シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

無言歌

2012-01-19 | シネマ ま行

1956年毛沢東は共産党への自由な批判を歓迎するという政策を打ち出したことで、人々は自由に発言を行うが、翌年180°方針は転換し、自由に党を批判した人々は再教育収容所へ送られる。その収容所での過酷な生活を描き出した作品。

物語は実に淡々と収容者たちの様子を映し出していく。砂漠の中の穴倉での生活。最初は強制労働をさせられていたが、中央の政策の失敗による大規模な食糧不足で収容所にも食糧が届かなくなり、作業は免除される代わりに食糧も自分たちでなんとかしろということになる。砂漠の中のわずかな草の種を食べる者、ねずみを捕まえて食べる者、具合が悪くなった収容者が吐き戻した物まで食べる者も。次々に人が死に、毎日のように誰かを砂漠に埋める。極度の飢えからその遺体を食べる者まで現れ、彼らは処罰される。

この反右派闘争というものに巻き込まれ、収容所に送り込まれ過酷な生活を強いられた人々の握りつぶされた人生をいまでも撮影許可を取らずに撮影しなければならない中国で描くというのはもの凄く勇気のいることだろうとは思うのだけど、ちょっと映画作品としては淡々としすぎていて見続けるのが辛いものがある。

物語の核となる筋がきちんとあるわけではなく、収容者個々のエピソードが時折挟まれる状態で進むにも関わらず、中盤からいきなり、董建義ヤンハオユーが自分の遺体の後始末を李民漢ルウイエに言い残して亡くなり、董建義の妻・董顧シューツェンツーが訪ねて来て夫の遺体を探して砂漠を這いずり回るというシークエンスがかなりの時間を割いて描かれ、その後李民漢が自分の師匠という老人と一緒に脱獄しようとする姿が描かれるのだけど、李にしても董にしても、それまでずっと彼らの生活を追っていたわけでもない状態でいきなりスポットライトが当てられた感じがして、見ているこちらとしては「この人誰?」ってな感じになってしまった。李が一緒に逃げた師匠のことをかばって寒いのに自分の上着を着せてやって涙するシーンも、それまで李とその師匠の交流などが特に描かれていないだけに唐突感が否めない。

収容者の悲惨な生活を見せたいだけならもっとドキュメンタリータッチの作りにするべきだし、物語として見せたいならもっときちんとした軸になるものを持ってくるべきだと思う。残念ながらこの作品はどっちつかずになってしまっている。現実に収容所に送られた人々への想いから、作品自体を批判することも遠慮されがちだと思うが、映画作品としてはちょっと物足りないと言わざるを得ない。


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