生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
古代からの難問の一つ「愛とは何?」への答えを一言で表現するのは至難の業ですが「生き甲斐の心理学」ではこう答える事にしています。お互いの<愛の原型>を理解すれば解決出来る問題だ、と。神仏の愛を理解出来ない人、親、夫婦、友人、恋人の愛を深く理解出来ない人、いづれも<愛の原型>を理解すれば益々幸せを五感と体感と理性で感じるでしょう。思い出しても幸せな過去の思い出が<愛の原型>と呼ばれているものです。子供時代のそのような思い出が重要ですが、その愛の原型が現在の幸福を見えなくしている場合もあるので、この分析は勉強しないと判りません。全国の図書館でも読めますので私の著作<生き甲斐の心理学>を参照して下さい。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
親、親友、夫婦、恋人が、ある日、突然変身して戸惑うことがあります。反省は大切ですが、こんな時は自分を咎める前に、相手のせいにしてみましょう。その理由は自分のせいにするのは簡単ですが、柱がずれてしまい、真実がみえにくくなるからです。相手に単刀直入に聞いても真実は殆ど得られません。相手が私を誤解した、と解釈しておくのです。平和を構築する必要条件は<自己肯定、他者肯定>が原則ですから、相手が自分を否定したわけですから、この場合はこちらが他者肯定する必要はありません。時間をかけて<他者否定、自己肯定>の関係を<他者肯定、自己肯定>の関係を構築していきましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
現在の世界人口数を75億人とすると、その愛の原型は75億存在するといわれています。つまり人の愛の原型(愛し方、愛され方)はすべて違う、と言うことです。この違いの意味は森羅万象がそれぞれ違うように、森の木々やお花も同族でも全部微妙に違うように、それぞれの個性の美を楽しむ為の相違なのです。個性の美を楽しみ、その違いの刺激から知恵が生まれてきます。愛のかたちが違う、と言って悲しんだり、大騒ぎする恋人たちは、その前に、違いの意味を考え味わい楽しむと益々愛は深まるでしょう。同じ感情、思想を相手に要求するよりも、個性の違いを楽しむほうが幸福感への近道のようです。
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2019年05月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
社会に入り、あちこち仕事で世界を回りだすと、飛行機事故、政変革命の暴動に遭遇したり、命を失う危険に遭遇しました。<信じて見えてきたもの>でストレスを感じる事もありますが、私の人生での一番の幸せは或る事を信じて<愛である神様の存在>を信じる事が出来るようになった事でしょう。病気になれば痛い、痛いと大騒ぎする私ですが、腹の奥では愛そのものである神様の摂理を信じていますので安心して自分をお任せしています。モスクワでの胴体着陸の時は、自分の死を神様にお任せして堂々と死を覚悟し滑走路につっこんでいきました。あの堂々たる覚悟が今の自分を支えています。追伸:胴体着陸に成功し、助かった、と分かった後の、お恥ずかしい話は内緒。あまりにも恥ずかしいお話ですから。
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2019年05月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
今日のテーマは「陽はまた昇る」です。この首題はどこかで聞いた文学作品、映画名ですが、日々この希望を与える言葉、意識で生き抜けない人々には原因があります。考え方(構成概念)が固く、柔軟でない人の場合、この<陽はまた昇る>意識が持てません。構成概念をいつも柔らかくして、応用能力を高める心理学の基本は防衛機制(抑圧、逃避、合理化など)を柔軟にする以外、方法がありません。人の身体には、いつもその場、その場を生き抜く<答え>が潜在していますが、心が緊張していると、この答が湧き出せません。明るく元気にいきいきと生き抜く知恵を生み出す源泉がこの<陽はまた昇るさ>という言葉・意識です。
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2019年05月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
心理療法をしていると、自分に関係の無い暗いニュースに触発されて、大事な自分の人生を暗くしている人に遭遇します。テレビ、新聞、ラジオはこれでもか、と色々の報道をします。その度に暗くなるのは人間の優しさですが、触発されて神経症気味になるのは馬鹿馬鹿しい事です。さて自分を暗くする森羅万象を明るくするのも体験の解釈を変える事ですが、人間の悪と善とは何かを思索しつつ最終的には人の魂が死後どうなるのか、つまりメメントモリの哲学を思索しつつ自分の身近を明るい人生に変えていきたいものです。確かに自分の死は切なく哀しいものですが、その解釈を変えると(例えば、死後の世界を信じると、明るいものが見えてきます。解釈を変えると世界が変わる、考え方を変えると世界が、変わる、という諸先輩の学説は有難い思想です。
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2019年05月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
不安感が平安感へ、怒りが友好的な感情へ、不健康感が健康感へ、鬱が幸福感へ、錯乱が統御感へ、この全ての原因は<体験の解釈>に基づいています。解釈の基本を他者否定から他者肯定へ、自己否定から自己肯定へと変えていくと、面白いもの、真善美、が見えてきます。不幸だとぐちる人々を観察すると<自己肯定、他者否定>の人々、この人々はあまり幸せにはなれません。幸せな人々を観察すると<自己肯定、他者肯定>の人々です。この人々は友達が多く日々元気です。
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2019年05月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
この世を生き抜いていく時、私にとって一番重要なものは愛です。親子の愛、友情などですが、それはお金のように見えるものではありません。親と子は他人から見て、確実に識別できません.このようにあれが父親、こちらが子供、と情報を聞き、それを信じて、初めて識別出来ます。つまり<信じて、初めて見えてくるもの>です。大事なものほど目に見えません。この他に、信じて見えてくるものの内には、もっと大切なものが沢山ありますが、それはこれからの生きる楽しみとして,いろいろと思索なさいませ。


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2019年05月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
心の不安定な人の原因は愛の孤独感が遠因ですが、この問題は人類全般の問題でもありますから、あまり深刻に考えないほうがいいようです。私達の思考、感情の在り方は生育史で作り上げられてきますので、そうやすやすとは<考え方を変える>事は出来ません。解決の方向としては、日常生活の中で、あえて美しいもの、善いもの、心地よいもの、感謝すべきものを、真剣に探し出すほうが安定した愛にたどりつけます。

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2019年05月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
親子、夫婦、恋人、友人、その関係性において、だいぶ、様子が違いますが、結論から言えば愛し合える可能性があります。<愛し合いたい>と願う人も居れば、もううんざり、と言う人もいるでしょう。愛し合いたいと願う人はその心地よい経験があるからですが、経験がないと、そんな願いは生まれません。愛し合う幸福感があれば、あとは人間観で勝負が決まります。人間とは<魂と心と身体>で構成されていて、心と身体は飽きがきますが、魂は永遠の存在で愛そのものである、と言う哲学を信じて、魂を中心に解釈していけば、心と身体を含めて永遠の幸せが保証されます。この意味を解釈するのが正統派比較宗教学で、信じて見えてくるもの、見えなくなるもの、という領域の話です。

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2019年05月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
告白癖のある男女は危険、というお話です。何でも正直に告白する事は良いことではありません。特に誠実に愛し合う中高年の男女の場合はかえって深い人生の味や愛情を汚すもととなります。厳しい人生を生き抜く事は大事業だからです。<愛と許し>を知らない中高年は最初から愛してはいけません。子供のように、虚しい言葉に傷つく中高年は修行が足りません。ただし、身体症状がいつまでも発症するような内容については、愛情深く教養豊かな友達か、心理療法家から処理してもらい、その上で、棺桶まで秘密にすべきか、告白して身体症状を消すか、賢明な判断が要求される領域です。
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2019年05月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
理由は分からないけれど、何故か、胸の辺りがもやもやして不快感がある。親友が的確な言葉で、こんな理由では?と複雑な感情を整理し明確化してくれると、悩みは自然に消滅していった体験を人々は持っています。人の感情は誕生から今日までの生育史で育まれた理想(こうありたい、こうあらねばならないと言う想い)と現実のギャップから生まれてきますが、感情の分析は専門教育を受けないと簡単には出来ません。<感情の明確化>をする事で病状が悪化したり完治したりするので、どこまで取り組むべきかを数回に分けて思索していきます。


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2019年05月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
不気味な人とは<何を考え,感じ、行動しているのか>が見えない人の事を言います。さて、親しい人は、そう沢山居ないのが普通です、居たとすると案外、八方美人めいた人で、いざというときは頼りがいのない人のようです。自分の不安、喜び、考え方をこれと言う人には、意識して自己伝達していると、類は類を呼ぶ、の例えのように、居心地の良い信頼を置きあえる親友が出来てきます。思考、感情、行動を正直に伝達しあうことは、心理療法の基本です。

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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自

2019年05月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
色々の患者さんの中には、どうしても薬を飲まないと治らない事例もありますが、心がけひとつで完治する事例も山ほどあります。政治家、金持ち、家庭の主婦、あらゆる立場の人で、この心がけひとつで治せるひとつに、食べていける事への<感謝心>を再確認する手法が一番有効です。食べていける日々が当たり前、と言う奢りから病気が出ている事に気づいていないようです。数万年前の祖父母たちは食べる為にマンモスを追い回して生き抜いてきました。食べていける日々を心から感謝すると<不満分子>は消えていきます。不安神経症にだけはならないように。

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