薬師寺を想う詩人、歌人は多い、その中の一人・佐々木信綱:逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲:この歌が私は大好きです。さて今の薬師寺は藤原京から平城京に都を移築されたものですが今に残る東塔の美しさは人の心に暖かいものを投げかけるようです。薬師三尊、聖観音は有名ですが、池の中にある仏足石を拝むと悪行の数々が許される伝説もあり、神社仏閣に伝わる伝説はとても楽しいものです。このお寺は持統天皇(当時の鵜野皇后)の病気回復を願う天武天皇の建立と言われていますが、その背景はとても面白く天武天皇の命日10月10日は今の僧侶達は天武天皇、持統天皇、その息子草壁ではなく大津皇子の3人を弔うすです。伝説によると持統天皇が謀殺した大津皇子の怨霊を恐れ、息子の草壁ではなく、姉の子供を自分が殺めた良心の呵責を補うかのようなかたちになつた歴史が刺激的です。仏足石が今も存在し、悪行の許しを願う人々が池の中の現場に密かに訪れるのも人間らしい風景です。
現場に立つと体感と五感で感じるものが必ずあります。子供から高齢者まで、その道の歴史学者でも素人でも、どんな精神状態な人、健全でも心の病があっても、本人がふーん、と思うような、ささいな感情には、どんなものにでも深い意味があります。比較文化・比較宗教学の基本に基づいた心理療法を研究していきますと、その小さいと思われるインスピレーション、直感、想い、気分には深い意味があることが段々と分かってきます。私が唐招提寺を訪れあちこち歩いている内に、冷遇されているにも関わらず、その日々に大きな意味を見出し、錯乱することもなく10年を某大学病院で経過した人生体験を思い出しました。さて西暦759年(天平宝字3年)唐招提寺を建立された唐の帰化僧・鑑真さんも色々本を読みますと自分を招いた長屋王は既に謀殺されていて藤原氏が天下をとり、既得権益を所持する興福寺の人々に虐められ、何となく冷遇されている自分を意識していても、故郷・唐に帰る気持ちもなく、日本の為に生涯を送ります。何とも偉大な鑑真です。自分の存在の意味を自分で明確に意識化出来た人々は冷遇されていても、自分の日々の存在に大きな意味を自覚し、その道の中に深く大きな生き甲斐を感じて生き抜いていきます。自分の存在の意味を自覚出来れば、人はどんな環境の中でも、生き抜く元気と勇気と喜びがありますが、自分の存在の意味を見失うと人は破壊していきます。時々、人生を立ち止まり存在の意味を意識化してみましょう。人の身体は神の神殿と言われ、人間には全て存在の意味があります。その意味を知り明るく元気にいきぬいていきましょう。井上靖の小説「天平の甍」を是非、お読みください。鑑真の人生から大きな勇気と知恵がいただけます。
金峯山寺、 これまた面白い歴史を持つ山寺です。きんぷせんじ、と読みますが修験道の根本道場です。修験道は日本人のアイデンティティに大きな影響を与えています。日本は古来から山を神聖なものとしてとらえて生きてきました。仏教や儒教が日本に入ってきますが、どうも満足出来ない信仰の領域がありました。持統天皇の時代に役小角(えんのおずぬ)という修験道の開祖がいます。山岳宗教の完成者というか中興の祖、というか不思議な人物です。699年に弟子の広足が世を惑わす妖怪な人物という事で訴えたので小角は伊豆に流罪されます。この役小角は非常に面白い人物で映画、小説で大活躍ですが、もともと神聖な山であった吉野を更に修験道の根本道場として、この吉野金峰山寺は今でも信仰の大事な対象となるお寺です。大分前ですが、このお寺を6月頃、NPO法人の事業として学友と訪問しました。日本文化の中では山は神聖なもの、不安感等のストレス曲線を癒す重要な存在ですので、この吉野は私達にはとても重要な意味を持ちます。汚れと禊、この問題では富士山信仰と共に重要な場所です。
この吉野宮滝遺跡は語り出したら何冊もの本になりますが、私は持統天皇が何故、この吉野をしばしば訪ねたのか、想像すると胸がどきどきしだしますので、途中で空想を止めてしまいます。時間がいくらありましても空想が途絶えないからです。松本清張さんの有名な小説「火の路」にも登場しますが、この吉野は源義経と静御前の話にも、徳川家康の歴史にも、まあ、とにかく沢山登場する山道があります。吉野は日本の歴史に実に沢山の夢と刺激を与えていますが、今回は持統天皇の吉野宮に想いをはせましょう。どんな自然環境か今のところ、写真でしか見ていませんが、さてこの吉野に持統天皇は日本書紀の記録によると夫である天武天皇が死亡した686年以降、つまり692年、47才のころから訪問しだし55才までの8年間、異常なほどに吉野を訪ねています。これはただごとではありません。信仰上の問題か、生命にかかわる問題か、どちらも含む問題なのか、面白い研究課題です。人は幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感)を求めて生きるように設計されていますので、この辺りから空想を逞しくして思索すると真実が見えてくるようです。吉野に行く必要があったから、あの困難な山道を30回以上も訪ねたのです。必要性とは何でしょう?
持統天皇の人生は戦いの歴史でもありました。普通ならもう嫌になり全てを投げ出す環境なのですが、サッチャー首相が鉄の女と呼ばれたように、持統天皇もまさに鉄の女でした。この生き抜く意欲は何だと思いますか?実に逞しいもので、時代を超えて教えられます。ストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱)を乗り越えていく逞しさを学びましょう。それを支えたものは善悪を超えて考える必用がありますが、何らかの夢,願い、想いです。どの時代も燃えるような願望が一人の人間を燃え立たせ生き抜く力を与えます。どの歴史書を見ましても藤原不比等と持統天皇の関係は面白く、そこに存在するかけひきは実に物凄いものがあります。藤原氏は新参者ですので在来の豪族(物部氏系、蘇我系など)は周囲を固めている中で、やっとつかんだ天皇一族に必死でもたれかかり利用しようと燃えた一族が藤原氏です。さて姉の息子で文武両道の達人、かつ周囲から愛さていた大津皇子を謀略的に殺戮した持統天皇は、以来、周囲の反発を受けて、どうも明日香に住んでいられなくなり、岡寺に住んだり、藤原不比等の御屋敷に住んだという学者もいますが、明日香に住んでいられない理由は周囲に敵が多く危険だからなようです。吉野を訪問した事実は歴史学の事実ですが、吉野からどこに戻ったか、誰も知りません。大化の改新の年に生まれ、57才で死亡しますが、姉の息子を謀殺したのが41才の頃です。吉野宮(吉野宮滝遺跡を参照)にしばしば(30回以上:これは歴史上の不可解な研究事項)訪ねています。皆様は何故だと思いますか?この吉野訪問も生き延びていく為の手法のようです。藤原宮という壮大な都を造ったのが52才。死ぬ前5年のことです。天皇最初の火葬を学者が毒殺とかの色々の学説がありますが、私は分かりませんが、凄まじいい生き抜きの姿には敬意を表します。
中臣鎌足はもともとは百済の皇子様で日本に亡命してきている人、という噂も楽しいお話・伝説の一つですが、縄文時代から在来の人々を追いやって滅ぼし、その上に権力を樹立し、日本をを支配していく藤原氏の歴史上の事実は誰も否定できません。一人の人間が一つの志をたて、その機会をうかがうのは人間の自由ですし、その結果が人類の歴史ですので、談山神社のお話は目くじらを立てないで楽しみましょう。或一人の男が機会を狙っています。当時の有力な人に目をつけていて、その人に近づきたいのです。法興寺での蹴鞠の席で、この機会が到来します。中大兄皇子が蹴鞠で靴をすっとばします、それを鎌足がひろい皇子にささげ、これを契機に仲良くなっていき大化の改新が起きるのですが、その秘密の計画を練ったと言われている場所が多武峰(とうのみね)の談山神社でした。歴史を変える密談の場所というわけです。密談をする場所の選定を誤ると逮捕されたり殺戮されますので密談の場所を選定する知恵も、その人が生き残る知恵の一つというわけです。こうして、藤原氏の1000年にわたる政治力がうまれた次第。藤原氏のエネルギーと知恵は、どうも縄文時代から住む人々とは相当違っていたようです。しかし、混合して生まれてきた現代の日本のアイデンティティはこうした歴史から生まれてきているのです。
歴史上の解釈は、どうか皆さまが自由に楽しんで下さいませ。私が何故、持統天皇に心が癒されたのかを意識化してみます。女性は豊饒の源、命の母でもあり、私は母の愛情に今、どれだけ心から感謝しているか言葉になりません。もちろん冷静な父にも感謝していますが、ここでは持統天皇について思索をしているのでマザコンかなあ、等と考えないで下さい。持統天皇は夫が死ぬと藤原不比等に操られたかのような言動もありますが、この二人の間には古代の、縄文時代のやまとびと、と百済からの帰化人でもある藤原氏の戦いがあります。藤原不比等は大化の改新の時、成功した中臣鎌足の子供なので、壬申の乱の時は姿を隠していたわけですが、何故か、天武天皇に大事にされている所が不思議な歴史です。蘇我氏でもある持統天皇、その蘇我氏の敵である藤原不比等、この微妙な関係を考えながら平安時代に突入していかないと歴史は面白くありません。源氏物語、平家物語、いずれもこの持統天皇と藤原不比等の力のバランスを楽しまないと歴史に深い味わいが出てきないのです。さて持統天皇は混乱を正した女帝です。何故だと思いますか?後に続く元明天皇、聖武天皇、孝謙天皇、道鏡の話、東大寺の誕生、宇佐神宮との複雑な歴史、そんな絡み合いの中で占める持統天皇の存在は何とも大きな存在です。こうして女帝は日本の歴史の混乱をすーっと現れては消えていきますが、何とも大きな女帝の存在を現代でも考えておいたほうが良さそうです。女性と母性は戦争を好む男性に警告を与える点があり、やまとの歴史を思索する時は是非、女帝の和歌も併読しつつ思索を楽しみましょう。
初代神武天皇からの126代目の今上天皇の内、女帝が8人おられます。邪馬台国の卑弥呼と台与を入れると10名ということになります。あなたは女帝はお好きですか?私は日本の歴史に8名の女帝がおられるので解釈が豊かになりとても楽しくてたまりません。さて明日香を舞台に毒殺、陰謀が飛び交う時代になりますが、私達の勉強仲間では持統天皇のケースレポートを書く課題があり、日本人のアイデンティティを思索するにはこの女帝を調べないと現代の日本人の悩みを上手に解決出来ない領域があるのです。古事記、日本書紀、万葉集はこの女帝の頃ですが、勉強するほど、この女帝は面白い意味を日本歴史に与えているのです。火葬にされた最初の天皇でもあり、壬申の乱に夫・天武天皇にぴたりと寄り添い吉野の山中を巡り、まるで妻というよりは政治の同志、戦いの同志のような鉄の女振りなのです。現代にまで、天武天皇・持統天皇の御陵があり、そこを尋ねますと何かを感じます。ご存じのように天皇の御陵は江戸幕府が慌てて治定しているので、学者は本物の御陵は殆どない、とまで断言している中で、この天武天皇・持統天皇の御陵は本物ですので、そこに立つと何かを感じます。昔、イギリスの大学研究室にいた頃、アフリカの原始宗教の研究をするオックスフォード大学の学者が、どのようにして資料のない原始宗教を研究するのか、その手法が興味津々でしたが、基本研究の姿勢はさすがでした。現代に生きていて、かつ、日々の生活に影響を与える現地アフリカの人々の考え方に注目し、伝説と習慣を大事にしつつ、精神文化に迫るのです。それに比べれば日本の古代の研究はまだまだ恵まれています。各地の風土記もあり、真実云々と言う問題もありますが、古事記、日本書紀、万葉集があるのです。素晴らしい国です。こうして私達は日本人のアイデンティティに迫り、日本人の生き甲斐を研究しています。現代に生きる皆さま方の悩み、不安感をいとも簡単に解決する手法の一つが、この日本人のアイデンティティとは何か、を思索する事なのです。
[世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵は今日の瀬となる]
首題の歌は古今和歌集からのものですが、飛鳥の歴史が私達人間の栄枯盛衰、万物流転、その「もののあわれ」を語りだしています。もののあわれ。この美意識は私達日本人を幸せにしたり不幸にしたりしていますが、もののあわれをキチンと意識化しないと、時々人の生命を簡単に奪ってしまいます。美の世界に魂を導入したり、自死させたりする思想でもあります。甘えの構造、汚れと禊、もののあわれ、この3つは確実に古代日本人を支配した思想ですし、現代にも確実に遺伝されている思想でもあります。首題の和歌を皆さまはどう感じますか?この和歌の中に日本人のアイデンティティーの主要概念がありますので、まずは鑑賞しておいて下さいませ。この和歌が現代人の私達に何を感じさせるか?現代の私達の生育史により、解釈がどう変化していくか、この違いを楽しみながら思索していくと自己肯定・他者肯定の共存共栄の愛の思想に連携していきます。
人類誕生以来、色々の不安感や怒り等のストレスが蓄積されていくプロセスは想像がつきますが、ここ明日香に何故、日本最初のお寺・飛鳥寺・が誕生したのでしょう?明日香には帰化人が沢山住んでいました。以前は物部氏が権力を握っていましたが、蘇我氏が戦で権力をもぎ取ります。そして飛鳥寺が日本最初のお寺として歴史に登場します。物部氏と蘇我氏の戦いの弔いが飛鳥寺なのでしょうか?今の戦争とは規模が違いますが、当時の日本は案外平和でした。縄文時代は山岳宗教が大事にされ、平和を愛し、出雲に地方各地の豪族の長が集まり、そしてまた、地方に戻る生活が数千年継続されていたようです。帰化人は高い知識と技術を伝えてきましたが、激しい戦いの技術も日本に入りだします。明日香は歴史に残る血なまぐさい一ページ(大化の改新)のさきがけとなりました。この明日香には万葉集で活躍する沢山の歌人が住んでいます。懐かしい平和を回想する和歌、そして厳しい政治と権力闘争の始まりです。私達の祖父母が、どう生き抜き、今日の私の命を残したか、これから日本人のアイデンティティーがどう形成されてきたかを思索していきましょう。この頃は既に「甘えの構造」と「汚れと禊」の思想があり、現代の私達の性格形成にも大きな影響を与えています。何故でしょう?
私達の祖先、祖父母たちが何かに目覚め「さあ、いよいよ」とうごめきだしたのが「大化の改新」だ、と私は考えています。奈良時代の総人口は約600万人といわれています。現代にいたる長い長い戦乱の中で、当時の庶民は殆ど滅び、現代まで生き延びた大和人は「源平藤橘」の流れだと言われていますので、まさか、と思われるかもしれませんが、現代人の祖先はこの4つの流れに関係しているらしいのです。2のX乗が、私達一人一人の祖父母たちの総累計数です、例えば2の一乗は2、つまり両親の数・2です。2の2乗は4、つまり祖父母の数、このように2の45乗は、と計算していくのです。学者は1世代30年で計算していますが、大化の改新は645年、現代2013年、2013-645=1368年、これを30で割ると45代前の直系の祖父母の誰かがその頃、生きているわけです。どんな人生をおくっていたのでしょうね?空想すると楽しくてたまりません。大化の改新が始まった頃は、私の祖先は案外、日本人でなくロシア人かも、あるいは南洋に住んでいた人かもしれません。気になる方はDNA,ミトコンドリアを調べると、系統図は分かります。とにかく日本ではいよいよ歴史らしい歴史がいよいよ開始されたわけです。明日香地方はどうだったのでしょう?大化の改新はここアスカに勢力を伸ばしていた蘇我氏が滅ばされていきますが、そう一筋縄ではいきません。明治まで勢力を保持した藤原氏がここアスカで昔からの勢力を少しずつ滅ぼしていく、その権力闘争の歴史がいよいよアスカで始まります。そのアスカが現代の私が旅をする時、あーあ、心のふるさとにきたなあ、と何故感じるのでしょうか・私が変なのでしょうか?この飛鳥時代から現代にかけて、どんな精神構造が作り上げられ変化していくのでしょうか?長い長い旅が始まります。日本人のアイデンティティーが形成されていく過程を思索します。
アスカという言葉はミソギという意味があると聞いた事があります。何故、その意味があるか、という定説は全くないようですが、どなたかご存じでしたら是非、教えていただきたいのですが、私がアスカを旅する時、必ず私の心はすがすがしくなるのが昔から不思議でした。10万年程前は確実に奈良盆地は大きな湖で、畝傍山、耳成山、香久山が小さな島として存在していたようです。古代に日本人は山は聖なる山で、水も清めの意味があり、水に対する信仰は富士山と同様でした。こんな文化からアスカと禊は深い関係があり、そこを旅する私が何となく清々しい気分になるのではないか、と推察しています。明日香は聖なる大地のようです。
土地の人々は明日香、と呼んでいるようですが、私としては何となく飛鳥、のほうがなじみ深い気がします。飛鳥は何とも魅力的な土地ですが、飛鳥と書いて何故に「アスカ」と呼ぶのか、不思議です。調べると実に色々の事が書かれていて困ります。しかし、私が大好きな解釈は古代人が鳥が飛び立つ瞬間に、「アッー」と思ったので明日香の枕詞として「飛鳥」となった、というお話が大好きです。暫く飛鳥寺の話に移る前に、この土地の話を楽しんで下さい。明日香を旅しますと、ほぼどんな人でもストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱)が激減していくのは何故でしょう?「飛鳥」という言葉の解釈の中に「禊:ミソギ」の意味があります。「言葉」は「言魂」に通じますが、この飛鳥について暫く思索していきます。
大和三山に囲まれて誕生した藤原宮は持統天皇の時代ですが、色々の本を読む内に、どうもラクダも居たようです。どんな想いで当時の人々がラクダの姿をみていたのでしょう?国際都市でもあったようで夢がどんどん拡がります。昭和の初め、発掘調査中、ラクダの臼歯が見つかり話題をさらったそうです。色々問題が出てきて、わずか16年で平城京に移っていきますがこの持統天皇の頃は日本人のアイデンティティーが形成されていく重要な時代でもあります。もののあわれ、汚れと禊、の意識は今日の日本人の大事な性格の一つですが、万葉集、古事記、日本書紀を勉強すると、いかに日本にとり大事な時代かわかります。万葉集は心理療法でも時として応用使用される本ですが、現代に生きる私達は飛鳥奈良時代を心のふるさととして眺めると厳しい今の時代に生きる日本人の心に非常に豊かにしてくれます。副作用と伴う薬や恐ろしい治療が古典に親しむことで、どれほど簡単に解消されているかを認識して欲しいものです。
万葉集に出てくる有名な長歌ですが首題の3人が争う長歌で、この歌を詠んだのは中大兄皇子です。「香具山は 畝火を愛しと 耳梨と 相争いき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせもも 嬬を 争うらしき(巻一) 」この妻争いが原因で壬申の乱が、という学者もいるくらいです。さて、この中大兄皇子も、アボノオオカミを十分認識していたようですし、古代の人々はアボノオオカミについては庶民にいたるまで常識だったようです。現代の小学生でもこの大和三山の神聖さをしっていますが、ギリシャ神話での神々の愛や争いの事例のおかげで、どれだけ多くの人類が「自分は変だ」と発病していくのを防げた事か!愛の孤独感の苦しい心の世界で、益々、孤独感にさいなまれ、発病していく人類は後を絶ちません。病理論の勉強も大事なのですが数千年繰り返している類似事例を神話の中や奈良京都を訪問して知る神社仏閣での社伝を素直に耳傾けると難しい病理論も簡単に不要となるケースがあります。汚れと禊の思想は日本人をとても短時間の間に悩みから解放させてくれます。