風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

京極夏彦 『嗤う伊右衛門』

2007-04-12 02:31:10 | 



「お前様は立派だ。強エ。そして間違っちゃいねえが、正しくもねえ。お前様は強エから、他人の痛みが善く解らねえんだ。自分は痛くなくったって、他人は痛ェんだ。お前様が痛くなくったって、傍は痛エだろうと思うンだ。・・・・・・想いってのはねお岩様、どんな想いでもそのまンま相手に通じることなんかねエんです。想われる方が勝手に作り出すもので御座居ましょうよ。ですからね、いずれ――喜ぶも怒るも――お前様次第で。・・・・・・そうやって、周りの囲いを破りまくっても、お前様は孤立するだけですぜ。幾らお前様が強くったって、そう保つもんじゃねえ。・・・・・・いいですかい、お前様の父上は、それは正しくはねえかもしれねェが、ただお前様のことを想ってはいますぜ」
(『嗤う伊右衛門』 p73)

生きるも独り。死ぬのも独り。
ならば生きるの死ぬのに変わりはないぞ。
生きていようが死んでいようが汝我が妻、我汝が夫。
(同p365)

「綺麗の醜いの、男だの女だの、侍だの町人だの――余り関係ねェことなのかも知れやせん」
(同p367)

※ネタバレ注意

というわけで『嗤う伊右衛門』、二回目読了。
数年前に友達から借りて読んだのですが、せっかくなので今回はちゃんと購入しました。
装丁が綺麗で嬉しいです^^
殆ど内容を忘れていたので、新鮮な気分で読み読み読み読み・・・・・・そして思い出した。私、近親相姦モノが苦手なのだった・・・。
だから前回読んだときの感想が、悪くはないんだけど・・・だったのである・・・(京極せんせいは多いですよね...)。
でも今回は巷説世界にどっぷりつかり中だったため、殆ど気になることなく素直に楽しむことができました。
やることなすこと後手まわってしまう、人間らしい又さんがいいですねぇ。
彼が関われば関わるほど、人が死ぬ。

又市はできれば伊右衛門を救いたかった(此岸に繋ぎ止めたかった)だろうと思います。
でも、できなかった。
事態はもうどうしようもないところまできてしまっていたし、なにより伊右衛門はすでに彼岸の住人となってしまっていた。
そこでは、綺麗の醜いの、男だの女だの、侍だの町人だのは関係なく、道徳だの倫理だのも通用しない。生きるの死ぬのも変わりはない。
それはすでに人を超えた存在。
彼らの行動原理は、彼らにしか理解することはできない。
伊右衛門にとっては、ただ岩と共にいることだけが幸福だった。
笑って死んだ伊右衛門は、「幸福」だったのだ。
静かで、壮絶で、美しいラストシーン。
『魍魎の匣』を思い出しました。
・・・と書いたところで気付いたけれど(遅すぎ?)、ラストシーンだけでなく、このお話、『魍魎の匣』とすごく重なるんですね。箱の中に幸福があるところも、近親相姦も・・・。
箱は、彼岸と此岸の境界の象徴なのでしょう。けれどそれも、人の心が生み出すものにすぎない。魍魎の箱の中身が、雨宮にとっては「美しい少女」であっても、いさま屋には「真っ黒い干物」にしか見えなかったように。

そして思い出すのは「帷子辻」。
生者と死者の絆を信じ死者を愛し続ける与力に対し、又市は「人は死んでしまえばただのモノ」という現実をつきつける。
それ以上犯行を重ねさせないために。

又市がぽつりと言う。
「悲しいやねえ、人ってェのはさあ」
そして微かに笑った。
「奴は――」
「なんですか」
「奴はね、先生、あの与力の――」
あいつの気持ちが少しだけ解りやすよと結んで、御行の又市はりんと鈴を鳴らした。
(『
巷説百物語』 p511)

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