シネマ日記

超映画オタクによるオタク的になり過ぎないシネマ日記。基本的にネタバレありですのでご注意ください。

おくりびと

2008-09-10 | シネマ あ行

(9月10日、「オマケ2」追記しました)

試写会が当たったので昨日行って参りました。ちょうど、昨日のお昼にモントリオール映画祭でグランプリを獲得したというニュースを聞きますます楽しみにして行きました。

幼いころからの夢だったチェロ奏者になり、オーケストラで演奏していた小林大悟本木雅弘。しかし、そのオーケストラが解散になり、自分の才能にも限界を感じ、東京から故郷の仙台へ妻広末涼子とともに帰って来る。仙台で職探しをしていた大悟の目に入ったのは「年齢問わず、高給保証、実質労働時間わずか、未経験者歓迎。旅のお手伝い」という好条件の求人を見つけ、すっかり旅行代理店だと勘違いしNKエージェンジーへ。面接に行き、社長山崎努に会うなり即採用となるが。実はそこはNK(納棺)エージェンシーだった。とまどいながらも次から次へと舞い込む仕事に取り組む大悟。しかし、妻にも仕事のことは言えないでいた。

納棺のお仕事というのは、遺体が寝かされている布団で、遺体をきれいに消毒薬で拭き、穴という穴に詰め物をし、衣装を着せ、死に化粧をほどこし、棺に納めるという仕事だ。ときには、腐敗した死体や、自殺、子供の死などにも遭遇するが、尊厳を守って遺体に接し、きれいにしてあげることで遺族から感謝されることもある。

が、そこはやはり「死」を扱う職業ということで忌み嫌う人たちもいるのだろう。
大悟が仕事のことを正直に妻に話せないでいることや、妻が大悟の職業を知ったときに「何を考えているの?」「汚らわしい」「きちんと働いて」なんていう発言をするところ、幼馴染杉本哲太にも「もっとマトモな仕事がいくらでもあるだろう?」と言われたり、遺族からも「あの人のような仕事を一生したいか?」と娘を死なせた暴走族への説教に使われたりするといったようなことは、ワタクシにはまったく理解できなかった。遺体を粗末に扱うのなら、そんなことを言われても仕方がないかもしれないけど、遺体をきれいな姿にしてあげて、棺に入れてあげるのに、どうしてそんな言われ方をしなければいけないのだろうか?昔、“卑しい身分”とされていた人たちがそういった職業についていたからということが関わっているのかな。葬儀にまつわる職業の方みなさんがこういう経験をしているのかもしれないけど、ワタクシには納得のできない理不尽な扱いだ。特に妻の過剰な反応ぶりにはちょっと「そこまで?」と思ってしまった。でも、この作品の基となったのは実際の納棺師の方々のエピソードからだろうから、そういうことも本当にあることなんだろう。
「死化粧師」という漫画があって、これは西洋の“エンバーミング”というのを題材にしていて、厳密に言うと納棺師とは違うけれど、共通するような職業で、その話の中でも主人公は忌み嫌われているという描写が随所に登場する。

物語は主人公の小林大悟を中心に、納棺を通して見る人と人とのつながりや愛情、世の中の温かさや非情さがさまざまなエピソードを通して語られていく。大悟自身の物語ではあるが、それだけではないさまざまな人間模様を見ることができる。少々お涙頂戴的な部分があることは否めないが、それでも入り込んで涙してしまう。

本木雅弘や山崎努の納棺師としての所作がすごくよくできていて、実際に納棺の作業は見たことはないのだけど、こんなことを言うと不謹慎なのかもしれないが一種の形式美のようなものを感じた。ある意味で、忌み嫌われるどころかとても崇高な職業な気がしてくる。それは映画の中でも、実際に夫が仕事をする場面を見て、妻が誇らしげに「夫は納棺師です」という場面に表されていると思う。

2時間10分と少々長めの作品であるが、ちょこちょこ笑える場面も出てきてほとんどその長さを感じさせず、非常に良い作品です。モントリオール映画祭で見た外国人たちは、「サムライ」「ハラキリ」「オタク」ではない日本の文化の一端に触れてくれたんじゃないかな。

オマケ1チェロをマスターしたり、納棺師の所作をマスターしたりと、めちゃくちゃ頑張ってたモッくんはすごいですが、山崎努のゾクゾクするようなしびれる演技にはかなわなかったなぁ。

オマケ2この映画のコピーは「人はいつか誰もが“おくりびと”“おくられびと”」先日テレビでも、この映画の紹介のあとに、大阪の某司会者が「人間が最後に絶対に通る道ですからねぇ」と言っていた。この発言を聞いてふと思ったのだけど、確かに多くの場合、ワタクシたちはこの映画のように最後は棺に入れられて火葬なり、土葬なりされる。がしかし、それをされずに死んでいく人たちがどんなにこの世界には多いことだろう。先日記事にした「ひめゆり」のように戦争の中で亡くなった方たちはこんなふうに埋葬されることもなく、何十年も経ってやっと骨を拾ってもらった。そして、いまだにそのままの骨もある。それは世界中どこででも起きていることだ。こういう発言が“普通に”出てくるというのは、日本が現在平和だからに他ならないけれど、そんなふうに当たり前に“おくられびと”にならない人たちのことも忘れないでいたい。