風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

京極夏彦 巷説シリーズ&京極堂シリーズ

2007-04-13 00:09:41 | 



※ネタバレ超注意

巷説シリーズを読んだ後に京極堂シリーズを読み返すと、思いのほか理解が深まって面白いですねぇ。
パラパラ読み返してみました(さすがにシリーズ全部読み返す時間はない・・・)。

「日常と非日常は連続している。確かに日常から非日常を覗くと恐ろしく思えるし、逆に非日常から日常を覗くと馬鹿馬鹿しく思えたりする。しかしそれは別のものではない。同じものなのだ。世界はいつも、何があろうと変わらず運行している。個人の脳が自分に都合よく日常だ、非日常だと線を引いているに過ぎないのだ。いつ何が起ころうと当り前だし、何も起きなくても当り前だ。なるようになっているだけだ。この世に不思議なことなど何もないのだ」
(『姑獲鳥の夏』p423)

「世に不思議なし。世、凡て不思議なり。怪を語れば、怪至る」
(『後巷説百物語』)


人は、この世で生きていかなければならない。
人を辞めてしまわない限り。
だから又市達は、果たせぬ想いや遣る瀬ない気持ち、怨みつらみ妬み嫉み、悲しみや憎悪まで、有りと有らゆる辛い現実を、凡て化け物の仕業として円く収める。
世界はただそこに在るだけで、化け物も「非日常」も、人の心が生み出す幻にすぎない。
だから要は遣り方次第。

化け物や非日常を道具として使う化け物遣いの又市と、憑き物落としの京極堂。
その基本的な決着方法の違いは、やはり時代の違いというものなのかもしれません(たまに又市も憑き物落としっぽいことしてるし、京極堂も憑き物つけたりしてますけどね)。
「山男」と『鉄鼠の檻』のラストでの「山」の扱いが興味深いです。
里の者から見れば存在自体が非日常であり化け物であった「山」。
そういった存在が時代とともに消えてゆくのをやはり寂しく思うのは、百介も京極堂も同じで。
けれど、時は流れるもの。時代は変わるもの。

「時代が――違う」
「百介さんは善ッくご存知でしょうに。妖怪てェのは、土地に湧くもの時代に湧くもの。場所や時世を間違えちゃ、何の役にも立ちゃしないのサ。御行の又市は妖怪遣いで御座んしょう。ならばこのご時世に相応しいモノを遣うに決まってる」
(『後巷説~』p547)

「あの寺は――やっぱり幻想だったのかな」
「そんな訳はない。蔵が残っている」
「そうだが――」
「ああ云う場所はもう――これから先はなくなってしまうのだろうな。そうした場所はこれから個人個人が抱え込まなくちゃいけなくなるんだ」
京極堂はそこでふう、と気を抜いて、
「まあ時代の流れだ――仕方がないか」
そう云って窓の外を見た。
(『鉄鼠の檻』p825)

ただそれは、「山男」のラストで与次郎が強く言ったように、化け物が要らない存在になった、ということにはならないでしょう。
ここで京極氏が「妖怪」と「化物」と漢字を使い分けている理由はよくわかりませんが(なんで・・・?)、京極堂の憑き物落としが必要とされるように、時代が変わりその形が変わっても、人が存在する限り「化け物」(妖怪ではないかもしれないけど。あ、漢字を変えたのはそういう意味か?違うかな・・・)は存在し、また必要ともされるのではないかなと思います。だってこの世は相変わらず辛く悲しいしさ・・・。誰かが「今の時代こそ又市がほしい」って言ってたわ

京極堂も又市も、彼岸と此岸の境界、彼岸をのぞきこむ位置に立つ人間。
それは生半可な覚悟で立てる場所ではなく、百介にはどうあってもそこで共に生きることはできなかった。でも百介はそれを悟って身をひいた(?)だけマシかも。だって関口君は覚悟もないのに彼岸に惹かれて惹かれて仕方なく、ちょっと目を離すと自らふら~とそっちへ引き寄せられていってしまうのだもの(笑)。京極堂も苦労するねぇ。

「いずれ訪れるであろう破局を、明日か今日かと待ちつづける毎日は死ぬより辛いじゃないか。たとえどんな結末にしろ、その地獄から彼女を救ったのは君だ。彼女は、だから君に礼が言いたかったのだと思う。彼女は最後に、ありがとうと言ったんだよ」
京極堂はそういって、ちょっと笑った。
何だか遣り切れなくなった。
「だが・・・・・・僕達が関わりさえしなければ、もしかしたら破局は訪れなかったかもしれないじゃないか・・・・・・」
「そんなことはあり得ない。万が一、梗子さんが藤野の死体を抱きながら生まれない子供を永遠に妊娠し続けることができたなら・・・・・・そして涼子さんが姉としてそれを永遠に見守り、かつ母としても永遠に終わらない拷問を行い続けることができたなら・・・・・・それは『ある意味で』幸福だったかもしれない。しかし時間は止められない。肉体はどんどん現実の記憶を重ねて行くんだ。遅かれ早かれ必ず最後・・・・・・破局は訪れる。それがどんな形で、いつ訪れるのかが問題だ。彼女は最後の最後に、ただ流されることを止めて、その破局を演出することを望んだのかもしれない。君は関わるべくして関わったのだよ」
(『姑獲鳥の夏』p426)

又市の仕掛けは、ここでいう破局の演出のような一面を持っているのだろうなぁと思う。
弔い装束もさもありなん・・・。
そして、時は必ず流れる。
破局は再生へ、終わりは始まりへと、続いてゆくのでしょう。

これで、巷説週間は終わりとします。
ひさびさに濃ゆ~い一週間を過ごすことができました。大満足(^^)
とってもお名残惜しいけれど、いい加減に此岸へ戻ることにいたします。
しかし京極氏の本はあんなに「彼岸にゃ行くな」と言っているのに、読むと彼岸に行っている&行きたい気分にさせられるのはなぜでしょう。。
行っている気分になるのは、あの殺人的な本の厚さ(に伴う内容の濃さ)のせいに違いない。
行きたい気分になるのは、、、又市がカッコよすぎるからよ!
ああ、又市がいるなら私、彼岸の住人になってもいい。そういう幸せもアリじゃない?・・・なんて思ってしまう私は本気でやばくなる前に、自力で此岸へ戻ります。

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