シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

沈黙~サイレンス

2017-01-23 | シネマ た行

キリシタンが弾圧を受けていた江戸時代。師匠のフェレイラ神父リーアムニースンが弾圧された結果、棄教し、日本名を名乗り日本で暮らしているというウワサを聞いた弟子のロドリゴ神父アンドリューガーフィールドとガルペ神父アダムドライヴァーはその真相を確かめるべく日本へ向かう。マカオでキリシタンだという日本人キチジロー窪塚洋介の案内を受け日本に上陸する。そこには隠れキリシタンたちがひっそりと信仰を守りながら暮らしており、神父の到着を歓迎する。神父たちの存在がバレてしまうと弾圧を受けるため、村のはずれの石炭小屋に昼の間はずっと隠れて、夜の間に村でミサを開いた。

キチジローは、かつて踏絵を迫られキリストの絵を踏んでいた。その時家族は踏むことを拒否し生きたまま焼かれた。キチジローはそのことについてロドリゴに懺悔し、ロドリゴも神は赦してくださると考える。

ついに村に井上筑後守イッセー尾形たちがやって来て、村人たちのうち4人が捕らえられる。ロドリゴは絵を踏みなさいと言い、ガルペはそんなことは赦されないと言う。村人たちは絵を踏むことはできたが、十字架に唾をかけろと言われキチジロー以外の3人は唾をかけることができず処刑台に乗せられ荒波の海へ放置される。ロドリゴの見ている前で、信仰を貫いた村人たちは死んでいき、最後に残ったモキチ塚本晋也も讃美歌を歌いながら4日目に死んでいった。

奉行所の追求から逃れてきたロドリゴだったが、キチジローの裏切りで奉行所に捕らえられてしまう。キチジローはキリストを裏切ったユダのごとくロドリゴを銀で売ってしまうのだ。

他の信者たちと共に捕らえられたロドリゴ。筑後守は狡猾にも殉教者を出すわけにはいかないとロドリゴを丁重に扱いながら、目の前で踏絵をしない信者を無残に殺していく。神を信じここまで苦しみぬいている信者たちを前に神は「沈黙」を通すばかりで、ロドリゴの信仰は大いに揺らぐ。信仰が揺らぎつつも、捕まえられた信者たちには絵を踏みなさいと言ったロドリゴでも自分の棄教となるとそう簡単ではない。

ロドリゴを売ったキチジローは自らキリシタンだと申告し同じ牢に入ってくる。何度でも踏絵をし、神父を裏切り、その都度何度でも懺悔するこの男にロドリゴは軽蔑しか感じられなかった。

そんな時筑後守はロドリゴに棄教したフェレイラを会わせる。自然を信仰するこの国において彼らが信仰するキリスト教は自分たちが布教したものとは形が違うものだと諭される。

夜中に牢にいたロドリゴに聞こえてくるイビキの音。うるさくて仕方がない。止めてくれと言うロドリゴが牢の外に出される。それはイビキなどではなく、耳の後ろを切られ逆さづりにされ時間をたっぷりかけて殺されようとしている信者たちだった。彼らは棄教している。しかし筑後守はロドリゴが棄教するまで彼らを許さないと言う。ついにロドリゴが絵を踏む時が来る。

神は「沈黙」していたのではなく、「苦しんでいた自分と共にあったのだ」ということを知るロドリゴ。彼はその後の人生を棄教した神父としてフェレイラと共に日本で幕府に仕えて暮らすのだった。

信仰を貫いて逝ったモキチを始めとする信者たち、信者を助けようと死んでいったガルペ神父、何度神を裏切っても信仰を続けるキチジロー、信者を助けるために棄教したフェレイラ、踏絵とともにロドリゴの周りで何度も何度もロドリゴの信仰を試す存在が現れる。

たかが絵を踏んでも心の中で神を信じていれば神様は分かってくれるはず。そう思えたらどんなに楽だろうか。キリスト教の神は「愛の神」であると同時に「試す神」でもあると思う。このお話の中では最終的にロドリゴは絵を踏み、棄教しても心の中の信仰は続けたと解釈すれば良いのだろうけど、それが本当に彼が信じてすがる神に許される行為なのかどうかは分からない。

どんな試練を与えられても、どんなに救いがなく神が「沈黙」を通しているように思えても、「神の計画」を人間が推し量ることはキリスト教では許されていない。それでもイエスは自らと共にあったと思えたロドリゴはある意味では心の平安を得ることはできたのかもしれない。

信仰を守り抜くことが人間の強さなのか、目の前の命のために棄教することは弱さだというのか、キリスト教的に正しいとされることと他の価値観で正しいとされることの違い、弱い人間を踏みつぶす権力の恐ろしさ、色々なことを一気に投げかけられ心に重いものをズシーンと抱えさせられる。

アメリカ人が描いたとは思えない日本の風景と、丁寧なストーリーテリング、マーチンスコセッシ監督の技量に改めて感服せずにいられない。