生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

心をみつめる視点:人生での問題に対する関係は?:その4:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「発する言葉」、その日常生活での会話の内容は、仕事、人間関係、政治等色々です。どのような場合でも、口をついて飛び出す言葉の内容が「ケチをつけるか、非難批判するか、不満たらたら」と言う人は沢山います。その一方、偽善的に、ではなく、自然体で、人とか身辺の出来ごとを「褒める、感動する、感謝する言葉」を語る人も居ます。カールロジャースのプロセススケールの第6ストランズの底辺(健康的とは言えない精神状態のこと)に位置づけられる事例の代表例です。考え方を変えようとしない事例の一つでもあります。つまり何事も暗い解釈をしたがる人、悲観的に解釈する人の場合、慣れ親しんだ暗い解釈から明るい解釈に無理に変更した場合、その人の精神状態は不安定になります。この心の仕組みを知った上で、心理療法を進める必用があります。考え方を変えるのは少々怖いけれども、もう暗い解釈をするのは嫌だ、長年、慣れ親しんだ暗い考え方を捨てて、少しくらい怖くても、明るい解釈をしながら、生きたいものだ、ちょっと冒険して、考え方を少し変えてみよう、と思った人は数倍も健康になった証拠です。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:204>

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心をみつめる視点:人生での問題に対する関係は?:その3:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
厳しい現実を生き抜いていく場合、自分はどうしてこんなに知恵がないのだろう?と悩む事があります。色々分析してみると、沢山理由はありますが、何らかの事情で、その目的志向性に欠落があったり、夢を描くシュミレーションが不足しているようです。事が上手く流れた事例を分析してみると、いつも楽しく空想しているようです。夢を楽しんでいると、気づくと、そのようになっていた、という感じなのです。目的が明確で、問題意識がある場合は、大脳が何らかの知恵を与えてくれているようです。私の場合ですが、この問題意識とその答えに気付かない時の私は、何らかのストレスの蓄積がたまっているので、心が自由に流れていないようです。こんな停滞感の時、好きな所に小さな旅をすると、びっくりするような気づきが生まれます。昨年、私達が主宰するNPO法人が飛鳥、吉野の旅を企画して仲間と出かけました。その旅での思い出が今でも、明るく元気に日々を過ごすエネルギーになつているのが不思議です。旅はどうしてあのような強い生きる喜びと感動を与えてくれるのでしょう!
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:203>

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心をみつめる視点:人生での問題に対する関係は?:その2:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
疑い深い人は多分幸せというか、心の安らぎというか、そんな幸福曲線を歩む事は難しいかもしれません。もともと信頼の対象が神仏ならば、とことん神の愛を信頼する事と、その成り行きからの悩みの結果から色々思索しつつ人間は成長する、とも言われています。そんな日常生活での生身の人間の生活をする内に、それぞれの知恵が深まります。宗教を持つ人の場合は、摂理の解釈という哲学領域、宗教問題、信仰問題の領域で学問が成立していますので、その勉強も必要です。しかし、信頼の相手が人間の場合は、信頼する程度の問題なので、100パーセント人間を信頼すると言う考え方はもともと危険な事のようです。どの程度、信頼するかの問題なのですが、生育史がその人の考え方に大きな影響を与えますので、中々難しい問題です。人間不信に陥いる事が必要な場合もあるからです。エリクソンの基本的信頼とは、どういう事なのでしょう?希望があればこそ、人生は楽しいものですし、自分の希望をかなえてくれるもの、それは友人、知人、仕事上で出会えた人々から場合もあります。はなから人は信頼出来ないと断言する人々の言動は、周囲の人々を悲しませるだけです。この信頼心の程度を意識化しない人、この信頼という自分の考え方を変えようとしない人の程度の度合いをカールロジャースはプロセススケールで重要視しているわけです。変えようとしないのを底辺と位置付け、変えようとする事を怖がる人を中辺、問題のある側面の中で堂々と生き抜く人を高辺、と洞察しています。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:202>

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心をみつめる視点:人生での問題に対する関係は?:その1:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「ソクラテスは、なぜ裁かれたか」:保坂幸博著:は中々の名作です。かのソクラテスが何故、ギリシャ世界で処刑されたのか、改めてソクラテスの偉大さを思索する際、この保坂先生の著作はとても勉強になります。この厳しい社会で生き抜く場合、堂々と自分を主張し明るく元気に爽やかに生きたい場合は、責任を取る覚悟が必要で、その代償として「悔いのない人生」が手に入ります。ソクラテスの知恵は人類の宝物なので、相手が偉大すぎるからと遠慮せずに、大いに庶民の私でもソクラテスの知恵を素直に学習しながら、幸福への道を歩みたいと思います。今日の朝日新聞にもソクラテスの記事がありました。私が一番吸収したいソクラテスの教えは「健全な責任の取り方」です。二千数百年まえのソクラテスの責任論が現代に通用する理由は、カールロジャースという精神病理学者が「プロセススケール」の中で述べた「責任論」とほぼ同じなのです。生育史が違い、置かれた立場も違いますが、それぞれの環境の中で、分相応な責任の取り方を意識すると、とても本人も周囲も精神的に安定してきます。責任の覚悟の無い社会が不幸の始まり。自分の役割を意識化して、その上での責任への覚悟を定めると人はどんどん幸せになり、責任あるポジションに押しやられていきます。期待されればその分、充実感を感じだし、幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感)を味わいだします。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:201>

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心をみつめる視点:人生での問題に対する関係は?:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分の人生で問題が起きますと、解決の手法、考え方、傾向は余程自己分析を上手にしないと、生涯、同じ対処の方法で行い続け、自分をも、周囲の人々をも不幸にしていきます。この人生問題の解決の傾向を知らないと、暗い人は、どこまでも暗く、明るい人はいつも爽やかに見事に対処していきますので、事が上手くいきません。この自分の傾向をどうしたら冷静に、自己分析出来か、まずは楽しく考えてみましょう。私を含めて、なかなか思い通りにいかないのが、この人生問題への有り様です。さて、生き甲斐の心理学では、その対応の理論を、どう考えているか、暫く思索していきます。この自分の人生問題への有り様が意識化されていなかったり、変えようとしない頑固さがありますと、責任を取らない信用の出来ない人間だと世間から評価されますし、深刻な自分の問題なのに、いつも他人事のような言動に生きる嫌な人間になっていきます。皆様はどう自己分析しようとしますか、まずは楽しく、その分析の仕方を考えてみて下さい。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:200>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その15:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「ああ、忙しい」と感じる危険性について思索してみます。朝、目が覚める、ばたばたして、夜布団に入る夜は疲労困憊。こうして貴重な人生が流れていきます。さあ、お金を貯めて親しい人々と好きな場所に旅をしましょう。この旅にはお金と時間が必要ですが、この旅立つ勇気が無いと、多分、マンネリズムの生活に陥り、幸福感が激減していくでしょう。親しい人々との旅は愛の孤独感を癒し、美しい森や花、可愛い鹿や林の中の雉との出会い、その他の沢山の小鳥たちとの出会い、野天風呂で見上げる宇宙の星達、旅は総合的な生きる喜びを与えてくれます。えいやあ、と旅にでますと、素晴らしい知恵と勇気と生き甲斐を感じます。旅は総合的幸福感を与え続けます。私達の長い人生の旅は、果して何処に流れていくか不明な点がありますが、親しい友人との短い旅は私達に長い人生の流れゆく先すらも教えてくれるようです。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:199>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その14:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
星空やお月さま、壮大な宇宙を楽しむ人は多いと思います。私の書斎からは武蔵野の林が見えますが夏至になると、その林から太陽が毎年同じ場所と時間に登ってきます。春分、冬至、それぞれ毎年、同じ場所から登ります。私の愛読書の天文歴の本を見ますと、2020年までの太陽や月、木星、金星を始め、おひつじ座、おうし座、ふたご座、おとめ座等の天体での位置、時間が秒単位までキチンと時間、秒単位で書いてあります。つまり天文学の計算でこの本には2020年までの天体の動きが書かれてあります。宇宙の仕組み、特に私達の銀河系の星達の動きが計算通り、毎年、同じ場所と時間に私の書斎から観察出来る喜びと感動を楽しみながら私は生きています。宇宙の正確な仕組み、春夏秋冬の森羅万象の神秘性、その中に感じる神仏の愛、私は本当に幸せ者です。世界の歴史に垣間見る人類の喜怒哀楽、それを学ぶことも楽しいですが、宇宙から感じる壮大な喜びは私を更に幸せにしてくれています。宇宙から体感する生き甲斐も実に大事な領域です。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:198>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その13:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私の大事な散歩地「深大寺」に「なんじゃもんじゃ」という美しい白い花を咲かせる木があります。色々の説があるようですが、この面白い名前の木「なんじゃもんじゃ」は、誰かが「この木はなんじゃ?」と質問したら、聴かれた人が「なんじゃもんじゃ」と聞き返したら、質問した人が「なんじゃもんじゃ」という名前だと勘違いして、以来、そう呼ばれた、とか言われています。深大寺では「水戸のご老公様」と書かれていますが、散歩の度にこの「なんじゃもんじゃ」の木に向かい私は「おはようございます、こんにちは、今年もよろしく、また会いましょう」等と言葉をかけますと、この木もまた、色々と語りかけてくれます(こちらの空想です)。しかし、私の心はとても暖かくなり幸せです。近所の神社にも大木があり、散歩の折には必ず語りかけますと、私の心に何かヒントが生まれ、気付きがあります。また、ベランダのサボテンは時々、美しい花を咲かせます。このサボテンに今年も綺麗な花を咲かせてね、というと、私の心がまた幸せになります。森の木、散歩先で出会うお花、野川の野草、これら植物は何となく優しい集団です。愛を感じる木や花にいつも感謝しています。愛の感受性訓練には大自然の植物は恩人のような、先生のような存在です。植物は私の心の慰め、友達のようです。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:197>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その12:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
色々観察してみると「動物と仲が良い人、犬、猫、小鳥、馬などの動物と友情を保持出来る人」は幸せなようです。人間は嫌いだけれど、動物は好き、という人と、人間も動物も嫌い、という人の間には相当の幸福度の違いが存在しているようです。好き嫌いはとても重要な問題ですが、ここではとにかく周囲の人間、または、遠くても親友が存在していれば、人は幸福になれますので、まずは相手が動物であっても愛する気持ちを育てる必用があります.この動物との友情について思索していきます。一度飼った動物を遺棄する問題があります。この問題はとても大きな問題で人間愛にも深くかかわっています。自己愛パースナリティ障害の問題でもあり、自己愛が変形していて病的な場合、この動物との関係にも色々の精神病理学の病理現象が投影されています。被災地での飼育の問題は除外しますが、別荘地で遺棄されたわんちゃんと遭遇したことがありますが、とても辛い状況に立たされた経験があります。遺棄した背景は不明ですが、じっとご主人を待つそのワンちゃんの姿が新聞にも掲載されていました。責任問題がありますので今の自分の置かれた立場で、動物との友情、愛情が交える環境を創造するのも「愛の感受性を育てる訓練」に通じていきます。私は15年間、愛犬と生活していましたが、その死に立ちあった切なさ以来、飼う気持ちがなくなりましたが、那須の修道院の愛犬と二年まえに友情を結びました。そのお陰で、益々、私は幸せな体験をしています。1泊2日の勉強会ですが、時間がありますと、そのワンちゃんを散歩に連れ出します。月に一度のデートですが、私の声を聞くと身体中で友情を表現してくれます。動物との友情は本当に私を元気にしてくれ、生き甲斐を感じます。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:196>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その11:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「人の愛を感じない人々」について思索していきます。どんな人でも本来、赤ちゃん時代のように、或いは、動物のように、自分を好いてくれる相手は敏感に感じるように出来ています。しかるに、生育史の何かが、素直に他者の好意を歪めて解釈するようにしてしまったようです。今更、この原因を分析することに時間をかけるよりは、「愛の原型」を思い出させる対処をしたほうが早道です。心に問題があるときは、この愛の原型を思い出せません。ですから原因を時間をかけて分析するよりは、「愛の原型」を思い出させる対応から始めたほうがよいのです。さて、愛の原型を思い出したら、そこが回復のキーワードです。自分は愛されたことがないという自己概念が崩壊し、人間並みの愛の原型が自分にも存在したんだ、という自信と安心感が将来の幸福を確保してくれます。愛を感じさせない一番大きな原因は、この愛の原型の存在を意識化出来るかどうかが再スタートの原点です。人を邪眼で観る内は、愛は感じられません。人を慈眼で観られるようになると、愛を感じます。人間はもともと愛をビンビン感じられるように設計されています。70億の人間はそれぞれ好きこのんで生まれてきたわけでなく、事情があってこの地球に生まれてきました。親のせいにして、何故、産んだかなどと言う人は往生際が悪い人間ですが、生まれた以上は自分の自由意思で幸福を掴む義務があります。この決意がないと、幸福は生涯、身につかないでしょう。いかなる環境であれ、人間の尊厳と言われている自由意思を駆使し、必ず自分の幸福を獲得する決意があれば、人は必ず周囲の人の切ない喜怒哀楽に感動し、共に手をたずさえて、生き抜こうという共存共栄の思想に到達するはづです。人の愛を感じれば愛の孤独感も激減し、幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感の5つ)は得られます。そうすると益々良き友人に恵まれ、ゆがんだ解釈をしなくなり、幸福感を感じられるような解釈が出来るようになり、その解釈を楽しみだします。暗い解釈をする人のところには暗い人が集まり、明るい解釈をする人のところには明るい人が集まり出します。いわゆる、類は類を呼ぶです。良い解釈とは明るく元気に爽やかに生き抜けるような解釈をする事を言います。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:195>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その10:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
比較文化論、比較宗教学での世界の学会で一番興味津々の研究課題が下記のものでしょう。「全知全能で愛そのものである神の愛を人は何故、感じないのか?」です。神仏の慈悲、神の愛、そのような宇宙的なサムシンググレートの愛や慈悲を或人は何故感じないのだろう、或人はびしびしと感じるのは何故だろう、という課題です。皆様はどう思いますか?答えは下記の二つです。(1)この課題を嫌い、興味を示さず、考える努力もしない人々(良い悪の問題ではありません。興味の問題です)、(2)興味を示し努力するのに、それでも生涯、分からずじまいの人々。現在、神仏の愛をひしひしと感じ、満足し、感謝している人々も沢山います。今回はこの感謝し、満足している人々の事例は除外します。まず(1)の事例の人々も、ここでは除外します。(2)の場合に焦点を当てて思索します。この(2)の思索の方法を二つに分類します。(a)科学的に探究する人々、(b)宗教学的に探究する人々、この(a)は多分、永久に分からないでしょう。科学者及びそれらしい人々はが数千年間、努力していますが、いまだ証明されていません。(b)二つあります、一つは「信じると見えてくるもの、信じると見えなくなるもの」という手法で研究するグループ、理論で考えようとするグループ、この理論で考えようとするグループも見たがりますが見えないようです。今日の結論は「神仏の愛を感じたい人は信じる以外、方法がない」という事です。神仏の愛を感じたい人は信仰の世界に入る事が条件です。信仰の世界は分析の対象にはなりますが、個人的な世界で、かつ、神仏と個人の二人だけの世界です。健全な信仰と病的な信仰という難しい心理療法がありますが、ここでは書くことは不可能です。「信じた人は幸いなり」、あなたの信仰があなたを救った」という言葉をどう思いますか?信仰の世界は超自然の世界で、かつ、神秘的な恩寵の世界ですので、それぞれの教養豊かな健全な宗教者のもとを訪問して、心行くまで質問し、信仰の世界に触れてみて下さい。信仰の世界は豊かな世界でもあり、恐ろしい世界ですので、訪問先の選択は慎重になさいませ。世界的にも通用する大学を所持し、その背景で活動している宗教家を訪問されるように私は祈っています。神仏の愛を感受する秘訣は自分の身辺に生起する森羅万象についての体験の解釈がキーワードです。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:194>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その9:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「愛の感受性」の度合い測定法で一番有名なものが「愛の原型」を巡る知恵です。愛の原型とは自分の生育史を思い出し、その中で「あの場面が自分が愛されていた場面だ」と思える生活の一部分を愛の原型と呼んでいます。この愛の原型には大、中、小と程度の差がありますが、その差は本人んが決める問題です。他人からとやかく定義される問題ではないのです。愛の感受性の度合いについて思索すると、「愛されたことがない」と悩んでいる友人の対応を上手にできるようになります。愛されたことがない、と解釈している人には、ぞれぞれの理由があり、一番重要な原因が不安、怒り、鬱の感情が、その人の心の大半を占めている場合、防衛機制が働き、知恵の泉の蓋をされているので、中々、良い知恵が湧きださないのが原因だと言われています。ストレス曲線の蓄積が知恵が湧きだすのを邪魔している構図です。周囲の人々への不信感、自分の罪悪感、劣等感、希望の無い人生、そんな想いが異常に蓄積されていると、昔の愛の原型を思い出せないのです。愛の原型は人類の数ほど存在していますし、その大、中、小も解釈により大きく変化するのもまた人間の美しい特性です。解釈を変えると世界が変わります。ここで大事なことは愛の度合いのスケールを先ずは、自分の生育史のスケールで一旦、決めておき、思索、考え方が成長するに従い解釈もまた、成長しますので、度合測定のありようも、その人生の流れの中でまた変化していくものです。愛を感じない人の場合、上記の自己分析をする必要がありますが、このブログでは無理です。生き甲斐の心理学を学びながら、着々と勉強を深めて下さい。愛を感じる手法は身辺の森羅万象の解釈が勝負です。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:193>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その8:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月16日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「或人は何故、愛を感じないのか、また、何故、或人はびんびんと愛を感じるのか?」。比較文化論、比較宗教学での大問題をこのブログで書こうと試みるのは非常に難しいのですが、体験の解釈、というコーナーでもし避ければ、片手落ちになります。愛を感じる条件という概念があります。これは70億の人類がいれば生育史の関係で全部違いますが、一つ一つを具体的に書きましても参考にはなりますが、理論を集大成する学問は樹立出来ません。仮説でいいから、とりつくキッカケを提示していく必要があり、良いか悪いかは全員で仲良く検討すればいいのです。無い知恵を駆使して学問的な体系を確立しようと努力するのが、その専門分野で生きている人々の使命でもあります。愛の孤独感が人々を哀しみと生き甲斐喪失、錯乱へと導きますので、照れくさがらずに自分の愛の孤独感を冷静に見つめる訓練が必要となります。この研究分野では(1)宗教学的な領域、(2)臨床心理学的な領域、(3)動物との間の領域、(4)植物との間の領域、(5)宇宙との関係性の領域、(6)相対的な領域、以上6分野で思索していきます。難しい領域をこの短いブログで挑戦しようとする場合、議論は空しいので、考える契機として楽しんで下さいませ。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:192>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その7:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月15日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「愛を感じる度合い」を心理療法はどう分析するか?これは大変難しく、かつ、学派により相当違いますが、私はこう考えています。精神病であれ神経症、人格障害、正常であれ、人類全ては必ず、それなりに愛を感じています。間違いありません。しかし、何故か、人により「自分は幼少の頃から人に愛されたことは一度もありません」と語るのです。何故でしょう?私はその発言に驚きますが、その人の言う言葉を信じるように努力しています。本人が愛されたことがないと断言しているからです。もし否定したら、その人は私から離れていくでしょう。私を訪問しなくなれば心理療法は展開出来ません。仕事上、その人を受け入れてスタートしないと職業も成立しません。かつ、人の身体は神の神殿という考え方をしている私としては、その人の中に住んでいる「全知全能の、愛そのものである神様の働き」にも期待しているわけです。私の拙い人生経験を通しても、この難問での答えは医者とかセラピスト側にあるわけではなく、クライエントの中に、その答えが存在していた経験を持つています。これがあなたの答えです、なんて言われた場合、あなたはどう感じるでしょうか?不愉快だと思います。自由意思を持つ人間は他者から強制されることこそ、一番哀しい印象をもつはずです。さて愛をかんじる度合いを心理療法はどうスケールするか、といいますと、先ず、愛の孤独感の度合いを測定します。人間は正直なもので、愛の孤独感を感じると、生き甲斐を失うものです。この愛の孤独感を、どう測定するか、といいますと、身体症状の有り様を洞察します。身体症状が出ていない場合はあまり深刻に分析しません。ここでは身体症状が出ていない事例をまず考えてみましょう。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:191>

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心をみつめる視点:体験の解釈:その6:幸福な日々の為の自問自答集の第4章

2014年02月14日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「愛の深層心理学」と言う領域があります。異性を愛するのも、神仏を愛するのも、いづれも共通概念です、と言えば、道徳家からおこられそうですが、深層心理の領域では共通概念もありますので、その事を一言書いておきたいと思います。「愛を感じる」心の領域から、この話は始ります。愛の姿は人類の数の数百倍もありますので、その事を私が書ける訳がありません。異性の愛にしても神仏の愛にしても、愛を感じないと話になりません。この愛を感じられる人と感じられない人の話を暫く勧めていきます。赤ちゃん時代にどんな愛を受けたか、それがスタートになりますが、仮に、赤ちゃん時代に母親から虐待を受けた人でも、今後の意識化により、豊かな愛の人生も歩めますので安心してこのブログをお読みください。自己愛パースナリテイ障害の事例は難問中の難問ですので、ここでは書きません。普通の健全な愛の感受性について明日から書いていきます。エリクソンの8つの発達論は大事ですが、それに拘泥すると訳が分からなくなりますので、参考にはしますが、愛の感性について、暫く明るく爽やかに考えていきます。深刻に考えると碌な事になりませんので、どうか議論を吹きかけないでくださいませ。愛の感受性の世界は微妙ですが、体験の解釈論では避けて通りませんので宜しくお願いいたします。結論を先に言えば、70億の人類がいるそうですが、その人が愛だと感じるものが愛です。さあ、どうなることでしょう?心を病んだ人に「あなたの愛は異常です」とか「愛とは何々す」と言った所で、何の役にも立ちません。セラピストが愛の定義を患者さんにかたっても、彼、彼女は退院できませんが、元気になつて退院していく状態と入院してくる時の状態と、どこが、どう違うのか、そのあたりの話です。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:190>

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