生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

失敗するたびに成功する人、転落する人

2006年12月31日 | 第1章:愛の領域
ここでの<失敗>とは、本人がそう感じる場合を言います。<成功>とは、その本人が<成功した>と思う場合を言います。昔、ギリシャのダイオゲネスという哲学者が当時は有名な人でした。アレキサンダー大王がひと目、会いたいと探し当てて<お前の希望を叶えてやるから申せ>と言いますと、ダイオゲネスは丁度、ひなたぼっこ(自己実現)をしたいと考えていたときなので、大王に向かい<ひなたぼっこの邪魔になるので、そこをどいてくれ>と言ったので、益々、大王は彼を愛した、という逸話があります。失敗しても(大王に非礼をする)、いつも自己実現(ひなたぼっこ)を忘れない人、危険の最中でも(切られるかもしれない)、堂々と自己実現(自分の夢、理想)への道を歩む人は、転落(自分の自己実現への道からはずれること)はあり得ません。:<NPD4:失敗論:36-3>:

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大人を嫌う子供

2006年12月30日 | 第1章:愛の領域
子供時代から思春期にかけて<大人が嫌い>になる事があります。当時、その感情現象が、大人に成熟していく為の<大切で必要な感情>なのだ、と誰も教えてくれません。この<大人が嫌いになる>という感情は、子供の純粋な魂が訴える最後の現象かもしれません。子供は本当に純粋です。大人は生き抜く為に、相当、要領が良くなっていますから、矛盾だらけ、ご都合主義、真理や永遠普遍よりも、涙の谷でもある世間を生きる知恵がついてきていますから、子供の魂から見ると<許せない現象>が沢山あります。さて、問題は、大人が悪いのに、自分は駄目な子、と誤って信じたまま育ってしまった人です。もう一度、大人が悪く、自分は純心だったのでは、と解釈して欲しいものです。:<NPD4:失敗論:36-2>:

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失敗した時の感情は?

2006年12月29日 | 第1章:愛の領域
昭和28年頃の話ですが、私は職業軍人の息子で、戦後、葉山から越後の山奥の父親の故郷に疎開し、その後、同じ県内の少し離れた或市に移動しましたが、何となく虐めに会い、そうして高校に入りました。高校でも虐めに合うのは嫌なので、そこで決意した事は私を小・中学校で虐めた18名に復讐をする為に柔道を学び、喧嘩ばかりした為に退学寸前となりましたが、当時の校長が、あれは男になる為の喧嘩で、卑屈な青春を男らしい輝かしい青春にしようと、決意した日本男児の行動である、と職員会議で支援して下さり、退学を免れました。その頃の授業はまるで劣等生で、どの時間も、何も答えられずに、その恥ずかしい傷は、今でも残っています。日本の大学にすすみ、その後、海外の大学研究室で学位を取る為のエネルギーは、その高校生の時の心の屈辱感を晴らす為、という動機も、神聖なる志の他にも強烈に存在していたようです。:<今日からNPD4に入ります:失敗論:36-1>:

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駄目両親!

2006年12月28日 | 第1章:愛の領域
長い治療活動の中でいつも考えさせられますが、一番気の毒なのが<駄目な両親を持った子供が、親を駄目だ、と認めない子供達>です。子供の立場で<あーあ、駄目な両親だなあ>と感じたら、もうその親は駄目両親なのです。子供は小さい時から、何故か、親が駄目なのに、自分が駄目だと考えるように仕組まれています。子供は生きる力(経済力、体力、知恵)が無いから、本能的に相手を非難する事が危険な事だ、と認識しているのです。その本能的習性がいつのまにか、思想形成、人格形成にまで影響を与えています。実に沢山の子供達が、この習性から自分を病気に追い込んでいるのに気づいていません。駄目親を駄目だ、と識別する勇気が無いと、自分を病人にしてしまいます。:<NPD3:両親論:35-5>:

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知恵の源

2006年12月27日 | 第1章:愛の領域
Yさんは2才の時に両親を失いました。大人になり、ふとした契機に考え方を変えました。それまでの悩みの内容を大きく分類すると(1)自分には両親が居ないので、人格上、欠落がある、(2)愛し愛される方法を根本的に知らない、(3)不幸である、この3つでした。Yさんがどんな契機で考え方を変えたか不明ですが、自然に湧いてくる<暗い感情の領域>を<明るい感情の領域>に変身させる<体験の解釈>のコツを覚えたようです。例えば(1)の人格上の欠落というコンプレックスから、人格とは何かを深く思索し、どうしたら人格向上への道が拓けるか、を日々精進した事、(2)の愛の欠落についても愛とは何か、を深く勉強したこと、このように<暗い感情>を意識化し<明るい感情>へのエネルギーに変換したい、と念願した所からYさんの人生は激変していきます。両親の存在の在る、無し、を生きるエネルギーに変換しましょう、両親という言葉には強烈なエネルギーが存在しています。:<NPD3:両親論:35-4>:

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あなたの父は、何の原型?

2006年12月26日 | 第1章:愛の領域
現在を悔いなく生きる上での障害として両親の影響が存在している事を常に意識する必要があります。父親の影響も強烈です。父を思い出す度に、人は直感として、どんなイメージがあるでしょうか?大きく3つに分類しますと、(1)考え方での影響、(2)感情面、(3)行動面、です。反面教師という言葉もありますが、父親に反発していた息子が子供を持つと、やはり父親同様の生活形態になっているようなものです。人は子供の頃、経験した事が必ず現在の生活にも表出してきます。この真実を十分意識しないと、悔いのある人生を歩まざるを得ません。現在、自分が持つ夢、人生の理想を、のびのびと自由意志で追求しつつ、生きていくイメージを促進する父親の影響なら大歓迎ですが、自由に羽ばたく衝動を妨害する父親の影響が存在している事も事実です。この深層心理の世界での微妙な動きを意識し知覚するだけで、この父親の支配から免れます。:<NPD3:両親論:35-3>:

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あなたの母は、何の原型?

2006年12月25日 | 第1章:愛の領域
意識、無意識を問わず、深層の心に存在する母の想い出<原型と言います>が現在の愛の生活を支配している場合があります。母の思い出を3つに分類します。(1)暖かいもの(2)嫌なもの(3)わからない、この3つです。この解釈は直感による解釈が正しく、無理に<暖かい、嫌、わからない>と分けてはいけません。ぱっと浮かぶイメージが重要。体験の解釈は生きていく内に変化しますので、現在の解釈を正直に知覚する事が重要です。現在生きている自分を心豊かな人間関係にする為には、このイメージの原型を意識し、知覚していないと、折角の人生での異性関係に於いて、相手の美しさを感知出来なくするからです。もう一度、母の原型を意識してみましょう。:<NPD3:両親論:35-2>:

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両親の光と陰

2006年12月24日 | 第1章:愛の領域
両親から離れて一人で生きていく年頃になっても、いまだ親が健在の場合と死んだ場合は、私の精神生活は大いに異なりました。親が生きている場合は海外に居て難しい仕事や勉強をしている時でも、今から想うと、何となく安心感があったようです。この安心感は完全に親が居なくなってから気づきました。マザコンとかファザコンではなく、神仏が暖かく見守る、そんな感情の一つでした。これから5回にわたり、<潜在意識での温もり感>がいかに人生では重要か、思索しながら、これから益々明るく自然に逞しく臨終の最後の最後まで元気に生き抜ける知恵を模索していきます。:<NPD3:両親論:35-1>:

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種族の運命はいかに?

2006年12月23日 | 第1章:愛の領域
魂とは何か、という定義で、その人種、種族の運命が決まります。長い人類の歴史を学ぶと、人それぞれが所有する魂の定義が<人の不安を増長させる内容>の宗教は長続きしていません。その定義が<人に平安感をもたらす内容>は永続しています。その理由は魂の本質を表現しているからでしょう。自分が所有する魂は永遠の命に生きているものですし、普遍の知恵を持つ、病む事もなく、死ぬ事もない、このように人々に勇気と希望を与えるものなのに、その真実を否定されれば、魂は黙っている訳がありません。自分の魂について学問としてキチンと研究し、思索する事が人生で一番面白い価値ある生き方です。人の眼差しは美しい魂に気づくほどに美しくなります。:<NPD3:慈眼論:34-5>:

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意識すると知覚出来る魂

2006年12月22日 | 第1章:愛の領域
人間の愛情を手で掴む事が出来ないように、尊いものは、なかなか目に見えないものです。電波、磁気のように。光の中にも見えるものと、見えないものがあります。人間の魂もおなじですが、神仏や親や恋人、夫婦、友人の暖かい視線を感じると生きる元気が湧き安心感が増え、明るく自然に、のびのびと元気に生きていけます。しかし、その愛の眼差しを意識しないと見えません。どんなに愛されていても、意識しない人が自己愛パースナリテイ障害という心の病気になつていきます。ですから魂が愛そのものである、という意識を持たない限り、どんなに訓練しても知覚できません。改めて<意識と知覚>という関係を思索してみましょう。幸せになる為に。:<NPD3:慈眼論:34-4>:

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学問としての魂とは?

2006年12月21日 | 第1章:愛の領域
20代の半ばに触れた恩師の言葉を本気で疑い、検証し、あーっという間だに40年が過ぎました。宗教心理学に基づく心理療法理論、比較宗教学、文化人類学、歴史聖書学、心理学、哲学、その集大成としての魂論と三位一体論と聖霊論、それらの検証を経て得たオックスフォード大学の宗教学学会の結論が下記の定義でした。結論を得るまでには、アウグスチヌス、トマスアクイナスを含む2,000年の人々の文献が含まれています。魂が存在するかどうかは世界的な学会と科学者に一任して、宗教心理学の立場はその魂を信じて見えてくるもの、逆に信じて、見えなくなるものを研究してきました。

全ては下記の定義から始まります。20代の若い学徒は、この定義を疑い検証しつつ、学んで下さい。もう人生が短いと思う方は、この<信じてみえてくるもの>だけを思索すると無駄が無くなります。魂の存在を検証するのは一生かかりますが、魂の存在を信じて、見えてくるもの、見えなくなるものを学ぶと短時間で森羅万象の背後にある真理が必ず見えてきます。この思索方法は人生を短時間で深めてくれます。

人間とは<魂と心と身体をもつもの>:その魂とは<病む事もなく、死ぬ事もない、永遠に生きるもの、普遍的な知恵をもつもの、自由意志もあり記憶力もある、臨終の時、初めて身体から離れていく知的生命体>を言います。
:<NPD3:慈眼論:34-3>:

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不安感での愛の眼差し

2006年12月20日 | 第1章:愛の領域
人は時々、不安になります。そんな時、自分をじーっと暖かく愛の眼差しで見守る人の存在を意識出来る人は幸せ。自分を見守る人が居る、と意識出来る人と出来ない人が居るのは何故でしょうか? 自分は嫌われ者で、誰一人、見守る人は居ない、と思うのは絶対に間違いです。人間であれば、必ず存在しています。自分には居ない、と思う人の場合は、自己分析能力が非常に欠落しています。訓練不足、知識不足が原因でしょう。どういう訓練が必要なのでしょうか?答えは一つ、自分の魂の存在を信じる事、病気の時の不安も、臨終の時の不安も、日常生活で感じる、ふとした孤独感、不安感でも、自分の魂を信じる訓練をする事が一番重要です。自分の魂は絶対に裏切る事はしません。心と身体は自分を裏切る可能性がありますが、魂は裏切りません。魂は病むこともなく、老いる事もなく、死ぬこともなく、自由意志があり、記憶があり、永遠、普遍の知的生命体だからです。この定義は欧米の一流大学の宗教学での定義です。オカルト風は駄目ですが、学問としての魂論を生涯研究していくと納得されるでしょう。:<NPD3:慈眼論:34-2>:

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目に見えない視線

2006年12月19日 | 第1章:愛の領域
子供の頃、大人から<ばちがあたるよ>とか<たたりがあるよ>とか言われて震え上がった事があります。お天道様が見ているよ、と言われていたので、お腹がすいて、よそ様の柿の木で失礼している時、時々お日様を見ながら柿を食べていた終戦の頃の我が少年時代を想い出す事があります。大学病院での治療の時も、いつも何かにおびえている患者さんが居ましたし、日常生活でも、何となく他人の視線を先ず一番に気にして生きている人々が沢山います。今回から5回にわたり、暖かい視点と暗く恐ろしい視点について思索していきます。暖かく自分を見守ってくれている両親、友人、先輩、恋人、神仏を意識出来る人は世界に沢山存在しています。いつも変わらぬ暖かい視線を意識出来て、かつ、その視線に心満たされて生きる事が出来れば、人生怖い事はありません。:<NPD3:慈眼論:34-1>:

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二つの方向、どちらが幸せ!

2006年12月18日 | 第1章:愛の領域
人と会う時、本能的に、相手の良い点、自分にとって心地よい点を見抜く人がいます。大変な努力と修行をして、人間の美しい心、優しい心、技能の秀でた所・潜在能力を見抜くのです。かたや嫌な所を何故か上手に探し出す人も居ます。自分にとって心地よいものを探し出すのは人生の楽しみの一つですが、心から感動し賞賛したくなる衝動を人は時として感じるものです。そんな時の賞賛の心を私は素直に出さない習慣を自然に身につけたようです。面と向かい賞賛していい場合と、相手を駄目にする、傲慢にする、図に乗らせる経験をしてきたからです。沈黙の内に相手を賞賛すると自然に私の眼差しが慈眼となり、その愛情が相手に素直に伝達されると美しい人間関係が沈黙の内に育まれる経験をしたからでしょう。相手の美しい所を探し出す人生を選びたいものです。:<NPD3:賞賛論:33-5>:

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求める相手は誰?

2006年12月17日 | 第1章:愛の領域
求める相手が友達、両親、学友、恩師、恋人と、その折々の人生で異なります。どの場合でも、たまたま、その時、求めた相手が悪いと、人生が狂います。今、放映され来週が最終回の<嫌われ松子の人生>はその典型でしょう。さて、私が高校2年生の時、母が帰天してしまいました。人生の半ば頃まで、夢を見ました。山を越えた或村に母が住んでいる、と聞いて探しに行く夢でした。無意識で愛する人を探し求めていたのです。さて人生では自分の魂と心と身体を理想通りに満たしてくれる人はまずありません。しかし理想は極めて大切で諦めてはならないもの。一番良い在りようは、神仏を中心に螺旋状に理想に向かい、共に上昇していく人が存在すれば、もうその人生は最良のものと言えるでしょう。山あり、谷あり、しかし同じ理想に向けて歩んで行く人、仕事の上でも、愛の生活の上でも、大きな夢、理想等、志を同じくする同志、と目標に向かって歩んでいく人生は最高です。理想の人間が居なければ、同じ志に向けて、共に歩む人が一人でも存在すれば、心は十分、満たされます。まして数名の同志が存在する人生は最高。
:<NPD3:賞賛論:33-4>:

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