大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

みち  ~道~  第223回

2015年07月28日 15時11分35秒 | 小説
『みち』 目次



『みち』 第1回から第210回までの目次は以下の 『みち』リンクページ からお願いいたします。

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『みち』 ~道~  第223回



毎日、正道からもらった本を読み直し、エネルギーボールを作る練習をしていたが、動物相手の会話はなかなか対象動物がいない故、それほど練習は進まなかった。

そして会社に行かなくなって1ヶ月が過ぎた頃電話が鳴った。 
悠森製作所の社長からであった。 
給料と退職金を振り込んだとの連絡だった。 そして追って、明細や必要書類を送るという事であった。 

電話を切ったが、その手は受話器から離れない。 受話器を持っている自分の手を見たながら思いにふける。

「そういえば今日はお給料日だったんだわ。 あ、健康保険証を返して国民保険と国民年金に切り替えなくちゃいけないわよね。 ・・・そうよね・・・もうここにいる意味が無いのよね・・・そうよね。 お給料の閉め日は過ぎてたんだものね。 6月もあと少しで終わるのよね。 引越しかぁ・・・」 受話器の上に置いていた手をやっと離したかと思った途端、また電話が鳴った。

「キャー! ビックリした」 慌てて受話器をとると

「はーい、暦ちゃんでーす。 琴音が退屈してないかと思ってお電話入れましたー」

「なんだー、暦?」 驚きの真ん中にいた心が安堵する。

「なにぃ? 気を使って電話したのになんだって何よ」 

「ゴメン、ゴメン。 今、会社からの電話を切ったところだったからビックリしちゃったのよ」

「あら? 会社がなんて?」

「お給料と退職金を振り込んだって」

「あら、お金持ちじゃない」

「スズメの涙よ」

「でもそのお金で引越し費用も出るでしょ? いつ引っ越すの?」

「それがまだ何も考えて無くて」

「退職金が入ったってことは会社の席は抜けてるんでしょ?」

「うん。 席はもう無いの」

「じゃあ、チャッチャと引っ越しましょうよ」

「え? 簡単に言わないでよ」

「いずれ引っ越すんならサッサとしちゃった方がいいじゃない。 それとも何か予定とかこっちでしなきゃいけない事とかあるわけ?」

「それは無いけど・・・」

「あーん、もう。 けど、何なのよ」

「全然腹が括れてないと言うか。 考えてなかったから」

「ふーん・・・。 ねっ、明日そっちに行ってもいい?」

「うん。 暇してるからいいわよ」

「じゃあ明日行くからね。 今日は何か予定でもあるの?」

「別に無いわよ」

「それじゃあ 部屋の整理をしておきなさい」

「は?」

「いつでも引越しの準備が進められるように、細かい物なんかを整理しておくのよ、分かった?」

「そんなに急がなくてもいいわよ」

「呑気な事言ってるんじゃないの。 無駄に家賃払っててどうするのよ。 おばさんも帰ってきて欲しいんでしょ?」

「まぁ、そうだけど」

「別にバタバタ始めろなんて言ってないわよ。 少しずつでもいいから始めておくのよ、いい?」

「・・・分かった・・・」

「じゃあ、明日行くからね」 電話を切った。

「まぁね、そう言われれば家賃ももったいないわよね」 受話器を置いた手を離すと今度は和室に置いてあった携帯が鳴った。 

文香からの着信音だ。

「いったい今日は何なの?」 和室に行き携帯に出ると

「文香? どうしたの? 仕事中じゃないの?」

「うん、今 移動中」 

「移動中って、車?」

「そうよ。 なんで?」

「この間から気になってったんだけど運転中に携帯使ったら違反で捕まるわよ」 機械音痴の文香のことだ。 ハンズフリーなんて物は使わないであろう、と踏んでいた。

「あ、なんだ。 そんな事を心配してくれてたの? でも、それは大丈夫よ。 部下が運転してくれてるから」

「あ・・・そうなんだ・・・」 思ってもいない返答だ。

「で、話したい事があるんだけど話し続けていい?」

「あ、ゴメン、ゴメン。 用があって電話をくれたのよね、なに?」

「さっきまで奥様とお話してたのよ」

「あ、遠野奥様?」

「そうそう。 お知り合いがもうそろそろ帰ってこられるみたいって仰ってたから、琴音に伝えておこうと思って」

「そうなんだ。 ありがとう。 正道さんに伝えておく」

「それとね、獣医さんは考えていらっしゃるのかしらって仰ってたわよ」

「どうなのかしら・・・今までそんな話は聞かなかったけど」

「もし、当てがないのなら紹介できるっていう事も仰ってたわよ」

「そうなの? 正道さんに聞いておくわ」

「うん。 雑談の中の一コマだからいつでもいいわよ」

「わかった。 今度行ったときにでも聞いておくわ」

「ねぇ、琴音」

「なに?」

「引越しはいつするの?」

「やだ、文香までその話?」

「それってどういう事? 私以外の誰かも言ってるの?」

「暦おばあちゃん」

「え? なに? おばあちゃん?」

「あ、違う違う。 暦」

「ああ、暦さん? 暦さんも言ってるの?」

「文香の電話の前に暦から電話があって、無駄に家賃を払わないで引越しなさいって。それで細かい物をまとめておきなさいって言われちゃった。 明日来るって言ってたわ」

「そうなの・・・うん、そうね。 遠くになっちゃうのは寂しいけど、薄給の琴音なんだから無駄な家賃は首を絞めるだけよね」

「ハッキリと言ってくれるわね」

「事実でしょ?・・・あ、もう着くわ。 切らなきゃ。 じゃね、また連絡するわ」

「うん、有難う。 正道さんに聞いておくわ」 慌しく携帯を切った。

「引越しねぇ・・・」 切った携帯を眺めがら一人呟いた。 そして腹を括れたわけではないが

「とにかく明日暦に怒られないように、要らない物だけでもまとめておかなきゃ」 ゆっくりと立ち上がり、和室や寝室の押入れや引き出しを開けてみると 片付けられてはいるが必要でない物も沢山ある。

「こうやって見ると無駄な物が多かったのねぇ。 ボールペン、こんなに沢山要らないじゃない。 あーあ、こんなに沢山のCD、もう聞いてないのばっかり。 いつか使うかなってとっておいた紙袋・・・あれもこれも何を後生大事にとってたのかしら。 わぁ、いざ引越しとなるとこんなのも整理しなきゃいけないのよね・・・あ、こんなのが暦にバレたら怒られるだけじゃない。 明日までにソコソコまとめておかなきゃ」

物には寿命がある。 
その物との縁を終えたら、無駄に置いておくのは宜しくない。 
琴音に必要でなくなったのなら琴音にとってのその物との縁が終わったという事。 今度はそれを必要としている人のところに渡し、その物の寿命を全うさせるべきである。 

それにしても、そんなに暦が恐いのだろうか?

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みち  ~道~  第222回

2015年07月24日 15時27分49秒 | 小説
『みち』 目次



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『みち』 ~道~  第222回



翌日ゆっくりな時間に琴音が起きてくると外から母親の声がする。

とは言え、琴音の起きる時間が特別ゆっくりなのではない。 
父親と母親の時間が早朝5時から始まるので琴音の時間が遅く感じられるのだ。

「トイちゃん、ほらこっちにおいで」 その声に誘われて外に出てみると、仔犬と一緒に母親が花に水を撒きながら仔犬に話しかけていたのだ。

「トイちゃんそこは濡れてるわよ」 母親が仔犬の事をトイと呼んでいる。

「トイちゃんに決まったのかしら?」 仔犬に話しかけている母親の元に行き

「お早う。 トイちゃんに決まったの?」 琴音が母親に話しかけた。

「ああ、琴ちゃん。 お早う。 まだ寝てればいいのに」

「目が覚めちゃったの。 トイちゃんで決定なの?」

「だってトイちゃんって呼んだときの反応が凄く元気なんだもの。 トイレみたいなのにねぇ」 それを聞いた琴音がクスッと笑いながら

「トイレには聞こえないわよ」 そう母に言いながらも心の中では、仔犬改めトイをじっと見ながら

(仔犬ちゃんをトイちゃんって呼ぶと元気な反応か・・・これってきっとお父さんやお母さんにしか分からない事よね。 一緒に生活しているから仔犬ちゃんの変化が分かるっていうことだけ? それともこれも正道さんが言う繋がっているってことなのかしら)

「・・・琴ちゃん?」

「あ、なに?」

「何じゃないわよ、何度も呼んでるのに」

「え? そうだった? ごめん。 なに?」

「何ボォっとしてるのって聞いてるの」

「ああ、そういう事。 ・・・お母さんが仔犬ちゃんの様子をよく見てるんだなって考えてたのよ」

「もう、琴ちゃんったら。 いつまでも仔犬ちゃんなんて呼んじゃ駄目でしょ。 トイちゃんが迷っちゃうでしょ」

「はいはい。 それじゃあトイちゃんでいいのね?」

「雪ちゃんって呼んでも振り向いてもくれないから諦めました」

「それじゃ仕方ないわね。 仔犬ちゃ・・・じゃなかった。 トイちゃんお早う」 琴音の足元にじゃれ付いてきたトイを抱き上げ頬ずりをした。

「あらら、アンヨが泥だらけじゃない。 お母さん水撒きが終わったら家に入るんでしょ? 先にトイちゃんと入ってるわよ」

「うん。 足を拭いてあげてね」

「これは拭いただけでは綺麗にならないわね。 洗っておくわ」

「じゃあ、お願いね」 外の水道で足を洗ってバケツにかけてあったトイ用のタオルで足を拭き、部屋に連れて入ると父親が新聞を広げていた

「お父さん お早う」

「お早う」 返事をして顔を上げたかと思うと

「おっ、トイも帰ってきたのか? お帰り、楽しかったか?」 父親が新聞をたたむのを見て 琴音がトイを下ろすとすぐに父親の膝に走っていった。

「お外は楽しかったか?」 父親のデレデレ振りが見て取れる。 母親が外から帰ってきた。

「琴ちゃん、ご飯? パン? どっちがいい?」

「うーん・・・食パンある?」

「あるわよ。 食パンに何はさむ? ハムもレタスもあるわよ」 台所に向かおうとした母を見て

「あ、ハムはいいわ。 自分でするわ」

「いいハムを貰ったのよ。 それを食べない?」

「いらない。 って言うか、ハムを食べられなくなっちゃったから」

「え? 食べられなくなったって?」

「アレルギーが出るようになっちゃったの」

「え? いつから?」 

「1年くらいになるのかしら? 牛肉と豚肉を食べると大変な事になっちゃうからいらない」

「だって、ハムよ。 牛肉でも豚肉でもないじゃない」 それを聞いていた父親が

「お母さん、ハムは豚肉だろう?」

「あら、そうでしたっけ?」

「パンの用意くらい自分でするからいいわよ。 お母さんは座ってて」

「そお? じゃ、トイちゃん遊ぼうかぁ?」

「あーあ、1分1秒も惜しいって感じね」

「なに? 何か言った?」

「仔犬ちゃんは幸せねって言ったの」

「琴ちゃん、トイちゃんでしょ!」

「あ、そうでした」 舌をペロっと出して台所に向かった。


翌日はまだ会社に籍があると言えど、仕事に控えて急いで帰らなくてはいけないわけではない。 
夕方までゆっくりしてマンションに帰った。



マンションに帰ってからは 正道に教えてもらった事の復習を繰り返す日々が続いたが 少し疲れが出たのか

「はぁー・・・上手く進まない、出来ない。 ・・・気持ちを入れ替えた方がいいかしら。 ・・・ちょっとお散歩にでもでようかな。 ・・・万が一にも何かあって会社から電話なんて無いわよね」 梅雨の間の僅かな晴れの日だ。 

留守電をセットして家を出た。

バス通りを目的無く自転車をこぎだした。

「うーん、気持ちいい」 バス通りを外れ、知らない道を走っていくと大きな公園が目に入った。

「あら? こんな所に公園なんてあったのね。 綺麗な公園じゃない」 自転車を降りて公園の中に入る。

「へぇー植木もお花もきちんとしてあるのね。 大人の公園って感じなのかしら?」 隅にほんの少しの遊具があるだけだ。 

公園の中を歩いて花や木を見て回っていた時、どこからともなく琴音の真横を一本の筋を書くように鳥が飛んだ。

「え?」 見ると飛んできた小さな鳥が1メートルほど離れた琴音の視線の高さの木の枝にとまって琴音をじっと見ている。 

目があった。

(貴方はだぁれ?) 心で琴音が聞くと、鳥は黙って琴音をじっと見ているだけだ。

(そうよね・・・答えようが無い質問だったわね) だぁれ? と聞かれて勝手に人が決めた住所や名を名のることも無いであろう。

 (・・・可愛いね) 琴音がそう言うとすかさず鳥が木の枝をピョンと飛んで180度回転した。 

まるで可愛い背中も見る? といった具合に。

(まぁ、綺麗な模様。 素敵な背中ね) すると自慢げな顔で琴音に向き直りまた琴音をじっと見ている。

(あ・・・そんなにじっと見られると恥ずかしいんだけど。 出来ればお話してくれると嬉しいな) すると琴音のその言葉に答えるように、まるで話すようにグッグッグッと鳴きだした。 
いや、話し出した。 

それをずっと聞いていた琴音。 だが、何を言っているのかサッパリ分からない。 

後ろの方で子供の声がしだした。 振り向くとヤンチャ盛りの小学生だ。

(鳥さん、お話ありがとう。 子供にイタズラされちゃいけないから安全な所に帰って) 琴音のその言葉を聞いて鳥は黙ったが飛んで行く様子がない。

(伝わらないのかしら・・・) 伝えられない自分に歯がゆさを覚える。 

(私が向こうに行くね。 だから鳥さんも、もっと上のほうの枝にとまってね) 鳥に背を向け歩き出し、数メートル歩いてから振り返ると鳥はまだじっと琴音を見ていた。

(鳥さんありがとう。 早く高い所に行って) そう言い残してもう一度歩き出しながら何度も振り向くと暫くして鳥は飛び去った。 

見送った鳥の姿は、丸く明るい色のオーラに囲まれた姿だった。 

鳥の姿を見送って近くにあったベンチに座り込んだ。

「はぁー。 今のはなんだったのかしら、単なる偶然? それとも鳥さんは私の言っている事を分かってくれたのかしら・・・でも私は鳥さんのお喋りがぜんぜん分からなかったわ」 青空を見上げて暫く考えるがどうしても鳥のお喋りが理解できそうに無い。 

正面に向きなおして頭を切り替えた。

「もし鳥さんが私の言葉を理解してくれていたのなら 今、特別に集中をしなくても素で出来た所があるのよね。 う~ん、どうなのかしら?」 自分で自分が信じられないようだ。

「・・・自信を持たなきゃよね。 今、私には分からなかったけど鳥さんは私の心を分かってくれた。 うん、そう。 そうよね」 自分で言いきかせるようにいい

「もっと自信を持つためには、練習を重ねなくちゃいけないのよね」 そして周りを見渡すが鳥はもうどこにもいない。 ベンチを立ち子供達のいない側の木の方に歩き出した。 

そして一本の木に手を沿え

(私の声が聞こえますか?) 木と話そうと思ったようだ。

暫く集中してみたが何の返事も返ってこない。

「やっぱり無理よね。 ごめんなさい。 ありがとう」 手を離す。

「う~ん、気持ちのいいお天気。 深く考えないでいましょう・・・構えすぎるといけないわよね」 ベンチへ戻って子供達を眺めだした。

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みち  ~道~  第221回

2015年07月21日 14時58分48秒 | 小説
『みち』 目次



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『みち』 ~道~  第221回



「閉鎖ってどういう事だ?」 その声に反応して母親が寄ってきた。

「簡単に言うと不況に勝てなかったっていう事」

「負債は?」 あまりの唐突な話に新聞が上手くたためない。

「それは全くなし」

「倒産じゃないんだな?」 手が止まった。

「うん。 何処にも迷惑はかけていないわ」 それを聞いて安心したのか、落ち着いてきちんと新聞をたたみ直す。

「でも債務がなくても会社をたたむっていうのは大変な事だぞ。 琴音の仕事も大変だろう。 いつ付けなんだ?」

「対外的には3月の決算でもう閉鎖の形をとってるの。 それで社長が私には閉鎖業務はしなくていいからって、ちょっと前から会社に行ってないの」 

「え? どういうことなの?」 母親が話しに入ってきた。

「私は一応今度のお給料の締め日まで社員なんだけど、閉鎖業務は税理士事務所に任せてあるの。 他の社員は資産の整理でまだ働いてるわ」 

ずっと経理業務をしてきた父親だ。 あっけらかんと話す琴音に物申したいようだ。

「そんな事でいいのか? 経理担当なんだろう? 最後までしないなんて。 経理として一番大切なところじゃないか!」

「うん、私もそう言ったんだけど社長がまだ来て浅い私に閉鎖業務をさせたくないからって、期末業務を最後にするように言われたの」 それを聞いた母親が

「お父さん、社長さんがそんな風に言ってるんだからいいじゃない。 それに琴ちゃんももう行ってないんでしょ?」

「うん」

「まぁ、お父さんが何を言っても始まるもんじゃないがな・・・」 少し語気が荒いが、納得したようだ。

「そうですよ。 琴ちゃんには琴ちゃんの社会があるんですよ」

「そうだな。 ・・・そうか・・・会社をたたむのか。 社長さんも残念だろうなぁ」 

「うん。 何とか出来たらいいんだろうけどね。 この不況じゃね」

「そうだな・・・。 ・・・琴音はこれからどうするつもりなんだ?」

「うん、向こうを引き払ってこっちに来ようかと思ってるんだけど。 どう? いい?」

「まぁ、琴ちゃんが帰ってくるの!? いいも何も無いじゃない。 すぐに引き払ってきなさいよ。 ねぇ、お父さん」 コクリと頷く父親。

「ほら、お給料の締め日も来てないからまだ一応社員だし、ちゃんと全部が終わってからじゃないと。 それから引き払ってくる」

「あら? そうなの? 一日でも早く帰ってくるといいのに。 ねぇ、お父さん」

「ああ、部屋が無いわけじゃないんだから社員でなくなったらいつでも帰ってくるといい」 一人で遊んでいた仔犬がオモチャを咥えて母親の隣に擦り寄ってきた。

「なに? どうしたの? 退屈になっちゃった? それとも一人で寂しくなっちゃった?」 その様子を見て琴音が思い出した。

「あ、そう言えば・・・仔犬ちゃんって名前を変えてみない?」

「どういうこと?」

「今日そんな話になったの。 で、お父さんとお母さんが想う名前を付けるといいって正道さんも仰ってたんだけど、付けたい名前なんてある?」

「考えてもいなかったけど・・・お父さんはどう? 何かあります?」

「・・・おもちゃ・・・」 小さな声で言った。 すかさず琴音が

「おもちゃ!? 仔犬の次はおもちゃ?」

「お父さん、それはまどろっこしいですよ。 ほら、仔犬ちゃんにオモチャで遊ぼうねって言う時に おかしくなっちゃいますよ」

「おもちゃ、オモチャで遊びましょうね。 ってなっちゃうわよね」

「まぁ、そうだけど・・・仔犬の動きってオモチャみたいだろう?」 ボソボソと言うが、付けたい名前を聞かれてすぐに出たという事は、ずっと心に思っていたのかもしれない。

「言われてみればそうだけど・・・お母さんは無いの?」

「女の子だからねぇ。 雪ちゃんとか花ちゃんかなぁ」

「それは有り触れてるだろう。 もっとそこらにない名前にしたいじゃないか」 さっきと打って変わってハッキリと言う。

「そうですか? 可愛らしい名前だと思うんですけどねぇ。 ねぇ、雪ちゃん」 母親の横でオモチャを齧っていた仔犬にそう話しかけたが、仔犬は知らん顔をしてオモチャを齧っているままだ。

「ほら、仔犬も反応しないじゃないか。 おもちゃの方がいいって、賑やかそうでいい名前じゃないか」 すると少し考えた琴音が

「それじゃあ、トイちゃんは?」

「トイ? 何だそれは?」

「オモチャの事を英語でトイって言うの」

「おー、そうだったな。 そうか・・・トイか・・・うん、いいな」

「えー、変な名前。 トイレみたいじゃない。 それに気もきつそうな感じがするじゃない」

「気がきつそうか・・・確かにそうね。 あ、でも今日ね 正道さんが仔犬ちゃんの心の中をちょっと覗いてみたの。 そしたら凄く寂しがり屋みたいなのね。 だから優しそうな名前より名前だけでも勢いがある方がいいんじゃない?」

「うん。 それがいい、それがいい。 そうか仔犬改めトイか」 父親は満足したようだが母親は腑に落ちないようだ。

「仔犬ちゃん変な名前を付けられそうですよ。 トイちゃんだって」 するとオモチャを齧っていた仔犬が立ち上がって ワンワンと吠えクルクルと回り出した。

今まで滅多に吠える事がなかっただけに父親も母親も驚いたが

「ほらお母さん、仔犬も喜んでいるじゃないか」 得たり、と父親が言った。

「喜んでるんじゃないですよ。 そんな名前はイヤだって言ってるんですよ」 母親のそんな言葉に父親は耳を貸すことなく嬉しそうな顔で続けた。

「まさにオモチャみたいな動きだな。 ほらトイ、お父さんの所においで」 まん丸の目をクルクルさせてすぐに父親のところに寄ってきて胡坐をかいている膝の上にあがってきた。

「どうだ? 仔犬じゃなくてトイって名前でいいか?」 仔犬の顎を指でさすりながら聞くと

「雪ちゃん、こっちにおいで」 負けじと母親が呼んだが仔犬は父親の膝から降りる様子がない。

「もう、雪ちゃん!」

「お母さん諦めるんだな」 母親を見ることも無く、余裕で仔犬の顎をさすっている。 

仔犬もそれが心地いいのか目を細めている。

「琴ちゃんのせいよ!」 矛先が琴音に向く。

「えー!? そうなるの? 提案しただけなんだから、ちゃんとお父さんとお母さんで決めてよね」

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みち  ~道~  第220回

2015年07月17日 14時23分23秒 | 小説
『みち』 目次



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『みち』 ~道~  第220回



仔犬を抱いてプレハブに入り正道に聞いてみると、正道が仔犬をじっと見た。 

暫しの時間、琴音が不安そうに仔犬と正道を見る。 すると

「おお・・・そうですか」 仔犬を見ていた正道が言葉を発した。

そして仔犬から目を外し、琴音を見た。

「今、仔犬にとって知らない人が出入りしましたでしょう? それも仔犬は外にいるわけです。 
勢いのある犬ならここで『私の家に誰!?』 と憤慨するんでしょうが仔犬の場合は・・・この仔はそういうところも大人しいんですな。 
・・・と言うより寂しがりやなんですな。 
だからと言って知らない人をすぐに受け入れて懐くわけでは無いようで 知らない人への少々の不安と仲間に入れなかった寂しさ。 
そんな時に琴音さんが仔犬に触れた事への安堵。 色んな気持ちが整理されること無くあるみたいですな」

「そうだったんですか」 正道を見ていた目を仔犬に移した。 

「まだよく分かってあげられなくてごめんね」 仔犬の頭を撫でるとその手に仔犬が目を細める。

「充分ですよ」 正道が一言いった。

「え?」 仔犬を見ていた目がまた正道に移った。

「何かまでは分からなくても、何かの感覚があるとわかったんでしょう? 充分です。 この短期間に充分すぎるくらいです」

「・・・はい」 褒めてもらえた嬉しさと 一日でも早く理解したいと思う複雑な気持ちで返事をするとそれを見透かしたように

「生き急ぐ という言葉をご存知ですか?」

「早くに亡くなっちゃうって事ですか?」

「社会的にはちょっと違いますな。 生き様が性急とでも言いましょうか、限りある命を急いで終えようとするかのように生きる様です。 
性急に、するかのように、であって亡くなるという事ではありません。 社会的にはですよ。 
ですがそれによって無理を重ねるとエネルギー的には宜しくありません。 肉体的にも精神的にも 分かりますか?」

「急ぐ事はエネルギー的に肉体や精神にはよく無いという事ですか?」

「はい、そうです。 今は生きると言う字で『生き急ぐ』と申し上げましたが 生きるではなくて呼吸の息という字で『息急ぐ』これも同じ事です」

「え? そんな漢字を使うって初めて聞きました」

「ははは、誰も使っていないでしょうな。 多分国語辞典にも載っていないと思いますよ」

「あ、そういうことですか・・・『息急ぐ』早く呼吸をするという事ですか?」 

「そうです。 息は急いでする必要がないんです。 息を浅く早くしてしまうとそれだけで漢字の生きるの『生き急ぐ』と同じ事になってしまいます。 
深く長く呼吸をして待つことも必要です。 時は向こうからやって来るんです。 
何も焦る必要は無いんですよ。 その時が来れば出来るようになるんです」

「あ、今の私の状態や気持ちです。 どうしても焦ってしまう気持ちがあります。 いつも正道さんにゆっくりでいいからと仰っていただいてるのに つい・・・」

「ゆっくりというのはなかなか難しい事ですからな。 『息急ぐ』この言葉をいつも頭に入れておいて時々振り返ると宜しいですよ。 
大きく息をしてリラックス。 人が舞台に立つ前に深呼吸をするというのも誰が考えたんでしょうかなぁ。 深く息をして気を整える。 それも同じ事ですな」 ふと、ファイナルさんのときの講演会の事をいっているのかと、正道でも舞台に立つ前には深呼吸をしたのかと邪推してしまった。

「はい。 焦らず待つですね・・・出来るかしら。 ・・・努力します」 苦笑いを正道に向けると

「はい、その程度で宜しいですよ。 焦らないように、焦らないようにと思うことで それも無理がかかるんですからな」

「わ、難しいですね」 その言葉を聞いてワハハと笑う正道だ。

「でも今日は琴音さんのお陰でとてもいいお話を聞かせていただきました」 ミセス遠野のことだ。

「いえ、私では無くて一緒に来ていた友達のお陰です」

「今日はお友達にお礼をきちんと申し上げられませんでしたから 琴音さんからもよくよくお礼を申し上げておいて下さい。 後日私からも申し上げたいので住所か電話番号を教えていただけますか?」 文香はお茶の事があってうっかり名刺を渡すのを忘れていたのだ。

「いえ、私からくれぐれも言っておきます。 正道さんから電話が入るなんて分かるとカチンコチンに固まっちゃうと思います」

「わはは、そうですか? それではお願いいたします。 さて、今日はもうあまり時間がございませんが何を致しましょうかなぁ・・・」



仔犬を連れ帰るために実家へ寄った。 車を停めていると母親が家から出てきた。

「琴ちゃん、お帰り」 運転席を覗き込みそう言うとすぐに助手席に回った。

「ただいま」 車のエンジンを切るとすぐに母親が助手席のドアを開け、座席に置いていたキャリーバッグを開けた。

「ほら、仔犬ちゃん抱っこしようねぇ。 お帰り。 寂しくなかったですかぁ?」 顔を摺り寄せている。

「どれだけデレデレよ・・・」 両手を乗せていたハンドルに尚且つ顎も乗せた。

「何か言った?」

「何にも言ってない」 琴音も車から降りてサッサと先に歩く母親に続いて家の中に入った。

「お帰り」 父親はいつもの様に新聞を読んでいる。

「ただいま。 お父さんよくそれだけ新聞を読んでいられるわねぇ」

「ボケ防止だよ。 お父さんがボケると琴音も困るだろう?」

「まあね」 そう言って鞄を置き座ると

「今日、泊まって帰ろうかな?」 急に琴音が言い出した。

「うん? 珍しいなどうしたんだ?」 父親がそう言うと仔犬と遊んでいた母親が

「あら、そうするといいわよ。 たまにはゆっくりしていきなさいよ」 

「うん。 お茶を入れてくるね」 台所に向かいお茶を入れて戻ってくると父親が机に広げていた新聞を手に持った。 

父親の前に湯呑みを置き

「お母さんお茶が入ったわよ」 仔犬と遊んでいる母親を呼び 母親の湯呑みも置いたがなかなか仔犬から離れる様子がない。

「まっ、いいか。 ・・・お父さん、あのね」

「何だ?」 持っていた新聞の端から顔を覗かせた。

「あのね、実は 会社が閉鎖になったの」 覗かせていた顔が驚いてすぐに新聞を畳みだした。

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みち  ~道~  第219回

2015年07月15日 20時22分16秒 | 小説
『みち』 目次



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『みち』 ~道~  第219回



琴音がすぐに椅子を用意し全員が椅子に座った。 

が、プレハブの中には何もない。 
琴音がお茶の用意をしようとしたが よく考えるといつも正道がお茶を入れてくれていたのだ。 何をどうしていいのか分からない。 

その様子を見ていた正道が

「琴音さん、よろしいですよ。 私がお茶を用意いたしますから」 その言葉を聞いて誰よりも驚いたのが文香だ。

「と、とんでも御座いません。 私がご用意致します。 勝手に触らせていただいて宜しいでしょうか?」

「いえ、いえ。 お客様にそんな事をしていただくわけには・・・」 ここまで言うと奥様が

「正道様、喉も渇いておりませんから何も宜しいですわ。 それより、少しでも沢山お話を致しませんこと?」 琴音と文香への助け舟となった。 

文香も勝手にしようとはしたが何が何処にあるかわからない状態だ。 

すると正道が

「それではお言葉に甘えまして」 椅子に座りなおし

「お知り合いがレスキューをされているとお話を聞いておりますが?」

「私くしの知り合いが直接レスキューをしているわけではございませんの。 そうですわね、お手伝いをしている程度なんですの。 
今は海外旅行に行ってらっしゃいますので そんな時に連絡を取るのも無粋ですから 少しお時間はかかるかもしれませんけれど、その方を通じてレスキューに詳しい方から連絡を取っていただけるように致しますわ。 
正道様が望んでいらっしゃるマネジメントまで出来る方がいらっしゃるかどうかは分かりませんけど・・・探して下さるようにお願いは致しますけど もし見つからなかった時にはそれでも宜しい?」

「何よりもしっかりとした切っ掛けが出来るだけで充分でございます。 嬉しいですなー。 有難う御座います」

「まぁ、正道様にそんな事を仰っていただけるなんて雲の上にいるようですわ。 私くしの方こそ嬉しい限りですわ」

「いえいえ、この事は何も分からない若輩者でお恥ずかしい限りです。 
それにこちらはまだすぐに始める事ができませんから、お急ぎになっていただかなくても結構でございます。 
それとよくご存知の方がマネジメントをして下さるに越した事はないのですが、こちらもずっと人を探しておりましたら とても良い方をご紹介していただいて・・・あ、この方面に関しては素人なのですが 色々勉強していきたいと仰ってくださっておりまして、その方がマネジメントをして下さりそうなんです」

「まぁ、そうなんですの? それをお聞きして少し肩の荷が下りましたわ。 でも、まだ始める事が出来ないと仰るのは?・・・文香さんからは建物からはじめると聞いていましたが、車で入った時に建物を見させていただきましたけれど、もう始められるのではありませんの?」

「いえいえ、建物は大分建ってきてはいるのですが レスキューの方からお話を聞かせていただいて何が必要かをお聞きしてから 色々と揃えていかねばならないところもありますし 何と言っても全てが手探り状態ですから急がず慌てずでしてな」

「ファイナル様のところでお話しをされていた 『必要な時にはそれが来る』ですわね」

「おお、よく覚えて下さって。 あの時にも申しましたが講演なんていうものは生まれて初めてでございまして 何を話していいのやら見当もつきませんでしてな」 恥ずかしそうに頭を掻き そのまま正道と奥様の会話は続いた。

それを後ろで聞いていた琴音が

(ファイナル・・・ファイナル・・・聞き覚えがあるんだけど。 ・・・どこで聞いたのかしら) そう考えていると琴音の隣に座っている文香が小声で話しかけてきた。

「私も奥様にお誘いをうけてたのよ。 その時に行っていればお師匠・・・正道さんの話を聞けてたのよねー。 前日が打ち上げだったからちょっと厳しくて断っちゃってたの」 文香からの耳うちで

「打ち上げの次の日って・・・あ、あの日? 文香がうちに来た日?」

「そう。 あの日に正道さんの講演があったのよ。 ほら、朝も断ったって言ってたでしょ? まさか講演をする人が琴音とこんな関係があるなんて思いもしなかったからね」

「ああ、正道さんが言ってた思いもしなかったお仕事ってその事だったのね。 へぇー正道さんが講演なんてされるのねぇ」

「噂ではそのファイナルさんの・・・あ、ファイナルさんっていうのは 大きな会社なんだけどね、奥様とファイナルさんの社長の奥様がお知り合いなのよ。 そこの営業部長さんだったかしら? その方が正道さんに体調を整えてもらってたらしいの。 それでその流れで依頼したらしいわよ。 ファイナルさんの本社から支社、営業所まで来たからかなりの人数だったはずよ」

「ファイナル・・・営業部長?・・・あ! もしかしたら・・・」 やっと思い出したようだ。

「そのファイナルさんの営業部長さんって何かスポーツをしてるの?」

「えっと・・・何だったっけ? 詳しくは覚えてないけどマリンスポーツみたいよ。 そのマリンスポーツで身体を痛めて病院に通ってるうちに 正道さんの噂を聞いてそれが始まりって聞いたと思うけど」

「うわ、この繋がりって何なの?」 ファイナル社。 悠森製作所での最後の大仕事をした会社だ。 そしてその営業部長が悠森製作所の社長の知り合い。

「なに? どうしたの?」 様子のおかしい琴音を見て文香が聞いたが そう聞かれても今までの色んなことが頭をよぎり 説明するのももう面倒臭くなっていた。

「何でもない」 そっけない返事だ。 

思わぬことに気を入れ直そうと窓から外を見ると 運転手がこちらに歩いてくるのが見えた。 

そのままじっと見ていると 琴音と目が合い運転手は窓の外で会釈をした。 何事かと思い琴音が外に出た。

「どうかされましたか?」 と聞くと

「申し訳ありません。 もうそろそろ次の時間がございまして」 奥様のスケジュールはハードなようだ。

「あ、はい。 遠野様にお伝えします」 プレハブに入ると文香が琴音を見ていた。

すぐに琴音が腕時計を指差す素振りを見せると、その様子を見た文香がコクリと頷いた。

正道と奥様の話の切れ目を伺い、後ろから奥様に伝える。

「お話中申し訳ありません。 奥様、そろそろお時間が」 

「え?」 振り返った奥様の目に一瞬、窓の外の運転手の後姿が映り時計を見た。

「まぁ、もうこんな時間になっていましたのね。 私くしったら一人でベラベラとお恥ずかしいですわ」 琴音と文香が話している間に正道と奥様の話も弾んでいたようだ。

「いえいえ、そんな事はございません。 為になるお話を聞かせて頂いて嬉しゅうございました。 この様なお話はご経験のある方からしか聞けませんから。 有難う御座いました」

「それでは 何か分かりましたらすぐに正道様にご連絡を致しますわ」

「お忙しいのに申し訳ない。 宜しくお願いいたします」

「とんでも御座いません。 少しでもお役に立てるかと思うと私くし、嬉しくって。 今晩あまりに嬉しくって寝られないかもしれませわ」 最初に正道を見たときの興奮が蘇ってくる。

「それでは失礼致します。 文香さん行きましょうか」 

「お気をつけて」 正道が軽く会釈をし琴音は車まで送って行った。

走り去る車を見送り、プレハブに戻ると仔犬と目が合った。

「なに?」 いつもと様子が違うような気がして、しゃがんで仔犬を撫でるとジンと伝わってくる物があった。

「この感覚は何なのかしら・・・」

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みち  ~道~  第218回

2015年07月10日 14時57分59秒 | 小説
『みち』 目次



『みち』 第1回から第210回までの目次は以下の 『みち』リンクページ からお願いいたします。

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『みち』 ~道~  第218回



車の音が聞こえた。 琴音が窓の外を見ると黒塗りの見知らぬ車が入ってきた。 

「文香の車じゃないわ。 それにしても仰々しい車」 ロールスロイスである。

窓際へ歩いて行き、車をじっと見た。

「奥様の車かしら? え? 奥様の車を文香が運転してきたって言うの? それともあの方向音痴がナビゲーターをしたの?」

「どうしました?」 琴音の横に立ち、正道も窓の外を見た。

「約束の時間より随分早いですけど、もしかしたらお話していた友達かもしれません。 ちょっと見てきます」 プレハブを出ると丁度 運転席からスーツ姿の見知らぬ男が出てきた。

「あら? 男の人? っていうことは、文香じゃないのかしら?」 琴音がそう思った瞬間、運転席の後ろから文香が降りてきた。

「あ、文香・・・」 男は運転手のようだ。 

サッと助手席後ろに回りこんで後部座席のドアを開けた。 文香も後部座席から出てくる奥様を迎えるように、すぐに助手席うしろの後部座席へ移動していた。 その様子を見ていた琴音が

「わぁ・・・貴方の知らない世界どころか 私の全っ然知らない世界だわ」 遠目にその姿を見ていると琴音の姿に文香が気付き

「琴音!」 奥様を憚るように、が、少し大きな声で琴音を呼んだ。 

驚いて我に返った琴音が文香の元に走り寄った。

「文香、こちらの方が?」

「ええ」 琴音にそう返事をすると文香が奥様の方を見て

「奥様、織倉琴音さんです」 と、琴音を紹介した。

「初めまして。 まぁ、いいお顔をされていますわね。 あ、失礼。 私くし遠野愛子と申します」

「始めまして、織倉琴音と申します。 今日はお忙しい中、遠い所を有難う御座います。 プレハブなんですがあちらへどうぞ」 琴音を先頭に三人で歩き出すと、奥様が文香に耳打ちをした。

「真っ直ぐでなかなか良い目をしていらっしゃるわね」

「はい、とても怪しむような人間ではございません」

「そうね。 でもそれだけに素直すぎて騙されていらっしゃるかもしれませんからね。 その師匠とかを見なければ判断は出来ませんわ。 もし、この真っ直ぐな目を利用しているようなら懲らしめなくてはなりませんからね」 なかなか手厳しい奥様のようだ。

窓から様子を見ていた正道が出迎えるためにプレハブから出てきた。 

文香とコソコソと話していた目がその姿を捉えた。

「え?」 一際大きな声、奥様の足が止まった。

正道の姿を見た奥様の目が急に変わった。

「奥様どうなさいました?」 半歩下がって歩いていた文香が何事かと奥様を覗き込むようにして尋ねた。 

もしここで何かあっては、身体の具合でも悪くされては・・・一瞬にして仕事が頭をよぎった。 琴音も歩を止め、振り返る。

だが、そんな文香の思いなどどこ吹く風かと言うように

「あの方は・・・正道様じゃございませんこと?」 琴音と文香が驚いて目を見合わせた。 

「あ・・・あの、奥様?」 文香の言葉が聞こえなかったのか正道の元へ走り寄る奥様。

「正道様ですわよね?」 抑えきれない昂揚感。

「はい、正道と申します。 ・・・失礼ですがどこかでお会いしましたでしょうか?」 申し訳なさそうに、記憶を辿るように聞くと

「正道様が私をご存じないのは当然ですわ。 あ! まぁ、私くしったらなんて不躾な、ご挨拶もせずに・・・私くし、遠野愛子と申します。 先日、ファイナル様の講演で正道様の講演を聞かせていただきましたの」

「あ、ああ そうでしたか。 いや、一度お会いした方のお顔は覚えている方なので少しばかり焦りました」

「あの時のお話は素晴らしかったですわ。 それにこうしてまたお会いできるなんて思ってもいませんでしたわ」

「あの・・・奥様?」 今度は後から走ってきた文香の声が耳に入ったようで

「あ、あら 文香さんごめんなさい。 私くしったら興奮してしまって」 少し落ち着いてきたようだ。

「お師匠様をご存知だったんですか?」

「ええ、素晴らしい方よ。 このお話を聞かせて頂いたときに疑いの心を持った自分が恥ずかしいですわ」 その返事を聞き目を輝かせて文香が続けて聞いた。

「それでは このお話は?」 

「ええ、勿論。 こちらからお願いしてでもご協力させていただきますわ」

「有難うございます!」 我が事の様に喜こび、後ろに立っていた琴音を見て 

「琴音やったね!」 と思わず言ってしまった。

「・・・あ、お品のないお言葉でしたわ」 すぐミセス遠野をみて言った。

「文香さんが喜んでくださって嬉しいわ。 それにこんなチャンスを文香さんから頂いて私くしの方こそ感謝ですわ」 その会話を聞いていた正道が

「ここでは何ですから。 どうぞ中に入ってください」 そう言った時に入り口に繋がれキョトンとしている仔犬にやっと気付いた奥様。

「あら? ヨープーちゃんですわね」

「ヨープー?」 正道がキョトンとした。

「ええ、ヨークシャテリアとトイプードルのミックスですわ」

「ミックス?・・・ですか?」 日頃落ち着き払っている正道が驚きを隠せない。

「ええ、昔はスタンダードを混ぜると雑種と言われましたけど、今はミックスと言いますのよ」

「そうですか。 いや、何も知りませんでした。 ミックスですか・・・」 正道の表情を見て奥様がイタズラな目をして

「下手に雑種って言いましたら怒られますわよ」

「そうですか・・・そんな所でも時代は流れていたんですなぁ・・・いやはや、新しい事を始めると色んな所で時代の流れを感じておりまして」 

「私くしもですわ。 正道様の様に何も新しい事をしているわけではございませんけど、最近は特に時の流れが早すぎますわ。 ついて行けない事が多くて嫌になってしまう時があります・・・それなのに、時の流れが早いのに病気の治りが遅いなんて・・・」 先ほどのイタズラな目とは違う。 

飼っている犬の病気がなかなか治らないようだ。 時の流れが早いのなら病気も早く治ればいいのに・・・。 そんな風に思っているのだ。

「奥様?」 何を言っているのかと文香が尋ねた。

「あ、あら、私くしったら、何を言ってるのかしら。 お名前はなんて仰るのかしら?」 奥様の質問に琴音が答える。

「仔犬ちゃんって言います」

「え!? 仔犬ちゃん? 変わったお名前ねぇ」 奥様のその返事を聞いて琴音が説明をすると

「あら、それじゃあ ご両親様がお名前を決められるといいですわよ。 きっとご両親様も想うお名前があるはずですわよ」

「今から名前を変えて覚えてくれるものでしょうか?」

「大丈夫ですわよ。 心をこめてお名前を呼んでいるとワンちゃんも覚えてくれますわよ」 それを聞いていた正道が

「琴音さん、琴音さんには他の方法でも出来るはずでしょ?」

「仔犬ちゃんに話しかけるという事ですか?」

「はい、そうです。 ご両親様にいいお名前を付けてもらうと宜しいですよ。 さ、それでは何もありませんが中にどうぞ」 正道と共に全員がプレハブに入った。

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みち  ~道~  第217回

2015年07月07日 23時46分35秒 | 小説
『みち』 目次



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『みち』 ~道~  第217回



金曜日、携帯が鳴った。 文香からだ。

「文香?」

「あ、琴音? 明日向こうへ行くの? えっと・・・誰だったっけかな・・・お師匠さんのところ」

「お師匠さんって・・・正道さんのところ? 行くわよ」

「良かった。 あのね、急な話で悪いんだけど 明日、例の奥様とそっちに行ってもいいかしら?」

「え!? それってどういう事?」

「今日、奥様と会う機会があってね、それとなく話してみたのよ。 そしたら身を乗り出して聞いてこられたんだけど 何よりもまずはその人達がどんな人か会ってみたいって仰るの。 それによっては協力を惜しまないけど、まずは自分の目で判断したいって・・・かなり厳しい目で見そうな感じで失礼があるかもしれないけど・・・明日、駄目?」

「こんなに早くだなんて思ってもみなかったから まだ正道さんに何も話して無いわ」

「じゃあどうする? 今、奥様に待ってもらってるんだけど」

「え? 今?!」

「そうなの。 ホント、急でゴメン。 でも明日を逃すと奥様もスケジュールが厳しいみたいなの」

「うううん、ちゃんと早く話さなかった私が悪いの・・・ね、今すぐでなきゃ駄目? 正道さんに電話をしてみるわ」

「分かったわ。 そう話しておくから連絡がついたらいつでもいいから携帯に電話してくれる?」

「うん。 正道さんの予定がわからないから何時になるかは分からないけど 出来るだけ早く電話を入れられるようにする」

「OK。 じゃあね」 携帯が切られた。

「えっと・・・正道さんの携帯・・・」 携帯の中のアドレス帳を探しすぐに電話をかけた。 呼び出し音が鳴り

「正道の携帯でございます」 その声は正道ではなかった。

「あ、あの・・・」 てっきり正道が出ると思っていたから焦ってしまったようだ。

「織倉琴音さんですね。 申し訳ありません。 正道は朝、出て行ったんですが、携帯を置き忘れてしまいまして・・・何か御用でしたらお伝えしておきますが」

「あの、急ぎの用が出来ましてご連絡を取りたいんですけど」

「それが慌てて出て行きましたので、行き先を聞いていなかったんです」

「そうですか・・・それではもしご連絡がありましたら、私のほうにご連絡をいただけるようにお伝え願いますか?」

「はい。 そう伝えておきます。 それでは失礼します」 携帯を切った。

「どうしよう・・・正道さんの行く所なんて想像も出来ないわ・・・」 閉じた携帯をじっと見た。

「あ! 更紗さんならご存知かもしれないわ!」 すぐに更紗の携帯に電話を入れた。 

呼び出し音が鳴り更紗が携帯に出た。

「琴音さん?」

「あ、更紗さん。 今ちょっと急いでいて正道さんを探しているんですけど、どこか正道さんの行かれる所に心当たりはありませんか?」

「なんだ、私に連絡じゃなかったの? 寂しいわぁ。 あら? 琴音さんって正道さんの携帯番号知らなかった?」

「知ってるんですけど連絡を入れたら 急いで出て行かれたみたいで、携帯を忘れて行かれたみたいなんです」

「まぁ、正道さんったらそんなに慌てて出て行かれたの? 今、野瀬君と会ってるわよ」

「え? 野瀬さんですか?」

「ええ。 何かマネジメントをしてくださる良い方が見つかったとかっていう話よ」

「そうなんですか。 じゃ、すぐに野瀬さんに連絡を入れてみます」

「そうしてみて。 じゃ、また会いましょうね」

「はい」 更紗との話が終わり、すぐに野瀬の携帯に電話を入れた。

「マネジメントをして下さる方が見つかったっていう事は この話はなかった事になるのかしら・・・」 呼び出し音が鳴っている間に更紗の言葉を思い出していた。

「もしもし、織倉さん?」 野瀬が携帯に出た。

「野瀬さん、もしかして今正道さんとご一緒ですか?」

「え? ・・・え、ええ。 今横にいらっしゃいますよ」

「ああ、良かった」

「どうしたんですか?」

「ちょっと正道さんとお話がしたいんですけど、代わってもらっても大丈夫でしょうか?」

「いいですよ」 そう言って正道に代わった。 

「琴音さん? どうしたんですか?」 

「正道さん、お話中に申し訳ありません。 あの・・・」 琴音が事の状況を話す。

「おお、それは是非ともお願いします」

「さっき更紗さんにお聞きしたんですけど マネジメントをして下さる方が見つかったということですけど、それでも宜しいんですか?」

「ああ、そのことはご心配なく。 詳しい方が居て下さるに越した事はありませんので」

「それじゃあ、明日来ていただくように連絡を取っておきます」

「あ、琴音さん」

「はい?」

「私の携帯にメールだけではなくて電話も入れてくださって結構ですよ。 番号はお教えいたしましたよね?」

「はい、お伺いしてます。 あの・・・もしかして今日携帯を忘れていらっしゃるってお気付きじゃなかったですか?」

「え?」 受話器の向こうですぐに鞄の中を見ている様子が伺える。

「あら、本当ですな。 どうりで今日は携帯が鳴らないと思っていました」

「多分、お弟子さんだと思いますけど、正道さんの携帯に出てくださってお忘れになっていると教えてくださったんです」 

「そうでしたか。 忘れておいて携帯に連絡を入れて下さいだなんてお恥ずかしい」 野瀬の笑い声が聞こえる。 

横で聞いていて話の筋が見えたようだ。

正道との話を済ませすぐに文香の携帯を鳴らした。

「あ、文香? 遅くなってゴメン。 まだ大丈夫だったかしら、明日お願いできる?」

「ギリギリセーフ。 そろそろ奥様のところを出ようと思ってたところ。 それじゃあそうお伝えしておくわ。 詳しい事は今晩連絡入れるわね」

「OK.。 じゃあ、宜しく」



夜になり文香から連絡があった。 時間と場所を打ち合わせたが、文香も琴音に負けず劣らずの方向音痴だ。 

ナビで探せるように住所を教えたが、念を入れて詳しい地図を描いてファックスを送った。




翌日、琴音は早くから正道の元にいた。 勿論仔犬も一緒である。

文香と奥様は遅れてくるのだ。

外では工事の人間が入れ替わり立ち代り外につながれている仔犬をあやしにやって来る気配がしている。

「皆さん本当に仔犬ちゃんが好きなんですね」

「仔犬を拾ってきた基礎工事の方ももういらっしゃらないと言うのに、皆さん入れ替わり立ち代り可愛がってくださって本当に仔犬は幸せです。 元気も取り戻してくれて一安心ですな。 
ですが琴音さんの練習が仔犬だけと言うのも物足りませんなぁ・・・イタズラによそ様の動物を勝手に見ることはいけませんしなぁ・・・」

「私の知り合いに動物を飼っている方はいませんし、それになんて言って説明していいかも分かりません。 何か怪しまれそうって言うか・・・もっと出来ていればいいんですけど この程度で人に話す勇気もありませんし・・・」 この頃には簡単に仔犬のオーラを見ることが出来ていた。

「そうですな。 まだまだ認知度がない世界ですからな。 下手に言って琴音さんがお友達を少なくしてしまってもいけませんしなぁ」 わざと笑いながら言いそして

「野鳥を見る事はありませんか? 野鳥でなくても・・・野良猫でも」

「野良猫はいません・・・野鳥と言えるかどうかは分かりませんが、鳩やスズメなら見ることはあります」

「おお、そうでしたら 鳥を相手に仔犬にしているようにしてごらんなさい」

「鳥にですか?」

「そうです。 仔犬と同じですよ」

「鳥はじっとしてくれませんから出来ますでしょうか?」

「じっとするしないは関係ありませんよ。 それに・・・通じればじっとしてくれますよ。 うん・・・まだ琴音さんには厳しいかもしれませんが、練習と思って何でもやっていきましょう」

「はい」 

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みち  ~道~  第216回

2015年07月03日 15時12分33秒 | 小説
『みち』 目次



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『みち』 ~道~  第216回



「勿論 琴音みたいなそんな事はできないわよ。 ただ、管理センターから引き取って暖かい場所で暮らさせて、病院でちょっとでも良くしてあげてるっていう所が同じかなって・・・」 

「ちょっと待ってよ。 なにその話? そんな人が知り合いにいるの?」

「今日の・・・ほら、さっき言ってた 取引先の奥様で私を気に入ってくださってる奥様なんだけど・・・えっと、前に言ってたのを覚えていないかなぁ? お知り合いでボランティアをされてる方から犬を引き取って・・・えーっと・・・目の見えない犬とかぁ・・・」 ここまで言うと

「あ! お金持ちの家に行ったときの?」

「そう、そう。 覚えてた?」

「言われて思い出したわ。 ちょっと待って、それってそのお知り合いの方がボランティアってレスキューをされてるって事かしら?」

「レスキュー? ・・・う・・・ん・・・分からないわ」

「あのね、正道さんがレスキュー関係の事をよく知っている方を探してらっしゃるのよ。 それでその方にマネジメントをお願いしたいみたいなんだけど」

「マネジメント?」

「うん」

「それは無理だと思うわ。 だって超お金持ちの奥様よ。 その方のお友達って言ったらきっとまた超お金持ちでしょ? マネジメントなんてするわけないと思うわよ」

「あー、そうよね・・・」

「うん。 まっ、すぐには聞けないけど、そんな雰囲気になった時にはチラッと聞いておくわ。 でも期待しないでね。 さっき言った話もあるけど、仕事上は社長と話す機会が多いけど、その奥様だからまたいつお逢いできるか分からないからね」

「うん。 頭の片隅に置いてくれるだけでも嬉しいわ。 それにこっちも正道さんがなんて仰るか分からないからね」

「うん。 あーあ、それにしても琴音は その・・・なんてお名前だったっけ? 女性と知り合ったって言ってたじゃない?」

「更紗さん?」

「あ、そうそう。 その女性。 そんな人と知り合ったり、その正道さん? そんな人とも知り合ったり今までと全然違う道を歩こうとしてるのね」

「正道さんは更紗さんのお知り合いだったのよ。 それで紹介してもらったから更紗さんが切っ掛けなのよ。 別々に知り合ったわけじゃないわよ。 さ、ご馳走様」 フォークを置き両手を合わせた。

「そんな事は関係ないわ。 あーあ、琴音が違う世界に行くみたいだわ」 文香はまだパスタをフォークでクルクル回している。

「何言ってるのよ」

「あ、ほら。 えっと・・・なんて言ったっけ? あーどうしてこんなに忘れるんだろ」 空いた手で頭を抱えている文香を見て

「忘れる、忘れる。 冷蔵庫を開けて何を取りに来たっけ? とかってしょっちゅうよ」

「あー、あるある。 嫌よねー、これって完全にボケてきてるのよね」

「そんなので文香の仕事大丈夫なの?」 琴音がからかって言うと

「それが不思議なのよね。 仕事になるとちゃんと出来るのよね。 1ヶ月後の予定までならスケジュールを見ないでも細かく覚えてるのよ。 それに一度名刺交換をさせていただいたら名前も顔も完璧よ」

「わぁー。 私には有り得ないわ。 全く顔は覚えられないわ。 何度も、あの人誰でしたっけ? って誰かに聞いてるもの。 やっぱりその仕事、文香に向いてるのよ」

「まぁね、楽しいと思えるっていう事は向いてるのかもね」

「で、なに?」 お茶をお替りしようと立ちかけた琴音が聞くと

「何って?」 文香の返事に琴音の動作が止まった。

「やだ、さっき話しが途中になったじゃない」

「あ・・・何の話をしてたっけ?」

「もぅ、本当にそれで仕事できてるの? ・・・で、何の話だったっけ?」 やっと立ち上がりキッチンへ向かい歩いていると後ろから文香の声だ。

「お互い様じゃない」 久しぶりに2人で大きな声で笑った。 



最終日の翌日からは時々、税理士事務所の社員が来ていた。 
会社閉鎖の業務を行いに来ているのだ。 
あくまで琴音は期末業務だけを行っていたが、そうそう仕事があるわけでもない。 殆どの時間は他の社員が行っている現物資産の整理を手伝っていた。



3月の棚卸しから2ヵ月後。 最後の帳端を知らせる領収証が送られてきた。

「・・・これで最後」 領収証をじっと見ている。 そして覚悟を決めたように伝票を書き出した。

全てをまとめ、来ていた税理士事務所の社員に渡した。 そして社長の席に行き

「社長、期末処理が全て終わりました」

「・・・そう。 終わりましたか」 前を見据えていた目が琴音を見て

「ご苦労さんでした」 そう言われて胸にジンと来るものがあったがそれを堪えた。 

そして一呼吸おいた社長が空気を切るように

「それじゃあ、織倉さんは今日までという事で・・・あ、これって嫌味な言い方だね。 
悪い意味で言ったんじゃないですよ。 次の給料の締め日まで来てても何もする事がないでしょ? 今まで有休も無かったから有休だと思って休んでおいて下さい。 
ちゃんとお給料は支払うから気にしないでいいですよ。 
それと退職金も僅かだけど税理士先生から明細が届くようになってますからね」

「有難うございます。 でもお給料の締め日が過ぎたところですから、ちゃんと次の締めの日まではお掃除でもしに来ます。 皆さんのお手伝いも出来ますし」

「いいの、いいの。 今やつらは気持ちの整理がつかないからダラダラとしてるけど、これからはハッパをかけてさせるからすぐに終わってしまうよ。 
それより最後の最後になるけど 本当の最終日には打ち上げだけでもしたいと思ってるんだ。 
まだその最終日をいつにするか予定は立ててないんだけど・・・あ、僕もダラダラとなってるね」 頭をカリカリと掻く姿に琴音が微笑んで返した。

「だから今はいつかはいえないけど、資産整理の具合を見て決めるから 連絡を入れたら織倉さんも来てくれるでしょ? 打ち上げ」

「有難うございます。 是非ご連絡ください。 あの・・・社長、今まで有難うございました」 改めて挨拶をすると社長も席を立ち

「こちらこそ有難う。 不甲斐ない会社で悪かったね。 後の事は税理士先生がやってくれるから何の心配も要らないからね。 給料の締め日までは家でゆっくりしてるといいよ」 その言葉を聞き 「はい」と返事をし

「会長の所へのご挨拶はどうしたら宜しいでしょうか?」 ここの所、身体の具合が良くなく入退院を繰り返していたのだ。 

だがそれを知っているのは社長と琴音だけだった。

「先週また入院したからね。 まぁ、またすぐに出て来るんだろうけど、病院に入ってることだから会長の所はいいよ。 他のやつらも行かないだろうし、僕が最後に全員の分をまとめて挨拶しておくから」

「はい。 ではお願いします」 また一礼して席に着いた。 

席に戻ると机の中に入れてあった私物の整理をし、終業1時間前からは全従業員に挨拶をして回った。 
みんなが別れを惜しむ言葉をかけてくれる事への感謝をしながら涙を堪えた。



マンションに帰り一息つきテレビを点けると

『母の日も終わり次は父の日。 梅雨もやってきますね。 そうなるともうすぐ紫陽花の季節になりますよねー。 
という事でまだ全然開いていませんが見てくださいこの紫陽花畑、広いでしょう。 開花時期になると綺麗なんでしょうねー』 そんな言葉が流れてきた。

「もう5月も終わりね」 5月も終わろうとする頃、琴音の悠森製作所での仕事が終わったのだ。

「でも1ヶ月近くも毎日ボオっとしてるのも如何なものよね」 引越しの予定でも立てればどうだい?

「そうだわ、最近 理香ちゃんと全然連絡を取ってなかったわ。 どうしてるかしら」 あっそう。

「えっと・・・理香ちゃん、理香ちゃん」 メールを打ち始めた。

『もし時間があったら久しぶりに逢わない?』 少しすると理香から返信があった。

『先輩ゴメンナサイ。 当分無理っぽいです。 でもメールならいつでもOKですよ♪』

「理香ちゃん忙しいのね。 残念・・・」

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