『国津道(くにつみち)』 目次
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- 国津道(くにつみち)- 第57回
少しすると長治が振り向いて浅香に話しかけた。
「浅香君、運転免許は持ってるか?」
てっきり失念していた。 もし自分たちに何かあった時のことを。
「え? はい」
「これ、運転できそうか?」
ペーパードライバーなら論外。 運転できるとしても、免許を取った後に軽しか運転したことが無いのであれば、ペーパードライバーに毛が生えたようなもの。 アルファードの運転は難しいだろう。
家にいる者を呼べばそれでいいが、残念ながら長治と次郎以外で昼間家にいて運転免許を持っているのは女たちだけである。
アルファードをこの山道の左側、少し広い所に停めても、家の女たちにはそのスペースだけでは方向転換が簡単には出来ない。
次郎が方向転換をした状態で停めればいいのだが、そうなれば村から車を走らせた時に、その車の走行が左側ではなく右側という図が出来てしまう。
決してアルファードが右側走行をしているわけではないし、停車しているのだが、ここを通る全ての村の者たちはそれを嫌がっていた。 正面に見える車が自分の走行の左側にあるというのは座り心地が悪いということである。 だから方向転換をして停めておくことは出来ない。
万が一のことがあったときには、後ろから追ってくる軽トラたちがなんとかしてくれるだろうが、出来るならば頼りたくはない。 ほらみろ、などと舌を出されたくない。
「僕、救急隊員なので救急車を運転しています。 ある程度狭い道にも入りますので、運転は可能かと」
救急車もアルファードもそんなに大きさは変わらないはず。 いや救急車の方が全長は長いかもしれない。
長治に質問され、何となく長治が何を言いたいのかが分かった。 不必要なことではあるが、安心してもらうために運転できることを言った。
「え? 浅香君、救急隊員なのか?」
「あ、言ってませんでしたっけ?」
長治が頬を緩める。
「大蛇の話しばかりだったからな」
大婆が僅かに頷いた。 話を聞いていたのだろう。 どこか暗い雰囲気が漂った。 これから先のことに不安を感じているのかもしれない。
「そうですね。 でも山にも社にも大蛇は居ません。 心配なんて必要ありませんよ」
「・・・そうか」
長治が顔を戻す。
「案ずるより産むがやすしです」
長治の後頭部に浅香の声が囁(ささや)く。
「昔語りは・・・」
浅香の話では大蛇は・・・花生は山には居ないということ。
だがどこでどう違ってしまったのか、大蛇は社に居るとも語られている。 それを払拭したい。 大婆も長治も。
長治が何かを言いかけたが、そこから続く言葉が見つからないようだ。 まだ不安を拭えないのだろう。
浅香の言うことを信じようと思っても百パーセント信じられるものではない。 小さな頃から長年聞かされてきた昔語り、その昔語りを我が子にも聞かせてきたのだから。 そして次郎が出来てから聞かされた話も。
それに死ぬ覚悟は出来ていると言っても、自分だけならまだしも我が曾祖母を犠牲にしなくてはならない。 その覚悟はまだ出来ていない。 簡単に覚悟できるものではない。
「昔語りは否定しません」
どういうことだ。 僅かに長治が振り返る。
「偶然なんですけど本がありまして」
浅香が何を言おうとしているのか分かった詩甫がすぐにバッグから本を取り出す。 朱葉姫の事が書かれている頁をめくる。
「今日、お初にお目にかかりました祐樹君の友達が購入していた本なんですけど」
玄関先でだが、大婆の家で祐樹の紹介は終わっている。 祐樹と三太がそのまま庭に遊びに行き、浅香と詩甫は客間に上がらせてもらい親族との話し合いの様子を聞いていた。 もちろん、親族以外の村の男たちが後に付いてくるという話も聞いた。
詩甫が朱葉姫の頁をめくって浅香に渡すと、それを長治に渡す。
「本?」
「ええ、ここに朱葉姫の事が書かれています」
「え!?」
長治が手にした僅かながらだが、朱葉姫のことが書かれている文に目を落としている。
「ほぼ五十年前の本です。 ですが最近になりまた出版されたようです」
重版などと言っても分からないだろう。 説明も面倒臭い。
「どういうことだ」
二人の会話を聞いていた大婆が訊いてくる。
「朱葉姫ではなく、他のお姫様のことで加筆されて出版されたようですが、そこにも朱葉姫の事が書かれています」
「それが?」
「この村、この地域以外の人が朱葉姫のことを知ったということです。 紅葉姫社の事も」
大婆が大きく目を見開く。
だが後部座席に座っている浅香にそれを見ることは出来ない。
「朱葉姫は昔語りの姫様ではないということになったのではないでしょうか。 ここに昔語りは書かれていません。 この本を読んだ人は昔語りを知りません。 朱葉姫の名を知り紅葉姫社を知ることになった」
「それは・・・」
「朱葉姫は今も民を見ているということです」
大婆がぐっと喉を鳴らす。
詩甫が浅香を見ると詩甫に頷いて見せる。 朱葉姫を信用しろと。
「僕が以前に言ったのは僕の勝手な推量です。 その昔、大蛇が・・・いつの時代にどんな話でそうなったかは分かりません。 ですがずっと朱葉姫は民を見てこられている、お社を守っておられる。
こんな風に本が出回るというのはそういう事ではないんでしょか? 神業とでも言いましょうか、神様が朱葉姫を見てこられた、だからこんな風に本が出回った。 そんな風に僕は考えます。 神様を信じる者にとってそれは当たり前に考えることであるかと。 だからお社のある山に大蛇は居ません」
他の村の昔語りは山神が大蛇を遣わしたとあったが、その詳しいことを大婆が知るのかどうかは知らないが、こんな時は言い切るに限る。 それに他の村の昔語りを大婆は出してこないだろう。
薄のことは話せない。 過去の中で無かったことに、うやむやにするしかない。 だがそれは嘘になる。 薄によって命が途中で止められた者が居るのだから。 たとえそれが何十年前、何百年、千年以上も昔の話だろうと。
死んだ者は納得が出来はしないかもしれない。 朱葉姫を想い行動に移したのに殺されたのだから。
浅香が首を振る。
そこに囚われていては先に進めない。
薄はもう昇天したのだ。 今までのことを悔い改めているはず。 それが亡くなった方々に届くはず。
「安心して下さい。 僕がアルファードを運転することはありません」
アルファードが少し広い所に車を停めるよりも早く、後を追っていた三台の軽トラが広い所で路駐をした。 そこから六人の男たちが急ぐことなく、歩いてアルファードの後を追っている。
次郎がバックミラーで男達を確認しながら、ゆっくりと車を走らせている。 男達が軽トラを停めた場所は、これから次郎が車を停める場所からそうは離れていない。
男達を確認し車を停めると長治に言われて次郎が大婆を負ぶった。
次郎を巻き込まないために、てっきり長治一人で負ぶうつもりだったかと思っていたが、違っていたようだ。
次郎の顔も長治の顔も緊張しているようだ。
次郎に負ぶわれた大婆の隣に長治が立つ。
「なんちゅう顔をしとるか!」
大婆が手を伸ばして長治の頭をはたいた。 ついでに「お前もだろ」と言って次郎の頭を後ろから勢いよくはたく。
その大婆の顔が緊張を隠しているように見えるのは気のせいだろうか。 いや気のせいではないだろう。 だがその緊張が何に対してなのかは分からない。 これから起こるかもしれないことに対してなのか、紅葉姫社に行けることに対してなのか。
「野崎さん、祐樹君と先を歩いてもらえますか?」
「え?」
てっきり浅香が先頭を切ると思っていた。 その後に詩甫と祐樹がつくだろうと思っていたのだから。
「万が一、階段や坂でバランスを崩して落ちかけるようなことがあってはいけませんので」
そういうことか。 負ぶっているのだ。 浅香は万が一の時のことを考えて大婆の後ろを歩くということか。
「不安であれは僕の後ろに―――」
浅香は先を歩いてもらえますかと言った。 それは先頭を歩けということだ。 先頭を歩く、大蛇はもう居ないということを信じろ、そして大婆たちに信じさせろ、ということだ。 浅香に最後まで言わせなかった。
「はい、わかりました。 じゃ、紙袋を」
浅香が持っていた供え物が入っていた紙袋だ。 万が一のことを考えると邪魔になってしまう。
「すみません、お願いします」 と浅香が詩甫に紙袋を渡す。 この袋の重さを祐樹は知っている。
「祐樹、行こ」
単に紙袋を持つわけではない。 階段を上がって坂を上がらなければならない。
「姉ちゃん、オレが持つよ」
「重くなってきたら代わって」
いくら男の子といっても祐樹には重いだろう。 花束も和菓子も二セットだ。
詩甫が祐樹の手を取って、既に歩き出している長治たちを抜いて前を歩く。
詩甫が振り向きながら長治に訊ねる。
「山に入るのは初めてですよね?」
「ああ」
「ご案内します」
浅香が口端を上げ下を向く。
(上手い言い方をするな)
詩甫が先頭を歩くに良い言い訳だ。
詩甫と祐樹に続いて長治、大婆を負ぶっている次郎がそれに続き、殿(しんがり)は浅香。 その列が山からの砂の乗ったアスファルトを歩き、木々が立つ山の入り口に向かう。
新緑の生い茂る季節なら木々の葉に入り口を見逃しかけないが、今はまだ新しい命が芽吹きだしたばかりの頃である。 山の入り口は木々がぽっかりと開いた所ですぐに分かる。 だがそれは入り口を知っているから分かるのであって、知らなければ行き過ぎるだろう。
詩甫が山の入り口に足を入れると長治と次郎もそれに続く。
後を追っていた男達が互いに目をやる。
「おい、本当に行くみたいや」
「昔語りを・・・」
「ああ、その昔語り。 それを大婆が払拭するとは聞いたが・・・」
「とにかく・・・おれらも山の中に入らんことには」
男達が目を合わせる。 誰が先頭を行くのか。
山の入り口から山の中に詩甫が後ろを気にしながら先を歩く。 そのまま進んでいくと階段が見える。
「あの階段を上がっていきます。 そうですね、私の足で・・・三十分はかからないと思います」
階段でどれくらいかかり、その後に坂がありその坂でどれくらいかかるかは、事前に大婆の家で浅香が説明していたが、改めて詩甫が言った。
「浅香君は十五分程と言っていたが?」
「浅香さんと私とでは違いますので。 大婆さんを負ぶわれていますから、どちらかと言えば私の方に近いかと」
長治が振り向いて次郎を見る。 話は聞こえていただろう。
「なんてことはない」
次郎がいともあっさりと言ってのける。
長治が腕時計を見る。
「十五分後に交代だ」
「このまま社まで行く」
長治が鼻で笑った。
誰もが無言で階段を歩く中、次郎の息が荒くなってきたのだけが聞こえる。 長治が腕時計を見る。 十三分を経過していた。
長治が振り返り次郎の横に付く。
「な、なんだよ」
「交代だ。 大婆、わしの背に負ぶされ」
浅香が万が一を考えて大婆の背中に手を伸ばす。 触れる寸前で止める。
「交代なんか要らねーって」
言った途端、後ろからはたかれた。 決して浅香ではない。
「って!」
「はぁはぁはぁはぁ言いおって。 わしがどれだけ重いと言いたいかっ」
「浅香君、手伝ってくれるか」
こんな所で万が一のことがあってはなんにもならない。 大蛇どころでは無くなる。 浅香は救急隊員と言っていた。 人の身体に触れるのに嫌な気はないだろう。 それがたとえ大年寄りでも。
「はい」
浅香が大婆の尻に手をやり、次郎の背中でノソノソと大婆が移動を始めると、無事長治の背中に移った。
「なかなかええ尻をしとるだろ?」
「大婆! こんな時にまで何を言っとる!」
「久しぶりに若い男に尻を触られたんや、訊くくらい―――」
「わしの背中で大人しいしとれ」
浅香が「ははは」と愛想笑いをし、祐樹がキョトンとしている。 そしてその会話に参加していなかった次郎が、ゆっくりと腰を伸ばす。
「親父、気を付けろよ。 けっこう脚腰に来るぞ」
平地は普段から歩いてはいるが、長い階段を上ることなどついぞない。 ましてや大婆を負ぶっているのだ、腰を曲げた上に負荷がついている。 息が上がっても仕方がないだろう。
大婆たち御一行が階段を上がって行くのを見ていた男達。 階段が曲がっていき、とうとうその姿を見ることが出来なくなった。
「ここで待っていればええんやな・・・」
「ああ、大婆が落ちてこんかったら、長治たちが負ぶって下りてくるはずやからな」
大婆が落ちてこなければ、それは社に大蛇が居るということ。 社にいる大蛇に大婆が睨まれ、後に大婆の家に不幸が訪れる。
大婆が山から落ちてくるのであれば、山にいる大蛇に大婆が睨まれ山から落とされたということ。
いずれにしても大蛇は居るということ。 だが・・・無事に山を下りてきた大婆の家に不幸が訪れなければどういう事になるのだろうか。
全員がゴクリと唾を飲む。
自分達の代で大蛇の昔語りを証明することになるのか、単なる昔語りであったことを証明することになるのか。
互いに目を合わせる。 きっと同じことを考えているのだろう。
「家の誰かに不幸が訪れるってのは・・・」
一人の男が目を半分泳がせながら言うと、隣にいた男が頷きながら応える。
「ああ、それってどれくらいの期間にや?」
不幸などいつかは訪れるもの。 いつ病気になるか、いつ事故に遭うかなど誰にも分からない。 そしてそれは大蛇によってもたらされたものかどうかも誰にも分からない。
全員が首を振る。 そこまでは昔語りに無いということである。
階段を上り切り、坂を上がっていた。
「親父、大丈夫か?」
長治が足を止め顔を歪めている。 腰にきているのであろうか、それとも脚か両方か。
坂は四分の三を越えていた。
次郎は何度も代わると長治に言っていたが、その度に長治が首を横に振っていた。 だがもうそろそろ限界だろう。
長治が薄っすらとあることを頭の中に描いた。 それは背中に籠を背負い、その中に年寄りが入っているという想像の映像であった。 籠を背負っている男は黙々と山を登っている。
(姥捨て山とは・・・昔の人は足腰が強かったんだな・・・)
今は軽トラに頼っているが、それこそ昔は手で収穫物を運んでいたか、良くても荷車だろう。
畑仕事をし、収穫物を軽トラに乗せ次には下ろす。 それを持って作業小屋に入る。 その作業をしているのだ、大婆など簡単に背負えると自負していたが、到底そうではなかった。
次郎の心配そうな声に詩甫が足を止め振り返った。 自然に祐樹も振り返る。
「無理をされない方がいいですよ。 次郎さんに代わってもらえばいかがですか?」
最初に聞いていた長治の言葉がある。
『大婆が歩けんのだったら、わしが負ぶって行ってやる。 わしも本家の血筋だ。 二人ともとっとと花生の手にかかるわな』 そう言っていた。 きっと次郎をそんな目に遭わせないようにと考えているのだろう。
「お爺ちゃん、大蛇は居ないよ? 朱葉姫を信じて」
「え・・・」
浅香でもなければ詩甫でもなく詩甫の隣にいる祐樹が言う。 朱葉姫を信じろと。 それはどういうことだ。
車中、浅香が朱葉姫のことを言っていた。 朱葉姫が今も民を見ていると。 だが実際の話ではそんなことは有り得ない話しだ。 ただそう考えるのならば大蛇の存在も有り得ない話。
―――分かっている。
長治が首を振り自分よりずっと背の低い祐樹を見る。
「今はまだわしが家長だからな。 まだまだ次郎に継がせる気はない」
それは大婆を背負うことにも繋がるのだと言っている。
と、後ろからパシンと頭をはたかれた。
「なーにが家長だ。 男ばかり産みおって」
「わしは産んどらん」
そういう問題だろうか・・・。
それにしても長治にしても次郎にしても、大婆から何か言われた時の返しがなかなかに面白い。 それも真面目腐った顔で言っているのだから。
ゆっくりと長治が歩きだす。
次郎に譲る気はないようだ。 詩甫が浅香を見ると浅香が頷いてみせる。 このまま行こうということだ。
「祐樹、行こう」
「うん・・・。 お爺ちゃん大丈夫かなぁ」
詩甫と手を繋ぎ歩きながら詩甫を見上げる。
「浅香さんが後ろから見てくれてるし、次郎さんも見てくれてるから大丈夫よ。 それにあとちょっとだから」
坂を見上げるとずっと続いていた坂の先が切れ、社のある平地の木々が見えだしている。
「うん」
暫く歩くと後ろからズッという音がして、同時に浅香の声が聞こえてきた。
「おっと」
詩甫と祐樹が振り向くと浅香が大婆の背中を支えていた。 長治の隣を歩いていた次郎が長治の腕を引き上げている。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまん。 足が滑った」
浅香に支えられている大婆がニヤニヤとしている。 もしかして長治と共に坂を転がり落ちていたかもしれないというのに、緊張感が全く見られない。
「もう坂の終わりは見えています。 あと少しです」
長治が頭を上げた。 目の先で坂が終わっている。 ずっと木々に覆われていたのに、青い空が見える。 今までずっと下ばかり見ていたことに初めて気付いた。
頷き足を進める。
ようやく坂を登りきった。
「あれが・・・紅葉姫社」
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- 国津道(くにつみち)- 第57回
少しすると長治が振り向いて浅香に話しかけた。
「浅香君、運転免許は持ってるか?」
てっきり失念していた。 もし自分たちに何かあった時のことを。
「え? はい」
「これ、運転できそうか?」
ペーパードライバーなら論外。 運転できるとしても、免許を取った後に軽しか運転したことが無いのであれば、ペーパードライバーに毛が生えたようなもの。 アルファードの運転は難しいだろう。
家にいる者を呼べばそれでいいが、残念ながら長治と次郎以外で昼間家にいて運転免許を持っているのは女たちだけである。
アルファードをこの山道の左側、少し広い所に停めても、家の女たちにはそのスペースだけでは方向転換が簡単には出来ない。
次郎が方向転換をした状態で停めればいいのだが、そうなれば村から車を走らせた時に、その車の走行が左側ではなく右側という図が出来てしまう。
決してアルファードが右側走行をしているわけではないし、停車しているのだが、ここを通る全ての村の者たちはそれを嫌がっていた。 正面に見える車が自分の走行の左側にあるというのは座り心地が悪いということである。 だから方向転換をして停めておくことは出来ない。
万が一のことがあったときには、後ろから追ってくる軽トラたちがなんとかしてくれるだろうが、出来るならば頼りたくはない。 ほらみろ、などと舌を出されたくない。
「僕、救急隊員なので救急車を運転しています。 ある程度狭い道にも入りますので、運転は可能かと」
救急車もアルファードもそんなに大きさは変わらないはず。 いや救急車の方が全長は長いかもしれない。
長治に質問され、何となく長治が何を言いたいのかが分かった。 不必要なことではあるが、安心してもらうために運転できることを言った。
「え? 浅香君、救急隊員なのか?」
「あ、言ってませんでしたっけ?」
長治が頬を緩める。
「大蛇の話しばかりだったからな」
大婆が僅かに頷いた。 話を聞いていたのだろう。 どこか暗い雰囲気が漂った。 これから先のことに不安を感じているのかもしれない。
「そうですね。 でも山にも社にも大蛇は居ません。 心配なんて必要ありませんよ」
「・・・そうか」
長治が顔を戻す。
「案ずるより産むがやすしです」
長治の後頭部に浅香の声が囁(ささや)く。
「昔語りは・・・」
浅香の話では大蛇は・・・花生は山には居ないということ。
だがどこでどう違ってしまったのか、大蛇は社に居るとも語られている。 それを払拭したい。 大婆も長治も。
長治が何かを言いかけたが、そこから続く言葉が見つからないようだ。 まだ不安を拭えないのだろう。
浅香の言うことを信じようと思っても百パーセント信じられるものではない。 小さな頃から長年聞かされてきた昔語り、その昔語りを我が子にも聞かせてきたのだから。 そして次郎が出来てから聞かされた話も。
それに死ぬ覚悟は出来ていると言っても、自分だけならまだしも我が曾祖母を犠牲にしなくてはならない。 その覚悟はまだ出来ていない。 簡単に覚悟できるものではない。
「昔語りは否定しません」
どういうことだ。 僅かに長治が振り返る。
「偶然なんですけど本がありまして」
浅香が何を言おうとしているのか分かった詩甫がすぐにバッグから本を取り出す。 朱葉姫の事が書かれている頁をめくる。
「今日、お初にお目にかかりました祐樹君の友達が購入していた本なんですけど」
玄関先でだが、大婆の家で祐樹の紹介は終わっている。 祐樹と三太がそのまま庭に遊びに行き、浅香と詩甫は客間に上がらせてもらい親族との話し合いの様子を聞いていた。 もちろん、親族以外の村の男たちが後に付いてくるという話も聞いた。
詩甫が朱葉姫の頁をめくって浅香に渡すと、それを長治に渡す。
「本?」
「ええ、ここに朱葉姫の事が書かれています」
「え!?」
長治が手にした僅かながらだが、朱葉姫のことが書かれている文に目を落としている。
「ほぼ五十年前の本です。 ですが最近になりまた出版されたようです」
重版などと言っても分からないだろう。 説明も面倒臭い。
「どういうことだ」
二人の会話を聞いていた大婆が訊いてくる。
「朱葉姫ではなく、他のお姫様のことで加筆されて出版されたようですが、そこにも朱葉姫の事が書かれています」
「それが?」
「この村、この地域以外の人が朱葉姫のことを知ったということです。 紅葉姫社の事も」
大婆が大きく目を見開く。
だが後部座席に座っている浅香にそれを見ることは出来ない。
「朱葉姫は昔語りの姫様ではないということになったのではないでしょうか。 ここに昔語りは書かれていません。 この本を読んだ人は昔語りを知りません。 朱葉姫の名を知り紅葉姫社を知ることになった」
「それは・・・」
「朱葉姫は今も民を見ているということです」
大婆がぐっと喉を鳴らす。
詩甫が浅香を見ると詩甫に頷いて見せる。 朱葉姫を信用しろと。
「僕が以前に言ったのは僕の勝手な推量です。 その昔、大蛇が・・・いつの時代にどんな話でそうなったかは分かりません。 ですがずっと朱葉姫は民を見てこられている、お社を守っておられる。
こんな風に本が出回るというのはそういう事ではないんでしょか? 神業とでも言いましょうか、神様が朱葉姫を見てこられた、だからこんな風に本が出回った。 そんな風に僕は考えます。 神様を信じる者にとってそれは当たり前に考えることであるかと。 だからお社のある山に大蛇は居ません」
他の村の昔語りは山神が大蛇を遣わしたとあったが、その詳しいことを大婆が知るのかどうかは知らないが、こんな時は言い切るに限る。 それに他の村の昔語りを大婆は出してこないだろう。
薄のことは話せない。 過去の中で無かったことに、うやむやにするしかない。 だがそれは嘘になる。 薄によって命が途中で止められた者が居るのだから。 たとえそれが何十年前、何百年、千年以上も昔の話だろうと。
死んだ者は納得が出来はしないかもしれない。 朱葉姫を想い行動に移したのに殺されたのだから。
浅香が首を振る。
そこに囚われていては先に進めない。
薄はもう昇天したのだ。 今までのことを悔い改めているはず。 それが亡くなった方々に届くはず。
「安心して下さい。 僕がアルファードを運転することはありません」
アルファードが少し広い所に車を停めるよりも早く、後を追っていた三台の軽トラが広い所で路駐をした。 そこから六人の男たちが急ぐことなく、歩いてアルファードの後を追っている。
次郎がバックミラーで男達を確認しながら、ゆっくりと車を走らせている。 男達が軽トラを停めた場所は、これから次郎が車を停める場所からそうは離れていない。
男達を確認し車を停めると長治に言われて次郎が大婆を負ぶった。
次郎を巻き込まないために、てっきり長治一人で負ぶうつもりだったかと思っていたが、違っていたようだ。
次郎の顔も長治の顔も緊張しているようだ。
次郎に負ぶわれた大婆の隣に長治が立つ。
「なんちゅう顔をしとるか!」
大婆が手を伸ばして長治の頭をはたいた。 ついでに「お前もだろ」と言って次郎の頭を後ろから勢いよくはたく。
その大婆の顔が緊張を隠しているように見えるのは気のせいだろうか。 いや気のせいではないだろう。 だがその緊張が何に対してなのかは分からない。 これから起こるかもしれないことに対してなのか、紅葉姫社に行けることに対してなのか。
「野崎さん、祐樹君と先を歩いてもらえますか?」
「え?」
てっきり浅香が先頭を切ると思っていた。 その後に詩甫と祐樹がつくだろうと思っていたのだから。
「万が一、階段や坂でバランスを崩して落ちかけるようなことがあってはいけませんので」
そういうことか。 負ぶっているのだ。 浅香は万が一の時のことを考えて大婆の後ろを歩くということか。
「不安であれは僕の後ろに―――」
浅香は先を歩いてもらえますかと言った。 それは先頭を歩けということだ。 先頭を歩く、大蛇はもう居ないということを信じろ、そして大婆たちに信じさせろ、ということだ。 浅香に最後まで言わせなかった。
「はい、わかりました。 じゃ、紙袋を」
浅香が持っていた供え物が入っていた紙袋だ。 万が一のことを考えると邪魔になってしまう。
「すみません、お願いします」 と浅香が詩甫に紙袋を渡す。 この袋の重さを祐樹は知っている。
「祐樹、行こ」
単に紙袋を持つわけではない。 階段を上がって坂を上がらなければならない。
「姉ちゃん、オレが持つよ」
「重くなってきたら代わって」
いくら男の子といっても祐樹には重いだろう。 花束も和菓子も二セットだ。
詩甫が祐樹の手を取って、既に歩き出している長治たちを抜いて前を歩く。
詩甫が振り向きながら長治に訊ねる。
「山に入るのは初めてですよね?」
「ああ」
「ご案内します」
浅香が口端を上げ下を向く。
(上手い言い方をするな)
詩甫が先頭を歩くに良い言い訳だ。
詩甫と祐樹に続いて長治、大婆を負ぶっている次郎がそれに続き、殿(しんがり)は浅香。 その列が山からの砂の乗ったアスファルトを歩き、木々が立つ山の入り口に向かう。
新緑の生い茂る季節なら木々の葉に入り口を見逃しかけないが、今はまだ新しい命が芽吹きだしたばかりの頃である。 山の入り口は木々がぽっかりと開いた所ですぐに分かる。 だがそれは入り口を知っているから分かるのであって、知らなければ行き過ぎるだろう。
詩甫が山の入り口に足を入れると長治と次郎もそれに続く。
後を追っていた男達が互いに目をやる。
「おい、本当に行くみたいや」
「昔語りを・・・」
「ああ、その昔語り。 それを大婆が払拭するとは聞いたが・・・」
「とにかく・・・おれらも山の中に入らんことには」
男達が目を合わせる。 誰が先頭を行くのか。
山の入り口から山の中に詩甫が後ろを気にしながら先を歩く。 そのまま進んでいくと階段が見える。
「あの階段を上がっていきます。 そうですね、私の足で・・・三十分はかからないと思います」
階段でどれくらいかかり、その後に坂がありその坂でどれくらいかかるかは、事前に大婆の家で浅香が説明していたが、改めて詩甫が言った。
「浅香君は十五分程と言っていたが?」
「浅香さんと私とでは違いますので。 大婆さんを負ぶわれていますから、どちらかと言えば私の方に近いかと」
長治が振り向いて次郎を見る。 話は聞こえていただろう。
「なんてことはない」
次郎がいともあっさりと言ってのける。
長治が腕時計を見る。
「十五分後に交代だ」
「このまま社まで行く」
長治が鼻で笑った。
誰もが無言で階段を歩く中、次郎の息が荒くなってきたのだけが聞こえる。 長治が腕時計を見る。 十三分を経過していた。
長治が振り返り次郎の横に付く。
「な、なんだよ」
「交代だ。 大婆、わしの背に負ぶされ」
浅香が万が一を考えて大婆の背中に手を伸ばす。 触れる寸前で止める。
「交代なんか要らねーって」
言った途端、後ろからはたかれた。 決して浅香ではない。
「って!」
「はぁはぁはぁはぁ言いおって。 わしがどれだけ重いと言いたいかっ」
「浅香君、手伝ってくれるか」
こんな所で万が一のことがあってはなんにもならない。 大蛇どころでは無くなる。 浅香は救急隊員と言っていた。 人の身体に触れるのに嫌な気はないだろう。 それがたとえ大年寄りでも。
「はい」
浅香が大婆の尻に手をやり、次郎の背中でノソノソと大婆が移動を始めると、無事長治の背中に移った。
「なかなかええ尻をしとるだろ?」
「大婆! こんな時にまで何を言っとる!」
「久しぶりに若い男に尻を触られたんや、訊くくらい―――」
「わしの背中で大人しいしとれ」
浅香が「ははは」と愛想笑いをし、祐樹がキョトンとしている。 そしてその会話に参加していなかった次郎が、ゆっくりと腰を伸ばす。
「親父、気を付けろよ。 けっこう脚腰に来るぞ」
平地は普段から歩いてはいるが、長い階段を上ることなどついぞない。 ましてや大婆を負ぶっているのだ、腰を曲げた上に負荷がついている。 息が上がっても仕方がないだろう。
大婆たち御一行が階段を上がって行くのを見ていた男達。 階段が曲がっていき、とうとうその姿を見ることが出来なくなった。
「ここで待っていればええんやな・・・」
「ああ、大婆が落ちてこんかったら、長治たちが負ぶって下りてくるはずやからな」
大婆が落ちてこなければ、それは社に大蛇が居るということ。 社にいる大蛇に大婆が睨まれ、後に大婆の家に不幸が訪れる。
大婆が山から落ちてくるのであれば、山にいる大蛇に大婆が睨まれ山から落とされたということ。
いずれにしても大蛇は居るということ。 だが・・・無事に山を下りてきた大婆の家に不幸が訪れなければどういう事になるのだろうか。
全員がゴクリと唾を飲む。
自分達の代で大蛇の昔語りを証明することになるのか、単なる昔語りであったことを証明することになるのか。
互いに目を合わせる。 きっと同じことを考えているのだろう。
「家の誰かに不幸が訪れるってのは・・・」
一人の男が目を半分泳がせながら言うと、隣にいた男が頷きながら応える。
「ああ、それってどれくらいの期間にや?」
不幸などいつかは訪れるもの。 いつ病気になるか、いつ事故に遭うかなど誰にも分からない。 そしてそれは大蛇によってもたらされたものかどうかも誰にも分からない。
全員が首を振る。 そこまでは昔語りに無いということである。
階段を上り切り、坂を上がっていた。
「親父、大丈夫か?」
長治が足を止め顔を歪めている。 腰にきているのであろうか、それとも脚か両方か。
坂は四分の三を越えていた。
次郎は何度も代わると長治に言っていたが、その度に長治が首を横に振っていた。 だがもうそろそろ限界だろう。
長治が薄っすらとあることを頭の中に描いた。 それは背中に籠を背負い、その中に年寄りが入っているという想像の映像であった。 籠を背負っている男は黙々と山を登っている。
(姥捨て山とは・・・昔の人は足腰が強かったんだな・・・)
今は軽トラに頼っているが、それこそ昔は手で収穫物を運んでいたか、良くても荷車だろう。
畑仕事をし、収穫物を軽トラに乗せ次には下ろす。 それを持って作業小屋に入る。 その作業をしているのだ、大婆など簡単に背負えると自負していたが、到底そうではなかった。
次郎の心配そうな声に詩甫が足を止め振り返った。 自然に祐樹も振り返る。
「無理をされない方がいいですよ。 次郎さんに代わってもらえばいかがですか?」
最初に聞いていた長治の言葉がある。
『大婆が歩けんのだったら、わしが負ぶって行ってやる。 わしも本家の血筋だ。 二人ともとっとと花生の手にかかるわな』 そう言っていた。 きっと次郎をそんな目に遭わせないようにと考えているのだろう。
「お爺ちゃん、大蛇は居ないよ? 朱葉姫を信じて」
「え・・・」
浅香でもなければ詩甫でもなく詩甫の隣にいる祐樹が言う。 朱葉姫を信じろと。 それはどういうことだ。
車中、浅香が朱葉姫のことを言っていた。 朱葉姫が今も民を見ていると。 だが実際の話ではそんなことは有り得ない話しだ。 ただそう考えるのならば大蛇の存在も有り得ない話。
―――分かっている。
長治が首を振り自分よりずっと背の低い祐樹を見る。
「今はまだわしが家長だからな。 まだまだ次郎に継がせる気はない」
それは大婆を背負うことにも繋がるのだと言っている。
と、後ろからパシンと頭をはたかれた。
「なーにが家長だ。 男ばかり産みおって」
「わしは産んどらん」
そういう問題だろうか・・・。
それにしても長治にしても次郎にしても、大婆から何か言われた時の返しがなかなかに面白い。 それも真面目腐った顔で言っているのだから。
ゆっくりと長治が歩きだす。
次郎に譲る気はないようだ。 詩甫が浅香を見ると浅香が頷いてみせる。 このまま行こうということだ。
「祐樹、行こう」
「うん・・・。 お爺ちゃん大丈夫かなぁ」
詩甫と手を繋ぎ歩きながら詩甫を見上げる。
「浅香さんが後ろから見てくれてるし、次郎さんも見てくれてるから大丈夫よ。 それにあとちょっとだから」
坂を見上げるとずっと続いていた坂の先が切れ、社のある平地の木々が見えだしている。
「うん」
暫く歩くと後ろからズッという音がして、同時に浅香の声が聞こえてきた。
「おっと」
詩甫と祐樹が振り向くと浅香が大婆の背中を支えていた。 長治の隣を歩いていた次郎が長治の腕を引き上げている。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまん。 足が滑った」
浅香に支えられている大婆がニヤニヤとしている。 もしかして長治と共に坂を転がり落ちていたかもしれないというのに、緊張感が全く見られない。
「もう坂の終わりは見えています。 あと少しです」
長治が頭を上げた。 目の先で坂が終わっている。 ずっと木々に覆われていたのに、青い空が見える。 今までずっと下ばかり見ていたことに初めて気付いた。
頷き足を進める。
ようやく坂を登りきった。
「あれが・・・紅葉姫社」