生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

思考と感情と行動:自分の行動の特色とは?:その2:第5章:幸福な日々の為の自問自答集

2014年03月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
いくら「生き甲斐の心理学」を勉強しましても、自分の行動の特徴と傾向はなかなか意識化しにくいものです。その理由は人というものは、居心地の良い生き方を当然のように選択して生きているからで、その居心地の良さが大切な人間関係の中で、相手に不快な想いをさせ、手痛く攻撃されない限り、気づくわけがないからです。こう言う私も、居心地の良い仲間としか生きようとは思いませんし、不愉快な思いをする人とは付き合う必要もないし、嫌ですので、敢えて嫌な場所や嫌いな人と交際しませんん。さて、旅をします。或場所に立ちますと、何とも不気味なのです。昨年、NPO法人の仲間、賛助会員の皆様と素晴らしい奈良飛鳥の旅を楽しみました。畝傍山で早朝、太極拳をしましたが、その古い神社の端の林で太極拳を演舞しようとしますと、或人が不気味がりました。しかし、私は敢えて、その不気味な場所で太極拳を演舞しましたが、丁度、太陽が昇り始めます。或技をする際、右足を遠くに置くのですが、ふと、蛇が悠然と横切っていくのです、タイミングを少しずらし蛇を跨ぐようにして技を続けます。蛇は私に噛みつくわけでもなく、流れるように動いていました。この時の私の不気味さ、かまれてもいいや、という私の気持ち、太陽の光、その何とも言えない雰囲気から私が感じた心境はまさに「なるがままに生きる悔いの無い人生」でした。むしろ、私の人生の汚れを、その蛇にかまれて、懺悔したい心境が存在したようです。こんな素晴らしい仲間と居るときに、死んだら、案外、幸せかも、とか、今から想うに、そんな心もあったような、なかったような。旅の仲間が見守る中で、たかが蛇一匹の出現で、太極拳の演舞を中止する事による心の乱れを恐れた「私」を讃えた自分に驚いています。見栄でもなく、勇気とも関係がなく、むしろ現れた蛇はマムシではない、毒蛇ではないという識別が存在していたにしろ、大自然と共に悠然と太極拳を演舞したい自分を本当に幸福だ、と感じていたことが、その朝の太極拳でした。人から見ると蛇を跨いでの演舞は異常かもしれませんが「この行動の傾向」が私の人生で、しばしば垣間見られる場面です。「自分の信じる道を一人でも歩いていく傾向」が私にはあるようです。寂しがり屋のくせには、そんな自分が良いのか、悪いのか、わかりませんが、とにかく、こういう場面は私の生育史には、しばしば存在しています。これでいいのか、今でも良くわかりませんが、どうも、これで良い、と考えているようです。旅先でのフィーリングは無理のない反省をさせてくれるようです。

<自分は何処へ旅しているのだろうか?:227>

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