生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年07月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
永遠の愛を誓った二人のどちらかが殺人を犯す事例があります。世界中の判例を調査した学者がいますが裁判所も相当悩むようです。愛する人に自分から依頼する不治の病を持つ重症患者、それに答えて愛する人を殺す人、喜んで殺される人、色々です。ここではどんな場合でも自殺や殺人は絶対に間違いです。生命は神様からのプレゼント、人間が決める権利はありません。さて愛に裏切られた場合でも、同じ事が言えます。裏切られたと思う内容にも病的な解釈もあります。複雑な事例ですが、裏切った、という意識も、裏切られたという意識も、いずれも解釈と意識に病的な問題が山積しています。裏切られたという解釈をした場合は神仏の慈愛を意識しながら愛と許しの世界をまずは思索したいものです。

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2019年07月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
ドストエフスキーの<罪と罰>は愛の名作です。高利貸しの老婆を殺害したラスコールニコフ青年がシベリアに流刑される時、彼を愛した夜の女・ソーニャが流刑地シベリアまでついていく場面は涙が止まりませんでした。このソーニャの愛に神様の愛を感じて私は宗教心理学に深い関心を持ちだし、その後の私の運命を変えさせられた思い出があります。愛の親密性、愛の信頼感の程度も、このソーニャの愛の影響が大きいようです.

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2019年07月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
心理療法で出会った患者さんの運命に何度泣いたことか?海外での心理療法家での教育は患者の前では決して泣くな!でした。男も女も、大切な存在となった相手の愛を喪失することが、意識、無意識を問わず、一番の恐怖です。それでなくても人は愛の孤独を感じています。特に高齢者の愛の孤独感は深刻です。赤ちゃんも無意識の内に愛の孤独感を恐れています。逆に、愛をあきらめた人の精神的歪みが社会の犯罪を生み出しています。愛を失わぬ為に人は意に反した行動まで断行してしまいます。今から愛の孤独の対処を思索していきます。

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2019年07月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
愛と憎しみの感情は深い関係にあります。親子の殺人、老後の介護殺人、恋人間の愛憎、いづれもこの相関関係式です。愛は魂の領域、憎しみは心の領域であって身体の領域ではありません。心がけで解決する領域です。憎しみの感情処理は案外簡単なのです。何故、憎むのか、その理由は理想と現実のギャップが大きすぎた場合です。現実吟味力の欠落が原因の大半です。逆恨みも多い。大切なことは自分は今、憎しみの感情に支配されている、と言う事実を冷静に認識するところから分析を開始します。この憎悪の分析方法を知らないと悲劇に襲われます.
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2019年07月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
子供は親を選べません。大人になっても親の呪縛から逃げる方法を知らないで苦しんでいる人々が沢山います。中には老いた親の介護のおむつ交換時に、憎たらしくて恨みや復讐の感じでつねる人もいます。愛とは何か、を考えたこともない親に育てられるとその子供は何が愛なのか、わからずに混乱して育っています。しかし良い伴侶に恵まれたり友達を得ると、大切にし合う方法を知り理解します。人との愛の交流の中に人生の幸せを感じ、豊かな愛を体験すると、年老いた嫌な親を哀れに思うようになり、反抗すべき相手ではない哀れな老人だ、と思えるようになります。嫌な親だけれども、自然に感謝すべき点、愛すべき点に気付きだすと、こちらも豊かな気持ちになりだします。

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2019年07月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日本精神史に重要な役割を持つ<汚れの思想>ですが<汚れ>の思い込みから自殺をしたり、心の病に至るのは、哀しい現実です。恥と汚れの思想は或意味で日本人の道徳心の要になつてはいますが、心の病気の大きな原因にもなっています。世界の宗教を色々研究すると分かりますがカトリツクでは<魂は病むこともなく老いることもなく永遠不変の性質をもち、愛そのもに、人々をいつも優しく激励するもの、臨終と共に身体から離脱する知的生命体>と考えています。心と身体は病む事があっても魂はそのような定義がなされている思想もあることを意識して明るく元気に生き抜いていきましょう。
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2019年07月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
心理療法の過程で<汚れてしまった!>と嘆く若い女性や自殺していく男女を診てきました。その度に自分の無能力を悩みました。さて欧米の古い修道院や教会の壁画に7つの汚れを持ったと言われているマグダラのマリアが描かれています。この聖人はダヴィンチコードでも有名になりましたが実に心の美しい奇麗な女性です。人間の肉体が汚れる、と言うことはありません。心と身体は病気にはなりますが、まして人間の魂はどんな人生でも汚れることはありません。汚れたと感じるのはその人の心だけですから<汚れた>と解釈する考え方に問題があります。明日もうすこし詳細に説明していきます。
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2019年07月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
幼児時代に親を喪失した大人の心理療法を色々体験しました。青春時代の愛、大人に成長した場合の愛、職場での人間関係、友人関係、色々の人間関係において、独特の愛の姿が見られます。幼い頃はたっぷりと親の愛を飲み干す必要が人間にはありますが、それが満たされていない場合、色々問題は出てきます。しかし、どんな人間でも、どんな成育史があろうと、人間は、素晴らしいエネルギーを発揮します。人間は、基本的には寂しがり屋なので、つねに愛を求めていて、その求めるエネルギーは大きいのです。人を愛する力もまた物凄いエネルギーを発揮します。それだけに他の人を幸せにする力を持っていますし、自分も爽やかで美しく温かい愛に生き抜く力を持っています。人間は愛に生きる動物であることを心得て生きていきたいもの。

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2019年07月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
過去の或ことを思い出しただけで、嫌な気分になる事柄は、なるべく早く解決しておく必要があります。忙しいので解決せずに放置しておくと<陰の気>がどんどん深層心理に蓄積されていきます。思い通りにいかないと、人はだいたい嫌な印象を持つように出来ています。嫌な親、嫌な先生、嫌な知人、嫌な上司、それぞれ理由があります。心がけが悪いとすべて世の中が嫌に見えてきます。森羅万象の解釈を明るい方向、愛を探す方向、感謝する方向へ解釈する基礎訓練をするうちに、必ず生きる喜びを感じだします。愛と感謝心を深める訓練をすると必ず幸福感を感じだします。
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2019年07月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
この世を生き抜いていく過程の中で<幸福感>が一番大切です。この幸福感が日々ないと、人は生き甲斐を感じません。若い頃は仕事でおいまくられるので、それどころではありませんが、ふと気づくと、心許せる相手が居ない寂しさに何とも言えない虚しさを感じます。どんな人生でも日々<不安、怒り、身体症状、鬱>があります。そんな中で人の愛と信頼が最大のオアシスです。この親しい人々との心の交流がこの世の天国です。愛の世界以外にこの世の天国を求めるといつも裏切りしかありません。愛以外に焦点を合わせると何となく目つきまで虚しくなってきます。愛の世界に生きている人は目が輝いています.

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2019年07月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
よく聞く話ですが苦労してチャンスを作り初恋の人に晩年会ったばかりに、美しい思い出が消えたばかりでなく、かえって惨めで哀しい気分になってしまった、と言う話です。会うべきか、会うべきでないか、の問題ではなく、結果論として惨めになってしまった場合は、たぶんその人は類似ケースでも、すべて惨めな解釈をしてしまうでしょう。会う前から予想出来たケースです。森羅万象の解釈を全て生きる希望のある解釈をしてこなかったからですし、解釈を明るく元気に爽やかにする訓練が欠落しているからでしょう。人が持つ魂は<老いることなく、病むこともなく、永遠不変なもので、愛そのもの、臨終と共に身体から離脱する知的生命体>であるという定義を思索しながら晩年の初恋の人に会ったら、二人の老人は涙、涙の再会になった事でしょう。


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2019年07月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
片思い、失恋の傷、その他の固執障害を日々の生活でどう取り扱うかで、人生の幸福感が左右されます。人間の一番有難い特性は自由な心、何者にも支配されない自由意思を所有している事です。心はのびのびと宇宙を飛び跳ねる特性を持っているのですが、何故か大半の人が何かにとらわれています。健康な逞しい人は開放的で何者にもとらわれずに自由にのびのびと生きています。親密性も大事ですが、親密性に固執するのも病的です。本物の愛の世界は自由でのびやかなもの.

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2019年07月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
失恋した直後、その恋を回想するのはいささか危険ですが、歳月が流れ回想するのが楽しくなる頃には、その思い出は長生きの素となります。あまりにも多い失恋の思い出は少々考えものですが、程々の回想数は健康のエネルギーでもあります。特に高齢者福祉施設での思い出話は元気の素です。その施設での回想にも、何故、あの時、親密性を恐れたのか反省しきりの方々が多いのです。親密性を恐れる傾向は幸福を妨げます。何が危険なのか、具体的に思索する必要があります。本物の愛は親密性が前提だからです。特に神仏との健全な信仰生活ではこの人間関係での親密性が神様との関係の親密性に正比例で反映しています。
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2019年07月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年07月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
親密な関係は人を幸福にしますが何故かそれを避けたがる人がいます。健全な親密さと不健康な親密さを識別する問題ではなく、健全な親密さを避けたがる人の話です。世界的に有名なプロセススケールと言う7つの視点から人間の健全さを識別する表がありますが、その最後の7つ目の視点がこの<親密性>です。数回に分けて説明していきます。一番怖いのが本当の幸福に近づいた時、何故かその幸福から逃げ出す人のケースです。健全な親密性は危険なものではなく幸福をもたらす重要な要素です。
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