみ。
時を経て形を変えても憎しみは続くのだろうか。

そう言えば、と思い出した。

あの時詩甫が花生に質問をしかけたのを止めた。 その後にも分からないという顔をしていた。 花生と別れた後に訊かれるかと思っていたが、浅香が忘れていたように詩甫も忘れているようだ。

詩甫は嫉妬ということに疎いのだろう。 それは良いことなのだろうが、裏目に出ることもある。

(周りの人も気付いてるんだろうな)

意味が分からず質問をしかけたほどだ。 きっと誰にでも聞いているのだろうから。

毒蛇に噛まれた花生の様子に責任を感じた波夏真が毎日花生を見に来ていた。 波夏真のことを好いている薄がそれを許せないと思うのは、嫉妬。

波夏真が朱葉姫を邪険にしていれば花生は嫁がなかった。 そういったことを口にしていたのかもしれない。 それらしいことをまわりまわって薄が耳にしたのかもしれない。 花生が直接薄には言わないだろう。 それを聞いた薄は花生のことをが許せないと思ったのだろうと花生は言った。 それは妬(ねた)みなのではないだろうか。

いずれにしろ嫉妬。

どちらも花生の想像でしかないのか、実際に薄の気持ちをどこかで聞いたのかは分からないが、誰でもそう考えるだろう。 それなのに詩甫は疑問に思った。

(あんまり深く人を好きになったことがないのかなぁ。 ・・・そう言えば複雑な家庭環境って言ってたしな)

顔を上げると詩甫と目が合った。

「はい?」

「あ、いいえ、何でもありません」

その時、詩甫の後ろから声がかかった。

「瀞謝・・・」

浅香が詩甫の後ろを見て詩甫が振り返る。

「花生さん」

「わたくしも瀞謝から聞いておりましたね」

民を朱葉姫に見せる。 一番に花生の子孫だと。

「朱葉姫は薄のことが気になって戻ると仰られたの」

「え・・・」

「たしかにそうでしょうけど・・・」

花生がしっとりと笑う。 朱葉姫が言ったそれは嘘ではないが、その言葉の裏に隠されたものがあるとでも言いたげに。

「社にいる者たちにも、いい機会だからと。 わたくしにも・・・ずっと一人で寂しかったであろうと、もう一度、波夏真様と結ばれますようにと」

「え?」

もう一度、波夏真と結ばれる?

「朱葉姫は身罷ったあとは帰るべきところに戻っていらっしゃいました。 そこで身体と心を休めていらっしゃったのですが、社が出来て民に呼ばれるようになって社にやって来られました。 社が建ってすぐにではありません。 何度も何度も横たえた体の遠くで民の声を聞かれていたとお話しくださいました。 その時に波夏真様に会われたと。 波夏真様はわたくしを待って下さると仰っておられたそう」

それは二人で手と手を取り合って生まれ変わるということだろうか。 波夏真は今も花生を待っているのだろうか。

「それで花生さんと一緒に戻られる、と?」

それが今の朱葉姫の望みなら叶えなくてはいけないのだろうか。 以前の朱葉姫の望みはもう今の望みに変えられたのだろうか。

戸惑う詩甫を見て花生が微笑み首を振る。

「安心なさい。 朱葉姫には瀞謝が連れてきた民を見て頂きます」

「花生さん・・・」

「今も曹司が朱葉姫を説得していますが、わたくしが戻らないと言えば朱葉姫も戻られないでしょう」

それでは花生と波夏真はどうなるのだろうか。 波夏真はずっとこれからも花生に会えないのだろうか。

ふふふ、と花生が笑った。

「朱葉姫が瀞謝のことを心配性と言っていましたが、そうなのね」

「いいえ・・・そんなことは・・・」

「顔に書いてありますよ」

「え?」

「わたくしは少しの間、朱葉姫に添います。 瀞謝が連れてきた子孫に会わせてもらいます。 そのあとに戻ります。 波夏真様に会いに。 でなければ朱葉姫が悲しみますから」

その後はどうなるのだろうか、朱葉姫はどうするのだろうか。 そんな疑問が出たが、つくづく思うところがあった。

「朱葉姫は・・・皆さんに愛されているんですね」

花生が静かに頷いた。 もう一度「安心なさい」 という声を残し、空を見たその姿が段々と透けて詩甫の前から居なくなった。



甲斐が祐樹の隣の椅子に座って本の頁をめくっている。 その表紙が改めて祐樹の目に入って来た。

(あれ?)

表紙のタイトル、それをどこかで見たことがあるような・・・。

(・・・あ!)

思い出した。 パソコンルームで見たのだった。
朱葉姫のことを調べようと思ってパソコンルームに入り込み、サーチをかけた時にこのタイトルが出ていた。 そしてクリックを仕掛けた時に先生に見つかったのだった。

(あの時に出ていたのがこの本だったんだ)

「あ、ここ」

めくっていた手を止め甲斐が祐樹に本を差し出す。 そこに書かれていたのは『紅葉姫社 朱葉姫』 であった。

朱葉姫の事が書かれていないかと思って本を手にしたが、まさか本当に書かれていたなんて。 祐樹がゴクリとつばを飲む。

そこに書かれているのは僅かだった。 情報が薄いようだ。 とは言っても祐樹も朱葉姫の何かを知っているわけではない。 ただ会ったことはある。 ここは胸を張れる。

『民を愛し民に愛された姫』 そんな書き出しだった。
その後には、どうして朱葉姫なのに紅葉姫社となったか、朱葉姫がどれだけ民に添っていたのかの具体例、そして朱葉姫が短命であったと書かれていた。
大雑把にはそんなことが書かれていた。 大人の本だ。 分からない漢字もあるし、理解できない文章もある。

「祐樹君、朱葉姫のことを知ってるの?」

まだ読んでいる途中で甲斐に話しかけられた。

「あ・・・え?」

「知ってるから聞いたんだよね?」

「ああ・・・うん。 姉ちゃんがどこかで聞いたらしくてそんな話を聞いてたから。 ・・・甲斐は知ってたの?」

「この本で知ったの」

「朱葉姫のこと、どう思う?」

「可愛らしいお姫様だったんだなってね。 それに凄いと思うよ」

「なにが?」

「うーん・・・他のお姫様って功績を残してたりしてるけど、朱葉姫は残してない」

「それのどこが凄いの?」

「功績を残すって並大抵じゃないと思うけど、そんなお姫様はみんな立派なお屋敷のお姫様。 お姫様のパパの位が高いっていったらいいのかな、でも朱葉姫はそうじゃない。 功績を残すなんて根本的に出来る立場にない。
人って自分にとって都合のいいことをしてくれればその人のことを良く言う、そうして伝説に残る。
言ってみれば政治家もそうよね。 その地方にお金をかけたり、都合のいいことを言ったりして地域の人から再選を受ける。 伝説に残るかどうかは知らないけど。
でもそんなことじゃなくて、みんなが朱葉姫のことが好きだったんでしょ? それってすごく難しいことだと思うんだ。
ここに書かれている年代・・・年代の絞り込みが広すぎるけど、もし奈良時代に引っかかっているのなら、その時代は租庸調の問題が多くかかってきていたはず。
朱葉姫のパパだって悠長には構えていられないはずだったのに、朱葉姫のパパは朱葉姫がすることに何一つ言わなかった。 朱葉姫もそれを分っていて民に添った。 それって凄くない?」

あの無口とも言える甲斐が一気に言った。 きっと朱葉姫のことを褒めてくれていたんだろうとは思うが、話の途中で分からなくなった。

「そ、そうなのかな」

二人の話に聞き耳を立てていた脇田が口を挟んでくる。

「柚葵(ゆずき)ちゃん、難しい話し、し過ぎ」

「あ? え? そう?」

「受験勉強しすぎ」

「そ、そうなのかな・・・」

「え? 甲斐、受験するの?」

「うん、お姉ちゃんと一緒の中学に行きたいから」

「そっか、姉ちゃんが中学校で待ってるのか」

甲斐が首を振る。
どういうことだ。

「来年には高校に受かってるはず」

「ん? じゃ、一緒に中学に通えないのか?」

「それでもいいの。 お姉ちゃんの後を追いたいから」

「柚葵ちゃん、お姉ちゃんと別々に暮らしてるから特にそう思うの」

話しを聞いていた脇田が更に説明を入れる。

「柚葵ちゃんはお母さんと暮らしてるけど、お姉ちゃんはお父さんと暮らしてるから。 お姉ちゃんが難関中学を受かったから、私たちの学年は大抵知ってるけど、祐樹君は知らないの?」

「そっか・・・知らないな」

詩甫の顔が浮かんだ。 詩甫と祐樹も別々に暮らしている。

「優香ちゃんから聞かなかったの?」

「え? なにを?」

どういう意味だ。 どうしてここで優香の名前が出てくるのだろうか。

「一年の時、祐樹君の担当、優香ちゃんだったじゃない」

脇田とは一年生の時に同じクラスだった。 だから優香が祐樹の担当だったと知っているのだろう。

「うん」

「仲、良かったよね? 他の一年と担当の五年と比べて」

「そうかな・・・」

「そうだよ」

「でも、それが何?」

「何って、柚葵ちゃんのお姉ちゃんは優香ちゃんだよ」

脇田の爆弾発言に地球の自転が勢いよく反対周りをするかと思った。 それほど衝撃だった。

「はぁぁぁー?」

「さ、マドレーヌとシュークリームが焼けたわよ」

大皿にシュークリームを乗せて脇田の母親がリビングに入ってきた。 その後ろに籠に入れたマドレーヌを持って家庭科クラブがくっ付いてきている。

「まだケーキを焼くから食べ過ぎないようにね」

ポンとテーブルにウェットティッシュのケースが置かれた。 手は洗わず拭くようだ。



翌週末、ランドセルを背負って祐樹が詩甫の部屋にやって来た。 部屋に入るとランドセルを下ろしてその中から本とメモを取り出す。
本を座卓の上に置き、メモを持ってキッチンに入る。

「浅香の冷蔵庫とは違うからな」

ビールしか入っていない浅香の冷蔵庫とは違って、詩甫の部屋の冷蔵庫には料理に使う何某かは入っている。 それに卵は絶対に切らしていない。
冷蔵庫を開けるとしっかりと卵が入っていた。 卵さえあれば何とかなる。

「カニカマは・・・無いか」

続いて冷凍室を開ける。 冷凍のグリーンピースを探すが見当たらない。 仕方なくグリーンピースも諦めて調味料を探し出す。

「おっ、鶏ガラスープの素があった」

他に醤油、料理酒、酢、片栗粉とそこまで揃えた。 塩コショウは常に使うからだろう、シンクの上に置いてある。
メモには(オイスターソース)(砂糖) とカッコつきで書いてあった。

『オイスターソースって必ず置いてあるとは限らないから無くてもいいわよ。 甘めが好きならお砂糖を用意してね』

脇田の母親がそう言っていた。

「これで良しっと」

全てをテーブルの上に揃えるとリビングに戻り電話を手に取り短縮ボタンを押す。 すぐにコールが鳴り留守番電話に切り替わった。

「姉ちゃん? 今日は買い物して帰らなくていいから」

それだけのメッセージを残すとキッチンに舞い戻る。 冷蔵室にも冷凍室にもご飯は残っていない。
腕まくりをしてすぐに米を洗う。 時計を見る。 四時三十分。

「終わりの会が長引くから・・・」

その上、五年生になってから金曜日までも六時間授業になってしまった。

詩甫は七時ごろに帰って来る。 まだご飯を炊くには早い。
ボールとフライパン、鍋を取り出す。

『いい? この片栗粉の量を間違うと大変なことになっちゃうからね』

脇田の母親に超簡単お手軽レシピを教わってきた。 鍋の中にメモ通りの量の調味料を全部入れて片栗粉を溶かし沸騰させる。 それだけで餡が出来るというシロモノものだ。
更に卵の焼き方も教わってきた。 いや練習させてもらってきた。 餡も然りである。

『今日のうちの夕飯は賑やか天津飯ね』 と、やっと最後に上手く出来た卵を見て脇田の母親が笑いながら言っていた。

「六時くらいから始めるか」

その時に炊飯のスイッチを入れればいい。 米のとぎ方から水の量、電子ジャーでのセットは既に詩甫に教わっていた。

それまで浅香に借りた単行本を読んでいよう。

「あ、やば。 宿題があったんだ」

リビングに戻るとランドセルからノートと教科書、ペンケースを出した。



帰って来てすぐに着替えるように言われた詩甫。 留守番電話を聞いた時にはラーメンを作ってくれるのだろうな、と思っていたのに。 テーブルにはそうでは無いものが置かれていた。

「今日は天津飯」

「え、凄い・・・」

一言漏らすとキッチンの椅子に座りながら訊ねる。

「どうしたの?」

詩甫の前にスプーンを置く。 詩甫はあまりレンゲが好きではないらしく、このキッチンにレンゲはない。
祐樹も椅子に座る。

「脇田って覚えてる?」

「うん」

「脇田の家に行った時、脇田のお母さんに教わったんだ。 カニカマとグリーンピースがなかったからちょっと残念だけど、万が一無くてもそれでいいって言ってたから」

「うん、ぜんぜんいい。 嬉しい」

「姉ちゃん、コーヒーにお砂糖入れるからちょっと甘めにした。 オレも甘い方が好きだし」

細かいことまで考えてくれていたようだ。

「うん、いただきます」

詩甫が作るのとは違って、店のように餡が多めの天津飯だった。 その餡が美味しい。

「祐樹、美味しい!」

いくらでもご飯に絡めて食べたくなる。 それに卵もふんわりと仕上がっている。

「卵もフワフワ」

「へへ」

甘目にして正解だったようだ。

食事を終えると祐樹がシンクの前に立った。 洗い物をするのだろう。 作ってもらったのだから洗い物は詩甫がすると言ったが、祐樹がそれを認めなかった。

「いっつも姉ちゃんに作ってもらってるんだからこれくらいする。 姉ちゃんはあっちに置いてある本を読んどいて」

「本?」

詩甫が祐樹があっちと言った座卓に目をやると、そこに一冊の本が置かれている。

「紙を挟んであるから、そのページ」

祐樹が洗い物をしだした。

祐樹が読むようにというのは何の本だろうかとリビング行き、座卓の上に置かれていた本を手に取った。
表紙には『姫伝説』 と書かれていた。

「え・・・」

どういうことだろうか。
栞代わりの紙が挟まれた頁を開ける。

『紅葉姫社 朱葉姫』 

第一行にそう書かれたいた。

「え?」

座り込んで書かれている文字を目で追う。

洗い物を終え、布巾で皿を拭いていた祐樹が詩甫を見ると座り込んで本を読んでいる。

(甲斐が思ったことを姉ちゃんに話そう)

甲斐は難しい話をしたが、分からないところは置いておいても、分かる所は分かっている。 甲斐と同じようにこの本を読んだ人は朱葉姫が何をしてきたのか、どんなお姫様だったのか、それを分かっているはず。
朱葉姫に会ったことの無い甲斐のように。

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国津道  第54回

2021年07月23日 22時41分09秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


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- 国津道(くにつみち)-  第54回



大婆の家を辞した浅香と詩甫が長治に送ってもらって山までやって来た。 浅香は軽トラの荷台に乗るという生まれて初めての経験をした。

乗用車は誰かが乗っていってしまっていたということであった。 多分、女連中で買い出しにでも行ったのだろうということである。
そう言えば、この家で誰かを苗字で呼ぶとあちこちから返事が返ってくると聞いていた。 大家族なのだろう。

座斎に下ろしてもらったのと同じ所で止めてもらい、浅香は軽トラの荷台から跳び下り、詩甫は助手席から下りてきた。

「じゃ、ご連絡お待ちしています」

「ああ。 まっ、親戚連中が何を言おうと大婆は行くつもりだから」

そう言って浅香の背後を見る。 ここからでは山の中は見えない。

「何度もお社に行ってるって言っとったけど・・・」

「はい」

「本当に何もなかったのか?」

「はい。 素人仕事ですけど少し前にはお社の修繕もしました。 何もありませんでしたよ」

「・・・そうか」

修繕か・・・。 そう言えばかなりガタがきていると言っていた。 土地の者でない者が社を修繕したのを、この土地の者は知ることも無いということか。
別れ際、そんな話をして軽トラがUターンをして去って行った。 座斎のように何度も切り返しをすることはなかった。


そして今二人で肩を並べ階段の下までやって来た。

「もう危険がないと分かっていても緊張しますね」

その為にもやって来た。 薄はもう心改めたのだ、何の心配もないと分かっていても心配は尽きない。 ましてや大婆を危険な目に遭わすわけにはいかないのだから、自分達の目で身体で確かめなくては気が済まない。

「手、繋いでいいですか?」

「え?」

「ここを上るのにずっと集中するのって疲れるんですよね。 緊張してるとは言っても、もう安心だとどこかで思っていると気が散漫になってしまうと思うんです。 万が一の時の為に」

「あ、気が付かなくて。 そうですよね、疲れますよね」

詩甫は自分自身だけを守れば良かった。 だが浅香は他人を守らなくてはいけなかったのだった。 ましてや一度目に詩甫は薄の手にかかってしまっていた。 その後の緊張は計り知れないものがあっただろう。
だが今それは不要な物とは思うが詩甫とて言い切れない。

「じゃ」

そう言って浅香が手を出すと、詩甫がその手に自分の手を重ねた。

「行きましょうか」

浅香も詩甫も山の安全の確認に来たこともあるが、その後、花生や薄がどうしたのかが気にもなってやって来た。

何日か後に大婆がやって来て社に手を合わす。 以前なら朱葉姫に謝っただろう。 だが浅香の話を聞いて、もうそんなことは口にしないかもしれないが、何を言うかは分からない。
大婆が全てを一から話せば、それを聞いた何も知らない朱葉姫が疑問に思うだろう。

花生は全て終わった事と臭わすようなことを言っていた。 それは薄のしたことを朱葉姫に言わなくてもいいということであったが、薄が朱葉姫に何もかもを話し謝罪したのかどうかも分からない。

その後の話を訊くために、詩甫が瀞謝となって社に入る、または花生に出てきてもらう。

階段を上り切った。 何も不穏なことは無かった。

「なにかどこかで・・・」

浅香の口が止まった。
詩甫が前を見ている浅香を見る。 その浅香は決して厳しい表情ではない。 その浅香の顔が下がる。

「僕って小心者ですね」

「え?」

「まだ何かがありそうで、心拍数激バクです」

そう言われれば詩甫の手を握る浅香の手にじっとりと汗をかいているようだ。 集中力が散漫になるかもしれないと言っていたが、そんなことは無いのだろう、ずっと集中していたのであろう。

「浅香さん」

「はい」

「花生さんを信じて下さい」

「え?」

浅香が詩甫を見る。 まさに今が散漫である。

「花生さんはこの階段までいつも見ていらした」

それ以上上に行くことは無かった。 それはそれ以上行くと朱葉姫に花生の気を感じ取られるかもしれないからだった。

「山を上がるにこの階段は外せません。 そして階段の上の坂、お社までの道。 そこは曹司と朱葉姫が守っていたはずです」

「ええ」

「花生さんはずっとここで守っていらっしゃったと思います。 朱葉姫を脅かす誰か、お社に近づく良からぬ思いを持った者、その誰もがこの階段を上がることは出来なかったはずです」

「花生さんが?」

「戦のあった時には花生さんが抑えきれなかったかもしれませんが、その方たちですら、朱葉姫を脅かす方たちではなかった。 彷徨った者もそれは朱葉姫に害をなすものでは無いのですから、花生さんも通したでしょう」

「それって・・・」

「はい、朱葉姫を慕い、亡くなってお社に来た方々、その方々は皆、この階段を上がってきたはずです」

「ではどうして花生さんは薄を通したんですか?」

「どうして薄さんより花生さんが先に亡くなったと考えるんですか?」

「あ・・・」

そう言われれば薄と花生二人の姿を思い出した。 だがその姿とて自分が一番表わしたいときの姿である。 それでも薄の姿は花生より歳上であった。

「もしかして・・・薄は花生さんよりずっと年上?」

詩甫が頷く。

霊体が現す姿、それは霊体が一番思い出深い時の姿であろう。
薄は朱葉姫の兄に恋をしていた。 その時の姿を現しているはず。 花生は朱葉姫の兄と幸せな時を過ごしていた時の姿を現しているはず。

花生は艶っぽい姿であったとしても、それは内から出る色気や元々持っている仕草であって、年齢的には二十歳を少し越したくらいだろう。
対して薄は三十五歳前後。

「でも曹司が言っていましたが、曹司以外は朱葉姫が亡くなった頃の姿をしているそうですよ?」

「そうですか・・・。 疑われないようにでしょうか。 でも花生さんより薄さんの方が随分と歳上なのは間違いないでしょう。 花生さんが波夏真さんに見初められる前から薄さんはお館にいたということですから」

霊体が現している花生と薄の歳の差はおおよそ十五歳。 花生は波夏真と暮らしていた幸せの頃。 対して花生は朱葉姫が亡くなった頃。

花生が波夏真と結婚をして十五年後にまだ未婚の朱葉姫が亡くなったというのは考えにくい。 いくつの歳の差の兄妹だ、ということになる。 それに大婆が朱葉姫と兄の波夏真との年齢差は四歳と言っていた。

「他の方はどうか分かりませんが、花生さんと薄さんは亡くなってすぐにここに来たはずです」

「そういうことか・・・」

花生より薄の方が先に亡くなった、詩甫が言それは単純に年齢的にということである。
昔のことだ、どんな病が蔓延していたのか分からないが、きっと二人とも大きな病に侵されることもなく天寿を全うしたのだろう。

詩甫は花生がここに来てからはこの階段を上る者を花生がちゃんと見ていたと言っている。
この山の中に居るのは少なくとも花生が死んだ後には、花生の目に合格と押された者たちだけということ。 だから安心していいと。

「でも、浅香さんも私も知らない何かがまだあるかもしれませんけど」

「これ以上あってもらっちゃ困ります。 でも少し気が楽になりました。 そうですね、花生さんを信じればいいんですよね。 行きましょうか」

あの美しい人を信じればいい。 思い出しただけで鼻の下が伸びてきそうだ。

「はい」

坂を上り、目の前から木々の覆いがなくなると社の前までやって来た。
ここまでは前回も前々回も不穏なことなど感じなかった、と心の中で呟く。 まだ浅香の気はどこか張っている。

「先に曹司を呼ばせてください」

はい、と詩甫が答えようとする前に後ろから曹司の声がした。

「どうして手を繋いでおる」

曹司のその登場の仕方、台詞に浅香が眉間に皺を寄せ下を向く。

「・・・」

肩越しに振り返った詩甫が頬を少し赤らめ浅香との手を解く。

「褌(ふんどし)をしっかりと絞めておれば、そのような稚拙なことをしないで済むものを」

浅香が一つ大きく息を吐く。

「野崎さん、どうぞお社に向かって下さい。 この害虫は僕が相手をしますので」

「害虫とは誰のことだ!」

「曹司のことだよ!」

「亨! 先祖に向かってその言い方はなんだ!」

「先祖先祖って! 曹司は俺だろうが!」

「ややこしい言いようで逃げるのではないわ!」

「ややこしくしたのは曹司だろうが!」

「なにを!?」

「勝手に分霊なんかにしたのは曹司だろがっ」

曹司の手がプルプルと震える。

「亨・・・そんなに分霊が嫌なのなら、今すぐ切ってやる!」

震えた手を腰にある剣呑な物に添える。

「え? 嘘だろ?」

浅香が走って逃げる。 それを追う曹司。 放ったらかしにされた詩甫。

「浅香さん、曹司を信用してるんだ」

それはそうであろう。 浅香は曹司の分霊なのだから。 そして曹司は浅香の元の霊(たま)なのだから。 それを互いに知っていて今の曹司と浅香劇場がある。
詩甫が口角を上げる。 自分も朱葉姫と花が香るような劇場を作ってみたい。

浅香が置いていった荷物を手に社の前に進み出る。 半紙の上に供え物を置き、その横に花束を置く。 そして手を合わせ目を瞑る。
ふっと目を開けた時には社の中に居た。 目の前には朱葉姫が居る。

「いつもありがとう」

それは花束と供え物のことだろう。

「瀞謝、有難く思います」

「え?」

今、礼は聞いた。 他に何のことだろうか。

「瀞謝のお蔭でお姉さまがいらして下さいました」

改めて見ると朱葉姫の横には花生の姿があった。 斜め後ろに座っている一夜が誇らしげに美しい義姉妹を見ている。

「花生さん・・・」

花生がここに居るのは瀞謝が何かを言ったわけではない。 朱葉姫の言うようなことは何もしていない。 詩甫は一言も花生に社に行くようになどとは言っていない。 言ったのは薄と曹司だ。

花生が微笑む。

「瀞謝が居なければ薄と向き合うことが出来ませんでした。 瀞謝のお蔭よ」

花生が詩甫に話すのを微笑みながら聞いていた朱葉姫。 その笑みを薄くして詩甫に言う。

「薄から全てを聞きました」

「え・・・」

「お姉さまが居て下さったから薄は話してくれたのでしょう」

「朱葉姫・・・」

「心配せずともいいのですよ」

朱葉姫が微笑む。

「瀞謝は心配性ね」

「・・・薄さんは?」

辺りを見回しても薄の姿がない。 朱葉姫が制裁を加えることなどないはず。 それなのにどうして薄の姿がないのか。

「わたくしの力が衰えたと言っても、人の施した呪など解くことは出来ます」

どういう意味だろうか。

「薄は帰るべきところに戻りました。 今頃は疲れた心を癒しているでしょう」

薄は呪者に願った。 この社が朽ちるまで・・・この社が朽ちれば成仏すると。 そして呪者が薄の願い通り呪を施した。
まだ社は朽ちて潰れてはいない。 薄は戻れないはず、帰ることが出来ないはず。
だが朱葉姫が呪者の呪を解いた。
薄は戻ることが出来たのだ、帰ることが出来たのだ。

「わたくしたちもそこに戻ります」

「・・・え」

「瀞謝にそれを伝えたくて待っていました」

「待って!」

唐突な詩甫の声の大きさに朱葉姫が息を吸った。

「待って下さい!」

「瀞謝?」

「お願いします、あと少しだけ待って下さい!」



「なんだよそれ」

曹司から逃げ回り、小川のへりでようやく息をつけ、曹司から話を聞いた。

「話が分からんのか? その頭と耳、鍛え直してやろうか」

「曹司の方が鍛え直す必要があるだろ」

「なんだと!?」

「いちいち突っかかるなよ。 話は分かったよ。 でも俺と瀞謝はそれを望んでないんだけど?」

「姫様が決められたことだ」

「曹司はそれでいいのかよ、瀞謝は朱葉姫に民の笑顔を見せたいと思ってるのに」

「・・・」

「だろ? 返事が出来ないだろ。 朱葉姫を萎んだまま終わりにさせるなんて、曹司も願ってはないだろ」

「当たり前だ」

「瀞謝はお社を復活させるつもりだ。 つもりなんてもんじゃない、復活させる。 民も来る。 いや、一番に花生さんの子孫っつーか、遠くはなるけど血縁者がお社に来る」

「花生様の? どういうことだ」

「どういうも何もないよ、その時まで朱葉姫を説得するのは曹司の役目だからな」

「亨・・・」

「俺の分霊だろ? それくらいしろよな。 瀞謝は今ごろ朱葉姫と会ってる。 とっとと瀞謝と一緒に朱葉姫を説得してこいよ」

「己の分霊が亨だ。 己は亨の分霊ではない」

はぁー? そこかよっ! と浅香が言った時には曹司の姿はなかった。

「くっそ、身勝手なヤツ!」

朱葉姫を説得してこいと言ったのは浅香だ。 ましてやとっとと、とも言った。 どっちが身勝手なことを言っているのだろうか。

立ち上がると曹司に続くようにすぐに社に向かった。

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国津道  第53回

2021年07月19日 22時49分47秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第53回



「一つの話ですが、そうは考えられないかと」

大婆が軽く瞼を下げて浅香から目を外す。

浅香の言うことを簡単に受け入れられるはずがない。
先祖たちは、親族たちは思い悩んだ、何年も何十年も何百年も、花生のしたことに。 そしてお婆が決断を下した。 それを否定など出来るはずがない。

「大婆さんのご先祖さんたちが考えられたことに間違いですと言っているわけではありません。 ただ、花生という人も大婆さんたち血筋のご親族です。 呪者を信じるのではなく、大婆さんたちのご親族を信じられたように花生さんを信じては頂けないでしょうか」

―――花生も親族。

そうだ、花生も親族。 親族だからこそこんなことになった。
だが、何故、どうしてだろうか。 その昔、どうして先祖たちは呪者を信じたのだろうか。
昔語りの片隅に花生の両親は親族たちから責められた時、認めなかったと語られている。 そしてそれは言い逃れる為だと語られている。

どこかにそんな証拠があったのだろうか。
・・・そんな語りはない。

大婆が何かを打ち消すように半眼になっていた瞼を上げる。

「では大蛇は誰だ?」

「僕は犯人探しをするつもりはありません。 ですが大蛇が居るという昔語りによって誰もお社に行かないというのを寂しく思っています」

「何が言いたい」

「その方はその姫の名を朱葉姫と仰ってました」

「なっ! なんだと!」

長治が腰を上げる。

「長治、落ち着け」

大婆が長治を目で制すると無言で浅香を見る。

「紅葉姫社とは知っていらっしゃらなかったようですけど」

「実家が神社だと言っとったな」

ということはその地に長く居るということ。

「はい」

「この村のどこか近くの村か」

「いいえ違います、ずっと離れた所です。 この地域ではありません」

「どうして他所の者が朱葉姫のことを知っとる」

「神社の学校に行っていたということです。 その中で先輩から代々伝えられていることの一つとして聞いたと話していらっしゃいました」

代々伝えられていると言わなければ、願弦の年齢を訊き、そこからこの地域にいる似た年齢の神主を探し出し、それこそ犯人探しをするだろう。

長治が口を歪め横を向く。

「では今まで話したことは、この地域に残っている昔語りということか」

知らぬ間に他所の者にこの地域の話を聞かれていたということか。
今の浅香の話しからはどこからどこまでが浅香の考え方で、神社の学校に行っていた者が聞いたというのがどこからどこまでなのか、それが分からないが、昔語りは口が裂けても他所の者に話すなと禁じられていたというのに。

(お婆・・・時は流れとるようだ。 大蛇、いや、花生のことも・・・)

「村によって昔語りが違うようですから、どこの村の昔語りかは分かりませんが、この地域のことに間違いないと思います」

もし浅香の言うことが真実ならば、見たことも会ったこともない先祖、お婆に今更何を訊いても言っても仕方がない。 それよりもこの浅香たちとはこれからのことを話さなくてはいけない。

「今まで話したことがあんたの言った通りだったとしても、大蛇のことがあっては誰も社には近づかん」

「他の村は山の神が大蛇を遣わした、そう残っているようですが、それに対してはどう思われますか?」

現代でこそそんなことは無いと考えるが、当時の人々の感覚では天災も飢饉も厄災も全て神の怒りだと考えていた。
小さな村々ではあるが、あの山では人死にがあった。 当時の人々がそれを神の力と考え、その眷属が遣わされたと考えても不思議ではない。

「くだらん」

大婆は一蹴した。

「そうですよね。 他の村の昔語りの大蛇はくだらない話、そしていま話した内容をご納得いただけるのであれば、僧里村に残っている昔語りの大蛇は花生という人ではなかった」

「だからと言って人が死んでいることは消せん事実として残っとる」

「はい、それを疑っているわけではありません。 ですが最初の方にお話ししました中で、同じことがありましたでしょう?」

大婆がわずかに首を傾げる。

「生きていた人を冤罪にした。 その怨霊を恐れた時の人々はその人を神として祀ったと話しましたが、何故怨霊として恐れたのか。 それは冤罪にしたあと、天災が起きそこから飢饉、病気が蔓延したからです。 当時はそう考えたのでしょうが、今の時代はそうは考えません。 天災は天災、人智の及ぶところではありませんし、病気の蔓延はウィルスでしょう、飢饉にしてもその時代は今のように食料のストックもありません。 缶詰もレトルトパックも」

祀ったのは時の力の有る者だ。 時の権力者が冤罪を被らせた者からの怨念を怖れて神と崇めた。
だが紅葉姫社は朱葉姫に何かをされて建てた社ではない。 朱葉姫が亡くなり民が朱葉姫を想い建てた社である。 それに誰も朱葉姫を怖れてなどいない。

だが花生はどうだ、人死にがあったのは花生の怨念と言われている。
真実は冤罪だ、だが昔語りから言うと花生は冤罪ではない。 だからというわけではないが、花生には社も建てていなければ畏怖の心も持ち合わせていない。 だがそれがなんだ、冤罪ではなくとも花生の社を建てれば花生の気が落ち着いたとでもいうのか。 そんなことは無い。 冤罪である花生は社がなくとも村人を怨んでなどいない。

「人が死んだのは・・・偶然、だったとでも言いたいのか」

「昔はそう考えはしなかったでしょうが、少なくとも今の時代ではそれが冤罪を負わされ亡くなった人がした事とは考えないでしょう」

「だが偶然にすれば、この村の者ばかりが死んどる。 社を直そうとした者も」

「お話しではこの村の方々がお亡くなりになったのは、朱葉姫に謝りに行こうとしていた方々。 負い目を感じていらっしゃったでしょう、それこそ歌を作ってその歌を歌って花生っていう人の気を鎮めてもらってから山に登る。 気負いがあったと思っても不思議ではありません。 それに社を直そうとされたのも、何度も直そうとしてそうなったのか、たった一度だけなのか、昔語りにありますか?」

長治が渋い顔をした。 昔語りにはそこまで語られていない。

「それじゃあ・・・わしらの先祖が自ら足を滑らせたとでもいうのか」

浅香は気負いがあったと言った。
その浅香が首を振る。

「言い切れるものではありません。 亡くなった方々にしか分からない事ですから」

亡くなった長治の先祖は薄に殺された。 それなのに自ら足を滑らせたと言ってしまえばご先祖さんに申し訳がない。 それを思うと説得するためだといっても言い切れるものではない。

浅香は願弦と話していたことを上手く言ってくれた。 詩甫は何一つ言わなくて済んだ。 もし詩甫に振られれば言い淀んだり顔色を変えたりしただろう。
大婆が言っていた

『どうして朱葉姫が苦しまなければならんかった? どうして苦しみ死ななけばならんかった? それを考えてくれ』

大婆に言われてからずっとそのことを考えていた。 それを思うと心が締め付けられる。 そのときの朱葉姫がどれだけ苦しんだのか。 想像に絶するものがあっただろう。

だからと言って薄のことを知り薄を責めることは出来ない。 花生もそうだ、決して薄を責めてはいない。 それに今の朱葉姫はそんなことを思わせない程に愛らしい笑みを向けてくれる。
きっと・・・体も心も癒せたのだろう。

苦しんでいた時の朱葉姫のことを考えるのではなく、今の朱葉姫に添うのが一番必要なことではないのだろうか。
改めてそれに気付いた。

詩甫の心中など知らない浅香が詩甫に頷いてみせる。 詩甫が浅香に頷き返す。 それは先に考えていた段取りであった。
長治さん、お願いがあります、と詩甫が話し出すという段取りであった。 だが詩甫は違うことを言った。

「大婆さん、確かに朱葉姫は苦しまれました」

『どうして朱葉姫が苦しまなければいけなかった? どうして苦しみ死ななけばいけなかったのか』
大婆から問われたことだ。

詩甫が段取りと違うことを言い出した。 浅香は仕方がない、と心の中で息を吐いた。 詩甫が口にしたのは朱葉姫のことだ。 詩甫の気が済むように、そして助けがいるのならば応じようと。

「もがき苦しみ亡くなりました」

大婆が改めて詩甫を見る。

「でもそこに括られてはいけないと思います」

「どういうことだ」

「朱葉姫は肉体の痛みに苦しまれた。 それ程に呪が大きかった。 ですけど後になって・・・お社を守る朱葉姫となってお社にいらっしゃる。 何もかもをお分かりになり包括し赦されたのではないでしょうか」

なにもかも、それはいま浅香が話したことに準ずる。

「お社はかなり朽ちてきています。 ですが人が入らなかったのに、人が何百年も手を加えなかったのに朽ちているとは言え、まだ建っています。 それはあのお社を、当時の民が建ててくれたお社を朱葉姫が守っていらっしゃるからなのではないでしょうか。 それは赦しているということになるとは思われませんか?」

そう言われればそうだ。
正確には昔語りがいつからのものかは分からないが、もう長く人は入っていない。 誰も社に手を加えていない。 普通に考えるともう崩れていてもおかしくはないはず。

「朱葉姫が赦されたのなら、私たちは過去の朱葉姫にではなくこれからの朱葉姫のことを考えませんか?」

決して無かったこととは言わない。 だが朱葉姫はそこに止まってなどいない。 それなのに当事者でない者がそこで足踏みをしていたら朱葉姫が悲しむだけだ。 詩甫が切々と大婆に訴えた。

大婆は最初、詩甫の目を見ていたが、詩甫が話すうちに正面に目線を移していた。 そして詩甫が話し終えてもそのままの状態で動かなかった。

詩甫は言いたいことを言い終えただろう。 そろそろ本題に戻っても良いのではないかと、浅香が詩甫の名を小さな声で呼んだ。
詩甫が頷き段取り通り運び出した。

「長治さん」

詩甫が座布団から外れ、畳に両手の指先を着いた。
長治が片眉を動かす。

「もし、いま浅香さんの話されたことを信じて頂けるのでしたら、大婆さんを負ぶって社に行ってくださいませんか?」

「それは・・・大婆が言っていたことをやるってことか?」

「はい。 私は何度もお社に行っています。 この村の人間ではありませんから睨まれたり何かがあったりというわけでは無いと言われればそれまでですが、もう潰れかけのお社ですが、お社には清々しい空気が流れています。 とても大蛇が居るような山のお社ではありません」

「あんたは、いま聞いたことを信じているということか?」

「はい」

「それで万が一にも大婆に何かあったらどうす―――」

「長治」

大婆に止められた長治が大婆を見る。

「元より死ぬ覚悟がある、今更何を言うか」

それは足が思うままにならなくなり折れかけたことだったが、考えていたことを貫くということ。

「けど! まだ跡継ぎの女を見とらん!」

「生まれる時には生まれる、そうでなければそれまで」

「大婆・・・」

貫くきっかけが出来たからなのか、詩甫の言ったことに心を打たれたのかどうかは分からないが、どちらにせよ大婆は動いてくれる。 だが長治が動いてくれないのであれば。

「長治さんに頼めないのでしたら、僕が大婆さんを負ぶります」

「ほほぉー、そうかい、若い男の方がいいってもん―――」

「大婆!」

「なんだい、たまにはこんなヒョロっこいのも―――」

「それ以上言うな! 百も越えて何を色気付いてきとる!」

(え? 色気?)

「ごついのばっかり見てりゃ、そうも思うわい」

「三太を見てるだろ!」

三太・・・さっきの少年。 少年と一緒にされた。 浅香の心の一部が欠けた。

「わしが負ぶって行くと決めてたことだ、わしが負ぶって行く」

詩甫が手を着いて深く頭を下げる。 村の人間ではない詩甫が下げることではないのに。
その姿をちらりと見て浅香に目を転じる。

「あんたらはどうする」

「ご同行させてください」

いまにも沈没したい心の欠けた浅香が答える。

「それじゃ、今日にでも行くか?」

「大婆! もうちょっと考えろ」

「ご予定もあるでしょうし、親族会議が必要なようでしたら来週、再来週、いつでもと思います。 僕が口を挟むところではありませんが、僕としてはご親族皆さんのご同意のもとにというのが一番かと思います。 ですがお社はかなり傷んでいます。 今すぐに倒れるということは無いとは思いますが、万が一にも雨が続いたりしましたら保証できるものではありませんので、月単位では・・・」

「ああ、浅香君の言う通りだ。 まずは親族で話してそのあと村に話すのが一番だ」

「勝手にせい。 わしはどう決まろうと社に行くからな。 お前が行かんというなら、若いのに負ぶってもらうだけだわ」

「まだ言うんか。 わしが負ぶると言うとるだろ。 ただその前に親族で集まる。 それでいいな、大婆」

「勝手にせいと言った」

長治が片方の顔を歪めて大きな息を吐く。 そして浅香に向かい合う。

「こちらから連絡を入れる。 来週か再来週、その辺りで」

「はい、お待ちしています」

長治に連絡を入れているのはいつも浅香からであって、この家の誰かが浅香の連絡先を知っているわけではない。 メモとペン、と思ったその時、長治がポケットからスマホを出した。

失礼だが、まさかスマホを持っているとは思わなかった。 メモに書くのではないのか。 今どきだ・・・。



脇田の家では、脇田の母親も一緒にお菓子作りをしていた。 親子ともどもお菓子作りや料理が得意なようだ。

家庭科クラブからは同じ学年の女子が三人来ていた。 一人増えたようだ。 祐樹にとっては甲斐と同じくらい顔を知っている程度である。
その三人と脇田親子がキッチンの中に居て、テーブルやカウンターに色んなものを広げている。

祐樹を含む男子四人と甲斐は、キッチンとリビングの間にある色んなものが乗ったカウンターの向こうのリビングでL字型の大きなソファーに座っている。

「甲斐は一緒に作らないのかよ」

「家庭科クラブと一緒には無理。 レベル高いもん」

そう返事をした甲斐の視線が祐樹を追う。
いつの間にか祐樹がカウンターに沿って置かれてある椅子に座ろうとしていた。 カウンターの足元は少しへこんでいて座れるようになっている。 祐樹は名称を知らないが、バーカウンター様式になっている。

甲斐の視線を追った日向。

「んー? 祐樹のやつ、何やってんだ? お菓子作りなんか見たって分かんないくせに」

「よっ、新しいクラス誰が居た?」

元木と末永が日向と甲斐の隣に座ってきた。
始業式にクラスわけが発表され、新しいクラスで新しい担任と顔を合わせている。 ということは、元木と末永は甲斐と一緒のクラスにはならなかったということである。 日向は祐樹と同じクラスだったから、元木と末永が同じクラスではない事は分かっている。

祐樹が椅子に座ろうとした時、カウンターの下にラックがあるのに気付いた。 その中にあった本に気になる漢字を見つけた。

「なんだ?」

屈んでラックから本を取り出す。
タイトルは『姫伝説』 であった。

「おばさん」

脇田の母親が振り向く。

「これ見ていい?」

「いいわよ」

「手、どこで洗えばいい?」

「え? お菓子はまだよ?」

「お菓子じゃなくて、本を汚しちゃいけないから手を洗わせて」

脇田と母親が目を合わせる。

「パパがいつもおつまみを食べながら見てるから、気にしなくていいよ」

「ふーん、おじさんのなんだ」

「パパのじゃないけど、お酒も呑みながらだから全然気にしなくていいよ」

「そうなんだ」

ソファーに戻るとうるさくて読めないだろう。 椅子を回転させるとカウンターに背を向けた椅子に座って読む。 カウンターの方を向くと小麦粉の粉が飛んできそうだからである。

最初の説明文を読むと『姫伝説』 は色んな時代の実在のお姫様の事が書かれているようだった。 パラパラとめくっていくと、全てではないが肖像も描かれている。
書き添えてある文章を読み進める。 分からない漢字は飛ばして読んだ。 かなり文章が理解できなくなってしまうが、それは致し方ない。

「目次ないのかな」

最初の方に戻って目次を探してみるが見当たらない。 ○○姫、と目次にかかれていれば、そこに朱葉姫がのっているのかどうかわかるのに残念である。

それに五十音で書かれているわけではなさそうだ。 朱葉姫なら “あ” で始まるのだから、最初の方に書かれていてもおかしくはないのに、そこには他のお姫様の名が並んでいたし、そのお姫様の名前からすると既にア行が終わっているということになる。

「朱葉姫は載って無いのかなぁ・・・」

仕方がない、一頁ずつ見ていくしかない。
頁をめくりながら何気なく顔を上げると、ソファーで男子たちがはしゃいでいる。 甲斐がポツンと一人でいる。
椅子をクルリと回転させる。

「なぁ、脇田」

「なに?」

手元から目を離さず返事をする。

「甲斐、呼んであげれば?」

一瞬、脇田の手元が止まった。 首を巡らしリビングを見ると甲斐が一人所在なげにしている。 次に祐樹を見る。

「祐樹君が呼んであげれば?」

意味深に笑っている。

「なんだよそれ」

「その本、柚葵ちゃんから貰った本なんだ」

更に笑っている。

「え?」

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国津道  第52回

2021年07月16日 22時27分12秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第52回



日向がとんでもない所にボールを投げてきたのだった。
『どこに投げてんだよー!』 と外野にいた祐樹が叫びながらボールを追いかけていくと、植え込みの中に入っていった。 もう二人の外野も遅れて走って来たのに気付いていた。

植え込みの中に入ってボールを探そうとしたら、甲斐がその中でしゃがんでいた。 祐樹が入って来たのに驚いて顔を上げた甲斐のその目が赤くなり涙が零れていた。
後ろから外野二人の足音が近づいて来る。

『こっち』

しゃがんでいた甲斐の腕を取ると、驚いて甲斐が立ち上がった。

『早く』

腕を引っ張り、植え込みの横に建っているトイレの向こうに甲斐を連れて行った。 トイレの横から顔を出して外野二人を見ると、植え込みの周りでボールを探している。 いつこちらに回って来るか分からない。 顔を引っ込めて甲斐を見る。 甲斐は下を向いていた。

『ハンカチは?』

甲斐が首を振る。

おもむろにズボンのポケットに手を入れると、そこから小振りのタオルハンカチを出した。 外に出る時には母親がいつも持たせている、ズボンのポケットに簡単に入るサイズのタオルハンカチである。

『はい、これ使えよ』

甲斐は受け取ろうとはしない。

『あいつら追っ払ってくるからさ』

『え?』

『ボールが見つからないとこっちに来るかもしれないだろ。 ほら、ハンカチ』

おずおずと甲斐の手が上がって祐樹のハンカチを受け取る。

『じゃな』

慰める言葉もなく入って来た方と反対の方に祐樹が走って行った。 少しして祐樹の声が聞こえてきた。

『ボール、見っけー!』


「あの時? それがどうしたんだよ」

「ほら、甲斐」

脇田に言われ、甲斐が斜め掛けにしていたポシェットから可愛い袋を出す。

「・・・ハンカチ。 ありがとう」

可愛い袋の中にはハンカチが入っているのだろう。

「あ、忘れてた」

「・・・それと、あの時ありがとう」

他の男子に泣いている所を見つからないようにしてくれた。

「なんてことないよ」

「良かったね、甲斐、ちゃんと言えて」

甲斐がコクリと頷く。 頬が少し赤い。
そう言えばと祐樹が思い出した。 脇田から甲斐が祐樹のことを好きだと聞いていたのだった。 ややこしいことはご免だ。 このまま帰ろう。

こんなことを浅香が聞けば『なんて勿体無いことするんだよ! 据え膳食わぬは男の恥ってのを知らないのかー!』 などと言うだろう。

「用ってこれだけだろ? じゃな」

「今日、誰かと約束してるの?」

「え? 別に?」

シマッタと思った。 正直に答えてしまった。 日向たちと約束をしているとでも言えばよかった。

「もうちょっとしたら、日向君たちが私の家に来るんだけど、祐樹君も来ない?」

「え? 日向?」

「うん、他に男子は元木君と末永君、女子は甲斐と家庭科クラブの二人」

元木も末永も脇田たちと同じクラスだが、祐樹もよく知っているし、何度も遊んでいる。
それにしても日向と約束があるなどと嘘を言わなくて良かった、と今更にして思った。

「家庭科クラブ?」

「うん、ケーキとマドレーヌを作るの」

「行く!」

簡単に釣られたようだ。

三人で連れ立って歩いている時に、ふと疑問に感じたことを脇田に訊いた。

「甲斐のことを悪く言ってるわけじゃないけど、脇田と甲斐が一緒に居るところを花瀬たちに見つかったら、ややこしくなんないの?」

学校が休みの日に一緒に歩いているところなど見られたら。 それに万が一にも後をつけられでもしたら、そのまま脇田の家に入っていくところを見られてしまう。

だが甲斐と居るのもそうだが、祐樹と居ることの方が大きいだろう。 そこのところには祐樹は気付いていないようだ。

「うーん、虐められるのは嫌だし、いい気はしないけど甲斐も友達だし・・・。 前は虐められるのが嫌で、陽葵ちゃんの目を気にしてたけど、今は気にしないようにしてるの。 祐樹君が庇ってくれたし、それで電話でも話してくれたでしょ? あの後考えたの、陽葵ちゃんもずっと友達だったんだから、いつかは分かってくれるって」

「花瀬に呼び出されたのって、オレのせいだもんな。 クッキー貰ったからだもんな」

「祐樹君のせいじゃないって。 電話でも言ったでしょ? 荷物を持ってくれたお礼に私が勝手に渡したんだから」

「いやそれだって、オレがラーメンのことを教えてほしくて勝手に荷物を持っただけだし」

「気にし過ぎだって。 ねー、甲斐」

「うん、私もそう思う。 それに今日もそうだけど、脇田とか家庭科クラブってお菓子を人に作ってあげるのが好きなんだから、気にしなくていいんじゃないかな」

「そっかな・・・」

「うんそう。 祐樹君が庇ってくれたこともちゃんと先生に言おうと思ってる」

「あ、それは言わない方が良いんじゃないか?」

「どうして? でないと祐樹君が先生に誤解されたままになる」

「それって、脇田が花瀬のことを先生にチクったことになるだけだろ? いつか花瀬が分かってくれるんなら、少なくともあの時のことは先生に言わなくていいよ」

「でも・・・」

「オレの日頃の行いで先生も分かるってさ。 ね、それよりどうして脇田も甲斐も苗字で呼び合ってんの?」

女子はほとんどが下の名前やニックネームで呼び合っている。 名字で呼ぶにしても “さん” を付けている。 それなのに “さん” も付けずに苗字で呼んでいるのは不自然である。

脇田と甲斐が目を合わせた。 何か理由があるようだ。

「甲斐が気を使ってくれたの」

「へ?」

花瀬は脇田の友達であって、甲斐を敵視している存在である。 それなのに脇田と甲斐が下の名前で呼び合ってしまっては、脇田も花瀬に敵視されてしまうからだということだった。 二人が幼稚園からの友達というのを甲斐が知っていての提案だったと言う。

「お互いの家の中で二人だけで会う時以外は苗字で呼び合おうって私が言ったの」

「でも・・・そうだね、もうそんなこと気にしないようにしようよ。 ね、柚葵(ゆずき)ちゃん、誰が居てもちゃんと呼び合おう?」

甲斐が小さく頷く。

「凜(りん)ちゃん・・・ごめんね、花瀬さんのことに巻き込んじゃって」

「陽葵ちゃんが勝手に柚葵ちゃんのことを敵視してるだけだから」

「ふーん、甲斐ってゆずきって名前なんだ」

脇田の名前は知っていた。 一年、二年の時に同じクラスだったのだから。

「うん、柚の葵って書くの」

「へぇー、変わった読み方・・・って、あれ? たしか花瀬って陽の葵って書かなかったっけ? それでひまりって読まなかったっけ?」

三年、四年と同じクラスだった。 知っている。

「うん、そう。 読み方は違うけど、せっかく同じ漢字の名前なんだから、仲良くしてほしいんだけど」

そこに後ろから日向の声が聞こえてきた。

「うおぉー! 祐樹ー! 祐樹もかぁー!?」

そう言えば祐樹もそうだが、日向は脇田と甲斐とクラスが違う。 祐樹と同じクラスである。 元木と末永は脇田たちと同じクラスだから誘われたのは分かるが、どうして日向が誘われたのだろうか。

走って来た日向がガシッと祐樹の首に腕を回してきた。

「祐樹も家庭科クラブが話してるのを聞いたのか?」

そういうことか。



浅香と詩甫が大婆の部屋に並んで座っている。 正面には長治、浅香の横に詩甫と反対の斜め右手に大婆が肘かけの付いている低めの椅子に座っている。
ちゃぶ台に湯気を上げた湯呑が置かれてある。 前に来た時と全く同じであった。

「本当に偶然だったんですけど、こちらでお話を聞かせて頂いたのは貴重なことで、彼女、野崎さんの会社の方で神職の資格を持っていらっしゃる方がいらして、ご実家が神社だそうなんです」

「神社?」

「ええ、ご実家のことも神職の資格を持っていることも野崎さんは知っていらして、それで紅葉姫社と気付かれないように、その方に訊いたそうなんです」

大婆と長治が詩甫を見ると詩甫が頷いてみせる。 話すことは浅香に任せている。
その浅香は願弦の立てた話を話していった。

詩甫が願弦に神が宿っていない社があるのだけれど、その社は昔の人がある姫様を想って建てた社だと言った。 実際、こんな話になる前に詩甫は願弦にそう言っていた。

詩甫の話に願弦がすぐに首を左右に振った。 ある人を想い、その人の社を建てるということは、その人々がその人のことを想って建てたということ。 それで充分神だ。 天津神(あまつかみ)でもなく国津神(くにつかみ)でもない。 だがそれがなんだ、人々が想い祀ればそれが社であり、そこに坐(ましま)すのはその人々にとっての神である。

「どういうことだ?」

長治が言った。

そうだろう、願弦に言われた時に浅香もそう思った。

その疑問に願弦は言った。
生きていた人を冤罪にした。 その怨霊を恐れた時の人々はその人を神として祀り天満宮を建立した。 他にも浦島太郎伝説の舞台となった神社もあれば、時の姫を想い祀った神社もある。

元より、日本の神々は八百万(やおよろず)の神々である。 八百万とは八百万(はっぴゃくまん)の神々という意味ではなく、限りなく多いという意味。 葉の一枚から自然現象に至るまで神が坐(おわ)す。

「そこに姫様、朱葉姫が坐(ま)しまして居られるのなら、朱葉姫は神でありそこは立派な社であると。 経験が豊富ではないが、その方が祝詞を献上に来てもいいと」

長治が首を振る。

「せっかくそう言ってくれて有難いが、万が一にも村以外の人に何かあっては申し訳が立たん」

「そうなんです、そこなんです」

何のことだという顔を長治が向ける。

「野崎さんからその時その方が気になることを仰ったと聞いて、後日僕も同席させてもらったんです」

すると願弦はこんなことを言ったという。
平安時代のいつ頃だったか、ある村の話なんだがと話は始まったと言う。
その村には姫が居て村人に大層親しまれていたという。 だが残念ながら姫は短命であった。 村人が嘆き悲しみ姫を想い社を建てた。
長治の下瞼が僅かに震え、大婆の指先がピクリと動いた。

「だからそこも姫の神が坐す社だと言われたということでした。 ここまでが野崎さんが聞いてきたことです。 ここから先は僕が同席して聞いたことです」

だが残念なことにその社には今は人が近づいていない、村の昔語りに踊らされているからだと。

「昔語りに踊らされている?」

大婆が言うと長治も続いて言う。

「どういうことだ! 昔語りが間違っているとでもいうのか! そんな筈があるまい!」

カタンと襖の向こうで音がした。
すぐに長治が立ち上がり、詩甫たちの背中の後ろにある襖を勢いよく開けた。
わっ! っという声のあと、ドンという音がした。
浅香と詩甫が振り返って見てみると、そこに尻もちを着いた少年がいた。

「三太、盗み聞きか」

「あ・・・ごめんなさい」

「あっちへ行ってろ」

「あ、うん・・・」

後ろに付いていた手を前に持ってくると長治越しにチラリと浅香を見た。

「ん? なに?」

「お兄さん、その話ってこの村の昔語りじゃないんでしょ?」

三太が言ったことで大婆と長治が気付いた。 そうだった、浅香は一言もこの村の昔語りとは言っていなかったのだった。

「うん、この村のことだなんて、まだ一言も言ってないよ」

まだ一言も? まだ? そこが気になるところだが、今の段階では長治が早合点して怒鳴ったというだけのことになる。

「いいからあっちへ行ってろ」

うん、と言うと立ち上がり廊下を走って行く。
襖を閉め、席に戻った長治。

「怒鳴ったりして悪かった」

「いいえ」

「続けてくれ」

長治か大婆が怒るかもしれないということは計算の中に入っていた。 怯むことではない。 それどころかわざと怒ることを誘う話し方をしたのだから。 一度怒りをあらわにすれば、あとは少々のことがあっても我慢をして聞くだろうから。

「昔語りが間違っていたのではなく、昔語りが操作されていたということです」

「操作? どういうことだ」

浅香がおや? っと思った。

(なんだろうか・・・)

何か不自然なものを感じたが、長治の様子に変わったところは見えない。 気のせいだったのだろうか。

「先ほどの浦島太郎の話ではないですが・・・」

一つの例として浦島太郎の話をしだすと長治が眉をしかめた。
そんな話などは聞いたことがなかったからだ。 物語とは単なる子供の絵本くらいにしか思っていなかった。 それが一説とは言え、神仙思想が隠されていたとは。

「昔語りに戻ります。 他の村の昔語りにも当てはまることですが、例えば、この村の昔語りを聞かせて頂きましたが、その昔語りに限って言えば花生って人が呪者に頼んで朱葉姫を呪い殺したとか、亡くなったあとの事を呪者に頼んだとか、聞かせて頂いた話からするとその話は呪者から聞いた話ですよね?」

「え・・・?」

「呪者以外からは聞いていないですよね? 僕の覚え間違いでなければですが」

大婆と長治が目を合わせる。

「あくまでも例えばの話です。 その方は決して紅葉姫社とは言っておられません」

わざと言った。 浦島太郎の話から花生の話に、そして話の原点である願弦の話しに。 例えばこの村の話であれば、という意味を含ませるように。 そしてこの村の例え話ではなく、浦島太郎の話に戻って良いという意味も含めて。
だがきっと浦島太郎の話しには戻らないだろうと浅香は踏んでいる。

「呪者が・・・嘘をついていたと?」

やはり村のことが気になるようだ。 例えばの話を進めるようだ。

「いつの世も、嘘をつくことで報酬を受け取ることが出来なくもないです」

この本家の先祖はあらゆるものを呪者に渡した。

「だがっ、花生は自分から朱葉姫の悪口を言っていた。 それは間違いなく花生の口か・・・」

そこまで言って話の筋はこの村のことではなかったのだったと気付き、長治が口を止める。

「いや、何でもない。 続けてくれ」

「はい。 まぁ、この村の昔語りでいうと、呪者によって話しが操作、操られていたかもしれないということですかね」

花生の話から当時の花生の両親は違うと言っていた、それを信じなかった当時のこの村の者たちの間違った思い込みというのが正解だが、そんなことを言っては逆撫でもいいところだろう。
一度怒らせておいたと言っても、穏やかに話せなくなるかもしれない。

「僕が色々と質問をしていると、ある面白い話があるときかせてくれました」

人の道を修正するに、一つにあるやり方がある。
修正しなければならないということは、修正されなくてはならない道を辿っているのだ。 正面から言ったとしても聞く耳を持たないか、悪ければ居直るかもしれない。
その為には同じことをその人にしてみせる、言ってみせる、聞かせてみせる。 それで自分のやっていることに気が付いて道を修正すればいいのだが、最初から修正しなければいけない道を辿っていると分かっていて敢えてそうしている場合にはそんなことでは効かない。 ましてや陰に隠れてしている場合には。

だから陰で同じことをして、言って、他の者の口から聞かせる。 お前のしていることは分かっているのだと知らせるために。

相手が勢いのよいものなら失敗に終わるだろう、それだけで終わるならまだしも反論を受けるかもしれないし切り返されるかもしれない、夜道に注意の世界になるかもしれない。 だが今ここではそんな話は置いておく。

「花生っていう人はこの方法を取ったとは思えませんか?」

これは実際に花生がそういう思いから親族に話していたと聞いていた話だ。 願弦は花生のことを分かってもらうために、少しでも花生の想いを伝えるため、汚名を晴らす為にこの話しを使おうと言った。

今はこの村の昔語りをしているのではないという前提で話し始めていた。 だが花生の名を出したことで完全にこの村のことを話していると大婆も長治も分かっているはずだ。
反論してくるだろうか。 浅香が危ぶんだが、そうであってもまだ話の持って行きようは考えている。
だが大婆にも長治にもそんな様子は見受けられなかった。

「大婆・・・」

長治に目を向けられ、正面を見て話を聞いていた大婆がゆっくりと顔を動かし浅香を見る。

「大蛇は・・・花生ではないと言っとるのか?」

やはりこの村のことが気になのだろう。 このまま話を進めていくことを受け入れたようだ。

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国津道  第51回

2021年07月12日 22時07分40秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第50回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


     『国津道』 リンクページ




                                   



- 国津道(くにつみち)-  第51回



「姉ちゃん、誰だったっけ、星亜お兄さんのお兄さんが戸をドンドンした時に助けてくれた人」

「願弦さん?」

浅香の耳がピクリと動いた。 その名前は座斎家で聞いた名だ。 座斎が浅香のことを彼氏かと思ったようで、かなり派手に詩甫に訊いたがあっさりと詩甫に否定された。 その話から詩甫が願弦の名を出していた。

「そうそう! 神社の人って言ってたよね?」

「うん」

「その願弦さんにお社の前で拝んでもらってその途中に、ウワァ―って叫んでもらって、花生さんがそこに立ってる、ってことにして、願弦さんから花生さんの本当のことを言ってもらうってのは?」

「祐樹・・・アニメの見過ぎ」

「ちぇ」

座斎家でのことを思い出していると、あっ、と浅香が更に思い出したことがあった。

「願弦さんって、身体の大きな人ですか?」

「え? はい」

当たったようだ。

「もしかして・・・先月のいつ頃だったかな、夜遅くに駅から野崎さんの部屋に向かってお二人で歩いてました?」

詩甫から当分仕事が忙しくなるから、社には行けないと連絡を貰っていた期間の出来事だった。
浅香に言われ、その時のことを思い浮かべる。

仕事が忙しくなり始めた時、座斎に絡まれそうになって願弦に助けてもらったことがあった。 その時に部屋まで送ってもらった。 願弦と歩いている時に後ろから救急車に抜かれたことを覚えている。 願弦に言われたことも覚えている。

『詩甫ちゃん一人で社に向かってないよな?』

そう言っていた。 それがあってその時に浅香のことを思い出していた。

「あ、あの時の救急車に?」

「やっぱり野崎さんでしたか。 はっきりと見えなかったのもありましたし、運転をしてましたから脇見も出来なくて。 じゃあ、横に歩いていた人が願弦さんって人なんですね」

「はい。 あの時はちょっとあって、夜も遅くて不用心だからと送って下さってたんです」

詩甫の彼氏ではなかったようだ。 考えてみれば願弦の名前を聞いた時の座斎の反応もおかしなものだった。
ということは・・・。

「もしかしてその願弦さんが野崎さんの頼れる人ですか?」

「なんだよ浅香、焼いてんのかよ」

「バッ! バカ! なに言ってんだよ」

「バカって何だよ!」

「そんな意味じゃなくて、これからは協力者が必要になってくるかもしれないって話だろ!」

二人の言い合いを片耳に聞きながら、もう一つ願弦の言っていたことを思い出していた。

『詩甫ちゃん、いい人が見つかった?』 願弦はそうも言っていた。



それから一週間、毎日とはいかないが浅香と連絡を取り合った。 浅香は大婆にアポイントを取れていると言った。

『年中暇だからって仰ってました』

「長治さんは?」

『仕事の方は次郎さんに任せるということです』

浅香はアポイントを取る時に特に何も言わなかったということであった。 ただ聞いて欲しい話があると言っただけであると。

色々提案を出し合ったが、どれも突きつめて話していくと抜け落ちたところがあったりと、使えるものではなかった。 だがもうアポイントは取ってある。 そうやって無理にでも進めていかなければ、足踏みを踏んでいる時間など無い。

結局、半分は祐樹の言った通りになった。 願弦に全てを話したということだ。 その上で助力を願った。



その日、願弦は仕事帰りに詩甫と一緒に居酒屋に足を運んだ。 そこで既に待っていた浅香を詩甫に紹介された。

浅香と願弦は互いにジョッキを頼み、初めましての乾杯をした。 その後に幽霊の話を疑うことなく願弦は静かに聞いていた。

曹司と浅香の関係、瀞謝と詩甫の関係も含めて朱葉姫や花生のこと、昔語りに至るまで全てを聞き終えた後の願弦の第一声は『やっと詩甫ちゃんが話してくれるかと思ったら、こりゃまたすごい話だな』 だった。

浅香が願弦と初めて会い、そこから受けた第一印象と、事前に詩甫から聞いていた願弦の印象は似たようなものであったが、願弦の第一声は思っていたものと少し違っていた。

願弦は神社関係の人間である。 そういったことに対してはもっと固い人物かと思っていたが、そうではなかったようだ。

それから願弦は知識として幅広く色んな話しをした。 浅香は何度も頷いて聞いていた。
そして浅香の話から願弦から見ての創作を含んだ紅葉姫社、朱葉姫、花生、昔語りと昔話を含めた話を聞かせた。
浅香が頷いた。

『有難うございます。 相手の反応に応じて多少変わるとは思いますが、願弦さんのお話しを軸に話します』

そんな浅香を見て願弦が追加で頼んだジョッキを煽った。 これで何杯目だろうか。

『いやあぁー、浅香君だったら詩甫ちゃんを任せられるかな』

『は?』

浅香と詩甫がハモった。 その浅香も詩甫も目を何度も瞬いた。

『詩甫ちゃんには弟を紹介したかったんだけどなぁー』

三兄弟である願弦。 兄が神社を継ぎ、一応予備軍である願弦は神職の大学を出た。 だが兄に神社全てを任すつもりであった願弦は兄を手伝うことなく、一般企業で働いていた。 それでも万が一を考えて資格は取っていた。

だが容姿も思想も父親に似た兄と願弦と違って、容姿も宗教にこだわらないというところも母親に似た弟は神職の資格も取らず己の道を歩んでいた。 いや願弦が歩ませた。 弟には家という事情にとらわれることなく自由に生きて欲しかったからだ。

『願弦さん!』

顔を真っ赤にした詩甫が叫んだ。
わはは、と笑った願弦。 その姿は熊のような体躯である。 それに珍しくも酔ったのだろうか、顔がほんのり赤い。 その手に団扇(うちわ)を持てば天狗にも見えそうだ。 鼻は長くないが、凛とした大きな天狗に見えなくもない。

その天狗もどき願弦が弟のことはさて置き、浅香の人当たりの良さに同じ波長を感じたのか、二人の間で話が盛り上がり、挙句に二人のラインなども作っていた。



詩甫と浅香が大婆の家の前に立っている。 祐樹は来られないということだった。

浅香がチャイムを鳴らそうとした時に、ガラリと戸を開けて少年が中から姿を現した。 以前見た少年であった。 そういえば玄関横に犬がいたはず。 浅香が横を見たが、犬の姿はなかった。

「あ、お父さんが言ってたのはお兄さんたちだったんだ」

少年は浅香たちのことを覚えていたようだ。 少年の言ったお父さんとは次郎のことである。

「うん、今日、こちらに伺うって言ってたけど・・・犬、いたよね?」

「うん、お父さんについて行って畑に出てる。 お爺ちゃんがそうしろって言ったから」

前回来た時にはかなり吠えまくられた。 今回は浅香たちが来た時に犬が吠えるのを避けたのだろう。 それは客として迎えられたということだろうか。

「そっか。 そのお爺ちゃんに会いたいんだけど」

「うん、聞いてる。 上がって」

溌剌とした少年である。 この少年も昔語りを聞いているのであろう。 そしてこの少年も昔語りを信じているのであろう。

この少年に限らず、この僧里村の親も子も、少年少女たちも昔語りを信じている。 瀬戸のように疑っている者もいるだろうが、だからといって瀬戸がそうだったように昔語りの枠から出ることが出来ないのだろう。

祐樹が居ればこの少年と仲良く話が出来たかもしれない。



始業式前日に遡る。
祐樹が詩甫の部屋を出て家に戻った。
始業式でなければ詩甫の部屋から学校に向かうが、始業式はちゃんと家から学校に行きなさいと毎年母親から言われていた。

「金曜日の始業式って、なんだよ」

憎々しげに言う。 始業式に出て翌日の土曜日には休みだ。 ましてやその翌日も日曜日で休みである。

「祐樹・・・」

玄関で靴を脱ぐ祐樹に母親が祐樹の名を呼んだ。
靴を脱ぎながら祐樹が言う。

「旅行、楽しかった?」

「ええ」

「良かったね」

玄関に上がった。 そのまま自分の部屋に行こうとしたが、母親の一言で足を止めた。

「脇田さん・・・」

「え?」

「脇田さんが電話をくれていたわよ」

「脇田・・・なにか言ってたの?」

「祐樹は悪くないって、脇田さんを庇っていただけって。 でも学校ではそれが言えないって」

「そっ」

そう言うしかなかった。 それ以上の言葉を言えば、母親に何かを言ってしまいそうだったから。

「脇田さんが祐樹が帰って来たら電話をして欲しいって」

「・・・分かった」

どうしてそのことを、詩甫の家に連絡をしてくれなかったのか。 連絡を受ければすぐに脇田に電話を入れたのに。

祐樹が階段を上がりかけた。

「祐樹! いま言ったでしょう! すぐに脇田さんに電話を入れなさい!」

命令か・・・。 電話を入れてちょうだいではないのか。

「うん」

母親がすぐに脇田の電話番号を書き出した。 きっとずっと頭にあったのだろう。
書き出された番号をプッシュする。
何度目かのコールで脇田が出た。

『祐樹君!?』

脇田は電話口で何度も祐樹に謝った。

「謝らなくていいよ。 っていうか、花瀬は脇田の友達じゃなかったんだ」

受話器の向こうが無言になった。

「脇田?」

『・・・陽葵(ひまり)ちゃんは幼稚園からの友達だったの。 でも・・・小学校に上がって三年生から少しずつ変わってきたの』

陽葵というのは花瀬の名前である。 姓が花瀬で名が陽葵。

「三年生から?」

今の祐樹と脇田と花瀬は明日、新学期を迎えると五年生になる。 花瀬が変わってきたのが三年生のいつくらいからかは分からないが、おおよそ二年前からになる。
男子たちが女子に興味を持った時期であった。

『男子たちの目が陽葵ちゃんと甲斐に二分したでしょ?』

それは知らなくもない。 男子たちが花瀬派ともう一人の女子である甲斐派に二分したのは知っている。 だが祐樹のように、どちらの派にも与さない男子が居ることも知っている。

「う、ん・・・」

返事がしにくい。

『だから陽葵ちゃん、甲斐を良く思っていなかったの。 今では睨んでるし』

祐樹が面倒臭くなってきた。 そんな話を聞きたいわけではない。

『甲斐が・・・祐樹君を好きだったから』

「は?」

『陽葵ちゃんは嫌がらせに甲斐から祐樹君を取ろうと思ったの。 でもその内に祐樹君のことが好きになったの』

甲斐・・・あまり祐樹の記憶にはない。

脇田は今は違うクラスだが一年と二年が同じクラスだったからよく知っている。 花瀬とは三年と四年で同じクラスだった。 だが甲斐とは同じクラスになったことがなかったはずだ。 甲斐のことは噂に聞いているだけだった。 花瀬と男子の人気を二分していると。

『陽葵ちゃんは・・・甲斐に人気を取られたくなかったの。 それに祐樹君のことを好きになったし。 だから甲斐から祐樹君を取って甲斐を落ち込ませようと思ったの。 そんな子じゃなかったのに・・・』

詳しいことは分からないが、まるで薄と花生の話を聞いているようである。

『祐樹君、ごめんね、ちゃんと先生に話せなくて。 お母さん怒ってるでしょ?』

先生に言えないということは、脇田は花瀬の報復を恐れているのかもしれない。

「そんなことないよ。 お母さんには脇田が言ってくれたから分かってくれたし」

祐樹の後ろに立っていた母親が納得したようにソファーに座った。 それを背中で感じていた祐樹。 母親はこの一言を待っていたのだろう。

「脇田? 新学期が始まったら脇田はどうなるの?」

『・・・分からない』

「分からないって?」

『陽葵ちゃんの苛めが続くのか、甲斐がどうするのか』

「甲斐って・・・どんな女子?」

『え? ・・・祐樹君、甲斐を知ってるでしょ?』

「甲斐を? 男子が言ってるから苗字と顔は知ってるけど、同じクラスになったこともないし、その程度」

『祐樹君・・・』

電話の向こうで脇田が大きな溜息を吐いたのが聞こえた。



金曜日の始業式を終えて、脇田と電話で約束していた翌日土曜日に学校の裏門に姿を現した祐樹。
脇田を待っていると脇田と共に甲斐もやって来た。 脇田は祐樹より少し背が低く小柄である。 その脇田より甲斐の方が少し背が高いようだ、並んで歩いているとよく分かる。 祐樹と同じくらいであろうか。

近付いてくる甲斐の顔を改めて見ると、目を眇めた。

(あれぇ? どっかで見たことがあるなぁ・・・)

甲斐の顔を知らないわけではなかった。 だが違う記憶がどこかにある気がする。

「祐樹君、ごめん、遅れた」

「んなこといいよ」

「甲斐? 祐樹君にまだお礼を言ってないんでしょ?」

「へ? なに? オレ、甲斐にお礼なんか言われることしてないし」

祐樹が言うが、脇田はチラッと目だけで祐樹を見ただけですぐに甲斐を見た。

「甲斐、ちゃんと言わなきゃ」

「ってかさ、脇田って花瀬と友達だろ? どうして甲斐と友達なんだよ」

「今は甲斐と同じクラスなの。 甲斐とよく話してるの。 それに・・・友達だからって、その友達が敵視してる女子と話しちゃいけないってことは無いし」

花瀬と友達。 その花瀬と敵対している甲斐と話してはいけないことなど無いだろう、脇田はそう言っている。 いや、いま脇田が言ったのは敵対ではなかった。 甲斐は敵視と言った、どうも花瀬の一方的なようだ。

「そりゃそうだけど」

花瀬が敵視している甲斐と仲良くしている。 それが花瀬には気に食わないのだろう。 だからお菓子だけを持ってくればそれでいいなどと言われていたのか。

「ほら、甲斐」

顔を上げてはいたが、祐樹の目を外すようにして大きな黒目を横にしていた甲斐だったが、その顔を下げてしまった。

「もう・・・甲斐ってば」

仕方ない、理由は言うけどお礼はちゃんと自分言うんだよ、と言いながら、脇田が祐樹に向かって話し出した。

「祐樹君、甲斐が公園で泣いてたの見たでしょ?」

「公園?」

それも泣いているところを?

「去年、四年生になって少しした時」

その頃を思い出そうとするが、その時は詩甫が咳にみまわれていた時だったことしか思い出せない。

「どこの公園?」

「脇田、もういいよ。 祐樹君覚えてないみたいだから」

「だって、ずっとお礼が言いたいって言ってたじゃない」

「なんだよ二人で。 脇田、話せよ。 思い出すだろうから」

脇田の腕をつかんで少し引っ張っていた甲斐の力が緩んだ。

「四留目(しとどめ)の公園。 日曜日に日向君たちと中当てして遊んでたでしょ?」

四留目にある公園は中当てまではボール遊びが許可されている。 野球やサッカーは禁止である。 もちろんキャッチボールも。 硬球や道具を使ったり広く場所を取る遊びは徹底的に禁止されている。

四留目の公園は祐樹の家からは離れてはいるがギリギリ校区内である。 ボール遊びをしようと思ったらこの四留目の公園以外なかった。 詩甫の部屋に行かない時は大抵日向たちとこの公園で遊んでいる。 四年生になって少しした時と言われても思い出せない。

「祐樹君がボールを追いかけて植え込みの中に入って行った時、甲斐が居たでしょ?」

「あ!」

思い出した。

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国津道  第50回

2021年07月09日 22時32分55秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第40回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第50回



朱葉姫への呪い、花生が自分自身にかけた呪い、それを花生自身は一言も言っていない、もちろん花生の両親も。 呪者が言っていただけに過ぎなかった。
挙句に花生の本家から口止め料に、色んなものを持ち帰ったとも言っていた。

「それは、もしかして・・・」

花生が頷く。

「薄が呪者に頼んだ・・・あたかもそれを頼んだのがわたくしであるように、呪者に言わせたのでしょうね。 わたくしから里を取り上げようと思ったのかもしれません。 米や反物などを持ち帰ったというのは、呪者が勝手にした事でしょうけど」

呪者のいいカモになったというわけだ。

「先ほども薄が言っていました、薄の気はどれだけの時を経ようとも終わることは無いのでしょう。 それほどに波夏真様と夫婦(めおと)になったわたくしが許せなかったのでしょう。 薄は・・・わたくしが嫁いでくる前からお館に居ました。 朱葉姫を可愛がっていました、朱葉姫も薄を姉上のように慕って、二人で曹司を可愛がっていました・・・その朱葉姫に呪をかけるほどにわたくしを憎んでいたのですから」

浅香が詩甫を見る。 いま花生が話したことに詩甫は気付いていないようだ。 だがそこが肝心なのではないだろうか。

「朱葉姫が薄って人を姉のように慕っていた。 そこに義理ではあるが花生さんという姉がやって来た。 朱葉姫は兄の嫁である花生さんを間違いなく姉として慕った。 薄って人は、花生さんに波夏真さんだけではなく朱葉姫まで取られた、そう考えたのでしょうか」

花生が寂しそうな顔を見せる。

「わたくしと朱葉姫が話すところを見たくないと思っていたのかもしれません・・・それは薄にしか分かりませんが、わたくしがもっと早くそれに気付くべきでした。 薄の前では極力、波夏真様とご一緒に居るようにはしませんでしたが、朱葉姫にまでは想像が膨らみませんでした」

どうして薄はその矛先を花生ではなく朱葉姫に向けたのだろうか。
薄は花生に波夏真を取られ、次に朱葉姫を取られたくないと思って呪をかけたのだろうか。 だがそれにしても花生に手をかければ済むこと。

何を考えても薄の心の内は薄にしか分からない。 他人に分かるのはあったことだけ。 朱葉姫が呪いによって亡くなったということだけ。

大婆が言っていた。 花生の後年は社に向けられていたと。 社を怨んでいたと。 その社が朽ち果てるのを見届ける、そうすることで気が済むと。 実際に呪者にそう言ったと言っていた。
社が朽ち果て潰れてそれを見届けてから成仏する。 そのように呪者に頼んだと。 だがそれを言ったのは呪者。 花生ではない。

いま花生が話したことを信じるとするならば、大婆の言っていた花生というところが薄に置き換わる、そしてそれは間違いないだろう。 あの薄の様子を見ていれば疑う余地などないだろう。
薄は呪者に頼んで呪を朱葉姫にかけ朱葉姫を殺し、その後も朱葉姫の為に建てられた社が朽ちていくのを見届ける。 その為に薄は自分自身にも呪をかけた。

「薄って人は・・・朱葉姫を憎まなければ、お社を憎まなければ朱葉姫に対してしたことに、心が押し潰されると思ったのだろうか。 精神が保っていられなくなってきた・・・。 でもそうであるならば、花生さんのように死んでからお社に来なくても良かったはず。 憎もうと思っている相手と同じ所にどうして居るのか・・・」

花生に訊くともなく浅香が考えを整理するように口にする。

「聞いていたでしょう、薄は今もわたくしを憎んでいるの。 そこから広がってしまった」

それでも、と花生が言う。

「薄は泣いていました。 薄自身が何をしたのかよく分かっているということ。 薄は呪をかけてしまった朱葉姫に尽くそうとしたのでしょう」

「でもそれが、薄って人を余計に歪める結果になってしまった」

村の人々に手をかけたのだから。

「そうかもしれません、そうではないのかもしれません。 きっと薄は・・・」

社を修繕させようとしなかった。 それは薄が早く薄の想いを終わらせたかったのかもしれない。 それには社が潰れなくてはならないからなのだろうと花生が言う。
花生の言うそれは究極的な話しだ。 自分の想いを叶える為に、自分の想いを終わらせるために、朱葉姫に尽くしながら、朱葉姫が悲しむ社が潰れることを一日も早くやって来るのを待っている。

「人の想いって・・・複雑ですね」

しみじみと浅香が言う。

意味が分からないのだろう、キョトンとして聞いている祐樹を見ると、花生がすっと祐樹の頭の上に手を伸ばしその頭を撫でた。
一瞬にして祐樹の顔が赤くなる。

「曹司を見ているような・・・」

朱葉姫も同じようなことを言っていた。 思い出の中の曹司は可愛い頃なのだろう。
花生はずっと千年以上一人でいた、どれだけ寂しかったことだろう。

花生の話し方はコロコロと変わっていた。
それは花生の後半の人生、館の女主としての話し方から、多分遡って若い頃の話し方だろう。 花生は千年以上誰とも話さなかった。 千年だ、話し方が絞れず曖昧になってしまったのだろう。

微笑んで首を傾けた花生の手が祐樹の頭から離される。
曹司と聞いて思い出したことがある。 曹司の分霊として是非とも聞いておかなければ。

「教えてほしいことが二つあります」

花生がゆっくりと浅香を見る。 艶っぽい人はどうして何をさせても艶っぽいのだろうか。 浅香相手にわざとそうしているわけではないであろうことは分かっている。 もう身に付いているのだろう。

「曹司が言っていました。 花生さんが亡くなる前、熱にうなされ “口惜しい” と言っていたと」

「わたくしが?」

「はい。 曹司は生前花生さんからそんな話は聞かなかったと言っていました。 いったい何のことだったんですか?」

「そう・・・ね、わたくしにも心当たりがありません。 きっと意識がないまま言ったのでしょう。 そうであるのならば、朱葉姫を守れず、薄にあんなことをさせてしまったわたくし自身に対して言ったのでしょう」

「そういうこと、ですか」

曹司の考え過ぎということか。

「ええ。 薄のしたことを知ってからは、それだけをずっと思って生きていましたから」

花生の目が下を見て瞼が半分塞がる。

「分かりました。 あと一つ、曹司に甘いと、期待をしていたと仰っていたそうですが、それはいったいどういうことでしょうか」

花生が一瞬浅香を見ると、その目を外し階段のずっと先を見た。

「曹司は・・・優しい子。 男の子ゆえ、虫を触ってはお館の者を、特に女人を怖がらせてはいましたが、悪気があったものではなかった」

子供の頃の曹司が目に浮かんでいるのだろう。 段々と頬が緩んでいたが、次にはその表情が硬くなった。

「・・・薄のことを耳にして、曹司には優しいだけではいけない、優しいと甘いは違うと何度も教えたのですけれど・・・曹司には曹司の方法で薄から朱葉姫を守ってほしくて」

今度は悲し気な表情となり頭を下げる。

「ですが甘かったのはわたくしでした。 薄を止められなかった」

「なぜ直接、薄って人に言わなかったんですか?」

曹司の話からは外れたくなかったが、浅香が疑問に思っていたことであった。
ゆっくりと花生の顔が上がる。 その目には階段が映っている。

「薄に、家に戻りわたくしの良くないことを話しているでしょう、そんなことを言ってしまって万が一にも朱葉姫の耳に入りでもしたら、薄を慕っていた朱葉姫がどれほど悲しまれるか。 それにそうなれば薄はお館を出るでしょう。 薄から波夏真様も朱葉姫もお館からも取り上げることになってしまう・・・そんなことはしたくありませんでした。 ですが後になり薄のしたことを聞いて自分の甘さに気付きました」

薄のしたことを知るまで、花生は自分が悪役になってでも、朱葉姫を守りたかったのか、薄の想いの一部でも叶えたかったのか。
だがそれは薄の真の願いではない。 薄の真の願いは波夏真に嫁ぐこと。

花生は中途半端なことをした。 薄を留め置くことで波夏真と花生の仲を見せつけたということになる。 いくら花生が薄の前では波夏真と一緒に居ようとしていなくとも。

「曹司にはわたくしがお守りできなかった朱葉姫を救って欲しかった。 薄が呪者に願ったことから朱葉姫を救って欲しかった」

朽ちていく社、潰れ行く社、それを望みとする渦から朱葉姫を救って欲しかった。

「わたくしが朱葉姫の前に、薄の前に姿を現せば、生きていた頃と同じことが繰り返されるだけでしょう。 薄と向き合ったとて積年の想いは簡単には消えないでしょう。 何も知らない曹司に願うのは酷なこと・・・分かっていて曹司に願わずにはいられませんでした」

「そういうことですか・・・」

「ですが今の瀞謝がやって来た時、階段の途中から薄を見かけました。 まだわたくし以外の者に怨念を向けていることを知り、早く薄と向き合わなければと思いました。 そう思った時には瀞謝は落ちてきましたが・・・。 薄は苦しみ過ぎています。 わたくしに対してのことは終わりには出来ないでしょうけれど、朱葉姫に、民に対してだけは終わりにしてほしい。 今の薄はわたくしに対してのことなどより、薄自身が作ってしまった念に執着してしまっている」

この花生という人は、どこまで他人のことばかり考えているのだろうか。 聞いていて寂しくなってきてしまう。

「薄と話せてよかった。 薄は涙を流しました。 溜まっていたものが流れたでしょう。 ようやっと・・・心穏やかに朱葉姫と向き合えるでしょう」

「はい、僕たちもそう願っています」

「わたくしが知っているのはこれだけ。 他のことを訊かれても答えることは出来ません」

詩甫が首を振る。

「充分です。 村の人たちを説得するに日がかかるかもしれませんが、それでも花生さんのお話しを僧里村の人たちに聞いてもらいます。 花生さんは昔語りにあるような人じゃなかった、花生さんを誇りに思ってもらいます」

「誇りなどと・・・」

「お社には一番に花生さんの遠縁にあたる方たちが来て下さると思います。 朱葉姫に民を見てもらいます」

「朱葉姫に民を・・・」

「はい。 その方たちは憎里村の花生さんの本家筋の方です。 遡れば花生さんの血縁にあたります。 それは回りまわって花生さんの子孫と言ってもいいんじゃないでしょうか」

そうね、と言って繊手を口元に運ぶとくすりと笑った。

「必ず来てもらいます。 それと、花生さん、私思い出したんです・・・私を二度助けて下さいましたよね?」

え? という顔を浅香がした。 祐樹もである。

「二度、ね。 ええ、あと一歩遅ければ、他の者たちと同じになっていたでしょう。 忠告をしたのにまた来るとはのぅ」

ほぅっと、鮮やかな溜息を見せ、女主人の言葉に戻った。

「野崎さんそれって、山から落ちた時のこと?」

詩甫が浅香に頷いてみせ、続けて花生に言う。

「さっき受け止めてもらった時に思い出しました。 全く記憶がなくなる寸前、同じ腕で抱きとめてもらいました。 それでそれ以上落ちることは無かったんだと思います」

あの時の場面を思い出した浅香がぞっとした顔をする。

「野崎さんそれって・・・その、あと一回転でもしていたら、野崎さんの頭は大きな石に当たってました」

詩甫と祐樹が驚いた顔をする。

「浅香、どういうこと・・・」

「今ここに野崎さんが居なかったってことになる」

詩甫も祐樹もそんな話は聞かなかった。 今初めて聞いた。

「花生さん・・・」

「もう人死になど見たくはないのでな。 それに・・・社に花を添えてくれていたのではないのか? いつも野花を手にしておったな?」

花生が詩甫に向き合う。
野花と言われ瀞謝であった時のことだとすぐに分かった。

「はい。 道端に咲いていたお花でしたけど」

「きっと朱葉姫が喜んでいたでしょう」

「二度も助けて頂いて有難うございました」

花生が笑みで詩甫に応えた。

祐樹が上がっていた気持ちを下ろして大きく息を吐くと、何気なく先ほどまで花生が見ていた階段の方を見た。

「い“い”ぃぃぃ―――」

全員が歯を食いしばっている祐樹を見る。

「なに? どうしたの祐樹?」

次にアワアワ言っている祐樹が見ている方向に顔を向けた。
するとまるでエスカレーターで下りてくるように、階段を下りてきている薄の姿が目に入った。 後には曹司がついている。

「薄・・・」

薄が花生に会いに来たのは誰にも分かること。 浅香と詩甫と祐樹が花生から離れた。
薄が花生の前に立つと薄の後ろに居た曹司が浅香の横に立つ。



「それにしてもビックリしましたね」

まさか薄が花生の元にやって来るとは。

ポツンと一人、前の座席に座っている中年の女性を見た。 目を瞑って耳にはイヤホンをしている。 音楽を聞いているのか、落語か、もしかして色んな年齢層で聞かれている聞き流すだけで英語を覚えられるというやつだろうか。 いずれにしてもこちらの話に耳を傾けていないことは確かである。

「はい、まさかですよね。 薄さんが考えを改めてくれるにしても、数日はかかると思っていましたから」

「曹司が横に立ってエラソーに言ってましたけどね」

曹司はずっと泣いている薄の背をさすりながら、花生のことを色々聞かせたらしい。 薄とてそれを知らないわけではなかった。

『薄姉、花生様がその様なお方とご存知ならば、どうして花生様を怨まれるのですか』

切々と説得したという。

「まあ、いずれにしても薄って人と花生さんが社に向かったんですから、大蛇のことは万事OKってことですよね」

薄は花生に朱葉姫のことを頼みに来た。 自分はもう社に戻らないから、朱葉姫のことを頼むと言ってきたのである。
花生はそれに首を横に振った。 ずっと朱葉姫のお側に居たのは薄でしょう、と言って。 薄はまた泣いた。 その薄の背中を花生がさすってやっていた。 そこにすかさず入ったのが曹司であった。

『薄姉、花生様と一緒に社に戻りましょう』

「そうですね」

「あと、どうします?」

これで大蛇のことを気にせず動けるわけだが、詩甫がどういう考えを持っているのか聞かなけば浅香とて動きようがない。

「さっきの話では、まずは花生さんの誤解を解いて僧里村の人に山に入ってもらうってことでしたけど」

「はい、そのつもりです」

「花生さんの誤解を解く説明をどうするつもりですか? まさか花生さんから聞いたとは言えないでしょう」

浅香はずっと『花生って人』 と言っていたが、ここに来て花生さんと言い始めていることに気付いた。 花生と会って近しく感じてそういう呼び方になったのだろうな、と詩甫は思ったが、そうではなかった。 単に花生の美しさに呼び捨てになど出来るものか、ということであった。 詩甫がそれを知ったらかなり呆れるだろうが、違う視点から見ると祐樹も似たようなものであった。

「そこなんですよねぇ・・・他の村から聞いたとも言えませんし、あれだけ大婆さんに訊いておきながら、どこかで文献を見つけたっていうのも白々しいし」

「この一週間の宿題にしておきましょうか」

「はい?」

「僕は二日に一度は動けますけど、僕と野崎さんが一緒に動けるのは週に一度です。 とにかく前に進めなくてはいけません。 一週間を無駄には出来ません。 お社の状態が悠長には構えていられない状態です。 いくら僕たちの地域が晴れていたとしても、お社のあの地域には雨が降っているかもしれないんですから」

そうだった。 詩甫の地域ではずっと晴天が続いていたのに、詩甫が山から落ちた時、足元が濡れていた。

「おい浅香、どうしてオレを省くんだよ」

「いや、省いたつもりはないけど・・・来週あたりから学校だろ? 毎週こっちに来られるの?」

切符代があるのかと訊いているのがヒシヒシと分かる。

「う・・・」

お年玉がないわけではない。 だが母親がいい顔をしないだろう。 ・・・いやどうだろうか。 終業式の日のことがある。 あまり祐樹を見たいとは思っていないかもしれない。

「お母さんの機嫌が良かったら来る」

「そっか。 来週、大婆さんにアポイントを入れておきます。 それまでに考えましょう。 参加不参加に関わらず祐樹君も考えておいてくれよ」

その言い方は何だよ、と祐樹が浅香を横目で見たが、そんな祐樹を無視して考えるように正面を見る。

大婆は命を捨てる気で山に入ると言っていた。 長治にしてもそうだ。 だがもう大蛇は居ない。 大婆も長治も怪我一つしないということになる。 だから言ってみれば長治が言ったように、長治に大婆を背負ってもらって山を登ってもらえば、大蛇など居ないという証明にはなる。
だがそれでは駄目だ。 根本的に花生の誤解を解かなくては。 それに詩甫がそれを望んでいるのだから。

僧里村の昔語りは薄と呪者によって操作されたものだったと分かってもらわなくては。 でなければちょっとしたことが起きただけで、また大蛇のせいにされてしまうかもしれない。

それに詩甫だけではなく浅香も花生の人となりを知った以上、花生の誤解を解きたい。 その上で、座斎村も守らなくてはいけない。 決して薄がしたことだと言ってはならない。 花生がそれを望んだのだから。

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国津道  第49回

2021年07月05日 22時22分00秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第40回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第49回



瞼を半分伏せた目で肩越しに花生が振り向く。 浅香の心臓が撥ねそうになる。 羞花閉月(しゅうかへいげつ)、それ程に美しい。

「村の人が持っている花生さんの誤解を解きたいんです。 お話しを聞かせていただけませんか?」

「誤解・・・のぅ」

詩甫の言わんとしていることは想像できる。 花生自身の口で言っていたことなのだから。
花生が顔を戻す。

「薄、憎むのならわたくしを・・・わたくしはそれをずっと受けましょう。 薄がこの世に居る限り、わたくしもずっと居ましょう。 これからもこの山の下に居ます。 もう他の誰をも憎むではありません。 よいですね」

薄からの返事はない。 だが花生の声は聞こえているだろう。 もしそんな気が無いのであれば言い返しているだろう。 言い返してこないということは分かってくれたのだろう。

薄と話をして朱葉姫に会いに行くつもりだった。 だがそれを叶えてはいけない。 波夏真に愛され自分は十分に幸せだった。 これ以上望んではいけない。

「花生様・・・ずっと・・・ずっとお一人で山の下に居られたのですか?」

花生が曹司に微笑んだ。 それが返事だった。

「朱葉姫はどちらかに出られておられるのか?」

朱葉姫の気がどこにもしない。 もし社の中に居るのならば、とうに花生の気に気付いてやって来ているはず。

「はい、今日は社の中・・・」

まで言って曹司が気付いた。 社の中の世界のことを花生は知らなかったのだ。

「社の中に入りますとこの山と同じような場所が広がっております。 そこの小川に皆で出かけられております」

「そう・・・」

それで朱葉姫が気付いていないのか。
朱葉姫を悲しませないよう、葉夏真が仕組んでくれたのだろうか。

(波夏真様・・・有難う存じます)

胸の中で手を合わせ、頭(こうべ)を垂れた。

「曹司、薄のことを頼みます」

「花生様・・・」

「瀞謝、行きましょう」

姿をはっきり見せている花生が一段ずつ階段を下りて行く。

(綺麗なお姉さん・・・薄って人と違うんだ。 ちゃんと歩くんだ)

薄が初めて祐樹の前に姿を現した時には、まるで歩く歩道にいるように足を動かさずスッと移動していた。 祐樹の鼻水が垂れそうになったときだ。

(そう言えば朱葉姫も歩いてたっけ)

朱葉姫、とても可愛らしかった。 その姿から祐樹より随分と歳が上になることは分かっているが、優香を美人とか可愛いと思っていたが、優香さえも見劣りするほどだった。

「祐樹、行こ」

「あ、うん」

詩甫と手を繋いで歩きだした時、浅香の足音が聞こえないのに気付いた。

「浅香、行くぞ」

「あ? え? あ、ああ」

「何ボォーッとしてんだよ」

花生の後姿に見とれていましたとは言えない。 すぐに足を動かした。

花生を先頭に詩甫と祐樹、その後ろに浅香と連なって坂を下り階段を下りて行く。
階段を下りきるとずっと黙っていた花生が口を開いた。

「ここまで来ればもう充分よいでしょう」

朱葉姫が社に戻って来ても花生の気に気付かないということだが、何がよいのかは、三人の知るところではなかった。

花生が振り返り詩甫を見る。

(おお・・・後姿も美しいけど、やっぱり正面・・・いや、肩越しに振り返った時も綺麗だった)

浅香がそんな感想を持っていることなど花生が知る由もないし、知ったとしても特に気を止めることもなく完全にスルーしていただろう。
この美しさは誰からもそう言われていたのだから。 今更である。

「民がわたくしのことをどう思おうと構わぬのだが?」

花生はいつ姿を消すか分からない。 その腕がつかめるものであれば腕をつかんで止めることが出来るが、花生はそうではない。 出来るだけ単刀直入に話さなければ。 それで足を止めてもらわなければ。 足を止めてさえもらえば、それからゆっくりと説明してもよいだろう。
詩甫が首を振る。

「お社が朽ちてきています。 ご存知ではありませんか?」

「社が?」

よく考えるとそうである。 この何百年と誰も修繕になど来ていないのだから。

「はい」

花生が憂色の色を見せる。

「もう・・・誰も来てはいないのですから、そうなるでしょう」

「私たちはお社を修繕したいと思っています」

「・・・」

「朱葉姫はお社が朽ちていくのを、朽ちて潰れるのを見たくはないと思っておられます。 それで私たちにお社が朽ちる前に・・・朽ちて潰れる前にお社を終わらせてほしいと頼んでこられました」

「朱葉姫が・・・」

それはどれだけ悲しい決断だっただろうか。 あの優しい朱葉姫が民が建てた社を終わらせるなどと。

「朱葉姫はお社から民の姿を声を笑顔を見るのを楽しみにされていました。 ですが村には大蛇伝説があります。 山の神が遣わしたとか村々で違うようですが、僧里村の一部の伝説は・・・昔語りは、その大蛇が花生さんということになっています。 そして花生さんである大蛇が、女の人を睨むとか手にかけるとか、そんな風に語られています」

「そう」

「それは、前にも訊きましたが、花生さんが里に戻られた時に朱葉姫のことをよく言わなかった、それが起因です」

「そう」

花生の気のない返事、消えられるかもしれない。 どうしても花生を留めたい。

「遠い昔の話ですが、お社を修繕に来た人たちが皆さん亡くなっています」

「・・・そう、山からは男も落ちてきていた」

それも薄のしたことだろう。 だがそれも花生に向けられた憎しみから始まっている。 花生がしたも同然、花生はそう考えているのかもしれない。

「花生さんの誤解を解かなくては、この山に誰も入ってくれないんです。 お社を修繕できないんです。 お願いします! もう一度朱葉姫に民の笑顔を見させてあげてください!」

「朱葉姫、に・・・?」

「はい、花生さんの誤解さえ解ければまずは僧里村の人たちが来るでしょう。 その姿を他の村の人達が見たら、その人達も昔語りの大蛇はもう居ないと信じてくれるでしょう。 そして朽ちているお社を見ます。 村のみんなはきっとお社の修繕に手を貸してくれます。 お社の前で手を合わせ、朱葉姫に話しかけてくれます。 朱葉姫に民を見て頂きたいんです。 花生さん、お願いします。 何があったのか聞かせて下さい」

頭を下げる詩甫を一瞥するとすっと視線を逸らした。

「花生さん、お願いします。 朱葉姫を悲しませないで下さい」

「朱葉姫を悲しませるなどと・・・」

「村の人たちの笑顔を長い間、朱葉姫は見ておられません。 朱葉姫に村の人たちの笑顔を見させてあげてください。 村では今でも朱葉姫の名が語り継がれているんです、村の人たちもお社に来たいんです。 でもどうしても大蛇の伝説が・・・昔語りが残っていて山に入るのを躊躇しているんです」

何人もの民が山から落ちた。 誰一人として救えなかった。 泣いて唇を噛み締めることしか出来なかった。
泣いても唇を噛み締めても、それは自分のせい。 自分が居たから民が山から落ちた。

生きている時にもっと良いやりようを見つけていれば、こんなことは起きなかった、朱葉姫も死ぬことは無かった。 全ては自分のせい。
今も自分の失敗が尾を引いているのか、朱葉姫を悲しませているのか・・・。

「花生さん、お願いします。 まずは誤解を解かなくては、僧里村の人は社に戻っては来てくれません」

花生が深い息を吐いた。
朱葉姫を守れなかった、民を不幸な目に合わせてしまった。 それで終わりではなかった。 まだ続いていた。

「・・・朱葉姫は民に添われた方」

「はい」

「領主が民を守るなど・・・他の領主には有り得ることではなかった。 中央に収めるものを搾取するだけの領主でしかなかった。 ですがお義祖父様もお義父様も領主として民を守り、朱葉姫は・・・朱葉姫と波夏真様はお義父様の背をよく見られていた」

花生が話し出してくれた。 だが安心など出来ない。 少し話して、だから話す気はないと言われるのかもしれない。 詩甫に緊張が走る。

「薄は・・・。 瀞謝、薄を見たでしょう? とても美しい。 そう思いはせんか?」

じっと詩甫と花生の話を聞いていた男二人。
心の中で祐樹が首を横に振り、浅香が花生ほどではないが、まぁそうだろう、などと考えた。

「はい。 お美しい方です」

「座斎村でも村一番の娘でした。 座斎村を出てもその美しさに勝てる者はいない、座斎村はそう考えていました」

美人コンテストの話になるのだろうかと、浅香が心の首を傾げた。 祐樹にしては話の筋が見えなくなってきた。

「波夏真様のお心を射止められると」

「え?」

一瞬声を上げた詩甫を見て花生が笑んだ。 その笑みの意味が分からない。

「座斎村は薄をお館に送り込みました。 お館に送り込まれた薄は最初はどうだったのでしょうねえ、わたくしにはそこまで薄の気持ちは分かりません。 ですが、どの村の娘も波夏真様に心を寄せていました。 お館に送り込み、波夏真様に見初められればその村は村の頂点に立つ」

そういうことか。 ついさっき花生の言った意味が分かった。

「最初からなのか、お館に送り込まれてからなのかは、わたくしには分かりませんが、薄は波夏真様に心を寄せていました」

それは少し前に花生が薄に言っていたことだ。 ここまでは話す、だがここで話を終わらせる、そう言われるのだろうか。

花生が詩甫から目を外し遠い目をした。

今の花生の気持ちにどう言葉をかけていいのだろうか。 誤解を解く話をしてもらうに、何を言えばいいのだろうか、何を言ってはいけないのだろうか。 どう言えば花生は話しを続けてくれるのだろうか。 詩甫が頭の中で逡巡する。

「わたくしがいけなかったのです」

「え・・・」

「波夏真様が僧里村にお義父様について来られたその時、わたくしは毒蛇に足を噛まれました」

「毒蛇・・・」

何の因果だろうか、どうして蛇の存在がここにあるのだろうか。

「その年は憎里村で毒蛇に噛まれることが続いて死人さえ出ていました。 それを聞きつけたお義父様と波夏真様が村の様子を見に来られていた時でした。 波夏真様がすぐにわたくしの足から毒を抜いて下さり、わたくしをお館に運んでくださいました。 暫くはお館で養生するようにと言われましたが、それをお断りしたのですけど・・・」

「お館で・・・」

そこには薄が居た。

「波夏真様が毒を抜いて下さいましたが、まだ少し残っていたのでしょうね、わたくしは熱を上げ、数日間お館に身を置くこととなりました。 葉夏真様は責任を感じられたのでしょう、毎日毎日わたくしの様子を見に来て下さいました」

そこで恋が芽生えたということか。 僧里村の昔語りに残っている、花生が何か手を使って波夏真の心を射止めた、その真実がこれか。

「薄は・・・それが許せなかった」

「どうして―――」

詩甫が言いかけた。
思わず浅香が詩甫の口を塞ぎたいと思った。 大婆が言っていたように、詩甫には薄の気持ちは分からない、だが今そんな話で止まってはいられないのだから。

「野崎さん、疑問は後で」

詩甫の耳元に小声で言う。

そうだった、今、花生の話の腰を折ってはいけないのだった。

「薄は村に戻った時、村人から波夏真様とのことはどうなったと訊かれる。 薄にしては訊かれたくない事。 だから僧里村からの邪魔が入ったと言いました」

「あ・・・まさかそれでお社を・・・」

最初に社や祠を焼いたのは座斎村だと薄が言っていた。
花生が頷く。

「そのことはずっと後に耳にしたことです。 座斎村が憎里村のお社を焼いた・・・それさえもその時お館に居たわたくしは知りませんでした。 薄の気持ちもお社のことも知らないまま、わたくしは波夏真様に嫁ぎました」

花生は当時のことを後悔しているのだろう。 どうして何も知らず嫁いだのかと。

「波夏真様もお義父様もお義母様も朱葉姫を可愛がっておられた・・・。 朱葉姫も精一杯、民に添われていました。 わたくしも朱葉姫を愛した・・・愛する波夏真様が愛してもおられるのだから」

そこまで言って花生が首を振る。

「もしも波夏真様が朱葉姫を愛さず、朱葉姫を邪険にしておいでならば、わたくしは波夏真様の元に嫁がなかったでしょう」

それは、葉夏真が愛した朱葉姫であるから花生が朱葉姫を愛した、そうではないと言っている。

「そんなわたくしが波夏真様の元に嫁いだ。 更にそれが許せなかったのでしょう」

意味が分からない、どういうことだろうか。 どうして薄は許せなかったのだろうか。
詩甫が浅香を見ると眉根を寄せて頷いてみせてきた。 黙って話を聞いていろということだろう。 浅香はいま花生の言った意味が分かっているのかもしれない。

「薄の様子が段々と変わってきました・・・」

薄は村に戻ると徐々に朱葉姫の悪口を言い始めた。 最初は朱葉姫が変わってきたと言っていただけなのだが、その内に館の中での朱葉姫の姿と一歩外に出た朱葉姫の態度は全く別だと言い出した。
民の様子を見に行くのを面倒だと言い出し、態度も横柄になってきているなど、あらぬことを座斎村の者たちに聞かせた。

村人たちは首を傾げ、また怪訝な顔で聞いている者もいたが、村に戻って来る度に薄が口にするものだから、その内に信じるようになってしまった。

民に向けて笑顔でいるあの朱葉姫の笑顔は作り物、衣を繕ってくれるのはその気もないのに嫌々だと。
自分達は朱葉姫に騙されていたのか、村人がそんな風に考えだした時、それは朱葉姫が花生に染まってきたからだと言った。 朱葉姫は花生の手中にある、あの花生の手の中に。 花生が朱葉姫を変えた、と。

「わたくしを苦しめたい、そう思ったようでした」

それはどういうことだろう。 朱葉姫の悪口を並べたのは花生。 花生もそれを認めたのに。

「薄のしていることを知ってわたくしは家に帰る度、薄と同じことを話したのです。 ですが、聞こえの良いものではありません。 血の繋がりがある者だけに聞かせました、朱葉姫の良くない話を・・・嘘の話を」

薄が口にしていたことが花生のところまで聞こえてきたのだ、そうであれば花生が口にしたことも薄に聞こえるだろう。
この話しを薄が耳にすると、すぐに根底にあるものに気付いてくれるだろう。 薄の考えていることは見透かされている、と。 そうなれば薄ももう口を止めるだろう、そう思ったという。

「ですがそうはならなかった・・・。 薄は・・・呪者を探しだし始めました。 それは朱葉姫に呪いをかけるために。 朱葉姫が嫁ぐまでに、わたくしの愛した朱葉姫の苦しむ姿を目の当たりにさせるために。 薄はとうとう力があると言われている呪者の元に足を運びました。 わたくしが呪者のことを知ったのは、朱葉姫が身罷って何十年と経ってから」

血相を変えた両親が館にやって来て、誰にも話を聞かれないように花生に親族会議が持たれたことを話した。

呪者が花生の両親に頼まれ、朱葉姫に呪いをかけたということを言ったと本家から聞かされたと言う。
そんなことをした覚えのない両親は何度も違うと訴えたが、朱葉姫が苦しんで亡くなったことは誰もが知っていた。 それはこうして聞かされれば、呪にかかっていたと言われれば納得できるものであった。

『何を今更しらばっくれる!』 両親が何を言おうとも、聞き入れてもらえなかった。 物を投げられ罵られたと言う。
そして死んでも朱葉姫を呪うと言って、花生自身が呪者の元に行き、呪をかけたのかとも問うてきたと言う。 それは本当なのかと問われた。
寝耳に水だった。

『どうしてわたくしがそのような事を!』

『花生、お前は家に戻って来る度、朱葉姫様の悪口を言っていたじゃないか』

『それは・・・それには理由があって』

花生が何度も首を振った。

『本心からではありません』

薄は気付いてくれなかったのか、口を止めるどころか朱葉姫に呪いをかけたということなのか。 朱葉姫は流行り病で亡くなったのではなかったのか。

当時のことを思い出したのか、花生の顔が陰ってくる。

「花生さんが言っていたことは、薄って人の耳には入らなかったと思います」

花生がどうして? という顔を浅香に向ける。

「その頃の村は、僧里村とその他の村で対立していたそうです。 座斎村も他の村の誰も僧里村にはかかわらなかった。 そうなると花生さんが話したことの欠片も座斎村にも他の村には伝わりません」

そうか、そうだったのか。
浅香の言いたいことが分かった。 花生は薄が里に戻って朱葉姫のことを言っていると耳にしたのは僧里村からではなかった。 館の裏でコソコソと話されていたことをたまたま耳にしたのだった。 その時はその様な噂は信じないよう、と注意をしておいて噂は立ち消えとなったが。

「そうだったのですか・・・」

「あの・・・それって、その呪いの話って、呪者からだけ聞いた話だったんですか?」

「皆が集まりどんな話をしたのか、詳しいことは分かりませんが、きっとそうでしょう」

詩甫と浅香が目を合わせた。 きっと互いに同じことを思っているだろう。

大婆のところで聞いた話、花生の話が残っているがそれをよくよく思い出すと、大婆は言っていたではないか。
呪者があとになって朱葉姫に呪いをかけたことや、新たに花生に呪をかけた事を本家である大婆の家の先祖に洗いざらい話しにきたと。

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国津道  第48回

2021年07月02日 23時05分55秒 | 小説
『国津道(くにつみち)』 目次


『国津道』 第1回から第40回までの目次は以下の 『国津道』リンクページ からお願いいたします。


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- 国津道(くにつみち)-  第48回



社の中の世界の山の中の木々の間に身を置き、曹司が社内に戻ってきた時には薄の姿はなかった。
すぐに社の外に出て詩甫たちの後を追う。

気を落とす。 もちろん人としての姿も消しているし、霊体の姿もとっていない。 霊同士であるならば、たとえ光の粒であっても簡単に相手に覚られてしまう。 気も感じられるだろう。 ましてや相手は単なる霊ではない。 力のある者だ。

朱葉姫からの話とあったことを考えるに、少なくとも曹司と同じくらいの力を持っているだろう。 物を動かせる、壊せる、山を出ることが出来る。

「・・・」

詩甫たちの姿を捉えた。 まだ坂を下りていない。 出来るだけ詩甫たちから離れて後を追う。
気を落とす、落とす。 大蛇に勘付かれないように。 光の粒となり、その耀きさえも落とす。
己を木々の葉の一枚にすらならない葉脈の程にする。 陽の光の一粒に紛れ込む。 風の囁きの小声に混じる。
そうして徐々に徐々に詩甫たちの後を追いながら、辺りを注視する。

詩甫たちが坂を下りだした。 かなりスローだ。 詩甫と祐樹が手を繋いでいる。 浅香が詩甫の後ろについている。

(どこに・・・)

気は感じない。 大蛇も気を消しているのだろうか。
それとも現れないのだろうか。

(・・・それは有り得ない)

今の曹司はそう確信している。
今まで何度か詩甫が来ていたのに、手を下されたのは二回だった。 それに浅香の話から社を修繕した者達にも手を下したと聞いたが、浅香は手を下されていなかった。 祐樹も然りである。
だがそれは・・・祐樹に手を出さなかったのは浅香が居たからではないのか・・・。

(いや・・・)

その確信は気のせいかもしれない。 己の確信を否定する。

「浅香さん・・・」

今は坂の途中である。 山の上からは落とされなかったようだ。

「振り返らないで下さい。 気を散らせることが相手を必要以上に引き寄せるかもしれません」

本当は “引き寄せる” ではなく “手を下させる” と言いたかったが、そう言ってしまえば余計な不安を煽るだけだろう。
祐樹は坂を下りだしてから、前方左右上下にくまなく目を走らせているようだ。 後ろから見ていると小さな頭がよく動いている。

「祐樹君が上も見てくれています。 野崎さんは前と右横、そこから意識を離さないで下さい」

詩甫の左には祐樹が居る。

浅香は詩甫の後ろに付きながら、詩甫の周りに目を這わしている祐樹と、詩甫の周りに目を這わしている。 詩甫だけではない、祐樹の安全も守るつもりである。

「大蛇はかなり用心しているのかもしれません」

物質に触れようとするときには姿を現す。 そう曹司が言っていた。 透けたままの霊体だと物質を通り抜けると言っていた。

「居るんでしょうか」

居てもらわなくては困る。 こんなことは何度もしたくない。 いくら心臓があっても足りないし、浅香のたった一つの心臓には女の人の日本髪を結えるほどの毛は生えていない。 だから今日ここで終わらせたい。

「分かりません」

分からないということは、曹司は何かの形で浅香と接触をしておらず、今も辺りを探っているということだろう。

「浅香さん・・・」

「はい」

「このままでは・・・浅香さんと祐樹が守ってくれている間は大蛇は出てこないかもしれません」

「え・・・」

「姉ちゃん?」

「一人で歩きます」

「何言ってんだよ!」

「祐樹、手を離して」

「ヤだよ! どうしてそんなこと言うんだよ!」

祐樹に先を取られ、浅香は声にこそ出してはいないが、全く祐樹と同意だ。

「祐樹、お願い」

社が思っていた以上に酷かった。 朽ちていた。 もう猶予などない。 大蛇と一日でも早く向き合うしかない。

「野崎さん、祐樹君の言う通りです。 そこまで野崎さんの身を捨てないで下さい」

「え?」

「大蛇は来ます。 まだ坂の途中です。 その先に階段もあります。 曹司を信用してください」

「浅香・・・」

あれほど曹司のことを信用ならないと言っていたのに。

「浅香さん・・・」

祐樹と詩甫が後ろにいる浅香に振り向いた。 その途端、詩甫の斜め横から一瞬にして肘から下の人の腕が現れた。

「野崎さん―――」

振り返っちゃいけない! まで言えなかった浅香が言いかけた時には遅かった。
詩甫の空いている右手が現れた腕によって引かれバランスを崩した。

「あ・・・」

すると詩甫の手を引いた肘から下の腕、その手首を別の肘から下の腕が掴んだ。
一瞬にして起こったことだが、それはちょうど祐樹の目の高さだった。

肘から下しかない腕が二本・・・。 一本が一本の手首を掴んで・・・。

「い“い”い“―――」

鼻水が出るどころかおしっこを漏らしそうである。
だが辛くも祐樹がおしっこを漏らす前に手首を掴んでいた腕の本体が徐々に現れてきた。
曹司だった。

そして腕を摑まれている本体、その姿が徐々に浮かび上がってくる。 その本体が手首を取られたままの状態で驚きの目で曹司を見ている。
その目は切れ長の目であった。

「どうして・・・」

曹司が大蛇に悲し気な目を向ける。

「あ!」

勢いよく引っ張られ、祐樹と繋いでいた手が解けた。 一瞬叫んだ祐樹。 詩甫の身体が後方に舞おうとした。

浅香が離された祐樹と繋いでいた腕に手を伸ばしたが、勢いよく大蛇によって引っ張られた詩甫の身体が反転しながら、浅香と指先だけが触れた。

「野崎さん!」

浅香の手に握られることなく詩甫の身体が坂に向かって倒れていく。

「姉ちゃん!!」

ドンと、詩甫の身体が受けとめられた。

「・・・あ」

思い出した。
この手だ、この胸だ。

浅香と一緒にこの山を下りていた。 誰かに突かれた。 山を転げ落ちた。 完全に意識がなくなる寸前、この手が胸が詩甫の落ちて行く体を受け止めてくれた。 思い出した。

「何度も、飽いることは無いのか」

身体を斜めにした詩甫がその胸の中に居た。

「今度こそ殺されたいのかと忠告したはずだが?」

「花生さん・・・」

いつから居たのだろうか、花生の姿がはっきりと見え、詩甫の身体を受けとめていた。

「野崎さん!」

花生によって受けとめられた身体はまだ斜めになっている。 すぐに浅香が詩甫の手を取って元の体勢に戻した。
祐樹が呆然としている。

花生が詩甫の斜め下に目を移す。

「ようやっと相見(あいまみ)えたのう」

花生の視線の先を詩甫も見る。
屈んでいる曹司の姿が目に入った。 膝を折って座り込んでいる曹司の手が握る大蛇の姿も。

「あ・・・」

詩甫が一言漏らした。 その姿を知っていたから、姿だけではなく名も知っている。

曹司が悲しげな目でその名を呼ぶ。

「薄姉・・・どうして」

薄が曹司から目を離す。

薄は曹司を社の外まで迎えに来ていた。 そして二人で社の中に入った。 その薄が言った。 朱葉姫が曹司を心配して待っていたと。
だがあの時、朱葉姫が心配していたのは詩甫である瀞謝であって曹司ではなかった。 とは言ってもそこに薄が居たわけではない。 薄は知らなかっただけなのだろうと思った。

だが次には、曹司が戻って来ないと心配をされていたのよ、そう言った。
あの短時間で朱葉姫がそんなことを言うのは有り得ない。 曹司は山の下まで瀞謝を送ると朱葉姫に言っていたのだから。 そして瀞謝のことを曹司に頼むと言い残して行った朱葉姫なのだから。

薄を疑いたくなど無かった。 花生と同じように。
薄に早く小川に行くようにと言われ、社の中の世界である山の中に姿を消し社を見ていた。 薄は荷物を持って曹司の後から小川に行くと言っていたが、薄が社から出てくることは無かった。 ましてやその薄の姿は社内から消えていた。

曹司から目を離した薄がゆっくりと立ち上がる。 曹司が掴んでいた手首を離し薄の掌に添え、同じ様に立ち上がる。
薄がゆっくりと花生を見る。

「花生様・・・」

ずっとそう呼んでいた。 生きていた頃と同じ様に呼ぶが “様” など付けて心の中で呼んだことなどはない。

「薄、それほどにわたくしが憎いか」

曹司が驚いたように花生を見た。 大蛇は朱葉姫を憎んでいると朱葉姫から聞かされていたのだから。
だが詩甫を襲ったその大蛇の正体が薄であった。 その薄が朱葉姫を憎むなど有り得ない。 それなのに今、花生は薄にそれほどに憎いかと言った。
どういうことだ。

「曹司、なんという顔をしているの。 優しいと甘いは違うと何度も言ったでしょうに」

どこか子供を叱り教えるような言葉である。

「はい・・・」

だがそう言われても分からない。

「何人もの民が此処を落ちて・・・。 気が付いた時には遅かった、誰一人として救えなかった」

花生が寂しげな顔でゆるゆると首を振る。

「お前だけは救わなくては、とな。 名は?」


詩甫が何度も山の下で花生の名前を呼んでいた。 花生は居ないわけではなかった。 詩甫の姿を見ていた。 もう来るなと言ったのにもかかわらず、またやって来て花生の名を呼び、暫く待つと諦めたのか階段を上って行った。

その昔もそうだった。 何度も来ては階段を上がって行っていた。 階段を上り切ったところまではついていたが、その先について行くことはなかった。 瀞謝が階段を上り切り、坂を上がっていく後ろ姿を見ていた。 その手にはいつもここに来るまでに手折ったであろう野花が持たれていた。 この先で瀞謝が何をしようとしているのかは、見ずとも分かっていた。

そんな瀞謝を放ってはおけず瀞謝が来る度に、瀞謝である詩甫が来る度に後を追っていた。 だがその昔と同じように、階段を上り切ったところで足を止めた。 これ以上は上がれない。 これ以上上がると社に居るであろう朱葉姫に気付かれるかもしれない。 薄に相まみえるまで、それまでは朱葉姫には会えない。

そして事は起こった。
階段の上で待っていると、ずっと先に薄の気を感じた。
今日こそは。
薄に気取られないよう光の粒に姿を変えて木々の間に姿を隠した。

だが薄は一瞬にして動いた。 薄が詩甫を突いた。
落ちていく詩甫。 薄を捕らえるより詩甫を助ける方を選んだ。

そして今日、階段の上で待っているとやはり薄の気を感じた。
今日こそは必ず薄と向かい合う。 薄と向かい合えばその後に朱葉姫に会いに行ける。 もう朱葉姫から姿を隠さずともよくなるはずなのだから。

霊体を光の粒に変えた。 薄に気取られないよう、朱葉姫に気付かれないよう、ゆっくりと坂を上がっていく。
詩甫のずっと後ろにいる薄のその姿が目に入った。 薄は霊体のまま詩甫に近づいている。 万が一にも薄に逃げられないよう、焦らず木の葉の間を移動する。

薄をじっと見ながら木の葉の間に隠れながら移動を繰り返していると、薄のはるか後方、そこに光を抑えた光の粒が見えた。 花生と同じように木の葉の陰に隠れながら移動している。

(曹司か・・・)

霊体を取っていないがそれが曹司だと分かる。 つい最近会ったというのもあるが、ずっと朱葉姫と一緒に可愛がっていた曹司である。 朱葉姫が身罷ってからも同じように可愛がっていたのだから。

(ようやっと気づいたということか)

ふと薄が速く進んだのが見えた。 下を見ると足を止め詩甫と浅香が話をしていた。
花生が移動を止めて見ていると、薄が詩甫の横にすっと回りこんだ。 詩甫も浅香も、もちろん祐樹も気付いていない。
やられる! そう思った時には詩甫に向かって飛び出していた。


名前を聞かれ、詩甫と言おうか瀞謝と言おうか迷った。 だがその迷いは一瞬であった。

「瀞謝と申します」

詩甫の声に呆然としていた祐樹の気が戻った。

「姉ちゃん・・・」

詩甫の腕を両腕でぎゅっと抱え込む。 もう二度と離さないと言わんばかりに。

「そうか、瀞謝か。 昔の名か?」

花生の目には詩甫は瀞謝と写っているのだろうか、それとも詩甫と映っているのだろうか。

「はい」

「大事なくよかった」

有難うございます、と言って詩甫が頷く。
花生がゆっくりと薄を見る。

「薄・・・わたくしが憎ければ、わたくしだけを憎めばよいのではないのか? どうして民を手にかけたのですか」

民に手をかけたのはやはり薄だったというのか。 曹司が頭を垂れる。

「民・・・民と言っても僧里村の者」

薄が花生に言う、それは手をかけたことを認めたということ。 曹司が口を引き結ぶ。

「それはわたくしが憎くて、わたくしの里の村の者を手にかけたのではないのか? 僧里村とて民、朱葉姫が大切にされている民ではないか」

薄が一瞬花生を見てすぐに目を外す。

「花生様が嫁いで来られて、僧里村がどんな態度でいたかご存知のはず」

「決して良い態度ではなかった、そう言われていたことは知っておる。 だからと言って民の命に手をかけることが許されるはずがないでしょうに、分かっていよう」

薄がキッと花生を睨む。

「僧里村は我が座斎村の社を焼いた」

浅香と詩甫が、え? っとした目をした。
他にもいるかもしれないが、探そうとしていた座斎村の女、それが薄だったのか。 この薄が館でのことを話そうとしなかった女なのだろうか。
それに今話されているこの話は祐樹が星亜から聞いてきた話であろう。 社や祠を壊したのではなく焼いたというところは少し違っているし、壊されたのは僧里村の方だと聞いていたが・・・。

「ええ、哀れなことをしたもの」

薄が口を歪める。

「それだけ? それだけで御座いますか!?」

「薄・・・」

「どうしてその前に座斎村が僧里村の社を壊したからと言わないのですか!」

互いにそんなことをしていたのか。
それはきっと朱葉姫の兄の嫁になることが絡んでいたのだろう。

「互いに哀れだったということ・・・どちらが先でも後でもありません」

薄が曹司の手を撥ね退けた。

「それ! それがっ! それが気に入らない!」

「薄・・・」

「波夏真(はかま)様はそんな花生様をお好きと仰る!」

曹司がどういうことだと眉間に皺を寄せ、残された三人は初めて聞く名前に誰だと首を傾げる。

「薄・・・薄が波夏真様に心を寄せていたのは知っています」

「ええ! ええ、そう! お館にお仕えしてずっと葉夏真様を見ていた! それなのに! 花生様が横から葉夏真様を奪った! 葉夏真様を騙して!」

浅香と詩甫がようやく葉夏真という人物が誰なのか分かった。 花生の夫であり、朱葉姫の兄であったのか。

「薄姉・・・そのようなことは御座いません」

「いいのですよ曹司、薄の気が済むまで」

「気? 気が済む!? 気など済むはずがない!」

「そう・・・こうして長くこの世に生きていないのに、それでも生きていた頃の薄の憎しみは続いているのですからね」

「知ったようなことを・・・!」

「ですから薄、貴方の憎しみはわたくしに向けなさい、向けなくてはいけなかった。 民にも朱葉姫にも向けてはいけなかった」

薄の表情が一瞬にして固くなった。

「花生様?」

「曹司、わたくしは朱葉姫をお守りできなかった。 でも曹司には朱葉姫をお救いしてもらいたかった」

「え・・・あの・・・」

守ると救う。 何がどう違うのか。 花生が守ることの出来なかった朱葉姫、それは朱葉姫が流行り病に倒れたということだろう。 花生は流行り病から朱葉姫を守ることが出来なかった、その後に朱葉姫を救うとはどういうことだろうか。 もうこの世に居なくなった朱葉姫を救うとは。

花生はずっと薄を見ている。 薄の手先が震えている。 その震えが段々と広がっていき、肩が震え足が震え出した。

「後悔をしているのね?」

「うっ・・・」

薄の目から一筋の涙が落ちた。
花生が震える薄の背をさすってやる。

「亡くした者たちの命は戻って来ません。 朱葉姫の命も。 ですがもう遥か昔のこと。 薄が手を下していなくとも、誰も今の時には生きていません。 もう心を偽らないでちょうだいな、ね。 薄? 薄が後悔をしていると知って安心できました」

薄が両手で顔を覆うとわっと泣き出し、その場に座り込んだ。

「永年・・・苦しかったでしょうに。 もっと早くわたくしが気付くべきでした」

薄姉、と言いながら曹司もしゃがんで薄の背をさすってやっている。

浅香と詩甫が目を合わせた。 今の話から間違いなく大蛇は薄だということが分かった。 人はこの世に肉体があろうとなかろうと、汚れたものは涙で洗い流すことが出来ると聞く。 もう大蛇は現れないだろう。 これで一山超えた。 だがまだ難題が残っている。

「花生さん」

詩甫が花生を呼ぶ。

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