『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第55回
「友達?」
「うん。 高校時代までは友達がいたんだけどね、今は居ないの」
紫揺の言っている意味が分からないが、分かる。 友達が居ないということを言っている、と。 だが、リツソにしてみればカルネラは友達ではなく供である。
「シユラは供が欲しいのか?」
「供? あ、そうか。 リツソ君にとってカルネラちゃんは供だもんね。 でもね、もし私にカルネラちゃんみたいに可愛い供がついてくれたら、供じゃなくて友達になってもらいたい」
「友達?」
「うん。 友達」
友達という言葉は知っているが、リツソの生活の中で友達などという言葉は存在しない。 父上、母上、姉上、兄上以外は自分より下なのだから。 同等の者などいないのだから。
「友達・・・友達とはそんなにいいものか?」
「うん。 一緒にいて楽しいし大切。 ある意味、財産」
「財産?」
「うん、自分がしてきたこと、やってきたことの宝物」
「と! 友達とはそんなにすごいモノなのか!?」
リツソの今のところの宝物の一番は蛇の抜け殻である。 それはそれは上手く抜けていた。
「そうよ」
高校時代や中学までの友達の顔が次々に浮かぶ。 誰にも何も言わずにここに居る。 それ以前に、父母が亡くなってからは誰にも連絡を取っていない。 父母を無くしたあの時の事が蘇る。
自分が両親を殺した。
両親を殺した自分には誰もいないんだ。 自分から友達の元を去ったのだと。 だが、あの時の自分はそうすることしか出来なかった。 いやそうではない。 何も考えられなかった結果が、友達との縁を断ってしまったんだ。
でも、それを悔いたりはしない。 悔いると何もかもが崩れ落ちてしまいそうになるから。 母の声さえ忘れてしまいそうになるから。
「シユラ?」
いつしかリツソが紫揺の顔を覗き込んでいた。
「あ、ゴメン、なんでもない」
「シユラ、友達に会いたいのか?」
「うん・・・そうね」 どこか寂しさを隠した笑顔をリツソに送る。
「シユラ・・・我が―――」
我が紫揺の寂しさを埋めてやる、そう言いたかったが言えなくなってしまった。 今まで見たこともない紫揺の顔を見てしまったから。
「ワレ、カルネラ」 紫揺の肩の上で急にカルネラが言い出した。
「カルネラちゃん!」
思わず肩に乗っているカルネラを見て紫揺が言うと、リツソもカルネラを見た。
「うん、よーく知ってるよ。 カルネラちゃんよね」
「ワレ、カルネラ・・・アニウエ・・・コワイ」
「コラ! カルネラ! それを言うんじゃないと言っただろう!」
慌てて言うリツソを見て、いつもリツソが言っているのだろうと察しがつく。 心で相好を崩し辺りを見渡す。
「そう言えば、今日兄上は来てないの?」
「兄上はお忙しいそうだ」
兄上と言って気付く。 その兄上はいったい何歳なのだろうかと。 もしこれからあの兄上が来た時に、兄上の名前を言わなければ、何を言われるか分からない。 だって 『さっき、俺は名乗ったつもりだが?』 と言われたのだから。 もし後にでも会った時に 『兄上』 と言っては何を言われるか分からない。
「ね、兄上って何歳?」
何歳とはどういう意味だろうか、それでも紫揺が知っている言葉を訊き返すのは、伴侶としていただけない。
「え? どうしてそんなことを聞くんだ?」
そして何故だか一瞬にして不安がよぎった。
「ほら、あの時、兄上名乗ってたでしょ? リツソ君、私が呼び捨てをするのを好きじゃないって知ってるよね? だから、私より年上だったらマツリさんだし、年下だったらマツリ君だし」
紫揺の言葉を聞いてリツソの不安など吹っ飛んでしまった。 それどころか腹を抱えて哄笑する。
「え? どうしたの?」
ハクロが気色ばむと 「入るぞ」 と言い、笑いが納まらないリツソの腰辺りを咥え、部屋の中に入った。 一度入った部屋である、躊躇なく入る。 リツソは咥えられながらもまだ悶絶するように笑っている。
「昨日お前がシグロから何を聞いたかは知らないが、我らが人の前に姿を現すのは魔釣が決まったときだけだ。 むやみやたらと人の前に姿を見せるわけにはいかない」 リツソを口から下ろしたハクロが言う。
どうして部屋の中に入ってきたのかが分かった。 リツソの声に誰かが気付いてやって来ては、姿を見られてしまうという事だと。 コクリと頷きすぐに窓を閉めると悶絶するリツソを見て懇願のように言う。
「リツソ君、お願いだから笑うのを止めて。 この狼が―――」
「ハクロだ」
すぐさま名を名乗った。 狼と言われるのは心外であるようだ。
「あ・・・えっと、ハクロ・・・ちゃん?」
どう見ても自分より身体は大きいであろうが、年齢を考えると自分よりは年下であるはず、と考えた。 話し方から、多分雄だろうとは思うが、万が一にもメスであるのに “ハクロ君” と言っては失礼この上ないと考えての結果であった。
それを聞いたリツソがまたもや転げまわって腹を抱える。 笑い過ぎて息が吸えず、笑う声すら出ない有様である。
当の“ちゃん” 呼ばわりされたハクロは、片方の口角がヒクついている。 それに気付かず紫揺が続ける。
「リツソ君、ハクロちゃんに迷惑がかかるから―――」
「ハクロだ!」 とうとうハクロが怒鳴った。
驚いた紫揺が、一瞬息を飲む。 ハクロの怒鳴りと共に、唸り声も聞こえてくる。
「ハクロ!」
一人と一匹の間に先程まで腹を抱えていた、と言うか、事の起こりの張本人が立ちはだかった。
「シユラに何かしてみろ、どうなるかわかっているんだろうな!」
“どうなるか” ハクロが一瞬考える。 出た答えは一つ。 マツリに告げ口をするのであろう。 仕方なく牙を収め、リツソを見て言う。
「リツソ様、お静かに願います」
「さっき怒鳴ったのはハクロだ!」
苦虫を噛みつぶしたような顔を作ると、今度は紫揺を見て言った。
「我はハクロ。 ただそれだけだ」 眼光鋭く睨みつける。
「わ、分かった」
やはり狼は恐ろしいと心底思った。
「あ、そう言えば・・・ハクロ・・・に訊きたいことがあるの」
呼び捨てにして怒られないかと内心では心臓から口から出そうな思いだ。 あ、いや、間違えた。 心臓が口から出そうな思いだ。
「・・・なんだ」
紫揺を斜(はす)に見る。
ハクロの返事に紫揺がホッと胸を撫で下ろすが、そうならない若干一名がいる。
「シユラ? 何故我に訊かぬ? それに我はシユラに教えたいことがあると言っただろう。 我に訊けば何でも教えてやる」
「うん、でもヒオオカミのことを訊きたいから」
「ヒオオカミ? ・・・人間たちが我らのことをそう呼んでいるな」
「そ、それは我が前にシユラに教えてやった!」
「うん、ありがとね。 リツソ君が教えてくれたから、ハクロに訊きたいことがあるの」
「そ、そうか。 我が教えてやったことが参考になったのか」
リツソにコクリと頷くとハクロを見て訊いた。
「ヒオオカミはヒトウカを見るとすぐに牙を立てるって聞いたんだけど? ヒオオカミの好物がヒトウカだって」
紫揺が話している途中からハクロが呆れた目をしていた。
「人間どもの無知だ」
「じゃ、好物じゃないのね?」
「当たり前だ」
「それじゃあ、人間をオモチャにするっていうのは? 昔、ヒオオカミが人間をオモチャにして牙を立てたって言うのは?」
「・・・」
「返事が出来ないの?」
「玩具になどしておらん」
「でも、人を噛んだって言うのは本当なのね?」
「ここの領土の者でない者に、それを話す必要はない」
「・・・わかった」
オモチャになどしていないけれど、噛んだことは噛んだんだのだと分かる。 それが 『魔釣』 だったのかどうかまでは分からないが。 紫揺が目線を落とす。
「シユラ? もういいのか?」
紫揺にすり寄って来て顔を覗き見る。
「うん。 ちょっと気になってたから。 でも、ハクロに教えてもらってスッキリした」
簡単に何度もハクロと言われることに、ハクロが歯噛みをしているが、紫揺は気付いていない。
「それでは! それでは我が教えてやることがある」
「あ、言ってたよね。 なに?」
「シユラが問うておったここが何処かという事だ」
久しぶりに大きく反れた胸である。
「よいか、我の居る本領は東西南北の領土を統治し、東西南北の領土はその本領の元にある。 ここ北の領土は四つの領土の内の一つである」
腕を後ろに組み、胸を反らしたまま顎をツンと上げそのまま続ける。
「そして各々の領土の民の中には、他の領土のことを知らない民もいる。 とくに、南と東の領土の民が知らぬ。 北ほどに生活の営みが苦しくないからである。 他に目を向ける必要がないのであろうな。 だからして、シユラは南か東の領土の民かもしれぬ、ということだ」
己に陶酔しかけた時、異を唱える紫揺の声が聞こえた。
「それはどうかな」
「ど、どういうことだ?」
思わず顎を引き、反り返っていた胸の裏面である背中が丸くなる。
「本領とか、東西南北の領土とかって聞いたことがない」
「だからそれは、シユラが南か東の領土の民だからだろう」
「違う、ちがうの。 そうね、例えば、狼たちの声が聞こえたり、ましてや狼たちと平気に話せたり、鳥が大きくなって人を乗せて空を飛んだり、カルネラちゃんが話せたり・・・そんなこと日本では考えられない」
敢えて、セイハたちのことは言わなかった。
「え? えっと・・・み、南と東には行ったことはないけど、南と東は・・・きっとそうなんじゃないのかなぁ・・・。 その、シユラが言う通りなんじゃないのかなぁ」
反っていた胸など遠い話。 尻すぼみになっていく。
「そうかもしれないね」
そんなこととは微塵も思っていないが、リツソのことを思って返す。
「私が知らなさすぎるのかもしれない」
「そ、そうに決まってる。 だって、兄上をどう呼ぶかで迷うくらいなのだからな」
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「友達?」
「うん。 高校時代までは友達がいたんだけどね、今は居ないの」
紫揺の言っている意味が分からないが、分かる。 友達が居ないということを言っている、と。 だが、リツソにしてみればカルネラは友達ではなく供である。
「シユラは供が欲しいのか?」
「供? あ、そうか。 リツソ君にとってカルネラちゃんは供だもんね。 でもね、もし私にカルネラちゃんみたいに可愛い供がついてくれたら、供じゃなくて友達になってもらいたい」
「友達?」
「うん。 友達」
友達という言葉は知っているが、リツソの生活の中で友達などという言葉は存在しない。 父上、母上、姉上、兄上以外は自分より下なのだから。 同等の者などいないのだから。
「友達・・・友達とはそんなにいいものか?」
「うん。 一緒にいて楽しいし大切。 ある意味、財産」
「財産?」
「うん、自分がしてきたこと、やってきたことの宝物」
「と! 友達とはそんなにすごいモノなのか!?」
リツソの今のところの宝物の一番は蛇の抜け殻である。 それはそれは上手く抜けていた。
「そうよ」
高校時代や中学までの友達の顔が次々に浮かぶ。 誰にも何も言わずにここに居る。 それ以前に、父母が亡くなってからは誰にも連絡を取っていない。 父母を無くしたあの時の事が蘇る。
自分が両親を殺した。
両親を殺した自分には誰もいないんだ。 自分から友達の元を去ったのだと。 だが、あの時の自分はそうすることしか出来なかった。 いやそうではない。 何も考えられなかった結果が、友達との縁を断ってしまったんだ。
でも、それを悔いたりはしない。 悔いると何もかもが崩れ落ちてしまいそうになるから。 母の声さえ忘れてしまいそうになるから。
「シユラ?」
いつしかリツソが紫揺の顔を覗き込んでいた。
「あ、ゴメン、なんでもない」
「シユラ、友達に会いたいのか?」
「うん・・・そうね」 どこか寂しさを隠した笑顔をリツソに送る。
「シユラ・・・我が―――」
我が紫揺の寂しさを埋めてやる、そう言いたかったが言えなくなってしまった。 今まで見たこともない紫揺の顔を見てしまったから。
「ワレ、カルネラ」 紫揺の肩の上で急にカルネラが言い出した。
「カルネラちゃん!」
思わず肩に乗っているカルネラを見て紫揺が言うと、リツソもカルネラを見た。
「うん、よーく知ってるよ。 カルネラちゃんよね」
「ワレ、カルネラ・・・アニウエ・・・コワイ」
「コラ! カルネラ! それを言うんじゃないと言っただろう!」
慌てて言うリツソを見て、いつもリツソが言っているのだろうと察しがつく。 心で相好を崩し辺りを見渡す。
「そう言えば、今日兄上は来てないの?」
「兄上はお忙しいそうだ」
兄上と言って気付く。 その兄上はいったい何歳なのだろうかと。 もしこれからあの兄上が来た時に、兄上の名前を言わなければ、何を言われるか分からない。 だって 『さっき、俺は名乗ったつもりだが?』 と言われたのだから。 もし後にでも会った時に 『兄上』 と言っては何を言われるか分からない。
「ね、兄上って何歳?」
何歳とはどういう意味だろうか、それでも紫揺が知っている言葉を訊き返すのは、伴侶としていただけない。
「え? どうしてそんなことを聞くんだ?」
そして何故だか一瞬にして不安がよぎった。
「ほら、あの時、兄上名乗ってたでしょ? リツソ君、私が呼び捨てをするのを好きじゃないって知ってるよね? だから、私より年上だったらマツリさんだし、年下だったらマツリ君だし」
紫揺の言葉を聞いてリツソの不安など吹っ飛んでしまった。 それどころか腹を抱えて哄笑する。
「え? どうしたの?」
ハクロが気色ばむと 「入るぞ」 と言い、笑いが納まらないリツソの腰辺りを咥え、部屋の中に入った。 一度入った部屋である、躊躇なく入る。 リツソは咥えられながらもまだ悶絶するように笑っている。
「昨日お前がシグロから何を聞いたかは知らないが、我らが人の前に姿を現すのは魔釣が決まったときだけだ。 むやみやたらと人の前に姿を見せるわけにはいかない」 リツソを口から下ろしたハクロが言う。
どうして部屋の中に入ってきたのかが分かった。 リツソの声に誰かが気付いてやって来ては、姿を見られてしまうという事だと。 コクリと頷きすぐに窓を閉めると悶絶するリツソを見て懇願のように言う。
「リツソ君、お願いだから笑うのを止めて。 この狼が―――」
「ハクロだ」
すぐさま名を名乗った。 狼と言われるのは心外であるようだ。
「あ・・・えっと、ハクロ・・・ちゃん?」
どう見ても自分より身体は大きいであろうが、年齢を考えると自分よりは年下であるはず、と考えた。 話し方から、多分雄だろうとは思うが、万が一にもメスであるのに “ハクロ君” と言っては失礼この上ないと考えての結果であった。
それを聞いたリツソがまたもや転げまわって腹を抱える。 笑い過ぎて息が吸えず、笑う声すら出ない有様である。
当の“ちゃん” 呼ばわりされたハクロは、片方の口角がヒクついている。 それに気付かず紫揺が続ける。
「リツソ君、ハクロちゃんに迷惑がかかるから―――」
「ハクロだ!」 とうとうハクロが怒鳴った。
驚いた紫揺が、一瞬息を飲む。 ハクロの怒鳴りと共に、唸り声も聞こえてくる。
「ハクロ!」
一人と一匹の間に先程まで腹を抱えていた、と言うか、事の起こりの張本人が立ちはだかった。
「シユラに何かしてみろ、どうなるかわかっているんだろうな!」
“どうなるか” ハクロが一瞬考える。 出た答えは一つ。 マツリに告げ口をするのであろう。 仕方なく牙を収め、リツソを見て言う。
「リツソ様、お静かに願います」
「さっき怒鳴ったのはハクロだ!」
苦虫を噛みつぶしたような顔を作ると、今度は紫揺を見て言った。
「我はハクロ。 ただそれだけだ」 眼光鋭く睨みつける。
「わ、分かった」
やはり狼は恐ろしいと心底思った。
「あ、そう言えば・・・ハクロ・・・に訊きたいことがあるの」
呼び捨てにして怒られないかと内心では心臓から口から出そうな思いだ。 あ、いや、間違えた。 心臓が口から出そうな思いだ。
「・・・なんだ」
紫揺を斜(はす)に見る。
ハクロの返事に紫揺がホッと胸を撫で下ろすが、そうならない若干一名がいる。
「シユラ? 何故我に訊かぬ? それに我はシユラに教えたいことがあると言っただろう。 我に訊けば何でも教えてやる」
「うん、でもヒオオカミのことを訊きたいから」
「ヒオオカミ? ・・・人間たちが我らのことをそう呼んでいるな」
「そ、それは我が前にシユラに教えてやった!」
「うん、ありがとね。 リツソ君が教えてくれたから、ハクロに訊きたいことがあるの」
「そ、そうか。 我が教えてやったことが参考になったのか」
リツソにコクリと頷くとハクロを見て訊いた。
「ヒオオカミはヒトウカを見るとすぐに牙を立てるって聞いたんだけど? ヒオオカミの好物がヒトウカだって」
紫揺が話している途中からハクロが呆れた目をしていた。
「人間どもの無知だ」
「じゃ、好物じゃないのね?」
「当たり前だ」
「それじゃあ、人間をオモチャにするっていうのは? 昔、ヒオオカミが人間をオモチャにして牙を立てたって言うのは?」
「・・・」
「返事が出来ないの?」
「玩具になどしておらん」
「でも、人を噛んだって言うのは本当なのね?」
「ここの領土の者でない者に、それを話す必要はない」
「・・・わかった」
オモチャになどしていないけれど、噛んだことは噛んだんだのだと分かる。 それが 『魔釣』 だったのかどうかまでは分からないが。 紫揺が目線を落とす。
「シユラ? もういいのか?」
紫揺にすり寄って来て顔を覗き見る。
「うん。 ちょっと気になってたから。 でも、ハクロに教えてもらってスッキリした」
簡単に何度もハクロと言われることに、ハクロが歯噛みをしているが、紫揺は気付いていない。
「それでは! それでは我が教えてやることがある」
「あ、言ってたよね。 なに?」
「シユラが問うておったここが何処かという事だ」
久しぶりに大きく反れた胸である。
「よいか、我の居る本領は東西南北の領土を統治し、東西南北の領土はその本領の元にある。 ここ北の領土は四つの領土の内の一つである」
腕を後ろに組み、胸を反らしたまま顎をツンと上げそのまま続ける。
「そして各々の領土の民の中には、他の領土のことを知らない民もいる。 とくに、南と東の領土の民が知らぬ。 北ほどに生活の営みが苦しくないからである。 他に目を向ける必要がないのであろうな。 だからして、シユラは南か東の領土の民かもしれぬ、ということだ」
己に陶酔しかけた時、異を唱える紫揺の声が聞こえた。
「それはどうかな」
「ど、どういうことだ?」
思わず顎を引き、反り返っていた胸の裏面である背中が丸くなる。
「本領とか、東西南北の領土とかって聞いたことがない」
「だからそれは、シユラが南か東の領土の民だからだろう」
「違う、ちがうの。 そうね、例えば、狼たちの声が聞こえたり、ましてや狼たちと平気に話せたり、鳥が大きくなって人を乗せて空を飛んだり、カルネラちゃんが話せたり・・・そんなこと日本では考えられない」
敢えて、セイハたちのことは言わなかった。
「え? えっと・・・み、南と東には行ったことはないけど、南と東は・・・きっとそうなんじゃないのかなぁ・・・。 その、シユラが言う通りなんじゃないのかなぁ」
反っていた胸など遠い話。 尻すぼみになっていく。
「そうかもしれないね」
そんなこととは微塵も思っていないが、リツソのことを思って返す。
「私が知らなさすぎるのかもしれない」
「そ、そうに決まってる。 だって、兄上をどう呼ぶかで迷うくらいなのだからな」