『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第49回
翌日まだ黎明を迎えていない。 宮もまだ動いていない。 コケコッコーすら聞けない時刻。
卓を前に肩にカルネラを乗せ椅子に座っている紫揺が何度も欠伸を噛み殺している。
湯から上がるとシキからあれやこれやと訊かれ殆ど寝ていない。
挙句、湯殿では “最高か” と “庭の世話か” からマシンガン並みの涙をずっと受けていた。
「ごめんなさい」 と言うと、その一言にも過剰なくらい反応して涙していた。
青たんくらい何でもないのに、と思いながらも手首をさする。
いま紫揺の居るそこは四方の自室だった。
卓を囲う椅子四つ。 今その椅子全てが座されている。 四方、マツリ、紫揺、杠である。
四方の自室に入る少し前、着替えを済ませた紫揺を見て杠が驚いた顔をしていた。
「き・・・昨日の?」
「そうです。 昨日は有難うございました」
杠も着替えている。 宮から借りたもので袴姿だ。 昨日とはうって違い見ちがえる。
「よくお似合いですね」
見ちがえた杠にうっかり敬語になってしまった。
「借り物だから」
初めて穿いた袴。 照れ臭そうに杠が言う。
「私も借り物」
「それでも良く似合っている。 昨日とは別人のようだ。 坊には程遠い」
既に紫揺の年齢は聞いているからそう思えるのかもしれないが。
「シキ様の見立てがいいからでしょう」
四方の自室の前で招集をかけられていた二人が話している。 その声が四方の耳に届いた。
「来たようだな」
「はい」
「マツリはまだか。 よい、入れてくれ」
「はい」
リツソの時もそうだったが、今も四方の側付きがずっと四方に付いている。 問題が起きれば四方が寝ない限りその側を離れない。 今現在も顔色が悪いがそれでもこんな刻限から付いている。
四方は杠と話を終え、一旦、自室に戻って仮眠をとっていた。 マツリと杠にしてもそうであった。
側付きは黎明前に集まることを知っていたので、そのまま四方の自室の前に端座しているつもりだったが、いつまで経っても顔色が戻らない側付きを四方が一旦部屋に戻していた。
『下知(げじ)だ』
何度も首を振っていたが、最後にそう言われ逆らうわけにはいかない。 ほんの僅かの仮眠をとったが芯から寝られたものではなかった。
側付きが襖戸を開けて四方の自室に二人を入れる。
杠は随分と四方への緊張が解けている。 四方の纏う雰囲気がどこかマツリと似ているからかもしれない。
一方、紫揺は緊張もへったくれも何もない。 敵は、四方は、東の領主に対してエラソーに言った奴なのだから。 だが今回はお願い事がある。 四方を睨むわけにはいかない。 杠が四方に挨拶の口上を述べている横で欠伸を噛み殺したのが精一杯の礼儀であった。
「早々で悪いが、この時を逃すと人の耳があるのでな」
杠に言うと紫揺にも視線を送ってきた。 眠たいが取り敢えずニッコリと笑っておこう。
マツリが入ってきて全員が揃った。
マツリより遅れてやって来た紫揺を見守るシキは離れた所で端座をしている。
シキが同席とは言わないが、同じ空間に座するということに四方が難色を示したが
『あら、父上。 今回もわたくしに紫のことをお隠しになさろうと考えられましたわよね』 と言われてしまった。
波葉は四方とシキの間に挟まれ、抱えたい頭を振り切り四方を選んだ。 だがその時にはそれがどれだけの時間を有するかは誰にも分からなかった。
紫揺が東に帰ることになりマツリと宮を出た。
澪引と茶を飲みながら母と娘の話をしたその後に、波葉との邸に帰ろうとした時 “庭の世話か” からプチ情報を受けた。
『波葉様が深刻なお顔をされて執務房に入られました』 と。
そして見事執務室から出てきた現場を押さえたということであった。
波葉的にはここで捕まったということで言い訳はしっかりと出来た。 まず第一に四方に知らせなければいけなかったからだと。 決してシキに言わないつもりではなかったと、嘘でも言い切った。
誰が一番胸のつかえを下せたかと言うと波葉であった。
そんなことがあり、しぶしぶ許可をした。
「問う順は難しいが」
全員が座すると、そう言ったのは四方だ。
「杠からは話を聞いた」
そう言うと紫揺を見た。
四方の声に杠が頭を下げる。 違う意味でマツリも。
四方との話中に中座をし、戻ってきた時にはもう四方は居なかった。 四方の側付きだけがいて黎明前に話を聞くと伝えられた。
丁度その時に杠は共時を確認していた。 間違いなく共時であった。
どうして無茶なことをしたのかと訊くと、杠を救いたかった者もいたがそれは止めた。 負け戦に出させるわけにはいかなかったから。 だから一人で忍び込んだ。 言ったはずだ、お前は息子によく似ていると。 共時がそう言った。
そして地下から出されたのではなく、己の足で地下を出たと聞いた。 その理由も。 かなり言いにくそうにしていたが。
「紫、地下で何を見てきた」
四方の側付きが誰にも聞こえないようにゴクリと唾を飲む。 五色が地下に入った。 己すらも入ったことの無い地下に。 紫揺はどんな話をするのだろうか。
四方はもちろんの事、マツリも側付きのことをもう疑ってはいない。 襖戸内に座らせている。
紫揺が一度カルネラに目を合わせる。 カルネラが嬉しそうに「シユラ、スキー」 と言っている。
カルネラはこの話をするために、紫揺が頼んでこの場に連れて来てもらっていた。
「カルネラちゃん、私が言い洩らしていたら教えてね」
「シユラ、イイモラス、オシエテネ。 リツソ、オシッコモラス。 オベンキョウ。 カルネラ、デキルコ、イイコ。 シユラスキ」
杠が下を向いて笑いを噛み殺し、四方とマツリは最低だという顔をし、シキは呆れて溜息をもらしている。
でも、とシキが思う。 カルネラの言葉数の多さに驚くところがある。
紫揺がカルネラの頭を撫でカルネラが目を細める。
カルネラの頭を撫でながら、目を四方に向け話し出す。
「少しでも早くお伝えしたいことがあります」
「ハヤクオツタエ、アリマス」
目を細めていたカルネラが紫揺の声を復唱する。
「まだよ」 と言って、紫揺が指を口元にやり、右から左に動かす。
「お口、チャック」
「オクチ、チャック」
復唱したカルネラが心得たとばかりに静かになる。
「うん。 ゴメンね。 ちょっとの間、お話しないでね」
カルネラのことは終わったようだ。 四方が頷く。
それを見た紫揺が四方を見て再び話し出す。
「ジョウヤヌシの家?」
家と言い切っていいのだろうか。 地下まであったし広かった。
「屋敷だ」
すかさずマツリが言う。
「じゃ、その屋敷。 地下は一階と二階がありました。 杠さんは地下二階に一人で牢屋に入れられていましたが、地下一階には八つの牢屋があって、その内の六つに人が入っていました。 先に四方様にお願いがあります。 その方々をお救い願えるよう、お願いしたいんです」
「先を進めよ」
その中に入っている者が地下の者なら四方の範囲ではない。
百足五人は捕まっている。 情報を持ったまま。 情報は気になるところだが、百足を救うという話にはならない。
何故か紫揺が杠を見た。 マツリの片方の眉が僅かにピクリと動く。
紫揺の様子を見ていたシキ。 気になり立ち上がる。
襖戸の方を見て「椅子をこちらに」 と、四方の側付きに言った。 この部屋に居る従者は四方の側付き一人。 話が話だけに昌耶は襖戸の外に出ている。 もちろん “最高か” も “庭の世話か” も。
シキの示した場所は四方の斜め後ろだった。 そこから見えないのは四方の顔だけで、四方の正面に座る紫揺とその横の辺(へん)に座るマツリ、横顔になってしまうがマツリの正面に杠の顔を見ることが出来る。
側付きが椅子を用意するとまた元の位置に戻る。
シキが椅子に座る。
杠が紫揺に頷いてみせる。 お願いを聞いてもらえなかったと、一瞬口をぎゅっと結んだ紫揺だったが続けて話す。
「その内の二つには “デカーム” と言った人達がいらっしゃいました。 これはもういいですね」
四方が頷く。
「デカームゥ」
カルネラがまたツボにはまりだした。
「カルネラちゃん」
人差し指を口に当てる。
カルネラが小さなオテテで口を塞ぐと小さな声で何度も言っている。 耳元で言われ、少々耳障りであるが話を続ける。
「あとは四家族です。 その内の二家族のご兄弟が官吏です」
「なに!?」
思わず四方が声を上げた。
デカームゥと何度も言っていたカルネラが「ぴぃ!」 と声を上げ、紫揺にしがみ付いてくる。
マツリも驚いた目をしたが、言われてみれば考えられないことではない。
紫揺の顔にカルネラの手がまわされている。 話しにくい。 カルネラの手を解き掌に乗せるとその手を卓の上に置く。
「一人目の官吏はジョウチさんという人です」
四方とマツリが目を合わせる。
「弟さんご家族・・・ご夫婦と小さな子もいました。 いきなり攫われて訳が分からないと仰っておられました」
マツリが唇を噛む。
「二人目はシロキさんと仰って、妹さんご夫婦が捕まっていました。 妹さんのお名前は・・・えっと」
口元に手をやる。
「シロキ、オトウト。 イッショにオボエテネ。 シロキ、イモウト、サネ」
「あ、そうだ。 サネさんです」
カルネラの頭を何度も撫でてやる。
「カルネラが最初に言った弟と言うのは」
四方が問う。
「呼んだ人が兄って言ってましたから、てっきり弟さんだと思ってカルネラちゃんに憶えてもらったら義理の弟さんだということでした」
一つ頷くと「続けよ」 と言う。
「どれくらい閉じ込められているのかを訊いたんですけど、ずっと暗闇で時の感覚がないそうですが、かなりなるとは仰っておられました。 この方たちが一番に攫われたようです」
四方が頷く。
「次は厨で働いていらっしゃるトキワさんと言う方です。 ご夫婦が捕まっておられて、その娘さんがトキワさんです」
「シユラ、ヨクデキマシタ」
カルネラに褒めてもらった。 カルネラはこれも覚えていたようだ。
紫揺の腕を伝って肩からスルスルと頭に上がり「イイコ、イイコ」 と紫揺の頭を撫でている。
「ありがとう」
「ムスメのトキワ。 カルネラ、オボエテネ」
昨日した復唱をしながら紫揺の肩に降りてきた。
「最後の方は、お歳を召していらっしゃいました。 光石の明かりが奥まで届かなくて、私からは隠れるようにされていらっしゃったんですけど、デカームと仰った方がその方が口を割らないから、暴力を受けているようなことを仰って、様子を見て欲しいと言われたんです。 デカームと言った人も何度もその方に話しかけてくれて、やっと私の前に出て来てくれたんですけど・・・」
紫揺の言葉が止まった。
四方とて地下の様子は知っている、次に話されることの予想がつかなくもない。 紫揺が話し難い内容だということを。
四方が杠を見て顎をしゃくる。 己に代わって先の話を促せということだ。
夕べ、四方と二人である程度の時間話した。 その中で四方からは『マツリになったつもりで話をせよ』 と言われたが、そう簡単に話せるものではなかった。 だが四方がそう考えてくれているということは有難いことであった。 そして今も変わらず同じ考えでいてくれているようだ。
「酷かったのか?」
四方だけではない杠とて想像がつく。 言いづらいのであろう。 紫揺の様子に杠が訊く。
「うん・・・」
紫揺が頷く。
紫揺の話を聞いて、そんなに多くの者たちが地下に連れ去られてきていたのに、己は何も気づかなかった。
「申し訳御座いません。 連れ去られてきていたことに己は何も気づきませんでした」
紫揺にほんの少しでも間をおかそう。 それに己が情報を得なければならなかったことに詫びも入れなければならない。
己を使っているマツリに言うべきなのはわかっているが、ここには四方がいる。 四方に向かって頭を下げる。
「万が一を考えて地下の者にすら気付かぬようにしたのであろう。 リツソのことを考えると眠らせて運んだのかもしれん・・・地下の者が眠っている間にでも。 よいか、杠は百足ではない。 マツリから言われたことだけを探り、まずは己の身を案じるのが先。 このようなことは百足が気付かなければならん事」
四方の言葉に再度頭を下げる。
「紫、続きを」
四方に促されるが、まだ口ごもっている。
「アイツ等は年寄でもなんでも関係ない」
頭を下げ終わった杠が紫揺に口添えする。
「・・・うん。 デカームって教えてくれた人も痣や傷だらけだったし、指も変な風に曲がってた」
「シユラのせいではない。 四方様に続きを」
「うん・・・」
ヤバイ、ヤバイ。 この雰囲気は何だ。 シキがマツリを見る。 マツリの前に座っているのは杠、マツリは杠を見ることなく前だけを見ていたが、放つ雰囲気は尋常なものではない。
「父上・・・」
シキがそっと四方を呼ぶ。
四方は今、紫揺の言っていた百足の話を聞いて心を痛めていた時だ。
百足は使い捨て。 そう考えて当たり前とは分かっている。 誰よりも百足自身がそう考えている、そう教えられてきている。 だが・・・助けることは出来なくとも、受けたであろう痛み、そして次には殺されるだろうという覚悟、いくら教育を受けている百足とはいえそれは恐怖でもあるはず。
「なんだ」
「マツリの様子がおかしいのですけれど」
四方がマツリを見る。 たしかに異常を感じる。
「昨日、湯殿でマツリが赤髪になりかけました」
驚いた四方がシキを見る。
「昨日はなんとか治まりましたが、ご注意くださいませ」
もう一度マツリを見てからシキに頷いてみせる。
「紫、続けよ。 マツリしかと聞いておけ」
マツリが右に座る四方にチラリと視線を動かした。 返事はない。
シキが以前にもこのようなことがあったのを思い出した。 されたのは四方ではなく、シキ自身であったが。
リツソが紫揺に会いたくて朝餉の席を立とうとした時だ。 紫揺はまだ食事中だとマツリに止められた。 だがこちらの朝餉が終わったというのに、いつまで経ってもマツリの許しが出ない。 見かねたシキが『許してやってちょうだいな』 と言ったシキに対してチラッとシキを見ただけだった。
(マツリったら、父上にまで、なんてことを・・・)
四方に促されるが、その時の姿を思い出してしまっているのか、紫揺が辛そうな顔をしているだけだ。
「シユラ、報告は必要だ」
四方を待たせるわけにはいかない。
上目遣いに杠を見る紫揺に頷いてみせる。 一度下を見た紫揺が意を決っし口を開ける。
「前に出て来てくれましたけど、官吏では無いというだけで話してくれようとしなかったので、デカームの人が上手く言ってくれて、やっと話してくれました」
デカームの人と言う代名詞はどうなのだろうか。
「立場は言えないけど、息子さんでビノウさんと仰ると」
杠を除く誰もが紫揺を凝視した。
「自分のことはいいから、それより皆さんのことをお頼み申しますって仰って、痛む身体で頭を深く下げられて・・・」
その姿に心を痛めたのか、悲しそうに下を向いてしまった。
「それだけか? 他に何か言ってはなかったか?」
杠の問に「うん」 と答えると、杠が紫揺に手を伸ばし背中をさすってやる。
「尾能(びのう)」
四方の声が響くが、紫揺が言ったのをカルネラのように復唱したわけではない。
「母御は」
なんのことかと紫揺と杠が四方を見るが、その目は紫揺を見ることなくまっすぐ前を見ている。
襖戸内に端座していた四方の側付きが悪い顔色を更に悪くして立ち上がった。
「数日前より行方が知れていないと・・・」
紫揺と杠が側付きを見て驚きに目を瞠る。
「誰から聞いた」
「母のところを訪ねた兄からで御座います」
「それでここのところ顔色が悪かったのか」
マツリがリツソを城家主の屋敷から助け出した日には、それまでに悪かった顔色がより一層悪く見え、四方が一度戻らせたほどだった。 だが、リツソが居ないことを気にして少し休むとすぐに戻って来ていた。
それからも休むことなく、顔色を悪くしながらも四方に付いていた。
官吏はそれぞれ宮の外の家に帰るが、従者も下働きも宮の中で生活をしている。 兄からの報告を待つしかなかったのだろう。
「申し訳ございません」
「いつの話だ」
「兄から聞いたのはリツソ様が宮から見えなくなられた五日前と。 もしや、母がリツソ様のことに関与して―――」
「それは無い。 リツソが攫われたのは東の領土の祭の日を狙っていた。 我が領土を空けるのを狙っていただけだ」
最後まで尾能に言わせまいとマツリが言葉を被せたが、それに反応したのは紫揺である。
「え? 東の領土が迷惑をかけたってこと?」
「ちがう」
紫揺の質問にたった一言で答える。
「紫、このことにもリツソのことにも東の領土に関係はない。 気に病む必要はない」
四方が一言で終わらせたマツリを代弁するように言う。
杠がそうだったと、頭を下げる。 紫揺は東の領土の五色、紫だと聞いていたのだった。
「兄からはそれ以降連絡があったか」
「何度か御座いましたが、見つからないとだけで御座います」
「官吏の弟さんが言っていたように、ビノウさんの母上も意味も分からず急に攫われたと思います。 周りも気付かないほど急に。 お兄さんもまさか地下に囚われているなんて思いもしなかったんじゃないですか?」
紫揺が四方を見て言うと、今度は立ち上がり振り返ると尾能を見て言う。
「母上は、毅然としていらっしゃいました。 何も口を割らないって、デカームの人が言ってたほどです。 あの、その、ごめんなさい」
尾能本人に母親の痛みの様子を聞かせてしまった。 謝ることしか出来ない。 後悔しても始まらない。
紫揺がどうして謝ったのか寸の間、四方は分からなかった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第49回
翌日まだ黎明を迎えていない。 宮もまだ動いていない。 コケコッコーすら聞けない時刻。
卓を前に肩にカルネラを乗せ椅子に座っている紫揺が何度も欠伸を噛み殺している。
湯から上がるとシキからあれやこれやと訊かれ殆ど寝ていない。
挙句、湯殿では “最高か” と “庭の世話か” からマシンガン並みの涙をずっと受けていた。
「ごめんなさい」 と言うと、その一言にも過剰なくらい反応して涙していた。
青たんくらい何でもないのに、と思いながらも手首をさする。
いま紫揺の居るそこは四方の自室だった。
卓を囲う椅子四つ。 今その椅子全てが座されている。 四方、マツリ、紫揺、杠である。
四方の自室に入る少し前、着替えを済ませた紫揺を見て杠が驚いた顔をしていた。
「き・・・昨日の?」
「そうです。 昨日は有難うございました」
杠も着替えている。 宮から借りたもので袴姿だ。 昨日とはうって違い見ちがえる。
「よくお似合いですね」
見ちがえた杠にうっかり敬語になってしまった。
「借り物だから」
初めて穿いた袴。 照れ臭そうに杠が言う。
「私も借り物」
「それでも良く似合っている。 昨日とは別人のようだ。 坊には程遠い」
既に紫揺の年齢は聞いているからそう思えるのかもしれないが。
「シキ様の見立てがいいからでしょう」
四方の自室の前で招集をかけられていた二人が話している。 その声が四方の耳に届いた。
「来たようだな」
「はい」
「マツリはまだか。 よい、入れてくれ」
「はい」
リツソの時もそうだったが、今も四方の側付きがずっと四方に付いている。 問題が起きれば四方が寝ない限りその側を離れない。 今現在も顔色が悪いがそれでもこんな刻限から付いている。
四方は杠と話を終え、一旦、自室に戻って仮眠をとっていた。 マツリと杠にしてもそうであった。
側付きは黎明前に集まることを知っていたので、そのまま四方の自室の前に端座しているつもりだったが、いつまで経っても顔色が戻らない側付きを四方が一旦部屋に戻していた。
『下知(げじ)だ』
何度も首を振っていたが、最後にそう言われ逆らうわけにはいかない。 ほんの僅かの仮眠をとったが芯から寝られたものではなかった。
側付きが襖戸を開けて四方の自室に二人を入れる。
杠は随分と四方への緊張が解けている。 四方の纏う雰囲気がどこかマツリと似ているからかもしれない。
一方、紫揺は緊張もへったくれも何もない。 敵は、四方は、東の領主に対してエラソーに言った奴なのだから。 だが今回はお願い事がある。 四方を睨むわけにはいかない。 杠が四方に挨拶の口上を述べている横で欠伸を噛み殺したのが精一杯の礼儀であった。
「早々で悪いが、この時を逃すと人の耳があるのでな」
杠に言うと紫揺にも視線を送ってきた。 眠たいが取り敢えずニッコリと笑っておこう。
マツリが入ってきて全員が揃った。
マツリより遅れてやって来た紫揺を見守るシキは離れた所で端座をしている。
シキが同席とは言わないが、同じ空間に座するということに四方が難色を示したが
『あら、父上。 今回もわたくしに紫のことをお隠しになさろうと考えられましたわよね』 と言われてしまった。
波葉は四方とシキの間に挟まれ、抱えたい頭を振り切り四方を選んだ。 だがその時にはそれがどれだけの時間を有するかは誰にも分からなかった。
紫揺が東に帰ることになりマツリと宮を出た。
澪引と茶を飲みながら母と娘の話をしたその後に、波葉との邸に帰ろうとした時 “庭の世話か” からプチ情報を受けた。
『波葉様が深刻なお顔をされて執務房に入られました』 と。
そして見事執務室から出てきた現場を押さえたということであった。
波葉的にはここで捕まったということで言い訳はしっかりと出来た。 まず第一に四方に知らせなければいけなかったからだと。 決してシキに言わないつもりではなかったと、嘘でも言い切った。
誰が一番胸のつかえを下せたかと言うと波葉であった。
そんなことがあり、しぶしぶ許可をした。
「問う順は難しいが」
全員が座すると、そう言ったのは四方だ。
「杠からは話を聞いた」
そう言うと紫揺を見た。
四方の声に杠が頭を下げる。 違う意味でマツリも。
四方との話中に中座をし、戻ってきた時にはもう四方は居なかった。 四方の側付きだけがいて黎明前に話を聞くと伝えられた。
丁度その時に杠は共時を確認していた。 間違いなく共時であった。
どうして無茶なことをしたのかと訊くと、杠を救いたかった者もいたがそれは止めた。 負け戦に出させるわけにはいかなかったから。 だから一人で忍び込んだ。 言ったはずだ、お前は息子によく似ていると。 共時がそう言った。
そして地下から出されたのではなく、己の足で地下を出たと聞いた。 その理由も。 かなり言いにくそうにしていたが。
「紫、地下で何を見てきた」
四方の側付きが誰にも聞こえないようにゴクリと唾を飲む。 五色が地下に入った。 己すらも入ったことの無い地下に。 紫揺はどんな話をするのだろうか。
四方はもちろんの事、マツリも側付きのことをもう疑ってはいない。 襖戸内に座らせている。
紫揺が一度カルネラに目を合わせる。 カルネラが嬉しそうに「シユラ、スキー」 と言っている。
カルネラはこの話をするために、紫揺が頼んでこの場に連れて来てもらっていた。
「カルネラちゃん、私が言い洩らしていたら教えてね」
「シユラ、イイモラス、オシエテネ。 リツソ、オシッコモラス。 オベンキョウ。 カルネラ、デキルコ、イイコ。 シユラスキ」
杠が下を向いて笑いを噛み殺し、四方とマツリは最低だという顔をし、シキは呆れて溜息をもらしている。
でも、とシキが思う。 カルネラの言葉数の多さに驚くところがある。
紫揺がカルネラの頭を撫でカルネラが目を細める。
カルネラの頭を撫でながら、目を四方に向け話し出す。
「少しでも早くお伝えしたいことがあります」
「ハヤクオツタエ、アリマス」
目を細めていたカルネラが紫揺の声を復唱する。
「まだよ」 と言って、紫揺が指を口元にやり、右から左に動かす。
「お口、チャック」
「オクチ、チャック」
復唱したカルネラが心得たとばかりに静かになる。
「うん。 ゴメンね。 ちょっとの間、お話しないでね」
カルネラのことは終わったようだ。 四方が頷く。
それを見た紫揺が四方を見て再び話し出す。
「ジョウヤヌシの家?」
家と言い切っていいのだろうか。 地下まであったし広かった。
「屋敷だ」
すかさずマツリが言う。
「じゃ、その屋敷。 地下は一階と二階がありました。 杠さんは地下二階に一人で牢屋に入れられていましたが、地下一階には八つの牢屋があって、その内の六つに人が入っていました。 先に四方様にお願いがあります。 その方々をお救い願えるよう、お願いしたいんです」
「先を進めよ」
その中に入っている者が地下の者なら四方の範囲ではない。
百足五人は捕まっている。 情報を持ったまま。 情報は気になるところだが、百足を救うという話にはならない。
何故か紫揺が杠を見た。 マツリの片方の眉が僅かにピクリと動く。
紫揺の様子を見ていたシキ。 気になり立ち上がる。
襖戸の方を見て「椅子をこちらに」 と、四方の側付きに言った。 この部屋に居る従者は四方の側付き一人。 話が話だけに昌耶は襖戸の外に出ている。 もちろん “最高か” も “庭の世話か” も。
シキの示した場所は四方の斜め後ろだった。 そこから見えないのは四方の顔だけで、四方の正面に座る紫揺とその横の辺(へん)に座るマツリ、横顔になってしまうがマツリの正面に杠の顔を見ることが出来る。
側付きが椅子を用意するとまた元の位置に戻る。
シキが椅子に座る。
杠が紫揺に頷いてみせる。 お願いを聞いてもらえなかったと、一瞬口をぎゅっと結んだ紫揺だったが続けて話す。
「その内の二つには “デカーム” と言った人達がいらっしゃいました。 これはもういいですね」
四方が頷く。
「デカームゥ」
カルネラがまたツボにはまりだした。
「カルネラちゃん」
人差し指を口に当てる。
カルネラが小さなオテテで口を塞ぐと小さな声で何度も言っている。 耳元で言われ、少々耳障りであるが話を続ける。
「あとは四家族です。 その内の二家族のご兄弟が官吏です」
「なに!?」
思わず四方が声を上げた。
デカームゥと何度も言っていたカルネラが「ぴぃ!」 と声を上げ、紫揺にしがみ付いてくる。
マツリも驚いた目をしたが、言われてみれば考えられないことではない。
紫揺の顔にカルネラの手がまわされている。 話しにくい。 カルネラの手を解き掌に乗せるとその手を卓の上に置く。
「一人目の官吏はジョウチさんという人です」
四方とマツリが目を合わせる。
「弟さんご家族・・・ご夫婦と小さな子もいました。 いきなり攫われて訳が分からないと仰っておられました」
マツリが唇を噛む。
「二人目はシロキさんと仰って、妹さんご夫婦が捕まっていました。 妹さんのお名前は・・・えっと」
口元に手をやる。
「シロキ、オトウト。 イッショにオボエテネ。 シロキ、イモウト、サネ」
「あ、そうだ。 サネさんです」
カルネラの頭を何度も撫でてやる。
「カルネラが最初に言った弟と言うのは」
四方が問う。
「呼んだ人が兄って言ってましたから、てっきり弟さんだと思ってカルネラちゃんに憶えてもらったら義理の弟さんだということでした」
一つ頷くと「続けよ」 と言う。
「どれくらい閉じ込められているのかを訊いたんですけど、ずっと暗闇で時の感覚がないそうですが、かなりなるとは仰っておられました。 この方たちが一番に攫われたようです」
四方が頷く。
「次は厨で働いていらっしゃるトキワさんと言う方です。 ご夫婦が捕まっておられて、その娘さんがトキワさんです」
「シユラ、ヨクデキマシタ」
カルネラに褒めてもらった。 カルネラはこれも覚えていたようだ。
紫揺の腕を伝って肩からスルスルと頭に上がり「イイコ、イイコ」 と紫揺の頭を撫でている。
「ありがとう」
「ムスメのトキワ。 カルネラ、オボエテネ」
昨日した復唱をしながら紫揺の肩に降りてきた。
「最後の方は、お歳を召していらっしゃいました。 光石の明かりが奥まで届かなくて、私からは隠れるようにされていらっしゃったんですけど、デカームと仰った方がその方が口を割らないから、暴力を受けているようなことを仰って、様子を見て欲しいと言われたんです。 デカームと言った人も何度もその方に話しかけてくれて、やっと私の前に出て来てくれたんですけど・・・」
紫揺の言葉が止まった。
四方とて地下の様子は知っている、次に話されることの予想がつかなくもない。 紫揺が話し難い内容だということを。
四方が杠を見て顎をしゃくる。 己に代わって先の話を促せということだ。
夕べ、四方と二人である程度の時間話した。 その中で四方からは『マツリになったつもりで話をせよ』 と言われたが、そう簡単に話せるものではなかった。 だが四方がそう考えてくれているということは有難いことであった。 そして今も変わらず同じ考えでいてくれているようだ。
「酷かったのか?」
四方だけではない杠とて想像がつく。 言いづらいのであろう。 紫揺の様子に杠が訊く。
「うん・・・」
紫揺が頷く。
紫揺の話を聞いて、そんなに多くの者たちが地下に連れ去られてきていたのに、己は何も気づかなかった。
「申し訳御座いません。 連れ去られてきていたことに己は何も気づきませんでした」
紫揺にほんの少しでも間をおかそう。 それに己が情報を得なければならなかったことに詫びも入れなければならない。
己を使っているマツリに言うべきなのはわかっているが、ここには四方がいる。 四方に向かって頭を下げる。
「万が一を考えて地下の者にすら気付かぬようにしたのであろう。 リツソのことを考えると眠らせて運んだのかもしれん・・・地下の者が眠っている間にでも。 よいか、杠は百足ではない。 マツリから言われたことだけを探り、まずは己の身を案じるのが先。 このようなことは百足が気付かなければならん事」
四方の言葉に再度頭を下げる。
「紫、続きを」
四方に促されるが、まだ口ごもっている。
「アイツ等は年寄でもなんでも関係ない」
頭を下げ終わった杠が紫揺に口添えする。
「・・・うん。 デカームって教えてくれた人も痣や傷だらけだったし、指も変な風に曲がってた」
「シユラのせいではない。 四方様に続きを」
「うん・・・」
ヤバイ、ヤバイ。 この雰囲気は何だ。 シキがマツリを見る。 マツリの前に座っているのは杠、マツリは杠を見ることなく前だけを見ていたが、放つ雰囲気は尋常なものではない。
「父上・・・」
シキがそっと四方を呼ぶ。
四方は今、紫揺の言っていた百足の話を聞いて心を痛めていた時だ。
百足は使い捨て。 そう考えて当たり前とは分かっている。 誰よりも百足自身がそう考えている、そう教えられてきている。 だが・・・助けることは出来なくとも、受けたであろう痛み、そして次には殺されるだろうという覚悟、いくら教育を受けている百足とはいえそれは恐怖でもあるはず。
「なんだ」
「マツリの様子がおかしいのですけれど」
四方がマツリを見る。 たしかに異常を感じる。
「昨日、湯殿でマツリが赤髪になりかけました」
驚いた四方がシキを見る。
「昨日はなんとか治まりましたが、ご注意くださいませ」
もう一度マツリを見てからシキに頷いてみせる。
「紫、続けよ。 マツリしかと聞いておけ」
マツリが右に座る四方にチラリと視線を動かした。 返事はない。
シキが以前にもこのようなことがあったのを思い出した。 されたのは四方ではなく、シキ自身であったが。
リツソが紫揺に会いたくて朝餉の席を立とうとした時だ。 紫揺はまだ食事中だとマツリに止められた。 だがこちらの朝餉が終わったというのに、いつまで経ってもマツリの許しが出ない。 見かねたシキが『許してやってちょうだいな』 と言ったシキに対してチラッとシキを見ただけだった。
(マツリったら、父上にまで、なんてことを・・・)
四方に促されるが、その時の姿を思い出してしまっているのか、紫揺が辛そうな顔をしているだけだ。
「シユラ、報告は必要だ」
四方を待たせるわけにはいかない。
上目遣いに杠を見る紫揺に頷いてみせる。 一度下を見た紫揺が意を決っし口を開ける。
「前に出て来てくれましたけど、官吏では無いというだけで話してくれようとしなかったので、デカームの人が上手く言ってくれて、やっと話してくれました」
デカームの人と言う代名詞はどうなのだろうか。
「立場は言えないけど、息子さんでビノウさんと仰ると」
杠を除く誰もが紫揺を凝視した。
「自分のことはいいから、それより皆さんのことをお頼み申しますって仰って、痛む身体で頭を深く下げられて・・・」
その姿に心を痛めたのか、悲しそうに下を向いてしまった。
「それだけか? 他に何か言ってはなかったか?」
杠の問に「うん」 と答えると、杠が紫揺に手を伸ばし背中をさすってやる。
「尾能(びのう)」
四方の声が響くが、紫揺が言ったのをカルネラのように復唱したわけではない。
「母御は」
なんのことかと紫揺と杠が四方を見るが、その目は紫揺を見ることなくまっすぐ前を見ている。
襖戸内に端座していた四方の側付きが悪い顔色を更に悪くして立ち上がった。
「数日前より行方が知れていないと・・・」
紫揺と杠が側付きを見て驚きに目を瞠る。
「誰から聞いた」
「母のところを訪ねた兄からで御座います」
「それでここのところ顔色が悪かったのか」
マツリがリツソを城家主の屋敷から助け出した日には、それまでに悪かった顔色がより一層悪く見え、四方が一度戻らせたほどだった。 だが、リツソが居ないことを気にして少し休むとすぐに戻って来ていた。
それからも休むことなく、顔色を悪くしながらも四方に付いていた。
官吏はそれぞれ宮の外の家に帰るが、従者も下働きも宮の中で生活をしている。 兄からの報告を待つしかなかったのだろう。
「申し訳ございません」
「いつの話だ」
「兄から聞いたのはリツソ様が宮から見えなくなられた五日前と。 もしや、母がリツソ様のことに関与して―――」
「それは無い。 リツソが攫われたのは東の領土の祭の日を狙っていた。 我が領土を空けるのを狙っていただけだ」
最後まで尾能に言わせまいとマツリが言葉を被せたが、それに反応したのは紫揺である。
「え? 東の領土が迷惑をかけたってこと?」
「ちがう」
紫揺の質問にたった一言で答える。
「紫、このことにもリツソのことにも東の領土に関係はない。 気に病む必要はない」
四方が一言で終わらせたマツリを代弁するように言う。
杠がそうだったと、頭を下げる。 紫揺は東の領土の五色、紫だと聞いていたのだった。
「兄からはそれ以降連絡があったか」
「何度か御座いましたが、見つからないとだけで御座います」
「官吏の弟さんが言っていたように、ビノウさんの母上も意味も分からず急に攫われたと思います。 周りも気付かないほど急に。 お兄さんもまさか地下に囚われているなんて思いもしなかったんじゃないですか?」
紫揺が四方を見て言うと、今度は立ち上がり振り返ると尾能を見て言う。
「母上は、毅然としていらっしゃいました。 何も口を割らないって、デカームの人が言ってたほどです。 あの、その、ごめんなさい」
尾能本人に母親の痛みの様子を聞かせてしまった。 謝ることしか出来ない。 後悔しても始まらない。
紫揺がどうして謝ったのか寸の間、四方は分からなかった。