風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

宮永 孝 『慶応二年幕府イギリス留学生』 2

2007-10-12 22:31:47 | 

私たちの仲間には、”教養人”と呼ばれたいと思っている者は一人もおりません。また、わが国の政府も、私たちがイギリス人と同じ教育を受けるものとは思っておりません。しかし、私たちは特殊技術や科学的知識を十分に修めたいと思っております。

(宮永 孝 『慶応二年幕府イギリス留学生』)

幕府イギリス留学生14名は、他の国々へ行っている留学生達から、全員が同じ家で生活すると学ぶつもりの英語を用いずいつも日本語ばかり話してしまうからためにならない、と聞いていた。
だからイギリス到着時に「分宿させてほしい」と世話人ロイドに頼んだが、分宿させると金がかかり自分の取り分が減ることを好まなかったロイドは、この申入れを拒否する。
14名は同じ家に住み、教師も1名のみという生活を強いられることになる。
彼らが杞憂していたとおり学問は一向に進まない。
そして渡英後一年経った1867年11月11日、ついに留学生達は反乱を起こし、外相スタンレーに抗議書を提出する。
上記文章はその手紙の一部で、原文は英語で書かれている(彼らの字がまた上手・・・)。

10代~20代前半の彼らが、鎖国を続けてきた日本から異国にやってきて心細くないはずはないのに、「分宿させてほしい」と反乱まで起こすなんて、えらいものだなぁ。
結局分宿を許され、ぐんぐん英語力も伸ばした彼らは、年末にはロンドン大学に入学し、好成績を修めている。

しかし彼らがこの抗議書を提出した2日前の11月9日、日本では徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、264年間続いた徳川幕府は終わりを迎えていた。

翌1868年(明治元年)6月、彼らは学業半ばで帰国を余儀なくされる。

留学生の一人林董などは諦めきれず、漂流民の彦蔵がアメリカ人の世話で学校へやってもらっていたことを思い出し、自分もアメリカへ渡ろうと決心する。
そして旅費をつくるために先祖伝来の名刀を骨董店に持ち込むが、ついた値はたったの5シリング。
店の主人曰く「英国人は日本刀の珍しき故に買う者あれど、品のよろしきを選みて買う者なし」。
林は泣く泣く皆と共に帰国せざるをえなかった。
帰国後は榎本武揚ひきいる旧幕府軍に身を投じ、五稜郭まで戦うことになる。
明治政府では外務大臣などを務めた。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする