大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

虚空の辰刻(とき)  第212 回

2020年12月28日 21時47分40秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第210回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第212回



カミを挟んで浜辺に座ったハン。

「ダン、無茶をしてくれるな」

「ああ・・・。 沈むとは思っておらなんだ・・・」

「カミは高山(たかやま)の出だ。 泳ぐことなど出来ん」

修行の中では滝に打たれることはあったが泳ぐことは無かった。 泳がなければならない所に行くことなど有り得なかったからだ。

「え?」

声を出したのはダンだ。 カミは訝し気な目をしてハンを見た。

「カミ、吾のことを憶えてはおらんか?」

「ハン? ハンのことを?」

今更何を言うのか。

「カミが産まれた時には吾がどれ程喜んだか」

「意味が分からん」

「そうだろうな。 吾も忘れておった」

「何を言っておるのか」

「・・・カミ、お前は吾のお母の妹の子だ」

「は?」

「吾に兄弟はおらぬ。 だからお前をずっと見ておった。 お前を妹のように大切にしておった。 だから・・・」


突然に現れた黒装束の一人が言った。

『あの者を幸せにしたいと思うか?』

『当たり前だろう』

『だが、あの者はお父に足蹴にされておる』

『・・・嘘を言うな!』

『嘘ではない。 お前も分かっていよう』

分かっている。 だが分かりたくない。 カミの身体に痣があるのは知っていた。 その痣が増えるたびカミに訊いた。

『これは・・これはどうしたんだ?』

『なんでもない』

『何でもなくない! これ程の痣が、なんでもなくないなどとは無いだろ!』

『声を荒げないで! また父さんが怒る!』

『父さん? オジさんがこの痣を作ったのか!?』

結局それは最後に訊いた言葉となった。

『あの者のお父は草毒に侵されておる』

『草毒?』

『甘く心地よくさせる。 幻惑を見せる。 そのような草毒。 そんな時にその夢を裂く声を聞いたならば、夢は一気に冷め、近くにいる者に手をかける』

『手を? 手をかける?』

『それを止めたいとは思わんか?』

『当たり前だ!』

『では吾の手を取れ』

『・・・どうして』

『吾と共にあの者を救うためだ。 あの者のお母も手をかけられておる。 それをお前のお母に話せ。 お前のお母は分かってくれよう』


「・・・お前をお前のお父から守りたかった」

「吾のお父?」

何を呆けたことを、と言う目を送る。

「吾はゼンのようにまだ痛みなどない。 お前もそうであろう。 だが東の “古の力を持つ者” が言っておっただろう、いつかは痛みが出てくると」

「それがどうした」

「解いてもらうことでお前はお父に何をされていたか思い出すだろう。 お母が何をされていたのかも。 それは知らぬことで良いと思う。 思い出す必要などない事だ。 だがそれはもう過ぎ去ったことだ。 これから起こることではない」

「何を言いたいのか分からんな」

海に投げられたのが効いたのか、頭に血を登らせて怒鳴るようなことは無い。

「お前は小さな頃から痛みによく耐える子だった」

「ではそれで良かろう」

「それがいけなかった。 お前が痛いと、どうしてその痛みが出来たのかを言ってくれていれば、吾もそれなりにもっと早くに考えていたかもしれん」

「なんの話をしておるのか。 それにお前の手抜かりを吾のせいにするというのか。 それで吾がお前のお母の妹の子? なんだそれは? 嘘を言うならもっとそれらしいことを言え」

「吾がお前に一度でも嘘を言ったことがあるか?」

「・・・」

「ないであろう」

「あの東の者に毒でも盛られたんだろう。 しかりとせい」

「毒か・・・」

「ああ、そうだ。 何を飲まされた」

「・・・毒を飲んでいたのは・・・お前のお父だ」

ダンが驚いてハンを見た。

「は? また吾のお父かっ」

「これは覚えていよう。 お前が吾らの元に来た時、身体中に痣と傷があったのを」

「・・・」

ダンがその時のことを思い出したのか、苦い顔を作った。 カミの身体は目も当てられぬほどの痣と傷だらけであった。

「吾はお前の身体を守ってやりたかった。 だからお母とお父に話して師匠についた。 師匠につけばお前を守ってやれると聞いたのでな。 だがそれは叶わなかった。 お前を守ってやりたいということすら忘れてしまっていたのだから。 だが今はこれからお前を襲ってくる痛みからは守ってやれる」

「・・・」

痛みのことはショウワを見て知っていたし、さきほどケミが腹の底からの痛みに心当たりがあると、東の者に頷いていた。 それにゼンも言っていた。 ケミもゼンも東の者からの術にかかる前に言っていたことだ。 だからそれは真実なのだろう。

「ケミが言うにはショウワ様は腹からの痛みに身をよじっておられたらしい。 ゼンも吐き気と痛みに襲われていたそうだ」

「ショウワ様が?」

「ああ。 吾はお前をそんな目にあわせたくない」

「・・・吾が痛みに耐えられると言ったのはお前だ」

「カミ・・・一生耐えると言うのか?」

「・・・」

「お前のあの傷や痣がどうしてでき・・・。 いや、なんでもない」

知ったところでどうなるものでもない。 傷つくだけだ。

「言いかけておいてやめるのか」

「いい。 忘れてくれ」

「・・・忘れることなど出来るはずが無かろう。 今もこの身体に残っておるのに!」

カミがハンを睨み据えて言う。
ダンが口を一文字にしてカミから目を逸らす。

「カミ・・・」

ハンもダンも男だ。 初めてカミが来た時に師匠たちがカミの傷を見る為、カミを裸にした。 そのたった一度っきりしか見ていない。 それは目をそむけたくなるほどの傷と痣、それに火傷のあと、それが本来の肌の色を隠すように隙間なくあった。
今も残っているとは知りもしなかった。
ハンが両手を出してカミの頭を抱え込んだ。

「なにをっ!」

「・・・守ってやれなかった。 守ってやれなかった。 すまん、すまん、すまん」

「お前になど守ってほしく・・・」

ないわ。 まで言葉が続かない。 喉の奥で止まってしまった。
どうして自分の身体にこんなに傷があるのか。 その理由が原因が全く記憶にない。 だがそんな記憶など、思い出したくもなければ掘り起こしたくもなかった。 傷だ、痣だ、火傷だ。 きっとろくでもない理由だったのだろうから。
だがそう考えながらもどこかに不安はあった。
だから出てきたのは涙だけであった。

「すまん、すまん、すまん・・・」

ハンが十歳の時に師匠に迎えられた。 その時カミが五歳。 カミが影としてやってきたのは九歳の時。 五歳からの四年間、カミは一人で耐えてきたのだろうか。
お父とお母にカミの傷やカミのお母のことカミのお父のことを言った。 それを分かってくれてお父とお母はハンを師匠に預けてくれた。
だがその四年の間に、お母とお父はカミとカミのお母を助けてはくれなかったのだろうか。 いいや、それは責任転嫁だ。 ハンはカミのことを放りっぱなしにしていたのだから。

海の面(おもて)に波の飛沫がキラキラと輝いて見える。 一瞬、強い風がおきた。 見上げた空に白い雲が浮かんでいる。 雲が陽を遮る。 黒装束には有難い雲だった。

「いつまでも松の木を眺めててもなぁ・・・」

「言えてる」

五人の内、一人がチラッと桟橋を見た。

「おっ、阿秀がこっちに背中を見せてるぞ」

五人が一斉に振り返った。

「うーん? 紫さまは何処におられる?」

阿秀が桟橋の端にいて、此之葉は醍十と話しているのが見てとれる。

「・・・阿秀が持っていないか?」

持っているなどと、阿秀が聞いたらその口をつねるだろう。

「あ、持ってる持ってる。 靴が見える」

コイツもつねられるな。

「おい、その言い方はいかんだろう、阿秀に聞こえたらどうする」

聞こえなければいいのか?

「この距離だ、聞こえはせん。 取り敢えずは我らが阿秀に代ることが無いと分かった」

それも根本的にどうだろうか。

「それにしても長いな」

「ああ」

「あと何人残っている?」

「えっと・・・」

見ていた人数を頭に浮かべる。

「一人だ」

見ていた人数を頭に浮かべた者より早く答える者がいた。

「あと一人か」

「サッサとしろよ」

「北のことなど、どうでもいい。 それより紫さまに何があった?」

「その前に此之葉のこともある」

五人が目を合わせた。

「気になるのなら野夜が行け」

「いや、気にしているのは湖彩だろう」

言った相手に振り返す。

「だな。 湖彩が行け」

四人の総意がまとまった。

「お前ら―――」

「おい、阿秀が動いた」

野夜と湖彩と悠蓮、梁湶が若冲の声に身体ごと目先を動かした。
阿秀の抱きかかえていた紫揺が足を下ろしている。

「大事は御座いませんか?」

「はい。 もう大丈夫です」

そういう紫揺の足がふらついた。

「まだご無理では?」

紫揺を支えた阿秀が言う。

「うーん・・・。 ま、こけたらこけた時で」

「いえ、それは困ります」

「じゃ、こけません」

絶対にそんな気がないことは阿秀には分かっている。 完全なる舌先三寸だ。
うーん、と言って海に向かい伸びをしている紫揺。 その後ろに立つ阿秀。 いつ紫揺が海に落ちるか分かったものではない。

その阿秀の頭には疑問があった。 先ほど紫揺が言っていた防御とは、それはどういう事なのか。 紫揺の体調を知っておくために訊きたいことではあったが、それは五色の力に踏み入ることになるのだろう。 一介のお付きが訊けることではない。

「あれはいったい何だったんでしょうね」

くるりと振り返った紫揺が言う。

「あの者の身体にあったという冷えですか?」

紫揺が頷くが、阿秀に答えられるものではない。

「あの冷えがあの人の足の裏から流れ出てきてたから、それに便乗して身体の中に溜まっていたものを出したんですけど、あんなものをどうして身体の中に入れたんでしょうか」

阿秀には首を傾げることしか出来ない。
紫揺にしては、どうしてそれが視えたのかという疑問は持っていないようだし、どうしてそれを出すことが出来たのかにも疑問がないようだ。

「足の裏から出てきてたってことは、足の裏から取り入れたんだろうと思ってましたけど、それだけじゃなかったみたいだし」

あくまでも阿秀は聞く姿勢である。 何かを言いたくても言える材料など持っていないのだから。

「狭い空間にいたから、私にも入ってきちゃ困るし、足の裏と万が一のために喉に赤の力で防御してましたけど、まさか皮膚からも入ってくるなんて思ってもみなかった」

これはシキから聞いた身体の内に出すというものだ。 赤の力で入ってこようとする冷気を火のような熱でもって迎え撃ったということであるが、赤の力の出し方など分かっていない紫揺である、単に想像をしただけであった。

シキのあの説明を聞いただけで、実践の経験などない。 一歩間違えれば足の裏や喉が焼けていたところであるが、そうならなかったのは、何も考えていない紫揺の性格がそうさせたのか、ビギナーズラックなのか。
それとも “ダイジコ” の為せる業なのか。 だが今の紫揺もそうだが、誰もそのことなど知らない。

「皮膚・・・?」

「肺呼吸とかエラ呼吸とかっていうじゃないですか。 多分、皮膚呼吸で吸い取っちゃったんだと思います。 だからそんなには入ってきてなかったから、大丈夫だって言いました」

そうですか、と言えばいいのだろうが、何とも返事のしがたい内容だ。

「だけどあんなに僅かでも身体中に力が入らなくなったのに、あの人ホントに凄い」

ケミ曰くの筋肉馬鹿だからだろうか。

そうだ! と言うと紫揺が歩き出した。

「紫さま、まだお歩きになっては」

「大丈夫、落ちませんから」

こけませんから、ではなかったでしょうか? そう言いたい阿秀が諦めて紫揺の半歩斜め後ろを歩いた。 この距離ならいつでも腕が伸ばせる。
此之葉と醍十の居る所まで来たが、何やら雰囲気がおかしい。

「此之葉さん大丈夫ですか?」

二人の顔を交互に見てから此之葉に問う。

「はい、私は。 それより紫さまが・・・」

「あ、もう大丈夫です。 元気になりました。 ・・・どうしたんですか?」

醍十の顔をチラっと見る。

「此之葉が俺の言うことを聞かないと言うんです」

え? と言う顔をしたのは紫揺だけではない。 阿秀もだ。

「私でなくとも誰も聞きません」

「あの・・・何の話ですか?」

いえ、と言いかけた此之葉を無視して醍十が言う。

「俺の認めたやつとしか結婚はさせないと言ってるんです」

は? どうして今ここでそんな話? いや、それより何がどうしてそうなる? 紫揺が思ったが、阿秀はそうでは無かった。

「此之葉はまだ冷や奴しか作れん。 そんな心配は無用だ」

此之葉自身が言っていたことである。
冷や奴。 それは冷えた豆腐を皿にのせるということ。 それだけのことであった。 決して手作り豆腐を作るということではない。
それに阿秀の中ではそこに薬味がついているが、此之葉が冷奴を知ったのは日本でである。 日本の食べ物の何もかもを美味しくないと言っていた此之葉には薬味の存在は無かった。

「え? 此之葉、そうなのか?」

東の領土では料理が出来てこそ嫁に出られる。 言い変えれば此之葉より葉月の方が先に嫁に出られるということだ。

「そうか、そうか。 此之葉、でかしたぞ」

此之葉の背中をグローブのような手でバンバンと叩く。
なにがでかしたのだろうか。 叩かれた此之葉がよろめきながら大きな歎息を吐いた。

心配することでもなかったのかと、喜んで此之葉を抱き上げようとする醍十から逃げる此之葉を置いてセノギの元まで歩いた。 もちろん阿秀がその半歩後ろを歩いている。

「セノギさん」

桟橋からゼンとケミと共にカミの様子を見ていたセノギが振り返る。

「シユラ様、お身体の具合は・・・」

「もうどうってことありません」

紫揺のそれに阿秀が眉間を寄せたのが分かる。

「ですが・・・」

「それより教えて欲しいことがあります」

阿秀の憂慮などどこ吹く風である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第211回

2020年12月25日 22時39分38秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第210回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第211回



桟橋に出てきた紫揺とハンとセノギを見た此之葉。

「醍十! 下ろして!」

醍十の胸ではなく、何故か手を伸ばして顔を叩く。

「醍十、下ろしてやれ。 このままでは “古の力を持つ者” の威厳をそこなう」

「ですが・・・」

「下ろせ」

命令だ、とは言わないが目が十分に言っている。 阿秀には珍しいことである。

しぶしぶと醍十が此之葉を下ろす。 下ろされた此之葉が歩き出そうとしたので、すぐに醍十が此之葉の手をとる。 醍十に手を取られながら、紫揺に礼を言っているハンに近づく。

「“古の力を持つ者” ・・・」

「お身体はいかがですか?」

先ほどの此之葉の姿を見てしまったセノギが思い出したように笑いを抑え、口を結び顔を逸らせた。

「有難うございます。 これ程楽になったのはいつ振りか。 それに術を解いて頂きました。 吾らはどれほど礼を言いつくそうとも尽くせることは無いでしょう」

「お身体が良くなられたのはなによりです。 先程も申しましたが、思い出されたことにはゆっくりと向き合って下さい」

「ありがとう存じます」

「では行こうか」

セノギが言うとそれを片手を上げて止めた。

「まだ一人おります。 あれは・・・あれは頑なになっております。 吾らでなんとか説き伏せるつもりです。 なにとぞ由なにお願い申し上げます」

紫揺に体調を戻してもらっている間に、随分と頭の中を整理することが出来た。 カミのことを頼む余裕さえ出来ていた。

「お連れいただければそれで宜しいかと。 ですが私にも十分な時があるわけではありません。 どうしても納得をされないようであれば・・・」

「無理にでも解きます。 暴れるのを押さえて頂ければいいです」

此之葉が言い淀んでいるのを紫揺が継いだ。

「最初に強制はしないと言いましたが、皆さんを解くというのが唱和様の願いです。 それにその方が痛みに耐えかねて・・・あってはならないこと、ということも考えられます。 それはどうしても避けたいと思っています。 まだ時間はあります。 出来ることならご自分で納得されて古の力を受けて欲しいと思っています」

「感謝いたします」 

ハンがセノギの肩から腕を外した。

「もう大丈夫だ。 一人で歩ける」

「ハン・・・」

ハンが脚を引きずりながら歩を出すと、それに合わせてセノギも歩き出す。 二人の姿を四歩五歩と見送ると紫揺が阿秀を見た。

「ラウンジの中の空気を一掃できますか?」

「え? ええ」

「それじゃあ、中が冷えていますし、他の人もあの空気に触れない方がいいと思うので新しい空気と入れ替えてもらえますか? 特に足元の空気を出して下さい」

「はい」

先程、此之葉が冷えたと言っていたが、どうしてそんなことになったのか、その空気に触れない方がいいとはどういうことなのか、と訝りながらラウンジに入った。 途端、セノギと同じように思わず二の腕をさする。 エアコンを切り窓を開けると空気清浄機のボタンを押し、ラウンジを出た。

「あれは、いったい?」

思わず阿秀が尋ねた。

「何故かは知りませんが、さっきの人の身体の中にあったものです。 平気な顔をされてましたけど、辛かったと思いますよ。 あんなに冷えたものが身体の中にあったんですから。 少しずつは漏れ出ていたようですが、あのままだと身体も内臓もどんどん弱っていったと思います」

「それは・・・お力で・・・?」

「多分そうだと思います。 でも私にもよく分かりません」

ハンに手を添えたのは気功師がよくやっているのを真似ただけだ。

「ふぇ・・・」

「は?」

紫揺の声に阿秀が思わず声を出した。
紫揺の身体が揺れた。

「紫さま!」

此之葉が叫んだ。
紫揺の身体が横に傾(かし)いだのだ。 すぐに阿秀が紫揺の身体を受けとめる。 顔を覗くと目が朦朧(もうろう)としている。

「紫さま?」

紫揺の膝がガクンと折れる。

「!」

すぐに阿秀が抱き上げる。

「・・・ふみまへん。 あの冷気にあひゃったみたひ・・・」 (すみません。 あの冷気にあたったみたい)

「冷気にあたった?」

阿秀と醍十が目を合わせる。

「まかせろ。 此之葉、一人で立っていられるか?」

スンゴク真面目な顔で訊いてくる。

「・・・立っていられます」

白眼視を醍十に向ける。

「んじゃ、動くなよ」

白眼視の意味を解そうともせず、またもや真面目にそう言い残すとラウンジに入った。

「うわ、なんだよコレは!」

そう言ったかと思うと、クッションを両手に取り、窓に向かって扇ぎだした。

「こなくそ! こなくそ!」

此之葉と紫揺の仇とでもいうように空気を扇ぎまくる。

此之葉が自分の纏っていたタオルケットを紫揺にかけてやる。

「此之葉はもういいのか?」

「はい。 私は早々に出ましたので」

「それにしても・・・紫さまのお力とは」

「・・・わかりまひぇん」

「あ、いえ。 お返事は宜しいかと」

醍十の行く末を見ていた五人。

「おい、今度は紫さまが・・・」

「どうする?」

「今行くと」

「絶対に」

「代われと言われるな」

五人が目を合わす。 紫揺である紫を抱き上げるなど畏れ多いことを誰もしたくない。

「異常があれば阿秀がすぐに呼ぶだろう。 俺たちの出る幕ではないということで・・・」

全員が後ろを向いた。 阿秀と目を合わせないために。

ケミはもう泣き止み、ゼンの横で膝に顔をうずめている。 タオルケットは畳まれ横に置いてあった。
ハンがケミの頭を撫でながら「ようやった」 と言いケミを挟んで座った。

「あれらは?」

波打ち際にいるダンとカミを見ながら言う。 二人ともずぶ濡れなのが見てとれる。

「ダンがカミを海に投げた。 頭を冷やせと言ってな」

ゼンの返事にフッと鼻を鳴らして目尻に皺を入れる。

「ゼンもゼンだが、ダンもダンだな。 もう少し優しく扱われんのか。 なぁ、ケミ。 痛かったろう」

もう一度ケミの頭を撫でてやる。
そして此之葉と紫揺に言われたことを伝え、自分の痛みもなくなったと言った。

「心配をかけたな」

「・・・お前、そんなに具合が悪かったのか?」

上から下からハンの身体を見る。

「おお、騙されてくれていたか。 では心配もしておらんかったか。 吾もなかなかのもんだな」

「そういう事はちゃんと言え」

「・・・ハン」

ケミが顔を上げてハンを見る。

「ん? なんだ?」

何事もなかったようにケミを見る。

「身体が鈍ると言っておったのは・・・」

なにやら殊勝になっている気がする。 イキのいいのも良いが、これもまた良いな、と二人の男がケミに視線を送っている。

「おお。 それは嘘ではないぞ。 身体は辛かったが、それとは別のところだ」

「どこまでいっても筋肉馬鹿ということか」

もうイキが戻ってきたのだろうか、二人の男が笑みを零す。

「ああ、そうだ、認めようか。 だが馬鹿は付けては欲しくないな」

お道化るように言うと、声音を変えて改めて話を変える。

「なぁ、お前たちがどんな話を師匠としたのかは知らんが、ムラサキ様が吾の痛みを取って下さった。 師匠たちもそんなことを考えておられたのではないだろうか。 そして吾らも」

「痛みを取る?」

ハンが首を振った。

「それは今回のことだ。 それだけではなく、何かを。 何かをムラサキ様に願っていたのではないだろうか。 何かを変えてもらう、ということではないだろうか。 その何かは人それぞれ。 師匠たちにしても吾らにしても」

姉の目が見えるように。 母から守ってもらう。 ゼンとケミがそれぞれに此之葉の術によって思い出したことを心の中に映す。

「だがムラサキ様は東の五色様。 頼る相手を間違えてはいかん、ということだな」

「そう、だな」

応えたゼンを上目遣いに見ると、ケミも言葉を添える。

「ショウワ様にもご迷惑をかけた」

唱和も東の人間だ。 北に操られていたのはもう承知している。

「まっ、吾がそう思っているだけなのだがな。 なぁケミ、訊きたいことがある。 お前、腹からの痛みがあったのか?」

此之葉に訊かれて頷いていた。

「吾ではない。 ショウワ様だ」

「ショウワ様が!?」

二人の男の声が重なった。

「あの痛みをあのお小さい身体で・・・」

己の痛みを思い出しながら顔を歪めて言う。

「それほど痛いのか?」

「ショウワ様は身をよじりながら背中をさすってくれと言っておられた」 

「吾はそこまではいっておらんが、腹の中の物が浮いてくるようで、吐き気がしたり痛みもあった」

「そうか・・・」

「それがどうした?」

「いや。 さて、ダンに説教でもしてきてやろうか」

もう一度ケミの頭を撫でると立ち上がり、足を引きずりながら桟橋を歩いた。

少し前、ハンがケミの横に座るのを見届けたセノギが、ふと船を振り返ると、紫揺が阿秀に抱き上げられタオルケットを纏っているのが目に入った。
すぐにセノギが取って返した。 走って阿秀の元に行く。

「如何なさいました?」

セノギの足音に気付いた阿秀と此之葉。

「あたられたと仰っていましたが・・・」

此之葉が首をかしげる。

「先ほどは我が “古の力を持つ者” に有難うございました。 また今もお借りしております」

身体を斜めに向けている阿秀がゆっくりと軽く顎を引いた。

「いいえ、そんなことはお気になさらず。 それよりあたられたというのは?」

「よく分かりませんが、先ほどの方の身体の中にあった冷えだと仰っていました」

「あの者の?」

「はい。 紫さまが仰るにはあの方は、平気な顔をされていましたけれど、辛かったと思いますと。 冷えが少しずつ漏れ出ていたと言われていました。 ですがあのままですと身体も内臓もどんどん弱っていかれたでしょうと」

セノギが顔を俯けると何度か頷くような仕草をした。 ハンがそれだけ悪くなったのは自分のせいだ。

「お心当たりでも?」

「私も数日それで寝込んでおりました。 ですが、冷えとは思ってもいませんでしたし、寒いというような自覚もありませんでした。 実はあの者は私を助けるために、長時間あの冷えにあたっておりました。 それが身体の中にあったとは・・・。
それをシユ・・・ムラサキ様が身体の外に出して下さったということですね? それがあの部屋に充満してムラサキさまが二次的にあたられた」

あれだけラウンジが冷えていたのだからそういうことだろう。

「はひ。 そーれす」 (はい。 そうです)

「紫さま、お話はお身体に触ります」

「らいじょうぶ。 ひゃんと防御ひてまひたから。 じっとひてれば治りまふ」 (大丈夫。 ちゃんと防御してましたから。 じっとしてれば治ります)

冷えにあたった上に、まだ力を上手く使えていないのがこうなった原因か、冷えにあたっただけなのか自分でもはっきりとは分からない。

「シユラ様・・・」

「おーい、阿秀。 冷たいのはなくなったぞ」

(だからっ! 名前を呼ぶな!) 阿秀の眉間にまたもやシワが入る。

「足元の空気を完全に出したい。 ドアを開けたままエアコンを掛けておいてくれ」

「了解」

紫揺がコクリコクリとしだした。
阿秀が紫揺を見るとどうも寝る間際のように感じる。 それとも具合が悪くなってのことだろうか。

「・・・ムラサキ様?」

「ちょっと寝まふ」

「しょ・・・承知いたしました」

この状態で寝るのか? 言いたいけれど言えない。

「新しいタオルケットを持ってまいります。 それを敷いて―――」

「いえ、心配にはおよびません。 このままで」

阿秀が紫揺を抱きかかえたまま桟橋を海に向かって歩きだした。 一番端まで行くとただ目の前の海を眺めた。

どうしたものかとセノギが此之葉を見る。 此之葉が頷いてこのままで良いという返事に代える。

「もうお一方はどうなさいますでしょうか」

浜辺にいるハン、ダン、カミを見る。

「長くショウワ様に仕えていた者たちです。 ショウワ様から術を施されたと言っても、そう簡単に解いてもらおうとは思わないでしょう。 特に女性はショウワ様によく付いておりましたから」

セノギも浜辺を見て言う。
此之葉がゆっくりと頷くと話の方向を変えた。

「ニョゼ様にお会いしました」

「最初にシユ・・・ムラサキ様が言っておられました。 本領でニョゼが立ち会ったそうで。 ニョゼはどうでしたか?」

「立ち合いはお見事にされました。 ですがムラサキ様のお話では、その後どうしても唱和様を北にお連れしたいと泣いておられたそうです」

「ニョゼが・・・。 本来なら本領へは私が行くところでした。 ですがこちらの片付けは私にしか出来ず、本領にはニョゼに頼むこととなりました。 そんな場に立ち会うとは思ってもいませんでしたから。 可哀想なことをしました」

「ええ、たしかにそうですが、それで良かったのではないでしょうか」

セノギが浜辺を見ていた目を移して、此之葉を見ると首をかしげる。 此之葉もそれに応えるようにセノギを見て言う。

「ニョゼ様が本領に行かれた唱和様を北の領土で待っておられるのに、唱和様が帰って来られないと知るより、納得して別れの言葉をお掛けすることが出来たのですから。 それにニョゼ様が本領を発たれるのを唱和様が見送られました」 

「・・・そうですか」

此之葉から目を外して俯く。

「なんの話だ」

此之葉が振り返ると醍十が立っていた。 こんな時はいつものように間延びした口調ではない。

阿秀が足元の空気も出したいと言ったので、エアコンをかけながら、まるでクッションで掃き掃除をするかのようにしていた。 そしてデッキに戻ってくると阿秀は紫揺を抱き上げたまま端まで移動しているし、此之葉は北の者と話している。 

「どうですか? 下の方の空気も出ましたか?」

「履き出してやった」

二人の会話を聞くとタイミングよくセノギが言葉を挟む。

「それでは私はあの者たちを見てきます」

「焦らずにお願い致します」

セノギが会釈をすると桟橋を歩いた。

「なんの話をしてた?」

「本領での話です」

醍十が半眼で此之葉を見る。

「なんですか? 何か言いたいことがあれば言って下さい」

若干弱いが、挑むように言う。
醍十と過ごす時間が多くなって、徐々にではあるが、感情が現れるようになってきていた。 そしてそれを口に出すことも多くなってきた。 それに紫揺というスパイスも効いているのであろう。

「北の者と恋仲になどさせんぞ」

「へ?」

この口調は紫揺に似たのか、お手本は選びたいものだ。

「此之葉の相手は俺が見つけてやる。 それまでは大人しくしていろ」

「は?」

「俺の認めたやつにしか此之葉を渡さん」

「・・・」

もう出す声などない。 完全に父親になっているようだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第210回

2020年12月21日 22時29分34秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第210回



シキから
『青が春、雷、風を操る
赤が夏、火、を操る
黄が中央、山、土、を操る
白が秋、天、沢、を操る
黒が冬、水、を操る』
と聞いた。

青の力は春。 春の力で温めればと思ったが、破壊にもつながるとも聞いていた。 だからこれは×だろう。 完全に×だろう。 こう言ってはなんだが、破壊には自信がある。 激しく出来た、というか、勝手になってしまった過去があるのだから。

シキに言われた。 困った五色。 自分を制御できない五色。 破壊に対して紫揺はその困った五色に入ると。 青の力を使って困ったちゃんが出てしまっては、どうにもならない。 だから青の力は×。

そして選んだのは赤の力。 よくよく考えると春の力でこれほどの冷えを溶かそうと思えば、どれだけかかるか分からない。 一気に夏で行こう。 うん、そうしよう。 とこれまた心の中で独語して、此之葉に術が終われば呼んでもらえるようにと頼んでいた。

シキはこの力は基本だと言った。 そこからどう変えていくのか、広げていくのかは五色次第。 理解の仕方、気持ちの問題であると。

花は青の力を使おうと思って咲かせた花ではない。 嬉しさを幸せを思っただけだった。 だから使い方なんて分からないが、心から治したいと思えばほんの僅かでもハンが楽になれるのではないかと思った。

そこで見落としに気付かないのが紫揺だ。 使い方が分からないのであれば、どの力を使うかなどチョイスできるはずもない。
だがそれをクリアーできるのも紫揺である。 

高校一年の野外学習でのアスレチック。 あの時、一般入部部員に言った一言を思い出させる。

『やりたかったらやればいいよ。 出来るから』

そう、やりたかったらやればいい。 出来るのだから。
そして今回は紫の力がある。

ハンの身体に添わした手に、頭にはそんなに冷たさは感じなかった。 首、肩、腕。
両手でタオルを顔に押し付けているが為、上半身に手を添わせようと思うと腕が邪魔になる。

「片手を下げてもらえますか?」

邪魔になっていた腕がどかされ、手を胸元に添わせた。 紫揺の手がピクリと動いた。 そして腹、脚、足の甲からつま先にと添わせる。
ふぅーっと、何かを考えた後のように息を吐くと、もう一度腹の前に手を当てた。

(やっぱりここが一番ひどい)

そして一瞬の逡巡。

(なんでも元から断たなきゃダメって言うけど、それは今の私には無理だろうな)

足の甲に手を移した。

(ここじゃないな。 足の裏か・・・でも)

履き物脱いで足の裏見せてくださーい、などとこのシチュエーションでは完全にマヌケだろう。 それに水虫でもあったら・・・。

手は足の甲の上にあってもその向こうにある足の裏を心で透かし見る。 いや、透かし視えた。

(これも紫の力?)

驚くこともなくそれを受け入れる。
あの破壊のこと、花を咲かせたこと、祖母の過去のこと、色んなことがある。 もう少々のことでは驚くこともない。

(あ・・・)

足の裏から僅かだが、冷えが流れ出ている。 まるでドライアイスが放つ煙のように。 だがそれは薄く細い。

紫揺の所見では、腹から足に冷気の筋を感じ、腹と胸にはその塊を感じていた。 特に腹の塊は大きい。 だから腹に胡坐をかいている親分をやっつければ、元から断てばいいと思ったが、自分にそんな力があると思えない。 だから親分から離れた所、冷気の少ない所から温めていこうと思っていた。

(徐々には良くなってきてるんだ)

そういう事か。 得心した。 手を引くと考えるように軽く握った手を口に充てた。
腹にあるものは親分ではなく大玉であり滞ったものだったのか。
足の裏からこの冷気を吸い上げ・・・いや、吸い上げたのか勝手に入ってきたのか、それが脚をつたって下腹に溜まった。 溜まった冷気を残しながらも更に入ってきた冷気に押され、徐々に胸にまで上がり、少なくとも今はそれを放出している。 だが今も胸に冷気は感じた。

(このまま徐々に抜けるのを待ってたら、いつかは内臓がどうにかなるし、筋肉も)

ではどうする。

(一か八か)

もう一度手を腹の前に少し浮かせて充てた。

(この身体は弱ってきている。 冷気、身体から出て。 この方に暖かさを・・・)

そう願いながら、その手をゆっくりと下げる。 動いているかいないかもわからない程に。 腹から冷気を押し出そうと考えている。

ゆっくりとした動作が脚の付け根まで下りた。 此之葉が眉根を寄せる。 股を開けて座っているハンの足に合わせて左右の手が分かれる。

タオルの下のハンの顔がピクリと動いた。

徐々に徐々にゆっくりと手を下げ、足の甲の上までくると手で壁でも押すかのように、ギリギリまで足の甲に近づけた。 足の裏を透かして視ると細く薄かったドライアイスのような煙が、もくもくと足の裏から出て行くのが視える。 ちょっとは成功したようだ。

立ち上がりハンの身体を見る。 単に身体を見ているのではない。 ハンの服の上から冷えを視ている。 ガタンと音がした。 紫揺が振り向く。

「あ、申し訳ありません」

此之葉が立てた音だった。 その此之葉の顔が青白く唇は紫色に近くなっている。 理由は想像がつく。 ハンの身体から出た冷気がこのラウンジ中に充満しているのだ。

「こっちこそ気がつかなくて。 此之葉さんはここから出ていてください。 まだ一人残っています。 体調をおかしくさせられません」

「ですが、紫さまが・・・」

此之葉が驚いた目をしている。

「私なら大丈夫です。 ほら、顔色も悪くなってる。 早く」

此之葉の冷たい手を取るとデッキに引っ張って行った。 
陽の暖かさが此之葉の身体を包み込む。 一瞬にしてじわりじわりと身体が暖かさを感じてくる。

(紫さまの瞳の色が・・・)

――― 紫になっていた。

「あ・・・此之葉」

醍十が此之葉の姿を捕らえた。

「此之葉が出て来て紫さまが中に入られて・・・えっと、中に男が一人入って行ったきりだったよな」

セノギが此之葉の唇の色を見てぎょっとした。 中の様子は窓越しに見ていただけで、陽に照らされているデッキではラウンジの中が冷えていることなど知らない。

「・・・寒いのですか?」 

コクリと此之葉が頷く。

四人もの人間に術を施したのだ。 体力を使い身体が冷えてきたのだろうかと思い、タオルケットを掛けてやった。

「有難うございます」

ずっと陽の下にあったタオルケットはこの上なく暖かかった。 フワリといい香りがした。

「ああー! 此之葉―――!!」

醍十が此之葉に向かって走り出した。

「阿秀、どうします?」

「本当に手のかかる・・・。 お前たちは」

阿秀が大股で歩き出した。

最後につけられた言葉で、阿秀がまだ怒っているのを知った五人である。
それもそうだろう。 先ほどはなんのお小言もなく “お前たちは” で終わったのだから。 いつも穏やかな阿秀の睨みはかなり効いたが。
だが今、誰かに命じることなく阿秀自身が行ったということは、自分たちのことを考えてくれているのだということも分かる。 北の者と顔を合わせるのは阿秀だけで良いと思ってくれているのだろう。

「これは・・・食うか?」

常に阿秀のことを “食えん” と言っていた野夜が “食いたかない” と言っていた湖彩に訊く。

「まぁ・・・そうだな」

親の心子知らずとはこういう事も言うのだろうか。

「此之葉―!! 此之葉―!!」

桟橋を走る醍十。

「北の者の前で堂々と名前を呼ぶな・・・」

眉間に思いっきり皺を入れて足早に追う阿秀。

此之葉が醍十を見た。 もちろんセノギも。 大男がこちらに向かって走っているのだ、桟橋にその響きが伝わる。

「大きな声で・・・」

窓越しにラウンジを見たが、紫揺は先程と同じことをしている。 紫揺の手を止めさせてはいないようだ。

「此之葉―!!」

やっと此之葉の所まで来た醍十が、すぐにタオルケットごと此之葉を抱え上げる。 それもお姫様抱っこではない。 小さな子を抱き上げるように縦にだ。 此之葉の足がブラブラと揺れる。

「此之葉! どうした!? 何かあったのか!?」

「静かに! 静かにして下さい!」

感嘆符は付いているが、声は押し殺している

「どうした!? 何があった!? 言ってみろ!」

「だから! 静かに!」

とうとう此之葉が両手で醍十の口を押えた。
セノギが笑いを堪えて顔をそむけたのが見えた。 恥ずかしく思いながらも、この手はまだ離せない。

「紫さまの邪魔をするのではありません」

フガフガと此之葉の手の中で何か言っている。 手を押さえていなければそこそこの音量だ。

「そうです。 だから邪魔をするのではありません」

醍十は「あー? 紫さまぁ?」 と言っていたのだ。

「いいですか、手を離しますが声を立てるのではありませんよ」

コクコクコクと醍十が三度頷く。

「ご心配されているようですから、あちらの方でご説明されれば如何でしょうか」

セノギが見た先には阿秀が立っている。
此之葉を下ろす気のない醍十。 まだ此之葉は宙ずり状態だったが、醍十がオモチャでも持ち替えるように此之葉を横抱きにして阿秀のところまで歩いた。

「どうした?」

此之葉に訊く。 醍十への咎めは後だ。

「醍十、下ろして」

醍十が聞かぬふりをしてそっぽを向く。 下ろす気はないようだ。 溜息を吐いた此之葉が情けない顔を阿秀に向ける。

「今は諦めるよう」

阿秀が微苦笑の顔を向けて言うと、眉尻を下げた此之葉が諦めたように口を開く。

「いま紫さまが中にいる者の体調を整えていらっしゃいます」

「どういうことだ?」

「詳しいことは聞いておりません。 ですが紫さまがお始めになってからは、ラウンジの中が急に冷えだして、私の顔色の悪さを見てとられた紫さまが出ているようにと」

「身体が冷えたということか?」

若干元に戻ってきたといえど、まだ此之葉の唇は紫色だ。
コクリと此之葉が頷く。

「エアコンが誤操作を起こしたか?」

「いいえ。 そうではありません。 あくまでも紫さまのなさっていることからです」

阿秀が眉間に皺を寄せる。 紫揺が何かをしていようと、紫揺と北の者を二人っきりにするわけにはいかない。 それでなくとも此之葉に対しても思っていたことだ。 だが事前に聞いていた此之葉のことは致し方ないと諦めてはいたが、紫揺の事は諦めるわけにはいかない。

阿秀が一歩出した時、阿秀が何を考えているのか分かった此之葉が止めた。

「阿秀、たとえ阿秀と言えど紫さまのされることをお止めしてはいけません」

影たちもセノギも離れたところに居る。 名を言っても差し支えがないだろう。
阿秀が此之葉を見る。

「紫さまのなさることの邪魔はさせません」

“古の力を持つ者” としてきっぱりと言う。

言い切られた阿秀。 此之葉にしても紫揺にしても北の者を信じているというのか。 いや、此之葉は紫揺を信じているのだ。 阿秀がフッと息を吐いた。

「安全、なんだろうな」

阿秀の言いたいことは分かる。 お付きとして二度と紫揺を失いたくない、少しでも可能性のあることを避けたいと思っていることは。

「はい、体調を整えていらっしゃるだけです。 それに阿秀も分かっているでしょう? 船のラウンジからどこへも行けません」

「そう、だな」

一度船の方に目を向け、再び此之葉を見た。

「そうか・・・。 それで・・・タオルケットか」

「はい」

「・・・礼を言わねばならんか」

忌々し気に言いたいところだが、そこは他の六人とは違う。

「此之葉の受けた恩の礼は俺がする。 阿秀ではない。 俺が此之葉付きなのだからな」

「したければ、お前はお前ですればいい」

聞きようによっては子供の喧嘩のようにも聞こえる。

「あの・・・」

「なんだ」

阿秀と醍十が声を合わせる。

「私にして頂いたことに礼を言うのは私です。 阿秀でも醍十でもありません」

「そういう訳にはいかん」

また二人の声が合わさり、互いに目を合わす。

此之葉が大きく溜息をついて言い切る。

「私は子供ではありません。 それに阿秀や醍十のように北の者に何某とは思っていません。 気のない礼は礼ではありません。 私が自分で礼を言います。 阿秀も醍十も礼を言う必要はありません」

“古の力を持つ者” らしく言うが、醍十に抱っこされてのそれはあまりに威徳に欠けている。

ラウンジの中では二度目が終わった。 もう一度ハンの身体を視る。 胸にあった冷えが腹に下りてなくなっている。 腹の冷えもだいぶ薄くなっている。

「もう少しで終わります」

あと二回はやりたいが、もう一回で限界だろう。

何をされているのか分からないが、脚が軽くなった気がし、血が巡っているような気がする。 他の四人に心配をかけないようにと張っていた気が溶けていくようだ。

紫揺がもう一度同じことをした。 今度は手に当たる重みがかなり軽い気がする。 これならあと一回できそうだ。
そしてやっと二回目が終わった。 最後に今度は身体が温まるようにと願いながら、全身に手を添わせた。

「終わりました。 どうです? 身体の調子は?」

何が成功で何が失敗で、何が出来たのか出来なかったのか、そんなことなど分からない。 だがドライアイスのような煙はもう足の裏から出ていない。 冷えも感じられない。

顔を覆っていたタオルを片手で外し、もう一方の掌を目の前に運んだ。 痺れがない。 血色もいい。

「・・・あ」

「長い間付き合わせてこんなことを言うのもどうかと思いますけど、私もよく分からないんです。 でも、身体の中に氷以上に冷たい冷えを感じました。 それを足の裏から流したつもりです。 視た限りではもう冷えは無いようなんですけど・・・。 少しでも体調が良くなっていませんか?」

「す・・・少しどころか・・・」

自分の体のあちこちを確認するように動かす。

「・・・動、く」

「良かった・・・。 って、さむっ!! 早くここを出ましょうね」

窓の外に目をやり、セノギを呼ぶ。

ラウンジに入ってきたセノギが開口一番に「うっ!」 と叫び、二の腕をさすった。

「早く出してあげてください」

セノギがハンの腕を取り肩を貸す。 歩き出したハンに驚いた顔をした。

「思うように動かんのは膝だけになった」

「え?」

「お二人とも早く出ましょう、身体がおかしくなっちゃいます」

紫揺に言われずとも一刻も早くここから出たいが、ハンの軽さに驚きを隠せなかった。

此之葉は “冷え” と言っていたが、もうここは冷凍庫以上のものになっているのではないかと思えるほどになっていた。 息が白く見えるわけではない。 ヒトウカからのアタリはそういうものではないのだから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第209回

2020年12月18日 22時37分52秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第209回



ふり絞った声だった。 これ以上ガザンに近づけてはたとえ紫揺といえど、ガザンを止めることなど出来ないはず。

「・・・友、達?」

友達とはどういうことだ、セキに向けていた目を紫揺に戻す。

「わー、分かった分かった。 ガザン分かったからー」

紫揺の声が聞こえてくる。 続いてノソノソとガザンの下になっていた身体を起き上がらせる紫揺の姿が見える。 顔もどこも喰われていない。

「ガザン・・・」

紫揺が大きな身体を抱きしめた。
目を丸くして見ていたセミ五匹がジェットスプレーでもかけられたようにコロンコロンと落ちていった。

「ガザン、無事に戻れたんだね」

紫揺の逃亡を手伝った後のガザンを案じていた。 セキがガザンを連れて来てくれると聞いた時にはどれ程安堵したことか。

「あの時ありがとうね。 ちゃんとお礼を言えないままになるかと思ってた」

「グブ・・・」

何度か経験のある紫揺のヘッドロック。 息がしにくい。

「あ、ごめん。 苦しかったね」

セキが身体を起こすのが見えた。 ガザンはセキに尻を向けている。 セキの近くに阿秀が立っているのをまだ見ていない。 見させてはガザンがまた走り出すだろう。

「阿秀さん、すぐにそこから離れてください。 走って下さい」

セキの横に立つ阿秀に声を投げた。 それを聞いたガザンが振り返りかけたのを紫揺が止める。

「ガザン、まだだよ。 まだこっち向いてて」

ガザンの頬の肉をムギュッとつかんで横に引っ張った。 ナカナカに面白い顔になる。
阿秀が十分に離れたところを確認して立ち上がる。

「セキちゃんの所に行こうか」

あの状態でガザンに引っ張られていたのだ。 どんな怪我をしているか分からない。

一応リードを持つが、全くリードを引っ張ることなくガザンが紫揺の横を歩く。 その姿を阿秀と松の木につかまったままの格好をして、地に転がっているセミの抜け殻・・・いや、魂の抜け殻五つがじっと見ている。 若冲がやっと顔から手を離し「ヒッ!」 と一声上げた。

「セキちゃん大丈夫?」

セキの横に膝をつく。

「シユラ様・・・ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

座り込んでいるセキの髪の毛と背中の砂をはたいて落としてやる。

「門のところで待ってるようにって言われてたのに」

「こっちこそごめんね。 待たせすぎちゃったね」

「そんなこと・・・」

「痛い所はない? 立てる?」

「はい、どこも痛くありません」

パッと立ち上がる。
子供は柔軟に出来ている。 これが大人なら、あちこちに無駄な力を入れて筋でもおかしくしていただろう。

「シユラ様、髪の毛がギトギト」

「あはは、ガザンの歓迎を受けたから」

顔は袖で拭いたが、髪の毛にまで気がいかなかった。 薄手とはいえ長袖が暑いと思ったが、こんな所で役に立つとは思ってもみなかった。

「セキちゃん、ごめんね。 まだ時間がかかるの。 セノギさんに頼んでセキちゃんを呼びに行ってもらうから、お部屋で待っててもらえる?」

「今度はちゃんと門で待ってます」

「でも退屈じゃない?」

「んっと・・・。 考えたいことがあるから」

「考えたい?」

「はい。 ちゃんと考えなきゃいけないことがあるって分かりましたから。 セノギさんが呼びに来てくれるまで考えながら待っています」

「・・・悩みがあるんなら言ってね。 ちゃんと答えられるような器じゃないけど、一緒に考えるから」

こんな時、ニョゼなら相手の気持ちに添って応えるのだろう。 自分が悲しくなる。

「・・・はい」

セキの返事に少しの間があった。 それが気になる。

「あの人達に謝っておいてください」

セキが阿秀たちに目を移す。 それにつられて紫揺も目を移した。
セミの抜け殻だった五つが背を伸ばし、ゴキブリまがいに落ちた若冲たちが阿秀の前に整列していた。

「お前たち・・・」

阿秀の隠された怒りが、腹の中でマグマのように沸々と煮えたぎっているのが分かる六人。
阿秀の怒りは、紫揺を守りに出なかったことだ。 こんな所でセミとゴキブリになっていただけだなんて、なんとしたことか! 祖に何と言い訳をするつもりなのか! そう腹の中で言っている。
六人に言い訳の余地はない。

「うん、分かった。 言っておくね」

途中までセキとガザンと共に歩き紫揺は左、セキとガザンは斜め右に歩いて行った。
桟橋の上がり口でセノギが紫揺を迎える。

「お怪我はありませんか?」

ガザンとの仲は知っているが、あの勢いでガザンが紫揺に跳びかかって紫揺を倒したのだ、心配もするだろう。 あまりの心配に “御座いませんか” と訊くところを “ありませんか” になってしまったほどだ。

「大丈夫です。 ちょっと顔がネチョネチョするだけで」

しっかりと歩いてきていたところは見ていたが、直接紫揺の口から聞くとホッと肩を下ろす。

紫揺の顔は、たとえ拭いたと言っても、ガザンのヨダレが一度ついた顔だ。 海水で洗おうかとも思ったが、そうすれば今度はパシパシするだろうと諦めた。

「デッキに行きます」

「私も行きます。 ハン一人では立てませんので」

紫揺が頷き二人で歩いた。 セノギはしっかりと三歩下がっている。

桟橋ではダンがゼンの横に膝を折り、今も抱えられているケミに声を掛けていた。

「よう堪えて受け止めたな」

ゼンがハンとカミに言っていたことを聞いていたのだ。 タオルケットの上からケミの頭を撫でてやっている。 ケミの泣く声が小さくなっている。 そして立ち上り歩き出したダンが、ハンの背中を呆然と見送っていたカミの肩に手を置いた。

「えらく言われたな」

カミからの返事はない。

「安心しろ。 幻妖などではない」

「・・・安心しろなどと」

「うん? それからなんだ?」

「・・・吾は。 ・・・吾が疑懼(ぎぐ)しているとでも思っておるのか」

「そんなことは思っておらん。 考え過ぎだ。 だが、誰もかれもがあんな状態で出てくれば、考えるところはあるだろう」

「・・・」

「なぁ、カミ。 お前はケミより少しばかり姉さんだ。 ケミの面倒をよく見てやった。 ケミは吾らの中で一番小さい妹だ。 そのケミが全てを受けとめたのだぞ」

「それがどうしたという。 それに吾はケミの姉ではない」

「ではお前の妹はどこにおる?」

カミがダンを睨み上げた。

「それとも姉か?」

「黙って言わせておけば」

「カミはそんな事すらも分からんのだ」

カミが手を伸ばしダンの胸元を掴んだ。

「それがどうしたと言う! 知る必要などない!」

「ある。 あるのだ。 忘れてはならないことがある」

「吾は! 吾の師匠とショウワ様さえ分かっておればそれでいいだけだ!」

「吾には兄が居た」

「ほー、それは自慢か? 兄が居たことを知っていると自慢したいのか!?」

「川に流された吾を助けてそのまま流された」

カミの握り締めていた手が緩む。

「吾は兄の亡骸に誓った。 毎日花を手向けに来ると」

「・・・ダン」

「だがな、ある日師匠が吾の前にやって来た。 吾は師匠に訊いた。 あの川に橋を作ってくれるのかと。 師匠はそうなるやもしれん、そう出来るように吾を迎えたい、そう仰った。 吾は兄に誓った。 暫く花は手向けられん、だが橋を作れるようになったら、すぐに花を持ってくると」

ダンの顔が沈んだ。 カミが掴んでいた手を離す。

「結局、橋は作れなんだ。 だがな」

兄の話をしてからまっすぐ前を向いていたダンがカミに目を落とした。

「あのままでいれば兄に誓ったことを忘れたままだった」

「・・・」

「カミ、お前にも何かがあるやもしれん」

「何か?」

カミが鼻をならした。

「それがあったとして何というのか? ゼンは自分の名を知ったと言う、ケミは母から苦いものがあったと言う、そしてお前は兄との誓いを思い出したと言う。 それがどうしたというのか? 容易い」

「容易い?」

「ああ、名を知って何が変わる? 苦いものを思い出してそれがどうなのだ? 吾らは辛苦して修行に励んだ。 それ以上に苦いものなど無かろう。 お前にしてもそうだ。 亡き者に花を手向けて何が変わる」

「本気で言っているのか?」

そうで無いことは分かっている。

「ああ、そうだ」

「そうか。 では少しは頭を冷やせ」

ダンがカミを抱え上げ、海に放り投げた。 一瞬のことだった。
あまりのことに一言も発することが出来ず、カミの身体が大きな飛沫を上げて海中に沈んだ。

二人の様子を見ていた二組。 その内の一組であるゼンが思わず立ち上がりかけたが、膝の上にはケミが居る。 そしてもう一組の紫揺とセノギは突然のことに呆気にとられていた。

カミが浮いてこない。 すぐに紫揺が走った。 ダンの居る所から海に飛び込もうと思ったのである。 ダンの傍まで行くと桟橋を蹴ろうとしかけた紫揺をダンが止めた。

「ムラサキ様のお手は煩わせません」

ダンが桟橋を蹴って海に飛び込み、沈んでいたカミを片手に海面に浮かんでくるとそのまま波打ち際まで運んだ。 カミが息を荒立てて咳をする。

もちろん誰が言ったのか、代名詞となりそうな “ちょこまか” とする紫揺が桟橋を下りた。

「お・・・おま・・・お前!」

ゴホゴホと咳をしながらも、殺される寸前の形相でカミが横に座るダンをねめつける。

「泳げなかったのか。 お前は高山(たかやま)の育ちか? それとも中心か?」

「お前・・・吾を殺す気か!」

「そうか。 死にたくなかったのか。 では、お前の全てを知れ。 生きていく以上はな。 全てを知ってから生きろ。 知ったことで生きたくないと言うならば死ぬことだ」

「・・・なにを!」

「このまま居られないショウワ様の下知を待つと言うのか? 居られない師匠の影を追うと言うのか?」

「お・・・居られなくはない! ショウワ様も師匠も居られる!」

「聞いたであろう。 ショウワ様は東に行かれた。 師匠はもう吾らの前に居られない。 分かっているだろう。 吾らはお前の仲間だ、吾らに頼れ。 お前のしたいようにしてやる」

「吾が・・・吾が死にたいと言えば殺してやるとでもいうのか!」

「ああ。 吾らがお前の首に手をかける」

「・・・」

「吾らはお前のことを想っている。 だからそんなこと・・・お前が望むことを叶えるのは容易い」

「吾を殺すことが容易いだと?」

「殺すことではない。 お前の望みを叶えてやるのが容易いと言っておる」

「この・・・!」

「なんとでも言え。 お前と時を過ごしてきたのは吾らが誰よりも長い。 だから言えることだ。 だが、短いながらもお前と時を過ごした者もいる。 その者たちはなんと考えるかも知れ」

紫揺に遅れてやって来ていたセノギはデッキに戻っていたが、紫揺は様子が気になり浜辺に下りてきている。
男とはここまで厳しいことが言えるのか。 なんと愛情に溢れた厳しさなのだろうか。
両親と別れてからは、紫揺の周りにこんな風に厳しく言った者などいなかった。 振り返ってようやく知った。
皆が甘えさせてくれていた、誰もが心配をしてくれていた。 皆に甘え誰もに心配をかけながらそれに気付かず、ただ受け取っていただけではないか。
ただ甘えていただけだった。

とぼとぼと桟橋に戻り、デッキに上がった。

「大事が無かったようですね」

紫揺を迎えたセノギが言う。

「はい。 咳こんではいましたが、そんなに海水も飲んでいないでしょう」

紫揺が窓越しに中の様子を見ると、此之葉がソファーに掛け、ハンが脚に肘をつき両手で顔を覆っている。 既に此之葉の術は終わっていたようだった。
此之葉が紫揺に目を合わせ小さく頷いた。 紫揺を呼んでいるのだ。

「タオルお貸りします」

デッキの横の桟橋には、セノギの持ってきた一枚のタオルケットと二枚のタオルが移動され置かれている。
タオルを一枚手にするとラウンジに入った。 セノギがデッキから窓ごしに様子を見ている。

「どうです? 少しは落ち着かれましたか?」

一度紫揺を見てからハンに目を戻した此之葉が問う。
ハンが一度だけ頷いた。 
ハンの前に膝を折った紫揺がハンの顔を覆っている手の甲にタオルをあてる。 「これ使って下さい」 と言葉を添えて。 ハンが素直に受け取り、顔をタオルで覆う。

「私の話を聞いてもらえますか?」

ハンが頷く。

「膝の痛みはどうしようもないですが、身体の調子がかなり悪いですよね?」

戸惑ったようだったが、少し遅れて頷いた。

「今からちょっとしたことをしますが、具合が悪くなったら言って下さい」

ハンの返事を待たず紫揺が立ち上がると、両手をハンの身体から少し浮かせ、添わせるようにして頭から順にゆっくりと下に動かした。
これは紫揺の思い付きだった。 セノギの肩を借りハンが船までやって来た時、ハン一人に集中した時に気付いた事だった。

(んんー? なんでこんなに氷みたいなエネルギーが身体中にあるんだぁ?) と醍十のような言い方で心の中で独語した。

セノギにハンをどこに座らせるよう教えながら、身体ではなく頭の中でちょこまかと思考を巡らせた。 その氷のようなものとは、単なる氷ではなく氷に塩を振りかけたほどの冷えを感じる。 いや、それでも足りないくらい。 こんなことでは骨が軋み、筋肉も内臓すらもまともに動かないだろう。
で、ちょこまかと頭の中を駆け巡った結果、温めればいいんだ、と安直に答えを出したのだった。

そう、紫の力で。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第208回

2020年12月14日 21時40分00秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第208回



ケミの閉じられた目から留まることなく涙が流れ落ちている。

「お声をお掛けください」

急に此之葉の声が聞こえてビクリとしたゼンだったが、頷いてケミに声を掛けた。

「ケミ、聞こえるか?」

ケミに反応はない。

「お二人の良い昔話があるのでしたら、それをゆっくりと語って下さい」

ケミが昔に未だ囚われている。 それはゼンと共に居た所ではなかったのか、それとも二人同じ所に居たとしてもよい場所ではなかったのか。 これだけゼンが心配をしているのだから、二つの内のどちらかだろう。 それならばケミを知るこの二人の心地良い昔話がケミを呼び戻すだろう。

此之葉に言われ、ゼンに逡巡などない。 それにケミとの思い出は山とある。

「ケミ、お前は毬遊びが得意だったな。 初めて吾と顔を合わせた時のことを覚えているか? 吾がようやっと師匠から一人前になったと言われた時だった。 お前はまだ小さな子だった。 そのお前が毬遊びを吾に挑んだ。 吾にコテンパンにやられたな」

ケミの眉がピクリと動いた。

「今から思うにあの時吾は二十の歳だった。 お前は十(とう)。 師匠に怒られたぞ。 何故にお前に花を持たせないのかとな」

一度眉を動かしたきり反応はない。

「お前は優れた脚を持っている。 吾と競争をしたのを覚えているか? お前が十五の時だ。 お前が吾を初めて抜いた時だ。 五人の師匠が突然に居なくなった時だ。 お前が泣きながら走ったのを覚えているか?」

「・・・・師、匠」

ケミの声と共に瞼が僅かに開いた。

「そうだ、師匠だ。 お前にはお前だけの師匠が居ただろう」

「師匠・・・」

「ああ、吾には吾だけの師匠が居た。 だが師匠は皆の師匠でもあった。 そうであろう?」

「・・・師匠は・・・母から我を守ってくれた」

「そうか。 お前が小さな頃から師匠によくなついていたのはそれでなのだな」

「・・・」

「苦しかったか?」

「さほど・・・」

ケミが一度開けられた目を伏せる。
今に帰ってきたようだ。
デッキの窓越しに見ていた紫揺がタオルケットを抱えて現れた。

「ゼンさんがいてくれます。 ゼンさんに甘えてもいいんじゃないですか?」

「そのようなことは必要・・・」

グッと喉を詰まらせると、ケミの目から滂沱の如く止まりかけていた涙が零れ落ちる。
紫揺がゼンにタオルを渡し、タオルケットをケミの身体にかけてやる。
顔を覆うケミの手の上からゼンがタオルをあててやるが、ケミに受け取る気配はない。 指の間から流れ出る涙をゼンが拭いてやる。

「・・・何故、だ、どう、して・・・」

「言ってみろ。 最後まで言ってみろ。 吾が聞いてやる」

「・・・母さん・・・」

「お母(はは)のことを思い出したか?」

「どうし・・・どうして母さんは・・・あんなことを言うんだ」

「なんと言われた?」

先程ケミは師匠が母から守ってくれたと言っていた。 それがこれに繋がるのだろうか。

「・・・ご・・・」

「言ってみろ」

「・・・」

「言わねばずっとお前の中にそれが残る。 吾がちゃんと聞いてやる。 お前の中に残すな」

「・・・穀潰し・・・。 吾を・・・死ぬまで働かせる」

紫揺が渋面を作り、此之葉が憐憫の眼差しをケミに送る。 どうして親が、母親がそんなことを言うのか。
ゼンにしてもそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。

「・・・そうか。 しかと聞いた。 もう誰もお前のことをそんな風に思っていない。 安心せい」

ケミの手を取ると顔から離させ、タオルで涙を拭いてやる。 だが拭いても拭いてもその涙は枯れることを知らない。 ケミにタオルを持たせ落ちかけたタオルケットを身体に巻きつけると抱き上げた。 ケミに抵抗の様子は見られなく、ゼンに身を預けている。

「東の “古の力を持つ者” ムラサキ様、深く謝意を申し上げる」

ケミを抱いたまま数十秒頭を下げた。

ゼンに抱き上げられたままケミが船を下りた。 タオルケットの中に顔を入れ、渡されたタオルを顔に押し付けている。 それでも泣く声は漏れ聞こえている。

「・・・ケミ」

ハンとカミが声を揃えて言った。
まだゼンの身体は完全に覚めたわけではない。 時々ふらつきながら戻ってきた。

「吾は帰る場所を見つけた」

前だけを見て言い、次にケミに視線を落とした。

「ケミもだ。 だがケミは帰りたがらないだろう。 吾は師匠を無くし数年経ってからずっと吾が誰なのかを知りたかった。 知りたいと思うその度に頭痛を起こしていた。 十年以上になるか。 ここのところは頭痛だけではなく、腹の底から浮き出る痛みに往生していた。 だが今は吾の名を思い出しても、あの時のお父のことを思い出しても何の痛みもない。
ケミはずっとお父母(ふぼ)がどこにいるのか知りたがっていた。 そして我と同じにその度に頭痛に襲われていた。 あのまま放っておけば、ケミにもあの腹の底からの痛みが現れる。 ケミの身体ではあの痛みには耐えられんかったであろう。
東の “古の力の持つ者” の施した術はケミに何もかも思い出させたと同時に、これから起こるであろう痛みを取ってくれた。 感謝してもしつくせない」

「東の者に、そのようなことを言うでない!」

「カミ、ケミは思い出さなくてもいいことを思い出した。 だがそれは知らなければならんこと。 知って乗り越えなければならんこと。 ケミは辛い思いをしていた。 だがその記憶は塞がれていた。 そんなことを知らないケミがお父母のことを思い出そうとしていた。 お父母はどこに居る、どんな姿形だろうかとな。 それが何故だか分かるか?」

「ケミのことなど分かるわけが無かろう。 それに吾らは命ぜられたことをするだけでいい。 何か考えること自体がおかしいのであろうが」

「ショウワ様に命ぜられたことだけをすればいいというのか? だがショウワ様はもう居られん」

「領土に帰って来られないと誰が言い切れる」

「分かっておろう。 ショウワ様のお身体を考えてみろ。 意地を張るのはよせ」

「意地などではないわ!」

「ケミが言っておった。 吾らは人だ。 吾らにはお父母が居るとな。 ムラサキ様がお父母様を亡くされたと聞いたケミが、母上を慕われるムラサキ様のお姿を見て、ケミにはどんなお母(はは)が居たのだろうかと考え始めた。 お母という者に希望を抱いたのだろう。 そのお母からの仕打ちを思い出した。 知らなければならんことは知らねばならん。 それが辛いことなら乗り越えるために、新しく歩き始めるために」

「何を言っておるのか。 ケミも言っておったであろう、幻妖を見せられただけだ」

「騙すのであれば、甘い夢を見させればいいことだ。 どうして辛い思いをさせねばならん」

「ケミが苦しむのを楽しんで見たかったのではないか?」

「先ほど吾らが考えを持つことがおかしいと言ったな。 吾もそう思っていた。 もちろんケミもだ。 迷いなど吾らには必要ないのだからな。 だがな、カミ。 吾らにはもう何もすることはない。 吾らが守るように命ぜられていたムラサキ様はもう北の領土には居られん。 ショウワ様はすでに東の領土に行かれた。 これからはなんの下知もない。 己で考えてゆかねばならん。 分かるか?」

「ほざくな」

「我が師匠は・・・ムラサキ様を北の領土に迎え、北の領土が良きようなることを望まれておった。 ケミは師匠が母から守ってくれたと言っておった。 それは師匠たちが己で考えておられたことではないのか? お前の師匠はなんとされた?」

「・・・師匠?」

「吾らは師匠と初めて会った時のことすら覚えていない・・・。 いや、覚えていなかった。 吾とケミは思い出した。 それは幻妖でもなんでもない。 きっとダンも思い出したはずだ」

カミがダンに目を移す。
ずっと黙っていたハンが口を開いた。

「セノギ、悪いが肩を貸してもらえるか」

セノギに肩を借りて立ち上がる。

「あちらに頼む」

頤で船を指し示したハンにセノギが頷くと一歩を出した。 「カミ、よく考えておけ」 と言い残して。


木陰に座り込んでいる一つの小さな姿と一つの大きな姿。

「シユラ様遅いねー」

「ブフゥー」

屋敷を振り返った。

「みんな帰っちゃったね」

お座りをするガザンの背中を撫でる。
残っているのはセイハとキノラ、そして二人を説得するためにセッカ。 そしてギリギリまで必要になる食事を用意する領土の者二名と、今日のことがあるからとセキとセキの両親だけである。

今日のことを知っていた春樹が自分も一緒に会うつもりであったが、船を処分すると言われ、泣く泣く島を出た。
渡された給料明細には今日までの日割りの計算がされていたが、それとは別にと言って封筒に入った現金を渡された。 これは所得税がかかるようなものではないから安心するようにと付け加えられて。 渡された封筒は握ったことの無い分厚さだった。

「ちょっとだけ覗いてみようか」

門で待っているようにとセノギから言われていたが、もう待ちくたびれた。
何日か前に初めて門を出て歩いたが、この道なりに行けば浜辺に出ると知った。 そしてそこに桟橋がある事も、紫揺が船で来ることも知っている。

セキがリードを握りしめて歩き出す。 ガザンが尻を上げてセキに続く。

ガザンはもうとっくにシユラが来ていることを知っていた。 紫揺の匂いが潮風に乗ってガザンの鼻に流れてきていたし、海原に溶けていく紫揺の声はセキの耳では捉えられなくとも、ガザンの耳にはしっかりと聞こえていた。

そしてガザンの鼻と耳は紫揺以外の者も捕らえていた。 嗅いだことのない臭い、聞いたことのない声、そのような者がいる中にセキ一人で行かすわけにはいかない。 セキに何かあった時には自分が助けなければいけないのだから。
ブフッ! っと鼻を鳴らし気合を入れる。

車道(くるまみち)の木々の間を抜け浜辺に出た
と、リードが引っ張られた。

「あ? え? ガザン?」

ガザンが浜辺を歩く。

「っと、ガザン! 駄目! 止まって!」

足を突っ張ってリードを引っ張るが、ズルズルとガザンに引っ張られていく。 浜辺の砂にガザンの足跡とセキの残した二本の線、それがどんどんと延びてゆく。

「ガザン! 駄目だってば!」

セキの声に醍十が振り返った。

「わ、わ、犬は居なくなったんじゃなかったのかぁ?」

それにこの島で見たこともない犬だ。
醍十の声に全員が振り返った。

「うそだろっ!」

「なんだよあのデカイの!」

「おいおいおいおい・・・」

「見るからに闘犬だ、よな・・・」

「あれか!? まわしってのをつけてるあれか!?」

「そのようだな」

阿秀がすまして言う。

「なに落ち着いてんですか! 完全にこっちに向かって来てるじゃないですか」

「だが、後ろに女の子がいる」

「いるっつっても完全に引っ張られてるし、言うこと聞いてないしっ!」

「っぽいな」

「ぽいじゃないですよ! おい! 木に登れー!」

目の先に居る男達が、背後にあった数本の松の木に分かれてよじ登る姿がセキの目に映る。

「ああ・・・ああ・・・ご迷惑をかけてるー。 お願いだからガザン止まってー!」

ガザンが感じ取ったものは間違いなく半分正解である。 東の者たちは北の者たちに対して怒りを覚え桟橋方向を睨んでいた。 先ほどなどは口にさえ出していたのだから。 だが男たちの視線は紫揺に向けられているのではなく、北の者たちに向けられていたのだが、視線の細かい先などガザンの知ったことではない。

「ガザン! ガザン! ガザンはコワモテだって! お願いだから分かって―!!」

怖面、セキの父親が言っていた言葉だ。
ガザンの足が止まった。
ブフッと鼻を鳴らすとセキを振り返る。

「あ・・・ゴメン。 その、ブサイクって言ったわけじゃないから・・・」

怖面とは怖い顔と父親から教えてもらっている。

ブフン! と鼻の下の肉を揺らすとまた前を向いて歩き出した。 油断していたセキが完全にこけてそのまま引っ張られる。

「キャー! ガザンー!!」


セノギと紫揺がハンをラウンジに座らせると、先にセノギがデッキに出てきた。 振り返り窓越しに中を見ると紫揺が此之葉に何かを言っている。 盗み見をしているようで目先を変えた。
目先を。

「え? え“え”―!?」

セキがガザンに引っ張られている。

セノギの声に紫揺が顔を上げ「じゃ、呼んでくださいね」 此之葉にそう言い残すとデッキに出た。 同時にセノギが桟橋を走った。

紫揺の目にもすぐにガザンの姿が飛び込んできた。 もちろん浜辺で伸びたように引っ張られているセキも。

「セノギさんどいて!」

走りながら前を走るセノギに言う。 ハッキリ言って邪魔なのだ。
足を止めセノギが振り返ると同時に、横を紫揺が走り抜ける。 カミの横を走る抜け、座ってケミを膝に抱いているゼンの前も走り抜けると、最後にダンの後ろを走り抜けた。

「がっ!? 紫さま!」

紫揺が桟橋を走って来るのを目に止めた松の木にしがみ付くセミ一匹。 その声に五匹が松の木にしがみ付きながら振り返る。 その中の一匹、まるで柱にしがみ付いていたゴキブリが殺虫剤をかけられコロリと落ちるように松の木から落ちた。 何故なら、紫揺が桟橋を蹴り上げその身を躍らせたからだ。

「バ―――!」
「ドビャー!」

もう誰が何を言っているのか分からない。 だがただ一人無言で握っていた手を離して顔を覆った者がいた。 若冲だ。 その若冲がコロリと落ちたのだった。

紫揺の跳躍は誰も想像が出来ないほどの距離を跳んだ。 海に落ちることなど遠い話。 足を濡らすことなく砂浜に降り立つとそのまま走った。

「ガザン! ガザン止まって!!」

「紫さま!」

ガザンに近づく紫揺の姿を目にした松の木の下に居た阿秀が走り出そうとするのを見た紫揺、「来ないで!」 と制する。

阿秀を睨みつけながらガザンが足を止めた。 唸りを上げる。 ガザンの後ろでは今もリードを持ったまま砂だらけのセキが息をはずませ空を見上げている。 この状態までリードを離さなかったのは褒められたことであろう。

「ガザン!」

バウ。 ガザンが振り返る。 目の前を紫揺が走って来る。

「ワオーン」

短い遠吠えを一つ上げると紫揺に向かって走り出した。 引っ張る方向の変わったリードをセキが取り落としてしまった。

「紫さま!」

たとえ紫揺に来るなと言われても、闘犬が紫揺に向かって走っているのだ。 じっと見ているわけにはいかない。 阿秀が走り出す。

セキの重さを感じないガザンの走りは早かった。

「バウー!」 と一声上げるとガザンが跳躍した。

「ヒィィィィィー」
「ギャーーー」
「ヴワァーーー」
「ンガダァー」
「アガガァァー」

五匹のセミがミーンミーンでなくそれぞれ好きに鳴く。

「わっ!」 と声を上げたのは紫揺だ。 ガザンがのしかかってきたのだから。 そのままガザンの下になるとガザンのベロベロ攻撃が始まった。

セキの横まで走ってきていた阿秀が足を止めた。 後ろから見ていた阿秀の目には、ガザンの頭部が上下に振れ、紫揺が喰われているようにしか見えない。 あまりの光景に足が止まったのであった。

「やめろー!」

再び走り出そうとした阿秀の足に、セキがしがみ付いた。 阿秀が驚いてセキを見下ろす。

「大丈夫、大丈夫です。 シユラ様とガザンはお友達・・・」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第207回

2020年12月11日 22時16分29秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第207回



セノギに支えられダンが戻ってきた。

「なんだ、その情けない姿は」

ケミが嘲るような目を向け嘲弄の言葉を吐いた。
売られた言葉を買う気などさらさらない。 いや、そんな事さえも考えられない。 

「言い返すことも出来んのか!」 

そのケミの横を抜けてセノギが背を向けたゼンの後ろにダンを座らせる。 座り込んだダンがタオルで顔を覆って静かに泣き崩れた。

その姿を追って見ていたハンとカミとケミ。 ゼンは落ち着いてきたのか、嗚咽が聞こえなくなってきていた。 だがまだタオルで顔を覆っている。

(ゼンの奴・・・)

ケミがゼンを一瞥する。

(何も出来なかった。 何もしてこなかった。 騙されたのか・・・師匠に。 それともムラサキ様を見つければ、姉さんの為に父母の為になることが何かあったのだろうか。
吾らを手中に収めていたショウワ様はそう考えておられたのだろうか。 ・・・いや、ショウワ様もあの術に封じ込められていたとムラサキ様が仰っていた。 何がどうなって・・・)

『あとはゆっくりとご自分の過去と向き合って下さい。 あなたは何も間違ってなどいなかったのです、あなたのせいではないのですから』

此之葉の言葉だ。

(吾のせいではない・・・。 吾は間違っていなかった・・・? どうしてそんなことが言える。 吾は吾はただ、姉と父母の為に・・・。 そうだ、ただそれだけを思っていた)

『名は何と申す』

『ミノオ』

『そうか』

『なぜここに来ようと決めた』

『えっと・・・姉さんと父さんと母さんのためになるから』

『そうか。 では励め』

(そうだ・・・ショウワ様は一言も師匠のようになれとは仰らなかった。 術をかけられて師匠に教えを乞うている内にそう考えるようになったんだ・・・。 優しい師匠だった、だから・・・)

『全てはこの術から始まっただけなのです。 ゆっくりと術をかけられる前のあなたを見て下さい』

これも此之葉の言葉。

(術をかけられて全てを忘れた。 ただ師匠のようになりたいとだけ思っただけ、だった)

嗚咽を漏らすほどの状態になっていたゼン。 此之葉の元を去る時には考えられないくらいに心の中が整理できてきた。

「どうする」

ハンがカミとケミに尋ねる。

「どうするも何も、あそこに行って腑抜けにされるのがおちだ。 東の者が何やら画策しているだけだろう。 それに吾は待ったぞ。 もうゼンはここに居る。 待つ必要などない」

「だがショウワ様のお言いつけだ」

紫揺の言ったショウワからの伝言というやつだ。

『これより東の領土の “古の力を持つ者” に、封じ込めを解かせる。 それを万事に受けること』

「それだって怪しいものだ。 それならそうと手紙に書いておかれるだろうが」

「だが手紙を見ただろう。 あの字は間違いなくショウワ様の字だ」

その手紙には『驚くことがあるやもしれん。 だがムラサキ様の前に姿を現し、必ずやムラサキ様の言に従え。 ムラサキ様の言はわしの言と思え』 と書かれていた。

「驚くことがある、そう書かれていた。 それがこれなのではないのか? 手紙に東の領土の者に何やらと書かれていては、吾たちは足を運ばなかったかもしれん。 ショウワ様はそれを見越されたのではないのか?」

「ああ、そうだとしよう。 だとしてムラサキ様は強制はなさらないと仰っていた。 吾は戻る」

ハンとカミの間に座っていたケミがそう言うと立ち上がり桟橋を歩いた。
あと少しでゼンの後ろを通るという時「どこへ行く」 顔を覆っていたタオルを横に置いたゼンが背中越しに言う。

「戻る」

「父母様のことを訊かんのか?」

「そんなことが東のナントカで分かるわけがなかろう」

「吾は知った。 吾が誰なのか、どうしてここに居るのか。 ここに来る前に何を考えていたのか」

「幻妖でも見せられたか」

ゼンがゆらりと立ち上がる。

「このまま放っておいてどうする」

「お前には関係のないことだ」

歩き出しゼンを通り過ぎようとした時、手を取られた。

「なにをする。 離せ」

「お前はこれからも苦しむ道を選ぶのか」

「たわけたことを。 離せ」

「ずっと痛みを堪えていくというのか」

ショウワのあの痛がる姿を思い出した。 誰が自分の背をさすってくれるのだろう。 だがそんな不安より・・・。

「離せと言っておるだろう!」

「吾は姉と父母様の元に帰る。 お前はこのままでは帰ることは出来ん」

姉? ゼンに姉が居た?
下唇を噛んだ。

「吾のことなら放っておけばよかろう! お前はお前のしたいようにすればいいだけだ! 離せ!」

パン!!

ゼンがケミの頬を打った。 取っている手は離していない

「なにをする!」

「過去を知るのがそんなに怖いか」

「・・・なにを」

「来い」

ケミの手を取ったまま船に向かって桟橋を歩く。

「吾は何もされる気など無い! 離せ!」

ハンとカミの横を歩き過ぎようとした時。

「ゼン・・・」

ハンが言う。

「お前たちも己を知れ。 己が何を考え何をしていたのか。 何と呼ばれていたのか。 誰と暮らしていたのか」

「誰と暮らす?」

ハンが聞き返したが、それに応えることなく暴れるケミを船に引っ張って行った。

「離せと言っておろうが!」

船の横についていた紫揺の前まで来ると一礼し、ケミを引きずるようにラウンジに入れ肩を押すと椅子に座らせた。 立ち上がろうとするケミの頬にもう一度ゼンの手がとんだ。

「そのような乱暴なことはお止め下さい!」

此之葉の叫びが聞こえて、デッキに立っていた紫揺が思わずラウンジに入る。

「落ち着いて下さい! この方はまだここに居ます。 時間はあります。 焦らないでください」

ケミが椅子に座りうな垂れている。

「・・・失礼した」

ゼンが頷くように頭を下げた。

「ケミ、お前の為を思ってのことだ。 分かってくれ」

ケミは顔を伏せたままで言い返すこともなければ、分かったとも言わない。

「吾がここに居てはいけませんか?」

此之葉を見て言う。

「この方の支えになるのならば、お願いいたします」

「有難うございます」

「ですが、私が良いというまではこの方に触れられませんように」

頷いて返事とした。

紫揺がデッキに戻るとすぐにタオルケットとタオルを取りにセノギの元に走った。

「中はどうなって・・・」

「中でまた一度叩かれました。 でも今は落ち着いたみたいです。 女の人にゼンさんがついています」

それを聞いてハンとカミが目を合わせた。

「どうです? 落ち着かれましたか?」

いま此之葉の目の前にいるケミとゼンの怒鳴り合う声はラウンジまで聞こえていた。 ラウンジ内の様子からもどんな様子だったかは想像できる。

ケミに何の動きもない。
椅子に座り下を向かれていたのでは、術の力がまっすぐに入らない。 それにゼンやダンと違って背も低い。

「立ち上がって頂けますか?」

何を言ってもピクリとも動かない。
ケミがゼンを拒んでいるのなら、ゼンにケミを触らせない方がいいのだが、仕方がないかとゼンに目を向ける。

「このままの状態ではうまくいきません。 この方を立たせて頂けますか」

頷くとケミの腕を取って立ち上がらせようとしたが、ケミにそのつもりは全くないようだ。 仕方なく後ろに回ってケミの両方の上腕を握ると引き上げた。

「お顔をお上げください」

「・・・」

「ケミ」

「何故そのようなことをせねばならん」

俯いたまま言う。

「いいから顔を上げろ」

「お前に―――」

「上げろと言っておるだろう!」

後ろを振り向き憎々し気にゼンを睨みつける。

「そのまま前を見ろ」

「ああ! お前の顔など見とうもないわ!」

まっすぐ前を向いた。 今は自分の足で立っているケミだが、それでもこの手を離すといつ飛び出すか分からない。 ゼンの手が離されることは無い。

「お力を抜いて私の声をよくお聞きになって下さい」

フッ、と拒むように鼻から短い息を吐くと此之葉から顔を逸らした。 此之葉が回り込んで真ん前に立つ。

「まっすぐ前を見られる方が、楽ですよ。 それともこのまま行いますか?」

「ケミ!」

「うるさいわ! 黙れ!」

そう言うと真っ直ぐに前を向いた。
また此之葉が回り込んで前に立つ。 ケミの眉間が寄り、口を引き結んでいる。

「お力を抜いてください」

此之葉をひと睨みすると寄せていた眉間を開き口の力を抜いたが、眼球はそっぽを向いている。

「ではわたしの声をよくお聞きください」

此之葉が人差し指と中指の二本の指を立てるとフッと息を吐きかけ、ケミの額に二本の指を充てた。
ケミの頭部が僅かに後ろに避けたが、それ以上は此之葉の指がそれを許さなかった。

「そなたの泉の深き深き深淵に落ちしもの、その縄を解き蓋を開けよ。 怖るることは無い。 其はそなたの心。 其はそなた自身」

ゼンとハンにしたと同じく、口を閉ざしたまましばらく待つ。

素早く指を離すともう一度二本の指に息を吹きかけ額に充てる。 ケミの目は見開かれたままだが、今は此之葉の目を見ている。

「ゆるりと浮上し水面(みなも)に上がり、そなたの泉と溶けあい、其がそなたのものとなる。 そなたの深淵、我が閉じし」

ゆっくりと、最後は静かに本を閉じるかのように此之葉の声が終わった。 此之葉の声に言葉に誘われるように、開けられていたケミの目は閉じられた。

しばらく置いていた指をゆっくりとケミの額から離した。 

「座らせてあげてください」

力の抜けているケミをゼンがそっと座らせる。 ケミは此之葉の手が離れた瞬間に顔を垂れている。
此之葉がケミの顔を覗き込む。 ケミの目は伏せられ、瞼が痙攣を起こしているようにピクピクと動いている。

「手をとってあげてください。 安心なさるでしょう」

ゼンがケミの横に回り込んで手を握ってやる。 ケミの顔を見ると苦しんでいるかのような表情をしている。

「ケミ、安心しろ。 吾が居る」


目元だけをさらした全身黒ずくめの女が家を訪ねてきた。

『この子を? どうして?』

『領土の為』

『領土の為って、領主がアタシらに何をしてくれるって言うんだ?』

『領主ではない。 これから迎える方が何もかも良くして下さる』

『何もかも? この寒さもなくしてくれるというのかい? 野菜が凍ってしまう寒さを!』

『それもあり得るかもしれん』

『適当なことを言うんじゃないよ。 この子はこれからのうちの働き手なんだ。 今あんたらに渡してしまえば、今までの苦労が水の泡になるじゃないか! なんのために今まで育ててきたと思ってんだい!』

(母さん・・・)

『お前のところにはまだ子がいよう』

『足りないんだよ。 野菜が凍ってまともに食べられもしなけりゃ、米にかえることも出来やしない。 これからもう一度畑を耕さなきゃいけないんだよ。 あんたらにこの子を持って行かれたら働き手が一人なくなるんだよ』

『そんな理由でこの子を手放したくないのか』

『当たり前だろう!』

(母さん・・・どうして)

閉じられたケミの目から涙の筋が出来る。

(ケミ・・・)

ゼンの握る手に力がこもる。

『では、口減らしと考えよ』

『口減らし?』

『ああ、この子を働かせるにあたり食わせねばならんだろう。 その口が減ると考えよ』

『食わせなきゃいいだろう。 働けるまで働かせばいいだろう』

『お前・・・それでも母か! 今までも似たようなことをしてきたからこの子がこんなに細いのではないのか!』

『文句なら領主に言いな。 こんな領土にしたのは領主だ』

母親と話していた女が目先を変えた。

『お前はどうしたい?』

大人の女に目を向けられた。

『吾はお前の能力を買っている』

『のうりょく?』

『お前の力が吾たちには必要だ』

『キョウカ、騙されるんじゃないよ。 こいつらは人攫いだ』

(キョウカ? キョウカ? 吾の名はキョウ、カ・・・?)

『お前の母はお前に僅かな物しか与えず使い切ろうとしている』

『つかいきる?』

『お前が死んでもいいということだ』

『死んでもいい?』

(ああ、あのとき母さんの顔を見た。 母さんは・・・目を逸らした)

『ああ、キョウカ騙されるんじゃないよ。 母さんがキョウカを死なせることなんてあるはずないじゃないか。 ね、キョウカ』

(キョウカ・・・そんな風に呼ばれていなかった。 いつもいつも “この穀潰し” と呼ばれていた)

『キョウカは穀潰し?』

『何を言ってるんだい。 そんなわけがないだろう』

『どうする。 吾は二度と此処には来ん』

『なんで? なんでキョウカなの?』

『お前には質というものがある。 それを吾らは伸ばしたい』

『何を吠ざいてんだい! この子は渡さないよ! 他の子たちよりずっと役に立つんだからね!』

初めて聞いたあの時の母さんが言ったことは嬉しかったはずだ。 いつも穀潰しと言われていたのに、兄さんや姉さんたちより役に立つと言ってもらえたのだから。 でもどこかが違うと感じた。

『母に利用されるのも子の幸せかもしれん。 だが吾らはお前を使い捨てにはせん。 お前を大切に育てる。 吾らの意思を継がんか?』

『大切?』

『そうだ。 お前にしか出来るぬことを伝授する』

『キョウカにしか出来ないこと?』

『騙されるんじゃないよ! いいかい、親の元で働くんだ。 それが子のすることだ。 死ぬまで身を粉にして働くのが子だ。 お前のようなついさっきまで穀潰しだったのが、やっと役に立つようになったんだ。 これから今まで母さんや父さんがお前にしてきたことを返すんだい。 それくらいお前でも分かるだろう!』

『もう・・・もうやめて』

『何を言うか! 散々お前を食わしてきてやった恩を忘れたというのか!』

『もういい。 母さんもういい』

(誰か、誰か! 吾はどうすればいいのだ・・・誰か助けてくれ!)

ケミの指が何度も動いた。 ゼンがその手を覆ってやる。

『連れて行って。 家に居たくない』

黒ずくめの女に走り寄ると顔を見上げて言った。

『何を言ってんだい!』

母がキョウカの手を掴もうとしたのを振り切って外に出た。 外には四人の黒ずくめの大人が立っていた。 母が追いかけて家から出てきた。 その母から四人がキョウカの身を守ってくれた。

そしてショウワの前に立った。

『どうしてここに来ようと思った』

『・・・』

『黙っていては分からぬ。 それではお前を帰すことになる』

『いやだ!』

『では、どうしてここに来ようと思った』

『家に居たくなかった』

『それは何故か』

『分からない。 でも・・・穀潰しと呼ばれるのはイヤだ』

『ではここに居るというのだな』

『家に帰りたくない』

そして額に指を充てられた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第206回

2020年12月07日 22時29分19秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第206回



セノギが阿秀を見るが、阿秀は此之葉の手を取ったまま、軽く頭を下げ伏し目がちにしているだけである。 紫揺をもう一度見ると紫揺が頷く。

「それでは、お借りいたします」

阿秀に向かってセノギが深く頭を下げるのを目の端で見た阿秀が一度頷いてみせる。

「では戻ろう」

阿秀が此之葉の手を引いて船に戻っていく。 その姿を立っている影と紫揺とセノギが追っている。
此之葉が無事に船に戻ったのを見終えてから紫揺が陰に振り返った。

「えっと、カミ、ケミさんじゃないですよね。 ダン、ゼン、ハンさんのどちら様ですか?」

セノギから女性は二人と聞いている。 カミ、ケミは “ミ” で終わる。 きっと女性の名だろう。 間違いないだろうと思う。 そして立っているのは男性だということは、顔は見えなくとも身体の大きさや声で十分に分かる。

だが日本語が少しおかしくはないだろうか。

「・・・ゼン」

「ゼン!」

名乗ったゼンを叱責するような押し殺した女の声がした。 顔を上げてゼンを睨み見上げているのがその女性だろう。

「もう何の括りもないんです。 ゼンさんはご自分で判断されてご自分の道を行かれます」

女性に向かって言うが、紫揺の方を見ない。 今もゼンを睨み上げている。

「ゼンさん、どうなさいますか?」

ゼンが紫揺の後ろを見ている。 その紫揺の後ろでは、此之葉を残した男たちが続々と船を降り、こちらに向かって桟橋を歩いてきている。
先頭を歩いていた阿秀が紫揺に問う。 と言ってもセノギに聞こえるように。

「桟橋を下りるようにと言われたのですが」

先程からずっと此之葉の名前を出していない。 下りるようにと言ったのは此之葉であろう。
紫揺がセノギを見る。 セノギが頷く。

「じゃ、降りて待っていてください」

阿秀が影たちの横を抜けて桟橋を歩いて行く。 それに六人が続いた。

顔を下げ口を一文字にしていたゼンが、顔を覆っていた布を下ろし歩を出した。

「ゼン!!」

ゼンを睨み上げていた女性がゼンの背中に叫ぶが、ゼンの足は一瞬止まっただけで、逆に止まったことで拍車がついたようにその歩みは早くなった。

「・・・クッ!」

一人が立ち上がり踵を返しかけた。 その手に一本の手が伸びた。

「どこへ行く」

「離せ!」

さっきと違う女性の声だ。

「お前がどう判断しようとそれはお前の勝手だ。 だがゼンを待ってやれ」

「お前に命令される覚えなどないわ!」

「では誰の命令なら聞くというのだ。 ショウワ様はもうおられん」

そう言うと顔を歪めた。

その様子を見ていたダンが立ち上がり、もう一方のカミの手を取った。

「ハンの身体がまだ本調子でないのはお前が一番よく知っておろう。 これ以上力を出させるな」

ダンを睨みつけるカミだが、目を落とすと腕の力を抜いた。

「悪い。 膝が痛かったか」

「気にするな」

紫揺から封じ込めの話を聞き、知らなかったとはいえ自分もこの影たちの存在に加担していたのだと思うと、胸が詰まる思いで今の影たちの会話を聞いていたセノギ。

影たちはもう片膝片手などついていない。 顔を覆っていた布を下ろし立っている者もいれば胡坐をかいている者もいる。 ただ全員がうな垂れているだけだった。

ゼンの後を追った紫揺が先に立ち、ゼンをラウンジに入れた。

「デッキに出ています」

そう言い残すとすぐにラウンジを出た。

ラウンジには此之葉とゼンの二人しかいない。 避けられたラウンジのテーブルに此之葉の手で白い一輪の花が置かれていた。

「心は決まりましたか?」

ゼンが頷く。

「ではそこにお座りください」

手を伸ばして額に指を付けるにはあまりに背が高すぎる。
ゼンが座るとゆっくりと近寄った。

「気を楽にして私の声をよくお聞きになって下さい」

此之葉が人差し指と中指の二本の指を立てるとフッと息を吐きかけ、ゼンの額に二本の指を充てた。
ゼンの身体がピクリと動く。

「そなたの泉の深き深き深淵に落ちしもの、その縄を解き蓋を開けよ。 怖るることは無い。 其(そ)はそなたの心。 其はそなた自身」

口を閉ざしたまましばらく待つ。

素早く指を離すともう一度二本の指に息を吹きかけ額にあてる。

「ゆるりと浮上し水面(みなも)に上がり、そなたの泉と溶けあい、其がそなたのものとなる。 そなたの深淵、我が閉じし」

ゆっくりと滔々(とうとう)と此之葉の声が響いた。
しばらく置いていた指をゆっくりとゼンの額から離した。
ガクンとゼンの頭が落ちた。


『どうしてうちの子が!?』

『領土のために働けるのだ。 栄誉なことであろう』

目だけを出した全身黒ずくめの男が言う。

『この子はまだ十の歳、一人でなど! せめて! せめて母親をついて行かせます』

『案ずるな。 吾が面倒を見ることになっておるし、他にもまだおる』

男が父親の後ろに庇われている少年を見た。

『身体能力に長けておるな。 ずっと見ておった。 その力を領土の為に使わんか? 民の為に使わんか? 強いてはお前の家族の為にもなる。 どうだ?』

『家族の為に?』

『そうだ』

『姉さんの為にも?』

姉は生まれつき目が不自由だ。 たった二人っきりの姉弟。 自分が居なくなれば親が悲しむことは分かっている。 目が不自由だとは言え、姉も悲しむだろう。 だが、その姉の為になる?

『そうだ』

『そのような! そのような巧言! そんな話など聞いたことなど―――』

『無いというのか? この様な辺境で中心に何があったのか知りもせんだろう』

『グッ・・・』

少年が父親の後ろから身体を出した。

『ミノオ!』

(! そうだ・・・吾の名はミノオ・・・)

『父さん、おれ、おれ、姉さんの為に行く。 父さんと母さんの為にも』

(姉さん・・・そうだ、姉さんはどうなった)

『こちらへ』

男が言う。
歩を出したミノオを父親が手を取って引く。

『おや、息子のやりたいことを止めるというのか?』

『父さん、離して』

『案ずることは無い。 仕事が済めば必ず戻って来るのだから。 だがそれが何年になるかは分からんがな。 帰ってくるのをただ待っていればよい』

『ほら、そうなんだって。 ここで父さんの手伝いは出来なくなるけど、姉さんの為に何かをしたいんだ。 だから離して』

『・・・ミノオ』

『安心して。 必ず帰ってくる。 その時には姉さんの目が見えるようになるかもしれない』

父親が震える手をゆっくりと離した。

『こちらへ』

再度言った男の後ろに手招きされ、男の後ろについた。

『必ず帰す。 騒ぎ立てず待つがよい』

男がミノオの背中を押し家から出た。 家の外には同じような黒ずくめの大人たちが四人立っていた。

『吾の肩に乗れ』

そう言うと他の大人の手が伸びてきてミノオを男の肩に乗せた。

『しかりと摑まっておれ』

男は思いもしない速さで走った。 他の四人が後を走って来る。

『すごい・・・』

『お前も修行をすればこれくらい走ることは出来るようになる』

『え? おれにも出来る様になるの?』

『ああ。 その為にお前を選んだ』

(そうだ、思い出した。 それからショウワ様の前に出たんだ。 そして、そして・・・今のように額に指をあてられて・・・)

それから修業を積んだ。 そして影の一員となった。 だが、ただムラサキを探すショウワの手足となっただけだった。 姉に、父母の為になることなど何もしていない。
それどころか、あの時肩に乗せてもらった男、師匠。 修行をし、師匠のようになれるのが嬉しかった。 ただそれだけだった。

(吾は・・・吾はなんと愚かだったのだ・・・)


「いかがです?」

此之葉の声が響いた。
ゼンがゆっくりと顔を上げた。 東の “古の力を持つ者” と呼ばれているその姿を見た。 此之葉を見たその顔色は良くない。 表情も沈んでいる。

「どこか具合の悪い所がありますか?」

ゼンがゆっくりと首を振る。

「頭痛はこれでなくなります。 安心してください。 あとはゆっくりとご自分の過去と向き合って下さい。 あなたは何も間違ってなどいなかったのです、あなたのせいではないのですから。 全てはこの術から始まっただけなのです。 ゆっくりと術をかけられる前のあなたを見て下さい」

ふらつきながら立ち上がると、ゆっくりとした歩調でラウンジを出てデッキに立った。
陽が愚かな自分を洗い流すように全身に降り注ぐ。 紫揺に軽く頭を下げると影たちの元に向かった。

まだ身体がはっきりと覚めきれないのか、時々ふらついている。 思わず紫揺がデッキから飛び出してゼンの後につく。

桟橋から離れた浜辺ではデッキから飛び出した紫揺を見て肝を冷やした者が数人いた。 冷やしていないのはもう慣れた阿秀と、浜辺を歩いていたヤドカリを拾ってそれをマジマジと見ていた者たちである。

「・・・ゼン」

自分の前まで来たセノギがゼンの名を呼ぶことしか出来ない。
ゼンが首を振る。

「吾はゼンではない」

無表情に言う。

「ゼン! 何を言っておる!」

カミが噛みつくように言う。

「吾は・・・。 吾の名はミノオ」

まっすぐ前を向いて誰を見ているわけではない。

「どういうことだ?」

ミノオと自称するゼンがゆっくりとケミを見た。 ケミもゼンを見ている。

「ケミ・・・」

「・・・なんだ」

「吾は吾の名を取り戻した。 お前もお前の名を取り戻してこい。 お前の父母様のことを思い出せ。 どこで生まれ、どこで育ったか。 そしてどうしてここに居るのか。 吾に言ってやれることはそれだけだ。 ・・・待っている」

歩き出すと離れたところで桟橋に腰を下ろし、大きな手で顔を覆った。
グッ・・・っと嗚咽を押さえる声が手の中から漏れ出てくる。

「セノギさん」

「はい」

ゼンを見ていたセノギが紫揺に振り返った。

「そのタオルを渡してあげてください」

セノギの足元に置いてあるタオルを指さす。

「あ・・・はい」

その為のタオルだったのか。 五枚の意味が分かった。
セノギがゼンにタオルを渡す。 ゼンが素直に受け取りタオルで顔を覆う。 タオルが顔にあたったことで少し気が緩んだのか、嗚咽はさらに上がった。 その姿をじっと見ていた四人の影たち。

「ケミどうするんだ」

ダンが問う。

「あんな情けない姿を見せられてどうしろと言うんだ」

「だが、さっきゼンが―――」

「ではお前がゆけばいいであろう! 帰ってきた時にお前たち二人を合わせて、これだから男は、と言ってやるわ!」

「勝手にしろ」

ダンが立ち上がり船に向かった。
紫揺が後を追う。

「ちょこまかとされて・・・やっぱり・・・」

オットという風に口を噤んで離れたところに居る阿秀を見た。 また頭をはたかれるところだった。

「北のことなんて放っておかれればいいのに」

湖彩の横でヤドカリをひっくり返して野夜が言う。

紫揺がラウンジに案内してまたデッキに立った。
此之葉がゼンに施したようにダンにも施された。

「・・・そなたの深淵、我が閉じし」

此之葉の二本の指がダンの額から離された。 十五分も待つと、ダンの目から大粒の涙が零れ落ちた。 反応はゼンより良い。 涙で過去を洗い流すのが一番良い。

「大事はありませんか?」

「吾の名が・・・」

「無理になにも言わなくてもいいのですよ。 あなたがあなたの中で分かればいいのです。 急ぐことはありません。 ゆっくりとゆっくりとあなたのことを知る事です」

ラウンジ内にあったティッシュをダンに差し出した。 軽く頭を下げたダンが数枚とると立ち上がり、もう一度此之葉に頭を下げたその時に身体がふらつく。

「あまりご無理をされませんよう。 まだ身体も心も追いついておりませんから」

コクリと頷くと「感謝します」 と言い残し、デッキに出てきた。 足元のふらつきが目立つ。

「大丈夫ですか?」

デッキから桟橋に移ることが出来るだろうかと、桟橋に飛び移った紫揺が手を差し出した。

「・・・そのようなことは」

そう言いながらもどんどん涙が溢れてきている。 涙で足元もまともに見えないだろう
ダンの腕を取って桟橋に移らせる。 それを見ていたセノギが慌ててタオルを一枚取ると走ってやって来た。

「申し訳ありません。 私が」

紫揺が抱えている反対の腕を取り、タオルをダンに渡した。

「お願いします」

紫揺は北の人間や東の人間と分けて考える気は無いが、お付きの者たちが良く思わないのは感じている。
そして紫揺の思うように、正に浜辺では鬼の顔をしてお付きたちが並んで立っている。

「阿秀! どうして紫さまがあのようなことをせねばならないんです!」

「そうです! 北の者のことは北の者がすればいいこと!」

「あの座っている者たちにさせればいいでしょう!」

「あの者たちに言ってきます! いいですよね!」

「紫さまをこちらにお連れします!」

「俺もそう思うけど、紫さまをこちらにお連れしたら此之葉が困るだろうなぁ」

「まぁ、待て」

「阿秀!!」

五人が声を揃えて言う。

「そう憤るな。 あの者たちも私たちと同じだ。 だが私たちはまだ救われている方なのだから、少しくらいは大目に見てやれ」

「阿秀ぅ?」

「なんだ」

「言ってることと顔が違うぞ。 その眉間の皺と怒りの目を見たら此之葉が恐がる。 やめてくれ」

「・・・」

顔に出ていたのか・・・。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚空の辰刻(とき)  第205回

2020年12月04日 22時21分22秒 | 小説
『虚空の辰刻(とき)』 目次


『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第200回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。


     『虚空の辰刻(とき)』 リンクページ




                                      



- 虚空の辰刻(とき)-  第205回



「・・・阿秀」

ふと窓ガラスの向こうに目をやった野夜が、隣りに立ち海を見ている阿秀を呼ぶ。

「なんだ?」

振り向いた阿秀が野夜の視線の先を見る。

「・・・」

言葉が出ない。
つられて操舵席に居る若冲以外がその様子を見て息を飲んだ。
今はラウンジの中に色とりどりの花が咲いている。

「紫さま・・・」

此之葉があちらこちらに咲く花に目を這わせている。

「これはね私の中の気持ちが出たみたい」

「紫さまの?」

「はい。 此之葉さんの手が返事をしてくれて嬉しい気持ち。 ね、自信を持って下さいね」

「はい・・・」

目が涙に潤んでいる。

紫揺がそっと手を離すと咲いていた花が、一輪だけを残して光の粒となって弾けて消えた。 ラウンジの中が光の粒で一瞬輝いた。 残った一輪が此之葉の手の中にある。
そっと手を広げた此之葉。

「・・・これは」

「あれ? 居残りたかったのかな?」

何とも重みのない言葉である。

「頂いて宜しいでしょうか?」

「消えちゃうかもしれませんけど、それでも良かったら」

この場においてあまりにも軽々しい。

「有難うございます」

花を持った手を胸元に引き寄せるとそっと花びらを撫でた。

「・・・なんとも」

阿秀ではないのは確かだが、誰が言ったのだろうか。

「・・・ああ、紫さまのお力は計り知れんな」

祭で紫の力を見たが、見慣れるものではない。 野夜が本領で光石を割ったことを秋我から聞いて、その話しを阿秀に聞かせていた。 その事も含めて言っているのだろう。
五人と阿秀が呆気にとられている間に、船は海水をかき分けてどんどんと進んでいる。


「来られたみたいですね」

桟橋に立つセノギが言うと、座り込んでいた影たちが海原を見た。
影たちの服は全身を黒で纏っているいつもの服だ。 北の領土で着るのにはある程度、何枚かを着重ねるなど気候によって合わせているようだが、日本のこの土地のこの夏の盛りだというのに、顔以外の肌を見せることなく全身を覆っている。
ここは海の照り返しもある。 暑かろうにとセノギが思うが、影たちには服をかえる気が全くないようだ。

セノギはショウワからの手紙を口頭で伝えるのではなく、手紙そのものを見せた。 紫揺は東の領土に行った。 そしてこの手紙は東の領土に入ったショウワから預かって来たもので、一旦東の領土からこの地に来た紫揺が持ってきたのだということを添えて。

ショウワとセノギの前以外に姿を見せることを許されなかった影たちが、紫揺の前に姿を現すなどと、どれだけ驚いたのかは言うまでもない。 それどころか、この手紙は本当にショウワが書いたものか、と詰問されたほどであった。

船がどんどんと近づいてくる。
ずっと海面を滑ってくる船を見つめていた影たちになんの変化もない。

近づいてきた船が桟橋につけられた。 そしてエンジンが切られた。 この時には操舵席の若冲と紫揺を除く全員がラウンジに入っていた。
影たちがゆらりと立ち上がる。

エンジンを切った若冲は斜に桟橋を見ている。 紫揺が船から跳び下りた。 ここは手を貸すことを諦めていた。 出来るだけ北の者の前に姿を現したくない東の者たちだ。
阿秀も数日前のことがある。 紫揺が勝手に跳び下りたのだから、今回も大丈夫だろうという思いがあった。 そして滑ることもなくすっ転ぶこともなく紫揺が桟橋に足を着けた。

紫揺を迎えるようにセノギが近寄ってきていた。

「セノギさん、ありが・・・」

紫揺の言葉が一瞬止まったが、続けて言う。

「有難うございます」

セノギが一枚のメモを紫揺に差し出した。

「春樹さんから預かりました」

杢木の携帯番号が書かれているだろうメモ。 有難うございますと言って受け取ると、セノギ越しに後ろを覗き込んだ。
セノギの後ろで影たちの薄い姿がゆらりと動いている。

「あの方々が?」

「はい」

半身を捻じって紫揺に影たちが見えるようにした。
影たちに目を移し、そしてもう一度セノギに目を移し、また影たちを見て歩き出した。
影たちに近寄った紫揺が口を開いた。

「屋敷や北の領土に行った時には、私をずっと陰から見守って下さっていたと唱和様からお聞きました。 有難うございました」

それは此之葉が東の領土を出る前に唱和から聞き、此之葉が紫揺に伝えたものだった。 紫揺が頭を下げる。
影たちの陰が濃くなり、その姿を完全に現し、そしてその五つの影が片膝と片手をつき頭を下げている。 全身黒ずくめ。 目だけを出し頭まで覆っている。

「唱和様からの伝言をお伝えします」

伝言などとそんなものはない。 唱和が言ったのは、影たちが紫揺の前に姿を現した後は此之葉に封じ込めを解いてもらう、それだけだった。 だから伝言ではなく説明なのだが敢えて伝言と言った。
伝言などと知らなかったセノギが驚いた顔をしたが、影たちに変化はない。 ピクリともなくその姿を保っている。

「これより東の領土の “古の力を持つ者” に、封じ込めを解かせる」

封じ込め? セノギが口の中で言う。

「それを万事に受けること」

紫揺の声は落ち着いて入る。 そして声を大きくして言った紫揺の声はラウンジにも響いてきた。
紫揺の言うところの伝言が終わった。

紫揺が言ったことの意味が飲み込めない。

「以上が唱和様からの伝言です。 封じ込めというものをご存知でしょうか?」

セノギと影に問うが誰からも返事はない。

「カミ、ケミ、ダン、ゼン、ハン、あなたたちは唱和様によって封じ込めという術を施されました」

名を呼ばれて影たちが下げていた顔の目を大きく見開いた。

「封じ込めとは・・・。 唱和様があなた達にした封じ込めとは、自分を忘れさせるものです。 自分が誰なのか、両親の名前は何なのか、どこで生きていたのか、そんなことを記憶の果てに封じ込め、ただただ唱和様の命じられるまま動くように、術をかけられたということです」

セノギが息を飲む。

「ですが誤解しないでください。 その唱和様も封じ込まれていたんです。 唱和様は先代に封じ込められ、そして唱和様の手足となるように、代々の影という存在を作るようにと術をかけられていました」

影の一つが身じろぎをした。

「皆さんには帰る家があります。 皆さんの本当の名前があります」

紫揺がゆっくりと息を飲んで続ける。

「唱和様は北の領土の人間ではありませんでした。 幼い時に北に攫われた東の "古の力を持つ者” でした。 北に攫われ、封じ込めの術をかけられた唱和様は、東の記憶を封じ込められました。 そして北の “古の力を持つ者” だという記憶を刷り込まれました。
唱和様の存在は北の “古の力を持つ者” として、紫を探すだけの存在として生きていくことになりました。 そして皆さんが唱和様の手足となるように唱和様から封じ込めを受けました」

先ほど一つの影が身じろぎをしただけで、それ以上動く様子もなければ、セノギも、離れたところに留まる船の中のラウンジにいる者たちにも動く気配がない。

「数日前、唱和様は東の “古の力を持つ者” によって封じ込めを解かれました。 過去の事を全て思い出され、唱和様が行ってきたことに目を向けられました。
唱和様は今、東の領土で幼い時に分かれた妹様と暮らしていらっしゃいます。 そして術をかけたままの皆さんを案じられています。 私はそのお手伝いに上がりました。
先ほども言いましたが、皆さんには帰る家があり、本当の名前があります。 その他にも色々あるでしょう。 唱和様が施した術を東の “古の力を持つ者” が解きます。 それを唱和様が望まれました。
本当なら、唱和様がお解きになるのが一番なのでしょうが、いま唱和様は東の領土に居られます。 お身体を考えると、簡単にこの地に来ることがままなりません。 ですから東の “古の力を持つ者” に頼られました。 そして今、東の “古の力を持つ者” があの船に居ます。 唱和様が依頼された力のある者です。 唱和様は皆さんの封じ込めを解いて欲しいとその者に願われました。
私としては強制はしませんが、今を逃されては後はありません。 東の “古の力を持つ者” は、もうこちらには来ることはありません。 今日だけが、今だけが解く時です。 影の方々どうされますか?」

唱和からは解いて欲しいと言われただけだ。 影の意見を聞く聞かないなどとは言われていない。 それなのに強制はしないと言った。 何故なら自分で選んで自分で決めて欲しいと思ったからだ。

もし否と言われればどうしよう、何も言わずに逃げ出されたらどうしよう、その不安はもちろん抱えてはいるが、自分から飛び込んできてほしい。 それは譲れない。

精一杯言った。 これ以上自分の頭では何も考えられない。 今にもインパルスがショートしそうだ。
空白の、無言の時が流れた。 陽に照らされたさざ波がキラキラと光り、波が浜辺に上がっては引いている。 波が船底を撫でる。 船がゆらりゆらりと揺れる。

(・・・ショウワ様が東のお人だった・・・)

受け入れがたいことだが、それで納得のいけることがある。
ショウワは東の領土に北の領土がしたことを知らなかった。 重鎮と呼ばれるショウワが知らなかったことには頭を傾げるしかなかったが、攫われて来て紫揺の言うところの封じ込めをされたのなら理解ができなくもない。

元々北の人間であれば、封じ込めなどそんなことをする必要などないのだから。 それにショウワが “古の力を持つ者” だったとは・・・。

一つの影が動いた。 その影が立ち上がった。

「吾の名が分かると言われましたか」

「はい」

「吾が誰なのかが分かるということで御座いますか」

「はい」

「・・・」

「封じ込めを解いてもよろしいでしょうか?」

「その者は・・・東の “古の力を持つ者” は・・・」

此之葉を確認したいのであろう。 何をされるか分からないのだ、気持ちが分からなくもない。

「お待ちください」

船に向かって歩きだしデッキに上がると、そこから見えるラウンジのガラス越しに阿秀を見て頷いた。 阿秀が頷き返す。

「此之葉、紫さまがお呼びだ」

阿秀が立ち上がると、意を決したように此之葉が立ち上がった。
紫揺とは違う此之葉だ、阿秀の介添で船を下り、手を取られたまま歩くと此之葉が紫揺の隣に立った。

「この方が東の “古の力を持つ者” です」

唱和を見てきた影にとってあまりにも若すぎる。 最年少のケミより若いのではないか。

「このように若い者が?」

「私は唱和様が解かれるところに立ち会っていました。 この方が、唱和様を封じ込めから解放したんです。 立会人にはニョゼさんもいました」

まさかこんなことになるとは思っていなかったケミが、領土であったことをまだ報告していなかった。
前に立つ影の表情が動くのを見て、まだ背景をなにも知らないんだ、そしてこの影は領土に残っていた者と違うと踏んだ紫揺。

「お一人、先ほど領土から帰って来られた方に問います。 唱和様とニョゼさんが、北の領土を発たれ本領に行かれましたね。 その後に戻ってきたのはニョゼさんだけでしたでしょ? 唱和様は戻って来られていない。 違いますか?」

片手片膝をついたままのケミが頷いた。 影たちがそれを横目で見ている。

「ニョゼさんは東の領土に足を踏み入れることが出来ません。 領土での決まりごとがあるで。  そして東の “古の力を持つ者” も、東の五色である私も北の領土を踏むことはできません。 先ほどの領土での決まりごとによってです。
ですから本領で唱和様の封じ込めを解きました。 唱和様には簡単に移動できないことで、本領が手を尽くしてくれましたが、東の領土の “古の力を持つ者” が若くなければ本領になど行けません。 間違いなく、この方が東の “古の力を持つ者” です」

感情的にならず、あったこと事実だけをゆっくりとはっきりと話す。
もう肺に酸素が入ってこない気がする。 血液が流れている気がしない。 頭の中に溜まっている血液が膨張して今にも頭が爆発しそうだ。 これ以上何をどう言えばいいのか。

海風が此之葉の髪の毛を揺らす。 サラサラと音が聞こえてきそうに此之葉の髪が揺れる。 無言の時はそう長くは無かった。

「吾は吾のことを知りたい。 ずっとそう思っていました」 立っていたゼンが言う。

紫揺が頷く。

「ですが・・・」

此之葉が紫揺を見て軽く頷いた。 東の持つ術がかかっていないということなのだろうか。 いずれにせよここからは此之葉がするということなのだろう。

「頭痛がするのですね?」

言ったのは紫揺ではなく此之葉であった。
影が驚いて此之葉を見た。

「頭痛で治まっている間はまだ我慢が出来ましょう。 ですが唱和様のように腹から上がってくる痛みとなってしまっては七転八倒になります」

まさに七転八倒とまではいかないが、腹に何やら異物がありそれが上がってくる気持ちの悪さから吐き気がしたり、少しの痛みを感じていた。 あれがもっと酷くなるということか。

ゼンが思うと同時にケミにも心当たりがある。 高齢の唱和であるから、暴れて痛がるということは無かったが、それでも背中をさすってくれと、今までに言われたことの無いことを言われたことがある。 ケミの身体がピクリと動いた。

「そちらの方、お心当たりがありますか?」

ケミが小さく頷いた。 ダン、ハン、カミが目だけで互いを見合わせる。

「頭痛も腹からの痛みも封じ込めの力が弱まってきている証ですが、だからと言って放っておいて解けるわけではありません。 痛みがあるだけです。 唱和様が施された術です。 その唱和様にかけられた術が解かれました。 これからどんどんと皆様の痛みは激しくなってくるものと思われます。 術を解けば痛みはなくなります」

少しの間を置いてまた続ける。

「我が東の領土五色の紫さまが先程仰いましたように、皆様には帰る場所があります。 帰る家があります。 待っておられる方々がいらっしゃいます。 それがご両親なのかご兄弟なのか、そこまでは知り得ません。
本来のご自分の名を思い出し、ご自分が何をしていたのか、何をしようとしていたのか、家族の名を何と呼んでいたのか。 私はそれを取り戻すお手伝いをいたします。 不安がありましょう。 それは重々に分かっております」

そこで一旦切ると、紫揺に向かって言う。

「ここでは人が多すぎます。 解いたあとに解かれた側の気が散ることになると思います。 それは不要に時間を長引かせるだけになって、ご本人も苦しいでしょう」

解かれた後、解かれたものは走馬灯のように記憶を甦らせる。 その妨げとなると言っている。
唱和が封じ込めを解かれた時のことを紫揺が頭に浮かべた。
解き終えた此之葉が「お座りください」 と言った後に、唱和が長く頭を垂れていた。 その時のことを言っているのだと分かった。

「じゃあ・・・えっと・・・」

屋敷には入りたくない。 どうしたものか。

「紫さま、船の中ではどうでしょう。 我々が外に出ます。 どうだ?」

此之葉を連れて来ていた阿秀が最初は紫揺に向けていた目を此之葉に向けて言う。

「そうしていただけるのが一番良いかと」

「では紫さまもよろしいでしょうか?」

「あ・・・でも、皆さん北の方とは・・・」

顔を合わせたくないんですよね、とはセノギと影たちの前では言えない。

「我々もあの方たちもあの時から時が止まり、また反対に流されてきました。 我々と同じです。 我々は紫さまにお会いできたことで終止符を打つことが出来ましたが、あの方たちはまだ流さたままです。 手を携えられるのであれば我々の我儘など小さなものです」

阿秀の言った言葉は簡単なものではないと思う。

「有難うございます」

紫揺が深々と頭を下げた。 そして頭を上げると会話を聞いていたであろうセノギを見た。

「セノギさん、いいですか? 安心してください、あの船の中には何の仕掛けも何もないですから」

その言い方、何か仕掛けがあるようにしか聞こえない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする