威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。教師、保護者、若者の未来が輝くように

心は自由 

2012年02月17日 | 第四章 愛とゆるし
心は自由

私たちは日常生活において、「心の中」まで他人に支配されることがありますか?

例えば、誰かのことを堪らなく好きになった。寝ても覚めても四六時中愛する人のことばかりが心を占める。果たしてこれは、心が支配されているのでしょうか。自分が勝手に好きになっているのだから「支配されている」ことにはならない。

古代から伝わる、宮廷貴族の恋愛形態は、まず、垣間見をした男女が好きになった相手に「歌」を贈ることからスタートします。万葉集から新古今にかけて三十一文字の短歌形式が出来上がっていきます。日本で、歌というのは、『自然描写』と『人の心情』がミックスされて、人の感情の深奥を表顕する至極の芸術となってきました。

さて、日本においては、このように「歌を歌う」という行為はおおらかに「愛」を表現する正に「心の自由」を計る尺度とも言える行為であると思います。

いかがでしょう。

近代人は、強制されることで、一気に「心の自由」が失われていく事をたびたび経験してきました。今また、その事に麻痺が起きてはいないか?自分に問いかける日々です。



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日記帳をつける

2012年01月31日 | 防衛機制
 2011年11月 世界の人口は70億を超えた。

 皆さんはこの事実をどう受け止められるだろうか。

 別に自分が生きている間に何がどう起きるとも分からないし、自分の生きているうちは何も起きないだろう、と普通は考えているはずだ。世界の人口は「産業革命」以降でぐんと伸びて、また、1950年に25億だった人口がなんと70億である。

 さて、「戦争でも起こして、人口を減らして、いちからRESETだ」なんて思っている人々もいるでしょうなぁ。例えば、原発がれきが受け入れる所がないので、原発周辺に集めてそこをずっと人の住めない地区にしてしまおうと言い出す人がいるような感じで。

 抑圧・抑制を考える上で、いろんな感情表現に対して、自由に感情表出することが良いのは事実。しかし、私も気をつけないといけませんが、ブログもそうですが、公共の電波、マスメディアで、何でも発信して良いわけはない。ここが、実に難しい。
呟く事で気持ちの整理ができるのも事実。自分だけの日記帳は無難だ。

 心の問題では、「エゴ・ダイナミック・ノート」というものだ。なん
でもノートに書き付けるわけだ。この方法は結構効果がある。自然と実践している人も多い。若者の多くは既にしている事と思う。私も中学生の頃からの日記帳を見ると、恥ずかしくて読めないくらいである。自分の置かれている状態への不平不満等、いろいろと書いている。負の面ばかりではなくて、将来の夢のようなプラスの面も書いてはいるが、書くことによって抑制気分を振り払えると思われる。

 若者達が、不特定多数の他人の目に触れる媒体でいろいろと書き込みをしているが、自分自身の精神世界を大切にしたいのならば、自分だけの「日記帳」を持っておく方が「安全」かつ「援助」になると思うが、いかが?

 さて、人口であるが、平和に増えていくということであれば、それは別段良いのではないかと私は「楽観視」している。鼠やゴキブリが何匹生息しているか知らないが、人間も生き物なので、増えすぎれば、生物学的に説明されるような(され得ないかもしれないが)手段によってうまく解決されるように感じている。但し、人為的に何もしないということが前提だと思っているが、、、。



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漱石先生 4

2012年01月29日 | 文学(現代・近代)

 漱石先生の弟子、和辻哲郎氏に『鎖国』なる論述がある。維新と戦後の二度の変革期を経て、江戸時代の鎖国政策を文化的角度から分析している本で、非常に面白い。

 漱石先生が『現代日本の開花』で講演したとおり、

『外発的なもの。つまり他人をみて、消極的に変革せざる得ないのです』という視点は今日の我々まで引きずっているような気がする。我々が唱える変革は絶えず、独特のものではなく、亜流である。

 オリジナルの新しい「形」を想像する必要性を感じている。


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漱石先生 3

2012年01月28日 | 文学(現代・近代)
漱石先生 3

 漱石先生がやり残してしまったこと、とは何であろう。

 私は大学生の時から、柄谷行人氏、桶谷秀昭氏らの評論を読み、漱石先生の足跡を訪ねて東京を歩き、ロンドンを歩き、スコットランドへも行った。

 最近では石原千明氏や内田樹氏の論評を読んでは刺激を受けている。

 若い頃は、倫理観や近代日本の啓蒙という観点に惹かれていたが、今では、「近代日本人の精神性を確立」することを「文学」で目指していたのではないかと思っている。

 大袈裟な話しで恐縮だが、『こころ』を読み返す度に、「先生」と「明治天皇」の死、そして乃木将軍の死に象徴されている事が何なのかを繰り返して考えてしまうのだ。

『 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。』  「草枕」より


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カリスマ講師

2012年01月24日 | 仕事
私も、予備校に通いましたから、「カリスマ講師」がどんなもので、どんな努力をしているかは知っている。私の時代は、学生運動していて大学に研究職で残れなかった、頭の切れる講師が「カリスマ」であったが、現代は違う。

 現代のカリスマ講師は、如何にデータ蓄積をし、出題傾向を分析しているかが求められているようだ。そう、「思想」ではなく、「テクニック」なのだ。これは、小学校、中学校レベルの受験塾でも同じだ。昔ながらの個人経営塾が立ち行かないのも仕方がないのである。もう30年もセンター試験形式の入試問題が行われているので、データの蓄積がものをいい、出題傾向を分析すれば合格率が高まるのだ。

 私は、変だと思っている。違和感を感じている。自分が受験生だった、30年前から。
 もういい加減止めませんか、こんな入試制度は。

 大学入試を変えることこそが、「教育改革」ですよ。


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