「相手を肯定する意味」を誤解している人が多いようです。相手を肯定する意味は、どんなことかと言いますと、先ず、どんな場合でも許される範囲、時間の中で、まずは相手が言う言葉を頷いて聞く事から始まります。うん、うんと頷いても賛成しているわけではありません。そして最後に自分の意見もきちんと言う義務があります。状況によっては言えない場合もありますが財産、貞操、権利侵害、名誉に関する範囲の問題では争いになろうとキチンと意見を言う必要があります。意見が違うのが当たり前なので泣き寝入りは自分を破壊していきます。:
どうでもいい関係の相手でしたら放置しておけば済むのですが、夫婦とか、親戚、職場などの、逃げていけない関係の場合は本当に困ります。治療を頼まれれば対応出来ますが、そうでない場合は本当にどう対処したらいいのでしょうか?相手を直ぐ否定する人は本質的に自己否定のタイプが多く、自分は自己否定のタイプだ、とすら気づいていません。相手を否定することは自分を否定することに気づいていないのです。人間関係の理想は「自己肯定・他者肯定」ですが、なかなか、そう簡単にいきません。相手に対していかに自分が迷惑を受けているかをタイムリーに明確に反論する必要があるのですが、その前に下記の人間関係図を意識化しておく必要があります。人間関係は4つに分類しています。「自己肯定・他者肯定」という理想の形、、「自己肯定・他者否定」これはどちらかと言うと傲慢なタイプ、「自己否定・他者否定」と云う希望の無いタイプ、「自己否定・他所肯定」という劣等感の強いタイプ。この4つのタイプを意識化していると改善のチャンスが激増してきます。泣き寝入りは人生の敵です。
自己を否定する事例の代表として「相手が言う言葉を先ず先に否定する人」と言えるでしょう。しばしば親に見られます。自分の子供が何か言うと必ずケチをつける親です。従って子供達は段々と自信を失います。何を言いましても親が自分が主張する意見に対して反論するので嫌になり正々堂々と自分の意見を言わなくなり、それだけでなく長い人生で必要な生き抜いていく自信すらも喪失していくのです。青年期になり良い先生や先輩、恋人に遭遇して初めてその傾向に気づけばまだいいようです。大人に成長してもまだこの傾向に気づかずに生きている人々が沢山います。恐ろしいことです。もし人の意見をすぐ否定する人に会いましたら、その人は自己否定の傾向があるのかと警戒して観察して付き合わないと自分が惨めになるだけです。職場、家庭、恋人、すべての人間関係を冷静に観察して巻き込まれないよう注意しましょう。:
精神科医、カウンセラー、セラピスト、先生、両親、友達等に対して人は人生の途上での悩みをこれらの人々に相談してきました。これらの人々の中には「自己否定タイプ」の人が案外大勢いるのです。出来るならば「自己肯定タイプ」の人に大事な悩みは相談したほうがいいでしょう。人類の悩みは自己否定から始まります。自己否定とはどんな事なのでしょうか?ここでいう自己否定の人の特長は(1)何となく暗い感じ(2)人生に希望を置いていない(3)屈折した感じで素直でない(4)劣等感が強い(5)生き甲斐が感じられない(6)他者をも案外否定している、こんな感じの人の場合は自分の生育史を大事にしていない傾向があるようです。自己否定とは何か、を思索していきます。
愛は本能の一つですが、やはり心から人を愛するのは相当の訓練が必要なようです。人を愛するのが一番の幸せですがスコットペックという大学者が書いた名作「愛と心理療法」創元社:を読まないで心理療法をしている精神科医、セラピスト、カウンセラーがいたとすると、その患者さんは悲劇です。ここでくだくだと言うのすら恥ずかしい気分ですが是非お読み下さい。世界の名作です。「心理療法での愛は患者さんが愛を感じない場合、それは愛とは言わない」から哲学が展開していきますが、その背景には実に深い精神医学、臨床心理学の知識と体験があり、その上での言葉だけに、愛は訓練なり、との哲学は納得出来るものとなっています。
生涯の思索課題のようです。今まで、その目的が定まっていたのに、津波と放射能で人生が激変してしまいました、と大勢の人々から聞かされました。会社の倒産、進学の失敗、突然の病気、その度に人生の生きる目的が変わるのは、もう疲れ果てました、とも聞かされました。さてプラトン、ソクラテス、ブッダ、キリスト、マホメト等、色々の伝統的な宗教の創立者に共通した意見は、どうも、少々違うようです。人生が激変しようとも、共通の目的があるようです。この共通目的とは何でしょうか?その共通の答えとは「どんな試練も変動も関係なく最終的な生きる目的は神仏の愛を悟る為に人生がある」との事らしいのです。つまり生涯をかけて神の愛を知る努力が生きていく目的のようです。少年時代に神の愛を知ってしまうと、どんな激変、試練を受けても喜んで厳しい現実を受け入れ、その上で進学校を決めたり会社を決めたり嫁さんを決めたりしつつ、安心して現実を感謝をもって突き進んでいきながら、かつ、具体的な目標を生き甲斐追求として生きていく、そんな信仰の力が少年時代に持てた人、中年で悟った人、臨終直前で意識化した人、とまさに人生様々のようです。出来れば早めに悟ると人生が楽になるようです。健全な信仰は人生の妙薬かもしれません。宗教は毛嫌いするものではなく学問として追求するのが科学を何よりも大切にする現代人の良さかもしれません。
本当に愛し愛されている感触は子供や動物は敏感です。愛を感じた動物が何故近寄るか、その識別感覚が原点のようです。「他者肯定・自己肯定」の相互愛は本能的にわかります。その関係の深さにより、それでも親密になることを恐れている人の場合は幼少体験でよほど辛い経験があるのでしょう。例えば幸福だった幼児時代に一日だけ祖母が預り父母が葬儀に車で出かけて交通事故で死亡したような場合、幼児は突然の幸せな雰囲気から理由も分からぬまま両親の愛を失い不安な日々を送らざるをえない環境に投入されると、この得体のしれない不安感が原型となり大人になっても幸福な雰囲気になると無意識にその場から去る、という傾向が出てきます。その人は幸福感を感じれば感じるほど、突然の不幸を無意識に恐れ、その愛の雰囲気、幸せの雰囲気を無意識に逃避する習性を持っているのです。この生育史上の傾向に気づけばこの心の病気は早急に回復してきます。
男女とも子供の頃からの色々の体験から親密になる」事には気を配るようになります。これは当然の事ですが、この親密さを求める人間の心理にも健全なものと病的なものがあります。例えば信仰の世界で神様の愛を求める度合いにも、生育史での体験が大きく支配していますので、宗教心理学での愛の親密度測定は難しい領域です。この求め具合で神経症になったり精神病の遠因となりますので、事例ごとに慎重な対応が要求されるわけです。家庭環境、所属社会の倫理道徳、民俗学的な社会制裁の有り様、その人が住んでいる文化環境、そんな中で、何が健全で、何が病的かが、決まります。心理療法の対象者は身体症状に既に出ていて、眠れない、食欲がない等の症状を改善するのが対応の目標なので何が病的かは事例毎に対処するので、その人の親密性について健全か、病的かを一般論としては定義出来ません。愛し愛される関係の中での愛の姿を検証し愛の原型を分析し、その上で、明るく元気に爽やかに愛に生きていかれるように治療していきます。
エリクソンの原理のお陰で、どれだけ私は救われたか数知れません。臨床心理学の原理は絶対という関係式は成立しませんが、患者さんにぴったり、という事例は山ほどあります。赤ちゃんから高齢者まで人生ではいつも愛と親密性と孤独を感じながら人は生きています。この3つの概念について理解するとこれからの人生がとても安定してきますので、暫く思索していきます。外国の文化は優しく抱擁しあいますが、日本人もせめて握手をしたいものです。
現代人は拘束されることを嫌いますがこの傾向が「忠誠心」という人類に必要な要素を現代人から奪い去り人間社会を混乱させています。忠誠心の対象が歴史により色々有りすぎた為に嫌な現象が多々あり、その姿を毛嫌いした現代人はいつの頃からかこの忠誠心を片隅に押しやりました。恋人に、神仏に、家族に、それぞれ忠実ですと、自分の混乱感が激減し、アイデンティティーが統合されていきます。つまり何となくスッキリしなかつた世界がきちんと統合される幸せを感じ出します。この統合化への近道が「忠誠心」の良さなのです。
劣等感がもし無いと人類社会は崩壊していきます。劣等感には2種類あります、一つが病的な劣等感、もう一つが健全な劣等感です。健全な劣等感は人を謙遜にしてくれますが、病的な劣等感は自信喪失をもたらします。劣等感の克服は一つの特技を身につける以外、方法はありません。一つでいいのです。一つの技能を努力して勤勉に励むと人生が必ず拓けます。
何となく今の自分は乱れているなあと悩む人は案外多いようです。何となくきちんと自分を制御出来ていない不安感があるのです。この自律性のなさは幼少時代の生育史が遠因だとエリクソンは述べています。幼少時代の生活環境で、何となく虐められ辱しめられた経験や生活を余儀なくされたりして育っていると諦めから、どうしようも無い虚しさから、いつのまにか自律性を失い意志力も弱くなるのが人間の常です。この原型があると普通の人は大人になっても思い通りにならないのが人生だ、と無意識に感じているようです。しかし意志力は修行によって回復できるものです。この無意識の世界での諦めを自分がしていた、と意識化出来た瞬間に、人は人生を大きく変えることが出来るようです。
精神病理学者はよかれと願って色々の学説を打ち出します。エリクソンもその一人ですが、赤ちゃん時代が不幸ですと大人になっても生きていく希望力がとかく欠落気味だと説明しています。しかし考え方を変える、つまり生育史上の事実は事実として素直に認め、学説も認めた上で、では、今から自分はこう考えていこう、と解釈を変え自分の過去のストレスを逆に利用していくと逞しくなります。成熟した人間は過去に固執しませんし、良い経験をしたと割り切り、人生に実力がついたと解釈していくと苦い経験も貴重な栄養素となります。ある程度の人への不信感は騙される事を防せいでくれるし健全な信頼感は本人を平安にさせてくれます。希望する力が不足している最大の原因は挫折と劣等感の生育史ですので、この負のエネルギーを乗り越える方法はただ一つです。「3Vの法則」です。
まず、自分の夢をイメージの中で楽しむ、しかも成功した時の姿をイメージで楽しみ、その喜びを意識化し言語化して楽しみます、そして、おそるおそる実現へ向けて、しかるべき人に電話をしたり、実現化に向けて確信して行動する、さらに祈りながら行動していく。これの繰り返しを生き甲斐としていく。最低3年この3Vの法則を努力して先が見えない場合はあっさりと断念し、また、別な夢に挑戦していく、この繰り返しが人生。悔いのない人生とは何か、という哲学を自分流で確立しておくことも大事です。つまり何の為にいきていくのか、という哲学が無いと、希望の力は生まれません。
まず、自分の夢をイメージの中で楽しむ、しかも成功した時の姿をイメージで楽しみ、その喜びを意識化し言語化して楽しみます、そして、おそるおそる実現へ向けて、しかるべき人に電話をしたり、実現化に向けて確信して行動する、さらに祈りながら行動していく。これの繰り返しを生き甲斐としていく。最低3年この3Vの法則を努力して先が見えない場合はあっさりと断念し、また、別な夢に挑戦していく、この繰り返しが人生。悔いのない人生とは何か、という哲学を自分流で確立しておくことも大事です。つまり何の為にいきていくのか、という哲学が無いと、希望の力は生まれません。
自分は学歴がないから、自分はやる気がないから、実力がないから、育った家庭が悪かったからという話は毎日聞く人の悩みです。本人がそう言うわけですから、そうなのでしょう。しかし、聞くほうとしては本当に悔しい感じです。相当の力を持っているのに、何故、そう想うのだろう、といつも不思議に思います。これは全て自分の生育史の解釈の問題であって、この解釈を変えれば人生が変わります。何故人生が変わるか、その理由を解説していきます。
人間とは何か?と云う問いかけに対して世界には色々の答えがあります。比較宗教学では主題の方程式が人間とは何か、に対する答えです。大変深い意味を示唆しています。Aは現在の自分、Bは臨終とともに身体から離脱していく魂のこと、Xはその人の生育史で育まれた世界観、人生観、考え方、独得の個性から生まれる精神活動の事、Yは医学的、生物学的な意味での身体を意味しています。この方程式を覚えておくとそれぞれの学説の違いもありますが、本質は同じ事を主張しているのだ、と気づきます。特にキリスト教ではこのBである魂の定義として「魂は愛そのもの、永遠普遍なもの、老いることもなく、病むこともない、臨終とともに身体から離脱する知的生命体である」として解釈されています。戦争をしていても、喧嘩をしていても、魂だけは愛しあっている、と解釈し、XとYは戦争をしたり、喧嘩をしていてもBだけは愛しあっていると解釈しているので、案外、そこにまだ余裕があります。平和構築を希望と勇気をもって活動出来ますし仲良くなる可能性を感じられるようになります。