いくら「生き甲斐の心理学」を勉強しましても、自分の行動の特徴と傾向はなかなか意識化しにくいものです。その理由は人というものは、居心地の良い生き方を当然のように選択して生きているからで、その居心地の良さが大切な人間関係の中で、相手に不快な想いをさせ、手痛く攻撃されない限り、気づくわけがないからです。こう言う私も、居心地の良い仲間としか生きようとは思いませんし、不愉快な思いをする人とは付き合う必要もないし、嫌ですので、敢えて嫌な場所や嫌いな人と交際しませんん。さて、旅をします。或場所に立ちますと、何とも不気味なのです。昨年、NPO法人の仲間、賛助会員の皆様と素晴らしい奈良飛鳥の旅を楽しみました。畝傍山で早朝、太極拳をしましたが、その古い神社の端の林で太極拳を演舞しようとしますと、或人が不気味がりました。しかし、私は敢えて、その不気味な場所で太極拳を演舞しましたが、丁度、太陽が昇り始めます。或技をする際、右足を遠くに置くのですが、ふと、蛇が悠然と横切っていくのです、タイミングを少しずらし蛇を跨ぐようにして技を続けます。蛇は私に噛みつくわけでもなく、流れるように動いていました。この時の私の不気味さ、かまれてもいいや、という私の気持ち、太陽の光、その何とも言えない雰囲気から私が感じた心境はまさに「なるがままに生きる悔いの無い人生」でした。むしろ、私の人生の汚れを、その蛇にかまれて、懺悔したい心境が存在したようです。こんな素晴らしい仲間と居るときに、死んだら、案外、幸せかも、とか、今から想うに、そんな心もあったような、なかったような。旅の仲間が見守る中で、たかが蛇一匹の出現で、太極拳の演舞を中止する事による心の乱れを恐れた「私」を讃えた自分に驚いています。見栄でもなく、勇気とも関係がなく、むしろ現れた蛇はマムシではない、毒蛇ではないという識別が存在していたにしろ、大自然と共に悠然と太極拳を演舞したい自分を本当に幸福だ、と感じていたことが、その朝の太極拳でした。人から見ると蛇を跨いでの演舞は異常かもしれませんが「この行動の傾向」が私の人生で、しばしば垣間見られる場面です。「自分の信じる道を一人でも歩いていく傾向」が私にはあるようです。寂しがり屋のくせには、そんな自分が良いのか、悪いのか、わかりませんが、とにかく、こういう場面は私の生育史には、しばしば存在しています。これでいいのか、今でも良くわかりませんが、どうも、これで良い、と考えているようです。旅先でのフィーリングは無理のない反省をさせてくれるようです。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:227>
自分の生き甲斐を探究されている方々へ:
テキスト「生き甲斐の心理学:ISBN 978-4-9903527-2-1」はアマゾンでもサンパウロ書店でも全国の書店で販売されています。是非、併読いただければ勉強になります。
いつもクリックして下さり有難うございます。
人気ブログランキング
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:227>
自分の生き甲斐を探究されている方々へ:
テキスト「生き甲斐の心理学:ISBN 978-4-9903527-2-1」はアマゾンでもサンパウロ書店でも全国の書店で販売されています。是非、併読いただければ勉強になります。
いつもクリックして下さり有難うございます。
人気ブログランキング