風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『野田版 桜の森の満開の下』 @歌舞伎座(8月18日、23日)

2017-08-23 23:32:18 | 歌舞伎

 

アア美しい、ということは、要するに仏像だろうと魔王であろうと、芸術の全部ではないですか。文句はいらんです。アア美しければ、あとはいらんナ。
(坂口安吾 『飛騨の秘密』)


八月納涼歌舞伎の第三部、『野田版 桜の森の満開の下』を観てまいりました。
坂口安吾は好きな作家なので、演目が発表されたときから観に行こうと決めていたんです。
18日(中日)は3階A席、23日は1階8列目中央。

たーのしかった~~~~~


といっても野田作品を観るのは初めてで、安吾も未読の作品は沢山あるし、古代史も全然詳しくないので、今回ばかりは事前に遊眠社の映像を見ておいて正解でした。感性で楽しむといってもやはり限度はあるもの
それにしても野田さん、すごい!!
『桜の森の満開の下』&『夜長姫と耳男』&『安吾の新日本地理』&『飛騨の顔』を一つのストーリーに再構築して、『桜の花ざかり』や『堕落論』や『不良少年とキリスト』などの安吾作品のイメージや台詞をさり気なく散りばめて、最後には壮大なスケールで”安吾野田ワールド”を作り上げてしまっているのだもの。生まれ変わりはダテじゃなかった笑。
観終わったときに胸に残った感覚は、安吾の本を読み終わったときのそれと同じでした。突き放されたような、冷たく静かで透明な孤独感。だからこそのこの世界の全てを受け入れてくれるような大きな大きな安心感と優しさ。
「この桜の木の下からどこにもまいらず、けれどどこにでもまいれるおなじない」。ああ、芸術って、舞台って本当に素晴らしい
そして『桜の森~』の山賊は消えてしまうけれど耳男は生き残るから、生存の孤独はふるさとの揺り籠にすぎず安吾は「その先」に私達を連れていきたかったのだと思うから(『文学のふるさと』)、寂しくはあるけれど、今回の配役が勘三郎さんと玉三郎さんではなく勘九郎と七之助であったことは、この作品の自然な巡り合わせだったのかもしれません。

以下、私なりのストーリー解釈です。こういう作品にヤボは百も承知ですが、自分用整理のための覚書(筋書もイヤホンガイドも聞いておらず、歴史も文学も全く詳しくないので、誤りや的外れもあると思いますが・・・)。

壬申の乱の直前、まだクニの輪郭が曖昧だった時代、ここは「ヒダの王家の王」が治めるヒダの国。
※『夜長姫~』の「ヒダの国の長者」は、野田版では「ヒダの王」となっています。これは安吾が日本の源流として存在を主張しているヒダ王朝のことでしょう。ただし安吾は「どこかの段階でヒダの王(大国主or神武天皇or崇神天皇or欽明天皇)はその地を去り、大和飛鳥に新たな都を築いた。後の時代にヒダの庶流(天武)は嫡流(大友皇子。or聖徳太子or山代王or日本武尊。安吾説ではみな同一事件における同一人物の分身)を故郷ヒダへと追い落とし、亡ぼした」としていますから、壬申の乱の時点でヒダに「王国」が存在しているのは野田さんのアレンジでしょうか。となると近江朝廷とヒダの王家に同時期にヒダの嫡流が存在することになってしまいヘンだけど…。それとも野田戯曲のヒダ王家は、近江朝廷に味方する地方豪族の一つにすぎないとか?野田さんは手塚治虫の『火の鳥』も織り交ぜてるそうなので、安吾の歴史世界とは違う部分もあるのかも。

ヒダは近江の都から丑寅の方角にあたり、そこには鬼達が出入りするといわれる鬼門がある(安吾は壬申の乱の舞台はヒダであったとしています)。鬼は人の目に見えてはいるが、人から無視されている存在。その鬼門は現在ヒダの王の力で抑えられており、クーデターを企てているオオアマは早寝姫に近付き、門を開く機会を探っている。その日が近づくと、オオアマは早寝姫を殺し、ヒダの王の魂を腑抜けにさせる。そして都で天智天皇が崩御し、夜長姫の十六の正月に、耳男の彫ったバケモノが門に据えられ鬼門が完成する。門が開かれ、クニ(物語)の内側に入る機会を窺っていた鬼達が一斉に雪崩れ込み、彼らを引き連れてオオアマはついに缶(王冠)を蹴った。こうして近江朝廷への謀反の火蓋が切られた。
時が立ち、かつてヒダであった場所は天武天皇が治める飛鳥の都(飛鳥浄御原宮)となっている。そしてヒダは始めから存在していない、幻の国とされてしまった。今や念願の「人」となって朝廷に取り立てられている鬼たちだが、一部の者は現状に不満を抱き、自由だった昔を懐かしんでいる。天武は「新しい国に鬼は作らない」と言い、鬼門を閉ざした。今や鬼は完全に”いない”存在となった。しかし天武は「国を清らかにするために鬼のミソギを済ませる必要がある」と、あえてヒダに関係する者達を「鬼」に仕立て上げ、野に放ち鬼狩りを行う。彼らが殺されるたび、国の輪郭が定まっていく。耳男は「鬼の逃げ道」の道しるべとして鬼の顔(仏像等の像?)を道々に彫りながら丑寅の方角へ逃げる。そこはかつて人と鬼が諸共に生きていた時代の、幸福な王家の夢が眠る桜の森。そしていま、目を覚ました彼らの帰り道のよすがとなるのは、耳男が逃亡の道々で記してきた道しるべ。時も空間も超えて残る、名もなきヒダのタクミの名もなき芸術。


という国造りのストーリーに、耳男のミューズ夜長姫ちゃんとのラブストーリーが絡む、と。というかメインテーマは夜長姫の方だと思うけど、そっちは自分用覚書は不要なので書きません笑。

以下、舞台の感想。

【一幕】
意味のあるようなないような(たぶんほとんどはない笑)ダジャレとギャグの洪水は、氷点下なサムさを覚悟して行ったのに、役者さん達はさすがに上手くて意外なほど楽しめてしまった笑。そして笑っているうちに気付けばとんでもないところに連れて行かれてる展開は、野田さんお得意の手法みたいですね。他の野田作品の感想をネットで読んだら、やはりそういう感じでした。この作品は歌舞伎になったことで前半のスピード感が失われたという感想をいくつか見かけたけれど、私はそうは感じなかったです。歌舞伎でも十分スピード感は残ってると思う。全く飽きなかったですし、あれでも私には付いて行くのがやっと。言葉の意味なんて考えずとにかく聞いてりゃいいのだよ、とわかってはいても、やっぱり耳に入ると反射的に意味を理解しようとしちゃうのが人間で。そういう点で歌舞伎版は全体に台詞が良い意味でわかりやすく親切になっていたので、私は遊眠社のそれよりも却ってテンポよく疲れずに楽しめました。

【二幕】
スピード感という点ではむしろ、今回絶賛されている夜長姫の刺されてから海老ぞりで倒れるまでの場面が、私にはちょっと引っ張りすぎ(ウェットすぎ)な印象を受けたのですが…。なんというか夜長姫が主役の話に見えてしまうというか。個人的には、あそこは遊眠社版のようにもうちょいサラリとしている方が安吾らしくて好みです。「みんなみんな死んでほしいわ!」も、子供のように無邪気に可憐にあの台詞を言うところに夜長姫の底知れぬ恐ろしさ+美しさがあると思うのだけれど、野田戯曲のここの姫は鬼ぽさ全開なのよね…(これは遊眠社版も同様)。『桜~』と合体させたゆえの弊害か…。でも舞台上の七之助と勘九郎の二人がすっごく美しかったので、美しければなんでもいい、と思わされてしまったあのパワー笑。そしてその後の場面。擦れ違う人と鬼、天武帝の一行と幸福な王の時代の鬼達の道行。鬼に人は見えても、人に鬼は見えていない。その真ん中に、夜長姫の衣と鬼面を胸に抱き一人座る耳男。この場面、もうもう素晴らしかった。美しかった。安吾作品をこんなに美しい舞台作品にしてくれて、野田さん、ありがと~~~!!!

・・・と涙が出そうになりながらウットリしつつ、ミュージカルファンでもある私はラストの勘九郎がオペラ座の怪人のメグに見えてしまっていたりして(オオアマ調)。布の下で肉体が消えて、仮面だけが残って、その仮面を手に呆然とするポーズ。ほら、同じ笑。

缶けりの日(物語の中に入る日)が近づくにつれ段々七五調になってきちゃうオニ達、黒衣とオニをかけてたり、耳男の毛振りだったり、桃太郎が二人だったりと、あちこちに歌舞伎リスペクト?があって楽しめました。

役者さんは、皆さん、本当に素晴らしかったです。
七之助(夜長姫)。
カワユイ 鬼門の上で足ぶらぶら、お人形さんガツンコ、耳男の小屋に火をつけて焼き芋、小首を傾げていや~まいったまいったな~、ふわふわスキップ、明日からイイコになって耳男のために朝から早起きしちゃって、戦の死人にお目々キラキラ、みんなみんな可愛い 姫の曇りのない透明感もよく出てた。この透明感がないと、あの怖さも、ラストの美しさも出ないものね。コワいけれどトキメイタよ~。遊眠社の鞠谷さんもそれはそれはすんばらしかったけれど、七之助はまた違うタイプでこちらもとてもよかったです。
耳男のミューズである夜長姫は、芸術家が対峙する”芸術の根源”そのものの具現化なのだと思う。ちっぽけな人間の善悪など超越したあまりに大きな、芸術家にとっては殺すか殺されるかしかないような、そんな存在。

勘九郎(耳男)。
「お供え物と女優には手をつけません」笑。
野田さんの耳男も素晴らしかったけれど、勘九郎もとてもよかった。ヒメに腹たちつつ魅かれちゃってる感じがいいわ~。
最後に鬼女に混じって夜長姫の声が聞こえるところは、「あ、その声」って驚く感じの野田さんの演技がすごく好きなんですけど、勘九郎はただ静かに嬉しそうに受け入れていたのが印象的でした。夜長姫を殺して桜の木の下に一人座っている耳男は、それまでの彼とは違う。下って、下って、落ちて、落ちていったその先の景色を芸術家は見るべきである。でも人が人である限り永遠に下っていくことはできない。その此岸と彼岸、生と死の境界ともいえる場所。絶対の孤独。あらゆる人間のふるさと。桜の森の満開の下。この場所から耳男は生きていく。

染五郎(オオアマ)。
イルカ(入鹿?or単に大"海"人皇子だから?)を背負ってご登場
こういう役やっぱり似合う~。貴族風な気品と、何考えているのかわからない腹黒さと、ガラの悪い笑み。早寝姫(梅枝)との、あはは~♪うふふ~♪な追いかけっこも楽しかった笑。コメディ演技も、こういう作品ではただただ感心。
この作品、中村兄弟にとってはもちろん特別なものだと思いますが、染五郎にとっても特別な作品なのだそうですね。その昔「もう役者をやめよう」と悩んだときに、この作品を観て「やめるのはやめよう」と思えるようになったとか。

猿弥さん(マナコ)。
山賊の俗物さ、正義感、心の温かさ。上手い&かっこいい~。牢獄でヤクルト片手に持ってる姿がすんごい可愛い ただ、台詞がちょっと聞きずらかったのが残念だったな。猿弥さんでこういう風に感じたのは初めてなので、早口があまりお得意ではないのかな。

巳之助(ハンニャ)。
飄々とした異世界ぽい空気、よかった~。みっくん、こんな空気も出せるんだね。バケモノにお手々ふりふり。こういうアニメぽいキャラクターは若い役者の方が上手いのかも。そういえば三年前の納涼は、三津五郎さんの「たぬき」を観ていたのだったなあ。。
同じように人となった鬼でも、天武天皇に忠実な赤鬼やハンニャはそのまま国に残り、クニヅクリの深謀(辛抱)遠慮の棒のリクツを解さずヒダヒダ話をしてしまった青鬼やエンマは殺されるのね。鬼は地方豪族、そして権力に服さない者達の比喩でもあるのでしょう。

彌十郎さん(エンマ)、扇雀さん(ヒダの王)。
軽みと貫禄がとても良かったです。ほんと、皆さん上手いなあ。扇雀さんの「ホリチエミ!」「エリチエミ!」は二度観て二度とも笑ってしまった。間が上手すぎる笑。

芝のぶさん。
エナコもよかったけど、個人的にヘンナコがすっごくツボでした笑。ナウシカ唄っとる(23日)
※追記:芝のぶさんのブログで知りましたが、ラストシーンの鬼女達の重要な台詞、芝のぶさんが仰っていたんですね。「そんなところにじいっとして、冷たくはありませんか」「鬼のみそぎを済まされて、帝が御行きなさっているところです」「森に迷いし王家の夢が帰り道、探しましたぞ」。どれもとても良かったです!

舞台美術も、実に実に美しかった。背景と花道と床に描かれた日本昔話のような山々も素敵だったし、セリを使った牢獄も面白かったし、耳男達の逃避行で桜色の薄布が舞台を交差する美しさといったら・・・!!3Aって久しぶりに座ったけど、観やすいですねー。一階席前方で観たときに感動したのは、ラストの夜長姫と耳男の殺し場の桜吹雪の舞い方。ただ散るんじゃなくて空中で風に狂い舞う様がもっっっっのすごく綺麗だった。あれどうやってるんだろう(横から風吹かせてるの?)。歌舞伎の手法では観たことがない感じのような。
歌舞伎の手法といえば23日は静かな場面で大向うがかかっていて、それがあまりにも舞台と合わなくて(-_-;)、掛け方にも問題あったかもだけど、同時にこの作品の歌舞伎味の薄さを実感してしまったのでありました。ここがキメどころ!みたいな箇所が殆どないからかなぁ。とはいえ私は「こういう歌舞伎もあっていい」派でございます。

両日ともカーテンコール2回。
ワタクシ歌舞伎のカテコ大反対派ですので事前に聞いていた情報で「おいおいまたですか」と思ったけど(実際、カテコなくても十分感動する後味だったし)、客席が拍手で役者を呼び出すというより、ラストの音楽の延長のようなカテコだったので、少しほっとしました。「今死んだらカーテンコールがもらえない」的な台詞があるので、これも含めて完成する舞台なのかな、とか寛容に捉えてみたりして。神妙な表情の主役たちの後ろで、笑顔で飛び跳ねて手を振る人達笑。でもやっぱりキライデスケドネ、カブキノカテコ。やらない方が絶対粋でカッコイイ。

あ~、本当に楽しかった
真夏の夜の桜の森に存分に酔いしれさせていただきました!
舞台ってやっぱり魔法だ。

19日に、日本橋高島屋で開催されている沢田教一展に行きました。当時ベトナムの人々が最も強く望んだことは、「ありのままの姿を歴史に記録してほしい」ということだったそうです。そして沢田らはその想いに応えた。応えることができた。ベトナム戦争は戦場においてジャーナリスト達が自由で自律的な取材が許された、メディア規制を受けなかった最後の戦争だったそうです。『野田版 桜の森の満開の下』のテーマとも重なるところがあって、考えさせられました。






そういえば23日の幕間に早めにロビーに出たら、野田さんらしき方が楽しげな笑顔で歩いておられた。すごく小柄な方なんですね。野田さん、素敵なお芝居をありがとうございました!


★おまけ★

安吾といえば、ルパン
昔行ったときの写真です。歌舞伎座から遠くないのよね。一人で行く勇気はないケド。あ、年配のバーテンさんはとても感じのよい方でした。

 
この照明の暗さがいいねえ 
奥に並んでる3枚の額は、このバーで座談会をしたときに撮られた織田作&安吾&太宰の有名な写真です。みんないい表情してるのよネ。
そういえば安吾の奥様の三千代さんは、『贋作 桜の森の満開の下』の初演を観て大層楽しまれたのだとか。私は安吾も好きだけど三千代さんもとても好きなので、これは嬉しいエピソード。

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