こころの羅針盤

私の人生に待ちうける“感情”という名の大海原・・・こころの羅針盤に航路を求め、日々の感情生活と心の世界を語ります。

解釈の奥にあるもの

2012年02月06日 | 第3章:無意識の世界
若い友人が語る中で、はじめての彼女の独特の解釈に触れました。
聴きながら、なんとも釈然としない、おちつかない気持ちになったのは、
自分とはあまりに違う解釈の傾向に混乱してしまったせいでしょう。
同時に、その若い友人と同じ解釈をするだろう古い友人のことを思い出して、
それがいっそう、私を落ち着かなくさせたような気もします。

その解釈はもったいない。それでは大事なものを見落としてしまう。
でも今はそのように感じても、時を経れば変化するだろう。
彼女はもったいないままでは終わらない…そんなことを考えられるのも、
彼女は今の試練を乗り越える力をもっている。私が若い人の内に、
時を経て現れてくるだろう確かな力の存在を見ているからです。

古い友人の解釈の傾向は以前から、なんとなく知っていました。
なんとなく知りながら、その解釈の奥にある心に触れるまでには至らなかった。
若い人の話を聴きながら、今日はじめてそのことに思い至りました。

解釈の傾向は生育史が大きく関わっています。
大きな影響があるけれど、生育史の影響を超えて、
生育史の解釈の傾向を乗り越えて、自らを幸せに導く解釈を掴んでゆくのが、
人生を生きる一つの意味ではないかと、私は考えています。

若い人は試練の只中におかれていますが、挑み甲斐のある試練です。
解釈の傾向の奥にある心に触れながら、私もまた、若い人と共に
人生で出遭う大小さまざまな試練を乗り越えてゆきたい。

それが古き友人の願いでもあると思うのです。

あなたとわたしの関係が進化するとき

2012年01月25日 | 第4章:愛とゆるし
山の日常生活にたいした変化はないといっても、考えてみれば、
日常生活を支えている心と体の方は、この一年で激変しました。

こころの変化は、この一年のこころの環境の変化によります。
姉が突然逝ってしまって、母が体調を崩し病床につき、
一人っ子だった姪は伴侶を得て、新しい世界へと旅立ちました。

この一年、それぞれが崖っぷちの感情体験に右往左往しながらも、
なんとか乗り切って得たものは、姉とわたし、母とわたし、姪とわたしと、
それぞれの間の“あなたとわたしの進化した関係”といえると思います。

こころで為される相手との対話は、一年前とは大きく変化しました。

新たな関係性は新たな感情生活をもたらし、新たな緊張感を生み出しますが、
折々の緊張感/ストレス曲線に自分らしく対処しながら、
あなたとわたしの関係を深めてゆく喜びもあります。
これは関係が変化しなければ、体験しえなかった喜びです。

山の日常。考えてみれば為していることは例年と同じでも、
行為を支えている私自身は大きく変化したのでした。
もし変化/進化がなければ、ストーブの薪割を一手に引き受けるなど、
とてもできなかっただろうと思います。

自分にとって何がいちばん大事なのか。人生で大切なものは何か。
それぞれが真剣に問いかけるとき、あなたとわたしの関係もまた進化するように思います。
関係性の深まりと共に、山の日常の感情生活も進化を遂げているということかもしれません。

焦って行動する前に…

2012年01月21日 | 第4章:愛とゆるし
気持ちがうまく伝わっていない。
自分では、きちんとを表現しているつもりでも、
伝わってほしいようには、伝わっていないらしいと気付くとき。
相手の中に否定的な心情を読み取ったりすると、どきどきと落ち着かなくなります。

伝わっていない状況を推察しつつ、相手に解るように伝達しなければと焦って、
釈明する方法を考えたくなりますが、行動する前に、
伝わらないことからくる落ち着かなさ、不安感に留まることも必要かもしれません。

もし、わたしがきちんと表現しているのなら、
わたしと相手の関係性の中で、現状を踏まえ考え抜いて
気持ちを表現して伝える努力をしていると思えるならば、
しばらく間を置いて、事の展開を見守る勇気を持ちたいと思うのです。

相手も相手自身の折々の思考と感情の中で、こちらの行動を解釈しているわけで、
たまたまそのように映っている−私の行動に対する否定的な解釈−も、
何かの拍子に“そういうことだったのか…”と、解釈をあらため、
わたしが相手に伝えたかったように、そのように伝わる展開がくるかもしれません。

焦った不安感から行動を起こすと、何もよいことはありません。
これは私にとって他者肯定・自己否定の傾向がでやすい場面です。
わたしがきちんと表現しているのなら、この自己信頼のもと、
事の展開を見極め、必要なら行動に移してゆく。

少々気になりますが、不安感を受容しつつ現状に留まってみようと決めました。

ピラミッドの安定感

2012年01月19日 | 第2章:五感と体感
昨秋以降、pcの前に座る時間と読書が極端に減りました。
視力が衰えて疲れやすくなったことがいちばんの理由ですが、
pcと読書にとってかわったものは何だろう?
浮いた時間の使い道として思いつくのは、
薪割りと気功ぐらいのもので、生活全般に大きな変化はありません。

でも以前より、こころの環境の安定感が増したと感じています。
頭より体、大脳より、身体感覚に拠る時間が増えたせいでしょうか。

そういえば、眠る前にFMラジオを聴くようになったのは、
これも気功によるところが大きいのかな…と書いているうちに思いました。
洋楽の緩やかな旋律が、身体にしみこんでくる感じが心地よくて、
眠る前の楽しみの一つになっていますが、
音があったら眠れなかった以前には、考えられなかったことです。

現代人は気が上半身にいきすぎているけれど、気は本来、
下半身に集まるのがバランスのよい在り方なのだと、
愛読している気功の本に書かれていたのを思い出します。

「このポーズを続けていると、全身の気の密度が下半身に厚く、
上半身に薄くなって体全体に安定感がでてきます。それはちょうど、
東京タワーのような、ピラミッドのような安定感です」・・・だそうです。

音楽が身体に心地よくしみわたる感じは、わたしの場合には、
上半身の気が薄くなった、一つの現れかもしれません。

体の安定・こころの安定…人生がピラミッドの安定を目指すものならば、
視力が衰えるのも仕方がない、人生の大事なプロセスの一部なのだという気がしてきます。

最近、いいなあと思ったこと

2012年01月18日 | 第2章:五感と体感
昨年の夏以降、東京経由で郷里を何往復かしました。
航空機はほとんどSolaseed Airソラシド・エアを利用しています。
運賃の安さもさることながら、私はこの会社の“必要十分のサービス”が気に入っています。
ネット予約の画面の簡便さがとくによく、
既存の大手の会社よりも利用者の便利を優先させている印象をもちます。
(安い価格設定がそもそも、そうですね)

搭乗口に佇む整備士の態度も自然な感じで、(無理に立たされているようではなく)
乗務員の態度も制服も。全体の雰囲気がほどよく心地よいのです。
つい最近の復路では、とてもふくよかなキャビンアテンダントに遭遇し、
中肉中背、髪アップ、らしい容姿を見慣れていたので目を引きました。
アナウンスを一手に担当し、素晴らしく聞きやすいアナウンスで、
ときに、ふくよかさは安心感にも通じますから、
キャビンアテンダントは、この女性の天職かもしれません。

美しい個性が活かされているのを見るのは気持ちのよいものです。

久しぶりのブログの事始めに、最近いいなあと思ったことをちょっと書いてみました。

本音を意識しても大変なコトにはならない

2012年01月04日 | 第3章:無意識の世界
本音を意識したら大変なことになる!、、、
無意識にこんな思い込みがあったのでしょう。

暮れに、本音を意識しても大変なコトにならなかったという経験をしました。

他愛ないことです。他者には違いも変化も気付かれなくても、
私にとってはちょっとしたミラクル体験でした。
10年以上、“楽しいモード”で参加してきた行事の前の晩、
“ああイヤだ。私は行きたくない。参加せず家にいられたらどんなにいいだろう!
雨でも雪でも降って中止になればいいのに!!” とぶつぶつ呟きました。
ぶつぶつ言いながら、この感情は子供の頃の、あの夏休みの行事と同じ。
子供会の花火大会に出かける前の、あの時と同質の感情だと自覚していました。

何か明確な理由があるわけでなく、人の集まる行事に参加するのが億劫なだけですが、
大人になるにつれて、イヤだという不安感を抑圧して楽しいふりをするというか、
自分で自分のことを楽しいと思い込ませて適応させることが一つのパターンになっていたようです。

行きたくないけれど、私は行く。(行かない方がもっとストレスが大きいのだから仕方ない、、)

そんな気持ちで行事に出かけて、どんな時が流れたかというと、
よく動き、よく笑い、よく喋りました。
あえて言葉にするなら“場とともに流れていた”感じです。
“私”が消えていたような気がするのは、不要な自意識がなかったということかもしれません。

ぶつぶつ言って居直ったのがよかったのでしょうか。

あんなに喋ったのに後味の悪さがぜんぜんないのも、ふしぎです。
本音を意識しても大変なことにはなりません。、
大変になるどころか、不安感を意識してはじめて開かれる世界もあるのですね。

“気分”と距離を置いて…

2012年01月02日 | 学び
自分に正直であることは“防衛機制の傾向”と深い関係があります。
自分に正直であることは、たぶん“好きになれない自との関係”にも深く関係しています。

自分のこんなところは好きになれないと、
冷静かつ明確に意識化するのは案外難しいものです。
往々にしてなんとなく自己否定的な気分のまま思考をやめてしまって、
明確な意識化にこぎつけるまでには至らないのではないでしょうか。

防衛機制の自己分析に汲々としていても至るものではありません。
好きでない自分と向き合うためには、ある程度の心の強さがないと無理、
自己否定的な気分と距離をおくためにも理性の力が必要です。

では心の強さをもち理性的であるにはどうすればよいのでしょう?
経験から言えば、ストレス曲線に飛び込むような身の程知らずを重ねて、
世にもまれ人にもまれて痛い思いをたくさんして、
ときに自分の傾向に辟易しながら身につけるしかないもののように思います。

人生は一筋縄ではいきません。

そんな大変な人生のプロセスにあって、
自分に正直になるという大事なことを大事にしてゆけるのも、
生き甲斐の心理学の知識と知識を共有する仲間の存在も大きいと、あらためて思うのです。

穏やかな一日

2011年12月31日 | 第5章:和解と平和
怒涛の半年が過ぎゆく…一年のしめくくりのなんと穏やかなことでしょう。
内なる魂に触れたければ、自分に対して正直であること。
越年に近づきながら大小様々な出来事を通して、この“答え”に近づいてきたように思います。

自分に正直であるとき物事がどのように展開してゆくか。
本音の感情を意識にあげて、否定も肯定もせず受け容れるとき、
私は成育史の傾向をいとも簡単に飛び越えることができるようです。
自分に正直であるとき、私たちは成育史の心を飛び越えて、
たぶん、魂にぐんと近づくことができるのです。

自分に正直であるための方法を学ぶのが、生き甲斐の心理学の核心かもしれません。
少なくとも私にとっては、そうです。

自分に正直であるとき、心のありようによって出来事がどのように展開してゆくか。
この観察のおもしろさを知ったことが、私の今年のいちばんの収穫といえるかもしれません。

このところの寒さもゆるみ、風もない穏やかな今日の気候のように、
心の方もこれまで味わったことのないような静穏な大晦日を迎えることができました。

悔いるときは、しっかりと

2011年12月15日 | 第5章:和解と平和
書類、紙類、メモ書き等を整理しながら、
“この時が方向転換すべき時機だった・・・”と、
当時の読書メモ、書き抜きを読んで思いました。
当時とは、この10年あまりの中でもストレス曲線の極みの様な時期です。

意識にはあるけれど、きっちり見るのは避けてきたような出来事。
ようやく出来事を後悔できるだけの、心の環境が整ったせいでしょうか。
あれは残念なことだった。大事な方向転換の機会を逸して、
逸したばかりに、更に何年も混沌のストレス曲線をさ迷っていたのだと。
経過を認めつつ、はじめて悔いる気持ちが湧いてきたのでした。

悔いるときは、しっかり悔いることが重要なんだと思います。
なぜなら、どんな出来事にも必ず光と影があるので、
後悔という苦味をしっかり見つめるとき、はじめて
“しかし得たものも大きかった”と、光の要素もくっきりと意識に上ってくるからです。

光の側面を見る作業(=明るい解釈)に至るには、前提として
影を認識する/後悔をしっかり味わうことが必要ということかもしれません。

きちんと見つめるためには時が必要な場合があります。
衝撃が大きければ大きいほど、たくさんの時間が必要になるでしょう。
でも、そのときが来たなら、こんどは時機を逃さず、
当時は心という器の強度が不足していたとはいえ残念なことだったと、
しっかり後悔してから、今度は得たものをくっきりと意識化したいものです。

考えてみれば得たものの最たるものが、器の強度といえるかもしれませんね。

このごろの変化

2011年12月14日 | 第2章:五感と体感
このごろの変化を生き甲斐の心理学に照らして言うならば、
「思考と行動が一致しだして感情生活が安定してきた」、といえるかと思います。

こうなりたい、こんなふうに生きたい、暮らしたい。
考え方、目指す方向は定まっていても、思考に行動がついていかないとしたら、
どこか日々の暮らしには空回りの空気が漂い感情生活は不安定になるようです。

もともと思考としては統合されていたので、自分としては
そんなに変化したとも思わず生きていますが、傍からみると、
なんとなく変化したように見えるらしい。
感想というのは見る側の思考と感情のフィルターの影響がありますが、
それを差し引いても、やはり本人の自覚よりは変化したように見えているのかもしれません。

それでは何が変化したのだろうかと考え出して、変化したとしたら
思考と行動が一致しだしたことによる安定感を得たことだと思ったわけです。
アイデンティティの統合の内容が日々の行動に実現されるようになって、
不一致からくる不安が解消されたともいえそうです。

こういう人生を歩みたいという私の望みはとてもシンプルで、
日常生活を大事に暮らしたい。これがいちばんの要素ですが、
じゃあ、これまでは、そんなに大事にしていなかったのかなあ?
2.3年前、それ以前の日常の日々を思い返しても、
やっていることは同じでも、やはり今のような充足感はなかったように思います。

日常の細々としたことに加えて、年末のあれこれを一個一個片付けながら、
毎日毎日やるべきこと、やりたいことが途切れることなく待っています。
以前と違うのは、以前は雑事に追われていた感が強かったのに比べ、
“私が”主体的にどんどんこなして行く感がでてきたような気はします。

とにかく思考と行動が一致していることの安定感/幸福曲線がでてきたのが、
他人には、何かが変化したと映っているのだろうと。。。結論しました。