身体症状も出ていない状況なのに、さっさと諦め、そして人生はつまらない、とぶつぶつ言う人がいます。これは非常に残念なことです。諦めるよりは死んだほうがいい、と元気に逞しく生きている人々も沢山います。夢を追う事がなくなったら、本当に人生はつまらないものです。どんな人でも臨終を迎えれば、夢は実現出来なかったけれども、考えてみれば、あれも良かった、これも感謝すべきものだった、と言いながれ天国に帰られた人々を沢山知っています。悔いのない人生こそ、最大の幸福です。とにかく夢は大切に。
身体症状も出ていない状況なのに、さっさと諦め、そして人生はつまらない、とぶつぶつ言う人がいます。これは非常に残念なことです。諦めるよりは死んだほうがいい、と元気に逞しく生きている人々も沢山います。夢を追う事がなくなったら、本当に人生はつまらないものです。どんな人でも臨終を迎えれば、夢は実現出来なかったけれども、考えてみれば、あれも良かった、これも感謝すべきものだった、と言いながれ天国に帰られた人々を沢山知っています。悔いのない人生こそ、最大の幸福です。とにかく夢は大切に。
諦めが肝心、という場面が人生には非常に多いのですが、どうしても考えておきたいものがあります。どんな選択をするにも、必ず咀嚼しておく必要があるのが、自分は何の為に生きているのか、自分の生き甲斐は何か、自分は自分の魂、成育史(心)、身体を大事にしえいるか、の三点です。その時点で、この答えが見えていなくても、一応思索し咀嚼しないと悔いを残します。特に、魂についての学問を思索しておかないと、片手落ちになりますし、人類の信仰史を勉強しないと、欠落を生じます。信仰生活は、どんな厳し現実に遭遇しても希望が消える事がありません。死後の世界をどう解釈したらいいのでしょうか?死後の世界についての解釈は世界中に沢山あるので、人々はその選択に苦しみます。その選択の基準は、自分の不安感を完全に払しょくし、平安感を満足させる説を選択する事です。
長い人類の歴史を勉強していくと何が善で何が悪か、分からなくなる。現代に生きる私はどう考えたら良いのだろう?夢や理想の内容が<自己肯定、他者肯定>であれば、どんなに辛くても諦めたら負けのような気がするし<自己肯定、他者否定><自己否定、他者否定>の内容ならば、さっさと諦めたようが良さそうな気もする。或人はどんなストレスがあっても明るく逞しく生きているが、或人は小さなストレスでも神経症になったりして生きている。出来れば人類全部が逞しく生き抜いていければよいのだが、そうはいかない。遺伝、環境、老化、自律神経、免疫、分泌の6要因で、それぞれの生き方に大きな違いが生まれてくるので、心構えを何とか逞しくする方法をこの生き甲斐の心理学は模索している。一般論ではなく個人、個人に相応の解釈方法を示唆しつつ心理療法を進めていく。諦めの基準を<自己肯定、他者肯定>において一度、思索してみると、それなりに気付く事がありそうだ。
厳しい現実の生活、会社の倒産、愛する人の突然死、このような厳しい現実の生活に適応出来る人は逞しく生き抜いていきますが、適応出来ない人は苦しみます。苦しむよりは逞しく生き抜きたいものですが、この為の学問が心理療法という学問です。諦めの基準というものがあります。その人の<身体症状>を基準にしています。厳しくても平然として生き抜く人もいますし、神経症や精神病になる人もいますので、誰にでも当てはまる基準はありません。その人の身体症状をよく観察し、その人のストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の5つ)を学問に照らしながら対応していきます。子供から高齢者まで、このストレス曲線の取り扱いを上手に指導していく必要があります。同じ人間でも子供時代、大学生時代で、相当このストレス曲線の取り扱いが違ってきています。自分が五感と体験レベルで、どの程度今、ストレスを感じているか、現実に適応できるか、このあたりは、案外心理療法を勉強していないと出来ない領域のようです。
<諦めのタイミング>が人生を左右するそうです。諦めのタイミングを外すとある種の人は神経症になり、ある人は元気に生き抜いていきます。この違いはどこからくるのでしょうか?人生は神秘なので、かつ、神仏の領域でもあるので私たち人間がそう簡単に結論づけることは不可能です。しかし、神仏の領域だからと簡単にあきらめないのが人間の美しさ、良さでもあります。学問はその手段ですので心理学でも馬鹿にされながら、次から次へと色々の学説が誕生してきました。諦めのタイミングについて暫く思索します。
不安感と平安感は人生の重要な二本の柱だ、と気付いた人は宝くじに当たった以上の効果があります。心理療法の上手な人はこの二つの感情を中心に人々を明るく元気にしていきます。明るい感情の一番重要な概念が<平安感>、暗い感情の一番重要な概念が<不安感>です。この平安感と不安感をどう解釈するか、がキーワードかもしれません。現実を解釈して暗くなる人、現実をまた別な視点から解釈して平安感を手に入れる人、この違いはどこからくるのでしょうか?数日前、太極拳の親友が数年前に亡くなりましたが、悲しい気持ちにいつまでも浸るのは天国のその親友が一番嫌がると解釈しましたら、悲しい中にも明るい希望が湧きだしました。その友人は確実に天国に居るという解釈をする人、そうでない人、また、その友人がいつまでも悲しんでいて欲しいと推察する人、そうでない人、その解釈の違いが生きている私たちの幸せ感も支配していきます。現実の解釈についてもう一度練り直しをしてみませんか?
夢がないと人類は生きていけません。夢の無い人生は面白くなく意味もありません。生きる喜びもなく惰性で生きている人々は沢山います。顔は能面のようになり感情が動かなくなりますが、それでも自死は怖いので何となくだらだらと生きていく羽目になります。こういう自分を見るのは本当に恐ろしく悲しく絶望的です。さて心理療法では、どう対処していくと思いますか?ここで心理療法家は大きく2種類に分類されます。この世とあの世を信じている心理療法家、あの世は絶対に無いと思っている心理療法家、あなたはどちらを選択しますか?魂の存在を信じている場合と信じていない場合、その結果は歴然としています。具体的には老人ホームの相談ですが、俺が死んだら、どうなるか、という質問に答えれれない療法家は失格です。人類発生いらいの永遠の課題を比較宗教学を学ぶ事で答えていく必要があります。あの世への希望が無いとあまりにも残酷な現実を生きている人の心を安心させ平安にさせるのは不可能です。神仏の愛を信じて、初めて厳しい現実を生き抜く勇気が与えられる事実を素直に信じて生きていきましょう。
現実を受け入れる修行は何の為でしょうか?比較宗教学では何故、人が神の愛を感じないかを研究していきますが、この研究は治療においても相当役立っています。日常生活で物凄く疑い深い人間に遭遇します。その人は周囲の人々の親切、優しさ、愛を感じないのです。、悲劇的なのは五感と体感でそれらの友情、愛を感じない。愛の原型論、と言われている成育史上の問題をこの人は確実に持っています。普通の人は人の親切、愛情、友情は本能的に感じるように作られているのですが、何らかの成育史がその感性を曇らせているのです。現実を受け入れる能力は修行が必要なのですが、人は簡単に考えているようです。現実の生活に、大地に足をしっかりと立てて生きていかないと、この人生は砂の上に城を作るようなところがあるので危険です。現実を素直に一旦受け入れる力は度胸と勇気と知恵がないと出来ません。一番恐ろし現象がこの現実を受け入れない人は<理想と現実を混濁する心の病気>になりやすいのです。理想から人を裁いたり、自分を裁いて孤独になつていきます。孤独になれば寂しいので元気が出ません。自分を愛してくれる人をまずは五感と体感で認識し探してみましょう。愛されていない人はこの世にいません。しかし相手が暴力をふるう恐ろしい異性もいますが、この場合は離別する勇気も必要です。暴力を振るわれても、愛もあるので必死にくっついている人を見ると切なくなります。暴力を振るわないで誠実に愛してくれる異性も沢山います。自己愛パースナリテイ障害のような愛の病気もありますが、この場合は治療が大変です。まずは愛する関係における愛の現実から思索していきましょう。
赤ちゃんから高齢者まで、地球の隅々に生き抜いている人間の心を深層心理から勉強するにしたがい、その巧みな構造と能力にただただ敬服するばかりです。DNAの仕組みの勉強も宇宙の仕組みの勉強もサムシンググレートの存在を予見させるものですが、ここではあるがままを見つめる仕組みについておさらいしておきます。人間の防衛機制は自分の能力と精神力に耐えがたい危険,困難に迫られますと、防衛として自然に或働きが起きてきます。気の弱い人の場合、逞しい人の場合、それぞれ大脳と身体はそれに相応しい防衛をします。現実をゆがめて、わざと解釈する大脳の仕組みの原因を考えている学者は、ついに結論が出せず、魂論に突入していくようです。人とは何か?ギリシャ、ローマ時代から数多くの賢人が人間とは何か、と悩むわけですが、その結論はほぼ<人間は魂と身体で構成されているらしい>が現代でも定説のようです。魂のエネルギーの実体と魂の作用、働き方の仕組みは将来の学者にお任せするとして、比較宗教学では、いつたん<魂が存在する>と言う前提で考えていきます。<魂の存在を信じて見えてくるもの、見えなくなるもの>という視点で思索していくのです。この魂と大脳は、その人が耐えられないような解釈はしないようですし、その人が喜ぶような解釈をしていくので、厳密には何が現実か、真実かを明確に言語化出来ないのが実情です。ですからあまり神経質に考えないで、今、自分が感じている現実内容、考えている現実内容を、いつたん、見つめてみましょう。保存本能の関係で大脳は、その解釈が色々と修正しているかもしれませんが、自分の大脳と魂を信じて、どんな現実なのか、今、感じている現実、今、考えている現実に基づいて、いったん現実を認めたあと、次の対応策を冷静に考えてみましょう。
心理学の勉強をしていると、しばしば<あるがままを受け入れる>と言う考え方が出てきますが、これは非常に難しく、誰にでも出来るという領域ではありません。これが出来れば人類の悩みは殆どなくなるかもしれません。この現実を受容する、という営みについて暫く思索していきます。あるがままとは自分の現実を正確に見る目が無いと不可能ですが、この現実を見る目、現実をどう解釈するか、という問題なので、そう簡単にはいきません。しかも子供から高齢者まで、かつ、心理学を勉強している人も、していない人も対象なので、はてはて、どう説明していったらいいのでしょう?
どんなに厳しい現実があっても深く愛しあい、その愛を確認しあえると、人は明るく元気に日々を生き抜いていきます。周囲を見てもこの愛し愛されている人間関係は残念ながらあまりないようです。どの程度の満足感を求めるか、その程度にも関係があるのでしょう。趣味の友達、スポーツの友人、職場の関係、色々の人間関係で織りなされている日常生活ですが、この中での愛の孤独感について、どうしたら生き甲斐を感じる程度の愛があるのでしょうか?哀しい話ですが、この世は<涙の谷>と言われているように不安感が、この世に満ち溢れているのが現状です。人間の本質は不安なので、そのあたりの世界観、人間観を認識していないと架空の夢、理想に振り回されてしまいます。人間の本質は不安、この真実を恐れずに認識すると、赤ちゃんの微笑み、すれ違う人の小さな親切、その他沢山の人間の優しさ、愛情、思いやりが奇跡のように見えてきて、そこの感謝が生まれます。甘えの構造もなく、物の哀れ、流れゆく世界の儚さ、そんな中に咲く美し人間のふとした愛の姿、その小さな愛の姿の中に大きな感動と感謝が生まれてくるようです。
時々、友人から<何の為に生きているのだろう?>と相談され、その真剣な会話の中で、或、話題になると急に白けてしまい、逆に馬鹿にされたり侮蔑的な視線に遭遇する場面があります。それは死んだ後の世界の話題の時、死後の世界までは侮蔑されませんが、生きている間の厳しい人生談義の折などに、神様の愛の話題が出る時、この何とも言えない侮蔑の視線に遭遇するのです。ギリシャ時代からこの神の摂理という話題はあらゆる時代、民族の間でも、いつも議論の集まる議題でした。カトリツク神学は<神の愛>が柱になっていて、この宇宙、人間の世界への神様の愛の働きかけが哲学の根幹をなしています。その愛について語りだすと、何故、人々は白けるのでしょう?神の愛を信じない理由はとても重要で、(1)現代の宗教戦争、(2)テロの背景にある宗教、(3)神様が目に見えないこと、(4)自殺、悲劇、戦争、歴史に見られる宗教界の呆れる姿、(5)信徒の姿から異常を感じること、(6)勉強不足による偏見と思いこみと知識不足、(7)自分の成育史の解釈を信仰から解釈出来ないこと、(8)倫理道徳に縛られるのではないか、という不安、(9)宗教がなくても生きていける、という思い込み、(10)<信じて見えてくるもの>という学問の話に触れた経験が無い事からくる感情、想い、経験不足が侮蔑へと押しやる、その他、沢山あります。この侮蔑の想いは悪い事ではなく当たり前の現象ですが、現代に生きる宗教界の大きな課題でしょう。人々の疑問を大事にしつつ信仰問題と取り組みたいものです。ここで明確に断言出来る事は健全な信仰生活は人を幸福感に導き厳しい現実を堂々と生き抜けさせる事実です。
生身の人間が五感と体感で<楽しい>と感じ取るためには条件が必要です。五感を意識する事、この五感を意識しないかぎり楽しみは永遠にありません。例えば味覚ですが、以前、<バベットの晩餐会>という映画がありました。フランス革命の頃のお話です。パリで一流のレストランを経営していた腕の良いシェフが北欧の貧しい漁村に亡命します。漁村の人々の不幸で冷たい感情や、とげとげしい感情や争いが、美味しい料理の体験がないからだ、とそのシェフが気付きます。そこで、そのシェフは漁村の人が今まで食べた事もない美味な料理を作り、ふるまいます。美味しい料理を頂く事で、人々が段々と幸せ感を感じだす、という映画です。味覚上、美味しいものをいただき、耳には心地よい音楽を聴き、薔薇の香りを味わい、優しい恋人の愛撫を受ける、そんな五感と体感を意識して生活すると、人は自然に気持ち良くなります。この五感と体感の気持ちよさを神様と人々に心から有難うございます、と言わない限り人は楽しいなあ、と感じません。
肉弾戦という戦場や殺人現場は地獄だと思います。人により終末治療の現場も地獄だ、と解釈している人もいます。天国か地獄か、という解釈は難しいのですが、結論を出さないで、しばらく思索してみましょう。愛の無い世界を地獄と定義する人もいれば、死んでしまえば、それっきりだから、生きている内が華だ、と言う人もいます。幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感の5つ)は幸福感の世界ですし、この代表的な5の感情があれば、その人は幸福な領域で生きている人と言えるかもしれません。<幸福の条件>と<幸福感>は似ているようですが、まったく違う世界の話です。幸福の条件は金持ちの奥さんが欲しい、外交官の女房になりたい、豪邸に住みたい、億万長者と結婚したい、などの条件を言いますが、幸福感は病気であろうが、貧乏であろうが、感情的に幸福である事を意味しています。日本の26聖人という歴史があり、そのキリシタンの中に少年が居ました。長崎の刑場まで裸足で歩いていてもその内に天国(パライソ)に行けると信じていたので、いつも幸福感に満たされていた役人の記録があります。他人には理解できませんが厳しい現実を地獄と解釈するか、天国と解釈するかは深層心理学の世界では両方とも成立する理論ですので詳細を考えてみます。
心理療法とう勉強で一番考えさせられるのが<生き抜いていく楽しみ>という考え方が案外、人々には無い、という現実です。元気で明るい人々は<生き抜く>という概念を必要としていません。日々色々あっても人生に大きな価値と喜びを見出しているからです。しかし毎日鉄道の人身事故のニュースに触れていくと、とても考えさせられます。この楽しい人生に何故、或人は気付き、或人は気付かないのだろうか、と。暫く<生きる楽しみ><生き抜いていく醍醐味><日々の喜び>について思索していきます。この問題は全て<病的な理想像>と<病的な現実の解釈>の関わってきていますので、案外難しい領域です。